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青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目

文学と神楽坂


 地元の方が主に青木堂について書いてくれました。

 青木堂は明治中期から大正にかけて、通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった食料品商です。酒や洋菓子、タバコ、西洋雑貨を手広く扱いました。当時の表記はすべて旧字の「靑木堂」です。
 所在地は通寺町24番地から51番地。経営者は木全信次郎氏でした。

青木堂 日本之名勝(明治34年)

 写真は漆喰塗りの蔵造りを思わせる重厚な店でした。左の荷車は「牛込區通寺町/西洋酒/食料品」と読めます。は商標で、店の看板の左右にも描かれています。店内にはガラス瓶や缶詰らしきものが数多く見えます。

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「日本之名勝」は史伝編纂所の発行による明治時代の写真入り観光案内です。明治34年(1901)発行の第三版「地の部」に青木堂の紹介があります。なお、句読点は補ってあります。

  靑木堂食料品店(
 東京牛込通寺町に在り。和洋煙草、洋酒、罐詰の類いを鬻ぐ。店内甚だ広壮ならずと雖も其繁栄の一事に至つては實に區内第一なり(中略)
 他店に比して多きは二割少も一割の低價なるより客足自から同店に向ふ(中略)
 初め其對側に蕞爾たる小店を開きしより一二年にして其兩隣を併せ有し今は更に其前面に店舗を移して數倍大の擴張をなし終に宮内、陸軍、兩省の用達を務むる(以下略)

日本之名勝(1901)374コマ ⇒

 これから分かることは…
・良品を他店より1-2割安く売って繁盛した
・最初は小さな店を出し、短期間で両隣に広げた
・さらに向かい側に大きな店を開いて移転した
・宮内省と陸軍省を得意先にしていた
 経営者の木全信次郎氏が、高額納税者を掲載する紳士録に初めて掲載された明治30年①は「通寺町25」でした。明治32年②も同じでした。明治35年②「日本之名勝」に掲載されたのは拡張・移転した直後と思われます。

(左)日本紳士録 第4版(明30)交詢社 (中央)大日本商工名鑑(明32)商業興信所(右)日本紳士録 第8版(明治35年)交詢社

 大正時代、販売は順調に進んでいます。

(左)東京区分職業土地便覧 牛込区之部(大正4年)(右)帝国飲食料同業名鑑(大正5年)

 なお、大正5年の「東京ガイド」(写真通信会)は、おそらく広告を兼ねていて、青木堂は「和洋酒」「化粧品雑貨」等の2業種でエントリーしたと思われます。現代のNTTの職業別電話帳(タウンページ)では、費用を払えば複数業種での掲載や、別途の広告掲載ができます。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

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 大正時代の東京・大阪・京都の観光案内「三府及近郊名所名物案内」の上巻にも記事があります。同書は大正7年が初版で、何度か重版されました。なお、句読点を付け、ルビを省略しています。

三府及近郊名所名物案内(大正7年)54コマ

食料品と靑木堂商店 

 西洋酒、食料品、和洋煙草、雑品の販賣舗として多大の信用を博し山の手随一の評判となつてゐる。(中略)
 何れも確實な物品を選び安價を主眼として販賣してゐる。従って店頭は常に顧客雲集して大盛況を呈してゐる。(中略)
 御進物品は美麗で且體裁を飾り切手も調進し、市内各方面からも電話又は郵便はがきで注文すれば早速配達する(中略)
 宮内省の御用達として用命を蒙つている……

 内容はほぼ同じですが
・電話や郵便で贈答品として発送する
ことが加わっています。読者の注文を期待したのでしょう。

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 観光案内も宣伝の色彩が濃く、広告費を払って記事を掲載する「ペイド・パブ(記事風広告)」だった可能性が高いでしょう。「宮内省御用達」を前面に出すなど商売上手だったことがうかがえます。

地蔵坂|天神町

文学と神楽坂

 新宿区の地蔵坂には神楽坂5丁目と袋町の坂と、矢来町や天神町に近い坂という二つの坂があります。天神町に近い地蔵坂は正確にはどうなっているのでしょうか。まず標柱は……

地 蔵 坂
(じぞうざか)
江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『すな残月ざんげつ』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 しかし、ここから100mも離れていない北方に渡邊坂があります。この渡邊坂については別の場所に書いています。ここでは地蔵坂について書いていきます。
 横関英一氏の「続江戸の坂 東京の坂」(有峰書店、昭和50年)では……

都内における古今の坂名、橋名の同じものを一括して揚げると、次のようになる。(中略)
地蔵坂(牛込、王子、志村、向島)
地蔵橋(築地川)

とほとんど何も書いてありません。
 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、昭和46年)では……

地蔵坂(じぞうざか)
 矢来町交番の前の道(江戸川橋通り)を北に下る坂で、坂下は山吹町を通って江戸川橋に至る。坂上は通称矢来下とむかしからよばれた。『異本武江披抄』には「地蔵坂 酒井修理大夫下屋敷脇、天神町へ下る坂也。今此坂を地蔵坂といへど、むかし楠ふでんが害せられたるは、酒井の屋敷と御先手組屋敷の間なり、由井正雪が宅地は榎町済松寺脇、西丸御先手組の所なりといふ」とあり、袋町の地蔵坂の楠不伝暗殺の伝えを否定している。
「新撰束京名所図会」にはこのあたりのことを「昔の酒井邸は土手を築き、矢来を結び、老樹陰森として昼なほ暗く、夜は辻斬、迫剥出没せり、されば臆病者の武士は門前夜行なりがたく、帯刀の柄に手をかけて、一目散に駆け披けたりとの談柄あり」と述べ、また地蔵坂については「同町(矢来町)と東榎町の間を南に上る坂あり、地蔵坂といふ」とし、『異本武江披抄』が「天神町へ下る」としているのとは少しくい違いがあるようだ。

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では……

地蔵坂(天神町、矢来町交番前を西北へ東榎町へ下る坂)
  〈別名〉 三年坂
「長十三間巾二間」(東京府志料)
 交番前を左にカーブして下る早稲田通りの坂。三年坂の別名をもつのは、転べば三年の後には命を失うというほどの急坂であったと思われる。いまも、交番前は、どすんと落ちる急勾配である。
 坂下で早稲田通りの南側から奥の裏通りに入ると、露地を挾んで家がびっしりと並んでいる。向かい合った家の軒が、くっつかんばかりだ。
「矢来の坂を下りた所、天神町の裏通りには、結婚当時に住つてゐた。長屋住ひ見たいで、子供の泣声、台所のにほひ、便所通ひの気色まで此方へ通じるので、明窓浄几と云つたやうな、文人の生活趣味は、その借家では感ぜられなかった。」(正宗白鳥『心の焼跡』)(中略)
 明治は暗く、そして、泥ンこであった。
明窓浄几 めいそうじょうき。明るい窓と清潔な机。明るく清らかな書斎をいう。

『今昔東京の坂』に出てくる別名「三年坂」は、神楽坂の本多横丁とほぼ同じ名です。さて、天神町の地蔵坂に戻って、この場所は3冊とも本質的に同じ場所を指します。つまり坂が始まる牛込天神町交差点から坂が終わる(下図)までの地域です。
 ただし坂の始まりと終わりは現在と江戸時代で違うのが普通です。また、明治時代には、地蔵坂と渡邊坂が真っ直ぐな1本の道(江戸川橋通り)に改修しました。つまり江戸時代から明治時代まで2つの坂を少しずつ、凸凹は直し、クランクは止めて、なだらかな坂1つに替えました。また、現在の渡邊坂には、高低差は感じません。江戸時代は坂らしい坂ばずだ…と思います。

礫川牛込小日向絵図。嘉永2年~文久3年(1849-1863)これは蔓延元年(1860)の図

 なお、文京区の礫川牛込小日向絵図(嘉永5年、1852年)では天神町の道に階段がありました。すぐに階段はなくなりますが、この階段があると、坂下の天神町と坂上の矢来下で、2つの坂は別々になっても、一本には普通はできないと思います。

小日向絵図礫川牛込小日向絵図 尾張屋板 嘉永5年(1852)

 最後に現在の地蔵坂と渡邊坂、江戸川橋通りの地図です。江戸時代の絵図とは南北が逆で、天神町交差点は一番下になります。