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飯田橋交差点(写真)信号機 昭和28年 ID 13030

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030は、昭和28年(1953年)、飯田橋交差点(当時は下宮比町交差点)から東南から西北を、つまりしも宮比みやび町を見た写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 新宿未来創造財団の「新宿風景Ⅱ」(新宿区立新宿歴史博物館、平成31年)では……

120 飯田橋交差点 昭和28年(1953)
左手奥が大久保通りで、かすかに津久戸小学校が見える。左手建物の屋上に見える丸い建物は、東京厚生年金病院。

 交差点は五叉路(東西に目白通り、南北に外堀通り、大久保通り)ですが、見えているのは左奥に坂を上る大久保通りだけ。左に立つ電柱の右側に隠れるような黒い影が、説明文にある津久戸小学校の校舎です。
 中央の縦に並んだ信号機は交差点の中の土台の上に立っています。信号機の背面板と土台は注意喚起のゼブラ柄。「自動交通信号機設置記念」の看板は緑門のように青葉で囲まれているようです。読めない文字は自治体名か警察署名でしょう。
 同時期のID 23(昭和27年頃)では、隣接する牛込見附交差点(現・神楽坂下交差点)に信号機が見えません。都内の信号機の多くは戦災で失われました。それが復旧した記念の写真と思われます。
 しかし、もう一つ重要な意味があります。戦後、この交差点はロータリー交差点に変わったのです。しかし、「朝夕のラッシュ時には車のこう水になり、ひどいときには500台ぐらいが五つの道にひしめいて歩行者も命がけで横断する」(読売新聞、昭和28年12月1日)状態になったのです。ロータリーをやめ、代わりに普通の五叉路に戻って、それが完成したのがこの写真でした。細かくはロータリーの廃止を見てください。
 右上に煙突が2本。手前は「工場」、その奥は「クリーニング」です。この一帯は牛込台地から見ると川沿いの低地です。通りに面して店が並んでいますが、裏に回ると工場や倉庫が多く立地していました。
 大久保通りをバスが何台か下ってきています。交差点に近い黒バスは分かりませんが、少し後ろは都バスと思われます。富士TR014X-2のようです。
 飯田橋交差点は都電3系統が交わる交通の要でした。路面電車は写っていませんが、空中には縦横に架線が渡っています。車道と歩道の間はガードレールではなく歩車道分離柵でした。
 正面のひときわ偉容を放つのは東京厚生年金病院です。昭和27年10月に開設、11月に診療開始。南棟を増設し、昭和28年に完成しました。5階建てで、屋上の丸い建物の下はぐるぐる回るらせん階段でした。35年後の昭和62年に建て替えのため南棟を解体し、平成10年に東棟を解体して旧館の取り壊しが終了。平成26年、東京新宿メディカルセンターに改称。

 以下、左から右に。

    大久保通り手前側

  1. 質王 陣屋 質と金融
  2. 立て看板「横断(歩道)/見」
    大久保通り向こう側

  1. 大野屋武道具店
  2. 第一銀行(現・みずほ銀行飯田橋支店)
  3. や〇處
  4. 〇マニ(ヤマニ飲食店?)
  5. 不明
  6. 建屋越しの看板「旅館タカラ」(多加良)
  7. 不明、2階窓に干し物
  8. 電柱広告「たから」(多加良)
  9. 不明
  10. 山口のパン
  11. 飯田橋ビヤホール 中華料理 キリン
  12. パーマネント (L)ady
  13. 森永キャラメル づぼ屋

下宮比町。人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

赤城神社(写真) 遠望 昭和28年 ID 564、13029 

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564は昭和27年(1952年)の、ID 13029は、昭和28-29年の、赤城神社の台地からの遠望写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564 赤城神社より早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13029 赤城神社より遠望

 以下は地元の方の解説です。へーっと驚くことばかり。たとえば、台地と上の建物、これってなんでしょう。

 ID 13029では、写真左の水平線に早稲田大学の校舎と大隈講堂が見えます。正面の高台は文京区の関口台で、植物に覆われた斜面は現在の文京区立江戸川公園です。明治以来ソメイヨシノの名所として知られ、この斜面に沿って神田川が流れています。
 台地の上はホテル椿山荘です。戦災で三重塔以外が焼け落ちましたが、戦後に椿山荘は建物を再建して昭和28年3月に営業再開しました。ID 12145(昭和36年)の最遠部でも確認できます。
 さらに右側の白い建物は分かりませんが、獨協学園の校舎と思われます。右端の水平線のビルは講談社かもしれません。
 つまり撮影したのは北西方向でした。この台地の眺望を野田宇太郎は「文学散歩」でパリのモンマルトルの丘に例えました。現在はビルですっかり視界が狭まりましたが、ID 14051(平成31年)のように、まだ眼下に「赤城下町」を見ることが出来ます。
 一帯は戦災焼失区域ですが、戦後10年にならないのに家で埋め尽くされています。ただ終戦直後のにわか作りと思われる平屋が目立ちます。煙突が多数あることも印象的です。銭湯ばかりでなく店や会社が自前でゴミ焼却炉を備えていた時代でした。 
 正面手前、細い鉄柱からポールが伸び、最上部に黒っぽい丸い玉がついているものは、恐らく航空障害塔です。夜には赤い光を発したでしょう。赤城台が、それだけ高く感じられていたことだと思います。
 ID 564は、ID 13029と似た写真ですが、少し左を向いています。大きな煙突が左端に写り、大隈講堂の塔も右に寄った位置に写っています。

ゴミ焼却炉 環境省の「日本の廃棄物処理の歴史と現状」(2014年)を簡単にまとめると

  1. 以前にごみと関係する問題として、河川等の投棄や野積み。排出量の急増。手車での収集のため道路に飛散。ハエや蚊の大量発生。伝染病の拡大。[赤城神社(写真)昭和28年 ID 13029 遠望 もこの頃]
  2. 1954年 「清掃法」制定
  3. 1958年 東京都の第五清掃工場(大型焼却炉6基。生ごみ等の焼却前乾燥。ベルトコンベヤの焼却灰搬出装置。地元に温水給湯サービス)。つまり、ごみの改良がいくつも進む。
  4. 1963年「生活環境施設整備緊急措置法」

航空障害灯 航空機に対し、航行の障害となる高い建物などの存在を知らせるために設置する灯火。昭和35年から高さ60m以上の物件。その以前の高さは未詳。

神楽坂1丁目(写真)昭和29年 ID 14048

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14048を見ましょう。撮影時期は1953年(昭和28年)頃と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14048 神楽坂

 本当に28年に撮影したのでしょうか。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年ですので、昭和28年というのはありえません。この写真は「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)でも出ています。また「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。おそらく昭和29年が正しいのでしょう。
 写真はプリントではなく、「新宿区史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)から複写したものでしょう。また、ID 5190ID 21は昭和28年、ID 23はさらに昔です。

新宿区史・昭和30年

新宿區史(昭和30年)784頁

神楽坂1~2丁目(昭和29年)
  1. 外堀通りと都電の軌道
  2. 標識ポール「神楽坂」
  3. ゼブラ柄の背面板の信号機
  4. 街灯は鈴蘭灯
  5. (伊藤菓子店)
  6. (植木洋服店)
  7. 清(水衣)裳店
  1. 信号機の裏側。
  2. 看板「水野外科」
  3. 看板「産婦人科 加藤医院
  4. 外堀通りと都電の軌道
  5. フチを2色縞で強調した看板
  6. 赤井商店)(下の菓子屋は多分間違い。足袋が専門で、シャツは戦後)
  7. (その右側)「さ(くらや靴店)」
  8. 看板「茶」(東京円茶)
  9. 屋上看板「メトロ映画(燃える上海と謎の黄金島)」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂5丁目(写真)昭和28年以降 ID 9507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507は、昭和28年(1953年)以降の神楽坂4~5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507 神楽坂 角松

 歩道はコンクリートブロックで3列。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はなかったようです。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。
 紅白幕とのぼり旗「全店 大売出し」、松のような飾りがあり、ID 9495と同時期の撮影でしょう。人々は長袖で、冬服を着ています。正月に門松1対があることから、年末セールの時期と推測できます。

神楽坂4、5丁目(昭和28年以降)
  1. 尾澤薬(局)
  2. 紅白幕
  3. マケヌ屋洋品店(ID 6340参照)
  1. 門松(五十鈴?)
  2. 紅白幕

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3丁目(写真)昭和28年 ID 9506

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9506は、昭和28年以降、おそらく神楽坂3丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9506 神楽坂

 車道は凹凸が目立ち始め、将来できるOリングはなく、急峻な坂は石敷でした。歩道の構成は車道の側から縁石、外コンクリート3列、細い石、内コンクリート2列です。縁石はかなり薄く、隣の店舗同士では階段のような差がありました。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はありません。
 竹か笹が各店舗から1本ずつ、車道に向かって斜めに立っています。リボンや紐状の飾り、小さな提灯が下がっています。「全店大賣出し 神楽坂」ののぼり旗もあります。
 人々は半袖で、明るい色の夏服を着ています。おそらく七夕シーズンの7月ごろ、商店街の中元セールの写真でしょう。
 中央には街灯の基礎だけがあります。その向こうはポールも立っています。これは昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯の下部です。しかし上の照明(花の部分)はついていません。一方、道路の反対側には坂下に向けて簡素で背の低い丸い電球1灯の街灯(ID 30ID 4792等)が立っています。
 おそらくこの時に、街灯を交換しました。街灯の基礎やポールが黒いのはさび止めの状態で、まだ塗装していないからと思われます。ID 12125~12127の貴重なカラー写真では鈴蘭灯は白っぽく塗られています。実際にはライトグレーか銀色だったでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3→2丁目(昭和28年以降)
  1. パーマネント。マーサ美容室。二階建て
  2. 神楽坂仲通り
  3. 電柱看板「旅館 碧運」「 大久保質店」
  4. さわや。二階建て
  5. 亀井鮨。平屋
  6. 壁面一杯に「ニューイトウ」
  1. 岡田印房(地図では岡田印章)。「表札 看板 名刺」「星名刺」
  2. 助六 二階建て
  3. 龍公亭 平屋
  4. (建築中)
  5. 看板「新しいカット コールド〇 パーマネント」(ビデパーマ)
  6. (山本薬局)
  7. 神楽坂仲坂
  8. 自立看板「みい〇」
  9. 電柱看板「 大久保質店」
  10. 電柱看板。床屋のサインポール(管理髪館)

神楽坂3丁目(写真)昭和28年 ID 9504-9505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504~9505は、昭和28年以降の神楽坂3丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9505 神楽坂

 車道は凹凸が目立ち始め、将来できるOリングはまだありません。歩道は正方形コンクリートの数列と縁石からつくられて、車道と縁石の段差はほとんどないようです。下水は縁石の側にはないと思います。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯で、向かって左側は歩道の端の縁石近くに、右側は逆に建屋の近くに立っています。右端に完成寸前の建物があります。見番横丁の角で、後に「レストラン花菱」として開業します。昭和28年(1953年)撮影のID 99では看板が出ているので、この写真はその少し前の撮影と思われます。
 ID 9505で右側の白い上下の女性は半袖ですが、他は長袖で、しかしコートを羽織るほどの寒さではありません。

神楽坂3丁目(昭和28年以降)
  1. のぼり旗「うし込神楽坂 呉服/〇 丸富呉服店」
  2. .店の前に土盛りと植木のような植物(菱屋)二階建て
  3. 吊り広告「鮨」(万平)平屋
  4. ピアノ。広告「ピアノ。オルガン」(福島ピアノ)二階建て
  5. 電柱広告「龍公亭」
  6. マツダ眞空管。Toshibaの丸い看板(竹谷電気工事)平屋
  7. パーマネント(マーサ美容室)二階建て
  8. 神楽坂仲通り
  9. 電柱看板「旅館 碧運」
  1. 建築中(後のレイトラン花菱)
  2. (わずかに見える岡田印房)
  3. 助六 二階建て
  4. 龍公亭 平屋
  5. (ビデパーマ)
  6. (山本薬局)
  7. (空地または建築中)
  8. 神楽坂仲坂
  9. せともの。太陽堂
  10. 牛豚肉(ますだ肉店
  11. 電柱看板。床屋のサインポール(管理髪館)

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

地蔵坂(写真)藁店 昭和28年 ID 7899

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7899を見ましょう。撮影は1953年(昭和28年)で、地蔵坂 (藁店)をねらっています。同年のID 5189では、すぐ近くの神楽坂通りに街灯が整備されています。しかし脇道である藁店には全くなく、日が沈むと家の灯りが頼りだったでしょう。舗装はかなり荒れていて、建物や塀が道にはみ出しているようにも見えます。手前には下水(側溝)があるようですが、坂の部分は分かりません。写真に写っている女性や子供は薄着です。軒にはお祭りの飾りが出ているので、秋と思われます。

 右手の最初は「富永 写真館」、続いてサンシェードがついた「配給所」(のちの八百 美喜)、ベニアで囲んだ家(のちのチャーリーブラウン)が見え、これ以上の数軒は見えず、最後に民家が見えます。
 右側の電柱1本に縞模様と看板があり、その看板は「割烹 山ぐち」と読めます。地図では坂の突き当たりを曲がった右側にあります。左側には理容室のサインポールも見られ、地図で「床ヤ モリワキ」(森脇)と書いてあります。森脇の後面は小林石工店(現在のWARADANA神楽坂)、前面の1階建てが「倉庫」(のちの安達ビル)で、さらに前の建物は「西沢菓子S」(のちの鮒忠、現在は駐車場)でしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ちなみに「床ヤ」は明治39年の「風俗画報」でも理髪師として見られます。ただ、これが現在の森脇ビルにつがるものかどうかは分かりません。

藁店

明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館