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赤城神社(写真)神輿蔵 眺め ID 14133, 14159-60 昭和44年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。

(1)神輿蔵

あ 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133 赤城神社 神輿蔵

 神輿みこしぐらは下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左どもえ紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
 ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
 冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。

赤城神社 住宅地図 2000年

(2)赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14159 赤城神社からの眺め

 左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。

住宅地図 昭和42年

(3)赤城神社境内
 石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14160 赤城神社境内

 左から……

  1. 東宮殿下碑
  2. 北参道の鳥居と門柱
  3. しょうちゅう。大山巌碑。初代の陸軍大臣大山巌が揮毫
  4. 手前に裸電球のような境内灯。石の土台から長い旗竿。
  5. 赤城会館(結婚式場)
  6. 赤城神社の社殿(拝殿)
  7. 出世稲荷神社(摂社)の鳥居

1948年1月18日(昭23)赤城神社付近(地理院地図)

赤城神社(写真)拝殿と赤城会館 昭和50-51年 ID9902 ID9903 ID9904

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902 赤城神社

 赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒すずおは賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 右端に金網フェンスがあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9903 赤城神社

 右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左どもえ紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9904 赤城神社

 右から赤城会館、しょうちゅうの台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。

TV「気まぐれ本格派」 29 神社の恋の物語、1977年

住宅地図 1976年

赤城神社(写真)昭和26-30年 ID 6869、6890

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
 赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。

(1)ID 6869 七五三詣り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869 赤城神社(七五三)

 正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿にはすだれ(和風カーテン)、おそなえ、三宝さんぽう(お供えを盛る台)と高坏たかつき金襴きんらんの布などが並び、回廊にはぼうしゅの飾りがあります。神職の左右はさかきの枝です。
 その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
 高札こうさつ様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/とう料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「ふきげ」は 屋根を仕上げることです。

(2)ID 6869 露店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6870赤城神社(七五三)

 石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代かいたい町」と読むのは、ID 389と同じです。
 右の狛犬の背には鉄製の天水桶てんすいおけが見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
 写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
 露店では香具師やしがさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
 参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
 左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。

住宅地図。1965年

赤城神社(写真)平成31年 ID 14051

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14051は、平成31年(2019)1月、赤城神社駐車場から写真を撮ったものです。なお「データベース」には「赤城神社から早稲田方面を望む」と書いてありました。また平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14051 赤城神社から早稲田方面を望む

赤城神社と豊島区のビル

 はい、早稲田はもっと左側なので、方向が違っています。
 近くの赤い建物は「ライオンズマンション神楽坂第三」です。遠くの高いビルは左から豊島区役所などの「としまエコミューゼタウン」(地上49階)、ライズシティ池袋の「エアライズタワー」(地上42階)、最も高いのが「サンシャイン60」(地上60階)、重なって見えるのが「アウルタワー」(地上52階)と池袋周辺のビルです。最も右は少し手前で、音羽の講談社(地上26階)のようです。

14051b 赤城神社から池袋方向を望む

 ではなぜこの場所を撮ったのでしょうか。野田宇太郎氏の『文学散歩』「牛込界隈」「赤城の丘」(初稿は昭和44年)を読むと分かってきます。

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。(中略)
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。

モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社の3神社を建立。

TV「気まぐれ本格派」 29 神社の恋の物語、1977年

ミスターダンディー(写真)文章と仏閣神社 昭和49年

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。

 飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。
 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。
 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。
 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。
 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。
 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。
 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。
 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。
左側が商家 江戸時代は左側も武家屋敷でした。
文人墨客 ぶんじんぼっかく。ぶんじんぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに、「墨客」は書画に親しむ人。

 江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。
 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。
 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。
 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。
 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。
 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。
 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。
 伝説によると、正雪の道場済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。
 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。
 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。
 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。
管領 かんれい。室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
八幡宮 八幡神を祀る神社。9世紀ごろ、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立し、王城鎮護、勇武の神、武人の守護神などになった。武士を中心に弓矢の神として尊崇された。
康申塔 こうしんとう。庚申塚に建てる石塔。村境などに、青面金剛しょうめんこんごう童子、つまり病魔、病鬼を除く神を祭ってある塚。庚申の本尊を青面金剛童子とし、三匹猿はその侍者だとする説が行き渡っている。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。慶安事件の首謀者。1651年徳川家光の死に際し,幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企てたが、内通で事前に発覚。正雪は自刃した。生年は慶長10年(1605年)、没年は慶安4年7月26日(1651年9月10日)。
時代のずれ 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の一部では
34、珍らしい庚申塔
(略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略)

由比正雪 実際は位置不明です。正雪の記載があるのは、新宿区矢来町1-9にある正雪地蔵尊だけですが、正雪との関係を示す史料はありません。
済松寺 新宿区榎町77番地。
東榎町、天神町 ひがしえのきちょう。てんじんちょう。済松寺、東榎町、天神町について図を参照。

全国地価マップ

  • 赤城神社。「赤城神社再生プロジェクト」で新たに本堂などを建て、2010年、終了するので、この写真は昔のものです。

赤城神社(今)

「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。

 現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、あおい神社です。

三社

  • 神楽坂若宮八幡神社。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。1949年に拝殿、1950年5月に社務所を再度建築。その後、敷地の西側に新社殿を建て、残った部分をマンションにしました。マンションの竣工は1999年です。

若宮八幡神社

現在の若宮八幡神社

  • 善国寺。昭和46年に本堂を建てています。したがって、現在と同じ寺院でした。

 庚申塔もあります。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑦

文学と神楽坂

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。
モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
パリ市街の展望 右の写真は「サクレクール寺院を眺めよう!(3)」から。サクレクール寺院からパリを眺たもの。

神田駿河台 御茶ノ水駅南方の地区。標高約17mの台地がある。由来は駿府の武士を住まわせたこと。江戸時代は旗本屋敷が多く、見晴らしがよかった。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。左の写真は戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)から。

 パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。
 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。
白銀町の高台 右図は筑土八幡宮から白銀公園までの道路。白銀公園の周りを高台といったのでしょう。
小路 広津柳浪氏や永井荷風氏は左図のように通ったはずです。青丸はおそらく広津柳浪氏の家。しかし、現在は右図で真ん中の道路はなくなってしまいました。そこで、道路をまず北に進み、それから東に入っていきます。  
 戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」

ダリ スペインの画家。シュルレアリスムの最も著名な画家の一人。生年は1904年5月11日、没年は1989年1月23日。享年は満88歳。
シュルレアリスム 超現実主義。芸術作品から合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代りに無意識の表現を定着すること。
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
標石 目印の石。道標に立てた石。測量で、三角点や水準点に埋設される石。多く花崗岩の角柱が用いられる。
石灯籠 日本の戸外照明用具。石の枠に、中に火をともしたもの。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加能作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。
日露戦役 明治37年2月から翌年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって戦った戦争。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷。それを業とする家。
文庫 明治28年(1895年)、河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊。伊良子清白、横瀬夜雨などが活動。
新体詩 明治時代の文語定型詩。多くは七五調。
江戸川の谷 江戸川橋周辺から江戸川橋通りにかけての低地。
江戸川べり 江戸川は現在神田川と呼びますが、その神田川で石切橋の近く(文京区水道町27)に清風亭跡があります。
 清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋こわきに抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。
 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。
坂道の十字路 正確には十字路ではないはず(図)。ここに「赤城坂」という標柱があります。
左の上り坂を辿って… 下図を参照
銭湯 1967年の住宅地図によれば、中里町の金成湯でしょう。北側の小路には銭湯はなく、中里町13番地にありました。