朝8時から飯田橋駅2階のモーニングサービスに行くと、そこから牛込濠がよく見えます。時間は令和6(2024)年9月2日ですが、まだまだ暑く、そのため傘を開く人もたくさんいました。
一番近い店舗は牛込橋のたもとの「アパート・マンション Mini Mini」。あとは右側は外堀通りです。
牛込濠(令和6年9月) | |
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朝8時から飯田橋駅2階のモーニングサービスに行くと、そこから牛込濠がよく見えます。時間は令和6(2024)年9月2日ですが、まだまだ暑く、そのため傘を開く人もたくさんいました。
一番近い店舗は牛込橋のたもとの「アパート・マンション Mini Mini」。あとは右側は外堀通りです。
牛込濠(令和6年9月) | |
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 19041は令和3年(2021年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。
右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線、静かな牛込壕、樹木で隠れた外堀通りがあります。建物では……
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 18566は平成29年(2017年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。
右側は千代田区富士見二丁目の高台だけが見えます。さらにJR中央・総武線と静寂な牛込壕、樹木で隠された外堀通りがあります。建物は……
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18548は平成28年(2016年)1月27日、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。
右下にはJR中央・総武線の線路があり、中央線の快速電車が走っています。牛込壕があり、左には樹木で隠れた外堀通りがあります。
右側からの建物は……
1 「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階) |
左側からの建物は……
1 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階) |
中央は……
1 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階) |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 17002-04は令和4年(2022年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。
右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線があり、牛込壕は透明で、樹木の間に外堀通りがあります。外堀通り周辺の建物は低層ですが、その理由は、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。
A「パークハウス市谷田町」(地上12階)
B「東京理科大学5号館」(地上5階)
C「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
D「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)
E「市ヶ谷エスワンビル」1階に「肉のハナマサ 市ヶ谷店」看板「ena」
F「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
G「家の光会館」(地上7階)
H「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階 )
I「東京理科大学1号館」(地上17階)
J「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)
K「飯田橋ラムラ(RAMLA)」(地上20階)
1「東京日仏学院」
2「油セルフ セルフ市ヶ谷SS」ガソリンスタンド
3「飯田橋レインボービル」(地上7階)
4「東京理科大学8号館」
5「ブリティッシュ・カウンシル」語学学校
6「東京理科大学7・9号館」
7「東京理科大学入試センター双葉ビル」
8「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
9「飯田橋升本ビル」など。ビル越しに「みずほ銀行」の看板
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、昭和44年頃か、ID 8263-66とID 8768は国鉄(現、JR)飯田橋駅から神楽河岸、神楽坂などを撮影しました。
神楽河岸 | 高層ビル | 外堀通り(北) |
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A.警視庁(第2機動捜査隊) | a.東京理科大学 | 1.佳作座 |
B.警視庁 | b.週刊大衆(双葉ビル) | 2.トウホウビル(バラエティスタンド飲食街) |
C.警視庁(神楽坂巡査派出所) | c.東京理科大学 | 3.三和計器製作所 |
D.新宿区役所土木課 | d.田口屋生花店(神楽坂通り) | 4.広告「エアーホット」(神楽小路) |
E.大郷木材店(倉庫) | e.喫茶軽い心(神楽坂通り) | 5.城北ガレージ |
F.大郷木材店(倉庫) | f.五条ビル(神楽坂通り | 6.パチンコジャイアンツ |
G.大郷邸 | g.神楽坂ビルディング(神楽坂通り) ※間に遠く文英堂ビル(岩戸町) | |
h.丸金ビル(仲通り) | ||
i.銀嶺会館(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル |
神楽河岸 | 高層ビル | 外堀通り(北) |
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F.大郷木材店(倉庫) | h.丸金ビル(仲通り) | 6.パチンコジャイアンツ |
G.大郷邸 | i.銀嶺会館 (広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル | 7.東京トラベルセンター |
H.大郷木材店 一般建築材・ベニア・新建材各種 株式会社 | j.岡本ビル(軽子坂) | 8.牧書店 |
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上) | k.セントラルコーポラス | 9.東京都左官工業協同組合 |
10.厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り) |
神楽河岸 | 高層ビル | 外堀通り(北) |
---|---|---|
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上) | k セントラルコーポラス | 10 厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り) |
J.土萬商店資材置場 | l 東京厚生年金病院本館 ※手前に津久戸小学校 | 11 倉庫(升本総本店) |
K.東京都新宿東清掃事務所 | m 東京厚生年金病院本館東棟の工事か | 12 京英自動車 |
L.東京都水道局 | n 東京厚生年金病院別館 | 13 キッチンアキラ |
M.東京都水道局営業所(上に首都高速が見える) | o 第一銀行飯田橋支店 | 14 中升酒店 |
p 稲垣ビル | 15 堀上工業 | |
q 広告「週刊現代」(稲垣ビル) | 16 丸吉百貨店 | |
r 飯田橋東海ビル(東海銀行、下宮比町) |
手前の飯田濠は土砂が堆積して、かなり干上がっています。Iの自動車修理場のターンテーブルやJの資材置場の廃材は濠に飛び出しています。
また、Kの清掃事務所の下には四角い横穴があり、おそらくはしけが入って上からゴミを落としていたのでしょう。
後年の地下鉄工事や埋め立て工事は、まだ始まっていません。
撮影時期は
昭和44年(1969年)2月 神楽坂ビルディング完成
昭和44年(1969年)「軽い心」がクラブから喫茶に転換
昭和44年(1969年)6月 首都高速道路5号線供用開始
から
ID 13226 昭和45年頃
の間と推測されます。
※ 自動車工場や喫茶ボルボは升本の事業です。
※ 年金病院東棟の増築は昭和50年ごろです。それ以前にも何か工事をしていたのでしょう。
※ 稲垣ビルは奥に建て増しされているようです。(昭和38年 航空写真)
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。
このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728−29は、カメラを千代田区側に置き、外濠を越え、新宿区牛込地域を遠望しました。撮影日は不明です。
あとは地元の人の文章です。こちらではわからない建物が多すぎるので、お願いしました。
先に結論を書けば、これは千代田区麹町の「日本テレビ塔」から牛込地域を見下ろした写真でしょう。 写真下側を斜めに横切るのが外濠と、外堀通りです。手前には法政大学の校舎はじめ千代田区側の建物が見えますが、今回は触れません。 写真中央、外堀通りに面した目立つ建物は家の光会館⑥。その少し向こうに見える丸い展望台は東京厚生年金病院⑩です。間にある神楽坂を飛び越して高い建物だけが見えています。 写真の左下端は新見附橋で、新宿区側のカーブした屋根は東京理科大学の体育館②です。 一方、右端は飯田橋交差点で、第一銀行飯田橋支店⑭の向こうに目白通りが走っています。 これらを撮影できる画角を考えると、地図に記したように麹町方向に収束します。また非常に高いところから撮影しないと、これほど遠くの建物は撮影できません。考えられるのは旧・日本テレビ本社の電波塔です。 遠くにいくほど画角が広がっており、建物の位置関係は必ずしも直線では結べません。レンズの歪みがあったと思われます。 写っている建物等は以下の通りです。色による違いはありません。
このうち家の光会館の落成は昭和34年(1959年)、銀鈴会館は昭和35年(1960年)です。一方、セントラルコーポラスはまだできていません(竣工は昭和37年、1962年)。撮影時期は昭和35-36年と推測されます。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から牛込濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。
昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。
その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました。
写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 16993は、令和4年(2022)2月、法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目などを撮影したものです。タイトルの「市谷船河原町を望む」は残念ながら間違いです。
カメラが少しだけ左を向けば「新見附橋」や「新見附交差点」が見える場所でした。
外堀通り沿いが低層になっているのは、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。
少し下がった場所からは高い建物になります。
主にGoogle Mapを調べて、これらのビルは以下の通りでした。なお、写真で2/B、9/Fは同じ建物です。
市谷田町3丁目(令和4年) | |
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新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14063は、平成31年(2019)2月、千代田区の法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目や市谷船河原町を撮影したものです。
地図とGoogle Mapを調べて、これらのビルは……
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町や神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。
この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。
写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。
美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。
石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)に下の写真が載っています。
飯田橋近くの外濠のあたり このあたりは濠を境に千代田区と新宿区が高台をなして相対している。写真は千代田区側の外濠公園から新宿区の対岸をみたところで、このへんには理科大学、日仏学院、研究社、家の光などの立派な建物が丘の中腹に集中していて、お濠をふくめての眺望はなかなかに趣きがある。 |
下から中央線・総武線の線路、牛込濠と貸ボート、外堀通りが見えます。さらに写真を左右の2つに分け、それぞれの建物の名前を見ていきます。最初は左側です。
参考は日本分県地図地名総覧(昭和35年、下図)、全住宅案内地図帳(昭和43年、2番目の図)、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(整理番号 MKT636、昭和38年)、昭和45年のID 13108と昭和56年頃のID 486です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535-36は昭和48年(1973年)5月、地下鉄工事のため牛込濠を大きく掘削したものです。カメラは新見附橋の上で、市谷田町三丁目、市谷船河原町、神楽坂一丁目などに向いています。翌49年(1974年)に地下鉄・有楽町線が開通しました。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535 市谷船河原町付近
メトロ アーカイブ アルバムの「有楽町線の歴史」では……
有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線と検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設、築堤、仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工は土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。 |
写真の中央左、外堀通りから工事現場に下りる仮設の斜路の上に看板があり、「営団地下鉄8号線牛込第二工区土木工事」「企業者 帝都高速度交通営団」「施工業者 鉄建建設株式会社◯」とあります。
外堀通りには高層の建物は少なく、二階建てが目立ちます。昭和45年のID 13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に左から見ていくと……
その奥に外堀通りがあり、高層の建物は少なく、二階建ての建物が目立ちます。参考は昭和45年のID13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に、左から見ていくと……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11484~11486は、昭和51年(1976年)、神楽坂1丁目の外堀通り沿いにあった研究社の印刷部を撮った写真です。
1927年(昭和2年)12月、研究社の神楽坂印刷工場(地下1階、地上4階)として完成し、第2次世界大戦は生き延びて、昭和59年にもありましたが、同年、新座市野火止にあった工場に印刷部門の本社が移転。解体され(ただし解体の正確な時期は不明)、昭和61年2月に隣の社屋と一体で「研究社英語センタービル」として新しく完成、現在に至っています。
上のID 11484では建物の北東方から撮影した印刷工場です。そばの道路に「駐車禁止」があります。
ID 11485は入り口のアップです。社名は戦前の右書きで「社究研」。向かって右の門灯は失われています。その下の銘板は読めませんが、戦前の写真には見えないものです。前の路上の会社員風2人はネクタイがなく、半袖らしいワイシャツを着ています。
ID 11485は向かって左に、戦後に建てられた研究社の新館があり、旧館との間に渡り廊下のような屋根が見えます。新館には垂れ幕「建国200年アメリカの核心を衝く! 総合 アメリカ 全7巻 絶賛刊行中! 研究社」があります。旧館の右奥の建物は東京理科大学です。
電柱広告は「〇〇部医院」と読めます。外堀通りを照らす道路灯はあかあかと光っていますが、歩道の街灯は消灯して、撮影したのは夕方でしょう。
ID 12201~12203のカラー写真も同じなので、同時期の撮影と思われます。
建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。
外堀通りの桜は今年で30年目 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。 |
土手公園 現在は外濠公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。
警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。
理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す
坂のすべり止めは一升瓶の底だったか 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船の寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。 |
マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。
UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。
『居酒屋の作家』(潮出版社、昭和57年)を書いた山本容郎氏は文芸評論家で、昭和28年からの12年間は角川書店編集者。昭和50年、フリーに。著書に「文壇百話ここだけの話」「作家の食卓」など。生年は昭和5年4月20日、没年は平成25年12月4日。享年は満83歳。
私は、曙橋へ出る大通りを少し歩いた。町名でいうと、弁天町である。弁天町と云えば、私は井伏鱒二の「夜ふけと梅の花」が頭に浮かぶ。 「或る夜更けのこと、正確にいえば去年の三月二十日午前二時頃、私はひどく空腹で且つくったくした気持で、何処かおでん屋でもないかと牛込弁天町の通りを歩いていた」 と、始まるこの作品は、暗がりから出てくる血だらけの男と、それが機縁になって交友関係が出来る奇妙で味のある短篇小説だ。 奇妙で味のある短篇小説と云えば、と私はつぶやきながら、早稲田通りへ引返して、天神町の交番まで来た。 その作品は、内田百閒の「神楽坂の虎」という小説。ここでは、主人公は、三人づれで、夜中の十二時過ぎ、店をやっている鮨屋をさがしているうちに暗がりに大きな虎を、五、六匹見る話なのである。 「夜ふけと梅の花」の血だらけの男も酔っぱらって、四、五人の男に袋だたきになったのである。彼は大トラということになろうか。 神楽坂界隈は、虎がよく出る。私は、二つの作品の偶然の一致を喜んだ。百閒はトラを本物の虎として書いているけれど、酔っぱらいのトラを揶揄しているのかも知れない。 |
私とMは、早稲田通りと大久保通りの交差点から、筑土八幡の方へ歩いた。左側に菊鮨、第三玉の湯、そして「庄」が見える。 私は、昭和二十八年から四十年まで、飯田橋駅(新宿寄り)から出て、左へ九段の方へ入る方角にある出版社に勤めていた。その関係で神楽坂は、昔なじみの町なのである。「庄」は、昔なじみの飲み屋なのである。 時は午後二時。私は近くに会社のある友入たちを呼んだ。そら豆、枝豆、やきとりを頼んで、ビールを飲み出した。やがで、総員五人になった。 二十五、六年前、私は会社のOという二年先輩につれられて、夕方神楽坂を歩いた。彼は江戸趣味があって、私を吉原へも案内してくれた。その時、神楽坂を少し登り、「志満金」(うなぎ屋)の先の路地を左へ曲ると空地へ出た。彼は、ここが、鏡花と神楽坂の芸者・桃太郎(本名・伊藤すず)とが恋愛関係になり、紅葉没後、新世帯を持った場所だと教えてくれた。目の下には、物理学校(東京理科大学)が見えた。 私は、その頃、読んだばかりの北原白秋の「物理学校裏」の詩の切れ切れを口に出していた。 日が暮れた、淡い銀と紫―― 蒸し暑い六月の空 暮れのこる棕櫚の花の悩ましさ。 それから「一楽」「亀田屋」と、かつてのなじみの店を歩いた。トラにならないけれど、この町は、文豪と虎がよく似合うようだ。 |
昔なじみ 昔馴染。昔から親しくしている人や物、場所。昔親しんだ人や物、場所。
出版社 角川書店です。住所は千代田区富士見二丁目7番地。現在は富士見二丁目13番3号。
趣味 物事から感じ取られるおもむき。味わい。情趣。
吉原 吉原遊廓、江戸幕府が公認した遊廓。初めは江戸日本橋近く(日本橋人形町)に、明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転した。前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶ。
なじみの店 「一楽」や「亀田屋」の位置は不明です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145は、昭和36年(1961年)、上空から神楽坂全体を撮ったものです。また、新宿区役場「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年3月)にもでています。
これから神楽坂通りを1番目として、北(右)でも南(左)でも遠くなると番号も増えていきます。また、近景から遠景まで順番に書いていきます。なお、地元の方から多大な助力を頂きました。特に遠景ではこの助けがないとできませんでした。感謝、感謝です。
近北 |
近南
●は東京理科大学 |
中北 |
中南 |
遠北 |
遠南 |
最遠
最後は最も遠い光景です。地元の方が教えてくれました。そのまま描いています。
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明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…
神樂坂町二丁目 享保中、士地を官収して、火除地となし、延享二年放生寺借地とし、文政五年田町四丁目代地となる。明治二年神樂坂の名に取て牛込神樂町と改稱し、明治四年六月附近の士地開墾地を合し、南隣に一丁目を立つるを以て其の二丁目となす。坂に神樂坂あるを以て里俗此邊を總て神樂坂と稱す。 |
新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では
神楽坂2丁目 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷田町四丁目代地があった。 市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政5年(1822)2月8日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年6月9日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。 明治2年(1869)5月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治2年町鑑)、同4年6月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇53)。昭和26年5月1日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第347号) |
まず明治20年の地図の2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。
右側は「神楽小路」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ。
左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。
林 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。 |
志満金と田口屋生花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がってからの道は小栗横丁といいます。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町で。二丁目のアグネスホテルはここから行くこともできます。
『ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。
左側には「志満金」と「オザキヤ靴店」が見えます。
さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい9階の建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド、千年こうじや、梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。
ではまた神楽坂通りを上に向いて歩いてみましょう。陶柿園、神楽坂写真館、さわや、肉のますだや、太陽堂などがでてきます。
ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。
よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。 |
ここから上を向いて行くと神楽坂3丁目に、右側は神楽坂仲通りになり、左側は下向きの神楽坂仲坂から小栗横丁に入ります。
昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
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はりまや喫茶 | 夏目写真館 | ポルタ神楽坂 |
白十字喫茶 | 大升寿司 | |
太田カバン | 神楽屋煎餅 | |
今井モスリン店 | カフェ・ルトゥール | チャイハネ インド服 |
樽平食堂 | ラーメン花の華 | 天下一品 中華そば |
大島屋畳表 | 田金果物店 | メガネスーパー |
尾崎屋靴店 | オザキヤ靴 | |
三好屋食品 | 志満金 鰻 | |
增屋足袋店 | ||
海老屋水菓子店 | ||
八木下洋服 | ||
田日屋生花店 |
白秋と「物理学校裏」 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越した詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布した筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。 |
北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。 その時は余程頭に余裕が出てゐた。 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。 |
九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた |
以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。
この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「淡い」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅で
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。
野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)②は、泉鏡花の話です。
鏡花新婚の地
牛込横寺町の恩師尾崎紅葉の門を出た鏡花は、博文館の大橋乙羽の家や、小石川大塚町、牛込南榎町などを転々としたあと、明治36年(1903)3月にはかねて相愛の伊藤すずと結婚して神楽坂町一丁目の裏通りにひそかな新居を持ち、まもなくその年十月には紅葉を喪ったが、明治39年2月に健康を害って逗子に転地するまで、そこに住んでいた。 |
その頃から鏡花に近づいて文学上の門人でもあったという寺木定芳が昭和15年に書いた思い出によると、その家は「坂下の紀の膳寿司の前横町を上から右へ折れて五六間、更に左へたら/\と二三間登って掘井戸のある前で、是は新築の清楚とした明るい二階家だつた」という。それは記憶だけに文字通りに受取るわけにはいかないが、妻を得、恩師紅葉を失い、鏡花の生涯の転機となったその家の、唯一の貴重な記録には違いない。 わたくしがその文章を頼りに鏡花住居跡をたずね、戦後はじめて神楽坂裏小路を歩いたのは昭和26年である。その頃の12丁目附近はほとんど戦災後の仮普請で、神楽坂では老舗だという紀の膳寿司の跡にはやはり同じ屋号の小さい喫茶店が仮普請で出来ていた。寺木の文章に従ってその前の横丁に入ると、「左へたら/\と二三間登って」と書かれている左側はむしろ低くなっていて、どうやらそれは右の間違いらしかった。しかし、登り口の跡らしいところはあってもその辺りに掘井戸らしいものはもうみとめることが出来なかった。 それからまた18年後の今日、改めて同じ小路に入ってみると、狭いがまっすぐに走る小路の奥正面には、相変らず昔の物理学校、現在の東京理科大学の校舎の一部が見える。18年前はまだ急場の仮普請がごみごみと立てこんでいたところに、右側には蒲焼が専門らしい小ざっぱりとした和風の料理店が出来ていて、その角から右へ曲る坂道も、狭いながら舗装されている。だが、その附近の人々が鏡花との因縁に関心を抱いているというわけでもない。わたくしは鏡花のためにこの小路を訪れるのも今日が最後かも知れぬと思いながら、まもなく神楽坂下の表通りに戻って行った。 |
野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。
-49・4「群像」
さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、私には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。 |
東京理科大学 地図です。
坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。 |
パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。
ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。 坂の中途右側には水谷八重子や東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がその址である。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店と宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。 |
址 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。
慶三はどんな藝者とお客だか見えるものなら見てやらうと、何心なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱が突出てゐたが、此方は真暗向うには燈がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強と、覗機關でも見るやうに片目を押當てたが、すると忽ち声を立てる程にびつくりして慌忙てゝ口を蔽ひ、 「お干代/\大變だぜ。鳥渡來て見ろ。」 と四邊を憚る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。 隣の話聾は先刻からぱつたりと途絶えたまゝ今は人なき如く寂としてゐるのである。お千代は暫く覗いてゐたが次第に息使ひ急しく胸をはずませて来て 「あなた。罪だからもう止しませうよ。」 と此の儘黙つて隙見をするのはもう氣の毒で堪らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を凝して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに最一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角する中に慶三もお千代も何方からが手を出すとも知れず、二人は眞暗な中に互に手と手をさぐり合ふかと思ふと、相方ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合つた。 |
「数学体験館」は東京理科大が近代科学資料館の地下一階に作った数学の理論を体験するもの。人も少なく、しーんと静まった一階と比べて、地下一階の「数学体験館」には土曜には子供が非常に多く、家族連れが沢山います。将来的にはこちらを一階にする方がいいのではと思ってしまいます。
同館の館長は秋山仁氏。開設の目的は、いろいろありますが、要は教具・教材等を開発すること…といってしまうと、身も蓋もありません。他には高校までの理解を補う補習教育の強化、大学で数学の初年次教育を充実し、学内外に発信すること。でも楽しいのが多い。
同館は「数学体験プラーザ」が95%を占めています。「数学体験プラーザ」では小学校から大学の概念や定理、公式を学べる作品を常設展示。たとえばほかにはあまり見かけないものとして「区分求積法」。このアイデアを使った模型で面積を求めます。ただし、あまり面白くないようで、あまりやってはいませんでした。
よくあるものとして「2項分布パチンコ」。絶対に2項分布の通りには並びません。それを実体験します。(そうですよね)。また無数の球を上に持って行くのはあなたで、ほかの人はやってくれず、自分で綺麗にするのもあなた以外にありません。
「らせん木琴」は途中で球が止まると音も止まることや、音程が乱れることを除けば、綺麗な名曲…迷ではないぞ…が流れてきます。これはドアの外にそっと置いてあります。しかし、部屋の中では子供たちはわーわーと大喜び。土曜に行ったのがよかった。月曜から金曜ではこれだけの子供はいないと思う。
ほかには「数学工房」。これは数学的作品や教具、教材などを制作し開発する場所で、その成果を授業で活用します。「数学授業アーカイブス」は、DVDなどを視聴する場所。算数・数学の講義を、大型ディスプレイやオーディオ機器で学習できます。
こんな博物館はアメリカや香港では何十年も昔からやっていました。でも日本で国立博物館ではできないものでした。それが、ようやくできた。しかも100個ある。パチパチパチと拍手を送ります。
「牛込倶楽部」が作るタウン誌『ここは牛込、神楽坂』は1997年(平成9年)夏から2001年(平成13年)春まで第1~18号を出版しました。立壁正子さんがやっていましたが、癌で急死、18号で終わりました。残念です。
参考までに特集を掲げて起きます。古老、作家、地域の人、日本画、大学とあらゆるものを対象にして作っていました。ささいなことでもあるのかないのか調べるという姿勢が素晴らしい。どこか一歩が、先に行っている。ほかのものと比べると、360°よく見えていて、調査も行き届いている。
本編で『ここは牛込、神楽坂』から参照したものはいろいろありますが、「第13号。路地・横丁に愛称をつけてしまった」が一番多く、「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」や相馬屋などが次に続きます。
1号 神楽坂に寄せて。
2号 神楽坂古典芸能
3号 神楽坂でENJOYひとり暮らし。
4号 泉鏡花と牛込、神楽坂
6号 忠臣蔵と牛込、神楽坂。ラーメン、ラーメン
7号 藁店。地蔵坂界隈
8号 神楽坂粋すじ事情
9号 「まち」と大学の素敵な関係。東京理科大学
10号 漱石と神楽坂。
11号 神楽坂で昼食を
12号 電脳都市神楽坂
13号 神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった
14号 神楽坂を歩く。神楽坂の緑
15号 日本画の巨匠 鏑木清方と牛込
16号 拠点としての神楽坂
17号 「まち」と大学の素敵な関係。法政大学編
18号 「寺内」から、神楽坂・まちの文脈を再考する
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