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市ヶ谷濠(写真)桜 釣り人 昭和20年代 ID 9488-91

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9488〜9491は、昭和20年代に旧江戸城の外堀、桜の花、釣り人などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9488 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9489 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9490 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9491 外堀(飯田橋付近)

 以下は地元の方からものです。

 ピントがあっていない写真もありますが、ほぼ同じ場所からの撮影です。手前が新宿区側、濠を挟んだ対岸が千代田区側でしょう。
 場所は「飯田橋付近」としています。ただし、この場所が飯田橋かどうかは疑問です。対岸には国鉄の中央・総武線の線路があるはずですが、奥に向かって下り坂です。飯田橋付近の牛込濠には、こんな坂はありません。

外堀。1977「気まぐれ本格派」33話

 また写真奥には線路の高さに複数の三角屋根が見えます。当時の飯田橋駅は牛込橋の向こう側なので、この場所に駅施設はありません。昭和20—30年代の航空写真でも確認できません。
 では、撮影場所はどこでしょうか。外堀とすれば、四谷方向から市ヶ谷駅に向けて、市ヶ谷濠を撮影したものではないでしょうか。四谷から市ヶ谷にかけての線路は下り坂です。駅は四谷側にのびており、航空写真でも駅施設が確認できます。心なしか濠が写真右に向かってすぼまって見えるのも、市ヶ谷濠の形に符合します。

昭和22年 市ヶ谷濠付近(地理院地図)

 濠は濁っていて、浅く見えます。ゴミも浮いており、好適な釣り場とは言えなさそうです。釣り人は両岸にいますが、多くは小中学の男の子です。大人の男性や割烹着の女性は付き添いのようにも見えます。地域の子供サークルの活動で、手軽な遊びとして「釣りの会」などをした写真ではないでしょうか。

中之橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。今回のテーマは中之橋です。

中之橋(なかのはし) 新宿区新小川町二、三丁目のさかい文京区水道一丁目江戸川に渡された橋で、創架年月は不詳だが寛文図に無名ながら記されている。東京市史稿はこれについて、「橋 橋名なし 同川筋(江戸川)に架し、後の中の橋に当るべきものなれど、位置やや上流にあり。この橋の位置の変れるは元禄頃なり。中の橋は武江図説に『中の橋、同し川に渡す。立慶橋大橋の間、築土下へ行く通り、此辺りゅうヶ崎と云う、一名鯉ヶ崎とも云う。』とし、また府内備考には「中ノ橋は築戸下より江戸川ばたへゆく通りにかかる橋なり。立慶橋と石切橋の中なる橋なれば、かく名付くなるべし。」と記す。明治時代になってこの江戸川両岸に桜が植えられ、市民遊行の地となった。小石川区史はこれを、
  石切橋より下流隆慶橋に至る間の江戸川両岸一帯の地は、明治の末頃まで市内屈指の桜の名所として讃えられていた。此処の歴史は比較的新しく、明治17年頃、西江戸川町居住の大原某が自宅前の川縁に植樹せるに始まり、附近の地主町民が協力して互に両岸に植附けたので、数年にして桜花の名所となり、爾来樹齢を加えると共に花は益々美しく、名は愈々喧伝せられて、其景観が小金井に似たところからいつしか「新小金井」の名称を与えられ、観桜の最勝地たりし中の橋は小金井橋に比せられるようになった。
 そこで地元でも時には樹間に雪洞ぼんぼりを点じ、俳句の懸行燈かけあんどん、花の扁額、青竹のらちなど設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて花のトンネルを上下すれば、両岸の花影、燈影、水に映じて耀かがやき如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった
  はつ桜あけおぼめく江戸川や水も小橋も
うすがすみして              金子薫園
ほそぼそと雨降り止まぬ江戸川の橋に
たたずみ君をしぞ思う           小林 操

新撰東京名所図会。牛込区。東陽堂。明治37年。

新小川町二、三丁目 現在は「丁目」を付けません。昭和57年(1982)住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合され、単に「新小川町」といいます。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んでいました。
寛文図 寛文江戸大絵図。寛文10年12月に完成。絵図風の地図ではなく、実測図に従い、正確な方位を基準として、以後江戸図のもとになった。

武江図説 地誌。著者は大橋方長。安永2~寛政年間(1773~1799)に刊行し、寛政5年(1793年)に筆写。別名は「江戸名所集覧」
東京市史稿 明治34年から東京市が編纂を開始し、令和3年、終了した史料集。皇城篇、御墓地篇、変災篇、上水篇、救済篇、港湾篇、遊園篇、宗教篇、橋梁篇、市街篇、産業篇の全11篇184巻
大橋 石切橋と同じ
築土 つくど。江戸時代には「築土明神」も「築土」も正式な名前でした。なお「築土前」「築土下」はそれぞれ「築土の南側」「築土の北側」の意味。
築土下へ行く通り、此辺立ヶ崎を云う、一名鯉ヶ崎とも云う 「築土の北側に行く道路があるが、この周辺を立ヶ崎という。別名、鯉ヶ崎という」。「崎」は「岬 。みさき。海中に突き出た陸地」の意味です。文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)によれば「『新編江戸志』に、『中の橋、築土つくどへ行く通りなり、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(約一米)に及ぶなり。』とある。」。つまり「立ヶ崎」や「恋ヶ崎」よりも「鯉ヶ崎」の方が一歩も早く世に出た言葉だったのでしょう。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
築戸 「つくど」と読む方が正しいのでしょう。
ばた はた。端。傍。側。物のふち、へり。ある場所のほとり。そば。かたわら。そばにいる人。第三者。
江戸川両岸に桜

小石川区史」から

江戸川桜花満開『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』尚美堂 明治43年 国立国会図書館デジタルコレクション

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

遊行 ゆぎょう。出歩く。歩き回る。
小石川区史 昭和10年、小石川区役所が「小石川区史」を発行しました。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、1/3は水道一丁目に、昭和41年4月1日、残る2/3は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

川縁 かわべり。かわぶち。川のへり。川のふち。川ばた。川べ。
爾来 じらい。それからのち。それ以来。
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まる様子。ますます。より一層
小金井 元文2年(1737年)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門が吉野や桜川からヤマザクラの名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。
最勝地 これは誤植。正しくは「景勝地」。けいしょうち。景色がすぐれている土地。
 この文章は一般的な花ではなく、桜のことでしょう。「桜の時には樹間に雪洞を点じ、俳句の懸行燈、桜の花の扁額、青竹の埓など設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて桜のトンネルを上下すれば、両岸の桜影、燈影、水に映じて耀き如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった。」
雪洞 行灯。あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
懸行燈 掛行燈。屋号や商品名を書いて店先に掛けて看板代わりにするもの。俳句の懸行燈とは、屋号や商品名に加えて俳句もはいるもの。

扁額 建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(額とは書画などをおさめて、門・壁などに掲げておく)。
 周囲に設けた柵。
夜の観楽境であった この文章は「小石川区史」881頁に載っています。なお、このあとに続く文章があり「然るに其後江戸川の護岸工事の為め、漸次桜樹の数を減じて、大正の末年頃には当時の面影を全く失い、両岸は総てコンクリートの堅固な石垣と化して、忘れたように残る少数の桜樹に昔の名残を偲ぶのみとなった。已むを得ざる工作の結果とは云えあまりにも悲しき文化の侵略ではある」
はつ桜 はつざくら。その年になって最初に咲く桜の花。季語・春
 あけぼの。夜がほのぼのと明けはじめる頃。
おぼめく はっきりしない。あいまいである。ぼやける。
うすがすみ  薄くかかったかすみ。かすみが薄くかかる様子
金子薫園 かねこくんえん。歌人。和歌の革新運動に参加。明星派に対抗して白菊会を結成。近代都市風景を好んで歌った。生年は明治9年11月30日、没年は昭和26年3月30日。満75歳で死亡。
ほそぼそ 非常に細いさま。物がかろうじてつながっている様子。かろうじてその状態が続いている様子
思う 慕う。愛する。恋する。

牛込見附と桜の木(大正11-12年)

文学と神楽坂


「牛込見附」の写真について地元の方が解説をしました。

 東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖は、当時の東京市役所公園の手による関東大震災直前の写真集です。「序」には「都市改造ノ業益進」む中で「真景ヲ留」める目的とあります。精細なコピーが国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
「牛込見附」は第1集4(コマ番号11)で、以下の写真と解説があります。


 麴町區富士見町より牛込神樂坂に通ずる門で、牛込口または牛込門ともいひ、此邊に楓樹があったので俗に紅葉門とも呼んだことがある。寛永十三年幕府が江戸城の修築を諸侯に命じた時、此見附は蜂須賀忠秀が營んだもので、恐らく此時新たに出来た見附と思はれる。今は殆んど舊態を失ひ、僅かに石垣のみに其名残を留めて居る。

 牛込見附については、このブログの別記事で詳細に検討されています。
 ここでは、写真帖の牛込見附の写真を見ていきます。牛込橋は神楽坂の反対側を左手前から上にあがり、欄干がでています。その先の木柵部分は千代田区側で、下を中央線(旧・甲武鉄道)がくぐっていると思われます。正面右の石垣手前に立つ白いポールは鉄道の信号機でしょう。線路らしきものも確認できます。この右側が旧・牛込駅(後に廃止)になります。積雪があるので季節は冬でしょう。
 道路の舗装部分から外れると土手で、右はガケになります。ガケの下は現在のカナルカフェです。土手の電柱の広告は篠崎インキの「万年筆用ライトインキ」。牛込周辺の学生をターゲットとしたものでしょう。
 電柱はたくさん立っていますが、街灯らしきものは見えません。牛込土橋の店もなく、夜は真っ暗だったでしょう。赤井足袋店の赤井儀平氏の回想に一致します。

 土手の中央に桜の木があります。この三股が特徴的な桜は時代を超えて、いくつかの写真に登場します。
・昭和6年 ID 2 飯田橋駅付近より坂上方向
 左端の木で、太くなりました。土手は歩道として整備されました。
・昭和20年 早乙女勝元『東京空襲写真集』
 左端で見切れています。
・昭和37年頃 ID 55-56 飯田橋駅付近より坂上方向
・昭和37年 ID 5993-5994 神楽坂入口をのぞむ
 店ができています。歩道を半分占めるほどの大樹に。
その後、おそらくジャマになって切り倒されました。
・昭和42年 田口氏05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を
桜の木を基準にすると、牛込橋の幅が徐々に広がっていったことが分かります。

神楽坂1丁目(写真)昭和45年、ID 13126、ID 13128とID 13130

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 13126、ID 13128とID 13130を見ていきましょう。3つとも昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。ID13117、ID13118、ID13121-22、ID13124と同様の画角ですが、より左側に寄った場所から撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13126 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13128 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13130 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋と右側の外堀通りの車道にはあって、おそらく左側の外堀通りもあったでしょう。また、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 富士見 〇〇入学随時☎ 英会話タイプ学院 この手前
  2. 電柱看板「独特 とんかつ 森川
  3. 東山酒蔵
  4. 電柱看板「 大久保
  5. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  6. 交通標識の裏面
    ――「牛込見附」交差点
  7. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  8. 電柱看板「東電のトレードマーク 中〇」
  9. (車両通行止め)
  10. 電柱看板「八千代鮨
  1. (歩行者通行止め)
  2. 萩の宮
  3. ファサード看板「加藤医院
  4. 貸間 アパート 学生会
  5. 映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ――「牛込見附」交差点
  6. 株式会社 さく(らや)(靴)
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. (白十字医院)
  11. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  12. (車両進入禁止)
  13. 不二家洋菓子
  14. (消火栓)
  15. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」「今宵楽(しく軽い心で)」
  16. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  17. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  18. 看板「パチンコはマリーで」
  19. ニュ(ーイト)ウ(靴店)
  20. 純喫茶 クラウン(喫茶店)
  21. MAX FACTOR(化粧品)
  22. 資生堂(化粧品)(さわや
  23. ナショナルのマーク(竹谷電気工事)
  24. 東京電力(サービスステーション)
  25. 鮨どころ 二葉(寿司)

住宅地図。1970年

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID13117-18, 21-22, 24

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID13117-18, 13121-22, 13124を見ていきましょう。全ては、昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13117 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13118 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13121 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13122 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13124 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋はあり、おそらく外堀通りもありでした。
 歩道もアスファルト舗装ですが、カメラの足元の牛込橋部分は石敷でした。ID 13117の右下のガードレールの切れ目あたりで、アスファルトの歩道が縁石で終わっているのが分かります。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。ただし、牛込橋の最も手前に逆円錐形の街灯があり、これは千代田区のものと思われます。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 登録商標東山 東山酒蔵〇会 東山酒蔵
  2. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  3. ▶電柱看板「 大久保」「東電のトレードマーク 中〇」
  4. 交通標識の裏面
    ーー「牛込見附」交差点
  5. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  6. (車両通行止め)
  7. (パチン)コ Pachinko(ニューバリーパチンコ)
  8. (駐車禁止)(区間内)
  9. 田原屋(フルーツパーラー)
  10. 田口屋生花店。五階建て
  11. 「ダイヤモン(ド毛糸)」(大島糸店)
  12. (喫茶)五(条)(五条ビル)
  13. 遠くに「協和銀行」

▶は車道寄りの歩道上に広告があり、ない場合は直接店舗に

  1. 立て看板「アルバイト 下宿 アパート 貸間 日本学生会
  2. ▶立て看板「盛況 酒ビール飲放題確定サービス 8時迄〇〇一五〇〇円」
  3. 電柱広告「洋装店 ナカノ」
  4. 萩の宮
  5. ファサード看板「入院設備あり 産婦人科 加藤医院
  6. ▶映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ーー「牛込見附」交差点
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  11. (消火栓)
  12. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」
  13. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  14. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  15. クラウン(喫茶店)
  16. 資生堂(化粧品)(さわや)

住宅地図。1970年

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8799とID 8800

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8799とID 8800は、昭和48年(1973年)2月、「牛込見附」(現、神楽坂下)交差点近くから神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8800はID 65と同じです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8799 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8800 神楽坂入口

 有楽町線「飯田橋駅」が開通する予定で、そのため道路を開削し、上に鉄板を置いています。埋め戻しは開業後です。
 大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に標識「神楽坂通り」がいくつもあります。電柱の上には大きな柱上変圧器があり、また標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)が左右に1本ずつできています。休日の歩行者天国(ホコテン)も始まり、バリケード看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」があります。警官が写っていて「ひょっとするとホコテンのスタート時の写真かも」と地元の方。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 牛込見附。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 日曜祝日の12-18。
  2. 電柱看板「斉藤医院
  3. パチンコ ニューバリー。「新装開店/73年最新型/第一号登場/ゆっくり打って(牛年)/大きく取ろう。出たら/どうにも止らない機械!!」
  4. ニューバリー屋上に「ウル」と矢印がある。これはイーグルボウルで、ID 68に詳しい。
  5. フルーツパーラー 田原屋
  6. 電柱看板「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)。
  7. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  8. 中華料理 信華園
  1. (一方通行)。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 12-18。
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. (白十字医院)
  5. 地下鉄入口の建築中のためこの時点では山田紙店はなくなっている。
  6. (消火栓)
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  8. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  9. 突き出し看板「あんみつ 紀の善」切妻の屋根
  10. 白く光るのは理容バンコックのサインポール
  11. 上で「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
    一階で ハッピージャック
  12. 山一薬品
  13.  看板「パチンコはマリー(で)」
  14. ニューイトウ(靴)
  15. 坂(喫茶)
  16. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  17. 喫茶  クラウン
  18. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。1969年2月完成。
  19. 「菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か

神楽坂一丁目(写真)昭和44年 ID 8284

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8284を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、神楽坂一丁目から坂上です。車道は靴店のオザキヤのところで色調が違っています。急勾配のコンクリート坂では、一時的に道路表面に円形のオーリングを埋め込み、滑り止め策をしています。当然、道路の色調は変わります。歩道はややサイズの大きい平らな正方形のブロックで、街灯は丸い巨大な蛍光灯です。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8284 神楽坂

神楽坂1丁目(昭和44年)
  1. (フルーツパーラー 田原屋)
  2. 元祖 貸衣装 清水本店
  3. 生そば(おきな庵
  4. 中華料理 信華園
  5. (田口屋生花店、2階建て)
  6. パール。ビリヤード。小栗横丁に。
  7. 小栗横丁に行く通り
  8. (田口屋生花店、2階建て)
  9. 志満金
  10. オザキヤ靴店
  1. 山田紙店
  2. FUJIYA 不二家洋菓子 2階 コーヒーショップ
  3. 突き出し看板「おしるこ 紀の善
  4. 神楽小路に
  5. 床屋のサインポール
  6. ビル「喫茶 軽い心
    3.4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハ(ッピージャ)ック
    (ハッ) ピージャック
  7. パチンコ(はマリーに)
  8. ニューイトウ

神楽坂1丁目(写真)昭和36年 牛込橋 ID 12125~12127

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 12125、ID 12126,ID 12127を見ましょう。レンズは外堀通りと神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭すずらん灯があり、車道は平坦でデコボコはありません。信号機はゼブラ柄の背面板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12125 神楽坂下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12126 神楽坂下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12127 神楽坂下

 牛込橋から神楽坂下までの車道にセンターラインがあり、この部分が逆転式一方通行になるのはずっと後ですが、早い段階でセンターラインは描かれなくなっていたと地元の方。
 牛込橋の桜の木はよく見ると若葉がついているようです。
 写真の右上で、メトロ映画(上の看板は「yヽロ映画」)では東映作品「鳴門なると秘帖ひちょう」(公開日は昭和36年1月26日)、松竹作品「はったり青年紳士」(公開日は昭和36年3月15日)をやっていました。下に行き「さくら」は「さくらや靴店」です。森本不動産は小栗横丁に行く横丁にありました。
 右中央に「赤井商店」が見えますが、その前のID 12126に女性が描かれた看板が見えます。よく見ると『ナポリ』らしき字があり、ソフィア・ローレン出演の映画『ナポリ湾』(日本公開は昭和35年12月)を佳作座でやっていたのではないか、と地元の人。佳作座は2番館なので、昭和36年に出もいいと思います。
 撮影は牛込橋周辺で、新宿歴史博物館の発表では昭和37年になっています。でも、同じ撮影でID 52とID 53では昭和36年4月になっています。よく見ましょう。「yヽロ映画」はどちらも同じ壊れ方。映画作品もまったく同じで、外堀通りから牛込橋に渡る立て看板や、通り沿いにみえる造花の飾りも同じです。造花はカラー写真だとサクラを模したピンクだと確認できます。ID 12125~12127は、ID 52~53の左端の駐車車両は見えませんが、ほぼ同時期に撮影したと推定できます。
 では昭和37年と昭和36年、どちらでしょうか? 昭和37年2月以前に撮ったID 55と56を比べてみましょう。「メトロ映画」はさらに「 ヽ凵映画」とぼろぼろで、鈴蘭灯ではなく大型の蛍光灯になっています。ID 52~53とID 12125~27はID 55と56よりは昔なのです。つまり、昭和36年に撮影したのです。
 では色を含めて書いておきます。

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂1~2丁目(昭和36年)
  1.  中河電気 「旅館 野乃木」
  2. 天下の銘酒 富士錦  三富酒 。壁にネオン「三富」
  3. 交通標識
  4. 外堀通り
  5. 赤色ネオン「パチンコ」「(ニュ)ーパリー」。部分的に赤と黒の壁
  6.  田原屋 
  7. 貸衣裳 清水衣裳店
  1. ポスター「森本不動産」「産婦人科 加藤」
  2. 外堀通り
  3.  赤井商店  ポスター「ナポリ(湾)」 さくらや靴店
  4.  印章  ゴム印 (津田印店)
  5. 美容室(ニューマヤ
  6. ヤマザキパン(神楽堂)
  7. 神楽小路に行く(見えない)
  8.  コ〇ン〇ン (山一薬品)
  9. メトロ映画「鳴門秘帖」「はったり青年紳士」
  10. キャバレー (ムーンライト)

神楽坂1丁目(写真)昭和51年 ID 69, 70, 71(ID 9109, 11478, 11479. 11480)

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 69から71までは、昭和51年(1976年)8月26日、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。この写真はID 9109、ID 11478からID 11480までとしても保存されていますが、画角、解像度や鮮明さがやや異なります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67 飯田橋駅付近より坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9109 神楽坂下交差点 昭和51年8月26日

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11479 神楽坂 牛込見附交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 70 神楽坂入口から坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11480 神楽坂 牛込見附交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 70 神楽坂入口から坂上方向

 大きな左向きの標示はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。

神楽坂1丁目(昭和51年)牛込見附
  1.  牛込見附  信号機(背面板なし)。(歩行者専用)。「歩行者専用道路、自転車を除く 12-13」「歩行者道路」「日曜休日の12-20」「スプーン・フォーク・スープの標識」
  2. ニューバリーパチンコ。
  3. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)
  4. TAWARAYA。黒い看板と白の球。(フルーツパーラー 田原屋)
  5. 元祖 貸衣装 清水本店
  6. 生そば(翁庵)。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  7. 中華料理 信華園
  8. 電柱広告「あまなっと」五十鈴
  9. 電柱広告「〇島歯科」
  10. 1丁目の田口屋生花店。五階建て
  11. 小栗横丁にいく通り
  12. 志満金。ビルではない
  13. 靴(オザキヤ
  14. 大島糸店2階が大島歯科
  15. 話し方教室。五条ビル(ヒデ美容室の隣で)
  16. ID 70で看板「株式会社 第○」
  17. ID 70で標識「坂通」の字の上に頭を出している半円は三菱銀行の看板
  1. (一方通行)。「自転車を除く」
    (歩行者専用)。「歩行者専用道路 自転車を除く 12-13」「歩行者道路。日曜休日の12-20」
  2. 足袋・ワイシャツ 赤井商店昭和48年にあった入口上部の切り文字(立体文字)の店名はなくなっています。吊り看板の「公衆電話」とその下に2台の電話。右に佳作座の看板。2階建て。
  3. カレーショップ ボナ
  4. 皮膚泌尿科 婦人科 外科 内科。白十字診療所。ID 70では白十字マークも
  5. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店 コピーサービス
  6. 地下鉄 飯田橋駅。山田紙店が店を半分、出口として提供。
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ
  8. 消火栓標識と消火栓広告「福屋不動産」。福屋不動産はせんべい福屋の裏手
  9. ビル「軽い心」。ネオン「今宵楽しく軽い心」
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  10. 山(一薬局)
  11. パチンコ(マリー)
  12. ニューイトウ(靴)

住宅地図。1976年

神楽坂1丁目(写真)昭和49年 田口重久氏

文学と神楽坂

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」第五章 新宿区 補-10 (11/15) 05-10-32-1 牛込見附交差点からは昭和49年(1974年)12月21日(土)に撮ったものでした。大きな左向きの矢印はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。外堀通りにはまた鉄板が覆っています。

1974-12-21 牛込見附交差点から。田口重久氏「歩いて見ました東京の街」

神楽坂1丁目(昭和49年)
  1. 有楽町線「飯田橋駅」。道路を開削、上に鉄板。埋め戻しは開業後。
  2. 看板「車両通行止め12~18 牛込警察署 新宿区」
  1.  牛込見附  (歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20。スプーン・フォーク・スープの標識
  2. ニューバリーパチンコ。Pachinko。上の看板イーグルボウル下宮比町に。
  3. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)と(質)大久保
  4. TAWARAYA。黒い看板と白の球。(フルーツパーラー 田原屋)
  5. 元祖 貸衣装 清水本店
  6. 生そば(翁庵)。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  7. 中華料理 信華園
  8. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  9. 小栗横丁にいく通り
  10. 志満金。ビルではない
  11. 靴(オザキヤ
  12. 大島糸店2階が大島歯科
  13. 話し方教室。五条ビル(ヒデ美容室の隣で)
  1. (一方通行入口)自転車を除く。(歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. 白十字医院
  5. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 地下鉄 飯田橋駅
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。
  8. あんみつ。紀の善。切妻の屋根
  9. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  10. 上でビル「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  11. 陶柿園がビルに。昭和47年(1972年)3月に完成
  12. 「菱屋」が遠くに見える

 神楽坂仲通りの△は横断歩道の標識。その奥は「神楽坂通り/美観街」です。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 65、66

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 65と66は、昭和48年(1973年)2月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識があります。電柱の上には柱上変圧器があり、「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできています(カラー写真)。また、休日の歩行者天国が始まり、バリケード看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」が出ています。なお、ID 65は「神楽坂入口から坂上方向」でも細かく見ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 65

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 65 神楽坂入口から坂上方向。昭和48年2月。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 66 神楽坂入口付近から坂上方向

神楽坂1丁目(昭和48年)
  1. 有楽町線。将来の「飯田橋駅」。道路を開削、上に鉄板。埋め戻しは開業後。
  2. 看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」
  1.  牛込見附  (車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 12-13。
  2. 電柱看板の斉藤医院
  3. パチンコ ニューバリー。
  4. 電柱看板の(質)大久保質屋
  5. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  6. 中華料理 信華園
  1. (一方通行入口)。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 12-13。
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. (白十字医院)
  5. 地下鉄入口の建築中のためこの時点では山田紙店はなくなっている。
  6. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  7. あんみつ。紀の善。切妻の屋根
  8. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  9. 白く光るのは理容バンコックのサインポール
  10. (右折以外進行禁止)(区間内)
  11. 上でビル「軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  12. 山一薬品
  13. パチンコマリー
  14. ニューイトウ(靴)
  15. 坂(喫茶)
  16. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  17. 喫茶  クラウン
  18. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。1969年2月完成。
  19. 「菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か前年末。

昭和40年代の神楽坂(写真)

文学と神楽坂

神楽坂 加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』(昭和47年)(植村峻氏『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』、2010年)

  1. 看板「神楽坂通り」
  2. 街灯の途中から斜めに筒が出ていて、季節ごとに飾りや旗を差し込む。この時期は餅花みたいなものを飾っている。そこからぶら下がった提灯が割れてしまったように見える。
  3. 「山田」紙店
  4. 街灯
  5. FUJIYA 不二家洋菓子
  6. FUJIYA コーヒーショップ
  7. 不二家洋菓子
  8. おしるこ 紀の善
  9. 床屋のサインポール。2階が理容バンコック
  10. 1階がテーラー和田屋。
  11. 軽い心
  12. 神楽坂通り
  13. 美観街
  14. 文字のない飾り
  15. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  16. 軽い心
  17. 山一薬品
  18. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  19. 陶柿園
  20. パチンコマリー
  21. 菱屋
  22. MAXFACTOR(さわや)
  23. ニューイトウ(靴)
  24. 柱上変圧器
  25. (カネ)ボウ毛糸(ダイヤ)モンド毛糸 特約(店)。大島糸店
  26. うなぎ/割烹 志満金

神楽坂入口から坂上方向 新宿歴史博物館 ID 65

昭和48年2月。神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 65 から

  1. 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. ここと4の間に山田紙店があるはずだが、この時は地下鉄出口の建設中。
  4. 不二家洋菓子。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  5. 紀の善。切妻の屋根
  6. 理容バンコックのサインポール
  7. 3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック
  8. 神楽坂通り。美観街。文字のない飾り。
  9. 牛込見附
  10. 昔は段差が見えた
  11. 質。大久保質屋。神楽坂仲通りにあった質屋
  12. 斉藤医院。小栗横丁と見番横丁、神楽坂通りで囲んだ医院(下図)。なお、神楽坂4丁目8番地の斉藤医院は戦前にはありましたが、戦後はなくなっています。

    1970年 住宅地図

  13. パチンコ ニューパリー
  14. 将来の有楽町線「飯田橋」。道路を開削し、上に鉄板。埋め戻しは開業後。





袋町の櫻

文学と神楽坂

CCF20140518_0000000.0 『牛込華街読本』(昭和12年)の最初の半分は芸者の心構えが書いてあります。後半は歴史やいわれが書いてあります。この「袋町の桜」は後半の一部で、全く聞いたこともない言葉や熟語がでてきます。でも、辞書を片手に読むと、袋町はなかなか綺麗だったとわかってきました。

 遠藤但馬守の館には桜が何十本も植えられて、築山、亭、茶園などを配する庭園があったのでした。現在は普通の家ばかりが並んでいますが、明治時代では、矢来町の酒井家の下屋敷と比べると、遠藤但馬守の下屋敷のほうが遥かによかったのではと思ってしまいます。

 実はこれより早く『新撰東京名所図会第42編』に同じ項が書いてありました。でも『牛込華街読本』を引用します。

袋町二十五番地は遠藤但馬守江州三上の藩主一萬三千石)の下屋敷の跡ですが、其地續き及び二十六番地の(ほとり)は光照寺の境内地と幕士宅址でした。明治以後、いたく荒れ果てゝ、人の顧みるものも無かつたのを、牧野(はたす)(故陸軍少將)が此一廓を買取り、修理して庭園といたしました。そして吉野の種を(ここ)に移して、櫻雲搖曳、盆地あり、假山(つきやま)あり、山上に(てい)ありといふ具合に風雅なものにいたしまして、北の方光照寺の墓地に接して()(ゑん)を作り、自ら娯んでゐられたのみか、但馬守の(ふるい)(やしき)に住んでゐられました。開花の候ともなりますと、林泉遊覧を一般に開放して、亭に、(みぎは)に、花を賞して逍遙自在だったといふことです。だか平時(ふだん)は園門を堅く鎖してありました。

遠藤但馬守 遠藤但馬守の敷地は青い場所です。邸宅は左下の赤で指した場所なのでしょう。

明治18-20年

明治18-20年

三上 三上藩。みかみはん。琵琶湖の南東部、滋賀県野洲市を領有した藩。
下屋敷 しもやしき。したやしき。郊外などに構えた控えの大名屋敷の別邸
地續き 地続き。じつづき。土地と土地とが、海や川で隔てられることなく続いていること。
幕士 幕府の武士の意味でしょう。
宅址 たくあと。住居の跡。建造物には「址」も使います。
江州 ごうしゅう。近江国(おうみのくに) と同じ。現在の滋賀県。
顧みる 心にとどめ考える。気にかける
一廓 いっかく。あるひと続きの地域
吉野 奈良県中部、吉野郡の地名。桜の名所。よしのざくらは、吉野桜で、吉野山に咲くヤマザクラやソメイヨシノの別名。ソメイヨシノの名前は江戸末期に染井(ソメイ)の植木屋が広めた吉野桜から
 ここ。現在の時点・場所を示す語。この時・この場所で。
櫻雲 桜雲。おううん。桜の花が一面に咲きつづいて、遠方からは白雲のように見えること。花の雲
搖曳 揺曳。ようえい。ゆらゆらとたなびくこと
假山 築山(つきやま)と同じ。人工的に作った山
 屋根だけで壁のない休息所。休憩したり、雨や日光を避けて涼んだり、景色や季節の移ろいを眺めたりする。東屋

尖亭

茶園 茶を栽培している畑。茶畑。 茶を売る店。茶舗。
makinoharadaityoenn娯んで 楽しい、愉しい、娯しい、たのしい。
林泉 りんせん。林や泉水を配して造った庭園
遊覧 ゆうらん。あちこち見物してまわること。
 みぎわ。海・湖などの水と、陸地と接している所。みずぎわ。なぎさ
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩
自在 自分の思うとおりにできること

明治二十年頃、始めて神樂町三丁目から中町に通する邸内を横貫する新道を開きましたので、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家が立て込みましたので、漸く其風致を損ひましたが、牧野氏が引拂つた後は子爵土井家(越前大野の藩主四萬石)この地所を購入され、叉但馬守の邸址に(やかた)を作られました。
 その頃土井家の後園、新道の邊及び近傍に散在した櫻の樹はみな牧野將軍の遺愛の名花で、殊に若宮町に面する土井家の石垣と黒板塀に添って列植せられてあつたものなどは、其數七八十本にも及び、連梢吉野のを呈して、春の眺めは一入だったとのことです。

新道 ここでしょう。

明治28年

明治28年の地図

開鑿 開削。かいさく。土地を切り開いて道路を作ること。明治28年には新道ができました。
伐去 伐。ばつ。きる。うつ。刃物で木などをきる。 去。きょ。さる。その場から離れていく。「うちさられ」と読むものでしょうか。
風致 ふうち。おもむき。あじわい。特に自然のおもむき。風趣
 旧。きゅう。古いこと
越前 ほぼ福井県中・北部に相当します
後園 こうえん。家のうしろにある庭園や畑
列植 れっしょく。植物を並べて植えること
連梢 連。れん。つれ、仲間、連中。 梢。しょう。こずえ。木の先端。これで「れんしょう」になるのでしょうか。こずえが何本も植わっていること
 えん。色あざやかな、あでやかな
一入 ひとしお。いっそう。ひときわ