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尾澤豐太郎翁追想録|尾澤豐念会 1932年

文学と神楽坂

 尾沢翁追想録編纂会の『尾沢豊太郎翁追想録』(尾沢豊念会、1932年)は新宿歴史博物館図書閲覧室だけにあります。国立国会図書館にはなく、他でもないでしょう。
 尾沢薬店は神楽坂4丁目の郵便局や隣のカフェ・ベローチェ神楽坂店がある場所にありました。

 かうしての店員生活は19歳の春まで續いたのであつた。
       宮比町開業時
 牛込神樂坂も現在のやうに花柳界もなく、勿論、早稲田大學や共他の學校もなかつた。それ故に粋なつぶし島田の藝妓のなまめかしい姿も見られず、隊をなした學生達の散歩姿も見られず、附近は多く武家屋敷のあとで、たゞところ/”\に商家が竝び、淋しい町であつたころだ。明治8年7月21日、毘沙門天前の牛込區上宮比町一番地に、翁は獨立して藥種賣藥業を開業することになつた。店員として、たゞ一人大西橘三氏が、翁の下で働くことになつた。たとへ筑土本店の附近に開業したとはいへ、創業の苦難はやはり味はねばならなかつた。艱難辛苦を嘗めながら翁の活動力は愈々漲つて奮闘は績けられた。

尾沢薬局

 尾沢豊太郎のこと
つぶし島田 芸者衆に特に好まれた粋筋の髪型。髷の中央部が凹んで潰れている。

つぶし島田

薬種 やくしゅ。薬の材料。調剤前の薬品。主として、漢方薬の原料。
売薬 ばいやく。薬を売ること。あらかじめ製造、調合して市販する薬を売ること。
艱難辛苦 かんなんしんく。つらい目や困難な目にあって苦しみ悩むこと。たいへんな苦労
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まるさま。ますます。より一層。
漲る みなぎる。力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる。

 現在、翁の最後に殘した事業としての東京醫藥株式會社が、小石川音羽町に在るのが、妙な奇綠でもあるが、翁が明治12年、23歳の時、最初の事業に着手したのも小石川音羽町7丁目であつた。そこに翁は司藥場の技師であつた某氏と諮り製藥所を設けて、エーテルを製造し叉神樂坂の自宅構内で蒸餾水、杏仁水ギブス林檎酸鐵丁幾等の製造に従事した。これ等の藥品製造に從事したのは恐らく我が邦では最初であつた。翁、去つて今や13年、翁以外にこの藥品製造の動機を聞くべく人もない。何事に依らず慧限な、先見的な翁のことであつたから何等かの大きな動機があつた筈であるが、その術もない。翁は夫等の製造した藥品類を日本橋本石町の藥種問屋中村瀧次郎商店から市場に販賣したのであつた。

 これら薬品の効能はあるのでしょうか。1846年(弘化3年)にアメリカ・ボストンの歯科医がエーテル吸入麻酔を発見します。また、全身麻酔は1804年(文化元年)華岡青洲氏が行いました。明治12年は1879年なので、吸入麻酔は十分できたと思います。蒸留水、鎮咳薬・去痰薬の杏仁水もできたはず。骨折の固定に石膏(ギプス)を応用することは1852年、フランスの軍医が始めて行ない、これもできたはずです。リンゴ酸鉄チンキは不明ですが、やはり鉄剤でしょうか。

司薬場 輸入薬品の検査のために明治政府が設立した官立の薬品検査機関。
製薬所  医薬品を製造する場所
エーテル 尾沢豊太郎氏はエーテルの製造に初めて成功した。一般的には、エチルエーテルのことで、現在は麻酔剤として用いる。
杏仁水 きょうにんすい。アンズの種子からとる杏仁油を除いたものを水蒸気蒸留し、留液にアルコールと水を加えたもの。苦味と芳香があり、鎮咳ちんがい薬・去痰薬として用いる。
ギブス 骨折の患部を固定する石膏。
林檎酸鉄 りんご酸鉄。効能は不明だが、やはり貧血か?
丁幾 チンキ。生薬をエチルアルコールやエチルアルコールと精製水とで浸出した液剤
慧限 けいがん。物事の本質を鋭く見抜く力。炯眼けいがん
先見 物事がおこる以前に見抜くこと。

 その頃また別に牛込區新小川町に渡邊某と製藥所を設け、煙草の葉から炭酸カリの製造をもやつてゐた。
 明治14年には種々の自家製劑を發賣し、そのなかには販賣政策としてイボ・ホクロ取りのやうな、その頃としては珍奇な賣藥を販賣して印象を強め宣傳さした、そして東京中に漸く神樂坂尾澤藥舗の名が擴がり、尾澤に行けば、どんな藥もあるといはれた。當時に於いてイボやホクロとりのやうな藥品を販賣するといふのも、實に珍らしいことで、翁がかやうな美容に関する皮膚病藥にまで着眼したことは、良く人心の機微を掴んだものであると思はざるを得ない。
炭酸カリ 炭酸カリウム。天然には木灰中に存在し、水で抽出したものが灰汁あくといい、漂白・洗浄に用いられた。カリセッケン、硬質ガラス、医薬などの原料、染色、漂白、洗浄などに使用する。
イボ・ホクロ取り 1917年、「売薬製法全書」(川崎近雄編、艸楽新聞社、大正6年)の「全治水」の広告。

明治17年には翁は(中略)、こんどは肝油の販賣に着目した。その頃に外國品で鶴日の出印肝油が輸入されてゐたが、我が邦で肝油製造に從事するといふことなどは思ひも寄らぬことであつたが、翁は逸早く肝油に眼をつけたのであった。傅手を求めて北海道小樽色内町の西川といふ人から鱈肝油を取寄せ、これを精製して、大阪道修町の藥種問屋日野九郎兵衛氏のところから發賣したのである。そしてこの肝油に鷹印の商標をつけた。外國品の鶴日の出印を鷹摑みにして驅逐する意味からであつた。(中略)
 明治22年には蜂蜜の衞生試驗を受け、蜂蜜を小詰として營養劑、ならびに調味料として製造販賣した。營養劑としての蜂蜜は昨今、盛んに流行してゐるが、翁は當時早くもこれに着眼してゐたのである。
肝油 魚の肝臓からとる脂肪油.ビタミンAやビタミンDに富む。
鶴日の出印 鷹印の商標 不明
営養剤 栄養剤。栄養の不足を補うための薬剤

 この年(明治28年)の四月には日淸戦役は、我が軍の勝利に歸し、淸國の全權李鴻章と講和條約を締結し、臺灣は完全に我が領土となつた。條約の上では領土となつたが、尚臺灣の蕃族叛旗を飜すので、畏くも北白川宮能久親王が親征し給ひ、明治29年4月には全く全島を平定されたのである。(中略)
 翁は、また臺灣に偉大なる事業を卒先して目論んだ。明治の新聞界の大先輩である故岸田吟香翁、實業界に雄飛した工學博士故久米民之助氏と共に製氷會社の設立を計畫したのであった。(中略)
 臺灣に於ける事業家としての翁の面目は遺憾なく發揮されて、あらゆる方面に、その活動力は機敏に働いたが、みないづれも成功してゐた。製氷の如きも、我が邦の先駆を爲すもので今日の隆々たる大日本製氷株式會社は臺灣製氷の後身に當る

李鴻章 中国清末の政治家。安徽省合肥出身。日清戦争の敗北で失脚。
臺灣 台湾。
蕃族 ばんぞく。未開の民族
叛旗を飜す はんきをひるがえす。謀反を起こす。反逆する。そむく。
北白川宮能久親王 きたしらかわのみや よしひさ しんのう。幕末ー明治時代の皇族、軍人。日清戦争には近衛師団長として出兵、台湾支配の指揮にあたり、同地で病没。生年は弘化4年2月16日、没年は明治28年10月28日。享年は49歳。
大日本製氷株式會社 和合英太郎は1890年、青山製氷所が設立したが、1892年3月には廃業となる。1897年、日本の採氷業のパイオニアである中川嘉兵衛が、東京・本所に機械製氷を設立。青山製氷所で働いた経験から、和合英太郎も、発起人のひとりとして参画。製氷工場の支配人兼技術師となる。1907年、東京製氷と合併。1919年、東洋製氷と合併、日東製氷を設立。28年、老舗・龍紋氷室と合併。これを機に、社名を大日本製氷と改称。さらに日本食料工業、日本水産、帝国水産統制などと合併、現在はニチレイ(日冷)。
後身に當る 違います。中川嘉兵衛や和合英太郎は無数の会社と合併し、おそらくその1つが台湾製氷だったのでしょう。

 夏など單衣を着て、鞭々たる腹を突き出し、恰度、上野公園の西郷隆盛の銅像そつくりといふ恰好をして店頭に立ち、多くの店員を指揮して、『いらつしやいまし』『ありがたうございます』と一々客に言葉を掛けてゐる光景は、神樂坂で尾澤が名物であつた如く、この光景もまた名物たるを失はなかつた。この何事にも拘泥せすに熱心に努力する態度が大勢の店員に輿へた無言の敎訓は偉大なるものであつた。
単衣 ひとえ。一重に仕立てられた衣服の総称。6月や9月の、季節の変わり目によく着る。
鞭々たる 正しくは「便々べんべん」。腹部の肥満した様子。太鼓腹をしている
拘泥 こうでい。あることを必要以上に気にしてそれにとらわれること

ミスターダンディー(写真)文章と仏閣神社 昭和49年

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。

 飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。
 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。
 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。
 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。
 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。
 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。
 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。
 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。
左側が商家 江戸時代は左側も武家屋敷でした。
文人墨客 ぶんじんぼっかく。ぶんじんぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに、「墨客」は書画に親しむ人。

 江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。
 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。
 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。
 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。
 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。
 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。
 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。
 伝説によると、正雪の道場済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。
 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。
 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。
 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。
管領 かんれい。室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
八幡宮 八幡神を祀る神社。9世紀ごろ、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立し、王城鎮護、勇武の神、武人の守護神などになった。武士を中心に弓矢の神として尊崇された。
康申塔 こうしんとう。庚申塚に建てる石塔。村境などに、青面金剛しょうめんこんごう童子、つまり病魔、病鬼を除く神を祭ってある塚。庚申の本尊を青面金剛童子とし、三匹猿はその侍者だとする説が行き渡っている。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。慶安事件の首謀者。1651年徳川家光の死に際し,幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企てたが、内通で事前に発覚。正雪は自刃した。生年は慶長10年(1605年)、没年は慶安4年7月26日(1651年9月10日)。
時代のずれ 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の一部では
34、珍らしい庚申塔
(略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略)

由比正雪 実際は位置不明です。正雪の記載があるのは、新宿区矢来町1-9にある正雪地蔵尊だけですが、正雪との関係を示す史料はありません。
済松寺 新宿区榎町77番地。
東榎町、天神町 ひがしえのきちょう。てんじんちょう。済松寺、東榎町、天神町について図を参照。

全国地価マップ

  • 赤城神社。「赤城神社再生プロジェクト」で新たに本堂などを建て、2010年、終了するので、この写真は昔のものです。

赤城神社(今)

「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。

 現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、あおい神社です。

三社

  • 神楽坂若宮八幡神社。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。1949年に拝殿、1950年5月に社務所を再度建築。その後、敷地の西側に新社殿を建て、残った部分をマンションにしました。マンションの竣工は1999年です。

若宮八幡神社

現在の若宮八幡神社

  • 善国寺。昭和46年に本堂を建てています。したがって、現在と同じ寺院でした。

 庚申塔もあります。

若宮公園

文学と神楽坂

 若宮公園について「牛込神楽坂若宮町小史」によると

 平成6年4月、若宮町自治会及び住民の念願であった区立若宮公園(若宮町21番地)が完成し、平成7年建設省より『手作り郷土賞』を受けました。地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽が敷設され、公園は江戸時代の武家屋敷の趣きを残しています。外濠通りから坂を登ると広い空間が開け、石の階段や東屋が目に入ります。

と書いてあります。

 場所は若宮町ですが、なぜかすぐそばのアグネスホテルは神楽坂2丁目です。
 まず北門です。ちょうどアグネスホテルの対面に位置します。北門の右側に小さく標柱が立ち「若宮公園」と書かれています。3月なので、満開の桜も。非常に大きな公園ですが、税金を払えなかったため物納したのでしょうか。

若宮公園

 北東門は「新宿区立若宮公園」と「手づくり郷土賞」が麗々しく飾っています。

北東門

新宿区立若宮公園

江戸時代の通称「振り袖火事」(1657年)以降、雑木林や草原であった牛込地区に武家が移り住み、武家屋敷中心の街が形成されました、したがってこの公園は江戸時代の牛込を思い起こさせる武家屋敷をイメージした和風公園として整備しました。

After a disaster commonly called “Long-sleeved kimono Fire” which took place in 1657 in the Edo period, the samurai class has moved to ushigome area covered with thickets and the grass, and formed a residential quarter where most of the residences were the samurai class.
Based on this fact, this park was made as a Japanese garden with an open space which is modeled the residential area of the samurai class that reminds you of Ushigome area in the Edo period.


手づくり

手 づ く り 郷 土(ふるさと)
建設大臣 野坂浩賢 書
歴史・文化 部門
東京都 新宿区
平成七年七月
寄贈 (社)関東建設弘済会

 さらにもうひとつ、東門があります。

東門

 地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽があるとのこと。
 公園は巨大で、東屋や絵入り腰掛け、巨大な岩のベンチ、中央に一本の桜などがささやかに四方に置いてあります。あとはただただ巨大な空き地です。

東屋2
石のベンチ
桜

若宮八幡神社 庾嶺坂 新坂