文学と神楽坂
路面電車の飯田橋駅は第3系統、第13系統、第15系統が走っていました。第3系統は「外濠線」とも呼ばれ、品川駅前から飯田橋駅までを走行しました。ここでは第3系統の飯田橋駅を3つ見てみます。昭和27年、昭和40年、昭和42年です。
(1)昭和27年
林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)
ここは飯田橋交差点、五差路で車の往来しげく、真ん中にロータリーを置く。品川駅と飯田橋とを結ぶ③番の折り返し点である。右側は水道局の神楽河岸出張所、その前に薬の広告のある小さな塔は、高圧線の変圧器でそばを通ると「ブーン」とうなっていた。電車には英語で、「停車中追越時速8粁以下」の注意書きがある。 |
この当時の飯田橋交差点はロータリー式でした。ロータリーとは「交通整理のための円形地帯」(大辞林)で、ゼブラ柄の模様で囲まれています。写真では複数の円形地帯が見えます。昭和22年の航空写真だと、ロータリーが2つ重なったような構造が分かります。
円形地帯を貫いているのは、おそらく路面電車の軌道です。手間のかかる軌道移設工事まではしなかったのでしょう。飯田橋交差点は昭和28年に普通の五差路になりました。
このロータリーの1つには大きな看板で「◯◯立入るな」か、あるいは「◯◯来る」と縦書きで書かれています。
地図院地図 昭和22年12月20日(USA-M698-99)
写真に戻ると、路面電車の運転手がしゃがんでタバコを吸い、前には横断歩道があります。停留所はロータリーと同様なゼブラ柄で安全地帯になっていて、「KEEP LEFT/左側通行」と書かれています。英文が大きく書かれたのは占領下の名残でしょう。安全地帯からは四本足の柱が立ち上がり、上部には行灯のような時計が設置してあります。
700形の路面電車の方向幕は「品川駅」とあり、乗客が数人、電車内で出発を待っています。車両の側面には「クラブ/◯◯」などの広告があります。
右端に見えるのは東京都水道局の事務所で、飯田壕再開発の直前まで使われていました。建物の前の歩道には「小児せき」という薬の広告があります。
(2)昭和40年
諸河久「路面電車がみつめた50年」(天夢人、2023)
飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える。(1965年9月12日撮影) |
水運で栄えた神楽河岸(かぐらがし)の街並み 上のカットは飯田橋交差点の南西側から外濠通りを撮影したーコマで、飯田橋停留所で品川駅前への折り返しを待つ3系統の都電にカメラを向けた。3系統は700型の独壇場だったが、1965年秋頃から旧杉並線用の2000型に置換えられていった。 画面右側の「クララ劇場」や左方向の牛込見付にある「佳作座」が「特選洋画を大衆料金で」のフレーズによる100円均一映画館として、近隣の法政大学、理科大学の学生に親しまれていた。撮影時にはホラー映画「妖女ゴーゴン」(イギリス映画/1965年7月公開)が上映中たった。 |
これは右から見ていきます。
- クララ劇場 特選洋画を大衆料金で 100円均一
- 消火栓 セントラルホテル
- 電柱広告「外科」
- 路面電車「品川駅」➂ 三菱◯◯◯ 2017 乗降者優先
- 吉 ◯◯家具十ヶ(丸吉家具洋装店)
- (松本)自動車株式会社
- 遠くの垣根の上に「升本総本店」
- 銀嶺会館(5階建て)
住宅地図。1962年。
【参考】第15系統の車体の色。これも2000形です。
当時の第15系統。J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年
(3)昭和42年
三好好三「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)
飯田橋交差点 外堀通りを赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附と走ってきた3系統の終点で、前方の目白通りを行く路線への線路が切られていた。右が飯田橋駅、左が神楽坂方面だが、外堀通りは比較的閑静で、都電の利用客も少なかった。この地点は現在ビルが林立し、オフィス街になっている。◎昭和42年12月7日 撮影:荻原二郎 |
中央から左下に行くのが第3系統 吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)
東京都交通局の東京都電アーカイブ③(3系統 品川駅前~飯田橋)と比較しながら見ていきます。
- 道路標識(指定方向外進行禁止)
- 小学館の百科(事典)
- 電柱に「飯田橋」(交差点名標示か)
- 路面電車の停留所で駅名標「飯田橋」広告「日本電子計算学院」上部に時計
- 東海銀行
- 酒は黄桜 きざくら 三平酒造 カッパの絵
- パーマレヂィー
- 路面電車 品川駅 ➂ 週刊文春 2015 乗降者優先
- 稲葉工業(建築中のビル)
- 田中土建(建築中のビル)
- ゼブラ柄の信号機