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天文台の発祥地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 19.天文台の発祥地」についてです。

天文台の発祥地
      (袋町16)
 光照寺の西隣は、江戸時代に天文屋敷(天文台)があった所である。
 明和元年(1764)11月19日、御徒組頭の佐々木文次郎が天文術に長じていたので、幕府から召し出され、ここに天文屋敷を建てて天体を観測したのである。ここは、牛込台地の最高所だったからであろう。
 しかし、その子の吉田靱負(ゆきえ)の時、この地は西南の遠望がきかないからというので、天明2年(1782)7月、今の浅草鳥越町へ移転した。
〔参考〕 御府内備考

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁

地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁。

佐々木文次郎 明和元年に幕府天文方。同6年(1769)、宝暦13年の日食予報に失敗した「宝暦甲戌暦」を改訂し、12月、幕府に修正宝暦甲戌暦法10冊、同解義2冊、暦法新書読録2冊を進呈。安永8年(1779)御書物奉行を兼任。同9年、吉田四郎三郎と改名。生年は元禄16年(1703)。没年は天明7年(1787)9月16日。85歳。
吉田靱負 吉田四郎三郎の子。安永8年に幕府天文方。同2年5月、付近の樹木が邪魔になり、換地を願い、10月、浅草片町裏通の明地に移転。没年は享和2年(1802)。幕府天文方は吉田・渋川両家が世襲で勤めていた。
浅草鳥越町へ移転 現在の台東区浅草橋3丁目に移転。この天文台は天明2年に業務を開始、明治2年に業務を停止。

浅草鳥越堀田原図

 江戸時代後期の宝暦13年(1763)、使っているほうりゃくれきに日蝕が無く、不備がわかり、そこで幕府は明和元年(1764)11月、佐々木もんろう天文方てんもんがたに任命します。翌2年6月、光照寺門前の火除明地に「新暦調御用屋敷」(天文屋敷)が起工、8月、築造が終わり_、天測を開始。そして、明和6年(1769)に「修正宝暦甲戌暦」が完成し、幕府に修正宝暦甲戌暦法10冊、同解義2冊、同暦法新書続録2冊を進呈。明和7年12月27日(西暦1771年2月11日)に使用を開始。
 その間の事情は、東京市編「東京市史稿 市街篇第27」(昭和11年)に「新暦調所」(コマ番号131〜)に細かく描かれています。

新暦調所 幕府ノ天文台ハ、初牛込藁店ニ設ケ、延享中神田佐久町ニ移シ、後之ヲ廃スルコト、既ニ之ラ記ス。是ニ至テ再ヒ之ヲ牛込藁店ニ置キ、新暦調ヲ開始ス。前々年暦面日蝕ヲ載セサル如キコト有リ。之ヲ改訂セムトスル也。
 図 略
   牛込藁店 新暦調御用屋 坪数 干拾五坪。
     東北 明地。    西南 山田茂平(南角 新道)掛帋。
     東南 牛込藁店通り。西北 明地。
    東北 弍十間。   西南 弍十壹間三尺。
    東南 五十間弍尺。 西北 四十七間三尺。
 此度牛込藁店明地之內二而、新暦調御用屋鋪地面被御渡、四方間數坪數,右御繪図之面、御定杭之通、相違無御座請取申候。為後日仍如件。
  明和二乙酉年七月三日   御作事方御徒假役
                 浜田三次郎 印
此時ノ新暦修補ハ、浪人佐々木文治郎ヲ徴用シテ之ヲ主任セシメシ者ノ如ク、相傅へテ左ノ如ク見ユ。
 十九日 ◯明和元年 十一月◯中略
 御右筆部屋緣頰
   天文方被 仰付 並之通 武百俵被下置           浪 人    佐々木文次郎
右之通被仰付候旨、老中列座、同人 ◯松平 躍高。渡之
——明和元錄
多賀外記組御徒     
佐々木文次郎    
後改吉田四郎三郎
寬延三庚午年二月二日渋川六蔵西川忠次郎在京中、只今迄之通自宅ゟ測量所江通ひ候而、忠次郎忰西川要人曆作手手伝手勤候様被仰渡、宝曆二壬申年八月十五日向後御用も無之候間、測量所江罷出候二不及旨被仰渡、明和元甲甲年十一月十九日被召出、天文被仰付、新規御切米弐百俵被下置旨、於御右筆部屋緣頬御老中御列座、松平右京大夫殿被仰渡同 ◯明 和。 二乙酉年二月廿二日補曆御用二付京都江御暇被下、拝領物被仰付旨、於躑躅之間被仰渡、白銀拾枚時服弍頂戴仕、同年 ◯明和二年。 三月御当地出立、上京仕、御用向相済、同年 ◯明和二年。 五月帰府仕、同月 ◯明和二年五月。十五日帰府御目見被仰付、同年 ◯明和二年 六月廿八日牛込光照寺鬥前火除地江新暦御用所御取建被仰付、同年 ◯明和二年 七月朔日新暦調御用相勤候內、御役扶持七人扶持被下置,手附手伝五人下役四人被仰渡、同年 ◯明和二年 八月御普請出来、右御用相勤、明和六已丑年暦法修正成就二付、修正宝暦甲戌元暦法全部拾卷壱帙、同解儀弍卷壱帙、同曆法新書続錄弍卷壱帙、各都而拾四卷三帙、同年 ◯明和七年。 十二月廿七日差上候、同 ◯明和。 七庚寅年四月今般新暦調御用相勤候二付、拝領物被仰付旨被仰渡、金三枚頂戴仕,右新暦御用相済候得共、引続測量御用相勤可申旨被仰渡
天文方代々記

 伏見弘氏の「牛込改代町とその周辺」(非売品、平成16年)182頁では……

 牛込中御徒町に居住したかち佐々木文次郎(のち吉田四郎三郎秀長と改名、御書物奉行)は天文の術に優れ、天文方となり、司天台(天文屋敷)を創設したとある。ともかく、天明2年(1782)7月に浅草鳥越に移転するまでの18年間、牛込司天台があったことが洒落た素材となった訳である。

 佐々木文次郎は初めは浪人であり、その後、多賀外記組の御徒となっています。伏見氏の「牛込中御徒町に居住した」はおそらく「定住した」ではなかったのでしょう。

 さて、この「修正宝暦暦」も出来が良いとは言えず、別の改暦の機運が高まりました。そこで、幕府は天文学者の高橋至時を登用し、寛政10年(1798)寛政暦が作成されました。

 これから日本の暦について考えてみます。江戸期以前は中国のせんみょう暦を使ってきました。平安時代前期のじょうがん4年(西暦862年)からの暦で、日蝕や月蝕などの動きが合わないことが問題でした。使用年数は823年と長かったのです。
 江戸時代の改暦は4回ありました。
(1)じょうきょう暦は貞享2年(1685)、五代将軍徳川綱吉の時代で、日本人である渋川春海が初めて「大和暦」を考案し、初代天文方に任命。使用年数は70年。
(2)次のほうりゃくれきは宝れき5年(1755)、八代将軍徳川吉宗の時代に使い、西洋天文学の知識を取り入れた暦で「宝暦こうじゅつ元暦」と名づけました。しかし、宝暦13年9月の日蝕予報に失敗し、第十代徳川家治は、明和元年(1764)佐々木ぶんろうに補暦御用を命じ、明和8年(1771)「修正宝暦暦」と改暦。しかし、貞享暦の暦元の値を少し変えただけの新味のない暦法でした。なお、天明2年(1782)に天文方の施設は浅草鳥越町に移転しています。
(3)次の寛政かんせい暦は寛政10年(1798)、中国に渡っていた西洋暦を研究したもので、ケプラーの楕円軌道論などが入っています。第11代将軍の徳川家斉の時代で、使用年数は46年でした。
(4)最後の天保てんぽう暦は高橋至時がフランス人ラランド著『Astronomie』の蘭訳書を完訳し、天文方がその研究を継続します。天保15年1月1日(1844年2月18日)に寛政暦から天保暦に変わりました。第12代将軍の時です。
 その間、1867年(慶応3年)15代将軍は江戸時代最後の将軍であり、慶応4年/明治元年(1868年)に明治維新、明治5年(1872)に太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦があり、現在まで続いています。

外濠線にそって|野口冨士男①

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。氏は65歳でした。ここでは神楽坂と周辺に関する前半の1部分を読もうと思います。

     外濠線にそって

 せめてもう三、四年早く生まれていたかったとおもうことがしばしばある。
 大正12年9月1日の関東大震災のとき私は小学校の六年生であったが、中学の三、四年生になっていたら、もっと震災前の束京のあちらこちらを見ていただろうとくやまれてならない。
 本書では、明治以後の文学作品と私の記憶のなかにある過去の東京の姿に、可能なかぎり現状の一端などを織りまぜていってみたいとおもうのだが、ひとくちに東京といっても、あまり広大すぎてとらえようがない。げんに今から二十年ほど以前に出版した自作のなかでも、私はのべている。

東京ほど広い都会もないが、東京の人間ほど東京を知らぬ者もすくないのではなかろうか。ぼくらが知っているような気になっている東京とは東京のきわめて一小部分の、そのまたほんの一小部分にしか過ぎない。たまたまぼくらはなんらかの機会をあたえられて幾つかの町を知る。そして、その知っているだけの町を幾つかつなぎ合わせたものが、ぼくらの頭のなかで一つの東京になっている。ぼくの知らない町を知っていて、ぽくの知っている町を知らない人の頭のなかにある東京と、ぼくの頭のなかにある東京は一つの東京ではない。

 ことに私は山ノ手生まれの山ノ手そだちで、浅草の観音さま花屋敷両国の川開き洲崎沖の投網などにも親に連れていかれたことはあっても、ひとり歩きをしたのはほぼ山ノ手につきている。ただ、私は神楽坂に住んで芝の小学校へかよっていたから、自分と同年の少年たちにくらべれぱ、なにほどか広い東京を知っていたといえるだろう。
 大正七年に私が入学した小学校は慶応義塾の幼稚舎で、現在では天現寺に移っている幼稚舎はまだ三田の大学の山の下にあったために、飯田橋から市ケ谷、四谷、赤坂、虎ノ門を経て札の辻に至る系統の市電――のちに都電三号線となった外濠線を毎日往復していた。しかも牛込から芝までといえば、旧十五区時代のせまい東京市の南北縦断の全長にちかい距離であった。
 まずその沿線を軸として、気ままに道草を食いながら書きはじめていってみることにしよう。

*

 飯田橋から芝の方角にむかう市電の外濠線には、二系統あった。一つは私が乗った札の辻行で、他の一つは芝口行であったが、前者は虎ノ門から右折して三田の方面にむかって、後者は新橋駅方向へ真直ぐ走った。が、芝口という地名も、こんにちではわからなくなってしまっているらしい。二、三年前に、私は芝口をある雑誌で「芝国」と二ヵ所も誤植された。東海道五十三次の起点日本橋から第一宿の品川へむかうとき、そこで芝へさしかかるから芝口だったわけで、いま高速道路の下に形だけのこっている新橋芝口橋ともよばれていた。

 引用の元は分かりませんでした。国立図書館などで調べなくては解らないのでしょう。これ以外の注釈は以下に書きました。
外濠線

昭和7年の外濠線

外濠線 「そとぼりせん」と読みます。最終的には外濠線は都電三号線と同じで、都電の「品川駅前」から「飯田橋」を結ぶ路線でした。しかし昔の外濠線では違う地域を指している場合もあります。
山ノ手 区部西半の地域。武蔵野台地東端で下町に対する俗称。本来は山手線の内側の住宅街を形成する地域
浅草の観音さま 浅草寺。台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺。聖観音宗の総本山。山号は金龍山
花屋敷 台東区浅草二丁目にある遊園地
両国の川開き 川開きとは夏に水辺で行う納涼祭のこと。両国では屋形船や伝馬船が川を埋め、両岸には人垣ができてはなやかに花火が打上げられていました。現在では「隅田川花火大会」のこと
洲崎 江東区木場東隣一帯の通称。元禄年間(1688~1704)埋め立てでできました。
投網 円錐形の袋状の網のすそにおもりを付け、魚のいる水面に投げて引き上げる漁法
芝の小学校 芝区(現在の港区)の慶應義塾幼稚舎です
天現寺 渋谷区恵比寿。慶應義塾幼稚舎の西には都立広尾病院があります。
札の辻 ふだのつじ。港区芝5丁目で田町駅西口の地区。札の辻とは、江戸幕府が法令などを公示する高札を立てた道のこと。この制度は明治6年に廃止。札の辻の市電系統図では下部に書いています。
二系統 外濠線が都電三号線と同じ場合は、外濠線は1系統しかありません。ところが、この路線はそれよりも以前にかかっていたものなのです。実際に昭和7年の東京市電では「飯田橋」から出て、「札の辻」に行く路線と、「三原橋」に行く路線がありました。
芝口 しばぐち。交差点「新橋」のこと。上の市電系統図では右方に。下図では外堀通り、昭和通り、中央通り、第一京浜が1つに交わる場所。

新橋

新橋

虎ノ門 三田 新橋駅 以上は上の市電系統図で。
新橋 新橋は銀座通り南端の汐留川にかかる新橋8丁目の橋。新しい橋だから「新橋」
芝口橋 しばぐちばし。江戸時代は「新橋」を「芝口橋」と呼びました。