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牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

牛込柳町(写真)昭和51年 ID 441

文学と神楽坂

全く場所はわかりませんでした。これは地元の方からです。

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441は、昭和51年(1976)6月、牛込柳町(市谷柳町)交差点付近の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441市谷柳町、箪笥町方向

 写真説明では「市谷柳町、箪笥町方向」とあり、交差点から東側の大久保通りの坂(焼餅坂)の上がりはじめであるようです。しかし当時の住宅地図と写っている店名が一致しません。
 一方、反対の西側の坂(若松町方向)の住宅地図には写真の店名があるので、説明の向きを間違えたものでしょう。

住宅地図。2013年7月牛込柳町付近(google)

住宅地図。1978年 牛込柳町付近

 街灯は2種類あるようです。1つ目は円盤形の大型蛍光灯で、首のところで大きく曲がり、その中に無名の名札らしきものがついています。2番目は高い電柱についた道路照明灯です。
 写真左側の白くて高いビルはマンション「シャトレブーケ」(1972年01月築)で、現在もあります。
 また写真中央の「カワ◯◯◯◯」は地図では「カワカミくつ店」で、2013年のストリートビューでは店名が確認できます。
 柳町交差点の地名は「市谷柳町」ですが、「牛込柳町」として親しまれてきました。かつての都電の停留所や、現在の都営地下鉄江大江戸線の駅名も「牛込柳町」です。
 空気が流れにくいスリバチ地形が原因の「排気ガス禍」で昭和45年、全国的に有名になりました。

 この写真は排ガス問題より少し後です。子どもの立つ左側の交通標識は読めませんが、おそらく交差点内に車が止まらないよう促す「ゴー・ストップ規制」でしょう。

牛込柳町(昭和51年)
  1. オリエント ROYAL CHALLENGER(洋服店)
  2. 鈴木商店 鈴木金物店
  3. カワ◯◯◯店(カワカミ靴店)DC
  4. 質 松永 松永◯◯ 松永質店
  5. 電柱。加藤産婦人科。笹川時計◯◯店
  6. 金子◯◯製作所 数軒おいて
  7. 白いマンション(シャトレブーケ)

ほかの坂

文学と神楽坂

神楽坂上の地図神楽坂周辺の地図

東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

焼餅坂

文学と神楽坂

 焼餅坂やきもちざかは新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です。場所はここ

 焼餅坂について区の標柱はなく、代わりに巨大な道標があります。ちょうど坂上にあがる直前です。大久保通りは都道(都道25号飯田橋石神井新座線)なので、区ではなく都が作ったものでしょう。そこにはあまりよく読めない説明も書いてあります。

焼餅坂の標識 この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また、「続江戸砂子」 「御付内備考」にも、 焼餅坂の名が述べられている。

 石川悌二氏が書いた『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年、1971年)によれば

焼餅坂(やきもちざか)

赤根坂ともいう。市谷山伏町と市谷甲良町の境、旧都電通りを東から西へ下る。「続江戸砂子」に「やき餅坂 本名赤根坂、此所にやき餅をひさぐ店あり」と記し、「府内備考」の町書上には「一坂 高凡四十間、巾四間程、右坂の儀は町内北の方往還にこれあり、焼餅坂と相唱候へ共、何故焼餅坂と申候哉、申伝等御座なく候」とある。坂辺に焼餅を売っていたのはよほどむかしのことらしい。明治時代中期における市区改正で、坂の道幅をひろげ傾斜をゆるくしたので現今のような道になったが、近年、都電が撤廃されて自動車の交通量が激増したために、坂下の柳町は排気ガス公害の多発地域として注目を集めるに至った。


旧都電通り 現在、名前は大久保通りに変わりました。
排気ガス公害の多発地域 牛込柳町鉛害事件のこと。昭和45年5月、民間の医療団体が新宿区牛込柳町の交差点付近の住民について健康診断を行い、多くが鉛中毒にかかっている疑いがあり、その鉛は排ガスに由来していると発表しました。その後、都の調査で、ほとんど心配はいらないと判明し、しかし、ここから、ガソリンの無鉛化、鉛の環境基準、大気汚染防止法の常時鉛排出の規制、自動車排出ガスの鉛の許容限度を設定。

柳町の交差点

かつてあった交差点上の信号機

 また住宅地の中のそれほど広くない道路(大久保通りと外苑東通り)の交差点で、排気ガスが溜まりやすく、そのため信号機を大久保通りの南北の坂上に1台ずつ新たに配置。ウィキペディアでは「市谷柳町交差点へ向かう手前数百メートル離れた場所に信号機が設置された。これは大気汚染を防ぐため、市谷柳町交差点で停止する自動車などを減らすために設置された、まれな信号機」で、近くに横断歩道はなく、信号機しかなかった。しかし、2015年9月、この信号機は廃止、翌月撤去。外苑東通りの拡張予定と、柳町交差点も大きくする予定があり、これに関係する可能性も。

 昭和51(1976)年の新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」では

 市谷甲良町との境で、市谷柳町交差点に下る坂を俗に焼餅(やきもち)といった。焼きもちを売る店があったからである。「江戸砂子」には、もと赤根坂といったとある。赤根とはのことで、染料植物である。これを裁培していたので名づいたという。田山花袋は、その近くの市谷甲良町に住んでいたので、その作品「東京の三十年」の中には、このあたりのようすが出ている。

 あかね。アカネ科のつる性多年生植物で、根は乾燥すると赤黄色から橙色となり、赤い根なのでアカネに。根を煮た汁にアリザリンがあり、これで古くから草木染め(茜染)を行っています。その色は茜色に。
東京の三十年 田山花袋の大正6年の作品。詳しくはここで。実はやきもち阪と麹坂についてあっさり書いているだけです。

 歴史・文化のまちづくり研究会編『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)ではさらに細かく説明しています。

焼餅坂(やきもちざか、赤根坂)
(1)所在地
 この坂の形は少し変わっており、大ざっぱには「大久保通り」を柳町から、山伏町と甲良町の間を東に上がる。
 坂下は「大久保通り」と「外苑東通り」の交差点から「外苑東通り」を北へ数十歩のところにある。
 そこから「大久保通り」に向かい東に少し上がったところが坂上である。
(2)特徴
 坂上から、坂下の途中までは広い幅員の道路で、両側にはゆったりと歩ける歩道が設けられている。
 一般的には、「大久保通り」をそのまま素直に下りきって「外苑東通り」にぶっかるところが坂下になるのだろうが、どういう訳か途中から狭くて暗い路地のようなところを行かなければならない。
 なぜこのような形になってしまったのだろう?道路の拡幅などと関連があるのだろうか?
 昔は、もっと急な坂だったようで、明治の市区改正で坂の道幅を拡げ、傾斜を緩くしたそうだ。とはいえ、自転車を押しながら坂を上る人を見るにつけ、あなどれないぞと思ってしまう。
 大通りの歩道には、緑豊かな街路樹、特に坂の北側の歩道には石垣もあり、なんとなく由緒ある坂に思えてくるのが不思議である。また車が多いにもかかわらず心地よい坂である。
(3)由来
「続江戸砂子」には、「やき餅坂 本名赤根坂 此所にやき餅をひさぐ店あり。」と記されていることから、「焼き餅」が名前の由来らしい。
「府内備考」の町書上にも焼餅坂の名称は出てくるが、そのなかで名前の由来については「…申伝等御座なく候」とあり、焼き餅屋さんがあったのは、かなり昔に遡るらしい。
 坂に名前がつくほど評判の店だったのか、辺りには何もなく焼き餅屋さんが、ランドマークの役割を果たしていたのかは定かではないが、当時の庶民の間では、よく知られていたのだろう。
(4)周辺の状況
 坂上にある「大蔵省柳町寮」の建物のデザインが、歴史を感じさせる。坂を少し下ると、擬洋風(明治や大正の時代に、西洋館のモチーフを模倣して建てられた建築を「擬洋風建築」と呼んでいる。)の建物が見えてくる。「新・浪漫亭」という居酒屋である。
 坂を挟んで両側にはマンションが立ち並んでいるが、そのなかにあってユニークな建物が、違和感なく町並みにとけ込んでいるところが実に良い。
【街路樹かオブジェか】歩道の街路樹は珍しい樹種で、案内板には「ウバメガシ」とあるが、緑の量に驚いてしまう。低木の茂みの間から、こんもりした高木が突き出るようにして、巨大な緑の固まりが一定間隔に配置されている。いっそのこと、ウサギや犬の形に剪定して、オブジェにしたらもっと楽しくなるのに。
 しかし、この街路樹が、夏には涼しい木陰を提供してくれる。

暗い路地 明治20年の東京実測図で以前の柳町の地図と、赤で描いた現在の柳町の地図を出しました。現在の柳町の交差点は新道なのです。暗い路地のほうが旧道でした。市電(都電)の「柳町」ができるときに新道になりました。 0321 では昭和5年の『牛込区全図』を見てください。市電(都電)が走っている新道(青)があり、その北に昔ながらの旧道(赤)があります。 0335-2
大蔵省柳町寮 大蔵省印刷局柳町寮。2005年秋ごろに取り壊され、一時は駐車場に。現在は建築中。
新浪漫亭 大正14年、第一信用金庫本店として建設したもの。居酒屋「新浪漫亭」から、「かがり火」(下図)。現在は「セブンイレブン」とマンションに。
かがり火

『粋なまち 神楽坂の遺伝子』では

かがり火
 空襲を免れ、戦後は「柳町病院」として使用され、平成元(1989)年に飲食店に用途が変わった。店舗の入れ替わりはあるものの、80年以上にわたり商業施設として活用され続けているという、近傍では貴重な近代建築のひとつである。
 大久保通りと外苑東通りの交差点に近い斜面地に、南側短辺方向をファサードとして建つ。木造2階建て、一部地階である。1階は標記のレストランおよび同系列の菓子店が店舗と厨房を据え、2階は事務室・パントリー・店員控室等として利用されている。屋根は寄棟板金瓦棒葺きであるが、南・東・西面はパラペットを回し陸屋根様の意匠とする。特異なそのファサードには、房付きレリーフのある唐破風様のペディメントを頂点に、3本の半円形ピラスターが並ぶ。分割された壁面に縦長の窓が付く。非対称の塔部が内側に取り付き、5個のメダリヨンと花弁をあしらったレリーフが配される。窓の一部には、当初と思われる上げ下げ窓がそのまま残る。古典的な様式を大胆かつ自由に引用しながら、金融機関の旗艦店としての威厳と、大正ロマンを感じさせる美しさを醸し出した個性的な作品といえよう。
 室内は、水廻りや厨房に関連して大きく改装されているが、2階大食堂の型押しされた塗装鉄板天井や卵鏃飾りが彫り出された木製廻縁、数段に面取りがされた幅広の窓枠等、擬洋風の意匠が散見される。また2階事務室の天井は折り上げ格天井に竿縁網代張り合板を組み入れたユニークな造りとなっている。
 最初に飲食店に模様替えされた時に内外部ともに改変が加えられているが、外観の改修は西側のサイディング部が中心であり、文化財としての価値を減ずるものではないといえる。
 かがり火は、設計者は不詳ながら大正末明の自由な建築思潮を体現した貴重な遺構であるとともに、一貫して活用され続けてきた地域のランドマーク的な建築物のひとつということができる」

ファサード 建築物の正面
菓子店 Füssenです
パントリー 食料品や食器類を収納・貯蔵する小室。pantry
寄棟 よせむね。屋根の形式。四つの面から構成
板金 ばんこん。薄くのばした金属の板
瓦棒葺き かわらぼうぶき。金属板を用いて屋根を葺くときの1方法
パラペット 建物の屋上や吹抜廊下などの端の部分に立ち上げられた小壁や手摺壁
陸屋根 ろくやね。フラットな屋根
レリーフ 浮き彫り
唐破風 からはふ。曲線状の破風で、中央部は弓形で,左右両端が反りかえった形
ペディメント 切り妻屋根で、妻側屋根下部と水平材に囲まれた三角形の部分
ピラスター 壁面より浮き出した装飾用の柱
メダリヨン メダリオンとも。肖像や紋章、銘文などで浮き彫りがある大型のメダル
卵鏃飾り らんぞくかざり。卵とやじりを交互に連続させた模様
廻縁 まわりぶち。壁と天井の取り合い部に用いられる見切部材
擬洋風 明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたもの
竿縁 さおぶち。天井板を竿と称する部材で押さえて天井を張るやり方
網代張り あじろばり。縁を反り返らせた赤塗りの陣笠を張ること
サイディング 建物の外壁に使用する,耐水・耐天候性に富む板。下見板
ランドマーク 山や高層建築物など,ある特定地域の景観を特徴づける目印

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06|蟻の京詣り

文学と神楽坂

蟻の京詣り

私が早稲田の大学に学んでいた頃、また卒業してからでも、それは明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門縁日になると、あすこの入口に特に大きな赤い(ふたはり)提灯ちょうちんが掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛かったのを覚えているが、外でもそうであるように、時勢と共にいつとはなしにその影をひそめてしまった。又、植木屋の多いことが、その頃の神楽坂の縁日の特色の一つで、坂の上から下までずっと両側一面に、各種の草花屋や盆栽屋が所狭く並び、植込の庭木を売る店などは、いつも外濠の電車通りの両側にまではみ出し、時とすると、向側の警察の前や濠端の土手際にまで出ていたものだった。そしていろ/\な草花や盆栽の鉢を、大切そうに小脇に抱えたり高く肩の上に捧げたり、又は大きな庭木を提げたりかついだりした人々が、例の芸者や雛妓すうぎやかみさんや奥さんや学生や紳士や、さま/″\の種類階級の人々のぞろ/\渦を巻いた、神楽坂独特の華やかに艶めいた雑踏ざっとうの中を掻き分けながら歩いていた光景は、今もなお眼に見えるような気がする。それもつい五、六年前、震災の前あたりまで残っていたように思うが、今はそうした特殊の縁日的の気分や光景はほとんど見られなくなった。定夜店が栄えるに従って、植木屋の方が次第にさびれて行ったらしい。

電話局

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
のぞきからくり のぞきからくりは、江戸期に発祥した伝統的な見世物芸能のひとつ。最初は数個ののぞき穴からからくりや浮絵をのぞく簡素なもの。それが明治・大正には20個もの覗き穴に細かい押し絵をほどこした豪勢なものも。各地の縁日の盛り場、社寺の境内によくあったが、活動写真の流行とともに衰退。
草花屋 現在は花屋です
電車通り 当時、電車は市電(都電)を指し、JR(国鉄)ではありません。「外堀(そとぼり)通り」のこと。
雛妓 すうぎ。まだ一人前にならぬ芸妓。半玉(はんぎよく)御酌(おしゃく)とも
定夜店 決まった場所にでる夜店

その代り近頃毘沙門の境内に、夜昼なしの常設植木屋が出来て、どこへでも迅速に配達植込までしてくれるという便利調法なことになっているので、毎日中々繁昌しているのも面白い。つい一、二年前からはじめられたことだが、毘沙門様御自身の経営か、或は地代を取って境内を貸しているのか、兎も角震災に潰れた何とか堂の跡の空地を利用してのこの新しい商売は、毘沙門様にとっては、あたかも前庭の植込同様、春夏秋冬緑葉青々たる一小樹林を繁らして、一方境内の風致を添えながら兼ねて金儲けになるという一挙両得の名案、毘沙門様もさて/\抜け目なく考えたものかな、その頭脳のよさに流石さすがは御ほとけなればこそと自然とこちらの頭も下る次第で、市内至る処の大小神社仏閣の諸神諸仏も、よろしく範をわが神楽坂毘沙門様に取っては如何いかにと、ちょっとすゝめても見たいところである。
 私はそんな今昔談を友達にしながら、電車待つ間のもどかしさに、むしろ徒歩にかずとそのまま焼餅坂を上り、市ヶ谷小学校の前からぶら/\と電車通りを歩いていたのだが、いつかあの白い海鼠餅なまこもちを組立てたような、牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ、気がつくともう肴町の停留場のそばへ来ていた。
「いよう! なるほどこりゃ大した人出だね」

調法 ちょうほう。重宝とも。便利で役に立つこと。便利なものとして常に使うこと。貴重なものとして大切にすること。
如かず 及ばない。かなわない
焼餅坂 昭和56年の「新宿区史跡地図」には焼餅坂ははっきりこの右図だと描いてます。残念ながらこの絵は間違いです。焼餅坂はここで書いている新道ではなく、正確には旧道が焼餅坂になります。でも、新道を焼餅坂だとしてももういいでしょう。旧道と新道はここに昭和56年「新宿区史跡地図」
市ヶ谷小学校 市谷山伏町9番地と10番地にありました。現在と変わらない場所でした
海鼠餅 つきたての餅をのさないでナマコのような半楕円形の形に成型してある餅。
豆なまこ餅
電話局 正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。
NTT牛込

友達は思わず角の交番の所に立ちどまって、左右を見廻しながら大袈裟に叫んだ。見ると今丁度人の出潮時らしい、電車線路をはさんで明るく灯にはえた一筋路を、一方は寺町の方から、一方は神楽坂本通りの方から、上下相うつ如くに入乱れて、無数の人の流れがぞろ/\と押し寄せていた。そして時々明るい顔を鈴のようにつらねた満員電車が、チン/\と緩やかにその流れをかつき且通し、自動車の警笛の音と共に交通巡査の手がくる/\と忙しく廻っていた。
「いつもこうなのかね」
「毎晩この通りだね」
「まるで大きな蟻の京詣りみたいだ」
 なるほどその形容は適切だと思った。そして私は、この短い、しかしてあまり広からぬ一筋の街を中心に、幾条となく前後左右にわかれている横町々々から、更にその又先の横町々々から、あたかも河の本流に注ぐ支流のそれのように、人々が皆おのがじしにこゝを目ざし、こゝの美しい灯をしたつどい寄って来る光景が眼に見えるような気がして、非常に愉快だった。

且堰き且通し 川の流れを堰き止めたり、通したりする
蟻の京詣り 蟻の熊野詣とも。社寺などの参詣さんけいで、蟻の行列する様に例えて群衆が集まってにぎやかになること
おのがじし 己がじし。各自がめいめいに。それぞれに
慕う したう。恋しく思う。懐かしく思う。
つどう 集う。人々がある目的をもってある場所に集まる。