牛込見附交差点」タグアーカイブ

神楽坂一丁目(写真)牛込橋 ID 8283 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 8283は飯田橋駅西口近くから神楽坂や神楽河岸などを撮影しました。年代は「昭和44年頃か」で、桜の葉はなく、男女はコートを着ているので、晩秋から早春にかけてでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8283 飯田橋手前

 写真中央は「牛込見附」交差点で、現在は「神楽坂下」交差点に名前が変わりました。左右が外堀通り、前後が神楽坂通り(早稲田通り)です。外堀通りを走る都電3系統は昭和42年12月に廃止になり、すでに軌道はありません。
 信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、交差点名の表示はありません。逆転式一方を示す回転式の(一方通行)の標識が見えます。神楽坂通りを入った場所には標識「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯には左手前に見えている円盤形の大型蛍光灯があり、「神楽坂通り」の標識と一緒に坂上まで続いています。
 田口重久氏の05-14-37-1(1967-02-08、昭和42年、 牛込見附から神楽坂下)とよく似た画角ですが、ID 8283のほうが少し後の時代です。比べると
・「クラブ軽い心」が「喫茶 軽い心」に変わった
・軽い心の向こうに神楽坂ビルティングが出来て菱屋ビルが見えにくくなった
・左手前の「とんかつ森川」が、少し奥に(つまり「牛込見附」交差点にはより近くに)店を建てて新たな看板を出した
などの違いがあります。

牛込橋→神楽坂(昭和44年)
  1. 袖看板「もつやき 本場沖縄産 琉球 泡盛 ◯雲 ◯正宗 やなぎ」
    (食)事 中華そば やなぎ
  2. 大きく「とんかつ」、消した看板、「食通の店」(森川の旧店舗)
  3. 二(鶴)
  4. 電柱看板「タイプ学院」「独特 とんかつ 森川」
  5. 白鷹 特製とんかつ 森川 白いのれん(森川の新店舗)
  6. 77(喫茶店セブンセブン)
  7. 天下の名酒。富士錦。三富酒蔵
  8. 電柱看板「大久保
  9. (12-24 駐車禁止)
    ――「牛込見附」交差点
  10. 田口屋生花店(5階のビル)
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 広告「産婦人科 加藤医院」
     ――「牛込見附」交差点
  3. さ(くら)や(靴店)
  4. 佳作座の上映作品(赤井商店
  5. 山田紙店
  6. 不二家洋菓子
  7. 塔屋広告「喫茶 軽い心」ファサード広告「喫茶 軽い心」「ハッピージャック」
  8. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。昭和44年(1969年)2月に完成。
  9. 菱屋もビルに。メトロアーカイブの「坂のある街」でもビル。

神楽河岸(写真)ID 8017 昭和43年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8017は、昭和43年10月、神楽坂下の牛込見附(現在の神楽坂下)交差点から千代田区方向を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8017 外堀通りより飯田橋をのぞむ

 左右が外堀通り、手前から奥が早稲田通りです。写真左は神楽河岸、右側は神楽坂1丁目にあたり、奥にむかう坂の途中から千代田区になります。
 信号機にゼブラ柄の背面板。写真正面の早稲田通りの歩道に桜が数本生えていて、風に枝が揺れているようです。奥には国鉄飯田橋駅の西口があり、写真説明の「外堀通りより飯田橋をのぞむ」はこのことでしょう。地名としては富士見町です。
 街灯は神楽坂通りと同じ、大型円盤形の蛍光灯が見えています。
 田口重久氏05-14-37-2「神楽坂下から牛込見附を」(1967-02-08)より少し後の時代で、外堀通りの都電がなくなっています。

05-14-37-2神楽坂下から牛込見附を 1967-02-08

神楽河岸と神楽坂1丁目(昭和43年)
  1. 電柱看板「斉藤医院」
  2. 道沿いに警察の建物が数棟、軒を連ねている。
  3. 坂の上の軒を長く出しているのが飯田橋駅西口。その奥は千代田区側の建物。
  4. 小さな小屋に「産婦人科 加藤医院」
  5. 電柱広告は市谷船河原町にある旅館「保志乃」
  6. 道路標識 (最高速度30キロ)
  1. 袖看板「天下の銘酒 酒は富士錦 三富酒蔵」
    テント「大◯ 富士◯ 三富酒◯」
    小型看板「大衆酒蔵 酒は富士錦 三富」
    のれん「◯富酒◯」
  2. 標識「外堀通り」
  3. 道路標識 (車両進入禁止)(一方通行)この区間で逆転式一方通行を実施中
  4. 電柱広告「大久保」

牛込見附(写真)ID 9912〜17 昭和50〜51年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9912から9917までは昭和50年〜51年頃、「牛込見附」交差点周辺を撮影したものです。現在では「神楽坂下」交差点に名称が変わりました。
 半袖はおらず、コートの人が1人います。駅舎の向こうの石垣の上が裸木になっているので、冬から春先にかけての撮影でしょう。傘を持った人も何名かいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9912 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9913 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9914 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9915 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9916 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9917 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

 この交差点は早稲田通りと外堀通りが交差します。ID 9914と9915の右中央に「外堀通り」という道路標識が立っています。交差点から右上の坂が牛込橋の土堤部分、逆に左が神楽坂です。
 最も大きな特徴は、牛込橋左側の旧神楽坂警察署の建物が撤去され、建設用の仮囲いが立っていることです。飯田濠の再開発が本格的に始まったことが分かります。下に見える昭和50年の田口氏の写真には建物があるので、ID 9912-9917は撤去から間もない写真です。実際にはその後、反対運動が起きて再開発は中断し、完成は昭和59年まで遅れました。

田口重久「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14

 またID 9914と9915では巨大なの標識も見えますが、意味は「車両進入禁止」でした。小さく「自転車を除く」と書いています。自動車は0時から12時まで、牛込中央通りと神楽坂通りの交差する点(矢来第二交差点)から「牛込見附」交差点を通り、牛込橋までの方向で、つまり西から東に一方通行し、12時から13時は歩行者専用道路となり、13時から24時は反対方向に変えます。したがって、この写真は午後1時以降に撮影したものです。
 一方、ID 9913、9916、9917では同じ交通標識の裏側が出ています。表面はおそらく(指定方向外進行禁止)でしょう。
 交通標識は他にもあり、早稲田通りの左側には(歩行者専用)、「歩行者専用道路 12-13」、都の標識「ランチタイム・プロムナード」と書かれ、12時から13時まで、牛込橋などでは歩行者天国になります。その右側には(車両通行止め、8-1◯)(区間内)です。ガードレールの後ろには(歩行者横断禁止)と書かれています。
 背の高い街灯がID 9913では早稲田通り、ID 9914、9915では早稲田通りと外堀通りで出ていて、これは東京都の街灯でしょう。ID 9914の右側に見える背の低い円盤型の街灯は神楽坂通りの商店街のものです。昭和45年のID 13117-18などでは円盤形街灯が向かい合って立っていますが、旧警察側は撤去されています。
 電柱は右側に高いコンクリート製電柱があり、変圧器が載っています。一方、牛込橋の左側には1本だけ木製の低い電柱があり「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 ID 9915-16では、交差点に近い歩道に小屋のようなものがあり、「産婦人科 加藤医院」の広告が3つ、ほかにビラが貼られています。観音開きの扉やガラリのついた通気孔もあります。
 この小屋は第2次大戦の終戦前の「飯田橋駅から見た神楽坂付近の焼け跡」(1945年5月27日)に見られ、昭和29年の新宿区史、昭和36年のID 52-53、昭和45年のID 13126など各時代の写真に写っています。しかし地図には記載されておらず、おそらく仮設のコンテナのようなものでしょう。戦前に倉庫などに使われていたものが戦後、不法占拠物になっていたことも考えられます。これはメトロ「有楽町線建設史」には「公図が不正確で未登記の土地が随所にあった」とあり、不法占拠があっても取り締まりしにくかったことが想像できます。
 1977年(昭和52年)のTV『気まぐれ本格派』の牛込橋のシーンには、この小屋は写っていません。ID 9915-16の少し後に撤去されたと思われます。

TV『気まぐれ本格派』1977年(昭和52年)

 ID 9914では早稲田通りの右側(小屋の反対側)に「コルヌ」「白鷹 とんかつ 森川」「そば 飯田橋」が見えます。
 またID 9913とID 9917では外濠通りに沿いに地下鉄の出口と「」マークがあります。地下鉄有楽町線の池袋ー銀座一丁目間が開業したのは昭和49年10月でした。写真の出口は再開発に備えた仮設のもので、現在は再開発ビル(飯田橋ラムラ)に直結しています。
 飯田橋駅の駅舎から奥は千代田区です。最も大きい建物は日本歯科大学体育館で、隣は日本歯科大学別館です。さらに10階内外の建物がいくつかあります。歯科大に近いのは飯田橋外語学院でしょうか、「〇〇・英文タイプ」と書かれています。写真で最も左側は、ID 480などに見える飯田橋駅東口近くの複数のビルです。また、ID 9916の最左側のビルは「飯田橋プラザ」で「パブ・プラザ」と書かれています。

神楽坂1丁目(写真)平成7年 ID 16074

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16074は、平成7年(1995)、牛込橋から神楽坂に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16074 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下(旧・牛込見附)交差点ですが、信号機に交差点名の表示はありません。左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通り(早稲田通り)です。
 最初に写真の手前から見ていきます。左右の歩道には植木やガードレールはなく、工事用の柵で車道と仕切っています。交差点に最も近い場所に街灯(2灯用ランタン、上向きの6角形の外灯と歩道に近く下向きのやや小さい6角形の外灯、正面から見ると卍に似てる)があり、腕木に緑色の「神楽坂」の文字が見えます。一方、手前の左側には仮設の照明と電気盤でした。
 撮影位置の背中側には牛込橋があり、戦前から使っていた石橋を現在の鉄橋に架け替え、平成8年(1996年)に完成しました。写真では橋は工事中でした。
 次に外堀通り。街路樹は葉を落としています。高所から左右を照らす街路灯が車道の中央に建っています。商店街の街灯ではありません。
 最後に神楽坂通りの奥。神楽坂通りは歩行者天国中で、車道は注意喚起のギラギラ塗装で赤くなっています。ここの街路樹も裸木です。
 信号の奥には緑色の「神楽坂」の標識ポールがあり、その向こうには信号手前と同じ2灯用ランタンの街灯が続いています。道路標識も沢山ありますが、ここでは省略します。
 現在は晩秋から早春です。

神楽坂1丁目(平成7年)
  1. 名代 うどんそば
  2. 白鷹 特製とんかつ 森川
  3. メガネドラッグ ホントにホントに安い!
  4. マクドナルド ハンバーガー
  5. 外堀通り
  6. (パチ)ンコ ニューバリー
  7. 神楽坂 翁庵 ジャンプ
  8. 5Fカラオケ

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 1年間保険付 ホントにホントに安い!
  2. 地下鉄 SUBWAY 飯田橋駅
  3. 外堀通り
  4. AKAI
  5. 薬 ヒグチ
  6. 紙店
  7. 不二家
  8. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  9. カグラヒルズ 各階名店ぞろい 英会話ECC 飯田橋校
  10. TWIN STAR Disco &

神楽坂1丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13158

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13158は、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13158 神楽坂歩行者天国

 外堀通りを走行中の車の窓越しに、バリケード看板が立っていて神楽坂通りへの進入を禁じているのが分かります。
 一方、中央やや右寄りの左向きの矢印は坂下から坂上までの「一方通行」を示しています。この標識は逆転式一方通行のための回転式です。後に歩行者天国実施中は「自転車及び歩行者専用」が表示されるようになりますが、この時代はまだ「一方通行」のままでした。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。
 大きな標識「神楽坂通り/美観街」が左右に1本ずつできています。よく見ると坂上の同じ標識も見えます。
 ここでは「牛込見附」交差点より手前のものを扱います。後ろ(奥)はID 65-66ID 8799-8800などを見て下さい。

  1. 独特 とんかつ 森川 神楽坂1-9
  2. 電柱看板「富士(見 東京)大神宮通り)」(英会話タイプ学院)
  3. (歩行者横断禁止)
  4. ROO(M)セ(ブ)ン (喫茶セブンセブン)
  5. 2F 山菜料理 おふくろ。小さく突き出し看板も 「おふくろ」
  6. 東山 東山酒蔵直営 東山酒蔵
  7. 反対向けの道路標識

 なお、右側の佳作座のポスターは何だかわかりませんでした。

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9808- ID 9809

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9808~9809は、昭和50年(1975年)頃、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9808 牛込見附、神楽坂通り 入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9809 牛込見附、神楽坂通り 入口

 交差点は「牛込見附」、道路は車道、側溝、縁石、歩道の順に並んでいて、歩道と平らな車道はアスファルト舗装、やや淡い色に見える車道は急勾配があり、すべり止め用のOリングを一時的に埋め込んだコンクリート舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その下に小さな看板「神楽坂通り」があります。電柱は向かって道路の左側だけで、その上には大きな柱上変圧器。標識「神楽坂通り/美観街」や各種の道路標識も出ています。左のフォーク、スプーン、ティーカップの道路標識は、平日12:00-13:00の歩行者天国「ランチタイム・プロムナード」の実施を示しています。
 半袖の人が多いようです。また、ID 68(昭和48年5月22日)と比べると、かなり高い位置から遠くを見通しているようです。また坂の途中にID 9778と同じ大型クレーン車が停まっており、同時期の撮影と思われます。

神楽坂1丁目(昭和50年頃)
  1. (パチンコニューパリー)
  2. (田原屋)
  3. 元祖 貸衣装 清水本店。
  4. 生そば。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。(翁庵
  5. 中華料理 信華園
  6. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 大島糸(店)」
  7. とんかつ
  8. 電柱看板「歯 (石川)」
  9. 話し方教室
  10. 遠くに「ジャノメミシン」
  11. さらに遠くに「協和銀行」
  1. 足袋 ワイシャツ 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. (消火栓)消火栓看板「福屋 神楽坂 不動産」
  4. (山)田紙店
  5. 地下鉄 飯田橋駅→
  6. FUJIYA 不二家洋菓子
  7. 離れて「喫茶 軽い心

神楽坂1丁目(写真)昭和5年頃 ID 9378

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378は、昭和5年頃「牛込見附(現在は神楽坂下)」交差点近くから神楽坂1丁目などをねらい、また、この写真は東京市牛込区役所蔵版「牛込区史」(昭和5年3月31日、590-1頁)に出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378 神楽坂

 写真のキャプションでは……

  神樂坂の今昔 現在
 近時矢來より牛込見附の處、道路整備し就中見附より肴町に至るあたり、獨り毘沙門の縁日と云はず四時散策の人が絶へない。兩側店舗の家並みは落付きを見せ、そこに一鮎の情味さへ漂はせ神樂坂特有の氣分のみなぎつてゐる處、山の手方面には他にその類例がない。

牛込見附 これは「牛込見附」(現在の神楽坂下)交差点。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
肴町 現在の神楽坂5丁目

 紅白テープで巻かれた柱が坂下から坂上まで覆い、これは昭和10年に撮られた別の写真でも見られます。また、右2本目の柱に道路を照らす電灯もあると思います。「神楽坂通 善國寺」とも無理して読めるのぼり旗も沢山でています。
 電柱(電信電話柱)1本に数十本の架線がでています。多重通信はまだなく、1回線で電線1つが必要だったからです。
 前面に路面電車が走り、さらに左側には電力を供給する架線柱が見え、下を向いておそらく電灯が2つです。
 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」(平成9年)によれば、昭和5年、交差点「牛込見附」から上に向かって右手は「赤井足袋店、田中謄写堂、萩原傘店、山田屋文具、斉藤洋品店、みどりや、紀の善寿司」、左手は「寿徳庵菓子、畔柳氷店、伊勢屋乾物、翁庵そば、須田町食堂、東京堂洋品、陶仙亭中華」があったといいます。はっきり分かるのは右の角の赤井足袋店(足袋形の白地看板)、左の角の寿徳庵菓子(「大福」の看板)だけです。
 電柱の間から見える「名〇」の看板はID 7641と比べると赤井の隣と思われます。また寿徳庵の左には「古老の記憶」「私のなかの東京|野口冨士男」などによれば「娘義太夫の定席『琴富貴』」があったとありますが、残念ながら分かりません。寿徳庵前の電柱には「西條医院」(若宮町)と別の病院の広告が見えます。
 また右側の坂の中腹、ひときわ大きい入母屋屋根の3階建ては「場所的に佐和屋ではないか」と地元の人。

神楽坂1丁目(昭和5年頃)
  1. 電柱看板「西條醫院」「醫院」
  2. 寿徳庵(大きな看板「大福」)
  1. 赤井足袋店。足袋形の白地看板と看板「名」

神楽坂1~2丁目(写真)昭和45年 ID 8318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8318は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。藤の形の造花がたくさんあり、これはID 8317(つまりID 64)からの連続した写真だと思います。ほかにも翁庵の前の自転車や駐車車両、道路の水まきの跡、不二家の商品なども同じです。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に標識「神楽坂通り」があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8318 神楽坂

 

神楽坂1~2丁目(昭和45年)
  1. (フルーツパーラー 田原)屋
  2. 電柱看板「神楽坂通 倉庫 取扱 このさき」
  3. 衣裳 清水本店(貸衣裳店)
  4. 看板「生そば おきな庵」(翁庵
  5. 中華料理 信華園
  6. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  7. 電柱看板「川島歯科
  8. 電柱看板「 大久保
  1. 山田紙店
  2. FUJIYA 不二家洋菓子 FIJIYA コーヒーショップ 歩道におそらく山積みの不二家の商品
  3. 突き出し看板「おしるこ 紀の善
  4. Frère WADAYA(メンズウェアー)
  5. 喫茶 軽い心 洋食 食事 ハッピージャック
  6. くすり 山一薬品
  7. パチンコはマリーで
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 純喫茶 クラウン
  10. 神楽坂ビル。築年月は昭和40年11月
  11. MAX FACTOR(化粧品)
  12. 資生堂化粧品(さわや
  13. 菱屋ビル(昭和42年頃)

1971年。住宅地図。

逆転式一方通行の延長

 逆転式一方通行の延長について、地元の方は…

 神楽坂通りに、逆転式一方通行が導入されたのは東京新聞調べの1958年(昭和33年)だということは「逆転式一方通行・再考(写真)」で考察しました。逆転式はその後、千代田区側に延長されます。
 1977年(昭和52年)のテレビドラマ『気まぐれ本格派』の牛込見附交差点のシーンには、歩行者用道路と「ランチタイム・プロムナード」(スプーンとフォーク、ティーカップ)の標識が写っています。正午から午後1時までを歩行者天国にするもので、歩行者が道の真ん中を歩いているので、ちょうど実施中と思われます。

『気まぐれ本格派』32話

 右側の高い位置にも、大きな歩行者用道路の標識が見えます。これは回転式で、時間によって表示内容が変わります。神楽坂通り入り口にも同じ標識があり、「逆転式一方通行・再考(写真)」の記事のID:9109(昭和51年8月26日)で確認できます。
 また「神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86」の記事にも回転式標識が写っていますが、表示は「調製中」です。故障していたか、あるいは表示内容を変えようとしていたのかも知れません。
 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、昭和54年(1979)4月1日に逆転式が延長されたとあります。しかし『気まぐれ本格派』ではシーンによって牛込橋を通る車の向きが逆になっています。少なくとも千代田区の牛込橋部分については、昭和52年時点で逆転式一方通行が実施されていたことが分かります。

神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85とID 11875、ID 86とID 11872

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 85とID 11875、ID 86とID 11872は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂1~2丁目を撮ったものです。坂上方向(ID 85とID 11875)と、その逆の牛込橋方向(ID 86とID 11872)を狙っています。
 一方通行の向きから見て時間は午後です。年賀の貼り紙や街灯の若松があり、シャッターを閉めている店が多いので正月休み中でしょう。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。昭和49年の「Mr. Dandy」や、昭和51年のID 69-71より少し後の時代ですが、いくつか店がビルになるなど、若干の変化があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 85 神楽坂途中より坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11875 飯田橋駅前 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 86 神楽坂途中より坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11872 神楽坂

ID 11873では1月17日のID 94と同じで、さくらや靴店は開店中。ID 11874とID 11876はネクタイの人が沢山で正月とは思いにくい。ID 93もID 94と同じでしょう。これらが昭和54年(1979年)1月17日の撮影と思います」と地元の方、

神楽坂1~2丁目【牛込見附から坂上に向けて】
  1. 麻雀
  2. 牛込見附交差点の飯田橋側に「調製中」と回転式標識
  3. 「牛込見附」交差点
  4. (ニューバリーパチンコ)
  5. 電柱看板の「八千代鮨」と「(質)大久(保)」
  6. (田原屋フルーツパーラー)特徴的な丸い電飾の突き出し看板。テントの形が変わっています。

  7. (清水衣裳)店
  8. 「翁庵」のシャッターにおそらく「謹賀新年」の貼り紙。「生。」(そ)は「楚」のくずしかな、(ば)は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  1. 「カレーシ(ョップ) ボ(ナ)」の看板
  2. 白十字病院 皮膚泌尿科/婦人科/外科/内科
  3. 「紙 文具 事務用品 原稿用紙 山田紙店」 「さくら 山田紙店 さくらカラー チェーン店」「Canon NPコピーサービス」「文房具加盟店」「文具 事務用品 原稿」
  4. (FIRE H)YDRANT 消火栓。消火栓広告「三菱銀行〇前 福屋 神楽坂 不動産」
  5. 地下鉄 飯田橋駅
神楽坂通り/美観街         神楽坂通り/美観街
(坂下の案内標識)

九段坂


飯田橋 ◀━╋━▶市谷見附
  1. 「丸和証券」。上に「麻雀倶楽部 かぐら 4F」「SPC 美容室 〇店」
  2. 電柱看板の「甘露 あまなっと。神楽坂 五十鈴」と「川島歯科
  3. 小栗横丁
  4. (鰻 志満金)看板「ジロー 3F、4F、5F」
  5. 離れたところで「話し方教室」「旭図書」
  6. ほとんど見えないが「三菱銀行」
  1. 不二家洋菓子
  2. 紀の善 あんみつ
  3. 看板「英会話 ウィンザー〇ム」
  4. 神楽小路
  5. 交通標識「⮪ 自転車を除く 12-24 一方通行路←」
  6. Frère WADAYA メンズウェアー(Frère は兄弟)
神楽坂通りの一番 高いところから6丁目の「協和(銀行)」の看板

1980年 住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和49年 田口重久氏

文学と神楽坂

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」第五章 新宿区 補-10 (11/15) 05-10-32-1 牛込見附交差点からは昭和49年(1974年)12月21日(土)に撮ったものでした。大きな左向きの矢印はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。外堀通りにはまた鉄板が覆っています。

1974-12-21 牛込見附交差点から。田口重久氏「歩いて見ました東京の街」

神楽坂1丁目(昭和49年)
  1. 有楽町線「飯田橋駅」。道路を開削、上に鉄板。埋め戻しは開業後。
  2. 看板「車両通行止め12~18 牛込警察署 新宿区」
  1.  牛込見附  (歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20。スプーン・フォーク・スープの標識
  2. ニューバリーパチンコ。Pachinko。上の看板イーグルボウル下宮比町に。
  3. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)と(質)大久保
  4. TAWARAYA。黒い看板と白の球。(フルーツパーラー 田原屋)
  5. 元祖 貸衣装 清水本店
  6. 生そば(翁庵)。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  7. 中華料理 信華園
  8. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  9. 小栗横丁にいく通り
  10. 志満金。ビルではない
  11. 靴(オザキヤ
  12. 大島糸店2階が大島歯科
  13. 話し方教室。五条ビル(ヒデ美容室の隣で)
  1. (一方通行入口)自転車を除く。(歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. 白十字医院
  5. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 地下鉄 飯田橋駅
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。
  8. あんみつ。紀の善。切妻の屋根
  9. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  10. 上でビル「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  11. 陶柿園がビルに。昭和47年(1972年)3月に完成
  12. 「菱屋」が遠くに見える

 神楽坂仲通りの△は横断歩道の標識。その奥は「神楽坂通り/美観街」です。

神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)