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幕末の剣士近藤勇の道場跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「市谷地区 11. 幕末の剣士近藤勇の道場跡」です。

 幕末の剣士近藤勇の道場跡
      (市谷甲良町20
 甲良町を西に進む。T字路に出るが、その左手前一帯は新撰組の近藤勇や土方歳三などの剣士を送り出した道場「試衛館」のあったところである。
 試衛館は、はじめ天然理心流の近藤周助(武州)の道場であった。そこは、幕府の作事方棟梁甲良豊前が拝領した甲良屋敷で、弟子は千人以上居たという。道を隔てたすぐ西隣に柳町25番地の稲荷神社は、近藤邸内にあったものだという。
近藤勇 こんどういさみ。生年は天保てんぽう5年10月5日。宮川久次の3男。名は昌宜。剣道を天然理心流の近藤周助に学び、その養子となる。幕府に仕えて尊王攘夷派志士の取締りにあたり、元治元年(1864)京都池田屋に志士らを襲撃。しん戦争では甲陽こうようちんたいを組織して政府軍と戦ったが、下総流山で捕えられ、処刑された。
市谷甲良町20 市谷甲良町20は当時、ここが試衛館の道場だと考えていた場所。現在はそれより西の市谷柳町25が正しいと考えています。なお、現在の市谷甲良町20は市谷甲良町1-12になりました。

甲良町か柳町か。地図は明治20年の住宅地図。

土方歳三 ひじかたとしぞう。幕末の新撰組の副長。隊長近藤勇を助けて活躍。鳥羽伏見の戦いに敗れたのちも官軍に抵抗し、箱館りょうかくで戦死。
試衛館 しえいかん。江戸の剣術の道場。天然理心流3代宗家の近藤周助が天保年間(1830-1844)に開設。新撰組局長となる宮川勝五郎(近藤勇)は周助の養子となって4代宗家を継ぎ、道場主をつとめた。

柳町周辺。試衛館と稲荷神社

天然理心流 てんねんりしん りゅう。剣道の流派の一つ。遠江の人、近藤内蔵助長裕が寛政年間(1789‐1801)に創始
武州 武蔵国の別称。現在の東京都と埼玉県、神奈川県川崎市、横浜市にあたる
作事方 さくじかた。江戸幕府の役職。作事奉行の下に属してすべての工事関係に当たったが、のちに小普請方・普請方が置かれてからは、建築、修理だけになった。さじかた。
棟梁 ここでは大棟梁の意味。作事奉行の下に位する大工頭が工事全体を統轄し、その下の大棟梁が設計面の管理や諸職人の手配などを受けもった。
甲良豊前 こう氏は、幕府大棟梁を務めた家系である。東京都図書館「江戸城造営関係資料Q&A」「甲良家は江戸時代どこに住んでいたか」によれば「徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになった」。また、竹内誠編『東京の地名由来辞典』(東京堂出版、2006)138頁では「江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町25番地に該当し、現在の市谷甲良町は、江戸時代には御先手組と御持組大縄地にあたり、町域が異なっている」
柳町25番地の稲荷神社 正一位稲荷神社。試衛館稲荷とも。上図を参照。

 近藤勇は、天保5年(1834)10月9日、調布市在の農業宮川久次郎の三男として生まれ、幼名を勝太といった。成人してこの試衛館に入門して武芸を励んだ。近藤周助は勝太の技量と人物を見込み、嘉永2年(1849)10月19日に養子に迎えた。勝太16才の時で、この時、勇と改名した。
 勇の武芸は、日ごと上達し、また一人前の道場経営者になったので、周助は周斉と名を改めて四谷舟町に隠居し、慶応3年10月28日、76才で病死した。
 柳町の試衛館は、手挾まになったので、のちにこの東の二十騎町に移転した(その年月日不明)。
 近藤勇は、幕府で募集した浪士隊に参加したが、徳川14代将軍家茂の公武合体を実現するための上京にあたって、文久3年(1863)の春、その前衛隊となって京都に上った。勇はその後新撰組を組織して隊長となり、勤皇狩りを始めるのである。
 試衛館出身で近藤勇につぐ剣士としては、土方歳三(日野の在、石田の農家生まれ)、山南敬助(仙台の浪人)、沖田総司(奥州白河藩出身)、井上源三郎(日野宿出身)たちで、これらは勇門下の四天王といわれた。
〔参考〕新宿郷土研究第三号 新撰組史録 明治を夢みる
天保5年(1834)10月9日 現在は「生年は天保5年10月5日(1834年11月5日)。没年は慶応4年4月25日(1868年5月17日)」としています。
宮川久次郎の三男 ウィキペディア(Wikipedia)では「武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。幼名は勝五郎、後に勝太と改める」。別称は昌宜(まさよし)。
近藤周助 ウィキペディア(Wikipedia)では「江戸時代末期(幕末)の剣豪。天然理心流剣術3代目宗家。新選組局長近藤勇の養父。旧姓は嶋崎。幼名は関五郎・周平、後に周斎。諱は邦武。妻は近藤ふで」「近藤三助(天然理心流剣術2代目)の弟子となり、天保元年(1830年)に流派を継いで、近藤の姓を名乗る」。天保10年(1839年)、天然理心流剣術道場・試衛館を江戸市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町25番地)に開設した。没年は慶応3年10月28日(1867年11月23日)
手挾ま 正しくは「じま」。住居、部屋などの空間が、生活や仕事をするのには狭い。
浪士隊 ろうしぐみ。1862年(文久2年)江戸幕府が出羽国庄内地方の浪士(幕府や藩と主従関係のない武士)清河きよかわ八郎はちろうの献策を受けて、浪士たちを募集した。目的は江戸幕府14代将軍徳川家茂いえもちの上洛に先立ち、京都の治安回復を図ること。壬生浪士、新選組、新徴組の前身。
公武合体 江戸時代末期に朝廷(公)と幕府(武)が協力して政治を行うこと
新撰組 幕末期、江戸幕府が浪人を集めて作った集団。1862年(文久2)幕府は清川八郎などの協議により浪士隊を作り、同年2月に300人余を集め上京し、壬生みぶ村屯所に分宿。しかし、尊攘の大義をめぐって分裂し、分派の清川派は江戸へ引き揚げた。京都守護職松平容保(会津藩主)の支配と庇護のもとに近藤勇、芹沢鴨らは組織を再建、新撰組と名づけた。1863年9月、無謀な行いのあった局長芹沢せりざわかもを斬り、近藤勇、土方ひじかた歳三としぞうが実権を掌握。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。
勤皇 勤王。京都朝廷のために働いた一派。
狩り 追いたてて捕らえること。「魔女狩り」
山南敬助 近藤勇らとともに新選組を結成する。当初は副長、後に総長。屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深め、最終的に脱走。新選組の隊規に違反したとして切腹。何故切腹にまで至ったか真相は謎である。
沖田総司 江戸末期の新撰組隊士。奥州白河藩を脱藩し、新撰組設立当初から参加。近藤勇の刑死後、江戸でおそらく肺結核により死亡。天然理心流の剣法にすぐれ、池田屋事件で活躍。
井上源三郎 近藤勇の兄弟子。京都池田屋事件では土方隊の支隊の指揮を担当。近藤隊が斬り込んだという知らせを受けて部下と共に池田屋に突入、8人の浪士を捕縛する活躍を見せる。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いで、淀千両松で官軍と激突(淀千両松の戦い)、敵の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40。
勇門下の四天王 近藤勇門下の四天王。新宿郷土研究第三号の「近藤勇の試衛館道場」によれば、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助の4人。

 新宿郷土研究第三号の「近藤勇の試衛館道場」(新宿郷土会、昭和41年)では……

近藤勇の試衛館道場
 天然理心流近藤周助(邦武)の経営する道場試衛館は、市谷柳町甲良(高麗)屋敷にあった。しかるに大衆文学の作家である子母沢寛氏の『新選組始末記』には、永倉新八翁遺談として「近藤勇の道場試衛館は小石川小日向柳町の上にあった。」と誌しているが、これは永倉新八の記憶ちがいか口述筆記のまちがいであろう。なぜなら近藤の実家宮川家には、近藤周助と間で養子縁組をした当時の文書があるがこれには、「嘉永2年酉10月19日江戸高良屋敷西門、近藤周助」とある。また、平尾道雄氏の『新撰組史録』には、試衛館は「初め市ヶ谷柳町上高麗屋敷に在ったが、もと大工棟梁何某の住宅跡で、場所が狭かつたので、後になって牛込二十騎町に移された。」とあるが、二十騎という町名のできたのは明治5年(1872)でしたがってそれ以前は、二十騎組といっていた。それはともかく最初にあつた試衛館の位置だが、これは江戸切絵図などから想像して、現在の甲良町20番地がその跡だと推定している。
 前述のように近藤周助と宮川勝太(勇)との養子縁組によつて試衛館の経営は、近藤の手に移され、周助は四谷の舟板横町に隠居する。
 勇の道場の出身者で四天王といわれるのは、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助である。
近藤周助(邦武) 新選組局長近藤勇の養父。旧姓は嶋崎。幼名は関五郎・周平、後に周斎。いみな(死後に、生前の業績などで贈った称号)は邦武。妻は近藤ふで。
甲良(高麗)屋敷 甲良(こうら)と高麗(こうら)なので、どちらの漢字も使ったのでしょう。
子母沢寛 しもざわ かん。小説家。生年は1892年2月1日。没年は1968年7月19日。
新選組始末記 子母澤寛の小説。昭和3年に万里閣書房から『新選組始末記』を処女出版し、昭和44年に角川文庫から『新選組始末記』、講談社も昭和46年に『新選組始末記』を出版。
永倉新八 幕末の武士で、松前藩から脱藩し、心形刀流の師範代。のちの新選組隊士。「新選組始末記」では「永倉新八翁遺談」としている。没年は大正4年1月5日
江戸切絵図 嘉永4年(1851)「市ヶ谷牛込絵図」のこと。

二十騎町と市谷甲良町。景山致恭、戸松昌訓、井山能知 編「市ヶ谷牛込絵図」尾張屋清七。嘉永4年(1851)

牛込二十騎町 牛込甲良町の東隣に位置する。天龍寺境内で、天和3年(1683)寺が類焼し移転。御先手与力2組の屋敷に。その1組が10人(騎)なので牛込二十にじっ町と呼ばれていた(東京府志料)。1857年の尾張家板江戸切絵図で「二十キクミ」(上図)と記す。明治4年6月、町として成立。明治44年(1911)「牛込」を省略、二十騎町に。
甲良町20番地 現在は柳町25番地。
嘉永2年酉…… 平尾道雄著『定本新撰組史録』(新人物往来社、1977)は平尾道雄著『新撰組史録』(白竜社、1967)の改訂版で、これも国立図書館でそのまま読めます。

   差出申養子一札之事
ー、今般貴殿枠我家養子に貰請度申入れ候処、早速相談被下、我等方に貰請候処実正也。然る上は諸親類は不申、勝手とも差構無く御座候。仍之加印一札入置申処仍て如件。
  嘉永二年酉10月19日
江戸高良屋敷西門 近 藤  周 助
世話人      山田屋  権兵衛
同        上布田村 孫兵衛
  站村 源次郎殿
  代  弥五郎殿

新撰組史録 平尾道雄著『定本新撰組史録』(新人物往来社、1977)では。

試衛館は天然理心流ー近藤周助(邦武・号は周斎)の道場で、はじめ江戸市ヶ谷柳町の上高麗屋敷にあった。もと大工棟梁の住宅を道場に使っていたが場所がせまいため、後に牛込二十騎町に移っている。

田山花袋旧居跡|新宿の散歩道、明治を夢みる

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地域 10.作家やまたい旧居跡」では……

作家田山花袋旧居跡
      (市谷甲良町12)
 林家墓地からさらに東に進み、十字路を右折し大久保通りを横断し、第一の横町を右折する。右側の甲野家のところは、田山花袋の旧居跡である。
 花袋一家が明治19年、郷里群馬県館林から上京して最初に居住したのは、富久町会津侯邸内であった。そこから明治22年、牛込納戸町に移ったのであるが、さらに23年にはここに転居したのである。
 当時花袋は20才であったが、ここで処女作「瓜畑」を執筆したのである。花袋の「東京の三十年」によると、山伏町の通りには近所で評判の焼芋屋があり、母にたのまれてこの焼芋を買ってくることや、病後に運動がてら母親に連れられて散歩したことが出ている。
 花袋はここから喜久井町、原町を転々としたが、牛込一帯はなつかしい所だったらしく、同書には「牛込の山の手は私に取って忘れられないところである。一つの通りでも、一軒の家にも又は一草の動きにも……」とある。
 〔参考〕明治を夢みる
林家墓地からさらに東に進み、十字路を右折し…… 図参照。

林氏墓地から甲良町に

大久保通り 新宿区飯田橋(飯田橋交差点)から新宿区百人町、中野区中野などを経由し、杉並区高円寺南(大久保通り入口交差点)に至る。

都道

右側の甲野家のところ まず地図を見てみます。1978年の住宅地図を見ると、ありました。

1978年 住宅地図 40R

 途中の2000年は? なくなっています。

2000年 住宅地図

 では、現代は? ありました。赤枠の家が建っています。2000年は一時的になくなってようです。

航空写真 新宿区市谷甲良町

秋本正義著『明治を夢みる』(非売品、1971)

群馬県館山 現在は群馬県館林市。田山花袋旧居は「群馬県館林市城町2−3」にあります。
富久町 とみひさちょう。東京都新宿区の町名。なお、一見富久町内に見える東京医科大学は新宿区新宿6丁目1−1で、富久町と関係はありません。

東京都新宿区富久町 (131040820) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット

会津侯邸 田山花袋氏は「東京の三十年」の中で「私達は取敢ず牛込の奧のある大名のしもやしきの一部に住つた
段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜毎に出て来た

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

瓜畑 うりばたけ。うりの植えてある畑。でん。明治24年(1891)、田山花袋は古桐軒主人として「瓜畑」を「千紫万紅」第5号で発表し、内容は男の子が3人、夜空にトウモロコシを盗もうとするが、番人に見つかり、取ってきたのは熟れない白瓜、スイカ、小さな冬瓜だけ。天の川の下で大笑い。
牛込納戸町 うしごめなんどまち。東京都新宿区の町名で、現在は「納戸町」だけが正式の町名。また「南町」がこの下の地図では上に動いて、中町と南町の町境の上に乗っています。

東京都新宿区納戸町 (131040430) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット

 では、同じことを秋本正義氏の「明治を夢みる」(非売品、1971)ではどう記しているか、見てみます。

 最初田山花袋の一家が群馬県館林から上京したのは、明治19年で(花袋としては三度目の上京になる)、その時は、牛込富久町の会津侯の邸内に居住した。「東京の三十年」をひもどくと、
とあり、この奥の家というのが、会津侯の邸内で、N町というのは牛込納戸町のことである。
 納戸町へ移ったのは明治22年であった。牛込中町のほぼ尽きようとする処で、二畳、六畳、四畳半の三間の住いであったと書いてある。翌23年更にそこから甲良町へ転居した。甲良町の家は、納戸町の家からみるとはるかに広い家であった。「東京の三十年」には甲良町の事は余り委しく書かれていないが、
  ……「録、芋を買って来ないか?」かうした母親の声がきこえると、共に(略)「また焼芋か」かう言って私は風呂敷をもって出て行く。例の山伏町の通り。そこには未だその焼芋屋がある。旨い胡麻の入った、近所でも評判なその焼芋。……
と当時の思い出を書いている。
 甲良町に住んだのは、20歳の時でまだ文壇にデビューしていなかった。改造社の現代日本文学全集の田山花袋集の年表をみると
  明治24年(1891年)21歳5月24日、尾崎紅葉を牛込横寺町に訪う。其翌日江見水蔭を牛込北町に訪う。初めて「瓜畑」を「千紫万紅」に載せて貰ふ。
とある。これによると、23年、24年頃は甲良町に住んでいたから、この家で処女作を執筆したのではないかとも考えられる。もしそうだとすると、花袋処女作執筆の地として、最も記念すべき地である。
 その時分のその界隈はまだ淋しかった。
 また花袋はその頃の生活を書いて、
  病後の私は、そこからそれに隣った麴坂の方をよく散歩した。……
とも記している。

 この花袋の住んでいた家は、牛込柳町大通りの大野屋文具店と、木下理髪店の横の坂が麴坂——昔麴屋があったので——その坂と、山伏町から柳町への電車通り、所謂やきもち坂(あかね坂)との間に一つの小路がある。その中程(柳町の方から入って左側)にあった。正確にいえば新宿区市谷甲良町12番地。現在甲野啓一さんの住居の処である。関東大震災にも今次の戦災にもまぬかれた古い二階建の家であったが、過日新宿区史跡の会の、一瀬さんを案内して訪問したら、残念な事に余り建物が古くなったので、すっかり取毀して新しい邸宅になってしまっていた。私がつい先頃迄共同募金などで伺った時分は、昔の儘の建物でどことなく、山の手の住宅という感じの深い家であった。持ち主の甲野さんの御母堂は、朧気な記憶であるが、階下は、八畳が弐間、三畳が三間、二階は、八畳、廻り縁で床の間があった。南向きの日当りの好い家であったと語られた。(日ならずして記憶で書いたがといって間取図をお届け下さったので発表させていただく)

花袋氏の部屋は2階

 住んでいた建物こそなくなったが、この坂、この横丁を、花袋——田山録弥——が、母親と病後の散歩をしたり、焼芋を買いに行ったりしたのだと思うと懐しい限りである。
 やがて明治文壇に、蒲団、一兵卒、田舎教師、等を発表し、小説に、紀行文に評論に、精力的な活動をつづけ、自然主義文学運動の闘将として活躍した。
 この偉大な文学者のために、甲野さんのご諒解を得て、門前の片隅へなりとその標識をたてたいと畏友一瀬さんと話し合っている。
 花袋はこの市ケ谷のあたりが非常に気にいっていたらしい。
  牛込市ヶ谷の空気もかなり細かく深く私の気分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久町、原町といふ風に移って住んだ。
  今でも其処に行くと、所謂山の手の空気が私を堪らなくなつかしく思はせる。
とも書いている。これでみると、この周辺をかなり転々と居を移していた様だ。
  兎に角、牛込の山の手は私に取って忘れられないところである。一つの通りでも、一軒の家にも又一草の動きにも……
 そればかりでなく、忘れられない思い出がもう一つあったからではないか。
  中町の通り——そこには納戸町に住んでいた時分によく通った。北町、南町、中町から三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かった。他の通りに比べて、邸の大きなのがあったり、栽込の綺麗なのがあったりした。そこからは富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
それにその通りには、若い娘が多かった、今少将になってゐるIといふ家などには、殊にその色彩が多かった。瀟洒な二階家、其処から玲瓏と玉を転したやうにきこえて来る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ白い手、そればかりではない。運が好いとその娘達が表に出てゐるのを見ることが出来た。私はさういふ娘達に話の出来る若い軍人などが羨ましかった。……
 納戸町に住んでいた時分、その大家さんの家に娘がいた。その父親は大蔵省の属官で毎年見事な菊をつくった。娘の名も菊子と呼ばれていた。娘が番町辺へお琴の稽古に行く時、後をつけたり、途中でその帰りを待ったりした。後にこの菊子をヒロインとして「小詩人」という作品を書いたといっている。
  わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな
  なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり
 こういう歌を花袋はその歌日記にしるしていた。淡い恋だったのかも知れない。


花袋と紅葉(1)

文学と神楽坂

 昭和41年、新宿郷土会「新宿郷土研究」第4号に「花袋紅葉」という一文が書かれています。この「新宿郷土研究」は新宿区立図書館で借りられますが、誰が作者「わたくし」になるのか不明です。この編集兼発行人は一瀬幸三氏なので、おそらく一瀬氏でしょう。

 わたくしは、横寺町を通るたび田山花袋椿』(大正15年版)という随筆集におさめられている文章の一節を思い出すのだ。
「横寺町の通りは、山の手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てて紅葉山人の二階…。明治23、4年頃から34、5年まで、私はこの通りを何んなに歩いたかも知れなかった。恋にあこがれたり、富貴にあこがれたりして、時には失望の心遺るに場所がない為めわざわざ其処に出て来たりした」は、田山花袋の面目躍如たるものがある。
 紅葉の住まっている横寺町の二階の窓を見ては、当時の流行作家である紅葉を羨やむ一方憎しみともなっていたのだろう。花袋の『東京の三十年』には、「自分より4つか5つの年上のー青年、それでいて、日本の文壇の権威、こう思うと、こうして、じっとしてはいられないような気がする。羨ましいと共に妬ましいという気が起る。」と、いっているのは、ほんとうの気持だったろう。
 花袋が、群馬県館山林町から二度目の出郷をこころみたのは、兄が内務省修史局へ勤務するようになったので、牛込富久町の旧会津侯の邸宅の中にあった。
 花袋はここから神田の英語学校に通ったのである。そこへいくまでの道程を、「牛込の監獄署の裏から士官学校の前を通って、市ヵ谷見附へ出て、九段招魂社の中をぬけて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った」と、『東京の三十年』に書いているが、昔の人はよく歩いたものである。また、同書に「その時分(明治20年頃)は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が、不便であったため私達は東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった」と、あるのをみてもよくわかる。
 それから花袋が、19才の明治22年(1889)納戸町の家賃の高い家から甲良町へ移った。たぶんこの家のことだろう。前述の『椿』という随筆集にこう書いている。
「貧しい私の家は、その頃間数の多い家に住むことはできなかった。私は三間しかない汚ない家の中にいた。私は、机を座敷の八畳の一隅に置いた。机の前が硝子障子になつているので、そこから猫のような小さな庭が常に見えた。投ったままにして置いた万年青の鉢だの丈の低い痩せこけた芭蕉だのボケだの、バラだのが見えた。時には明るい日影が射したり、雨がしめやかに降っていたりした。私はいつもそこで日を暮した」と、いう一節がある。
 甲良町は、甲良屋敷のあとと、その附近の開墾地をあわせて、甲良町としたところで、花袋の住んでいたというのは、開墾地に建てた借家と見られるからいまの25番地附近と推定できる。
 それはともかく、この文章を読むと明治時代の借家の間取りや環境がよくわかる。花袋はここで、小説、文学の勉強に専念していた。「いつまでも遊んでいるんだが、宅の“録”にも何処へでも5円でも10円でも取って呉れればよいに…」という母親の愚痴もいちどならずいくたびか聞いたことであろう。“録”というのは、花袋の実名録弥のことである。
「自分もきっと、文壇の寵児になってみせる」といつも興奮していたし、外国文学の知識の吸収を怠らなかった。
椿 国立国会図書館オンラインに載っています。
どぶろく にござけ。発酵してできたもろみを濾過することなくそのまま飲む。
富貴 ふっき。ふうき。富んで尊いこと。財産が豊かで位の高いこと。
心遺る こころやる。心に滞るものを他におしやる。心のうさを晴らす。心を慰める
東京の三十年 田山花袋の回想集。1917年(大正6年)、博文館から出版。
群馬県館山林町 現在は群馬県館林市城町14です。
内務省修史局 太政官正院地誌課は、1874年(明治7年)に内務省地理寮に合併、75年には修史局(77年修史館)に合併されました。
邸宅 下図で赤い図。
神田の英語学校 仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)だとインターネット「おさんぽ神保町
監獄署 下図の中央

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

士官学校 陸軍士官学校。下図の左手。
市ヵ谷見附 下図の中央部
九段 東京都千代田区西部の地区。麹町こうじまち台から神田方面へ下る坂(九段坂)に、江戸時代、9層の石段を築き、幕府の御用屋敷を建て九段屋敷と称したから。
招魂社 東京招魂社。現在の靖国神社。下図の右手

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

神田 神田区。千代田区の旧神田区地域。北に神田川が、南東に日本橋川が流れ、東京都電車が区の全域を走る。
馬車鉄道 鉄道馬車。軌道上を走る馬車の輸送機関。1882年(明治15年)6月、東京馬車鉄道会社により新橋―日本橋間に開通し、10月には日本橋―上野―浅草―浅草橋―日本橋間が開通した。
万年青 おもと。ユリ科の常緑多年草。

オモト

甲良町 明治二年(1869)市谷甲良屋敷を市谷甲良町と改称(己已布令)し、同五年には付近の武家地、開墾地を併合した。なお、江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町の一部で、甲良町にはない。
甲良屋敷 現在の市谷柳町の一部。徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前(4代相員)に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷というようになった。(甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。東京都立図書館)
開墾地 開墾地(山林や原野を切り開いた土地)はどこを指し示すのか、わかりません。江戸時代、甲良町はすべて人が住んでいました。したがって明治初期になってから一部の家はなくなり、原っぱができたのでしょう。
25番地附近 「新宿郷土研究」では25番地附近を、別の研究は甲良町12を指しています。ちなみに明治19-20年に発行した参謀本部陸軍部測量局の「東京五千分ー東京図家量原図」(日本地図センター発行。2011年)では甲良町12は桐、甲良町13は原と家、甲良町25は普通の家が描かれています。

東京実測図。明治28年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

東京五千分ー東京図測量原図。参謀本部陸軍部測量局。明治19-20年。日本地図センター発行。2011年

東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては——躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通——そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込うゑこみ綺麗きれいなのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
 しかし、秋本正義著の『明治を夢みる』(非売品、1971)ではその隣の坂が「麹坂」でした。木下理髪店の横の坂が麹坂で、昔麹家があったそうです。

秋本正義著『明治を夢みる』(非売品、1971)

秋本正義著『明治を夢みる』(非売品、1971)麹屋があった場所

跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

田山花袋|転居

文学と神楽坂

新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

 花袋は牛込で20年間を過ごした。明治19年、16歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年39年まで、11回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の30年——山の手の空気」を書いている。「」内は原文。

 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」(明治19年に)、という頃に上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
 日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明 正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治28年、東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正2年―3年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を2戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

 すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。