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白鳥橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。白鳥橋がテーマですが、もう1つ、大曲橋が出てきます。石川氏によれば、1代目は大曲橋、2代目で白鳥橋になったと主張します。しかし文献上では、大曲橋も西大曲橋も「大下水」を渡る橋で、江戸川(現在の神田川)の橋ではありません。
 現在の白鳥橋の竣工は昭和11年ですが、令和6年に架け替え工事が始まりました。

 白鳥橋(しらとりばし) 文京区後楽二丁目と水道一丁目のさかいを新宿区新小川町二丁目観世会館の前に渡した江戸川の橋で、この地点で川流が大きく屈曲しているため通称大曲おおまがりといわれて大曲橋が架されていたし、さらにその上流中之橋との間には西大曲橋とよぶ橋もあったが道路および河川改修によって撤去され、大曲橋のあとに架設された新橋白鳥橋と称する。大曲橋は明治19年橋梁明細表には「大曲り橋 江戸川町17番地に架す。長5尺5寸、幅26尺 石造」とあり、現在の白鳥橋は昭和11年の竣工で長29.8メートル、幅20メートルの鋼鈑橋である。橋名は白鳥池からとったもので、南向茶話に「江戸川中之橋の下水曲流の処は、往古大なる池にて白鳥池と号す。今埋れてその余池、南の方久永氏邸地内に残れり。」とあり、また新撰東京名所図会も「白鳥橋 江戸川中之橋の下流にて、隆慶橋の方に屈曲し居る淵を大曲おおまがりという。此処最も深く、かの有名なるむらさきこいは今なお此辺に残り居れり。又今の2丁目(新小川町)10番地内に池あり。これぞ白鳥池の名残りという。」と記す。

観世会館 観世能楽堂。1900年の観世会の創立時に建設。観世流の活動拠点。1972年、新宿区新小川町(大曲)から渋谷区松涛に移転。 さらに銀座に再移転。

1970年 住宅地図

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから飯田橋に近いふなわらばしまでの神田川を昭和40年以前に江戸川と呼びます。
白鳥橋 「新撰東京名所図会」が発行された明治37年には白鳥橋は全くありません。その後、新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)を調べると、白鳥橋は明治40年にはあり(328頁)、明治43年になくなり(330頁)、大正11年にまた出てきます(332頁)。 また、明治29年の東京郵便電信局編の東京市小石川区全図、明治40年の東京郵便局の番地入東京市小石川区全図、大正10年の東京逓信局編の東京市小石川区 です。この明治40年の地図は橋と電車線路が道路のない場所に描かれ、建設計画を先取りしたものでしょう。

 一方、小石川新聞社編『礫川要覧』(小石川新聞社、明治43年)で白鳥橋は「明治42年の落成にて電車線路たり」と記録しています。 また、東京市電・都電路線史年表でも、明治42年12月30日、(小石川)表町(のちの伝通院前)と大曲(旧・新小川町二丁目)との間で初めて電車がつながりました。
 また、古い白鳥橋の写真が2枚出て来ました。この2枚、かなり違っていて、一方は石橋、もう一方は木造橋で路面電車が渡っています。どちらかが間違えている可能性が大きいようです。

白鳥橋。東京市小石川区「小石川区史」(1935年)から

「江戸川」の「白鳥橋」と「大曲」三井住友トラスト不動産

大曲橋 昭和10年「小石川区史」によれば、昭和6年9月末日、小石川区内橋梁表(市土水局橋梁課調)では「橋名、大曲橋。河川名、大下水。架設位置、江戸川町17。橋種、石造。橋長、1,818米。巾員、20,909米。面積、8,93平米。工費・着手年月・竣功年月は不明」。つまり、大曲橋は1.8メートルしかない短い橋でした。下の地図で、左右の大下水が神田川に流れ込んでいます。大曲橋は江戸川(神田川)ではなく、この大下水に架かっていた橋です。また、江戸川町17に架設してあるようで、右側の青い円でしょう。

東京実測図。明治20年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年

西大曲橋 昭和10年「小石川区史」で、明治19年の橋梁明細調(東京府文献叢書乙集18)を調べてみると、この橋は「西江戸川町1番地先に架す」る橋。地先じさきとは所有地等と地続きの地で、反別や石高がなく、自由に使える土地。また、昭和6年の「小石川区内橋架表」(市土水局橋梁課調)では大下水に架かった橋でした(昭和10年「小石川区史」)。「西江戸川町1番地先」ということから、上の地図の楕円の左側部分の細い流れに架かっていた橋です。
大曲橋のあとに架設された新橋 大曲橋は大下水の橋、白鳥橋は神田川の橋です。大正10年の東京逓信局編の地図では、白鳥橋の開通後も大下水が江戸川に流れ込んでいる様子が描かれています。おそらく大曲橋も、道路の一部として働いていました。
橋梁明細表 昭和10年の「小石川区史」によれば、この表は東京府文献叢書乙集18にあります。
江戸川町十七番地 現在、江戸川町がありませんが、明治20年では江戸川町があり、17番地は上図の文字「川 17」にあたる範囲です。実際は「戸」と「川」の中間地点から江戸川に向かって流れています。これが大下水の一部です。
長五尺五寸、幅二十六尺 1尺は約30.3cm。したがって長1m66cm、幅8m18cm。
鋼鈑 こうはん。鋼板。圧延機で板状に延ばした鋼鉄。鉄板てっぱんとほぼ同じ。純粋な「鉄」に炭素やマンガン等の成分を加えて強度や靭性じんせいを増したものを「鋼」
南向茶話 なんこうちゃわ。酒井忠昌著。寛延四年(1749)~明和二年(1765)。江戸の地誌を問答形式で記したもの。
久永氏 小日向小石川牛込北辺絵図の「久永」氏は中央に

小日向小石川牛込北辺絵図 嘉永2年(1849)

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
紫鯉 十方庵敬順氏の「遊歴雑記初編」(嘉永4年)「紫鯉」では「中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しきゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根トネガワの鯉、これにツグべしとなん」(「中の橋」の大部分は深くて、鯉も数多くいる。橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ以上と思える緋鯉も見える。中の橋の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはみんな鯉だ。どれも肥えて太っている。一匹一匹は丸くて丈は短いようだ。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る
名残りという。 新撰東京名所図会では続けて「この久永の邸は即ち今の川田邸にて、此池現存し中島あり丹頂の鶴を飼へり」で終わっています。下図は大正11年の川田男爵邸です。

大正11年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年0

目白通り工事(写真)新小川町 昭和45年 ID 473, 13055, 13081-85

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473、13055、13081-85は、昭和45年1月に目白通り、神田川、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。資料名は「新小川町二丁目大曲付近」です。しかし、住居表示が変わり、2丁目はなくなってただの「新小川町」になりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13055 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13084 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13085 新小川町二丁目大曲付近

 ID 13055、13084-85は南側から北側の大曲までを撮影しています。目白通りは2車線ずつの対面通行で、神田川の上に首都高があり、その下で川を渡るのは白鳥橋です。目白通りを通るとT字型の「大曲交差点」となります。信号機は一見すると確認できませんが、カバーなどで覆われているだけでしょう。
 白鳥橋の上、首都高が途切れたようになっていてるのは、後に飯田橋料金所を作る場所です。
 首都高の下、向かって右側の歩道はおそらく利用ができず、バリケードやブロック、チェーンスタンド、コンクリートの土管らしきもの、大きな円環3つなどが並んでいます。作業小屋もあります。歩道の縁石をまたいで何台かの車が止まっています。おそらく工事のためでしょう。
 左手前から奥に向けて、ヘルメット姿の作業員達は目白通りを大きく掘削しています。鉄骨や、穴を掘るための鉄板が並んでいます。
 目白通りの地下には神田川の洪水対策として江戸川橋分水路があります。しかし東京都の資料によれば建設年は昭和47ー52年で、写真と時期があいません。また平面図で見ると、分水路が作られたのは神田川寄りで、写真とは反対側です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設」としています。現在の都の下水道台帳を調べると、江戸川橋分水路に沿って「早稲田幹線」があるのが分かります。工事は、この下水管に関係したものでしょう。

下水道台帳 大曲付近

 少し前の昭和44年9月のID 12776-79では、大曲付近の掘削はまだ着手していないように見えます。まず下水管を整備し、そのあとで分水路の建設に着手したのでしょう。
 ID 13085では、目白通りを「東京タワー」と書いたバスが北進中。また、トレードマーク「フクスケ」の広告塔は、福助株式会社でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473 飯田橋大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13081 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13082 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13083 新小川町二丁目大曲付近

 ID 473、ID 13081-83は、南向きの撮影で、遠くに飯田橋交差点の歩道橋が見えます。首都高の下の橋は隆慶橋です。
 写真右の掘削工事は飯田橋交差点方向に続いています。手前に「工事許可要件」の告知看板が立てかけられていますが、詳細は確認していません。
 右側の歩道は、工事によってやや狭くなっているように見えます。掘削部は一定間隔で鉄板を敷き、車道に出られるようにしています。歩道の回りにはトレードマーク「/出光」「日産サービス」の看板があり、これは昭和52年のID 12216に写っているものと同じです。その隣奥の少し引っ込んだビルは東京電力新小川町変電所。やや離れて「モリサワ」「(東海)銀行」の屋上看板が見えます。ほかに電柱広告「印刷ローラー 博文社」「歯科 田◯」「質 長島」などが確認できます。
 写真左上、首都高の上には「↖飯田橋出口/本線↑」の標識があり、本線の向こうに飯田橋出口のランプが見えます。その上には屋上広告「鹿島をひらく 鶴屋産業」があります。

首都高速5号線(写真)水道町 東五軒町 新小川町 昭和52年 ID 12205、12208、12215-16

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205、12208、12215-16は、昭和52年(1977)5月、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋から江戸川橋までの写真です。
 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。飯田橋-江戸川橋間は新宿区と文京区の区境にあたり、神田川の中を通っています。
 さらにID 12205、12215-16は備考として「新小川町一丁目付近 隆慶橋」、ID 12208は「水道一丁目 新小川町三丁目」をあげています。昭和57年の住居表示実施に伴い、丁目を廃止し、新小川町だけとなりました。また「水道一丁目」は「文京区水道一丁目」が普通ですが、「文京区水道二丁目」「新宿区水道町」もありえます。

(1)新宿区水道町。西向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205 首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋

 高速道路は右奥へと曲がっています。神田川のこの付近には、江戸期から「大曲おおまがり」と呼ばれた急カーブがありました。
 しかしこの写真は大曲ではありません。首都高の大曲付近の橋脚は、川を挟むように2本の足を持つ「門形」で、写真の1本足の「T型」とは違います。また左側に見える歩道橋も大曲と飯田橋交差点の間にはありません。
 該当する場所は目白通りの新宿区水道町から西向きに石切いしきりばし方向を撮影したものです。橋脚の形や歩道橋、首都高がふくらんだ「非常駐車帯」の位置、高速の下の道が(三角コーンで仕切られて)対面通行になっている様子なども合致します。

現在の新宿区水道町 Google

 なお、ID 12205の備考の説明は「新小川町一丁目付近 隆慶橋」ですが、「新宿区水道町 石切橋付近」としておきます。
 歩道橋の手前が石切橋交差点です。田口政典氏の「歩いて見ました東京の街」の1976年(昭和51)12月2日の写真06-09-54-2「下流から石切橋を」では古くて狭い石切橋が写っています。ID 12205でも、かろうじて確認できます。

 ID 12205の「安」「全」「+」の工事柵の向こうの小さな橋は、おそらく工事時の架設の橋でしょう。

(2)新宿区東五軒町。東向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12208 首都高速道路5号線 水道一丁目 新小川町三丁目

 東五軒町の北、目白通りを東向きに撮影しています。(1)のID 12205から飯田橋側に寄ったところで、位置としてはざくらばしのたもとです。
 首都高の柱の左側を神田川が流れます。川の小さななかはしも写っています。文京区側につながる斜めの橋が見えています。この橋は中ノ橋と白鳥橋しらとりばしの間にあり、「新白鳥橋」と命名されました。また「(TOP)PAN」(凸版印刷)の印刷工場は川の北側で、この場所は文京区水道一丁目にあたります。
 写真の正面奥、首都高が右に丸く膨らんでいるのが飯田橋料金所です。広がった部分を支える大きな門形の橋脚が分かります。料金所付近から右に「大曲」のカーブになります。写真右端の(共同石油)のガソリンスタンドから先は新小川町(昔の新小川町3丁目)です。
 また、地上を走る上り車線は正面の柵の奥、信号の場所で左右2本に分かれます。高速に出入り口を設置すると、どうしても道幅が狭くなってしまいます。そこで目白通りの一部を左の文京区側に通すことで交通渋滞を減らすことを狙いました。
 地上でまっすぐ奥につながる道は飯田橋に向かう目白通りの上り車線です。工事のため車が走っていません。
 以下の上り車線と下り車線はどちらも地上の車線です。

昭和54年 新白鳥橋付近(地理院地図 整理番号 CKT794 コース番号 C10 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14)に加筆。

整理番号 CKT794 コース番号 C10B 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14(昭54

現在の目白通り

 この区間の目白通りの地下には、神田川の洪水対策のための「江戸川橋分水路」があります。この分水路は昭和52年に完成しました。写真は完成直前の様子を撮影したものでしょう。高速の柱の下には、地下に降りるオレンジ色の階段入り口があります。

神田川と目白通り地下(分水路・地下鉄)の断面図(東京都建設局市料)

 新小川町付近は大雨のたびに神田川の洪水が繰り返されてきましたが、分水路の完成によってリスクは小さくなりました。


(3)新小川町(かつての一丁目)付近。北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12215 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 新小川町の東側の目白通りから、首都高の飯田橋料金所の建設風景を撮影しています。首都高の下は神田川。正面が大曲の急カーブ。背中側に隆慶橋や飯田橋交差点があります。
 首都高では出入口を「ランプ(ramp、高低差のある場所を連結する傾斜路)」と呼びます。インターチェンジ(interchange、IC、複数の道路を相互に接続する施設)やジャンクション(junction、接合点、合流点)と違い、特定方向にしか行けないからです。写真の飯田橋ランプは、目白通りから首都高5号線の北池袋方面に進入するためだけの入り口です。
 冒頭に記したように、5号線のこの区間は1969年(昭和44年)6月に開業していますが、この写真を撮影した1977年(昭和52年)でも、まだ飯田橋ランブは建設中でした。
 もう1点、特徴的なのは、三角コーンを境に対面通行になり、車が手前向きに走っていることです。この状態では、北に向かう車がランプの坂を上れません。
 撮影当時、高速道路の真下はID 12208と同様に神田川の「江戸川橋分水路」を建設していました。このため下り車線を狭めて、対向車の通るスペースを確保したのでしょう。目白通りの整備は高速道路だけでなく、地下の分水路、その下の地下鉄有楽町線の建設を含めて、非常に長期にわたりました。
 この写真の撮影場所は後に大々的に区画整理され、平成28年に放射25号線が開通。「新隆慶橋」という新しい橋が架けられました。

 ID 12215の左には「国際航空輸(送)」(かつては新小川町一丁目5)の看板がありますが、今は何も残っていません。高速道路の向こうの「日本信販」の広告は文京区です。

(4)新小川町(一丁目)付近 北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12216 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 ID 12215とほぼ同じ場所で、道を渡った高速の真下から道沿いの建物を撮影したものです。
 建設中の坂道が、飯田橋料金所に上がる首都高のランプ。その手前の坂のように見えるのは目白通りの上り車線です。一番右にガードレールが見えます。
 この区間は神田川の「江戸川橋分水路」建設のため通行止めになっています。一番、奥に工事車両が見えます。その先は新白鳥橋に分岐する交差点があります。
 道路脇の建物は新小川町で、出光とロゴマーク()と看板「全軽和」、ナショナル(現、パナソニック)のロゴマーク()などが見えます。「全軽印」の看板のビルの左は東京電力新小川町変電所で、現在も変わりません。その左側の消火栓広告は「きもの英」です。

川柳江戸名所図会③|至文堂

文学と神楽坂

 次は「江戸川」です。「神田川」は、東京都の井の頭池を泉源にして、中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川ですが、そのうち中流部、つまり、関口大洗おおあらいぜきからスタートし、外堀と合流するふな河原かわら橋の川までを、1965年(昭和40年)以前には「江戸川」と呼んでいました。ちなみに当時の上流部は神田上水、下流部は神田川と呼んでいました。1965年(昭和40年)、河川法が改正され、神田上水、江戸川、神田川3つをあわせて「神田川」と呼ぶようになりました。

江 戸 川

ここで江戸川をさかのぼってみる事にする。井の頭に発する上水が、関口で分れ、一方は神田上水としてやや上を流れて、後楽園を過ぎ、神田川水道橋の所でで渡って神田に入るが、他方は落ちてこの江戸川となり、東へ流れ、大曲と称する辺から南流して、お濠へ合流して神田川となる。
 橋は関口橋江戸川橋華水橋掃部橋古川橋石切橋大橋ともいう)・中の橋、曲ってから隆慶橋とんど橋である。
 中の橋の辺りは、白鳥が池といったという。後に、大曲のところにかけられた橋を白鳥橋というのはその故であろう。

神田上水と旧江戸川

江戸川 ここでは神田川中流のこと。神田上水の余水を文京区関口台の江戸川橋付近で受け、飯田橋付近で外堀の水を併せて神田川となる。現在、神田上水、江戸川、神田川はすべて神田川になる。
井の頭 いのかしら。東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる地区。中央に武蔵野最大の湧水池である井の頭池がある。神田川の源流。
上水 飲料などで管や溝を通して供給する水。水道水。汚物の除去や殺菌が行われている。
関口 文京区西部の目白台と神田川にまたがる地域。地名の起源は、江戸最初の上水道、神田上水の取入口、大洗おおあらいぜきがあったため。
神田上水 江戸初期、徳川家康が開削した日本最古の上水道。上図を。現在は廃止。
後楽園 文京区にある旧水戸藩江戸上屋敷の庭園。中心に池を設け、その周囲を巡りながら観賞する。上図を。
神田川 東京都の中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川。昔は上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川といった。
水道橋 千代田と文京両区境の神田川にかかる橋。地名は江戸時代に神田上水からの導水管を渡す橋があったため。
 とい。水を送り流すため、竹・木などで作った溝や管。神田上水の水道橋では上空をわたす管、掛樋かけひがありました。
神田に入る 神田上水は小石川後楽園を超えると、水道橋駅の先の懸樋(上図の右下を参照)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。橋は白鳥橋と呼ぶ。

延宝7年(1679年)「江戸大絵図」

関口橋 関口の由来には、奥州街道の関所とする説と神田上水の大洗ぜきとする二説がある。せきとは「河川の開水路を横断し流水の上を越流させる工作物」。
江戸川橋 「江戸川」とはかつて神田川中流部分(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1km)の名称。江戸川橋は中流域で最初の橋梁
華水橋 はなみずばし。江戸川の桜並木と関係があるのか、わかりません。
掃部橋 かもんばし。江戸時代、橋のそばに吉岡掃部という紺屋があったことから。
古川橋 昔、神田川は古川ふるかわと称した時期があり、橋の南詰側には昭和42年まで西古川町、東古川町の地名があった。
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」
大橋 おおはし。石切橋のこと。
中の橋 中ノ橋。なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
とんど橋 現在は船河原ふなかわらばし。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がして、ほかに「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていた。
白鳥が池 大曲から飯田橋に至る少し手前まで、大昔には「白鳥池」という大きな池があったようですが、延宝7年(1679年)の「増補江戸大絵図絵入」(上図参照)ではもうありません。
白鳥橋 しらとりばし。湿地帯で、神田川の大きな池があったという。

 さて、この川には紫色を帯びた大きな鯉が多くいて美味であったところから、幕府御用として漁獲禁断の場〈お留川〉となっていた。
    鯉までも紫に成江戸の水        (明三信1)
    お上りの鯉紫の水に住み         (三七・25)
 江戸は紫染のよいところであった。
    こくせうになぞとほしがる御留川     (二七・28)
 こくせうは〈濃汁(こくしょう)〉、鯉を濃い味噌汁でよく煮たもの、いま〈鯉こく〉という。
    奪人の無いむらさきの御留川      (一三五・33)
    紫を人の奪ぬ御留川          (六〇・2)
論語に「子日、紫之奪朱也。」とあり、意味は間色が正色を乱すことであるという。その語を借りたしゃれである。

 紫色を帯びた大きな鯉が多かったというおそらく事実は、岡本綺堂氏が小説「むらさき鯉」でも書いています。

お留川 おとめかわ。御留川。河川や湖沼で、領主の漁場として一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
紫染 紫根染。しこんぞめ。ムラサキ(紫)の根から抽出した染料を使った染色。灰汁を媒染とする。
こくせう 濃漿。こくしょう。魚や野菜などを煮込んだ濃い味噌汁。鯉こくなど。
鯉こく こいこく。鯉濃。鯉を筒切りにして、味噌汁で時間をかけて煮込んだ料理。「鯉の濃漿」から
奪人 人から奪う、獲得するなどの意味。
論語 孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。
悪紫之奪朱也 紫の朱を奪うをにくむ。朱が正色なのに、今では間色の紫が朱に代って用いられることがあるが、これには警戒したい。「奪」は地位を奪う、取って代わる、圧倒する。

    江戸川小松川鶴の御場      (一一二・34)
 葛飾の小松川は幕府の鶴の猟場であった。
    車胤王祥江戸川の名所なり      (一ニー・21)
 鯉のほか、螢も名物であった。昔、支那の晋の車胤という者、家が貧しくて油が買えず、螢を集めて本を読んだという故事は、「螢の光」という歌で知られている。
 王祥は、二十四孝の一人で、冬に継母が鯉が食べたいというので、川の氷の上に寝ころんでいると、氷がとけて鯉が躍り出、捕えて母に供したという話がある。
 螢について「絵本風俗往来」には「螢の名所は、落合姿見橋の辺・王子谷中螢沢目白下江戸川のほとり……」とある。姿見橋や、目白下はこの川のすぐ上流であるから、この川一帯にも見られたのであろう。
 橋の内、石切橋のしも、大曲のかみにかかる橋が〈中の橋〉である。この辺りを〈鯉ヶ崎〉とも言った。
    中の橋一本ほしひと言所         (明二仁5)
    むらさきの鯉濁らぬ橋の下        (二八・5)
 橋の名は、日本橋・新橋のように、連声で「ばし」と濁音になることが多いが、中の橋は濁らず清んで訓むということと、濁らぬ水ということもかけているのであろう。

小松川 東京府南葛飾郡小松川村は「つる御成おなり」と呼ぶ鶴の猟場でした。
御場 普通は「御場」は幕府の御鷹場おたかばのこと。鷹場は鷹狩りを行う場所。
猟場 りょうば。狩りをするのに適している場所。かりば
車胤 しゃいん(不明~400)。中国東晋の官吏、学者、政治家。灯油を買うことができず、蛍の光で勉強した話で有名。
王祥 おうしょう(185~269)。継母にも孝行を尽くし、生魚を食べたいというので、真冬に凍った池に行き、服を脱ぎ氷の上に横になった。氷が溶けて割れ、大きな鯉が二匹躍り出た。王祥は捕まえて継母に捧げ、継母も王祥をかわいがったという。
故事 昔あった事柄。古い事。昔から伝わってきている、いわれのある事柄。古くからの由緒のあること。
二十四孝 にじゅうしこう。中国古来の代表的な親孝行の24人。虞舜、漢の文帝、曽参・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老萊子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅。
絵本風俗往来 正しくは「江戸府内 絵本風俗往来」。明治38年、江戸の好事家が江戸の町の移り変わりや町家・武家の行事のさまざまを300枚以上の大判挿絵を添えて描いた本。蛍については「中編巻之参」5月で出ています。
姿見橋 おちあいすがたみばし。姿見の橋と面影橋は別々の橋なのか、同じ橋なのか、私には不明です、新宿区がだした「俤の橋・姿見の橋」を参考までに。
王子 東京都北区中部の地名。桜で有名な飛鳥あすか山公園がある。
谷中螢沢 やなかほたるさわ。近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」がありました。
目白下江戸川 めじろしたえどがわ。目白台下にある江戸川(神田川)に大洗堰があり、また桜で有名でした。
鯉ヶ崎 「江戸志」では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひははなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる、此川の内中の橋の邉を鯉か崎といへりといふ」と書いています。
むらさきの鯉 紫色を帯びた鯉が多かったため。