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路地・小路・神楽坂

文学と神楽坂

村松友視

 村松友視氏がエッセイ集「風の町 夢あるき」(徳間書店、1984年、文庫版 1987年)のなかで「路地・小路・神楽坂」を書いています。
 氏は小説家で、中央公論社で「小説中央公論」「婦人公論」「海」などを編集、1980年「私、プロレスの味方です」で流行作家に。1982年「時代屋の女房」で第87回直木賞を受賞。生年は1940年4月10日。

〽あなたのリードで 島田もゆれる チークダンスの悩ましさ……子供のころ、神楽坂はん子が映画に出ているのをよく見た。あの当時、ばんじゅんの主演するハチャメチャ映画に芸者が出てくれば、久保幸江か神楽坂はん子が出てきたものだ。久保幸江の方は、トンコ節を歌ってニッコリ笑っているだけだったが、神楽坂はん子は何やら芝居めいたシーンもあり、色気の部分を受けもってウィンクなどをやっていた。ウィンクをすればお色気というのだから、まことに戦後的という感じだが、高島田で芸者姿のウィンクも捨てたもんじゃなかった、とまあ、言っておこう。
 神楽坂というくらいだから坂だろうと思ってやってくると、やはり神楽坂は坂だった……こんな感想を抱きながら、飯田橋からの坂道をのぼったのは今から二十年ほど前、私は大学の三年だった。
 京都から出て来た叔父が、よく神楽坂の旅館へ泊っていて、私はその叔父をたずねてはじめて神楽坂の坂をのぼった。叔父は東映京都のシナリオライター、仕事の打合せや執筆のため使っていたのが、その旅館だった。あのころ祖父と祖母をたてつづけに失った私に、叔父はいくらかの小遣いをくれたようにおぼえている。その小遣いが楽しみで、私は何度か神楽坂をのぼったのである。
 大学を出て出版社につとめた私は、文芸雑誌に配属されると同時に、野坂昭如さんの担当を買って出た。「買って出た」という言い方は、この業界ではピンとくるのだが、読者諸君にはにおちないかもしれない。ま、いろいろあるけれど、野坂昭如さんという作家は、原稿を入手するまでがなかなか大変だという通説があって、その通説は事実と符合していたということでございます。
 だが、「エロ事師」からはじまって「ほねとうげ死人ほとけかずら」にいたる野坂昭如さんの作品に、私などは完全にしびれていた。つまり、野坂昭如さんの担当を「買って出る」意味は、私の中には十分すぎるほどあったのだった。
 で、それから私の編集者時代を思うとき、ぜったいに抜くことのできない、野坂昭如さんという作家とのライブが始まった。私は、編集者と読者のあいだにある決定的なちがいは、作家とのライブの時間の有無にあると思っている。編集者が鋭い読者であるという見方は、私の場合は当っていなかった。すくなくとも鋭い読者は、それこそゴマンと存在したはずだ。だが、どんな鋭い読者にもないもの、それは編集者である私の、野坂昭如さんとの特権的なライブの時間なのだ。
〽あなたの 1952年「ゲイシャ・ワルツ」の歌詞。一番は「あなたのリードで島田もゆれる チークダンスのなやましさ みだれる裾もはずかしうれし ゲイシャ・ワルツは思い出ワルツ」
島田 島田髷。日本髪の代表的な髪形。
チークダンス 和製英語でcheek+dance。男女が互いにほおを寄せ合って踊るダンス。
伴淳 伴淳三郎。俳優。大衆演劇を転々とし、1927年日活に入社。1951年、驚きを表す〈アジャ・パー〉のせりふが大流行し、一躍人気コメディアンに。
久保幸江 くぼゆきえ。日本コロムビア社の新人歌手になり「トンコ節」が大ヒット曲に。
トンコ節 1949年1月に久保幸江と楠木繁夫のデュエットとして日本コロムビアから発売された曲。歌詞は「あなたのくれた 帯どめの 達磨の模様が チョイト気にかかる」
叔父 村松道平。父方のおじ。脚本家
神楽坂の旅館 「和可菜」です。
野坂昭如 小説家。早稲田大学仏文科退学。童謡「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞賞。小説は「エロ事師たち」直木賞受賞作の「火垂るの墓」「骨餓身峠死人葛」「真夜中のマリア」など。生年は昭和5年10月10日、没年は2015年12月9日。享年は満85歳。
エロ事師 エロ事師たち。性にまつわる人間たちの悲喜劇を描く。お上の目をかいくぐり、世の男どもにあらゆる享楽の手管を提供する、これすなわち「エロ事師」の生業なり――享楽と猥雑の真っ只中で、したたかに棲息する主人公・スブやん。他人を勃たせるのはお手のもの
骨餓身峠死人葛 九州の入海をながめる丘陵で最も峻嶮な峠「骨餓身」。昭和初期、その奥にある葛炭坑を舞台に繰り広げられる近親相姦の地獄絵、異常な美の世界。磨き上げられた濃密な文体で綴られる野坂文学の極致。
ライブ ラジオ・テレビなどの、録音・録画でない放送。生放送。生演奏。

 そんなライブの時間帯の断面に、神楽坂のという旅館が浮上してくる。締切がすぎて覚悟をきめると、野坂昭如さんは自ら神楽坂の旅館へこもって執筆をする。そこへ、担当編集者であった私も追いかけていって部屋を取って泊る……ま、張り込みですわな。
 神楽坂の中腹にある毘沙門びしゃもんさまを背に道の反対側をながめると、紳士服専門のテーラーと、婦人洋品店がならんでいる。その二軒のあいだに、これはもう路地というよりスキ間という趣きの通りみちがあり、そこを入ってゆく。向うからヒトがひとり来れば躯を斜めにしなければ行きちがえないほどの小路だが、いかにも神楽坂界隈かいわいといった風情だ。両側に黒板塀のある極端に細い小路……写真にでも撮れば、なまじちゃんとした路地なんかより神楽坂っぽいというあんばいだ。
 これを見て私は、三島由紀夫家のロココ調を思い出した。ミニチュア、盆栽的スケールの口ココ調なのに、写真に撮れば立派なロココ調という感じの三島家に、私は一度だけうかがってそんなことを感じていた。そう言えば、三島由紀夫さんは、野坂昭如さんの才能をもっとも認めていたヒトのひとりだっけ……そんな思いを胸に、極端にせまい小路をあるき、二、三度段々を降りるようにして進むと、右手に黒板塀のWがある。原稿は果して何枚……期待と不安をはかりにかけるようにして戸をあけるのが、つい一年ちょっと前までつづいた。
 81年の10月に出版社をやめた私は、何だか知らないけれどやたらに忙しい身の上となり、やめた直後に、“いかにしたらヒマをつくれるか”という方策を思案する始末だった。そしてまた一年たったが、やはりそのテーマは解決されず、同じテーマを二年目にもちこそうとしている。そんな矢先に、住んでいた古家の柱は腐りすきま風は吹き雨はもるといった状態を解決しようと、思い切って建て直すことにしてしまった。それはいいのだが、仕事のできる場所がなければ……思いあぐねた私は、またもや神楽坂へやってきた。
 この東京で、私が旅館のヒトと顔見知りなのはWしかない。で、頼み込んで二週間ほどとうりゅうすることになったが、野坂昭如さんをカンヅメにした旅館で、わりに平然と仕事をしている自分の性格にもどこか欠落があるなと感じつつ、やはり平然と原稿などを書いている。これはもう、持って生れた私の鈍感さ、図々しさであり、これがまた皆の衆の前で仕事をする立場には多少は便利だという、実にどうも困ったものでございます。
 ま、それはともかく、私は何度目かの神楽坂体験をしているわけだ。引っ越しまがいに荷物をもち込んだ私の部屋は、旅館のカンヅメの風景というより、逃亡中の犯人の仮の宿といったふうになっている。テレビを見るためにはかなり無理をして首を回さなければならず、座椅子に腰かけて切り炬燵ごたつに足をつつ込んでいる。目の前には小さなスタンドと原稿用紙、こうなれば仕事をするしかないという、まことに便利というか野暮な設定である。
紳士服専門のテーラーと、婦人洋品店「テーラー島田」と「あわや」です。

1984年。住宅地図。

ロココ調 バロックに続く時代の美術様式を指す。豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココという
盆栽的スケール 篠山紀信氏の「三島由紀夫の家」(美術出版社、2000年)では、庭園に小さな石像があり、内装の優美さと比べて、玄関も応接室も食堂も、家そのものが小さいのです。

篠山紀信「三島由紀夫の家」美術出版社、2000年

篠山紀信「三島由紀夫の家」美術出版社、2000年

切り炬燵 床に炉を切って、下に火入れを作った炬燵。

 ある朝、私は人声で目をさました。すると、「ヨーイ、スタート!」とか、「はい、カット!」とかいう言葉が聞え、私は窓を開けようかとも思ったが、面倒くさくなってやめていた。朝めしのとき旅館のヒトに聞くと、「何か、山本陽子さんが門から出てくるところを撮りたいって言うんで……」私は、旅館のヒトの言葉と朝めしのぜんを置きざりにして窓をあけ、写真に撮れば極め付という小路を上からながめたが、当然、あとのまつりだった。
 深呼吸をして座椅子へもどり、朝めしにとりかかろうとして、私はハシを宙に浮かせたままになった。さっき窓をあけて上からながめた小路のたたずまいを、私はずっと以前にも見たことがあるような気がしたからだった。
「あの、東映でシナリオ書いてたムラマツという者をごぞんじですか……」
 私の向けた言葉に、旅館のヒトはおどろいてしばらく口を手でおさえていた。私が学生時代に小遣いを楽しみにやってきた旅館は、このWだったのだ。あらためて窓をあけた私は、写真に撮れば極め付の神楽坂の小路を、ながいこと見おろしていた。ときどき、目の下を急ぎ足のヒトが行き来する。そんな師走らしい光景は、写真に撮らなくても極め付だった。

山本陽子

山本陽子 女優。1942年生まれ、東京都出身。日活ニューフェイスとして芸能界へ。清楚な顔立ちと高い演技力で、清純な女性から悪女までを幅広く演じ女優としての地位を確立。

鷲尾浩(雨工)|矢来町

鷲尾浩

鷲尾浩

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「矢来・江戸川」の一部です。ここで出てくる鷲尾わしお氏ってどんな人でしょう。
 私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行く…
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、売ったりする店。書店。本屋。
鷲尾浩 早稲田大学文学士。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。

 また尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には
 矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾 (のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。
 大正15年の、秋の末だった。それまでに二三度は顔を出しでゐたその店へ私が一人で入って行くと、六七人の一座が、店中を占領したやうなおもむきで飲んでゐた。私は少し離れたところで、ちびりちびりやり始めた。
  空白1つがあります。「浩」がはいるはずでしたが。

 筆名の鷲尾雨工うこうという名前も出てきています。
 本名の鷲尾浩氏も「人間直木の美醜」(中央公論、昭和9年)でこう書いています。
 僕が牛込矢来で江戸屋というおでん屋をやった時分から、僕と直木(註。三十五氏)の関係を知っていた人々は、なぜ直木を訪ねないのか、と訝しんだ。
 まず「日本の古本屋」で「鷲尾浩」氏を引いてみます。鷲尾浩氏は「新亜細亜行進曲」を除いて、「男と女」「性の心理」「売淫と花柳病」「愛と苦痛」などはすべて大正10~11年、冬夏社から出た本で、性愛で一杯のものでした。
 一方、「鷲尾雨工」氏は違います。昭和10年、南北朝時代の武将・楠正儀を描いた「吉野朝太平記」を発表し、11年、それで第2回直木賞を受賞。「小説明智光秀」「関ケ原」「明智光秀」「伊逹政宗」「豊臣秀吉」「若き家康」「開拓者秀衡」「甲越軍記」「武家大名懐勘定物語」と書いていきます。つまり、本名の鷲尾浩氏はもっぱら性愛について書き、筆名の鷲尾雨工氏は、直木賞を受賞し、大衆文学の歴史物について書いていました。
 では江戸屋の場所は? 塩浦林也氏の「鷲尾雨工の生涯」(恒文社、平成4年)では
 大正14年5月、雨工は住まい探しのため一人で山卯の別宅等に幾日間か滞在して、六日付『都新聞』に「江戸家」の売り広告を見付け、それを居抜きのまま買った。住まいと生活手段とを、一挙に解決しようとしたのであろう。
 神楽坂から少し離れた矢来町の、それも最上等ではない江戸家にねらいをつけたというのは、「このたびの資金など親戚からも一文も出ず」、山卯も「それに対して資金の融通もしてくれなかった」ので、「殆んど無一文」(鷲尾倫子「私の記録」)だったからであるが、別に、学生時代以来熟知の土地で、山卯の別宅(西五軒町三番地。赤城神社右奥)にも近く、神楽坂周辺が早稲田膝元の繁華街として早稲田派文士の集まる所だと知っていたからでもある。

大正11年東京市牛込区(江戸屋)

大正11年東京市牛込区(江戸屋は赤点)


塩浦林也「鷲尾雨工の生涯」(恒文社、平成4年)から


 さらに「鷲尾雨工の生涯」を続けます。
 一家が江戸家に移ったのは大正14年5月末だった。
 江戸家の位置は、牛込区矢来町22番地の表通りに面した所(現・松下文具店の位置)である。ほぼ筋向かいの地にお住まいの岡田啓蔵氏によれば、岡田氏宅の正面が千葉博己宅だったとのことだから、22番地から20番地の間に5軒あったことになる。地図で見るとそれぞれの区画が約4間幅だから、若干の大小はあってもほどんどの家が約2間間口で、22番地にも、ともに2間間口の江戸家と金子洋服店が立っていた。
 江戸家の外見は、2階建の正面上部いっぱいに「江戸家」の横看板があり、入口にのれんが掛かっていたようだと岡田氏は語られる。家の内部は、「店の土間には板がはってあり、ガタ/\と歩くたびにうるさい音がするのです。その土間を上ったところが4畳半。それに台所が板敷きで、真中に水道の蛇口があって廻りを管のやうに囲んであり、坐ってお茶碗でも何でも洗ふのです。こんな台所も都合のよいものでした。2階が3畳、4畳半とあって老母2人で2階は一杯ですから、私共は4人(引用行注――雨エ、倫子、長男、二男)で4畳半。それも荷物の中に人間がはさまったやうな、あんな生活がよくも出来たものと唐寒さを覚えます」(「私の記録」)と倫子が書いている。
 なお、坂学会会長の山野氏の言では、中央の坂は「おぼろの坂」というようです。また、見にくいですが、隣のアイコン「おでん」は鷲尾氏の家を指しています。現在は「シーフードダイナーFINGERS神楽坂店」です。

島田清次郎1|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

奇矯な流行作家

 大正時代の今日でいうベストセラーを挙げると、夏目漱石有島武郎埒外におくと、江馬修「受難者」(大正五年刊)倉田百三「出家とその弟子」(大正六年刊)島田清次郎 「地上」(大正八年刊)賀川豊彦「死線を越えて」(大正九年刊)であろう。これらのうち、今日なお読み継がれているのは「出家とその弟子」だけだ。ベストセラー作品のはかなさといったものを、痛感する。
 弱冠二十歳の無名作家が一躍ベストセラー作家になり、そのかわり三十一歳の若さで精神病院で狂死した「地上」の作者島田清次郎は、だが、ベストセラー作家の地位を保っているあいだ、つぎつぎと奇矯な振舞いにおよぴ、それらの振舞いで当時の文壇にさんざん話題をまいたものだ。その委細は、杉森久英氏の直木賞作品 「天才と狂人の間」に尽くされている。ぼくはたまたま清次郎の晩年の姿を一瞥しているので、それを書いておきたいとおもう。当時の新聞紙上を賑わした海軍少将令嬢監禁のいわゆる島清事件を契機にして、ジャーナリズムからすっかり締め出しを食らい、急転直下、零落して行った清次郎の姿は、はなはだドラマティックでもあったからだ。

奇矯 ききょう。言動が普通と違っていること。
埒外 らちがい。ある物事の範囲の外
江馬修 江馬修えまなかし。小説家。田山花袋にまなび、『早稲田文学』の「酒」でデビュー。大正5年「受難者」が評判に。関東大震災後、人道主義から社会主義にうつり、「戦旗」に作品を発表。長編歴史小説「山の民」の完成に力をそそぐ。生年は明治22年12月12日。没年は昭和50年1月23日。85歳。
「受難者」 青春の愛と苦悩を描く長編小説。
倉田百三倉田百三 くらたひゃくぞう。劇作家、評論家。病気のため第一高等学校を中退、キリスト教を中心とする思索生活に。大正5〜6年、『白樺』の衛星誌『生命の川』に戯曲『出家とその弟子』を連載、一躍有名作家に。大正期宗教文学ブームの先駆者。生年は明治24年2月23日。没年は昭和18年2月12日。53歳。
「出家とその弟子」 戯曲。大正5年に発表。親鸞の子の善鸞と弟子の唯円の信仰と恋愛問題を通し「歎異抄」の教えを戯曲化。青空文庫で無料で読める。
島田清次郎島田清次郎 しまだせいじろう。嶋田清次郎。石川県出身。大正8年、生田長江ちょうこう氏の推薦で出版した「地上」が大ベストセラーに。大正11年の欧州旅行後は精神をやみ、療養中に死亡。生年は明治32年2月26日。没年は昭和5年4月29日。32歳。
「地上」 自伝的長編小説。大正8年、第1部「地に潜むもの」を刊行。以降、第2部「地に叛くもの」、第3部「静かなる暴風」、第4部「燃ゆる大地」を順次刊行。
賀川豊彦賀川豊彦 かがわとよひこ。キリスト教伝道者。社会運動家。神戸神学校に入学したが肺結核となり療養。 明治42年、神戸新川で極貧の人々とともに生活しながら伝道。大正9年、自伝的小説「死線を越えて」を発表し、ベストセラーに。生年は明治21年7月10日。没年は昭和35年4月23日。71歳。
「死線を越えて」 長編小説。大正9年、改造社より刊行。神戸葺合新川で隣人愛を実践し貧民救済に尽力した主人公の半生記。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで無料で読める。
杉森久英2杉森久英 すぎもりひさひで。第二次大戦後、河出書房にはいり、「文芸」編集長に。昭和37年、島田清次郎の生涯をえがいた「天才と狂人の間」で直木賞。平成5年、伝記小説に一時代を画した功績で菊池寛賞。生年は明治45年3月23日。没年は平成9年1月20日。84歳。
天才と狂人の間 1962年、同郷の作家、島田清次郎を描いた伝記小説。
島清事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。その後、島田氏に令嬢を脅迫監禁し、金品を強奪したという容疑が持ち上がり、警察は島田氏を拘引、事情聴取を行った。舟木家は監禁事件として訴えたが、令嬢の手紙が決め手となり、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落した。
零落 れいらく。おちぶれること。

サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

 (さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。肴町から若松町のほうへ十二、三げん行った右側だ。竹中のおやじから金を受けとると、おゝ一、新(もう言わなくともよかろう)……木々高太郎博士の温顔おんがんを胸に浮かべつゝ、早稲田へと向かう。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
ロシア菓子ヴィクトリア どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。本文で出てくる「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」でしょう。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。
 また『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では

 洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました。

松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では

山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。

この六丁目の本屋さんは「文悠」(神楽坂6丁目8、「よしや」の東)です。これがロシア菓子ヴィクトリアだったのでしょうか。下の地図では「カンコーバ(文明館)」(現在は「よしや」)と「シャシン」(現在は「とんかつ大野」)との間に「ロシア菓子ヴィクトリア」が入ることになります。

神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。本文の「ロシア菓子の前に東電がある」からすると、東京電力はおそらく神楽坂通りの南側で、向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば

 矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。

となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。

昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図2葉もありました。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」から「Family Mart」になっています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

「マクドナルド 神楽坂駅前店」。現在は「Family Mart」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

 僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。

赤城元町11番地 この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。