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天下泰平文壇与太物語

文学と神楽坂

 高山辰三氏の「天下泰平文壇与太物語」(牧民社、大正4年)です。高山氏は早稲田大学を多分卒業し、「美術と趣味社」の編集長でした。生年は1892年、没年は1956年。
 この本を開けると文人10人が「序」を書いています。「自序」を加えて総計11人。まず「序」のうち2人を取り上げて見てみましょう。


 高山君が初めてやって来て、私にも序文を書けと言う。
 私は前に高山君に会った事がない。従ってそのとなり、、、をも知らない。一見したところでは高山君と言うよりは横山よこやま君と呼びたいような気がする。容も声もまるまるとして如何にも横に広いという感じがする。
 文壇与太物語は如何なる書物か、私は全くその内容を知らない。もし文字通りのヨタ話ならば、これまた丸々とした感じを与えるものであろうが、見ては正に横山君と呼びたい人の、その名は意外にも高山君である如く、このヨタ話も案外ヨタではなくして辛辣なものかも知れない。出版された後で見るとオヤオヤと恐れ入るようなものかも知れない。うっかり不見転で序文を書くのは冒険かも知れないが……。
 お題から見ても、この内容は我々文士仲間の噂話と思われる。それ人の噂をする事は人生快楽の尤なるものである。下は裏長屋の女房連より上は大臣議員の晩餐会に至るまで、その最も賑わうものは人の噂である。面白い事これ上なけれども、余り品のよいものには非ず。要するに75日位にて綺麗に忘れてしまうべきものだ。之を紙に記して世に公けにするは多少罪たるの感なき能わずと難も、本書に限り天下、、泰平、、とのお断りさえある事なれは、吾々序文書きの者共も全く無罪放免たるよしと信ず。
  大正四年御即位御大典の月
生 方 敏 郎

不見転 みずてん。後先を考えずに事を行うこと。芸者などが、金しだいで見さかいなく誰にでもすぐに身をまかせること。
生方敏郎 うぶかたとしろう。随筆家、評論家。早稲田大学英文科卒。「東京朝日新聞」の記者から文筆家に。『明治大正見聞史』が有名。軍国主義の世相を批判した。生年は明治15年8月24日、没年は昭和44年8月6日。86歳。


 与太物語序文、先日唐突の間によく話も承らずに場合によっては書いて宜しいというような事をいいましたが、あの時はあとから改めて御話のある事と思ったからでした。またそれが当り前の事だと信じます。ところが今日明後日までに是非書けとの御催促に接し少々驚きました。その内容については少しも知らない書物——わけてもそれが自分達と一緒に生活している現実の人々の実生活に関したゴシップであるという——そういった書物の序文を空想で書くというような無責任な事がどうして出来ましょうか。この義は平におことわり致します。
 これは小生自分の良心に対してどうしても出来ない事です。どんな人のどんなゴシップが書いてあるかわけもわからぬのに、どうして序文の書きようがありましょう。それを貶するにしても、また推奨するにしても影も形もないものに対しては神ならぬ僕の不可能の事として平におことわり致します。
 貴兄も一寸考えてくだされば、僕の心持がよく御了解出来ることと思います。
  11月16日
 高 山 辰 三 兄

 と、まあ、こういった文章が11個もあります。相馬御風では「文壇与太物語」の序文は書かないとはっきり拒否しています。それがそのまま序文として登場しています。いったい著作権はどうなっているの? 大正の世は穏やかでした。
 では本来の「文壇与太物語」に行ってみましょう。

   近松秋江となめくじと女
■蛇のような未練 『別れたる妻に與ふる手紙』というだらしない小説を書いて、間男と逃げられた妻にながながと蛇のやうな未練をのべた秋江の話が、たまたま、ある夜のカフェーで、文壇の毒舌家A氏の口から滑り出た。
 「秋江は色情狂だよ。あいつはね、ええと妻君に逃げられた当時だから、だいぶん前のことだが、ある日、蒼白な顔で僕の室へ飛び込んで来て、がたがたふるえているんだ。いったいどうしたんだ? ときくと、襲われるようにきょ・・とき・・ょと・・しながら、『いや、君、僕は怖ろしくてしょうがないんだ!  気違になりそうだ!  実はね、僕は先刻昼寝をしていたんだがね、丁度眼のまえで、妻が間男と寝ている夢を見たんだ。はっと・・・思って眼が醒めると、僕は裸足で戸外へとび出して、手にナイフを握っているんだ! その瞬間、僕はもう怖ろしくて怖ろしくて、どうしょうもないんで、君のところへ飛び込んだんだ!』って、それでなくてさえ、いやに蒼白い顔を、胸が悪くなるほど蒼くしてがたがたふるえているんだ。」
■秋江と女の足袋 同じA氏の話「秋江がね、いつか田中王堂のところへ遊びに行ったんだね。二人共、ひるまなかから、自慰をやっているような奴らだろう。二人で夢中になって、わけのわからん哲学を喋っていたんだね。そこへ、突然往来から、気違が飛び込んで来て、いきなり後から秋江の首をしめたんだそうだ。秋江きゃ・・と一声悶掻き出すと、あのちっぽけな王堂、一世一代の勇をふるって、気狂の後から、しっかと抱き止めたものだ。而してその気狂を戸外に引きずり出して、室へ帰って見ると、肝心の秋江がいない!!! そのはずさ、当の秋江は、あまりの急な変事に顛動して、足袋裸足のまま、往来へ飛び出して、田中の家から近い、千葉掬香の邸へ飛び込んで行った。千葉の殿様の邸みたいな玄関に立つて、葡萄酒! 葡萄酒と怒鳴っている。千葉の妻君が、その声に驚いて、飛び出して見ると、汚ない服装みなりをした乞食みたいな男が蒼くふるえて、ドラマティックな声を出してしきりに葡萄酒! 葡萄酒! とどなっている。それがよく見ると秋江だとわかって、何のことか、わからんが、とにかく上げて、床をのべて寝かして、葡萄酒をのましたんだね。而して、暫らくすると、正気にかえったから、様子をきくと、こうこうだというので、妻は枕元で笑をしのんで坐っていた。すると、秋江、そろりそろりと、千葉の妻君の方へすり寄ってくるので千葉の妻、ついにたまらなくなって逃げだしてしまった。それでも、帰るときには、泥まみれになった足袋の代りに自分の白い足袋をくれて、下駄をかしてやった。ところが、秋江のやつ、自分の小さい足によくあう、その貰った足袋に随喜してよろこんで、それからというものは、白いのが真黒になるまで、はいていて、誰にも彼にも、君、これは千葉の妻君に貰ったんだよ! と足袋に接物もしかねない様子なんだ。一方千葉は、それからというものは、徳田という男は色きちがいだ。あんな奴以後決して寄せつけはしないと憤慨してるそうだ。」
別れたる妻に與ふる手紙 小説は「別れたる妻に送る手紙」です。
田中王堂 たなか おうどう。哲学者・評論家。京都の同志社などからシカゴ大学卒。デューイの思想を学び、日本にプラグマティズム哲学を紹介。東京工業学校の哲学担当教授、東京専門学校(現、早稲田大学)教授、立大教授を歴任。生年は慶応3年12月30日(1868)、没年は昭和7年5月9日(1932)
悶掻く 「もがく」でしょう。踠く。藻掻く。もだえ苦しんで手足をやたらに動かす。あがく。
しっかと 確と。聢と。しっかりと。かたく。
而して 「しこうして」そうして。それに加えて。「しかして」そして。それから。
千葉掬香 ちばきくこう。青山学院卒、エール大学卒。早稲田大学で教鞭を執った。生年は明治3年6月26日、没年は昭和13年12月27日。69歳。
随喜 ずいき。他人が善いことをするのをみて、これに従い、喜ぶこと。
   谷崎潤一郎氏の変態性欲
 女装して浅草を歩いて見たり、女の鼻汁をべロべロなめたりする潤一郎氏の変態性欲は誰でも知っている有名な事実だが、これも一種の色情狂さ!。
■変態性欲という変った研究も面白いが、読者をして、笑わせるような態度がいけないと誰かがいったと思う、全くのことだ。潤一郎氏の態度は不真面目でいけない。どうせディレッタントだから仕方がないやうなものの。
三木露風氏と並べられて、麗々しく、本郷下宿業組合の未払者の貼出しの中に、氏の名前を見たのは、大分古くからのことだ。
■しかし、文章は実にうまいものだ、その雅かな、すらすらとした、而して豊艶さにはいつも敬服する。
■創作としては、このほど、萬朝報をひいたという弟精二君の方が、この頃しっかりしたいいものを書くようになったと思う。
ディレッタント dilettante。専門家ではないが、文学・芸術を愛好し、趣味生活にあこがれる人。こう家。半可通。
新講談 講談は張り扇で釈台を叩きパパンという音を響かせて調子良く語る芸。新講談は書き講談ともいい、調子良く書いたもの。
雅か 雅びか。みやびか。雅びやか。みやびやか。上品で優雅な。風流な。
萬朝報をひいた この場合の「ひく」は不明。「引き寄せ操って目ざす所に伴う」でしょうか?
精二 谷崎精二。小説家・英文学者。萬朝報記者。文芸同人雑誌「奇蹟」、のち「早稲田文学」に作品を発表する。昭和23年から35年まで早大文学部部長。生年は明治23(1890)年12月19日。没年は昭和46(1971)年12月14日。80歳。

   昇曙夢氏と松井須磨子
■曙夢氏を訪ねて、談たまたま芝居に及んだ。と、氏は急に語調をかえて、「君、すま子の住所を知りませんかねえ?」ときかれる。「さあ、嶋村さんと一しょに、何でも水道町あたりだとききましたが、しっかり覚えておりませんが……一体何ですか」とむらむらと起る好奇心を、強いて押えて答をまつと、「いや、……実は、先達、博多の興行先から、博多の女帯を贈っくれたのだが、住所が解らんので、つい礼状も出さずにいたから……。」とはて、面妖な、昇さんにすま子が、女帯を贈る、わが厳粛な昇氏(正教神学校及び陸軍中央幼年学校講師)……どうも変だ、しかし、これは、解って見れば何でもないことだ、曙夢氏は、二葉亭の死後、いまの日本で、ロシヤ文学のオーソリティとしての氏は、よくつねに劇のことについて相談をうける、その御礼として、近来ますます商売気を起して、一生・・懸命・・愛嬌をふりまくすま子から、女帯は奥様への贈物となったとて驚くほどのことはない。
■氏は今年から、早稲田の文科にロシヤ文学を講じているが、まことに悦ぶべきことである。しかし、いまや氏の実に見事な長い八字ひげは、短かく刈られてない。直ちに表象し得るの故を以て、珍重してみたところの漫画家とともに、あの美髭を痛切に惜しむ。
昇曙夢 のぼり しょむ。ロシア文学者。明治36年、ニコライ正教神学校卒業。神学校講師、陸軍士官学校教授、早大、日大などの講師を歴任。生年は明治11年7月17日。没年は昭和33年11月22日。80歳。

   相馬御風氏と昔の恋人
評壇の寵児御風氏 いまの日本の評壇を一人で背負って立っているかの如き御風氏はたしかに幸運児である。勿論その幸運は氏の頭のいいのと、利巧なのとの贈物である。氏はまたかなりな精力家なのも気もちがいい。而して、氏の主義主張はその著『自我生活と文学』『毒薬の盛』『御風論集』『個人主義思潮』に於て、とにかくに終始一貫した雄々しい態度がある。たとえ大杉氏に何といわれようとも、武者小路実篤氏に『軽薄なヒョットコ』といわれようとも、私は氏を尊敬する。
むかしの恋人小口みち子 さる年、御風氏の子どもが病気で、歌舞伎座の近くの某病院に入院させた。氏は毎日病院で看護していたが、夕方にさえなれば、ちょっと散歩に出かける。どこへ行くのかと思うと、銀座の灯の下をさまようのである、しかも、あの優しいしっとりした舗石の上を歩くのかというと大違いだ。毎晩毎晩銀座の町のうす暗い露地の闇へ消える。そしてまたひょっこり外の露地から出てくる。いつたい何をしているのか思えば、むかしの恋人、今の青柳有美先生の『畏敬せんとしつつある』古くして而して新らしい女丈夫小口みち子の家を探していたのだという。
■その小口みち子は、今、あたりで、美顔術の先生をしているそうな。しかし、今になってはもう御風氏が、その家を探す心配もあるまい。この女、かつて、青柳有美の中央公論に書いた『かくあるべき女』を見て憤慨し有美を扶桑新聞社に訪ねて、『私は今日青柳有美を殺しに来たんだ!』と、その権幕に恐れて流石の有美先生も隠れてしまい、記者の松本青峰に会わせた。あの美しい顔で、……恐ろしいことだという古い噂がある。
衆望 しゅうぼう。多くの人々から寄せられる期待・人望
小口みち子 歌人、婦人運動家、美顔術研究家。平民社、売文社に参加し、短歌、俳句、小説を「へちまの花」などに寄稿。
青柳有美 あおやぎゆうび。ジャーナリスト、随筆家。明治26年から「女学雑誌」にかかわり、のち主幹。大正では「女の世界」の主筆
松本青峰 ジャーナリスト、小説家。

   加能作ちゃんと北海道の女優
文章世界の加能の作ちゃん 風邪と称して一週間ばかり家に引籠っている。親友の某氏奇怪なことだと訪ねて見ると、どこも悪そうにもない、「どうしたんだ?」ときいて見ると実は女優にふられた恋かぜ、、だとわかった。なあんのこった、柄にもない——その相手というのは北海道の産××××子。知ってる人は知ってる筈、芸術産の第一回公演の際に、北海道から女優志願とあって、はるばる上京して、めでたく舞台を踏んだ二人の姉妹のことさ。即ちこの話も、その折のことだから、まあ三年ほど前のことだ。
加能の作ちゃん 加能作次郎です。
文章世界 博文館の文芸雑誌。1906年(明治39)3月~20年(大正9)12月。全204冊。その後、翌21年1月『新文学』と改題したが、12月廃刊。12冊。編集長は田山たい、長谷川天渓てんけい、加能作次郎。国木田どっtの『二老人』(1908)、島崎藤村 とうそん の『桜の実の熟する時』(1914)などを載せ、自然主義全盛の時期にはその推進の拠点となった。
三年ほど前 大正元年でしょう。

   森鴎外博士のケーヤレス・ミステーク
■博士のドイツ語の力は、実に堂々たるものだが、あまり堂々すぎるので、時々 Careless mistake.があるそうだ。それは註解なんかあっても、てんで、そんなものは見ないのだという。
 ハウブトマンの『寂しき人々』の中で、「春の鳥」という言葉がある。註解に「春の鳥とは蝶をいう」とあるのを注意せずに、平気で「春の鳥」と訳しているのは、可愛らしいと誰かがいっていた。
森鴎外博士の糞 ある日、森さんが折柄の来客に向っての話に「僕は近来、糞というものについて、非常な興味を持っている。で、糞の話を三つばかし書いて見ようと思う。まあきいてくれたまえ。その一つはこんな筋なんだ。まず京都に、富豪の道楽息子がいることにする。その息子はもう散々遊びつくして、所謂アブノーマルな遊び方でなくてはどうしても興味が無くなり、満足が出来なくなっていて、何か人間をあっ、、と驚かしてやろうと考え込んでいる中、ある晩、ふと夜店で、何ともつかつぬ太い銅の筒を、つい買わされる。すると彼はそれを持て祇園の茶屋に行って、界隈のならず者を全部狩り出して、酒を呑ましてどんどん騒ぐ。その揚句に深更、そこを出て往来に立つと、糞をひれという。而してやがて、各々に先きの太い筒にひらせて、それを上から押し出しては、ごろり、、、と大道のまん中へ置き、都大路に落して歩き帰ってしまう。それが翌朝になると大変だ、京都市中は大騒きになる。『よんべ天狗はんが町をお歩きやして、大きなうんこ、、、をおとしやしたんえ!』人々は大通りの、人造の大きな糞の周囲に集って眼を丸くして、中には恐怖の眉を震わすものが随分ある。道楽息子は手を打って喜ぶ。というんだ。これに類似した話は支那にもあるが、どうです面白いでしょう。ハァハハハ。も一つはねえ……」話はまだ続くが、あんまり芳しい話でもないからこれ丈にして置く。これは支那の俚話のやき直しらしい。
つかつぬ 「つかぬ」だとすると「思いがけない、考えもしない、全く期待や希望に反している、とっぴな、だしぬけな」
ひれ ひる。放る。体外へ出す。ひりだす。
俚話 「りわ」か? げんは、昔から人々の生活の中で言い慣わされてきた、知恵や教訓や風刺の意を込めた短い言葉

   夏目漱石氏の電話
■漱石氏の家の電話は、いつも受話器をはずして置くという。ある人これを主人漱石氏に叩けば、
「電話はこっちからかける時にだけ必要なんだ!」となるほど受話器をはずして置けばいくら先方が、かけようたって、通じないわけだ。ここらが例の漱石流というのだろう。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂15|心のふるさと

文学と神楽坂


心のふるさと
 神楽坂附近の散歩が長くなり過ぎて、早稲田方面に費すべき予定の時間が殆ど無くなってしまった。早稲田は私の「心のふるさと」である。大学を中心として、あの附近一帯から戸塚落合の方にまでも、至る処に私は私の足跡を見ざることなく、見るものすべてなつかしい思い出の種ならざるはないが、今は一々その跡を尋ねて歩く暇のないのを惜しく思う。
  (都の西北、早稲田の森に……)
 今はそこらの幼稚園の生徒でも、何かというとすぐ口癖のように歌い出す程あまねくひろまったこのなつかしい「われ等が母校」の歌が、はじめて「早稲田の森」から歌い出されたのは、明治四十年の秋、大学創立二十五年記念祭の折のことだった。私はその年の春大学に入ったのであるが、いわばあの歌は、当時在学の私達によってはじめて歌われ出したのであった。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達全校の学生を集め、あの巨体を前後左右に振り廻し、あの独特の大きな両眼をぎろつかせ、渾身こんしんこれ熱これ力といった有様で指揮棒を振り、私達にあの歌詞(相馬御風氏作)と曲譜とを教えたのであったが、記念祭の当日大隈故侯の銅像除幕式をはじめ色々の祝典が催され、夜には盛んな提灯行列が行われて、今の野球々場を振出しに、鶴巻町通りから矢来神楽坂を経、九段からお濠に沿うて宮城二重橋前まで、はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。

早稲田大学

心のふるさと『大東京繁昌記』。早稲田大学です

戸塚落合 以前の戸塚村と落合村。新宿区の全体は地図上では牛1頭によく似ています。で、戸塚村と落合村はこの頭と背中に当たります。高田馬場などになりました。
新宿区
大講堂 昭和2年に竣工した早稲田大学大隈記念講堂(大隈講堂)ではありません。その以前の講堂です。早稲田大学校友会の『早稲田大学八十年の歩み』(1962年)では赤で囲んだ校舎「へ」が当時の講堂になっています。
早稲田2
相馬御風 そうま ぎょふう。生年は1883年(明治16年)7月10日。享年は1950年(昭和25年)5月8日。詩人・歌人・評論家。早稲田大学文学部哲学科卒業。早稲田大学校歌「都の西北」をはじめ、多くの校歌や童謡の作詞者
大隈 大隈重信。おおくましげのぶ。生年は天保9年2月16日(1838年3月11日)。享年は大正11年(1922年)1月10日。政治家、教育者。政治家としては大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員など。早稲田大学の創設者で、初代総長。
野球々場 現在は早稲田大学総合学術情報センターです。
野球場
鶴巻町通り 現在の「早大通り」。昔は鶴巻(町)通りともいいました。鶴巻町通りの範囲は早大正門前から山吹町交差点まで。なお、提灯行列をしたのは以下の通り。ルートは早稲田大学から二重橋前までです。
早稲田32

彷彿 ありありと想像すること。よく似ているものを見て、そのものを思い浮かべること

 爾来星霜ここ二十年、大学それ自身の発展や拡張も、当時に比して実に隔世の感があるが、それにつれて附近一帯の変化発展も目ざましく、田甫の早稲田茗荷畑の早稲田は、今はただいたずらに其名を残すのみとなった。私が学校にいた頃には、今電車が走っている鶴巻町裏一帯の土地、即ち関口滝あたりからずっと先、遠く山吹の里なる面影橋附近まで一面の田野で、東電変圧所赤煉瓦あかれんがの建物が、その田圃の真中にただ一つぽつんと、あたりの田園的風光と不調和に、寂しくしかも物々しく立っているのみで、蛙の声が下宿屋の窓に手に取るように聞え、蛍の飛び交うのが見えたりしたものだったが、そうした旧時のおもかげなどはうの昔に跡方もなく、今は一面にぎっしり家が建て詰まり、すっかり見違えてしまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや場末的な感じながらもそこにまた一廓の繁華な盛り場を形造り、早稲田の中心鶴巻町通りの繁華を、次第にそこに移動せしめつつあるが如き観もないではない。

茗荷畑 江戸時代に早稲田村や中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町と山吹町)で生産しました。ここに生えるみょうがは赤みが美しく、大振りで晩生おくてのものでした。
鶴巻町 早稲田鶴巻町。早稲田村の鶴巻からとっています。元禄のころ、小石川村の放し飼いの鶴が早稲田村にも出没し、鶴巻町になりました。この中で真ん中を水平に通る道路は「早大通り」と呼び、以前は「鶴巻(町)通り」と呼びました。
早稲田鶴巻町
関口滝 明治43年の「牛込区の地形図」では下図で右の赤い四角です。
山吹の里 太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ると、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないという意味だと分かりました。この伝説の土地はいろいろありますが、その1つは都電荒川線面影橋の傍、豊島区高田1-18-1で、ここには「山吹の里の碑」があります。
面影橋 下図で左の赤い四角です。関口滝から面影橋まで周りは一面の「湿地」でした。
東電変圧所 下図で赤丸です。現在は、西早稲田1-13-17で、ここは東京電力早稲田家族寮がありました。この東電変圧所は赤レンガ造りで、明治の終わりに山梨県から高圧の電気を送っていました。下図を見ると、東電変圧所から南に大隈邸が見えます。これは大隈会館になり、現在は大隈庭園に変わっています。また中央左の運動場は早稲田大学運動場です。
関口滝から面影橋
道路 昭和4年の「戸塚町市街図」を見ると、運動場の南に新たな道路が生まれています。右図では右上から左下にかけての赤線の道路です。現在も同じ道路があります。
運動場1
 鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うことは、あの通りが大学前から一直線に山吹町羽衣館前まで、町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたりして、もっと感じのよい、品位にも富んだ、本当にいわゆる大学街といった風な、そして万余の学生諸君のためには、しっとりとした湿うるおいと温かい情味とに富んだ、心地よき散歩街ともなるようなものにならないだろうか、ということである。そうしたらどんなにいいだろう。又現に著々とその輪廓を整え、益々外観の美を増しつつある大学自身もどんなに引立って見えることだろう。穴八幡附近も、すぐ下に高等学院が出来たりしたためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。
 実は私は大学を中心として、それをめぐって近来異常な発展をなしつつあるいわゆる「早稲田」の名のもとにおける地方について、つぶさにその変遷推移の跡を尋ね、既往を回顧し現在を叙し学生々活の今昔をも物語るつもりであったが、与えられた回数がすでに尽きたので、一方にのみ偏して甚だ申し訳なき次第だが、止むなくこれを他日の機会に割愛し、ここにわが愛する「心のふるさと」なる母校並びに全早稲田のために万歳を三唱して、以てこの稿を終ることとする。(昭和二年六月)

山吹町羽衣館 赤城神社の氏子町の説明で「娯楽場として(一百九十三番地に明治四十二年四月建設)の常設活動写真羽衣館」があったと書いています。しかし、193番地はどこなのか、正確にはわかりません。昭和5年の『牛込区全図』では193番地がありません。
 また、『歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記』(http://blog.livedoor.jp/toden41/archives/21379053.html)では、「都電時代は早稲田の学生街に続く神楽坂の裏町としても賑わいを見せた一画で、電停跡地付近には「羽衣館」という映画館もありました。映画館は戦後も存続し、昭和末年頃にひっそりと姿を消しています」と書いています。
 1970年の「新宿区・1970年度版・渋木逸雄」(国立図書館)の地図では羽衣館はどこにもないのですが、「牛込文化劇場」がありました。「電停跡地付近」にあるので、ここでいいのでしょう。現在は「トヨタレンタリース東京山吹町店」です。

牛込文化劇場

散歩街 「大学前から一直線に町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたり」した道路が筆者の希望でした。しかし、実際にそうなってしまいました。こんな学生街はまあほかにはないと思います。
穴八幡 穴八幡宮。あなはちまんぐう。新宿区の市街地にある神社。利益は蟲封じ、商売繁盛や出世、開運など。旧称は高田八幡宮。下の絵では水色の丸。「高田馬場の流鏑馬」の標板があります。
高等学院 早稲田高等学院のこと。しかし、この高等学院は練馬区上石神井に移動し、現在は早稲田大学戸山図書館になっています。下の図では青の四角。
馬場下の通り 馬場下町を通る道路は1つだけです。したがって、最下図の1つしかありません。
旧高田馬場跡 馬場は寛永13年(1636)に作り、旗本の馬術の練習場でした。上は緑色の四角で。下は嘉永5年と現在。

江戸大絵図・嘉永5年

江戸大絵図・嘉永5年

現在の場所

下戸塚通り 下戸塚村には道路が複数あります。しかし、旧高田馬場跡という名前から考えられる通りは2つ。1つは旧高田馬場跡の上(下の図では旧高田馬場の上方の細い青)、1つは旧高田馬場跡の下(下方の太い青)。しかし下の1つははるかに幅が広いので、この通りでしょう。昭和5年にはもう下の通りのほうが広がっていました。この下の赤の点に標板「旧高田馬場跡」があります。
昭和五年戸塚・落合の地形図
既往 過去