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新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』1997年 神楽坂界隈・店舗

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(1997年)で岡崎公一氏は「神楽坂と縁日市」[9]「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」を書き、昭和5年と平成8年の神楽坂の商店の変遷を図示しています。

神楽坂界隈・店舗(pdf)

神楽坂界隈・店舗(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』1997年)

神楽坂1丁目(写真)昭和5年頃 ID 9378

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378は、昭和5年頃「牛込見附(現在は神楽坂下)」交差点近くから神楽坂1丁目などをねらい、また、この写真は東京市牛込区役所蔵版「牛込区史」(昭和5年3月31日、590-1頁)に出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378 神楽坂

 写真のキャプションでは……

  神樂坂の今昔 現在
 近時矢來より牛込見附の處、道路整備し就中見附より肴町に至るあたり、獨り毘沙門の縁日と云はず四時散策の人が絶へない。兩側店舗の家並みは落付きを見せ、そこに一鮎の情味さへ漂はせ神樂坂特有の氣分のみなぎつてゐる處、山の手方面には他にその類例がない。

牛込見附 これは「牛込見附」(現在の神楽坂下)交差点。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
肴町 現在の神楽坂5丁目

 紅白テープで巻かれた柱が坂下から坂上まで覆い、これは昭和10年に撮られた別の写真でも見られます。また、右2本目の柱に道路を照らす電灯もあると思います。「神楽坂通 善國寺」とも無理して読めるのぼり旗も沢山でています。
 電柱(電信電話柱)1本に数十本の架線がでています。多重通信はまだなく、1回線で電線1つが必要だったからです。
 前面に路面電車が走り、さらに左側には電力を供給する架線柱が見え、下を向いておそらく電灯が2つです。
 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」(平成9年)によれば、昭和5年、交差点「牛込見附」から上に向かって右手は「赤井足袋店、田中謄写堂、萩原傘店、山田屋文具、斉藤洋品店、みどりや、紀の善寿司」、左手は「寿徳庵菓子、畔柳氷店、伊勢屋乾物、翁庵そば、須田町食堂、東京堂洋品、陶仙亭中華」があったといいます。はっきり分かるのは右の角の赤井足袋店(足袋形の白地看板)、左の角の寿徳庵菓子(「大福」の看板)だけです。
 電柱の間から見える「名〇」の看板はID 7641と比べると赤井の隣と思われます。また寿徳庵の左には「古老の記憶」「私のなかの東京|野口冨士男」などによれば「娘義太夫の定席『琴富貴』」があったとありますが、残念ながら分かりません。寿徳庵前の電柱には「西條医院」(若宮町)と別の病院の広告が見えます。
 また右側の坂の中腹、ひときわ大きい入母屋屋根の3階建ては「場所的に佐和屋ではないか」と地元の人。

神楽坂1丁目(昭和5年頃)
  1. 電柱看板「西條醫院」「醫院」
  2. 寿徳庵(大きな看板「大福」)
  1. 赤井足袋店。足袋形の白地看板と看板「名」

大正期の神楽坂通り(写真)

文学と神楽坂

 1枚の写真があります。大正に撮られたものですが、店舗などは全くわかりません。インターネットではこの写真を2人があげていますが、出典を書く人ではない人もいて、結局わかりませんでした。不明のまま来たのですが、しかし、見つけました。新宿区教育委員会「新宿と文化」(昭和43年)の5頁です。

 しかし、これでは解像度は悪い。原典を探しましょう。で、探しました。原典は野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)でした(と最初は思っていました)。中古でも綺麗な本で、60年以上経っているとは考えられない本です。
 しかし、この写真の右端は切れています。「写真・東京の今昔」の写真は全く小さくなってはいないので、どうもこの原典の原典があり、「新宿と文化」の原典と「写真・東京の今昔」の原典はわずかに違っているようです。しかし、この原典の原典は国立国会図書館のコピーしかなく、解像度は悪いと予想され、ここで諦めました。ところが……

 私は諦めましたが、地元の方は違います。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯(大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号71を教えてもらいました(下図)。当時の東京市役所公園課が発行した写真集で、これが本当の原典の原典です。

 キャプションは「牛込見附より神樂町に通ずる坂路で、その阪上には、高田の穴八幡社の旅所ありて神輿此に渡御して神樂を奏するより名くと云ふ。坂路往来織るが如く、殷賑極むること他に多し観ざる所である」。なお、旅所たびしょは祭礼で、かつぎ出した みこし(神輿)をしばらく泊める所。るはいろいろなものを組みあわせて作ること。いんはさかん、しんはにぎやかで、賑は非常ににぎやかで活気があること。

 では、写真の詳細を見ましょう。最初は「名産 支那 甘栗」「一粒撰 風味絶佳」「々軒」「中華名産甘栗 来々軒」。
 現代でも「天津甘栗」と言いますが、来々軒という中華甘栗の専門店でした。「絶佳」は「ぜっか」で、「すぐれていて、形が整い美しいこと」。ちなみに牛込区史編纂会編「牛込町誌、第1巻」(大正10年)コマ番号89には山岸商店の写真がでていて、甘栗店が当時ポピュラーだったことが想像できます。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」(昭和45年、新宿区教育委員会)には「来々軒」も甘栗店も書かれていません。一方、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市 神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃として「松末軒中華」と「山本甘栗店」が出てきます。「甘栗 来々軒」と関係がありそうです。

 写真を坂上に見ていくと 次は「西洋御料理 松月亭」です。次の店名は縦に「神楽園」、その次は「圖書雑誌」店です。「圖」は「図」の旧字です。

 さらに奥に行くと「金〇製造/諸金物類」と書かれているようです。また靴のようなイラストがあり、と「陳列」もあります。
 では反対側は「〇〇歯科〇〇」と「タングス電球」が見えます。

 以上で手がかりは全てです。野沢寛著「写真・東京の今昔」では大正12年3月にこの写真は出たと書かれています。これから神楽坂2丁目にあるとしか考えられません。登っている場所は神楽坂2丁目か3丁目でしかなく、まず2丁目です。甘栗は昭和5年でしか売られていません。また、雑誌と金物が2つ並んで売っているのは大正11年から昭和5年ぐらい。
 こういったことを考えて、2丁目でも最も急になった坂道の直前にカメラをおいて撮ったものだと思います。

昭和5年は岡崎公一「神楽坂と縁日市」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から。大正11年は古老の記憶による関東大震災前の形『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)から

神楽坂2丁目(2021/5/14)