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福島中佐と単騎シベリヤ横断

文学と神楽坂

福島安正中佐

 一瀬幸三氏は「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」(新宿郷土会、新宿郷土研究史料叢書、平成2年)を書き、氏は高年になって郷土史家として発揮しています。
 一方、福島中佐は明治・大正の陸軍軍人で、維新後、大学南校に入学して英語を習い、明治7年、陸軍省に入り、明治15年に朝鮮に派遣、翌年北京公使館付武官となり、満州とモンゴル方面を踏査。明治20年、駐独武官としてバルカン半島を視察、帰国の際、ロシアのシベリア鉄道建設の状況視察のため、明治25年2月からベルリンからウラジオストクへと、1年4カ月かけて単騎横断を行いました。
 では、一瀬氏の記載に行きましょう。

     はじめに
 私は最早や80歳を越えた老人であるが、少年の頃は、単騎シベリヤ横断の快挙をなし遂げた、福島中佐(安正・後の大将)を英雄として崇拝していたものである。
 それというのも小学生当時は寄るとさわると、「偉い人だったんだってねえ」と、話合ったものである。そんなことから私の蒐集癖は福島中佐に関するものを手当りしだいに集めてきた。今ここにそれらを整理して置こうと小冊子を出すことにした。
 私の小学校入学は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)の谷村町高等尋常小学校で入学したのは、大正7年(1918年)4月であった。体操の時間や運動会には、必ずといっていいほど、福島中佐の作歌『波蘭(ポーランド)懐古』が、歌われこれに遊戯がついていて、いやでも自然に口遊むようになった。
 ところが、奇縁といおうか、福島中佐の居住地であった矢来町に近い山伏町に住むようになって、一層その念を強くして、ここにもはや忘れられた英雄の足跡を改めて記録しておこうと思ったことに外ならない。
都留市 地図参照
波蘭懐古 ポーランド懐古。明治の軍歌。作詞、落合直文。作曲、不詳。その1番は「ひと日ふた日は晴れたれど 三日四日五日は雨に風 道の悪しきに乗る駒も 踏みわづらひぬ野路山路」

 この勇姿はいろいろな形ででてきたという。著者蔵の例では……

雪の広野を行く福島中佐

壮挙を終え帰国した福島中佐

 福島中佐の快挙 明治25年(1892)2月11日ベルリンを出発して、単騎シベリヤ横断をおこなって、勇名を馳せた。福島安正陸軍中佐は、当時、牛込矢来三番地中の丸24号に居住していた。これについては後述する。
 中佐はドイツ駐在武官をしていた頃、陸軍省に対し、「中央アジアの政治・経済・国情の調査をして行かないと、国家百年の計は樹てられない」旨の上申を行い、これが軍部の容るところとなって、駐在武官の任期満了を機会に、明治25年2月11日を期して、単騎ベルリンを出発した。
 苦難の多いコース そして、ドイツ、ポーランド、欧露を横切って、オムスクに出て、それより馬をアルタイに向け、峻嶮をこえコブトウイヤスクタイウランバートルキヤクタイを経て、バイカル湖畔に出て、更にイルツクから再び引き返して、バイカル湖畔を東へと進み、ウェルフネウーヂンスクを通り、ブラゴエシチェンスクに至り、対岸の黒河より興安嶺山脈を横切って、チチハルに出て、ズンガリー(松花江)に沿って、キチリン(吉林)ニンクタコンジュン(琿春)を過ぎて、ボシエツト地方より、ウラジオストックに到着、ここでのその長途の騎馬旅行を終わっている。時に翌26年(1893年)6月であった。
オムスク ロシア連邦中南部の都市。カザフスタンとロシアにまたがるエルティシ川を通ってアルタイに向かう。
アルタイ 中央アジアの一地域
コブト ホブト。モンゴル西部ホブド県の県都。
ウイヤスクタイ ウリャスクタイ。モンゴル・ザブハン県の県都。
ウランバートル モンゴル国の首都。中国語ではクーロン(庫倫)。
キヤクタイ ロシア南部ブリヤート共和国のキャフタ市。
バイカル湖畔 ロシア南東部のシベリア連邦管区の三日月型の湖
イルツク イルクーツク。バイカル湖の西岸。
ウェルフネウーヂンスク 現在はウラン・ウデ。ヴェルフネウジンスク。東シベリアのロシア・ブリヤート共和国の首都。バイカル湖の南東約100km。
ブラゴエシチェンスク シベリア南部のアムール州の州都。対岸には中国黒河市がある。
黒河 中国黒竜江省の地級市。黒竜江右岸の河港都市。対岸にはシベリア南部ブラゴベシチェンスクがある。
興安嶺 こうあんれい。中国北東部にあるターシンアンリン(大興安嶺)山脈とシヤオシンアンリン(小興安嶺)山脈の総称。
チチハル 中国黒竜江省の直轄市。
キチリン(吉林) 中国東北部の省。省都は長春市。
ズンガリー(松花江) ソンホワチアン。松花江。しょうかこう。アムール川最大の支流。
ニンクタ 正しくはニングタ。寧古塔。現在は黒竜江省牡丹江市寧安市。
コンジュン(琿春) 中国吉林省の県級市
ボシエツト地方 クラスキノ町など。北朝鮮国境に近いポシェト湾岸に位置する。
ウラジオストック ロシアの極東部沿海地方の州都。
翌26年6月 全行程は1年4ヶ月かかったという。

アルタイ山脈の踏破。島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

福島中佐単騎旅行図絵

 それはそれとして、矢来町に住まわれるようになったのは、いつ頃からか不明であるが、単騎シベリヤ横断をなし遂げた頃は、すでに牛込区矢来町三番地に居住していた。
 ところが、この三番地というのは広範囲で現在の地図と比較すると、87番地から106番地までの広い区域である。
 しかし、中佐の居住を明細に記したものに明治43年(1910)10月の刊行になる中央電話局の「電話番号簿」には、
  番町 二四六 福島安正 牛、矢来三、中ノ丸24号
とある。そこで明治44年(1911)6月逓信協会の発行にかかわる「東京市牛込区」の地図を見ると矢来町中ノ丸は、現在の地名番地では、75番地に当たると見てよいだろう。ちょうど、新潮社のやや南横に当たるところである。
逓信協会「東京市牛込区」 これは新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』(昭和57年)326-7頁と同じ。「75番地に当たると見てよい」とはいえません。https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/search/uploads/2_ippanntizu.pdf

福島安正|矢来町

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた単騎でシベリアを横断した福島安正中佐が住んだ場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 これは泉鏡花さんに抱かれたよりも前のことと思うが、福島中佐がシベリヤ横断から帰って来て、馬に乗って自宅の門に入って行くところを、私は女中の背におぶわれて見たという記憶がある。
 福島安正中佐と云っても、今の多くの読者には知られていないことと思うが、日清戦争前に、シベリヤを馬に乗って単騎横断したというので、当時いわゆる「勇名」を天下に馳せた人であった。後には大将になった。
 矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。その後数年経って、私は中佐の息子たちと知合になって、よく屋敷に遊びに行ったが、あの頃は陸軍中佐があんな家に住むことができたのかと、今考えると不思議なほど、立派な広い屋敷であった。
 門の両側が堤になり、門は往来から少し引っ込んでいたが、その門前に近所の人々が人々を作っている前を、馬に乗った中佐が、軽く挙手の礼で人々の歓呼にこたえながら、しずかに門の内に入って行った光景を私は思えている…

福島中佐 福島安正。ふくしま やすまさ。生年は1852年10月27日(嘉永5年9月15日)。没年は1919年(大正8年)2月19日。陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
単騎横断 ただひとり馬に乗って横断すること。福島安正氏は1892年(明治25年)にシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、外蒙古、イルクーツク、東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査しています。この旅行が「シベリア単騎横断」と呼ばれています。
広い屋敷 豊田穣氏の『情報将校の先駆福島安正-ユーラシア大陸単騎横断』(1993年)では「明治九年、安正が石黒と同行して、アメリカから帰国して、安正が月四円の家賃の家に住んでいると聞くと、石黒は(安正が)神楽坂にある陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしてくれた」と書いてあります。ですから、この安正氏の家は軍医寮の1つで、たぶん広い屋敷だったのでしょう。なお、石黒忠悳(ただのり)は安正氏より七歳年上で、西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師になり、その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員になりました。
挙手の礼 右手を開いて指をそろえ、帽子のひさしの右端にあげて、相手に注目する敬礼。

福島中佐

新宿区地域文化部文化国際課『新宿文化絵図』(新宿区、2007年)

「矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。」を考えてみます。

 まず、広津和郎氏の家はこの濃青の四角の一部か全部です。「曲って」は、橙色の矢印を通って行き、「だらだら」は灰青色で書きました。

 なお、消防署が淡水色の場所にはありました。したがって、たぶん赤で書いた場所の1つが福島中佐の屋敷でしょう。

 また、明治37(1904)年の「新撰東京名所図会」によれば、福島中佐の住所は矢来町3丁目3の「中の丸24号」でした。

 以上おしまい……ではありません。福島中佐の屋敷を描いた地図が出てきました。これは地図資料編纂会編『地籍台帳・地籍地図』(東京市区調査会大正元年刊の複製、柏書房)です。これによれば、福島中佐の屋敷は矢来町8丁目で、その場所もはっきりと赤く書いてあります。なお、今までのここで推論したものは青色で書いてあります。矢来町1

 しかし、明治37年の「中の丸24号」は矢来町3丁目3にある(あざ)です。明治25年に単騎横断を行った時の住所は矢来町3丁目3(あざ)中の丸24号でした。矢来町8丁目ではありません。大正元年には福島中佐の住宅は矢来町8丁目に移りました。結局、広津和郎が覚えていることは正しかったと思います。以上これで本当に終わりです。