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神楽坂「ほてや」広田氏談

文学と神楽坂

 東京神楽坂「ほてや」の広田初蔵氏は「神楽坂花街今昔談」(そめとおり、染繊新報本社、1974年)で「の着物」について書いています。「出の着物」とは芸者さんが着る正月用の着物です。まず聞いたことかない「出の着物」って今もあるんでしょうか。

 出のキモノの着付けも
  神楽坂花街今昔談
       東京神楽坂「ほてや」広田初蔵氏
 最的に売放し一方の呉服屋が多く、多店化して、後向きの仕事をマメにする呉服屋も少い折柄、店は家族だけで、従業員は一人もおらず、店を大きくする気もなく、また表面的な甲斐性もない代りに斜陽化している神楽坂花街を、中心的な対象として、コツコツ商いしている「ほてや」のような呉服屋もある。以前から聞いていたがここの広田氏は、神楽坂花街の筋の通った芸妓の「出のキモノ」の着付けにかけては、神楽坂花街ではタッタ1人の名人であって、正月の神楽坂花街は、広田氏の着付けによって、華やかになっていく。(中略)
 箱屋がする「出のキモノ着付けの第一人者」と云う方が、花街相手の呉服屋らしく徹底していて良い。多店化して企業家振っている呉服屋が、マスコミを賑わせている反面に、昔乍らのこう云う呉服屋もあると云う紹介である。(山口)

半衿小物屋の母屋「ほてや」
 私は初代でして、奉公に上っておりました主人のお店が「ほてや」と申しまして、店の前の蕎麦屋の所にありました。
「ほてや」と申しますのは、主人から聞いておりましたところでは、京都では七福神の「ほていさん」の事でして、そこから縁起をとりまして「ほてや」と云う屋号にしたと聞いております。
出の着物 芸者さんの礼装である黒の「」(裾を引いた着物)。お正月、初めてお座敷へ出るときに着る。裾模様、帯は厚板を柳に結ぶ、白襟、髪は島田に限る、紋日、約束等の座敷に用ゆる妓の大礼服。


秋田魁新報。時代を語る・浅利京子(16)「出の着物」彩る正月

花街 かがい。はなまち。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。いろまち。花柳街。
広田氏 「ほてや」の主人。
箱屋 箱に入れた三味線を持ち、芸者の共をする者

 日本髪全盛の頃には、重宝な店として、大勢のお客様に支持されていたものでした。
 栄えますと、兎角油断が出来るものでして、遊里でよく遊んで歩いていました主人は、遂いにやっていけなくなりまして、昭和6年一杯に、店を閉じて了いました。
 私なんかは数少い戦前派の呉服屋と云えましよう。現在、神楽坂には、呉服屋と云うのは、私の店がタッタ1軒しかありませんが戦前は私の店を入れまして、合計四軒の呉服屋が、競争していたものでした。
 今は伊勢丹に合併されて、姿を消して了いました「ほていや」も戦前は神楽坂の表通りで、店を張っていましたし、半衿小物屋もありましたし、神楽坂花街が全盛だったように商店街も栄えていたものでした。
半衿 和服用の下着である襦袢に縫い付ける替え衿

 出のキモノを着せる人なし
 箱屋も昔は、神楽坂に大勢いましたが、今は検番に二人いますだけでして、それも検番の事務をやっているだけの事ですし、芸妓の着付けをしようともしません。
 正月の出のキモノの着付けと云うものは、箱屋が少くなりましたし、置屋の主人が、着付けをしていたものでした。
検番 その土地の料理屋・芸者屋・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所
置屋 芸者や遊女を抱えている家

 アフターケアーで私が着付けを
 別に誰に、着付けを教えられたと云う訳でもありませんが、私としては、商いをしていく上に於いて出のキモノの着付けを、覚えざるを得ません。
 いつの間にか、出のキモノの着付けでは、私が第一人者だと、云われるようになりましたけれど、神楽坂と云う箱屋のいない花街相手の呉服屋である以上は、これも店の特色の一つだと思っています。
 花街がある限りは、出のキモノがあり、その着付けが、要求されますが、箱屋の仕事までやっています私のような呉服屋は、日本中に私一人かも知れませんね。

行元寺|縁起

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年、品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。

 さて、江戸幕府は文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、文政12年(1829)に完成しました。史料としては「文政ぶんせい寺社じしゃ町方まちかた書上かきあげ」を提出せさました。江戸の町々や寺社から起立や由来などの詳細な調査した報告書です。総計は寺社方121冊,町方146冊にもなりました。

 行元寺の史料もあり、国会図書館の「牛込寺社書上」のコマ番号38から50です。うちコマ番号45から50は「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。
 この略縁起は、寛政10年(1798)、当時の行元寺住持じゅうじだった法印(つまり、最高の僧位)の海澄が作成し、当寺の起立・由緒、十一面千手観世音立像の効験・霊験などをまとめたものです。ちなみに「住持」とは、一寺を管理する主僧のこと。ここには明確な事実と判断できないものもあります。それでは「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。なお、この翻訳は新宿区生涯学習財団の「行元寺跡」(平成15年)に多くを担っています。

牛頭山千手院行元ぎょうがん寺千手観世音縁起
武蔵国豊島郡牛込郷牛頭山千手院行元寺ハ、台家たいけ高祖伝教慈覚両大師の開基累代古跡なり、古へ伝教大師東遊して此地に来り、一宇を建て行元寺と号す。所謂祖師当寺を開き、行法修行のもとなるを以てなり、然るに大師開基なりといへども、台家の法いまだ弘らず、寺号のみにして一宇成がたし、其後慈覚大師また此地に来り、先師開基の故を以て再興ありしより相続し、今に至るまで九百余年、台家不易の寺院なり、依之これを開基と申伝る事誠に故ある哉、祖師伝教当寺に於て不動明上ならびにこん迦羅がらせい吒迦たかの二童子を作り給ふ、代々護摩の本尊として今に鎮座まします、霊験古今に是多し、うや/\うしおもんじれば、本堂の千手観世音恵心大僧都の御作なり、むかし千手の示現ありて堂宇を建立し奉る、よりて千手院の名あり

 寺院の創立者(開基)は 天台宗を開いた最澄(767~822)で、「行法修行の元」であるという意味から「行元寺」と名づけられました。しかし、名ばかりの寺院となっていたところ、延暦寺の円仁(794~864)は当地に下向し、相続して再興しました。実証はできませんが、開基の時期は9世紀末から10世紀頃。行元寺の本尊である十一面千手観世音立像は恵心僧都源信(942~1017)の作で、当寺を千手院と呼ぶゆえんです。

[現代語訳] 武蔵国豊島郡牛込郷にある牛頭山千手院行元寺は、天台宗の高僧である伝教大師(最澄)と慈覚大師の2人が創立したもので、代を重ね、歴史に残る遺跡になっている。かつて伝教大師は東遊して、ここで下向し、棟一軒を建て、行元寺と呼んだ。いわゆる祖師はこの寺を開き、仏道を修行する元だという。しかし、大師は天台宗の仏法を広められず、家以外には寺号しかなかった。その後、慈覚大師は再びこの土地に来て、伝教大師の創立と聞き、再興をして、名前なども受けついだ。今にいたる900年余、天台宗の変わらない寺である。つまり、寺を創立したのは誠に由緒があるといえよう。伝教大師はこの寺で不動明上と、矜迦羅童子と制吒迦童子2人を作り、代々、護摩堂の仏様として今も鎮座している。神仏などの不可思議な力は古今に数多い。恭しく思えば、本堂の千手観世音は恵心大僧都の作品である。むかし千手観音の示現があり、堂の建物を建立したので、千手院の名がついた。

観世音 かんぜおん。観世音菩薩。世の人々の音声を観じて、その苦悩から救済する菩薩
縁起 仏教用語。社寺の由来。起源、沿革や由来。
台家 たいけ。天台宗の別称。
高祖 仏教。一宗一派を開いた高僧
伝教 伝教大師。でんぎょうだいし。最澄さいちょうの諡号。平安初期の僧。767~822。日本天台宗の祖。諡号しごうとは、生前のおこないをたたえ、死後におくる贈り名。
慈覚 慈覚大師。じかくだいし。円仁の諡号。平安初期の僧。794~864。最澄の業績を発展させ、天台宗の密教化に影響を与えた。
開基 寺院を創立すること。創立した人。開山。
累代 るいだい。古くは「るいたい」。代を重ねること。
古跡 歴史に残る有名な事件や建物などのあと。遺跡。
一宇 いちう。「宇」は軒、屋根のこと。一棟の家・建物。
行法 ぎょうほう。仏道を修行すること。
相続 先代に代わって、家名などを受け継ぐこと。
不易 ふえき。いつまでも変わらないこと。
 幷(ヘイ)の異体字。あわせる。ならぶ。ならびに。
童子 寺院へ入ってまだ剃髪ていはつはなく、仏典の読み方などを習って、雑役に従事する少年
護摩 不動明王などの前に壇を築き、火炉かろを設けてヌルデの木などを燃やして、煩悩を焼却し、併せて息災・降伏ごうぶくなどを祈願する修法。
護摩堂 護摩をたき修法を行うための仏堂。
鎮座 ちんざ。神霊が一定の場所にしずまっていること。
霊験 れいげん。人の祈請に応じて神仏などが示す不可思議な力の現れ
千手観世音 せんじゅかんぜおん。千手観音。千手観音菩薩。すべてのものを同時に見て同時に救う菩薩。
恵心大僧都 平安時代中期の天台宗の僧。942~1017。源信和尚。恵心えしん僧都そうずと尊称。
示現 神仏が霊験を示し現すこと。
堂宇 堂の建物。

その右大将源頼朝公伊豆国石橋山合戦の後、安房 上総をて武蔵にいたり給ふみぎり、当寺の千手尊の霊験あらたなるきこし召、しのび通夜し、願文を宝前こめ、終夜源氏の家運を祈給ふ、願書の大意ハ、頼朝みやこ清水寺の千手尊をあがめてより、信敬此尊にあり、あおぎ願ハくハ千手千眼のちかひを以て坂東八箇国の諸士を幕下に来らしめよ、所願の如く満足せば、永く観音の檀那となり、千手の堂宇并に寺院にいたるまで建立し、仏供料を寄附せんとなり、しかるに千葉 小山 宇都宮をはじめ八州の諸士ことことく来集し、相州鎌倉に入り給ふ、其後富士川に於て源平対陣のきざし、当寺の千手また富士中禅寺の千手に終日いのりありていはく、我引卒する所の二十万兵ハ皆是大菩薩の与へ給ふ軍士なれば、平氏を退けん事掌中にあり、いよいよ加護の御ぼうしを廻し勝事を得しめ給へとなり、其夜平氏の兵十万余水鳥の羽音に驚き退散と云々、夫より鎌倉に帰入ありて、願文の如く観世音の堂宇御再興并境内はう十町と定め、仏供料の地を御寄附あり、其後代かハり時移り、旧規の如くならずといへども、代々の将軍家より御朱印寺領頂戴し今に至れり。昔ハ大寺にて惣門ハ今の牛込御門の内、昔神楽坂ハ寺門の内にて、左右に南天の並木あり、俗に南天寺といひしと也

 治承四年(1180年)、源頼朝氏が相模石橋山で敗戦し、養和元年(1181年)、富士川の戦いで、行元寺の千手観音像に源家の家運を祈ると、勝利を収めました。なお、品川区教育委員会の行った文化財調査では、千手観音像は鎌倉末期から南北朝期の作とわかり、現存する千手観音は源信作ではなかったと判明しています。

[現代語訳]その昔、右近衛大将 源頼朝公は伊豆国の石橋山合戦の後、安房、上総をへて武蔵に渡り、ここでこの寺の千手観音の霊験ははっきりと現れると聞き、人目を避けて夜中祈願した。仏の前に願文を置き、泊まり、終夜源氏の家運を祈ったのである。その大意は、頼朝は京都の清水寺の千手尊をあがめ、尊敬できるのはこの仏だけだという。千手千眼の誓いを聞き、関東8か国の諸士を幕下に参集を祈る願文を掲げ、結願した暁には、末永く観音の寄進者となり、千手堂や寺院にいたるまで建立し、仏具料を寄附しようという。すると、千葉・小山・宇都宮をはじめ関東8か国の在武士団が次々に参向し、相模国鎌倉に入った。その後、富士川で源平対陣があり、当寺の千手尊や富士の中禅寺の千手尊に終日祈って、引卒する二十万兵は全員、大菩薩の与えた軍士であり、平氏を退ける兆候があるという。いよいよ加護の御眸を廻し、勝事を決めたいとしたが、その夜、十万余の平氏の兵は水鳥の羽音に驚いて、退散したという。これで頼朝公は鎌倉に帰り、願文の内容と同じように、観世音の建物を再興し、境内は十町四方と定め、仏具料の土地として寄附した。その後、世代が変わり、時が移り、古い規定であるが、代々の将軍家から御朱印の寺領を頂戴して、今にいたっている。≪昔は大きな寺で、正門は現在の牛込御門の内側、神楽坂は寺門(中門)の内側にあり、左右には南天の並木がある。俗に南天寺といった≫

右大将 右近衛大将。右近衛府の長官。武器を持って宮中の警護、行幸の供奉などをつかさどった役所。
 みぎり。とき。ころ。おり。
あらたなる 神仏の霊験がはっきり現れるさま
忍て 人目を避ける。隠れ忍ぶ。
宝前 ほうぜん。神仏の前
籠む 祈念するために社寺に泊まり込む。
信敬 しんけい。信じて心から尊敬すること。
 いや。いよ。いよいよ。ますます。
坂東八箇国 関東地方の古名。相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東8か国を坂東八国という。
所願 しょがん。神仏に願っている事柄。願い。
檀那 だんな。寺院や僧侶への寄付・寄進、布施。
堂宇 堂の建物
八州 かん八州はっしゅう。江戸時代、関東8か国の総称。
相州 そうしゅう。相模国と同じ
 物事が起ころうとする気配。兆候。
掌中 てのひらの中。自分の勢力の及ぶ範囲。
 ひとみ、目を開いてよく見る。
云々 以下略の意味。
 ほう。正方形の一辺の長さを示す語。
旧規 昔からの規則。古い規定。
朱印 江戸時代、将軍の朱印状で、寺領の年貢が免除された寺院や神社
惣門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
寺門 じもん。寺の門。

中比太田備中守入道春苑道灌はじめて江戸の金城を築き、祈願寺を定めんと欲す、時に道灌おもへらく、さいわいに行元寺ハ伝教・慈覚両大師の開基、ことに右大将家祈をかけ源氏擁護の本尊たり、我また同流の源氏なり、祈願寺となすべしとて、金城堅固安鎮の法みな当寺に請て勤めしめ、又金城の落成を賀し、富士見櫓に於て当寺の院主を請じ、種々の布施を給り、自ら愛好する所の挿花瓶名を富士と称する名器を給ふ、所謂わが庵ハ松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見るの歌も此時となん、又当所赤城大明神ハ行元寺の境内にありて鎖守なり。其此大寺なればなり、応永年中当国六郷の城主松原讃岐守入道沙弥妙讚といふ武士あり、大般若経六百巻を書写せしめ、赤城の神祠に奉納す、応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日に納む、時に当寺の現住等当代なり、巻軸ことに奥書して行元寺住持法印等当とあり 赤城の神祠はもと当寺の鎮守たる故に大般若経今に行元寺に蔵め有之 。其後天正年中に、小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に御入あり、時に饗応人不慮に失火して古記録等多く焼失せしとぞ、
辱かたじけなくも寛永年中大猷院殿の御時、右の古跡こせきの趣を聞し召れ、残る所の領地御朱印を下し給ふ、時の住持ハ伝慶なり、

 次は3つ、新しい事実がでています。1つ目は、太田道灌は江戸城の祈願寺は行元寺に決めたこと。2つ目、松原妙讚という城主は大般若経600巻を書写し、行元寺が所蔵していること。3つ目、北条は没落し、奥様は当寺に来たが、この時に料理人が失火したことです。

[現代語訳]太田道灌は初めて江戸に堅固な城を築き、祈願寺を定めようと思った。その時に、幸いに行元寺は伝教・慈覚両大師が創立し、特に源頼朝は家祈をかける擁護の本尊で、私自身も同流の源氏だという。そこで、行元寺を祈願寺にして、金城堅固安鎮の修法を行い、全員行元寺に祈って仏道に勤め、さらに、江戸城の落成を賀して、富士見櫓で行元寺の院主を招き、種々の布施を行い、自ら愛好する生け花の瓶で名を富士という名器も与えよう。いわゆる「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る」の歌もこの時だろう。また、赤城神社は行元寺の境内にあり、守護神になっている。≪これは大きな寺だからだ≫。応永年間に当国六郷の城主の松原妙讚という武士がいて、大般若経の600巻を書写し、赤城の神祠に奉納した。応永の初めに書写をして、文安元年11月7日に納入した。時に行元寺の住職は等当で、巻軸ごとに奥書して、行元寺の最高僧正は等当だという。≪赤城の神祠はもとはこの寺の守護神で、そこで今でも大般若経は行元寺に収蔵している≫。天正年間に、小田原北条は没落し、その時、氏直の奥様は行元寺にお越しになったが、その時に饗応する人が不注意に失火して、古い記録等は多く焼失した。
 かたじけないが、寛永年間に、徳川家光はこの有名な事件を聞き、残りの領地も御朱印とした。その時の主僧は伝慶である。

中比 まったくわかりません。太田道灌か、文章の一部なのか、不明です。
備中守 律令制で定めた岡山県西部の長官
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
金城 守りの固い城。堅固な城
祈願寺 神仏に願い事を行う寺社
我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 太田道灌が詠んだ歌。意味は「私の家は松林の続く海の近くにあり、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる」
安鎮法 あんちんほう。天皇・親王・将軍の住む邸宅の新築などに際し、その建物の安全や除災、国家の平安を祈る密教の修法。
請う 神や仏に祈って求める。
勤める 仏道に励む。勤行ごんぎょうする。仏事を営む。
富士見櫓 皇居東御苑にある三重櫓。唯一残った江戸城遺構。
挿花瓶 花を生ける瓶。生け花の瓶
赤城大明神 現在の赤城神社。
鎖守 一定の地域や施設を守護する神。
松原讃岐守入道沙弥妙讚 松原妙讚が布施をした。
大般若経 大乗仏教の経典。600巻。
現住 現にそこに住んでいる。またはその住居。
住持 じゅうじ。一寺の主僧を務める。その僧。住持職。住職。
法印 ほういん。僧位の最上位。僧正に相当。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語
饗応人 きょうおう。酒や食事などを出してもてなす人
辱くする かたじけなくする。おそれ多くも…していただく。…していただいてもったいなく思う。
大猷院 だいゆういん。徳川家光の戒名。

そも/\いにしへより今にいたるまで当寺千手観世音の利益を蒙しもの、あげてかぞへがたし。 右大将頼朝公陣中にて御祈念ありし故、俗に襟懸観音といふ 、或ハ遠流の罪を蒙りしもの此尊を祈りて速に赦免を蒙り 貞享年中山角氏  、又ハ父の流罪を哀し女、七条の袈裟を自ら縫て住持に贈り護摩を修せしめ、遂に帰国ありて父子相遇ふ事を得たり 天野 、或ハ重病に沈みし者忽本復し 上総僧慈観 、又ハ安産の後絶死せるもの蘇生せしなと 元禄年中小笠原氏 。其外不思議の霊験等住持法印雄賢の記せる本縁起に詳なり、近くハ天明年中にも、与に天を戴ざるの難あるもの、此尊に祈誓し其志を遂げ名を揚し事、諸人のしる所、まのあたりなれば、願ふ所の事一つとして満足せざる事なし、しからばすなハち一心称名観世音菩薩の威神力にハ百千万億衆生の諸苦悩を除き、一たび礼拝供養する輩ハ無量無辺の福徳を得ん事、弘誓深如海歴却不思議の金言疑あるべからず、別してハ武運長久・怨敵退散・諸病悉除・息災延命・諸願成就の霊験響の聲に応じる如し、あおいうやまふへく俯して信ずべしと云尓
寛政十年戊午孟秋   行元教寺現住法印海澄

 最後は効能です。十一面千手観世音を襟懸そでかけ観音というようです。

[現代語訳]そもそも過去から今にいたるまで、当寺の千手観世音の利益を受ける人は、数多い。≪右大将の頼朝公が陣中で祈念をあげていて、俗に襟懸観音という≫。あるいは遠流の罪を受けた人が、この仏を前に祈ると、あっという間に赦免を受けたという ≪貞享年間で山角氏≫。父の流罪を哀しむ女性は、七条の袈裟を縫って、住持に贈り、護摩を焚くと、やっと帰国し、父と子が逢うことができたという ≪天野氏≫。さらに重病の者も治っている ≪上総僧慈観≫。また、出産時に死亡したが、生き返った人もある ≪元禄年間 小笠原氏≫。その外、人間の理解を越える霊験は最高僧正の雄賢の縁起に詳細に書いてある。近くは、天明年間、一緒にこの世に生きられない人は、この仏に祈誓し、その志を遂げ、名を揚げたことは、庶民が知っているところだ。願う所はすべて満足になる。観世音菩薩の威神力には百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を除去し、ひとたび礼拝供養する人々は無量無辺の福徳を得て、「弘誓深如海歴却不思議」という金言には疑いはない。特に武運長久、怨敵退散、諸病悉除、息災延命、諸願成就の霊験はひびきの声に応じて、仰いでうやましく、下を見ては信じるべきだという。

 そもそも。改めて説き起こすとき、文頭に用いる語。いったい。だいたい。
弘誓 ぐぜい。衆生を救おうとしてたてた菩薩の誓願。
別して べっして。特別であるさま。とりわけ。
云尓 云爾。漢文で、文章の終わりに用いて、これにほかならない。上述のとおり。