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神楽坂6丁目(写真)昭和47-49年 ID13227

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13227は神楽坂6丁目から5丁目や3丁目の方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

 横の大通りは大久保通り、縦の大通りは神楽坂通りです。中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。全体にID 7430(昭和45年)と似ていますが、「車両進入禁止」の回転標識は角が丸くなっており、これはID 13174-13180(昭和47年秋~48年春)と同じものです。
 交差点名は「神楽坂」で、信号機にゼブラ柄の背面板はありません。横断歩道は白線のみで、路面のゼブラゾーンは描かれていません。
 交差点の奥と手前右側は神楽坂5丁目で、右側だけが電柱になり、上には大きな柱上変圧器があります。一方、交差点の手前左側は神楽坂6丁目で、左側に電柱があります。
 車道はアスファルト舗装。巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、右側は丸い蛍光灯、左側は蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあります。街灯の主柱は左側は白く、右側は黒く写っています。
 歩行者の1人が普通の背広で、外套等は着ていません。
 いくつかの手かがりから、撮影年代を推定してみましょう。まず三菱銀行神楽坂支店が3丁目の新ビルに戻り、仮店舗の後に「パチンコ山水林」ができました。これは昭和47年(1972年)以降です。
 回転標識の近くに歩行者天国を示す交通標識(歩行者専用)や(自転車及び歩行者専用)はありません。一方、ID 11824(昭和54年)には出てきます。なお、ID 11824の正面の高いビルは、昭和53年(1978年)3月に完成した相馬屋ビルです。しかし、ID 13227には建築中の様子も見えません。
 歩行者天国の交通標識について調べると、坂下の牛込見附の交差点でもID 13158(昭和47年秋~48年春)、ID 8800(昭和48年)にはの標識がありません。しかし田口氏05-10-32-01(昭和49年12月)(下図)には登場します。坂上でも同時期に交通標識が整備されたと考えれば、撮影時期は昭和47-49年と推測できます。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街神楽坂 05-10-32-1 牛込見附交差点から 1974-12-21

神楽坂6丁目→5丁目(昭和47-50年)
  1. ▶街灯。「神楽坂商栄会」「0-12 (駐車禁止)」「(区間内)」
  2. 「ナショナル ナショナル 店会の店」「JCB」(篠原電気店)
  3. 「喫茶室 ▲2階 HAKUSA」「(Coca) Cola (白砂)」「喫茶室 白砂 HAKUSA」
  4. 回転標識の背面
    ――神楽坂交差点
  5. 回転標識(車両進入禁止)
  6. 「(角)のせ(ともの)屋 (河)合(陶)器店
  7. 山下漆器店
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田
  9. 洋品 タカミ
  10. 中国料理 東(花飯店)
  11. 神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告があり、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. コーセー化粧品 桔梗店
  2. 宝石 メガネ 時計 (株)タイヨウ
    ――神楽坂交差点
  3. 営業案内/土地建物売買管(理)/賃貸借周(旋)/電話買取及(販売)/不動産一般(代理)(つくば商事
  4. 東電のサー(ビスステーション)
  5. サントリーバー スローン
  6. 薬ヒグチ
  7. (季)川
  8. タイヨウ メガネセンター メガネ
  9. パチ(ンコ)(山水林
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. やき(とり殿堂)鮒忠
  12. 五十鈴
  13. パチンコ おおとり
  14. 突き出し看板「田原屋
  15. 三菱銀行

住宅地図。昭和52年。

神楽坂1丁目(写真)景色 昭和41年 ID 7658

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7658を見ていきましょう。時代は1966年(昭和41年)で、全員長袖で、コートを着ている人もいます。撮影の方向は、神楽坂1丁目から坂上に。街灯は蛍光灯一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。道路にたまった雨水などを排水する側溝があります。歩道は昭和37年夏や、昭和41年の「坂のある街」では表面に滑り止め文様がありましたが、昭和41年の後半にややサイズの大きい平らな正方形のブロックに代わり、きれいに並んでいます。この歩道は改修後でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7658 神楽坂 紀の善付近 1966年

神楽坂1~2丁目(昭和41年)
  1. 1階建て。田口屋生花店だが、ID 54の大きな看板はなくなった。
  2. 街灯看板の「パール ビリヤード」と「神楽坂」
  3. 電柱看板の「川島歯科
  4. 小栗横丁に行く小道
  5. 壁面看板とファサード看板の「花 田口屋生花店」。不明のネオンだが、ID 5081では「花 田口屋」。ここから2丁目
  6. 街灯と「神楽坂」
  7. 「御料理 蒲焼 志満金」と「うなぎ丼」
  8. 電柱看板の「 大久保
  9. 「靴 オザキヤ
  10. たばこ ☎(田金果実店)
  11. (食品 丸八)
  12. 「特約店 大島糸店」 4階建て
  13. サンコール(松本商店)
  14. 夏目写真館
  15. ✚クスリ(神楽坂薬局)
  16. 「洋装生地 林屋」
  17. ヒ(デ美容室)
  18. 五条ビル。5階建て。翌1967年完成だが突き出し看板も出ており完成間近
  19. 遠くに「(三菱)銀行
  1. 街灯
  2. 山田紙店
  3. ヤマザキパン(明治アイスクリーム)コカコーラ。公衆電話。でんわ☎でんぽう。公衆電話の台に第一相互銀行の広告
  4. おしるこ 紀の善
  5. 神楽小路。歩道からは1段下がる。おそらく歩道の改修で段差がついた。
  6. 床屋のサインポール(理容バンコック)
  7. (Frère WADA)YA(メンズウェアー)ID 86に詳しい
  8. 消(火栓)レストラ(ン)この先〇
  9. 軽い心
  10. ニューイトウ(靴)
  11. 遠くに「資生堂化粧品」(さわや
  12. 遠くに「神楽坂通り/美観街」。「坂のある街」にはないので、歩道改修と同時設置か。

資生堂[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、関東大震災後の資生堂は、今の椿屋珈琲店にあったようです。地図はここに

椿屋珈琲店2

 今ではこの地に立っていた建物をまとめると……
① 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃で、荒物屋と白十字
② 「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後の一定時間に、資生堂がはいります。
③ 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)で岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃、蒲焼こめや
④ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和12年で、明治食堂と白十字堂
⑤ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和27年で、堀田肉店
⑥ 1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)でレストラン神楽坂と神楽坂フードセンター
⑦ 国立図書館で住宅協会の新宿区西部[1960]では神楽坂フードセンター
⑧ 1964年(昭和39年)におおとりパチンコになりました。

「肴町よもやま話③」の絵のほうが簡単にわかりやすく、でています。資生堂は白十字になり、明治食堂と一緒になって、堀田肉店になり、これはパチンコおおとり、パチンコ・スロットのゴードンになって、現在は椿屋珈琲店です。

Gold-On

今はないGold-On

 安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

○白十字――(はく)()の神樂坂分店で、以前は(さか)(あが)(ぐち)にあったものです。他の白十字同樣(どうやう)喫茶、菓子、(かる)い食事等。
サラリーマン、學生が多く、二階は(しづ)かに落ちつけますので御同伴(ごどうはん)や、商談客に()に入られてゐます。(なん)となく、クラシツクな氣分(きぶん)の家。
○こめや――蒲焼料理、一寸(ちよつと)氣のきいた日本風の構へですが、蒲焼(かばやき)、うな丼、柳川各(卅錢)と、大衆をそらさぬやり方です。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。
馬場さん そうです。白十字はありました。
山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。そうすると、荒物屋さんは明治食堂に変わって、堀田さんになった。
相川さん そうそう。
馬場さん それから、大田さんの半分の方が「亀沢菓子店」?
相川さん いや、この明治製菓のところが亀沢の菓子屋。
相川さん(ママ) だから、大田さんは半分ずつでしょう。広くないんだから。亀沢の菓子屋のあとは資生堂が来たわけ?
相川さん そうそう。
馬場さん 資生堂が来て、明治製菓になって、白十字になった、と。で、白十字のときには、隣はまだ明治食堂じゃなかった?
相川さん 明治食堂。
馬場さん だから、白十字と明治食堂がいまのオオトリさんのところにあって、それで戦災にあっているわけだ。終戦後は、「メイカ」が来てたよ。
相川さん メイカって明治製菓じゃないですよ。食堂、食堂。権利が残っていだからでしょ。
馬場さん それで「神楽坂食品」が出たけど失敗したりして。
相川さん それで、そのあとへ堀田さんが来た。堀田の肉屋がね。
馬場さん そのあとに堀田さんか来たの? ふーん、それで失敗して。
相川さん そのあとへパチンコ屋さん。
馬場さん それでオオトリさん。
相川さん オオトリさんだって、いまのオオトリさんの前が二つぐらい違うのがあるものね。同じパチンコ屋でも。
高須さん ああ、そうですか。
相川さん うちの中が違ってもね。