文学と神楽坂
小松直人氏が書いたCafé jokyû no uraomote(二松堂、昭和6年、『カフェー女給の裏表』と読むのでしょう)の一部ですが、しかしこの本では神楽坂はここだけです。
淋しい神樂坂
山の手銀座の名をほしいま丶にして、神樂坂は大震災以前までは、山の手における代表的な盛り場であっだ。それが、震災後、新宿の異常な發展にけおされて、すっかり盛り場しての盛名をおとしてしまつた。 その證據には、時代の寵兒たるカフエが、こゝにはきはめてまぼらにしか、存在しない。それも、カフエオザワをのぞけば、外のカフエはぐつと落ちて、場末のそれと大差がない。 省線飯田橋驛で下車して、電車道をのりこえ坂をのぼつて行けば、左側にユリカ、神養亭の兩カフエが並んでゐる。ユリカは神樂坂界隈切つてのハイカラなカフエで、女給の數は十人を越え、サービスも先づ申し分がない。それに隣る神養亭は、レストラン染みて面白くない。
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山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。大震災ごろから言い始めたようですが、昭和4年ごろから新宿のほうが大きくなりました。
ほしいまま 思いのままに振る舞う。自分のしたいようにする。
大震災 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、マグニチュード7.9の地震です。震源は神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)。
けおとす 蹴落す。すでにその地位にある者や競争相手をおしのける。
盛名 りっぱな評判。盛んな名声
寵児 世にもてはやされる人。人気者
カフエ カフェーの始まりは、明治44年、銀座に開業したカフェー・プランタンです。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三。パリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場としてスタート、本場のCafeの店員は男性ですが、ここでは女給。美人女給を揃えたカフェー・ライオンなどの店が増えましたが、まだ料理、コーヒー、酒が主です。
カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後で、翌年(1924年)、銀座に開業したカフェータイガーは女給の化粧が派手で、体をすり付けて話をする、といったサービスで人気がでます。昭和に入り、女給は単なる給仕(ウエイトレス)ではなく、ホステスとして働き、昭和8年(1933年)には風俗営業の特殊喫茶として警察の管轄下に置かれました。
この本も昭和6年に書かれていますので、かなりホステス的な女給も多かったのでしょう。
カフエオザワ 神楽坂4丁目でした。オザワについては
ここで。場所は
ここ。
場末 繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所
電車道 路面電車の軌道が敷設された道路。電車通り。ここでは外堀通り
ユリカ、神養亭 いずれも神楽坂2丁目にありました。現在は全て理科大の「ポルタ神楽坂」です。図の左は神楽坂上、右は神楽坂下になります。なお、ユリカについては
ここで書いています。
新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」を元に作っています
ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。英語のhigh collar(高い襟)から。もともとは高い襟をつけ、進歩主義・欧米主義を主張した若い政治家のこと。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性
オザワは、相變わらずだが何と云ても、神樂坂のカフエのピカ一である。細長い建物は時代向ではないが、一種の香りを持つてゐて落ちつけるのは流石である。女給は十四五人も居ようか、そのサービスは上品で、大向ふをうならせる様なエロサービスではないが、店とビツタリしてゐて申し分がない。強い刺戟を求めようとする客は失望するであらうが、しんみりとしたカフエ氣分を味はうとする客は、この店に來てゴールドンスリツパーをなめるもよし、黒松白鷹の一本をかたむけてみるもよからう。 |
大向こう 舞台から見て正面の後方にある一幕見の立見席 転じて,一般の見物人
大向こうを唸らせる おおむこうをうならせる。芝居などで大向こうの観客を感嘆させる。一般の人々に大いに受ける
エロサービス エロはエロティック、30~31年(昭和5~6)を頂点とする退廃的風俗。昨今のポルノ風俗に比べればその露出度はたわいもないといわれています
ゴールデン・スリッパー Golden Slipper Cocktail。リキュールをベースとするカクテル。リキュールの女王といわれるイエロー・シャルトリューズ(薬草のリキュール)と金粉の入ったゴールド・ワッサーを使った豪華なカクテル。卵黄を用いた濃厚な味はナイト・キャップに最適。
黒松白鷹 本醸造の日本酒。甘・辛・酸のバランスのとれたなめらかな味わい
肴町停留所の近くに、震災直後プランタンの支店が出來て、牛込一帯に住んでいた、文士連や畫家達が盛に出没したが、今ははかない、神樂坂カフエロマンスの一頁をかざつてゐるにすぎない。
カフエハクセンは、地域の關係上文壇切つての酒豪、水守龜之助をはじめとして、一時盛に新潮社關係のお歴々が出没したが、今はもうここへ立寄る人も少ない。 この外に、神樂坂一帯にはミナミ、コーセイケン、ホマレ亭、ヴランド、シロバラ、ヤマダ、ホーライケン等のカフエがあるが、いづれもあまり立派な店ではない。 |
肴町停留所 現在は都電のほとんどはなくなりました。これは都バスの停留所「牛込神楽坂」になりました。
プランタン 明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店が変わりました。
ここで詳しく。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。
画家達 鏑木清方氏、竹久夢二氏、梶田半古氏、川合玉堂氏、小杉小二郎氏、鍋井克之氏など
カフエロマンス カフェで起きた恋。恋愛小説
カフエハクセン 場所はわかりません。矢来町、横寺町、神楽坂6丁目などでしょうか。
水守亀之助 明治19年(1886年)6月22日~昭和33年(1958年)12月15日。明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏と言われました。
新潮社 しんちょうしゃ。出版社。文芸書の大手。
歴々 身分・地位などの高い人々。多く「お歴々」の形で用います。おえらがた
ミナミなど 場所はまずわかりません。ヴランドはどこだかわかりませんが、当時の3丁目の牛込会館の地下に「カフェーグランド」がありました。ここは現在「サークルKサンクス」です。また5丁目にも「グランドカフェ」がありました。現在は「手打ちそば山せみ」です。また「ヤマダ」は現在、3丁目のヤマダヤと同じ場所に「カフェ山田」がありました。