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学者町学生町(1)|出口競

文学と神楽坂

 出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(1)です。

 何處(どこ)から何處へ流れるとなき外濠(そとぼり)の流れは、一刷毛ごとに薄れゆく夕日影に(ぼか)されて、煤煙のやうに(くろ)ずんでゆく、荷足舟が幾艘(いくさう)も繋つてゐて、河岸から小砂利(こじやり)や貨物や割石を積込む音が靜かな空氣を搖動(うご)かす。神樂坂にはもう(なつ)かしい灯が、恰度芝居の遠見の書割(かきわり)を見るやうに(うつく)しく輝いてわれも人も()ひよせられるやうに坂を(あが)つて行く。紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數(じゆず)(つなぎ)にされてゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの、その斜向ひの小路を入った處に島金(しまきん)といふ牛屋がある。専門學校時代から古い馴染(なじ)みだ。坂を上り()ると左手の露路(ろぢ)の突當りに洋食店の青陽軒(せいやうけん)があつて、早稲田界隈の高襟さんを一()に引受けてゐる。
 何故(なぜ)()うも人通りが多いのであろう、これが毎晩(まいばん)なのだ、寅午(とらうま)の緣日等と來ては海軍ならば夫れこそ舷々(げん/\)(あひ)()と公報に書く處だ。強ち道幅の狭隘(けふあい)が誇張的に見せる行為(せゐ)でもなかろう。誰れも彼れも暢氣(のんき)さうな顔をしてゐる、兩側(りやうがは)の露店のカンテラが一(せい)に空を赤めて、(やか)ましい呼聲が客足を止めさせる。特有(とくいう)へら/\帽子を目深(まぶか)飛白(かすり)の書生が、昆沙門前で1人はヴァイオリンを()き1人は本を口に当て(うた)つてゐるのが悲調を帯びて、願掛(ぐわんがけ)に行く脂粉(おしろい)の女の胸に(あは)い哀愁の種を()く。

外濠 そとぼり。江戸城の外側の堀の総称。水路で江戸城を取り囲んでいました。
煤煙 ばいえん。物の燃焼で煙と(すす)がでたもの
 正しくは「あおぐろ」が正確。青みを帯びた黒。
割石 わりいし。石材を割って、形が不定で鋭い角や縁をもつ石。

割石1

割石

書割 かきわり。芝居の大道具。木枠に布や紙を張り、建物や風景など舞台の背景を描いたもの。何枚かに分かれていることから書割といいました。
紀の善 現在は甘味処ですが、戦前は寿司屋でした。ここに詳しく。
印絆纒 しるしばんてん。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏。

印絆纒

印絆纒

床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け。

床几。肘掛けのない坐具。

床几

上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 (たか)下駄(げた)。10センチ以上視線が高くなります。

高下駄

書生下駄

珠數繋 数珠じゅずは穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎ。糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋(すしや)の名は弥助(やすけ)でした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした。
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか。
島金 現在は志満金です。
青陽軒 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)によれば、神楽町3丁目の「六番地に青陽楼(西洋料理店)」と書いてあります。青陽軒は青陽楼のことでしょうか。
高襟 はいから。西洋風なこと
舷々相摩す げんげんあいます。ふなばたが互いに擦れ合う。船と船とが接近して激しく戦うようすを表す言葉。
狭隘 きょうあい。面積などが狭くゆとりがないこと。
カンテラ オランダ語kandelaarから。手提げ用の石油ランプ。ブリキ・銅などで作った筒形の容器に石油を入れ、綿糸を芯にして火をともします

カンテラ

カンテラ

へらへら 紙や布などが薄く腰の弱いさま
目深 まぶか。めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
飛白 かすり。絣とも書きます。かすれたような部分を規則的に配した模様や、その模様のある織物です。

Café jokyû no uraomote

文学と神楽坂

 小松直人氏が書いたCafé jokyû no uraomote(二松堂、昭和6年、『カフェー女給の裏表』と読むのでしょう)の一部ですが、しかしこの本では神楽坂はここだけです。

淋しい神樂坂

 山の手銀座(ぎんざ)の名をほしいま丶にして、神樂坂(かぐらざか)大震災(だいしんさい)以前(いぜん)までは、山の手における代表的な(さか)()であっだ。それが、震災(しんさい)()、新宿の異常(ゐじやう)發展(はつてん)けおされて、すっかり盛り場しての盛名(せいめい)をおとしてしまつた。
 その證據(しやうこ)には、時代の寵兒(ちやうじ)たるカフエが、こゝにはきはめてまぼらにしか、存在(そんざい)しない。それも、カフエオザワをのぞけば、外のカフエはぐつと()ちて、場末(ばすゑ)のそれと大差(たいさ)がない。
 省線(しやうせん)飯田橋(いひだばし)(えき)で下車して、電車道をのりこえ坂をのぼつて行けば、左側(ひだりがは)ユリカ神養亭(しんやうてい)の兩カフエが並んでゐる。ユリカは神樂坂(かぐらざか)界隈(かいわい)切つてのハイカラなカフエで、女給(ぢよきふ)の數は十人を()え、サービスも先づ申し分がない。それに隣る神養亭(しんやうてい)は、レストラン()みて面白(おもしろ)くない。


山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。大震災ごろから言い始めたようですが、昭和4年ごろから新宿のほうが大きくなりました。
ほしいまま 思いのままに振る舞う。自分のしたいようにする。
大震災 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、マグニチュード7.9の地震です。震源は神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)。
けおとす ()(おと)す。すでにその地位にある者や競争相手をおしのける。
盛名 りっぱな評判。盛んな名声
寵児 世にもてはやされる人。人気者
カフエ カフェーの始まりは、明治44年、銀座に開業したカフェー・プランタンです。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三。パリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場としてスタート、本場のCafeの店員は男性ですが、ここでは女給。美人女給を揃えたカフェー・ライオンなどの店が増えましたが、まだ料理、コーヒー、酒が主です。
カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後で、翌年(1924年)、銀座に開業したカフェータイガーは女給の化粧が派手で、体をすり付けて話をする、といったサービスで人気がでます。昭和に入り、女給は単なる給仕(ウエイトレス)ではなく、ホステスとして働き、昭和8年(1933年)には風俗営業の特殊喫茶として警察の管轄下に置かれました。
この本も昭和6年に書かれていますので、かなりホステス的な女給も多かったのでしょう。
カフエオザワ 神楽坂4丁目でした。オザワについてはここで。場所はここ
場末 繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所
電車道 路面電車の軌道が敷設された道路。電車通り。ここでは外堀通り
ユリカ、神養亭 いずれも神楽坂2丁目にありました。現在は全て理科大の「ポルタ神楽坂」です。図の左は神楽坂上、右は神楽坂下になります。なお、ユリカについてはここで書いています。

ユリカと神養亭

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」を元に作っています

ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。英語のhigh collar(高い襟)から。もともとは高い襟をつけ、進歩主義・欧米主義を主張した若い政治家のこと。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性

 オザワは、相變(あひかは)わらずだが何と云ても、神樂坂(かぐらざか)のカフエのピカ一である。細長(ほそなが)い建物は時代向ではないが、一(しゆ)(かほ)りを持つてゐて落ちつけるのは流石(さすが)である。女給(ぢよきふ)は十四五人も居ようか、そのサービスは上品(じやうひん)で、大向ふをうならせる(やう)エロサービスではないが、店とビツタリしてゐて申し分がない。(つよ)刺戟(しげき)を求めようとする客は失望(しつぼう)するであらうが、しんみりとしたカフエ氣分(きぶん)(あじは)はうとする(きやく)は、この店に來てゴールドンスリツパーをなめるもよし、黒松白鷹(くろまつはくたか)の一本をかたむけてみるもよからう。

ゴールデンスリッパー

大向こう 舞台から見て正面の後方にある一幕見の立見席 転じて,一般の見物人
大向こうを唸らせる おおむこうをうならせる。芝居などで大向こうの観客を感嘆させる。一般の人々に大いに受ける
エロサービス エロはエロティック、30~31年(昭和5~6)を頂点とする退廃的風俗。昨今のポルノ風俗に比べればその露出度はたわいもないといわれています
ゴールデン・スリッパー Golden Slipper Cocktail。リキュールをベースとするカクテル。リキュールの女王といわれるイエロー・シャルトリューズ(薬草のリキュール)と金粉の入ったゴールド・ワッサーを使った豪華なカクテル。卵黄を用いた濃厚な味はナイト・キャップに最適。
黒松白鷹 本醸造の日本酒。甘・辛・酸のバランスのとれたなめらかな味わい

 肴町(さかなまち)停留所(ていりゆうじよ)の近くに、震災直後プランタン支店(してん)が出來て、牛込一帯に()んでいた、文士連や畫家達(ぐわかたち)が盛に出没(しつぼつ)したが、今ははかない、神樂坂(かぐらざか)カフエロマンスの一頁をかざつてゐるにすぎない。
カフエハクセンは、地域(ちゐき)の關係上文壇(ぶんだん)切つての酒豪(しゆごう)水守龜之助をはじめとして、一時盛に新潮社(しんちようしや)關係(かんけい)お歴々出没(しゆつぼつ)したが、今はもうここへ立寄(たちよ)る人も少ない。
 この(ほか)に、神樂坂(かぐらざか)一帯にはミナミ、コーセイケン、ホマレ亭、ヴランド、シロバラ、ヤマダ、ホーライケン(とう)のカフエがあるが、いづれもあまり立派(りつぱ)な店ではない。

肴町停留所 現在は都電のほとんどはなくなりました。これは都バスの停留所「牛込神楽坂」になりました。
プランタン 明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店が変わりました。ここで詳しく。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。
画家達 鏑木清方氏、竹久夢二氏、梶田半古氏、川合玉堂氏、小杉小二郎氏、鍋井克之氏など
カフエロマンス カフェで起きた恋。恋愛小説
カフエハクセン 場所はわかりません。矢来町、横寺町、神楽坂6丁目などでしょうか。
水守亀之助 明治19年(1886年)6月22日~昭和33年(1958年)12月15日。明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏と言われました。
新潮社 しんちょうしゃ。出版社。文芸書の大手。
歴々 身分・地位などの高い人々。多く「お歴々」の形で用います。おえらがた
ミナミなど 場所はまずわかりません。ヴランドはどこだかわかりませんが、当時の3丁目の牛込会館の地下に「カフェーグランド」がありました。ここは現在「サークルKサンクス」です。また5丁目にも「グランドカフェ」がありました。現在は「手打ちそば山せみ」です。また「ヤマダ」は現在、3丁目のヤマダヤと同じ場所に「カフェ山田」がありました。

伝統の店々|昭和30年 (3/4)

文学と神楽坂

 そばの春月永坂更科池端蓮玉と共に東都三老舗と謳われたのれんで、更科とやぶの中間を行くのが特徴とされている。また毘沙門天との間を横丁に入るとうなぎの橋本、神楽坂随一の繁栄と格を有する料亭松ケ枝がある。また表通りの毘沙門天安置する善国寺は始め麹町にあり、家康自ら鎮護山善国寺と命名したもので、代々将軍家および江戸市民の信仰篤く二百三十余年前此地に移ってより、その緑日の賑わいは一層名高く、神楽坂繁栄の一因をなしたことは人形町水天宮と好一対をなすものといえよう。その隣りが果物の田原屋。明治四十年頃創業、明治末年日本で始めてのフルーツパーラーを始めたものである。

永坂更科 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」で竹内薫兵氏は
 私の一番いいのは、月並だが矢張り、麻布(あざぶ)永坂(ながさか)の「更科(さらしな)」で、あのうちの更科そばには何んともいえない風味がある。はじめは「並の盛り」といういわゆる駄そばばかりを食った。しかしこれを段々やっている中にあの白い細い更科の方がよろしくなる。駄そばの方もうまいにはうまいが、味が重いし、舌へ残る気持も、少しべとりッとする。更科は少しあっさりとしすぎる位に、淡々たるところがいいようである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
 永坂の「更科」も先生のおっしゃる通り。だがわたしは「さらしな」よりは、駄蕎麦の方が好きである。書生の頃十二銭の大盛、あれをよく食べた。一度に大盛三つを注文したら、女中さんに笑われた。「とても三つは無理ですから二つにしては」「いや、いいから持って来てくれ」、がやっぱり二つで閉口していると、その美しい女中さんがざる(、、)蕎麦につく「わさび」を持って来て「これを入れると食べられます」という。が、遂に駄目であった。駄蕎麦一筋で「さらしな」は余り淡泊すぎて、味をぬいた素麺をたべてるような、ただ、下地に何にかつけて食べてるというようなそんな感じで感心しなかった。この頃は「更科」へ行かないので、どんな事になっているか知らない。
 終戦後しばらくは営業をやっていますが、昭和30年には空き地になります。
池端蓮玉 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」の竹内薫兵氏は
下谷池の端の「蓮玉庵」もなかなかうまいもので、十四、五年前は、そば食いたちは東京第一の折紙をつけ、私なども毎日のように通ったが、これも今はいけない。そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ないようになったのである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
池の端の蓮玉庵の、蕎麦と下地の関係については、それからずいぶん長い間通ったが、いつ行っても行く度に先生の言柴を思い出して感心した。しかし考えて見ればこれが蓮玉庵というものの独自の「味」だったかも知れない。

東都三老舗 へー、そうなんだ。実は辞書で「東都三老舗」を調べてみても何もありません。現在の江戸そばの三老舗は普通、砂場、更科、薮です。
やぶ 藪蕎麦は醤油の味がつよい、塩からいそばつゆ。一方、更科蕎麦は蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦。中間というのは、そばつゆなのか、蕎麦粉なのか、あるいは両方なのか、全体なのか、どれをさすのかはっきりしません。

 都市製図社の「火災保険特殊地図」(昭和27年)で赤で囲んだ場所はここで出てきた場所です。蕎麦の春月、蒲焼の橋本、松ケ枝、毘沙門天、田原屋
橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では
◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。
 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。
橋本

現在は石かわ


松ケ枝 創業は明治38年。水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、
「松ヶ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」
松ケ枝

現在はマンション


毘沙門天 仏教で天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
安置 丁重に据え置くこと。特に、神仏の像などを据え祭ること
善国寺 新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院
麹町 千代田区の地名で、旧麹町区にあたる。
緑日 神仏との有縁(うえん)の日。この日に参詣(さんけい)すれば特に御利益があると信じられています
人形町 中央区の地名で、旧日本橋区にあたる

三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。

 石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。

石畳

石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。

見返しとかくれんぼ

 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

ヤマニバー[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 神楽坂6丁目に「ヤマニバー」があるとわかったのは、「西村和夫の神楽坂」の「神楽坂界隈」連載13号でした。2004/7/15にかいてありました。神楽坂6丁目の情景で……

広げられた道路にはすき焼屋を初め飲食店が多くカフェの前身というか当時はやりのバーなる洋式の飲み屋が縄のれんに仲間入りしてきた時代だ。とりわけ肴町の電停付近は夜遅くまで人通りが絶えなかった。
 ヤマニバーは現代のチエン店で、当時市内の何処にでもあり、国産の安ウイスキーが売り出されて間もない頃で、新しもの好きの客でかなり繁盛していた。

 ふーん、何かのバーだな、ぐらいの感じでした。でも、どこにあるの? 肴町は現在の神楽坂5丁目のことです。電停は、昔あった都電の停車場で、「神楽坂上」にありました。なんとなく、ヤマニバーはこの肴町の電停付近だなと思っていました。
 しかし、これはまったく違いました。加能作次郎氏の『早稲田神楽坂』では

寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。
 その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみごみした狭いきたない通りだが…

 どうもヤマニバーは「寺町の郵便局下」(神楽坂6丁目にある旧郵便局の下)で、その向いには第一銀行支店があるとわかってきました。
 サトウハチロー著の『僕の東京地図』では同じように……

長じて、おふくろと住むようになってからは、…ヤマニバーにもっぱら通うようになった。ヤマニバーは御存知もあろう、文明館の先の右側だ。ヤマニバーの前にいま第一銀行がある。
ヤマニバー 昭和12年と現在

ヤマニバー 昭和12年と現在

 さらに昭和12年の「火災保険特殊地図」を見るとスーパーのキムラの反対側で、直線ではなく左の斜線にあるようです。
 つまり、道路から北を向いて菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物がヤマニバーでした。立ち飲みだけなのでしょうね。結局、人がすぐ満杯になるのも無理ないなあ。
 なお、都内には現在も営業を続けるヤマニバーもあります。なお、ヤマニは「仐」の「十」を「二」に変えたものなんですね。

いろは[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 牛肉「いろは」は6丁目にありました。
 森銑三氏の「明治東京逸聞史1」(平凡社、昭和44年)によれば……

牛肉店いろは  「読売新聞」明治24年12月25日から
 牛肉店のいろはは、すべて48の支店を作ることを目標としていた。その第18支店いろはが、牛込神楽坂上に出来て、新しく開店することを広告している。48作ることは、一つの夢として終ったが、当時のまだ狭かった東京に、18の店を持つたというだけでも、その盛んだったことが思い遣られる。

 また、泉鏡花氏が書いた「神楽坂七不思議」で「いろは」のことがでています。

神樂坂七不思議

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
(いろは)のことなり、()れば大廈たいか嵬然(くわいぜん)としてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
        明治二十八年三月

 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。

 島崎藤村ほかの『大東京繁昌記 山手篇』(講談社)で加能作次郎氏の「早稲田神楽坂」ではこう書きます。

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく/\しながら(はし)を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

 では、どこにあったのでしょうか。まず 間違えていた論点を見てみます。『ここは牛込、神楽坂』第18号の『遊び場だった「寺内」』では、

岡崎(丸岡陶苑) でも、ほんとうに遊ぶのは、安養寺の方で、狭いとこに駄菓子屋が二軒あったんで、そっちの方がわりあいにぎやかだった。安養寺の境内の往来に面したところに街灯があって、あそこはクルマ(人力車)がいつも二、三台、年中たむろしていたから。そこに「いろは」があった。牛鍋屋の。

地図1

「岡崎さんがお話ししながら描いてくださった明治40年前後の記憶の地図を描きおこしました」と書いてあり、図のような神楽坂の6丁目(昔の通寺町)の絵が書いてあります。図の左端の半分に「トケイ」や「安養寺」と書いてあり、その下に「いろは」が書いてあります。

 昭和12年の「火災保険特殊地図」を見てみるとかなり今とは違います。

神楽坂上2

「いろは」は昭和12年「火災保険特殊地図」の「精進寮」と同じ場所です。よく見ると三角形で、ここで名残をとどめています。このほかの建物はここにでています。

 しかし、まったく違ったように見える写真が出てきました。下右端の建物は「第十八いろは」(牛込区寺町)です。(「第六いろは」は神田区連雀町なので、違います)。

 最初は、上の写真でいうと、建物「3」と思っていました。困っていましたが、よくよく見ると、写真の左側には道路はありません。つまり、上図の右中央から見た写真、つまり「精進寮」の方から見た写真だと思っています。

 以上は間違えていた議論です。正しくは牛肉店『いろは』と木村荘平を見てください。