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神楽坂1丁目(写真)昭和33年頃? ID 13505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13505は、神楽坂通りの入口の夜景を撮ったものです。撮影は昭和33年(1958)10月だといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13505 神楽坂通り入口 夜景

 これと非常によく似たID 59から63までの夜景の写真があります。とくにID 62はそっくりです。新宿歴史博物館は昭和37年(1962)頃だといいます。地域ごとのファイルは「1962年頃」、フィルムごとのファイルには「昭和33年10年」と書いてありました。
 この5枚は詳細に検討していて、昭和34年の撮影だろうと結論しています。とくに左方の標識ポールの柱(下図)は昭和34年(1959)のID 47(ID 5510)ID 50(ID 7002)では見えないので、それより早く写真を撮ったはずです。

 ではID 13505が昭和33年10月というのは正しいのでしょうか? 判断材料はID 59-63と同じで、ネオンサインの見えている大島毛糸のビルが完成したのは昭和34年(1959年)5月です。まだ建築中なのにネオンだけ点灯したという特別な理由でも無い限り(たとえば店舗の1、2階の完成は早く終わった、あるいはネオンだけが終わったなど)、昭和33年10月はおかしいと思います。
 ID 31-35(夜景)ID 36-39(夜景)と同じようにID 59から63まで(夜景、昭和37年?)とID 13505(夜景、昭和33年?)は実は昭和34年に撮影したと考えると、全てはっきりします。

神楽坂1丁目(写真)昭和35年頃 ID 47-50

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 47からID 50までを見ましょう。撮影の方向は、神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道は平坦です。
 なお、ID 47はID 5510と、ID 50はID 7002と同じです。また、ID 5510は昭和35年頃、ID 7002は昭和34年頃を撮っています。
 昭和34年と比べて、看板2点が違っています。つまり、山田紙店の2階にニューマヤ美容室が入り、神楽堂はヤマザキパンを売っている点です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5510 神楽坂下 昭和35年頃

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 48 神楽坂途中から坂下方面

 ID 48でのメトロ映画の上映作品は、上は「右門捕物帖、地獄の風車」1960.03.01か「右門捕物帖、片目の狼」1959.03.03で、下は「大願成就」1959.11.29だ、と地元の方。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 49 神楽坂入口から坂上方向(ネガ反転)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7002 神楽坂 昭和34年頃

 同じくID 7002でメトロ映画の上映作品は上は不明、下は「孔雀城の花嫁」1959.04.08だ、と地元の方。

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂1~2丁目(昭和35年)
  1. 整美歯科 山本薬局横 現在は不明
    土地家屋 野口商会不動産部
    どもり 赤面対人恐怖
  2. 信号機(ゼブラ柄の背面板)
  3. (駐車禁止)
  4. (自動車通行止)「一方通行出口」「午前AM0-正午NOON 自動車 MOTOR-CARS」
  5. ニューバリーパチンコ。
  6. パーラー田原屋
  7. 元祖 貸衣装 清水衣裳店
  8. 電柱看板「 倉庫完備 大久保
  9. きそば 翁庵
  10. 甘味 桜井
  11. 電柱看板「川島歯科
  12. 株式会社 萬屋神楽坂販売所(果実店)
  13. 小栗横丁に通じる通り
  14. 電柱看板「森本不動産」。萬屋販売所で小栗横丁の1軒裏にあった。
  15. 田口屋生花店。丸い看板「花」
  16. 志満金
  17. 電柱看板大久保
  18. オザキヤ靴店
  1. 赤井商店。足袋・Yシャツ
  2. (一方通行) 正午 午後 PM 12:00 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. 津田印店。印章 ゴム印
  4. 白十字クリニック
  5. 山田紙店。2階にニューマヤ美容室
  6. 公衆電話
  7. 神楽堂。ヤマザキパン
  8. 紀の善(甘味)おしるこ
  9. 神楽小路に行く通り。小柳ダンス
  10. 理髪店バンコック。サインポールが1階と2階に
  11. メトロ映画館
  12. トリスバー
  13. 志乃多寿し
  14. 山一薬品
  15. パチンコマリー
  16. ニューイトウ靴店
  17. ビリヤード
  18. 喫茶 音楽 坂
  19. (陶磁器 陶柿園
  20. クラウン
  21. ポーラ化粧品
  22. 資生堂化粧品

逆転式一方通行・再考(写真)

文学と神楽坂

 逆転式一方通行について、 地元の方は…

 このブログで過去に逆転式一方通行の導入時期を検証した時には、諸説あって判定しがたいという結果だったと思います。
 ずっと気になっていたのですが、一枚の写真に大きなヒントがありました。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」のID:5510(昭和35年頃)です(下図、ダブルクリックで拡大)。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 戦後、対面通行だった神楽坂で、下り坂の途中の店に自動車が飛び込む事故が発生しました。このため1956年(昭和31年)から、坂は上り一方通行に規制されたという経緯が過去記事に詳しく書いてあります。
 ところが ID:5510 を見ると、タクシーとオート三輪が坂を下っています。向かって右側にはヤマザキパンの納品車と、ポンネットを明けた車が駐車しています。いずれも禁止されていた下り方向です。さらに向かって左のトラックは明らかに坂を上っていますから、対面通行になっています。
 おかしいと思って標識をよく見ると、意外なことが分かります。坂の入り口、向かって右側の標識は「一方通行 ONE WAY」です。下の補助標識は読みづらいのですが、目をこらしてみると「正午 NOON – 午後 PM 12:00/自動車 MOTOR CARS」と書いてあるようです。
 逆側の標識を見てみましょう。「駐車禁止」の手前に別の標識が立っています。「自動車通行止」とあり、その下に「一方通行出口」。補助標識は右のものとよく似ていて 「午前 AM 0:00 – 正午 NOON/自動車 MOTOR CARS」と読めます。
 この矛盾した標識こそ、逆転式一方通行の証拠です。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

 さらに「写真で見る新宿」のID:7002と、ID:31(神楽坂下夜景)は、いずれも昭和34年ですが、同じ標識が見えます。もちろん撮影年を間違えている恐れもありますが、複数のミスは考えにくい。写っている店の看板や街灯の形をメトロ映画の記事中の写真と比べても矛盾はない。『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』の1962年6月の写真では街灯の形式が変わっているので、それ以前の撮影であることは明らかです。
 外堀通り手前の車道の停止線にも注目したい。ID:5510 では向かって右の路面だけ白線が描かれていて(緑色の円内)、左はありません。ID:7002 も同じです。  これは対面通行仕様の路面標識です。想像ですが、警察は昭和31年の自動車の飛び込み事故後、暫定措置として「坂の下り」を禁止した。その後、路面標識を修正しないまま(あまり期間を置かずに)逆転式を導入したのではないでしょうか。
 以上のことから、逆転式の導入は東京新聞調べの1958年(昭和33年)が正しいと考えます。
 ではなぜ、ID:5510 は対面通行なのか。これは正午ちょうど、一方通行が逆転した時に撮影した写真だからでしょう。現在は逆転の間、12:00-13:00に歩行者天国をはさみます。当時は、その仕組みがありませんでした。昼のホコ天は「ランチタイム・プロムナード」と呼ばれていて、写真の上では「写真で見る新宿」のID:9109(昭和51年8月26日)(下図)で確認できます。歩行者天国の標識の下にフォークとナイフ、ティーカップの独特のマークです。ID:65(昭和48年2月)には、このマークはありません。

9109 神楽坂下交差点 昭和51年8月26日。新宿歴史博物館


 神楽坂の逆転式一方通行が早稲田通りの九段高校前まで延長されたのは、さらに後のことです。

対面通行 往復方向に車両の通行がある道路で走行をすること。
事故が発生 昭和31年、神楽坂二丁目の陶器店「陶柿園」で、一方通行下りの車の突入事故が起きた

 地元の方や逆転式一方通行の考え方をまとめると、東京新聞やウィキメディアの考え方のほうが正しいと思っています。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

昭和30年代半ばの神楽坂下(写真)ID 5510, 7002, 9109

文学と神楽坂

 地元の人が昭和30年代の神楽坂通りについて送ってくれました。

 新宿歴史博物館所蔵のうち、昭和30年代中葉の神楽坂下の写真は解像度がよく、多くの情報が読み取れます。おそらくプロが大判フィルムで撮影したのでしょう。外堀通りを都電が走っていた頃のもので、2枚とも軌道の石敷が鮮やかです。都電牛込線は、この写真の数年後に廃止になりました。

 昭和35年の写真(ID:5510)を見てみましょう(新宿歴史博物館所蔵「データベース 写真で新宿」。下図で、拡大できます)。向かって右の角が赤井商店。戦前から続く名店で、神楽坂の入り口のランドマーク的存在でした。よく見ると、隣の津田印店と同じ建物です。木造の建屋でも、間口を区切って店の一部を他人に貸すのは古い商店街では良くあることでした。この建物は外壁をテントで覆って化粧しましたが、現在も同じものを2つの店で分けて使っています。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 

神楽坂1~2丁目(昭和35年)
  1. 電柱看板「整美歯科 山本薬局横 院長 松本茂曜」「土地家屋 野口商会不動産部」「どもり 赤面対人恐怖」

  2.  自動車通行止 一方通行出口 午前AM0-正午NOON 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. ニューバリー
  4. 田原屋 パーラー
  5. 電柱看板「質 倉庫完備 大久保
  6. 元祖 貸裳店・(清水本)店
  7. 生そば(翁庵
  8. 電柱看板「川島歯科
  9. 電柱看板「森本不動産
  10. (ダイ)ヤモンド毛(糸)
  11. (夏目)写真館
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店
  2. 一方通行
    正午 午後 PM 12:00 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. 津田印店 印章 ゴム印
  4. ニューマヤ マヤ片岡出身 小山美智子
  5. 山田紙店
  6. 神楽堂 ヤマザキパン 電話 公衆電話 ヤマザキパンの納品車
  7. おしるこ(紀の善
  8. サインポール2つ(理容バンコック)
  9. 上映〇(メトロ映画
  10. ト(リ)ス(バー)、トリスバー  沙羅
  11. ダンス(小柳ダンススクール
  12. パチンコ(マリー)
  13. 志乃(多寿し)
  14. ビリヤード
  15. ニューイトウ
  16. 喫茶 クラウン
  17. (ルナ美容室)
  18. ポーラ化(粧品)
  19. 資生堂(化粧品)

都電牛込線 1905年8月12日神楽坂から四谷見附までを開業。1967年(昭和42年)12月10日、市ヶ谷見附と飯田橋を廃止。1970年(昭和45年)3月27日、全線廃止
ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。

 その隣は、この写真では見えていませんが「白十字診療所」という名の診療所でした。昭和50年代まで続き、同じ場所の写真(ID:9109、下図)で確認できます。
 次は山田紙店。2階には美容室「ニューマヤ」が入っています。看板は「マヤ片岡出身」と読めます。戦前・戦後を通じて美容界のリーダーのひとりだったマヤ片岡の直弟子の店で、時にはマヤ片岡も巡回してきたそうです。後に3丁目に自前のビルを建てるほど成功しました。2代目の店主が急逝し、閉店したのは2016年(平成28年)のことでした。
 次の神楽堂パン店の前にはヤマザキパンの納品車が止まっています。その隣は紀の善。黒地に白文字の看板は「おしるこ」と読めます。

[参考]神楽坂下交差点 昭和51年8月26日 新宿歴史博物館 ID 9109

 神楽小路を挟んで、黒っぽい高い建物は「理容バンコック」。この建物の1階は、しばしば店が代わるのですが、2階室は現在も紳士向け理髪店の「萬国館」として続いています。商店街では珍しいケースだと思います。突き出している「ダンス」の看板は、この建物ではなく神楽小路の奥にあった「小柳ダンススクール」です。
 その向こう、いかにも路地があるように見えますが、奥にあったメトロ映画の入り口です。「上映■」の演目の看板や、なんとか「メトロ」と読めるのぼり旗があります。角にはトリスバーがあり、看板も「トリスバー 沙羅」が見えます。
 次は「志乃〇」は「志乃多寿し」。人形町にある総本店の神楽坂店でした。その向こうの山一薬品は、この頃でもまだ平屋です。「ビリヤード」は通りではなく、パチンコマリーの角を入った路地の奥にありました。
「靴ニューイトウ」から先は、このブログの別記事で詳しく書かれています。
 同じ昭和35年(ID:5510)の向かって左側。「パチンコニューパリー」「パーラー田原屋」「貸衣装(清水本)店」、「生そば」(翁庵)まで確認できます。よく見ると「(ダイ)ヤモンド毛(糸)」(大島糸店)や「(写)眞館」(夏目写真館)の看板も見えます。

理容バンコック 「東京坂道ゆるラン」の「落語『崇徳院』の古地図」「明治後期、神楽坂の床屋」で。だたし、本当に理容バンコックがどうかは、わかりません。

明治後期、神楽坂の床屋

のぼり旗 図の左側にあったのぼり旗のこと。う~ん、私はわかりません。
トリスバー 写真の「ト〇フ」も「トリスバー」

拡大図。ID:5510

ビリヤード 国際ビリヤードが袋小路のつきあたりにありました。

1995年 住宅地図。

 もう1枚の昭和34年(ID:7002、下図)は縦に画角が広く、坂の中腹から先までうかがえます。さわやのあたりで坂が少し緩くなっているのも、よく分かります。その近くの横書きの大きな「〇中御」は「お中元」のセールでしょうか。
 一番高いところの「木村(屋)」の向こうに見える週刊紙の看板は、「記憶の中の神楽坂」に出てくる茂木書店のものと思われます。この店の後に、坂下からニューマヤが移ってきました。
 書店の下にチラリと半分だけ見えている看板は、塩瀬か柏屋のように思えますが、もう確認できません。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

記憶の中の神楽坂 かぐらむら 今月の特集 記憶の中の神楽坂