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牛込濠(写真)遠景 ID 17002-04 令和4年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 17002-04は令和4年(2022年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID17002 、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17003、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17004、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

 右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線があり、牛込壕は透明で、樹木の間に外堀通りがあります。外堀通り周辺の建物は低層ですが、その理由は、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。

ID 17002から

ID 17004から

A「パークハウス市谷田町」(地上12階)
B「東京理科大学5号館」(地上5階)
C「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
D「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)
E「市ヶ谷エスワンビル」1階に「肉のハナマサ 市ヶ谷店」看板「ena」
F「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
G「家の光会館」(地上7階)
H「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階 )
I「東京理科大学1号館」(地上17階)
J「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)
K「飯田橋ラムラ(RAMLA)」(地上20階)

1「東京日仏学院
2「油セルフ セルフ市ヶ谷SS」ガソリンスタンド
3「飯田橋レインボービル」(地上7階)
4「東京理科大学8号館」
5「ブリティッシュ・カウンシル」語学学校
6「東京理科大学7・9号館」
7「東京理科大学入試センター双葉ビル」
8「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
9「飯田橋升本ビル」など。ビル越しに「みずほ銀行」の看板

牛込駅の通路新設[明治の市区改正](明治28年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治22年(1889年)に新宿-八王子間で開業。東京市内への延長は外堀の一部を埋め立てる方法を採用し、明治27年10月に新宿-牛込間が開業しました。さらに段階的に工事を進め、明治37年にお茶の水まで延伸しました。
 牛込駅の隣の飯田町駅が終点だった明治28年、甲武鉄道は四谷駅市ヶ谷駅牛込駅3駅の「通路新設」を願い出ます。
 いずれも改札口から別方向への出口の新設で、外堀の土手の使用許可を求めたものでした。牛込駅を分かりやすく加工して詳しく見ます。

 堀端の「停車場道」が、もともと駅と神楽坂を結んでいました。牛込見附の土堤は坂になっていて、橋の部分で鉄道を越えます。駅からは跨線橋で上がり、線路をまたいで反対側に行けるようにする計画でした。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
土提 どてい。どて。土を小高くもった土の堤。水や風、敵などを防ぐ。土手どて
跨線橋 こせんきょう。鉄道線路を立体交差で越えるための橋。

 跨線橋である「牛込渡橋」の図面も残っています。向かって左が神楽坂側、右が新設する土手上の出口です。

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

 明治28年6月25日、東京市区改正委員会第118号会議で、この問題を議論します。議事録を読みやすく抜き書きすると

17番委員「通路に当たるところの樹木は何本ほど伐採せらるべきや」
25番委員「樹木にはかからぬはずなり」
15番委員「双方(両側)に通路を設けるに、従来のはいかが(どうする?)」
25番委員「現今は1カ所なるが、便利のため更に2カ所を開くとのこと」
24番委員「本案は別に調査委員にて調ぶる方がよからん。土堤を使用するには美観を損せざる様にとの主意なりしに、かくのごとく見苦しき階段を付しては、それらの点もいかがや」
17番委員「賛成。樹木を伐採せぬとは判然とせぬ。十分調査せらるるよう」

と、今日でいう環境問題から結論が先送りされました。
 調査委員の実地調査の結果、「樹木に支障なき」として原案通りに決まったのは2カ月後の第119号会議でした。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

飯田橋と牛込区筑土方面遠望(写真)大正8年頃

文学と神楽坂

 この絵葉書は個人が所蔵するものですが、最初に雑誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」に出たときは低解像度で、もっと解像度が高くないと発表には向かないと思っていました。最近、石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)を見ていると、初めて大きな写真を発見し、さらに「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)でも発見しました。
 まず何台かの電車が走っていますが、全て路面電車です。つまり道路上を走る市電や都電です。現在ではバスに代わり、なかには地下鉄に代わっています。JR(国鉄、省鉄)とは違います。路面電車の駅もバス停や地下鉄の駅に代わりました。

 林順信氏の「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)は

飯田橋の変則交差点 大正8年頃
 左に見える小さな鉄橋が飯田橋、右に見えるのは江戸川に架かる船河原橋である。江戸川がここで外濠に落ちるとき、どんどんという響きをたてていたので、通称「どんどん」と呼ばれていた。外濠に沿った左手を神楽かぐら河岸がしといい、目の前の町をあげちょうという。諸国の物資を陸掲げした頃の名前である。船河原橋上を渡るのは、外濠線の環状線の➈番と新宿と万世橋とを結ぶ③番の電車、それと交差するのは、江東橋から江戸川橋に通う⑩番である。飯田橋は、昔から変則的五差路で交通の難所である。
飯田橋 東京都千代田区の地名
江戸川 ここでは神田川中流のこと。昭和40年以前に、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
揚屋町 正しくはあげ町です。
環状線の➈番 あっという間に市電の線路番号は変わります。これは大正4年に市電の系統でしょう。
万世橋 千代田区の神田川に架かる橋。秋葉原電気街の南端にある。
江東橋 墨田区の地名。墨田区で大横川に架かる橋
江戸川橋 目白通りにあって神田川を架かる橋。東京メトロ有楽町線江戸川橋駅前にある。

 五差路と視線の方向です。

牛込区の地形図。大正5年第一回修正測図。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年)

 石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)の説明は……

【飯田橋と牛込区筑土方面遠望】
現在は飯田橋交差点になり面影はない。左の鉄橋が飯田橋。右は船河原橋で、電車は新宿―万世橋間の③番と環状線の⑨番で、左の飯田橋を渡る電車は江東橋―江戸川橋間を走る⑩番だそうだ(『東京・市電と街並み』による)。⑩番の電車の奥の道は大久保通り。堀に沿って左に行けば市谷方面。現在も飯田橋交差点は変則的な五叉路で複雑である。

 最後は「かぐらむら」の文章です。「今月の特集 記憶の中の神楽坂」でおそらく2009年に出ています。

飯田橋界隈(大正時代/絵はがき、個人所蔵〉
複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。
左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期~後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年~44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。

吾妻医院 東京女子医科大学「東京女子医科大学80年史」(東京女子医科大学、昭和55年)では……

 吾妻病院は、大正5年(1916)まで順天堂の産科部長をしていた吾妻勝剛が、そこを辞めて、下宮比町に開業したとき建てた病院である。当代一流の産科医であった吾妻は最新の設備を備えた産科病院を建て、隆盛を極めたが、好事魔多しの譬えどおり大震災の日、熱海の患家で家の下敷となり、圧死したのであった。
 吾妻病院は火をかぶらなかったものの、地震で建物のあちこちが痛んでいた。しかし産科婦人科専門の弥生にとっては願ってもない病院であった。それを入手し、修理し、この年11月23日からここを第二東京至誠病院として再開した。この場所が牛込区下宮比町(現在の厚生年金病院の場所)であることからその後はここを学校のある“河田町”に対し“宮比町”と呼ぶのが内部での慣わしとなった。
 現在は名前は変わり、東京新宿メディカルセンターです。
吉岡弥生 医者。済生学舎(現日本医科大学)を卒業、東京で開業。明治33年(1900)東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創立。昭和27年、東京女子医科大学の学頭に就任。生年は明治4年3月10日(1871年4月29日)、没年は昭和34年5月22日。享年は満88歳
デッキ deck、vestibule(USA)。車内への出入口があり、客室との間に仕切戸が設けてある車端部の空間。鉄道車両で客室への出入口の部分。