故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。民俗学が絡んだ自叙伝の本ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。以下は『定本柳田國男集 別巻3』に出ていた「泉鏡花」です。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。

「故郷七十年」の1は、泉鏡花、2は自然主義小説について、3は30歳代に住んでいた加賀町、4は河童について、5は浅見淵氏が書く加賀町の家です。

 柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町柳田家(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた家で、すぐそばに平田禿木も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覺えるというやうな型の婦人だったやうに思う。後に吉田賢竜君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた溫厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出來事からであつた。
 大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが、「おい上らないか」と呼んだので、 窻に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思い込んでしまつた。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないゝ氣持になった時はなかつたね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなつて、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以来、學校を出てから後も、ずつと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになっていたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないやうな所があつた。
 酒を飮むにしてもまるで古風な飮み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁小栗風葉で、この連中は「あゝ、僞善者奴が」と泉の惡口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまつた。
 同じ金澤出身の徳田秋聲君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから、他人が譯した外國のものなども、こつそり讀んでいたやうである。いろ/\なことがあつたが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であつた。

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。

千寿|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

『製菓実験』昭和13年4月号に「千壽」(千寿)が出ています。

       千壽
倉本
 不折が泣くであらうが――と云つたら、御主人は不平であらう。が、江戸ツ子は口が惡いものである。この店を見ては、そう言はざるを得ない位である。もつとも、之を菓子屋だとおもつたら間違ひかも知れない。汁粉店であらう。それにしても、店といふものが、お客樣の口に入れるものを入れる特別の入れものだと考へたら、モツト、何んとか考へてよさそうではないか。
 この店を、このまゝ活かすなら、の腰にも同じタイルを張り、入口に淸洒湓色暖簾でもかけることだ。面して、讀者諸君に、こゝで注意したいことは陳列窻の有難さといふことだ。この店で、これが無かつたら、何の店かワカリはせぬ。(もつとも、小さな電氣看板の側面には何とか商賣名が書いてはあるのだらうが……)

 あまり技巧的にならない良い店である。看板とタイルとは不思議にマツチしてゐる。ショーウインドウの腰が何となく粗製の感じがあるのと、その欄間チヨンビリしてゐながらドギツく感じられるのが缺點である。全體的にみて少しおさまり過ぎてゐる處はあるが、それも大して氣にはならない。
 右側の小窻には紙張りの障子を入れた方がいゝであらう。こゝに白い處があれば欄間のドギツさも幾分か救はれるかも知れない。
 「窓」の旧字体
清洒 せいしゃ。華美なところがなくさっぱりとしている。
湓色 「ほんいろ」か。「湓」は「水がわきでる」こと。水色?
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。
粗製 作り方が粗雑なこと。雑なつくり。
欄間 らんま。採光、通風、装飾のため天井と鴨居との間の開口部材。
ちょんびり わずかに。ほんの少し。ちょっぴり。
缺點 「欠点」の旧字体

 2009年12月号の「かぐらむら」「記憶の中の神楽坂」の「神楽坂1丁目・2丁目・3丁目」で「千寿」が出ています。欠点はどこにもなさそうに、あっさりと、書いています。
 場所もお店の詳細も不明である。看板は、新宿中村屋のロゴマークや、漱石の「我が輩は猫である」の挿絵で知られる「中村不折」の揮毫。お菓子屋というよりはお汁粉屋さんであったようだ。

揮毫 きごう。毛筆で文字や絵をかく。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。

 この揮毫は中村不折によるとはっきりとわかっていないと思います。
千寿の写真で、左側と右側の柱ですこし長さが違い、向かって左側が少し長くなっています。これは、坂道の入り口や降り口の周辺なのでしょう。
 岡崎公一氏の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではよく似た店舗がありました。「天寿堂飴店」です。「千寿」と「天寿」、お汁粉屋と飴店。似ている、似ていない。間違えて千寿を天寿と書いたのでしょうか。まあ、そんなことはないか。

合羽坂|3か所のどれ?

文学と神楽坂

 合羽坂という坂道は、時代によって大きく違った坂でした。
 まず『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では……(なお『御府内備考』とは『御府内風土記』の簡素版です。『御府内風土記』の成稿は文政12年(1829年)に出来上がり、ところが火災で焼失、『御府内備考』だけが残ったのです)。これは雄山閣の『大日本地誌大系』(昭和6年)の『御府内備考』から。

合羽坂ト唱申候右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候
[現代語訳]合羽坂と申します。この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てくるので、風評通りに河童坂と呼び、その後、間違えて合羽坂と書いたということです。

合羽坂

合羽坂。『御府内場末往還其外沿革図書』1852年。「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年。新宿区教育委員会。p158

 横関英一氏の『続江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、昭和50年。中公文庫 昭和57年)の「市ヶ谷尾張屋敷に囲い込まれた六つの坂 」では……。(なお、図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年。下線は横関氏ではなく私です)

新五段坂と合羽坂 明和のころになると、五段長屋、五段坂、大隅町一帯の地が、尾張屋敷の中に完全に囲い込まれてしまったのである。『半日閑話』には、次のように、その年月日を詳しく書いている。「明和五年(一七六八)五月二十五日、尾州侯五段長屋御囲ひ出来る。五段坂大隅町辺皆御館の内に入る」。そして、この五段坂とその西のほうの合羽坂との中間に、新たに平行してできた坂が、新五段坂であった。(中略)
 それからもう一つ、『御府内備考』の別のところに、「合羽坂は新五段坂の西の方にあり」と書いている。五段坂と新五段坂と合羽坂とは、三つとも平行した、南から北へ登る坂みちであったとしか考えられない。(中略)
 ここで特に注意することは、合羽坂の説明で、「右坂下通西の方え登り」とあることで、右坂とは新五段坂のことであり、この坂下通りを西のほうへ登るのが合羽坂であるというのである。右の引用文は、五段坂の西に新五段坂があり、さらにその西に合羽坂があるということなのである

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』で合羽坂合羽坂(かっぱざか) 市谷本村町の自衛隊本部西わき、市谷仲之町の境を南へ下る坂で、坂下は靖国通りをまたぐ陸橋(曙橋)がかけられて四谷片町につらなっている。「新撰東京名所図会」は「合羽坂は四谷市谷片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池(はすいけ)と称する大池あり。雨夜など(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思ひしより坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来りしといふ。」と記している。もとは谷間に下る急坂であったが、睦橋を架して道幅をひろげ、河童の伝説とはかけ離れた自動車道路となった。

 また、芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、昭和47年)では……

32、カッパの出る合羽坂
      (市谷仲之町)
 陸橋曙橋の手前右の坂を上る。この坂をカッパ坂という。住吉町低地は江戸時代には水田地帯で大小多くの池があった。その池に住むカッパ(漫画に出てくる空想の動物)がこの坂に出て夜の通行人を驚ろかすので力ッパ坂と名づけられ、あとで合羽の字をあてたのである。
 しかし、これはカッパではなく、カワウソなのである。けろりとしてとぼけているカワウソから、架空のカッパが生み出されたのである。
 江戸時代には、低湿地にはカワウソが多くいたらしく、今の新宿御苑の東を流れる渋谷川には、明治中期まで水車があったが、その水車付近で、明洽のはじめ、大きなカワウソがとれたという記録がある(四谷52参照)。
 〔参考〕 御府内備考  新宿と伝説

 戦前、大正~昭和では、合羽坂は大きな坂になります。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

大正と戦前昭和の合羽坂

 戦後、またまた位置が変わります。新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(新宿区教育委員会、昭和57年)によると、昭和56年は……昭和50年代の合羽坂

 なんと、左の坂を「合羽坂」に入れています。左の坂は明治20年にはなかったのに。
 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)では

1990年代の合羽坂

 現在の交差点を見ると、外苑東通りの交差点が「合羽坂」交差点、その右下の交差点が「合羽坂下」となっています。そして、「合羽坂」交差点と「合羽坂下」交差点をつなぐ坂が「合羽坂」です。

2010年代の合羽坂

備仲臣道氏「内田百聞文学散歩」(皓星社、2013)

 また、昭和58年3月、都は説明でこの合羽坂の頂上近くに、道標をたてています。下の図では元治元年(1864年)の「江戸切絵図」を紹介し、ここでは合羽坂は現在の合羽坂とほとんど同じ位置でした。

合羽坂の道標と地図。赤丸が合羽坂

合羽坂(かっぱざか)

 新撰東京名所図会によれば「合羽坂は四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜などかわうそしばしば出たりしを、里人誤りて河童かっぱと思いしより坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。
   昭和58年3月
東京都

銀扇|神楽坂

文学と神楽坂

 銀扇は喫茶店で、左側上り囗、私の考えでは、神楽坂二丁目にありました。昭和5年頃の神楽坂で銀扇の出店はまだなく、しかし、昭和8年には出店し、少なくとも昭和14年にもありました。戦後はなくなりました。

 白木正光氏の「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)では

 坂の中腹(ちうふく)左側。ベーカリー式の菓子、喫茶(きつさ)、カツレツ御飯(25銭)等婦人連(ふじんれん)にも()かれ(そう)な店です。

 安井笛二氏の「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

銀扇堂 (さか)中腹(ちうふく)左側。ベーカリー式な家で、比較的(ひかくてき)落付いた店です。喫茶(きつさ)の外にランチも出來コーヒーとケーキは此の(みせ)自慢(じまん)のものです。場所柄(ゐき)な婦人(れん)がよく出入りし、學生間にも却々好評(こうへう)です。高級の喫茶として、レコードにゆっくり落付(おちつけ)ます。此所の洋菓子(ようくわし)はなか/\うまい。

 なお、「却々」は「なかなか」と読みます。また、「大東京うまいもの食べある記」の書き方から、銀扇堂は樽平食堂の後ろで、亀寿司の前にあるようです。

『製菓実験』昭和14年4月号で描く銀扇(牛込神楽坂)は

神楽坂の喫茶店、銀扇 缺點もなく、又、探り立てゝ云うこともない無難な店である。左端にある二個の六角の装飾電燈は無意味で、もし現在電氣を點けてゐるのならば、これを取りのけて、簡單な長方形の突出し行燈をつけて、同じ電流を活用させた方が、ずつと効果的だ。
尤も、こゝは以前、資生堂の店だつたのを、そのまま入れ變つたところだから、わざわざつけたのではない。

 中村武志氏の「目白三平のあけくれ」(大日本雄弁会講談社、昭和32年)では

 この「田金」果実店の並びに、「志満金」という蒲焼屋があるが、そのあたりに、当時は「ギンセン」という喫茶店があった。「ギンセン」では、二十五銭のカレーライスと、三十銭のハヤシライスを食べさせてくれた。味が非常によかったから、金のある時は、ここへいつも来たものだ。

 同じく中村武志氏で、「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」(昭和46年)から「ここは牛込、神楽坂」第17号に転載)で

 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。

かぐらむら』の記憶の中の神楽坂では

 坂の中腹にあった。ベーカリー式の菓子喫茶で、コーヒーとケーキはこの店の自慢のもの。ランチもあり、カツレツご飯は25銭。高級喫茶としてレコードを聴きながら、ゆっくり落ち着ける店だった。この写真の注目すべき点は、左側2個の六角形の電灯である。ここは、震災後資生堂の店だったのを、そのまま入れ替わったため、お菓子屋に不似合いな装飾電灯がついているのだそうだ。

 銀扇は上り口にあり、「志満金」の近くで、樽平食堂の後でした。したがって、今井モスリンから(現在の)ポルタ神楽坂のどこかにあるのでしょう。ここでバサッと決めると、私は白十字喫茶が一番いい(!)と思っています。

昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店

岩戸英和クラブ|岩戸町

文学と神楽坂

『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記①(1888年ー1900年)』(日本聖公会文書保管委員会編集。聖公会出版。2015年)のなかに<解説>があり、岩戸英和倶楽部のことが書かれています。

 チャモレー師は英語教育の持つ宣教上の意義を高く評価していた。大切なのは、そこに生じる人間関係であり、それが人々をキリスト教に導くことになると信じていた。だから、師は、学校以上に濃厚な人間関係を期待できる私塾を開設したのである。
 その私塾が岩戸英和倶楽部である。場所は東京市牛込区岩戸町25番地。早稲田通と大久保通の交差点に近い所である。チャモレー師は、明治28年6月、後輩宣教師のメドレーと共に、私費で、ここに「岩戸英和クラブ」を開いたのである。
 ただし、建物は民家であって、塾としては適当ではなかったのかもしれない。入塾者は多くなかった。出席者が10人もあれば、チャモレー師は素直に喜んだ。
 教科書としては「ザ・リトル・デューク」などを読んだ。しかし、彼が意図したように、この塾生たちの中からどのくらいの数のクリスチャンが出たのか、また、望ましい人間関係が生まれたのかは、あまり明らかではない。しかし、期待したほどの教育効果が上がらなかったことは確からしい。
 明治30年5月、ちょっとした住居がらみのトラブルをきっかけに、チャモレー師は、岩戸クラブを閉め、ここを自分の住居に改造し、以後最終的に日本を離れる日まで、ここに住み続けた。
名取多嘉雄


岩戸町25番地。岩戸英和クラブがここにあったチャモレー師 英語ではLionel Berners Cholmondeley
岩戸町25番地 早稲田通り(神楽坂通り、北中央から東中央に流れる)と大久保通り(東北角から南西角に流れる)の交差点(神楽坂上)に近い場所でした。右図では赤い枠で囲まれた場所。
ザ・リトル・デューク The Little Duke。作者はCharlotte M. Yonge。8歳でノルマンディー公になった無怖公(Richard the Fearless、943-996)の感動的なお話。
日本を離れる日 1922年(大正11年)、師は英国に戻りました。

牛込の地図

 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から。細部では現在の地図と違っています。「国勢調査町丁・字等別境界データセット」から取ったほうがいいでしょう。

筑土八幡町 袋町 筑土八幡町交差点 大久保通り 改代町 飯田橋交差点 大曲交差点 西五軒町 横寺町 岩戸町 揚場町 筑土 納戸町 牛込見附交差点 神楽坂一丁目 神楽坂二丁目 神楽坂三丁目 神楽坂四丁目 神楽坂五丁目 神楽坂六丁目 寺内地区 矢来町 白銀町 神楽河岸 津久戸町 下宮比町 新小川町二丁目 鷹匠町 箪笥町 中町 南町 牛込北町交差点 神楽坂上交差点 新小川町 石切橋 赤城元町 山伏町 本村町


ライオネル・チャモレー日記|矢来町

文学と神楽坂

『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記①(1888年ー1900年)』(日本聖公会文書保管委員会編集。聖公会出版。2015年)が出版されています。ちなみに、現在は「聖公会」といいますが、昔は「英国教会」「英国国教会」「イングランド国教会」などと呼んでいました。その最初の本文ページは……

ライオネル・チャモレー日記 1888 (明治21)年

 1888 (明治21)年1月1日(日曜日)
 ガンジツ 正月。良く晴れた朝。7時。月が明るく輝き、富士がくっきりと聳えていた。9時、エドワード・ビカステス主教*と私は牛込*の礼拝に向った。出席者は20人ほど。主教が短い説教をした。
 街は年始回りに出てきた兵士、高官、山高帽の紳士たちで賑わっていた。どこでも子供たちが凧を揚げていた。
 我々は英語礼拝*には遅刻したが、説教には間に合った。ロイド師*が説教し、主教がローブを着けて司式した。
 日本標準時が採用されたので、今朝、時間を修正した。時計を20分遅らせた。

(注)
 ビカステス主教(Edward Bickersteth 1850-1897 東京地方南部伝道区主教)
 牛込(昇天教会)
 英語礼拝(英国人信徒の礼拝)
 ロイド(Arthur Lloyd 1852-1911 英宣教師)

ライオネル・チャモレー Lionel Berners Cholmondeleyです。
牛込 牛込とは昇天教会のこと

この牛込の昇天教会はいったい どこにあったのでしょうか。現在だと簡単で、新宿区矢来町65番地(右図)です。でも、明治や大正では、どこだったのでしょうか。

インターネットで調べると、「新刊紹介 牛込宣教120周年記念特別号『光の矢』 日本聖公会 東京教区 牛込聖公会聖バルナバ教会」という記事が見つかりました。

 1873(明治6)年、英国の宣教団体SPG(福音宣布協会)のショーとライトの二宣教師が日本の地を踏んだ。ライト師は明治8年、牛込区四谷①箪笥町22番地に仮会堂を組織し、平日は普通教育、夜は伝道活動の拠点とした。これが聖十字仮会堂で、1878(明治11)年②市ヶ谷本村町に移転して市ヶ谷会堂と呼ばれた。ライト師によって洗礼を受けた牛込区居住者が同区古川町に講義所を設けて、これが同区③水道町2番地の会堂となっていく。聖バルナバ教会の前身となる「牛込昇天教会」である。
 1878(明治11)年5月に献堂式を挙げている。翌年、市ヶ谷会堂が暴風によって倒壊し、この会衆が牛込昇天教会に合流して同教会は大いに興隆した。1897(明治30)年、昇天教会が老朽化したため、牛込④赤城坂下に新会堂を建築、6月12日に「捧堂式」を行い、同時に名称を「聖バルナバ教会」と改めた。
 1945年(昭和20)、教会は空襲による戦火をうけて消失、跡地に建てられた牧師宅で礼拝が行われた。
 52年(昭和27)、現在の新宿区⑤矢来町65番地の地に、木造平屋建ての仮聖堂が建設され、以後約40年間にわたり礼拝が捧げられた。
 1982年(昭和57)、教会の将来計画を検討する「バルナバ特別委員会」が東京教区に設置されて構想を練り、聖バルナバ教会の土地に日本聖公会センターと聖バルナバ教会を共に建設することとなった。90年(平成2)約6億円の予算で建築工事が始まって2年後の92年2月15日に日本聖公会センターの落成式が、3月1日に聖バルナバ教会の献堂式が相次いで行われた。
(広報主事・鈴木 一)

どうも水道町2番地が牛込昇天教会の場所のようです。下図では赤い四角。

牛込区四谷箪笥町 牛込区四谷箪笥町22番地はなく、牛込区箪笥町22番地の間違いでしょう。
同区古川町 古川町なので、牛込区にはなく、小石川区小日向東古川町か、小日向西古川町なのでしょう。右図で青枠の場所。現在は文京区関口一丁目。
同区水道町2番地 右図で赤い四角。
牛込赤城坂下 聖バルナバ教会の場所はよくわからないのですが、仮に赤城下町とすると④です

神楽坂|アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」の「神楽坂」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。明治22年(1889)4月11日に内藤新宿駅と立川駅との間に開通し、やがて御茶ノ水から、飯田町、新宿、八王子までに至りました。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。

目白三平のあけくれ|中村武志


文学と神楽坂

 昭和32年(1957年)、中村武志氏が書いた「目白三平のあけくれ」です。昭和のゼロ年代から10年代にかけて神楽坂にどんな店舗があったのか、それを昭和30年代と比較しています。知らない店舗も多く出てきています。

    バナナの叩き売り

 神楽坂を登って行くと、左側の「田金」果実店のあたりに、「樽平」という飲屋があった。今では、新宿の「二幸」裏の横町や銀座の全線座の裏路地に支店を出しているが、当時は神楽坂だけであった。
 女気が全然なくて、ボーイさんがお銚子やお通しを運んで来た。酒もよく吟味してあって、お銚子一本十五銭であった。この実質的なのが一般に受けたのだろう。「樽平」は神楽坂で成功して、新宿へ支店を出したのだが、今では本家の神楽坂が駄目になって、新宿の方が繁昌しているわけだ。
 この「田金」果実店の並びに、「志満金」という蒲焼屋があるが、そのあたりに、当時は「ギンセン」という喫茶店があった。「ギンセン」では、二十五銭のカレーライスと、三十銭のハヤシライスを食べさせてくれた。味が非常によかったから、金のある時は、ここへいつも来たものだ。
 その頃、法政大学の食堂のカレーライスは、たしか十五銭だったと思う。安いことは安かったが、その代り、義理にもうまいとは云えなかった。

 昭和ゼロ年代の地図はひとつだけで、それは新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏が「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」で描いた昭和5年頃の地図なのです。下の地図では、この図から神楽坂下から上にかけて志満金などを中心に左側の商店だけを抜き出したものです。図の左側は昭和5年頃の商店、中央は平成8年12月の商店、右側は2017年の商店です。樽平、志満金、田金果実店はここに出てきます。

1930年頃1995年2017年
はりまや喫茶夏目写真館ポルテ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽坂煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールY! mobile
樽平食堂ラーメン花の華天下一品
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴オザキヤ
三好屋食品志満金 鰻志満金
増屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服田口屋生花田口屋生花

田金 果実店。右の図では左側の真ん中に。下の写真では青色の店舗。田金果実店はおそらく戦後に出てきた店舗で、2008年まではありましたが、2010年には終了しています。
樽平 山形の蔵元樽平酒造の直営店。昭和3年に神楽坂で開業。すぐに銀座に移転。新宿、銀座、上野、五反田にも出店。現在、神田だけですが、直営店があります。下の図では赤で囲んだ店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「左側にある瀟洒な構えの小店ですが、ここにはこうした類の酒店が尠いせいか、上戸党には大層な評判です。」と書いてあります。
二幸 1926年、「二幸食品店」が創業。現在は新宿アルタ。
全線座 映画館の1つ。1930年から早稲田全線座、銀座全線座、渋谷全線座等を運営。1938年(昭和13年)、京橋区銀座8丁目に洋館古城風の建物の「銀座全線座」を開業。
志満金 現在もある鰻屋。詳しくは志満金で。下の写真では黄色の店。

志満金前(昭和20年代後半)『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

ギンセン 正しくは「銀扇堂」。菓子喫茶店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「坂の中腹左側。ベーカリー式の菓子、喫茶、カツレツ御飯(25銭)等婦人連にも好かれ(そう)な店です」。また、安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「銀扇堂 坂の中腹左側。ベーカリー式な家で、比較的落付いた店です。喫茶の外にランチも出来コーヒーとケーキは此の店自慢のものです。場所柄粋な婦人連がよく出入りし、学生間にも却々好評です。高級の喫茶として、レコードにゆっくり落付ます。此所の洋菓子はなかなかうまい」。なお、「却々」は「なかなか」と読みます。

 せんだって、二十何年振りに、新装なった法政大学の建物を見せて貰った。五五年館の地下の立派な大食堂では、カレーライスが四十五円で、ハヤシライスが六十円だということであった。一度暇を見て、このカレーライスを賞味しようと思っている。
 右側の小間物店「さわ屋」は、昔から変りがないが、横町の丁度「さわ屋」の真裏に、「東京亭」という小さなカフェーがあって、友だちのH君が、そこの女給のいくよさんに可愛がられたようであった。いくよ姉さんは、間もなくパトロンを見つけて、横町の奥で「いくよ」という小料理屋を開いた。今はもう小料理屋の「いくよ」は影も形もなく、ましていくよ姉さんの消息なぞ知る由もない。
 また左側に移るのだが、山本薬局のあたりに、果実店の「田原屋」があった。喫茶部も経営していて、落ちついた感じのいい店であった。現在は、ずっと先の、毘沙門天善国寺の近くに、同名の小さな果実店があるが、これは弟さんが主人だということだ。

法政大学五五年館 千代田区富士見にある法政大学市ケ谷キャンパスの1つ。五五年館は赤丸。

さわ屋 以前はかんざし、櫛、かもじなどを扱う小間物店。現在は資生堂の一店舗として化粧品を販売。詳しくはさわやで。
東京亭 神楽坂仲通りにあった店舗。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「白木屋横町 小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの「花の家」 カフェー「東京亭」 野球おでんを看板の「グランド」 縄のれん式の小料理「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼」等が軒をつらねています」と書いてあります。
いくよ 神楽坂仲通りにあった店舗。これ以上は不明。

昭和27年「火災保険特殊地図」から

山本薬局 神楽坂三丁目にありました。上の昭和27年の「火災保険特殊地図」では右端に近く、赤い店舗です。
田原屋 戦後、神楽坂中腹にあった果実店の田原屋はなくなりました。恐らくこの図で青の店舗です。

 坂を登り切った右側に「藤屋」という花屋がある。昔はこの店の前あたりで、毎晩のようにバナナの叩き売りをやっていた。戸板の上に、バナナを沢山並べて、大きな房には、はじめ七、八十銭の値段をつけ、買手がないと見ると、竹の棒で戸板を叩きながら、十銭刻みに値段を下げて行く。安いなと思うところで、お客が買ったと声をかけるのだ。
 安いバナナを買う時もあったが、慌てて声をかけたために、十銭くらい高く買わされたこともあった。とにかく、夜の神楽坂名物として、バナナの叩き売りは無くてはならないものであった。
 このバナナの叩き売りをやっていた人が、「藤屋」の前の、「ジョウトウ屋」という果実店の主人だそうだが、あの頃の毎晩の努力が実を結んだわけで、大変おめでたいことだと思っている。

藤屋 本多横丁の右角にあった店舗で、右図では左端の赤い店舗でした。以前は豊島理髪店で、昭和27年には「藤屋」に変わり、昭和35年ごろには、中華料理の「五十番」。平成28年(2016年)、五十番も本多横丁の右角から左角に移って、ここは新たに「北のプレミアムフード館 キタプレ」に。
ジョウトウ屋 確かにジョウトウ屋と書いています。「いや、ジヤウトーヤのほうが正しい」という議論はジョウトーヤで。図ではピンクの店舗。

紅葉の葬儀②|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人、のちには大衆小説を書いています。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれ、昭和2年に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になりました。これは尾崎紅葉氏の葬儀の情況です。

坪内先生の卒倒(明治三十六年の冬の下)
 紅葉の死に就て各新聞は競つて記事を精密にした。その葬儀の模様も委細に報導されたので、茲には主として、自己中心で記載するが、贈花其他は可成り長くつゞいた。棺惻に門生逹が左右に別れて從つたが、其中に異彩を放つたのは、瀬沼夏葉女史で、この人はニコライ神學校の教師瀬沼某の夫人で、露國文學に通じ、その飜譯を故人に示しなどしてゐた。
 硯友社員は棺後に直ぐつゞいた。會葬者は一人も殘らず徒歩で青山の齋場まで附随した。高田先生なども無論であつた。
 思案が行列整理の任に當つて「皆二列に並んで下さい。」と無遠慮に觸れて廻つたが、皆その通りにして呉れた。自分は柳浪と並んで行つた。
 川上音二郎藤澤淺二郎二人が、横寺町の某寺門前で、シルクハツトフロツクコートで默送してゐた。行列が神樂坂を降り、堀端を進行中に、陸軍將校が騎馬で通行し掛つて、馬の暴れを鎭め切れず、一寸行列を亂した事があつた。
森鷗外丶丶丶丶騎馬で丶丶丶紅葉の丶丶丶行列を丶丶丶攪亂丶丶さした丶丶丶。」と某新聞に記載したのは、全くの無根で、前記の軍人を鷗外に嵌めて了つたのだ。

ニコライ神学校 千代田区神田駿河台の正教会の大聖堂。正式には東京復活大聖堂。ロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライ(Nicholas)に由来。
瀬沼某 瀬沼恪三郎かくさぶろうのこと。明治23年、ロシアに留学。キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめる。
二人 「金色夜叉」を演じた役者たちです。
嵌める はめる。ぴったり合うように物を入れる。物の外側にリング状や袋状の物をかぶせる。

 青山齋場は立錐の地も無いまでに會葬者が詰めてゐた。
 硯友社の追悼文は、眉山が書いて、思案が讀んだが、途中から鳴咽して丶丶丶丶丶丶丶丶切々丶丶聽くに丶丶丶忍びず丶丶丶會葬者も丶丶丶丶亦多く丶丶丶涕泣した丶丶丶丶
 突然會葬者中に卒倒者を生じた丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶それは坪内逍遙先生であつた○○○○○○○○○○○○○。それを最初に氣着いて抱き留めたのは、伊臣眞であつた。早速場外へお逹れして、岡野榮の家で靜養されたが、一時は皆吃驚した。(腦貧血を起されたのであつた。)
 次ぎに角田竹冷宗匠が、秋聲會を代表して追悼文を讀んだ。之も亦泣きながらであつた。
 門弟を代表しては鏡花が讀んだ。
 自分は長年、多くの葬儀に列したけれども、紅葉の時の如く會葬者の殆ど全部が、徒歩で以て長途を行き、二列の順をくづさなかつた樣なのは、他に見なかつた。又齋場に於ける緊張味は、殆ど類を見ないのであつた。わざと成らぬ丶丶丶丶丶丶劇的光景丶丶丶丶に富んだ丶丶丶丶のは丶丶故人の丶丶丶徳望の丶丶丶現はれ丶丶丶と見て丶丶丶好からう丶丶丶丶である丶丶丶

青山斎場 現在は青山葬儀所。場所は港区南青山2-33-20。明治34年に民間の斎場として開設。大正14年に旧東京市に寄付。なお、尾崎紅葉の墓は青山霊園で1種ロ10号14側にあります。
秋声会 しゅうせいかい。俳句結社。1895年(明治28)10月、角田竹冷ちくれい、尾崎紅葉、戸川残花、大野洒竹しゃちくらが、日本派以外の新派俳人を広く糾合して創立。その趣旨は、新古調和、折衷主義で、革新的意気に欠け、作句面では遊俳とも称される趣味的傾向が強かった。
宗匠 そうしょう。文芸・技芸などの道に熟達し、人に教える立場にある人。特に和歌・連歌・俳諧・茶道・花道などの師匠。
長途 ちょうと。長いみちのり。遠い旅路。
わざとならず ことさらでない。さりげない。自然な。

文壇昔ばなし④|谷崎潤一郎

文学と神楽坂


             ○
肌合ひの相違と云ふものは仕方のないもので、東京生れの作家の中には島崎藤村毛嫌ひする人が少くなかつたやうに思ふ。私の知つてゐるのでは、荷風芥川辰野隆氏など皆さうである。漱石も露骨な書き方はしてゐないが、相當に藤村を嫌つてゐたらしいことは「」の批評をした言葉のはし/\に窺ふことが出来る。最もアケスケに藤村を罵つたのは芥川で、めつたにあゝ云ふ惡口を書かない男が書いたのだから、餘程嫌ひだつたに違ひない。書いたのは一度だけであるが、口では始終藤村をやツつけてゐて、私など何度聞かされたか知れない。さう云ふ私も、芥川のやうに正面切つては書かなかつたが、遠廻しにチクリチクリ書いた覺えは数回ある。作家同士と云ふものは妙に嗅覺が働くもので、藤村も私が嫌つてゐることを嗅ぎつけてをり、多少氣にしてゐたやうに思ふ。そして藤村が氣にしてゐるらしいことも、私の方にちやんと分つてゐた。しかし藤村には又熱狂的なフアンがあつて、私の舊友の中でも大貫晶川などは藤村を見ること神の如くであつた。彼は私と同じく東京一中の出身であるが、生れは多摩川の向う川岸の溝ノ口あたりであるから、東京人とは云へないのである。正宗白鳥氏は私の藤村嫌ひのことを多分知つてゐて、故意に私に聞かせたのではないかと思ふが、数年前熱海の翠光園で相會した時、今讀み返してみると藤村の作品に一番打たれると云つてをられた。

藤村を嫌っていた、「春」の批評 結論を先にいうと、漱石氏による『春』の批評はなさそうです。おそらく、うちうちでの反発はあっても、公になった『春』の悪口はありません。
 まず「漱石全集」(岩波書店、1995年)第16巻「評論など」を調べてみました。しかし、第16巻には何も書いていません。大体、漱石は自然主義の全体についていいたいことがあっても、いえない、いわない。なにせ、自分がやっていた朝日新聞に『春』が出たわけで、あまり批評は書きたくないのです。
 そこで第28巻「総索引」で調査しました。島崎藤村氏全体を調べると、第20巻(日記)416頁(「藤村の食後…を買う」)、第22巻(書簡)[人索](書簡883、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第23巻(書簡)注解(532頁)(「壁」について)と[人索](書簡882、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第25巻(別冊)254頁(「…島崎君の[『春』]が出るまで…私が書かなきやならん」)と519頁(「破戒」とは島崎藤村の小説)に書かれていました。[人索]は「人名に関する注および索引」のことです。
 また「総索引」で『春』(島崎藤村)を調べてみると、書いているのは第23巻(書簡)だけで、内訳は83頁、198頁、206頁、208頁、212頁、 528頁でした。528頁は[人索]で、書簡882、1064、1099、1136の4通がありました。書簡882は『春』を朝日新聞の小説にしたいということが書かれており、書簡1064は、大塚楠緒子宛の書簡で、
 藤村氏のかき方は丸で文字を苦にせぬ様な行き方に候あれも面白く候。何となく小説家じみて居らぬ所妙に候然しある人は其代り藤村じみて居ると申候。あれも長きもの故万事は完結後ならでは兎角申しかね候

書き方は小説家らしくはないけれども、完結がでるまで何も言わないよと、まあ普通の文言です。書簡1099は高浜虚子宛の書簡で
「春」今日結了 最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。([ついで])を以て大兄へ御通知に及び候。あの五六行が百三十五回にひろがつたら大したものなるべくと藤村先生の為めに惜しみ候。

逆に考えると、あの五六行だけが良く、残りは最悪となりますが、そこは漱石、感心した文章を読んだと肯定的に書いてあります。書簡1136の小宮豊隆宛の書簡では
今の自然派とは自然の二字に意味なき団体なり。花袋、藤村、白鳥の作を難有がる団体を云ふに外ならず。而して皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品を云へば大抵君より下等なり、理窟を云へば君よりも分らずや多し。生活を云へぼ君よりも甚しく困難なり。さるが故に君の敢て為し能はざる所云ひ能はざる所を為す。君是等の諸公を相手にして戦ふの勇気ありや。君を此渦中に引き入るるに忍び ざるが故に此言あり。

と、一般論で自然主義に対する反論がでてきます。しかし、書いてあった島村藤村氏に対する明確な反論はありません。逆に『破戒』では絶賛しかでてきません。(明治39年4月3日の森田草平宛の書籍)
一度だけ 芥川龍之介氏は「島崎藤村」や「藤村」という名前を『芥川龍之介全集』(岩波書店、1996年)の中で使ったことはありません。「島崎藤村」と関係がありそうな文章は、『或る阿呆の一生』(昭和2年)で出てきます。
四十六 譃
 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な(うそ)に充ち満ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪らうくわいな偽善者に出会つたことはなかつた。が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみとほつた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。
 絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許すわけはなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末こずゑから枯れて来る立ち木のやうに。……

 ここで出てきた「新生」は、谷崎潤一郎氏や当時の見解によれば、島村藤村氏が書いた小説「新生」だというのです。しかし、島村氏の意見だという芥川氏の文章はどこにもありません。私も単純にルソーの『新生の書』を書いたものではと思っています。ただし、当時の文壇の考えは藤村氏に対する批評だと考えているようです。なお、フランソワ・ヴィヨンは15世紀フランスの詩人で、中世最大の詩人、または最初の近代詩人といわれています。

遠廻しに… これを探すのには非常に難しいと思います。少なくてもはっきり書いた藤村氏に対する批判はなさそうです。
毛嫌い これという理由もなく感情的に嫌う。わけもなく嫌う。鳥獣は相手の毛並みで好き嫌いをするところから。
 島崎藤村の「若菜集」発表前夜の物語で、浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちがモデル。主人公の岸本捨吉には島崎藤村、青木駿一は北村透谷、市川仙太は平田禿木、菅時三郎は戸川秋骨など。
東京一中 府立第一中学校。現在の都立日比谷高等学校。
溝ノ口 神奈川県川崎市高津区溝口(図)の地域で、JR東日本の武蔵溝ノ口駅があります。多摩川の対側に世田谷区二子玉川が広がっています。

翠光園 以前の熱海翠光園(すいこうえん)ホテルでしょう。場所は熱海市咲見町4番21号で、熱海駅と来宮駅の中間で高台にありました。現在はアデニウム熱海翠光園というマンションに変わっています。図の左下の赤い矢印です。

自己中心明治文壇史|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人であり、のちに大衆小説で有名になりました。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれました。昭和2年(1927年、氏は満57歳)に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になっています。特に尾崎紅葉氏については愛情を持って書かれています。

 片瀧浪宅銃獵紅葉の一行が滯在した其間に、愚妻が最も心配したのは、食事通の紅葉をして、迚も滿足せしめる事は出來ずとも、責めては閉口させぬ程度の献立を作らねばならぬ一事であつた。
 紅葉の丶丶丶生命は丶丶丶紅葉流丶丶丶の食物で丶丶丶丶なければ丶丶丶丶繋がれぬか丶丶丶丶丶と思は丶丶丶れる丶丶までに丶丶丶三度々々丶丶丶丶のお丶丶菜が丶丶ムツカシ丶丶丶丶かつた丶丶丶。何彼につけて食物の話が出て來るほどで、それが又江戸前に適はなければ承知しなかつた。(其癖、甚だそれは偏狹で、必ずしも大通の域には逹してゐなかつたが。)
 それで、前に來た時に然うであつたが、今度も亦土産として、醤油と味醂とを持つて來た。之は土産には相違ないのだが、實に片瀧の醤油と味醂とには滿足が出來ないので、滯在中は當然自分の食膳にも用ゐられるといふ寸法から、それ等を選定されたので、以て萬事察すべしだ。
 愚妻の最も心配したのは香の物で、他の物は田舎だから間に合はぬでも濟むが、漬物が不味では取りかへしがつかぬといふので、畑から抜き立の大根を工面して、急に大阪漬をこしらへた。それが紅葉に氣に入つて、
『漬物がウマク漬けられたら一人前だ。』
 有難く愚妻は及第したのであつた。
 或日、紅葉が風呂に入つてゐた。愚妻は其下を焚付けるべく火吹竹でフー/\釜の下を吹いてゐた。然るに薪が生なのと煙出しが不完全なのとで(愚妻は其前から眼病でもあり。)ホ口/\涙を零さずにはゐられなかつた。
 これを多感性の紅葉は、貧乏世帶の勞務の悲しさに泣いてゐるとでも見たらしかつた。
『苦しからうが辛抱するが好い。その間には阿母さんの感情も緩和するだらうし、又僕からも君の様子を能く話して上げようから……』と、いろ/\親切に云つて呉れたのであつた。
 一家の私事を書き過ぎたやうだけれど、紅葉といふ丶丶丶丶丶文豪が丶丶丶如何に丶丶丶俠骨丶丶丶然う丶丶して丶丶情に丶丶脆か丶丶つた丶丶かといふ丶丶丶丶、その一例として記したのだ。

 紅葉氏が短気な面もあり、一方、親切で、情け深い面もありました。

片瀧 片瀬江ノ島駅は小田急電鉄江ノ島線の駅。片瀬海岸は神奈川県藤沢市の町名。
浪宅 浪人の住んでいる家。浪人とは入学や就職ができない人、職を失ってきまった職のない人
銃猟 じゅうりょう。銃を使って行う狩猟。
迚も とても。あとに打消しの表現を伴ってどのようにしても実現しない気持ちを表す。どうしても。とうてい。
繋ぐ つなぐ。相手の気持ちなどが離れていかないようにする。
偏狭 へんきょう。自分だけの狭い考えにとらわれること。度量の小さい状態。
大通 この場合は「たいつう」で、「深くその分野のことを究めること。大いに通ずること」
味醂 みりん。焼酎を原料としてつくる日本固有の酒の一種。焼酎を水の代りに麹と蒸し米を加えて仕込み、熟成して、もろみを圧搾してその上澄み液を取ったもの。
當然 当然。「當然」は「当然」の旧字体。
香の物 漬物。
大阪漬 おおさかづけ。浅漬けの一種。大根やかぶを刻み、葉茎もともに塩漬けにしたもの。数時間から一晩程度で食べられる。
火吹竹 ひふきだけ。吹いて火をおこす道具。
煙出し けむだし。煙出し。 煙を外に出すために設けた窓。けむりだし。煙突。けむりだし。
零す こぼす。涙などを不覚にも落とす。
労務 報酬を受ける目的で行う労働勤務。
侠骨 きょうこつ。おとこぎのある性質。おとこだての気性。
脆い もろい。外からの圧力や影響に対して抵抗する力が乏しい。心を動かされやすい。

 然うかと思ふと紅葉は、一寸した事にも、非常に惑激して喜ぶ場合もあつた。それは裏の片瀧川でハゼが澤山釣れて、家の者は食ひ厭きて了つたので、燒乾にして紅葉の處へ送つた處が、大御機嫌で、
  燒におもふそ君のをしも
といふ句を贈つて來た。
 この他にいろ/\の實例から歸納すると、紅葉は丶丶丶紅葉一流丶丶丶丶道德標準丶丶丶丶が有つ丶丶丶苟しくも丶丶丶丶それに丶丶丶觸るれば丶丶丶丶嚴密に丶丶丶叱責し丶丶丶丶偶然にも丶丶丶丶それに丶丶丶適合すれば丶丶丶丶丶極端に丶丶丶感激する丶丶丶丶のであつた丶丶丶丶丶俗にいふ◎◎◎◎氣むづかし◎◎◎◎◎屋で◎◎
紅葉は△△△變な事を△△△△怒るよ△△△。』とは社中◎◎總評◎◎であつた。

焼乾 焼いて乾燥する。日干しでしょうか? 日干しは直接日光に当てて乾かすこと。
 ハゼ。魚の名前。
 やせる。セキ。
苟しくも いやしくも。仮にも。かりそめにも。もしも。万一。
社中 硯友社です。尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華などで発足し、尾崎紅葉の死後、解体しました。

尾崎紅葉の臨終③江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏が『自己中心明治文壇史』で書いた尾崎紅葉氏の臨終の様子です。

   紅葉逝く(明治三十六年の冬の上)

 悲しみの極みの日は遂に来た。十月三十日の朝、紅葉危篤の至急電報が來た。急いで自分は陣屋横町の家を出た。
其頃自動車があれば問題ではないのだが、品川から牛込までは、綱曳の人力車としても相當に時間を要するのだ。
取りあへず品川驛へ駈付けると、其折、山の手線の汽車が入つたので、急いでそれに飛乘り、新宿で又乘替へて、牛込驛で下車したが、此時品川から偶然同行したのは、紅葉夫人菊子の從妹の良人、岸といふドクトルであつた。
硯友社員及び門下生は勿論、角田竹冷長田秋濤齊藤松洲、その他が前後して駈付けて來た。
紅葉の病床は二階の八疊? 我々は階下の一室に詰切つてゐた。看護には菊子夫人を初め親族方が附切りの他に、看護婦二人ゐた。(この内の丶丶丶丶一人が丶丶丶後に丶丶柳川丶丶春葉丶丶夫人丶丶
それから○○○○神樂坂○○○藝妓で○○○相模屋○○○○養女○○である○○○小ゑん○○○といふのも○○○○○枕頭を○○○離れ○○なか○○。(この小ゑんといふのは、明治二十七年の三月三十一日に初めて紅葉と逢つた。それは紅葉が思案風谷及び自分との四人連れで、例の吉熊で小集した時なので。その後一二度社中と共に矢張吉熊へ呼び、四月二十一日には紅葉思案風谷及び自分との四人逹で、相模屋の經營してゐる喜美川といふ待合に遊んだのが深くなる始まりであつた。それからズツト永く續いてゐるのであつた。この小ゑんが紅葉死後、東洋通の某代議士の貞淑なる夫人と成つた。その代議士も先年物故した。)
午後に丶丶丶成つて丶丶丶(何時であつたか記憶を缺ぐ)もう丶丶到底丶丶駄目丶丶だから丶丶丶靜かに丶丶丶暇乞丶丶したら丶丶丶好からう丶丶丶丶といふので丶丶丶丶丶、親族側が先きで有つたらう。それから友人逹が、二階の六疊? の方に入つて待合せ、そこから二人宛組んで、次の間の八疊? の方に行き、生前の△△△告別△△をした△△△。(門生一同を集めて――七たび丶丶丶人間に丶丶丶生れて丶丶丶文章丶丶報國丶丶遺言丶丶した丶丶時に丶丶――ドレ△△を見ても△△△△マヅイ△△△面だなァ△△△△――と死の丶丶前の丶丶諧謔丶丶發した丶丶丶といふ丶丶丶のは丶丶前後丶丶の筈丶丶。)
自分の前には、秋濤と他に一名で、あのノンキ屋の秋濤が涙滂沱で出て來たのが、今も歴々と限前に浮んで来る。それとスレ違ひに自分は柳浪と共に病室に入った。
紅葉は丶丶丶未だ丶丶意識は丶丶丶明瞭で丶丶丶二人の丶丶丶顏を丶丶見て丶丶
遠方を◎◎◎ワザ◎◎/\◎◎……』と云つて丶丶丶その儘丶丶丶眼を丶丶閉ぢた丶丶丶
自分は△△△胸が△△一杯で△△△低頭△△した△△ゞけで△△△一言も△△△發し△△得な△△かつ△△。柳浪も同樣であつた。それで其儘退いて他と入替つた。
遠方をワザ/\とは、明かに自分に向つてゞ。それは其時代としては、品川は東京外で、旅へでも出るツモリで、呑氣に遊ぶ程なのだが。それは丶丶丶紅葉が丶丶丶自分に丶丶丶發し丶丶最後の丶丶丶別れの丶丶丶としては丶丶丶丶何んだか丶丶丶丶餘所行丶丶丶挨拶丶丶の様で丶丶丶自分丶丶としては丶丶丶丶悲し丶丶かつ丶丶
自分は神戸以來、紅葉の感情を害してゐたに相違無かつた。皆それは自分の不德の致す處なので、それには辯解の辭が無いのである。
小波が獨逸滞在中、紅葉が三十五年五月六日夜一時に書いた手紙の中に(『紅葉より小波へ』参照)

(前略)眉山には今だに一會も致さず稀有なるはあの男に御座侯如何致し候つもりにやあれほどの友にてありながら無下にあさましき人に有之侯
水蔭も日増に遠々しく相成はや半年近くも面會不致(下略)

 斯ういふ有樣で、紅葉晩年の親友は大分變つてゐた。(眉山のは、自分のと違つて、明かに理由があつた。それは小波洋行の時、送別會に顏を出さなかったのを紅葉が怒ったので、眉山もツヒ其爲に來難く成つてゐたのであつた。臨終には無論駈付けて來たので、紅葉は丶丶丶我儘丶丶氣儘丶丶丶に就て丶丶丶最後の丶丶丶忠告を丶丶丶試みた丶丶丶此時は丶丶丶眉山も丶丶丶泣い丶丶服膺した丶丶丶丶。)
夜十一時、遂に昏睡に入つた。親族、友人、門生等の多数に取卷かれて、安らかに永き眠りに就いた。自分は丶丶丶此時丶丶釈尊丶丶涅槃丶丶の有樣丶丶丶連想せず丶丶丶丶には丶丶ゐられ丶丶丶なか丶丶

陣屋横町 旧東海道品川宿の1横町。京浜急行新馬場駅の近くで、『東京逍遙』では、ここ。

綱曳の人力車 人力車などで、急を要するとき、かじ棒に綱をつけてもう一人が先引きすること。図を参照。
紅葉の病床 これを参考に。
小えん 神楽坂の芸者で愛人。芸妓置屋相模屋の村上ヨネの養女でした。
喜美川 明治37年の「新撰東京名所図会」では喜美川の所在はわかりませんでした。神楽阪(現在の神楽坂一~三丁目)、上宮比町(現、神楽坂四丁目)、肴町(現、神楽坂五丁目)、通寺町(現、神楽坂六丁目)にはありませんでした。なくなったか、それ以外にあったかでしょう。
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
告別 別れを告げること。いとまごい。
文章 文を連ねて、まとまった思想や感情を表現したもの。威儀・容儀・文辞などとして、内にある徳の外面に現れたもの。
報国 国恩にむくいるために働くこと。国に尽くすこと。
諧謔 おどけておかしみのある言葉。気のきいた冗談。ユーモア。
滂沱 ぼうだ。雨が激しく降る様子。涙がとめどなく流れる様子。
歴々 はっきりと。ありありと見える。
余所行き よそゆき。よそへ行くこと。外出すること。改まった態度や言葉づかい。
服膺 ふくよう。心にとどめて忘れないこと。
釈尊 しゃくそん。釈迦の尊称。
涅槃 ねはん。煩悩を消して、悟りの境地にはいること。釈迦の死亡。

尾崎紅葉の臨終④伊藤整

文学と神楽坂

 伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。

 硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉山田美妙石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波(いわやさざなみ)広津柳浪川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

 玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、
「先生、先生」と口々に呼んだ。
 紅葉は目を見開いた。そして言った。
「まづい面を持つて来て、見せろ。」
 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。
 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。
「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽(よとぎ)に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」
 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。

玄関の三畳 後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば
半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ

 と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は

畳二枚に板敷1畳分の玄関

と書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では

面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである

と書いています。図はここにあります。
七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声は正しいと思います。「十千万堂塾」や「詩星堂」に入った人は風葉、春葉、秋声の3人に加えて、白峯、紫明、凉葉でした。これがそうでしょうか。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。
「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、
「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。
 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、
「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。
 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い(あん)のようなものを食べたいと言うので、金鍔(きんつば)を一口食べさせた。
 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、
「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。
「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。
 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。

カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在なくなった。
金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子

金鍔

金鍔

 そのあとで紅葉が、思案に、
「石橋、是非解剖してくれ」と言った。
 思案が当惑して口ごもると、
「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠(かご)にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。
 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。
 紅葉が言った。
「石橋、曇天(クラウデイ・ウエザー)だな、なに、(レーン)が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」
 そして彼は顔をしかめた。
 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。
 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見(えみ)水蔭(すいいん)川上(かわかみ)眉山(びざん)広津(ひろつ)柳浪(りゅうろう)丸岡(まるおか)九華(きゅうか)たちがまた駆けつけた。外に長田(おさだ)秋濤(しゅうとう)斉藤(さいとう)松洲(しょうしゅう)角田(つのだ)竹冷(ちくれい)などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱(ぼうだ)と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、
「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。
 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。

暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子

尾崎紅葉の臨終②徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏の『黴』37章(1911年)では、この「先生」の臨終の様子をあっさりと書いています。もちろん「先生」は尾崎紅葉氏です。(青空文庫から)

三十七
 一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつしずまって来ると、先生は時々近親の人たちとことばを交しなどした。その調子は常時いつもと大した変りはなかった。
 興奮――むしろ激昂げっこうした時の先生の頭脳あたまはいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、すすりあげるような声でいろいろのことが叫び出された。
 苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調にかえった。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸しがいを医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑ほほえんだ。
「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、うるんだ目にじろりと見廻した。
「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。
 腰にまつわりついている婦人連の歔欷すすりなきが、しめやかに聞えていた。二階一杯にふさがった人々は息もつかずに、静まり返っていた。後の方には立っている人も多かった。
 先生の息を引き取ったのは、その日の午後遅くであった。
湯治 とうじ。温泉に入って病気などを治療すること。

尾崎紅葉の臨終①泉鏡花

文学と神楽坂

 尾崎紅葉氏は明治36年(1903年)10月30日に満35歳で死亡しました。

 まず泉鏡花氏が書いた紅葉の臨終際の文章です(鏡花全集28巻)。感極まっているのです。

   紅葉先生逝去前十五分間      明治38年7月
 明治三十六年十月三十日十一時、……形勢不穩なり。予は二階に行きて、(つゝし)みて鄰室(りんしつ)(かしこ)まれり。此處(こゝ)には、石橋丸岡久我の三氏あり。
 人々は耳より耳に、耳より耳に、(にぶ)き、弱き、稻妻の如き(さゝやき)(つた)()れり。
 病室は(たゞ)(しん)として()のもの音もなし。
 時々時計の(きし)(こゑ)とともに、すゝり(なき)(なき)ゆるあるのみ。
 室と室とを隔てたる四枚の襖、其の一端、北の方のみ細目(ほそめ)に開けたる間より、五分()き、三分措きに、白衣、(いろ)(あたら)しき(せう)看護婦、悄然(せうぜん)として()でて、(しづか)に、しかれども、ふら/\と、水の如き(ともしび)の中を()ぎりては、廊下に(たゝず)める醫師と相見(あひみ)私語(しご)す。
 雨(しきり)なり。
 (まさ)に十分、醫師は()()りて、(まゆ)憂苦(いうく)(たゝ)へつゝ、もはや、カンフルの注射無用(むよう)なる(よし)を説き聞かせり。
 風又た一層を(くは)ふ。
 雨はたゞ波の(たゞよ)ふが如き氣勢(けはひ)して降りしきる。
 これよりさき、病室に(かすか)なるしはぶきの聲あるだに、其の都度、皆慄然(りつぜん)として(たましひ)を消したるが、今や、(ひとへ)に吐息といへども聞えずなりぬ。
 時に看護婦は襖より半身を(あらは)して、ソト醫師に目くばせ()り、同時に相携(あひたづさ)へて病室に入りて見えずなれり。
 石橋氏は椅子に()りて、()()(さゝ)ふること(あた)はざるものの如く、()(あふ)ぎ、且つ()し、左を見、右を見て、心地(こゝち)()なんとするものの如くなりき。
 (角田氏入る。)
 人々の(さゝや)きは(やうや)(しげ)(こまや)かに()(きた)れり、月の(いり)引汐(ひきしほ)、といふ(こゑ)(ひらめ)(きこ)えり。
 十一時十五分、予は病室の事を語る能はず。

[現代文]明治36年10月30日午後11時……形勢は不穩である。私は二階に行き、隣の部屋に謹んで正座していた。ここには、石橋思案氏、丸岡九華氏、久我亀石氏の三氏もいた。
 鈍くて弱い、稲妻のような囁きだげが、耳から耳に、耳から耳にと伝わってくる。病室はただシーンと静まり、ほかの音はない。
 時々時計のきしむ音とともに、すすり泣きだけが聞こえてくる。
 部屋と部屋を隔てたのは四枚の襖。その一端の北の方、細く開けたあいだから、色は新しい白衣の看護婦は、五分おき、三分おきに、元気はなく出てきて、静かに、でも、ふらふらと、水と似ている灯火のそばを過ぎていく。廊下に佇む医師と向かい合い、私語をしている。
 雨はしきりに降ってくる。
 それからちょうど十分後になった。医師は、眉に憂苦をただえ、もはやカンフルの注射は無用だと説き聞かせている。
 さらに一層、風は強くなる。
 雨はただ波が漂うような気配で、降りしきる。
 以前は、病室にささやかな尾崎先生の咳嗽があった。その都度、みんな身震いするように気力は消えていた。しかし、現在は、この吐息も聞こえないようになった。
 この時、看護婦は襖より半身を現し、そっと医師に目くばせし、一緒に病室に入って見えなくなった。
 石橋氏は椅子によりそって、身を耐え支えるのはできないように、上を見たり、下を見たり、左や右を見たりで、気持は死のうしているようだ。
 (角田竹冷氏が部屋に入った。)
 人々のささやき声もようやく出てきて、こまやかになり、月の入りや引汐という声も一瞬聞こえてくる。
 尾崎紅葉が死亡した午後11時15分、私にはこの病室のことを話す能力はない。

畏まる かしこまる。相手の威厳などを恐れて、つつしんだ態度をとる。正座する。
久我 久我龜石。硯友社の会員。詳細は不明。
悄然 元気がなく、うちしおれている様子。しょんぼり。
衝と つと。ある動作をすばやく、または、いきなりするさま。さっと。急に。不意に。
カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在まずない。
しはぶき せき。咳嗽
慄然 恐ろしくて身震いする様子。
そと 音を立てないように。静かに。人に知られないように。ひそかに。そっと。
心地 ここち。物や事に接した時の心の状態。気分。気持ち。


小品『草あやめ』①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花作「草あやめ」(明治36年)の最初の1節です。当時の神楽坂2丁目の様子がわかります。まだこの辺りは華街にはなっていなかったのですね。

 二丁目にちやうめ借家しやくや地主ぢぬし江戸兒えどつこにて露地ろぢとざさず裏町うらまち木戸きどには無用むようものるべからずとかたごとしるしたれど、表門おもてもんにはとびらさへなく、けても通行勝手つうかうかつてなり。たゞ知己ちかづきひととほけ、世話せわもを素通すどほ無用むようたること、おもひかはらずりながら附合つきあひ五六けん美人びじんなきにしもあらずといへどみだり垣間見かいまみゆるさず、のき御神燈ごしんとうかげなく、おく三味さみきこゆるたぐひにあらざるもつて、頬被ほゝかぶり懐手ふところで湯上ゆあがりのかた置手拭おきてぬぐひなどの如何いかゞはしき姿すがたみとめず、華主とくいまはりの豆府屋とうふや八百屋やほや魚屋さかなや油屋あぶらや出入しゆつにふするのみ。
[現代語訳] 二丁目の私の借家の地主は、江戸っ子であり、門などは閉めない。裏町の木戸には無用の者は入ってはいけないと型どおりに書いている。しかし、表門を見ると、扉はなく、夜が更けても誰でも勝手に通行できる。ただし、近くの人の通り抜けはよくない。一般的な言葉を使うと、素通り、つまり、立ち寄らずに通り過ぎる人は、いらないと私は考えている。
お付き合いした五六軒を見ると、美人もいるが、やはり、みだりにのぞき見はいけない。待合のように提灯はかかっておらず、奥には三味線の音も聞こえてこない。さらに、ほおかぶり、懐手、湯上りの肩に置手拭といったいかがわしい姿もない。あるのは、得意客を回る豆腐屋、八百屋、魚屋、油屋が出入する音だけだ。

二丁目 神楽坂2丁目22番地のこと。泉鏡花は明治36年から39年まで、ここを借りていました。
露地を鎖さず 「ろじをとざさず」。露地は覆いがない土地。これを戸・門などでしめない。
通行勝手 勝手に通行できる。
素通り 立ち寄らずに通り過ぎる。
かはらず 変わらず。変わることないが。そう考えているが。
お附合 「お付き合い」。人と交際すること
美人なきにしもあらず 「なきにしもあらず」とは「無きにしも非ず」。ないわけではない。美人ではないわけではないが
垣間見 間からからこっそり見ること。のぞき見。
御神燈 芸者屋などで縁起をかついで戸口につるした提灯。
三味の音 芸者さんは午前中から三味線の練習をしました。
類にあらざる 同類ではない。似ていない。芸者さんとかは来ていない。
頬被 手ぬぐいなどで頭から頰にかけて包み、顎のあたりで結ぶこと。
懐手 手を袖から出さずに懐に入れていること。傍観者の立場という感じでしょうか
置手拭 手ぬぐいを畳んで、頭や肩にのせること
如何はしき いかがわしい。怪しげだ。疑わしい
豆府屋 行商の豆腐屋はラッパを鳴いて売り歩いていました。行商の八百屋、魚屋、油屋もありました。

 あさまだき納豆賣なつとううり近所きんじよ小學せうがくかよをさなが、近路ちかみちなればいつたもとつらねてとほる。おはなやおはな撫子なでしこはな矢車やぐるま花賣はなうりつき朔日ついたち十五日じふごにちには二人ふたり三人さんにんくなり。やがて足駄あしだ齒入はいれ鋏磨はさみとぎ紅梅こうばい井戸端ゐどばた砥石といしゑ、木槿むくげ垣根かきね天秤てんびんろす。目黑めぐろ(たけのこ)うりあめみの若柳わかやなぎ臺所だいどころのぞくもゆかや。
[現代語訳] 早朝、納豆を売る人が出てくる。近所の小学校に通う幼児も近道をとおり、五人や六人、一緒に歩いている。お花を売る姿も見える。撫子の花や矢車の花を売り、月の一日や十五日になると、二人三人呼びあって、皆で買うようだ。やがて行商の足駄の歯入やハサミ研ぎが出てくる。紅梅の井戸端に砥石をそろえ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売屋は雨の日に蓑を着て、若い女性が台所にいるのを見ている。これもいい感じだ。

朝まだき 早朝
小学 竹内小学校です。場所はここ。明治20年の地図ではここ。平成9年の『ここは牛込、神楽坂』第4号16頁によれば、「『近所の小学』というのは、現在、東京理科大学の一部になっている所にあった私立竹内小学校のことで、公立の津久戸小学校が創立されるまで、付近の子供たちはほとんど、ここに通っていたと聞きました」と書いてあります。実は津久戸小学校ができてもただちに竹内小学校が消えたのではなさそうです。津久戸小学校が作られたのは明治37(1904)年4月。ほぼ20年後の大正11(1922)年になっても、東京逓信局編纂『東京市牛込区』では、この2つの小学校は依然同時にあります。大正12年、関東大震災が起こり、それから、ようやく昭和5(1930)年には竹内小学校は消えています。また、昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、私立竹内小学校はかなり大きな敷地を占めていました(下図)。

竹内小学校

上は津久戸小学校。下は竹内小学校。

古老の記憶による関東大震災前の形
現在は理科大のキャンパスです。竹内小学校
幼き おさなき。年齢がごく若い。未熟だ。
袂を連ねて 袂とは和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。袂を連ねる人と行動を共にする。
撫子 なでしこ。ナデシコ科の多年草。
矢車 やぐるまぎく。キク科の一年草。
足駄 あしだ。下駄の一種。東日本では歯の高い差歯(さしば)の下駄をアシダと呼んでいる。
歯入 はいれ。下駄の歯を入れ換えること。その職業。
鋏磨 ハサミ研ぎ。
紅梅 こうばい。ウメのこと。
木槿 ムクゲ。アオイ科の落葉低木。写真は左からなでしこ、やぐるまぎく、むくげ 藁(わら)を編んで作られた雨具の一種。
若柳 若い柳。ここは美人のことだと思います。たとえば、柳眉とは柳の葉のように細く美しい美人の眉をさします。同じではないでしょうか。
床し 気品・情趣などがある。

小品『草あやめ』⑤|泉鏡花

文学と神楽坂

 翌朝あくるあさ(れい)(あき)さん、二階(にかい)駈上(かけあが)跫音高(あしおとたか)く、朝寢(あさね)(まくら)(たゝ)きて、()きよ、(こゝろ)なき(ひと)人心(ひとこゝろ)なく(はな)かへつて(じやう)あり、さく(ひやゝ)かにいひおとしめし()ぢたりけん、シヽデンの(はな)(ひら)くこと、今朝(けさ)一時いつときに十一と、あわたゞしく起出(おきい)でて(はち)いだけば花菫はなすみれ野山(のやま)滿()ちたるよそほひなり。()つゝ(おも)はず悚然ぞつとして、いしくも()いたり、可愛かはゆき花、あざみ鬼百合おにゆりたけんば、()ことば(いきどほ)りもせめ姿形(すがたかたち)のしをらしさにつけ、(なんぢ)(やさ)しき(こゝろ)より、百年もゝとせよはひ(さゝ)げて、一朝(いつてう)(さかり)()するならずや、いかばかり、(われ)(うら)なんと、あはれ()ふべくもあらず。くちそゝ()てつ、書齋(しよさい)なる小机(こづくゑ)()て、(ひと)なき(とき)端然(たんぜん)として、失言(しつげん)(しや)す。しかゆふべにはしをれんもの、(ねがは)くば、()(いのち)だに(ひさ)しかれ、(あら)(かぜ)にも()べきか。なほ心安(こゝろやす)らず、みづから()(こゝろ)なかりしを()いたりしに、(つぎ)(あさ)(いた)りて(さら)に十三の(はな)()けり、(うれ)しさいふべからず、やよや人々(ひと/”\)(また)シヽデンといふことなかれ、()(いへ)ものいふ(はな)ぞと、いとせめてであへりし、()()日曜(にちえう)にて宙外ちうぐわい(くん)(たち)()らる。
巻莨まきたばこ()(ひか)たなそこ()()て、なん主人(しゆじん)むくつけき(なん)()(はな)のしをらしきと。主人(しゆじん)(おほ)いに恐縮(きようしゆく)して假名(かな)()()けば()()らずと()はる。(わす)れたり、斯道しだう曙山しよざん(くん)ありけるを、(はな)(ひと)()りて(ふところ)にせんもをしく、よく(いろ)()()(おぼ)え、あくる()四丁目(よんちやうめ)編輯局(へんしふきよく)にて、しか/″\の(くさ)はと()へば、同氏(どうし)(うなづ)きて、(かみ)()して(これ)ならん、それよ、草菖蒲くさあやめ女扇(をんなあふぎ)(たけ)(あを)きに(むらさき)(たま)(ちりば)たらん姿(すがた)して、()()よそほひまさる、草菖蒲(くさあやめ)といふなりとぞ。よし(なに)にてもあれ、()いとほしのものかな。
[現代語訳] 翌朝、例の秋さんが、その足音は高く、二階へ掛け上ってきた。朝、枕を叩いて、「起きてみてよ。冷徹な奴だな。人間には思いやりはないが、花には情がある。昨日は君に冷ややかにいわれ、軽蔑され、恥をかきました。でもシシデンの花は大きく開いている。今朝、一回の開花でなんと11輪」。私は慌ただしく起きだして、鉢を抱いてみた。花スミレは野山にいっぱいのよそおいだ。見ていると思わず感動した。「見事に咲いた、可愛い花。アザミ、オニユリなどの勇ましい植物は、私の言葉に腹立ちもあろう。しかし、シシデンの姿形はしおらしく、心は優しい。百年の年齢を献げても、一日の朝には最盛時を見ない場合もある。私に対する怨みをどれほどもっているのか。まして、あわれさでは、言っても言い切れない」と。私は口の中を洗い終えて、花を書斎の小机の上に置き、人がいない時に、姿勢を正し、失言だったと、あやまった。シシデンは夕方になると、しおれるので、願わくは、葉の命だけでも永久に、また、荒い風にも当てるべきではない。しかし、これで安心はまだできない。私は真に心なき人だったと悔んでいた。次の朝、さらに花は十三輪ほど咲いた。その嬉しさはいいきれない。さあさあ、人々が再びシシデンということはもうない。わが家の美人よ、せめてその美しさを味わおう。その日は日曜であり、後藤宙外君も立ち寄った。
巻タバコの手を控え、葉を手のひらでさすった。どうして大家は無風流であり、どうしてこの花はしおらしいのか。その大家は大いに恐縮し、「俗称の名前をなんでしょう」と聞くと、氏もわからないときっぱり答えた。忘れていたのが、この分野で有名な人に前田曙山君がいる。花一輪を取り、懐中にいれる方法は、おしい。そこで、よく色を見て、葉を覚えて、翌日、四丁目の春陽堂編集局に行き「こんな草は」と質問すると、曙山君はうなづいて紙に絵をかき「これでしょう」といったのである。「そう、これ、これ」というと、「草アヤメです」と答えた。青い竹でつくった女性用の扇で紫の珠をちりばめたような姿があり、日に日に風情が増し、草アヤメだという。なるほど、何はともあれ、私にとっては、この花はかわいいものよ。
草菖蒲 「草アヤメ」とは何でしょうか?昔の「あやめ(あやめぐさ)」は現在の「ショウブ」です。つまり、ショウブ目ショウブ科ショウブ属(右図)。この花は花らしくはないので違います。残るのはアヤメ、ハナショウブ、カキツバタの3種。違いは竹田寛氏の「 《アヤメ》 ― いずれアヤメかカキツバタ」(竹田寛「続 院長の部屋から」三重大学出版会、2014年)によれば

 外花被片の基部の模様、すなわち密標の模様の違いです。アヤメは文目模様、花ショウブは黄色の筋、カキツバタは白い筋です。私は「文目(あやめ)、黄しょうぶ、白つばた(アヤメ、キショウブ、シロツバタ)」と覚えることにしています。これだけ覚えておけば十分です。またアヤメは乾地、カキツバタは湿地、花ショウブはその中間の地帯に育ちます。

草あやめはアヤメ、ハナショウブ、カキツバタ、あるいはその変種のうち何なのでしょうか。文章を読む限り、どれもありそうで、はっきりしません。そこで前田曙山氏が書いた「和洋草花趣味の栽培」(116コマから)「草木栽培書」「高山植物叢書」も調べてみました。アヤメ、ハナショウブ、カキツバタの3種類の中で、山菖蒲(ハナショウブの原種)、水菖蒲(ショウブの別名)はありましたが、草あやめという名前はなく、さらに種や変種でもありませんでした。さらに後藤宙外氏には『草あやめ』という小冊子もありましたが、この中には無関係の小説数点がはいっているだけでした。では、草あやめは何なのでしょうか。私は単に草本の「アヤメ」と同じだと考えています。花菖蒲、山菖蒲や水菖蒲、菖蒲草と同じように草菖蒲もあり、これは現在のアヤメなのです。しかし、他の考え方もあり、昔は「草あやめ」の名前はあっても、やがて、何をさしていたのか、わからなくなったという考え方、あるいは、草あやめという植物をこの小説のため創作したという考え方です。また、森脇伸平氏によれば、庭の花写真でニワゼキショウ(庭石菖)、別名南京なんきん文目あやめやシシリンチウムというアヤメ科の俗名が草あやめだといいます(下を参照)。一応、草あやめは不明のままとしておきます。

心なし 思慮分別のない。思いやりのない。そんな人。
 過ぎ去った日。むかし。きのう。
おとしめる 貶める。おとしむ。劣ったものと軽蔑する。さげすむ。見下す。
 そう。よそおい。外観をととのえる。
悚然 しょうぜん。恐れて立ちすくむさま。慄然。寒さや恐怖など、また、強い感動を受けて、からだが震え上がるさま。
いしくも 美しくも。見事に。殊勝にも。形容詞「い(美)し」の連用形と係助詞「も」。
 キク科アザミ属の多年草の総称。葉に多くの切れ込みやとげがある。
鬼百合 ユリ科ユリ属の多年草。山野に自生し、高さ約1メートル。
猛し 勇猛な。勇ましい。勢いが盛ん。激しい。
せむ 責む。とがめる。なじる。責める。
一朝 いっちょう。わずかな間。
 力や勢いがさかん。さかえる。
ずや …ではないだろうか。…ではないか。
なん 完了の助動詞「ぬ」の未然形と、推量の助動詞「む(ん)」でしょうか。きっと…だろう。…にちがいない。
あわれ 不憫と思う気持ち。無惨な姿。
漱ぐ くちそそぐ。水などで口の中を洗い清める。うがいをする。
すえる 据える。物を一定の場所に動かないように置く。
端然 姿勢などが乱れないできちんとしているさま。礼儀にかなっているさま。
当てる 光・雨・風などの作用を受けさせる。
心安い 安心である。心配がない。
やよや 呼びかける時に発する語。さあさあ。おいおい。
ものいう花 ことばを発する。口をきく。力を発揮する。「物言う花」で美人。
撫す ぶす。ぶする。手のひらでさする。なでる。いたわる。かわいがる。
むくつけし 無骨でむさくるしい。無風流だ。
仮名 実名を秘して仮につけた名前。変名。俗称。通称。
斯道 学問や技芸などで、この道、この分野。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
編輯局 日本橋区通四丁目にあった春陽堂の編集室です。ここで一時編集者として前田曙山氏が働いていました。
女扇 おんなおうぎ。女持ちの小形の扇。
鏤める ちりばめる。金銀・宝石などを、一面に散らすようにはめこむ。
 よそおい。装い。粧い。外観の様子。おもむき。風情。
いとほし 気の毒だ。かわいそうだ。かわいい。

小品『草あやめ』④|泉鏡花

文学と神楽坂

 茘枝(れいし)(ちひ)さきも活々いき/\して、藤豆(ふぢまめ)(ごと)()(つる)(はし)()むるを、いたづら()おほいにして、()(じつ)(せう)なる、()(かたち)さへさだかならず。二筋(ふたすぢ)三筋(みすぢ)すく/\と()びたるは、()れたる(には)むし()べくも(おぼ)えぬが、彼処かしこ()えて此處(こゝ)(あらは)けむ、其處(そこ)(また)彼處(かしこ)に、シヽデンに()たる雜草(ざつさう)(かぞ)るに()ず、(おとうと)はもとより、はじめはこと(こゝろ)()て、(みづ)などやりたる(あき)さんさへ、いひがひなきに(あき)()てて、罵倒(ばたう)することなゝめならず(くさ)(はびこ)るは、(また)してもキウモンならんと、以來(いらい)もなくたゞ呼聲(よびごゑ)いかめしき渾名あだなとなりて、今日(けふ)御馳走(ごちそう)があるよ、といふ(とき)(おとうと)(あき)さんも、(かげ)(つぶや)いて、シヽデンかとばかりなりけり。
 ()るまゝに何事(なにごと)()はずなりし、不図(ふと)()のシヽデンの(さい)昼食ちうじきのち(には)ながむることありしに、(くも)(ごと)紫雲英(げんげ)(まじ)りて(ちい)さき薄紫(うすむらさき)(はな)(ふた)咲出(さきい)でたり。立寄(たちよ)りて(くさ)()けて()れば、(かたち)すみれよりはおほいならず、六べんにして、(その)薄紫(うすむらさき)花片はなびら()(むらさき)(すぢ)あり、しべ(いろ)()に、(くき)(いと)より(ほそ)く、()水仙(すゐせん)()淺緑(あさみどり)(やはら)かう、()にせば()えなむばかりなり。(なへ)なりし(ころ)より見覺(みおぼ)えつ、(まが)ふべくもあらぬシヽデンなれば、英雄(えいゆう)(ひと)あざけども、苗賣(なへうり)(われ)()になさず、と(みな)打寄(うちよ)りて、(つち)ながら()()りて(はち)()ゑ、(みづ)やりて(えん)差置(さしお)き、とみかう()るうち、(しな)一段(いちだん)打上(うちあが)りて、緣日(えんにち)ものの()にあらず、夜露(よつゆ)()れしが、翌日(よくじつ)(はな)また(ふた)()きぬ、いづれも入相いりあひの頃しぼみて東雲しのゝめ(べつ)なるが(ひら)く、三朝(みあさ)みあさにして四日目(よつかめ)昼頃(ひるごろ)()れば(はな)(たゞ)(ひと)ツのみ、()もしをれ、()(かわ)きて、昨日(きのふ)には()風情ふぜい()くべき(つぼみ)(さが)()てず、()ればこそシヽデンなりけれ、申譯(まをしわけ)だけに()いたわと、すげなく()ひけるよ。
[現代語訳] 小さいゴーヤもいきいきとして、藤豆などではつるの先端も見え始めた。一方、このシシデン、その名前は無駄に大きく、その実体は小さく、葉の形もわからない。二筋三筋がすくすくと延びたが、荒れた庭に引っこ抜いて終わるものなのか、これもわからない。あちらで消え、こちらであらわれるのか、シシデンと似た雑草は無数にある。弟はもとより、はじめは殊に心を込めて水などをあげていた秋さんにとっても、効果はなく、呆れ果てて、甚だしく罵倒するようになった。草がしげる時には、またしてもキウモンかと喋り、以来と違い、呼び声だけはいかめしい渾名になっている。今日は御馳走があるよ、という時には、弟も秋さんも、かげでつぶやき、またシシデンかというようになった。
 しかし、日時が経過すると何もいわないようになった。昼食の後、ふと、そのシシデンの葉を考えながら庭をながめていたが、雲のようなレンゲソウと混ざって、小さな薄紫の花が二輪、咲き出ていたのである。立寄って草を分けて見ると、形はスミレよりは大きくなく、六弁で、その薄紫の花びらには濃い紫の筋がある。おしべの色は黄色で、茎は糸より細く、葉は水仙に似て浅緑で柔らかく、手に持てば消えそうだ。苗だった頃から見覚えがあり、まごうべくもないシシデンである。人の考え及ばないようなはかりごとをするのが英雄だが、こちらは苗売なので私をばかにしない。全員集まって、土から根を掘って、鉢に植え替え、水をあげて、縁台に置いてあげた。あちこちを見ていると、品質も一段上になり、ただの縁日ものではない。夜露に濡れたが、翌日は花をさらに二輪咲いた。夕暮れ時しぼみ、明け方に別の花だが開き、これが三日目の朝まで続いた。四日目の昼頃、見ると花はただ一輪だけ、葉もしおれ、根も乾き、昨日とは似ていない風情。咲くべき蕾も探しあてられず、だからこそシシデンだ、申し訳程度に咲いたのだと、私はそっけなく言ったのである。

挘る つかんだりつまんだりして引き抜く。
果つ 果てる。続いていた物事が終わりになる。終わる。
顕れる よくないことが公になる。発覚する。
数ぶ かぞふ。数える。数量や順番を調べる。勘定する。一つ一つ挙げる。列挙する。
尽きる 最後までその状態のままである。…に終始する。
籠める 物の中にいれる。詰める。形に表れない物を十分に含ませる。
言い甲斐 いひがひ。言葉に出して言うだけの価値。言っただけの効果。
斜めならず ひととおりでない。はなはだしい。
然もない そうではない。そうでもない。たいしたことはない。
いかめしい 近よりにくい感じを与えるほど立派で威厳がある。
とばかり ではないかと思うほど。
 酒や飯に添えて食べるもの。おかず。副食物
 しべ。花の雄しべと雌しべ。ずい。
英雄人を欺く 英雄は知恵・才能にすぐれているから、往々にして人の考え及ばないようなはかりごとや行いをするものだ。李攀竜(りはんりょう)の「選唐詞序」から。
 ぐ。おろか。ばか。ばかにする。
と見かう見 あっちを見たり、こっちを見たり。あっち見、こっち見。
入相 いりあい。日の沈むころ。日暮れ時。夕暮れ
東雲 しののめ。夜が明けようとして東の空が明るくなってきたころ。あけがた。あけぼの
すげない 素気無い。愛想がない。思いやりがない。そっけない。

小品『草あやめ』③|泉鏡花

文学と神楽坂

 朝顔(あさがほ)(なへ)覆盆子いちご(なへ)(はな)()もある(なか)に、呼声(よびごゑ)仰々(ぎやう/\)しき(ふた)ツありけり、(いは)牡丹咲(ほたんざき)(じや)()(ぎく)(いは)シヽデンキウモンなり愚弟(ぐてい)たゞち()て、賢兄にいさんひな/\と()ふ、こゝに牡丹咲(ぼたんざき)(じや)目菊(めぎく)なるものは所謂いはゆる蝦夷(えぞ)ぎく(なり)。これは……九代(くだい)後胤こういん(たひら)の、……と平家(へいけ)豪傑(がうけつ)名乗(なの)れる如く、のの()(ふた)()けたるは、賣物(うりもの)(はな)(ほか)ならず。シヽデンキウモンに(いた)りては、何等なんら(もの)なるやを()るべからず、苗売(なへうり)()けば(たぐひ)なきしをらしき(はな)ぞといふ、蝦夷(えぞ)(ぎく)おもしろし()(はな)しをらしといふに()ず、いかめしくシヽデンキウモンと()ぶを(あざ)けるにあらねど、の二(しゆ)()(ほか)(べつ)に五(せん)なるを如何いかんせん。
 しかれども甚六(じんろく)なるもの、豈夫あにそれ白銅(はくどう)一片(いつぺん)辟易(へきえき)して()ならんや。すなは()()なく(さと)(いは)く、なんぢ若輩(じやくはい)、シヽデンキウモンに私淑(ししゆく)したりや、金毛(きんまう)九尾(きうび)ぢやあるまいしと、二階(にかい)(あが)らんとする(たもと)(とら)へて、()いぢやないかお()ひよ、(ひと)()いたつて(はな)ぢやないか。旦那(だんな)だまされたと(おぼ)()してと苗賣(なへうり)(すゝ)めて()まず、(ぼく)()ゑるからと女形(をんながた)(しきり)口説(くど)く、(みな)キウモンの()(まよ)へる(なり)長歎(ちやうたん)して(べつ)五百(ごひやく)(おご)
 (かき)朝顏(あさがほ)藤豆(ふぢまめ)()ゑ、(たで)海棠かいだうもとに、蝦夷菊(えぞぎく)唐黍(たうもろこし)茶畑(ちやばたけ)(まへ)に、五本いつもと三本みもとつちかひつ()にしおふシヽデンは(には)一段(いちだん)(たか)(ところ)飛石(とびいし)かたへ()ゑたり。此處(こゝ)あらかじ遊蝶花(いうてひくわ長命菊ちやうめいぎく金盞花きんせんくわ縁日えんにち名代(なだい)(がう)のもの、しろべにしぼり濃紫こむらさきいまさかり咲競さききそふ、なかにもしろはな紫雲英げんげ一株ひとかぶはうごしやくはびこり、だいなることたなそこごとく、くきながきこと五すんうてな(いたゞ)()に二十を(くだ)らず、けだ(はる)(さむ)(あさ)、めづらしき早起(はやおき)(をり)から、女形(をんながた)とともに道芝みちしば(しも)()けておほり土手(どて)より()たるもの、()()らんとして、(たもと)火箸(ひばし)(しの)せしを、羽織(はおり)(そで)破目やぶれめより、(おもひ)がけず(みち)に落して、おほい臺所(だいどころ)道具(だうぐ)事缺ことかし、經營(けいえい)慘憺(さんたん)あだならず(こゝろ)なき(くさ)も、あはれとや(しげ)けん。シヽデンキウモンの(なへ)なるもの、二日(ふつか)三日(みつか)うちに、()紫雲英(げんげ)()がくれ()えずなりぬ。
〔現代語訳〕 朝顔の苗、いちごの苗、花も売っているし、実も売っている。大げさな売り声はふたつあって、牡丹咲きの蛇の目菊がひとつ、シシデンキウモンが別のひとつだという。弟はただちに聞きほれて、にいさん買おうよ、買おうよという。ここで牡丹咲きの蛇の目菊は、いわゆる蝦夷菊で……九代の後胤、(たいら)の、……と平家の豪傑も名乗ったようだが、ここで「の」の字を二個つけているのは、「売り物には花を飾れ」という言い回しそのままである。シシデンキウモンは、どんなものなのかわからない。苗売に聞くと、比類なく しおらしい花ですという。蝦夷菊には心をひかれるが、この花については、しおらしいというのは似合わない。シシデンキウモンと厳しく呼んでいるが、かといって悪く言おうというものではない。この二種、一分(25銭)に加えて、別に五銭を払えという。どうしようかね。
 でも、甚六という者は、どうして白銅貨一枚でためらうのかという。そこで、私はシシデンキウモンを師として尊敬するのか、金毛九尾の狐が出た場合じゃないのにと、二階に向かって逃げ出したくなったが、その袂をつかまえて、いいじゃないか、買おうよ、ひとつ花が咲いてもたかが花じゃないかという。苗売りも旦那だまされたと思って買いましょうと、その勧誘は止まらない。女形も僕が植えるからと盛んに口説く。全員キウモンという名前に間違えているのだ。長いため息をだして、別に500銭ほど大盤振舞をした。
 垣根に朝顔と藤豆を植え、蓼はハナカイドウの花の下に、蝦夷菊とトウモロコシは茶畑の前で五本と三本で栽培した。名前も有名なシシデンは庭の一段高い場所で、飛石の傍に植えた。ここにはあらかじめパンジー、ヒナギク、キンセンカという縁日では超有名な花が植えてあり、色は白、赤、まだら、濃紫などで、今を盛りに咲き競い、中でも白い花のレンゲソウは、一株だけでも150cm四方になり、葉は巨大で掌のよう、茎も長くて15センチ、開花の期間は20日以上。思えば春の寒い朝だが、めずらしく目が覚めて、女形と一緒に、お濠の土手の路傍の草についていた霜を分けて、根っこを掘ろうと思って、火箸をたもとに入れておいた。が、羽織のそでの裂け目から、思わず道路に落とし、そのため、台所道具は大いに事欠き、あらゆる事も惨憺になっだ。心なき草も、あわれと思ったのか密集して生えてきたが、しかし、シシデンキウモンの苗は、二、三日間で、このレンゲソウの葉にかくれ、見えなくなった。

仰々しい 大げさだ。
牡丹咲 花びらが重なって咲く花の咲き方で、花びらが大きく膨らんで、派手になったもの。例は http://www.nagominoniwa.net/camellia/botan-fukurin.html
蛇の目菊 「蛇の目」とは大小二つの同心円の文様。「蛇の目菊」は舌状花の基部に蛇の目模様があるもの。右図を。
シシデンキウモン なんでしょうか。この単語、文章の最後になってわかります。
 こつ。ほれる。心がぼうっとする。ぼんやりする。
蝦夷菊 えぞぎく。キク科の一年草。園芸品種名はアスター。右図を。
後胤 こういん。子孫。後裔。
名乗る なのる。自分の名や身分を他人に向かって言う。
売り物に花 売り物には花を飾れとの故事・ことわざ。売り物がよく売れるためには、内容もよくなければならないが、見てくれはなおよくなければならない。売り物は体裁よく飾り立てて売るのが上手な商売である。
しおらしい 控えめでいじらしい。遠慮深くて奥ゆかしい。
おもしろい ここでは、心をひかれる。趣が深い。風流だ。
嘲る  あざける。ばかにして悪く言ったり笑ったりする。
一歩 いちぶ。一分。一分金。4分で一両(明治時代では一円)になります。明治初年で一円は約二万円。一歩は約5000円。
白銅 白銅貨。ここでは五銭白銅貨でしょう。
辟易 へきえき。閉口する。うんざりする
然り気なく 考えや気持ちを表面に表さない。何事もないように振る舞う。
諭す 目下の者に物事の道理をよくわかるように話し聞かせる。納得するように教え導く。
私淑 直接教えを受けたわけではないが、著作などを通じて傾倒して師と仰ぐこと。
金毛九尾 こんもうきゅうび。体毛が金色の老狐。金毛九尾の狐。妖狐。
長歎 長いため息をもらす。
奢る  程度を超えたぜいたくをする。自分の金で人にごちそうする。物などを人に振る舞う。
海棠 カイドウ。ハナカイドウ。バラ科の落葉低木。中国原産。花木として古く日本に渡来。
培う つちかう。草木の根元や種に土をかけて草木を育てる。栽培する。
名にしおう 名高い。評判である。
飛石 日本庭園などで、伝い歩くために少しずつ離して据えた表面の平らな石。
遊蝶花 ゆうちょうか。パンジーのこと。江戸時代末に,オランダの船で渡来した。
長命菊 ちょうめいぎく。ヒナギク(デイジー)のこと。
金盞花 キンセンカ。キク科の越年草。南ヨーロッパ原産。
名代 なだい。名前を知られていること。評判の高いこと。
 しぼり。花びらなどで、絞り染めのように色がまだらに入りまじっているもの。
紫雲英 げんげ。レンゲソウの別名。
 ほう。正方形の各辺。
 1尺=10/33m≒30.303cm。
 一尺の10分の1。約3.03cm。
 うてな。花の最も外側に生じる器官。花被。
蓋し かなりの確信をもって推量するさま。思うに。確かに。
道芝 みちしば。路傍の草。
忍ぶ 他人に知られないようにこっそりとする。
事欠く 必要なものがないために不自由する。
経営 行事の準備・人の接待などのために奔走する。事をなしとげるために考え、実行する。
仇ならず 期待したとおりにならずに終わる。無駄になる。
繁る 草木の枝や葉が勢いよく伸びて、重なり合う。草木が密に生え出る。
葉がくれ 葉隠れ。草木の葉のかげになること

小品『草あやめ』②|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の「草あやめ」(明治36年)で、その2です。

 物干(ものほし)(たけ)二日月(ふつかづき)(ひか)りて、蝙蝠かうもりのちらと()えたる(なつ)もはじめつ(かた)一夕あるゆふべ出窓(でまど)(そと)(うつく)しき(こゑ)して()()くものあり、(なへ)玉苗(たまなへ)胡瓜(きうり)(なへ)茄子(なす)(なへ)と、()(こゑ)あたか大川(おほかは)(おぼろ)(なが)るゝ今戸(いまど)あたりの二上にあが調子(てうし)()たり。一寸ちよつと苗屋(なへや)さんと、(まど)から()べば引返ひつかへすを、(ちひ)さき木戸(きど)()けて(には)(とほ)せば、くゞ(とき)(かさ)()ぎ、(わか)(をとこ)()つき(するど)からず、(ほゝ)まろきが莞爾莞爾にこにこして、へい/\()ましと()()ろし、穎割葉かひわりばの、(あを)鶏冠とさかの、いづれも(いきほひ)よきを、()()けたる()して(ひと)(ひと)取出(とりいだ)すを、としより、(おとうと)、またお神樂座かぐらざ一座(いちざ)太夫(たいふ)(せい)原口(はらぐち)()(あき)さん、()んで女形をんながたといふ容子ようすいのと、(みな)緣側(えんがは)()でて、()るもの(ひと)ツとして()しからざるは()きを、初鰹(はつがつを)()はざれども、(ひる)のお(さかな)なにがし、(ばん)のお豆府(とうふ)いくらと、帳合ちやうあひめて小遣(こづかひ)(なか)より、大枚(たいまい)一歩(いちぶ)ところ(なへ)七八(しゆ)をずばりと()ふ、もつと五坪いつつぼには()ぎざる(には)なり。
 隱元いんげん藤豆ふぢまめたで茘枝れいし唐辛たうがらし所帶(しよたい)たしのゝしたまひそ、苗賣(なへうり)若衆(わかいしゆ)一々(いち/\)()(はな)()へていふにこそ、北海道(ほくかいだう)花茘枝(はなれいし)(たか)(つめ)唐辛(たうがらし)千成せんな酸漿ほうづき(つる)なし隱元(いんげん)よしあし大蓼(おほたで)手前(でまへ)(あきな)ひまするものは、(みな)玉揃(たまぞろ)唐黍たうもろこし云々うんぬん
 〔現代語訳〕物干の竹が8月2日の月に光っている。コウモリも出てくる初夏のある夕方、出窓の外に美しい声を出した行商人がやってきた。苗、稲の苗、キュウリの苗、ナスの苗はいらんかね…と、その声は隅田川が流れる今戸地区あたりで聞こえてくる三味線のリズムに似ている。ちょっと苗屋さんと、窓から呼ぶと、へいへい、どれにしましょうかと荷を下ろし、穎割や、緑のヒトツバなど、どれも勢いはよい。日に焼けた手で、1つ、1つと取り出してきた。年寄りも、弟も、お神楽座の太夫も…これは姓は原口、名は秋さんで、女形という様子のいい奴だが…みんな縁側にでて、見ている。どれもこれもほしい。私は初鰹などは買わないが、昼のお魚がこれだけで、晩のお豆腐はこれだけでと、まず帳簿を確かめて、小遣の中で、大枚を一分使って、苗の七、八種をずばりと買う。もっとも五坪もない庭なのだが。
 インゲン豆、藤豆、蓼、ゴーヤ、唐辛子は、くらし向きのプラスになりましょうといって、苗売りの若衆はいちいち名前に花の言葉をそえている。手前どもが商いをするのは、北海道産の花ゴーヤ、鷹の爪の唐辛子、沢山生えるほうづき、インゲンにはツルがなく、良い悪いはわからないけど大蓼、種のそろったトウモロコシなどですという。

二日月 ふつかづき。陰暦2日の月。8月2日の月
玉苗 たまなえ。苗代から田へ移し植えるころの稲の苗。早苗(さなえ)と同じ。
大川 吾妻橋付近から隅田川の下流の通称。
 ぼうっと薄くかすんでいるさま。
今戸 台東区北東部の地名。隅田川西岸の船着き場として栄えました。
二上り にあがり。三味線の調弦法。第2弦を1全音(長2度)高くしたもの。派手、陽気、田舎風の気分をあらわす。
木戸 庭などの出入り口に設けた簡単な開き戸。
 日光・雨・雪などが当たらないように頭にかぶるもの。「傘」と区別する。
召す 「買う」という意味の尊敬語
穎割葉 かいわりば。芽を出した植物が最初に出す葉
鶏冠 ヒトツバ。葉が鶏のトサカのように切れ込む常緑のシダ。右図を。
神楽座 芝居のはやしの一種。
太夫 能、歌舞伎、浄瑠璃等で上級の芸人。
帳合 現金や在庫商品と帳簿を照らし合わせ、計算を確かめること。
 締め。しめ。金銭などの合計を出すこと。
大枚 多額のお金。大金。
一歩 一文(一歩)銭の寛永通宝は昭和28年まで法的には通用し、4文で一両(一円)に替えられました。明治初めの一円は二万円ぐらいなので、1歩は約5000円でしょうか。
隠元 インゲン豆。マメ科の蔓性(つるせい)の一年草。ツルナシインゲンは蔓のない栽培品種。
藤豆 ふじまめ。マメ科のつる性一年草。熱帯原産。食用とするため広く栽培。
 たで。タデ科タデ属の植物の総称。特にヤナギタデは辛みがあり、食用として刺身のつまなどに。
茘枝 ここでは(つる)茘枝(れいし)のこと。別名はニガウリ、ゴーヤ。ウリ科の蔓性の一年草。黄色い花を開き、実が熟すと黄赤色になり、若い実は食用に。
所帯 一家を構えて独立した生計を営むこと。そのくらし向き。
罵る ののしる。ここでは「盛んにうわさされる。評判になる」
鷹の爪 トウガラシの栽培品種。果実は小形の円錐形で上向きにつき、赤く熟す。
千成り 数多く群がって実がなること。
酸漿 ナス科の多年草。初秋、果実が熟して赤く色づく。
よしあし よいとも悪いともすぐには判断できかねる状態。
玉揃い キャベツなどの結球野菜で、結球の発育が似たようになること。

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂


             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

文壇昔ばなし①|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 谷崎潤一郎氏は耽美(たんび)派の作家として出発し、のちに「春琴抄」などの古典的な日本美に傾倒しました。「文壇昔ばなし」は昭和34年、73歳で発表し、『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、昭和58年)第21巻に出ています。この最初の段落では徳田秋声氏、尾崎紅葉氏、泉鏡花氏、幸田露伴氏、山本実彦氏といった名前が出てきます。
             ○
昔、徳田秋聲老人が私に云つたことがあつた、「紅葉山人が生きてゐたら、君はさぞ紅葉さんに可愛がられたことだらうな」と。紅葉山人の亡くなつたのは明治卅六年で、私の數へ年十八歳の時であるが、私が物を書き始めたのはそれから約七年後、明治四十三年であるから、山人があんなに早死にをしなかつたら、恐らく私は山人の門を叩き、一度は弟子入りをしてゐたゞらうと思ふ。しかし私は、果して秋聲老人の云ふやうに山人に可愛がられたかどうかは疑問である。山人も私も東京の下町ツ兒であるから、話のウマは合ふであらうが、又お互に江戸人に共通な弱點や短所を持つてゐるので、随分容赦なく腹の底を見透かされて辛辣な痛罵などを浴びせられたに違ひあるまい。それに私は山人のやうに()一本な江戸ツ兒を以て終始する人間ではない。江戸ツ兒でありながら、多分に反江戸的なところもあるから、しまひには山人の御機嫌を損じて破門されるか、自分の方から追ん出て行くかしたゞらうと思ふ。秋聲老人は、「僕は實は紅葉よりも露伴を尊敬してゐたのだが、露伴が恐ろしかつたので紅葉の門に這入つたのだ」と云つてゐたが、同じ紅葉門下でも、その點鏡花は秋聲と全く違ふ。この人は心の底から紅葉を祟拜してゐた。紅葉の死後も每朝顏を洗つて飯を食ふ前に、必ず舊師の冩眞の前に跪いて禮拜することを怠らなかつた。つまり「(をんな)系圖(けいづ)」の中に出て來る眞砂町の先生、あのモデルが紅葉山人なのである。或る時秋聲老人が「紅葉なんてそんなに偉い作家ではない」と云ふと、座にあつた鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。鏡花と私では年齢の差異もあるけれども、あゝ云ふ氣質(かたぎ)の作家はもう二度と出て來ることはあるまい。明治時代には「紅露」と云はれて、紅葉と露伴とが二大作家として拮抗してゐたが、師匠思ひの鏡花は、そんな關係から露伴には妙な敵意を感じてゐたらしい。いつぞや私が露伴の話を持ち出すと、「あの豪傑ぶつた男」とか何とか、言葉は忘れたがそんな意味の語を洩らしてゐたので、鏡花の師匠びいきもこゝに至つてゐたのか、と思つたことがあつた。

山人 文士・書家などが号の下に添える語。
痛罵 つうば。激しくののしる。きびしく非難する。
生一本 きいっぽん。純粋でまじりけのないこと。純真で、ひたむきに一つの事に打ち込んでいくこと。
旧師 以前に教えを受けた先生。
跪く ひざまずく。地面に膝をついてかしこまる。
婦系図 おんなけいず。泉鏡花作の小説。1907年(明治40年)「やまと新聞」連載。権力主義への反抗を織りまぜて描いた風俗小説。新派名狂言の一つ。スリだった早瀬主税(ちから)はドイツ語学者酒井俊蔵(しゅんぞう)に拾われて書生となり、更生する。柳橋の芸者お(つた)とひそかに夫婦になるが、酒井は許さず、2人は別離を命じられる。「湯島の境内」の場は原作にはなかったが、のちに自ら書き下ろした。
眞砂町 本郷区真砂町です。現在は文京区本郷4丁目とほぼ同じ。
改造社 1919年(大正8年)、山本実彦氏は改造社を創立し、総合雑誌『改造』を創刊。1944年(昭和19年)、軍部の圧力で解散。
昔気質 古くから伝わるものを頑固に守り通そうとする気風。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。

平田禿木|神楽坂

文学と神楽坂

 平田禿木(とくぼく)氏の『禿木随筆』(改造社、昭和14年、1939)です。氏は英文学者兼随筆家で、東京高等師範学校を卒業、一高在学中の20歳(1893年)『文学界』の創刊に参加し,21歳の『薄命記』、24歳の『神曲余韻』では哀韻悲調の名文で上田敏と並称されました。30歳で英国オックスフォード大学に留学し、帰ってから、女子学習院、第三高等学校の教授を歴任、のちに翻訳に専心しました。生年は明治6年2月10日。没年は昭和18年3月13日。享年は71歳。
 この随筆を書いた年は昭和9年、61歳でした。

 神樂坂
 見附から見ると神樂坂は可成り急である。あの坂を見るたびに、自分はいつも羅馬の街を憶ふ。羅馬にはあゝした坂がとても多いのである、そして、登りつめたとこに、きまつてオベリスクの塔と噴水がある。自分が羅馬に遊んだのは桐の花散る初夏の候であつたが、その見物にあゝした坂を幾つも登つていくのに實に骨の折れたことを憶ひ出す。羅馬七丘の上に立つといふが、東京も髙臺が多いので、山の手となると坂道が多いのである。
 友達が矢來の交番近くにゐたので、自分はよく以前の神樂坂を知つてゐる。神樂坂は震災後ずつと繁華になつたらしい。菓子屋に壽徳庵船橋屋の名が見えるが、これ等は何れも河向ふ江東の老鋪で、あの折一時此處へ移つて来て、そのまゝ根城を据ゑたものであらうか。兩側に大抵の店が揃つてゐて、何でも手近で間に合ふやうである。自分は往日(むかし)日本橋東仲通り邊へ、東京の住居をおいたらうと思つたことがあるが、今ではあの邊はとてもごたごたしてゐ、それに、震災後の復興で、自分などにはまるで西も東も分らぬやうになつてゐる。矢來までの途中は相當賑やかであるが、ちよつと横町へ入ると、神樂坂は可成り靜かであるらしい。山の手のその靜かさと下町の調法さを兼ねてゐるとこは、廣い東京にも珍しいと思ふ。あすこの何處ぞの小さな煙草屋の店でも買つて、二階で物を書いたり、假名がきの書道の指南でもしたらと、今も時々思ふことがある。
 菓子屋には和洋のそれを賣る紅谷がある。あの窓に見る瀟洒なや趣向を凝らしたは、遺ひ物としても手軽で格好である。自分には何より嬉しい海産物の店も一二軒あるらしく、魚屋の店にも、季節には北陸の蟹が堆く積まれてゐる。客があつて、ちよつとお壽司を取つても、土地柄だけによい物をすゝめられると、 遞信省時代に中町に住んでゐた五島駿吉君の話であつたが、神樂坂は實に調法な處である。
見附 現在「神楽坂下」という交差点は昔は「牛込見附」と呼びました。
羅馬 イタリアの首都、ローマです。
オベリスクの塔 古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱。その形をした記念碑。欧米の主要都市の中央広場などにも建設、その地域を象徴する記念碑になっている。

オベリスクの塔

桐の花 4~5月で紫色の花をつけます。
ローマの七丘(しちきゅう) ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置し、ローマの基礎をつくった七つの丘。
河向う 川向こう。隅田川の東側。
根城 活動の根拠とする土地・建物
調法 ちょうほう。重宝。便利で役に立つこと。
假名がき 仮名で書くこと。一般には平仮名で書くこと。
 かご。竹で編んだかご。
 かご。服や食料を入れる、竹製の四角いカゴ)
遺い物 つかいもの。贈答品。贈り物。進物。
格好 ちょうどよい。適当。
五島駿吉 生年は明治15年(1881年)。郵便局長。鉱物学者。

 田原屋は銀座、日本橋邊の一流の店にも劣らぬ、優れた果物を賣る家らしく、そこの二階での洋食はあの邉の呼び物と聞いてゐるが、まだ試みたことはない。以前矢來の友達を訪ねると、いつもきまつて坂の途中を左へ入つた明進軒といふ家へ案内してくれた。雅樂寮伊太利人か、商大の佛蘭西人の肝煎りで店を出したとかで、そこの佛蘭西風の料理は下町でも味へないものであつた。近くにゐた英吉利の貴族名門出のチヤモレエ師なども、始絡パトロナイヅしてゐた。日本間の別室があつて、坐つてゆつくり食事の出來るのも嬉しく、そこには、これも來つけの人達と見えて、尾崎氏や齊藤松洲晝伯の色紙、短冊が懸つてゐた。
 この頃舊幕の旗本水野十郎左衛門邸跡へ三樂莊といふ料亭ができて、泉石の美を誇るその庭を見せるといふことで、暮近くなつたら一夕友達と年忘れでもしてみたい、それには何んとか、一應その樣子を探つて見ておかうと思つて、見附内の某大學へ客分として手傳ひに一週二三囘出向いてゐるその歸るさ、或る日の午後、今講じて來たエリザ朝の花形サア・フィリップ・シドネーステラの歌の定本や、トッテル氏雑纂などの入つた重い包みを下げ、新聞の廣告で教はつた通り、牛込館の横を入つて行くと、待合や小料理屋がずらりと軒を並べてゐ、今日けふ何かの寄り合ひでもあるものか、見番の前には、近くの女將や主人、女中達が盛装して立ち列んでゐる。突き當つて訊いて見ると、坂を上つて右へ行き、それからまた後へ戻るのだといふ。その通り進んで行くと、住宅地のやうなとこへ出て仕舞つた。何だか狐につままれたやうな氣がしてゐるとこへ、小春日和に外套を着てゐたので、汗ばんでさへも來るのである。三樂莊といふのに日本料理、支那料理とのみあるのは、他の一つは場所柄だけに化生の者でも出て來るといふ謎か、水野邸とあるからには、幡隨院もどきに湯殿でやられでもしては堪らぬと、えつちらをつちらと、もと來た途を戻つて、表通りへ出て仕舞つた。
雅楽寮 ががくりょう。うたつかさ。律令制で宮廷音楽をつかさどった役所。明治維新後、宮内省式部職しきぶしょく 楽部がくぶに改組し、1908年(明治41年)、現在の宮内庁に引継した。
肝煎り  きもいり。肝入り。双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。
伊太利、佛蘭西、英吉利 それぞれイタリア、フランス、イギリスのこと。
チヤモレエ 英国人宣教師ライオネル・チャモレー師(Lionel Berners Cholmondeley)。岩戸町25番地に住んでいました(下図)
パトロナイヅ パトロナイズ。patronize。ひいきにする。後援する。
来つける きなれる。来慣れる。ふだんよく来て慣れている。通い慣れる。
尾崎 尾崎紅葉氏のこと。
斎藤松洲 さいとうしょうしゅう。日本画家。明治3年(1870)大阪生。鈴木松年の門に学び、特に俳画に長ずる。昭和9年(1934)存、歿年不詳。
舊幕 旧幕。きゅうばく。昔の幕府の時代。江戸時代
水野十郎左衛門 みずのじゅうろうざえもん。江戸前期の旗本。旗本無頼の徒を旗本奴といい、その首領である。町奴と争いを重ねた末、町奴の頭の幡随院長兵衛を自邸で殺すが最初はお咎めはなかったが、幕府の取締強化によって1664年切腹。
三楽荘 三楽荘は一平荘の位置にあり、この創業は昭和5年頃だといいます。一平荘を間違えて三楽荘としたのはありえます。次の段落では「三樂莊は横寺町にあるらしい」と書いてありますが、新宿区横寺町交友会の今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』(2000年)によれば、昭和10年頃の地図ではもう三楽荘はなくなっています。
泉石 せんせき。泉水と庭石。庭園。
帰るさ かえるさ。「さ」は接尾語。帰る時。帰る途中。かえさ。
エリザ朝 「エリザベス朝」「イギリス・ルネサンス」と同じ。劇作家はウィリアム・シェイクスピアが有名で、現在に残る戯曲の多くを残した。
サア・フィリップ・シドネー Sir Philip Sidney。16世紀のエリザベス朝の英国の詩人、廷臣、軍人。
ステラの歌 原題『Astrophel and Stella』。英語で書かれた有名なソネット連作の最初のもの。
トッテル氏雑纂 リチャード・トッテル。Richard Tottel。当時のエリザベス朝詩のアンソロジー「歌とソネット」(1557)を編集、「トッテル詞華集」として知られるようになった。「雑纂ざっさん)」とは雑多な記録や文章を集めることや、編集した書物。
見番 三業組合の事務所。三業組合とは料亭・待合茶屋・芸者屋の3業種をまとめていいました。しかし、この当時、見番は芸者新路にできていました。牛込館は藁店にできていて、この2つの場所は違います。
小春日和 晩秋から初冬にかけての暖かな日和。小春とは、旧暦十月の異称。
他の一つ 日本料理、支那料理、西洋料理でしょうか。
化生の者 化けること。化け物。妖怪。
幡隨院 幡随院長兵衛。ばんずいいんちょうべえ。江戸時代初期の侠客。旗本奴の首領水野十郎左衛門と争い水野に謀殺された。
湯殿 歌舞伎の「極付幡随長兵衛」では、水野十郎左衛門は旗本奴と町奴を和解させるために酒宴を開くので、幡随院長兵衛に来てほしいという。長兵衛は受諾する。酒宴ではこぼれた酒が長兵衛の着物を濡らす。水野は着物が乾くまで自慢の湯殿(風呂)でくつろぐよう勧める。湯殿に案内された長兵衛の前に水野が現れ、槍を突き出す。長兵衛は丸腰で応戦するが、重傷を負う。水野はすべて覚悟の上で身の始末まで整えてやって来た長兵衛に感心し、殺すのは惜しいと思いながら、とどめを刺す。

 三樂莊は横寺町にあるらしい。横寺町といふと、今からはもう何十年か前の夏、大野洒竹と一緒に同じ町のその居に尾崎紅葉氏を訪ねたことを憶ひ出す。洒竹のゐた谷中から二人乘の人力車くるまで神樂坂下まで來、それからぼつぼつ歩き出したが、盛夏のことでとても暑く、道を訊いてから、とある井戸端で水を汲んで汗を拭き、それから漸く探ね當てゝ案内を請ふた。早速二階の書齋へ通されて尾崎氏も直ぐ出て來たが、薄茶色の縮みの浴衣にメリンス兵古帶といふ服装なりで、いかにもさつぱりとしてゐたのは意外だつた。部屋も硯友社の他の人達のそれのやうに、箪笥に長火鉢をおいて、人形を飾つてゐるやうなことはなく、茶道具だけは紫檀の棚に載つてゐて、たぎらした湯を階下したから取り寄せ、主人自ら茶をいれるのであつた。
 その時、拭巾を取つて、額へ八の字を寄せながら、ぐいぐいと盆を拭くその姿が、今もありありと目に殘つてゐる。話はそれからそれと大分にはづんだが、小説のことになると、もう閉口だと、顏を曇らしてうつ向きになつたことを今に覺えてゐる。歸り際に、夫人もちよつと姿を見せられたが、いかにも靜かな、貞淑の方のやうに見受けられた。玄關には、「青葡萄」が讀賣へ出てから程經つてのことだから、秋聲氏や鏡花氏でなく、次の代の方々がゐたのだと思ふ。尾崎氏の訃は外遊中オックスフオードでこれを聞き、洒竹氏には歸つてから一度、築地本願寺一葉さんの法事の折に逢つたぎりで、氏も早く他界して仕舞つた。
 肴町電車道を横切つて矢來近くへ來ると、右側に洋風の骨董を賣る小さな店や、萬年青や蘭、新春はるには梅の小型の盆栽を窓へ飾つてゐる家があり、交番近くへ來ると、左側に水盤や煎茶風の竹の花生けを賣つてゐる古い店があり、それ等を眺めながら、御苦勞にも自分は矢來下の停留場まで來て、そこから電車へ乘つて歸つて來る。その電車がいつも空いてゐて感じが好く、車掌までがのんびりして、親切だからである。(昭和九年十一月)
横寺町 新宿区の北東部に位置し、神楽坂に接する町。
大野洒竹 おおのしゃちく。俳人。東京帝国大学医学部を卒業。大野病院の泌尿器科の医師。俳書収集を進め、蔵書約4000冊は洒竹文庫として東大総合図書館に所蔵。生年は明治5年11月19日、没年は大正2年10月12日。享年は42歳。
谷中 東京都台東区の地名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)や荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。
案内 ここでは「人の来訪や用向きを伝える」こと。取り次ぎ。縮み
ちぢみ 縮織り。ちぢみおり。りの強い横糸を用い、織り上げ、温湯でもんでちぢませ、布面全体にしぼを表した織物。
メリンス メリノ種の羊毛で織って、薄く柔らかい毛織物。
兵古帯 兵児帯。へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社に。
たぎらす 滾らす。沸騰させる。煮え立たせる。たぎらかす。
貞淑 ていしゅく。女性の操がかたく、しとやかなこと。
築地本願寺 東京築地にある浄土真宗本願寺派の別院の通称。
一葉 おそらく樋口一葉です。築地本願寺別院で埋葬。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』などを発表。生年は明治5年3月25日、没年は明治29年11月23日。享年は肺結核で24歳
電車道 以前は大久保通りに都電が走っていました。
万年青 おもと。常緑の多年生草本。学名はRohdea japonica Roth。
矢来下の停留場 市電(都電)の 停留場は江戸川橋通りにありました。

昭和5年.矢来下の停留場

紫|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治27年1月、26歳の尾崎紅葉氏は「読売新聞」で医師国家試験を取り上げます。今も昔も国試は大変。なお、「(むらさき)」は国立国会図書館デジタルコレクションから取ったものではなく、1994年、岩波書店の「紅葉全集」から取りました。(つまり漢字は新字体です)

1888年(明治21年)、卒業すれば無試験で医師になれる医学校は、官立医学校9校のみ(東京、千葉、仙台、岡山、金沢、長崎、京都、大阪、愛知)で、それ以外の私立医科大学や独学、漢方医の学生などは、卒業後に「医術開業試験」を受験し、合格して初めて医師免許を取得できました。1916年(大正5年)、この開業試験は廃止し、全員が医科大学に通った学生になります。

医術開業試験は年2回、全国9か所で行い、物理学、化学、解剖学、生理学の前期と、内科学、外科学、薬物学、眼科学、産科学、臨床実験の後期の試験が必要でした。

しかし『金色夜叉』だけしか知らなかった私にとって、笑いもユーモアも十分とれる紅葉氏は真に驚きでした。

      (一) 夜半よはくさめ

「おや、まあ気味きみわるいねえ、なんだかひとうなこゑがするよ。おとなりだ、おとなり烟草たばこさん二階にかいだ。」
つぶやきながら、疑懼こは/”\くびもたげて寐床ねどこから聴耳きゝみゝてる六十ばかりの老婦ばあさんしなびた横顔よこがほを、おなやうせいすゝ行燈あんどんひかりが、なるほどくらいよりはあかるく、枕頭まくらもと朦朧もうろうてらしてゐる。
此間このまは八でふ唯一ひとまぎり二階にかいで、西にしひがしまどがある。西にし欞子れんじ格子がうし明窓あかりまどで、鴨居かもゐぱいつてあるたなうへには、吸物膳すひものぜん人前にんまへ藍染あゐぞめつきなますざら蒔絵まきゑ重箱ぢうばこなどゝ書附かきつけのあるはこいつつと、菓子くわし古折ふるをり鶏卵たまご空箱あきばこ鉄葉ぶりきくわん銘酒めいしゆびん共外そのほかべてわざはひ三年さんねんてば、とふやうなもの抛上はふりあげてある。

[現代語訳]     (一) 夜半のくしゃみ
「おや、まあ気味が悪いねえ、何だか人間のうなる声がするよ。お隣りだ。お隣りのたばこ屋さんの二階だ。」
とつぶやきながら、こわごわ首をもたげて、寝床から聞き耳をたてた60歳位の婆さんがいた。しなびた横顔を、同じように威勢のない煤行燈の光が、暗いよりは明るく、枕頭にぼやっと照している。
この部屋は八畳ひと間の二階で、西と東に窓がある。西が連子格子の明窓で、鴨居一杯にある棚の上には、吸物膳が十人前、藍染めがついたなます皿、蒔絵の重箱などがある箱が五つ、六つと、菓子の古折、鶏卵の空箱、ブリキの缶、銘酒のびん、そのほか不用なものはどこにもないといって放りあげている。

 くさめ。くしゃみ。
疑懼 ぎく。うたがって不安に思うこと。
擡げる もたげる。もちあげる。おこす。増す。
 せい。いきおい。力。
煤行燈 魚油などを使うとすすがでる照明具。
朦朧 もうろう。ぼんやりとかすんで、はっきり見えない様子。
 部屋の数を数えるのに用いる。例えば、「六畳と四畳半の二間(ふたま)」など。
欞子 れんじ。連子。櫺子。窓や戸に木や竹の桟を縦か横に細い間隔ではめこんだ格子。
鴨居 引き戸や引き違い障子などの建具を開閉するため開口部の上方に取り付ける、溝の入った横木。
藍染 藍からとった青の色素で染め染めたもの。
 なます。膾。魚・貝や野菜などを刻んで生のまま調味酢であえた料理。
鱠皿 なますなどを盛る器からこの名前がついた。
蒔絵 漆で文様を描き、金、銀、スズなどの粉末を固着させ磨いたもの。
禍も三年経てば 禍も三年置けば用に立つ。わざわいも時がたてば、幸いの糸口になることがある。禍も3年。不用なものはないというたとえ。

(それ)が、あなた、可笑(をかし)いことがあるのでございますよ。昨夜(ゆふべ)ふつと()()ましますとね、唸声(うなりごゑ)(きこ)えるぢやありませんか。(それ)がね、あなた、此方様(こちらさま)のお二階(にかい)なんですよ。」(以下、本文は長くなり、ここでは中略)
(うな)つてをりましたか。」
矢庭(やには)打込(うちこ)(たゞ)()で、姨様(をばさん)長話(ながばなし)胴切(どうぎり)になる。これで拍子(へうし)(ぬけ)がして、後段(あと)はぐつと簡畧(てみじか)に、
(わたくし)(みゝ)(なん)でございますけれども、どうも(うな)つてゐらつしやるとしか(きこ)えないのでございますよ。」
(うな)(はず)はございませんがねえ。」
女房(にようばう)少時(しばらく)(かんが)へて、
(うな)つたのぢやございません。」
(おも)はず頓狂(とんきやう)(おほ)きな(こゑ)をして、
(ほん)()でゐたのです。」
「あの(うな)つてゐらしつたのが。」
(うな)つてたのぢやございません、(くち)(うち)(ほん)()むでたのですよ。
「まあ余何(どう)せう? (わたくし)はまた大病人(たいびやうにん)のお客様(きやくさま)でもあつて、お二階(にかい)()てゐらつしやるのかとばかり(おも)ひましたよ。御勉強(ごべんきやう)御病人(ごびやうにん)とは、大抵(たいてい)相違(ちがひ)ぢやございませんね。」
(はて)大笑(おふわらひ)になる。
(じつ)昨日(きのふ)から二階(にかい)(まゐ)つてをるので、拙夫(やど)親類筋(しんるゐすぢ)のものでございますの。もう(ひさ)しく日本橋(にほんばし)山路(やまぢ)といふお医者様(いしやさま)弟子(でし)になつてをるのでございますが、この四月(しぐわつ)には医者(いしや)試験(しけん)があるものですから、それでまあ勉強(べんきやう)しに当分(たうぶん)(ひま)をもらひましてね。当節(たうせつ )ぢや往時(むかし)(ちが)つて、(なに)になるのも大抵(たいてい)ぢやございませんよ。」
(いま)まで()(おも)さうに()えた内君(おかみさん)も、段々(だん/\)口軽(くちがる)になつて()る。「へえゝ。」  と姨様(をばさん)感心(かんしん)した(やう)なものゝ、その試験(しけん)といふ(こと)(ねつ)から(わか)らぬので、早速(さつそく)(れい)責道具(せめだうぐ)一種(ひとつ)の「(どう)いふ(わけ)で」を担出(かつぎだ)す。
[現代語訳]「それが、あなた、おかしいことがあるのでございますよ。昨夜ふっと眼を覚ましますとね、うなり声が聞こえるじゃありませんか。それがね、あなた、こちらさまのお二階なんですよ。」(以下、本文は長くなり、ここでは中略)
「うなっておりましたか。」
とだしぬけに打ち込んだただ一句で、おばさんの長話は中途半端に終わる。これで拍子抜けがして、あとはぐっと手短かに、
「私も耳がなんでございますけれども、どうもうなっているとしか聞こえないのでございますよ。」
「うなるはずはございませんがねえ。」
と女房はしばらく考えて
「うなったのじゃございません。」
と思わず頓狂に大きな声をだして、
「本を読んでいたのです。」
「あのうなっていらしゃたのが。」
「うなってたのじゃございません、囗の内で本を読んでたのですよ。」
「まあどうしょう? 私はまた大病人のお客様でもあって、お二階に寝ていらしやるのかとばかり思いましたよ。御勉強と御病人とは、ふつうの違いではございませんね。」
と果てはお笑いになる。
「実は昨日から二階に留まっています。宿の親類筋のものでございますの。もう長く日本橋の山路というお医者様の弟子でございますが、この四月には医者の試験があるものですから、それでまあ勉強には当分の間お暇をもらいましてね。当節じゃ昔と違ちがつて、なにになるのも大抵じゃございませんよ。」
今まで気の重そうなとみえた内君も、段々と口は軽たっている。「へえ…」
とおばさんは感心した様なものだが、その試験ということが根っからわからぬので、さっそく例の責道具の一種の「どういうわけで」をかつぎだす。

矢庭に やにわに。その場ですぐ。たちどころに。いきなり。突然。だしぬけに。
胴切 どうぎり。胴の部分で横に切ること。輪切り。転じて「中途半端に終わること」
拍子抜け ひょうしぬけ。張り合いがなくなること。
頓狂 とんきょう。だしぬけに、その場にそぐわない調子はずれの言動をすること。
読む 当時の「読むで」は現在の「読んで」になります。
責道具 せめどうぐ。責め具。責具。拷問に用いる道具。

「その試験(しけん)といふことでございますか。(それ)貴方(あなた)かうでございますよ。(なに)商売(しやうばい)(はじ)めるからつて、(ねが)ふのでございませう。ですから、お医者(いしや)(さま)(はじま)るのでも、矢張(やつぱり)政府(おかみ)から御免(ごめん)にならなければ()けないので、それには試験(しけん)といつて、医者(いしや)()るだけの(うで)(ある)(ない)か、その(かゝり)役人(やくにん)力量(りきりやう)(ため)して()(うへ)で、これなら(いゝ)といふことになつて、そこでまあ天下(てんか)()れて一人前(いちにんまへ)のお医者(いしや)(さま)になれやうといふのですから、二階(にかい)(ひと)(いま)その試験(しけん)下稽古(したげいこ)精々(せつせ)としてゐるのでございますよ。」
「そりやまあお大抵(たいてん)ぢやございませんねえ。それぢや(その)試験(しけん)とかいふことは、(さだ)めし(むづか)しいのでございませうねえ。」
姨様(をばさん)はぐつと(ひと)(くび)(ひね)つて、ふうと(はな)(なか)(ふし)()けて(うな)る。(これ)所謂(いはゆる)聞上手(きゝじやうず)といふので、かう()(ひと)れられると、(はな)(はう)でも(おのづ)張合(はりあひ)()()る。
「それは(むづか)しいの(なん)のといつて、お(はなし)ぢやないさうですよ。その試験(しけん)(また)()では()まないので、(ぜん)……(ぜん)(なん)とかに、(こう)(なん)とかと、都合(つがふ)()あつて、(そう)して(はじめ)試験(しけん)には三(ゑん)(あと)試験(しけん)には五(ゑん)(をさ)めるので、それが貴方(あなた)首尾(しゆび)よく(まゐ)ればねえ、試験(しけん)も二()で、お金子(かね)も八(ゑん)()みますけれど、(うん)(わる)かつたり、勉強(べんきやう)()りなかつたりして御覧(ごらん)なさい、試験(しけん)(うま)(まゐ)りますまい。」
「ふう、ふう、」  と姨様(をばさん)(ます/\)(はな)()らして乗出(のりだ)す。
(さう)すれば()再試(やりなほ)さなければなりませんわね。」
「こりやあ成程(なるほど)(さう)でございませうね。」
再試(やりなほ)()には、また勉強(べんきやう)為直(しなほ)した(うへ)に、またお金子(かね)()られるのですから、(つら)いぢやありませんか。」
「なぜ(また)其度(そのたんび)にお金子(かね)(とつ)たものでせう。政府(おかみ)でもねえ貴方(あなた)、そんなに()りたがらなくつても(いゝ)ぢやございませんか。(なに)かと()ふと税々(ぜい/\)ツて、徳川様(とくがはさま)時分(じぶん)にはとんと()かつたことで、これだけでも真個(ほんに)()(わる)くなつたのが(わか)りますよ。」
昏濁(しよぼ/\)した()にも(おのづ)から憂憤(いうふん)(いろ)(あら)はれる。
[現代語訳]「その試験ということでございますか。それはあなた、こうでございますよ。商売を始めるからといって、願うのでございましょう。ですから、お医者様を始まるのでも、やつぱり御上から御免にならなければいけないので、それには試験といって、医者をするだけの腕があるかないか、その係の役人が力量を試してみた上で、これならいいということになって、そこでまあ天下晴れて一人前のお医者様になれるというのですから、二階の人も今その試験の下稽古をせっせとしているのでございますよ。」
「そりやまあ、大抵じゃございませんねえ。それじゃその試験とかいうことは、さだめし難かしいのでございませうねえ。」
とおばさんはぐっと首をひねって、ふうと鼻の中で節をつけて、うなる。これが所謂聞上手というので、こうやると、話す方でも自ずと張合が出て来る。
「それは難しいのなんのといって、お話じゃないそうですよ。その試験がまた一度ではすまないので、前……前なんとかに、後何なんとかと、都合二度あって、そうして前の試験には三円、後の試験には五円収めるので、それがあなた首尾よく参ればねえ、試験も二度で、お金も八円ですみますけれど、運が悪かったり、勉強が足なかったりして御覧なさい、試験がうまくいきません。」
「ふう、ふう、」
とおばさんはますます鼻を鳴らしてのりだす。
「そうすればまたやり直されなければなりませね。」
「こりやぁなるほどそうでございましょうね。」
「再試の日には、また勉強をした上に、またお金を取られるのですから、つらいじゃありませんか。」
「なぜまたそのたびにお金を取ったものでしょう。おかみでもねえ、あなた、そんなに取りたがらなくってもいいじゃございませんか。なにかというと税々って、徳川様時分にはとんとなかったことで、これだけでもほんに世が悪くなったのがわかりますよ。」
と、じょぼじょぼした眼にも自ずと憂憤の色が見える。

御免 免許・許可の尊敬語
下稽古 本番の前に、あらかじめ練習をしておくこと。
定めし 確信をもって推測する気持ちを表す。さぞ。おそらく。
真個 しんこ。本当に。真に。
憂憤 うれい、憤ること。

裸美人|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治22年、満22歳で、尾崎紅葉氏は「裸美人」を、読売新聞に2回連載しました。雅俗折衷体で書かれており、文語体の地の文はきらびやかで、一方、口語体の会話は完全に現代人の言葉になっています。この点で、この文章は古文とは全く違っています。

 これは完全なユーモア小説です。尾崎紅葉氏にはこんな小説もあったのです。知りませんでした。

        ()美人(びじん)

曲線美(きよくせんび)! 曲線美(きよくせんび)! 曲線(きよくせん)好配合(かうはいがふ)から成立所(なりたちことろ)の、女人(によにん)裸體(らたい)は「()」の神髄(しんずゐ)である! あい、あい、左様(さやう)でござい。(われ)美術家(びじゆつか)(なにがし)とて、(つと)に「(しう)」に()するものなり。あはれ、(この)宗旨(しうし)難有(ありがた)(ところ)を、(ひろ)めてくればやと(おも)ふに、()には(つくり)聖人(せいじん)(おほ)く、裸美(らび)実相(じつさう)()もせで、世教(せけう)風俗(ふうぞく)紊乱(びんらん)すと、一(ごん)いひ()(こと)こそ心得(こゝろえ)。いでや(ふる)つて、俗眼(ぞくがん)凡慮(ぼんりよ)迷霧(めいむ)(はら)はむ!
《こらよ、こらよ》
《はい、お()びなさいましたか》と(あら)はれたる美形(びけい)は、此間(このあひだ)もらうた花嫁子(はなよめご)なり。
《あい、(はな)しておいた(とほ)り、明日(あす)新婚(しんこん)びろめをするのだが、(それ)(つい)ては(すこ)しお(まへ)量見(りやうけん)()きたいて》
《はい》
(なに)なりと(わたし)のいふ(こと)(そむ)きはしまいね》
《はい》
《それならば(はな)すが、明日(あす)朝野(てうや)名士(めいし)数十名(すうじふめい)(あつま)るので、また新婚弘(しんこんびろ)めといふのだから一生(いつしやう)一度(いちど)(はれ)宴会(えんくわい)だ》
《はい随分(ずゐぶん)麁想(そさう)のないやうに(いた)します》
(たの)みますよ》
《はい、それで、あの、明日(あした)はどういふ衣装(なり)をいたしましたら(よろ)しうございましやうか、母様(おつかさま)(うかゞ)つて(まゐ)れとおつしやいました》
《なるほど淇処(そこ)だて。(それ)には(おほ)いに註文(ちゆうもん)があるのだが、其前(そのまへ)になほ()きたい(こと)がある。うウと……お(まへ)(わたし)一体(いつたい)どういふ人物(じんぶつ)(おも)つてるね》
美形(びけい)(をつと)(かほ)不思儀(ふしぎ)さうに()て、もぢ/\返詞(へんじ)なければ、
政治家(せいぢか)か、文学家(ぶんがくか)か、または……》
美術家(びじゆつか)!》
(その)一言(いつごん)! 美術家(びじゆつか)美術家(びじゆつか)ならば(その)目的(もくてき)とする(ところ)は「()」の一字(いちじ)研究(けんきう)である、といふ(こと)承知(しようち)だらう》
《はい》
《それなら、美術(びじゆつ)研究上(けんきうじやう)(わたし)参考(さんかう)とも、利益(りえき)ともなる(こと)を、お(まへ)(わたし)()()るならば、一身(いつしん)犠牲(ぎせい)にして、(わさし)研究(けんきう)(たす)けておくれだらうね》
御用(ごよう)(たち)ます(こと)なら……》
《あゝ、()()きものは女房(にようばう)! (かな)らず其言葉(そのことば)嘘言(うそ)はあるまいね》
《はい》
丸裸(まるはだか)になつてくれ》
《えゝ!》
衣物(きもの)()てはならん、丸裸(まるはだか)臨席(りんせき)してくれ》
《えゝ!》
《さゝ、其驚愕(そのおどろき)道理(もつとも)だ、道理(もつとも)だけれど、まゝ、落附(おちつ)いて子細(しさい)(きい)てくれ》
此時(このとき)隣家(となり)にて、合方(あひかた)きつぱりとはゆかねど、ぴあのゝ()がするに、先生(せんせい)此処(こゝ)ぞと(かたち)(たゞ)し、
()(あらた)めて()くまでもない、女人(によにん)裸體(らたい)は、()神髄(しんずゐ)である、(これ)はお(まへ)美術家(びじゆつか)(つま)たる以上(いじやう)は、承知(しようち)であらう。(かな)しい(かな)我国民(わがこくみん)未開(みかい)である、美術(びじゆつ)思想(しさう)(とぼ)しい(こと)といふたら、輿論(よろん)(わが)裸美宗(らびしう)」に抗抵(かうてい)するのを()ても()れる。あつぱれ一匹(いつぴき)美術家(びじゆつか)でござると、法隆寺(はふりうじ)和尚(をしやう)従弟(いとこ)()つたやうな(かほ)をして()奴等(やつら)までが俗人(ぞくじん)雷同(らいどう)して……どうも(なさけ)ない、(この)宗旨(しうし)信仰(しんかう)するものは、(じつ)(わたし)一人(ひとり)くらゐのものだ。

当時は、テレビも、ラジオも、インターネットもまだなく、新聞だけが、微笑を伝えてくれるのです。

神髄 物事の最もかんじんな点。その道の奥義。
 つと。昔から。早い時期から。
帰依 神仏や高僧などのすぐれた者を信じて、すがること
世教 せいきょう。世に行われている教え。
紊乱 びんらん。乱れること。乱すこと。
言い消す いいけす。他人の言葉を否定する。
心得る こころえる。ある物事について、こうであると理解する。わかる。
俗眼 ぞくがん。世間の普通の人の見方。俗人の見方。
凡慮 ぼんりょ。凡人の考え。平凡な考え。
迷霧 方角のわからないほどの深い霧。迷いの境地を霧にたとえた語。
量見 りょうけん。料簡。了見。了簡。考え選ぶこと。思慮、考え、分別。
朝野 ちょうや。政府と民間。官民。
 こう。広々として何もない。
麁想 そそう。粗相。麁相。不注意から起こす失敗。軽率なあやまち。
臨席 りんせき。その席に臨むこと。会合や式に出ること。出席。
合方 あいかた。邦楽で、唄や踊りを伴わず、主に三味線だけを聞かせる部分。能で、謡のリズム型に伴奏を合わせる合わせ方。
輿論 よろん。世論。世間一般の人の考え。
雷同 らいどう。自分自身の考えがなく、すぐに他人の説に同調すること。

夢中(むちう)になつて()(さと)せば、花嫁(はなよめ)はめそ/\()くばかり、一向(いつかう)不承知(ふしようち)のやうすなれば、先生(せんせい)(くわつ)(いか)り、
《お(まへ)はさつき(なん)()つた。美術(びじゆつ)研究上(けんきうじやう)(わたし)参考(さんかう)になり、利益(りえき)になる(こと)なら、一身(いつしん)犠牲(ぎせい)にしても(くる)しくないと、いつたではないか。(をつと)言葉(ことば)(もち)ゐんやうなものは、女房(にようばう)でない! 離縁(りえん)する!》
()……御免(ごめん)……(あそ)ばしまして……》
()らん》
《ど……どうぞ、お(はな)し……》
《あぶ……な……(はな)さぬか……非常(ひじやう)腕力(わんりよく)だ……あいた、た、つねるナ。》
覚悟(かくご)をきめました》
《きめるナ、そんな(こと)をきめるな。もしお(つか)さァん》
(わたくし)(しに)ます………(しに)ます》
(しん)ではいけん、お(つか)さァん》

一向 すべて。全部。

 最後は深夜に花嫁、姑、下女は花嫁の家に行ってしまいます。最初は姑、次は下女です。

《すこし子細(しさい)があつて(よめ)(さと)まで()くのだけれど……》
(その)子細(しさい)(ぞん)じて()ります。どうぞ(わたくし)もお()(あそ)ばしまして……》
(その)子細(しさい)(しつ)てるとか》(中略)
(ねが)ひたき(ほど)のお(いへ)昨日(きのふ)且那様(だんなさま)のお言葉(ことば)にて、()けかねし不審(ふしん)がすつぱり()けました。百円(ひやくゑん)(いたゞ)いても、こればかりは出来(でき)ませぬ。(をんな)心掛(こゝろが)けはさもあるべきことなり。(なに)はともあれ、かれめ目覚(めざ)ましなば面倒(めんだう)仕度(したく)はよきか、
《そんなら母様(はゝさま)
《お二方様(ふたかたさま)》 ち、ち、ちんと三時(さんじ)()

()美人(びじん) (をはり)

かれめ 「彼め」?「彼目」?「枯れめ」? 不明です。
三時 午前3時です。

青葡萄①|尾崎紅葉

文学と神楽坂

『青葡萄』は明治28年9月16日から11月1日まで、尾崎紅葉氏が「読売新聞」に連載した言文一致体、つまり口語体の随筆です。この文は自然主義や私小説が出る時よりも、はるか昔に出ています。尾崎紅葉氏は『青葡萄』を書いた後、再び、雅俗(がぞく)折衷(せっちゅう)(たい)、つまり地の文は文語体、会話は口語体という文体に戻り、『金色夜叉』を書きました。
 なお、明治28年8月26日に小栗風葉氏が横寺町で疑似コレラになった事件が発端になっており、小栗氏が入院している時期に発表しました。
 また、本文は国立国会図書館デジタルコレクションの『青葡萄』ではなく、1994年、岩波書店の「紅葉全集」に因っています。(つまり漢字は新字体です。)なお、段落の最初は1文字空けるというルールはまだありません。

      (一)

八月二十五日、此日(このひ)(おそ)らく自分(じぶん)一生(いつしやう)(わす)られぬ()であらう、(たしか)(わす)られぬ()である。
欧羅巴(エウロツパ)(ことわざ)に、土曜日(どえうび)(わら)ふものも日曜日(にちえうび)には()、とあるが、果然(なるほど)未来(みらい)一寸先(いつすんさき)(わか)らぬ人間(にんげん)仕事(しごと)を、(かみ)()から()たならば、(その)(あさ)ましさは幾許(いかばかり)であらう。陰陽師(おんみやうじ)さへ身上(みのうへ)()らぬものを、自分は(れい)朝寐(あさね)をして、十一()()(ころ)(せみ)(こゑ)()きて、朝飯(あさめし)昼飯(ひるめし)(あひ)掻込(かきこ)で、(つくゑ)(むか)つたが、(あつ)い、(あつ)い。(この)(あつ)(なか)俳諧(はいかい)! 風流(ふうりう)(あつ)いものであるのか、(たゞし)(あつ)いから風流(ふうりう)(すゞ)むのか、()にも(かく)にも先日来(せんじつらい)小波(せうは)西郊(せいかう)二子(にし)と「土人形(つちにんぎやう)」と()三吟(さんぎん)端書(はがき)俳諧(はいかい)(はじ)めて、(いま)名残(なごり)(つき)(ちか)(すゝ)むだ(ところ)であるから、小波(せうは)(きよう)(じよう)して、二三日前(にちぜん)から脚気(かくけ)(ため)()(しま)転地(てんち)療養(れうやう)をしてゐるのであるが、遠路(ゑんろ)(いと)はず矢継早(やつぎばや)()かけて()る。已無(やむな)(くる)しいのを()けて、西郊(せいかう)(まは)次手(ついで)午後四時(こごよじ)から獅子寺(しゝでら)矢場(やば)一拳(ひとこぶし)(あらそ)はう。連中(れんぢう)四五名(しごめい)あるからと(そゞのか)して、さて(その)時刻(じこく)出懸(でか)けた。
はや大勢(たいぜい)(あつま)つてゐる射手(いて)面々(めん/\)には、官吏(くわんり)もあれば兵士(へいし)もある、若様(わかさま)()るかと(おも)へば地主様(ぢぬしさま)もゐる、英語(えいご)教師(けうし)新聞記者(しんぶんきしや)御次男(ごじなん)やら小説家(せうせつか)やらで、矢声(やごゑ)(いさま)しく金輪(かなわ)点取(てんとり)(もよほ)してゐる。

[現代語訳]8月25日、この日はおそらく自分の一生で忘られない日だろう。確かに忘られない日だ。
 ヨーロッパの諺に、土曜日に笑う人は日曜日には泣く、とある。なるほど未来は一寸先もわからない。それが人間の仕事である。神の目から見た場合、その浅ましさはいかばかりだろう。陰陽師さえ自分の身上は知らない。自分は例の朝寝をして、11時という時間、せみの声に起きて、朝飯と昼飯の間をあっと食べ、机に向かった。しかし、暑い、暑い。この暑いなかで俳諧だ! 風流は熱いものであるのか、熱いから風流で涼むのか。とにもかくにも先日来、小波と西郊の二人と一緒に「土人形」という三人で詠む端書の俳諧を始めた。今や名残の月に近く進んだ所で住む小波も、興に乗じて、二三日前から脚気のために江の島に転地療養をしているのだが、遠路もいとわず、つぎばやに俳諧をかけてくる。やむなく苦しいのをつけて、西郊へ廻したが、ついでに、午後四時から獅子寺の矢場で一回争うことにした。二人に相手も四五名いるからとそそのかして、さてその時刻になって出かけた。
 矢場には大勢があつまっている。射手の面々には、公務員や兵士、若様がいるかと思うと地主様もいる。英語の教師に新聞記者、御次男やら小説家やらで、矢声も勇ましく金属製の輪を使って得点を争そうと言っている。

土曜日に笑ふものも日曜日には泣く フランスの諺。Ceux qui rient le vendredi, pleureront le dimanche. Those who laugh on Friday will cry on Sunday. He who laughs on Friday will weep on Sunday. 喜びの後には悲しみがやってくる。
陰陽師 おんようじ。おんみょうじ。陰陽道に基づいて卜筮(ぼくぜい)、天文、暦数を司り、疾病治療などの知識ももった者。
身上 みのうえ。身の上。その人にかかわること。境遇。人間の運命。
 ころ。頃。ころあい。時。なお、「比蝉」という単語はありません。
 昔の「む」は今の「ん」に変わっています。ここでは「掻込んで」になります。
俳諧 はいかい。滑稽とほぼ同じ意味。機知的言辞が即興的にとめどもなく口をついて出てくること。連句、発句(ほっく)、俳文、俳諧紀行、和詩など俳諧味(俳味)をもつ文学の総称。
小波 おそらく巌谷小波のこと。イワヤサザナミ。明治大正期の児童文学者。小説家。俳人。明治20年硯友社に入る。
西郊(せいこう) 誰かは不明。岩波書店が調べた初出では「青江(せいこう)」になっています。この名前も不明ですが、江見(えみ)水蔭(すいいん)氏ではないかと疑っています。
三吟 さんぎん。連歌や連句の一巻を三人の連衆で詠むこと。また、その作品。
矢継ぎ早 やつぎばや。続けざまに早く行うこと。矢を続けて射る技の早いこと。
次手に ついでに。序でに。何かをするその機会を利用して、直接には関係のないことを行うこと。
矢場 弓術を練習する所。
射手 いて。弓を射る人。弓の達人。
矢声 やごえ。矢を射当てたとき、射手が声をあげること。その叫び声。矢叫び。やさけび。
金輪 金属製の輪。
点取 てんとり。点を取ること。得点を争うこと。

(およ)諸芸(しよげい)(なに)(かぎ)らず其門(そのもん)天狗道(てんぐだう)であるが、(べつ)して(しや)(みち)劇甚(きびしい)やうに(おも)はれる。自分(じぶん)とても四年来(よねんらい)天狗(てんぐ)で、(すで)其筋(そのすぢ)から薄部(うすべ)()羽団(はうちは)をも(ゆる)されやうと沙汰(さた)するほどの(まん)(みだり)(ひと)射勢(いまへ)(なん)じて、日置(へき)(りう)秘歌(ひか)百首(ひやくしゆ)朗吟(らうぎん)するの一癖(いつぺき)(そもそ)我流(わがりう)には三教(さんけう)密伝(みつでん)ありて、などゝ()りかける(いとま)()く、此日(このひ)(ほとん)乱射(らんしや)(てい)で、矢数(やかず)二百(にひやく)(あまり)()いて、黄昏(たそがれ)となつた。自分(じぶん)(あたり)(わる)いのは、(いま)(はじ)まつたのではないが、此日(このひ)(また)格別(かくべつ)不出来(ふでき)であつた。(あせ)れば(あせ)るほど揉破(もみこは)して、心中(しんちう)さながら()ゆる(ごと)満身(まんしん)(かん)脳天(なうてん)まで亢進(たかぶ)つて、(これ)(むかし)大名(だいみやう)であつたなら、もそツと(あた)(まと)()けい、と(はげ)しい御諚(ごぢやう)のあるべき(ところ)であるが、平民(へいみん)()可悲(かなしき)には、徹骨(てつこつ)(うらみ)()むで、怏々(あう/\)(ゆみ)(ふくろ)(をさ)めてゐる(ところ)へ、明進軒(めいしんけん)近所(きんじよ)洋食店(やうしよくてん))からの使(つかひ)で、社中(しやちう)馬食(ばしよく)先生(せんせい)会食(くわいしよく)(まね)かれた。
馬食(ばしよく)先生(せんせい)洒脱(しやだつ)()諧謔(かいぎやく)(げん)とは、自分(じぶん)(つね)(よろこ)(ところ)である。(をり)こそ()けれと一躍(いちやく)して矢場(やば)()た、(イー)()(エチ)()(チー)()同行(どうかう)した。
途上(みち/\)(エチ)()自分(じぶん)(むか)つて、
「これから(きみ)皆中(そくる)だらう。」と(たはふ)れたが、(やが)五人(ごにん)(ひざ)(しよく)(かこ)むで、(さかづき)(とば)し、(かつ)(きつ)し、(かつ)(だん)じた愉快(ゆくわい)は、向者(さき)怏々(あう/\)(たのし)まざる(ひと)をして、二立目(ふたたてめ)自景(じけい)(すま)したやうな元気(げんき)にした。
やう/\ビーフステーキの肉叉(フオーク)()()かぬかに、給仕(きふじ)()て、
御宅(おたく)から御人(おひと)でござます。」
自分(じぶん)(すぐ)()つて、二階(にかい)(てすり)から(かど)(たゝず)門生(もんせい)春葉(しゆんえう)()びかけて、客来(きやくらい)か、と(たづ)ねると、「(いえ)一寸(ちよつと)………。」と(かれ)(こゝろ)()りげ自分(じぶん)目戍(まも)

[現代語訳]およそ諸芸は何でも限らず自慢な人が多いが、特に弓道は厳しいように思える。自分としても四年来の天狗だが、すでにその筋から思い上がりを許すではないかといわれた。オジロワシの尾羽でつくった「うちわ」がその証拠だという。ほかにも、他人の弓の姿勢をみだりに難じて、日置流の秘歌百首を朗吟するのは癖だし、そもそも日置流には三教の密伝があるなどとやっていたのだ。さて、この日はほとんど的を定めないで発射し、矢数でいうと200余も引き、黄昏となった。自分の当たりの悪いのは、今に始まったのではないが、この日は格別に悪い。あせればあせるほど点数は悪くなり、心は燃ゆる如く、満身の興奮は脳天までたかぶってくる。これが昔の大名であったら、もそっと 当たる的をかけい、とはげしい仰せのあるべき所だが、平民の身はかなしい。骨まで通る恨みは飲み込んで、不平不満があるが、弓は弓袋に収めた。明進軒(近所の洋食店)からの使いで、見ると、社中の馬食先生から会食に招かれた。
 馬食先生の洒脱の気と諧謔の言とは、自分の常に喜ぶ所である。おりこそ好ければと一躍して矢場を出た、E氏、H氏、T氏も同行した。
 途中H氏は自分にむかって、 「これから君はすべての矢を的に刺すだろう」と冗談をいったが、やがて五人の膝は食卓を囲み、さかづきを飛ばし、どもり、かつ、談じた愉快さは、さきの楽しむ人ではないが、自分で歌舞伎で満足するような元気が一杯になってきた。 ようやくビーフステーキのフォークをおくか、おかないうちに、給仕がやってきて、 「御宅から、1人で、ここに来ています」
 自分はすぐ立ちあがり、二階のてすりから門にたたずむ門生の春葉をよびかけた。客が来たのか、とたづねると、「いえ、ちょっと………。」と彼は意味あるように自分をじっと見つめた。

天狗道 自慢し高慢な人が多い世界。
劇甚 はなはだしいこと。非常に激しいこと。
薄部尾 うすべお。薄黒い斑点のあるオジロワシの尾羽。的中するため矢羽に用いる。
羽団 鳥の羽で作ったうちわ。右図を。
 まん。仏教で説く煩悩(ぼんのう)の一つ。思い上がり。自分を高くみて他を軽視すること。
射勢 弓を射る時の姿勢。
日置流 弓術の一派。近世弓術の祖といわれる日置弾正正次が室町中期に創始。尾崎紅葉氏もこの一派に属しています。
一癖 一つの癖。ちょっとした癖。普通の人とは違っていて扱いにくい性格。
遣り掛ける やりかける。あることをしはじめる。
乱射 的を定めず、むちゃくちゃに発射すること。
 あたり。物のまんなか。中央。
揉破 やわらかくして、悪くなる。
 ちょっとしたことにも興奮し、いらいらする性質や気持ち。
御諚 貴人の命令。仰せ。お言葉。
徹骨 てっこつ。骨までとおること。物事の中核・真底にまで達すること。
 うらみ。残念に思う気持ち。心残り。未練。
怏々 おうおう。不平不満のあること。
 ゆみぶくろ。弓袋。
社中 詩歌・邦楽などで同門の仲間。
洒脱 俗気がなく、さっぱりしていること。あかぬけしていること。
一躍 いっぺんに評価が上がること。
皆中 束る。そくる。総射数の全ての矢を的に刺す。
 さかずき。酒を飲む容器。「さかずき」には杯、盃、坏、盞、爵、觚、鍾など多くの字をあてる。
吃する きっする。言葉がなめらかに出ない。どもる。
二立目 ふたたてめ。江戸歌舞伎で、序開きの次に演じられた一幕。下級俳優によって行われた一種の開幕劇。二つ目。
自景 自分で満足すること。
擱く おく。措く。やめる。中止する。控える。
 それ。かれ。第三人称の代名詞。
意ありげ 心ありげ。意味があるように。
目戍る じっと見つめる。注意深く見る。熟視する。

 なお、この文章の前に、青葡萄を使った理由が書いてあります。

 此篇題して青葡萄といふは、庭前に其物ありしを人の仮初に味ひて、不測の病を獲しに拠るなり、畢竟巻中の之を説かざるは、後編に出すべき腹案なりしを、故ありて筆を前篇に止めしが為のみ、世に蛇足の辯あり、如此きは更に狗尾の続ぐを慙ぢざらむや、
去年事のありける其日
葡萄簷のあるじ

簡単に訳すと、
「この篇について、表題は青葡萄になっているが、庭の前に青葡萄があって、その味を試してみたところ、思わず病気になった。結局、青葡萄が原因だと、書いてはいない。腹案では後編に出すものだった。理由があって前篇で終了した。世の中では蛇足だという弁も聞こえる。すぐれた者のあとに劣った者が続く場合ではないか。
昨年、事件が起きた日で。
葡萄軒のあるじ」

青葡萄➆|尾崎紅葉

文学と神楽坂

祖父(そふ)祖母(そぼ)(ころ)げるやうに一度(いちど)蹶起(はねお)きて、蚊帳(かや)(ごし)(おもて)(そろ)へて自分(じぶん)()る。
病人(びやうにん)様子(やうす)()くないやうだから、病院(びやうゐん)(おく)ることにしたよ。(しか)し、心配(しんぱい)するほどのことは()い。」
()病院(びやうゐん)へかい。」
祖母(そぼ)(あき)れる。祖父(そふ)戦々兢々(おろ/\)と、
大丈夫(だいじやうぶ)かい、大丈夫(だいじやうぶ)かい。」
(とゞろ)(むね)(しづ)めかねてゐた。
大丈夫(だいじやうぶ)だよ。明朝(あした)まであゝして()くと、(かへ)つて険難(けんのん)だから、手後(ておくれ)にならない(うち)送院(そうゐん)した(はう)()いのさ。それから、(いま)巡査(じゆんさ)警部(けいぶ)()るから、(こゝ)往来(わうらい)になるかも()れないから、二階(にかい)()つてお(やすみ)なさい。」
祖父母(そふぼ)(ます/\)(おどろ)いて、はや蚊帳(かや)()やうとする。
(すこ)()つて、(いま)二階(にかい)片附(かたづ)けるから。」
自分(じぶん)二階(にかい)(あが)つた。(ケー)()()らぬ。病室(びやうしつ)春葉(しゆんえふ)()(こゑ)がした。国手(ドクトル)第二回(だいにくわい)皮下(ひか)注射(ちゆうしや)(ほどこ)してゐるのであつた。
[現代語訳]祖父も祖母もころげるように一度に跳ね起きて、蚊帳ごしに顔をそろえて自分を見る。
「病人の様子がよくないようだから、病院へ送ることにしたよ。しかし、心配するほどのことはない。」
「伝染病院へかい。」
と祖母はあきれる。祖父は戦々兢々として、
「大丈夫かい、大丈夫かい。」
ととどろく胸を静めかねていた。
「大丈夫だよ。明朝までああしておくと、かえって不安だから、手遅れにならないうちに病院に行った方がいいのさ。それから、今に巡査や警部が来て、ここは他人のほうが大勢来るかもしれないから、二階へ行っておやすみなさい。」
 祖父母はますます驚いて、はや蚊帳からでようとする。
「すこし待って、今、二階を片付けるから。」
と自分は二階へあがった。K氏は不在。病室に春葉を呼ぶ声がした。医師は二回目の皮下注射をしていたのであった。

避病院 以前は法定伝染病患者を隔離する伝染病院を避病院と呼びました。現在は感染症法で規定する感染症病院で、避病院とはいいません。東京23区では駒込病院、荏原病院、墨東病院、豊島病院の4病院で、うち駒込病院、荏原病院、墨東病院は避病院でした。
険難 けんのん。剣呑。危険な感じがする。不安を覚える様子。
往来 おうらい。行ったり来たりすること。行き来。人や乗り物が行き来する場所。
はや すぐに。さっさと。はやく。ある事柄の実現が意外に早い。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
国手 こくしゅ。医者を敬っていう語。名医。上医。ここではK氏のこと。
皮下注射 おそらくカンフル注射でしょうか。

青葡萄⑥|尾崎紅葉

文学と神楽坂

無論(むろん)(かれ)通夜(よすがら)()いて、啼死(なきじに)()ぬか、(あるひ)はそれから(やまひ)()るか、自分(じぶん)(こゝろ)(ふた)つに()(ひと)つ、神気(しんき)(ため)錯乱(さくらん)して、(つひ)巣鴨(すがも)()き、秋葉(しゆうえふ)駒込(こまごめ)()られ、藤枝(ふぢえ)(れい)赤坂(あかさか)(おく)られたかも()れぬ。
一家三人(いつかさんにん)同日(どうじつ)災厄(さいやく)遺族(ゐぞく)六人(ろくにん)終天(しゆうてん)不幸(ふかう)(すんで)(こと)黙阿弥(もくあみ)正本(しやうほん)(しやう)()るところであつた!
自分(じぶん)(おぼ)えず(しば)(かた)(むか)つて、神明宮(しんめいぐう)遥拝(えうはい)したのである。
[現代語訳] むろん彼は夜どおし泣いて、泣いて死亡するか、あるひはそれから病気になるか、自分の心はふたつ、身はひとつ、精神力のため錯乱して、ついに自分が巣鴨の精神病院へ行き、秋葉は駒込病院感染症科へ行き、藤枝は例の赤坂の青山墓地へ送られたかもしれない。
 一家三人が同じ日の災厄、遺族六人は終わりのない不幸、すんでのことろで、黙阿弥の正本を本物で見るところであつた!
 自分は知らず知らず芝の方に向かって、神明宮を拝んだのである。

よすがら 終夜。一晩中。よもすがら。「すがら」は接尾語。
神気 万物のもとになる気。精神力。気力。
巣鴨 精神科で有名な都立松沢病院。
駒込 感染症で有名な都立駒込病院。
藤枝 尾崎紅葉氏の長女。
赤坂 不明。赤坂で考えるものはまず青山墓地。児童救済施設としては赤坂区青山にできた私設の東京孤児院。しかし、創設は1900年で、この小説は1895年にでています。公立の東京府養育院については赤坂の施設はありませんでした。
災厄 災い。災難。
終天 終わりのない時間。
黙阿弥 河竹黙阿弥。かわたけもくあみ。幕末から明治時代の歌舞伎作者。明治14年引退して黙阿弥を名のる。時代物、世話物、所作事を行ったが。本領は生世話物。生年は文化13年2月3日。没年は明治26年1月22日。享年は78歳。作品に「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」など。
正本 謄本・写本などのもとになった本。原本。歌舞伎では上演用脚本。役者のせりふや動作、大道具・小道具・衣装・音楽などを詳しく書いた筆写本。
 しょう。本物。真実。
覚えず おぼえず。無意識のうちに。知らず知らず。
 港区の旧区名。増上寺、東京タワーがある。
神明宮 芝大神宮。港区芝大門一丁目にある神社。
遥拝 ようはい。遠くへだたった所から拝むこと。

(うれ)しくも春葉(しゆんえふ)(かへ)つて()た。届書(とゞけしよ)凧市(たこいち)(かど)派出所(はしゆつじよ)()したと()ふ。巡査(じゆんさ)()ぶが(ごと)(それ)()つて警察署(けいさつしよ)(はし)つたとやら。
派出所(はしゆつじよ)! 巡査(じゆんさ)! と()(ことば)は、(きは)めて、(きは)めて不快(ふくわい)(ねん)(おこ)さしめた、(むし)苦痛(くつう)(かん)ぜしめた、自分(じぶん)怏々(あう/\)として、(たゞ)(かれ)(かた)るまゝに(うなづ)いてばかりゐたのである。
(あゞ)派出所(はしゆつじよ)料理屋(れうりや)巡査(じゆんさ)御酌(おしやく)になれば()いがなあ。」
春葉(しゆんえふ)(かほ)()れば、
(さう)でございます。」
(かれ)苦笑(にがわらひ)をした。
自分(じぶん)(はじ)消毒薬(せうどくやく)失望(しつばう)し、(つぎ)には立合医(たちあひい)失望(しつばう)し、(いま)警察署(けいさつしよ)(ます/\)失望(しつばう)した。これから檢疫医(けんえきい)出張(しゆつちやう)がある。これが失望(しつばう)(そこ)である。(この)(そこ)()くか、()かぬか、一髪(いつぱつ)(つな)(ところ)(いま)
自分(じぶん)(また)ヰスキイを()むだ。(その)一盃(いつぱい)春葉(しゆんえふ)(あた)へて、
「これは魔除(まよけ)だ。」
(かれ)感謝(かんしや)して()けて、迷惑(めいわく)して嚥込(のみこ)むだ。
(エム)()(これ)()つたやうだ。」
自分(じぶん)(また)()む。
[現代語訳] 嬉しくも春葉は帰ってきた。届書は凧市の角の派出所へだしたという。巡査は飛ぶがごとくそれをもって警察署へ走ったという。
 派出所や巡査という言葉は、極めて、極めて不快の念を起こし、むしろ苦痛を感じた。自分は晴れ晴れせず、ただ彼が語るままに頷いてばかりいたのである。
「ああ派出所が料理屋に、巡査が御酌になればいいのに。」
と春葉の顔を見れば、
「そうでございます。」
と彼は苦笑をした。
 自分は始め消毒薬で失望し、次には立合医で失望し、今や警察署でますます失望した。これから検疫医の出張がある。これが失望の底である。この底を抜くか、抜かないか。一髪のつなぐ所はここだ。
 自分はまたウィスキーを飲んだ。その一盃を春葉に与えて、
「これは魔除けだ。」
 彼は感謝して受けて、迷惑して嚥みこんだ。
「M氏はこれで酔ったようだ。」
と自分はまた飲んだ。
凧市 新撰東京名所図会 第41編(東陽堂、明治37年、1904年)では「牛込肴町」として
「當町は神樂阪の表通りにて有名なる緣日を有する毘沙門堂あれば最も繁華なり。料理店(●●●)には吉新(二番地)鳥料理(●●●)には川鐵(二十二番地)()は都壽司(十一番地)牛肉問屋(●●●●)は近江屋(三十二番地)菓子(●●)は風流軒(三十五番地)紅屋支店(二十九番)魚商(●●)はしづ岡(三十五番地)酒店(●●)は萬長(六番地)あり。飲食店の一斑を擧ふ此の如し。其の他呉服(●●)店には布袋屋(十一番地)美術袋物(●●●●)は坪屋(二十三番地)金物(●●)は林(十七番地)()は相馬屋(五番地)洋傘(●●)は車屋(二十七番地)銀行(●●)は尾張屋銀行支店(二十六番地)あり。若し又待合に御用あらば。吾妻屋(四十一番地)といへるがあり。何れも皆電話を有し居れぱ。御注文は隨意なり。もと二十六番地に凧一(●●)とて有名なる玩具屋ありしが、今はなし。」と書いてあります。凧市(たこいち)凧一(たこいち)と同じでしょう。凧一は交番に近く、尾張屋銀行と同一か似た場所にありました。

肴町 1912年、地籍台帳・地籍地図から

怏々 おうおう。心が満ち足りない。晴れ晴れしない。
 物事が進んで、最後に行きつくところ。限界。
一髪 ごくわずかのすき間。
迷惑 どうしてよいか迷うこと。とまどうこと。困ること。
M氏 立合医の医師です。少しのウィスキーで酔っぱらいました。

青葡萄⑤|尾崎紅葉

文学と神楽坂

西木(にしき)(おれ)葡萄酒(ぶだうしゆ)()つて()た。わざ/\()つて()たのだから、()まなくちや()かんよ。」
(あと)では()記臆(きおく)せぬが、「(おれ)深切(しんせつ)()になるから。」と()つたやうに(おぼ)える。(おも)へば、(まこと)因無(よしな)ことを()つた。(かれ)(ため)にと(おも)ひに(おも)つた葡萄酒(ぶだうしゆ)も、(これ)では(かれ)()つて(まさ)しく感情上(かんじやうじやう)大毒薬(だいどくやく)であつた。自分(じぶん)(あさ)ましくも我囗(わがくち)から(おん)()つたのである。
然無(さな)きだに(かれ)我家(わがいへ)厄介(やくかい)になる(うへ)に、()(やまひ)()て、迷惑(めいわく)をば()けるのを、無上(むじやう)気毒(きのどく)(おも)つてか、四五日前(にちまへ)から、()ろ/\と人々(ひと/”\)(すゝ)めたのに、()ほど不快(わるい)ことは()いと言張(いひは)つて、(やまひ)()してゐたのである。人目(ひとめ)(しの)むでは玄関(げんくわん)()してゐたのを、(いつも)午睡(ひるね)とばかり(おも)つてゐたが、其実(そのじつ)太義(たいぎ)であつたのであらう。けれども(やまひ)気色(けしき)(あら)はれなかつた。今日(けふ)午後(ひるすぎ)ばかりは、(つひ)()へかねて此間(このま)(たふ)れたのであるが、(かれ)(こゝろ)(うち)では、(これ)非常(ひじやう)気毒(きのどく)(おも)つてゐるのである。それさへあるに、自分(じぶん)一瓶(いちびん)葡萄酒(ぶだうしゆ)(おん)()つて、(われ)我口(わがくち)から深切(しんせつ)(てら)つた
自分(じぶん)平生(へいぜい)門生(もんせい)(むか)つては、(いさゝか)仮借(かしやく)()く、(その)()ふことは(きは)めて無愛相(ぶあいさう)で、(みづか)()ることは(もつと)高飛車(たかびしや)である。弟子(でし)()(おな)じものを、(げん)()ぐる(をし)ふるの(みち)でない、それは自分(じぶん)心得(こゝろえ)てゐる。心得(こゝろえ)てゐながら(かう)()るには(わけ)()くては(かな)はぬ。(わけ)()る、(おほ)いに()るのである。
     (四)
(およ)天下(てんか)小癪(こじやく)(さは)るものは、近来(ちかごろ)後進(かうしん)とか(とな)へる修行中(しゆぎやうちう)小説家(せうせつか)である。渠等(かれら)(れい)心得(こゝろえ)ぬことは、山猿(やまざる)よりも(はなはだ)しい。一面識(いちめんしき)()いのに卒然(ぬう)()(つう)て、懐中(ふところ)から(なに)()いたものを()して、御覧(ごらん)(ねが)ひたい、と()つて其日(そのひ)(かへ)る。(あと)から(ぢき)手紙(てがみ)寄来(よこ)して、(はや)添削(てんさく)(ねが)ひたい、添削(てんさく)出来(でき)たら、何処(どこ)へでも御世話(おせわ)(ねが)ひたい! (おどろ)かざるを()ぬ、(あき)れざるを()ぬ。
(また)一面識(いちめんしき)()いに、原稿(げんかう)(じやう)()へて、「方今(はうこん)文壇(ぶんだん)其人(そのひと)(おほ)しと(いへど)も、不肖(ふせう)(あふ)ぎて()(たの)べきもの、先生(せんせい)()いて、其誰(それたれ)()らむ。」と(まづ)(うれ)しがらせて、これほどに(おも)ふものを、添削(てんさく)して(くだ)すつたとて、万更(まんざら)(ばち)(あた)りますまい、と()つたやうな口説(くどき)()いた(すゑ)が、可成(なるべ)(はや)()()れて返送(へんさう)(ねが)ふとしてある。それで(なか)二銭(にせん)郵便切手(いうびんきつて)一枚(いちまい)()れてない。いやもう、(じつ)大詩人(だいしじん)ほど(すご)いものはない。
此等(これら)()()い。二度(にど)でも三度(さんど)でも斧正(ふせい)(かたじけ)なうして、(どう)(かう)世間(せけん)紹介(せうかい)までしてもらつて、覚束無(おぼつかな)独歩(ひとりあるき)出来(でき)るやうになると、さあその()無沙汰(ぶさた)! 近火(きんくわ)があらうが、それから十日(とをか)()たうが(かほ)()すでもない。(きびし)いのは、年始状(ねんしじやう)をさへ寄来(よこ)さぬのがある。(かれ)(みづから)()(ごと)詩人(しじん)であるなら、一時(ひとしきり)一日(いちにち)三度(さんど)(くゞ)つた十千万堂(とちまんだう)格子(かうし)此雨(このあめ)には如何(いか)()つらむ此月(このつき)には(かど)梅香(うめがか)如何(いか)(にほ)はむぐらゐは、(おもひ)(うか)べさうなものであるに。
(しか)(これ)()()い。現在(げんざい)立派(りつぱ)門下生(もんかせい)(しよう)して、草稿(さうかう)(もつ)()れば、(いか)御世話(おせわ)にもなつてゐながら、(かげ)(まは)ると、先生(せんせい)同輩(どうはい)(あつか)つて、其名(そのな)呼捨(よびすて)にしたり、「あれ」がなどヽ()代名詞(だいめいし)(もち)ゐたりして、其人物(そのじんぶつ)(へん)し、其文章(そのぶんしやう)(のゝし)るのがある。
これは自分(じぶん)(もん)往来(わうらい)する後進(かうしん)()のみではない、何方(いづかた)(さう)のやうである。(かんが)へて()れば、後進(かうしん)野面(のづら)で、薄情(はくじやう)で、不埒(ふらち)(かぎ)つたのでもなくて、(つま)(ところ)先生(せんせい)(とく)(うす)いからかも()れぬ。

[現代語訳] 「西木、おれが葡萄酒を買って来た。わざわざ買って来たのだから、飲まなくちゃいかんよ。」
 後ではよく記憶しないが、「おれの親切がゼロになるから。」と言ったように思える。思えば、まことにくだらないことを言った。彼のためにと考えに考えた葡萄酒も、これでは彼にとってはまさしく感情的には大毒薬であった。自分はあさましくも自分の口から恩を売ったのである。
 それでなくてさえ、彼は我が家の厄介者で、こんな病気にかかり、迷惑をかけるのは、この上なくきまりが悪いと思ったのか、四五日前から、寝ろ寝ろと人々は勧めたのに、さほど悪いことはないと言い張り、病を押してやっていたのである。人目を忍んで玄関で横になり、いつもの昼寝さと、思っていたが、その実、億劫だったのであろう。けれども病気は体調にあらわれなかった。今日の午後には、ついに堪えかねてこの部屋にたおれたが、彼は心のうちでは、これを非常にきまりが悪いと思っているのである。それなのに、自分は一瓶の葡萄酒で恩を売って、我と我が口で親切の押し売りをしたのである。
 自分はいつも門生に向かっては、いささかも仮借なく、その言うことには極めて無愛相で、立ち振る舞いについては最も高飛車である。弟子は子供と同じであり、一定よりも厳密すぎる場合、もはや教える道でないのである。それは自分も心得ている。心得ていながらそうするのには理由がなくてはいけない。理由がある、大いにあるのである。
     (四)
 およそ天下で生意気なものは、近頃、後輩と称する修行中の小説家である。彼らの礼儀については心がけていないことは、山猿よりもはなはだしい。一面識もないのに、ぬうと名刺を出して、懐中から何か書いたものを出して、どうかこれを読んでほしい、と言ってその日は帰り、後から直接、手紙をよこして、早く添削をお願いしたい、添削ができたら、どこそこの出版社に御世話を願いたい! 驚かざるを得ない、呆れざるを得ない。
 または一面識もないが、原稿に礼状を添えて、「現在の文壇では人が多いといえども、不肖の私が仰ぎて師と思うべき者は、先生をおいて、誰がいますでしょうか。」とまず嬉しがらせて、これほど思うものを、添削してくれるのもを、万更罰もあたりますまい、というような口説き文句を書いた末に、なるべく早く手を入れて返送をお願いしたいとしてある。それで中に二銭の郵便切手が一枚でもはいっていない。いやもう、実に大詩人ほどすごいものはない。
 これらはまだいい。二度でも三度でも筆を加えて、どうにか世間に紹介までしてもらって、おぼつかなくとも、ひとり歩きができるようになると、さあそれから長い間、訪問しない。火事が近くにあっても、それから十日たとうが顔を出すでもない。厳しいのは、年始状さえもよこさない者がいる。彼も自らいう詩人であるなら、一時は一日に三度も潜った十千万堂の格子、この雨にはどうして朽ち果てるのか、今月、門の梅香はいかに匂うのか、それぐらいは、頭に浮かぶそうなものだが。
 しかし これもまだいい。現在立派に門下生と称して、草稿も持参し、御世話にもなっていながら、陰へまわると、先生を同輩に扱い、その名前を呼捨てにしたり、「あれ」がなどという代名詞を用いたりして、その人物をおとしめし、その文章をののしる人がいる。
 これは自分の門に往来する後輩の士のみではない、どこでもそのようだ。考えて見れば、後輩が野面で、薄情で、不埒と限ったのでもなく、つまる所は先生の徳が薄いからかもしれない。
大詩人 野山嘉正氏の「近代小説の成立」(岩波書店、1997年)では「“大詩人”はもちろん軽侮の裏返し、ただし、ここには詩人ということばそのものへの何がしかの抵抗が含意されている。詩人ということばが漢詩人を指すばかりでなく、文明開化以後の新体詩人をも範囲に入れており、とりわけ大詩人よ出でよ、というかけ声が当代の批評家が共通して持ち合せていたものだったから、むしろ文学者気どりという意味合いにとる方がよい。」と書いています。

因無い よしない。由無い。そうするいわれがない。理由がない。
恩を売る 相手からの感謝や見返りなどを期待して恩を施す。
然無きだに さなきだに。それでなくてさえ。
恁く そんな。
無上に この上もなく。最もすぐれている。
気の毒 きのどく。相手の苦痛や困難なさまに同情して心を痛める。相手に迷惑をかけてすまなく思う。心を痛める。迷惑する。恥ずかしい。きまりの悪いこと。ここでは「相手に迷惑をかけてすまなく思うこと」でしょう。
推す 判断する。推し量る。
太義 おそらく「大儀」。疲れて気が進まないこと。
気色 顔などに現れた、心の内面の様子。快、不快の気持ち
衒う てらう。ことさらに才能や知識をひけらかす。
仮借 かしゃく。許す。見逃す。
高飛車 たかびしゃ。相手に対して高圧的な態度をとること。
過ぐる 「過ぐる」は通り過ぎる。「選る」は、すぐれたものを選び出す。
後進 学問・技芸などで先人のたどった道をあとから進む人。後輩
卒然 そつぜん。だしぬけに。にわかに。突然。
剌を通じる 名刺を出して取次ぎを頼む。
方今 ほうこん。まさに今。ただ今。このごろ。現今。
不肖 自分をへりくだっていう語。
恃む あてにする。
斧正 ふせい。他人の書いたものに遠慮なく筆を加えて正すこと。
辱める はずかしめる。恥ずかしい思いをさせる。恥をかかせる。
覚束無い おぼつかない。心もとない。頼りない。
無沙汰 ぶさた。久しくたよりや訪問をしないこと。しかるべき挨拶あいさつのないこと。ことわりなしに物事を行うこと。
格子 細長い部材を碁盤目に組み合わせたもの。戸・窓等に使用する。
朽ちる 腐ってぼろぼろになる。 名声などがうしなわれる。
つらむ …てしまっているだろう。
巨い いかい。意味は「大きな」。しかし「いかい」はどう書くのでしょうか。
野面 のづら。恥を知らない、あつかましい顔。鉄面皮。
不埒 ふらち。道理にはずれていて、けしからぬこと。ふとどき。

青葡萄④|尾崎紅葉

一散(いつさん)寺町通(てらまちどほり)()て、馴染(なじみ)西洋食料店(せいやうしよくれうてん)()つた。
店口(みせぐち)突立(つゝた)つて、
葡萄酒(ぶだうしゆ)()るか。」  と(きは)めて大束(おほたば) に、(きは)めて慳貧(けんどん)に、(われ)ながら山の手のお客(、、、、、、)であつた。愛嬌者(あいけうもの)亭主(ぢき)(わらひ)(ふく)むで、
今日(けふ)葡萄酒(ぶだうしゆ)? お(めづら)しいぢやございませんか。」
毎々(まい/\)這麼(こんな)(こと)()られて(たま)るものかと(おも)つた。
「まだお(やす)いのもございますが、旦那(だんな)召上(めしあが)りますのなら。」
(みづか)精撰(せいせん)(しよう)する一瓶(いちびん)差出(さしだ)して、
旦那(だんな)多度(たんと)召上(めしあが)らないから(こま)ります。奥様(おくさま)御一所(ごいつしよ)召上(めしあが)つて、一週間(しうかん)に一(ぼん)ぐらゐは御空(おあ)(くだ)さいまし。」
(かれ)抵掌(ししやう)して(わら)つた。
自分(じぶん)(こゝ)()ては()仇口(あだくち)()く、(かれ)調子(てうし)(あは)せて、(しば/\)這麼(こんな)(こと)()ふ。それを(けつ)して無礼(ぶれい)とは(おも)はぬのであるが、今夜(こんや)ばかりは(ちと)ばかり愚弄(ぐろう)されたと(おも)つた。
洒落(しやれ)()ふのも、()はれるのも、自分(じぶん)(だい)所好(すき)である。けれども(いま)(その)余裕(よゆう)()かつたから、脇も附けず(、、、、、)にその(びん)引摑(ひつつか)むで、
「ぢや(これ)()つて()く。」
     (三)
これから(かへ)途上(みち/\)(かんが)へたのである。(かれ)のは虎列拉(コレラ)などゝ可忌(いまは)しい()()(もの)ではない、類似(るゐじ)でも、疑似(ぎじ)でもない。畢竟(つまり)腸胃(ちやうゐ)加答児(カタル)(やゝ)(はげし)いのである。一命(いちめい)(かゝ)るやうなことは万々(ばん/”\)()い、(しか)し、あのまゝ飲食(いんしよく)()えて、明日(あした)にもなり、時候(じこう)でも(わる)かつたらば、(あるひ)変症(へんしやう)せぬとも(かぎ)らぬ。(よし)変症(へんしやう)せぬまでも、衰弱(すゐじやく)()てゝ………(あゝ)それも(はか)れぬ。一髪(いつぱつ)()今夜(こんや)(うち)! (この)葡萄酒(ぶだうしゆ)如何(どう)(をさ)めて、(すこ)しでも持直(もちなほ)させたい。(この)葡萄酒(ぶだうしゆ)で、と(びん)取直(とりなほ)して両手(りやうて)()つと、(あらた)(ささ)へた手頭(てさき)(かん)じた硝子(がらす)(つめ)たさ! それが(ほとん)秋葉(しうえふ)(みやく)()(とき)のやうに(おぼ)えた。何故(なにゆゑ)とも()らず、自分(じぶん)慌忙(あわたゞ)しく(びん)()(ところ)()れて()た。(みやく)()くて、いとゞ(つめた)かつた!! それに(おどろ)いて駈出(かけだ)した。
[現代語訳]わき目もふらず寺町通りへ出て、馴染の西洋食料店に立ち寄った。
店口につっ立って、
「葡萄酒はあるか」と極めて大ざっばに、極めて無遠慮にいった。我ながら山の手のお客だった。愛嬌者の亭主は直接、笑いを含んで、
「今日は葡萄酒ですか? お珍しいじゃございませんか。」
いつもいつもこんなことがあると、たまらないと思った。
「まだお安いのもございますが、旦那が召上がりますのなら。」
と自ら精撰と称する一瓶をさし出して、
「旦那はたんと召し上がらないから困ります。奥様とごいつしよに召し上がって、一週間に一本ぐらいはおあけくださいまし。」
と彼は手をたたいて笑った。
 自分はここに来てはよく無駄話をして、彼も調子をあわせて、しばしばこんなことをいう。それを決して無礼とは思わないのだが、今夜ばかりはちょっと愚弄されたと思った。
 洒落をいうのも、言われるのも、自分は大の好きである。けれども今はその余裕がなかったから、なにもいわす、その瓶をひっつかんで、
「じゃこれを持って行く。」
     (三)
 これから帰る途中で考えたのである。彼のはコレラなどという、いまいましい名前がつくものではない。類似でも、疑似でもない。つまり胃腸炎のやや激しいのである。一命にかかるようなことは万に一もない、しかし、あのまま飲食が絶えて、明日にもなり、時候でも悪かったらば、あるいは変症しないとも限らない。よしや変症しないまでも、衰弱し、はては………ああこれもわからない。一髪の機会は今夜だけだ! この葡萄酒をどうか飲んで、すこしでも持ち直したい。この葡萄酒で、と瓶を取り直して両手に持つと、新らに支えた手先に感じたガラスの冷たさ! それがほとんど秋葉の脈を診た時のように感じた。なぜかはわからない。自分はあわただしく瓶の他の場所に触れてみた。脈はなく、とても冷たかった!! それに驚いて駆け出した。

一散 いっさん。逸散。わき目もふらず一生懸命に走ること。
寺町通 横寺町と通町町の両方。
店口 みせぐち。店の間口(まぐち)
大束 おおたば。細かいことにこだわらないさま。おおまか。おおざっぱ。
慳貧 物欲が深くて、物惜しみをする。
愛嬌者 あいきょうもの。滑稽さ・かわいらしさがあって、皆に好かれている人や動物。
精撰 特によいものだけをえらび出すこと。えりぬき。よりぬき。
抵掌 手をたたく。
仇口 あだぐち。あだくち。徒口。むだばなし。余計な言葉。
愚弄 ぐろう。人をばかにしてからかう。
脇も附けず 脇付(わきづけ)は「手紙で、あて名の左下に書き添え、敬意を表す語」。「(敬語などは)なにもなく」でしょうか。
コレラ コレラ菌の経口感染による急性消化器感染症。日本には文政五年(1822年)初めて侵入。死亡率が高いためコロリともいった。
カタル ドイツ語はKatarrh。英語はCatarrh。粘膜細胞に炎症が起きて、多量の粘液を分泌する状態。現在の病名は「炎」に。「腸胃カタル」は「胃腸炎」
万々 ばんばん。どうしても。まんいち。けっして。万に一つも。
変症 へんしょう。病気の状態が変わること。
よしや 縦や。たとえ。かりに。
計る 時間や程度を調べる。心の中で推定する。
一髪 ごくわずかのすき間。
いとど いよいよ。一層。ますます。 ただでさえ~なのにさらに。そうでなくてさえ。

青葡萄③|尾崎紅葉

文学と神楽坂

      (二)
自分(じぶん)(かど)()ると駈出(かけだ)した。寺町(でらまち)往来(わうらい)納涼(すゞみ)士女(ひと)()るやうで、撞着(つきあた)りさうでならぬから、()岩戸(いはと)(ちやう)()れて、一直線(いつちよくせん)(みち)(いそ)いだ、気圧(きあつ)(ひく)く、()すやうな暑熱(あつさ)銀砂子(ぎんすなご)ほど(ほし)はあるが、渠泥(どぶどろ)引攪旋(ひつかきまは)したやうな(そら)(くら)さに、西北(にしきた)雲間(くもま)から薄紫(うすむらさき)電光(いなづま)(しきり)(ひらめ)いては、道端(みちばた)の「ゆであづき」の赤行燈(あかあんどん)(あたり)()える。
一町(いつちやう)ばかりの砂礫道(じやりみち)蹂躪(ふみにぢ)つて、黒白(あやめ)()かぬ芥坂(ごみざか)駈上(かけあが)つた。大信寺(だいしんじ)横町(よこちやう)(やみ)(さぐ)つて、倉皇(そゝくさ)長屋門(ながやもん)(はい)ると、はや跫音(あしおと)聞着(きゝつ)けて、春葉(しゆんえう)(しよく)()つて玄関(げんくわん)()つてゐた。
(かれ)(かほ)()ると(ひと)しく
西木(にしき)如何(どう)した。」  と(たづ)ねると、
(おく)四畳半(よでふはん)。」  と案内(あんない)した。
玄関側(げんくわんわき)八畳(はちでふ)()にははや蚊帳(かや)()つてある。これは祖父母(そふぼ)寝所(ねどころ)である。(しか)両箇(ふたり)とも(つぎ)()(ひたひ)(あつ)て、憂愁(いうしう)満面(まんめん)(あふ)れてゐた。
開放(あけはな)した(えん)(さき)から(すゞ)しい(かぜ)蚊帳(かや)(そよ)いで、(まくら)(かよ)(むし)()(きこ)える。平生(いつも)(には)正面(しやうめん)百日紅(さるすべり)(えだ)燈籠(とうろう)()るのが、今夜(こんや)(やみ)で、葉越(はごし)(ほし)(かず)()えるばかり。台所(だいどころ)には三分心(さんぶしん)玻璃燈(ランプ)黯澹(あんたん)として、(をんな)どもの(さゝや)(こゑ)がする。(さい)乳児(ちのみ)とは午後(ひるすぎ)から生家(さと)へ行つて、留守(るす)であるから、家内(かない)森閑(しんかん)として()()えたやう。祖父母(そふぼ)自分(じぶん)()ると、這出(はいいづ)るやうに左右(さいう)から詰寄(つめよ)せて、西木(にしき)大変(たいへん)だよ。如何(どう)だらうねえ。と(ひど)(あわ)てゝゐた。自分(じぶん)()ちながら、
心配(しんぱい)することは()いよ。」
言捨(いひす)てゝ、(えん)折曲(をりまが)つて、正面(つきあたり)一間(ひとま)(とびら)()けた。
取片附(とりかたづ)いた四畳半(よでふはん)片隅(かたすみ)に、(ちや)染返(そめかへ)した木綿(もめん)更紗(さらさ)二布(ふたの)蒲団(ぶとん)()いて、(すそ)(はう)手織(ており)柳条(じま)木綿(もめん)掻巻(かいまき)(たく)して、(それ)細削(ほそこ)けた(すね)()せて、有松絞(ありまつしぼり)浴衣(ゆかた)兵児帯(へこおび)()いて、背面(うしろむき)(まくら)(はづ)しかけて、気怠(けたる)さうに秋葉(しうえう)(よこた)はつてゐた。
[現代語訳]自分は門をでると駆け出した。寺町の往来には納涼の男女がいるようで、突き当たるのが怖く、そこで岩戸町のほうに曲がって、あとは一直線に道を急いだ。気圧は低く、蒸むような暑さで、銀砂子ほど星はあり、どぶの泥をひっかきまわしたような天の黒さがあった。西北の雲間から薄紫色の稲妻がしきりにひらめき、道端にある「ゆであづき」の赤行燈のあたりで消えていった。
 一町ばかりの砂利道を踏みにじって、真っ暗な芥坂を駈け上がった。大信寺横町の闇を探り、そそくさと長屋門をはいると、はや足音を聞きつけて、春葉はロウソクをとって玄関に待っていた。 彼の顔を見ると同じことだが、
「西木はどうした。」
 と尋ねると、
「奥の四畳半に。」
と案内した。 玄関わきの八畳の間には蚊帳が速くも釣ってある。これは祖父母の寝所である。しかし二人とも次の間で額をあつめて、憂愁は満面にあふれていた。
 開放した縁側から涼しい風が蚊帳にそよいで、枕に通う虫の音も聞こえる。いつもは庭の正面で百日紅の枝に灯籠を釣るのだがが、今夜は闇で、葉を越えて星の数が見えるだけ。台所には三分心のランプが暗く、女性たちのささやく声がする。妻と乳児とは午後すぎから生家へ行き、留守である。家の内部は森閑として火は消えたよう。祖父母は自分を見ると、はいだしてきて、左右から詰め寄り、西木が大変だよ。どうだろうねえ。とひどく慌てていた。自分は立ちながら、
「心配することはないよ。」
と言い捨てて、縁側を曲がって突き当たりの一間の扉を開けた。
 取り片付いた四畳半の片隅に、茶色に染め返した木綿更紗の大きな蒲団を敷き、すその方に手織で柳条の木綿の夜着を着て、細くこけたすねをのせて、有松絞の浴衣に兵児帯を巻いて、背面には枕をはずしかけて、けだるく秋葉は横になっていた。

寺町 通寺町と横寺町の2つを指しています。どちらも涼み客が多くなっていたのでしょう。
織る いろいろなものを組み合わせ、一つのものを作り上げる。
撞着 どうちゃく。つきあたること。ぶつかること。
つと ある動作をすばやく、または、いきなりする。さっと。急に。不意に。
岩戸町 右図を。
銀砂子 ぎんすなご。銀箔(ぎんぱく)を粉にしたもの。絵画や蒔絵(まきえ)などで使う。
ゆであづき ゆであずき。あずきをゆでてうす甘く味つけしたもの。煮あずき。
一町 約109メートル。
黒白 あやめ。文目。模様。色合い。
辨かぬ あやめもわかず。文目も分かず。暗くて物の区別もつかない。
芥坂 ごみ坂。五味坂がありますが、おそらく右図の赤矢印で示す坂を指しているのでしょう。
大信寺 新宿区横寺町43番地にある浄土宗の大信寺。本尊は阿弥陀如来像。号は金剛山如来院。
横町 おそらく寺の南東部から北西部にかけて横町があったのでしょう。
倉皇 そうこう。蒼惶。落ち着かない。あわてる。「そそくさ」は、落ち着かず、せわしなく振る舞う。あわただしい。「そそくさと帰る」
長屋門 長屋を左右に備えた門で、伝統的な門形式の一つ。尾崎紅葉の借り家(右図)も非常に簡単な長屋門でした。
秉る とる。手に持つ。しっかり持つ。
斉しく ひとしく。二つ以上の物事の間に、性質や状況で同一性がある。よく似ている。
奥の四畳半に 以上は右図の家の場所でわかります。これはこの地図から書きました
鳩める あつまる。あつめる。鳩首(きゅうしゅ)は、鳩が首を寄せ集めるように、人々が集まり額を寄せ合って相談すること。
憂愁 うれえ悲しむこと。気分が晴れず沈むこと。
 和風建築で、部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分。縁側。
百日紅 サルスベリ。ミソハギ科の落葉中高木。
燈籠 とうろう。灯籠。灯明を安置するための用具。
三分心 幅が1cm弱のランプの芯。
黯澹 暗澹。薄暗くはっきりしない。
 ひ。女の召使い。下女。はしため。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている。
染返す そめかえす。染め返す。色があせてきたものを、もとの色または別の色に染め直す。
木綿更紗 ポルトガル語のsaraçaから。木綿地に、人物・花・鳥獣などの模様を多色で染め出したもの。室町時代末にインドやジャワなどから南蛮船で運ばれて来て、日本でも生産したもの。
二布 ふたの。二幅。並幅の倍の幅。
手織 ており。手織り。動力を用いず手織り機などで布を織ること。
柳条 しま。縞。織物模様の一種。洋服地のストライプに当たる。筋とも。
掻巻 綿入れの夜着。
 ひだ。衣服の細い折り目。
細削ける 「こける」は動詞の連用形に付いて、その動作が盛んに長く続いて行われる意味を表す。「痩せこける」は「やせて肉が落ちる」「ひどくやせる」
有松絞 名古屋市緑区有松・鳴海付近で産する木綿の絞り染め。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

青葡萄②|尾崎紅葉

文学と神楽坂

(うち)から使(つかひ)のある(ごと)に、(こゝ)から上下(うへした)応対(おうたい)するのは(れい)であるのに、今夜(こんや)(かぎ)つて、(かれ)一寸(ちよつと)()ふ。(すこぶる)不審(ふしん)()へなかつた。
不審(ふしん)()へなかつたのは、他聞(たぶん)(はゞか)やうな内密(ないみつ)用事(ようじ)のあるべきを(しん)ぜぬからである。(さう)()(こと)()い、とは(おも)ひながら、如何(いか)なる(こと)()つて()くかも(はか)られぬ(ひと)()である、もしや凶事(きやうじ)などではあるまいか、と不図(ふと)(かんが)へると、何彼(なにか)()しに慌忙(あわたゞ)しく階子(はしご)()りて、上框(あがりがまち)()て、(ふたゝ)び、(なん)だ、と(たづ)ねた。
(かれ)(ます/\)(こゝろ)()りげ気色(けしき)で、
少々(せう/\)申上(まをしあ)げたい(こと)が………。」
自分(じぶん)背後(うしろ)居並(ゐなら)此家(このや)(もの)()かせたくない(ふう)()える。此時(このとき)自分(じぶん)(むね)(あや)しく(とゞろ)いたのである。さて(かれ)入口(いりくち)の一(しつ)(みちび)いて、()たび、(なん)だ、と(たづ)ねた。
()けて()たのか、(かれ)(しきり)(はず)(いき)(した)から、
西木(にしき)(くん)容躰(ようだい)(よろし)くございませんから、早速(さつそく)(かへ)りくださいまし。」
()(こゑ)(ふる)へてゐる。
[現代語訳]家から使いがあるたびに、ここから上下で応対するのは普通だが、今夜に限り、彼は「ちょっと」といった。これはすこぶる不審にたえない。 不審にたえなかったのは、他聞をはばかるような内密の用事はあるとは信じてはいないし、そんなものはない、とは思うが、いかなることが降って湧わくかもわからない。これが人の世だ、もしや凶事などではないが、とふと考える。なんとなく、あわただしくなってきて、階段をおりて、上がりがまちにでて、また「なんだ」と訊ねた。
 彼はますます意味があるような気色で、
「少々申しあげたい事が………。」
と自分の背後にいるこの家の沢山の人には聞かせたくないようだ。このとき自分の胸はあやしくとどろいたのである。そこで彼を入口の一室に導き、三回目の「なんだ」と尋ねた。 駆けてきたのか、彼はしきりにはずむ息の下から、
「西木君の容体がよろしくごさいませんから、早速お帰りくださいまし」
と言う声は震えていた。

不審 疑わしく思うこと。
他聞を憚る たぶんをはばかる。他人に聞かれては困る。世間に知られるとさしさわりがある。
内密 表ざたにしないこと。ないしょ。内々。
何かなしに なんとなく。理由はわからないが。
上框 玄関や勝手口の段差部分に取り付ける化粧材。右図を。
心ありげ こころありげ。意味有りげ。いみありげ。何か特別な意味がありそうな様子。言葉に表さない含みがありそうな様子
 人を表す名詞に付いて、複数の人を尊敬や親愛の意を込めて言い表す。多くの人。
異しく あやしく。怪しく。妖しく。不気味な感じがする。神秘的な感じがする。
過む はずむ。弾む。勢む。呼吸が激しくなる。荒くなる。
西木 西木秋葉。実際は「小栗風葉」氏のこと。

西木(にしき)病気(びやうき)? (なん)だ、(なん)だ、(なん)だ?」
自分(じぶん)渠等(かれら)草稿(さうかう)()()()たぬ(ところ)(いた)ると、一抹(いちまつ)朱棒(しゆばう)(くら)はしながら(つね)絶叫(ぜつけう)する、(その)絶叫(ぜつけう)(もつ)(かれ)(ことば)(なん)じた。
西木(にしき)()ふは、(わが)門下(もんか)秋葉(しうえふ)である。(かれ)は二週間(しうかん)(まへ)から胃弱(ゐじやく)()むで、服薬(ふくやく)をしてゐるのであるが、(この)二三日は(しよく)(つか)へるとて、(かゆ)()つて、坐臥(ごろ/\)してゐたのではないか。今日(けふ)午後(ひるすぎ)まで異常(ゐじやう)()かつたものが、脚気(かつけ)衝心(しようしん)や、脳充血(なうじうけつ)のやうに、(ひと)呼立(よびた)てるほどの劇変(げきへん)のあらう道理(だうり)()い。
容躰(ようだい)()くない」、などゝは、文字(もんじ)(じやう)意義(いぎ)(おい)てこそ(かる)いが、実際(じつさい)は、「死に(ひん)」と()ふやうな場合(ばあひ)(もち)ゐられる、容易(ようい)ならざる(ことば)である。(だれ)大病(たいびやう)(すぐ)()い、といふ電報(でんぱう)(ぶん)は、(おほ)臨終(りんじう)(のち)(もち)ゐられる気安(きやすめ)文句(もんく)()ぎぬ。容躰(ようだい)()くないとは、九死(むづかしい)()ふのを(ひと)()らせる隠語(いんご)である。
自分(じぶん)()解釈(かいしやく)したから、(ゆめ)かと(おどろ)いた。
[現代語訳]「西木の病気? 何だ、何だ、何だ?」
 自分が誰かの草稿を見て意に満たない場所を発見すると、朱筆で打撃を与えつつ、常に絶叫する。同じ絶叫をもって彼の言葉を非難した。
 西木という奴は、つまり、わが門下の秋葉だが、二週間も前から、胃弱でやすみ、服薬をしていた。この二、三日は食がつかえるといい、おかゆを食べて、ごろごろしていたのではないか。今日の昼すぎまで異常のなかったものが、脚気衝心や、脳充血のように、人を呼立るほどの劇変のある道理はない。
「容体がよくない」などとは、文字上の意義こそ軽いが、実際は「死に瀕する」というような場合に用いる、容易ではない言葉だ。「これこれが大病すぐ来い」という電報の文は、多く臨終が終わってから用いられる気安めの文句に過すぎない。容体がよくないとは、難しいというのを人に知せる隠語である。
 自分はそう解釈したから、夢かと驚いた。

一抹 いちまつ。絵筆のひとなすり、ひとはけの意味から。ほんのわずか。かすか。ここでは一回の意味でしょう。
朱棒 朱筆。朱墨用の筆。朱墨の書き入れ。
吃わす くらわす。食らわす。他人に打撃を与える。「吃」は「どもる」「食べる」の意味。
絶叫 ぜっきょう。出せるかぎりの声を出して叫ぶこと。
痞える つかえる。胸がふさがったような感じになる。
坐臥 ざが。座臥。坐臥。すわることとねること。
脚気衝心 かっけしょうしん。脚気に伴う心筋障害。心臓肥大と脈拍数増加が著しく、急性心不全を起こすこともある。
脳充血 脳の血流量が増加した状態。精神的興奮、頭部の加熱、飲酒などが原因の動脈性充血と心臓病、肺気腫、激しい咳嗽などが原因の静脈性鬱血がある。
瀕す ひんす。瀕する。よくない事態がすぐ間近にせまっている。さしせまる。
九死 きゅうし。ほとんど死を避けがたい危険な場合。「九死に一生を得る」とは危ういところで奇跡的に助かる。
隠語 いんご。特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語。例えば「たたき」は強盗、「さつ」は警察など。

如何(どふ)したのだ?」
(われ)ながら震声(ふるひごゑ)(するど)問詰(とひつ)めた。
(かれ)四辺(あたり)(みまは)て、(きは)めて小声(こごゑ)に、
()(しや)(はじ)めました!」
()(しや)! 秋葉(しうえう)(すで)()せり、と()くも(おな)じやうに、(ひし)(むね)(こた)へたが、(たちま)猛然(まうねん)として、(たと)へば、()()ひたる武者(むしや)(ゆう)()したるやうに、
(よし)()け! 医者(いしや)は?」
四辺(あたり)(しの)(こゑ)ながら、(かれ)(みゝ)には破鐘(われがね)(ごと)(ひゞ)いたであらう。(かれ)(はし)りかけた()棯向(ねぢむ)けて、
(ケー)()(まゐ)りました。」
自分(じぶん)(うなづ)くのを()るより(はや)()むで()つた。(ひと)(おどろ)かすまい、と自分(じぶん)(ことさら)従容(しようよう)として(せき)(かへ)ると、
客来(きやくらい)かね。」  と(かく)一人(ひとり)(たづ)ねた。
親類(しんるゐ)のものが()たので、()かずはなるまい。」
何気(なにげ)()(こた)へて、取散(とりちら)してある煙管(パイプ)や、手巾(ハンカチーフ)懐中物(くわいちうもの)などを手早(てばや)(をさ)めた。
()たのは親類(しんるゐ)のものか。天下(てんか)に「()」を親類(しんるゐ)()(ひと)があらうか、口実(こうじつ)()らうに、親類(しんるゐ)とは(いま)はしいことを()つたものである。無心(むしん)ながらも親類(しんるゐ)()つたは、這箇(この)()」を歓迎(くわんげい)せねばならぬ非運(ひうん)(てう)ではあるまいか、と(おも)はれた。
自分(じぶん)綽々(しやく/\)として身支度(みじたく)をした(つもり)であつたが、有繋(さすが)(つね)ならぬ(ところ)()えたか、一座(いちざ)(もの)()はずに()(そば)て、自分(じぶん)(こゝろ)()まむとする気色(けしき)であつた。
就中(なかにも)(つね)から(するど)(イー)()(まなこ)烱〻(ぎろ/\)(きらめ)た。()へば(かなら)(こた)へると()(エチ)()(した)さへ(うご)かなかつた。渠等(かれら)(なに)()(うたが)つたに相違(さうゐ)ないのである。
[現代語訳]「どうしたのだ?」
と我ながら声は震えてるが、するどく問い詰めた。
 彼はあたりを見回して、極めて小声で、
「吐瀉を始めました!」
 吐瀉とは嘔吐と下痢だ! 秋葉は既に死亡した、と聞くのも同等で、ひしひしと胸にこたえた。だが、たちまち猛然として、まるで傷を負った武者が勇気をだしたように、
「よし、行け! 医者は?」
 あたりを忍ぶ声だったが、彼の耳には割れ鐘のごとく響いたであろう。彼は走りかけた身をねじむけて、
「K氏がまいりました。」
と自分でうなづくのを見るより速く飛んで行った。人を驚かすまい、と自分はことさらに落ち着いて席に帰ったが、
「客が来たのかね。」
と客の一人は訊ねた。
「親類のものがきたので、行かずはなるまい。」
と何気なく答えて、あちこちにあったパイプや、ハンカチーフ、懐中物などを手早く収めた。
 来たのは親類のものなどあるがない。「死」は親類の人ではない。口実である。しかし、親類とは忌まわしいことを言ったものである。気が利かないけれど、親類と言ったのは、この「死」を歓迎せねばならない非運のきざしではあるまいか、と思ったのだ。
 自分はゆとりはあって身支度をしたつもりだったが、さすがに常ならぬところが見えたのか、一座は物もいわずに目をそばめて、自分の心を読もうとする気色があった。
 なかでも常から鋭いE氏の眼はぎろぎろときらめいた。言えば必ず答えるというH氏の舌さえ動かなかつた。彼らは何となく疑ったに相違ないのである。

眗す 見回す・見廻す。まわりをぐるっと見る。
吐瀉 はいて、くだすこと。嘔吐と下痢。
犇と 外部からの働きかけが身や心に強く迫ったり感じたりする様子。 寒さがひしと身にこたえる。寂しさがひしと胸にせまる。
徹える 胸にこたえる。心に強く感じる。身にしみる。
破鐘 われがね。ひびの入った釣鐘。その音から、濁った太い大声。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
従容 しょうよう。ゆったりと落ち着いているさま
綽々 しゃくしゃく。落ち着いてゆとりがあるさま。
側める そばめる。横へ向ける。横目で見る。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
烱烱 けいけい。炯炯。(目が)鋭く光る。
晃く きらめく。煌めく。光り輝く。きらきらする。

須磨子の一生|坂本紅蓮洞

文学と神楽坂

 秋田雨雀氏と仲木貞一氏の『恋の哀史 須磨子の一生』(日本評論社、大正8年)という本に坂本紅蓮洞氏が松井須磨子氏に対する追悼文を書いています。この文章を読むと紅蓮洞氏って普通で正常な人にしか見えません。

並び大名

坂本紅蓮洞

 松井(まつゐ)須磨子(すまこ)()は、なみなみならぬ()である。それだけ、(ひと)をして感動(かんどう)せしめたことも(だい)である。(しか)し、この感動(かんどう)といふもの、(あま)りに、よくその(ひと)()り、(あま)りに(ちか)く、その(ひと)(せつ)して()たものには、その當時(たうじ)にあつては、(たゞ)、あつけに()らるゝばかり、所謂(いはゆる)茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)(なに)も、それに(たい)して、いふことが出来(でき)ない。(わたし)は、(いま)、この境遇(きやうぐう)()る。(なに)()けない。もう、(すこ)しく時日(じじつ)でも經過(けいぐわ)したら、(あるひ)は、感想(かんさう)なり、(なん)なりか、いへもし、また、()けるかも()れない。(いま)(ところ)(なに)出来(でき)ない。須磨子(すまこ)女優(ぢよいう)であつただけ、芝居(しばゐ)のことを、(れい)()くが、この(しよ)(たい)しては、多勢(おほぜい)(ひと)が、それぞれ感想(かんさう)()くさうで、(わたし)も、それ()(ひと)(うち)(まじつ)(はたら)(やく)()られた以上(いじやう)、せめてのことに、申上(まをしあげ)ます(くらゐ)(かく)のところを(つと)めて、一言(ひとこと)二言(ふたこと)科白(セリフ)をいひたいのではあるが、(いま)もいつた(とほ)りのことで、トチるはおろかなこと、()うかすると舞臺(ぶたい)をも破壊(ぶちこわ)(かね)ない。そこは、遠慮(えんりよ)し、並大名(ならびだいみやう)の一(ゐん)として、(だま)つて舞臺(ぶたい)(うへ)に、(かを)(つら)ぬる(てい)(やく)(つと)める。新劇(しんげき)(ほう)では、かういふ(やく)のことを、タチンボウといふ。よく(ひと)は、芝居(しばゐ)のことを綜合(さうがふ)藝術(けいじゆつ)であるといふが、假令(たとへ)並大名(ならびだいみやう)にせよ、タチンボウにせよ、やはり、この(しよ)(おい)て、その一()分子(ぶんし)たるところの(やく)(つと)むるのである。(みづか)新劇(しんげき)彌次(やじ)將軍(しやうぐん)(もつ)(にん)じ、()から女優(ぢよいう)應援(おうゑん)(たい)長官(ちやうくわん)(もつ)(もく)せらるゝ英雄(えいゆう)(わたし)といへど、この場合(ばあひ)心緒(しんちよ)(みだ)れて(いと)(ごと)しどころか、茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)せる(うえ)からは、かういふ舞臺(ぶたい)はこれより以上(いじよう)(やく)(つと)まらない。並大名(ならびだいみやう)のタチンボウたる端役(はやく)(あまん)じ、(かつ)、それが綜合(さうがふ)の一()分子(ぶんし)たるを(よろこ)び、こゝに、(みづか)ら、その()(しよ)するの光榮(くわうえい)(にな)ふのである。

並び大名 歌舞伎で、大名の扮装をして、ただ並んでいるだけの役や、扮した俳優。人数に加わっているだけで、あまり重要ではない人。
なみなみならぬ。非常に。
茫然自失 ぼうぜんじしつ。あっけにとられ、また、あきれはて、我を忘れてしまうこと。
時日 じじつ。日数。月日。あるいは、日数と時間。
 物事の仕方。流儀。決まり。規則。法則。
科白 演劇の舞台で俳優がいう言葉。
トチる 俳優が台詞や演技をまちがえる。とちめんぼうの「とち」を活用させたもの
 てい。種類。程度。中国で近世の口語に用いられた「…の」の意の助辞から出た語。現代中国語では「的」に相当する。
新劇 日本で明治以降に展開した新しい演劇ジャンル。以前の能・狂言、歌舞伎などの伝統演劇の「旧劇」に対する呼称。近代・現代演劇運動とほぼ同義に用いられる。
タチンボウ 長い時間ずっと立ちつづけている人。
心緒 しんしょ。思いのはし。心の動き。しんちょ。
紊る みだる。乱る。秩序を乱す。整っていた物をばらばらにする。

柴田宵曲|漱石覚え書

文学と神楽坂

 柴田宵曲(しょうきょく)は、大正-昭和時代の俳人で、昭和10年、俳誌「こだま」を主宰し、また俳句に関する随筆や考証物をまとめています。著作に「古句を観る」など。これは随筆をまとめた『漱石覚え書』のうち「神楽坂」の全てです。
 柴田氏の言によれば、「『漱石覚え書』は、古書通信誌の昭和24年10月号から37年12月号にかけて、『藻塩草』の題名のもとに書かれた随筆のうちから、抽出したものであったことは、その『はしがき』にも明らかにせられるごとくである。」したがって「神楽坂」は第二次世界大戦後で、間もない時期に書かれたものでしょう。

     神楽坂

 震災を免れたため、下町か復興するまでの間、特に繁華を示した神楽坂も、今度の戦火で全く亡びてしまった。両側の店の明るい灯影の中に夜店が立って、幅の狭い道をぞろぞろと人の往来するあの町も、何時になったら旧に復するか、今になって考えるといろいろ連想に上ることが多い。
 横寺町の先生と云われた紅葉の家は、神楽坂を上って肴町電車通を突切ってから、左へ曲ったあたりに在ったらしい。あの辺で育った友人などは、子供の時分に太弓場で弓を引く紅葉を見かけたことがあるそうである。紅葉中心の世界が神楽坂に及ぶのは当然であろう。
紅白毒饅頭」に出て来る縁日の描写は、毘沙門の縁日の夜に出かけて行って、ノートに書止めた材料を使ったのだという。御供についた泉鏡花が玄関番になって間も無い頃で、紅葉もまだ二十五歳の若い盛であった。
 鏡花の書いたものに神楽坂が現れるのは珍しくない。彼が半生を回顧すれば、はじめて文学の上に立脚地を与えられた横寺町時代の事が、何よりもなつかしく浮んで来る筈だからである。「春著」という随筆には、紅葉を中心とした当時の世界――未だ志を得ざる門下の士の生活が浮彫のように描かれている。その中に一人混っていた後藤宙外、この人の「明治文壇回顧録」の中にも神楽坂附近の消息に触れたものが屡々ある。
 漱石の小説は「三四郎」を最後として本郷から離れた観がある。これは早稲田南町に移った結果であるが、彼としては自分の生れた町の近くに帰ったわけであった。「それから」の中で深夜神楽坂にさしかゝって強い地震を感ずる一条は、彼自身の経験であることが日記によって証せられる。
 主人公の書生が「今夜は寅毘沙ですぜ」という寅毘沙なるものは紅葉が「紅白毒饅頭」に用いた毘沙門の縁日なので、常でも人通りの多い神楽坂が、この夜は一層のを呈するのである。
「早稲田派の忘年会や神楽坂」という子規の句は明治三十一年の作である。抱月宙外筑水梁川等が「早稲田文学」に筆陣を張った頃であろう。「藁店や寄席の帰りの冬の月 五城」という句の藁店は昔の寄席で、そのあとが後に牛込演芸館になった。この演芸館の事は「それから」の書生も口にしているが、今日ではちょっと説明のしようが無い。文学に現れたところによって、過去の歴史を辿る外はあるまいと思う。


横寺町 下図を。

横寺町

横寺町

肴町 現在は神楽坂5丁目です。
電車通 現在は大久保通り。
紅白毒饅頭 モデルは蓮門(れんもん)教。明治初期に成立した新宗教。神道大成教に属する。教祖は島村みつ。コレラや伝染病が毎年のように流行する時に、この教団は驚異的に発展し、明治23年の信徒数は公称90万人。翌年、尾崎紅葉の『読売新聞』「紅白毒饅頭」などの批判を受け、また既成宗教から「邪教」として集中的な攻撃を受け、明治末には急激に衰退し、教団も分裂し、第二次世界大戦時には消滅した。
明治文壇回顧録 後藤宙外氏が描く『明治文壇回顧録』は、昭和11年に岡倉書房から出版されたもので、尾崎紅葉氏や島村抱月氏の回想は特に生彩が高いといわれています。氏が初めて紅葉氏と会った場所は横寺町で、ここにその一端を載せます。

 明治三十年五月頃、「作家苦心談」の筆記のために、牛込横寺町の尾崎紅葉氏を訪うて、初めて面晤することを得たのである。私は明治二十年頃からの氏の作は大抵讀んで居り、才人であり、好男子であることも聞いて居りましたが、親しく其の人に接して話を聞いたのは、この時が初めてであつた。かねて想像したよりは、強健さうな體格で、身の長も尋常の人よりは高い方であり、態度も何となく男らしく、所謂キビ/\したサツパリとした男ぶりに見えた。文人によくある色の生ツちろい、 弱々とした優男ではなかつた。眼のぱツちりした明るい顔で、活氣にみちて居られた。これは後に門下の某君から聞いたことだが、徴兵檢査の際には砲兵科の甲種合格であつたと云ふことだ。これを以て青年時代の同氏の體格と健康との程度が察しられる。

屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われる様子。たびたび。
早稲田南町 下図を。この場所は現在、漱石山房記念館に。

強い地震 夏目漱石作の「それから」「八の一」で強い地震が出てきます。

 神楽坂かぐらざかへかゝると、ひつそりとしたみちが左右の二階家にかいやはさまれて、細長ほそながまへふさいでゐた。中途迄のぼつてたら、それが急に鳴りした。代助はかぜむねに当る事と思つて、立ちまつてくらのきを見上げながら、屋根からそらをぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。と障子と硝子がらすおとが、見る/\はげしくなつて、あゝ地震だと気がいた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでゐた。其時代助は左右の二階さかうづむべく、双方から倒れてる様に感じた。すると、突然右側みぎかはくゞをがらりとけて、小供をいた一人ひとりの男が、地震だ/\、大きな地震だと云つてて来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
 うちいたら、婆さんも門野かどのも大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人ふたりとも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置しやうかと思案して見た。然し分別をらす迄には至らなかつた。ちゝあにの近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡をめた。さうしてねむりに入つた。

寅毘沙 「それから」の「八の六」に寅毘沙や演芸館が出てきます。

代助は書斎に閉じ籠こもって一日考えに沈んでいた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些ちと御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙(とらびしゃ)ですぜ演芸館支那人(ちゃん)の留学生が芝居を()ってます。どんな事を演る積りですか、行って御覧なすったらどうです。支那人てえ奴は、臆面(おくめん)がないから、何でも()る気だから呑気(のんき)なものだ。……」と一人で喋舌(しゃべ)った。

 しん。にぎわう。
五城 作は数藤五城氏でしょう。
説明のしようが無い 寄席や舞台が中心でした。また私立東京俳優学校もここで開校しています。この場所は牛込館になりました。



[硝子戸]

東京大空襲と神楽坂1

文学と神楽坂

 第二次世界大戦の東京大空襲で、神楽坂の被害は桃色の範囲で起こり、逆に白色には大きな被害はありませんでした。これは日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)です。神楽坂は焼け野原になり、焼けていない建物は三菱銀行と津久戸小学校だけでした。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

 さらに「新宿区地図集」(新宿区教育委員会、昭和54年)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(新宿区、平成4年)で、黄色や桃色は被害はあり、白色はなかった場所です。

新宿区地図集新宿区平和都市宣言5周年記念誌
「新宿区地図集」(左図)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(右図)

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二.十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

高橋春人「ほろびの街」PHPエディータ―ズ・クループ。2019年

『燃える牛込台地』(作品②)。これは昭和二十年の三月十日の空襲のとき、外濠の土手から向うが燃えるのを描いたものです。この夜、東京は大空襲を受けて、まず下町のほとんどがやられた。この付近も、靖国神社方面から富士見町、お濠を越えて市ヶ谷田町…という経路で被爆していったんです。私はそのとき富士見町にいて、最初は状況判断ができず、後で考えれば焼夷弾の落とされた弾帯の道筋にそって逃げていたんです。女房と一緒で、やっと靖国神社の裏手を通って新見附方面の土手公園に出てきたら、向いの牛込台地が燃えていてね。あのあたりの屋敷町には立木が多くて、火の手が梢から梢と、走るように燃え移っていくんです。
 明け方、戻ってみると、家は燃え落ちていて、自分の部屋にぎっしり積んであった本や資料がそのままの形でまだ炭火のように真っ赤に燃えていた。その後、警察病院の方まで歩いてきたら、顔が焼けただれた高射砲隊の兵隊たち(後楽園球場に陣地があった)が、トラックで病院に運びこまれてきて。大通りには消防車が焼けてころがっていて………。神楽坂の大通りには、有名な料亭の金蒔絵の食器などが山積みにされ「お好きな品をさしあげます」という立て札が立っていたけれど、持っていく人は誰もいなかった。私はその三日後に、吉祥寺の成蹊大学にあった陸軍第一航空軍司令部に応召、そこで終戦になって帰ってきたわけです。

 水野正雄氏は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「神楽坂を語る」で

(復員のため)二十二年四月に名古屋に上陸しました。上陸したら東京の空爆した場所の地図等が出ていて、神楽坂は全滅でした。名古屋から東海道線の夜行に乗って、当時六円のおにぎりを買いました。もらったお金は三百円。そのうち百五十円を名古屋出るときにもらいました。飯田橋の改札で復員切符を見せて渡そうと思ったら、鉄道員が「お家ありますか?」と聞くので、「多分ありません」と答えると、切符を持って行けばどこまでも行けるからと切符を返してくれました。六年経って帰ってきたが、もう何もない。毘沙門の隣の三菱銀行が半分傾いてあるだけで、他は何もありませんでした。この付近の人たちは道の両側に各自の防空壕を掘って暮らしていました。小さい防空壕がいっぱいあったんです。それから津久戸小学校が少し残っていました。あと建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました。助六のおやじさんから閧いて後からわかったことだけど、外堀飯川堀の方が半分埋まっていて、そこに材木屋だとか神楽坂警察署を建てました。屋根だけが出ているような状態で神楽坂警察署ができていました。神楽坂警察は屋根が低くて、麹町方面から来た火事を逃れて助かっていました。戦後の商業地には闇屋が出てきていたが、警察が健在なので、みんな捕まっちゃって神楽坂の発展がかえって遅くなってしまったそうです。

 戦災は神楽坂警察署にはなかったようです。神楽河岸は残り、最初の図でも戦災はなかったようです。

 神楽坂出身の竹田真砂子氏は「綱子の夏」(小説新潮、1998年7月号、日本文藝家協会「現代の小説1998」徳間書店、1998)で

 一ヶ月後、ともかくも様子を見て来ると、秀樹を母親に頂け、リュックサックに、とうもろこしとトマトとひまわりの種をつめて、綱子は上京した。
 満員の汽車を乗り継ぎ、以前なら四時間たらずのところを、六時間かけて到着すると、神楽坂は一面、焼野原になっていた。
 坂の両側に軒を連ねていた商店も、瀟洒(しょうしゃ)(たたずま)いを見せていた料亭の、洗い出しの板塀もない。横丁も小路も瓦礫(がれき)に埋もれて方角さえ分らず、自分の家がどの辺に建っていたのか、見当もつかなかった。
 わずかに、焼け焦げたコンクリートの肌を哂して形を(とど)めている小学校と銀行の位置を確かめて、この辺と思う所に行ってみる。と、思いがけないことに、その一画には焼け木杭(ぼっくい)が何本か打ちこんであり、あり合わせの板きれに書き記した『一新松所有地』の札が立っていた。綱子は、ぼんやりと、その木札を眺め、重 いリュックサックを背負ったまま、しばらくそこに佇んでいた。
「あれぇ、お綱姐さんじゃありませんか」
 突然、後から声をかけられた。綱子が振向くと、顔見知りの男が立っていた。
「やだ、鶴さんじゃないの。まあ、あなた、生きててくれたのね」
 声が、どんどん元気になった。
 鶴さんは、花柳界の事務局である見番(けんばん)で働いていた男衆(おとこし)だった。女房子は疎開させたが、自分は見番の管理室に寝泊りしていて空襲にあい、九死に一生を得たのだという。
「よくぞご無事で」
 涙ぐむ綱子に、改めて鶴さんは頭をさげ、
「姐さんもご無事でなによりでした」
 大粒の涙をこぼした。

洗い出し アライダシ。板の表面をこすり、洗って木目(もくめ)を浮き出させたもの。
男衆 おとこしゅう。おとこしゅ。おとこし。男の人たち。男の奉公人。

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代


 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンションに。


若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。
                        若宮会前会長 細川八郎

現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。馬場邸
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」

文壇昔ばなし③|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 谷崎潤一郎氏は耽美(たんび)派の作家でした。ここに出てくる作家の生まれた年は泉鏡花氏が明治6年、里見弴氏は明治11年、谷崎潤一郎氏は明治19年、芥川龍之介氏は明治25年でした。「文壇昔ばなし」は昭和34年、73歳で発表、『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、昭和58年)第21巻に出ています。

             ○
京橋大根河岸あたりだつたと思ふ、鏡花のひいきにしてゐる鳥屋があつて、鏡花里見芥川、それにと四人で鳥鍋を突ツついたことがあつた。健啖で、物を食ふ速力が非常に速い私は、大勢で鍋を圍んだりする時、まだよく煮え切らないうちに傍から傍から喰べてしまふ癖があるのだが、衛生家で用心深い鏡花はそれと反封に、十分によく煮えたものでないと箸をつけない。従つて鏡花と私が鍋を圍むと、私が皆喰べてしまひ、鏡花は喰べる暇がない。たびたびその手を食はされた經驗を持つてゐる鏡花は、だから豫め警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に化切りを置くことにしてゐるのだが、私は話に身が入ると、ついうつかりと仕切りを越えて平げてしまふ。「あツ、君それは」と、鏡花が氣がついた時分にはもう遲い。その時の鏡花は何とも云へない困つた情ない顏をする。私は濟まなくもあるが、その顏つきが又をかしくて溜らないので、時にはわざと意地惡をして喰べてしまふこともあつた。その鳥屋でもさうであつたが、芥川は鏡花が抱き胡坐をしてゐるのに眼をつけて、「抱き胡坐をする江戸ツ兒なんてあるもんぢやないな」と云つてゐた。人も知る通り鏡花は金澤人だけれども、平素江戸ツ兒がつてゐた人である。鏡花の大作家であることについては、芥川も私も無諭異存はなかつたけれども、江戸ツ兒と云ふ感じには遠い人であることにも、二人とも異論はなかつた。

京橋 京橋区。現在は中央区。
大根河岸 京橋から紺屋橋にかけて以前の京橋川河岸。神田多町の青物市場と並び称せられる大きな青物市場があった。図を。

健啖 けんたん。好き嫌いなくよく食べること。食欲が旺盛なこと。
豫め あらかじめ。予め。物事の始まる前に、ある事をしておく。前もって。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。現代語では、改まったときや手紙文などで使われる場合が多い。
意地悪 いじわる。わざと人を困らせたり、つらく当たったりすること。
抱き胡坐 だきあぐら。全く分かりません。あぐらをして、だっこをしているのでしょうか。それとも、火鉢を抱いているのでしょうか。泉鏡花のあぐらの写真を出しておきます。
泉鏡花。あぐらの写真。江戸ツ兒 江戸っ子。江戸で生まれ江戸で育った人。父祖以来東京、特にその下町に住んでいる人。さっぱりとした気風や、歯切れがよいが、けんかっぱやいところなどが特徴。
がっている …がる。そのように思う。そのように感じる。「うれしがる」。そのように振る舞う。そのようなふりをする。ぶる。「強がる」「痛がる」
平素 ふだん。つね日ごろ。

松井須磨子-芸術座盛衰記|川村花菱

文学と神楽坂

 川村花菱氏の「松井須磨子ー芸術座盛衰記」(青蛙房、平成18年刊)は『随筆松井須磨子』(昭和43年刊)の新装版です。これは川村花菱氏が島村抱月氏と松井須磨子氏らと一緒になって芸術倶楽部で夜食を取る場面です。ここでも鶏料理店の川鉄が出ています。
 川村花菱氏は芸術座の脚本部員兼興行主事として活躍した人で、のちに新派の脚本、演出を担当し、若い俳優の育成に力を注ぎました。
 松井氏の発言、続いて島村氏の発言と思います。

「あら、皆さん、まだごはん前、私ァとっくに食べちゃったけど……」
「なにか、あったかいものはないかな」
「川村さん、あんたが好きなのよ、ねえ、そら、あの、親子……あれなら私もたべたいわ! あれ、どこの親子? 私、あんたが食べてるところ見て、一度たべたいなァと思ってたのよ! あれ、どこから取るの?」
 それは、近所の鳥屋の“川鉄”という家のもので、ほかの親子丼とちがった、まったく独特の味を持っているものだった。
「川鉄の親子ですよ」
「川鉄? じゃ、言うわ……先生あがる?」
「たべます]
「と、一ツ、ニツ、三ツ……私もたべるから四ツね……四ツ言うわ」
 須磨子は、袂をふらふらさせて駈けて行った。
 それ以来、私が芸術座へ行く毎に、必ずこの川鉄の親子が出た。おそらく芸術座で、行くたびに食事の出るのは、私ひとりだったと思う。いや、私のほかにもうひとりの客があった。それは、阪本()蓮洞(れんどう)という人で、紅蓮洞は島村先生に対して、
「おい、島村……」
と、呼びつけにした。
「ぐれさんが来た、親子を御馳走しなさい」
 先生は快くいつもそう言われた。島村先生に対して、「おい、島村」と呼びすてにするのは、紅蓮洞だけだと言ったが、芸術座の中に、
「おい、島村……」
と言った者がもうひとりある。それは、倶楽部に厄介になっていた役者だが、なにかのことで須磨子と争い、そのさばきが不当であるのに激昂して、先生の(へや)に飛び込んで、
「おい、島村……」
と言っただけで、その場で首になってしまった。

 坂本紅蓮洞氏の生まれた年は慶応2年9月で、島村抱月氏は明治4年1月10日です。西暦では1866年対1871年なので、坂本氏のほうが4歳半ほど年長です。坂本紅蓮洞氏はもともと数学者で、「数学の天才」と呼ばれていましたが、教師はうまくいかず、雑誌記者、その後、与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、文学者と交流。これで奇癖の逸話も多く、文壇の名物男として有名でした。新詩社は詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月11日創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。

織田一磨|武蔵野の記録

文学と神楽坂

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。

       一四 牛込神樂坂の夜景
 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。
 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

牛込、小石川、麹町 代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。
夜更 よふけ。深夜。
大戸 おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。
散乱 さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。
五色 5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。
下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。
 おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影
流露 気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。
浪花 大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。
東山 ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。
都大路 みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。
屋台 やたい。屋形のついた移動できる台。
牛飯 ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。
遊人 ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。
お店者 おたなもの。商家の奉公人。
湯歸り 風呂からの帰り。
東都名所 国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。
傳坊肌 でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。
舊態 きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。
電燈 でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。

 卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。
 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡赤城神社築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。

卑賤 ひせん。地位・身分が低い。人としての品位が低い。
都ずし 江戸前鮨(寿司)は握り寿司を中心にした江戸郷土料理。古くは「江戸ずし」「東京ずし」とも。新鮮な魚介類を材料とした寿司職人が作る寿司。
遊野郎 ゆうやろう。酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者
お神樂藝者 おかぐらげいしゃ。牛込神楽坂に住む芸妓。
廃堂 廃墟と化した神仏を祭る建物。
軒燈 けんとう。家の軒先につけるあかり
画趣 がしゅ。絵の題材になるようなよい風景
早稲田矢来 地図を参照。
俗趣味 低俗な趣味。俗っぽいようす
穴八幡、赤城神社、築土八幡 地図を参照。

穴八幡、赤城神社、築土八幡

江戸川 神田川中流の呼称。ここでは文京区水道・関口の江戸川橋の辺り
石切橋 神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。

春着|泉鏡花①

文学と神楽坂

 大正13年、50歳の泉鏡花氏は、紅葉氏の弟子になったばかりの時を思い出しながら「春着」を書いています。登場人物は全員20歳内外で、若い時期です。

     (はる)()

大正十三年一月
あらたま春着はるぎきつれてひつれて

 少年行せうねんかうまへがきがあつたとおもふ……こゝに拜借はいしやくをしたのは、紅葉先生こうえふせんせい俳句はいくである。ところが、そのつれてとある春着はるぎがおなじく先生せんせい通帳おちやうめん拜借はいしやくによつて出來できたのだからめうで、そこがはなしである。さきに秋冷しうれい相催あひもよほし、次第しだい朝夕あさゆふさむさとり、やがてくれちかづくと、横寺町よこでらまち二階にかいあたつて、座敷ざしきあかるい、大火鉢おほひばちあたゝかい、鐵瓶てつびんたぎつたとき見計みはからつて、お弟子でしたちが順々じゆん/\、かくふそれがしも、もとよりで、襟垢えりあかひざぬけ布子ぬのこれんかしこまる。「先生せんせい小清潔こざつぱりとまゐりませんでも、せめて縞柄しまがらのわかりますのを、新年しんねん一枚いちまいぞんじます……おそりますが、帳面ちやうめんを。」「また濱野屋はまのやか。」神樂坂かぐらざかには、ほか布袋屋ほていやふ――いまもあらう――呉服屋ごふくやがあつたが、濱野屋はまのやはう主人しゆじんが、でつぷりとふとつて、莞爾々々にこ/\してて、布袋ほてい呼稱よびながあつた。

[現代語訳]新春の着物
[俳句] 新春で新人たちは一緒に着物も着、酒も呑み
「少年行」と前書きがあったと思うが……ここで拝借したのは、尾崎紅葉先生の俳句である。ところが、おなじく新春の着物も先生の通帳の金を拝借してできたのだから妙であり、いきさつもある。秋になって肌に感じられる冷ややかさになり、それが次第に朝夕の寒さになり、やがて暮も近づくと、横寺町の紅葉先生の二階に日があたり、座敷が明るくなり、大火鉢も暖かく、鉄瓶の湯は沸騰する。そんな時を見計らって、弟子たちが順々に、こう言うのである。それがしも、襟には垢があり、穴が膝のところに開いている粗末な防寒衣をまとい、正座して、「先生、小清潔とはいえませんが、せめて縞柄だとわかるものを、新年に一枚ぐらい作りたいのです。おそれいりますが、お金を貸してください」。「また浜野屋か」。神楽坂には他に布袋屋という――いまもあるはずだが――呉服屋もある。この浜野屋の主人は、でっぷりと肥っていて、にこにこして、まさに布袋樣という呼び名があった。

春着 はるぎ。正月に着る晴れ着。春に着る衣服。春服。
あら玉 その真価や完成された姿をまだ発揮していないが、素質のある人。「新玉」では枕詞「あらたまの」が「年」にかかるところから「新玉の年」の意味で、年の始め。新年。正月。2つの掛詞でしょう。
きつれて酔いつれて 着物を一緒に着て、一緒に酒も飲んでいる
通帳を拝借 尾崎紅葉から金を借りたことにして
秋冷 しゅうれい。秋になって肌に感じられる冷ややかさ
横寺町 地図を参照。ここに尾崎紅葉氏が住んでいました。また二階は氏の書斎でした。
尾崎紅葉邸の跡
襟垢 えりあか。衣服の襟についた垢。
膝ぬけ 穴が膝のところに開いている。
布子 綿入れのこと。庶民が胴着にして着用した粗末な防寒衣。
畏まる 身分の高い人、目上の人の前などで、おそれ敬う気持ちを表して謹んだ態度をとる。謹みの気持ちを表し堅苦しく姿勢を正して座る。正座する。
縞柄 しまがら。縦か横の筋で構成した幾何学模様
お帳面 帳簿。収支帳。金を貸すことでしょう
浜野屋 神楽坂6丁目にあったようです。新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に「通寺町1番地(現在は神楽坂6丁目 )に牛肉の第十八いろは、通寺町75番地(明進軒の先)に料理屋求友亭など、さすが花柳界が近いので料亭も多かった。まだこの外にも牛込勧工場、呉服の浜野屋、瓦せんべいの近江屋、茶の明治園、蒲鉾の山崎、菓子の小まつ、紙の小松屋、洋酒の青木堂、千とせ鮓、蒲焼の橋本、甘藷の児玉、しるこの松月、缶詰の越後屋、洋酒と煙草の青木堂、乾物の西川、洋傘の東条など目白押しに両側に並んでいたし、東裏通りには宮内省へ納めていた大阪鮨で有名な店があった。」と書いてあります。しかし、これ以上の記録はありません。
布袋 唐代末期で中国浙江省寧波市に実在した仏僧。巨大な太鼓腹にいつも半裸の僧侶は大きな袋を背負い、袋の中に身の周りの持ち物を入れて、放浪生活を送っていました。日本では七福神の一つ。

 が、太鼓腹たいこばら突出つきだして、でれりとして、團扇うちは雛妓おしやくあふがせてるやうなのではない。片膚脱かたはだぬぎで日置流へぎりうゆみく。獅子寺ししでら弓場だいきうば先生せんせい懇意こんいだから、したがつて弟子でしたちに帳面ちやうめんいた。たゞし信用しんようがないから直接ぢかでは不可いけないのである。「去年きよねんくれのやつがぼんしてるぢやないか。だらしなくみたがつてばかりるからだ。」「は、今度こんど今度こんどは……」「かぶつてら。――くれにはきつれなよ。」――そのくせ、ふいとつて、「一所いつしよな。」で、とほりて、みぎ濱野屋はまのやで、御自分ごじぶん、めい/\に似合にあふやうにお見立みたくだすつたものであつた。
[現代語訳] が、浜野屋の主人は太鼓腹を突出して、でれーとして、うちわを雛妓にあおがせているような人間ではない。片膚脱いで、日置流の弓を引く。獅子寺の大弓場で先生と懇意だ。したがって先生は弟子たちにとって必要な金を貸してくれるが、信用がないから直接いっても、くれないのである。「去年の暮のやつが盆を越えてもまだ返していない。だらしなく飮みたがってばかりいるからだ。」「は、今度という今度は……」「うそだろう。――この暮にはきっと入れなよ。」――そのくせ、ふいと立って、「一緒に来な。」で、通りへ出て、浜野屋に入り、自分用と各自の弟子用に似合うように見立てしたものだった。

雛妓 まだ一人前にならない芸妓。半玉(はんぎょく)
日置流 へきりゅう。弓術の一派。近世弓術の祖の日置弾正正次が室町中期に創始
獅子寺 曹洞宗保善寺のことです。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」とも呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。

新宿文化絵図-新宿まち歩きガイド。2010年。新宿区。

東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

弓場 弓の練習をする所。尾崎紅葉氏の大弓場はここに
お株 その人の得意とする芸。「うまいことを言ってら」「おおぼらつきだな」でしょうか

 春着はるぎで、元日ぐわんじつあたり、たいしてひもしないのだけれど、つきとあしもとだけは、ふら/\と四五人しごにんそろつて、神樂坂かぐらざかとほりをはしやいで歩行あるく。……わかいのが威勢ゐせいがいゝから、だれも(帳面ちやうめん)をるとはらない。いや、つてたかもれない。道理だうりで、そこらの地内ちない横町よこちやうはひつても、つきとほしかうがいで、つまつて羽子はねいてが、こゑけはしなかつた。割前勘定わりまへかんぢやうすなは蕎麥屋そばやだ。とつても、まつうちだ。もりかけとはかぎらない。たとへば、小栗をぐりあたりいもをすゝり、柳川やながははしらつまみ、徳田とくだあんかけべる。しやくなきがゆゑに、あへ世間せけんうらまない。が、各々おの/\その懷中くわいちうたいして、憤懣ふんまん不平ふへい勃々ぼつ/\たるものがある。したがつて氣焔きえんおびたゞしい。
のありさまを、たか二階にかいから先生せんせいが、

あらたま春着はるぎきつれてひつれて

なみだぐましいまで、可懷なつかしい。

[現代語訳] この新春のお祝いで、着物を着て、元日には、たいして酔いもしないのだが、目つきと足もとだけは、ふらふらと四五人揃って、神楽坂の通りをはしゃいで歩いている。……若いのが威勢がいいから、誰も(金を借りて)いるとは知らない。いや、知っていたかもししれない。道理で、そこらの地内や横町にはいっても、芸者たちはかんざしや羽子板をついているが、声を掛けてはくれない。ええい、割り勘だ。蕎麦屋に行こう。と言っても、松の内なので、もりそばやかけそばとは限らない。たとえば、小栗氏はヤマイモの根っこをすすり、柳川氏はホタテガイをつまみ、徳田氏があんかけを食べている。お酌はしないので、あえて世間は恨まない。が、各々その懐中に対して、憤懣や不平には勃々たるものがある。したがって気炎もおびただしい。
このありさまを、高い二階から先生が、
[俳句] 新春で新人たちは一緒に着物も着、酒も呑み
涙ぐましいまで、なつかしい。

帳面 帳簿。収支帳。つまり金を借りていること。
地内 一区域の土地の内。なお、「寺内」と書くとかつて行元寺という寺があり、牛込肴町と呼ばれていた、現在神楽坂5丁目の地域を指す。
つきとほす つきとおす。突き通す。突いて裏まで通す。突き抜く。つらぬく。
 こうがい。女性の(まげ)に横に挿して飾りとする道具。
褄を取る 芸者になる。芸者が左褄をとって歩くことから。
羽子 ムクロジの種に穴をあけ、色をつけた鳥の羽を4、5枚さしこんだもの。羽子板でついて遊ぶ。はね。つくばね。
 以上は芸者や芸妓、雛妓のことです。
割前勘定 これから「割り勘。割勘。わりかん」に。費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。
松の内 正月の松飾りのある間。元旦から7日か15日まで。
もり もりそば。盛り蕎麦。蕎麦を冷たいつゆをかけて食べる麺料理。
かけ かけそば。蕎麦に熱いつゆをかけて食べる麺料理。
あたり芋 擂り芋。ヤマノイモの根をすりおろしたもの。醤油や酢で食べたり、とろろ汁にする。
はしら ホタテガイ、イタヤガイなどの肉柱を加工した食品。
あんかけ くず粉やかたくり粉でとろみをつけた料理。
お酌 酌をする女。酌婦。一人前になっていない芸者。
懐中 ふところやポケットの中。また、そこに入れて持っていること。
憤懣 いきどおって、発散させず、心にわだかまる怒り。
勃々 勢いよく起こり立つさま。
気焔 きえん。気炎。燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ


春着|泉鏡花②

文学と神楽坂

 牛込うしごめはうへは、隨分ずゐぶんしばらく不沙汰ぶさたをしてた。しばらくとふが幾年いくねんかにる。このあひだ、水上みなかみさんにさそはれて、神樂坂かぐらざか川鐵かはてつ鳥屋とりや)へ、晩御飯ばんごはんべに出向でむいた。もう一人ひとりつれは、南榎町みなみえのきちやう淺草あさくさから引越ひつこしたまんちやんで、二人ふたり番町ばんちやうから歩行あるいて、その榎町えのきちやうつて連立つれだつた。が、あの、田圃たんぼ大金だいきん仲店なかみせかねだはしがかり歩行あるいたひとが、しかも當日たうじつ發起人ほつきにんだとふからをかしい。
 途中とちう納戸町なんどまち(へん)せまみちで、七八十尺しちはちじつしやく切立きつたての白煉瓦しろれんぐわに、がけちるたきのやうな龜裂ひゞが、えだつて三條みすぢばかり頂邊てつぺんからはしりかゝつてるのにはきもひやした。その眞下ましたに、魚屋さかなやみせがあつて、親方おやかた威勢ゐせいのいゝ向顱卷むかうはちまきで、黄肌鮪きはださしみ庖丁ばうちやうひらめかしてたのはえらい。……ところ千丈せんぢやうみねからくづれかゝる雪雪頽ゆきなだれしたたきゞよりあぶなツかしいのに――度胸どきようでないと復興ふくこう覺束おぼつかない。――ぐら/\とるか、おツとさけんで、銅貨どうくわ財布さいふ食麺麭しよくパン魔法壜まはふびんれたバスケツトを追取刀おつとりがたなで、一々いち/\かまちまですやうな卑怯ひけふうする。……わたしおほい勇氣ゆうきた。

[現代語訳] 牛込のほうは、随分しばらくの間、ご無沙汰であった。しばらくというが、何年にもなる。この間、水上滝太郎さんに誘われて、神楽坂の川鉄(鳥屋)へ、ご飯を食べに出向いた。もう一人の連れは南榎町に浅草から引っ越しした万ちやんこと、久保田万太郎さんで、水上さんと番町から歩いて、南榎町で久保田さんと一緒になり、川鉄に行ったのである。だが、浅草田甫の大金(鳥屋)と仲見世の金田(鳥屋)に橋を回って歩いた久保田万太郎さんが当日の発起人だというのだから、おかしい。
 途中、納戸町のあたりの狭い道で30メートルの真新しい白煉瓦は、まるで崖を落ちる滝のような亀裂が、三条ぐらいの小枝に別れて、頂点から走っていている。これは肝を冷やした。その真下に、魚屋の店があり、威勢のいい親方が鉢巻を前にかぶり、魚のキハダに刺身包丁を閃かしている。本当に偉い。外で見ると、3000メートルの峰から崩れかかる雪崩がある下で薪を作るよりも危ないのに、この度胸がないと復興は出来ない。ぐらぐらと地震が来ると、おっと叫び、銅貨の財布と食パンと魔法瓶を入れたバスケットをあわてて掴み、玄関まで飛び出すような意気地なしはどうする。私は大いに勇気を得た。

南榎町。南榎町は以下の地図で左上の多角形です。このなかのどこかに久保田万太郎さんが住んでいたはずですが、これ以上はわかりません。
番町。千代田区観光協会によれば、泉鏡花は麹町区下六番町11(現在は千代田区六番町7番地)の建物水上滝太郎は下六番町29(現在は六番町2番地)の建物に住んでいました。以下の地図で矢印の場所です。
連立。三人の場所と鳥屋「川鉄」を書いています。
田圃。浅草田甫。浅草公園の裏は昔は田圃がいっぱいだったと言います。久保田万太郎氏の「『引札』のはなし」で、「たとへば浅草公園裏の、そこがまだ田圃の名残をとゞめてゐた時分からの、草津といふ宴会専門の料理屋の広告に、「浅草田甫、草津」とことさらめかしく書いてあつたり(中略)するのをみるとたまらなく可笑しくなる」と出ています。
大金。だいきん。浅草田甫にあった「大金」は 鳥肉の料理を出す飲食店でした。
仲店。仲見世。東京都台東区の地名。浅草寺(せんそうじ)の門前町として発達。
かねだ。金田。同じく鳥肉の料理を出す飲食店。久保田万太郎氏の「浅草の喰べもの」では「鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。」と書いてあります。
橋がかり。建物の各部をつなぐ通路として渡した橋。渡殿。渡り廊下。二つの建物をつなぐ廊下。回廊。
納戸町。上図で納戸町と書いた場所。
七八十尺。1尺は約30cmなので、約21~24メートル。
切立。仕立ておろして間もないこと。新しい。
枝を打つ。わき枝を切る。しかし、ここでは「小枝に別れて」という意味でしょう。
向鉢巻き。前頭部で結んだ鉢巻き。
黄肌鮪。きはだ。きはだまぐろ。黄肌鮪。紅色が鮮やかなさっぱり上品な味。
さしみ庖丁。刺身を作るのに用いる包丁。刃の幅が狭くて刀身が長い。
千丈。1丈の1000倍(約3000メートル)。または非常に長いこと。
樵る。こる。山林の木を切る。
追取刀。おっとりがたな。押っ取り刀。腰に差すひまもなく、刀を手にしたままである。緊急の場合に取るものも取りあえず駆けつける様子をいう。
框。かまち。床板などの切断面を隠すために取り付ける化粧用の横木。玄関などの上がり口に付ける上がり框など。
卑怯。気が弱く意気地がないこと。弱々しい。

 が、吃驚びつくりするやうな大景氣だいけいき川鐵かはてつはひつて、たゝきそば小座敷こざしき陣取ぢんどると、細露地ほそろぢすみからのぞいて、臆病神おくびやうがみあらはれて、逃路にげみちさがせやさがせやと、電燈でんとうまたゝくばかりくらゆびさしをするにはよわつた。まだんだまゝの雜具ざふぐ繪屏風ゑびやうぶしきつてある、さあお一杯ひとつ女中ねえさんで、羅綾らりようたもとなんぞはもとよりない。たゞしその六尺ろくしやく屏風びやうぶも、ばばなどかばざらんだが、屏風びやうぶんでも、駈出かけだせさうな空地くうちつては何處どこいてもかつたのであるから。……くせつた。ふといゝ心持こゝろもち陶然たうぜんとした。第一だいいちこのいへは、むかし蕎麥屋そばやで、なつ三階さんがいのものほしでビールをませた時分じぶんから引續ひきつゞいた馴染なじみなのである。――座敷ざしきも、おもむきかはつたが、そのまゝ以前いぜんおもかげしのばれる。……めいぶつのがくがあるはずだ。横額よこがく二字にじ、たしか(勤儉きんけん)とかあつて(彦左衞門ひこざゑもん)として、まるなかに、しゆで(大久保おほくぼ)といんがある。「いかものも、あのくらゐにると珍物ちんぶつだよ。」と、つて、紅葉先生こうえふせんせいはそのがく御贔屓ごひいきだつた。――屏風びやうぶにかくれてたかもれない。

 まだおもことがある。先生せんせいがこゝで獨酌どくしやく……はつけたりで、五勺ごしやくでうたゝねをするかただから御飯ごはんをあがつてると、隣座敷となりざしきさかんに艷談えんだんメートルをげるこゑがする。まがふべくもない後藤宙外ごとうちうぐわいさんであつた。そこで女中ぢよちうをして近所きんじよ燒芋やきいもはせ、うづたかぼんせて、かたはらへあの名筆めいひつもつて、いはく「御浮氣おんうはきどめ」プンとにほつて、三筋みすぢばかり蒸氣けむところを、あちらさまから、おつかひもの、とつてた。本草ほんざうにはまいが、あんずるに燒芋やきいもあんパンは浮氣うはきをとめるものとえる……が浮氣うはきがとまつたかうかは沙汰さたなし。たゞ坦懷たんくわいなる宙外君ちうぐわいくんは、此盆このぼんゆづりうけて、のままに彫刻てうこくさせて掛額かけがくにしたのであつた。

[現代語訳] が、びっくりするぐらい景気がいい川鉄に入って、土間の側の小さな座敷に陣取ると、臆病神が、細い路地の隅から現れ、逃げる道を探せよ探せよといってくる。電灯が閃くまもなく、暗い場所を指さしするのは弱った。積んだままの雑多な道具は絵屏風で仕切っている。さあ、一杯いかがと女中さんが声をかけてくるが、美しい衣服が似合う女中さんはどこにもいない。2メートル弱の屏風は飛んだが飛ばないかはわからないが、飛んださきの空き地はどこにもない。……そのくせ、酔った。酔うという心持ちに酔いしれた。第一この家は、昔はそば屋で、夏は三階の物干しでビールを飲んだ時からの馴染みだ。――座敷も、味わいこそ違うが、そのままの姿がある。……名物の額があるはずだ。横に二字。たしか(勤倹)とか書いてあり、(彦左衛門)として丸の中で朱色で(大久保)というハンコがあった。「いかさまでも、あれぐらいになると、珍品だよ」といって、尾崎紅葉先生はその額が大好きだった。――額は屏風に隠れていたかもしれない。

 まだ思い出すことがある。尾崎先生がここで、ひとりで酒をついで飲む……のはつけたしだが、90mLでうたたねをするほうだから、ご飯をあがっていると、隣の座敷で盛んに艷談をしながら、酒を沢山飲んでいる声がする。疑いはなく後藤宙外さんだった。宙外さんは近所で女中に焼き芋を買ってもらい、うずたかく盆に載せ、傍らにはあの名筆で書いたのは「浮気どめ」。焼き芋はぷんと匂って、三筋ほどの湯気がたって、あちら様から、贈り物ですと言って、持ってきた。「本草学」にはでていないだろうが、案ずるに焼き芋とあんパンには浮気をとめる力があるようだ。……本当に浮気がなくなったのかは、不明だが、ただおおらかな宙外君はこの盆を譲り受けて、そのまま彫刻をして掛け額にしたのである。

吃驚。びっくり。意外や突然なことに驚くこと。
たたき。三和土。土やコンクリートで仕上げた土間床。ここでは厨房を指す。
瞬くばかり。一瞬。
雑具。ざつぐ。ぞうぐ。種々雑多な道具
羅綾。らりょう。うすぎぬとあやぎぬ。美しい衣服
六尺。一尺の六倍。曲尺で約1.8メートル。
飛ばば。飛ぶことができれば
陶然。酒に酔ってよい気持ちになる。
なじみ。馴染み。本来は「馴染み客」で、いつも来てなれ親しんでいる客
趣。風情のある様子。あじわい
俤。おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿
勤倹。仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること。勤勉で倹約すること。
いかもの。本物に似せたまがいもの。
珍物。ちんぶつ。珍しい物。珍品
独酌。どくしゃく。ひとりで酒をついで飲むこと。
勺。しゃく。尺貫法の容積の単位。1勺は約18ミリリットル。5勺は約90mL。
艷談。男女の情事に関する話。
メートルをあげる。酒を沢山飲んで勢いづく。
本草。ほんぞう。「本草学」の略。中国の薬物の学問で、薬物についての知識をまとめたもの。
坦懐。あっさりした、おおらかな気持ち。

春着|泉鏡花③

文学と神楽坂

 

横寺町 さて其夜そのよこゝへるのにもとほつたが、矢來やらい郵便局いうびんきよくまへで、ひとりでしたおぼえがある。もつと當時たうじあをくなつておびえたので、おびえたのが、可笑をかしい。まだ横寺町よこでらまち玄關げんくわんときである。「この電報でんぱうつてた。巖谷いはやとこだ、局待きよくまちにして、返辭へんじつてかへるんだよ。いそぐんだよ。」で、きよくで、局待きよくまちふと、局員きよくゐん字數じすうかぞへて、局待きよくまちには二字分にじぶん符號ふがうがいる。のまゝだと、もう(いち)音信おんしん料金れうきんを、とふのであつた。たしか、市内しない一音信いちおんしんきん五錢ごせんで、局待きよくまちぶんともで、わたし十錢じつせんよりあづかつてなかつた。そこで先生せんせいしたがきをると「ヰルナラタヅネル」一字いちじのことだ。わたしかう一考いつかうしてしかして辭句じくあらためた。「ヰルナラサガス」れなら、局待きよくまち二字分にじぶんがきちんとはひる、うまいでせう。――巖谷氏いはやし住所ぢうしよころ麹町かうぢまち元園町もとぞのちやうであつた。が麹町かうぢまちにも、高輪たかなわにも、千住せんぢゆにも、つこと多時たじにして、以上いじやう返電へんでんがこない。今時いまどきとは時代じだいちがふ。やまきよくかんにして、赤城あかぎしたにはとりくのをぽかんといて、うつとりとしてゐると、なゝめさがりのさかした、あまざけやのまちかどへ、なんと、先生せんせい姿すがた猛然まうぜんとしてあらはれたらうではないか。
 飛出とびだすのと、ほとん同時どうじで「馬鹿野郎ばかやらうなにをしてる。まるで文句もんくわからないから、巖谷いはやくるまけつけて、もううちてゐるんだ。うつそりめ、なにをしてる。みなが、くるまかれやしないか、うま蹴飛けとばされやしないかとあんじてるんだ。」わたしあをくなつた――(るならたづねる。)を――(るならさがす。)――巖谷氏いはやしのわけのわからなかつたのは無理むりはない。紅葉先生こうえふせんせい辭句じく修正しうせいしたものは、おそらく文壇ぶんだんおいわたし一人ひとりであらう。そのかはりるほどにしかられた。――なに五錢ごせんぐらゐ、自分じぶん小遣こづかひがあつたらうと、串戲じようだんをおつしやい。それだけあれば、もうはやくに煙草たばこ燒芋やきいもと、大福餅だいふくもちになつてた。煙草たばこ五匁ごもんめ一錢いつせん五厘ごりん燒芋やきいも一錢いつせんだい六切むきれ大福餅だいふくもち一枚いちまい五厘ごりんであつた。――其處そこ原稿料げんかうれうは?……んでもない、わたしはまだ一枚いちまいかせぎはしない。先生せんせいのは――内々ない/\つてゐるが内證ないしようにしてく。……

[現代語訳] さてその夜、ここに来るために通った場所である牛込郵便局の前で、ひとりで吹き出した記憶がある。もっとも当時は青くなって怯えていたのだが。おびえた仕草もまたおかしい。まだ横寺町の尾崎紅葉先生の玄関番としてそこにいた時である。「この電報をうってきな。巌谷小波氏のところだ。局待ちにして、返事は持って帰るんだよ。」で、局待ちというと、局員が字数を数えて、局待ちになると2字分の字数がさらに必要であり、このままだともう1通分の料金がいるというのだった。たしか市内は電報は5銭、局待ちをすると、10銭になる。これ以上の費用はもらっていない。そこで先生の下書きを見ると、「イルナラタズネル」と書いてある。1字分のことだ。私はもう一度、考えて、字句を改めた。「イルナラサガズ」。これなら局待ちの2字分もきちんと入る。うまいね。――巌谷氏の住所はその当時は麹町元園町だった。しかし、麹町でも、高輪でも、千住でも、待つ時間は多大だが、しかし、返電は来ない。今とでは時代が違う。山の手の郵便局は閑散として、赤城の下でニワトリが鳴くのをぽかんと聞いて、うっとりとしていると、斜め下の坂で、甘酒屋の町の角へ、なんと、先生の姿が猛然として現れたではないか。
 ただ見て飛び出すのと、ほとんど同時に「馬鹿野郎。何をやってる。全然言ったことがわからないから、巌谷は人力車で駆けつけて、もう家の中に来ているんだ。ぼんやり屋め。みんなが人力車にひかれないか、馬に蹴飛ばさないかと、心配していたんだ。」私は青くなった――(居るなら訪ねる)を――(要るなら捜す)に替えたのである――巖谷氏が訳がわからないのは無理はない。紅葉先生の字句を修正した人は、おそらく文壇では私一人だったろう。その代わり、目の出るほどに叱られた。――なに、5銭ぐらい、自分の小遣いがあるはずだと、冗談は言っちゃいけない。それだけあれば、もっと早く、煙草と焼き芋と大福餅を買っていた。煙草は約19グラムで1銭5厘、焼き芋が1銭で大で6切れ、大福餅は一枚5厘だった。――では原稿料は? ……とんでもない。私はまだ一枚も稼ぎはない。先生の原稿料は――内々に知っているが、内緒にしておく……

矢来の郵便局。旧牛込郵便局は左図の下方で→
横寺町。上図で。
玄関。泉鏡花氏は尾崎紅葉氏の玄関番でした。
局待。郵便物の配達先を郵便局気付けにしておくこと。
符号。ある事を表すために、一定の体系に基づいて作られたしるし。コード。
音信。おんしん。便り。おとずれ。
麹町元園町。元園町は右側のここ→。麹町元園町
高輪。ここで
千住。ここで←
赤城。赤城神社はこの上で。↑
猛然。勢いが激しい様子。
うっそり。ぼんやりしている様子。
五匁。ごもんめ。一匁は3.75グラム。五匁は18.75グラム
まるで。まるきり。全然

 まだ可笑をかしいことがある、ずツとあとで……番町ばんちやうくと、かへりがけに、錢湯せんたう亭主ていしゆが「先生々々せんせい/\ちやうひるごろだからほか一人ひとりなかつた。「一寸ちよつとをしへをねがひたいのでございますが。」先生せんせいで、おをしへを、で、わたしはぎよつとした。亭主ていしゆきはめて慇懃いんぎんに「えゝ(おかゆ)とはきますでせうか。」「あゝ、れはね、かうかうやつて、眞中まんなかこめくんです。よわしと間違まちがつては不可いけないのです。」なんと、先生せんせい得意とくいおもふべし。じつは、じやくを、こめ兩方りやうはうくばつたかゆいて、以前いぜん紅葉先生こうえふせんせいしかられたものがある。「手前勝手てまへがつてこしらへやがつて――先人せんじんたいして失禮しつれいだ。」そのしかられたのはわたしかもれない。が、ときおぼえがあるから、あたりをはらつて悠然いうぜんとしてをしへた。――いまはもうだいかはつた――亭主ていしゆ感心かんしんもしないかはりに、病身びやうしんらしい、おかゆべたさうなかほをしてた。女房にようばう評判ひやうばん別嬪べつぴんで。――のくらゐの間違まちがひのないことを、ひとをしへたことはないとおもつた。おもつたなりでとした。實際じつさいとした。ついちかころである。三馬さんば浮世風呂うきよぶろむうちに、だしぬけに目白めじろはうから、釣鐘つりがねつてたやうにがついた。湯屋ゆやいたのは(岡湯をかゆ)なのである。
[現代語訳] まだおかしいことがある。ずっと後で……この番町の銭湯に行くと、帰りがけに、銭湯の亭主が「先生、先生」という。ちょうど正午頃で、他の人はいなかった。「ちょっと教えをお願いしたいのですが]。先生で、お教えを、で、私はぎょっとした。亭主は極めて慇懃に「ええ、(おかゆ)とはどう書きますのでしょうか。」「ああ、それはね、弓、弓と書いて、真ん中に米を書くのです。弱いと間違ってはいけません。」なにせ先生の得意顔を思ってほしい。実は弱を米の両方に配った粥を書いて、以前、紅葉先生に叱られた人がある。「手前勝手に字を作りやがって――先人に対して失敬だ。」その叱られた人は私かもしれない。が、その時の記憶があるから、あたりの人がいないと確かめ、悠然と教えた。――今ではもう亭主は次の代に替わった――亭主は感心しない代わりに、病身らしく、おかゆを食べそうな顔をしていた。女房は評判の別嬪で――このくらい間違いのないことを、人に教えたことはないと思った。思ったなりに年を取った。実際、年月を経た。つい近頃である。式亭三馬の浮世風呂を読んでいると、だしぬけに目白の方から、釣り鐘が鳴ったようだが、これで気がついた。銭湯で聞いたのは((おか)())、つまり、入浴後に身体を清める湯のことだったのだ。

慇懃。真心がこもっていて、礼儀正しいこと
払う。取り除く。不用なもの、害をなすものなどを除く。
悠然。ゆうぜん。落ち着いてゆったりとしている
浮世風呂。式亭三馬作。1809~13年刊。江戸町人の社交場であった銭湯を舞台に、客の会話を通じて世相・風俗を描いたもの。写実性に富み、滑稽味豊かな作品。
目白。東京都豊島区南部、山手線目白駅周辺の地区。
おかゆ。陸湯。あがりゆ。上がり湯。かかりゆ。入浴後、身体を清めるのに使う湯。

春着|泉鏡花④

文学と神楽坂

 少々せう/\はなしとほりすぎた、あとへもどらう。
 まんちやんさそつたいへは、以前いぜんわたしんだ南榎町みなみえのきちやう同町内どうちやうないで、おく辨天町べんてんちやうはうつてことはすぐにれた。が、家々いへ/\んで、したがつてみちせまつたやうながする。ことよるであつた。むかしんだいへ一寸ちよつと見富けんたうかない。さうだらう兩側りやうがはとも生垣いけがきつゞきで、わたしうちなどは、木戸内きどうち空地あきち井戸ゐどりまいてすもゝ幾本いくほんしげつてた。すもゝにはから背戸せどつゞいて、ちひさなはやしといつていゝくらゐ。あの、そこあまみをびた、美人びじんしろはだのやうな花盛はなざかりをわすれない。あめにはなやみ、かぜにはいたみ、月影つきかげには微笑ほゝゑんで、淨濯(じやうたく)明粧めいしやう面影おもかげにほはせた。……
[現代語訳] 少々話は通りすぎた。もとに戻ろう。
 その日、この万ちゃんの家は、以前、私が住んでいた南榎町と同じ町内だが、弁天町の方へ近いことはすぐにわかった。が、家々は立て込んでいるし、したがって道も狭くなったよう気がする。ことに夜だった。むかし住んだ家はどこなのか、ちょっと見当はつかない。そう、両側とも生垣つづきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて、すももの木が何本も茂っていた。すももは庭から裏門まで続いて、小さな林といってもいいぐらい。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のような花盛を忘れない。雨では悩み、風では腐敗し、月影にはほほえんで、きよらかで美しいよそおいの面影を匂っていた。……

南榎町 弁天町。右図を
背戸 家の裏口。裏門。背戸(せど)(ぐち)
浄濯 きよらかで洗う。
明粧 美しいよそおい。美しい化粧。

 たゞ一間ひとまよりなかつた、二階にかい四疊半よでふはんで、先生せんせい一句いつくがある。

(ふん)きよう乳房ちぶさかくすや花李はなすもゝ

 ひとへしろい。ちゝくびの桃色もゝいろをさへ、おほひかくした美女びぢよにくらべられたものらしい。……しろはなの、つてころの、その毛蟲けむし夥多おびたゞしさとつては、それはまたない。よくも、あのみづんだとおもふ。一釣瓶ひとつるべごとにえのきのこぼれたやうなあか毛蟲けむし充滿いつぱい汲上くみあげた。しばらくすると、毛蟲けむしが、こと/″\眞白まつしろてふになつて、えだにも、にも、ふたゝ花片はなびららしてつてみだるゝ。幾千いくせんともかずらない。三日みつかつゞき、五日いつか七日なぬかつゞいて、ひるがへんで、まどにも欄干らんかんにも、あたゝかなゆきりかゝる風情ふぜいせたのである。
 やがてみのころよ。――就中なかんづくみなみ納戸なんど濡縁ぬれえんかき(ぎは)には、見事みごと巴旦杏はたんきやうがあつて、おほきなひ、いろといひ、えんなる波斯ペルシヤをんな爛熟らんじゆくした裸身らしんごとくにかをつてつた。いまだと早速さつそく千匹屋せんびきやへでもおろしさうなものを、川柳せんりうふ、(地女ぢをんなりもかへらぬ一盛ひとさか)それ、意氣いきさかんなるや、縁日えんにち唐黍たうきびつてかじつても、うちつたすもゝなんかひはしない。一人ひとりとして他樣ひとさまむすめなどに、こだはるものはなかつたのである。

[現代語訳] ただ住んでいるのは一間だけだった。二階の四疊半で、先生の一句がある。
     紛胸の乳房かくすや花李  (膨らんだ胸の乳房を隠すのか、花すもも)
 ひとえに白い。乳首の桃色さえ、おおいかくした美女に比べたものらしい。……この白い花が、散って葉になる頃の、その毛虫のおびただしさといっては、もうひどい。よくも、あの水を飮んだと思う。一釣瓶ごとに榎の実のこぼれたような赤い毛虫をいっぱいに汲みあげた。しばらくすると、この毛虫が、ことごとく真っ白な蝶になって、枝にも、葉にも、再び花片をちらして舞ってみだれていく。数は何千あるのか、わからない。三日続き、五日、七日続いて、蝶はひらめき、飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかかる風情を見みせたのである。
 やがて実る頃になる。――特に、南の納戸の濡縁にあった垣根には、見事な()(たん)(きょう)があって、おおきな実と言い、色といい、艷なるペルシャの女の爛熟した裸身のごとくに匂っていた。今では早速千匹屋でも卸そうなものだが、例の川柳では、(地女は振りもかへらぬ一盛り。訳すと、その土地の女なら無視する、これぞ若さだな)。つまり、意気のさかんな青年は、縁日のトウモロコシは買って食べても、家でなったすももなんか食いはしない。一人として他人様の娘などには、こだわる人はなかったのである。

 物事がもつれる。
ひとえ そのものだけだ。重ならないこと
翻る ひるがえる。風になびいて揺れ動く。ひらめく。
就中 なかんずく。多くの物事の中から特に一つを取り立てる様子。とりわけ。中でも。特に。
 ませ。竹や木で作った、目の粗い低い垣根。多く、庭の植え込みの周りなどに作る。
巴旦杏 はたんきょう。スモモの一品種。果実は大きい。熟すと赤い表皮に白粉を帯びて、甘い。食用。
地女 じおんな。その土地の女。商売女に対して、素人の女
一盛り ひとさかり。一時期盛んであること。若さの盛んな一時期。
こだわる 気にしなくてもいいようなことを気にする。

 が、いまはひらけた。そのころともだちがて、酒屋さかやから麥酒ビイルると、あわたない、あわが、麥酒ビイルけつしてあわをくふものはない。が、あわたない麥酒ビイル稀有けうである。酒屋さかやにたゞすと、「ときさかさにして、ぐん/\おりなさい、うするとあわちますよ、へい。」とつたものである。十日とをかはらくださなかつたのは僥倖げうかうひたい――いまはひらけた。
 たゞ、しいかななかまる大樹たいじゆ枝垂櫻しだれざくらがもうえぬ。新館しんくわん新潮社しんてうしやしたに、吉田屋よしだや料理店れうりてんがある。丁度ちやうどあのまへあたり――其後そのご晝間ひるまとほつたとき切株きりかぶばかり、のこつたやうにた。さかりときこずゑ中空なかぞらに、はなまちおほうて、そして地摺ぢずりえだいた。よるもほんのりとくれなゐであつた。むかしよりして界隈かいわいでは、通寺町とほりてらまち保善寺ほぜんじ一樹いちじゆ藁店(わらだな)光照寺くわうせうじ一樹いちじゆ、とともに、三枚振袖みつふりそで絲櫻いとざくら名木めいぼくと、となへられたさうである。
 むかがは湯屋ゆややなぎがある。此間このあひだを、をとこをんなも、一頃ひところそろつて、縮緬ちりめん七子なゝこ羽二重はぶたへの、くろ五紋いつゝもんした。くにも、蕎麥屋そばやはひるにも紋付もんつきだつたことがある、こゝだけでもはるあめ、また朧夜おぼろよ一時代いちじだい面影おもかげおもはれる。
 つい、その一時代前ひとじだいまへには、そこは一面いちめん大竹藪おほたけやぶで、よわ旗本はたもとは、いまの交番かうばんところまでひるけたとふのである。酒井家さかゐけ出入でいり大工だいく大棟梁おほとうりやうさづけられて開拓かいたくした。やぶると、へび場所ばしよにこまつたとふ。ちひさなだうめてまつつたのが、のちに倶樂部くらぶ築山つきやまかげたにのやうながけのぞんであつたのをおぼえてる。いけちん小座敷こざしきれうごのみで、その棟梁とうりやう一度いちど料理店れうりてん其處そこひらいたときのなごりだといた。
[現代語訳] が、今では開けた。その頃、友だちが来て、酒屋からビールを取ると、泡が立たない。ビールは泡を食べるのはないが、泡の立たないビールは稀だ。酒屋にただすと、「抜く時にさかさにして、ぐんぐん、ふりなさい。そうすると泡が立ちますよ、へい。」といわれた。十日間、腹をくださなかったのは僥倖といいたい――今は開けた。
 ただ、惜しいことがある。中の丸の大樹のしだれ桜がもう見えない。新館の新潮社の下に、吉田屋という料理店がある。ちょうどあの前のあたり――その後、昼間通った時、切株ばかりが見えて、根だけが残ったように見えた。盛りの時は梢が中空に、花は町をおおい、そして地摺りの文様には枝を使っていた。夜もほんのりと紅色だった。昔から界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店光照寺に一樹とともに、三樹合わせて、三枚振袖として、糸桜の名木と、称えられたそうだ。
 向側の銭湯に柳がある。このあいだ、少し前だが、男も女も、そろって、縮緬と羽二重の絹織物、金工技法の魚々子、さらに黒の五紋を着て町に出た。湯へ行くにも、そば屋へ入るにも紋着だった。ここだけでも春の雨、また朧夜という一時代が思い出される。
 その一時代前には、一面の大竹藪で、気の弱い旗本は、いまの交番のところまで昼も駆け抜けたというのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が工事を請け負い、開拓した。藪を切ると、何匹も蛇が出てきて、捨てる場所がなく、困ったという。小さな堂にまとめて祭ったのだが、矢来倶楽部の築山の影に谷のような崖があり、堂はそこにあったと覚えている。その棟梁は池、東屋、小座敷、茶室などが大好きで、この堂も一度料理店をそこに開いた時のなごりだと聞いた。

僥倖 ぎょうこう。思いがけない幸い。偶然に得る幸運
惜しい おしい。大切なものを失いたくない。むだにすることが忍びない。もったいない。
地摺り じずり。生地に文様を摺り出した織物。地に藍や金泥で模様を摺り出すこと、その織物。
曳く ひく。地面をこすって進むようにする。引きずる
となえる 唱える。称える。名づけていう。呼ぶ。称する。
縮緬 表面に細かい(ちぢみ)) がある絹織物。縦糸に()りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織した。
七子 ななこ。魚々子。魚子、七子、魶子とも書く。金工技法の一つ。切っ先の刃が小円となった(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい(あわ)粒をまいたようにみせる技法。
羽二重 日本の代表的な高級絹織物の一種。生糸を用いて平織か綾織にしたのち、精練と漂白をして白生地とし、用途によって無地染や捺染模様染にする。
五紋 着物に付いている家紋の数。一つ紋は家紋は背中心に1つ。三つ紋はさらに両後ろ袖。五つ紋はさらに両胸。紋が増えるほど格が高くなり、黒留袖と喪服は必ず五つ紋。写真は五つ紋。
紋着 紋をいれた着物。「格」が最高な紋着は礼装着(第一礼装)で、打掛、黒留袖、本振袖、喪服など。
授かる さずかる。神仏や上位の人から、大切なものを与えられる。授けられる。 学問や技術を師から与えられる。
 神仏を祭る建物。
籠める こめる。物の中にいれる。詰める。表に出さないよう包み隠す。閉じこめる。
 眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物。あずまや。
 茶室としてつくった小さな建物。数寄屋。江戸の富裕町人の別宅。下屋敷。
ごのみ 好み。名詞の下に付いて、複合語をつくる。好きなものの傾向。ある時代や、ある特定の人に好まれた様式

 かけはしちんで、はるかにポン/\とおる。へーい、と母家おもやから女中ぢよちうくと、……たれない。いけうめ小座敷こざしきで、トーンと灰吹はひふきたゝおとがする、むすめくと、……かげえない。――その料理屋れうりやを、たぬきがだましたのださうである。眉唾まゆつば眉唾まゆつば
 もつともいま神樂坂上かぐらざかうへ割烹かつぱう魚徳うをとく)の先代せんだいが(威張ゐばり)とばれて、「おう、うめえものはねえか」と、よつぱらつてるから盤臺ばんだい何處どこかへわすれて、天秤棒てんびんぼうばかりをりまはして歩行あるいたころで。……
 矢來邊やらいへんは、たゞとほくまで、榎町えのきちやう牛乳屋ぎうにうや納屋なやに、トーン/\とうし跫音あしおとのするのがひゞいて、いまにも――いわしこう――酒井家さかゐけ裏門うらもんあたりで――眞夜中まよなかには――いわしこう――と三聲みこゑんで、かたちかげえないとふ。……あやしいこゑきこえさうなさびしさであつた。
[現代語訳] 架け渡した橋の東屋で、遙かにポンポンとお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰もいない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹をたたく音がする、娘が行くと、……影も見えない。――その料理屋を、狸がだましたのだそうである。ご用心。ご用心。
 もっともいま神楽坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張(いば)り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食わねえか」と、酔っ払っているから魚を運ぶ盤台はどこかに忘れて、天秤棒だけを振りまわして歩いた頃で。……
 矢来あたりの夜は、ただ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーントーンと牛の足音のするのが響いて、今にも――いわしこう――酒井家の裏門あたりで――真夜中には――鰯こう――と三回、売り子が売る声が聞こるが、形も影も見えないという。……怪しい声が聞こえそうな寂しさだった。

 サン。かけはし。険しいがけなどに、架け渡した橋。かけはし
はるか 遥か距離が遠く隔たっているさま
灰吹 タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。
眉唾 まゆつば。眉に唾をつければ狐や狸にだまされないと信じられたことから、だまされないように用心すること。信用できないこと。真偽の疑わしいこと。
盤台 はんだい。ばんだい。板台。半台。魚屋が魚を運ぶために浅くて大きな楕円形か円形の桶。比較的小型の円形のものはすし飯を作るのに用いる。

鈴木春信 『水売り』/棒手売をする水売りの童子を描いた浮世絵。1760年代の作。東京国立博物館所蔵

天秤棒 両端に荷をかけ物を運ぶための棒。中央を肩にあてかついで運ぶ。天秤とも。
榎町 左図を参照。
いわしこう 鰯こう。後半に「鰯こ」と書いているところもあります。「…こ」「…っこ」は①まだ一人前でない状態の人物や動物などで、乳幼児、ひな、幼虫など。たとえば「売り子」「おばあさんこ」「売れっ子」「江戸っ子」など。②特定の状態にいる人物や動物、物品で、たとえば「振り子」「根っこ」など。いわしを売っていた売り子が「いわしこ」「いわしこう」と声を掛けながら売っていたのでしょう。三浦哲郎が書いた『笹舟日記』の随筆「鰯たちよ」(毎日新聞、1973年)では「鰯っこ」で出ています。家で食べる食品としての鰯なのです。

春着|泉鏡花⑤

はるかねうなりけり九人力くにんりき

 それは、そのすもゝはなはなすもゝころ二階にかい一室いつしつ四疊半よでふはんだから、せまえんにも、段子はしごうへだんにまで居餘ゐあまつて、わたしたち八人はちにん先生せんせいはせて九人くにん一夕いつせき俳句はいくくわいのあつたとききようじようじて、先生せんせいが、すゝいろ古壁ふるかべぶつつけがきをされたものである。かたはらに、おの/\のがしるしてあつた。……神樂坂かぐらざかうらへ、わたし引越ひつことき、そのまゝのこすのはをしかつたが、かべだからうにもらない。――いゝ鹽梅あんばいに、一人ひとりあひがあとへはひつた。――ほこりけないとつて、大切たいせつにしてた。

[現代語訳] 春の夜 鐘がうなるよ 九人力
 すももの花、つまり花のすももの季節になり、二階の一室に、四畳半だから、狭い部屋のへりでも、梯子の上の段でも、人間が集まってくる。わたしたちは八人、尾崎紅葉先生を加えて九人で、ある夕方、俳句の会があり、興に乗じて、先生が煤色の古壁に下書きをしないで書いたものである。句のそばには各自の名前がしるしてあった。……神楽坂へ、私が引越す時、そのまま残すのは惜しかったが、壁だからどうにもならない。――いい工合に、一人の知り合いが後に入った。――ほこりはかけないといって、大切にしていた。

 物の端の部分。物の周りで一定の幅をもった部分。へり。
一夕 いっせき。ひと晩。一夜
すす色 すすいろ。煤色。煤の色。薄い墨色。すす。 #887f7a
ぶっつけがき 打っ付け書き。下書きをしないで、すぐに書くこと。
あんばい 塩梅。按排。按配。味の基本である塩と梅酢の意の「えんばい」と、物をぐあいよく並べる意の「按排」とが混同した語。料理の味加減。物事や身体のぐあいや様子。

 ――五月雨さみだれ陰氣いんき一夜あるよさかうへから飛蒐とびかゝるやうなけたゝましい跫音あしおとがして、格子かうしをがらりと突開つきあけたとおもふと、神樂坂下かぐらざかした新宅しんたく二階にかいへ、いきなり飛上とびあがつて、一驚いつきやうきつしたわたしつくゑまへでハタとかほはせたのは、知合しりあひのそのをとこで……眞青まつさをつてる。「大變たいへんです。」「……」「ばけものがます。」「……」「先生せんせいかべのわきの、あの小窓こまどところつくゑいて、勉強べんきやうをしてりますと……う、じり/\とあかりくらりますから、ふいとますと、障子しやうじ硝子がらす一杯いつぱいほどのねこかほが、」と、ぶるひして、「かほばかりのねこが、すもゝ眞暗まつくらなかから――おほきさとつたらありません。そ、それが五分ごぶがない、はなくち一所いつしよに、ぼくかほとぴつたりと附着くツつきました、――あなたのお住居すまひ時分じぶんから怪猫ばけねこたんでせうか……一體いつたいねこ大嫌だいきらひで、いえ可恐おそろしいので。」それならば爲方しかたがない。が、怪猫ばけねこ大袈裟おほげさだ。五月闇さつきやみに、ねこ屋根やねをつたはらないとはたれよう。……まどのぞかないとはかぎらない。しかし、可恐おそろしねこかほと、不意ふい顱合はちあはせをしたのでは、おどろくも無理むりはない。……「それで、矢來やらいから此處こゝまで。」「えゝ。」といきいて、「夢中むちうでした……なにしろ、正體しやうたいを、あなたにうかゞはうとおもつたものですから。」
[現代語訳] ――五月雨さみだれの陰気な一夜、坂の上から飛びかかるようなけたたましい足音がして、格子をがらりと開けたと思うと、神楽坂下のその新宅の二階へ、いきなり飛び上がって、驚いた私の机の前でハタと顔をあわせたのは、知り合いのその男で……真っ青になっていた。「たいへんです。」「……」「化けものが出ます。」「……」「先生の壁のわきの、あの小窓のところに机を置いて、勉強をしておりますと……こう、じりじりと灯りが暗くなりますから、ふいと見ますと、障子のガラス一杯ほどの猫の顔が、」と、身ぶるいして、「顔ばかりの猫が、すももの葉の真っ暗な中から――その大きさといったらありません。そ、それがほとんど時間はなく、目も鼻も口も一緒に、僕の顔とぴったりとくっつきました。――あなたのお住居の時分から怪猫がいたんでしょうか……本当に猫が大嫌いで、いえおそろしいので。」それならばしかたがない。が、怪猫は大袈裟だ。陰暦5月の暗やみに、猫が屋根をつたわらないとは誰がいえよう。……窓の灯を覗かないとは限らない。しかし、おそろしい猫の顔と、不意に鉢合わせをしたのでは、驚くのも無理はない。……「それで、矢来町からここまで。」「ええ。」と息を吸い、「夢中でした……何しろ、正体を、あなたにうかがうと思ったものですから。」

一驚 いっきょう。驚くこと。びっくりすること。
きっする 吃する。喫する。(よくないことを)受ける。こうむる。
五分 あとに打消しの語を伴って)ほんのわずか(もない)。「五分のすきもない」
五月闇 さつきやみ。陰暦5月の、梅雨が降るころの夜の暗さや、暗やみ。

いまむかし山城介やましろのすけ三善春家みよしはるいへは、まへ蝦蟆がまにてやありけむ、くちなはなんいみじおぢける。――なつころ染殿そめどの辰巳たつみやま木隱こがくれに、君達きみたち二三人にさんにんばかりすゞんだうちに、春家はるいへまじつたが、ひとたりけるそばよりしも、三尺許さんじやくばかりなる烏蛇くろへび這出はひでたりければ、春家はるいへはまだがつかなかつた。ところを、君達きみたち、それ春家はるいへ。と、そでこと一尺いつしやくばかり。春家はるいへかほいろくちあゐのやうにつて、一聲ひとこゑあつとさけびもあへず、たんとするほどに二度にどたふれた。すはだしで、その染殿そめどのひがしもんよりはしで、きたざまにはしつて、一條いちでうより西にしへ、西にし洞院とうゐん、それからみなみへ、洞院下とうゐんさがりはしつた。いへ土御門西つちみかどにし洞院とうゐんにありければで、むと(ひと)しくたふれた、とふのが、今昔物語こんじやくものがたえる。とほきそのむかしらず、いまのをとこは、牛込南榎町うしごめみなみえのきちやう東状ひがしざまはしつて、矢來やらいなかまるより、通寺町とほりてらまち肴町さかなまち毘沙門びしやもん(まへ)はしつて、みなみ神樂坂上かぐらざかうへはしりおりて、そのしたにありける露地ろぢいへ飛込とびこんで……打倒うちたふれけるかはりに、二階にかい駈上かけあがつたものである。あま眞面目まじめだからわらひもならない。「まあ、落着おちつきたまへ。――景氣けいきづけに一杯いつぱい。」「いゝえ、かへります。――成程なるほどねこ屋根やねづたひをして、まどのぞかないものとはかぎりません。――わかりました。――いえうしてはられません。ぼくがキヤツとつて、いきなり飛出とびだしたもんですから、あれが。」とふのが情婦いろで、「一所いつしよにキヤツとつて、跣足はだし露地ろぢくらがりを飛出とびだしました。それつきり音信いんしんわかりませんから。」あわててかへつた。――知合しりあひたれとかする。やがて報知新聞はうちしんぶん記者きしや、いまは代議士だいぎしである、田中萬逸君たなかまんいつくんそのひとである。反對黨はんたいたうは、ひやかしてやるがいゝ。
[現代語訳] 今昔物語集によれば、山城国次官の三善春家は、前の世ではがま(・・)だったのか、蛇を非常に恐れていた。――夏のころ、築山が藤原良房の邸宅から南東方にあり、その木陰で、貴人二、三人と春家は涼んでいた。春家がいた側から、1メートルぐらいの黒っぽい蛇が這い出てきたが、春家はまだ気がつかず、ところが、貴人は、おい見てくれ、春家、と、袖から30cmほど離れた蛇を指さした。春家の顏の色は腐ったように青色になって、一声あっと叫び、立とうとして二度倒れた。裸足で、その藤原邸の東門から走り出て、北方に走り、一条より西へ、西洞院、それから南へ、洞院下へと走った。家は土御門西洞院にあるので、駈け込むと同時に倒れた、という説話がある。その昔については知らないが、この男は、牛込南榎町を東に走って、矢来中の丸から、通寺町、肴町、毘沙門前を走って、南に神楽坂上を走りおり、その下にあった路地の家へ飛びこんで……倒れるかわりに、二階へ駈け上ったものである。あまり生真面目だから笑うこともできない。「まあ、落ち着きたまえ。――景気づけに一杯。」「いいえ、帰ります。――なるほど、猫は屋根を伝って、窓をのぞかないものとは限りません。――わかりました。――いえ、そうしてはいられません。ぼくがキャッといって、いきなり飛びだしたもんですから、あの人も。」とは情婦で、「一緒にキャッといって、裸足で露地の暗がりに飛びだしました。それっきり音信がわかりませんから。」慌てて帰った。――この知い合いは誰だろう、かの報知新聞の記者、いまは代議士の、田中万逸君その人である。反対党は、ひやかしをしてみるがいい。

山城介 山城国の次官
染殿 そめどの。摂政藤原良房の邸宅。
辰巳 たつみ。方角の名。南東。辰と巳との間。
 築山。つきやま。庭園などに小高く土を盛って作ったもの。
君達 ここでは、貴人や目上の人をいう語。お方。
朽ちる くちる。腐ってぼろぼろになる。
すはだし 素裸足。足に何もはいてないこと。はだし
斉しく ひとしく。等しく。全体的に一様で。どれも同じ。同様。ともに。そろって同じ行動をとる。同時に。一斉に。するや否や。
今昔物語集 平安後期の説話集。編者未詳。1059話(うち本文を欠くもの19話)を31巻に編成。ただし巻八、巻十八、巻二十一は欠巻。本朝部の説話はあらゆる地域と階層の人間が登場。生き生きした人間性を描写。
大正11年。東京市牛込区。南榎町 牛込。右図を。以前の鏡花氏の家が見えます。
矢来町中の丸 右図を。
通寺町 右図を。現在は神楽坂6丁目
肴町 右図を。現在は神楽坂5丁目
毘沙門 右図を。
神楽坂上 右図を。
露地の家 今(当時)の鏡花氏の家です。

が、その、もう一度いちどおびやかされた。眞夜中まよなかである。そのころ階下した學生がくせいさんが、みし/\と二階にかいると、寢床ねどこだつたわたしまくらもとで大息おほいきをついて、「へんです。……どうもへんなんです――縁側えんがは手拭掛てぬぐひかけが、ふはりと手拭てぬぐひけたまゝで歩行あるくんです。……トン/\トン、たゝらをやうにうごきましたつけ。おやとおもふとはすかひに、兩方りやうはうひらいて、ギクリ、シヤクリ、ギクリ、シヤクリとしながら、後退あともどりをするやうにして、あ、あ、とおもふうちに、スーと、あのえんつきあたりの、戸袋とぶくろすみえるんです。へんだとおもふと、またまへ手拭掛てぬぐひかけがふはりとて……ると、トントントンとんで、ギクリ、シヤクリ、とやつて、スー、うにも氣味きみわるさつたらないのです。――一度いちどてみてください。……矢來やらいねこが、田中君たなかくんについてたんぢやあないんでせうから。」五月雨さみだれはじと/\とる、そと暗夜やみだ。わたし一寸ちよつと悚然ぞつとした。
[現代語訳]] が、その夜、もう一回、おびやかされた。真夜中である。その頃階下にいた学生さんが、みしみしと二階へくると、寝床だった私の枕もとで大きな息をついて、「へんです。……どうもへんなんです――縁側の手拭掛けが、ふわりと手拭をかけたままで歩くんです。……トントントン、ふいごを踏むように動きましたっけ。おやと思うと斜めになって、両方へ開いて、ギクリ、シャクリ、ギクリ、シャクリとしながら、後退をするようにして、あ、あ、と思ううちに、スーと、あの縁の突きあたりの、戸袋の隅へ消えるんです。へんだと思うと、また目の前へ手拭掛けがふわりとでて……出ると、トントントンと踏んで、ギクリ、シャクリ、とやって、スー、どうにも気味の悪るさったらないんです。――一度見てみて下ください。……矢来町の猫が、田中君くんについて来たんじゃあないでしょうか。」五月雨はじとじとと降り、外は闇だ。私もちょっとぞっとした。

たたらを踏む 踏鞴を踏む。たたらは送風装置のふいごのこと。ふいごを踏んで空気を送る。勢いよく向かっていった的が外れて、から足を踏む。

春着|泉鏡花⑥

文学と神楽坂

 はゝあ、怪談くわいだんりたさに、前刻さつきたぬき持出もちだしたな。――いや、あへうではない。
 ふものか、のごろわたしのおともだちは、おばけとふとまゆひそめる
 口惜くやしいから、紅葉先生こうえふせんせい怪談くわいだんひとかせよう。先生せんせい怪談くわいだんきらひであつた。「いづみが、またはじめたぜ。」そのたゞひとつの怪談くわいだんは、先生せんせいが十四五のとき、うらゝかなはる日中ひなかに、一人ひとり留守るすをして、ちやにゐらるゝと、臺所だいどころのおへツつひえる。……へツつひかどに、らくがきのかにのやうな、ちひさなかけめがあつた。それがひだりかどにあつた。が、陽炎かげろふるやうに、すつとみぎかどうごいてかはつた。「たゞそれだけだよ。しかしいまでも不思議ふしぎだよ。」とのことである。――ねこまどのぞいたり、手拭掛てぬぐひかけをどつたり、へツつひかにつたり、ひよいとさいつてたやうである。はるだからお子供衆こどもしう――に一寸ちよつと……ばけもの雙六すごろく。……
[現代語訳] ははあ、この怪談をやりたくて、さっき狸を持出したな。――いや、全然違う。
 どういうものかわからないが、このごろ私のおともだちは、おばけというと眉をひそめる。
 くやしいから、紅葉先生の怪談をひとつ聞かせてみよう。先生も怪談はきらいであった。「泉が、またはじめたぜ。」そのただひとつの怪談は、先生が十四、五の時、うららかな春の日中に、ひとりで留守をしていたが、茶室にいると、台所のかまどが見える。……かまどの角に、らくがきで書いた蟹のやうな、小さな割れ目があつた。それが左の角にあった。が、陽炎にのるように、すっと右の角へ動いた。「ただそれだけだよ。しかし今でも不思議だよ。」とのことである。――猫が窓を覗いたり、手拭掛けが踊ったり、かまどの蟹がはったり、ひょいとさいころを振って出でたようである。春から子供衆に――ちょっと……化け物すごろくだ。……

敢えて。特に取り立てるほどの状態ではないことを表す。必ずしも。打消しを強める。少しも。全く。
眉を(ひそ)める。他人の嫌な行為に不快を感じて顔をしかめる。眉根を寄せる。
竈。かまど。へっつい。 土・石・煉瓦などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。
かけめ。欠け目。欠目。不足した目方。減量。欠けて不完全な部分。
陽炎。かげろう。春、晴れた日に砂浜や野原に見える色のないゆらめき。大気や地面が熱せられて空気の密度が不均一になり、通過する光が不規則に屈折するため見られる現象。
賽。さい。さいころとも。立方体に1〜6の目を刻み、すごろくや賭博等に用いる遊具。
化け物双六。双六は紙面を多数に区切って絵を描いたものを用いる。化け物双六は絵に化け物が書いてある。数人が順にさいを振って、出た目の数だけ区切りを進み、早く最後の区切り(上がり)に達した者を勝ちとする遊び

 なき柳川春葉やながはしゆんえふは、よくつみのないうそつて、うれしがつて、けろりとしてた。――「按摩あんまあ……はありツ」とたちまみつきさうに、霜夜しもよ横寺よこでらとほりでわめく。「あ、あれはね(按摩あんま)とつてね、矢來やらいぢや(いわしこ)とおんなじに不思議ふしぎなかはひるんだよ」「ふう」などと玄關げんくわん燒芋やきいもだつたものである。花袋くわたい玉茗ぎよくめい兩君(りやうくん)が、そちこち雜誌類ざつしるゐえたころ、よそからかへつてるとだしぬけに「きみ、いてたよ。――花袋くわたいふのは上州じやうしう或大寺あるおほでら和尚をしやうなんだ、花袋和尚くわたいをしやう僧正そうじやうともあるべきが、をんなのために詩人しじんつたんだとね。玉茗ぎよくめいふのは日本橋室町にほんばしむろまち葉茶屋はぢやや若旦那わかだんなだとさ。」
[現代語訳] 亡き柳川春葉は、よく罪のない嘘をいって、うれしがって、けろりとしていた。――「按摩あ……鍼っ」と急にかみつくように、霜の降る夜、横寺町の通りでわめく。「あ、あれはね(ほえ按摩)といってね、矢来町じゃ(鰯こ)とおなじで、不思議の中へはいるんだよ」「ふう」などと玄関でやきいもを食べた時にいったものだ。田山花袋太田玉茗の二人の名前が、あちこちの雑誌類にみえた時も、よそから帰ってくるとだしぬけに「きみ、聞いてきたよ。――花袋というのは群馬県のある大寺の和尚なんだ。花袋和尚。僧正ともあるべき人が、女のために詩人になったんだとね。玉茗というのは日本橋室町の葉茶屋の若旦那だとさ。」

上州。じょうしゅう。上野(こうずけ)国の別名。群馬県のほぼ全域。
葉茶屋。はちゃや。茶の葉を売る店。

このひとのいふのだからあてにはらないが、いま座敷ざしきうけの新講談しんかうだん評判ひやうばん鳥逕子てうけいしのおとうさんは、千石取せんごくどり旗下はたもとで、攝津守せつつのかみ有鎭いうちんとかいて有鎭ありしづとよむ。村山攝津守むらやませつつのかみ有鎭ありしづ――やしき矢來やらい郵便局いうびんきよく近所きんじよにあつて、鳥逕てうけいとはわたしたち懇意こんいだつた。渾名あだなとび鳥逕てうけいつたが、厚眉こうび隆鼻りうびハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町はらひかたまち教會けうくわい背負しよつてつた色男いろをとこで……おとうさんの立派りつぱ藏書ざうしよがあつて、わたしたちはよくりた。――そのおとうさんをつてるが、攝津守せつつのかみだか、有鎭ありしづだか、こゝが柳川やながはせつだからあてにはらない。その攝津守せつつのかみが、わたしつてるころは、五十七八の年配ねんぱい人品ひとがらなものであつた。つい、そのころもんて――あき夕暮ゆふぐれである……何心なにごころもなく町通まちどほりをながめてつと、箒目はゝきめつたまちに、ふと前後あとさき人足ひとあし途絶とだえた。そのとき矢來やらいはうから武士ぶし二人ふたりて、二人ふたりはなしながら、通寺町とほりてらまちはうへ、すつととほつた……四十しじふぐらゐのと二十はたちぐらゐの若侍わかざむらひとで。――るうちに、郵便局いうびんきよくさかさがりにえなくなつた。あゝ不思議ふしぎことがとおもすと、三十幾年さんじふいくねんの、維新前後ゐしんぜんごに、おなじとき、おなじせつ、おなじもんで、おなじ景色けしきに、おなじ二人ふたりさむらひことがある、とおもふと、悚然ぞつとしたとふのである。
 これすこしくものすごい。……
 初春はつはることだ。おばけでもあるまい。
[現代語訳] この人がいうのだからあてにはならないが、いま宴会でうけのいい新講談で、評判も高い鳥径子のお父さんは、千石取りの旗下で、摂津守、有鎮(ゆうちん)とかいて有鎮(ありしづ)とよむ。村山摂津守の有鎮で――その邸宅は矢来の郵便局の近所にあって、鳥径は私たちにとっては懇意だった。渾名を鳶の鳥鎮といったが、眉は厚く鼻は高く、ハイカラのクリスチャンで、そのころ払方町の教会をしょってたった色男で……お父さんの立派な蔵書があって、私たちはよく借りた。――そのお父さんを知っているが、摂津守なのか、有鎮なのか、ここが柳川の説だからあてにはならない。私の知っている頃は、その摂津守は、五十七八の年配で、人柄もよく、その話では、その頃、門へでて――秋の夕暮である……なんの心構えもなく町通をながめて立っていると、箒で地面を掃いた町に、ふと前後の人足がとだえた。その時、矢来町の方から武士が二人やってきて、二人で話しながら、通寺町の方へ、すっと通った……四十ぐらいの人と二十ぐらいの若侍だった。――すると、みるうちに、郵便局の坂を下がってみえなくなった。ああ不思議なことがあると思いだすと、三十余年の前にも、維新前後に、同じ時間、同じ時期、同じ門で、同じ景色に、同じ二人の侍を見たことがある、と思うと、ぞっとしたというのである。
 これはいささか、もの凄い。……
 初春のことだ。おばけでもあるまい。

座敷。宴会の席。酒席。また、酒席での応対。
新講談。講談の様式と題材を採り入れて、最初から書き言葉で表現した物語。大正2年、講談社の『講談倶楽部』が掲載した。のちに大衆文学に推移した。
摂津守。せっつのかみ。大阪府北中部の大半と兵庫県南東部。
忽ち。たちまち。非常に短い時間のうちに動作が行われる様子。すぐ。即刻。突然、ある事態が発生する様子。にわかに。急に。にわかに。急に。
払方町の教会。右図を参照。
箒目。ほうきめ。箒で地面を掃いたあとの模様。
悚然。しょうぜん。竦然。恐れて立ちすくむ様子。こわがる様子。慄然(りつぜん)。 少しく。わずかに。すこし。いささか。

春着|泉鏡花⑦

 春着はるぎにつけても、ひとつやつぽいところをおけよう。
 ときに、川鐵かはてつむかうあたりに、(水何みづなに)とかつた天麩羅屋てんぷらやがあつた。くどいやうだが、一人前いちにんまへ、なみで五錢ごせん。……横寺町よこでらまちで、おぢやうさんのはつのお節句せつくときわたしたちはこれ御馳走ごちそうつた。その時分じぶん先生せんせい御質素ごしつそなものであつた。二十幾年にじふいくねんもつとわたしなぞは、いまもつて質素しつそである。だんは、勤儉きんけんだいして、(大久保おほくぼ)のいんしてもい。
[現代語訳] 新春の着物につけても、ひとつ艷っぽいところをお目にかけよう。
 そのとき、川鉄のむかうあたりに、(水何)とかいった天麩羅屋があった。くどいようだが、一人前、並で五銭。……横寺町で、お孃さんの最初のお節句の時、私たちはここでご馳走になった。その時分、尾崎紅葉先生の生活は御質素なものだった。二十数年が経つが、もっとも私なぞは、今もって質素である。この場合は、勤倹と題して、(大久保)の印を押してもいい。

水何 これは岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」によれば、「水文料理」だったのでしょうか。ほかには全くありません。
 初めてであること。初め。最初。
 技量・品質などによる格付け。また、その格。変化・進行している物事の過程の一つ一つ。場面。局面

 その天麩羅屋てんぷらやの、しかも蛤鍋はまなべ三錢さんせんふのをねらつて、小栗をぐり柳川やながは徳田とくだわたし……宙外ちうぐわいくんくははつて、大擧たいきよして押上おしあがつた、春寒はるさむ午後ごごである。銚子てうしいりわるくつて、しかも高値たかいとふので、かただけあつらへたほかには、まち酒屋さかやから、かけにしてばん口説くどいた一升入いつしよういり貧乏徳利びんぼふどくりたれかが外套ぐわいたうちう。おなじく月賦げつぷ……這個このまつくろなのを一着いつちやくして、のそ/\と歩行あるやつを、先生せんせいあざけつて――月府げつぷげんせん。)のしたしのばしたいきほひだから、氣焔きえんと、殺風景さつぷうけいしてるべしだ。……酒氣しゆき天井てんじやうのではない、いんこもつてたゝみけこげをころまはる。あつかんごと惡醉(あくすゐ)たけなはなる最中さいちう
[現代語訳] その天麩羅屋の、しかも蛤鍋三銭というのを狙って、小栗柳川徳田……宙外君が加わって、大挙して店の上に登った。春の寒い午後である。お銚子は効いてこなくって、しかも高値というので、注文は一本だけで、ほかには、町の酒屋の番人にあと払いにと口説き、一升入りの貧乏徳利を誰かが外套の下に(註。外套はおなじく月賦で買ったもの……この真っ黒な着物をつけ、のそのそと歩く人を、先生は嘲って――月府黒蝉と呼ぶ)、勢いで忍ばしたので、威勢のよさと、殺風景なのはよくわかる。……酒気をおびて天井の一点を強く押すのではない。陰にこもって畳の焼けこげを転んでいるのだ。あつ燗で火のような悪酔いは、今や、たけなわである。

大挙 たいきょ。多数のものが一団となって行動すること
銚子 燗をつけた酒を移し入れる器。現代では銚子と徳利はまず同じ意味。
いり はいること。収入。費用。分量やはいりぐあい。かかり
 一定のやり方。作法。きまり。ひとそろい。
かけ 掛け。掛け買い。代金あと払いの約束で品物を買うこと。
 交代して行われる勤務。順送りに入れ替り事に当たること。順番。注意して見張ること。番人。

貧乏徳利 びんぼうどくり。びんぼうどっくり。円筒形の上部に長めの口をつけた陶製の粗末な徳利。
 げん。黒い色。黒。
忍ぶ しのぶ。他人に知られないようにこっそりと何かをする。
勢い はずみ。なりゆき。
気焔 きえん。気炎。燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。
衝く 細い物で一点を強く押す。弱点などを攻める。刺激する。物ともせず進む。
悪酔い わるよい。酒に酔って頭が痛くなったり、吐き気を覚えたり、まわりの人が不快になる言動をとること
 たけなわ。酣。行事・季節などが最も盛んになった時。

連樣つれさまつ――と下階したから素頓興すとんきようこゑかゝると、「みんなるかい。」と紅葉先生こうえふせんせいこゑがした。まさか、壺皿つぼざらはなかつたが、驚破すはことだと、貧乏徳利びんぼふどくり羽織はおりしたかくすのがある、誂子てうしまた引挾ひつぱさんで膝小僧ひざこぞうをおさへるのがある、なべ盃洗はいせんみづ打込ぶちこむのがある。わたしをついてかしこまると、先生せんせいにはお客分きやくぶん仔細しさいないのに、宙外ちうぐわいさんもけむかれて、かた四角しかくすわなほつて、さけのいきを、はあはあと、もつぱらピンとねたひげんだ
[現代語訳] おつれさまっ――と下階から素っ頓狂な声がかかると、「みんないるかい。」という尾崎紅葉先生の声がした。まさか、本膳料理などの食器はなかったが、すわ、ことだと、貧乏徳利を羽織の下へ隱す人がいる。銚子を股へ挾んで膝小僧をおさえる人がいる。杯をすすぐ器の水を鍋へぶちこむ人がいる。私が手をついて畏まると、先生にとってはお客分で何もないのに、宙外さんも煙に巻かれて、肩を四角にして、座り直して、酒の息ははあはあとして、専らピンとはねた、ほおひげをもんでいた。

素頓興 すっとんきょう。素っ頓狂。ひどく調子はずれで、まぬけな様子。
壺皿 つぼざら。本膳料理などに使う、小さくて深いふた付きの食器。
すわ 突然の出来事に驚いて発する語。そら。さあ。あっ。
盃洗 はいせん。杯洗。酒宴の席で、人に酒をさす前に杯をすすぐ器。杯洗い。
子細ない しさいない。仔細無い。さしつかえない。構わない。これといった問題もない。
 髯は「ほおひげ」のこと。
揉む もむ。両方のてのひらで物を挟んでこする。

 ――ところへ……せりあがつておいでなすつた先生せんせいは、舞臺ぶたいにしてもせたかつた。すつきりをとこぶりのいゝところへ、よそゆきから歸宅きたくのまゝの、りうとしたつけである。勿論もちろん留守るすねらつておよしたのであつたが――そろつて紫星堂しせいだうじゆく)をたといて、その時々とき/″\弟子でし懷中くわいちう見透みとほによくわかる。明進軒めいしんけん島金しまきん飛上とびあがつて常磐ときははこはひる)とところを、奴等やつら近頃ちかごろ景氣けいきでは――蛉鍋はまなべと……あたがついた。「いや、さかんだな。」と、火鉢ひばちを、鐵火てつくわめしまたはさんで、をかざしながら莞爾につこりして、「後藤ごとうくん、おらくに――みなみなよ、おれわり一杯いつぱいやらう。」殿樣とのさま中間部屋ちうげんべやおもむきがある。おそれながら、此時このとき先生せんせい風采ふうさい(おも)ふべしで、「懷中ふところはいゝぜ。」とたゝかるゝ。おうじて、へいと、どしん/\とあがつた女中ぢよちうが、次手ついで薄暗うすぐらいからランプをつけた、つりランプ(……あゝひさしいがいまだつてランプなしにはられますか。)それがちやう先生せんせいかたうへ見當けんたうかゝつてた。
[現代語訳] ――ところへ……下から上がっていった先生は、舞台にでるかのように立派に見えた。すっきりして、男ぶりの高いところに加えて、外出から帰宅したままの、りゅうとした着物を着ている。もちろん妻子の留守をねらってここに来たのだが――一同がそろって紫星堂(塾)から出たと聞き、その時々の弟子の財布は洞察すると、よく分かる。明進軒か志満金、よくて常磐(芸者が入る)だろう。やつらの近頃の景気では――蛉鍋ではないか……と、見当がついた。「いや、盛んだな。」と、真っ赤になった欠け火鉢を、着物の股へはさんで、手をかざしながら、にっこりして、「後藤君、お楽に――皆も飲みなよ、俺もワリカンで一杯やろう。」殿樣が下級武士の長屋にやってきたという趣きがある。おそれながら、このとき、先生の風采を考えてほしい。先生は「財布はいいぜ。」と手をたたいた。この手に応じて、へいと答え、どしんどしんとあがった女中が、ついでに薄暗いのでランプをつけた、吊りランプ(……ああ、懐かしいランプ。いまではランプなしにはいられますか。)が、ちょうど、先生の肩の上というところに掛かっていた。

よそゆき 余所行き。よそへ行くこと。外出すること。よそいき。
迫り上がる せりあがる。下から上へすこしずつ上がってゆく。
着つけ きつけ。着付け。衣服、特に和服を形よく着ること。着せること。
紫星堂 詩星堂。
りゅうと 隆と。身なりや態度などが立派で目立つ様子
懐中 ふところやポケットに入れているもの。特に財布・紙入れなど
見通し みとおし。遠くの方まで見えること。他人の本心や考えなどを見抜くこと。洞察。
飛上る 喜びや驚きのために、思わず飛びはねる。
あたり 手掛かり。見当。
はこ 三味線を入れる箱。三味線。転じて、芸者。「はこが入る」
缺け 欠け。かけること。かけていること。かけてこわれた部分。かけら。
鉄火 真っ赤に焼けた鉄。やきがね。
お召し おめし。着る人を敬って、その着物をいう語。
 割り勘でしょう。費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。
中間部屋 近世の武家屋敷内の長屋。
風采 ふうさい。外部から見た、人の容姿や身なりなどの様子
釣りランプ 天井などからつり下げてあるランプ。
見当 未知の事柄について立てた見込み。予想。大体の方向・方角。

面疱にきびだらけの女中ねえさんが燐寸マツチつてけて、さしぼやをさすと、フツとしたばかり、まだのついたまゝのもえさしを、ポンとはすつかひげた――(まつたく、おたがひが、所帶しよたいつて、女中ぢよちうこれにはなやまされた、用心ようじんわるいから、それだけはよしなよ。はい、とくちしたから、つけさしのマツチをポンがおさだまり……)先生せんせいひざにプスツとちた。「女中ねえや、お手柔てやはらかにたのむぜ。」と先生せんせい言葉ことばしたに、ゑみわれたやうなかほをして、「れた證據しようこだわよ。」やや、とみなかほる。……「れたに遠慮ゑんりよがあるものかツてねえ、……てね、……ねえ。」とあまつたれる。――あ、あ、ああぶない、たな破鍋われなべちかゝるごとく、あまつさべた/\とくづれて、薄汚うすよごれた紀州きしうネルひざから溢出はみださせたまゝ、……あゝ……あゝつた!……男振をとこぶり音羽屋おとはや特註とくちう五代目ごだいめ)の意氣いきに、團十郎だんじふらう澁味しぶみくはゝつたと、下町したまちをんなだちが評判ひやうばんした、御病氣ごびやうき面痩おもやては、あだにさへもえなすつた先生せんせいかたへ、……あゝかじりついた
 よゝつツと、宙外君ちうぐわいくんまらず奇聲きせいふのをげるにれて、一同いちどうが、……おめでたうととなへた。
[現代語訳] にきびだらけの女中さんがマッチを擦って火をつけ、それから本体に点火して、フッと火を消し、まだ火のついたままの燃えさしを、ポンと斜めに投げた――(まったく、お互いが、所帯を持って、女中のこれには悩まされた。火の用心が悪いから、それだけはよしなよ。はい、というその口の下から、つけさしのマツチをポンと棄てる。それがお定まり……)と、燃えさしは先生の膝にプスッと落ちた。「ねえや、お手柔らかに頼むぜ。」と先生の言葉。しかし、女中さんは微笑するような顏をして、「惚れた証拠だわよ。」おやおや、と全員が顔を見る。……「惚れたに遠慮があるものかってねえ、……てね、……ねえ。」と甘ったれた様子もする。――あ、あ、あ、危ない。棚の割れた鍋が落ちかかるように、いや、それどころか、べたべたと崩れて、薄汚れた暖かいネルを膝からはみださせたままで、……ああ……ああ、やった!……先生の男ぶりは音羽屋(特に註を加えると、五代目である)の意気と団十郎の渋みが加わったと、下町の女たちは評価するのだが、御病気のため顔はやつれていて、色っぽくさえも見える先生の肩へ、……ああ、かぶりついた。
 よよっと、宙外君がたまらず奇声というのを上げて、同時に、一同は、……おめでとうと声を上げた。

挿しぼや 小さな火を他の物の間に入れる。
はすっかい 斜っ交い。斜めに。斜めにまじわること。
破鍋 破損した鍋。
あまつさえ さらに別の物事が加わるさま。多くは悪い事柄が重なるときに使う。
紀州ネル 綿生地を起毛させた平織り生地。明治初期に、紀州の瀬戸重助が作り始めた。特徴はやわらかさとあたたかさ。
男振り おとこぶり。男としての容貌・風采。特に、堂々とした男らしい顔だちや態度など。おとこっぷり。
面窶れ おもやつれ。病気や心配事などのため、顔がやつれること。
あだ なまめかしく美しいさま。色っぽいさま。
齧り付く かじりつく。物の端に勢いよく歯を立てる。ぎゅっとかじる。食いつく。

 それよりして以來いらい――癇癪かんしやくでなく、いきどほりでなく、先生せんせいがいゝ機嫌きげんで、しかも警句けいくくもごとく、弟子でしをならべて罵倒ばたうして、いきほひあたるべからざるときふと、つゝきつて、くばせして、一人ひとりすこしくまかる。「先生せんせい……(みづ)……」「なに。」「蛤鍋はまなべへおともは如何いかゞで。」「馬鹿ばかへ。」「いゝえ、大分だいぶ女中ねえさんがこがれてりますさうでございまして。」かたはらから、「えゝわづらつてるほどだとまをしますことですから。」……かねて、おれをおもをんなならば、つかちでもはなつかけでもとふ、御主義ごしゆぎ?であつた。――
 紅葉先生こうえふせんせい、そのとき態度たいどは……

采菊東籬下きくをとうりのもとにとつて
悠然見南山いうぜんとしてなんざんをみる
大正十三年一月
[現代語訳] それ以来――かんしゃくではなく、憤りでもなく、先生がいい機嫌になっていて、しかも弟子をならべて、警句が雲の如くに出てきて、罵倒し、勢いはあたるべからずという時に、つつき合って、目くばせして、一人が座布団から少し身を出して、「先生……(水)……」「なに。」「蛤鍋へおともはいかがで。」「馬鹿を言え。」「いいえ、だいぶ、女中が、焦がれておりますそうでございまして。」そばからも「ええ、わずらっているほどだと申しますから。」……かねて、おれを思う女ならば、目っかちでも鼻っかけでもいこうという、御主義?であった。――
 紅葉先生、その時の態度は……

    菊を()東籬(とおり)のもと
    悠然として南山を見る。
大正十三年一月

警句 けいく。短く巧みな表現で、真理を鋭くついた言葉。
目くばせ 目配せ。目を動かして、意思を伝えたり合図をしたりすること
目っかち めっかち。一方の目が見えないこと。また、両目の大きさにかなりの差があること。
鼻っかけ はなかけ。鼻が欠けおちていること。梅毒になる場合が多かった。
采菊東籬下 悠然見南山 菊を()東籬(とおり)のもと 悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見る。東の垣根の下で菊を採り、のんびりと南の山を眺める。陶淵明(365~427)の作。「飲酒二十首 其五」から。
悠然 ゆうぜん。ゆったりと落ち着いている。

漱石と『硝子戸の中』29

文学と神楽坂

二十九
 私は両親の晩年になってできたいわゆるすえである。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々はかえされている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私をにやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世とせいにしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多がらくたといっしょに、小さいざるの中に入れられて、毎晩四谷よつやの大通りの夜店にさらされていたのである。それをある晩私のが何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れてうちへ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。
 私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込うつされた私は、生れたうちへ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺おじいさん、御婆おばあさんと呼んでごう怪しまなかった。むこうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通のすえのようにけっして両親から可愛かわいがられなかった。これは私の性質が素直すなおでなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷かこくに取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆じじばばとのみ思い込んで、どのくらいの月日をくうに暮らしたものだろう、それをかれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼をましたが、周囲あたり真暗まっくらなので、誰がそこに蹲踞うずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語みみこすりをするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父おとっさんと御母おっかさんなのですよ。先刻さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちのうちが好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心のうちでは大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

四つの歳 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、養子に行った年月は4説あります。
(1)明治1年4~5月頃。(関荘一郎)
(2)「明治元年11月中私2歳の砌」(金之助・昌之助・直克・田中重兵衛(親類)らの連署を下谷区長に提出した「戸籍正誤願」から)
(3)「明治2年11月中右金之助3歳の砌養子に差出置候處」(金之助の父小兵衛(直克)と塩原昌之助の間に紛争が生じた際の「手続書」から)
(4)「それは慥私の四つの歳であつたやうに思ふ。」(『硝子戸の中』)
荒正人氏は(3)より(2)が正しいと考えられると述べています。つまり数え年で2歳、満年齢では1歳です。
両親の晩年 夏目小兵衛(こへえ)直克(なおかつ)は51歳、母の千枝は42歳で、漱石が生まれました。漱石は8人兄弟の末子でした。
年歯 ねんし。年齢。とし。よわい。
間もなく 生後4ヶ月です。
 さと。養育費を出して子供を預けておく家。
渡世 生活する職業。なりわい。生業。稼業。
夫婦もの 漱石は最初は里子として夏目鏡子氏によれば四谷の古道具屋に、小宮豊隆氏によれば源兵衛村(現・新宿区戸塚)の八百屋に出されています。
 ざる。細長くそいだ竹や針金・プラスチックを編んで作った中くぼみの器
四谷 新宿区の1地名。旧四谷区の地域
 夏目鏡子氏の『漱石の思ひ出』によれば「高田の姉さん」でした。漱石の腹違いの二番目の姉で、房です。
ある家 内藤新宿の塩原昌之助・妻やすを養父母に。
ごたごた 養父の不倫と、引き続く養父母の離婚でした。
実家へ戻る 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治8年12月末から9年初めまでに、塩原家に在籍のまま、再び夏目家に引き取られたといいます。満8歳でした。
牛込 牛込馬場下横町です。
豪も 少しも。ちっとも。
 事実でないこと。よりどころのないこと。
耳語 みみこすり。耳擦り。そっとささやくこと。耳打ち

砂土原町|入江相政

文学と神楽坂

%e5%85%a5%e6%b1%9f%e7%9b%b8%e6%94%bf 入江(いりえ)相政(すけまさ)氏は東大卒で、官僚、歌人、随筆家。学習院大教授をへて、昭和9年宮内省侍従になり、侍従長を長く務めました。生年は明治38年6月29日。没年は昭和60年9月29日。80歳で死亡しました。
 入江相政氏の「余丁町停留所」(人文書院、1977年)では

 昭和八年に、同じ牛込の、砂土原町に新居を構えた。「新居を構える」などと言えばいかにも自力で一軒建てたようにも聞えるけれど、土地は家内の母にめぐまれ、家は私の父が建ててくれた。地面は三百三十坪、建て坪は六十何坪、まさに贅沢過ぎるものだった。父は言った、「これは、お前の分には過ぎたもの。お前はこれを競争相手と思い、この家と自分とをくらべて、この家にはずかしくないような人になれ」と。これは大変なことになったと思った。
 長女ができてから、ここに移り、ここに移ってすぐ長男が生まれた。二人の子供が小学生になるころ、つまり昭和十何年という時、つくづく思ったのは、道路は舗装され、暖房は発達、車はふえて、東京はますます自然を遠ざける。だからなんとか工夫を重ねて、自然をここに招き寄せる。また一方では、自然の中にはいっていかなければならない、と。
 庭が広かったから、そこに花の咲く木を植えた。「先ず咲く」がその語源というマンサク、卵の薄焼きを細く切ったような黄色い花に、近づく春を楽しもう。サンシュユはどこに植えるか。ハクモクレンは中国からの伝来、あの花の下には、樹下美人のような女でも、立たせなくては。

砂土(さど)(はら) おそらく砂土原町2丁目でしょう。あと一歩で浄瑠璃坂を登りおえる場所にあり、現在はマンションがいっぱいになりました。都市製図社の『火災保険特殊地図』では「入江」と書いた場所があります。砂土原町の説明は『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)によると「江戸時代は武家地であった。市谷田町三丁目から船河原町続きの裏通りとその周辺の武家屋敷一帯を俗に砂土原と呼んでいた。本多佐渡守正信の別邸があったためで、佐渡原、佐渡殿原とも呼ばれていた(町方書上)。また、この本多邸跡の土を取って外堀端を埋め立てて市谷田町を造成したので、土(砂土)取場とも呼んだ。佐渡と砂土は同音であるため、砂土原と書いた」

砂土原・昭和12年と現在

マンサク マンサク科マンサク属の落葉小高木。マンサクの語源は明らかでないが、早春に咲くことから「まず咲く」「まんずさく」が東北地方で訛ったものとも。
サンシュユ 山茱萸。ミズキ目ミズキ科の落葉小高木。
ハクモクレン 白木蓮。モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。白色の花をつける。

3種の植物

 同じく「陛下側近として五十年」(講談社、1986年)では

 わが家はもと牛込砂土原町にあったが、親類中で一番あとまで焼けのこるだろうなどといわれていたのだが、二十年三月九日、十日、あの下町の大空襲の晩に、まっ先かけて焼けてしまった。妻や子は、それから疎開して東京を離れ、私は家が無いから、ほとんどつとめ先にとまりつづけていた。
 しばらく経って行ってみたら、わか焼けあとに、半地下式の壕舎(ごうしゃ)が建てられている。市ケ谷の陸軍省、参謀本部が近かったので、軍は地主には無断で、焼跡の方々にこれを建て、万一、陸軍省などが爆撃された場合には、この壕舎に分散して軍務を()り、戦争を遂行しようとしたのである。
 それが、そこまで行かないうちに、八月に戦いはおわった。秋には妻も二人の子供も、疎開先からかえってくることになった。家を建てようにも建てられないので、五,六坪のその壕舎に、いくらか床の板を張ったりして住むことにした。
 壕舎というのは、つまり屋根がペシャンコにつぶれたような格好をしている。だから()ていて上を見ると、天井が無いから、目の上はいきなり屋根裏ということになる。屋根には防水の紙を張り、その紙を釘で打ちつけた。その釘の先がたくさん突き出ている。ふだんは目立たないのだが、気温が零度以下に下ると、白いものかポッポッとちりばめられる。室内に臥ているわれわれ親子のぬくもりが、霜となって釘の先にくっつくわけである。
   屋根裏を 貫き出でし 錆釘に
   あかとき白く 霜降れる見ゆ
は、その時に()んだものである。
 楽しみながら自然たまった書斎の本のすべてを失い、父からも譲られ、また自分でも集めた書画の類も、ほとんど烏有(うゆう)に帰した。万策尽きたはずではあったが、もう一遍日本を建て直し、ふたたび繁栄させなくてはという、天皇陛下の御意気ごみにつづいて、われわれも、案外、昂然たる風だった。

壕舎 ごうしゃ。敵の襲撃に備えて地中につくった部屋。防空壕
あかとき 「明時=あかとき」は「あかつき」の古形。夜半から明け方までの時刻。
烏有 うゆう。全くないこと。何も存在しないこと
昂然 こうぜん。自信に満ちて、意気盛んなさま


東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は第二次世界大戦で戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代

 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に。

     若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。

       若宮会前会長 細川八郎

 現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

馬場邸

最高裁判所長官公邸

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」


啄木の死亡

文学と神楽坂

 明治45(1912)年4月13日、啄木は26歳で死亡しました。
 明治45(1912)年5月1日、北原白秋は『朱欒(サンボア)』(2巻5号)の「余録」で、

○石川啄木氏が死なれた。私はわけもなく只氏を痛惜する。ただ黙つて考へやう。赤い一杯の酒が、薄汚ない死の手につかまれて、ただ一息に飲み干されて丁つたのだ。氏もまた百年を刹那にちぢめた才人の一人であつた。

 ここでの『朱欒(サンボア)』は文芸雑誌の名前ですが、本来のサンボア(zamboa)はポルトガル語からきたもので、インドネシア由来の常緑小高木を示します。しかし、サンボアよりも同じ意味のザボンや文旦(ぶんたん)のほうがはるかに普通でしょう。
『朱欒』は明治44年11月から大正2(1913)年5月まで19冊を発行しています。編集は北原白秋。後期浪漫派の活躍の場となりました。

 また、大正15年1月、『フレップ・トリップ』(アルス刊、昭和3年。白秋全集19巻「詩文評論5」、昭和60年、岩波書店)で北原白秋は書き

 二十一二の頃、さうだ、私が石川啄木に逢つてまだほんの二三度目の時だったと思ふ。
「盛岡の在です。」と彼は答へた。
「さうですか、奥州や北海道は、僕の国では鬼でもゐさうなところだと思つてゐますよ。五六百里も北だからね。」それはほんの何の気もなく、寧ろ親和の心で私は微笑して云つたのが、それが彼の性来の癇癪にきつく障つたらしい。私には答へないで、すぐに、隣りにゐる人に向つて、
「君、君も鬼のゐる国の人だね。」
と両肩をスツと怒らして云つた。それで私は吃驚して、
「君、君、僕の国だつて熊襲だからね。」
と大真面目であつた。
「ぢやあ、鬼の一種だね。」
「うむ、さうだよ、君の方から見れば鬼の一種だらう、やつぱり。」
 あの頃も何かと云へば反抗心の強い、負けずぎらひの少年だつたな、啄木は。尤も細君は持つてゐたが。

 なんとなく、2人の人となりや人柄の違いがわかるような気がします。胸を張っている啄木と、おどおどする白秋。

 石川啄木は明治19年2月20日で東北の岩手県で生まれ、北原白秋は明治18年1月25日で九州の福岡県で生まれています。年齢は一歳しか違っていません。ちなみに、北原白秋は昭和17年の57歳のときに、糖尿病のため死亡しています。


上り下りも世につれて…(昭和51年の読売新聞)

文学と神楽坂

昭和51年(1976年)8月15日の読売新聞「都民版」から

読売新聞。

読売新聞。昭和51年8月16日

読見出し 読売新聞のイラスト 読おっとり 読巻き返し 読きら星 読メモ

 町は時代とともに変わる。大正年間の歓楽境・神楽坂も、今は一見平凡な商店街。裏通りにひしめく料亭が、わずかに昔日の〝栄華〟をしのばせる。「このまま〝下り坂〟はごめんだ」と町の誰もが考えるが、具体的な巻き返し策は暗中模索中。かつてのファンならずとも〝坂〟の針路は大いに気にかかる。

おっとり 商い模様    坂と待合

国電飯田橋駅の西口を出て右に坂を下ると外堀通り。この通りを渡れば、もう神楽坂の登り口だ。
 現在、神楽坂の地名は1~6丁目まで。大久保通りをはさんで約八百メートル続くが、本来の神楽坂は、登り口から約三百メートルの傾斜部分。登り切ってからの〝平地〟部分は、昭和二十六年の町名変更まで上宮比(かみみやび)(さかな)通寺町などの地名がついていたが、付近一帯に料亭、商店、映画館が発達してにぎわったため、〝神楽坂〟と〝総称〟していた。
 現在の神楽坂通りの道幅は、歩道も含めて十二メートル弱。これは神楽坂が最も繁栄した大正、昭和初期のころと変わっていない。
 神楽坂の登り口のすぐ右角にある小さなシャツ屋。関東大震災前は足袋(たび)を売っていた。少し上の文房具店は、文士相手の紙屋。その上のおしるこ屋の前身はすし屋。それと小路をはさんで向かい側の理髪店、斜め向かい側のくつ店なども大震災前からの老舗(しにせ)――というように、神楽坂1~5丁目まで、通りに面した百十三軒の店舗のうち三十余軒が、明治、大正年間から生き残っている。これは、付近一帯の地盤が固く、関東大震災の被害も、比較的軽かったためだ。
 かもじ屋、車屋、小間物屋、スダレ屋、筆屋、(あめ)屋、メイセン屋半えり屋、三味線屋……。大正時代の神楽坂の地図には懐かしい職種がズラリと載っているが、時代の流れで現在は消えた商売も多い。
 神楽坂通りを歩いて抜けるのに十分とかからない。現在、通りの両側には、レストラン、パチンコ店、銀行、文具店、呉服店、洋品店、洒店、書店、雑貨店、食料品店と、店舗はひと通りそろっている。いずれの店も、間口は小さく、ほとんど二階建て止まり。
 それでも、ホッとした気分になるのは、万事オットリしたふんい気だからだろう。一方通行で車が少ないこと、アーケードがないからゴテゴテした飾りつけがないこと、デパート、スーパーがなく高級専門店が多いこと――などが原因だ。「東京の真ん中にこんな静かな所があったんですかって、よそから来たお客様がよく言われます」――創業百三十年の洒店「万長」の社長、馬場敏夫さん(四八)。

約三百メートル 約300mは「神楽坂下」交差点から毘沙門まで。「神楽坂下」交差点から最高地点の丸岡陶苑は約200m
上宮比町 肴町 通寺町 それぞれ神楽坂4丁目、5丁目、6丁目です。
シャツ屋 外堀通りの赤井商店です。現在はありません。
文房具店 山田紙店のこと。平成28(2016)年9月に閉店しました。
おしるこ屋 紀の善のこと。
理髪店 バーバーBankokukanや理容バンコックなどでしょう。しかしこの理容店はどうも新しくここにできたもののようです。神楽坂の他の場所からきたのでしょうか。
くつ店 オザキヤのこと
かもじ屋 入れ髪の店舗。かもじとは、日本髪を結うときに、地髪が短くて結い上げられない場合に使用する添え髪のこと。
小間物屋 日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐ひもなどを売る店。
メイセン屋 銘仙屋。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物を売る店。
半えり屋 半衿屋。襦袢(じゅばん)(えり)にかぶせる布を売る店

沈滞続きの〝真空地帯〟  目下は未来像模索    巻き返し

「ドーナツ現象とは良く言ったもんですなァ」――創業三百年以上の文房具店(むかしは紙屋)「相馬屋」店主、長妻靖和さん(42)は頭をかく。山手線の()円の中心にあるのが国電飯田橋駅と神楽坂。山手線の中心なら東京の中心ということになる。でも、山手線上にある新宿、渋谷、池袋、有楽町・銀座、上野などが、広い通り、高層ビル、大型店舗で際限なくふくれ上がっているのに比べ、盛り場として大先輩の神楽坂は、ごく普通の商店街の域を出ない。周辺に厚みがついて真ん中に空洞現象が起きている、と長妻さんはいうのだ。
 なぜ〝後輩〟に後れをとったのか。遠くからの客をひきつける劇場、デパート、公園がない。通りの周辺は住宅地で人口密度が低いから客層が薄い。それに商店のほとんどは自分の土地で商売しているから、借地、借家の商店のようにガツガツもうける必要がない。それに大型店舗が進出したくても、地主が細分化され過ぎているから買収しにくい。言い換えれば、われわれ自身が町を改造したくとも身動きがとれない」と、長妻さんは指摘する。
 このままではジリ貧――という不安が、現在の商店街全体を覆っている。「でも、どうすれば良いのか、確たる目標が定まらない。毘沙門(びしゃもん)様と花柳界が神楽坂の特色だから、この二つを活用して何とかなりませんかね」(馬場さん)。
 大正時代、神楽坂発展の刺激となったのは、市電など交通網の発達。それ以降、たいした刺激を受けなかった神楽坂の周辺に大きな変化が起こりつつある。都営地下鉄十二号線(豊島園-新宿-六本木-両国-春日町-新宿)営団地下鉄七号線(目黒-赤羽)の建設予定の地下鉄二新線が神楽坂にとまるほか、坂下の神楽河岸には、都の飯田堀開発事業として、十五、二十階建ての二つの高層ピルが建設される。「今後三、四年のうちに神楽坂には大きな変化が来る」とだんな衆は期待している。

花柳界 かりゅうかい。芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
都営地下鉄十二号線 大江戸線です。平成3年(1991年)12月に開業。
営団地下鉄七号線 南北線です。平成3年11月に開業。
飯田堀開発事業 昭和40年代半ば、水の汚濁が顕著となり、飯田堀を埋め立てしようと、市街地再開発事業の対象に。昭和53年、事業に着手。昭和59年(1984年)、建築工事が完了。昭和61年(1986年)、街路整備工事も完了。
高層ピル 飯田橋ラムラです。昭和59年に完成。

☆〝きら星〟ワンサと ☆   文士の町

神楽坂の最盛期は、大正年間から昭和初期まで。通りの両端=神楽坂下と肴町(現在の神楽坂五丁目)=に市電が発着して、商業地域へ発展した。南に陸軍士官学校(現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐とん部)、西に早稲田大学があって、軍人、学生が年中遊びに来たが、一番の特徴は、文士、画家、俳優など有名、無名の芸術家のたまり場だったこと。
 菊池寛早稲田南町に住み、毎晩、夕涼みがてら神楽坂に現れた。「いつも女連れで、しかも毎日、相手が違っていた。商売柄すごいもんだ、とこっちは感心してながめてましたよ」=神楽坂通り商店会・石井健之会長(六三)=。
「芸者が丸帯(ねこ)じゃらしにしめた姿をみて、菊池寛が〝(ねえ)さん、ほどけてますよ〟と注意したところ、〝いけ好かない野暮天〟とどなりつけられた」(新宿区立図書館編さん「神楽坂界隈の変遷」より)……など、菊池寛にまつわるエピソードは多い。
 ご当地ソングのはしりみたいな「東京行進曲」を作詞した西条八十は、払方町住人だった。「最初、あの歌が発表されたとき、どうしたわけか神楽坂が抜けていた。商店会の副会長だったうちのオヤジが、〝すぐそばに住んでいるくせに、神楽坂を無視するなんてひどいじゃないですか〟と文句を言いに行ったら、八十は〝すまん、忘れてた〟といって、三番の歌詞に神楽坂をつけ加えてくれた」(石井さん)。
 与謝野鉄幹、晶子夫妻は五番町から散歩に来て、夜店で植木を貿って行った。また、現在も善国寺毘沙門天わきで開店しているレストラン「田原屋」の常連は、夏目漱石(早稲田南町)、長田秀雄吉井勇菊池寛水谷八重子佐藤春夫サトウハチロー永井荷風(余丁町)、今東光(白銀町)、今日出海らだった。
 このほか、大正年間、神楽坂と周辺の牛込、早稲田地区に住んでいた文士たちは枚挙にいとまがない。カッコ内は現在の地名。
▽井伏鱒二=早稲田鶴巻町▽宇野浩二=袋町▽小川未明=早稲田南、矢来町など転々▽小栗風葉=矢来町▽押川春浪=矢来町、横寺町▽尾崎紅葉=横寺町▽片岡鉄兵=神楽町(神楽坂)▽金子光晴=赤城元町▽加能作次郎=南榎町、早稲田鶴巻町▽川上眉山=矢来町▽川路柳虹=新小川町▽北原白秋=神楽町(神楽坂)▽窪田空穂=榎町▽島村抱月=横寺町▽相馬泰三=横寺町▽高浜虚子=市谷船河原町▽坪内逍遥=余丁町▽長田幹彦=神楽町(神楽坂)▽野口雨情=若松町▽広津和郎=神楽町(神楽坂)▽堀江朔=喜久井町▽正岡容=戸山町▽正宗白鳥=矢来町▽真山青果=払方町▽三上於莵吉=赤城下町▽三木露風=袋町▽山本有三=市谷台町▽若山牧水=原町、若松町など。

陸軍士官学校、早稲田大学 図を。陸軍士官学校は南に、早稲田大学は西にあり、現在も同じです。早稲田大学へは神楽坂までは明治初期は徒歩で、明治の終わりからは市電(都電)を使ってやって来ました。

早稲田と防衛省

早稲田と防衛省

早稲田南町 菊池寛氏は早稲田南町ではなく、大正7年3月から9月までの間、えのき町に住んでいました。新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)によれば「早稲田南町の漱石旧宅から一町とは離れていない榎町の陋巷にあった」といいます。一町は約110m。陋巷とは「ろうこう。狭くむさくるしい町」。弁天町交差点のすぐ近くに住んでいたのでしょう。

榎町

榎町

丸帯 礼装用の女帯。丈は約4m。幅約68cmの広幅の帯地を二つ折りにして仕立てる。
猫じゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。

猫じゃらし 男帯の結び方

野暮天 きわめて野暮な人。
どなりつけられた 実際には新宿区立図書館編纂の「神楽坂界隈の変遷」には、前にもう1つエピソードがあります。「菊池寛がだらしのないかっこうをしてがほどけて地べたにぶら下っていたので『帯がほどけていますよ』と注意された。翌年のお正月に芸者が出の着物に丸帯を猫ぢゃらしにしめた姿をみて菊池寛が『姐さん、帯がほどけていますよ』と注意して『いけ好かない野暮天』とどなりつけられたエピソードもこの頃のことだ」というものです。
東京行進曲 昭和4年に作曲。一番は銀座、二番は丸ビル、三番は浅草、四番は新宿を歌います。一番は「昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨」

払方町 払方町は新宿区北東部に位置し、北東部は若宮町と、東部は市谷砂土原町と、南部は市谷鷹匠町と、西部は納戸町と、北西部は南町と接し、牛込中央通りが通過する。

払方町

払方町

三番の歌詞 どうも間違いのようです。現在の三番は浅草で、歌詞は「ひろい東京 恋ゆえ狭い 粋な浅草 忍び逢い あなた地下鉄 わたしはバスよ 恋のストップ ままならぬ」で、神楽坂は入っていません。B面は「紅屋の娘」で、紅谷の娘をモデルに使ったといいます。

メモ
地名のいわれ
 「坂の上に高田穴八幡社があり、祭礼の時、みこしが来て神楽を奏した」(新撰東京名所図絵)、「市谷八幡が祭礼のとき、みこしが牛込御門の橋の上にとまって神楽を奏した」(江戸砂子)――など諸説があるが、はっきりしない。
毘沙門天
 神楽坂通りの〝へそ〟。正式には日蓮宗鎮護山善国寺。毎月「五の日」(五、十五、二十五日)に縁日として夜店が出てにぎわう。四十六年十一月に本堂を新築したが、寄付をしたのが児玉誉士夫。寺の門柱に麗々しく児玉の名が刻まれており、「どうも弱りました」とだんな衆はニガ笑い。
阿波踊り
 五年前から夏の恒例行事。今年は先月二十三、四日に計三万人以上を集めた。本来は地下鉄十二号線の駅誘致のため、都庁向けに行ったデモンストレーションだったが、予想外の好評のため、定着してしまった。
花柳界
 江戸時代の神楽坂は私娼(ししょう)が多く、花柳界としては明治初めから盛んになった。大震災で神楽坂だけは無事だったため、客が殺到、昭和初期から戦争直前までが最盛期で、芸者約七百人。現在は百六十人。

新撰東京名所図絵 雑誌「風俗画報」の臨時増刊として、明治29年(1896)9月25日から明治42年3月20日にかけて、東京の東陽堂から刊行。上野公園から深川区まで全64編、近郊名所17編。明治時代の東京の地誌が記されており、地名由来をはじめ、地域の名所としての寺社などが図版や写真入りで記載。神楽坂は第41編(明治37年、1904)に登場
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
地下鉄十二号線 大江戸線です。
私娼 ししょう。公の許可がない売春婦
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の巷

牛込見附(牛込御門)跡

文学と神楽坂

 江戸城の外郭につくった城門を橋自体も含めて「見附(みつけ)」「見付」といいます。「牛込見附」は「牛込御門」「牛込門」と同じです。また明治初期から現在まで牛込橋の半分は新宿区のものでした(東京都「飯田橋 夢あたらし」平成8年)。なお、牛込土橋は牛込橋と同じ意味に使っていますが、本来は城郭の一構成要素であり、堀を横断する一種の橋です。

 見附は要所に置かれた枡形(ますがた)(升形)がある城門の外側で、本義は城門を警固する番兵の見張所ですが、転じて城門の意味となりました。

牛込見附の図

牛込御門の図。正しくは「江戸城三十六見附絵図集成」

牛込門
 これも外濠守備のための門で、現千代田区富士見町二丁目の北西端にあたる位置にあった。これを牛込口・番町方・牛込方・楓の御門とも称した。
 寛永13年(1636年)蜂須賀氏により枡形が築かれ、同16年に門が建てられた。警備用備え付け武器は、前述小石川門と同じ(鉄砲5・弓3・長柄槍5・持筒2・弓1組を常備)で、 3千石以上1万石未満の者がその任にあたった。(小野武雄著『江戸絵図巡り』展望社、1981)

「枡形」とは石垣やるい(土を盛りあげ堤防状にした防御施設)、水堀や空堀で四方を囲った防衛施設です。二方に出入口をつけ、もう二方へは進めないようにしました。高麗門(こうらいもん)をくぐって枡形に入った正面に小番所が、渡櫓(わたりやぐら)下の大門を抜けた正面に大番所が置かれ、警固の武士が昼夜詰めていました。

枡形

枡形

江戸城御外郭御門絵図 (23)牛込御門

 外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永13年(1636年)に建設しました。田安門から上州道への要衝にあたります。別名「楓の御門」「紅葉御門」とも呼びますが、紅葉御門の証拠はないと書かれています(東京名所図会、第41編、東陽堂、1904年)。

 千代田区は……

牛込門

クリックで拡大 http://www.emuseum.jp/detail/100813/061

牛込見附(千代田区)

牛込見附。クリックで拡大

史跡 江戸城外堀跡
牛込見附(牛込御門)跡
 正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。
 この牛込見附は、外堀が完成した寛永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。
 これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。
 江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。
 その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。
 足元には、かつての牛込見附の跡をイメ一ジし、舗装の一部に取り入れています。
千代田区


松平阿波守 下の注釈のように「阿波乃國」「阿波乃門」や「阿波守内」のように色々な読み方が出ていました。現在「阿波守内」が一番いいようです。下の右図は加藤建設株式会社の「史跡江戶城外堀跡 牛込門跡石垣修理工事報告」(飯田橋駅西口地区市街地再開発組合・千代田区、2014)です。
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加藤建設株式会社「史跡江戶城外堀跡 牛込門跡石垣修理工事報告」(飯田橋駅西口地区市街地再開発組合・千代田区、2014)


 鈴木謙一著「江戸城三十六見附を歩く」(わらび書房、2003年)では

 牛込門の枡形は、JR飯田橋駅西口の改札口を出た左側のちょうど牛込橋を渡り終えたところにあった。
 枡形は間口13間(約25.61メートル)、奥行13間(約25.61メートル)の正方形で、高さは二間四尺(約5.5メートル)だった。
 枡形門に通じる橋は、両岸から土橋が突き出し、中央部のみが平木橋(ひらきばし)になっていたという。このような工法は、この牛込門のほかに市ヶ谷門や四谷門などでも採用されているが、そのわけは、江戸城の地形が西高東低であり、この間の堀の水位が異なることから土橋にしてダムの役目を与えたためで、中央部を橋にしたのは水門とするためだった。
 高麗門の間口(柱内)は2間4尺(約5.15メートル)。渡櫓の櫓台は石垣の高さが2間3尺(約4.85メートル)、幅が2間(約3.94メートル)、長さが21間(約41.37メートル)で、門扉の幅が2間2尺3寸(約4.64メートル)だった。
 枡形を構築したのは阿波国徳島藩の蜂須賀忠英で、完成は寛永13年(1636)。高麗門は寛永15年(1638)に出来上がっている。
 橋のたもとの交番脇に、枡形に使用された石が展示されている。その石をよく見ると「阿波乃國」と彫られており、蜂須賀氏によって築かれたことを物語っている。
 牛込門の枡形は明治になって破壊されてしまったが、幸いにも両側の石垣の一部が残された。これは外堀の門では唯一の場所であるが、牛込橋側から見る石垣と、堀の内側の富士見町教会側から見る石垣とでは表面の模様が異なっているのが分かる。
石垣 一口に石垣といっても使用する石の形と、積み方によって表情を変えるのである。
 使用する石の場合だと三種類に分けられ、自然石がそのまま使用されていると「野面(のづら)」と呼び、石を打ち砕いて石と石の接着面を増やして隙間を少なくしたものを「打込接(うちこみはぎ)」と呼んでいる。この場合の「接」は「はぎ」と読み、接着とか接合といった意味で、この接着面を完全に成形し石と石の間の隙間をまったく無くしたのを「切込接(きりこみはぎ)」という。
 このような石を一個一個積み上げていくのだが、積み方にも色々あったようで、積み上げていく石の横の線(接着面)が一線になるようにしたのを「布積(ぬのづみ)」と呼び、横の線にこだわらないものを「乱積(らんづみ)」と呼んでおり、「布積」と「乱積」を併用したものを「布積(ぬのづみ)崩積(くずれづみ)」と呼んでいる。
 このほかにも、六角形に完全に成形し隙間無く規則的に積み上げた「亀甲積(きこうづみ)」、石の大小にはこだわらずに完全に成形した石を積み上げる「備前積(びぜんづみ)」などがあり、石の積み方には入手できる石の種類や地方によっても特色があるようだ。
 また、石垣の隅を積み上げる方法として「算木積(さんぎづみ)」というのがある。これは、長方形に完全に成形された石を交互に積み上げ、石垣隅の縦の縁が真っ直ぐな線を描くようにするものである。こうすることで見た目が綺麗になるばかりでなく、強度も増して崩れにくくなる。堀の内側の富士見町教会側から見える石垣は、この「算木積」と「打込接(うちこみはぎ)乱積(らんづみ)」を合わせたものといえるだろう。
石垣(写真) この牛込門は内堀の田安門から来る道と繋がっている。そして、ここから城外に出て、現在の神楽坂通りを進む道は、太田道灌の時代からあったもので、上州道と呼ばれていた。
 また田安門へ向かうと、途中の数力所で緩やかにカーブしているが、江戸切絵図を見ると当時の屈曲は現在のように緩やかでなく、はっきりとした鍵形に曲がっていたようだ。

 また野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では

 長軸方向(控)の一辺に偏在して、「入阿波守内」の五文字が彫られている。文字は、全長が三尺六寸(108cm)あり、個々は、五寸から六寸(15~16cm)とやや大きくしかも深く彫られているために鮮明に読み取ることができる。冒頭の「入」の文字は、いりがしらの上端が小口面の端部に達しており、後に続く「阿波守内」の文字よりも幾分、右側に寄っている。画数が二画と少ないことから判然としないが、の字体とは異なるようにもみえる。

 なお「牛込見附」という言葉はこれだけではありません。市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができると市電の駅(停留所)をも指し、さらに「神楽坂下」交差点も一時「牛込見附」交差点と呼び、交差点や、この一帯の場所も「牛込見附」と呼びました。

1980年の牛込見附交差点

1980年の住宅地図。「牛込見附」交差点がある。

 例えば、『東京地名小辞典』(三省堂、昭和49年)では、「牛込見附」として「江戸城外堀をまたぐ城門にちなむ地区名。江戸城内から繁華街神楽坂に至る通路上に位置する」と書いてあります。1984年になると「神楽坂下」になっていますので、おそらく1980年初頭までは地区名として「牛込見附」という言葉は使っていたようです。下の写真では「牛込見附」交差点として使っています。

佐藤嘉尚「新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡」生活情報センター、2006年

中野実|新女性大学①

文学と神楽坂

 中野実のユーモア小説「新女性大学」について『神楽坂まちの手帖』17号の佐々木光氏は

 封建時代の女子教育書「女大学」をもじったかのような「新女性大学」は結婚を主題としたユーモア小説で、会社重役の父から結婚話を切り出された女学校出の令嬢「皆川美絵子」が、まずは結婚設計のため“世間見学の武者修業”をしたいと主張、父を説き伏せ質屋を営む同窓の友人の家に奉公し番頭となる。……
この作品は中野実(劇作家・小説家。明治三十四年~昭和四十八年)が作家としての地位を固めつつあった初期のもので、神楽坂を他所に置き換えても成立するが、それでも洋食の田原屋、牛込見附の貸ボート、弁天町、鶴巻町等神楽坂界隈の風景がちらほらと描かれ、当時衰退期にあった神楽坂をモダンなユーモア小説の舞台としている点に注目したい。「婦人画報」(昭和九年六~十二月)に連載後、映画化もされた(日活。昭和十年六月。主演・西峰エリ子)。ただし、映画の舞台も神楽坂かどうかは未見のため不明である。

 (おんな)大学は江戸時代の代表的な女子教訓書で、著作者も初版年も不明ですが、貝原益軒の著述として、18世紀初頭から広く流布しました。「夫女子は 成長して他人の家へ行 舅姑に仕るものなれば 男子よりも親の教忽にすべからず」など19ヵ条の封建的女子道徳を説いたものです。インターネットの本もあります。

 中野実の「新女性大学」は新宿区の図書館にはなく、インターネットを通じて国立図書館から『現代ユーモア小説全集』第七巻の「新女性大学」をコピーしました。まず質屋です。

 新橋駅とW大学の間を連絡している黄バスの実業前というところで降りて、大学通りを左へ折れたところに、山口質店と書いた暖簾の店舗がある。
黄バス

黄バス(ただし東京環状乗合のバスではなさそう)

 昭和9年の黄バスは東京環状乗合(環状)のバスの色が黄色だったからで、黄バスには豊島園~目白駅~江戸川橋~市谷~新橋駅の幹線といくつかの支線がありました(http://pluto.xii.jp/bus/line/s17.html)。昭和17年にこの黄バスの経営は市営バスに変わっています。また、W大学とは早稲田大学でしょう。

 美絵子の発案で、山口質店は面目を一新した。まず時代な暖簾が取りはわれ、Pawnbroker(しちや)と横文字で書いた真鍮板(ブレス・プレート)がそれに変わった。(中略)つづいて薄くらい帳簿が改造され、蓄音機屋の試験室みたいな明るい感じの小室が、設けられ、取引は一切そこで行われることになった。そこへ、美絵子と悦子が貸付係兼接待係という役目で、紅茶をもって愛想をふり撒きながら現れるという寸法である。果然、山口質店は素晴らしい業績をあげ始めた。

 質屋をここまで変えるとは驚きです。ただし、昔の質屋は現在の質屋と比べて店舗数は圧倒的に多かったようです。例えば昭和10年の横寺町では81店舗のうちなんと5店舗は質屋です(今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』新宿区横寺町交友会、2000年)。歩くと質屋にぶつかる状況でした。

 質草を聞く場面で、客が住所は弁天町と答える場合があります。

 客は、(ふところ)から錦紗(きんしゃ)(づつみ)を出して、美絵子の前に拡げて見せた。ダイヤ入の指輪、鼈甲(べっこう)(くし)(こうがい)翡翠(ひすい)()がけ。それに、帯止(おびどめ)の金具。
「いくらほどお入用なんですの。」
「三百円調達したいと思うんですの。」
「三百円ね。」
「これで足りなければ、あたしの着物を入れてもと思っています。」
「どちらです。お宅は?」
「弁天町の三十七」

錦紗 紗の地に金糸・箔・絹の色糸などを織り込んだ絹織物
鼈甲 ウミガメのタイマイの背甲、縁甲、四肢の鱗片をはいだもの
 江戸時代の女性用髪飾り。金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作り、髷などに挿す
翡翠 緑色の硬玉。主産地はミャンマー・中国など
根がけ 女性が日本髪の髷の根元に結ぶ飾り。金糸・銀糸・絹ひも・緋縮緬・宝石類など。
帯止 解けるのを防ぐために女帯の上からしめる平打ちの紐

「弁天町の三十七」は現在は巨大なマンションになり、三十七という号数は単独ではなくなっていますが、昭和五年には確かにありました。

弁天町37

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 次に田原屋と貸ボートです

 その晩、美絵子は悦子に誘われて神楽坂の通り歩いていると、田原屋の前で、
「悦ちゃんじゃないか」
と、なれなれしく悦子に声をかけて近づいて来た青年があった。
「まあ、西山さん」(中略)
「どう、お茶のみにつき合ってくれないか。」
 美絵子は断りたかったが、悦子が誘ったので仕方なしに、西山について田原屋へ這入った。
「四菱に出てらっしゃるんですってね。就職難時代に偉いものだって母が感心していましたわ」
 悦子がちょっと、愛想を言うと
「あっちこっちから引ぱりだこで弱っちゃったよ」
 西山は得意そうに鼻をうごめかした。

 田原屋で3人の話が終わり

「どう。見付へ下りて、ボートへ乗らない?」
と、(西山は)二人を誘った。
 美絵子はいい加減に切りあげたかったが、西山は厚かましく悦子の手をとって先に歩き出したので、悦子のことも心許なくなり、田原屋を出て坂を下りて行った。
 蒸暑い晩だったので見付の貸ボート屋は賑わっていた。西山はボートに乗ろうと云い出したが、そこまで西山の機嫌をとる必要もないと美絵子は思った。(中略)
 西山と別れて、悦子をせきたててお濠端にそい、牛込見付へさしかかった時であった。彼女は何気なく濠の方を見た…

 そこには別の男性、W大学を卒業して、大和製鋼に入る予定の下村氏がいたのです。

中野実|新女性大学②

文学と神楽坂

 ユーモア小説「新女性大学」について先に行きます。

 鶴巻町の通りを大学の正門ヘ向って2丁程行った右角の東北館という下宿屋が下村の住居だった。

早稲田正門 二丁は約200メートルです。「鶴巻町通り」は現在「早大通り」になりました。始点はどこからなのでしょうか。わかりません。鶴巻町は相当大きく一番右からなのでしょうか? もし「鶴巻町東」からだとすると、「鶴巻小前」に近くなっています。

 さて、神楽坂が出てくる最後の場面です。

「実は今晩、下村の就職祝の会が7時から神楽坂の鳥正とかいう料理屋であると云っとりました。」
「そう、それは有難う。じゃあ」
 電話を切った美絵子は、つまらなそうにぶらぶらしている西山へちらりと流し目をくれると、
「西山さん、今晩お供するわ。」
「来てくれるのかい?」
「ええ。」
「銀座?」
「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ。7時に肴町停留場で待っていて頂戴」
       4
 鳥正という神楽坂の料理屋は肴町の方から行って電車通りを一寸左へ這入った細い露地の右側にあった。美絵子は西山について二階へ上って行った。そして西山に気取られないようにそっと女中を廊下に呼んで
「今夜ここで下村さんとかいう人の会があるでしょう。」
「ええございますわ。」
「その部屋の隣の座敷へ通してくれない?」
「はあ、かしこまりました」

停留場 市電・都電の停留所です。
電車通り 市電・都電が通る道路のこと。ここでは大久保通り

 鳥正は川鉄をモデルにしています。

 「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ」といわれた神楽坂ですが、半ば笑いのネタになっているのではないでしょうか?  普通は銀座のほうが遙にいい。なのに、神楽坂がいいのは、下村さんの就職祝の会があったからです。

 以上で終わりですが、あまり神楽坂は出てきませんでした。

 しかし、それ以上に驚いたことはこの文章全体の軽さです。昭和9年に書かれたなんて思えません。

外濠線にそって|野口冨士男⑤

 逢坂下のつぎが、新見附であった。
 見附とは城門番兵の見張所の意で、江戸三十六見附ということばはあっても実数ではなくて、曲輪(くるわ)城門は二十六しかなかった。しかし、新見附は二十六城門はおろか、明治十六年から翌年にかけて測量された『参謀本部陸軍部測量局地図』にも、内務省が明治二十年に測図した『東京五千分壱実測図』にも、明治二十七年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』にもまだあらわれていない。つまり、それ以後に造成されたものだから新見附と命名されたに相違ないのだが、他の見附の場合同様に濠を渡る道としての機能はそなえているものの、見附という呼称がもつ本来の字義とはなんらの関係もない。牛込見附から市ケ谷見附に至る外濠が市ケ谷堀とよばれているのも、江戸時代には新見附がなかったからである。

逢坂下 市電の逢坂下停留所です。
新見附 市電の新見附停留所です。
江戸三十六見附 江戸城門に置かれた見附(見張り番所)の36か所を挙げたもの
外曲輪 そとぐるわ。外郭。一番外の囲い。がいかく。とぐるわ。
城門は26  大熊喜邦氏の『江戸建築叢話』(東亜出版社、1947年)によると、外曲輪26門は、①雉子橋門、②一ッ橋門、③神田橋門、④常盤橋門、⑤呉服橋門、⑥鍛冶橋門、⑦数寄屋橋門、⑧日比谷門、⑨山下門、⑩幸橋門、⑪虎の門、⑫赤坂門、⑬四谷門、⑭市ヶ谷門、⑮牛込門、⑯小石川門、⑰筋違橋門、⑱浅草橋門、⑲芝口門、⑳和田倉門、㉑馬場先門、㉒外桜田門、㉓半蔵門、㉔田安門、㉕清水門、㉖竹橋門です。

江戸城三十六見附。外廓城門

江戸城三十六見附。外曲輪26門

まだない 明治23年の「東京市区改正全図」でも当然ながら新見附は現れていません。

牛込橋と市ヶ谷橋

牛込橋と市ヶ谷橋

それ以後 新見附は明治27年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』ではでていませんが、しかし、新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、明治28年の「東京市牛込区全図」に新見附がでています(322頁)。おそらく27年にはなく、28年にあったものでしょう。新見附 明治28年
市ケ谷堀 江戸城の堀の一つ。現在の呼び方は牛込堀

 市ケ谷見附といえば、私の少年時代には九段坂がもっと急傾斜で、神田方面からくる市電は九段坂と牛ヶ淵の中間につくられた勾配のゆるい専用軌道を通っていた。そしてその軌道はげんざい坂上の消防署のある地点から左折して、フェアーモントホテル戦没者慰霊のある千鳥ヶ淵ぞいに半蔵門のほうへ走っていたが、それとは別箇に九段坂上市ケ谷駅前間だけを往復していた路線もあった。したがって、その電車に乗ると、いったん市ケ谷駅前でおろされて、濠のむこうまで歩いてから外濠線の電車に乗換えねばならなかった。

地理院地図1974-1978 千鳥ヶ淵

九段坂 九段下交差点から靖国神社の南側を上る坂。明治維新に石段を急坂に変えて、さらに関東大震災の復興計画で緩徐な坂に変更。
牛ヶ淵 うしがふち。江戸城の堀の一つ。上図を。
専用軌道 江本廣一氏の『都電車両総覧』(大正出版、1999年)では実際に専用軌道を描いています。専用軌道

九段坂
消防署 明治45年6月、麹町消防署九段出張所ができた。平成25年3月、廃止。
フェアーモントホテル 2002年(平成14年)1月27日に閉鎖。かわって高級マンションができました。
戦没者慰霊 第二次世界大戦の戦没者の遺骨で遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置。上図を。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。江戸城の堀の一つ。正称は皇居外苑千鳥ヶ淵堀。桜の名所。上図を。
半蔵門 皇居西側の門。下図を参照。下図では外曲輪城門のうち23番目。
九段坂上 「九段坂上」交差点にありました。
市ケ谷駅前 市ケ谷駅前はかなり古い路線図で出てきます。「日本鉄道旅行地図帳五号」(新潮「旅」ムック、2008年)の大正8年頃では、右の丸のように「市ヶ谷見附」は2つに分かれています。その後、「市ケ谷駅前」ができていたのでしょう。この路線では往復していたのか、わかりませんでした。

大正8年の路線図

大正8年の路線図

 もっとも、当時の市電には全線の路線図を印刷した横長い乗換券というものがあって、車掌が行先と乗換場所にパンチを入れてくれたから、何回乗換えても基本料金は変らなかった。全線一区の周遊券のようなもので、料金は震災前から七銭だったと記憶するが、昭和四年十二月中央公論社発行の『新版大東京案内』をみたところ、そこにも七銭と記載されていて、戦前の物価の安定ぶりを再確認させられた。ついでに記しておけば、戦前――特に私たちの少年時代にはあらゆる方面に名人、または職人芸の違人がいて、市内全線の路線図が印刷されてあった乗換券を裏返しにして、なにも印刷されていない真白な面に、行先と乗換場所とその時刻のパンチを入れて1ミリの狂いもないような車掌がいた。

乗換券 例は大正11年2月3日に発行された乗換券。大正11年の乗換券
七銭 今和次郎氏の『新版大東京案内』では

 市電に対する不平の声は既に古い事である。一回どこまで乗つても七銭である事、及市内到るところに(ひろ)まつて布かれてゐると云ふ点では(よろこ)ばれてゐるけれど、あの「チンチン動きまあす……」の気だるさは、緩慢な速力は非近代的な感触を与へ、あれに乗る人々を時世後れにするやうな結果をもち来すかのやうだ。もっとモダン的にハイカラな感触が市電に欲しい……。これだけにして次のものにうつってみやう。

と書かれています。都交通局の『わが街わが都電』(平成3年)によると、料金は昭和17年までは7銭ですが、18年になると10銭でした。なお、昭和20年に日本の敗戦が決まります。

 駅前から外濠線の市ヶ谷見附停留所までは牛込見附や新見附同様に坂道をくだるが、濠を渡る道が傾斜状をなしているのは以上の三見附だけで、そのあたりから濠外の地勢は隆起しはじめる。
 市ケ谷見附の濠外の正面には靴屋があって、「ヤスイカラヨクウレル。ウレルカラナホヤスイ」と書いた看板が眼をひいた。あのキャッチ・フレーズには大正ムードがみなぎっていたとおもうが、大正時代を誤解してもらってはこまる。花屋の飾窓にはSay it with flowerというような金文字もみられた。チュウインガムはリグレイコーンビーフリビイ乾葡萄サンメイド、果物の罐詰はS&Wなどの製品を私たちは食べていた。
 市ヶ谷見附のつぎの停留所は本村町であった……

市ヶ谷見附停留所 外堀通りにありました。
坂道 この停留所3か所は東も西も坂道を下に降りた場所にありました。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

ヤスイ… 「安いからよく売れる。売れるからなお安い」と書いてあります。
大正ムード 大正時代は西洋の近代文明と、日本の伝統文化が融合して生まれ、個人の解放や理想に満ちた風潮があった時代でした。
Say it… 正しくはSay it with flowersと複数形で。このキャッチフレーズの詳しい説明は花豊ででています。
リグレイなど リグレイ。Wrigley
コーンビーフ Corned beef
リビイ Libby。
乾葡萄 レーズン(Raisin)のこと。
サンメイド Sun-Maid
S&W 英語もS&Wです
米国の食品
本村町 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』(昭和57年)では昭和16年は本村町で、昭和22年は本塩町でした。木村町と本塩町

 

外濠線にそって|野口冨士男④

 牛込見附を境界にして、飯田堀の反対側の外濠は市ケ谷堀とよばれる。
 ここから赤坂見附弁慶堀に至る外濠は明治五年ごろまでいちめんの蓮池であったらしく、魚釣りも禁じられていた様子だが、私の少年昨代の市ケ谷堀には、禁漁どころか大正十年前後には貸ボート屋まで開業して、その直後に私も乗った。照明をして、夜間営業をしていた一時期もあったように記憶している。それにくらべれば、赤坂の弁慶堀や皇居の内濠の千鳥ヶ淵の貸ボートはずっとあとになってからはじまったもので、城濠のボートに関するかぎり牛込見附の開業はずばぬけて早かった。
 車体の小さな外濠線の市電は、外濠づたいに、運転台と車掌台をシーソーのように交互に上下させながら走っていた。
 運転台と車掌台について一言しておけば、ドアのしまるのは客席だけで、前後の乗務員は雨や雪の日も、ドアのない吹きさらしの運転台と車掌台に立ちつくしていた。だから飛び乗り、飛び降りも可能だったのである。そして、その車内には「煙草すふべからず」「痰唾はくべからず」「ふともも出すべからず」などと書いた印刷物が掲額されていた。

飯田堀(濠) いいだぼり。下図で。外濠を橋でさらに分割し、「○○濠」としました。
市ケ谷堀(濠) いちがやぼり。下図で。現在の名称は牛込濠。
赤坂見附 千代田区紀尾井町と平河町との間にあります。下図で。%e5%a4%96%e6%bf%a0%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%972
牛込見附 見附とは江戸時代、城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所。牛込見附は外濠が完成した寛永13(1636)年に、阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって建設されたもの。
貸ボート屋 牛込壕のボート屋は大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができました。弁慶橋ボート場は戦後すぐに創業します。千鳥ヶ淵のボート場はいつできたか不明です。
ドアのしまるのは客席だけ 明治・大正時代にはオープンデッキ式の車が一般的で、運転士と車掌は車内ではなく、デッキに立っていました(写真)。東京でも昭和初期まではオープンデッキ式の市電がごく当たり前のように都心部を走り回っていました。この場合、運転士と車掌は横から風や雨、水滴がはいってきます。

電気鉄道会社

大正時代の東京電気鉄道会社、

ふともも… 獅子文六氏の『ちんちん電車』(朝日新聞社)では

“ふともも出すべからず″
 というのが、今の人の腑に落ちないらしい。私は、そのことを、若い人に語ったら、
「明治の女は、キモノを着てたから、裾を乱しやすかったのですね」
 と、早合点された。
 いくら、明治の女だって、電車に乗って、フトモモを露わすほど、未開ではなかった。それは、男性専門の注意である。当時の職人や魚屋さんなぞ、勇み肌であって、紺の香の高い腹がけ(旧式の水泳着みたいなもの)を一着に及んだだけで、乗車する者が多かった。これは胸部は隠すが、下部は六尺フンドシとか、日本式サルマタも、隠見するくらいだから、無論、フトモモ全部を、露わす仕掛けになってる。それでは外国人に対して不体裁であるというところから、禁令が出たのだろう。

なお、隠見(いんけん)とは「みえがくれ。みえたりかくれたりすること」。

 震災後もあったとおもうが、牛込見附と新見附との中間にあった逢坂下という停留所が廃止されたのは、いつごろだったろうか。その対岸の土手が遊歩道に開放されて公園になったのは、昭和三年のことである。
 永井荷風の『つゆのあとさき』が発表されたのは昭和六年十月で、女主人公の君江が友人のかつてのパトロンであった川島に久しぶりで再会するのがその土手公園だが、私の少年時代には将棋の駒を短かく切りつめたような形の白ペンキを塗った立札が立っていて、「この土手に登るべからず 警視庁」という川柳調の文字が黒く記されていたばかりか、棒杭に太い針金を張った柵があった。が、その禁札はほとんど無視されていた。私もしばしば禁を犯した一人だが、土手にあがってみると、雑草のあいだには人間が足で踏みかためた小径がくっきり出来上っていた。
 零落してひそかに自裁を決意している『つゆのあとさき』の川島は君江にむかって、《あすこの、明いところが神楽阪だな。さうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》と思い出ふかい小石川大曲方面を眺望しながらつぷやくが、戦前の対岸は暗くて、ビルの櫛比している現在でも正面にみえる牛込の高台の緑は美しい。土手公園も松根油の採取が目的であったかとおもうが、戦時中には松の巨木が次々と伐り倒されて一時は見るかげもなくなっていたが、戦後三十年を経過した現在ではだいぶん景観を取り戻している。ただし、桜が多くなったのはあまり感心できない。土手には、松の緑のほうがふさわしい。

廃止 新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、昭和15年には「逢坂下」停留場は確かにありました(右図。348頁)が、7年後の昭和22年にはなくなっています(380頁)。一方、東京都交通局の『わが町 わが都電』(アドクリエーツ、平成3年)では昭和15年の『電車運転系統図』(76-77頁)では逢坂下停留場はもうなくなっています。つまり昭和15年に逢坂下停留場はある場合とない場合の2つがあり、これから廃止は昭和15年なのでしょう。
逢坂下停留場、昭和15年公園 結局、外濠公園になりました。下の図を参照。
つゆのあとさき 銀座のカフェーを舞台にして、たくましく生きる女給・君江と男たちの様子を描く永井荷風氏の作品。『つゆのあとさき』の最後は、会社の金を使い込んで刑務所にいっていた川島に君江は出会い、酒を飲み、朝起きると、君江への感謝を書いた遺書が置いてあり、これが終わりです。何か、もやもやが残る結末です。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
外濠公園
弁慶堀(濠) 右図で。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。皇居の北西側にある堀。右図で。零落 れいらく。おちぶれること
自裁 じさい。自ら生命を絶つこと。
安藤阪 本来の安藤坂は春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。明治時代になって路面電車の開通のため新坂ができ、西に曲がって大曲(おおまがり)まで行くようになりました。
安藤坂
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
櫛比 しっぴ。(くし)の歯のようにすきまなく並んでいること。
松根油 しょうこんゆ。松の根株や枝を乾留して得られる油

外濠線にそって|野口冨士男③

「外濠線にそって」その3です。甲武鉄道と、牛込駅とその東口の思い出です。大正8年から13年にかけて野口冨士男氏は小学校の慶應義塾幼稚舎に通っていました。
 国電の中央線は、げんざい飯田橋と水道橋の中間に貨物駅としてのこっている飯田町駅から八王子に通じていた、甲武鉄道のあとを走っている。
甲武鉄道が官有に帰したのは明治三十九年十月のようだが、大正四、五年ごろ赤坂の紀伊国坂下に住んでいた私の幼年時代の記憶によれば、その時分にもまだ「甲武線」という呼び方はのこっていた。そして、現在でも国電は四ツ谷駅から信濃町へむかって発車するとすぐ迎賓館のちかくで赤煉瓦づくりのトンネル――御所隧道へ入るが、私は年長の友人から「甲武線を見に行こうよ」とさそわれて、トンネルへ吸い込まれていく電車や汽車を上からのぞきこみに行った帰りには、喰違見附の土手でノビルツクシの摘み草をしたものであった。
その電車は国電になる以前には省線、それよりさらに以前には院線とよばれていた。万世橋=東京駅間の開通は大正八年だから、幼稚舎ボーイだった私が真紅のクロースの表紙がついていて二つ折になる定期券をもって、院線の田町駅まで乗った期間があるのが大正八年以後であることは確実だが、その時分にはまだ飯田橋駅はなくて、私が乗降したのは牛込駅であった。
げんざい飯田橋駅の西口=神楽坂口は、神楽坂下からゆるい坂をのぽって千代田区へ入ろうとする直前の左側にあるが、その坂道の右側の下の道を歩いていっていまものこっている木橋をわたってから右折すると、桜並木の奥に牛込駅はあった。そして、その裏口は線路むこう――千代川区側の高い位置にあって、裏口の前には阿久津病院という漆喰塗の古めかしい洋館があった。病院が大正年間に神田紅梅町あたりへ移ったあとは戦後まで逓信博物館になっていたが、その建物はどうなっているだろうかと、霧雨のけむっていた日であったが、田原屋で食事をする前に行ってみたら、一階に飯田橋郵便局が入っている飯田橋会館というありふれたビルになっていた。そして、江戸時代の遺構である牛込見附跡の石塁に近接する位置にあった牛込駅の裏口の跡には、共同便所が出来ていた。

国電 JR線です。国電とは大都市周辺の近距離電車線のこと。
貨物駅 貨物列車に貨物を積み降ろしする鉄道駅
飯田町駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通(ここをクリックして地図を出すと、飯田町駅は右側の赤い矢印です)。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。平成11年、この駅も廃止
甲武鉄道 明治22年4月、新宿-立川が初めて開通。明治27(1894)年には新宿-牛込が、1895年4月に牛込-飯田町が開通。明治37(1904)年、御茶ノ水に延長。明治39(1906)年、鉄道国有法で国有化。中央本線の一部となりました。

赤坂田町

赤坂田町

紀伊国坂 東京都港区元赤坂1丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂
住んでいた 子供時代を書いた「かくてありけり」(講談社、昭和52年)で氏の住所は赤坂区田町(現在は赤坂3丁目)だと書いています。図では赤の範囲なのでしょう。
迎賓館 迎賓館赤坂離宮は東京都港区元赤坂2-1-1にある外国の元首や首相など国の賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた迎賓施設。
御所隧道 丸ノ内線四ツ谷駅からよく見えるJR総武線四ツ谷駅側の煉瓦トンネル。総武線四ツ谷駅から信濃町に向かうときに赤坂御用地の下を走る。
御所隧道喰違見附 くいちがいみつけ。「喰違」は防衛のため見附に入る土橋の道をジグザグにしたため。この見附は城門はなかった。
%e5%96%b0%e9%81%95%e8%a6%8b%e9%99%84ノビルとツクシノビル ユリ科ネギ属の多年草。山菜に使う
ツクシ 早春に出るスギナの胞子茎
省線 1920年から1949年までの国有鉄道。鉄道省(1920―1943年)、運輸通信省(1943―1945年)、運輸省(1945―1949年)が管理
院線 1920年以前は鉄道院の所管だった。
クロース cloth。本の表紙に使う型付けなどの加工をした布
田町駅 港区芝五丁目のJR駅
飯田橋駅 現在のJR駅
牛込駅 飯田橋駅よりは南寄りの駅
ここに

朝倉病院

朝倉病院

阿久津病院 正しくは朝倉病院でしょう。明治43年と大正12年の地図で朝倉病院がありました。
%e3%82%b5%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%86%e3%83%a9%e3%82%b9逓信博物館 昭和4年には同じ場所に逓信博物館がありました。
飯田橋郵便局 同じ場所の千代田区富士見2丁目では「飯田橋サクラテラス」があり、ここの一階に今でも飯田橋郵便局があります。
共同便所 その反対側に共同便所があります。

外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

花豊|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 平成6年、スーパーよしやの反対側に三上ビルが建ちました。大家の名前からつけたもので、花屋の「花豊はなとよ」を営業中。場所はここ

『かぐらむら』によると

創業1835年、東京で一番古い由緒正しいお花屋の六代目。お店の横にひっそりたたずむ創業時の屋号「花屋豊五郎」の石碑は、知る人ぞ知る江戸散歩の穴場です。

 創業1835年なので、もう200年近くになります。

花

花豊

 平成7(1995)年、『ここは牛込、神楽坂』第3号で、一家の

かおりさんが新しいお店のために掲げたキャッチフレーズがある。 SAY IT WITH FLOWERS。日本語で添えた言葉が「想いを花に託して」。ところが、かおりさんは六〇年前のお店の写真を見て驚いた。その看板の一番上に「ええ、英文で全く同じフレーズが記されていたんです」(図)

 つまり、1935年でも「SAY IT WITH FLOWERS」を使っていました。

 これはもともとは米国で「母の日」に花屋が贈る言葉でした。1914年に米国は「Mother’s Day」を祝日にしました。そして、1918年、米国生花通信連合会(Flower Wire Service)は“Say it With Flowers”をスローガンにしました。「心を花で伝えよう」です。itは環境の‘it’で、漠然とした環境や不定のものをさします。米国では今でも花屋の宣伝文句に使っています。

say it with flowers

 なお、サザンカンパニーもここの8階です。タウン誌「かぐらむら」を作っていますが、ほかにも雑誌・新聞広告の企画・編集・制作、販促用カタログ・パンフレット・ポスター・DM・CFの企画・編集・制作、企業・団体の公報・PR、各種PR誌の企画・編集・制作、出版企画・編集・制作などなどあらゆるものの編集・制作・PRしています。