芸者」カテゴリーアーカイブ

料亭「喜久川」(昔) 神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 地元の人の話です。松川二郎氏の「全国花街めぐ里」(誠文堂、1929年) によれば、喜久川きくがわと読むようです。

神楽坂を代表する大料亭と言えば「松ヶ枝」と「喜久川」。自分で入ったことはなくとも、地元ではそれが常識でした。

政財界の要人に愛された松ヶ枝が多くの人の記憶に残るのは当然でしょう。しかし喜久川が、このブログの記事にほとんど出てこないのは残念なように思います。

喜久川の場所は4丁目の北西部、5丁目との境です。入り口は北側(白銀町側)。松ヶ枝同様に戦前から店を構え、戦後に大きくなったことが各種の地図で分かります。花街らしい風情と風格を兼ね備えた立派な門構えでした。廃業後、跡地は「神楽坂プラザビル」というオフィスビルになりました。ビルの完成は1992年11月です。

喜久川がビルになって、玄関前の道(注・和泉屋横町)の風情がなくなりました。それで、再開発されなかった近くの「兵庫横丁」が注目されるようになったと思います。神楽坂の路地ブームは、おおよそ1990年以降です。例えば昭和51年(1976年)の読売新聞の特集のイラストや記事は、路地に興味を示していません。

さて、写真は知りませんが、今に残る痕跡はあります。3丁目の見番手前の伏見火防稲荷神社玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です。両者が奉加帳のトップとして、最も多額の寄進をしたことが分かります。

戦前から店を構え、戦後に大きくなった 実際に大きくなりました。1937年の地図では「御木(待)」と一緒になっています。

1937年火災保険特殊地図から1984年の住宅地図。

玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です 写真を参照。「㐂」は「喜」の異体字。

松ヶ枝と喜久川。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では「全国花街めぐ里」を引用して……

○旧券 芸妓屋121軒。芸妓数446名。内小妓52名。料理店11軒。待合97軒。
 主なる待合は由多加、梅林、玉の井(神楽町)、肴町の重の井、宮比町の喜久川、もみぢ、福仙、若宮町のおかめ、津久戸の中村家、その他かぐら,梅村などが名の通っている待合。
○新券の方はというと、
 芸妓屋45軒、芸妓数173名、内小妓15名、料理店4軒、待合32軒。
 主なる待合。若宮町の松ケ枝を代表として之に次ぐもの小松、住の江。幸楽、萬琴、あけぼの。

 松川二郎氏の別の本「三都花街めぐり」(誠文堂文庫、1932年)にも喜久川がでてきます。

 主なる待合 由多加、梅林、玉の井、楓月(以上神樂町)松ケ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川、もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久土町)。その他小松、住の江、幸樂、かぐら、梅村など。


婦系図

文学と神楽坂

泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

婦系図 明治40年に書かれた泉鏡花の小説。お蔦と早瀬主税の悲恋物語が中心で、ドイツ文学者の酒井先生の娘お妙の純情、家名のため愛なき結婚のもたらす家庭悲劇、主税の復讐譚などを書く。
糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。



十千万堂日録|尾崎紅葉

文学と神楽坂

尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。
 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。
夜、小栗風葉を招いたが、口述の編集について聞いてきたい所があったからだ。2人ともに連れ会って、泉鏡花を訪ねた。愛する芸者を家に入れたとを知ったからだ、鏡花の過ちをいさめ、同意させたいと思ったが、知らないと言い張り、真実を吐かなかった。私は怒って帰った。十時になって、風葉もやってきた。右の件につき、再度、鏡花の兄弟を枕頭に招き、厳しく諫言した。十二時頃、放ち還す。疲労は甚しく、怒りののしる元気は薄い。

 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。

十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。
直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。

明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。

 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。

桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。当時の10円は今でいう10万円ぐらいだと、このホームページで。

湯島の境内①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は小説「婦系図」(1907年)では入っておらず、戯曲「婦系図」(1914年)で新しく加わりました。戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻です。

早瀬 おれこれきりわかれるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切おもひきつてわかれてくれ。
お蔦 早瀬はやせさん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんぢや、――貴方あなたささうねえ。
早瀬 洒落しゃれ串戯じょうだんで、こ、こんなことが。おれゆめれとおもつてる。
 〽あとには二人ふたりさしあひも、なみだぬぐうて三千歳みちとせが、うらめしさうにかほて、
お蔦 真個ほんたうなのねえ。
早瀬 おれがあやまる、あたまげるよ。
お蔦 れるのわかれるのッて、そんなことは、芸者げいしやときふものよ。……わたしにやねとつてください。つたにはれろ、とおつしやいましな。
  ツンとしてそがひる。
早瀬 おつた、おつたおれけつして薄情はくじやうぢやない。
お蔦 えゝ、薄情はくじやうとはおもひません。
早瀬 ちかつておまへきはしない。
お蔦 えゝ、かれてたまるもんですか。


三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。

待合「誰が袖」|夏目漱石

文学と神楽坂

 夏目漱石氏が描いた「誰が袖」は何だったのでしょうか? まず漱石氏が書いた「硝子戸の中」の「誰が袖」とその注釈を見てみます。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは。

「定本漱石全集 第12巻。小品」の注釈。誰が袖。匂袋においぶくろの名。「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(『古今和歌集』) にちなむ。
寺内 神楽坂五丁目の一部。江戸時代には行元寺があり「寺内」とよばれた。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行元寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です
誰が袖 たがそで。「誰が袖」は待合のこと。
東家 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・ふさの夫です。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

 本当に「誰が袖」は匂袋なのでしょうか? たかが匂袋を看板につけるのはおかしいと思いませんか。実際には「誰が袖」という名の待合がありました。
 横浜市図書館に富里長松氏の「芸妓細見記」(明治43年、富里昇進堂)があり、待合の部(119頁)として待合の「誰が袖」が出ています。

 また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「タガソデ」の絵が出ています。

 さらに同号の「夏目漱石と『寺内』」では、「誰が袖…待合。後に「三勝さんかつ」という名に。」と書いてあります。三勝は新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)でここです。
 また大正3年、夏目漱石作の俳句でも(『定本漱石全集』)

誰袖や待合らしき春の雨
季=春の雨。*誰袖は匂袋。江戸時代に流行し、花街では暖簾につける習慣があった。この句、匂袋をつけた暖簾、そして折からの春雨を、いかにも待合茶屋の風情だと興じたものか。

 俳句は注釈通りではなく、「『誰が袖』は待合らしい。春の雨だ」と簡単に書いた方がいいのではないでしょうか。
 しかし、『定本漱石全集』の注釈が、全くがっかりでした。


BU・SU|内館牧子

文学と神楽坂

 内館牧子氏が書いた「BU・SU」です。主人公は森下麦子で、神楽坂で芸者になろうとやってきた高校生。妓名は鈴女すずめ。置屋はつた屋。1987年に初めて講談社X文庫で出版し、1999年に講談社文庫になっています。初版は30年も昔なのですね。

 まず本の最初は、BU・SUという言葉について……

「顔が悪い」って、とっても悲しいことなんだ。女の子にとって。
 なのに、男の子ってすごく平気で、
「BU・SU」
って言葉を使うのね。
 BU・SU。
 何て悲しい響きなんだろ。
 何で世の中には、可愛い人とBU・SUがいるんだろ。
 何で、私はBU・SUの方に入る顔で生まれちゃったんだろ。
「顔が悪い」って、本人が一番よく知ってるの。
 男の子に、
「BU・SU」
 なんて言われなくたって、本人が一番よく知ってるのよ。

 そこで麦子は神楽坂に行こうと決心し、実際に行ってしまいます。でもあまり大したものは起こらない。神楽坂についても同じです。

 神楽坂というのは、とても不思議な町。
 町のどまん中を、ズドーンと坂が通っている。
 町そのものが坂なの。
 坂のてっペんに立って、坂の下の方を見おろすと、町全部が見えちゃうみたいな。
 東京のサンフランシスコ。
 坂の両側はギッシリと商店街で、まん中へんに有名な毘沙門天びしゃもんてんまつられている善国寺ぜんこくじがあるんだけど、朝夕ここから聞こえてくる木魚の音がとってもいい。
 ポクポクポクなんていう木魚じゃない。木の板をガンガン叩くんだもの。
 だからすごくリキが入ってて、サイドギターがリズムきってるみたいな、独特のリズム。
 この坂から、もうクネクネとわけがわかんなくなるくらい路地や階段が入りくんでいるの。
 昔ながらのおセンベ屋さんもあるし、銭湯もあるし、粋な料亭もあるし、道路で子供が缶ケリなんかしていて、「新宿区」とは思えない昔風の町。
 毘沙門天の「ガンガン木魚」を朝夕聞いて生きてる人たちだから、ちょっとやそっとのことじゃ驚かない。
 でも……。
 驚いていた。
 みんな、町行く人はみんな、カナしばりにあったみたいに驚いていた。
 だって、蔦屋の姐さんたちを乗せた人力車が四台つらなるその後を、鈴女が走ってるんだもの。
 着物にスニーカーだよ。着物にスニーカー!
 町の人は誰も声さえ出せずに、鈴女を見ている。
 缶のかわりに思わず自分の足をけっちゃった子供だって、泣くのをやめて見ている。
 だけど、人力車を引くのはプロのニイさんたち。
 とても、鈴女がついていけるようなナマやさしい速度じゃない。
 鈴女は着物のすそをはためかせ、顔を真っ赤にして走るんだけど、全然ダメ。
 足はもつれるし、息はあがるし、それにみんなの視線が恥ずかしくて、顔は地面を向きっぱなし。
「ガンバレ!」
「着物、たくっちゃいなッ」
「イヨッ! 蔦屋の鈴女ッ」
 沿道から声がかかり始めた。
 そのうちに、子供たちは缶ケリよりおもしろそうだと、一緒に走り出した。
 これが鈴女より全然速いんだもの……。
 子供の数はどんどん増えて、ジョギングしていたおじいさんたちまで入ってきた。
 ほとんどパレードだ、こりゃ。
 鈴女はこのまま心臓が止まってくれればいいと思った。
 坂道を大きな夕陽が照らしている。

 2つ、わからないので、質問を出してみました。

 1つ目は「木の板をガンガン叩く」。これは、なあに? 善国寺に聞いたところ、木柾もくしょうというものでした。日蓮宗では木魚はほとんど使わず、代わりにテンポが早い読経には江戸時代より木柾という仏具を使うそうです。

木鉦

 下は実際に善国寺の木柾の音です。

 2つ目は、神楽坂で人力車を使うって、本当にできるの? 平地の浅草ならできるけれど、相手は坂が多い「山の手」だよ。

 赤城神社の結婚式をあげ、人力車に乗り、そのまま下ってアグネスホテルにいくのではできる。1回だけ人力車に乗り、神楽坂を下がるのもできる。しかし、1回が30分間以上となり、人力車の観光や旅は、神楽「坂」ではまずできない……と思う。1回か2回はやることができるけれど、数回やるともうやめた……となるはず。昔は「たちんぼ」といって荷車の後押しをして坂の頂上まで押していく人もいました。

東京の路地を歩く|笹口幸男③

文学と神楽坂


 さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめ、〈高藤〉〈金升〉〈さがみ〉〈なが峰〉〈和光〉などの料亭や旅館、酒房などが占拠する、いかにも「花街」らしい一画だ。さっき、京都の町並みのようであると言ったが、ここもまさに伝統に富む京都に一脈通ずる品のよい都市空間を保っている。よそで見たならば、なんの変哲のない、犬を連れた老人の散歩ですら、ここでは絵になる、といったあんばいである。

路地 現在、かくれんぼ横丁と呼んでいます。

神楽坂の地図

神楽坂の地図

天孝 天孝、高藤、金升、さがみ、なが峰、和光のうち天孝だけが同じ店として生き延びています。他は全て閉店しました。右は1985年の「神楽坂まっぷ」で、この頃は全部が開店しています。また2007年には「わかまつ」で出火し、右隣りの「志のだ」に延焼しました。
かくれんぼ横丁
高藤金升さがみなが峰和光 全て閉店

 町並みのよさに加えて、私にとっての神楽坂のもう一つの魅力といえば、食の名店が多いことである。JR飯田橋駅に近いほうから思いつくままに挙げれば、甘味どころの〈紀の善〉。戦前は寿司屋だったこの店、あんもミツもともに自家製という。その横丁を入った左側には、手打ち蕎麦の〈志な乃〉がある。昼飯どきには、店の外まで人があふれている。量の多い太打ちの田舎そばは、ややヘビーに感じる向きもあるようだ。坂の右手途中には、ジャンボ肉まんで有名な中華料理の〈五十番〉、毘沙門天の先にある洋食の〈田原屋〉、牛肉ステーキが自慢の酒場〈河庄〉などなど、店に事欠かない。

紀の善 「ぜん」は文久・慶応年間(1861-1868年)に口入れ屋、つまり職業周旋業者として創業しました。建物は第二次世界大戦で焼失し、甘味処「紀の善」に変わりました。最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。
紀の善
志な乃 現在も同じ場所の神楽小路で営業中。
志な乃
五十番 創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。2016年3月には本多横丁に向かって右側だったのが、左側になりました。
五十番

田原屋 19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
田原屋
河庄 場所は不明です。と書きましたが、下の通信欄によれば、本多横丁にありました。

住宅地図。1984年

住宅地図。1984年

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめなかでも〈田原屋〉は歴史を秘めた洋食屋である。一階が果物店で、レストランは二階。明治の中期、神楽坂のなかほどに牛鍋屋として創業されたこの店が、現在地に移ったのは大正三年だという。客のなかには、夏目漱石菊池寛佐藤春夫サトウハチローがいたようだ。さらに島村抱月松井須磨子も来たようだし、永井荷風の『断腸亭日乗』のなかにも、たびたび田原屋へ出かけたという記述が見られる。昼飯どきでも、この店には静かな落ち着きかあり、ゆったりと食事を楽しむ年配の客を多く見かける。

路地
明治の中期 19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
断腸亭日乗 だんちょうていにちじょう。永井荷風の日記で、1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相と批判をつづったもの。

文学と神楽坂

大震災③|昭和文壇側面史|浅見淵

 文学と神楽坂

三代目小さんの独演会

 ちなみに、そのころ佐佐木茂索氏の住んでいた洋館が、のちに中戸川吉二のはじめた「随筆」の発行所となり、その編集を受持っていた牧野信一も、暫くこの洋館に住み込んでいたように記憶している。
 そのほか、寄席や釈席が震災でたくさん焼けたので、牛込亭神楽坂演芸場などの寄席、これは釈席の江戸川亭などに、一流の噺し家や講釈師がつぎつぎと現われた。当時名人といわれていた三代目柳家小さんの独演会で、得意とする「笠碁」をはじめ、どの噺しもあまり描写がこまかいので肩を凝らしたり、錦城斎典山の「小夜衣草紙」で、梅雨の夜更けの陰気な吉原の曲輪(くるわ)の広廊下に聞こえてくる幽霊女郎の厚草履の音に戦慄を覚えたりもしたものだ。いまにして思うと、この時代が落語や講釈の名人が活躍した最後だったような気がする。

小さん やなぎやこさん。落語家。生年は安政4年8月3日(1857年9月20日)。没年は昭和5年(1930年)11月29日。滑稽噺の名手として明治中期の東京落語界で人気がありました
洋館 『随筆』第一号の編集部は天神町14、発行所は巣鴨です。一方、最終号(第二巻第11号)で『随筆』の発行所は天神町6になっています。赤で囲んだ場所で、右は天神町14、左は天神町6です。天神町6は東洋経済新報社の社屋でもあります。洋館は天神町14にあったのでしょうか。随筆・矢来下
随筆 随筆久米正雄、水守亀之助を相談役に迎え、牧野信一を編輯兼印刷人として大正12年11月、雑誌『随筆』を創刊。当時の大家の名前が沢山出ています。
釈席 しゃくば。講談を興行する寄席。講釈場
江戸川亭 小石川区関口町にありました。
笠碁 かさご。古典落語の演題の一つ。碁敵同士が、ののしり合って、けんか別れになりますが、雨の日、唐傘がないので(かぶ)り笠をかぶって出かけ、また2人で碁を打つと碁盤に雨の滴が落ちるので、「いくら拭いても後から垂れて……おい、いけねえなぁ、かぶり笠を取んなよ」
錦城斎典山 きんじょうさいてんざん。3代目の講釈師。1863‐1935、文久3‐昭和10年。世話物、時代物の両方に長じて、近代講釈界最高の名人とうたわれました。写実的な読み口と、的確な情景描写が有名。
小夜衣草紙 講談の一演目。客の不実を恨んで自害した吉原の遊女、小夜衣の亡霊が巻き起こす事件の数々を語ります。
曲輪 くるわ。一定の地域を限って、その周囲と区別するために設けた囲い、つまり城や砦の周りに築いた土塁や石垣など

文学と神楽坂

神楽坂通り2|大宅壮一

文学と神楽坂

 神樂坂は全く震災で生き殘つた老人のやうな感じである。銀座のジヤツズ的近代性もなけれぱ新宿の粗野な新興性もない。空氣がすつかり淀んでゐて、右にも左にも動きがとれないやうである。
 震災は「東京」の容貌を一変させ、それに伴つてその心理にも大變革を齎らした。「下町」といつても、震災後の下町は、久保田万太郎描くところのそれと大變な違ひである。又同じ「山の手」といつても、震災後に新宿を中心として形成された山の手は、昔のそれとは全く別なものである。ところが、神樂坂だけは、依然として昔ながらの「山の手」である。
 神樂坂の通りを歩いてゐて一番眼につくのは、あの藝者達がお詣りする毘沙門様と、その前にあるモスリン屋の「警世文」である。この店の主人は多分日蓮凝りらしく、本多合掌居士を眞似たやうな文章で「恩想國難」や「市會の醜事實」を長々と論じたり、「一切の大事の中で國の亡ぶるが大事の中の大事なり」といつたやうな文句を書き立てた幟りを店頭に掲げたりしてゐるのを道行く人が立停つて熱心に読んでゐるのは外では一寸見られない光景である。これが若し銀座か新宿だとすると、時代錯誤であるのみならず、又場所錯誤でもあるが、神樂坂だとさういふ感じを抱かせないばかりか、その邊りの空氣とびつたり調和してゐるやうにさへ見えるのである。
 更に、市電を横切つて新潮社の方へ坂を登つて行くと、右手に、角帶をしめた数人の徒弟が店頭に坐つて一足宛丁寧に縫つてゐる平縫ひ足袋屋がある。「足にぴつたりとあふ足袋」といふモツトーが店頭に掲げられてゐるが、それを見ると、時代の流れに抗する最後のものといつたやうな感じを受ける。資本主義の大洋の中で、一つぽつねんと取り殘されてゐる封建時代の島とでもいつたやうなものである。
 神樂坂といへば、東京でも有名な盛り場だが、恐ろしく活氣がない。町がどことなく濕つぽくて黴臭い。
 あの相當長い通りにカフエーらしいカフエーが一軒もない。以前はプランタンなどがあって、幾分近代性を漂はしてゐたけれど、それも経營困難だとかで、銀座の方へ移つて行つてしまつた。こゝはカフエーよりも寧ろ、蕎麥屋とか、おでん屋とか、壽司屋とかゞ繁昌するところらしい。それも近頃の不景氣で、あちこちに貸家の札が見えるのは寂しい。
 銀座が断髪洋装のタイピストだとすれぱ、神樂坂は黒繻子をつけて赤いてがらをかけたおでん屋の娘といつた感じだ。
 それから又、神樂坂の兩側の裏はすつかり待合になつてゐて、そこから出て来る藝者といふ非近代的な存在が、この通りの空氣を更に非近代的なものにしてゐる。
 朝――といつても十時か十一時頃、省線の牛込驛の方から坂を登つて來ると、黄色つぽい顏に下の方だけ濃い白粉の下塗りをしてお湯から歸つて來る年増藝者や、どれもこれも皆同じやうな職業的類型性を帶びた顏の半玉達が三味線を提げてお稽古に行くのによくぶつつかる。朝の藝者は、全く芝居の樂屋裏よりも殺風景である。
 僕が神樂坂を通るのに一番好きな時刻は、夜十二時すぎて夜店もなくなり、人通りも絶えて、紙屑が風に吹かれて、電燈だけがあかあかと輝いてゐる通りに舞ひ上つてゐる頃である。その頃は、それは神樂坂だけに限らないが、「都會の砂漠」を行くとでもいつたやうな感じである。(一九二八年「文章倶楽部」)

モスリン屋 今和次郎編纂の『新版大東京案内』では

日蓮宗の辻説法でその店謳はれるカグラ屋メリンス店

といっています。メリンス店は5丁目にあり、神楽屋ともいいました。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。

明治40年の5~6丁目

岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」

本多合掌居士『日本史人物 迷言・毒舌集成』では

本田仙太郎、宮崎県の出身で、通称か号か不明も「合掌居士」と称されている。別に「日向鉄城」の筆名で著作もあるらしい。いずれにせよ、意図不明の全面広告を出すくらいだから田舎大尽なのであろう。
http://hanasakesake.seesaa.net/article/426383965.html

日蓮 日蓮は道ばたに立って通行人を相手に説法することを辻説法と呼びました。
角帯 二つ折りの、かたくて幅のせまい男帯
角帯 平縫い 糸と糸との間隔をあけずに縫い埋める刺し方

足袋屋 これは美濃屋のことでしょう。戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後から5丁目に移ってきました。
ぽつねん ひとりだけで何もせず寂しそうにしている
プランタン カフェー・プランタン。1911年(明治44年)、銀座に開業した「日本初のカフェ」で、文学者や芸術家らの集まる店でした。関東大震災後に神楽坂に支店を出しましたが、1、2年後にここは閉店。戦争中に本店も閉店。
繻子 しゅす。布面がなめらかで、つやがあり、縦糸か横糸を浮かした織物。上の「繻子織り」を参照。
繻子
 衣服の首回りの部分
てがら 手絡。丸髷まるまげなどの根もとに掛ける、飾りのきれ。色模様に染めた縮緬ちりめんなどを使います。銀座は洋風、神楽坂は和風でしょうか。

手絡

http://kokeshiwiki.com/?p=8540

待合 客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店
省線 鉄道省(運輸省)の管理の鉄道線。国電の旧称。
半玉 はんぎょく。芸者見習い中で、まだ一人前ではなく、玉代ぎよくだいも半人分の芸者

文学と神楽坂

女坂|円地文子

文学と神楽坂

円地文子

 昭和32年1月、円地文子氏は「女坂」を「別冊小説新潮」に発表しました。さらに、昭和24年から1連の物語を「女坂」の章に加えて「角川小説新書」の1つとして発表します。ここでも神楽坂は「お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地」、つまり依然ぱっとしない場所でした。
 氏は小説家、劇作家。生年は明治38年(1905年)10月2日。没年は昭和61年(1986年)11月14日。国語学者上田万年かずとし(あるいは、まんねん)の二女。戯曲から小説に転じ、女の業や怨念を官能美の中に描写。源氏物語の現代語訳にも尽力。「ひもじい月日」「女坂」など。

 神楽坂の坂上で、友禅の長い雛妓追羽根を突いている。それを傍に立って見ている(ねえ)さん芸者はまだ昼間だというのに変り色の御座敷着(つま)をとって鹿の子絞り長襦袢をこれ見よがしにのぞかせていた。ここらの芸者にしては、着物も帯も品がよく、殊に手に下げている吉右衛門の「石切梶原」の大羽子板は、薬研堀(やげんぼり)の市でも二十円よりは値切れまいと思う上物である。三、四年続いたヨーロッパの大戦争のお蔭で、軍需品や船会社の株は驚くばかり騰貴(とうき)した。有名な船成金が大阪の 芸者の()裾模様にダイヤの大粒をちりばめた噂さえあって花柳界は戦争景気でどこも繁盛(はんじよう)している。お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地でもこの程度の(こしら)をするのだから一流どころでは猶更だろう。倫は恰好よく(びん)の張った芸者の横顔を眺めて歩き過ぎながら、もうこの二十年ほど近づきなしに過した昔の新橋の芸者達の顔をあれこれ思い浮べた。夫の行友が警視庁の高級官吏だった時代には官宅で宴会をすると云えば新橋の芸者が酌人に招ばれて来た。その中には何人か行友の馴染もあって、そんな女達が待合の女将(おかみ)や女中頭と一緒に堅気な縞物に玩具のような小綺麗な手土産を下げて、昼間機嫌ききに来ることもよくあった。今からみれば思いきって赤い色を嫌う地味な年増づくりだった けれどもあの芸者たちは大方二十歳をちょっと越えたぐらいの若さだったであろう。

友禅 染め物の1手法。糊置(のりお)き防染法。特色は人物・花鳥などの華麗な絵模様。本来はすべて手描(てが)き。明治以降型紙を用いた型友禅ができ、量産に
 たもと。和服のそでの下の袋状の所
雛妓 すうぎ。一人前でない芸妓。半玉(はんぎょく)
追羽根 おいばね。二人以上で交互に一つの羽根を羽子板で落とさないようにつく正月の遊び。
姐さん芸者 先輩を呼んでいう語
変り色 かわりいろ。普通とは違った珍しい色
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
 長着の(すそ)の左右両端の部分。裾の左右両端が褄(褄先、つまさき)。そこから(えり)までが立褄。

鹿の子絞り かのこしぼり。布を小さくつまんでくくった絞り染め。鹿の背の白いまだらに似ている
長襦袢 和服の間着(あい)ぎで、長着と同じ長さの襦袢
http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/f83a62462cfb7355382301d0b56f5423
 すそ。衣服の下の(へり)
吉右衛門 歌舞伎俳優。屋号は播磨屋。東京生まれ
石切梶原 いしきりかじわら。人形浄瑠璃の時代物「三浦(みうらの)大助(おおすけ)紅梅(こうばい)(たづな)」(長谷川千四ら作。1730年初演)三段目切の通称。梶原景時(かげとき)が石の手洗い鉢を切って名刀の切れ味を示す所。下図は石切梶原の羽子板です。もちろん吉右衛門が登場します。

http://mimosa24.exblog.jp/19024370/
薬研堀 江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋両国にあった堀の名。江戸中期に埋め立てられました。不動堂があり、また付近は芸者や中条流の医師が多く居住しました
大戦争 第一次世界大戦です。大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで行いました。
騰貴 物価や相場があがること
 出どころ。出身地・出身校など
裾模様 すそもよう。着物の裾につけた模様。その模様をつけた衣服
お神楽芸者 御神楽芸者。おかぐらげいしゃ。牛込区神楽町に住む芸妓のこと
二、三流地 酔多道士戯著「東京妓情」の「巻の上」(明治16年)で花柳地24ヶ所を1等地より5等地までに分けていました。下図を見てください。1等地は両国橋の柳橋、銀座通の新橋。2等地は銀座の数寄屋橋、人形町の葭町(よしちょう)。3等地は鳥森、日本橋、芳原、芝神明、講武所、湯島天神。4等地は深川仲町、日本橋本石町、神楽坂。5等地は新富町、猿若町、向島、浅草広小路、糀町、本所松井町、蒟弱島、西ノ久保、三田、赤坂、根津でした。昔は4等地だったんですね。「全国花街めぐ里」(昭和4年)では二等地になっていますが、赤坂は一等地になっています。
東京妓情 拵え 準備。用意。支度(したく)
 ビン。耳ぎわの髪。頭髪の左右側面の部分
酌人 しゃくにん。宴席で酒の酌をする人
馴染 同じ遊女のもとに通いなれること。その人。客にも遊女にもいう
縞物 縞織物(しまおりもの)に同じ。縞模様を織り出した織物
機嫌きき 安否やようすを聞く
年増づくり 年増は娘盛りを過ぎた女性。年増づくりはそのよそおい、身なり、化粧


牛込華街読本が生きている|春木健吉

文学と神楽坂

牛込華街讀本、牛込華街読本

牛込華街読本

『牛込華街読本』(昭和12年、1937年)は主人と女中と芸妓の職責をまとめた本です。なるほどこんな本があるんだ。芸妓のいる家はこの本を相当大事に大事にしまってあり、1回は主人と女中と芸妓はこの本をよくよく読んでほしいと……。
 ところが『新宿 雑談』(昭和45年、1970年)という薄っぺらの本があり、その中で春木健吉氏が書いた「牛込華街読本が生きている――新宿周辺の華街」を読むとあっと驚く話が出ています。『牛込華街読本』は日本の図書館で数冊があるだけで(国立国会図書館、新宿歴史博物館、国際日本文化研究センター、法政大学図書館)、おそらく誰かが秘蔵している本を加えてみても、勝手に言えばおそらく十数冊もないだろう。うーむ。では「牛込華街読本が生きている」の一部です。

 上野駅前の本屋にはいって、書棚の題字を見ながら物色した。永井竜男著「わが切抜帖より」という随筆集が目にとまった。(略)
 酒徒交伝――石黒敬七旦那の酒癖からはじまって、芸者遊びの話題に「牛込華街読本」の要約が1頁半ほど書いてあった。
 この本が永井竜男氏の蔵書になっているというから、私は昔日の神楽坂華街の関係者ならばもっていると簡単に考えた。
 板室温泉の二泊の間、予定された原稿は未完のまま、私は「わが切抜帖より」を読み耽けてしまって、面白さに読み終えた。
 未稿のまま東京へ帰った私は、妙に「牛込華街読本」が気がかりになって、神楽坂華街の旧友に電話で依頼した。
 ところが、旧友から「牛込華街読本」の記憶がないというのである。後日、旧友が華街関係者に尋ねて誰も識らもないという返事が撥ね返ってきた。私はこの返事にいささか愕いたのである。旧友は戦前まで神楽坂の有名だった料亭の息子だからだ。それに三業会が出版して、一般の客が蔵書しているのに関係者が識らないというからである。
 それから、私は心当りの蔵書家連に「牛込華街読本」の有無を聴き歩いた。
 最近、私は新宿郷土研究家一瀬幸三氏がこの本を蔵書しているのを聴き、借入りを申出たところ心よく貸していただいた。
 さらに新宿区立図書館資料室へ資料探しに出かけた際、資料室員から「牛込華街読本」は神楽坂検番に一部だけ、それも客から贈られたのが残っているというのである。重ね重ねの愕きである。

 現在、牛込三業会が発行した蒔田耕著『牛込華街讀本』は新宿歴史博物館国立国会図書館に入っています。
 なお、『新宿 雑談』は新宿歴史博物館に入っていますが、国立国会図書館には入っていません。こちらは1冊しかないのかも……

芸妓と料亭

文学と神楽坂

 神楽坂の花柳界は幕末の安政4年(1857)行元寺の横丁を入ったあたりに神楽坂花街(牛込花街)として出現しました。しかし、本格的に発展したのは明治になってからです。11年後の明治元年(1868)、以降は町人の街となり商業の発展とともに花街も発展していきます。
 しかし、明治の花街はいばらの道でありまして、最初は4流の場所でした。
 夏目漱石の『硝子戸の中』(大正4年)ではこう書いています。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」
「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家あずまやってね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

行元寺

 この(あずま)家は寺内の吾妻(あずま)家のことで、『ここは牛込、神楽坂』でここだと書いています。

 さて西村和夫氏の『雑学神楽坂』によると

日清戦争の始まる前はわずか7~8軒だった待合は戦争の終わる頃には(わずか2年で)15~16軒と倍近くにまで増加した。さらに明治37、8年の日清戦争の景気は神楽坂の待合の数を一挙に50軒に増やし、芸者の数も増えていった。

 大正12年の関東大震災は幸いに神楽坂は火災を免れ、さらに賑わいを増しました。

 昭和初期は神楽坂の検番は旧検と新検との2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒であり、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。もっとも発展した時期です。

 第2次世界戦争が始まり、昭和30年3月の『新宿区史』では

当然の事乍ら昭和19年に料理店、待合、芸妓置屋、カフエー、バー等に営業停止令が出された。神楽坂、荒木町、十二社の芸妓は女子挺身隊として、軍事工場を重点として各種重要産業部門に向けられた。…4月に入って、13日・14日に160機のB29攻撃を受けて、四谷、牛込、淀橋の大部を焼失した。…5月25日に絨毯爆撃によって、四谷、牛込、淀橋地区の残存の大部を焼失した。そして、29日にはその残りを失ってしまった。

 しかし、戦争後、朝鮮戦争で再び花街のブームに火がつきました。また、1952年(昭和27年)、神楽坂はん子『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒット。(『ゲイシャ・ワルツ』は次の動画で聞くことが出来ます)

 しかし、昭和33年、売春防止法以来、環境が急に変化していきます。

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

高度成長期、接待費がふんだんにある企業がお馴染みさんになって神楽坂の景気を導いた。だからバブルがはじけるとたちまちお馴染みさんとの関係は切れ客足は引いていった。

 平成9年8月には料亭5軒と芸妓25名だけになりました。平成13年は料亭は4軒だけです。

各4軒について

「うを徳」は大正9年創業。25,000円(通常平均)、20,000円(宴会平均)、15,000円(ランチ平均)。

千月」は昭和10年創業。コースは26,250円。

「牧」は21,000円、カウンターは10,500円。

「幸本」は昭和23年創業。10,500円。席料3,150円~(税込)(クレジットだと「一見さんお断りの料亭」でもOKです)。
四軒についてはhttp://www.kagurazaka-kumiai.net/ryotei.html