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方南の人|稲垣足穂

文学と神楽坂

 昭和23年、稲垣足穂氏は「方南かたなみの人」を発表しました。
 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。

 ヤマニバーの、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者である。「あれは分家の弟だ」とは、縄暖簾のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町どぶろく屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋りは別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並の向うのの夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は……。

 横寺片隅の孤りぼっちの起臥は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊ね」である。

方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米こうじ、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいはもとどりで束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。謡曲ようきょくの一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「敦盛あつもり」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波にしおるる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまりうたいをさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。

 白銀町から赤城神社境内へ抜ける鈎の手が続いた通路。紅いに絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう?

「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長が云った。
「それにはお白粉が入用なんだ」
「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。
 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎白馬を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニヘ引張って行く。
「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」
 そう云いながら、彼は濁り酒を四本明けた。いっしょに日活館の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也のように、急に何処かへ消え失せてしまった。

鉤の手 かぎのて。かぎ(鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。がまの妖術を使う。

 そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。

 トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴ったけれど、その、客捌きの鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り出せない事共がひと餅になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬のからす。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。

 昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。

 正面に緑青の吹いた鹿鳴館風の円屋根が見える神楽坂上の書割は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館前のギー坊に、肴町のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って、それぞれに明暗物語が進捗していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更に、牛込一帯は天降った火竜群の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋の煙突と、消防本部の格子塔と、そして新潮社のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗ばかりが昔なりけり――になってしまった。

鹿鳴館

緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム艦隊フリートと共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製のかぎをつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。

牛込区詳細図。昭和16年

お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。

 それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。

武蔵野館の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール塗の小屋の表には然し暖簾が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。
「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」
 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。
 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、
「まだ氷がはいらないので、お午からです」
 五、六秒の間があった。
「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」
「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。
「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。
「いいえ田舎で――」
 その田舎は……? とは、はずみにもせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。
 その代り接穂は次のようになった。
「姉さんの方はどちらに?」
「千葉とか聞いています」
「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。
「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。
「ではまた」と云って、俺は歩き出した。

武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。

 次で小説は終わりです。

「涙が零れたのよ」釣革を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々終ったことを知るのだった。
 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。

零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。

牛込郷愁

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ郷愁ノスタルジヤ」です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、起きました。

 なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。

 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈(けんとう)がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ虎男とらお獨歩どっぽの長男)と、平野威馬雄いまおヘンリイビイブイというアメリカ人で日本の勲章を持っている人のせがれ)と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさに僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり、昔の友達は意気があいすぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイじゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが酒店の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちんをつけた自転車が三台、続いて文明館のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえをよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。
 まだある。二十一、二の時分に神楽館かぐらかんという下宿にいた。白木屋の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺいことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎かわさき備寛びかん間宮まみや茂輔もすけ、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは万長酒店です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。

むらさき鯉|半七捕物帳

文学と神楽坂

 岡本綺堂氏の「半七捕物帳」の「むらさき鯉」の出だしの文章です。この小説が実際に起こったとすると文久3年(1863年)ですが、では綺堂氏はいつ書いたのか、これがわかりません。大正5年、年齢は44歳から半七捕物帳を書き始め、大正14年に前半5巻の47篇を書き終わり、その後、昭和9年から11年までに、後半23篇を書いています。多くの場合、その初出の年月は不明です。

        一
「むかし者のお話はとかく前置が長いので、今の若い方たちには小焦こじれったいかも知れませんが、話す方の身になると、やはり詳しく説明してかからないと何だか自分の気が済まないと云うわけですから、何も因果、まあ我慢してお聴きください」
 半七老人は例の調子で笑いながら話し出した。それは明治三十一年の十月、秋の雨が昼間からさびしく降りつづいて、かつてこの老人から聴かされた『津の国屋』の怪談が思い出されるような宵のことであった。(中略)
「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾かつしか江戸川じゃあない、江戸の小石川牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろはどてに桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞ぼんぼりをつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下でき止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川おとめがわとなっていて、ここでは殺生せっしょう禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、せきは低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどんと云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどんのあたりを蚊帳かやふちとも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳をさらって行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多めったに鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、さかなは大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕あこぎ平次のへいじをきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」

小焦れったい こじれったい。もどかしくていらいらする。じれったい。
因果 原因と結果。その関係。
津の国屋 半七捕物帳の1つ。酒屋「津の国屋」で幽霊が出るという。半七は犯人を捉える。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
葛飾 東京都葛飾区のこと。区の左側に利根川の支流、江戸川がある。
江戸川 利根川の支流。千葉県北西端の野田市関宿で分流し、東京湾に注ぐ。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
行灯 あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
雪洞 ぼんぼり。紙・布などをはった火袋を取りつけた手燭てしよくか燭台。右図を参照。
新小金井 東京都小金井市東町。桜が有名な町で、西武鉄道の新小金井駅がある。小石川区(現、文京区)と牛込区(現、新宿区)から見ると、小金井はかなり遠い。
船河原橋 旧江戸川、外濠のお堀、さらに神田川を結ぶ橋。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。
堰き止める せきとめる。塞き止める。堰き止める。流れなどをさえぎりとめる。
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
殺生 せっしょう。生き物を殺すこと。仏教では十悪の一つ。
堰く せく。堰く。塞く。流れをさえぎってとめる。せき止める。
堰かれる せかれる。流れをさえぎってとめられる。
どんどん 江戸川落とし口にかかる船河原橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
蚊帳ヶ淵 かやがふち。船河原橋の下を流れる水がよどんで深くなった所。『東京名所図会』第41編(東陽堂、1904年)では「蚊屋が淵は船河原橋の下をいふ。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」
攫う。 さらう。攫う。掠う。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。関心を一人占めにする。
紫鯉 むらさきこい。江戸志では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひはなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる」
阿漕 あこぎ。禁漁地の阿漕ヶ浦で、ある漁師が密漁をして捕らえられたとの伝説から。しつこく、ずうずうしい。義理人情に欠け、あくどい。特に、無慈悲に金品をむさぼること
阿漕の平次 あこぎのへいじ。阿漕ヶ浦で、母の病のために禁断を破って魚をとり、簀巻すまきにされたという伝説上の漁師。

紫鯉|遊歴雑記

文学と神楽坂

 十方庵敬順氏が書いた「遊歴雑記初編」(嘉永4年、1851年)です。これは1989年、朝倉治彦の校訂で平凡社が復刻した部分から取りました。江戸川(現神田川)の「中の橋」で「むらさき鯉」があったといいます。最初は現代語訳です。

[現代語訳] 武蔵国の江戸川について、牛込区と小日向区との間にある目白下大洗堰が江戸川の最上部で、ここで白堀上水を分け、あまった水は下流にながしている。一方、江戸川の最下部は船河原橋で、これで終わる。川の長さはおよそ2000kmで、この間を江戸川という。しかし、誠実に呼ぶと、小日向の「中の橋」の上流220m、下流220m、前後440mをあわせた流れを江戸川という。
 その理由は、「中の橋」の流れが大部分は深く、鯉も数多く、橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはどれも鯉だ。どれも肥えて太っていて、あるいは、丸く短い。これをむらさき鯉と称し、風味ではこのむらさき鯉が一番で、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る。これを紫鯉というのは、江戸川という名前からきたもので、逆に、数千万匹の紫鯉があるからこそ、江戸川という名前がついた。以上が、江戸むらさきの由縁である。
 この清流の鯉は、むかし、五代将軍徳川綱吉がここに御放流し、この鯉は成長し、さらに、八代将軍徳川吉宗も同じくここに放流して鯉も成長したので、「中の橋」の前後、川の中央部では550mほどの間は、「御留川」として、釣魚は厳禁である。また鯉は「中の橋」前後でだけ動き、外には行かない。ただし、大雨が降りつづき、満水する場合は違い、鯉は川下の竜慶橋の辺りにまで下がることもある。逆に水上の石切橋の辺りに上る場合もある。石切橋からの川上では、まれに網や釣りをして、鯉をとらえる場合もあるという。例年1~2度、2,3艘の御用船はならべて乗り入れ、鯉を採ることもある。
 東武江戸川(現神田川)といふは、牛込小日向の間にハサまりて、カミ目白下ヲゝ洗堰アライゼキに於て白堀シタホリ上水をワケ余水の下流にして、末はフナ河原ガワラバシまでの間、川丈カワタケ長き事拾八九町、此間を惣名ソウメウ江戸川といひ来れり、しかれども誠の江戸川とサスところは、小日向ナカハシ水上ミヅカミ弐町、橋よりシモ弐町、前後四町が間のナガレを江戸川といえり、
 その故は、中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しき緋鯉ヒゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川トネガワの鯉、これにツグべしとなん、是を紫鯉といふ事は、江戸川といふ名によりて名付、又此処に紫鯉数千万スセンマンあるが故に、江戸川とは称す、江戸むらさき由縁ユカリによりてなりとぞ、
 此清流の鯉は、むかし、常憲尊君五代将軍徳川綱吉へ御放しありて、生立ソダテしめ給ひ、後又有徳尊君(八代将軍徳川吉宗)同じく此処へ放して生立ソダテしめ給ふによりて、中の橋前後、河中五町程の間は、御止川ヲントメガワと成て、釣するを堅く禁じ給ふ、此鯉魚中の橋前後にのみ住て、更に外へ動かず、但し、大雨降つゞき満水する時は、川下カワシモ竜慶橋辺へさがるもあり、又水上ミヅカミ石切橋イシキリバシ辺へ登るもありけり、石きり橋より上にては、マレアミツリして、鯉魚を得る事もありとなん、例年壱両度づゝ御用船弐三艘ならべ乗イレ、鯉魚をトラしめ給ふ、

東武 武蔵国の異称。江戸の異称。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
小日向 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
目白下 目白下は文京区目白台よりも標高は低く、江戸川橋の周辺で、場所は関口一丁目、水道二丁目、水道一丁目など。
洗堰 あらいぜき。常時水が堰の上を溢れて流れるように作った堰。
白堀 しらほり。開渠。蓋のない地上の水路のこと。
余水 よすい。余分の水
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。
川丈 川の長さ。
 およそ。おおかた。だいたい。約。
拾八九町 長さの単位で、1963~2072メートル
惣名 そうみょう。総名。いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。呼び名。
中の橋 なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けた橋。

水上 みずかみ。「みなかみ」で「流れの源のほう。上流。川上」
弐町 二町。約220メートル
 ほとんど。大多数。大部分
鯉魚 りぎょ。鯉(こい)
邂逅 「わくらば」と読み、「まれに。偶然に」
たまさか 偶さか。適さか。偶然。たまたま。
弐尺四五寸 2尺4~5寸。約91~95センチ
三尺 114センチ
緋鯉 ひごい。赤や白の体色の鯉の総称。普通、橙赤色。観賞用。
豊嶋 豊島郡。武蔵国と東京府の郡。おおむね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、大部分の練馬区。江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分離。
江戸むらさき 色名の一つ。濃い青みの紫。16進法では#745399     
常憲 第5代将軍徳川綱吉つなよしの戒名は常憲院殿贈正一位大相国公。
尊君 男性が、相手の男性を敬っていう敬称
 ここ。現在の時点・場所を示す語
生立 おいたち。生い立ち。育ってゆくこと。成長すること。
有徳 徳川吉宗の戒名は有徳院殿贈正一位大相国
御止川 御留川。おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所
 と。いっしょに事をする仲間。
竜慶橋 隆慶橋。りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。上図を
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」。上図を
壱両度 いちりょうど。一回か二回。1~2回
御用船 江戸時代、幕府・諸藩が荷物運送などを委託した民間の船舶。

船河原橋と蚊屋が淵

文学と神楽坂

 飯田橋と船河原橋の2橋と、神楽河岸、蚊屋が淵については「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)で書いてありました。

    ●神樂河岸
神樂河岸は、牛込門外の北岸にして、神樂町一丁目より揚場町及び下宮比町の一部なる前面に横る一帯の河岸地をいふ。もとは市兵衛河岸●●●●●叉は市兵衛雁木●●●●●●と稱したり。そはむかし此所に岩瀬市兵衛●●●●●の屋敷ありしに因る。
牛込警察署は此河岸地の南端に在り。
目下當地の北端より飯田町の方に煉瓦にて基底を作り、新橋を架設し居れり。是は市區改正の計畫に據るものにして、下宮比町より津久戸前町等を貫通して開創すべき道路と連絡せむが爲めなりといふ。
    ●飯田橋
飯田橋は、神樂河岸の北端卽ち下宮比町の東隅なる河岸より、飯田町九段阪下の通りに連絡する架橋をいふ。今より凡そ十七八年前に架設したるものなり。前項の新架橋落成せぱ撤去せらるべきか。
[現代語訳]
    ●神楽河岸
 神楽河岸は、牛込御門外の北岸で、神楽町一丁目から、揚場町と下宮比町までの、一帯の河岸地をいう。もとは市兵衛河岸や市兵衛雁木といったが、昔、ここに岩瀬市兵衛の屋敷があったからだ。
 牛込警察署もこの河岸地の南端にある。
 当地の北端から飯田町の方に向かって煉瓦で基礎を作り、目下、新しい橋をかけようとしている。これは市区改正の計画によるもので、下宮比町から津久戸前町などを貫通して、新しい道路に連絡するためだという。
    ●飯田橋
 飯田橋は、神楽河岸の北端、つまり下宮比町の東隅の河岸から、飯田町九段阪下までの道路に連絡する橋をいう。今からおそよ17、8年前、架橋ができたが、前項の新しい橋が落成するとこの橋も撤去するべきといえないか。

河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。
牛込門 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」「牛込御門」と同じ。
揚場町 町名は山の手で使用する商品を運送する荷を揚げる物揚場になったため
しも宮比みやび 江戸時代は武家地。明治2年、武家地を開いて宮比町に。宮比神社を祀る祠を建てたので宮比町と。ただし、この宮比神社は現在ない。明治5年、付近の武家地跡を合わせ、台地上を上宮比町(昭和26年からは神楽坂四丁目)、台地下は下宮比町である。下宮比町の変更はない。
雁木 がんぎ。船着き場や桟橋さんばしの階段。
基底 基礎となる底面。
架設 橋や電線などを支えを設けて一方から他方へかけ渡すこと。
市区改正 東京市区改正事業。明治時代から大正時代の都市計画。明治21年(1888年)東京市区改正条例が公布。道路を拡幅し、路面電車の開通し、上水道の整備などを行った。
據る よる。たよりとなる足場とする。よりどころ
津久戸前町 津久戸明神前にあるため、津久戸前町と呼ばれた。明治2年、牛込西照院前と併合し、牛込津久戸前町となり、明治44年、さらに津久戸町となる。
開創 かいそう。初めてその寺や事業を開くこと。
架橋 橋を架けること。その橋。

    ●船河原橋
船河原橋は、牛込下宮比町の角より、小石川水戸邸、卽ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいふ。俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。江戸川落口にて、もとあり。水勢常に捨石激して淙々の音あるに因る。此橋を仙臺橋とかきしものあれども非なり。仙臺橋は水戸邸前の石橋の稱なるよし武江圖説に見えたり。松平陸奥守御茶の水開鑿の時かけられしには相違なしといふ。
    ●蚊屋が淵
蚊屋かやふちは船河原橋の下をいふ。江戸川の落口にて水勢急激なり。或はいふ。中之橋隆慶橋の間にて今おほまがといふ處なりと江戸砂子に云。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。
[現代語訳]
    ●船河原橋
 船河原橋は、牛込区下宮比町の角から、小石川区の旧水戸邸、つまり今の砲兵工廠の前に出る道と連絡する橋をいう。俗にドンド橋、単にドンドンともいう。江戸川が落下する場所に堰があった。水の勢いは、投石に激しくぶつかり、常に高く、ドンドンという音がしていた。この橋を仙台橋と書いたものあるが、これは間違いだ。武江図説では、仙台橋は旧水戸邸前の石橋だと書いてある。旧松平陸奥守の「御茶の水」の橋は開削の時に、架橋して、現在はない。
    ●蚊屋が淵
 船河原橋の下面を蚊屋が淵という。神田川中流が落下する場所であり、水勢が急激だ。江戸砂子では、別の説を出し、中之橋と隆慶橋の間に相当し、現在は大曲という場所がそれだという。昔、ひどい姑がいて、嫁にこの川で蚊帳を洗わせていたが、浅瀬は速く、水に蚊帳をとられ、嫁はその蚊帳に巻かれて死亡したという。

船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
 「旧」の旧字。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り。
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙臺橋 仙台橋。明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-16.html)を使うと、おそらく小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう(右図)。
武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開鑿 かいさく。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋が淵 「半七捕物帳」では「蚊帳ケ淵」と書かれています。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保 17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。

川柳江戸名所図会④|至文堂

文学と神楽坂

 善国寺の川柳についてです。

鎮護山善国寺

さてまたもとへ戻って、濠端から神楽坂を上り切った辺り、左側、古くは肴町、今は神楽坂五丁目という所にがある。
 そもそもは馬喰町にあり、寛文十年、麹町六丁目横町、御厩谷という所へ移った。そこでその谷を善国寺谷というように成る。
     谷の名に寺名末世置みやげ      (六六・36
いうような句のできるわけは、さらに「武江年表」寛政五年の項に「麹町善国寺去年火除のため地を召上げられ、神楽坂に代地を給はりけるが、今年二月普請成就して、二十七日毘沙門天遷座あり」と記されているようにまた移転したのである。
     あら高くなる谷から坂の上      (六六・31)
     三度目面白い地へ御鎮座       (六六・30)
     所かへてんてこまふかぐら坂     (八一・3)
 本尊毘沙門天は加藤清正守護仏であったとも伝え、尊仰篤く、芝金杉の正伝寺品川の連長寺と共に知られた。
     むりな願ひも金杉と神楽坂       (六六・29)

 日蓮宗鎮護山善国寺です。
馬喰町 東京都中央区日本橋馬喰町です。
御厩谷 おんまやだに。御厩谷坂とは千代田区三番町の大妻通りを北から南に下がる坂。
善国寺谷 現在は千代田区下二番町の間より善国寺谷に下る坂。坂上に善国寺があり、新宿通りから北へ向って左側にありました。坂下のあたりを善国寺谷といい、御厩谷とは無関係。
末世  仏教で、末法の世。仏法の衰えた世。のちの世。後世。道義のすたれた世の中。
置き土産 前任者が残した贈り物、業績、負債。
六六・36 この「川柳江戸名所図会」にはどこにも書いてありませんが、江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この本も「誹風柳多留」の句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇をまとめました。これは66篇の句集36です。ちなみにこの作者は「百河」です。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
普請 家を建築したり修理したりすること。多数の僧に呼びかけて堂塔建造などの労役に従事してもらうこと。
遷座 せんざ。神仏や天皇の座を他の場所に移すこと。
あら 驚いたり、意外に思ったり、感動した時などに発する語。
てんてこ 「てんてこ」とは里神楽などの太鼓の音で、その音に合わせた舞
まふ 舞う。音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。
加藤清正 かとうきよまさ。安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。
守護仏 守護本尊。守り仏。一生を守り続けている仏。生年の十二支を求め、8体の仏から決定する。
芝金杉の正伝寺 港区芝の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天がある。
品川の連長寺 正しくは蓮長寺。品川区南品川の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天像を祀る。

 縁日の日である。
     ゑん日が千里もひゞく神楽坂      (一五〇・10)
虎は千里行って千里かへる」ということわざをふまえている。
     寅の日におばゞへこ/\善国寺     (六六・30)
「おばゞへこ/\」というのは、当時の流行語であったらしい。ここでは老婆が腰をへなへなと動かす形容である。
 他に句もある。
     おばゞへこ/\の気あるやかましい  (天二満2)
     おばゞへこ/\の気あるでむつかしい  (二〇・26 末四・18)
     おばゞへこ/\がおすきで困り    (一〇三・4)
 これらの句は姑婆がまだ色気があって、聟を困らせるというようなことであろう。
     きざな事おばゞへこ/\罷出る     (傍三・41)
 これは吉原遣り手か。
     寅詣牛へひかれし善国寺        (六六・35)

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
 十二支の第3番目。寅の日には婚礼などを避けたが、「虎は千里を行って千里を帰る」といい、出戻ることを避けるためだった。時刻では、午前4時の前後2時間を「寅の刻」「寅の時」という。方角は東北東。
ひびく 音が遠くまで達する。ある場所で大きな音や声が発せられて、大きく聞こえる。
虎は千里行って千里かへる 虎が、一日のうちに千里もの距離を行き、さらに戻って来ることができる。活力に満ちた、行動力のあるなどを表す言い回し。
おばば 御祖母。祖母や老年の女性を親しんでいう語
へこへこ 張りがなく、へこんだり、ゆがんだりしやすいさま。頭をしきりに下げるさま。また、へつらうさま。ぺこぺこ。
気ある  興味や関心がある。特に、恋い慕う気持ちがある。
やかましい 音や声が大きすぎて、不快に感じられる。さわがしい。
 もこ。むこ。結婚して妻の家系に入った男性。
姑婆 「こば」? 祖父の姉妹。父方の叔母。
きざな 服装・態度やものの言い方などが気取っていて、いやみだ。
罷出る まかりでる。人前に出る。出てくる。
吉原 江戸幕府が公認した遊廓。浅草寺裏の日本堤で、現在は千束4丁目付近。
遣り手 遊郭で客と遊女との取り持ちや、遊女の監督をする年配の女。
寅詣 とらまいり。寅の日に毘沙門天に参詣すること。

 神楽坂のさらに上、通寺町の右側に多くの寺があり、その一つに龍峯山保善寺というのがあった。ここは山門に「獅子窟」というがかけられていて、世俗獅子寺〉といった。この寺は今は中野区昭和通りに面した所に移っている。
 またその先隣に蒼龍山松源寺という寺があった。俗に〈猿寺〉という。この寺では猿を飼っていた。ある時、住持が江戸川の渡船に乗ろうとした時、猿に引留められて乗船を思い止まり、そのため沈没溺死を免れたという話が伝えられている。この寺も獅子寺と同様中野区昭和通りに移転しており、門前に猿の像を載せた「さる寺」という柱を立てている。
     牛込で獅々猿よりもはやる寅      (六六・35)
 この句はこれらの寺々と善国寺とを獣で比べたのである。
 さて神楽坂や善国寺関係の句が多く六六篇にあるのは、同篇に「牛込神楽坂毘沙門天奉納額面会」が催された時の句、一四八句が載っているからであって、ここにあげた外にも、いろいろあるが省略する。しかし他の篇にはあまりこの寺の句は見当らない。

明治20年「東京実測図」(新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から)

龍峯山保善寺 盛高山保善寺(赤)。現在は中野区上高田1-31-2に移動。
獅子窟 ししくつ。「窟」はあな、ほらあなの意味。
 書画を枠に入れて室内の壁などに掛けた文句や絵画。その枠。
世俗 せぞく。俗世間。俗世間の人。世の中の風俗・習慣。世のならわし。
獅子寺 三代将軍徳川家光が牛込の酒井家邸を訪問した折り保善寺に立寄り、獅子に似た犬を拝領した。これから「獅子寺」という
蒼龍山松源寺 蒼龍山松源寺(青)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
猿を飼っていた 佐藤隆三氏や芳賀善次朗氏の「猿寺」を参照。
江戸川 これは利根川の支流です。千葉県北西端の野田市関宿せきやどで分流し、東京湾に注ぐ。
はやる ある一時期に多くの人々に愛好する。流行する。 客。

愛がいない部屋|石田衣良

文学と神楽坂

 石田衣良氏の『愛がいない部屋』(集英社、2005年)です。始めに「おわりに」を紹介します。ここに本を書いた意図が書かれています。

 恋愛短篇集もついに三冊目になりました。
 これまでは二十代、三十代と年齢別に書いてきたけれど、今度はどうしよう。では人生のある時ではなく、場所を限定して書くことにしよう。それなら超高層の集合住宅がおもしろそうだな。東京では百を超えるガラスとコンクリートの塔が空をさしています。今の時代を映す背景としてぴったりだし、一棟のマンションに舞台を圧縮することで、さまざまな対比が鮮やかに描けるかもしれない。
 タワーマンションが建つ街は、以前住んでいた神楽坂にしよう。その名も「メゾン・リベルテ」。自由の家という名のマンションに住む、そう自由ではない人々の暮らしを、これまでよりすこしだけリアルに書いてみよう。この本はそんな気もちで始めた連作集です。

 では、最初の「空を分ける」から

「このマンションは二年まえに竣工しました。計画段階では、地元の住民から超高層への反対運動がありましたが、今では問題なく周辺住民とスムーズにいっています」
 扉が開くとエレベーターの奥は鏡張りだった。防犯対策だろうか。
「どうぞ」
 ボタンを押したまま成美がいった。階数表示がつぎつぎと点滅しながら、操作盤を駆けあがっていく。梨花は息をのんで、耳抜きをした。こんな贅沢なマンションに住めるのも、割安なルームシェアのおかげだ。梨花ひとりではとても手のでる物件ではなかった。建物の案内は続いている。
「当初の計画では地上四十三階建てでしたが、話しあいの結果、地上三十三階となり、公開緑地を多くすることで落ち着きました。最上階は展望室と来客用の宿泊施設などです。ほとんどは分譲ですが、賃貸物件もいくつかあります」
 エレベーターは十九階で停止した。中央の吹き抜けを内廊下が四角くかこんでいた。博人は手すりから顔をのぞかせ、したを見おろしてから、ガラスの屋根を見あげた。梨花も同じようにする。遥か下方に放射状に大理石の組まれた明るいロビーが落ちていた。博人はのんびりという。
「うえを見ても、したを見てもきりがない。なんだか、このマンションだけでひとつの街みたいだ。ぼくたちは中の上くらいのところに住むんだな」
 梨花はうなずいて博人の横顔をそっと見つめた。広告代理店のクリエイターがどんな仕事をするのかよくわからないが、ものをつくる人の細やかな神経を感じさせる横顔だった。廊下の先から成美が声をかけてくる。
「こちらです。どうぞ」
 部屋番号は1917号室だった。梨花は贅沢な共有部分から、ため息のでるような室内を想像していたが、ドアのなかは案外普通のつくりだった。ロビーと同じ大理石は張ってあるが玄関は狹く、まっすぐ奥に延びる廊下も余裕たっぷりというわけではなかった。不動産会社の女は、天井まで届くシューズクローゼットを開けて、配電盤のブレーカーをあげた。先に立って部屋にあがり廊下をすすんでいく。図面に目を落としていった。
「廊下の左右に個室がひとつずつあります。六畳と変形の七畳で、どちらも大容量のクローゼットがついています。全部で六十平米ちょっとの2LDKになります」
 博人と梨花はドアを開けて室内を確かめた。どちらの部屋も窓は吹き抜け側にあいているので、それほど明るくはなかった。天気の悪い日には昼間でも照明が必要だろう。

ルームシェア roomshare。ひとつの住居を他人同士が、共同で借りたり、共有して居住すること
公開緑地 地方公共団体の条例要綱等に基づき、土地所有者と地方公共団体などが契約を結び、緑地を一定期間住民の利用に供するために公開するもの。
クリエイター 創作家、制作者。広告クリエイターとは広告制作でコピーライトやCMプランニングを中心に行う人。
シューズクローゼット Shoe Closet。玄関で靴を入れるための収納箱。下駄箱
クローゼット 衣類を仕舞う洋風の空間。押入れ。
LDK リビングルーム(居間)とダイニング(食堂)とキッチン(台所)

アライバル社の広告から(https://www.arrival-net.co.jp/article/condominium/kagurazaka_einstower/)

 建物のモデルは「神楽坂アインスタワー(Eins Tower)」なのでしょう。これは神楽坂五丁目にあり、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションで、普通の分譲マンションではありません。2018年、67.37㎡の価格は6,180万円。なお、ドイツ語のeinsは「ひとつ、1」。
 東急リバブルの広告では……「タワーマンション特有の共用施設の充実、フロントサービス、24時間有人管理、24時間総合監視システム、オートロック、防犯カメラ、モニター付きインターホンと徹底した安全管理体制が設けられています。室内はバリアフリー、ディスポーザー、カウンター付きシステムキッチン、オートバスなど生活設備も充実しています」

 さて別の章「いばらの城」では

アライバル社の広告から


「なんて名前」
「メゾン・リベルテ神楽坂。ほらもうさっきから見えてるよ」
 茂人は美広の指さす空を見あげた。白く輝く積乱雲を背に、この街には似あわない巨大な超高層ビルが灰色の切り絵のように空を占めている。
「あんなところか。すごく高いんじゃないの」
「部屋によってはそうでもないみたい」
 その物件は神楽坂上の交差点近くに建っていた。周辺の公開緑地もかなりの広さがあリ、ちょっとした公園なみである。エントランスはホテルのように広々としていた。中央が巨大な吹き抜けになったロビー階には、ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋まである。休日のせいか オープンカフェの日傘のテーブルはほとんど埋まっていた。一番端の席に、妙に目立つ真紅のストールを巻いた小柄な老女が座って、こちらをじっと見つめていた。

オープンカフェ 道路側の壁を取払ったり店の前に客席を設けたり、開放的な演出を凝らしたカフェやレストラン。
ストール 婦人用の細長い肩掛け

 残念ながら、神楽坂アインスタワーには「ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋」はありません。 

猿寺|佐藤隆三と芳賀善次朗

文学と神楽坂

 猿寺について佐藤隆三氏と芳賀善次朗氏を取り上げます。最初は佐藤隆三氏で、氏は昭和6年には東京市主事であり、『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)という本を書いています。ちなみに口碑こうひとは、古くからの言い伝えや伝説のことです。
 元禄の頃、住職の徳山和尚が渡船に乗ろうとすると猿が現れ、自分の裾を取り、また他の主人との話もあり、乗船できませんでした。しかし、目の前で、この渡船は沈没してしまいます。猿のおかげで難を免れたという話です。

     猿寺
 東中野桐ヶ谷の大通りに、猿寺といふがある。本名は松源寺であるが、山門の前に「さる寺」と刻付け猿の附いた大きな石標が建てゝある。この寺はもと牛込通寺町にあつたが、明治三十九年に此處に移轉したものだ。
 元祿の頃、この寺に徳山と云ふ有德の和尚が居つた。時々境内に猿がやつて來て惡戯をするので、和尚も困つてゐたが、別に人畜に害を加ふる譯でもないからその儘にして置いた。或日和尚の留守の時に、小僧と仲間ちうげんが面白半分に、猿を本堂に追ひ込んで生捕りにし、繩で縛つて置いた。そこへ淺草橋場の檀家の者がお詣りに來て、何程かの鳥目を小僧と仲間に與へて、猿を貰つて行つた。和尚はその後境内に猿の出なくなつたことを氣にも留めなかつた。
 翌年の春、花の咲く頃、和尚は向島の檀家に招かれ、小僧を連れて、竹屋渡場迄やつて行くと、花見の連中がワイ/\騒ぎながら渡舟を待ってゐる。和尚も舟に乗らうと岸に立つてゐると後より法衣の裾を引張るものがある。振り向いて見ると一匹の猿であつた。變な猿だと思つてゐる所へ、猿に逃げられたと云って駈けつけて來たのが、橋場の檀家武藏屋の主人であつた。この猿は松源寺の境内にゐた猿だと聞いて、懐かしげに思ひ、武藏屋の主人と話をしてゐるうちに、舟は多くの人を乘せて出て終つた。仕方なしにモー一舟待つてゐると、その舟は餘り多くの人が乘つたものだから、川の中程で引繰り返り、泣くやら叫ぶやら大騒ぎとなつた。無論助け舟も出たことであるが、溺死する者も尠くはなかつた。和尚と小僧は猿のお蔭で、命拾ひをしたことを喜んだ。歸りがけに武藏屋に立寄って譯を話して、その猿を貰ひ受け、寺で大事に飼ふことにした。
 五代將軍綱吉公、鷹狩の歸途この寺に立寄られた時、猿にお目がとり、和尚よりこの話を聞いていたく感心せられ、その後綱吉公より雲慶の作と稱する、猿を彫刻した扁額を賜はつたので早速その額を本堂にかゝげた。それ以来猿寺と人が呼ぶ様になつたと云ふ。

 蒼龍山松源寺(左側の青い多角形)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
刻付け きざみつけ。材料や表面を刻む、切る、刻み込む
山門 寺院の門。寺院。寺院は元来、山中に建てられたため
石標 ある事を記念し、後世に伝えるために記しておく石。石碑。目印の石。道標に立てた石。
牛込通寺町 現在は神楽坂六丁目21番地。
元禄 1688年~1704年。江戸幕府将軍は5代目の徳川綱吉つなよし
有德 うとく。ゆうとく。徳行のすぐれていること。
仲間 ちゅうげん。中間。武家の奉公人で、城門の警固や行列の供回りなどに使った。
檀家 だんか。だんけ。寺院に属し布施する家か信者
浅草橋 東京都台東区浅草橋。秋葉原の東に位置する。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭の異称。江戸時代の銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたから。
境内 神社・寺院の敷地内
向島 むかいしま。東京都墨田区の隅田川東岸の旧区名。中小工場・住宅・商店が密集し、墨堤の桜や百花園の月見で有名だった。
竹屋の渡し 現在の言問橋のやや上流の山谷堀から、向島三囲みめぐり神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。
橋場 現在の白鬚橋付近。隅田川の渡しとしては最も古い。白鬚橋が完成し、渡しは廃止された。
尠く 「少なく」と同じ
雲慶 平安時代末期から鎌倉時代初期に活動した仏師。
稱する 称する。となえる。呼ぶ。
扁額 へんがく。門戸や室内などに掲げる横に長い額。横額

 次は芳賀善次朗氏の『新宿と伝説』(東京都新宿区教育委員会、昭和44年)の「恩返しをしたサル」です。氏については新宿区戸塚第一小学校の校長であり、新宿区の伝説や伝承をまとめています。

九 恩返しをしたサル
  場 所 神楽坂六丁目21番地
  時 代 江戸時代 元禄(1688―1703)のころ
 ここに松源寺という寺があり、徳山という高僧がいた。時々境内にサルがやってきていたずらをするので、和尚は困っていたが、別に人畜に危害を加えるわけではないので、そのままにしておいた。
 ある目、和尚の留守の時に、小僧と仲間がおもしろ半分にサルを本堂に追い込んで、生けどりにし、なわでしばった。和尚はかわいそうだから放してやれといっているところへ、浅草橋場のだん家の者がお参りにきた。その人はいくらかの金を小僧と仲間に与え、その猿をもらい受けていった。
 翌年の春の花時、和尚は向島のだん家に招かれ、小僧をつれて竹屋の渡し場までやってくると、花見の連中が大勢ワイワイ騒ぎながら渡し舟を待っていた。
 和尚も舟に乗ろうと岸に立っていると、後から衣のすそを引っ張るものがいた。振り向いて見ると、一匹のサルであった。変なサルだと思っていると、そこヘサルに逃げられたといって駆けてくる人がいた。みれば橋場のだん家武蔵屋の主人であった。
 武蔵屋の主人が、「このサルは松源寺からもらってきたものだ」と話しているうちに、舟は出てしまった。和尚はしかたなしに、つぎの舟を待っていた。ところが舟はあまり多くの人を乗せたため、川の中ほどでひっくり返り大騒ぎとなった。すぐさま助け舟は出たもののでき死者まで出る始末であった。
 サルのおかけで、結局和尚と小僧は命拾いをしたのである。帰りがけに和尚は喜んで、武蔵屋に立ちより、そのサルをもらい受け、大事に飼うことになった。
 五代将軍綱吉公は、鷹狩りの帰りに、この寺に立ち寄られ、和尚から恩返しをしたサルの話を聞いて、いたく感心されたということである。その後、綱吉公から雲慶の作と称するサルを彫刻したへん額を賜った。それ以来、この寺を土地の人々がサル寺と呼ぶようになった。
  出 典 ○江戸の口碑と伝説 佐藤隆三著 昭和6年10月 郷土研究社発行
  解 説 松源寺は、明治末年、道路拡張のため、中野区上高田一丁目に移転した。

川柳江戸名所図会②|至文堂

文学と神楽坂

 つづいて軽子坂、船河原、とんど橋、猪牙ちょき舟を取り上げます。

軽 子 坂

江戸川合流してくる少し手前、左側を揚場町という。船着場で荷揚げをしたからである。この辺りから濠に直角に上る坂を軽子坂という。軽子は荷揚げの人足、軽籠あしかもっこ)で荷を運ぶ人夫のことである。それらの住居があったので坂の名となったという。
 今は飯田橋から新宿へ行く都電に大体平行になっている。
   楽になるまでお杖にかるこ坂     (一一三・34)
   忠義に重き士の住む軽子坂      (一〇三・17)
 これらの句は、この坂の左側に、大久保彦左衛門の邸があったのでそれを言ったものであろう。

船 河 原

船河原というのは、いま揚場町と言っている所で、国電飯田橋駅の濠を隔てた向う側である。
 昔はこの辺も河原のようになっていて、船が着いたものであろう。
   舟河原今家並さん瓦         (六六・37)
 昔は船河原と言ったが、今は人家が建てこめて、しかも瓦としては上等の桟瓦が使われているというので、荷揚げ等で繁昌し、住民の懐も楽になって行ったことを物語るのであろう。

 ごう。城を取り囲む、水のある堀。ほり。飯田橋~四谷の牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠は神田川に通じている。
江戸川 三鷹市の井の頭池を水源として、東京都の中央部を東西に流れて両国橋上手で隅田川に合流する川。上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川と呼んでいたが、1965年、河川法改正で全体を神田川と総称することになった。
合流 江戸川(神田川)と外堀が合流する。
揚場町、軽子坂 右の地図を参照。
軽籠 「軽籠」で「かるこ」と読みます。縄で編んだ目の粗い網の四隅に、棒を通す縄をつけた、土石運搬用の道具。もっこ。
あしか 不明。
お杖 つえであれば、杖を敬っていう語。「楽になるまでは、杖を頼って軽子坂を上ろう」でしょうか?
大久保彦左衛門  戦国時代から江戸時代前期の武将。幕臣。家康・秀忠・家光の三代に仕える。天下のご意見番。その子孫が神楽坂に住んでいたのでしょうか? 右図を参照。
家並み 家が続いて並んでいること。
船河原 揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原の意。
河原 川の流れに沿う平地で、ふだんは水の流れていない、石や砂の多い所
さん瓦 桟瓦。さんがわら。断面が波形で,一隅または二隅に切り込みのある瓦。

とんど橋

江戸川が、濠に入る所にかかる橋で、今は大久保通りを飯田橋から水道橋へ向う都電の渡る橋である。
 仙台侯が、お茶の水の堀割りをした時、かけたものといい、仙台橋という名もあったという。橋の下に水堰の捨石があって、水音が高いので、とんど橋という。また船河原橋ともいう。
   神楽坂付て廻ッてとんど橋       (一三五・31)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋     (重 出)
 さてこの第一句は、少し意味が分りにくいが、橋が神楽坂の直下にある訳ではないということと、神楽とその太鼓の音とを結んだものであろう。
 第二句は、神楽坂の坂上に岩戸町というのがあるところから、つらねて天鈿女命の天の岩戸の神楽とし、さきの句と同じく、太鼓の音との結びであろう。

牛込の猪牙

柳橋からの猪牙舟は、大川へ出て、上流へ山谷堀へ行くか、下って深川へ行くのが普通であるが、稀には、神田川をさかのぼって行ったものもあるらしく、次のような句がある。
   牛込へこいでくちよきのやぼらしさ   (天七・一〇・一五)
   牛込に悪所くるひを知らぬ猪牙    (一六七・25)
   牛込の舟蒲焼を不断かぎ        (五二・9)
 この最後の句は、猪牙に限らない、運び船でもあり得るが、水道橋のところに、うなぎやがあったという。そこを通る度に鰻香がただようのであろう。
   水戸ばし御びくにうなぎ丸でかい    (天三鶴1)
という句もある。

とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
仙台侯 「仙台藩主」のこと。しかし封地名に「侯」をつけるほうが多かった。例えば「仙台侯」など。
堀割り 地面を掘ってつくった水路。濠
つらねて 列になるように位置させる。一列に並べ、または、つなぐ。
天鈿女命 あまのうずめのみこと。記紀神話の女神。天照大神あまてらすおおみかみが天の岩屋に隠れた時、その前で踊った。
猪牙 「猪牙ちょきぶね」から。江戸時代、屋根のない舳先へさきのとがった細長い形の小舟。
大川 東京都を流れる隅田川の下流部における通称。
山谷堀 さんやぼり。隅田川の今戸から山谷に至る掘割。吉原の遊郭への水路として利用。現在は埋め立てされ「山谷堀公園」になった(左図を参照)。
深川 東京都江東区の町名。
ちよき 「猪牙」のこと
くるひ 「狂い」では物事の状態・調子が正常でないこと。悪所狂い(あくしょぐるい)とは、遊里に入りびたって酒色にふけること
不断 とだえないで続く。決断力に乏しい。「普段」と当てて、日常、平生へいぜい、いつも。
かぎ 「嗅ぎ」でしょう。鼻でにおいを感じとること。「牛込の舟は蒲焼の匂いをいつも嗅いでいる」
水戸ばし 東京都葛飾区小菅一丁目、綾瀬川に架かる橋(右上図を参照)
御びく 魚籠びく。とった魚を入れておく器。
丸でかい 完全で、欠けたところのないこと。まるごと。江戸の吉原遊郭で、遊女の揚代が倍額になる日

東京を歌へる③|小林鶯里

文学と神楽坂

 今度は「東京を歌へる」(牛込編)③俳句です。

   牛   込
    牛込見附にて
 葉柳の風一陣や砂の渦         耕   石

   神  樂  坂
 神樂坂淸水流るるかな        紅   葉
 早稻田涙の忘年會や神樂坂       子   規
 露凉し植木屋並ぶ坂の下        耕   石
 夕凉し爪先上り神樂坂         鶯   里

   築土八幡津久戸明神
 茂り濃し地主地借りの二柱       耕   石
 この内に鳴け時鳥矢来町        紅   葉

   穴  八  幡
 寒き日を穴八幡に上りけり       子   規
 薄暗き穴八幡の寒さかな        子   規
 花淋しひる只中の鳩の聲         永   機

   若  松  町
 若松町老松町や松の花         風 蕩 之

   早  稻  田
 鳴子鳴らぬ早稻田となりぬ今年米    三   允

[現代語訳]
夏の柳の風が激しく吹いて、砂の渦になった
神楽坂では清水が流れている。全く詩の世界だ。
早稲田は涙の忘年会で、あったのは神楽坂。
つゆは凉しく、神楽坂下で植木屋は沢山並ぶ。
夕方は凉しい。少しずつ登りになった神楽坂。
  築土八幡と津久戸明神
草木は鬱蒼として、地主の土地を借りるために神は二柱。
矢来町の内で鳴け、ホトトギス。
寒い日を穴八幡に上がっていった。
薄暗い穴八幡はなんと寒いことか。
花は淋しい。昼の真ん中に鳩の声
若松町と老松町に松の花。
鳴子が鳴らない早稲田になった。その新米がここに。

耕石 不明。中西耕石だとすると幕末・明治の南画家。
葉柳 はやなぎ。緑の色を増した夏の柳のこと。
一陣 風や雨がひとしきり激しく吹いたり降ったりする
 ふ。詩や歌。詩歌を作る。みつぎもの。租税。年貢。わりあて。与える。さずける。天からさずかる。うまれつき。漢文の文体の一つ。
爪先上り つまさきあがり。少しずつ登りになっていること。
鶯里 梅阪鶯里だとすると大正・昭和時代の写真家。
築土八幡 筑土八幡神社。新宿区筑土八幡町にある神社
津久戸明神 元和2年(1616年)、筑土八幡神社の隣接地(新宿区筑土八幡町)へ移転、「築土明神」と呼ばれ、1945年、東京大空襲で全焼。1954年、九段中坂の途中にある世継稲荷境内地へ移転。
茂り 草木がたくさん育って、葉や枝が集まっている
濃し 密度が高い
地借り 家屋を建築するため土地を借りること。
 助数詞。神仏、高貴な人、遺骨などを数えるのに用いる。「二柱の神」
穴八幡 穴八幡宮。新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社
只中 ただなか。まんなか。真っ最中。
永機 えいき。永機。幕末・明治前半の俳人
若松町 新宿区のほぼ中央部の町名。
老松町 かつて小石川区(現、文京区)高田老松おいまつ町があった。現在は目白台一~三丁目に編入。
風蕩之 不明
鳴子 穀物を野鳥の食害から守るため、鳥を追い払う目的で使われてきた道具。
今年米 ことしごめ。今年の秋とれたばかりの米。新米。ことしまい
三允 さんいん。中野三允。明治・昭和期の俳人