カテゴリー別アーカイブ: 神楽坂

神楽坂七不思議|泉鏡花

文学と神楽坂

 明治28年、泉鏡花氏の「神楽坂七不思議」です。これと地図や番地と比べてみます。

神樂坂(かぐらざか)(なゝ)不思議(ふしぎ)

なか何事なにごと不思議ふしぎなり、「おい、ちよいと煙草屋たばこやむすめはアノ眼色めつき不思議ふしぎぢやあないか。」とふはべつツあるといふ意味いみにあらず、「春狐子しゆんこしうでごす、彼處あすこ會席くわいせき不思議ふしぎくはせやすぜ。」とふもやうひねのなり。ひとありて、もし「イヤ不思議ふしぎね、日本につぽん不思議ふしぎだよ、うも。」とかたらむか、「此奴こいつ失敬しつけいなことをいふ、陛下へいか稜威みいづ軍士ぐんし忠勇ちうゆうつなアおめえあたりまへだ、なに不思議ふしぎなことあねえ。」とムキになるのはおほきに野暮やぼ號外がうぐわいてぴしや/\とひたひたゝき、「不思議ふしぎ不思議ふしぎだ」といつたとてつたが不思議ふしぎであてにはならぬといふにはあらず、こゝの道理だうり噛分かみわけてさ、この七不思議なゝふしぎたまへや。

眼色 目つき。物を見るときの目のようす。また、普段の目の表情。
春狐子 「春狐」は人の名前で、誰かは不明。泉鏡花だとも。子は「名前の下に付けて親しみか、自分の名には、卑下する意味」。
会席 日本料理の形式の一つ。江戸時代以降に発達した酒宴の料理。現在では日本料理の主流に。
捻る いろいろと悩みながら考えをめぐらす。わざと変わった趣向や考案をする。苦心して俳句や歌などを作る。
勝つ 日清戦争で勝ったこと。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因に。
稜威 天子の威光。御厳(みいつ)

東西とうざい最初さいしよきゝたつしまするは、
しゝでらのもゝんぢい。」
これ弓場だいきうば爺樣ぢいさんなり。ひとへば顏相がんさうをくづし、一種いつしゆ特有とくいうこゑはつして、「えひゝゝ。」と愛想あいさうわらひをなす、其顏そのかほては泣出なきださぬ嬰兒こどもを――、「あいつあ不思議ふしぎだよ。」とお花主とくい可愛かはいがる。
次が、
勸工場くわんこうば逆戻ぎやくもどり。」
東京とうきやういたところにいづれも一二いちに勸工場くわんこうばあり、みな入口いりぐち出口でぐちことにす、ひと牛込うしごめ勸工場くわんこうば出口でぐち入口いりぐち同一ひとつなり、「だから不思議ふしぎさ。」といてればつまらぬこと。
それから、
藪蕎麥やぶそば青天井あをてんじやう。」
下谷したや團子坂だんござか出店でみせなり。なつ屋根やねうへはしらて、むしろきてきやくせうず。時々とき/″\夕立ゆふだち蕎麥そばさらはる、とおまけはねば不思議ふしぎにならず。

東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。獅子寺は赤い丸。

しし寺 獅子寺。通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった曹洞宗保善寺のこと。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」と呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。
弓場 弓の稽古場。
顔相 占いで、顔の外面に現れた運勢・吉凶のきざしを見ること。
花主 こう書く熟語はありません。「得意」は「いつも商品を買ってもらったり取引したりする相手、顧客、お得意、親しい友」。「花」は花のように美しいもの。「主」は一家の長、主人。
勧工場 かんこうば。明治・大正時代、一つの建物の中に各種商店が連合して商品を陳列し正札販売した一種のマーケット。「牛込勧工場」は六丁目にあり、現在はスーパーの「よしや」
逆戻 再びもとの場所・状態に戻ること。
藪蕎麦 今は神田、浅草、上野が「藪そば」の御三家。神田藪の本家がここ団子坂にありました。神楽坂の場所は不明ですが、岡崎弘氏と河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」の図で明治40年前後の肴町のソバヤ(図の中央)を書いています。ここでしょうか。
青天井 青空。空。空を天井に見立てていう。
下谷 上野駅を中心とした地域で、1878年(明治11)、下谷区が成立。1947年(昭和22)、浅草区と合併して台東区に。
団子坂 文京区千駄木町二丁目と三丁目の境にある坂道。明治時代、坂の両側に菊人形が展示、東京名物の一つに。
攫う 掠う。さらう。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。
 

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
いろは)のことなり、れば大廈たいか嵬然くわいぜんとしてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
島金しまきん辻行燈つじあんどう。」
いへ小路せうぢ引込ひつこんで、とほりのかどに「蒲燒かばやき」といた行燈あんどうばかりあり。はややつがむやみと飛込とびこむと仕立屋したてやなりしぞ不思議ふしぎなる。
菓子屋くわしや鹽餡しほあんむすめ。」
餅菓子店もちぐわしやみせにツンとましてる婦人をんななり。生娘きむすめそでたれてか雉子きじこゑで、ケンもほろゝ無愛嬌者ぶあいけうもの其癖そのくせあまいから不思議ふしぎだとさ。
さてどんじりが、
繪草紙屋ゑざうしや四十しじふ島田しまだ。」
女主人をんなあるじにてなか/\の曲者くせものなり、「小僧こぞうや、紅葉さん御家へ參つて……」などと一面識いちめんしきもない大家たいかこえよがしにひやかしおどかすやつれないから不思議ふしぎなり。
明治二十八年三月

辻行灯

いろは 昔は牛肉店「いろは」でした。現在は神楽坂6丁目2の駐車場です。
 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。
辻行燈 江戸時代、辻番所の前に立ててあった灯籠形の行灯
仕立屋 「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」では「洋服・八木下」と書いてあります。この時は「島金」(現、志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)にでていました。
菓子屋 菓子屋は1~3丁目だけでも9店がありました。不明です。
塩餡 塩で味をつけた餡
雉子の声 雄の雉は春になると「けんけん」と甲高く鳴いて雌を呼びます
曳く 物に手をかけて近くへ寄せる。無理について来させて、ある場所に移動させる。
けんもほろろ 「けん」「ほろろ」はともに雉の鳴き声。頼みや相談などを、冷淡に断ること。
絵草紙 挿絵を多く入れた大衆向けの読物。絵草紙屋(京屋)は大久保通り西側にある神楽坂5丁目にありました。また、絵葉書屋は3丁目北側最西部(開成堂)にありました。
島田 島田まげ。未婚の女性の髪形の1つ。
曲者 一筋縄ではいかない人。ひとくせある人。
ひやかす 相手が恥ずかしがったり当惑したりするような冗談を言う。からかう。
気が知れない 相手が何を考えているのかわからない。相手の考え・意図が理解できない。
   

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三百人の作家④|間宮茂輔

文学と神楽坂

 そんな賑やかさの中に、坂本紅蓮洞という特異の人物が、時おりまざったことも書き残しておいていいことであろう。通称「ぐれさん」の坂本紅蓮洞はもとより作家ではなく、そうかといって演出家でもない、何が専門であったのかわたしなどにはわからなかったが、ともかく芝居、劇団の方面では一種の木戸御免的な存在で、いつも酒の匂いをぷんぷんさせ、江戸っ児らしい巻き舌でものを言っていた。「ぐれさん」こと坂本紅蓮洞は当時もうかなりの年輩で、アルコール中毒らしい舌のもつれを危かしい腰つきに老残といったふうな哀しみが感じられた。広津和郎は時どきウイスキーなど奢ってやっていたようである。
 この暗い紅蓮洞と全くちがい、ふさふさした白髮のおカッパ頭をして眼の可愛らしいひとが、坂下のコーヒー店へ来ていつも独りで腰かけていた。噂によると、何んでも目白とか雑司ヶ谷とか遠いところから神楽坂まで毎日こつこつと歩いて来て、一杯のコーヒーを、ゆっくり味うと、十銭銀貨をテーブルの上において、また目白の方角へ帰って行くというのである。やがてわたしはこの童話にでて来るおじさんのような人が、じつは秋田雨雀であることを知った。
 大正十二年のそのころ、秋田雨雀はどんな立場にいてどんな仕事していたのだろうか。この追想記ではわたしはいっさい年譜や年鑑の類にたよらない建前なので、当時の秋田雨雀についてはハッキリとはわからない。しかし日本の新劇運動に心を傾けて来たこの人は、数々の劇作戯曲や演劇研究の大きな功績にもかかわらず、いつも静かで、つつましやかで、一杯のコーヒーにたのしい憩いを求めるかのようにみえた。秋田雨雀はそのうちわたしや長田などとも話をするようになり、するとわたしたちはこの先輩にコーヒーを二杯のめるようにするため、自分らのテーブルへ招じることもあるようになった。
 「秋田さん、こっちへいらっしゃい」
 そしてその勘定をわたしらが払えば、秋田雨雀は自分でさらに一杯のめるわけになる。というのも、うそか本当か、彼は奥さんから毎日十銭ずつコーヒー代をもらって散歩に出て来るのだという噂が伝わっていたからである。新劇運動に一生を捧げたこの人が今日もなお八十歳の高齢で、俳優や演出家の育成に当っていることはたれにも知られているとおもう。

 浅見淵氏が書く『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「未明と雨雀」では

 その頃の神楽坂の登場人物で忘れられないのに、小川未明のほかに、なお秋田雨雀がいる。小躯に茶色のコールテン服をまとい、午後の二時頃になると、雑司ケ谷の奥から、これまた判で押したように、神楽坂の山本という床が板敷きの学生専門の珈琲店に、決まって端整な顔を現わした。そこで一休みすると、またテクテクてくって銀座方面に出かけ、新劇の楽屋をひと回りしてくるのである。つまり、雑司ヶ谷から銀座のあいだを往復するわけだが、じつにこれが毎日なのだ。その頃、雨雀はなんの仕事もしておらず、つまりそれが毎日の日課だったのだ。昔は畸人がいたものである。
コールテン

コールテン

木戸御免 相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
かなりの年輩 大正12年で年齢は56~57歳でした。
老残 ろうざん。老いぼれて生きながらえていること。
当時の秋田雨雀 年齢は40歳。やはり童話、戯曲を書き、プロレタリア芸術運動に参加しています。
コールテン 布地の一種。丈夫でビロードに似た木綿織りで、表がうね織りのもの。英語のコーデュロイ corduroyから。レコード拭きにも利用した。
畸人 きじん。奇人。性質や言動が常人と異なっている人。変人。

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三百人の作家③|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「神楽坂生活序曲」です。

 そのいっぽう神楽館では、広津を中心に、片岡長田島田、わたしなどが一室に膳をならべて食事をとるような一種の共同生活がつづいていた。食事や雑談にはいろんな雑誌の編集者をはじめ、それぞれの友人たちが絶えずくわわった。たとえば片岡鉄兵のところへは横光川端なども訪ねて来たが、彼等の往来はのちに新感覚主義の運動が展開される土台づくりであったのかも知れない。
 当時の神楽坂はまだ旧東京のおちつきと、花柳界的な色彩とが、自然に溶け合い、一筋の坂みちながら独特の雰囲気があった。フルーツ・パーラーの田原屋や、坂下のコーヒー店に坐っていると、初々しいほど頬のあかい水谷八重子が兄夫婦に守られながら通って行く。初々しい八重子はせいぜい二十一か二であったろう。そうかとおもうと、新劇俳優の東屋三郎が歩いている。後に三宅艶子と結婚した画家の阿部金剛が、パラヒン・ノイズだとわたしたちが蔭で綽名をつけた愛人とならんで散歩している。同じく画家の上野山清貢が、水野仙子との仲に出来た赤ん坊を半纒ぐるみにおぶって通って行く。貧乏で、牛ばかり描いていたこの画家は、作家でもあった愛妻と死別したあとの哀しみを文字どおりの蓬頭垢面にかくしているようにみえた。(上野山かあのころおンぶしていた赤ん坊も、健在ならばすでに四十近いのではあるまいか)
 神楽坂はまた矢来の新潮社へいく道すじでもあって、「文士」の往来が絶えなかった。雑誌「新潮」の編集者として、「中央公論」の滝田檽蔭としばしばならび称された中村武羅夫や、同じく「新潮」の編集者であった水守亀之助‥‥一名「ドロ亀さん」などが、よく通った。容貌魁偉の中村武羅夫がわたしにはひどくこわいものにみえてならなかった。
 矢来に住んでいる谷崎精二が、夕方になると、細身のステッキを腕にひっかけて、そろりそろりと神楽坂に現われる。同じく矢来在住の加能作次郎もおじさん風の姿をみせた。佐々木茂索はその頃まだ時事新報の文芸部にいたが、これも矢来に住んでおり、渋い和服の着流しに、やはりステッキを持ち、草履ばきという粋なかっこうであさに晩に通って行く。色白なメガネの顔に短い囗ひげを立てた佐々木茂索には、神楽坂の芸者で血みちをあげているのがいた。
矢来に住んでいる 谷崎精二氏や加能作次郎氏、佐々木茂索氏は矢来町に住んでいたのでしょうか。現在、わかる限り、谷崎精二氏や加能作次郎氏は確かに矢来町の近傍に住んでいましたが、矢来町には住んでいないようです。浅見淵氏の『昭和文壇側面史』を読むと、佐々木茂索氏では若いときに「矢来町の洋館に住んでいた」と書かれていますが、ここも天神町でした。

長田重男 芸術社の幹部。鎌倉の旅館「海月」の息子。英語が巧く、久米正雄や里見弴を知っていた。
島田 芸術社の番頭。他は不明。
三宅艶子 小説家、評論家。三宅恒方の長女。画家阿部金剛と結婚、阿部艶子名で執筆し、離婚後は三宅姓。昭和33年随筆集「男性飼育法」を発表、ユニークなタイトルで女性の人気をよんだ。生年は大正元年11月23日、没年は平成6年1月17日。享年は満81歳。
阿部金剛 あべこんごう。洋画家。阿部浩の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し、藤田嗣治らの影響をうける。以後、超現実主義的な作品を発表。生年は明治33年6月26日、没年は昭和43年11月20日。享年は68歳。
パラヒン・ノイズ パラヒンはParaffin。現在のパラフィン。蝋紙とも。パラフィン紙とは、紙にパラフィンを塗り、耐水性を付与した紙。甲高い声なのでしょうか。
新感覚主義 横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、稲垣足穂らの、大正末~昭和初期の文学流派。自然主義リアリズムから解放し、新しい感覚と表現技法、翻訳小説と似た新奇な文体が特徴。
蓬頭垢面 ほうとうこうめん。乱れた髪とあかで汚れた顔。身だしなみに無頓着なこと。
 

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三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。

 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップに加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
 「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
 と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。
住んでいた 住所は横寺町36。右図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

三百人の作家①|間宮茂輔

文学と神楽坂

まえがき

 これはわたしの自伝ではない。わたしはまだ自伝を書くほどの仕事もしていないし、それにたかの知れた男の生きて来た経過などが、たれの興味をそそるとも思えない。
 ただ、わたしは自分が文学を通して割に多くの作家たちと知り合って来たことか自分の独り占めに終らせない方がいいのではないかと考えついたのである。そこで自分が一体どれ位の作家を知っているかと数えてみた。すると、概略でも四百人以上になることがわかった。勿論その中には無名のまま逝った者も、中途で文学から去った者も、職場サークルの人も、残らず含まれる。
 この本でも初めわたしはそのような人たちをも書きたかった。しかし書きはじめてみて、名前や顔を覚えているだけでは具体的にその悉くを描くことは不可能だという点に心ついた。第一それでは読者にわからないし、わかるように描くとなれば小説になってしまう。そこでどうしても名のある作家だけを取上げることになったが、名のある作家といっても、例えばこの本に書いている小島昻という作家について現在どれ位の読者が記憶しているものか考えると心細いのてある。
 わたしは読者の便宜をも頭に入れながら、そして自分自身の歩いて来た道を筋として通しながら、その筋みちに沿うて接触のあった人びとを取上げて来た。

たかの知れた 高が知れた。大したことはない。程度がわかっている。
たれ 誰。不定称の人代名詞。だれ。
悉く ことごとく。残らず。すべて。
心つく 心付く。こころつく。気がつく。

小島昻

 小島昻の名前は全く、どこにも出てこない、と現在ではその通り。「三百人の作家」の『「文戦」にて』で小島昻の名前がこう出てきます。

 しかしまた同時に、どのグループとも特別な関係をもたずに、いわば一本立ちでいる人たちもいないではなかった。作家の小鳥昴、評論家の青木壮一郎宗十三郎、詩人の今村桓夫、戯曲家の伊藤貞助などがそれであった。(中略)
 このとき小島昂はわたしなどよりはるかに強く、そして具体的に「文戦」のあいまいさを痛感していたことが後になってわかった。序にいいそえると、小鳥昴には「ケルンの鐘」という優れた作品があり、彼の妹は横光利一の恋女房で、横光が「春は馬車に乗って」でその死を描いている。(中略)
 「コーヒーでも飲もうか」
 「そうですね」
 小鳥もコーヒー党で、わたしが誘うと洋服に着かえ、忘れずにサッカリンを紙に包んでポケッ卜に入れた。彼は糖尿病なので医者から砂糖を禁じられているからであった。

文戦 「文芸戦線」の略。
青木壮一郎 『三百人の作家』では「青木壮一郎は動きそうじゃないかと、いろいろ意見を持ち寄りもしたが、(同士になる)望みがなかった。」と書いています。
宗十三郎 不明
今村桓夫 いまむらつねお。詩人。「文芸戦線」などに詩作を発表し、日本プロレタリア作家同盟(ナップ)に加わる。昭和7年、共産党に入党。8年、小林多喜二とともに逮捕。収監中に病状が悪化し、保釈。生年は明治41年1月15日、没年は昭和11年12月9日。享年は満29歳。
伊藤貞助 東洋大在学中から劇作を志し、昭和2年「文芸戦線」などに劇作を発表。5年、ナップに参加。共産党再建の嫌疑で2回検挙。戦後は俳優座文芸部員として活躍。生年は明治34年9月30日。没年は昭和22年3月7日。享年は満45歳。
その死 恋女房の死
サッカリン saccharin。人工甘味料の一つ。発癌性があるとされたが、現在はないと考えられる。

 過去をふりかえると、わたしは或る意味では不運な作家であるが、しかし別な意味からは幸福な作家のように思える。何故ならわたしは一八九九年、つまり十九世紀の終りに生まれたが十九世紀の人間とはいえない。自然主義文学はわたしが赤ん坊から少年になる間に隆昌期から衰退則に向ったが、しかし或る程度の影響は与えられた。そうしてわたしが青年に達する頃には、いわゆる大正期の自由主義的風潮は衰弱しはじめたが、影響としてはやはりわたしの内にとどまった。しかも同時に労慟者の文学は、自然発生的なところから意識的なところへと発展しつつあって、その影響もうけずにはすまなかった、というふうなのである。一言にいってわたしはいろんな文学的傾向を時代の変遷とともに不徹底な形でうけつぎながら歩いて来なければならなかった。
 「三百人の作家」はそのようなわたしが、さまざまにゆさぶられながら歩みこして来たその巾だけ接触のあった作家を書いたものである。
 与謝野寛芥川龍之介葛西善蔵宮島資夫片岡鉄兵嘉村礒多徳田秋声島崎藤村正宗白鳥秋田雨雀広津和郎徳永直宮本百合子宇野浩二中山義秀島木健作‥‥こんなに多方面、多傾向の作家と知りあうことが出来たのは、何んといってもわたしの幸福であった、といえないだろうか。

自然主義文学 自然の事実を観察し、いかなる美化も否定する文学。日本では20世紀前半に見られた。
自由主義 集団による統制に対して、個人の自由を尊重して自由な活動を重んずる思想的立場。
労慟者の文学 プロレタリア文学。ブルジョア文学に対して、労働者階級の自覚と要求、思想と感情に根ざした、社会主義的、共産主義的な文学。

神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。

 ◆ 文士と芸者とたちんぼ
 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの 昭和初期まで東京中で見られ、神楽坂だけではないようです。

神楽坂の今昔2|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家兼随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、働きながら、法政大学高等師範部を卒業しました。なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 学生は飲んで突いた
 豊かでない私たちは、安い店を選んで飲んだ。白十字の近くに樽平があった。お銚子の金印が二十銭、銀印が十五銭で、当時の安い店――須田町食堂渋谷食堂の八銭から十二銭にくらべると少し高いが、おと・・()を四品つけてくれるのが魅力であった。もちろん私たちは銀印であった。
 右側の頂上近くの横丁に、東京亭というカフェーがあった。そこの女給さんが、私の友だちのS君にほれて、つれて来てくれと頼まれるのだが、彼は運げまわるのだから閉口した。若いころから私は運が悪かった。東京亭の近くのおでん屋いくよにはよく通った。
  学生の遊びとしては、まだ麻雀屋のない時代で、もっぱら悠長で上品な玉突きを楽しんでいた。地元の商店の若主人などもビリヤードのお客であった。
 右側の下から二つ目の横丁をまがった左側のビリヤードに、先代の林家正蔵がよく来ていた。神楽坂演芸場へ出演の合間の暇つぶしだったのだろう。彼は少しヤブニラミの気味だったがよく当たった。

須田町食堂

 大正13年、須田町食堂は東京神田須田町で値段が手ごろな「簡易洋食」として創業しました。やがて、大きくなり、大衆食堂チェーンをつくりました。これが聚楽じゅらくの始まりです。
 神楽坂の須田町食堂は神楽坂一丁目10にありました。現在は、三経第22ビルという雑居ビルになっています。
 安井笛二氏は「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で…
「◇須田町食堂 れいの須田町食堂の神樂坂支店であります。此のへんに氣の利いた大衆たいしう食堂しよくだうがありませんので擧生やサラリーマンなとの人氣にんきを一手に引き受けてゐます。カツライス(十三錢)が人氣ものでよるはお酒(一本十三錢)に湯豆腐ゆどうふや肉なぺの客が多い。」と書いてあります。

この図は、志満金などを中心に神楽坂下から上にかけて左側の商店だけを抜き出したもの。図の左側は平成29年、中央は平成8年12月、右側は昭和5年頃の商店。

白十字 現在はポルタ神楽坂に隠れてしまいました
樽平 現在はラーメン屋「天下一品」
金印 昔は中国の皇帝がその地位に応じて玉印・金印・銀印・銅印などが与えられました。これが元でしょうか。
渋谷食堂 渋谷区宇田川町にあった大衆食堂。
おとおし お通し。日本料理で、その注文を帳場へ通すときに出す、簡単な料理。
東京亭 神楽坂仲通りにあったカフェーです。安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では「白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」 カフェー「東京亭」 野球(やきう)おでんが看板(かんばん)の「グランド」 縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。」
いくよ わかりません。近くにおでん屋「お豊」がありました。これと間違えていた?
玉突き ビリヤードのこと
先代の林家正蔵 6代目のこと。生年は1888年11月5日。1918年4月、6代目正蔵。没年は1929年4月25日。当たりネタは「居残り佐平次」
 
 

 ◆ 学生の娯楽は映画と寄席
 レストラン田原屋の裏に、洋画のセカンドランで有名な牛込館があった。弁士は、これも一流の徳川夢声山野一郎松井翠声で、学校をさぼった法政の学生でいつも満員だった。
 肴町都電通りを越えて、通寺町へはいった右側に、日本映画専門の文明館があった。坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸館があって、講語、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

 ◆ 歩行者天国のはしり
 神楽坂は、私の知るかぎり、空気が汚染されていない数十年前から、歩行者天国を実行していた。冬は午後五時、夏は六時ごろから夜中まで、諸車通行止の札が立てられた。たしか麻布十番と八丁堀も、同じように歩行者天国を実行していた。
 夏になると、たいていの家では、夕食後一家そろって、浴衣がけで神楽坂へ出たものだ。背広で歩いているのは、会社の帰りか、用事のある人であった。だから、遠くから眺めると、一本の白い帯のように見えた。
 歩道と車道の区別はなかったから、道いっぱいにあふれた人たちが、両側にぎっしり並んでいる夜店をひやかしながら、アセチレン灯に照らされて、一度ではなく、二度、三度往復したものだ。

セカンドラン 映画を封切り館後の二番目に上映すること。
肴町 神楽坂五丁目のこと
都電通り 大久保通りのこと
通寺町 神楽坂六丁目のこと
アセチレン灯 アセチレンを燃料とする照明用の灯火。すすが多く、独特の臭いがある。

神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり
 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗
 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。

とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店
 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。
白十字  神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

 1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。

三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。

亀十|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

「製菓実験」昭和13年4月号に「亀十」が出ています。肴町21番地(現在は神楽坂5丁目21)のパン屋さんです。現在は「‎おかしのまちおか」に変わりました。

龜十

倉本
 老廢的存在の設計屋や、教養のない大工さんなどが、新人の眞似をしてやると、こういふ設計が出來上るのである。この店ばかりでなく、到るところに、このやうにマゴツイた店が多いものである。感じは惡いけれども、俗つぽく目につくところは、カヘツテ強い存在を主張する。
 パンとサンドウヰツチと和菓子といふよくばつた多角的経營は果してどうだらうか。見かけたところどうしても、パン屋さんである。こういふ構えの店でも和菓子は賣れるに相違ないけれども、大したことではない。良い和菓子を買う人は、こういふ店へはよりつくまいとおもふ。
 などと、惡くいふが、しかし、大工さんは、この店構えを非常によいと思つて設計したのであらう如くに、一部大衆も亦、かういふのを好むのであるから、御主人は大いにお店を自慢しでよい筈である。


 可なり凝つたデザインではあるが、全体的に見てデテイルの調和が取れてゐない。その爲に何處なく素人臭い設計である。ケースの配置はかなりすつきりして面白いと思ふ。
 向つて右横の入口の處と左側の壁面の處が少し物足りないやうに思はれる。
 客が店頭のみで買物をする傾向が感じられるがもしそれが事實ならもつと奥迄客を導く手段を考へる必要があらう。

老廃 年をとったり、古くなったりして役に立たなくなること。
まごつく どうしていいかわからず、迷う。まごまごする。
如く 活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付いて、比喩や例示を表す。…のように。…のとおり。「彼の言うごとく市場はまもなく安定した」「脱兎のごとく逃げ帰った」「10年前のことが今さらのごとく思い出される」
デテイル ディテール。detail。全体の中の細かい部分。細部。

 これを「かぐらむら」2009年12月号の「今月の特集第2部 戦前編 記憶の中の神楽坂」ではこう描いています。

肴町21番地。現在、ファミリーマートが在る場所(神楽坂6-77)で、大正末から平成の初めまでパンと菓子の店だった。この建物は調和に欠ける面があるものの、大工さんが凝りに凝ってデザインしたものだ。こうした存在感のある建物は、一般のお客さんに人気があるのだという。

 うまい。パチパチ。悪い点でも満点のように伝わるのは素晴らしい。なお、ここは(神楽坂6-77)ではなく、神楽坂5丁目21です。ここは神楽坂の坂道を通り過ぎ、大久保通りも通り過ぎると、神楽坂通りの北側は6丁目、でも、南側は5丁目なのです。

故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。民俗学が絡んだ自叙伝の本ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。以下は『定本柳田國男集 別巻3』に出ていた「泉鏡花」です。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。

 「故郷七十年」の1は、泉鏡花、2は自然主義小説について、3は30歳代に住んでいた加賀町、4は河童についてです。

  柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町柳田家(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた家で、すぐそばに平田禿木も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覺えるというやうな型の婦人だったやうに思う。後に吉田賢竜君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた溫厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出來事からであつた。
 大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが、「おい上らないか」と呼んだので、 窻に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思い込んでしまつた。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る 學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないゝ氣持になった時はなかつたね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなつて、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以来、學校を出てから後も、ずつと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになっていたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないやうな所があつた。
 酒を飮むにしてもまるで古風な飮み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁小栗風葉で、この連中は「あゝ、僞善者奴が」と泉の惡口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまつた。
 同じ金澤出身の徳田秋聲君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから、他人が譯した外國のものなども、こつそり讀んでいたやうである。いろ/\なことがあつたが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であつた。

とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。