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三年坂|まちの手帖

文学と神楽坂

 平成16年(2004 年)、平松南氏編集の「神楽坂まちの手帖」第4号(けやき舎)の「神楽坂界わいの名坂」「三年坂」では

 三年坂      坂推薦入 坂本二朗さん(坂本ガラス)

 毘沙門様の前から本多横丁を抜け軽子坂も突っ切って、筑土八幡神社の石段の始まる大久保通りまでの百メートル強の緩やかな坂である。古い記録に「巾一間四尺より二間二尺」とあるが、車のすれ違いは難しそうなところをみると、現在の道幅とおよその変化はないようだ。
 坂上の半分を占める本多横丁は、両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び、脇に「芸者新道」「かくれんぼ横丁」の路地を抱えて、なにやら賑やかな物音が聞こえてきそうな商店の坂なのである。以前は「ロクハチ」ともなると、御座敷に出る姐さんの艶姿が多かったと、八千代鮨を営む斎藤本多横丁商店会会長はおっしゃる。ロクハチって?「六時から八時」のことですワ‥。その姐さん達が一刻をあらそってショウトカットしたのが「芸者新道」だ。そういえば敷き石もまろやかで吸殻の一つもない清潔さは、艶っぽい。
 ところで、その名の由来、横丁の東側はかつての「本多対馬守」様のお屋敷である。それなのにあろうことか、一時、「すずらん通り」と改名した。斎藤会長は馴染みの客に再三、何故通りの名前を変えたのかと責められた。それで「本多」を復活させたのが昭和50年ごろだという。
 「昔の名前で出ています」のほうがすてきだと、わたしも思う。なんたって、本多様の目の前にはあの天下のご意見番の「大久保彦左衛門」も住んでいた頃からのものだから。
 斎藤会長の想像は、あだ討ちで有名な堀部安兵衛決闘の助っ人に走ったコースにおよぶ。叔母の知らせを受けた安兵衛が、八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町、馬場下、高田馬場を走る。飯田橋通過の際に、この三年坂、つまり本多横丁を走ったかもしれないでしょう‥と目を輝かす。ないとは言えぬ、とわたしも思う。
 そもそも各地にある三年坂の名の由来は、必ず寺や墓地にとりかこまれた静寂な場所で、そこで躓くと三年の内に死ぬ。死なないためには三度土を舐めよという俗信による。不吉な俗信のせいで、地蔵坂、三念坂の別名も多い。とにかく、これは危険な俗信である。鳥の糞も含んだ破傷風菌にまみれた土を、三度もなめたらどうなることか。
 堀部安兵衛も先を急ぐあまり、転んだかもしれない。しかし土は舐めなかっただろう。それでも村上三兄弟をバッタバッタとやっつけるほど元気だったのである。そのことを尋ねようにも坂名に起因した、当時はあった西照院成願院も今は無い。
(明森まつり)


一間四尺 約3m。一間は六尺なので一間四尺は10尺、10尺は約3m。
二間二尺 約4.2m。二間二尺は14尺。
車のすれ違いは難しそうな 実際は南西方向から北東方向への一方通行です。
本多対馬守 江戸前期の旗本である本多対馬守の屋敷があったため。万治元年(1658年)、本多忠将は対馬守に任官している。
すずらん通り 昭和24年頃、戦災で焼け残ったスズラン型の街灯にちなみ、「スズラン横丁商店会」として発足。道路も「すずらん通り」になりました。その後、旧名の本多横丁の復活を望む声が多くなり、昭和27年頃「本多横丁商店会」に改名。しかし道路は「すずらん通り」のままで、大きな街灯看板も残っていました。その看板を変更したのは昭和50年ごろです。
昔の名前で出ています 歌謡曲「昔の名前で出ています」は1975年(昭和50年)に小林旭が発表。作詞は星野哲郎、作曲は叶弦大でした。
大久保彦左衛門 「小日向小石川牛込北辺絵図」(嘉永2年、1849年)では

大久保彦左衛門の家

堀部安兵衛 江戸時代前期の武士。赤穂47士で一番の剣豪。高田馬場の決闘で有名に。生年は寛文10年(1670年)、没年は元禄16年2月4日(1703年3月20日)。享年は数えで34歳。
決闘の助っ人に走った 講談ではこれでもいいのでしょうが、実際に八丁堀は出発点でしょうか。違うという声が聞こえます。
八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町、馬場下、高田馬場 以下を参照。このコースは徒歩で約2時間半かかります。

村上三兄弟 村上庄左衛門、弟の中津川祐見、弟の村上三郎右衛門を倒しました。
西照院 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願院 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

神楽河岸埋立の写真

文学と神楽坂

 神楽河岸の写真を見てみたいと思っていました。でも、神楽坂の写真すら見ることはかなり困難で、坂といっても普通は神楽坂一丁目から上がる坂しか出てこないし、昔のスズラン通りの写真もない。まあ、これと比べると、神楽河岸はかなりラッキーで、昭和51年8月26日に新宿歴史博物館が撮った写真数枚があります。
 昭和51年はどんな時代なのでしょうか。東京都建設局がつくった「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)を読むと、昭和45年に都議会が「飯田壕の埋め立て請願」を採決し、昭和46年、飯田濠の埋立を申請し、昭和47年10月、埋立に着手し、約5,308㎡を埋め立て、昭和48年3月末に完了しました。つまり、昭和51年には埋め立てはおおむね終わっているのです。
 昭和51年には地元の「飯田橋地区市街地再開発連絡協議会」ができています。また昭和52年には「飯田壕を守る会」が発足し(渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」けやき舎、2007年)、同年6月には都議会へ再開発の中止を請願しました。つまり、神楽河岸はなくなる可能性の計画があり、埋め立てが終了したために、新宿歴史博物館もあわてて写真を撮ったのでしょう。

 写真は赤色の地点にカメラを置き、青色の神田川(つまり、飯田壕)を中心に撮ったものでしょう。地図は昭和53年の住宅地図です。また①②➂はカメラの角度です。

 ➀の焦点は飯田橋駅と東京燃料林産などにあてています。新宿歴史博物館は「河岸の雰囲気が残る神楽河岸地区。飯田橋駅の東口(目白通り)・西口(早稲田通り)と外堀通りに挟まれた飯田濠の再開発は、昭和61年(1986)に完了。飯田橋セントラルプラザ・ラムラに生まれ変わっている」と、解説しています。

➀神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

②の焦点は牛込橋と埋立地などです。

➁神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

 なお、東京燃料林産の寮はどうも社宅だったようです。kさんの下の発言をどうぞ。

 いまではなくなった情報誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」では「とんかつ森川」について(ただし名前は間違えています)

おかむらもりかわ(トンカツ)
神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。

 目立つ建物は東京理科大学だけを除いて全てなくなりました。移転したり、あるいはオーナーは残っても建物は別の業態に変えたりしています。奥山酒造からはマクドナルドハンバーガー、さらにカナルカフェに代わっています。

 この埋立地は「鋼矢板を打ち込んで水面を区切り、土砂などを投入し」たものだと地元の方。埋立地は巨大で、ゴミもありません。汚臭もなさそうです。この埋立地の上にフタをかぶせ、循環式「せせらぎ」と緑地をつくり、さらに左奥にはラムラが建ちました。

 昭和46年の写真(下図)と比べてください。この写真にはゴミも、古材も、廃物もありそうです。でも昭和51年には何もなく、古材も悪臭もなさそう。「昭和46年の写真の廃材を、埋立地に埋めて処理したのかも」と地元の方。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 ➂の焦点は➁よりも近い場所です。

➂神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

 銀鈴会館の屋上には巨大なPR用の看板がでています。ある時点でこれは大きな「東京ワンタン本舗」の看板でした。現在はこの看板の前に大きなビルが建ち、看板は全く見えません。

 またカラー写真も新宿歴史博物館から借用しています。

➃神楽河岸。©新宿歴史博物館。昭和51年8月26日

神楽坂と神楽河岸|松沢光雄

文学と神楽坂

 昭和43年、地図協会の雑誌「地図の友」に松沢光雄氏の「神楽坂と神楽河岸」があります。その神楽河岸の中に東京都の清掃事務所があると言っていますが、これはかつての糞尿の集荷所でした。理由が不明ですが、近所から反対されて、この糞尿集荷所はなくなったと書いてあります。

 国電飯田橋を出るとがある。この堀にかかっている橋が飯田橋で、これを渡ると揚場町である。揚場町というのは、舟から荷を揚げる場所という意味で、神楽河岸はそこにある。かつてはこの堀を舟が往来して海から荷を運んでいた。いまもお茶の水までは舟が来る。この神楽河岸は浅くなって舟が上れなくなったし、それにその必要もなくなっている。
 神楽河岸には土砂や石や木材の材料の施設が集っている。これは江戸時代からの材料荷揚場残象である。
神楽河岸 もとは、各地から舟で材料が運ばれてきた。いまもつづいている材料屋の土万の主人にきくと、この主人の子供のじぶんには舟で浦安からシジミが運ばれてきたという。
 舟で2杯も3杯ものシジミがきた。これを山手一帯の乾物屋が買出しに集った。こんなふうで、良種の物品が舟で揚げられた。
 酒の白鷹の総本店の升本はいまもここにある。中央大学の総長になった升本氏の生家である。升本の酒倉は道をはさんで現在もいくつも並んでいる。これも河岸のものである。
 いまの清掃事務所は、かつては糞尿の集荷所で、ここから舟で各地に運んでいた。都市化のすすむにつれて近所から反撃されて、ついに糞尿集荷を止めて事務所になったのである。新宿区役所の土木部の材料もここに置いてある。水道局の工事材料もここにある。各地からトラックで運ばれてくる。
 土万のいまの主人は二代目で、ここに陣取って100年近い土砂材料屋である。この河岸に生まれてここに育ち、ここで河岸の変遷を見つめてきた。
 神楽河岸に揚げられた材料は荷車と馬力車で神楽坂を引きあげられた。とにかく急な坂だからこれをあげるにはたいへんである。
 当時は飯田橋の上に「たちんぼう」がたくさんいた。失業者で臨時の労働をまっている連中である。これが神楽坂をあがるのあとをおして、5厘か一銭をもらっていた。

 外濠(外堀、そとぼり)のうち飯田濠。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

神楽河岸 昭和63年に初めて神楽河岸という名前に。以前は揚場あげばの一部だった。
江戸時代 これは「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」で。
荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。
残象 ただしくは残像。外部刺激がやんだあとにも残る感覚興奮のこと。
土万 図では土萬土砂置場。
乾物 かんぶつ。野菜、海藻、魚介類などを、保存できるように乾燥した食品。
白鷹 白鷹はくたか株式会社は兵庫県西宮市に本社を置く酒造会社。生粋の灘酒。
升本 ますもと。江戸時代に牛込揚場・神楽河岸で創業した酒類問屋。日本酒の銘酒「白鷹」で有名。
中央大学の総長 四代目の升本喜兵衛。養子。大正8年、中央大学法学部卒業。昭和37年、中央大学総長・理事長。昭和43年、学園紛争で中央大学理事長・総長・学長を退任。生年は明治30年、没年は昭和55年。享年は満83歳。
清掃事務所 神楽坂のある地元の人は「神楽河岸にゴミの積み替え拠点はなさそうです。砂利や土石(建築残土)は運んでいたかも知れません」といい、また、後楽橋のゴミについては、この「ゴミの詰め替え場は臭かったですよ。だって収集車のフタをあけて、中のゴミをハシケに移す(落とす)んですもの。そのハシケを夢の島の埋め立て地までタグボートで曳航するんです。そりゃ苦情も出ますよ。」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう。」といっています。さらに「資材倉庫や廃材置き場だった神楽河岸の開発が遅れた」と「古くは「糞尿」処理をしていた(らしい)」との2つを並べて「両者をないまぜにせず、きちんと区別しないと不正確になりそうです」。つまり、かつての飯田壕は臭くても、他の川と比べると同じ程度だと結論しています。
神楽坂を引きあげられた 神楽坂ではなく、軽子坂を引きあげられたのでしょう。
たちんぼう 坂の下に立って荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業。明治から大正にかけて多かった。
 自動車ではなく、大八車だと思います。西山松之助氏「江戶の生活文化」(1983年)では江戸の山の手には急な坂道が多いと書きます。

三年坂|由来

文学と神楽坂

 三年坂や三念坂というのはどこをさしているのでしょうか。
 新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』では「(()()())町内南角に小坂があり、俗に字三念坂と呼ばれた(『町方書上』)。現在は俗に三念坂という(三年坂とも書く)。三年坂という名称は各地にあり、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信=寂しい坂道だから気をつけろという意味で名付けられたという説もある(町名誌)」

 今の津久戸町の面積は非常に大きく、町内はどこかわかりません。では江戸時代ではどこなのでしょうか? 『新修 新宿区町名誌』で津久戸町の「町地は牛込津久戸前町と牛込西照院門前があった」と書いています。西照院を囲むように牛込津久戸前町の年貢町屋は3つあります。「町内南角に小坂があり」というので、3つのうち右下を指すのでしょう。なお、年貢町屋とは年貢を納める農家がある町です。

神楽坂津久戸町の地図 江戸時代 三年坂

 つまり、現在では交差点「筑土八幡町」から三年坂に入り、それから本多横丁に行き、そのまま神楽坂通りとなって終わります。坂の標柱や標識としては、区は不吉な三年坂を黙殺して使っていないようです。

 三年坂の語源については横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』でこう書いています。

  三年坂にまつわる俗信
 三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
 三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも小供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、三たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。(中略。台東区の三年坂について書いた後で)
 つぎは、筑土の三年坂であるが、これは新宿区神楽町三丁目上宮比町との境から北へ津久戸町に下る坂である。ところが、『東京地理沿革誌』には「牛込津久戸前町下宮比町との間を新小川町二丁目のほうへ下る坂を三念坂と云ふ」とある。文政10年の「丁亥町方書上」によると津久戸前町のところに「坂。巾二間程、高三尺余、右町内南角ニ片側家続之所小坂有之、里俗三念坂と唱申候」と、くわし書いてあるので、今の下宮比町の坂でないことは明らかである。下宮比町境には、古くお寺があったような記録も見あたらない。しかも右のような古い書上かきあげに、津久戸前町に下る坂であると明記されているので、『東京地理沿革誌』の説明は間違いである。とにかく、お寺に関係もないところに三年坂はありえないのだ。
 神楽坂の頂上から、北へ津久戸前町ヘ下る坂の西側には、西照院(絵図には西照寺)があったり、坂のふもとには成願院(絵図には成願寺)があった。この津久戸の三年坂こそ、正頁正銘の三年坂の坂路である。しかし、今は、西照院も成願院も他へ移転してしまって、この坂みちは、昔の寂しさはどこへやらお寺の跡にはぎっしり商家が建ち並んで、この近辺ではいちばん繁華な街になっている。

この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬ たとえば『洛陽名所集 巻之四』(万治元年、1658年)で京都の「再念坂」について「長さ半町ばかりもあらんか。世のことはざに三年坂とて。この坂にてつまづきころべる人。かならず三年をすぐさず身にしよからぬなど云つたへたり」と書かれています。(https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081L253.pdf

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

上宮比町 現在の神楽町四丁目。
東京地理沿革誌 明治23年、村田峯次郎 (看雨隠士) が書いた地誌学の本です。出版社は稲垣常三郎。
牛込津久戸前町 津久戸町のこと、以前は牛込津久戸前町と呼んでいました
丁亥 ひのとい。干支の一つで、24番目。文政十年は丁亥にあたる。
 面ではなく而が正しい。
小坂 二ではなく小坂が正しい
西照寺 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願寺 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

 三年坂という名称は、不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。特に、おめでたい名前に変わっている。たとえば、三年坂が産寧坂とか三延坂、三念坂などと、それから全く「三年」をきらって、鶯坂螢坂淡路坂地蔵坂のように別の名に改められたものもある。
 三年坂に似たものに、二年坂(二寧坂とも)、百日坂袖きり坂袖もぎ坂花折坂などと言う坂もあるが、これらは三年坂と同じ種類のもので、二年坂は三年が二年になっただけである。百日坂はさらに期限が短縮されて、この坂でころぶと百日の内に死ぬということになっている。袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などは、この坂でころぶとやはり三年の内に死ぬというのであるが、仏寺に花をささげたり、自分の着物の袖を切ってささげることによって、死の難からのがれることができるというのである。
 こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残しているのである。

 坂の名前がいくつも出てきます。

産寧坂 さんねいざか。京都市の坂で、ウィキペディアでは「この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから『産寧坂』と呼ばれるようになったという説が有力だ」
三延坂 日光山輪王寺に行く坂。
鶯坂 目黒区大岡山。昔この坂の両側に竹や杉が茂り、鶯がよく鳴いたため。
螢坂 台東区谷中5丁目。坂下は蛍沢と呼ばれる蛍の名所だった。三年坂の別名もある。
淡路坂 千代田区神田淡路町2丁目。鈴木淡路守の屋敷はこの坂の上であった。
地蔵坂 坂の1つは新宿区神楽坂5丁目から袋町までの坂。
二年坂 京都東山の坂で、産寧坂の下だから。「ここでつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えがある。
百日坂 不明。
袖きり坂 茨城県行方市の西蓮寺。西蓮寺に訪れた女人が、袖きり坂で怪我をしてしまい、何も奉納するものもなく、着ていた着物の袖を切り取り、薬師様に捧げたら怪我が直ったことから由来する説
袖もぎ坂 岡山県邑久郡玉津村大土井の山中で、細道の坂の辺りを袖もぎ坂。ここで転ぶと袖をちぎって捨てないと不吉があるという。
花折坂 和歌山県高野町の坂。高野山への参拝者がここで花を折って御供えした。

 石川悌二氏の『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年)では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁目の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久上町へ抜ける長い。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久上町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし」とし、またについては「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁目の方へ下る。長さ五十七開、巾一間四尺より二間二尺に至る」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りにむすびつく商店街である。

 これは上のに相当します。
他のところ 同書の「麹町台中部」のなかで「三年坂という名は、要するに人淋しい場所の無気味な坂で、各地に共通する迷信『坂道で転んだら三年のうちに死ぬ』という伝えから来たものであろう。」
東京府志料 明治5年4月、陸軍省が各府県の地図並びに地誌の編纂を企画し、国内各地の沿革現勢を記録させ、当時の日本の国勢を明らかにしようとした地誌。東京府は府下一円に渡って調査編纂した。
給地 領主である主君が家臣・被官に与えた土地
 これは上のに相当します。

コロナ禍と老舗|鳥茶屋

文学と神楽坂

 以下は地元の方からの情報です。
 鳥茶屋の本店は閉店しました。真のコロナワクチンがてきるまで、こういった苦労が続いていくのですね。

鳥茶屋

閉店後の鳥茶屋(2020/11/24)

 4丁目の「鳥茶屋」本店が2020年10月末で閉店することになりました。新型コロナによるお客さんの減少が理由と思われます。3丁目にある別亭は営業を継続するそうなので、伝統の味は残ります。
 もともと別亭は親子丼のランチがメーンで、敷居の高い本店に比べて入りやすい店として企画したと聞いています。その別亭を開いておいたから、本店閉店の決断もしやすかったのでしょう。

 コロナ以降、神楽坂で閉じた店はいくつかありますが、それなりに名の通った老舗の撤退は初めてではないでしょうか。とても残念です。
 神楽坂の店が、コロナに比較的、強いことは以前にもお伝えしたと思います。その理由は、古くからある店の多くが土地・建物のオーナーであることです。
 本業が不振でも、ビルを建てて他のフロアをテナントに貸せば存続できるわけです。また自分の店以外にも貸家などを持っているケースが珍しくありません。逆に、そうした資産のない店は環境変化に弱いです。

 鳥茶屋の撤退も、店としての弱さの現れと思います。
 もともと鳥茶屋は4丁目の軽子坂の側に店がありました。商売がうまくいかなくなり、オーナーが身売りをしたそうです。
 ちょうど地上げの話があったらしく、新しいオーナーは土地を売って借金を返し、テナントとして今の本店を開きました。裏通りから表通りに移ってきたのでイメージは悪くなかったと思います。その後は商売も順調だったと聞きます。

 それでもコロナには勝てませんでした。土地を手放したのは、それだけで店の弱さなのです。
 コロナ禍が続けば、神楽坂でもさらに厳しい局面に追い込まれる店が出てくることでしょう。そうした時に、本当の老舗の強さが試されます。

鳥茶屋 本店と別亭があります。本店は神楽坂四丁目で2020年10月に閉店、別亭は熱海湯後の階段に接して、営業中。

鳥茶屋の閉店のお知らせ 軽子坂の側に店 読売新聞の昭和51年8月16日「上り下りも世につれて…」を見てください。

鳥茶屋(昔)