神楽坂」カテゴリーアーカイブ

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12776-79

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776-79は、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋出入口付近を昭和44年9月に撮影したものです。備考では「新小川町付近高速道路下」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12777 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12778 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12779 新小川町付近高速道路下

 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。
 この写真は開業から間もない時期のものです。高所からの撮影で、おそらく飯田橋交差点(下宮比町)の東海銀行飯田橋支店の建物、現在の飯田橋御幸ビル(1966年=昭和41年5月竣工)から北の方角を見下ろしたのでしょう。
 目白通りが奥に延びています。ここには都電15系統が走っていましたが、1968年(昭和43年)に廃止され、軌道も見えません。
 首都高は神田川の上に建設されました。画面左に曲がる急カーブは「大曲」と呼ばれる場所です。手前から3本目の橋脚にかかる橋が「隆慶橋」です。その右側、高架の向こうに首都高から下りてくる「飯田橋出口」があります。
 一方、目白通りの奥に首都高が白く光って途切れている部分があります。ここは飯田橋入り口の予定地ですが、実際に建設されたのは昭和52年(1977)ごろでした。ID 12215-16に工事中の様子があります。
 手前のビルには写植・フォント大手の「モリサワ」の大きな看板。経営理念は『文字を通じて社会に貢献する』こと。デジタルフォント(日本語ポストスクリプトフォント)が有名です。本社は大阪で、大正13年に設立。この下宮比町15-5は昭和44年からの東京支店です。
 目白通り沿いの少し先のビルは「中央印刷」。大曲の向こうの「TOPPAN」は文京区の会社で今は「TOPPANホールディングス株式会社」、昔は凸版印刷株式会社と呼んでいました。本社は東京都台東区で、創業は明治33年。事務所は文京区水道1-3-3。総合印刷会社です。
 いずれも印刷関係の企業で、神田川流域が印刷・出版で発展した歴史を感じさせます。

立ン坊

文学と神楽坂

 森銑三氏の「明治東京逸聞史2」(平凡社、昭和44年)が「日本社会大辞彙」の言葉として……

立ン坊 明治41年
「社会大辞彙」には、「立ン坊」などという項目までがある。
 その名の如く、路傍や坂の下などに立っていて、の後押しその他の稼ぎに、露命をつなぐ、まことにはかない連中であるが、その仲間も、ちゃんと団体組織になっているので、他の者が勝手に入込むのを許さない。九段坂下の立ン坊は、十人とその数が定められて居り、欠員が出来ると、主だった者の紹介に依って補充する。一人一日の稼ぎ高は、二十銭から八十銭くらいまでで、荷車の後押しなどは、一回が二銭三銭という相場である。立ン坊の十中の八九まで木賃宿に泊り込むのは上の部で、大抵は神社の境内などで夜を明かすのだという。
 明治の末の九段坂など、その勾配が、今よりは、ずっと急だった。それで荷車は之の字なりに引いて上るのだが、二三銭出して立ン坊を頼めば、それだけ楽に上ることが出来たのである。繩の帯をした連中が、坂下の家の軒下にのっそり立っている。あれは東京特有のものだった。

立ちんぼ(主に仕事を待って)立ち続けている者。戦前では空巣ねらい、制服巡査。明治から大正にかけて、坂の下に立って大八車だいはちぐるまや荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業。現在は売春する女性で、路上に立ち、直接交渉を行う。神楽坂通り
 ここでは大八車や荷車

大八車 Google

露命をつなぐ ろめいをつなぐ。露のようなはかない命を、辛うじて保つことで、細々と暮らしていく
はかない 果無い、儚い。束の間であっけない。むなしく消えていく。頼りにならない。
九段坂下の立ン坊 東京市公演課の「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(大正12年)ではやや遠くに荷車を押している人々が見えます。これが「たちんぼう」でしょう。

東京市公演課の「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(大正12年)

木賃宿 江戸時代、木賃(たきぎの代金)を取り旅人に自炊させて泊めた宿屋。一般に、粗末な安宿。
之の字 ジグザグ(zigzag)。稲妻形。Z字状に直線が何度も折れ曲がっている様子

『新宿区立図書館資料室紀要 ― 神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)の「古老談話・あれこれ」で古老の赤井儀平氏は……

 俗に『立ちん棒』ってのがいましてね、坂を上る車のあと押しをする人達ですが、それが坂下にいつでも立っているんです。坂の下まできて『サァ行こうか……』なんていうと、うしろからあと押しをして坂の上まで手伝って行って、1銭か2銭もらうんです。大正までいましたね。当時の1銭か2銭でもまず今の100円以上でしょうネ。一般の人達は30円か40円位の月給ぢゃなかったんですかねえ。帰りにはそこいらで必ず一杯ひっかけて行くんです。最後まで残ったのはひとり者でしたが、夏のことで、あんまり暑いのでそこの堀で行水をしているうち溺れて死んでしまったんです。それっきりあと継ぎは出ませんでした。年は50才位の人でしたかね。いい加減頭も禿げていましたから。」

 新宿区役所編「新宿区史・史料編」(昭和31年)で佐久間徳太郎氏の「古老談話」では……

 其頃の車は荷車か人力車であったが、坂の下に「立ちん棒」というのが立つていて、頼まれて荷車の後を押した。「立ちん棒」というのはれつきとした商売で車が上つてくると「旦那押しましようか」と後押しをして登りつめると一錢か二錢頂戴する。此の商賣は日露戰争頃まで見られたという。又人力車で坂の下まで來た人は一旦降りて、車が坂を登り切るまで一緒に歩かねばならなかった。こういうのは東京で珍しく、九段坂はそうであつたが他には知らないという。
日露戦争 明治37年2月から明治38年9月まで朝鮮や満州の支配権をめぐるロシアとの戦争。

 木村荘八氏の「東京繁昌記」(演劇出版社、昭和33年)では……

九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。

 松沢光雄氏の「神楽坂と神楽河岸」(地図協会、昭和43年)では……

 当時は飯田橋の上に「たちんぼう」がたくさんいた。失業者で臨時の労働をまっている連中である。これが神楽坂をあがる車のあとをおして、5厘か一銭をもらっていた。

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年、『ここは牛込、神楽坂』第17号に抜粋)では……

 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋に股引、しるしばんてんという服装だった。八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

 野口冨士男氏の「私のなかの東京」(文藝春秋、昭和53年)では……

震災前の神楽坂には砂利が敷かれていて、傾斜ももっと急であったから、坂下には九段坂下ほどではなかったが、荷車の後押しをして零細な駄賃をもらう立ちん棒がいたことまでが思い出される。

梟林漫筆|内田百閒

文学と神楽坂

 内田百閒氏の「ひゃっえん随筆」の「梟林まんぴつ」第2章(出版元不明、大正6年ごろ。再録は旺文社文庫、昭和55年)で、「梟林」は「きょうりん」か「ふくろ[う]ばやし」、「漫筆」は随筆のこと。

 何時いつの事だつたか、又何処へ行つた帰りだつたか忘れてしまつたけれども、四谷見附から飯田橋の方へ行く外濠そとぼりの電車に乗つてゐた。電車が新見附に止まつた時、片頬を片目へ掛けて繃帯した婆さんが一人乗つて来て、私の向う側へ腰を掛けた。私は濠の方へ向かつて腰を掛けてゐた。私はその婆さんの顔と風体とをただ何の気もなしに眺めてゐた。きたないで繃帯が目立つほか別に変つたところもないから、婆さんが前にゐることなどは、まるで気にしてゐなかつた。それから電車が走つて牛込見附で止まると、又一人の婆さんが乗つて来た。前の方の入口から這入つて来るところをふと見たら、片頬から片目へかけて繃帯をしてゐる。おやと思つて前を見たら、もとの婆さんはもとの通りに腰をかけてゐた。さうして今はひつて来た婆さんは、もとの婆さんと一人置きにならんで、私の前に腰を掛けてしまつた。風体もよつて汚なかつた。さうして又電車が動き出した。私は不思議さうに二人を見てゐた。すると私の隣りにゐた商人風の若い男が、可笑をかしくてまらなさうな顔を私に向けた。その途端に、私も不意に堪まらない程の可笑しさが、腹の底からこみ上げて来た。しかし笑ふ事も出来ないから、顔を引き締めてゐると、その若い男にはまた私の妙な顔が可笑しくなつたらしかつた。その席を起つて、入口の所から外を向いてしまつた。

 以上で終わりです。老婦人2人が共に片目に眼帯をつけていたという、まあ普通のお話です。

四谷見附 大正時代なので、路面電車の系統は、……ー四谷見附ー本村町ー市谷見附ー新見附ー逢坂下ー牛込見附ー飯田橋ー小石川橋ー……と、皇居の外濠に沿って一周します。当時は➈系統でした。

大正11年の路面電車 市谷見附ー新見附ー逢坂下ー牛込見附ー飯田橋

外濠の電車 外濠線の路面電車。東京で、皇居の外濠に沿って走っていた路面電車。明治37年、東京電気鉄道が敷設した御茶ノ水から土橋までの線路が最初。
新見附 新見附橋明治26年に計画し、 27年にはなく28年までに完成。当時無名の橋だったが、明治38年に、新しく路面電車が通り、駅を「新見附駅」と決めて、これから「新見附橋」と命名された。
繃帯 ほうたい。包帯。傷口などを保護するため巻く、ガーゼなどの細長い布x
 だけ。ちょうどその数量・程度・範囲である。「三つだけ残っている」。限界一杯。
牛込見附 「牛込見附」交差点は現在「神楽坂下」交差点と同じ。電車路面の「牛込見附」駅は神楽坂下交差点の付近にあった。
 まま。思いどおり。もとのまま。

昼もにぎわう神楽坂 (平成19年)フジ系「拝啓、父上様」効果 高校生や女性急増

文学と神楽坂

「産経新聞」では「拝啓、父上様」について高校生や女性に大きな効果があると語っています。(この記事は2007年3月15日に掲載)

 かつて東京の花柳街として栄えた神楽坂に、このところ高校生や女性のグループが急増している。異変の“震源”は、神楽坂の老舗料亭を舞台にしたフジテレビ系の人情コメディー「拝啓、父上様」(木曜後10・00)。1月11日に放送が始まって以降、ロケで使われた路地や商店などに訪れる観光客は連日後を絶たず、ブームは、最終回(3月22日)放送後もしばらく続きそうだ。(安藤明子)
 2月末の平日の午後、神楽坂に出かけた記者が最寄りの地下鉄飯田橋駅で下車してすぐ目にしたのは中年女性グループの待ち合わせ風景。昨年末、「拝啓—」の会見取材で近くのホテルを訪れたときには見かけなかった光景だ。
 神楽坂通りの商店街に足を踏み入れると、老舗の甘味店は主婦客があふれ、中華料理店の店先ではまんじゅうを買い求める高校生の列。神楽坂のシンボル、毘沙門天境内の木には板前役でドラマ主演している二宮和也あてに「撮影が無事に終わりますように」「これからも応援します」とハートマーク付きで書いた絵馬がやたらと目につく。細く入り組んだ路地のあちこちに、一眼レフカメラや携帯電話のカメラで古き良き風景を撮る人がたたずむ…。
 坂が多く、石畳の路地や横丁が独特の風情を醸し出す神楽坂には、数年前から観光客が増えてきていたが、毘沙門天の目の前でせんべい店を営む神楽坂通り商店会会長、福井清一郎さんは「ドラマの第1回放送直後から人出が一気に増えた。ロケ用の器材が置いてあるだけですぐ人だかりができる。飲食店はブームの恩恵を受けて、どこもランチタイムの回転率が倍近くなっているといいます」と、ドラマ効果の大きさを認める。
 福井さんによれば、2月3日の節分には例年の倍以上の人が毘沙門天に殺到。また、商店会が毎年6月と11月に4万部ずつ発行している小冊子風のパンフレット「神楽坂」(無料)の11月分は1月中にほぼなくなった。「例年は3月くらいまでは残っている」というから、その効果に驚かされる。
 福井さんの店から少し先の路地で喫茶店を営む元神楽坂芸者の鈴木みどりさんもドラマ効果に感謝する1人。「午前中は常連客だけでしたが、ドラマが始まってからは10時開店と同時に熟年女性のグループやご夫婦のお客さんが次々と来られます。先日は大阪からきたという二宮さんのファンが『にの(二宮)がドラマで座った椅子(いす)はどれですか』と聞いて、そこで写真を撮っていきました」。売り上げはあっという間に1・5倍以上となり、昼食時間もなかなか取れないのが悩みだが、「ドラマが終わるまでだと思って頑張ります(笑い)」。
 飲食店を中心に活況を呈している神楽坂だが、地元では戸惑う人がいるのも事実。「神楽坂が神楽坂でなくなってしまった。ドラマが終われば元に戻ると思うけど…」
 福井さんも「最近は路地で昼寝をしている猫を見かけなくなった」と苦笑。今回、「拝啓—」のタイトルバック写真を担当した写真家、ヤマモトヨウコさんは神楽坂の魅力にとりつかれ、24年にわたって町の日常を写し続けてきたが、「どこの路地にも朝から人がいる。こんなことは初めて」と驚きを隠さない。花見シーズンが終わるまで猫の昼寝姿は見られない⁉
2007-03-15 ・ 東京朝刊・朝刊芸能


二宮和也 にのみや かずなり。生年は昭和58年6月17日。男性アイドルグループ・嵐のメンバー。愛称は「ニノ」。
ヤマモトヨウコ 写真家。青山学院大学文学部史学科考古学専攻卒業。国際線スチュワーデスから、1991年、フリーランスの写真家になる。神楽坂の芸者を撮影する。

首都高速5号線(写真)水道町 東五軒町 新小川町 昭和52年 ID 12205、12208、12215-16

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205、12208、12215-16は、昭和52年(1977)5月、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋から江戸川橋までの写真です。
 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。飯田橋-江戸川橋間は新宿区と文京区の区境にあたり、神田川の中を通っています。
 さらにID 12205、12215-16は備考として「新小川町一丁目付近 隆慶橋」、ID 12208は「水道一丁目 新小川町三丁目」をあげています。昭和57年の住居表示実施に伴い、丁目を廃止し、新小川町だけとなりました。また「水道一丁目」は「文京区水道一丁目」が普通ですが、「文京区水道二丁目」「新宿区水道町」もありえます。

(1)新宿区水道町。西向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205 首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋

 高速道路は右奥へと曲がっています。神田川のこの付近には、江戸期から「大曲おおまがり」と呼ばれた急カーブがありました。
 しかしこの写真は大曲ではありません。首都高の大曲付近の橋脚は、川を挟むように2本の足を持つ「門形」で、写真の1本足の「T型」とは違います。また左側に見える歩道橋も大曲と飯田橋交差点の間にはありません。
 該当する場所は目白通りの新宿区水道町から西向きに石切いしきりばし方向を撮影したものです。橋脚の形や歩道橋、首都高がふくらんだ「非常駐車帯」の位置、高速の下の道が(三角コーンで仕切られて)対面通行になっている様子なども合致します。

現在の新宿区水道町 Google

 なお、ID 12205の備考の説明は「新小川町一丁目付近 隆慶橋」ですが、「新宿区水道町 石切橋付近」としておきます。
 歩道橋の手前が石切橋交差点です。田口政典氏の「歩いて見ました東京の街」の1976年(昭和51)12月2日の写真06-09-54-2「下流から石切橋を」では古くて狭い石切橋が写っています。ID 12205でも、かろうじて確認できます。

 ID 12205の「安」「全」「+」の工事柵の向こうの小さな橋は、おそらく工事時の架設の橋でしょう。

(2)新宿区東五軒町。東向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12208 首都高速道路5号線 水道一丁目 新小川町三丁目

 東五軒町の北、目白通りを東向きに撮影しています。(1)のID 12205から飯田橋側に寄ったところで、位置としてはざくらばしのたもとです。
 首都高の柱の左側を神田川が流れます。川の小さななかはしも写っています。文京区側につながる斜めの橋が見えています。この橋は中ノ橋と白鳥橋しらとりばしの間にあり、「新白鳥橋」と命名されました。また「(TOP)PAN」(凸版印刷)の印刷工場は川の北側で、この場所は文京区水道一丁目にあたります。
 写真の正面奥、首都高が右に丸く膨らんでいるのが飯田橋料金所です。広がった部分を支える大きな門形の橋脚が分かります。料金所付近から右に「大曲」のカーブになります。写真右端の(共同石油)のガソリンスタンドから先は新小川町(昔の新小川町3丁目)です。
 また、地上を走る上り車線は正面の柵の奥、信号の場所で左右2本に分かれます。高速に出入り口を設置すると、どうしても道幅が狭くなってしまいます。そこで目白通りの一部を左の文京区側に通すことで交通渋滞を減らすことを狙いました。
 地上でまっすぐ奥につながる道は飯田橋に向かう目白通りの上り車線です。工事のため車が走っていません。
 以下の上り車線と下り車線はどちらも地上の車線です。

昭和54年 新白鳥橋付近(地理院地図 整理番号 CKT794 コース番号 C10 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14)に加筆。

整理番号 CKT794 コース番号 C10B 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14(昭54

現在の目白通り

 この区間の目白通りの地下には、神田川の洪水対策のための「江戸川橋分水路」があります。この分水路は昭和52年に完成しました。写真は完成直前の様子を撮影したものでしょう。高速の柱の下には、地下に降りるオレンジ色の階段入り口があります。

神田川と目白通り地下(分水路・地下鉄)の断面図(東京都建設局市料)

 新小川町付近は大雨のたびに神田川の洪水が繰り返されてきましたが、分水路の完成によってリスクは小さくなりました。


(3)新小川町(かつての一丁目)付近。北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12215 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 新小川町の東側の目白通りから、首都高の飯田橋料金所の建設風景を撮影しています。首都高の下は神田川。正面が大曲の急カーブ。背中側に隆慶橋や飯田橋交差点があります。
 首都高では出入口を「ランプ(ramp、高低差のある場所を連結する傾斜路)」と呼びます。インターチェンジ(interchange、IC、複数の道路を相互に接続する施設)やジャンクション(junction、接合点、合流点)と違い、特定方向にしか行けないからです。写真の飯田橋ランプは、目白通りから首都高5号線の北池袋方面に進入するためだけの入り口です。
 冒頭に記したように、5号線のこの区間は1969年(昭和44年)6月に開業していますが、この写真を撮影した1977年(昭和52年)でも、まだ飯田橋ランブは建設中でした。
 もう1点、特徴的なのは、三角コーンを境に対面通行になり、車が手前向きに走っていることです。この状態では、北に向かう車がランプの坂を上れません。
 撮影当時、高速道路の真下はID 12208と同様に神田川の「江戸川橋分水路」を建設していました。このため下り車線を狭めて、対向車の通るスペースを確保したのでしょう。目白通りの整備は高速道路だけでなく、地下の分水路、その下の地下鉄有楽町線の建設を含めて、非常に長期にわたりました。
 この写真の撮影場所は後に大々的に区画整理され、平成28年に放射25号線が開通。「新隆慶橋」という新しい橋が架けられました。

 ID 12215の左には「国際航空輸(送)」(かつては新小川町一丁目5)の看板がありますが、今は何も残っていません。高速道路の向こうの「日本信販」の広告は文京区です。

(4)新小川町(一丁目)付近 北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12216 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 ID 12215とほぼ同じ場所で、道を渡った高速の真下から道沿いの建物を撮影したものです。
 建設中の坂道が、飯田橋料金所に上がる首都高のランプ。その手前の坂のように見えるのは目白通りの上り車線です。一番右にガードレールが見えます。
 この区間は神田川の「江戸川橋分水路」建設のため通行止めになっています。一番、奥に工事車両が見えます。その先は新白鳥橋に分岐する交差点があります。
 道路脇の建物は新小川町で、出光とロゴマーク()と看板「全軽和」、ナショナル(現、パナソニック)のロゴマーク()などが見えます。「全軽印」の看板のビルの左は東京電力新小川町変電所で、現在も変わりません。その左側の消火栓広告は「きもの英」です。

神楽河岸の酒問屋(写真)路面電車 昭和42年 

文学と神楽坂

 雪廼舎閑人氏の「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)に次の写真がでてきました。撮影時期は昭和42年8月でした。

雪廼舎閑人「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)昭和42年8月に撮影

 都電「飯田橋」行きなのに、方向板だけは早々と「品川駅」に直してしまうという結構面白い写真です。理由は以下に
 この都電系統3番は4か月後の昭和42年12月10日に廃線しました。あとこの写真は升本酒問屋についても説明があり、『新撰東京名所図会』が続きます(引用は以下の「神楽河岸の酒問屋」で)。
 酒問屋の升本総本店は、確か田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」にもあったっけ。で、見つけました。これが(↓)昭和47年に撮った写真です。都電はなくなり、「京英自動車株式会社」は「安全第一/大林組」の看板に変わっています。この時期にはID 8793のように飯田壕で地下鉄有楽町線や護岸の工事が進んでおり、その関係の現場事務所かも知れません。
 升本の背後に出現したビルは、左が東衣裳店、右が小川ビル。いずれも大久保通り沿いです。右端はボウリングのピンの広告塔で、下宮比町のイーグルボウルです。

05-14-39-2飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 升本総本店のサイトにも写真があったはず……。ありました(↓)。説明は昭和38年ごろとあります。しかし、よく見ると最初の雪廼舎閑人氏の写真と似ている。非常に似ている。けた違いに似ている。眼光紙背に徹すると、同じじゃないか。

 雪廼舎氏と升本総本店、いずれも嘘をつく理由はなく、どちらかが間違いです。
 住宅地図で調べると、升本の倉庫の隣は昭和39年が「駐車場」、昭和42年と43年が「百合商会」、昭和45年から「京英自動車」に変わります。住宅地図の更新は数年遅れになることが多いので、これを考えると雪廼舎氏に軍配があがります。
 「続・都電百景百話」の中で雪廼舎氏は

 当初、「都電百景百話」は、私の撮影した1万枚を越すネガから、先ず四百の場面を選んで、更にそこから百景にしぼったものだった。この広い東京の町々を、百の場面で代表させることの難しさは並大抵なものではなかった。江戸の昔、葛飾北斎は「富嶽三十六景」で三十六景ならぬ四十八景を、そして安藤広重は「江戸名所百景」で、百十八景もの場面を残しているのに徴しても、このことはお解り頂けると思う。

 雪廼舎氏は趣味が高じて写真を撮っていて、都電3系統の廃止を前に撮影に行ったのでしょう。写真の大きさや解像度から見ても氏のほうが正しいでしょう。

 神楽河岸の酒問屋
 中央線に乗って四谷から御茶の水に向かって行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべる者や釣糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しいところだ。その外濠に沿って走っている電車は、昔の外濠線で、この伝統ある線は、③番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の五叉路にさしかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立往生だ。方向板は折返す時に直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げしたので、船宿や問屋などがたくさんあり、このあたりの河岸を神楽河岸と言った。
 明治37年の『新撰東京名所図会』の「牛込区之部」の巻一に、「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には油問屋の小野田。三番地には東京火災保険株式会社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ。」と出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町四丁目の質屋大和屋、本郷三丁目のかんむり質屋、音羽一丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることもできない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた水面積か減った。残念なことである。

★飯田橋の都電ミニ・ヒストリー
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、三社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川橋までが完成して、飯田橋は乗換地点となる。一方、大正1年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、⑩番江東橋~江戸川橋、⑨番の外濠線の循環線、それに新宿からの③番新宿~牛込万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで⑱番角筈~飯田橋~万世橋、⑲番早稲田~大手町~日本橋~洲崎、㉒番若松町~御茶の水~神田橋~新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から⑱番が⑬番に、⑲番が⑭番に、そして㉒番は改正されて㉜番飯田橋~虎の門~新橋~三原橋と、㉝番飯田橋~虎の門~札の辻間となった。昭和15年には㉜番は廃止となった。
 戦後は、⑮番高田馬場駅~茅場町、⑬番新宿駅~水天宮、③番飯田橋~品川駅とになった。
 ③番は42年12月10日、⑮番は43年9月29日に廃止、⑬番は43年3月31日岩本町までに短縮の後、45年3月27日から廃止された。

神楽坂よ、もう一度|昭和39年

文学と神楽坂

 くず勘一氏の「月刊金融ジャーナル」(金融ジャーナル社)『新・東京散歩』の「神楽坂よ、もう一度」(1964年)です。氏は随筆家で春秋社顧問、著書は「世界名作小説を中心とする文学の鑑賞 小説篇」「若き人々のための文学入門と鑑賞の手引」「文学の鑑賞」など。「金融ジャーナル」では連載『新・東京散歩』(「神楽坂よ、もう一度」のほかに「新宿」「お茶の水」「神田川から隅田川へ」「鎌倉」「池袋」「渋谷周辺」など)を執筆していました。没年は昭和57年6月25日。享年は80歳。

 飯田檎駅は、市ガ谷寄りのお堀端の水際にあった甲武線牛込駅が、関東大震災以後、水道橋寄りに改築されて面目一新し、出入口が二つ出来たために、そのころの評判小説、菊池寛の「心の日月」では、男と女の待合せ場所が、表口と裏口とになってしまい、飯田橋駅ニレジイが発生するというエピソードによって有名になった。今でこそ駅に出入口が二つあるのは少しも不思議ではないが、大正から昭和の始めごろの小駅の出入口は一つしか無かったのである。
 その飯田橋駅の長い廊下のような通路を抜けて、牛込見付のほうへ出てみると、山の手唯一の繁華街であった神楽坂は、この路の一直線上にある。明治・大正のころから神楽坂は、情緒たっぷりな市民の憩いの場であったが、大正十二年の関東大震災で下町を失ってからは、いっそう拍車がかかって、春や夏の宵など、夜店のアセチレン灯の光に映えた町全体は、まるで極彩色の錦絵を眺めるような風情ふぜいがあった。夢二の絵が、もてはやされた時代である。少年たちの瞳は、アセチレンの灯になまめく芸妓たちの褄先つまさきや白い素足におどおどと吸い寄せられたものである。
甲武線 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。明治22年(1889)4月11日に内藤新宿駅と立川駅との間に開通し、やがて御茶ノ水から、飯田町、新宿、八王子までに至りました。1906年(明治39年)に国有化。
心の日月 菊池寛。大日本雄弁会講談社。初版は昭和6年。皆川麗子には親が決めた結婚相手がいるが、嫌悪感は強く、同じ岡山県の学生磯村晃と飯田橋駅で待合せをする。しかし、麗子は飯田橋の改札口、磯村は神楽坂の改札口で待っていたので、数時間後も会えなかった。麗子は丸ビルで中田商事の青年社長の秘書として働くが、社長の妻からは退職するよう言われる。その後、中田社長は離婚する。また麗子は磯村と話し合い、磯村は中田の妹を愛しているので、心の友達として会いたいと答える。最後は麗子は中田社長の勧めで、音楽学校に入ることになる。
ニレジイ フランス語L’élégie。英語ではelegy。悲歌、哀歌、挽歌。
飯田橋駅の長い廊下のような通路 かつての通路。

アセチレン灯 炭化カルシウムCaC2と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるランプ。硫黄化合物などの不純物を含むため、特有のにおいがある。
錦絵 にしきえ。浮世絵版画で、多色ずりの木版画
艶めく なまめく。つやめく。異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。
褄先  着物の褄の先端。

 久しぶりに牛込見付の石崖近くに立って私は暮れなずむ神楽坂の灯を眺めた。法政大・物理大の学生の人並で押しつぶされそうである。石崖につづくお堀の上の土手に、戦前は「この土手に登るべからず警視庁」という、いかめしい制札が建っていて、これが現代俳句の濫觴らんしょうだなどと私たちは皮肉ったものである。その土手に、今では散歩道がついて、学生たちの気取った散歩姿が見られる。土手の登りぎわにある煤けた白亜の逓信博物館の、煤けた白亜に捨て難い風情がある。しかし、情緒・風情などの言葉は既に死語といえそうだ。戦争直後の廃墟のようなただ、、に過ぎなかった神楽坂も、幅広い歩道が完成し、老舗しにせの灯も復活した今は、どうやら生気が甦ったようである。
制札 せいさつ。禁令の個条を記し,路傍や寺社の門前・境内などに立てる札。
濫觴 らんしょう。ものごとの始まりや起源を指すことば
煤けた すすける。すすがついて黒く汚れる。
逓信博物館 京橋区木挽町に逓信省庁舎にあった「郵便博物館」から、大正11年、東京市麹町区富士見町二丁目の建物に移転し「逓信博物館」と改称。1964年(昭和39年)、千代田区大手町の逓信ビルに移転。

 坂の中途の左側に、文人墨客の溜り場であった名物屋という珈琲パーラーがあり、中国の詩人コーエイの若き日の姿も、この辺で見られたものである。その右手の亀井鮨に「そっと握ったその手の中に君の知らない味がある」という平山芦江ろこうの筆になる扁額がかかっていたが、今はどうなったか。さらに四、五軒上には、牛込会館という、一種の貨演芸場があり、私たちは、水谷八重子(井上正夫共演)の「大尉の娘」に涙を流し、「ドモ又の死」や「人形の家」や「青い鳥」などでりきんだり興奮したりして″新時代″を感じたものである。その牛込会館の下は、美容院になり、上は何かの事務所か貸室になっているようであった。神楽坂を登り切ったところ、左ヘ曲がると、三語楼金語楼が活躍した神楽坂演芸場があったが、今は、さむざむと自動車の駐車場か何かの空地になっていた。左側の本多横町の角から三軒目かに山本コーヒー店があり、一杯五銭の渋いコーヒーと、外国航路船の浮袋のようにふとく大きいドーナツが呼びものであった。日本髪で和服の可憐な娘さんが、カウンターにいて、学生たちは胸をときめかしたはずだが、さて、山の彼方の空は、そのころは、いっそう遠かった――のである。
文人墨客 文人と墨客。詩文・書画などの風雅の道に携わる人
名物屋 不明です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では昭和5年ごろ、亀井すしの坂下南では「カフェ神養軒」「はりまや喫茶」「白十字喫茶」しかありません。
コーエイ 詳細は不明。コーエーとも。大正末期から昭和初期にかけて日本語で詩を書いた詩人。
平山芦江 小説家・随筆家。花柳ものが得意で、都々逸の作詞、随筆を残した。第一次『大衆文芸』を創刊。小説『唐人船』『西南戦争』など。生年は明治15年11月15日、没年は昭和28年4月18日。享年は70歳。
扁額 へんがく。室内や門戸にかかげる横に長い額。
大尉の娘 ロシアの詩人プーシキンの完成された唯一の中編歴史小説。1836年に発表。僻遠の地キルギスの要塞に赴任した少尉補グリニョフとミロノフ大尉の娘マリヤとの恋を、プガチョフの叛乱を背景に描く。
ドモ又の死 有島武郎の作品。大正11年(1922)に発表。若い画家5人は1人(ドモ又)を天才として死亡させるが、実は死亡するのは石膏の面で、ドモ又はドモ又の弟となり、モデル(とも子)と結婚する。そして、悪ブローカーやえせ美術愛好家から金をとろうとしている。
人形の家 1879年、ヘンリック・イプセンの戯曲。弁護士の妻ノラは借金のことで夫になじられ、人形のような妻であったことを悟り,夫も子供も捨てて家をとび出す。
青い鳥 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。1908年発表。チルチルとミチルは幸福の青い鳥を探しに行く。
美容院 マーサ美容室です。
山の彼方の空 上田敏氏の『海潮音』「山のあなた」からきています。「山のあなたになお遠く「幸」さいわい 住むと人のいう」。詩では「幸福」ですが、ここでは「恋愛」を指すのでしょう。

 その先の沙門天しゃもんてんをまつる善国寺のお隣りには、山の手の洋食の味を誇った田原屋があり、晩年の鷲尾雨工は、この店の酒と料理と雰囲気とを、こよなく愛していたようだ。同じ側に五十鈴といった甘い物屋と鮒忠という鳥料理屋があるが、これは、いずれも戦後派である。その角を左へ、急坂を少し登ると、今はアパートか何かになっているが、山の手の洋画封切場として偉容を誇る牛込館があった。徳川夢声の前のインテリ弁士といわれた藤浪無鳴がここに拠り、やがて夢声も、つづいて奇声と頓才で売出した大辻司郎が、右手を符の上へ突込んで銀幕の前へ、のこのこと現われて大喝采を博した懐しい大正時代。さらに、その以前、隣り上の下宿屋には、宇野浩二広津和郎などの若い文士たちが、とぐろを巻いていたものである。さらに大昔、藁店わらだなといったこのあたりは、由井正雪何何剣客のゆかりの地でもあったらしい。
封切 ふうきり。ふうぎり。封を切る。開封する。(近世、小説本は袋に入れられ発売した)新版の本。新作映画をはじめて上映して一般に見せること。一番館。
藤浪無鳴 活動写真弁士(無声映画の説明者)の1人。映画会社の翻訳を行い、のちに活動弁士になり、初めは浅草の金竜館、のちに新宿の武蔵野館の主任弁士を務めた。徳川無声の兄分で、2人で大正六年三月に帝国劇場でトマス・インス監督の大作映画「シヴィリゼーション」で弁士を行っている。また大日本映画協会を主宰しヨーロッパ映画の輸入に携わった。生年は明治20年8月4日。没年は昭和20年6月11年。享年は59歳。
大辻司郎 漫談家。活動写真弁士。兜町の株屋から弁士に転向し、「胸に一物、手に荷物」「海に近い海岸を」「勝手知ったる他人の家へ」「落つる涙を小脇にかかえ」などという「迷説明」など珍妙な台詞で有名になった。頭のてっぺんから出る奇声とオカッパ頭も有名。昭和27年、日航機もく星号の伊豆大島三原山の墜落事故で遭難死。生年は明治29年8月5日。没年は昭和27年4月9日。享年は55歳。
下宿屋 みやこ館です
とぐろを巻く 蛇などが渦巻状に巻いてわだかまっている。何人かの人が、ある場所に集まって長時間いる。腰を落ちつけて動かなくなる。
何何 不定称。不定の人や物事についていう。あれこれ。

 新宿―水天宮間の都電通りへ出る少し手前の左側に、紅屋という二階建の洋菓子店があり、高級な甘党を喜ばせていた。三階に、東京でも嚆矢といわれるダンスホールがあったが、いつの間にか消え失せ、その後はもっばら味の店としてさかっていた。そのころ一週間に二、三回は必ず二階の隅の卓に、小柄で白髪童顔の老紳士が、コーヒーを喫しながら何かを読んでいるのにぷつかったものだ。その老紳士秋田雨雀に、私は、ここで知り合いになった。
都電通り 現在の大久保通り。
嚆矢 こうし。何かの先がけとなるもの。物事の初め。最初。やじりにかぶらを用いていて、射ると音をたてる矢。昔、中国で、戦争の初めにかぶら矢を射たところから。

 都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋通りを左へ入ると、カフエ・プランタンがあった。大麗災で下町を追われたダンディたちのメッカであったカフエ・プランタン。しかし私には、その薄暗い客席が、どうしても馴染なじめなかった。今でこそ町名の区別がなくなったが、この辺は、もととおてらといい、少し横へ曲れば、横寺町になり、飯塚というとぶろく、、、、屋があり、その先の路次の奥に松井須磨子のくびれ死んだ芸術倶楽部があった、ひところは倉庫のようになっていて、子供たちの遊び場であったことを覚えている。今は、もうその場所跡すら誰も知らない。記憶の中に溶けこんでしまっているようだ。この通りを少し歩いた左側に明冶の文豪尾崎紅葉の住んでいた古びた二階家と庭木が、戦争前までは残っていたが、新しい世代には関係のない絵空事とでもいおうか。
 今、この通り寺町(矢来から江戸川方面と早稲田、高冊馬場通りへつづく)は、地下鉄工事でバスなどは一方交通になっているが、ここから神楽坂へかけては、散歩道としても全くよい環境であったのだ。右側にある神楽坂武蔵野館という映画館は、文明館といって、神田の錦輝館とともに東京の映画館の草分けの一つでもあった。
 その隣りに南北社という本屋があり四六判型の「日本」という珍らしい大衆総合雑誌を発行していた。
 昭和の始めごろだったろうか。夜店のバナナの叩き売りとは違う青年のかけ声が聞こえるので、人混みをかきわけて覗いてみると、白皙長髪の青年たちが、部厚い原稿用紙の束をり売りしているのであった。つまり印刷工程を経ていないなまの小説なのである。こういう時代もあったのだ。青年たちの一人は、新しい小説家の金子洋文であった。
錦輝館 きんきかん、1891年10月9日、開業し、1918年8月19日に焼失。多目的会場。明治30年、東京でバイタスコープ(トマス・エジソンが発明したアメリカ最初の活動写真)の初めての映画があった。
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
金子洋文 かねこようぶん。小説家、劇作家。武者小路実篤に師事。労農芸術家連盟を結成。昭和22年、社会党の参院議員を一期務めた。創作集「地獄」「鷗」「白い未亡人」、戯曲集「投げ棄てられた指輪」「飛ぶ唄」「狐」「菊あかり」など。生年は明治27年4月8日。没年は昭和60年3月21日。享年は91歳。

 通り寺町をまっすぐ通り抜けると矢来下に出る。その先が江戸川橋、左へ折れて早稲田へつづくが、矢来下の交番の横手に水守亀之助の家があり、小川未明もこの近所に住んでいて、娘さんの大きな澄んだ眼が印象的だった。矢来通りには東洋経済新報社もあったと思うが、古道具屋が多く「カーネギー曰く、多くの不用品を貯えんよりは有用の一品を求めよ」と大書した看板の店があった。その頃は古道具屋をあさるほどの身分でもなかったから、どんな有用な品があったか知らないが、古道具屋とカーネギーの取り合わせが珍らしく、この店はあまりはやらないのだろうと思ったりした。悠長な時代であった。
 矢来下から引返してだらだら坂を上り、右にそれると新潮社の通りだ。滝沢修が近くに住んでいた。今でも新潮社通いの文士達を時たま見かける。
(筆者は随筆家)

江戸川橋 神田川中流で目白通りの橋。場所は文京区関口一丁目。
水守亀之助 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では、大正11~14年、矢来町3番地中ノ丸2号に住んでいました。昭和3年は矢来町66番地でした(下図)。「ラ・カグ」のあたりです。さらに、昭和6年は弁天町60でしたが、戦災で焼失し、終戦直後は世田谷に疎開したと、地元の人の調査で。概略は明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏といったようです。生年は明治19年(1886年)6月22日。没年は昭和33年(1958年)12月15日。享年は72歳。

昭和5年 牛込区全図 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年から


小川未明 同じく、大正5~6年には矢来町38番地に住んでいました。

カーネギー 実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業。スコットランドで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住。
だらだら坂 矢来通りに相当します。
新潮社の通り 牛込中央通りです。
滝沢修 俳優、演出家。開成中学を卒業後、1924年築地小劇場に入る。昭和22年、宇野重吉らと劇団民藝を創設。映画・テレビドラマへの出演も多い。生年は明治39年(1906年)11月13日、没年は平成12年(2000年)6月22日。享年は93歳。

JR飯田橋駅(写真)令和4年 ID 17577

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17577は令和4年(2022年)10月、JR飯田橋駅西口を撮った写真です。JR東日本は2015年8月から飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設する等の改良工事を始めました。この西口駅舎も一旦取り壊し、そして、令和2年(2020年)7月12日(日)、リニューアルオープンし、それから2年後の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17577 JR飯田橋駅

 駅舎西口の中央に大きく「JR飯田橋駅」(JR東日本 Iidabashi Station)と書かれています。10〜11段の階段もできました(以前の西口は下図に)。
 西口駅舎の正面が3階(西口コンコース階)、上は4階(西口テラス階)、そこから下ったホームが2階(ホーム階)、東口は1階(東口コンコース階)です。4階にある「エキュートエディション(Ecute EDITION)」とは、主に駅ナカのコンビニを展開しているJR東日本の子会社です。上階のプレッセ飯田橋デリマーケット(Precce Iidabashi DELI MARKET)は2023年1月31日に閉店しました。3階にあった「GODIVA café Iidabashi」は営業中です。「◯ie Bufre Boulangerie Re◯」は「NewDays エキュートエディション 飯田橋西口」に変わりました。
 構内に出ている立て看板の文字は小さく、中身はよく見えません。
 この2022年では、コロナウイルスが猛威を振るい、通勤客等の人々は全員マスクをつけています。また、ロシアがウクライナを奪おうとして戦争を始めたのは同年2月のことでした。
 駅舎前には歩行者空間や植栽を用意し、写真では見えませんが、右手に身障者のスロープもあります。
 後ろにある巨大な建物はプラウドタワー千代田富士見で、その右はクラッシィハウス千代田富士見で、どちらもマンションです。

石黒忠悳|明治東京逸聞史

文学と神楽坂

 森銑三氏の「明治東京逸聞史2」(平凡社、昭和44年)に石黒忠悳ただのり氏の2話が出ていました。石黒氏は牛込区揚場町に住み、陸軍軍医から、その後は日本赤十字社社長でした。なお、ここでの「男」は「だん」で、「男爵」の意味でしょう。「翁」は老人を敬って呼ぶ言葉。石黒氏の誕生は1845年3月なので、本文の明治39年は62歳、明治42年1月は‎64歳でした。

結核予防   机の塵(朝報社編) 明治39年
 或宴会で石黒いしぐろ忠悳ただのり男が、矢野二郎翁と席を列べたら、男はまず自分の膳の上に新聞をかぶせて置いて、さて翁に向って、「君は結核面をしている。その唾がおれの食べ物にかかっては困るから、こうして置くのだ」といった。そうしたら矢野翁は、「予防してまで、おれの話を聴きたいとは嬉しいね」といったそうだ。――
 この頃の結核は、万人に忌み嫌われる病気で、伝染したら直らぬものとせられていた。

石黒忠悳 医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
矢野二郎 英語を学んで外国方訳官となり、明治3年、森有礼の推薦で外務省にはいり渡米、一時駐米代理公使となった。8年、商法講習所の初代所長となり、26年まで高等商業学校(現一橋大学)の校長をつとめ、商業教育の基礎をきずいた。生年は弘化2年1月15日(1845年2月21日)、没年は明治39年6月17日。

 矢野氏と石黒氏は同じ年齢でした。この年に矢野氏は死亡しますが、結核がその死因だとは書いていません。2人の仲の良さを描いていたのでしょう。

石黒家の新年   万朝報 明治42年1月4日
「御自由に召上れ」と題する短文が出ている。
「牛込区揚場町なる石黒忠悳ただのり男は、目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に、『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るつた趣向なり。」
 明治が四十二年になっても、まだ文語体で行っている。

相州 そうしゅう。相模国の別称。神奈川県と同じ。
蒔絵 まきえ。うるしで文様を描き、金属粉の金、銀、すずや顔料の粉(色粉)をまき、固着し造形する技法。その作品
奉書 ほうしょ。文書の美称。本来は,近侍者が上位者の意を奉じて下達する文書

 文語体は石黒忠悳ではなく、万朝報の方の書き方を言っているのでしょう。この逸聞は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)にも再録されています。

石黒男爵の珍しい新年
           (揚場町一七)
 津久戸小学校前を右折する。左手は揚場町である。揚場町は東の堀割から山の手へ運送の荷物を揚げる場所であったために名づけられた町名である。堀割はここからお茶の水、万世橋を通って隅田川に続いている。
 右折した道の先左手に、明治時代男爵石黒忠悳(ただのり)が住んでいた。この石黒家の過し方が「万朝報」(明治四三・一・一)に出ている。
「目下夫人同伴にて、相州地方へ旅行中なるが、主人不在中の同家は、玄関の正面に蒔絵の名刺受箱が、しかも二つ置かれてあるより、よくよく見ると、一は男爵の分、一は夫人の分にて、奉書に『旅行中に付、年賀に参堂せず』と記したるを置き、その傍に葡萄酒とコップを備へ、これには、『御自由に召上りくれ』と貼紙してあるは、振るった趣向なり。」と。
 〔参考〕 明治東京逸聞史

堀割 地を掘って水を通したところ。ほり。

神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

材木横丁 和泉屋横町 から傘横丁 三年坂 神楽小路横 みちくさ横丁 神楽小路 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 神楽坂仲坂 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁

 

 その名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 寂しい坂道だから転ぶと三年以内に死ぬという迷信から。
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から


16/3/13⇒20/8/6⇒21/6/16⇒21/9/23

昭和を走ったチンチン電車|うゑださと士

文学と神楽坂

 うゑださと氏の「昭和を走ったチンチン電車」(新日本出版社、2014)から2作品「飯田橋の交差点をゆきかう15系統」と「牛込うしごめやなぎちょうの坂を上る13系統」をとっています。うゑだ氏は昭和23年に生まれ、25歳の時、漫画原作者の小池一夫らの編集プロダクションに入り、現在は水彩で日々の暮らし、街並み、祭り、童謡や歌謡曲の景観などを描いています。
 同書でうゑだ氏は「『昭和』の風景ですから、資料が頼りです。参考にさせていただいた資料を、巻末に参考文献として収録いたしました」。参考文献には「わが街わが都電」「都電が走った昭和の東京」「よみがえる東京」「都電が走っていた懐かしの東京」「都電」「都電の消えた街」「東京都電の時代」「都電春秋」と、名称と出版社だけが載っています。

『飯田橋の交差点をゆきかう15系統』国鉄のプラットフォームから見たアングル。右奥にはふな河原かわらばし
「右奥には船河原橋」とありますが、正しくは右奥に伸びる道は目白通り。その手前で赤や青の車が並んでいるのが船河原橋で、左右は外堀通り、見えない大久保通りが交わって飯田橋交差点をつくります。

飯田橋の交差点をゆきかう15系統

J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

 参考文献はわかりませんでしたが、似たような写真がJ・ウォーリー・ヒギンズの撮影でありました。
 ただヒギンズの写真は1964年。うゑだ氏の風景画は、都電の塗装が1950年代までの通称「金太郎塗装」で、少し時代が違います。オート三輪も時代を感じさせます。「つる」は正確には「つるやコーヒー」。
 そこで図書館で調べました。吉川文夫氏の「東京都電の時代」(大正出版、1997)はどうでしょうか。この写真は1960年に撮られて、横書きの「つる」、オート三輪もよく似ています。都電だけが違っています。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)。国鉄飯田橋駅ホームから見た飯田橋交差点 手前の停留場のある橋が飯田橋 右奥は船河原町 (飯田橋 15系統 815号 昭和35年9月23日)

 飯田橋の都電としては3路線、つまり3系統、13系統、15系統がありましたが、15系統だけが描かれています。15系統の都電は飯田橋停留所から、右奥の目白通りにつながっています。左右の外堀通り(船河原橋)や大久保通りにも路線がありましたが、15系統とはつながっていませんでした。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

『牛込柳町の坂を上る13系統』自転車の若者が歯を食いしぼり力走

牛込柳町の坂を上る13系統

 これはわかりました。三好好三氏の「よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)でしょう。

よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角

 前後の道路は大久保通りで、左右は外苑東通り。柳町交差点は大久保通りの前後より標高が低く、凹になっているのですが、この水彩画ではわかりません。
 アカカンバンはスーパーで、倒産後に売却されて、現在「よしや SainE 柳町店」です。さらに神楽坂六丁目「よしや SainE 神楽坂店」でも同じで、当時はアカカンバンの店舗でした。その前の「パチンコたま◯」の◯はこの写真では分かりません。「パーマ」はその通り、水彩画の「ショールーム」は不明です。

神楽河岸(写真)ID 13226 昭和45年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13226は神楽河岸、飯田濠と国鉄飯田橋駅などを撮ったものです。飯田濠の東岸は新宿区で神楽河岸、右岸は千代田区で飯田河岸です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13226 飯田橋駅 飯田河岸

 比較するため、池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)を見てみたいと思います。

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

 池田信氏の撮影時期は昭和40年4月です。壕の中央に台上のものがあり、左岸からは坂のようなものでつながっています。これは建設廃材の積み出し場だったと思われます。
 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)で「かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか」と書いています。
 壕は浅く、両岸は干上がって底が見えています。喫水の浅いはしけなら、中央部をかろうじて運行できたのでしょう。
 ID 13226に戻ると、池田信氏の写真に比べて飯田橋交差点の歩道橋と首都高速が完成しています。首都高が開通した昭和44年以降の撮影だと分かります。
 中央に浮体式のクレーンがあり、左岸に鋼矢板こうやいた(シートパイル)を杭のように打ち込んでいます。右岸の石垣下の底の泥が減っているように見ますが、この工事の船を入れるために浚渫したのかも知れません。
 昭和48年2月のID 8792、8793では鋼矢板は並行に3列あります。ID 13226はこれより前、第1列の工程でしょう。
 有楽町線建設史の年表によれば、8号線(有楽町線)飯田橋第一工区の着工は昭和46年(1971)5月、同第二工区の着工は同年8月でした。
 ID 13226の工事が地下鉄工事とすれば、撮影時期は昭和46年かもしれません。新宿区の神楽河岸現場詰所で撮った写真だと思います。
 右岸に並んでいる建物は地図では倉庫ですが、右端の建物は地図では車庫で、一番奥の窓のある建物はID 493などでは寮(社宅)でした。
 飯田橋駅のホームにはたくさんの人が電車を待っています。

住宅地図。昭和45年

神楽坂5丁目(写真)地理風俗大系 昭和12年

文学と神楽坂

 誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。これは新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。

日本地理風俗大系 改訂版

神楽坂の繁昌
いかめしい見附の石垣を西すれば緩かな登りの神楽坂となる。この通りには各種飲食店カフェーの間に色々の商家が建ち並び夜間は雑踏発盛を極め附近には筑土八幡・赤城神社があり法政・早稲田学生の往来繁く特に競技に優勝した際は想像の外である。

  現在の神楽坂上交差点(大久保通り)から坂下方向で、神楽坂5丁目(当時は肴町)の夜の写真です。
 電飾看板以外に、3種類の灯りが路上にあります。1は交通信号灯です。2は街灯で、大きなドングリ型の照明と下にも電灯があり、【L】の鈴蘭灯でしょう。3は【L】の下にあるような行灯型の角灯で、切妻の小屋根を備えています。小屋根から光が漏れている点を除くと【K】とよく似ています。しかし、すりガラスも明治時代からあるので、同じものでも構いません。

 店の看板はよく読めませんが、想像を交えると……

  1. セトモノ河合本舗
  2. 菊秀の刃物、ハサミの絵(後の山下漆器店
  3. 菊岡三味線屋
  4. 高島屋(以前の機山閣→山岡商店→昭和7年に開店)
  5. 三角堂メガネ)上下にある目玉のような看板
  6. (松葉屋塩物)

 正面やや右、ひときわ高い電飾は「田原屋」と思われます。

5丁目の商店

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)岡崎公一「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図

5丁目12など

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

善國寺(明治時代、昭和初期)

 明治時代の善國寺です。最初は新撰東京名所図会第41編(明治37年)の「善国寺毘沙門堂縁日の図」です。

新撰東京名所図会第41編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

 左から右に見ていきましょう。まず見えるものは縁起のいい餅花もちばなで、ヤナギやミズキなどの木の枝に、紅白の餅や団子を丸めています。鯛や小判、賽、キツネ、「当たり矢」「おたふく」「ひょっとこ」の飾りが下がり、行灯は「商人中」でしょうか。賽銭箱の前で女性2人が拝んでいます。
 その次にのぼりがあり、「奉納 明治三十五年 開運 壬寅 正月」とあり、右側の「開運 毘沙門尊天」と同じものでしよう。
 善国寺は池上本門寺の末寺に当たります。「牛込千部講」というのは法華経8巻を1000回読んで、ご先祖の精霊を供養すること。僧侶100人が2回ずつ読んで200回、これを5日間行って1000回。
 参拝客の中央、メガネの男性がひめ小判守を大事そうに持っています。その奥にはおそらくだてがさがあり、そこで何かを買っている人もいます。右側の屋台はおもちゃ屋でしょう。のぼり鬼などの面、小さな獅子舞や三味線を売っています。その手前の毛氈もうせんの台でも、手ぬぐいをかぶった男性が七福神の人形やおもちゃを柿を持った子供に説明しています。
 これらの露店の奥、本堂前には現在も残る狛虎1匹。右の入母屋の瓦屋根はお守りや縁起物の販売所でしょうか。「神楽坂」の旗、中にも「兼子」「牛込」「名台○○」などの旗があります。
 右上で見切れているのは、たくさんの小さな幟をロープか竹でつなげたものです。「御華◯◯」「牛込芸妓中」「業平吾妻の寿し」「ふくや 業平」「◯し中」「會」「牛込」「◯中形」などです。

 昭和時代になると、次の写真も残っています。

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12023 25 27-29 31-36

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12023、25、27-29、31−36の11件は昭和54年2月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区です。

住宅地図 昭和55年

(1)Pot coffeeは第五田中ビルに入っていました。営業時間は午前8時から午後8時まで。COFFEE SHOP POTと書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12023 目白通り沿い飯田橋駅付近 ポットコーヒー

(2)「神田事務」店があり、次の「喫茶店『プリバ』スナック」ではAM8:00~11:00の間モーニングサービスとしてコーヒーか紅茶にトーストとサラダがついて280円。さらに看板を左から並べると「灘清酒  多聞 大衆割烹 うす井」「カレンダー」「◯ング」「(潮)出版社」「アンもん」「さくら」「(麻)雀」「キムラヤベーカリー」。道路に近い歩道の看板は「ゼブラ」「アイユニオン」「アイカー◯/さしあ◯」、名前の不明の幟、道路標識(指定方向外進行禁止)8〜20、電柱「◯山グタンド  バス」、電柱看板「グランドパレス」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12025 目白通り沿い飯田橋駅付近

(3)道路の反対側で、道路標識を除けば、信濃ビル、しゃぶしゃぶ、そば処 長寿庵です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12027 目白通り沿い飯田橋駅付近

(4)酒処うす井は佐藤ビルにありました。左では「只今 準備中 です」「本日◯◯(◯◯◯)刺身 麻婆豆腐 湯どうふ ムツ照焼/肉じゃか アジフライ コロッケ サバミソ」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12028 目白通り沿い飯田橋駅付近 酒処うす井

(5)キムラヤビルのキムラヤベーカリー神楽坂3丁目にあった木村屋とは別系統で、銀座木村屋から別れた店です。その右側にはたばこ、雪印アイスクリームの冷凍庫、赤電話。さらにその右は「専門の TEL 六七九四」「クリ(ーニング)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12029 目白通り沿い飯田橋駅付近 キムラヤベーカリー

(6)読めない看板、電柱看板「◯久川」、看板「だんご駒形」、看板3枚「(不明)」「サン◯行◯◯」「麻雀」、飯田町◯、コカコーラ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12031目白通り沿い飯田橋駅付近か

(7)二輪車「タンロップ」。「いやな足のニオイと汚◯/ニオイ暗い」「カネボウの医薬品 漢方相(談)」、看板「大卸」、電柱広告「産関有料駐車場」と「アザミ美容室」、「百草胃腸薬 大洋薬品工業」「毛 若禿 円形禿 フケ、カユミ、抜毛で/お困りの方は/当店でご相談下さい ハツモール」。おそらくヤルマツ薬品でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12032 目白通り沿い飯田橋駅付近

(8)反対側で「元祖 中華つけ麺 大王/特製大王餃子・ソース焼そば」。2階は「麻雀 奈美」。隣の家は「GSバッテリ(ー)/島田自動車電機一般修(理)/(有)島田電気工業所」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12033 目白通り沿い飯田橋駅付近

(9)「ハタイ」と鏡映反転の「有」、「限會」。「飯田町二丁目」「9ー4」。隣の家で「森永ヨーグルト/ピンを抜いてお返し下さい」。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12034 目白通り沿い飯田橋駅付近

(10)酒井書店です。「麹町法人会々員」も出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12035 目白通り沿い飯田橋駅付近

(11)さらに1ブロックほど南東方向に動いていきます。道路上には「一丁目歩道橋」、右側に「神田信用金庫」と「ナショナル」、中央に電柱広告「咽喉科 千代田医◯ ◯ ノ八 三井銀行そば ☎︎ 二六」パンフ「ゴミ容器集積所 月水金」、左側に「焼 家」「ア ◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯」「年金 ◯◯ 貯金 為替〒電話 電信 郵便」「おそば 増田屋」「喫茶 エリカ」「明治生命」「竹書房」「千代田ビル」が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12036 目白通り沿い飯田橋付近

神楽河岸(写真)加藤嶺夫氏 昭和46年

文学と神楽坂

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)から。加藤氏は1929年(昭和4年)東京都文京区に生まれて、出版社勤務のかたわら東京を散策し、新聞紙上にルポルタージュを執筆しました。2004年に他界。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 これと昭和46年と50年の地図を比較します。なお、目にみえるゴミは別項で。

全住宅案内地図帳(新宿区版)公共施設地図 1971年

S50(1975-01-19)揚場町-筑土八幡町(地理院地図)

  1. セントラルコーポラス(地上6階)
  2. 野崎栄義商店飯田橋寮
  3. 厚和寮(厚生年金病院職員寮)
  4. 津久戸小学校? または熊谷組本社ビル工事(津久戸町、昭和49年完成)
  5. 日本製乳株式会社
  6. 升本総本店
  7. 升本 倉庫
  8. 日本製乳株式会社 事務所
  9. 升本 事務所
  10. 升本 倉庫
  11. (不明)
  12. 京英自動車
  13. 土萬商店
  14. 土萬商店

 地元の人は……

1) 厚和寮の右、切妻屋根の上に見えているのが津久戸小の外壁と屋上フェンスでしょう。
2) 黒っぽいものは津久戸小より奥にあり、私には建築中のクレーンのように見えます。
3) 校倉づくりのような横縞は確かに厚和寮の一部ですね。そこに津久戸小の屋上構造物が重なって見えているようです。
(イ)厚和寮・手前側
(ロ)厚和寮・奥側(校倉づくりのような横縞)
(ハ)切妻屋根(升本)
(ニ)川島ガラス?
(ホ)津久戸小(右側が最高部)
(ヘ)建築中の熊谷組本社

厚和寮 奥の建物

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12019, 22

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12019と12020は昭和54年2月、目白通り周辺を撮影したものです。撮影位置は地下鉄東西線飯田橋駅の出口を地上に出た千代田区です。ID 12019の右端に、下駄履き住宅(現「飯田橋サンポーロハイツ」)が写っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12019 目白通り沿い飯田橋駅付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12022 目白通り沿い飯田橋駅付近

 目白通りの九段下方面を狙っていて、ID 12019では「山京ビル」が見えます。その奥、かすんでいる高い建物はホテルグランドパレスです。1972年開業、2021年6月営業終了、2023年現在は解体されています。
 山京ビルの手前は、片側3車線の広い道に面していながら2-3階の低い建物が目立ちます。現在は、多くが10階建てくらいのビルになっています。
 「山京ビル」は千代田区飯田橋1丁目7−9です。また、坂田一真堂は飯田橋3丁目4−3です。

千代田区飯田橋(昭和54年頃)
  1. (H)OT COFFEE/BRESSON/海外・国内旅行 新日本トラベル株式会社 春休は海外 ハワイ
  2. トヨタレンタ 案内所
  3. 北の春 おゝむら 酒亭
  4. (坂)田一真堂 ウイン
  5. 潮出版社
  1. 産図有料駐車場
  2. (自転車及び歩行者専用)(区間内)
  3. (左・指定方向外進行禁止)
  1. そば・天ぷら
  2. 山京ビル

千代田区(写真)神楽河岸埋立 昭和51年 ID 11468

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11468は昭和51年8月、飯田濠と神楽河岸、飯田橋駅西口、牛込橋周辺を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11468 神田川 神楽河岸から飯田橋駅西口、牛込橋方向

 実際には飯田濠の周囲はID 493などで説明してあります。なお、これは飯田濠で、写真説明にある神田川の支流にあたります。
 左上のビル群はまだ説明していません。左端の少しだけ屋根が見えているのは日本歯科大学体育館(1)です。その右が9階の東京警察病院(2)で、屋上には「東京警察病院」と書いてあります。警察病院前の黒い建物と立木は富士見町教会ですが、よく見えません。その右は6階の飯田橋会館(3)で1階は郵便局でした。次は暗く見える前田建設工業別館(4)で、中に三井住友銀行が入っています。多分「前田建設工業」と書いてあるはずです。その次は石原産業東京ビル(5)で、ここも何かビルに書いてあります。その次はフジボウ会館(6)で、最上階は下よりも広くなっています。その右は前田建設工業(7)でした。

飯田濠上のビル群(千代田区)


 約30年後の写真が以下の2枚です。富士見町教会が建て直されたのを除けば、建物はほとんど変わっていません。

千代田区遺産 飯田橋サクラパーク 再開発地区全体 撮影日:平成20(2008)年6月

千代田区遺産 飯田橋サクラパーク 再開発地区全体 撮影日:平成20(2008)年6月

牛込見附(写真)ID 9912〜17 昭和50〜51年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9912から9917までは昭和50年〜51年頃、「牛込見附」交差点周辺を撮影したものです。現在では「神楽坂下」交差点に名称が変わりました。
 半袖はおらず、コートの人が1人います。駅舎の向こうの石垣の上が裸木になっているので、冬から春先にかけての撮影でしょう。傘を持った人も何名かいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9912 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9913 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9914 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9915 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9916 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9917 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

 この交差点は早稲田通りと外堀通りが交差します。ID 9914と9915の右中央に「外堀通り」という道路標識が立っています。交差点から右上の坂が牛込橋の土堤部分、逆に左が神楽坂です。
 最も大きな特徴は、牛込橋左側の旧神楽坂警察署の建物が撤去され、建設用の仮囲いが立っていることです。飯田濠の再開発が本格的に始まったことが分かります。下に見える昭和50年の田口氏の写真には建物があるので、ID 9912-9917は撤去から間もない写真です。実際にはその後、反対運動が起きて再開発は中断し、完成は昭和59年まで遅れました。

田口重久「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14

 またID 9914と9915では巨大なの標識も見えますが、意味は「車両進入禁止」でした。小さく「自転車を除く」と書いています。自動車は0時から12時まで、牛込中央通りと神楽坂通りの交差する点(矢来第二交差点)から「牛込見附」交差点を通り、牛込橋までの方向で、つまり西から東に一方通行し、12時から13時は歩行者専用道路となり、13時から24時は反対方向に変えます。したがって、この写真は午後1時以降に撮影したものです。
 一方、ID 9913、9916、9917では同じ交通標識の裏側が出ています。表面はおそらく(指定方向外進行禁止)でしょう。
 交通標識は他にもあり、早稲田通りの左側には(歩行者専用)、「歩行者専用道路 12-13」、都の標識「ランチタイム・プロムナード」と書かれ、12時から13時まで、牛込橋などでは歩行者天国になります。その右側には(車両通行止め、8-1◯)(区間内)です。ガードレールの後ろには(歩行者横断禁止)と書かれています。
 背の高い街灯がID 9913では早稲田通り、ID 9914、9915では早稲田通りと外堀通りで出ていて、これは東京都の街灯でしょう。ID 9914の右側に見える背の低い円盤型の街灯は神楽坂通りの商店街のものです。昭和45年のID 13117-18などでは円盤形街灯が向かい合って立っていますが、旧警察側は撤去されています。
 電柱は右側に高いコンクリート製電柱があり、変圧器が載っています。一方、牛込橋の左側には1本だけ木製の低い電柱があり「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 ID 9915-16では、交差点に近い歩道に小屋のようなものがあり、「産婦人科 加藤医院」の広告が3つ、ほかにビラが貼られています。観音開きの扉やガラリのついた通気孔もあります。
 この小屋は第2次大戦の終戦前の「飯田橋駅から見た神楽坂付近の焼け跡」(1945年5月27日)に見られ、昭和29年の新宿区史、昭和36年のID 52-53、昭和45年のID 13126など各時代の写真に写っています。しかし地図には記載されておらず、おそらく仮設のコンテナのようなものでしょう。戦前に倉庫などに使われていたものが戦後、不法占拠物になっていたことも考えられます。これはメトロ「有楽町線建設史」には「公図が不正確で未登記の土地が随所にあった」とあり、不法占拠があっても取り締まりしにくかったことが想像できます。
 1977年(昭和52年)のTV『気まぐれ本格派』の牛込橋のシーンには、この小屋は写っていません。ID 9915-16の少し後に撤去されたと思われます。

TV『気まぐれ本格派』1977年(昭和52年)

 ID 9914では早稲田通りの右側(小屋の反対側)に「コルヌ」「白鷹 とんかつ 森川」「そば 飯田橋」が見えます。
 またID 9913とID 9917では外濠通りに沿いに地下鉄の出口と「」マークがあります。地下鉄有楽町線の池袋ー銀座一丁目間が開業したのは昭和49年10月でした。写真の出口は再開発に備えた仮設のもので、現在は再開発ビル(飯田橋ラムラ)に直結しています。
 飯田橋駅の駅舎から奥は千代田区です。最も大きい建物は日本歯科大学体育館で、隣は日本歯科大学別館です。さらに10階内外の建物がいくつかあります。歯科大に近いのは飯田橋外語学院でしょうか、「〇〇・英文タイプ」と書かれています。写真で最も左側は、ID 480などに見える飯田橋駅東口近くの複数のビルです。また、ID 9916の最左側のビルは「飯田橋プラザ」で「パブ・プラザ」と書かれています。

「見返し横丁」に抜け道新設へ

文学と神楽坂

 地元の方から「見返し横丁」(か「見返り横丁」)に関する文章をいただきました。

 神楽坂4丁目、本多横丁から脇に入る通称「見返し横丁」は、ある時期まで「兵庫横丁」に出る抜け道がありました。現在はブロック塀でふさがれています。
 これとは別の「抜け道」を新設するプランが進行しています。
 新宿区は「神楽坂三・四・五丁目地区地区計画の都市計画変更原案」を策定し、令和5年1月13日の新宿区都市計画審議会に報告しました。
 注意点として、区の資料では一貫して該当する路地を「見返り横丁」と呼んでいます。「まちづくりキーワード集」(1977年)で図示した路地と違います。また雑誌「ここは牛込、神楽坂」でつけた愛称「見返し横丁」は採用していません。路地の名前が地元に定着していなかったことを示唆します。
 さて、区は審議会に次のように報告しました。
 見返り横丁につきましては、行き止まり道路になっているといったようなところがありますので、2方向避難の観点から、地区内の地権者のご協力を得て0.6m、60cmの避難経路を確保するといったところで、こちらの避難経路についても地区施設に位置づけるといったところです。

 資料の図を見ると、東京理科大学森戸記念館の脇のスペースを「見返し横丁」から「酔石横丁」へ通じる38メートルの避難路として活用するようです。現在は屏や植栽で通れなくしていますが、これを除去するのだと思います。避難路ですから常時、通れる形でしょう。

避難路「酔石横丁」側 黒い柵の内側

避難路「見返し横丁」側 黒い柵の内側

東京都市計画地区計画 神楽坂三・四・五丁目地区地区計画

 幅60センチは「ごくぼそ」よりはるかに狭く、新たな「路地」として名所になるかも知れません。同時に「見返り横丁」という名も、今後は定着するように思います。
 新宿区は令和5年10月の正式決定を予定しているとのことです。

「見返し」とは「1 書物の表紙と本文との間にあって、両者の接着を補強する2ページ大の紙。一方は表紙の内側に貼りつけ、もう一方は「遊び」といって、本文に接する。2 和装本で、表 (おもて) 表紙の裏にはる紙または布。著者名・書名・発行所などを印刷したものが多い。3 洋裁で、襟ぐりや打ち合わせ・袖ぐり・袖口などの縁の始末に用いる布。多く共切れを用いる」

「見返り」とは「1 ふりかえること。見返り美人。2 担保・保証またはお返しとして差し出すこと。その差し出したもの。見返り品」

 つまり「見返し」と「見返り」、あるいは「見返し横丁」と「見返り横丁」とは別々の意味でした。私もどちらがどちらなのか、よくわからないし、多分、新宿区の人もわかっていなかったのでしょう。しかし、インターネット、地図、津久戸小学校の「つくどがみてきたまちのふうけい」などは全て「見返し横丁」です。おそらく10月までに新宿区は間違えたと思って、正しく直っていると思いますが……。

飯田橋駅と飯田濠(写真)ID 8792、8793 昭和48年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8792と8793は昭和48年2月、牛込橋から飯田橋駅と神楽河岸、飯田壕を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8792 飯田橋駅ホーム、神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8793 飯田橋駅ホーム、神楽河岸

 ID 8792の右のスロープは、飯田橋駅西口改札とホームを階段代わりに結ぶものでした。古いレールを曲げて、スロープの基礎にしている様子がよく分かります。写真の電車は1番線に停車中で、奥の御茶ノ水方向に向かって発車します。
 撮影当時、飯田濠周辺は複数の工事が進行中でした。神楽河岸側、大郷材木店の材木置き場前には「営団地下鉄8号線飯田橋二工区土木工事/企画者 帝都高速度交通営団/施工業者 佐藤工業株式会社」の看板が出ています。その右にも別の看板が2種類あり、ひとつは「飯田堀土木工事」と読めます。
 ID 8793では画面左端から中央奥にむけてこういたを打って濠を区切っています。矢板とは土が崩れたり水が入り込んだりするのを防ぐため、建築物などに並べて打ち込む、板状のくいです。鋼矢板は並行に3列あり、手前に最も低い列、すぐ左にやや高い列。その奥の神楽河岸の建物と石垣に沿って高い鋼矢の列があります。
 外堀通りから鋼矢板の内側まで仮設の橋があり、クレーン車が停まっています。濠は水位を下げているようで、手前に干上がった水底が顔を見せています。またクレーン車の下には土の山ができています。すでに再開発工事が始まっていて、この写真の1カ月後の昭和48年3月31日に飯田濠の埋め立て工事が完了します。
 有楽町線の飯田橋駅は飯田壕ではなく外堀通りの地下に作られました。従って、この工事は再開発の埋め立ての様子と思われます。ただ少し後の時代のID 537 神楽河岸(昭和51年8月26日)では、大郷材木店前の鋼矢板はありません。この昭和51年の部分は地下鉄建設工事だったと推測されます。

有楽町線飯田橋駅(有楽町線建設史448頁に加工)

 写真の一番奥、首都高速道路の5号池袋線は昭和44年(1969年)6月に開通しました。ほぼ4年間の昔にできたことになります。ID 8793では、首都高の手前の下宮比町の建物がいくつか見えています。
 濠の右側に見えるのは倉庫だけでした。左側にはいろいろなものが並んでいました。

  1. 新宿区役所土木部牛込工事事務所神楽詰所
  2. 大郷私邸
  3. 大郷木材店倉庫
  4. 喫茶ポルブ
  5. 土萬商店資材置場土辰川村商店
  6. 東京都新宿東清掃事務所
  7. 東京都水道局神楽河岸営業所
  8. 東京都水道局神楽河岸営業所。水道局◯◯
  9. 丸友バチンコ
  10. オーシャン ウイスキー
  11. 歩道橋
  12. 倉庫

 上空では

  1. (第一)勧業銀行
  2. 日本写真学院
  3. パチンコ
  4. 婦人倶楽部/週刊現代(看板)*昭和49年(1974)11月「飯田橋第一勧銀稲垣ビル」になります
  5. 東海銀行
  6. 東海銀行(看板)
  7. 産業をひらく/鶴屋産業(文京区後楽2丁目)

神楽坂に歩行者天国とランチタイム天国

文学と神楽坂

 自動車を締め出し,歩行者の自由を認める制度や場所を歩行者天国と呼んでいます。
 東京では1887年(明治20年)頃、神楽坂の縁日で初めて実施しました。
 また、1966年、用語「歩行者天国」は既に朝日新聞で使用されているようです。
 戦後は1970年(昭和45年)8月2日(日曜日)午前10時から午後5時まで銀座・新宿・池袋・浅草の4地区で初めて実施しました。

昭和45年、東京・銀座の歩行者天国。銀座、新宿、池袋、浅草で歩行者天国がスタートした(1970年08月02日) 【時事通信社】

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7374 歩行者天国が始まった日 通りを行く人びと

 さらに同じ年の11月15日、神楽坂でも歩行者天国を行います。

神楽坂にも天国

 牛込の神楽坂にも、歩行者天国が、あす15日(昭和45年11月15日)の日曜日から各日曜、祝日ごとに実施される。
 地元商店の要望により牛込署が行なうもので、初日の15日午後1時から津久戸小の鼓笛隊パレード、小学校の写生大会、マンガ入り風船のプレセント、宝さがしなど“むかし恋しい神楽坂”に、景気を呼ぼうと、各種の催しものを準備している。
 なお、天国の区域は国電飯田橋駅近くの神楽坂1丁目の交差点から同五丁目の交差点まで。
(読売新聞 昭和45年=1970.11.14)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂 昭和48年

 地元の人もこんなことを教えてくれます。

ID 7430は実施の前日なんですね。つくば商事の小さな看板が納得できました。坂下の写真だって、ありそうなものですけどね。

 さらに4年後、「ランチタイム天国」という言葉(正しくは「ランチタイム・プロムナード」)も出てきました。昼休みも歩行者天国にするというもの。

ランチタイム天国   ノンビリ歩こう昼休み 今日から23か所で

 昼休みのひととき、東京都内の盛り場から車を一時シャットアウトする警視庁の「ランチタイム・プロムナード」交通規制が、きょう1日(昭和49年10月1日)の「都民の日」から、23地域51路線(総延長13280メートル)でスタートする。
 規制時間は各地域ともウイークデーの正午から午後1時までの1時間だが、ヤングの町・新宿西口地域だけは、午前11時半から午後1時半までの2時間。(中略)
 一日スタートの主な盛り場は、新宿のほか銀座3、4丁目通り、神楽坂商店街通り、中野追分通り、国電御徒町駅西側、荻窪駅南口仲通りなど(略)
(読売新聞 昭和49年=1974.10.1)

 下図では中央やや左に標識「ランチタイム・プロムナード」があり、スプーンとフォーク、ティーカップが書かれています。この言葉「ランチタイム・プロムナード」はいつしか忘れて行きましたが、行動は覚えています。神楽坂は2つとも実施中です。

『気まぐれ本格派』32話

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

飯田橋駅(写真)千代田区側 ID 9810 昭和50年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810は昭和50年頃、飯田橋駅前や牛込橋を外堀通りから撮影したものです。ID 9780も昭和50年頃、同じ画角の遠景です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810 飯田橋駅前と牛込見附

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14も、ほぼ同時期の写真です(下図)。

田口重久「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14

 最も手前は外堀通りで、自動車が2台、並走しています。ガードレールの向こうは牛込濠です。柵の角柱の間から水面が光っているようです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)「水面が光っている」

 濠の向こうに電車が走っていて、水道橋方面の1番線ホームに入線しています。よく見ると行き先幕は「千葉」と読めます。電車の屋根には丸いベンチレーターしかなく、まだ冷房化されていません。
 左端の三角屋根は飯田橋駅西口駅舎で、軒上には「飯田橋駅」の看板があります。その前の牛込橋の自動車は左から右へ走っています。この時期には逆転式一方通行が牛込橋側に延長されていたので、撮影が午前中だったことが分かります。
 下の部分拡大図ではAの電灯は背が高く、主に道路を照らすものでしょう。Bの電灯は背が低く、歩行者を照らし、千代田区のものでしょう。
 2つあるCは渡櫓わたりやぐらでした。Dの建物は日本歯科大学体育館で、Eは日本歯科大学別館でした。

 写真の中央やや左の「林不動産」の看板と、その左右の建物は線路際の土手にあった商店でした。この商店は飯田橋駅の駅舎整備で2010年頃に撤去されました。

1975年 住宅地図 矢印は「林不動産」

飯田橋西口の土手沿いの店舗(2009年 ストリートビュー)

逆転式一方通行の延長・補遺

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂通りの逆転式一方通行が、千代田区側に延長された時期について、新たな発見がありました。
 以前の記事では昭和52年(1977)には千代田区側に延長になっていると考察しましたが、その後の写真資料から、さらに時期を絞り込めました。
 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 52と53では、昭和36年(1961)4月、牛込橋側の車道にセンターラインが引かれ、車とバイクが対面で走っています。
 昭和37年(1962)頃のID 55と56もセンターラインがあります。昭和37年3月発行「新宿区15年のあゆみ」の写真も同じです。
 しかし田口重久氏の「歩いて見ました東京の町」の05-14-37-1から-3(昭和42年2月)の写真はセンターラインがなくなり、自動車は牛込橋いっぱいに広がって走っています。
 以上から昭和37年〜42年の間に、牛込橋で逆転式一方通行が実施されたことが分かります。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

飯田橋駅(写真)西口 ID 8267, 8269, 8270, 8286 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267と8269と8270と8286は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅西口周辺を撮影したものです。
 牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっています。ID 8269と8270の歩行者はコートやマフラー姿が目立ち、冬から早春にかけての時期と思われます。ID 8267と8286では建物の窓が何カ所も明いていて、小春日和だったかもれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8286 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

 ID 8267と8286は飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。正面の橋は牛込橋で、写真説明にある「飯田橋」は写っていません。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物については……

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課
1 立喰そば? 2 二鶴?
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8269 飯田橋、飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8270 飯田橋、飯田橋駅

 ID 8269と8270は飯田橋駅西口前から神楽坂下に向け、早稲田通りの牛込橋などを撮ったものです。牛込橋は戦前に架けられたコンクリート橋で、路面は石畳でした。
 街灯は2種類あります。中央やや左の逆円錐形は千代田区のものでしょう。そのすぐ左は新宿区で、神楽坂と同じ大きな円盤形の街灯が2本あり「神楽坂通り」の表示もあります。右側は円盤型カバーが外れているようです。
 千代田区と新宿区の境界付近の電柱には街灯放送用の拡声器がついていて、「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 早稲田通り沿いの警視庁の建物は、牛込橋の土橋の崖下に建っています。建物の右奥には銀鈴会館の屋上広告、さらに揚場町のセントラルコーポラスが見えます。

全住宅案内地図帳 昭和44年 共施設地図株式会社

飯田橋駅(写真)東口 ID 652, 662, 664, 12102, 12103, 12105, 12106 昭和54年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 652、662、664、12102、12103、 12105、12106は昭和54年(1979)3月、日本国有鉄道(国鉄)飯田橋駅東口を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 652 飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12102 飯田橋駅 切符売り場

 ID 652とID 12102は東口構内の写真です。現在は「東口コンコース階」といいます。
 天井の電光パネルは「国鉄きっぷうりば/TICKETS/→」「ご案内/国鉄450円までのきっぷは/自動きっぷうりばでお求めください/520円以上のきっぷは窓口でお求めください」「自動/き(っぷうりば)」「定期券・回数券はこの先を/左に曲って5番窓口(へ)/(お回りください)↑」「450円/220円」
 下部はポスターなどを貼った立て看板が構内を区切っています。「みどりの窓口/駿台電算専門学校」「(こんに)ちは幸せさん」「旅先でこまったら 旅行者援護所/いい旅。/東京YMCA国際ホテル学校」「青梅鉄道公園/経理専門学校4月生募集中 簿記 税理士 公認会計士/東京C.P.A.専門学院」「周遊指定地のご案内/安房白浜・外房海岸/鴨川加入者ホーム/旭簡易保険保養センター/潮来簡易保険保養センター」
 左奥に「禁(煙)/タイ(ム)/朝8:00-9◯/夕17:00-18◯」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12103 飯田橋駅 ガード下

 ID 12103は飯田橋駅ガード下の写真です。ガードの向こうには千代田区飯田橋四丁目の南東部で「きそば」と「中村屋」の看板が見えます。ガード内には駅名板「飯田橋駅/IIDABASHI STATION」があり、右には東口の入り口があり、看板は「UC(C) コーヒ(ー)/空缶は空缶(入れに)/コーヒー」。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 662 飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12105 飯田橋駅前

 ID 664とID 12105は東口の外部を撮ったものです。ホームは高架上にあります。乗客は数人だけで、電車が出た直後でしょう。柱の駅名標は「いいだばし」。
 奥のビル(千代田区)の広告は「漫画 ギャンブルエイト 株式会社コミック社」「写植版下 (282)8231 (株)公栄社」「ダンス 初心者 年配者」「サ〇リ/ダ〇ヤ〇〇シッド」。
 駅入り口に「飯田橋駅 IIDABASHI STATION」、右に「定期券うりば→」。構内はID 652の電光パネルが見えています。
 駅の外には「お食事」「喫茶」があり、これは喫茶店「ニューラ(イオン)」です。
 さらに東部に縦看板があり、「新春謝恩/おつまみ半額(¥250より)/キーボトルオールド¥2350/(5時~7時)/ミスサントリー」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 664 飯田橋駅附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12106 飯田橋駅 ガード下

 ID 664とID 12106では、水道橋方向のプラットホーム先端部を追っています。屋根はなくなりますがホームはまだ続いています。
 ホームの屋根からは吊り下げで「いいだばし」の駅名標と「地下鉄のりば」。ガードの上に「中央線 JNR 飯田橋駅」、ガードの下に「大型最徐行」と (最高速度40キロ)。
 左側には地下鉄の出入口(現在のA1出口)があり、帝都高速度交通営団のSマーク、「地下鉄」と「飯田橋駅」の看板が見え、さらに遠くに「消火栓」のマークがあります。
 なおID 673も同時期の写真です。

地下鉄飯田橋駅(写真)昭和54年 ID 642-43, 12017-18, 12073

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 642と643、ID 12017と12018は昭和54年(1979)2月、ID 12073は3月に地下鉄飯田橋駅を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 642 地下鉄飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12017 地下鉄東西線飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 643 地下鉄飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12018 地下鉄東西線飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12073 飯田橋駅構内出口表示

 1964年(昭和39年)12月23日、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)東西線の飯田橋駅が開業し、1974年(昭和49年)10月30日、営団地下鉄有楽町線の駅が開業しました。飯田橋駅の隣の駅は東西線では九段下と神楽坂、有楽町線は市ケ谷と江戸川橋です。
 したがって、1枚目と2枚目は東西線の場合で、駅名標はタイル壁に埋め込まれているようです。
 地元の方によれば、3枚目と4枚目は九段下方の地上出口(現在のA5出口)から撮影したものです。前方のビルは1961年12月完成のマンション(階下を商業施設にした「下駄履き住宅」)で、 千代田区飯田橋4丁目にあります。現在の名称は「飯田橋サンポーロハイツ」です。
 また5枚目は九段下方の出口(現在のA5出口)表示です。
 地下鉄出口は日本医科大学第一病院の前にありました。現在は「東京区政会館」が建っています。地下鉄出口はバリアフリー型に改修されましたが、今もほぼ同じ位置にあります。
 なお、ID 641も同時期の東西線を撮ったものです。

2022年「飯田橋サンポーロハイツ」(Google)


下宮比町会(写真)大正13年 ID 10798

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10798は大正13年(1924)、牛込区下宮比町会の会合を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10798 牛込区下宮比町会

 「大正十三年九月一日午前十一時五十八分 大正大震災一週年 牛込區下宮比町會」と墨書したのぼりが大木に貼ってあります。老若男女が整列し、多くの人は胸元にお札のようなものを入れています。
 右端に百度石があり、おそらく筑土八幡神社で撮影したと思います。背後の家から左の建物に渡り廊下が架けられていますが、その建物は足場で囲われています。震災の被害を修繕しているのでしょう。よく見ると左端の振り向いている女の子は狛犬に乗っています。
 また右端の建物は布で覆われ、屋根瓦が波打っている様子が分かります。土蔵のようなものが崩れかけているようです。
 おそらくは関東大震災1周年を期に町会一同が参拝して家内安全を祈願し、神札を授与された時の記念写真でしょう。右端の男性の印半纏に「親和會」の文字が見え、これが世話役だったかも知れません。
 震災直前、大正12年の筑土八幡神社の写真があります。手前の大木と奥の老樹、渡り廊下、狛犬などが確認できます。大正12年の本殿前の大木は、大正13年の木の形が同じですが、現在の社務所前にある桜と枝ぶりが違います。

築土山に鎮座す。明治5年村社に列せられた。東京市公園課。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯。大正12年

 下宮比町にはかつて宮比神社が鎮座しており、明治四十年に筑土八幡神社の境内に遷座しました。このID 10798の参道が現在と同じなら、右に分かれて続く先に宮比神社が祀られています。第2次大戦で焼失し再建されました。社殿の前の鳥居には「享和二年」(1802年)の刻印があります。百度石も場所を移して境内に残っています
 下宮比町会は現在、隣の揚場町と一体化して「飯田橋自治会」となっていますが、今も筑土八幡神社の氏子地域です。

新見附濠(写真)昭和50年 ID 10797

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10797の説明は「昭和50年、飯田濠」とあります。これは間違いで、1kmほど離れた新見附濠を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10797 飯田濠

 正面に、斜めに上がって途中で水平になる橋が見えます。「市ヶ谷水管橋」と呼ばれる水道本管のための特殊な橋で、昭和6年に完成しました。

新東京名所市ヶ谷見附跨線水道橋
東京市の水道が、中央線と外濠をオーヴァするところ、市ヶ谷見付に架設された總長322呎の水道橋、幅員15呎で、徑間は56呎3連、58呎3呎1連連の5徑間。下路鋼鈑桁橋で、橋臺は混凝土、橋脚鐵筋混凝土造。

 外濠を走る現在のJR中央線を昭和4年に複々線化したことに関係して建設したものでしょう。水管橋の下には釣り堀があります。
 水管橋の向こうの三角屋根(田口氏02-00-47-01市ヶ谷駅 1967-08-19)が旧国電の市ヶ谷駅です。
 写真は新見附橋から撮影したものと思われます。この濠は牛込濠の一部でしたが、明治期に新見附橋が建設され、市ヶ谷寄りの南側が新見附濠と呼ばれるようになりました。
 土手の木々がうっそうと繁っているので季節は夏でしょう。外濠は下流の飯田橋に向けて徐々に深くなるため、上流側ほど水質汚濁が起きやすい環境です。この写真でもアオコが水面の広い範囲を覆っています。
 浅い濠にはメリットもあり、後の地下鉄有楽町線建設工事では濠の中を開削する工法を採用しました。
 写真奥の土手の上の千代田区九段南では複数のビルを建設中です。土手の下は中央線の10両編成の通勤電車が行き違ったところですが、車両の屋根上は丸いベンチレーターのみで冷房はありません。旧国電の冷房車は山手線の昭和45年(1970年)が最初で、写真の昭和50年は非冷房車の方が多い時代でした。
 飯田濠ではこの当時、埋め立ての再開発を行っていました。

箪笥町(写真)牛込北町 昭和30年代末 ID 5737

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5737は大久保通りと牛込中央通りとを結ぶ牛込北町交差点を撮ったものです。右手前から左奥に向けて大久保通り、左から右奥への道路が牛込中央通りです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5737 箪笥町(現大久保通り)

 電柱や街灯は少なくても3種類あります。一番目は背が最も高い電柱でコンクリート製で配電線や柱上変圧器もあり、2番目は木製で擬宝珠のような飾りがあり、路面電車の架線柱でよく見られ、3番目は最も低く、腕木の上にボンボリ型2個の街灯があります。
 石畳の軌道は都電13系統で、上空には架線が張り巡られています。また街灯の間にはしめ縄風の飾りが張ってあります。
 信号機の背面板はゼブラ柄です。
 撮影の年が不明ですが、ID 5736と同じ年で、つまり昭和30年代末でしょう。

牛込北町交差点(昭和30年代末)
  1. 電柱広告「加藤産婦人科」
  2. (く)らしにカラーを 東洋紡のダイヤモンド毛糸/合理的生活に木村屋のパン食を/ヤマザキバン/ナショナル/木村屋製(パ)ン/雪印アイスクリー(ム)
  3. 電柱広告「貸衣装 山本」/牛込北町(都電停留所)
  4. 雪印チーズ/森永キャラメル/明治バター/木下商店/明治ミルクチョコ(レー)ト/〇〇〇木下菓子/たばこ
  5. 強力パンビタン/宝命堂薬舗
  6. 電柱広告「中河電気」

住宅地図。1965年。牛込北町付近

神楽坂2丁目(写真)お祭り 大正10年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「新宿風景Ⅱ」(2019年)の「44 神楽坂地域のお祭り 大正10年(1921)頃」で、この写真は博物館のものではなく、個人のものです。

神楽坂地域のお祭り 大正10年頃

 神輿を大勢でかついでいます。地面は砂利で、写真右奥に向かってゆるやかに上り坂のようです。
 この場所を特定する手がかりがいくつかあります。ひとつは店の前に立っている柱です。

 まず[B]は街灯で、角柱から丸い灯りが2つ突き出し、柱の上には擬宝珠のような飾りもあります。これは大正12年の神楽坂通りの[C]と同じものでしょう。
 [A]は2色塗りで背が低く、一軒に1つずつあるようです。おそらく催事の提灯かぼんぼりを掲げるための仮設のもので、類似のものは昭和10年の写真(「東京市内商店街ニ関スル調査」昭和11年)にあります。
 もうひとつの手がかりは店の看板です。神輿の一番上の鳳凰に隠れた看板は、なんとか「高等製靴舗 ◯崎屋」と読めます。現在もあるオザキヤ靴店(休店中)と思われます。
 以上から、神楽坂2丁目の坂下付近の撮影とみていいでしょう。
 もう少し写真を詳しく見ます。神輿の担ぎ棒は前後に長く、左右がないのは裏道を練り歩くのに適した形にしたのでしょう。
 神輿をかつぐ人の印半纏は、いくつかの種類が混じっています。かぶり物もハチマキ、ほおかむり、カンカン帽など統一されていません。恐らく複数の町会の混成部隊です。
 背中に「五」の字がいくつか見えます。この時代は神楽町1-3丁目までしかないので、近隣の東五軒町、西五軒町の町会かも知れません。ただし牛込町誌第1巻(大正10)によれば、当時1丁目は若宮八幡神社、2-3丁目は市ヶ谷八幡神社の氏子で、五軒町の属する筑土八幡神社とは異なっていました。
 もうひとつ、牛込町誌第1巻「若宮町之部」に興味深い記事があります。

神輿の新調 当神社(注・若宮八幡)は従来、神輿の設なかりしを遺憾とし、大正九年八月町内氏子有志は…拠金を得てこれを新調せり。大正十年より神輿渡御のことあり

 この写真が、若宮町の町内会の新たな神輿を撮影したと考えると、とても楽しいでしょう。若宮町は、わずかですが第2次大戦で焼けなかった地域があり、貴重な写真が残ったのかもしれません。

神楽坂2丁目(大正10年頃)
  1. 「芳屋」「や」「切手折詰調進」「(味)の素」(お椀形のマーク)
  2. 「新型」「高等製靴舗」「◯崎屋」「靴 崎屋」(尾崎屋)
  3. (一軒)
  4. 「砂」(砂糖屋)

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」昭和45年

大久保通り(写真)岩戸町 ID 17075

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17075の資料名は「A3出口から神楽坂上を望む」となっています。撮影は令和4年(2022)2月で、岩戸町から北東向きに撮っています。なお、「A3出口」とは「牛込神楽坂駅」のA3出口を指しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17075 A3出口から神楽坂上を望む

 中央の道路は大久保通り。似た写真はID 14053にあります。
 歩道の縁石が黄色い破線になっているのは「駐車禁止」の標識。
 続いて、自転車レーン(普通自転車専用通行帯)があり、そのマークは「自転車ナビマーク」(右図)
 大久保通りは片側1車線の対面通行で、最高速度は40 km。センターラインで黄色の実線は「追い越しのためのはみ出し禁止」の標識。
 遠く見える空中の道路標識は「道路標識 転回禁止」(転回禁止)と「道路標識 追い越しのためのはみ出し通行禁止」(追い越しのためのはみ出し通行禁止)、その下に「」(区間内)
 さらに遠くの「神楽坂上交差点」ははっきりとは見えません。

牛込神楽坂駅(令和4年)
  1. ブリリアントコート神楽坂(マンション)
  2. 87ビルディング岩戸町
  3. パレステュディオ神楽坂シティタワー(東京シティ信用金庫 神楽坂支店)(赤いビル)
  1. 赤い郵便ポスト
  2. (文英堂ビル)
  3. KXビル(旧赤玉ビル)アーチ状の入口
  4. (日交神楽坂ビル)
  5. (牛込神楽坂駅)
  6. コスモ ホウエイ(茶色のビル)
    ーーー神楽坂通り
  7. 神楽坂5丁目ビル(セブン-イレブン 神楽坂5丁目店
  8. 神楽坂アインスタワー(最も高いビル)

岩戸町

五冊の母子手帳|田中奈那子

文学と神楽坂

 田中奈那子氏が書いた『五冊の母子手帳』(講談社、1994年)です。1981年、氏は東京都内で初、日本で3組目の5つ子を出産しました。このとき、氏は1947年に生まれて、34歳でした。
 帝王切開で目が覚めるところから、ここでは始めます。

 私は、「田中さん起きて! 生まれましたよ。男の子と女の子がいますよ」といわれたことを、ぼんやりと覚えています。(中略)
 五人とも未熟児でしたが、とくに体重の軽いはじめは、NICU(新生児集中治療室)に、ほかの四人は中等症病室へと、別れて入れられました。ひかるには軽い呼吸障害がみられたそうですが、ほかの三人と同じく酸素吸入の必要はなくすみました。
 それからは、パパが大騒ぎのうずに巻きこまれて大変な思いをします。
 この日、主人は手術のことを聞いて、会社を休んで私の母とともに病院に詰めていました。出産のことは、ごく身近な人にしか報告してありませんし、また無事に五つ子が生まれても、私たちは公にするつもりはありませんでした。まして、マスコミには内緒にしてもらうはずでした。
 ところが、生まれるのと同時にNHKが取材にきて、あれよあれよという間に病院は報道陣でいっぱいになり、記者会見をしないなら、明日、神楽坂の家へ訪ねていきますよ、会社のほうへ行きますよ、といわれてしかたなく記者会見をすることになってしまいました。
「東京で初めての五つ子誕生」は、私たちの想像以上に大きなニュースだったのです。
 突然、五人のパパになり、突然マスコミに囲まれた主人。五人とも小さいけれど元気、その喜びを家族や病院のスタッフと喜びあう間もなく、なんともあわただしいことでした。
神楽坂 「神楽坂まちの手帖 第15号」(けやき舎、2007年)の田中ひとみ氏の「『かくれんぼ横丁の名付け親』と『東京の5つ子ちゃん』」では
 孫たちが遊んでいる姿を見て、石畳の路地に「かくれんぼ横丁」という名前を付けられたという森川安男さん。残念ながらご高齢のため数年前に亡くなられましたが、今回はそのお嬢さまにお会いすることが出来ました。
 彼女こそ、二十数年前「東京の五つ子ちゃん」のお母様として話題になった田中奈那子さんです。「出産した直後からTVや雑砧などマスコミが騒がしかったんです。それに子育てに毎日忙しかったから、当時のことはあまり思えていないわね」とのこと。横丁の名付け親がご尊父であったこともご存知なく、「あら、そうだったの?」と、意外な表情をされていました。
 下図は1984年の住宅地図です。森川安男氏はすでに亡くなり、田中奈那子氏も別の住所に住んでいます。

青色は「かくれんぼ横丁」 住宅地図。1984年

 私と五人の子どもが、日赤医療センターを退院したのは、出産から二ヵ月半が過ぎた11月17日のことでした。
 一度に五人の子どもですから、それまで私たち夫婦が住んでいた、2DKのアパートには入れません。私の神楽坂の実家に身を寄せることになりました。この家ではに夫のふるさと、佐賀県の竹内市長から贈られた、これからの冬場にはおあつらえ向きの、五枚の厚手のベビーガウンも待っていました。
 いよいよ子育て戦争の始まりです。一日の猶予もありません。私の母と父、姉、親戚のおねえさん、そして私の五人が、かかりっきりになることになります。主人は会社がありますから、あまり期待はできません。それどころか主人には五人の扶養家族がふえた分、ひたすら働いてもらわなければならないと思っておりました。
2DKのアパート 夫婦のアパートと森川安男氏の家はわずか1分ほど離れた場所に住んでいました。

 神楽坂料亭の奥まった一角。(夫婦は)しもた屋風の家を改造した二階建ての木造アパートに住んでいる。そこから歩いて一分ほどのところに黒ベイの家がある。五代前から神楽坂に暮らし、仕立屋を長く営んでいた奈那子さんの両親、安男さん(70)、倫江(みちえ)さん(67)夫婦の自宅である。
読売新聞1981年9月5日夕刊

 退院をじっくり喜ぶ時間さえなく、授乳、おむつがえ、洗濯、沐浴の繰り返し。生まれてまもない赤ちゃんは、だれでもそうですが、ほぽ三時間おきにおなかをすかせて泣きます。わが家の五人もそうでしたが、五人が五人、ばらばらに三時間おきですから、こちらはゆっくりする時間、眠る時間がありません。
 私は、損な性分だと思うのですが、どんなに疲れていても、お昼寝とか、ちょっと横になってうとうと、ということができません。夜、ふとんに入ってでないとだめなのです。(中略)
 不思議なことに、隣に寝ている主人がせきをしても起きないのに、子どもがぐしゅんというだけで、目がぱっちり覚めてしまいます。これが母性というものなのか、とわれながら感心しましたが、隣の主人はと見ると、まったく気がつかないようでぐっすり眠りをむさぼっています。思わずムカッとして、たまには目を覚まして気づかったっていいじゃない、と憎まれ口の一つもたたきたくなったものです。が、生後数ヵ月は、まとめて三時間以上眠ったことがなく、慢性睡眠不足でいつもふらふらしていたような気がします。(中略)
 けれども、睡眠時間は相変わらず足りませんし、一日にやるべき仕事は山積みで、やってもやってもきりがなく、私にも疲れがたまっていました。夜がきたと思ったら、あっというまに朝がきてしまった、という感じで毎日が過ぎていました。「神様、私に一日30時間ください」とまじめに思っていたのですから、今ふりかえると心身ともに疲れ果てていたのです。
 思い余って、五つ子の先輩である、鹿児島県徳之島の上木さんに電話をかけたのもそのころです。子どもたちをお風呂に入れ、ミルクを飲ませて一段落ついた夜の八時ごろでした。いきなりの電話にもかかわらず、上木千恵子さんは、「半年はしっちゃかめっちやかやるしかないんですよ。でも半年がまんしたら、ずいぶん楽になりますよ」と話してくださいました。五分程度の電話だったと思います。それでも、私の気持ちもすっと楽になれ、半年間だからあと少しがまんして頑張ろうと、目の前が明るくなったものです。(中略)
 みどりみやこにとっては初節句、ひなまつりを神楽坂の私の実家で迎えたのは、生後ちょうど半年でした。このころになると、あした以外は夜中にミルクをほしがって起きることもなくなり、ようやく四時間くらいはまとまった睡眠がとれるようになりました。
「半年すぎると、楽になるから」と励ましてくださった徳之島の上木さんの言葉に納得がいきました。思えば、その言葉にすがってなんとかやってこれた気がします。三時間おきに繰り返していた哺乳瓶の煮沸消毒も、いつの間にかやらなくなっていました。もっともこのころになると、ミルクの飲む速度にも大きな差が出てきて、哺乳瓶の乳首の穴の調節が大変でした。S、M、Lの乳首で台所が占領されそうでした。五つ子を育てるすさまじさは、こんななんでもないささいなところにもあるのでした。
沐浴 髪を洗い、からだを洗うこと。湯や水を浴びて、からだを清めること。湯あみ。
上木さん 2組目の五つ子の母親です。ちなみに最初はNHKの山下さんでした、

矢来町(写真)昭和47年 21番地 ID 122

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 122は、昭和47年(1972)9月、矢来町の21番地を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 122 矢来町21番地

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12156 矢来町21番地

 昭和47年に、なにか事件があったのでしょうか。この年、グアム島で元日本陸軍兵士の横井庄一氏は見つかり、「浅間山荘」で連合赤軍が籠城し、沖縄は返還され、 田中角栄氏が「日本列島改造論」を発表し- 第1次田中角栄内閣が発足、カシオ計算機は世界で初めてのパーソナル電卓を販売しました。
 番地表示は右側の門柱らしきものに埋め込まれていますが、読むと「牛込区矢来町21番地」で、右から左への古い横書きでした。
 牛込区時代の矢来町には21番地が2つあります。もともとは早稲田通りの北側で、現在の地下鉄東西線神楽坂駅の2番出口(早稲田方)付近でした。
 昭和初期に番地が改められ、それまで広大だった3番地などが細分されました。新たに矢来町の西側、東榎町に近いあたりに21番地ができました。従来の21番地は1ケタ増えて、121番地に変わったのではないかと思います。
 牛込区が新宿区になるのは1947年(昭和22年)3月15日なので、ID 122は戦前に建てたものでしょう。戦災焼失区域の地図では、21番地も121番地も被害を受けています。大谷石の塀は焼け焦げているようにも見えます。
 ただ121番地は一本道なので、撮影場所は21番地でしょう。地図上で「突き当たりに家がある」という条件は2か所考えられます。

住宅地図。1973年。

 ID 122の写真は奥に向かって緩い坂で、さらに右折して下っており、これに合致するのは上の箇所ではなく、下の箇所です。この場所の2022年のストリートビューを見ると、突き当たりの家は変わっていないようにも見えます。

矢来町21番地、2022年、google

 最後に、なぜこの写真を撮影したのでしょう。「区内に在住した文学者たち」では矢来町21番地の文学者はいませんでした。芸能人の場合も、自宅に本名を使う場合、芸名を知るのはまず不可能です。単に「牛込区」の古い表札が珍しかったからかも知れません。

矢来町(写真)矢来公園 昭和45年 ID 115, 116

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115と116は、昭和45年3月、矢来町のある一部を撮ったものです。以前は矢来町3番地あざ山里といいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115 矢来山里

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 116 矢来山里

 ID 115の右側とID 116の左側は矢来公園です。昭和44年に開園しています。小浜藩邸跡、杉田玄白生誕地で、後に園内に碑が建てられました。
 また令和2年には、ID 116の公園の奥にあった鏑木清方氏の旧居跡を新宿区の史跡として指定しました。案内板は公園入り口付近にあります。

       新宿区指定 史跡

かぶら清方きよかたきゅうきょあと
所 在 地 新宿区矢来町三十八番地三
 指定年月日     令和元年六月三日
 日本画家・鏑木清方(1878~1972)は、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで、現在の新宿区矢来町38番地3に暮らした。ここ新宿区矢来公園の東に隣接する一帯である。
 清方は、本名を健一といい、明治11年(1978)に東京神田に生まれた。13歳の時に、浮世絵の流れを汲む水野みずの年方としかたへ弟子入りし、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。
 矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃借ちんしゃくし、のちに購入して、懇意の建築家・吉田よしだ五十八いそやへ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家を「夜蕾やらいてい」と称した。
 代表作となる「築地つきじ明石町あかしちょう」(昭和2年)のほか「三遊亭さんゆうてい圓朝えんちょうぞう」(昭和5年、重要文化財)など絵画史に名を残す名作をこの地で多く制作した。
 なお、鎌倉に移転後の昭和29年(1954)には文化勲章を受章した。
   令和2年2月28日
新宿区教育委員会

鏑木清方旧居跡

矢来町(昭和45年)
  • ID 115
  • 電柱広告 牛込台さこむら診療所
  • 電柱広告 神楽坂ゴルフ
  • ID 116
  • 交通標識 自転車を除く 一方通行路 
  • 広告 東京ガス 牛込サービス店
  • 広告 土地家屋アパー(ト) 有限会社 神楽坂商事

矢来公園付近(全国地価マップ

柳町交差点の排気ガス禍。昭和45年

文学と神楽坂

 自動車排気ガスの汚染地域、新宿区の牛込柳町交差点付近で住民の中に、鉛が体内に蓄積しているという報告がありました。 昭和45年5月22日、読売新聞の朝刊は……

 交差点の排気ガス禍深刻
体内に鉛異常値
文京医療生協医師団の調査
厚生省・都も重視 新宿・柳町

 全国各地で新しい公害禍がこのところ連日のように発見されているが、自動車排気ガスの最汚染地域、東京・新宿の牛込柳町周辺の住民に、正常人に比べ最高7、8倍もの鉛が体内に蓄積されているというショッキングな調査結果が21日夕、革新系の文京医療生協医療団(安達繁団長)から発表された。この鉛公害の発生源は、ハイオクタン・ガソリンに添加されている四エチル鉛などの鉛化合物ではないかと同医師団はみており、これが自動車の排気ガスにまじって野放しに放出されているため、すりばちの底のような立地条件にある同交差点一帯の住民の健康をむしばんでいると推定している。(中略)
健康障害、住民も陳情
 この調査の対象は、同交差点を中心として半径70㍍以内の地域に住む人たち66人で(中略)鉛の血液中濃度、尿中濃度、それにアンケートによる自覚症状の3点を中心に、検診に当たった。採取した血液、尿を氷川下セツルメント病院で原子吸光分光光度計を使い検査した。
 同医師団の説明によると、検診を受けた66人のうち58人までが血中、尿中濃度とも正常人の平均値を大幅に上回り、最高7、8倍もの高い数字が出た。
 血中濃度の場合、最高は37歳の男百㏄中138㍃・㌘(1㍃・㌘は百分の1㌘)が検出され、これは平常値同20㍃・㌘の2倍以上となっている。さらに60㍃・㌘を越す人が15人もあり、平常値以下の住民はわずか8人だった。
 一方、尿中濃度の最高値は47歳の主婦で、1㍑中152㍃・㌘。尿中の平均値は、学者によっては、同20㍃・㌘から60㍃・㌘まで見解の幅があるが、同医師団の主張するように20㍃・㌘をとると、実に8倍近い数値。(中略)
長谷川豊厚生省公害課課長補佐の話「原子吸光分光光度計はカドミウム、亜鉛の測定に使われているが、鉛の場合は感度が落ちるので、なれた人でないと誤差が出やすい。だが、これだけの結果が出たことは放置できない事実だ。さっそく資料を提供してもらい、学識経験者、試験機関で内容を検討してみたい。そのうえで対策を立てることになろう」(後略)
読売新聞 昭和45年5月22日朝刊

 朝日新聞の夕刊3面では……

 排気ガスで広がる鉛中毒   新宿・牛込柳町交差点 
蓄積、普通人の7倍
   住民調査 25%が職業病なみ
 自動車の排気ガスによる汚染が、東京でいちばんという新宿の牛込柳町交差点付近の住民の中に、排気ガス中の鉛が体内に異常に蓄積している――と21日、文京医療生活協同組合医療団(団長、安達繁 同生協理事長)が集団検診の報告を発表した。それによると、血液中の鉛の値が、労災補償で認められる鉛中毒の基準を越えている人が49人中13人もいて、排気ガスによって多くの慢性鉛中毒患者が発生しつつあることが明らかだ、という。(後略)
朝日新聞 昭和45年5月22日夕刊

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7427。牛込柳町の交通渋滞 昭和40年代には、急増する自動車の排気ガスによる大気汚染も問題になった。市谷柳町は、排気ガスによる鉛公害で注目を集め、その後のガソリン無鉛化のきっかけとなった。昭和(戦後) / 昭和45年3月25日

 次のシンポジウムでは、東京医科大学教授の赤塚京治氏は銅の定量分析は極めて難しく、誤差は出やすいと明記します。

 無鉛化ガソリンへの道  シンポジウム
【牛込柳町の調査結果】住民49人のうち、血液100㏄中の鉛の量は最高で138ガンマ。普通の人は(日本での測定値では約20ガンマといわれる)の7倍近くもの蓄積されている。21ガンマ以上の人が41人もいる。
赤塚氏(東京医科大学教授 公衆衛生学) この結果は異常に高いと思う。世界保健機関(WHO)が昭和42年に、16カ国に鉛の蓄積量を問合わせたことがある。その時の結果では16カ国平均は17ガンマだった。トップはフィンランド26ガンマ。日本は20ガンマ。(中略)わが国では、鉛を取扱う人が100㌘の血液の中に鉛が60ガンマ出たら精密検査を受けることに決まっている。これは国によっては70-90ガンマにしているところもある。牛込柳町交差点付近の人々の場合、この範囲を越えている人もいる。鉛を扱っている工場でも警戒が必要なぐらいのきわめて高濃度のものだ。血液や尿中の鉛の定量分析は技術的にもむずかしい。さらに調査を何度もくりかえしてゆく必要があろう――
朝日新聞 昭和45年5月31日朝刊

 また、週刊現代の「牛込柳町の鉛害データに重大疑義あり–公害騒動の火つけ役・文京医療生協と都庁、東京医大のいい分はこんなに違う」(講談社、昭和45年7月2日)で東京医科大学教授(衛生学・公衆衛生学)の赤塚京治氏は

(都水道局の安全基準によって、上水道には1㍑中100㍃グラムまで鉛がはいっていいことになっている。だから、1日2㍑の水を飲めば、それだけで実に200㍃グラムの鉛が体内にはいりこむことになる)(中略)
 人間の大小便による鉛の処理能力は、1日1.31㍉グラム(1310㍃グラム)もあるのです。だから食事と呼吸によって入ってきた鉛は、それほど心配することはないと思います。

 一方、東京都は検査を行います。「日本におけるガソリン無鉛化の経緯と通産省の役割」で都の検査の結果を示します。203人のうち血中鉛量21μg以上は8人(4%)であり、41μg以上はいませんでした。一方、生協の調査では49人のうち42人(86%)が異常で、41μg以上は30人(61%)でした。
文京医療生活協同組合医師団及び東京都による調査結果 (単位 人)

生協調査(単位 人)都調査(単位 人)
血液100㏄中の鉛量(単位μg)13810
81-10070
61-8050
41-60170
21-40128
0-207195

 さらに第2次検診では牛込柳町199人を検査、尿中鉛は1人が要注意ライン60μgで、血中鉛注意ライン30μgがセロでした(読売新聞 昭和45年7月18日朝刊)。また江戸川区、千代田区、足立区、世田谷区の318人は血中、尿中鉛とも労働衛生基準を下回っていました(読売新聞 昭和45年10月13日朝刊)。
 どうも生協医療団の検診はおかしいと思われ始めました。しかし……

 柳町検診への疑問 

鉛の測定は、専門家でさえ正確なデータをつかむのはむずかしいといわれているが、まだまだ稚拙な域を出ていない測定技術で、それも一回ぽっきりの住民検診で、業界の〝バックアップ〞になってはたまらない。「異状なし」の根拠を、労災基準の適用数値に求めていることも、解せないことの一つだ。住宅地は鉛工場ではない。住民が「公害と職業病を同一視している」といきまくのも、当然である。
読売新聞 昭和45年6月28日朝刊

 まあ、これで終わることにしましょう。一方、警視庁はその対策を取り、増設信号機は2015年まで続きました。現在はなくなっています。

 交差点を素通りに

 警視庁、柳町公害で対策 
 左折禁止 日中は大型車締出し 
 東京都新宿区牛込柳町交差点の排気ガス公害の対策を検討していた警視庁交通部は30日、交差点の手前に系統式信号機3つふやして車をさばき、土地が低くなっている交差点では車が止らせないことに決めた。また、左折禁止もあわせて6月10日ごろをめあてに実施する。同庁はこの措置で、交差点付近の排気ガスが減るものと期待している。

牛込柳町交差点の改善施設

 この交差点は東西方向の「大久保通り」と南北方向の「外苑東通り」が交わっており、信号機が現在4つある。ここで車や路線バスがエンジンをかけたままとまり、発進の際にエンジンをふかすのが排気ガスの多い原因のひとつとされている。
 こんどの措置は――
 ➀交差点から東に120㍍離れた大久保通りに西行きの信号機一機を、また西に120㍍離れて同通りに東行きの信号機一機をそれぞれふやし、そこに車の停止線を設ける。この新設信号機と今ある四つの信号機は、特殊な系統式にして、東行きの車と西行きの車は、新設信号機の青信号でスタートすると、交差点をストップすることなしに通過できる。
 ➁これが東西方向の車が通りぬけた瞬間、南行きと北行きの信号機が青色になり、南北方向の外苑東通りの車が流れ出すようにする。
 ➂二つの信号の組合せによって車をさばくと、新設信号機ができる付近は土地は高いので、交差点付近のように排気ガスがたまることはない。
 ➃交差点から二,三〇㍍のところにあるハス停は、渋滞の原因になるので、新設信号機の外側に移す。
 ➄交通部は、これとは別に6月1日から午前8時-午後8時の間、路線バスを除く大型車締出すことにしており、新しい信号や左折禁止とあわせて、効果が注目される。
朝日新聞 昭和45年5月30日夕刊

心の日月|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛氏の「心の日月」は雑誌「キング」の昭和5年1月号から6年12月号まで連載されれた長編小説です。岡山県に住む皆川麗子が主人公で、親が決めた結婚相手がいましたが、彼に対する嫌悪感は強く、家を飛び出し、同じ岡山県の学生磯村晃と東京の飯田橋駅で待合せをします。

 磯村は、牛込市ケ谷に近い寄宿舎にゐた。そこは、キリスト教と関係のある寄宿舎で、監督が可なり厳重だと云ふことをきいてゐた。経営者が岡山県人なので岡山県人も、沢山居ると云ふ話だつた。そんな寄宿舎へ麗子がいきなり訪ねて行くことは、相手にどんな迷惑をかけることか分らなかつた。それに、麗子の顔を見知つてゐる学生でもゐたら、自分の東京にゐることが、自分の家に知れることになるかも知れないと思つた。
 で、麗子は、牛込に着いたら、とにかく電話で容子を訊いて見ようと思つた。
「ね、もし。」
 彼女は、運転手に話しかけた。
「何です。」
「まだ牛込へ来ませんの。」
「いゝえ。もうすぐ牛込ですよ。そこの橋が飯田橋で、を渡れば牛込ですよ。」
「こゝから、市ヶ谷は近いでせうか。」
「えゝ。もう、三四町です。」
「ぢや、わたし一寸茲で、おろして貰ひたいわ。」
「はい。」
 運転手は、すぐ橋の左側のに車をとめた。見るとそこに、その往来を横ぎつて高架線があり、道の直ぐ左側にその高架線の停車場があつた。飯田橋駅とかいてあつた。麗子が、運転手に賃銀を払ふとき、数台、連結した電車が、麗子の頭上を轟々と通りすぎた。
「この電車は、どこへ行きますの。」
「これですか、これは省線ですよ。」
 麗子は、なるほどこれが、新聞でよく知つてゐる省線電車だなと思つた。
 麗子は、車から降りると公衆電話をさがした。公衆電話は橋向うにあつた。麗子はすぐ、電話の所へ行つた。もう、一分の中には磯村の声がきかれるかと思ふと、麗子は胸が、踊り始めた。でも、公衆電話には。五十近い老婆が、はつて居り、麗子は三四分の間いら/\しながら、待つてゐた。
「お待遠さま。」
 老婆は麗子に挨拶して出て行つた。麗子は、急いでその小さい六角の建物の中には入ると、電話帳をくり出した。割合に早く牛込四八〇五番と云ふ番号が出て来た。
 五銭の白銅を入れると、それは麗子の胸を、おどろかしたほどの高いひゞきを出した。
「あなたは、牛込の四千八百五番ですの。ぢや、聖陽学舎でございますの。磯村さんは、いらつしやるでせうか。」
 麗子は、おづ/\しながら訊いた。
「一寸お待ちなさい!」
 麗子は、自分の名前を訊き返されたりするのではないかと、ビク/\してゐたが、そんなことはちつとも、訊かれないので、ホツとした。もう、今度声が聴かれると、それが磯村の声だと思ふと、麗子は全身の血潮が受話器を当てゝゐる左の耳に、奔騰して来る思ひがした。
「もし、もし、僕磯村です。あなたは。」
 それは、たしかに磯村のなつかしい声だつた。
「わたくし、皆川です。」
「皆川?」
 磯村には、麗子が東京へ来てゐるなどとは、夢にも思ひつかぬらしかつた。
「皆川ですの。岡山の。」
「まあ! 麗子さんですか。」
 電話口に於ける磯村の驚きが、ハツキリ感ぜられた。
「えゝ。」
キング 大衆娯楽雑誌で、1925年(大正14)1月、講談社の野間清治氏は「万人向きの百万雑誌」を出そうとして創刊。翌年には150万部になりました。
容子 様子。容子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。
 ここ。ほかに此処、此所、此、是、爰も「ここ」
三四町 1町は約109m。3~4町は327~436mで、約400m
 たもと。そば。きわ。
省線 鉄道省の電車の通称。汽車と省線電車の2つに分かれた。
くり出す 順々に引き出す。事実を探り出す。
白銅 5銭白銅貨幣。大正5(1916)年に制定。昭和9年では1銭はおおむね現在の250円(https://ameblo.jp/kouran3/entry-12069419540.html
血潮 ちしお。体内を潮のように流れる血。激しい情熱や感情。
奔騰 ほんとう。非常な勢いで高くあがること。勢いよくかけのぼること

「東京へいらしつたのですか。」
「えゝ。」
「今どこです。今どこに居るのですか。」
「飯田橋駅の前ですの。」
「飯田橋駅ですか、ぢや、すぐ此方こちらへいらつしやいませんか。」
「でも、私を知つてゐる方がいらつしやるでせう。こちらへ来て下さいませんか。」
「行きます。すぐ行きます。飯田橋駅ですね。」
「さうですの。飯田橋駅の入口のところにゐます。牛込の方から橋を渡つて来るとすぐ駅の入口があるでせう。」
「えゝ分りました。すぐ行きます。今から十分位に行きます。」
「ぢや、どうぞ。」
 麗子は、急に嬉しくなつてしまつた。もう十五分もすれば、磯村に会へると思ふと、胸が躍りつづけるのだつた。
 麗子は、公衆電話を出るとすぐ橋を渡つて、駅の入口のところへ引き返して来た。そして、駅の時計と自分の腕時計が、二三分違つてゐるのをなほしてから、ぢつと自分の腕時計を見ながら待ち始めた。
 磯村とは、手紙でこそ、可なり親しくなつてゐるが。打ちとけて話し合つたことは、殆んどないと云つてもいゝので、麗子はうれしさの中にも、多少の不安があつた。でも、二言三言話せば、すぐ凡てを打ちあけられる人に違ひないと思つてゐた。十分は、すぐ経つた。麗子は橋の袂まで行つて、牛込から渡つて来る人を、一人一人磯村でないかと、目をみはつてゐた。そのうちに、また五分過ぎた。十分位と、おつしやつても支度に五分位は、かゝるに違ひないと思つてゐた。そのうちに、また五分経つた。
 でも、十分とおつしやつたのは、私に勇気づけて下さるための好意で、ほんたうは三十分位かゝるかも知れない。麗子は、さう思つて、心の中に芽ぐんで来る不安の感じを、ぢつと抑へつけてゐた。だが、その中に到頭三十分になつた。麗子は、堪らなくなつて、駅の売店の十四五の女の子に訊いた。
こゝから、市ケ谷へ行くのは何分かゝるでせうかしら。」
「市ケ谷なら、十分もあれば行けますよ。」
「そんなに近いのですか。」
「電車で、二停留場ですもの、歩いたつて、十分とはかゝりませんわ。」
 麗子は、それをきくとだん/\不安になつて来た。なぜ/\来て下さらないのでせう。自分が、上京したことを、迷惑にお考へになつて、来て下さらないのかしら、麗子は磯村に対する不安と疑間とが、心の中に芽ぐんで行くのをどうすることも出来なかつた。その内に、時間が、泥濘の中を、きしり行く車輪のやうに、重くるしくうごいて、また十分たつた。初から、云へば四十分経つた。麗子は、気持が真暗になり、目をとぢると、涙が浮びさうにさへなつた。一分一分、いらくした不安のために、胸がズタ/\に刻まれて行くやうだつた。また、その内に五分経ち、十分経つた、麗子は、もうぢつとして待つわけには行かなかつた。彼女は、また橋を渡つて、以前の公衆電話をかけて見る気になつた。牛込の四八〇五番は、すぐ出た。
「もし、もし、あの磯村さんは、いらつしやいませんでせうか。」
「磯村さんは、先刻さつきお出かけになりましたよ。」
「まあ! 何時間位、前でせうか。」
「さうですね。もう、一時間前ですよ。」
 麗子は、何だか打ち倒されたやうな気がした。茲へ来てくれないで、阿処へ行つたのだらう。麗子は、駅の入口まで引き返して来ると、改めて入口の上の白壁に、黒字で書いてある飯田橋駅と云ふ字を見直した。決して、自分は云ひ間違ひをしてゐない、それに磯村さんは、どこへ行かれたのだらう。あの方も、結局遊戯的な紙上恋愛で、いざそれが実際問題になると、かうも薄情に自分から逃げて行かれるのだらうか。麗子の感情は、水をかけられたやうになつてしまつた。彼女の美しい眼は血走り、色は青ざめ、飯田橋の橋の欄干に身をよせたまゝ、そこに取りつけられた塑像のやうに立つてゐた。
 重くるしい鉛のやうな時間は、それでもハツキリと経つて、一時問、一時間二十分、一時間三十分、いくら待つても、磯村の姿は見えなかつた。
二停留場 省線電車では隣の駅で、路面電車では「逢坂下」と「新見附」の次の駅でした。
泥濘 でいねい。泥が深いこと。土がぬかるんでいること。
きしる 軋る。堅い物が強くすれ合って音を立てる。きしむ。
重くるしい 重苦しい。おもくるしい。押さえつけられるようで、息苦しい。気分が晴れ晴れしない。
欄干 らんかん。てすり。人が落ちるのを防ぎ装飾とするもの

 待てども来らず

 磯村は、麗子の電話をきくと、先づ驚駭きょうがいした。しかし、麗子がそれほど思ひ切つた態度に出てくれたと思ふと、急に自分も勇気が湧いて来た。(麗子さんが、そんな大決心をしてくれる以上、俺もどんなことでもやるぞ)彼はさう、心に誓ふと電話室を飛び出して、自分の部屋へ帰つた。そして、袴をはいて帽子を被ると、寄宿舎の門を出て、砂土原町を牛込のお濠端へと馳け下つた。
 彼は、牛込見附の橋を渡つて、飯田橋駅の前へ出た。お濠端を通つてゐるとき、麗子の姿が、駅の入口の中央の鏡を入れた壁の前辺りに見えないかと注意したが見えなかつた。牛込見附の土橋の上を登り切つて、駅の前に立つたが、麗子の姿は見えなかつた。磯村は、省線に乗つたことは、一二度しかなく、この頃省線の駅が改築され、飯田橋駅は、牛込見附と飯田橋との両方に入口があることを知らなかつた。まして、麗子が牛込見附ではない、飯田橋の方の入口に自分を待つて居ようとは夢にも思ひ及ばなかつた。
(あ、麗子さんは、その辺りで何か買物でもしてゐるんたな)
 さう思つて、麗子がひょつくり現はれるのを待つてゐた。
驚駭 恐れ驚くこと。
寄宿舎 この寄宿舎は「門を出て、砂土原町の坂」を下るとお濠に出る場所だといいます。これは埼玉学生誘掖ゆうえき会でしょう。これは1902(明治35)年、渋沢栄一氏らが発起人になって創立。埼玉県出身の学生を支援し、砂土原町3丁目21の寄宿舎の運営と奨学金の貸与を行いました。誘掖は「導いて助けること」。しかし、寄宿舎は減少する入寮者と老朽化で2001年3月末をもって取り壊し、跡地はマンションに。
碑文 埼玉学生誘掖会

埼玉学生誘掖会

明治35年3月15日埼玉県の朝野の有志(渋沢栄一(青淵爺)、本多静六、諸井恒平氏等が中心となって)が埼玉学生誘掖会(明治44年財団法人の認可)を創設 都内で修学する学生のために明治37年寄宿舎を建設し昭和12年には鉄筋2階建てに改築し平成13まで存続した その後跡地は売却され財団法人埼玉学生誘掖会の奨学金事業の基金となる

砂土原町 市谷砂土原町一丁目から市谷砂土原町三丁目。本多佐渡守正信の別邸があって「佐渡原」と呼び、富裕層が多く住み、高級住宅街です。
 おそらく逢坂でしょう。
土橋 つちはし。どばし。木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋
両方に入口 昭和3年11月15日、牛込見附と飯田橋との両方に入口がある飯田橋駅が開業。同時に牛込駅は廃止。

夜の神楽坂

文学と神楽坂


 佐々木指月しげつ氏が書いた「亜米利加夜話」(日本評論社、大正10年)です。氏は臨済宗の僧で、禅に傾倒し、明治39年、禅伝道のため13名と一緒にカリフォルニア州に渡米。しかし布教は失敗し、彼はシアトルで日本の出版社のため様々な記事や随筆を書き始めました。大正9年で一時帰国し、この文章もこの時期です。昭和3年に再度渡米し、今度は成功し、ニューヨークで米国仏教協会を立ち上げました。太平洋戦争のときに、日章旗への発砲を拒否して逮捕、高血圧と脳卒中で苦しみ、しかし嘆願運動で収容所から昭和18年、解放し、昭和20年、死亡。生年は明治15年3月10日、没年は昭和20年5月17日。享年は63歳。

 子供と二人で、夜の神楽坂の露店をひやかす。
 私たち二人の足どりは、前の方ヘーと足、横の方へ二た足三足と云つたやうなありさまで、袖から袖へとよぎり、袂から袂へとぐぐりぬける。
 夏の夜の神楽坂は、一概に云へば、白地の浴衣のぞめきあるく町とも云へる。
 へこ帯を、猫じゃらしに結んだ男たちの、お尻をかすめて、ゴム輪の人力車が、くたくたと、とほつてゆく。
 自動車が、時たま、ブツ、ブウツと、忘れたやうな音をたてながら、それ、昔のあの下にゐろ下にゐろを、また大正の世にもち出して、土下座の露店の町人に、軽油の白い侮辱をあたへてゆく。
よぎる 避ける。よける。
ぞめく 浮かれさわぐ。遊郭や夜店などをひやかしながら歩く。ひやかし客。
へこ帯 帯の一種。胴を二回りし、後ろで両輪奈わなに結んで締める。輪奈とはひもなどを輪状にしたもの。
猫じゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。

猫じゃらし 男帯の結び方

下にゐろ下にゐろ 「下によ」で、江戸時代、大名行列の先払い(前方の通行人を追い払う人)が、庶民に土下座をするように促した掛け声。「下に下に」
 けむり。煙。物が焼ける時に出る気体
侮辱 相手を軽んじ、はずかしめる。見下して、名誉などを傷つける。

 なかを見ると、洋服の紳士が肘枕で、ごろりと寝てゐる。
 自動車が通るごとに、神楽坂は大変だ。立ちのぼるカンテラの上に、団扇かざした人波が、盆をどりのやうになだれかかると、そこで買つてたナヂモヴアの写真カアドの上へ、どろだらけな下駄のあとがつく。
 ごそごそと小砂利を踏んであるく多勢の下駄のおとは、小声で話す日本語の調子に似てゐる。そちらでも、こちらでも、下駄同志が木製の長方形の低音を交へてゐる。
 藳店亭は、西洋のお寺のやうな家と変つて、その隣りのしるこやは、また、いやに江戸風にまき水などをして、さうでなくともぬかるみで、靴がよごれてかなはないのに、どこからか雨だれのやうな、ピヤノのおとがしてくる。
カンテラ Kandelaar(オランダ語)。手提げ用の石油ランプ。
 すす。物が燃える際に、煙とともに出る黒い炭素の微粒子。
ナヂモヴア アラ・ナジモヴァ(Alla Nazimova)サイレント期最大の女優。ロシア出身。1906年、ブロードウェイに出演し、そ1916年、映画デビュー。生年は1879年6月3日、没年は1945年7月13日。享年は66歳。
藳店亭 わらだなてい。藳店は別名地蔵坂で、神楽坂5丁目もある坂。そこにあった料理屋なのでしょう。しかし、当時の店舗がわかる地図はありません。

 さうかと思うと、その辺のくらがりから、そばやの出前小僧が、出前を左りにさしあげて不思議な自転車の曲のりをやりながら出てくる。
 活動の看板を見るために、横町へ曲つてゐた私たち二人は、また通りへとやつて来た。
 毘沙門さまは、ほこりまみれになつて、老ぼけて塀のなかで寝てゐる。
 坂のおり口に、昔ならば西洋小間物屋、今では、洋品店と銘うつた見世があつて、飾窓のなかになにか飾つてある。
 パナマのハツトに、ピンクのポジヤマが見えた。一つは炎天に紳士がかぷるもの、一つは紅闇で淑女が着る寝巻だ。
 昼と夜、男性と女性との象徴を、窓ヘー緒に飾つたところは、流石に日本の洋品店だけあつて、頗る詩的だと思つた。
活動 活動写真。映画の旧称。昭和6年、活動写真を行う映画館は藳店にあった牛込館でした(アイランズ「東京の戦前昔恋しい散歩地図」(草思社、2004)。
ポジャマ pajamas。パジャマ

 白い絹のユニオンの女の肌着もぶらさがつてゐた。さうして空からは、十五夜ぢかくの月がさしてゐた。どこからか下水の饐ゑた臭ひもしてきた。
 まるぽちやの極彩色の女が、何がうれしいか知らないが、にこにこ顔で、人の肩をよけながら、よれるやうに、くづれるやうに、ちぎれるやうに歩いてくる。
 女の裾は花文字のエル字形に前へつき出してゐる。衿は花文字のテイ字形に後ヘつき出してゐる。ビイ字形の髷をあたまへのせて、但し帯はインテロゲイシヨンポイントであるらしい。
 私の子供もそれに目をつけてゐたが、パパア、あれは芸者だよと、教へてくれた。
千九百二十年八月

ユニオン アメリカのユニオンメイド。アメリカの労働組合である「ユニオン」の組合員が作った製品。品質保証の意味があった。
饐ゑた すえた。飲食物が腐って酸っぱくなる。
interrogation point ?。クエスチョンマーク(question mark)とも。

飯田橋ラムラの「せせらぎ」

文学と神楽坂

地元の方からです

 叙情的なフォークソング『神田川』(昭和48年リリース)が流行していた頃、流域の住人のひとりとして、よくも悪臭漂うドブ川をこんな歌詞に仕立てたものだと作詞家の創造力に感心しました。
 子供時代、神田川の橋にさしかかると手前で深呼吸をひとつして、息を止めて渡ったものです。飯田橋から上流の隆慶橋や石切橋、下流の小石川橋や俎橋(日本橋川)など、どこも悪臭は同じでした。水面が近い橋ほど臭く、橋が高い位置にあって頭上を高速道路が覆わない牛込橋や新見附橋は、むしろ臭くない橋であったと思います。ドブ川に対する地域住民の最大の関心は、大雨で神田川が増水してあふれてしまうことでした。
 要するに、当時の都市河川は「迷惑で、消し去りたい存在」でした。再開発計画で飯田濠の埋め立てが始まった時にも注目されず、一部地権者の反対で再開発が長期に停滞したことで逆に変な関心を集めたように思います。

飯田濠遠景(1977 気まぐれ本格派 9話)この状態で数年間放置された

 再開発に反対した大郷材木店は、かなり前から津久戸町の移転予定地(後の「材木横丁」)を確保していたそうです。その点でも、よく分からない反対運動でした。

ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)29頁 ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

 

「自然景観を守れ」という反対派の声に押される形で、東京都は1984年(昭和59年)に完成した再開発ビルの前に「せせらぎ」を設けてラムラの目玉にしました。飯田濠の暗渠の上に清流を模した浅い流れを再現したものです。牛込橋側の小さな滝から水道水を流し、飯田橋側で排水する仕組みでした。小さな中の島や、外堀通りの歩道から流れに下りられる階段も設けました。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年) 「地区の概況」1頁

ラムラの「せせらぎ」。Google

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)38頁。現在「滝」は流れていません。

 しかし、この「せせらぎ」に実際に水が流れていたのは、わずかな期間(最初の数年間?)だったように思います。それまでの飯田濠はゴミを運ぶ「はしけ」のたまり場で、川に親しむような場所が求められていたわけではありませんでした。また人工の「せせらぎ」は水道水を多量に使うため、ラムラの店舗や周辺住人の理解を得にくかったようにも思います。
 現在では、せせらぎは石貼の川底がずっと見えている状態です。中の島や歩道につながる階段は今もあります。しかし成長した街路樹の中に埋もれてしまっているように見えます。
 神田川の水質はその後、劇的に改善しました。下水処理場の能力が上がり、きれいな「高度処理水」を多量に川に流すことで淀みをなくしたためと言われます。悪臭も感じられなくなり、実際に神田川に下りられる「親水テラス」が別の場所に作られました。
 飯田濠の再開発反対運動が、都市河川浄化のきっかけになったようには思えません。しかしラムラのせせらぎのコンセプトは、親水テラスの先駆的なものであったとは言えそうです。

横寺町|アルバム 東京文學散歩

文学と神楽坂

野田宇太郎 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)の「横寺町」です。氏は昭和時代の詩人で文芸評論家。第一早稲田高等学院英文科中退。詩作を開始。新聞記者を経て、昭和15年、小山書店に入社。第一書房に続き、河出書房では「文芸」の編集に。昭和26年、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載し、ベストセラーに。

 今から二十年にも近い昔のことであるが、九州から文学を志して上京したほんの青年になつたばかりの私は牛込の横寺町に下宿暮しをしてゐたことがあつた。その頃の横寺町は賑やかな神楽坂から肴町通寺町にそのまま続いて、まだ賑ひの絶えないやうな一筋の町であつた。
 その頃の記憶として今もありありと眼に浮ぶのは先づ町の途中の官許にごりの大看板もなつかしい縄暖簾飯塚酒場である。と云つても私は全くの下戸で、少しでも酒を飲むとすぐに心悸が乱れるやつかいな病気があつて定連と云ふわけではなかつたが、一杯十銭? の安酒と五銭の湯豆腐か何かにあこがれてそこに通ふ友人に誘はれては恐る恐る中にはいつたものである。冬でも浴衣の極貧書生や絵描きの玉子と云つた哀しい連中も、そこでは王者のやうな怪気焔をあげ、どぶろくの臭ひや煮物の湯気の立ちこめる酒場の中は妙に私の感傷をそそつたのである。今にして思ふと、あの酒のみの和製ベルレエヌのやうな熱血薄倖の詩人児玉花外翁などもその中の王者然と鎮座してゐたのであらう。
 その隣りの奥まつた所に、幽霊アパートの異名をもつた小林と云ふ、名ばかりの見るからに不潔で今にも毀れさうに軒を傾けたかなり大きなアパートがあつたが、或日それがかつての島村抱月松井須磨子芸術惧楽部のなれのはてで、ここで抱月が大正七年十一月に急性肺炎で死に二ヶ月日の命日に須磨子が抱月の後を追つて自殺した因縁深い家だと知り、一二度そこをのぞきに行つたりした。極貧画家がそこにゐて須磨子の幽霊を天井か何処かに落書さしてゐると云ふことだつた。
肴町 現在の神楽坂5丁目
通寺町 現在の神楽坂6丁目
官許 政府から民間の団体や個人に与える許可
にごり 白く濁っている酒。どぶろくと同じことが多い。「官許にごり」を看板にして稼ぎまくったどぶろく酒場が多いという。
縄暖簾 なわのれん。多くの縄を結びたらしてつくったのれん。店先にのれんがかかっているから、居酒屋、めしなど
定連 興行場、酒場などでいつも来るなじみの客。常客。
玉子 修業中の人
ベルレエヌ ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)。1844〜96。フランス象徴主義の代表的詩人。天才少年詩人ランボーを熱愛し、2人でイギリス・ベルギーを放浪するが口論となり発砲し、外傷を負わせる。酒・女が好きで、堕落放浪の日々を送ったが、すぐれた叙情詩を残した。

(2)現在の飯塚酒店前付近

(2)は昭和28年頃、朝日坂の途中から神楽坂通りの方を見下ろしたもの。坂は舗装されていません。見えている店先の看板は「マルキン」の上にで、これは「マルキン醤油」。さらに塩、酒焼酎、飯塚本店で、2棟とも同じ酒店と思われます。その先の角の「野口商会」の看板は、道を入った奥の不動産の会社(最下図)。

(3)芸術倶楽部の跡

(3)は「芸術倶楽部館|神楽坂」と最下図を参照。

 又、横寺町には何よりも尾崎紅葉が永年住みついて明治三十六年十月三十日に死ぬまでゐたと云ふ家も下宿の近くにあると聞いてゐたが、そこには遂にゆく機会もなく私は横寺町から飯田町へと下宿を移らねばならなかつた。
 戦後になつて私が横寺町に行つたのは先づ四十七番地の紅葉の所謂「十千とちまん」跡を調べることからであつたが、すつかり酷く戦火の犠牲となつた横寺町に、なつかしい想ひ出を豊かに抱いてゐた私にとつて全く悪夢のやうな場所であつた。やうやく紅葉に家を貸してゐたと云ふ家主の小さな家を見つけ出したが、そこが十千万堂の跡でもあつた。鏡花秋声風葉春葉などの紅葉門下の四天王と謳はれた作家たちの勉学のあとなど偲ぶよすがとてなく、ただ私の自由な幻想だけが、荒れはてた焼土の上をかけめぐつた。そして芸術倶楽部の跡に立つと、再び私は呆然とたたずむより外はなかつた。ただ赤く焼けた瓦礫だけがその場所と覚しい所に散乱して、僅かに昔の敷地の周囲をおぱろげにみせてゐるだけであつた。「カチューシヤの唄」の哀調が故もなく私の心の奥からシャボン玉のやうに浮びあがつて、ぽつんと消えた。
 飯塚酒場は然し何処かに昔の形をとどめて、ただわびしげなバラック風の洒店として昔の場所に建つてゐた。もう私の夢は現実の陽照りにからからに乾いて、何もそこに思ひ描くことさへ出来なかつた。
飯田町 旧東京府麹町区飯田町。九段や飯田橋など。
十千万堂 「十千万堂」は尾崎紅葉の雅号、また東京府牛込横寺町(新宿区横寺町)の紅葉の住居
カチューシヤの唄 トルストイの小説『復活』主人公の女性の名前。芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌。主演女優の松井須磨子が歌唱し、作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。「カチューシャかわいや わかれのつらさ」で始まる。


(1)十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町。その崖下に紅葉の文学塾があった

(1)は、昭和28年頃で、十千万堂は戦災で焼失し、その後に木造平屋が立ち始めています。下の図は最近の同じ場所。十千万堂跡は庭木が茂っていて、中が見えません。

 それても私は必要があつて其後幾度も横寺町を訪れた。その町の名の出所と思はれる寺院もすべて焼けはてて、古い墓石だけが通りからあらはに見えたが、私の下宿の場所はつひに思ひ出せなかつた。さうした焼土の中にも次々に新しい家が建ちはじめ、十千万堂あとは地元の新宿区の史跡となつて片づけられ、芸術倶楽部の跡には、新しい住宅がどしどし出来てしまつた。然し飯塚はにごりの官許がとれないとかで、さみしげに酒店を開いてゐるばかりであつた。
 そこから歩いても大して遠くない牛込弁天町多聞院にある須磨子の墓へも、横寺町に行つたついでに私は詣でた。さみしい焼け寺の墓地のさみしい墓だつた。その前の抱月須磨子の慰霊のための芸術比翼塚も、何だかわびしいばかりで、そぞろに恋の哀れが感じられた。
多聞院 真言宗豊山派に属する照臨山吉祥寺多聞院。
比翼塚 ひよくづか。愛し合って死んだ男女、心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚。
そぞろに これといった理由・目的はないが。わけもなく。なんとなく。

(4)松井須磨子の墓(多聞院)(5)多聞院内の芸術比翼塚

1960年 住宅地図

悪臭漂う飯田濠を再開発(昭和45-56年)

文学と神楽坂

 昭和45年、朝日新聞に飯田堀は臭いし汚い、との記事が出ました。

 ゆううつな季節
 お堀はゴミ捨て場 

 中央線飯田橋駅。近くの住民は憂うつな思いで夏を迎えようとしている。ホームのすぐ前に広がる通称「飯田堀」の臭気のためだ。この堀は神田川水系の1つで江戸川橋からお茶の水方面に流れる神田川の遊水池的な役割を持っている。しかし流れがごくゆるやかで水も少なく実情はゴミ捨場兼汚水だめと化している。
 住民は口々に憤まんをぶつける。「東京の真中の駅が、いまや一番汚ない駅になっているんです」「飯田橋を渡ってごらんなさい。妊婦なら絶対に吐きますよ」「ナマの汚物が流れ込み、たまっているんですよ」「住民もよくがまんしたけれど、役所もよく放っておいたもんだ」。駅でも弱っている。窓をあけたら食事ものどを通らない。
 堀は公有水面だから国のものだが、管理は都の責任である。とうとう地元、牛込地区連合町会(升本喜兵衛会長)が一万三千人の署名を集めて浄化清掃を都知事などに訴えることになった。新小川町青年部も決議した。「今や世界の東京として誇りを持ち近代化された東京都は誠に結構なことである」という皮肉たっぷりな書出しで始っている。
朝日新聞。昭和45年5月26日

 そこで飯田濠を再開発する計画が出てきます。渡辺功一氏の神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では…

昭和45年(1970)6月に、あらためて都議会へ(飯田濠再開発への)請願が出された。このころの飯田濠は、汚水がたれ流されてドブ川と化し、汚濁と悪臭の発生源となっていた。

 平松南氏の「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」では……

 神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
 ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。

 さて渡辺功一氏の同書によれば…

 飯田濠再開発計画の実態は、千代田区飯田橋、新宿区揚場町、神楽河岸にまたがる飯田橋地区市街地再開発である。都市計画決定は昭和47年7月。計画区域は、飯田濠を埋め立て約千平方㍍を含む2万3千平方メートル。都が地上20階の事務棟と16階の住居棟の高層ツインビルを建設するほか、緑地帯や道路を造成するというものである。

 昭和48年3月31日 飯田濠の埋め立て工事を完了し、さて、再開発を始めましたが、あらゆることがうまくいきません。最初に昭和53年6月、鯉の大量死がありました。

 17日朝、都が再開発事業を進めている国電飯田橋駅わきの飯田濠(ぼり)から神田川にかけて、約1万匹のコイが浮き上がる騒ぎがあったが、付近の住民で作っている「飯田濠を考える会」の千代田区側のメンバーは「これは行政による人災。逃げ遅れたコイに気の毒」と怒っている。一方、新宿区側のある商店主は「コイはこの日照りで酸欠死したのであって、工事とは関係ない」と語るなど、住民たちはコイの大量死にも複雑な反応を示していた。(中略)
 都公害局では、水質検査などを行って原因を調べているが、毒物などは検出されず、飯田濠に入り込んだコイが、潮が引いた際に濠の水位が下がって取り残されて、酸欠状態に陥ったものとみている。
読売新聞 昭和53年6月18日朝刊

東京都建設局再開発部「飯田橋夢あたらし」平成8年。

 大郷材木店は神楽河岸再開発による立ち退きを拒否し、それに対して都が強制代執行するという話まで出ました。

 予定地内の材木店の強い反対で工事が大幅に遅れているが、都は27日までに、この材木店に対し、都市再開発法に基づく異例の強制代執行を発動する方針を固めた。
読売新聞 昭和56年5月28日朝刊

強制代執行 強制執行しっこうとは公法や私法上の義務を国家権力によって強制的に実現する行為。代執行とは、行政庁が義務者に代わってその行為をし、あるいは第三者に行わせ、そのため要した費用を義務者から徴収する行為。

地権者の一人が反対  飯田濠再開発 大喜びの「守る会」
 都の高層ビル建設計画に反対して、「埋め立てられたお濠(ほり)を復元して」と訴えている「飯田濠を守る会」に強力が援軍が現れた。新宿区神楽河岸、材木業大郷実さん(45)で、都の再開発事業にかかる民間地権者3人のうち1人。この大郷さんが事業反対の立場を最終的に表明したからだ。(中略)
(大郷さんの)自宅の裏庭からは、すぐに埋め立てられた飯田濠。わずかに水路が残っているが、そこには都心ではめずらしいわき水があり、水鳥が飛んでくる。「再開発が進められて高層ビルが減っては、こうした光景も……」。守る会の「お濠復活。公園建設」の主張にもつながっていく。守る会側では、大郷さんの姿勢に「百万の援軍だ」と大喜びである。
朝日新聞 昭和53年10月25日朝刊

 しかし、10年に及ぶ抗争はあっという間に終わっていきます。渡辺功一氏の同書では……

 昭和56年(1981)10月20日に、東京都は立ち退きを拒否している新宿区神楽河岸の大郷義道、実親子に対して、10月29日から11月10日にかけて強制代執行をおこなうとの代執行命令書を郵送した。彼らは、話し合いを何十回と重ねてきたか、進展は見られない。これ以上工事を運らせれば事業費がかさみ、公共の福祉に反し、請負業者との契約解除に追い込まれる、と説明する。
 これを受けて大郷側は27日午後、この代執行命令書処分の収り消しと執行停止をもとめる訴訟を東京地裁民事三部に起こした。提訴に対し、泉裁判長は同日午後四時すぎ、大郷実と都側の井手建設局再開発部長ら双方の当事者を同地裁に呼んで事情聴収をおこなった。
 この結果、午後5時すぎ「再開発事業にともなうこのような強制代執行は前例がない」などの判断から、双方の話し合いをもとめ職権によって和解を勧告した。

 朝日新聞(S56/10/30)も読売新聞(S56/5/29)も決着まで詳しく書いています。

せせらぎ12㍍幅に
大郷さん「問題提起果たした」

 都市における「水辺の景観」をめぐって熱い論争の続いていた江戸城の外堀、飯田堀を埋め立てる再開発事業問題が29日、一応の決着をみた。これまでかたくなに都市計画決定は変えられないといい続けてきた都が、わずか8分の1とはいえ堀を残すことに同意。ただ一軒、立ち退きを拒否していた材木商、大郷義道・実さん親子も内容が不満だとして「和解拒否」の形はとりながらも、自主的に立ち退くことを決めた。都の強制代執行の期日が迫る中、最も心配されていた力と力の衝突は完全に回避された。(後略)
朝日新聞 昭和56年5月30日朝刊
 全国初の強制代執行が直前で回避された飯田橋地区市街地再開発事業について、都は28日、代執行の対象だった大郷材木店(大郷義道社長)の支援グループ、飯田濠(ぼり)再開発対策会(川端淳郎代表)と話し合いを行い、飯田濠の一部を開きょとして残す案を提示した。(中略)
 開きょ案は(中略)飯田濠を約50㍍、そのまま残し、一部残っている玉石護岸も生かそうというもの。さらに、この開きょ部分からは、同ビルの前庭地区の下を暗きょで通すが、暗きょの真上に人工せせらぎを作る二重河川方法にする案を示した。大郷さん側が和解の条件とした「堀の水辺の景観を残す」意向を受けたもので、同会議と大郷さん側も、ほぼ同案を受け入れる見通しだ。
読売新聞 昭和56年5月29日朝刊

開きょ 開渠。上部をあけはなしたままで、おおいのない水路。
玉石 たまいし。川や海に産する丸い石。
護岸 ごがん。 海岸、河岸かし、堤防の水流に沿った所を保護して洪水や高潮などの水害を防ぐこと。そのための施設。
暗きょ 暗渠。地下に埋設し、地表にあってもふたをした導水路。

 昭和59年2月、事前の「大規模小売店法(第3条)に基づく事前商業活動調整協議会(商調協)」は結審し、4月、住宅と事務所に入居、9月、セントラルプラザ「ラムラ」は開店。昭和61年3月、事業はすべて完了しました。
 しかし、これだけで終わったわけではありませんでした。平松南氏の同書では……

 そんな日々の中、その中核の拠点である大郷材木店が、強制代執行をさけて市谷に移転を決めてしまった。支援の人たちには寝耳に水の出来事だった。
 いま大郷さんは、神楽坂近くの大久保通りに木材店をもち、市谷駅前には大郷ビルという駅前ビルをたてているが、この移転交渉のいきさつは伝わっていない。
 ただ大郷さんを支援してきた市民運動のグループや労組の外人部隊のひとたちにとっては、自分たちの拳のやり場が消失してしまったわけである。
 藤原さん(当時の東京都環境保全局員)にきくと「地元より外人部隊が多かったから、大郷さんも仕方なかったのかもしれないなあ」と、20年たったいまは淡々とかたった。

 しかし、全くわからなかったという人もいます。坂本二朗氏(「神楽坂まちづくりの会」会長)の「まちづくり うたかたの、語り部」は…

 たった四人の反対の声は、運動と呼べるほどのものではなかったが、濠の場所に土地を持つ地権者が反対側に加わったことで、反対運動は俄然現実味を帯びてきた。近隣住民や労組、学生などさまざまな外部団体が反対派に加わってきて、反対派の勢力は大きな力を得ていた。やがて運動は激しさを増し、強制代執行による機動隊との衝突も想定される事態となっていた。加藤登紀子さんや美濃部亮吉さんも応援に駆けつけていた。代執行の前夜、飯田濠の現場は、ドラム缶に火がたかれ、仮設舞台も用意され、ものものしい雰囲気に包まれていた。たった四人ではじめた小さな反対の声は、大きな時代の渦に呑み込まれつつあった。
 ところがまずいことに、私はこの事態になじめなくなり、さらに具合の悪いことに、当日昼間に自分の結婚式を控えていた。(中略)
 そして一週間の北海道旅行(=新婚旅行)から帰ってきたら、反対運動はすべて終わっていた。もちろん、機動隊との衝突は回避された。私はいまだにその後に何が起こったのか知らない。仲間にも聞きそびれてしまった。

芸術倶楽部跡(写真)1980年頃 ID 208

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208は昭和55年(1980年)頃、芸術倶楽部跡を中心に撮ったカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208 芸術倶楽部跡 1980年頃

 この写真は下図のように撮ったものでしょう。

住宅地図。1980年

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の05-05-34-2 「芸術倶楽部跡近景 1975-08-28」は「酒屋の後ろ側から撮影したもの」で、ID 208とよく似ています。

05-05-34-2 芸術倶楽部跡近景 1975-08-28

 では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
 住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
  ❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
  ❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
  ❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
  ❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
  ❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
  ❍平成3年、新宿区指定史跡
  ❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
 高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。
 8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
 ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
 つまり、芸術倶楽部は9、10番地の2筆を株式会社東銀行から買って、土地登録は(9、10番地を合わせて)9番地という1筆だけで、8番地と11番地は無関係だったと思います。
 次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。

芸術倶楽部の方角。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)

 昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が下図になりました。橙色は芸術倶楽部の想像図(約180坪)。


筑土八幡神社|境内 ⑤

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある神社ですが、「宮比神社」「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」などがあります。これ以外にもいくつかの施設・建物があります。これらをまとめたのもです。

手水 神社・仏閣で、参詣者が手や顔を洗い口をすすぐ風習があり、この習慣や水のことを手水(ちょうず、てみず)と呼びます。語源では「てみづ→てうづ→ちょうず」と変化したものですが、「てみず」と読む神社もあります。
手水舎 ちょうずや。手水舎は、手や顔を洗い口をすすぐ建物のこと、
手水鉢 手や口を洗いきよめる水が入った鉢のこと。
御供 ごくう。神仏に供える物。
御供水 ごくうすい。神仏に供える水。ほかに御供ごくうりょうとは御供とする物や金銭。御供ごくうしょとは供物を調える所。御供でんとは御供料を収穫する田地。

手水舎と御供水

手前は手水と手水鉢、奥は御供水

百度石 ひゃくどいし。百度参詣して、心願が成就するよう願ったもの。百度詣では寺社の入口から本堂までの間を往復するか、百度石があればそこから本堂までを往復する。
御神木(銀杏) 神社の境内や神域にあって、神聖視される樹木。一般的には松,杉,ヒノキなど常緑樹が多いが、神社によって特定の神木がある。

御神木と百度石と庚申塔

神輿 みこし。しんよ。神霊の乗り物として担ぐもの。御輿。
神輿庫 しんよこ。神輿を格納する場所。
積み樽「白鷹」 祝いのしるしとして酒樽を積み上げて飾ること。また、その酒樽。

神輿庫と積み樽

積み樽「白鷹」

神楽のさくら この桜は「しだれ桜」です。「神楽のさくら」という熟語はなく、「神楽」と「さくら」のひとつひとつの語しかありません。「神楽」には原則的に「神をまつる舞楽」で、「神楽の桜」とは「神の舞楽が流れる時の桜」です。
 明治時代に社殿の右に桜があったと書かれています。今もあるソメイヨシノの古木と思われます。これとは別に平成22年にしだれ桜を植えました。当初は玉垣の内側で、現在は手水舎の右に移されています。

   日時:平成22年4月1日(木)  17:00~20:00
   場所:筑土八幡神社
   神楽の花(さくら)の植樹と石碑の除幕式をおこないました。ちょうど満開の宣言の日に申りました。行事のあとにさくらを前に花見例会と洒落込みました。

 境内一帯はかつて「筑土城」だったという伝承があります。しかし城の遺構らしきものはありません。

神楽のさくら

神楽のさくら

紀の善の閉店(令和4年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 すでに他の記事にもあるように、神楽坂下の紀の善が閉店しました。顧客にも商店会にも予告しない突然の発表でした。
 コロナ禍でも売店の行列が途切れたことはなく、店もずっと繁盛していたように見受けられます。シャッターを下ろした時は「設備改修で10月末まで休業」と貼り紙してありました。普通の改修で1カ月も休むことはないので不思議に思われていました。
 貼り紙が「閉店」に切り替わったのは10月17日頃です。公式ウェブサイトの発表の方が少し早かったようです。もし予告していたら閉店間際に押しかけた客で混乱が起きていたでしょうから、賢明だったとも言えます。

紀の善閉店告知-

 閉店の理由は当事者しか知りません。ただ地元では2つのことが言われています。

1)高齢の店主に後継者がいなかったこと。

2)紀の善の土地が借地であったこと。東京では借地契約の更新時に「更新料」を求められます。紀の善が旧店舗をビルに立て替えたのは30年ほど前です。推測にすぎませんが、最近の土地価格高騰で更新料が予想を上回った恐れがあります。土地を持たない老舗は、どうしても世の中の変化に弱いのです。

 紀の善の脇の路地である神楽小路には再開発の動きがあります。2020年に解散した「神楽小路親交会」は理由のひとつに「私たちの地域における地上げの影響」をあげていました。これも何か関係しているかも知れません。
 多くの人に長く愛された紀の善は、まぎれもなく神楽坂の顔でした。

TV「気まぐれ本格派」(1977)第4話 建て替え前の紀の善店内

建て替え後の紀の善店内 1階

ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場

文学と神楽坂

黒川鍾信

 2003年3月、黒川鍾信あつのぶ氏が書いた「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」(pdf)です。副題は「神楽坂ホン書き旅館『和可菜』の50年」。2002年、NHK出版で上梓した「神楽坂ホン書き旅館」の評判がよく、そこで明治大学はこの講演会を依頼しました。著者は明治学院大学大学院を卒業し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学。明治大学情報コミュニケーション学部教授。2009年定年退職。ちなみに『神楽坂ホン書き旅館』は第51回日本エッセイスト・クラブ賞をとっています。生年は昭和13年9月2日。

神楽坂の、今回モデルになった「和可菜」のすぐそばに「川田」という旅館があった。年配の方は知っていると思いますが、かつて川田晴久という歌手・俳優がいました。若い人のために説明しますと、美空ひばりを一流の歌手にした人です。その親戚がやっていた「川田」です。そういう旅館があって、ほとんどが昭和20年代に開業しました。
 先ほど言いました私の叔母が、あるとき神楽坂に旅館の売り物があるから買わないかと誘われました。女優をやっていますからお金はたっぷりある。じゃ、買っておこうと、買いにいったら、売り主が自分と同じ名字の、(芸名は木暮実千代、本名は和田つま)和田なんですね。これだったら登記も簡単だ、というような軽い乗りで買ったわけです。それが現在の、たった5部屋きりない旅館だったわけです。
 神楽坂というのは色町なんです。「色町」という言葉は今はなくなっていますけれども三業地です。いわゆる料亭の多いところだった。「料亭」という言葉は、これは戦後、料亭という言葉になったんですけど、昔は「待合茶屋」と言いました。戦後条例が変わりまして、料理屋と茶屋が合併して料亭になったのです。料理を出して、なおかつ宴会をさせて、昔は茶屋ですから泊めたんですけど、今は一切泊めてはいけない。要するに、お座敷遊びの場所を貸し、料理を出すところになったわけです。これがいわゆる三業地です。これが昔の色町との違いです。(中略)
 叔母が旅館を買っだのが昭和28年です。買って、ほっておいたら近所から文句がきた。色町の真ん中に1軒だけ電気も点けない家があるのは困る、何とかしてくれと。それで叔母の一番下の妹に、「あなた、あそこへ行って女将やりなさいよ」と言って開業したのが昭和29年です。
川田晴久 かわだはるひさ。俳優。コメディアン。昭和8年。吉本興業に入社。12年坊屋三郎らと「あきれた・ぼういず」を結成し、ギターを片手に歌謡漫談。14年ミルク・ブラザーズを結成、テーマソング「地球の上に朝が来る…」で再び人気を得る。17年脊髄カリエスを発病。10数年の闘病生活。戦後は美空ひばり映画にしばしば出演した。生年は明治40年3月15日、没年は昭和32年6月21日。享年は50歳。
美空ひばり 歌手。1949年8月映画『踊る竜宮城』に出演し,その主題歌『河童ブギウギ』でレコード・デビュー。日本コロムビア・レコードと専属契約。「歌謡界の女王」として作品は1000曲以上。生年は昭和12年5月29日、没年は平成元年6月24日。享年は52歳。
色町 遊郭、芸者屋、待合などのある町。花柳街
三業地 芸妓げいぎ屋、待合まちあい、料理店からなる三業組合(同業組合の一種)が組織されている区域
待合茶屋 一般に待合と略称。明治以降は芸者との遊興を目的とするところと変質して発展。

 不思議なことに、あそこの旅館で書いたものはヒットするという噂が広まる。それから、昭和40年代になるとあそこで書いた小説が当たったとか、賞をとったとか、次々と出てくるわけです。それで別名「出世旅館」という噂が業界に流れるわけです。
 事実、その頃、これから伸びようとする人たちが大勢来ていたので、これは当然なことなのです。例えばOLをやめて初めての作品『BU・SU』という作品を書いた内館牧子さん。今やあそこまで立派になったけど、初めてあそこへ来たとき、これは記録に残るからまずいんですけど、履いてきた靴も本当にボロで、質素な格好して、それで一生懸命書いて偉くなっていったのです。
出世旅館 ある旅館に泊まり、作品を世に出して、非常に成功する。そんな旅館のこと。

 いい映画というのは脚本を書くとき、2人か3人で共同執筆しているケースが多いです。例えば、山田洋次さんは朝間義隆さんと必ず共同執筆なのです。ほとんど2人で書いているわけです。先週封切りされた『たそがれ清兵衛』も2人で書きました。
 渥美清さんが亡くなったとき、松竹が危機だと言われたことがあります。というのは、「寅さん」の興行収入で松竹社員の給料がほとんど支払われていたからです。収入の40%以上は「寅さん」が稼いでいたわけですから、作る方はいかに大変だったか。年2作ですよ。同じパターンじゃなければいけない。だって観ている人は、寅さんがマドンナと結婚しちゃったら、みんなブーイングです。最後はふられてまた旅へ出て行く。あのパターンの中で、なおかつ人の心にシーンとくるものを作らなければいけないわけですから、大変な作業だったわけです。
 最近書いてる「釣りバカ日誌」は、ワーワーワーワーやりながら若手が書いています。けれども、やはり最後は山田洋次さんと朝間さんが入って、締めるところを締めないと…。これは裏話ですが、西田敏行さんや三國連太郎さんなど錚々そうそうたる俳優をつかえる監督がいなくなっているんです。「これは山田さんの脚本だ」ということで納得させ、そのとおりにさせないと。三國連太郎さんは、自分でも映画を撮った人ですから、「こんなのはだめだ、ここは書き替えろ」と、すぐ現場で始まっちゃうのです。「いや、これは山田さんの脚本ですから」ということで、いつも巨匠が入るわけです。
山田洋次 映画監督。1950年、東京大学法学部卒業。松竹大船撮影所に入社。1968年、フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。1969年、映画化され、大ヒット、以来年1~2本のペースで1996年に48作品をつくって、日本の代表的監督となる。生年は昭和6年9月13日。
朝間義隆 脚本家。1965年、上智大学文学部英文学科卒業。松竹大船撮影所に入社。山田監督作品の脚本を共同で手がける。生年は昭和15年6月29日
たそがれ清兵衛 1985年刊行した藤沢周平氏の時代小説短編集。これを原作とする2002年公開の日本映画。
渥美清 俳優。旧制巣鴨中学卒業。1953年、浅草のフランス座に入る。1968年フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』(山田洋次脚本)に主演、翌1969年に映画化され国民的人気俳優となった。生年は昭和3年3月10日、没年は平成8年8月4日。享年は68歳。
釣りバカ日誌 北見けんいち作画、やまさき十三原作による漫画。これを原作とした映画。サラリーマンのハマちゃん(西田敏行)と社長のスーさん(三國連太郎)が起こす騒動を描いたコメディー。脚本は山田洋次。
西田敏行 俳優。「釣りバカ日誌」シリーズのハマちゃんが当たり役となった。他に「北の家族」「西遊記」など。生年は昭和22年11月4日。
三國連太郎 俳優。映画界を牽引した個性派俳優。『ビルマの竪琴』、『飢餓海峡』、『はだしのゲン』など。生年は大正12年1月20日。没年は平成25年4月14日。享年は90歳
錚々たる 多くのもののなかで、特に優れている人々の集団。傑出した

 「寅さん」では、もう逆さにしても血も出ないというくらい脚本が難航することがあります。
 一番大変だったのは、幻の49作のときでした。もうロケ地も決まっていたわけです。高知県でやる。それから西田敏行さんをつかうために彼のスケジュールも押さえてあって、さあいよいよ脚本を書こうという8月に渥美清さんが亡くなっちゃったわけです。ところが何も撮らないと、松竹はその年のボーナスが払えない。それで押さえてある西田敏行さんを主演にして、ロケ地も、高知じゃなくて愛媛県にしたと思うんですけど、映画館の館主の話タイトル忘れましたけど、観ていて気の毒なぐらいお粗末な映画でした。お粗末なんて言ってば失礼ですけど、本当に苦しんで食事も喉を通らないような思いで作りあげているわけです。
 そういうふうに監督やホン書きが追い詰められたときの作品というのは、いいものもあるかもしれないけれども、ゆとりがなくて、結局、評判が良くないようです。
寅さん 正しくは映画「男はつらいよ」の主人公のくるま寅次郎とらじろうから採用した。
愛媛県 舞台は徳島県でした
映画館の館主の話 公開は1996年12月。渥美清の急逝に伴いシリーズ終了となった「男はつらいよ」に代わって松竹の正月番組をつとめた入情喜劇。監督は「学校II」の山田洋次。
タイトル 「虹をつかむ男」

 マーガレット・プライスさんという、夏目漱石のお孫さんと結婚したオーストラリアの新聞記者だった人が、この旅館を外国で宣伝したために、今は外国のお客さんでにぎわっています。外国のお客さんは、ここはこういう旅館だというのをちゃんと知っていて、物見遊山じゃなくて、日本の作家たちが泊まる旅館だというので、ちゃんと協力して朝もゆっくり起きてくれる。「日本の宿50選」の最初のページに大きく出たものですから、最近は外人が多いそうです。
夏目漱石のお孫さんと結婚した 本当かどうか、わかりませんでした。
外国で宣伝した Margaret Price著「Classic Japanese Inns and Country Getaways(日本の宿)」(講談社、1999年)。全て英語で書いてあります。
日本の宿50選 国立国会図書館、新宿区立図書館、アマゾンで「日本の宿50選」は見つかりませんでした。

神楽坂下の五叉路案[明治の市区改正](明治22年ごろ)

文学と神楽坂

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 市区改正で作られた飯田橋の五叉路は今も健在です。計画図を見ると、現在の神楽坂下交差点も五叉路にする予定でした。

 図の赤い実線は、市区改正設計で最も幅の狭い第五等道路を示します。これについて市区改正委員会では以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催
委員長  まず大体を決し、支線は実施に臨み斟酌するの精神をもって、四等(以上)の主なる路線のみを議定せり。(条例に)五等道路をいちいち掲ぐるとせば、その調査容易なるまじ。
6番委員 焼失(火事)を待って改正なすとしてはいかが。
19番委員 堅牢の家屋を建設すれば改正の期なきに至らん。ことごとく決定し置くことにしたし。
15番委員 (専門の)委員を設け調査するとしては。
17番委員 五等道路ごときは市民の意見にまかすとして可ならん。
4番委員 委員の手数は省きうるも、東京府庁は道路に着手するを得ざるべし。
13番委員 路線を定めずしたらば、庶民は家屋建築、地所売買に苦しむなるべし。
(新字・新かなで適宜省略)

 火事を待って道路計画を決めるというのは、大火の多かった江戸の町の歴史を思わせる意見です。採決によって専門委員を設ける案を採用し、神楽坂通りの迂回を提案した1番委員、新見附部分の新道を提案した19番委員らが選ばれました。

 さて神楽坂下に戻って、明治22年、市区改正で以下の道が指定されました。

第五等道路
第八十一 牛込神楽坂下より若宮町・南町を経て、納戸町に至るの路線。

 具体的には神楽坂下から小栗横丁-若宮町の新坂-南町の通りを結び、幅6間(10.8m)に広げるものです。

 やや強引に見えます。何より小栗横丁と新坂の間には高いガケがあり、地図の等高線が狭くなっています。ここに道を通すのは大規模な工事になるでしょう。第五等道路の指定にあたり、十分な調査がされなかったことを思わせます。
 明治36年、市区改正が大幅に縮小された新計画で第八十一は脱落し、神楽坂下は五叉路になりませんでした。小栗横丁と新坂の間は現在、若宮神社側を迂回して上る道になっています。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。ただし、第五等道路の個別の議論は残っていないようです。

甲武鉄道の複線化(明治28年)

文学と神楽坂

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 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治26年(1893年)、新宿から都心に向けた「市街線」=新線の建設に乗り出しました。「甲武鉄道市街線紀要」(明29.10)によれば、建設は以下のように進みました

年表
明治26年3月新線敷設の本免状
7月着工
明治27年9月青山軍用停車(現・国立競技場付近)完成、
日清戦争の部隊が出征
10月新宿-牛込間を開業
本社・技術部を飯田町に移転
明治28年4月牛込-飯田町間を開業
5月複線敷設を願出
7月上記の許可、着工
12月複線開業

 つまり牛込駅開業から1年ちょっとで複線化します。あらかじめ計画しておいたから可能なスピードでした。

……新線開通の結果は、素望むなしからず(計画倒れではない)と言えども、単線のみなるを以て乗客の便利を満たすあたわざる(満たせない)を認め、当初の計画に基づき複線敷設の願書を提出し……(新字・新かなで適宜修正)

 なぜ最初から複線にしなかったのかは分かりません。東京市区改正委員会が外濠の土手の木を切らないよう注文をつけたことや、地元に一部反対運動があったことも関係しているかも知れません。複線化着工の直前に社債を発行しているので、資金面の問題だったとも考えられます。
 市街線は途中に4箇所のトンネルと多数の橋がありました。牛込橋は土堤の一部を切り崩して鉄橋をかけ、線路を下に通しました。新見附は土堤部分にトンネルを作りました。これらは当初から複線を想定していました。

 新見附の「四番町トンネル」の図面や事故時の写真を見ると複線とは思いにくいようです。なお四番町トンネルの建設は、新見附橋そのものを民間資金で建設していたのと同時期です。民間の代表者と甲武鉄道の間に、なんらかの連絡があったのでしょう。

 しかし当時の短い車両には十分でした(左下、甲武鉄道四谷トンネル)。今も現役のトンネルは単線に変更して使われています(右下)。

 甲武鉄道が国有化された中央線は、昭和4年ごろに複々線に転換する大工事をします。この時にトンネルや橋は大きく姿を変えます。それまでは小さな汽車や電車が外堀を行き来していました。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)


小川一真出版部「東京風景」(明治44年)四谷見附より市ヶ谷方面を望む

飯田橋の五叉路[明治の市区改正](明治40年ごろ)

文学と神楽坂

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 五叉路の交差点は十字路に比べて交通信号が変則です。神楽坂周辺には五叉路が連続している区間があります。このふたつは明治の市区改正で作られた大久保通りが関係しています。
 西側にある筑土八幡町交差点については、筑土八幡神社前(写真)の記事で記述しています。

東京市区改正全図(明治23年)五叉路 赤の実線や破線が市区改正の道路計画

 ここでは東側の飯田橋交差点の成り立ちを見ます。
 明治22年、市区改正委員会は現在の大久保通りを第四等道路に指定します。神楽坂通りを通すと急坂になるので、北側にバイパスとして設ける計画でした。

第四等道路
 第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 この市区改正設計は「道路事業がほとんど進まず、最低限の項目を選んで拾い上げた新設計案が作成されました」(東京の都市づくりのあゆみ 1章06 032頁左下、2019)

大久保通り 飯田橋付近 比較図 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査明治40年1月調査


 明治36年に改められた新設計でも、大久保通りは「第十四」と番号が変わり、同じ内容で残りました。
 注目すべきは起点が「揚場町」であることです。同時期に第四等道路に指定された現在の目白通りは

第四等道路
 第五、飯田橋外より江戸川に沿い、江戸川橋際に至るの路線。

と「飯田橋外」と書いてあります。確かに道路計画図では、大久保通りは飯田橋交差点と少しずれて描かれています。
 しかし実際の大久保通りは揚場町より北側、下宮比町が起点となりました。新しい道は明治40年までに開通し、この工事に伴うと見られる移転などが相次いでいます。

出来事
明治36年市区改正新設計決まる
二条基弘公爵邸(津久戸前町16)(→牛込若松町に転居)
明治37年二条邸跡に津久戸小学校開校
明治40年宮比神社が筑土八幡宮境内に遷座
行元寺が西五反田に移転
明治43年牛込区議会、飯田橋-新宿車庫間の路面電車の促成の意見書
大正元年飯田橋-牛込柳町方面の市電開業

 なぜ起点を下宮比町に変更したのか。ネット公開している市区改正委員会の議事録の範囲では理由は分かりません。おそらく急速に市民権を得ていた市電の敷設が関係していたのでしょう。

携帯番地入東京區分地圖(明治42.11)21コマ 飯田橋付近 破線は市電の計画線。大久保通りは不正確

東京五案 内(大正3)13コマ 飯田橋付近 市電は延伸途中。中央線飯田町駅との乗り換え拠点に

 飯田橋は5方面から市電が集まる結節点となり、複雑に軌道が敷かれていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録のうち明治33年までを国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽河岸の踏切計画[明治の市区改正](明治25年)

文学と神楽坂

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 甲武鉄道(現在のJR中央線)は明治22年(1889年)に内藤新宿駅と立川駅との間で開業。次いで都心に延伸する「市街線」を計画します。紆余曲折の末に路線案を図面にし、内務大臣から市区改正委員会に意見を求めたのは明治25年でした。
 委員会はこれに4つの条件をつけて同意します。甲武鉄道側の記録をもとに列挙すると次のようなものです。

1)市区改正道路に支障あるものは(改修の)費用の会社負担を確約する。
2)牛込見附付近の線路を市と協議して変更する。
3)四谷-市ヶ谷間(のカーブ部分)をトンネルに変更する。
4)樹木はなるべく伐採しない。
甲武鉄道市街線紀要(明治29年10月)を意訳

 市街線は、外濠の土塁を削って線路を敷設します。委員会では

明治25年(1888年)10月19日開催 第85号会議
19番委員 四谷-牛込間の眺望、実に無類の風致を有し、全市の美観を添えるものなれば、工事においても十分な注意を。
(新字・新かなで適宜省略)

などの議論が盛り上がりました。具体的には3)のカーブ部分は直線より土手を大きく削ってしまうので、トンネルにしろと注文をつけたわけです。このトンネルは現在はありません。

 もう1点の2)は、現在の神楽河岸に踏切を計画していたことを問題視しました。

19番委員 五等道路を斜めに踏切り不都合。後来、大なる差しつかえを生ずべし。
11番委員 道路を少し濠の方へ寄せ、軌道を土手の方へ寄せなば衝突を免れん。
19番委員 桝形へ(線路を)寄せなば石垣の地盤に変動を生ずる恐れあり。このへんは協議を要す。
(新字・新かなで適宜省略)

議事録掲載の図面を加工

 さらに道路を変更する費用負担や、どの程度の樹木を守るかについても議論が紛糾し、委員会が4条件をまとめたのは次の第86号会議でした。甲武鉄道側は条件をすべて受け入れ、翌明治26年3月にようやく鉄道延伸の免許を取得します。牛込駅まで開業したのは明治27年10月でした。

 甲武鉄道は開業を記念し「線路に数百株の桜樹を植え付け」て、風致に配慮します。これが外濠の土手の名物になりました。
 神楽河岸の踏切はどうなったのでしょう。協議の結果は議事録に見えませんが、明治28年7月調査の地図によれば、線路と道路は交わっていないようです。

 もっとも、この道路は行き止まりなので、ほとんど利用されなかったと思われます。昭和になって飯田濠が再開発されるまでは、燃料会社の寮や倉庫などの目立たない建物ばかりでした。(ID 493

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽坂通りの迂回[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 早稲田通りは、千代田区九段北の田安門交差点から神楽坂や高田馬場を通り、杉並区上井草までの道路の通称です。神楽坂上交差点を境に東側(都心側)は千代田区と新宿区の区道、西が都道になっています。この原点となったと思われる決定が、明治政府の市区改正委員会の議事録にあります。
 市区改正は東京市内の道路を区間ごとに第一等~第五等と指定し、道幅を広げる計画でした。現在の内堀通りや中央通りは第一等、外濠通りは場所によって第一等または第二等です。明治21年10月、原案は次のようになっていました。

・第二等道路(幅12間=21.6m)
・第三等道路(幅10間=18m)

東京市区改正全図。明治23年3月

 神楽坂通りは第三等道路に指定され、拡幅される予定でした。この原案に異議がありました。

明治21年(1888年)10月12日開催
1番委員 この路線は飯田橋より少しく西により筑土通りの道をとる方が平坦にして実施上も便宜ならん。
24番委員 説のごとく成すときは迂回するならん。(遠回りではないか)
1番委員 いや、かえって迂回を避けうべし。
25番委員 説は至極と考える。もし路線を変更するも8間道(14.4m)にて十分。
1番、2番委員 賛成す。
(新字・新かなで適宜省略)

 賛成多数で、神楽坂通りは第四等道路に格下げになりました。しかし、次の会議でさらに修正されたのです。

明治21年(1888年)10月15日開催
1番委員 実況を調べし。神楽坂通りを肴町まで取り広げるは、はなはだしき坂路のみならず、牛込の繁盛を幾分か傷つくるきらいなしとせぬ。これを少しく北に移し、飯田橋の外の下宮比町と揚場町との間を過ぎ、筑土前町および肴町を貫き、岩戸町の四等線(第四等道路)に接続せば、急坂を避け、(道路の)改良の効果を奏すべし。路線を修正されたし。
(新字・新かなで適宜省略)

 神楽坂は急なので工事が大変だし、商店を立ち退かせるのは損だ。坂を迂回し、北側に新しい道を作ればいい-という意見です。委員会は全会一致で原案の変更を決定し、神楽坂通りは第四等道路からも外れました。
 迂回を提案した1番委員は桜井勉といい、内務省地理局長でした。全国に気象観測網を整備したことから「日本の天気予報の創始者」ともされています。

 神楽坂の迂回路となったのが、現在の飯田橋-筑八幡町-神楽坂上を結ぶ大久保通りです。地図を見ると、この区間は家を立ち退かせて道を作ったようです。

 牛込区史(昭和5年)によれば、神楽坂通りは

・第五等道路(幅6間=10.8m)
第八十二 牛込門外より神楽坂通り矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

に指定されました。ところが、この計画は明治36年の市区改正の修正で

・第五等道路
第六 牛込肴町より矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

へと短縮され、通りの神楽坂1-5丁目は東京市の管理を外れます。

神楽坂上~坂下路幅
明治21年10月(原案)市区改正・第三等道路18m
10月12日市区改正・第四等道路に格下げ14.4m
10月15日市区改正・第四等道路から格下げ
明治22年5月市区改正・五等道路10.8m
明治36年3月市区改正の対象外

 その頃には神楽坂の商店街を拡幅するのは難しくなっていいたのでしょう。神楽坂1-5丁目が都道になっていないのは、この時の決定の影響と考えられます。
 また現在の道幅は約12mですが、これは明治期から変わっていないと言われます。神楽坂が急坂だったために都市計画から外れ、古い風情が残ったというのは、とても興味深いことです。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

新見附の前史[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 市区改正委員会の初期、東京の道路計画の立案時に以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催 第7号会議
19番委員 (靖国神社裏の路線に)一項を加えたし。外濠に新たな橋を架し、この路線を新設せば、すこぶる便宜なるべし。
2番委員 しからば新架橋を要するや。
19番委員 しかり。市ヶ谷門と牛込門との間は8丁ほどにして、その間に橋梁なく、かつ(千代田区側の)番町あたりは道路少なき。1カ所くらいは新架橋を設けて可なり。
(新字・新かなで適宜省略)
※8丁(約870m、実際の牛込橋-市ヶ谷橋間は約1km)

関東平野迅速測図。1896(明治19)年 外濠付近

 提案した19番委員は銀林綱男という明治政府の官僚です。意欲的な人だったらしく、他の道路でも積極的に追加や改変を意見しています。後に官選第6代埼玉県知事、東京商品取引所(東京米穀取引所と合併し戦時統制で解散)初代理事長などを務めました。

明治27年(1894)10月 東京商品取引所設立、初代理事長銀林綱男。上場商品(塩、雑穀、肥料、砂糖、油、金属、木綿、棉花、綿糸)の直取引、延取引、定期取引を為すもの

 曾孫に政治家の片山さつき氏がいます。

片山(さつき)大臣……取引所につきましては、私は大変感慨深いものがございまして、東京商品取引所というのが明治時代に最初に日本にできたときの初代の理事長が私の曾祖父の銀林綱男でございまして…

 さて、もとに戻って……銀林委員の架橋提案は賛成を得られませんでした。

25番委員 新架橋を要すれば私は不同意なり。
委員長  19番の説には賛成者なきをもって消滅に属す。

 明治26年、この構想は民間資金で市区改正委員会の許可を得て実現し、後に新見附と呼ばれるようになります。銀林はすでに委員を外れていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

筑土八幡神社(写真)参道 昭和44年頃 ID 8261, 8289, 14155

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8261、ID 8289、ID 14155は筑土八幡神社の参道です。撮影時期は昭和44年頃(ID 14155は「昭和44年頃か」)です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8261 筑土八幡神社 石段

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8289 筑土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14155 筑土八幡神社 扁額

 石段脇に「筑土八幡神社」の石標。角を鋼材で保護し、衝突防止のための石柵で囲っています。
 7段ほど上ったところに一の鳥居。石柱(注連しめばしら)に横木を渡しただけの簡素なものです。「納」の彫り込みがあり、右の柱は「奉」でしょう。
 鳥居の手前の石灯籠には「奉納 筑土自治会 新小川町」。さらに石段を上ると、途中に二の鳥居となる石鳥居があります。石鳥居には扁額へんがく「筑土八幡神社」がかかっています。
 鳥居や石灯籠は、新撰東京名所図会第41編 牛込区の部 上(明治37年)の挿画や、東京市編纂「東京案内」(明治40年)の写真とほぼ同じです。石の社名標はそれ以降に作られたものでしょう。
 一方、明治期と異なるのは参道右側のガケです。明治期は二の鳥居までだった石垣が、ID 8261とID 8289では一の鳥居の近くまで張り出し、新たな石垣が高く組まれています。この石垣の上は昭和41年に新宿区が「こどもの遊び場」(ID 7451)を開設しました。
 終戦直後の写真を見ると、空襲で焼かれた中でふたつの鳥居と石灯籠、石標は焼け残っています。

 戦後しばらくは、そのまま使っていたでしょう。ID 8261とID 8289の石灯籠は、大正期の写真と細部で違い白っぽいので、少し前に新しくされたのかも知れません。

東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯 69コマ これは築土神社。筑土八幡神社は右の石灯籠が見える

 石標は焼けてもろくなったので保護していたと考えられます。現在は、石標や一の鳥居の石柱も新しいものに置き換えられています。
 ID 8289の左半分は戦前まで築土神社が並んで鎮座していました。この写真(D 8289)当時は、地図によれば合気道の道場でした。後にカトリックの修道院「みことばの家」になります。(ID 7428
 戦前の築土神社(左)は筑土八幡(右)と並んで社殿がありました。動座後に神社の後を掘り下げて、ID 8289の左側の建物が建ったと思われます。

湯島写真場「江戸の今昔」昭和7年。

 

筑土八幡神社(写真)境内 昭和44年 ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8297, 8290, 14156, 14157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8290, 14156, 14157は筑土八幡神社境内の写真です。撮影は昭和44年ごろ。
 1枚ずつ見ていきます。最初はID 8255です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 筑土八幡神社

 左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥の囲いは純米大吟醸「白鷹」の積み樽です。白鷹は灘の蔵元の清酒ですが、明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛に見出され、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 左奥に駐車車両2台。表参道は石の階段ですが、左手の裏参道では車が通行可能です。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。玉垣の内に狛犬が一対。拝殿は昭和20年の戦災で焼失し、しかし、昭和38年、氏子の浄財で再建されました。また神前幕しんぜんまくで前を覆われています。
 右には筑土会館。会合のための施設です。手前に自動車があり、その前に注連しめなわをかけた銀杏の樹。銀杏の根本には百度参りをする時に標識する百度石ひゃくどいし
 右端は手水ちょうずばち。現在は手水が建っていますが、この時はなかったようです。
 一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。

 続いてID 8258です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8258 筑土八幡神社

 左手前から拝殿と筑土会館を狙っています。拡大すると玉垣に書かれた寄進者もよく読めます。寄進額の多い角柱は「氏子総代 牧田甚ー」「崇敬会会長 升本喜兵衛」。その他の太い柱は「筑土自治会」「新小川町自治会」「飯田橋自治会」と読めます。
 左右の柱に竹を1本ずつくくりつけてあるのは門松の一種でしょう。
 田口氏「歩いて見ました東京の街」 05-00-10-2 筑土八幡社殿の遠景 (1968-07-13)では、この玉垣はありません。撮影はそれ以降で、おそらく昭和44年(1969年)1月でしょう。

筑土八幡社殿遠景 1968-07-13 歩いて見ました東京の街

 次のID 8259は、玉垣のすぐ手前から右側の狛犬(阿形)をアップで撮影しています。

新宿歴史博物善え館「データベース 写真で見る新宿」ID 8259 筑土八幡神社 狛犬(阿形)

 狛犬は1810(文化7)年に奉納されました。台石には「津久戸」と「奉」が刻まれています。写真には見えませんが、対になる左側の吽形の台石は「津久戸」と「納」です。門柱では「崇敬会々長 升本喜兵衛」。「崇敬すうけい」とは神仏や立派な人などをあがめること。

 ID 8260ではやや引いて、参道から境内の右側を見ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8260 筑土八幡神社 境内

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まい。銀杏の木の向こう、白い雨戸が閉じているのが神楽を奏する神楽かぐら殿でん。神楽殿の手前は境内社の宮比みやび神社と鳥居。銀杏の根元の百度石と庚申塔。庚申塔は現在は銀杏に向かって右側に移されました。屋根のない手水鉢ちょうずばちには白銀町と掘ってあります。一番右は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。

 ID 8297はID 8260の左側に寄った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8297 筑土八幡神社 庚申塔(側面)

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まいで、御守りの言葉「一陽来復/〇〇〇」が見える。その右に伝言板。竹2本と切った木々と葉。黒い壁と民家があり、白い壁の神楽殿。庚申塔と鳥居があり、その前に注連縄がある御神木と、葉がない木々。

 次はID 14156とID 14157です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14156 筑土八幡神社 御供水

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14157築土八幡神社 御供水鉢 寄進者名陰刻(一部)

 手水舎の裏に御供水が見えます。「ごくうすい」「おこうすい」と読むようです。御供水とは神仏に供える水のこと。八角形の石とフタからできていて、新宿文化観光資源案内サイトでは天保5年(1834)8月に奉納されたのこと。
 ID 14157の陰刻とは文字や模様をくぼませた彫り方。ID 14157の真ん中に「川喜田新右ェ門」という陰刻があります。また文政10年(1827年)に提出した「牛込町方書上」では神楽坂5丁目と6丁目の間に川喜田屋横丁があって「川喜田屋久右ェ門」がそこに住んでいたといいます。この2件は7年しか離れていないし、2人はなにか関係があれば面白いと思います。また、ほかの氏名でも「〇〇屋」が多く、奉納する人は商人が多かったことがわかります。

筑土八幡神社 御供水 Google

筑土八幡神社 御供水

 最後はID 8290です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8290 筑土八幡神社境内 田村虎蔵顕彰碑

 参道の石段を登り切ると、最初に左側にこの「田村虎藏先生をたたえる碑」があります。昭和40年12月に設置したものです。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があります。顕彰けんしょうとは「隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰すること」。碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」。視学しがくとは、旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たること。

筑土八幡神社(写真)庚申塔 昭和44年 ID 8256, 8257, 8291, 8296

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256、8257、8291、8296は筑土八幡神社の庚申塔こうしんとうと周辺の写真です。昭和44年ごろとしていますが、陽差しの違いなどからすべてが同日の撮影ではないと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8257 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8291 筑土八幡神社庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8296 筑土八幡神社庚申塔

 庚申信仰については、目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は……

 庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった

 庚申塔は新宿区の区指定有形民俗文化財であり、区は……

 寛文四年(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186センチ、黒褐色安山岩。最上部に日月、中央部に雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がって実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。牡猿の左手首及び牝猿の顔面の破損は昭和20年の戦災によるといわれている。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、貴重である

 石造いしぞう鳥居の左側に庚申塔の説明板があります。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財

庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
         指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがた)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
   平成九年五月
新宿区教育委員会

 下に男女名10人が刻まれていて、さらにその下には水鉢みずばちがあり、その両脇に花立用の穴があります。
 右に注連しめなわをかけた御神木のイチョウ。このイチョウについては……

イチョウの葉は水分を多く含む。落葉した黄葉でさえ、落葉焚きができないほどだ。かつての建造物が、木と紙の本体に、檜皮や萱など燃えやすい屋根材で出来ていたことを考えれば、背が高く元気の良いイチョウが火災による輻射熱を遮り、火の粉を含んだ風も遮り、防火壁の役目を果たした。

 ID 8257では右端に百度ひゃくどいし。これは百度参りをする時に標識する石のこと。
 左後にある境内社の宮比みやび神社。鳥居をくぐると、上には見えていない本坪鈴ほんつぼすずと、そこから垂れた紐。境内にある説明板では……

 宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめの みこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。こちらは宮殿の平安を守る女神である、大宮おおみやの売命めのみことをお祀りしています。

善国寺(写真)大正12年

文学と神楽坂

 大正12年、東京市公園課は「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」を出版し、その74は肴町の善国寺を撮った写真です。写真帖の発行日は5月1日で、同年9月の関東大震災の直前でした。

毘舍門天

 1頁前の説明文は「日蓮宗池上本門寺である。文禄麴町に創建し、寛政年間此地に移る。僧日惺の開祖で日蓮宗録所である。本尊毘門天の縁日寅の日には賽者熱閙繁昌を極めて居る」

 末寺。本山(本寺)の支配下にある寺院。江戸幕府は、本山・末寺関係を制度化して、寺院支配を行った。
文禄 1592年から1596年まで
麴町 東京都千代田区西部の地名。皇居の半蔵門から西にのびる新宿通り(甲州街道)をはさんで東西に広がる。
寛政 1789年から1801年まで
日惺 にっせい。安土桃山時代の日蓮宗の僧。
録所 そうろく。一般に寺院を統轄し、人事をつかさどる僧職名
 しゃ。梵語の音写。舎利とは仏陀の遺骨のこと
賽者 さいじん。神社仏閣に参詣する人。
熱閙 ねっとう。ねっどう。人がこみあって騒がしいこと。

 ほぼ同じ画角の牛込区史(昭和5年)掲載の写真と比べながら詳しく見ます。
 境内を囲む石囲いには1本ずつ寄進者の名が刻まれています。左右の門柱にはアーチ状に樹木を透かし彫りにした飾りがあります。中央の灯籠型の門灯は「◯門」か「◯川」と読めます。アーチは牛込区史にも見えますが、戦災で失われたようです。門柱と石囲いは戦後の昭和46年、再建まで使われました(ID 8299)。
 門柱の前には一対の屋根付き提灯。右は「大毘沙門天」、左は同じものが横を向いていて「(奉)納」。この提灯は石囲いの中に立つ柱で支えており、「牛込区史」にもあるので常設のもの思われます。
 境内に入りましょう。5列の石畳が本堂に通じ、その両側に背の高い灯籠が4灯ずつ。左右対称ではなく互い違いに配置されています。灯籠の下に碍子がいしらしきものがあるので電球だったでしょう。この灯りは牛込区史では中央一列の傘型照明に変わっています。
 正面の賽銭箱の左右の隅には「牛込」と小さく切り文字がありますが、中央の大きな字は判読できません。上から本坪鈴ほんつぼすずが垂れています。本堂は入母屋屋根で、破風が正面を向いています。
 手前の石畳の左右にも別の建物があり、本堂の右にも大きな屋根が見えます。木は裸になっているものもあり、この写真は冬か初春でしょう。

「新見附」はいつから?

文学と神楽坂

地元の方からです

 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は「江戸城三十六見附」にはなく、民間資本で作られた新しい橋です。明治26年(1893年)の新設許可は単に「新道」でした。
 この橋はいつ完成し、いつごろから「新見附」と呼ばれるようになったのでしょう。
 明治28年7月調査の地図には橋が描かれており、2年足らずで完成したと思われます。しかし牛込門や市ヶ谷門と違い、名前は書いてありません。

東亰市麹町區全圖 新見附付近 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088845/5

 明治31年11月の新撰東京名所図会第17編 麹町区の部・中には「新開道」として出てきます。「名づく」とあるので、これが名前だったとも思われます。

新開道 靖国神社南側の通りを一直線に進み、市ヶ谷に至るの間。堤丘を開窄(開削)し、壕水を埋没し、もって道路とせるところを名づく。(新字・新かなに変更)

 また明治32年6月の新撰東京名所図会第19編では、絵図に描かれているにもかかわらず何も書かれていません。一口坂についても記事がありません。

 明治30年代の地図には新見附自体が描かれていないものが多く、「地元民しか知らない橋」であったようです。
 一転して明治39年8月の新撰東京名所図会第四十三編 牛込区の部・下では地図に「新見附」が明記されます。

 これ以降、他の地図でも新見附が見られるようになります。何が変わったのでしょうか。
 それは路面電車の開業です。東京電気鉄道の外濠線(後の都電3系統)が延伸され、橋のたもとに新見附停留所ができたのは明治38年8月でした。

 新撰東京名所図会の市谷田町の説明にも

電車外濠線往復し、新見附停留所あり。商家軒を連ねたり

と出てきます。
 すでに地元で新見附と呼ばれていたのか、外濠線が新しい名を考えたのかは分かりません。ただ停留所名は公文書にも記載されるため、新見附の名が定着したと思われます。

 新見附の大半は土堤でできた土橋です。大正9年9月30日の暴風雨で崩壊し、橋の下を通っていた中央線の電車(現・JR)が壕側にずり落ちる大事故がありました。崩れた部分から、土中の水道管や電線が見えます。現在は鉄道の上は鉄橋で、昭和4年(1929)7月にかけられました。

一口坂を下りきった新見附交差点から、新宿区市谷田町に向かって、JR中央・総武線を越え、外濠の水を横切っている橋です。明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。その結果、外濠は二つに仕切られ、下流の牛込橋寄りは牛込濠、上流の市ヶ谷橋寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。
千代田区観光協会

 この説明に従えば、千代田区側の橋のたもとが「新見附交差点」です。ただ外濠通りの信号(新宿区)の交差点名表示も「新見附」とあります。
 牛込見附や市ヶ谷見附の橋が「牛込橋」「市ヶ谷橋」であるのに対し、新見附は「新見附橋」と「見附」が橋の名になっています。

外濠通り「新見附」Google

注:国や東京都、他の道路地図では、外濠通りの交差点を「新見附」交差点と呼びます。また橋は「新見附橋」と呼び、普通「新見附」とは呼びません。

新見附の新設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は、明治期の新しい橋(土橋)から生まれた地名です。旧江戸城の三十六見附ではないため知名度が低く、資料も少ないようです。見附といっても門も桝形もないので、橋全体が「新見附」と呼ばれることもあります。
 東京市区改正委員会が「麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路ノ自費開設願」を審議したのは、明治26年(1893年)9月22日開催の第百号会議でした。

東京市区改正委員会議事録 第6巻81コマ 新見附開設 麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路新設之図

 市区改正は重要度順に、第1等から第5等に分けて道路建設を計画していました。その計画にない「等外」道路を、民間が自費で建設するプランです。「新見附」という名もありません。
 当時の東京府知事は、以下の内容を文書で市区改正委員会に意見を求めました

 新道開設の儀につき、福永儀八ほか22名の者より出願あり。
 麹町牛込両区を貫通する中央枢要の路線にして、将来一般の便益少なからず。かつ新道に要する土積は、目下、牛込門外壕内浚渫等の土、その他不用土を生ずべき見込みもあり。
 この不用土をもって漸次、築設することに致せば、幸いに多額の工費を要せず。工費2,486円余をもって竣工し得べきことに相成り。
 工費は願人その他有志者より悉皆寄付致すべき旨、申し出あり。建物の移転料を要せずして開設し得べき。等外道路幅員4間(7.2m)として開設可と致し候。ご意見承知したく。
新字・新カナで適宜省略

 出願者の代表である福永儀八は、市谷田町で呉服商「あまざけや」を営んでいました。橋の必要は切実だったでしょう。

 新見附橋の大部分を占める土堤が不用土処分場を兼ねていたというのも興味深いでしょう。「牛込門外壕内浚渫」とは、おそらく飯田壕の揚場の舟運のためでしょう。神楽河岸に土砂や石など建築廃材の集積場があったことも、新道の開設工事を容易にしたと思います。
 この提案に対し、委員会では次のように議論されました。

7番委員 牛込市ヶ谷間はずいぶん長きところなれば、道路の新設は誠に賛成なり。
企望(希望)は、俗に一口坂とか言うすこぶる急な坂あるが、この坂を改正(改修)せば便利を増す。この際、ともに坂路を改正せられなば大なる便宜ならんと信ず。
21番委員 本案は最初、牛込区において大いに尽力せられ、麹町区にも内談ありし。
麹町区においても等外道路として取り広げ、馬車等をも通せしむる様したいと、寄付金を募りすでに出願せんとす。その節には可決せられんことを。
新字・新カナで適宜省略

 新道の先、現在の千代田区側は都市計画道路にはないけれど、寄付金で坂をなだらかにする工事ができそうだから許可しよう-ということです。古い地図を見ると、確かに一口坂には大きなガケがあります。

明治東京全図 明治9年(1876)一口坂付近 緑斜線がガケ

 出席者に異議はなく、東京府の決定を「是認」しました。この道路の新設により、外濠は牛込壕と新見附壕に分けられました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

あまざけやと福永儀八氏 市谷田町

文学と神楽坂

地元の方からです

 大正期まで市谷田町にあった呉服商「あまざけや」は、福永儀八氏の経営でした。福永氏は明治時代に、外濠の新見附を民間資金で新設した時の代表者です。

 あまざけやは江戸期から続く老舗で、紳士録や名鑑などに見られます。古典落語にも登場します。「落語の中の言葉」では……

落語の中の言葉138「あまざけ屋」
 実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。
「市ヶ谷のあまざけ屋は、御殿向のものが一切揃えてありましたが、あまざけ屋は御用達ではありませんでした。」(三田村鳶魚「御殿女中」春陽堂、昭和5年)
「四谷市ヶ谷にあった呉服の老舗「あまざけ屋」は、店頭に大釜をかけておき、入って来るお客に甘酒を進呈していたことで人気があった。この店の屋号は福永屋であったが、誰もほんとうの屋号を呼ばず「あまざけ屋」で通っていた。(増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』青蛙房 1981)」

 新撰東京名所図会第43編「牛込区の部」下(東陽堂、明治39年8月)33頁に伝説めいた記事があります。

●あまざけ屋
市谷田陶二丁目十四番地、呉服商、福永商店、屋号あまぎけや電話番町一二五。山手の老舗なり、或人云、往時田町の堀端に甘酒売を渡世とする老爺あり、人あり之を憐み、奚すれぞ百年の計を爲さざると、爺、口を開いて笑つて曰く、説くことを止めよ、卿に一女あり、才色優れたりと、幸に愚老に許すあらば請ふ謹んで其誨を聞かむと、其人家に帰り、之を女に謀るに、女頗る喜色あり、即ち之を嫁す、爺少婦を得て同棲し、田町下二丁目に呉服店を開く、日ならずして店頭繁栄し、遂に老舗となれり、是に於てか甘洒屋を屋号とするとぞ。

 この牛込区の部・下には「市谷田町2丁目通り」の写真があります。この並びにあまざけやがあったと思います。

 福永氏は、渋沢栄一会頭時代の東京商業会議所(現・商工会議所)の会員選挙に当選し、委員を務めました。人望もあったでしょう。

 一方、あまざけやは明治28年に伊勢丹に買収されましたが、大正期まで事業を続けました。

 その後、あまざけやにあった「朝日弁財天」は伊勢丹の新宿本店に移され、屋上に祀られているそうです。

屋上の朝日弁財天。(photo: Pochi)
http://pochipress.blog20.fc2.com/blog-entry-82.html

朝日弁財天の由来

旧東京厚生年金病院(写真)昭和44年頃 ID 14154

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154は、筑土八幡神社の石造鳥居の陰から津久戸町の旧東京厚生年金病院(現在はJCHO 東京新宿メディカルセンター)を撮った写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154 遠方に津久戸町旧東京厚生年金病院

 鳥居は石段の参道の途中にあり、区内最古として新宿区登録有形文化財に指定されています。

住宅地図。1973年

 鳥居の額束に(見えないが)「筑土八幡神社」が刻印されていて、柱の銘にはコントラストを変えると奉納者は「享保十一丙午歳十一月十五日 従四位下行(豊)前守◯治真人」 と読めます。写真は古い鳥居と現代的な病院建築の対比を狙ったのかも知れません。鳥居のすぐ向こうの金網は、区が昭和41年9月16日に開設した「こどもの遊び場」(ID 7451)を囲むものです。
 東京厚生年金病院の旧本館は、武道館や京都タワーを手がけた建築家の山田守氏の代表作のひとつで、昭和28年(1953年)の芸術選奨で文部大臣賞を受賞しました。
「Y字型のみるからに明るいモダンな病院」(石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」修道社、昭和36年)と評されました。屋上の丸い建物は展望室で、その下はらせんのスロープになっています。

東京厚生年金病院 建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに

http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 沿革を見ると

時期内容病床数
昭和27年10月病院開設
昭和27年11月整形外科 外科 内科 診療開始66床
昭和28年10月南棟4階58床増設124床
昭和28年10月西棟3、4、5階改造319床
昭和32年9月別館増築290床増床普通510床 伝染6床
昭和33年4月高等看護学院開院
昭和40年10月別館神経科病棟16床増床。伝染6床廃止526床

建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに 赤字の説明は引用元にはない
http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 その後、この旧館はY字の一辺ごとに解体・建て直しする難工事によって建て替えられました。沿革に基づけば13年間を要しました。

時期内容病棟
昭和62年6月南棟解体
平成元年10月A棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成2年3月西棟解体
平成5年10月
B棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成10年1月東棟解体
平成12年3月外来棟竣工地下4階地上1階

 新本館も設計は山田守建築事務所で、屋上に丸い展望室があります。

筑土八幡神社(写真)昭和44年 ID 8255-8256

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255-8256は筑土八幡神社の写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 築土八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 築土八幡神社 庚申塔

 ID 8255について、左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥には見えないが純米大吟醸「白鷹」の積み樽。明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛は倉庫に白鷹を発見し、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 境内に駐車車両。筑土八幡の表参道は石の階段。しかし、正面左手の裏参道では車は通行可。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。拝殿は昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和38年、氏子の浄財で再建。拝殿前には1810(文化7)年に奉納された狛犬2匹。左は口を閉じた吽形うんぎょう、右は口を開いた阿形あぎょうの狛犬。
 右には社務所。その前に見えませんが、神楽を奏する神楽かぐら殿でん。これも見えない宮比神社。注連しめなわをかけた銀杏が見え、前にある百度ひゃくどいしは百度参りをする時に標識する石。またも見えない庚申塔こうしんとう。右で見切れている手水舎ちょうずやの一部。一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。
 ID 8256は庚申塔こうしんとう。目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は、「庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった」。この庚申塔では、猿1匹は桃の実を取り、別の1匹は手に持っており、下に男女名10人が刻まれていました。