神楽坂3丁目」カテゴリーアーカイブ

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。
⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。


神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期

文学と神楽坂

 大正~昭和初期における神楽坂3,4丁目の写真です。まずは大正15年、毎日新聞社『法政大学(大学シリーズ)』(1971年)から。これは坂上、3丁目の商店街です。坂下と比べて、立派な構えの店が多いと地元の方。私もそう思います。

神楽坂の今昔

中央線がまだ甲武鉄道のころから、文士や学生に愛されたためだろう 情緒豊かなうちにも文化の匂いがここにはあった(大正15年)

神楽坂の今昔

 また、当時の商店街を出しておきます。 岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図 昭和5年」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から一部改編したもの。

岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」
洋品 西洋風の品物。特に、洋装に必要な衣類・装身具や身の回り品など。舶来品。
サムライ洋品 サムライ洋品の商売の仕方が書いています。
銀行 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。この建物は石造りで、第二次世界大戦中でも頑丈で、壊れず、おそらく昭和30年以降になって新建物になりました。また「昼夜営業」と書いていますが、銀行内に質屋などがあったのか、あるいはサムライ洋品のPRかもしれません。
春月 そば店。詳しくはここで
田原屋 この建物、果物屋の田原屋だと思えると地元の人。

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)で道の両側がでています。左側が神楽坂3丁目、右側が4丁目に当たります。

大東京写真案内

大東京写真案内。神楽坂。牛込見付から肴町に到るさかみちが神樂坂、今や山手銀座の稱を新宿に奪はれたとは云ふものゝ、夜の神樂坂は、依然露天と學生とサラリーマンと、神樂坂藝妓の艶姿に賑々しい。

大東京写真案内

銀行(白) 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。
花柳病 性病。性感染症の巻看板。その下の「間部医院」の場所は袋町5番目。
斉藤医院 皮膚科・婦人科。神楽坂4丁目8番地にあります。

昭和12年『火災保険特殊地図』

昭和12年『火災保険特殊地図』

きそば そば粉だけで打ったそば。また、小麦粉などの混ぜものが少ないそば。これは「春月そば」の袖看板。
キリン おそらく田原屋の袖看板
アーケード 洋風建築で、アーチ形の天井をもつ構造物。その下の通路。拱廊きょうろう。歩道にかける屋根のような覆いや、覆いつきの商店街。一昔の緑門ではなさそう。
銀行(赤) 東京貯蓄銀行の神楽坂店
幟旗? のぼり旗。長方形の縦長の布を棒に括り付けた表示物。集客効果を高め、情報を知らせるため、目印として立てる旗。ここはたぶんモスリン屋の「警世文」
大東京写真案内
三好野甘味 三好野。おしるこなどの甘味屋。「お金持ちで、家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられて、うらやましかった。(年上の子がいたそうです)」と地元の人。
一寸一杯 ちょっといっぱい。居酒屋や飲み屋でよく使う言葉。さて、どの店舗が「一寸一杯」を使ったのか。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会では魚国鮮魚店か旧勧工場。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では魚国鮮魚店か山形屋支店。山形屋支店はどんな店舗なのか、わかりませんが、山形屋支店に一票いれたいと思います。
加藤荒物店 平屋(一階建て)。荒物は家庭用の雑貨類を売る商売。
メイセン屋 銘仙屋か? でも、それらしい漢字はなさそう。銘仙屋は平織りの絹織物を売る店舗。メイセン屋は反物や呉服を扱っていた。
橋本オモチャ 玩具店
山本喫茶店 詳しくはここで。「コーヒー」や「うなぎの御飯」もここでしょうね。しかし、「うなぎの御飯」まで売るとは、すごい。
竹川靴店 靴店は多くは下駄店や履物店と同じ。ただし、横文字を使っているので、靴だけを売っていた?


伊集院静氏「糖蜜、みっつ」

文学と神楽坂

伊集院静 伊集院静氏は以前は電通やCMディレクター。再婚で女優・夏目雅子氏と結婚したが、妻は死亡。1992年『受け月』で直木賞。女優の篠ひろ子と再々婚。代表作に『機関車先生』など。誕生日は昭和25年2月9日。
 これは氏が三井住友トラストクラブの「シグネチャー」2019年11月号で神楽坂について書いたエッセイです。吉田博氏の木版画「東京拾二題 神楽坂通 雨後の夜」(昭和4年)も付いていました。

和可菜 初めて神楽坂に足を踏み入れたのは、30歳代半ばであったと思う。
 ベテランの編集者に連れられて、タクシーを毘沙門天の前で降り、煎餅屋の脇の細い路地に入り、ちいさな階段を降りて行くと、黒塀の旅館があり、編集者に、ここです、ここでしばらくあなたは頑張るんです、と笑って言われた。
 そこが今月号の扉ページの写真にある『和可菜』という旅館だった。
 木戸を開けて玄関に入ると、老婆が奥の暗がりからあらわれて、あら△×さんいらっしゃい、と言った。こちらが厄介になる伊集院君です。と私を紹介した。私は老婆の顔をじっと見ていた。百歳はとうに越えているのではと思った。
「先生、じゃ部屋にご案内しましょう」
――先生とは誰のことだ?
 どうやら私らしかった。私は子供と老人をあまり好まないので、ちいさく吐息を吐いた。
 初印象と違って、老婆はいい人だった。
 三和土たたきを上がって階段を先に上がる老婆の背中を見ていると、階上から、ミャーオと声がした。見ると黒っぽい猫が一匹、私たちを見下ろしていた。
 三十数年前のことだから猫の名前も、老婆の名前も失念したが、どちらかがトラという名前だった気がする。

百歳はとうに越えている 筆者が35歳と仮定すると、当年は1985年です。「和可菜」の女将、和田敏子氏は1922年に誕生したので(黒川鍾信『神楽坂ホン書き旅館』日本放送出版協会、2002年)、この時は63歳でした。
三和土 土やコンクリートで仕上げた土間。古くは、たたき土と石灰とにがりを混ぜて練ったものを土間に塗り、たたき固めた床仕上げ。

 先月、今はなくなった、その旅館『和可菜』の路地を歩くと、看板は残っていた。
 この塀を飛び越えると、ちいさな池のある小庭があった。水のない池に、あの猫が入って日向ぼこをしていた。
「何やってんだ、おまえ」
 猫は返答しなかったが、気分は良さそうだった。一度、小鳥をくわえて廊下を自慢気に歩いている姿も見た。
 あの夜、連れて行かれた鮨屋とは三十年余りつき合ったが、去年、暖簾を下ろした。
 神楽坂は色川武大さんの生家が近く、先生と二人で競輪の帰りに坂下にある甘み処に入った夕暮れがあった。
 先生は店の人に「餡蜜みっつ」と言った。
 目の前に私のひとつと先生のふたつが並んでいた。ひとつ食べてから、もうひとつ注文すればいいのではと思う人があろうが。
 私は先生のこういうところが好きだった。
「美味しいでしょう? 伊集院君」「はい」

今はなくなった 以前は娘が和可菜を継いでいたようですが、2015年末に閉店
鮨屋 『和可菜』から近くて、現在閉店した寿司屋には「青柳寿司」と「二葉」があります。「青柳寿司」は2013年に閉店、「二葉」は2015年に閉店。ほかに2018年に閉店した寿司屋があるのか、わかりませんでした。
甘み処 あまみどころ。甘い味の菓子を出す飲食店。おそらく「ぜん」のこと。
餡蜜 あんみつ。あんをのせた蜜豆みつまめ。蜜豆とはゆでた赤豌豆えんどう、賽の目に切った寒天、果物などを容器に盛り、蜜をかけて食べるもの。

神楽坂仲通り(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂通りを背後に見て「仲通り」をこれから北に登っていきましょう。

 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。2番目の写真では解像度を上げたもので、ここをたたくと『環境にやさしい商店街 』などが出てきます。

仲通り標柱

 上を見ると「神楽坂仲通り」と巨大な看板が見えたのですが、2017年にこの看板はなくなり、かわって日本語「神楽坂仲通り」と英語の”KAGURAZAKA CENTRAL St.”がある街灯、その下に『環境にやさしい商店街 東京都政策課題対応型 商店街事業 を利用しています 平成29年 神楽坂仲通り商店会』と変わりました。

現在と過去の仲通り

現在と過去の仲通り

 左に芸者新路がでてきますが、写真ではまだ出てきません。階段が付いているのもまだ見えません。その後は右に入る路地があり、フランス料理が2軒ほど並んでいます。手前で左は「ル・クロ・モンマルトル」、後ろはフレンチカフェレストラン「ル・コキヤージュ」です。後者はそば粉のクレープを出してくれます。

 さらに左に入るかくれんぼ横丁がでてきて、そこからすぐのところに料亭「千月(ちげつ)」があります。写真は「千月」です。

 千月

 さらに赤い屋根のイタリア料理店がでると、おしまいです。

仲通り

 昔は料理店や芸妓屋だけでした。現在はフランス料理、イタリア料理、上海料理、寿司などに変わっています。場所は小さいのにあらゆる料理が出てくる。もうどんな場所にいっても大丈夫。

2013/3/26→2019/8/21

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

ポールスタンド看板|本多横丁

文学と神楽坂

 本多横丁の串カツなどの店舗「本多鉄〇てつまる横丁」の前に「本多横丁」について書かれたものがあります。

本多横丁について

本多横丁について

      本 多 横 丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地てあったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、禄高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したか、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
    昭和60年7月
本多横丁商店会

御府内沿革図書 ごふないえんかくずしょ。江戸の延宝年間から幕末までの地図集。1808年に収集を開始。
本多修理 本多家の三代目の本多修理忠能が神楽坂に移動してきた。元禄五(1692)年以降である。
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。関東大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
旧名復活 本多横丁は昭和24年頃「スズラン横丁」に変更し、昭和27年頃、本多横丁に戻した。

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21


 石畳とマンホール
石畳

石畳

文学と神楽坂

見番横丁|神楽坂3丁目(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 見番横丁を見ておきたいと思います。下の写真では中央の灰色の道路が見番けんばん横丁です。その下の青い色の道路はここで登場する場所。さらに、右側に熱海湯階段があります。➀から⑫までは「見番横丁」で、㉑は「熱海湯階段」です。

 当然、全てが上下左右に360度、動きます。矢印をたたくと、前に進みます。

 写真は2019年6月2日です。この食堂たちは、5年後にどれだけが残っているのでしょうか。一応「食べログ」では「中むら」が最高点で4.07、次は「蕎楽亭」で3.88でした。

見番横丁

見番横丁


➁ 伏見火防稲荷神社標柱
➂ 神楽坂組合(芸者の組合)、バル「hajimenoippo 2」、ビアバー「スリジエ
➃ フレンチ「メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ
➅ 神楽坂3丁目テラス(鉄板焼き「中むら」、イタリアン「コグスダイニング」、神楽坂鮨 りんシマダカフェ
➆ 串焼き「串 358
⑩ 焼き鳥「文ちゃん
⑫ 生ビール「ザロイヤルスコッツマン」、イタリアン「Ristorante FIORE」、和食「ほそ川
⑬ 石臼挽き手打蕎楽亭

神楽坂|芸者新路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 芸者新路は明治時代にできた路地で、仲通り本多横丁をつなぐ小道です。


 昔は「芸者屋新道」「芸者屋横丁」と書いていました。現在は「芸者新路」「芸者新道」と2つの表記が混在しています。

 昔は神楽坂通り(つまり表通り)では商店街が多く、一方、裏通り(つまり芸者新路)は三業界の店舗が多く、つまり、料亭・置屋・待合が多いわけです。芸者新路はお座敷に駆け付ける芸者さんたちで肩が触れ合うくらいに混雑して、お座敷の近道として利用しました。

「ロクハチ通り」と呼ばれたこともあります。「ロクハチ」というのは料亭の宴席の開始時間で、一回目が午後6時、二回目が8時です。西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では「神楽坂では芸者の座敷は2時間と決められている。8時を過ぎると次の座敷に移る」そうです。

 1930年ごろまでは非常に華やかな場所でしたが、戦争に入るとその華は次第に消えていきます。戦争が終わり、戦後の1950年代になると、一時、ほぼ昔の勢いを取り戻しましたが、それからは徐々に花柳界の色は減っていきます。

 1980年ごろには4、5軒の料理屋さんがあるだけでした。たとえば1990年2月、大久保孝氏は「坂・神楽坂」でこう書いています。

 石段を登り芸者新路に入って行った。
 同じこの道を昔は芸者屋新道と云っていたようである。それにしても、そういう名前をつける程の道ではない。僅か4、5軒の料理屋が点々とあるだけで、昔のように入口に検番があって、置屋が十軒、待合が十軒両側にならんでいた頃とは趣きが全く違う。入口にあった大きな料亭「末よし」も今はビルになっていて昔の面影はない。すぐ本多横丁にでるがその間話をすることもない。

 ところが、2000年に入る時期になって、逆に飲み屋や、和食、レストランはあっという間に増えてきました。基本的な料理は和食が多く… 芸者新路1
 イタリアンやフレンチなども出てきます。芸者新路JPG

 しかし、芸者新路は神楽坂通りと比べると、店舗の数はわずかです。あらゆる物がそろっている表通りの神楽坂通りとは異なり、飲食店しかありません。陶磁器も香も茶もなく、雑貨屋もコンビニもファッションも子供用品もありません。

 昔はここも石畳でした。1977年、テレビ放送された「気まぐれ本格派」(日本テレビ系列)の舞台は神楽坂で、その当時の「芸者新路」は確かに石畳でした。1990年代に、当局から石畳は使えないといわれて現在の舗装に変えたとのこと。う~ん、なんかなあ。すべて私道です。

 この通りの東側の入口は急に傾斜がある坂で、階段が付いています。これは本来の神楽坂通りの傾斜だといいます。

階段の話
本多横丁の路地
神楽坂仲通り
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

2013年3月5日→2019年5月4日

大銀杏はどこに|神楽坂3丁目

 神楽坂3丁目の大銀杏いちょうはどこにあったのでしょう。江戸時代から昭和半ばまで、3丁目にこの大銀杏がありました。第2次大戦が終わる時でも、三菱銀行、津久戸小学校、さらにこの大銀杏だけが生き延びていました。戦後すぐに、大銀杏は伐採。もともとは旗本の本多宅の邸地にあった銀杏です。さあ、どこにあったのでしょう。

『ここは牛込、神楽坂』第1号(牛込倶楽部、平成6年)の「街の宝もの 第1回 丸島まるしま さん」で、この大銀杏は本人の家にあったといいます。インタビューと文は大谷峯子氏です。

 ここ神楽坂の芸者さんで、現役では一番年配の、おわ佳姐さん。
 明治42年のお生まれだそうで、お三味線の名手もでもいらっしゃます。小路を入ったところにある、お庭の美しいお家でお話をうかがいました。
家にあった大銀杏いちょう
 この土地が私に授かって住むことになった時(昭和23年)、ここのかしらに、「バカ野郎、こんなとこ住んだら、死んじまうよ」って言われたの。ここんところに銀杏があるから。ここは昔、本多さまのお屋敷だったの。それで、不義をした人の首を斬るとこがここだったの。それだから、後で、ここへ銀杏の木を置いたそうですよ。
 でもとにかく、もうここへ決まってからだったから。まあいいや、ここで死ぬ運命なんだと思って。でも、いまだに、こやって生きてますけどね。
 大きな木でしたよ。だって、飯田橋の駅のホームから見えたんだもの。空襲で焼け残ったものだからね。木の焼けたのって、やーね、オバケみたいで。
 それで、父が昔材木屋をしてましたから知りあいの木こりの人に来てもらって、矢来のお釈迦さま(宗柏寺そうはくじ)の住職さんに拝んでいただいて、切ったの。

 同じく『ここは牛込、神楽坂』第1号の竹田真砂子氏『銀杏は見ている』では…

 ところで、本多家の屋敷には、大きな銀杏の古木があった。
 銀杏は火をよけると伝えられ、火事の多い江戸ではよく見かける木である。今も随所にその名残を見ることができ、東京都のシンボルにもなっている。
 この大銀杏は長く生き延び、太平洋戦争の空襲で東京が焼け野原になるまで、佐藤さんというお宅の敷地内にあった。
 幹は、子供が五、六人手をつないでかこんでも足りないほど太く、家屋全体を包み込むように欝蒼と葉が茂っていた。そのせいなのだろう、佐藤さんのお宅は昼間でも暗く、お部屋にはいつも電気がついていた。そして、家が広く、子福者だったが、空き室がいくつもあって、隠れんぼをするには、もってこいだった。
 秋になると、ぎんなんが沢山なった。近所の子供たちは、佐藤さんのお庭にお邪魔してぎんなん拾いを楽しんだ。かぶれるといけない、ということで、みんな手袋をはめさせられたが、「かぶれるかもしれない」という小さな恐怖は、たちまち好奇心に変わり、子供たちはみんな冒険でもするように、わくわくしながらぎんなんを拾った。
 根は、旧本多屋敷いっぱいに広がっているという。だから、この辺一帯、地震が来てもびくともしないのだと、子供たちは聞かされていた。
 しかし、そんな大木も空襲には勝てず、1945年4月13日には、焼夷弾の直撃を受けて、焼木杭になった。焼木杭にはなったが、銀杏は、仁王立ちの形で、どこまでも続く焼け野原を悠然と見渡していた。

焼木杭 やけぼっくい。焼けた杭。燃えさしの切り株、木片。火が消えたように見えても、また燃えだすことがある。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

戦災の神楽坂を見る『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

 元々は本多家だったというので、これは3丁目一番地です。これは地図では青い範囲です。なお、地図の上は本多横丁、右は軽子坂、左は芸者新路、下は神楽坂仲通りです。このうちほとんどは料亭で、当時の普通の家は2軒しかありません。

 2007年、「神楽坂まちの手帖」15号「かくれんぼ横丁」で、渡辺功一氏は

お和佳姐さんのお宅と、お隣の持田さんのあいだに、戦後まで立派なイチョウの本がありました。これは、本多様の屋敷にあったものなんです。実は、イチョウというのは、火災でも燃えにくく、火消しのシンボルだったんです。空襲でこのあたり一帯が焼けたとき、焼け跡でまた新しい芽を吹いてで感動的だった、という話を、この横丁で生まれ育った作家の竹田真砂子さんが書いておられます。

 実は住宅地図で見ると「料亭松島」がその後の「丸島わ桂」の家でした。「わ佳」の間違いでしょうか。

住宅地図。2000年ごろ

住宅地図。2000年ごろ

神楽坂演芸場(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂演芸場(えんげいじょう)は神楽坂3丁目にありました。坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。

駐車場

駐車場

 360°カメラでは…

 この駐車場は「神楽坂演芸場」があったところです。場所はここです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。戦後まで営業したという説(『新宿区の民俗』、新宿歴史博物館、平成13年)もありますが、戦災で終わったという説(吉田章一『東京落語散歩』平成9年、メディカピーシー)の方が有力でしょう。戦争の火災でなくなり、1952年、『火災保険特殊地図』では何も残らず、1960年、住宅協会の『新宿区西部』では、夜警員詰所になっています。

 講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演ずる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色ものが有名でした。

『新宿区の民俗』によれば、「二階建ての建物で一五〇席ほどあった。他の二館は木戸銭が三〇から五〇銭であったのに対し、演芸場は七〇銭とった。他の館よりきれいで芸者衆もよくきていた」と書いてあります。
 写真も残っています。柳家金語楼(きんごろう)などが有名人でした。

 なお、新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)には

 大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
 後年好きになった、桂文楽、三遊亭円生、古今亭志ん生は落語協会の所属なので、聞いていない。
 金語楼はもっぱら兵隊もの。貞山は義士外伝。貞山の息子が府立四中にいたので、中学でも彼の談を聞いたものである。柳好はまだ「がまの油」くらいで、得意の「野ざらし」をやったのは、四十過ぎであったろう。三平の父親の林家正蔵は頭のてっぺんから声を出して、「相撲見物」とか「源平盛衰記」をやった。春風亭柳橋の養子さんは兄の友人で、赤城さんの近くに住んでいたが、この人は「時そば」を脚色した「支那そばや」をやっていた。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。
 正月になると、木戸銭は一円になり、惣出は良いが、まくらもそこそこにひっこんでしまうのは、いただけなかった。でもやっと稼ぎ時になったのだから仕方あるまい。

 中村武志氏が「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)に書き、

 坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸場があって、講談、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

神楽坂の通りと坂に戻る場合