カテゴリー別アーカイブ: 神楽坂3丁目

石畳❤◇☆|かくれんぼ

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁に❤型のピンコロ石畳と、◇や☆を彫った石畳があるのを、知っていますか。平成28年5月、かくれんぼ横丁の石畳が下水管工事のため新しくなりました。このとき、粋な計らいをする職人はいて、特別な石畳3個を埋めたそうです。

私は「美味彩花」で、あったんだとわかりました。本文には「場所を教えてもらったり人に言ったりしては願が叶わなくなるとか…」と書いてあります。そこで私も下の絵を描いておき、ダブルクリックしちゃうと、願いがかなわなくなる、と書いておこう。

千寿|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

『製菓実験』昭和13年4月号に「千壽」(千寿)が出ています。

       千壽
倉本
 不折が泣くであらうが――と云つたら、御主人は不平であらう。が、江戸ツ子は口が惡いものである。この店を見ては、そう言はざるを得ない位である。もつとも、之を菓子屋だとおもつたら間違ひかも知れない。汁粉店であらう。それにしても、店といふものが、お客樣の口に入れるものを入れる特別の入れものだと考へたら、モツト、何んとか考へてよさそうではないか。
 この店を、このまゝ活かすなら、の腰にも同じタイルを張り、入口に淸洒湓色暖簾でもかけることだ。面して、讀者諸君に、こゝで注意したいことは陳列窻の有難さといふことだ。この店で、これが無かつたら、何の店かワカリはせぬ。(もつとも、小さな電氣看板の側面には何とか商賣名が書いてはあるのだらうが……)

 あまり技巧的にならない良い店である。看板とタイルとは不思議にマツチしてゐる。ショーウインドウの腰が何となく粗製の感じがあるのと、その欄間チヨンビリしてゐながらドギツく感じられるのが缺點である。全體的にみて少しおさまり過ぎてゐる處はあるが、それも大して氣にはならない。
 右側の小窻には紙張りの障子を入れた方がいゝであらう。こゝに白い處があれば欄間のドギツさも幾分か救はれるかも知れない。

 新字体の「窓」
清洒 せいしゃ。華美なところがなくさっぱりとしている。
湓色 「ほんいろ」か。「湓」は「水がわきでる」こと。水色?
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。
粗製 作り方が粗雑なこと。雑なつくり。
欄間 らんま。採光、通風、装飾のため天井と鴨居との間の開口部材。
ちょんびり わずかに。ほんの少し。ちょっぴり。
缺點 新字体の「欠点」

 2009年12月号の「かぐらむら」「記憶の中の神楽坂」の「神楽坂1丁目・2丁目・3丁目」で「千寿」が出ています。欠点はどこにもなさそうに、あっさりと、書いています。

場所もお店の詳細も不明である。看板は、新宿中村屋のロゴマークや、漱石の「我が輩は猫である」の挿絵で知られる「中村不折」の揮毫。お菓子屋というよりはお汁粉屋さんであったようだ。

揮毫 きごう。毛筆で文字や絵をかく。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。

 この揮毫は中村不折によるとはっきりとわかっていないと思います。
 千寿の写真で、左側と右側の柱ですこし長さが違い、向かって左側が少し長くなっています。これは、坂道の入り口や降り口の周辺なのでしょう。
 岡崎公一氏の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではよく似た店舗がありました。「天寿堂飴店」です。「千寿」と「天寿」、お汁粉屋と飴店。似ている、似ていない。間違えて千寿を天寿と書いたのでしょうか。

盛文堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 現在は元禄寿司などが入っていますが、戦前は盛文堂などの店舗がありました。

大震災直前と昭和12年元禄寿司

 盛文堂は本屋だけではなく、出版も行っています。『英文朗読法』(1897年)『粋客必携音曲集』(1886年)『薩摩琵琶歌大全』(1909年)『信州政党史』(1922年)などです。

平成と昭和の元禄寿司

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、平成8年には「元禄寿司」があり、一方、昭和5年頃には「成文堂」(盛文堂の誤り?)、「西村毛布店」、「ローヤル洋品」の3店がありました。

 残念ながら昭和12年の火災保険特殊地図(都市製図社)はどうなっているのか不明ですが、おそらく大空襲の時に燃えるまで盛文堂は同じように営業していたのでしょう。

  正宗白鳥は昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書き、

(現在の早稲田大学に入学する前に神楽)坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。

と書いています。

 また、稲垣足穂氏は「横寺日記」(昭和30年)で

八月七日 土曜
 昨夜新宿の真暗まつくらな街上で、六日月、その左かたに落ちかかっている天ノ河、、、を見た。きょうおひる床屋とこや椅子いすけて鏡を見ていたら、盛文堂せいぶんどうたなに山本清一博士の『星座の手ほどき』があったことに気がついた。

赤瓢箪[昔]

文学と神楽坂

神楽坂仲通りの近く、恐らく神楽坂3丁目にあったようです。

昭和2年6月、「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」には「俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)の江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりした」と書いています。

今和次郎編纂『新版大東京案内』(昭和4年)では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

関東大震災でも当然潰れなかったようで、浅見淵氏の『昭和文壇側面史』(昭和43年)では大震災の時には「質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋」には「文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた」と書いてあります。

残念ながら、終戦以降は姿はなくなりました。

春月[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

春月

現在は三菱東京UFJ銀行の一部

 春月はそば屋さんでした。明治より古くから営業し、終戦後も、しばらくは営業して、たとえば、昭和27年、都市製図社の火災保険特殊地図ではやっていますが、昭和30年代には空き地になり、昭和35年には三菱銀行になります。場所は三菱東京UFJ銀行の一部です。地図はここです。

 歌舞伎役者の三代目中村仲蔵氏が書いた『手前味噌』(昭和19年)で、弘化4(1847)年9月には

 挑灯の用意すれど蝋燭を買ふ家なく、四辺は屋敷町ゆゑ、探らぬばかりにして、牛込山伏町より神楽坂の通りへ出る。ヤレ嬉しやと春月庵といふ蕎麦屋へ這入り、蕎麦を喰ふ。それより堀端へ出で、順路猿若町の自宅へ帰る時に、四ツなりし。お千賀、お紋も留守中の難渋さぞかしと、互ひに難儀話に時を移し、我れ土産は少しだがといって金十両出す。女ども涙を飜して大悦び、その夜は足を延ばして緩々旅の労れを休めけり。

 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

春月――毘沙門並びの角店。二階に座敷もある立派なそば屋ですが、時勢は喫茶を一諸にさせてゐます。

 子母沢寛氏の『味覚極楽』(昭和32年、インタビューは昭和2年、他も同じ)「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」では

牛込神楽坂の「春月」もいい。もり、ざるそば、何んでもいいが、あのうちの下地に特徴がある。この方の通人にいわせると、そばは下地をちょっぴりとつけて、するすると吸い込むものだというけれども、私は矢張り下地を適当につけて、囗八分目に入れて行くのがいいと思っている。

 以上は竹内薫兵氏の話ですが、これを受けて子母沢寛自身も「寸刻の味」を書いています。

 神楽坂の「春月」は書生の頃から久しく通った。はじめ何んの気なしに入ったらうまい。通っている中に気がついたのだが、よく天ぷらだの何んだの、吸タネでお酒をのんでいる人が大変多い。大抵行く度にこういう人を見る。天ぷら、五目、鴨なん(、、)というようなものの下地だけをとって酒をのんでいる。後ちに酒のみの先輩にこれを話したら「酒というものは蕎麦でのむと大層うま味が減るものだ、だから蕎麦屋では大抵飛切り上等のものを置く、酒のみは酒をのむためにここへ入る。蕎麦をとっても酒をのみ終えてから御愛想に食う位のものだ。吸タネで酒をのむなどはところがら粋な奴が多いのだろうし、酒も余っ程いいのを出しているな」といった。

 また、子母沢寛氏の『味覚極楽』の「四谷馬方蕎麦 彫刻家 高村光雲翁の話」の高村光雲氏は

 麻布永坂の「更科」、池の端の「蓮玉座」、団子坂の「薮そば」はその頃から有名で、神楽坂の「春月」は二八そば随一のうまさだなどといわれたものだ。

 二八そばとは2x8=16銭で食べさせたそばのこと。あるいは、うどん粉とそば粉の割合を2対8でつくったそば。また、そば粉2、うどん粉8の割合でつくった下等なそば。この二八そばの語源はほかにもいろいろあります。

 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第4号の「語らい広場」では

『手前味噌』の中に見つけた神楽坂のこと
 昆沙門様の隣、三菱銀行の角地に銀行ができるまで「春月」といふそばやさんがありました。戦前からあったお店だったと思ひますが、その頃のことはおぼえてゐません。昭和二十年代、まだ麺類外食券なんてものが必要だった時代(そんなこともあったのです)に、随分よく通ったものです。きりっとした、いはゆる小股の切れ上がったといふお内儀さんがいかにも江戸前といふ感じで、いつも和服で店内を切り廻してゐました。銀行の進出で消えてしまひ残念な思ひがしたことをおぼえてゐます。はやった店だったのに。

田邊孝治