神楽坂3丁目」カテゴリーアーカイブ

見番横丁|神楽坂3丁目(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 見番横丁を見ておきたいと思います。下の写真では中央の灰色の道路が見番けんばん横丁です。その下の青い色の道路はここで登場する場所。さらに、右側に熱海湯階段があります。➀から⑫までは「見番横丁」で、㉑は「熱海湯階段」です。

 当然、全てが上下左右に360度、動きます。矢印をたたくと、前に進みます。

 写真は2019年6月2日です。この食堂たちは、5年後にどれだけが残っているのでしょうか。一応「食べログ」では「中むら」が最高点で4.07、次は「蕎楽亭」で3.88でした。

見番横丁

見番横丁


➁ 伏見火防稲荷神社標柱
➂ 神楽坂組合(芸者の組合)、バル「hajimenoippo 2」、ビアバー「スリジエ
➃ フレンチ「メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ
➅ 神楽坂3丁目テラス(鉄板焼き「中むら」、イタリアン「コグスダイニング」、神楽坂鮨 りんシマダカフェ
➆ 串焼き「串 358
⑩ 焼き鳥「文ちゃん
⑫ 生ビール「ザロイヤルスコッツマン」、イタリアン「Ristorante FIORE」、和食「ほそ川
⑬ 石臼挽き手打蕎楽亭

神楽坂|芸者新路

文学と神楽坂

 芸者新路は明治時代にできた路地で、仲通り本多横丁をつなぐ小道です。

芸者新路

芸者新路

 昔は「芸者屋新道」「芸者屋横丁」と書いていました。現在は「芸者新路」「芸者新道」と2つの表記が混在しています。

 昔は神楽坂通り(つまり表通り)では商店街が多く、一方、裏通り(つまり芸者新路)は三業界の店舗が多く、つまり、料亭・置屋・待合が多いわけです。芸者新路はお座敷に駆け付ける芸者さんたちで肩が触れ合うくらいに混雑して、お座敷の近道として利用しました。

「ロクハチ通り」と呼ばれたこともあります。「ロクハチ」というのは料亭の宴席の開始時間で、一回目が午後6時、二回目が8時です。西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では「神楽坂では芸者の座敷は2時間と決められている。8時を過ぎると次の座敷に移る」そうです。

 1930年ごろまでは非常に華やかな場所でしたが、戦争に入るとその華は次第に消えていきます。戦争が終わり、戦後の1950年代になると、一時、ほぼ昔の勢いを取り戻しましたが、それからは徐々に花柳界の色は減っていきます。

 1980年ごろには4、5軒の料理屋さんがあるだけでした。たとえば1990年2月、大久保孝氏は「坂・神楽坂」でこう書いています。

 石段を登り芸者新路に入って行った。
 同じこの道を昔は芸者屋新道と云っていたようである。それにしても、そういう名前をつける程の道ではない。僅か4、5軒の料理屋が点々とあるだけで、昔のように入口に検番があって、置屋が十軒、待合が十軒両側にならんでいた頃とは趣きが全く違う。入口にあった大きな料亭「末よし」も今はビルになっていて昔の面影はない。すぐ本多横丁にでるがその間話をすることもない。

 ところが、2000年に入る時期になって、逆に飲み屋や、和食、レストランはあっという間に増えてきました。基本的な料理は和食が多く… 芸者新路1
 イタリアンやフレンチなども出てきます。芸者新路JPG

 しかし、芸者新路は神楽坂通りと比べると、店舗の数はわずかです。あらゆる物がそろっている表通りの神楽坂通りとは異なり、飲食店しかありません。陶磁器も香も茶もなく、雑貨屋もコンビニもファッションも子供用品もありません。

 昔はここも石畳でした。1990年代に、当局から石畳は使えないといわれて現在のものに変えました。う~ん、なんかなあ。すべて私道です。
芸者

 この通りの東側の入口は急に傾斜がある坂で、階段が付いています。これは本来の神楽坂通りの傾斜だといいます。

階段の話
本多横丁の路地
神楽坂仲通り
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

2013年3月5日→2019年5月4日

大銀杏はどこに|神楽坂3丁目

 神楽坂3丁目の大銀杏いちょうはどこにあったのでしょう。江戸時代から昭和半ばまで、3丁目にこの大銀杏がありました。第2次大戦が終わる時でも、三菱銀行、津久戸小学校、さらにこの大銀杏だけが生き延びていました。戦後すぐに、大銀杏は伐採。もともとは旗本の本多宅の邸地にあった銀杏です。さあ、どこにあったのでしょう。

『ここは牛込、神楽坂』第1号(牛込倶楽部、平成6年)の「街の宝もの 第1回 丸島まるしま さん」で、この大銀杏は本人の家にあったといいます。インタビューと文は大谷峯子氏です。

 ここ神楽坂の芸者さんで、現役では一番年配の、おわ佳姐さん。
 明治42年のお生まれだそうで、お三味線の名手もでもいらっしゃます。小路を入ったところにある、お庭の美しいお家でお話をうかがいました。
家にあった大銀杏いちょう
 この土地が私に授かって住むことになった時(昭和23年)、ここのかしらに、「バカ野郎、こんなとこ住んだら、死んじまうよ」って言われたの。ここんところに銀杏があるから。ここは昔、本多さまのお屋敷だったの。それで、不義をした人の首を斬るとこがここだったの。それだから、後で、ここへ銀杏の木を置いたそうですよ。
 でもとにかく、もうここへ決まってからだったから。まあいいや、ここで死ぬ運命なんだと思って。でも、いまだに、こやって生きてますけどね。
 大きな木でしたよ。だって、飯田橋の駅のホームから見えたんだもの。空襲で焼け残ったものだからね。木の焼けたのって、やーね、オバケみたいで。
 それで、父が昔材木屋をしてましたから知りあいの木こりの人に来てもらって、矢来のお釈迦さま(宗柏寺そうはくじ)の住職さんに拝んでいただいて、切ったの。

 同じく『ここは牛込、神楽坂』第1号の竹田真砂子氏『銀杏は見ている』では…

 ところで、本多家の屋敷には、大きな銀杏の古木があった。
 銀杏は火をよけると伝えられ、火事の多い江戸ではよく見かける木である。今も随所にその名残を見ることができ、東京都のシンボルにもなっている。
 この大銀杏は長く生き延び、太平洋戦争の空襲で東京が焼け野原になるまで、佐藤さんというお宅の敷地内にあった。
 幹は、子供が五、六人手をつないでかこんでも足りないほど太く、家屋全体を包み込むように欝蒼と葉が茂っていた。そのせいなのだろう、佐藤さんのお宅は昼間でも暗く、お部屋にはいつも電気がついていた。そして、家が広く、子福者だったが、空き室がいくつもあって、隠れんぼをするには、もってこいだった。
 秋になると、ぎんなんが沢山なった。近所の子供たちは、佐藤さんのお庭にお邪魔してぎんなん拾いを楽しんだ。かぶれるといけない、ということで、みんな手袋をはめさせられたが、「かぶれるかもしれない」という小さな恐怖は、たちまち好奇心に変わり、子供たちはみんな冒険でもするように、わくわくしながらぎんなんを拾った。
 根は、旧本多屋敷いっぱいに広がっているという。だから、この辺一帯、地震が来てもびくともしないのだと、子供たちは聞かされていた。
 しかし、そんな大木も空襲には勝てず、1945年4月13日には、焼夷弾の直撃を受けて、焼木杭になった。焼木杭にはなったが、銀杏は、仁王立ちの形で、どこまでも続く焼け野原を悠然と見渡していた。

焼木杭 やけぼっくい。焼けた杭。燃えさしの切り株、木片。火が消えたように見えても、また燃えだすことがある。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

戦災の神楽坂を見る『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

 元々は本多家だったというので、これは3丁目一番地です。これは地図では青い範囲です。なお、地図の上は本多横丁、右は軽子坂、左は芸者新路、下は神楽坂仲通りです。このうちほとんどは料亭で、当時の普通の家は2軒しかありません。このどちらかが大銀杏の場所なのでしょうか。誰かもっとよく知っている人はいませんか。

住宅地図。新宿区西部。住宅協会。1960。

住宅地図。新宿区西部。住宅協会。1960。

神楽坂演芸場(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂演芸場(えんげいじょう)は神楽坂3丁目にありました。坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。

駐車場

駐車場

 360°カメラでは…

 この駐車場は「神楽坂演芸場」があったところです。場所はここです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。戦後まで営業したという説(『新宿区の民俗』、新宿歴史博物館、平成13年)もありますが、戦災で終わったという説(吉田章一『東京落語散歩』平成9年、メディカピーシー)の方が有力でしょう。戦争の火災でなくなり、1952年、『火災保険特殊地図』では何も残らず、1960年、住宅協会の『新宿区西部』では、夜警員詰所になっています。

 講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演ずる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色ものが有名でした。

『新宿区の民俗』によれば、「二階建ての建物で一五〇席ほどあった。他の二館は木戸銭が三〇から五〇銭であったのに対し、演芸場は七〇銭とった。他の館よりきれいで芸者衆もよくきていた」と書いてあります。
 写真も残っています。柳家金語楼(きんごろう)などが有名人でした。

 なお、新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)には

 大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
 後年好きになった、桂文楽、三遊亭円生、古今亭志ん生は落語協会の所属なので、聞いていない。
 金語楼はもっぱら兵隊もの。貞山は義士外伝。貞山の息子が府立四中にいたので、中学でも彼の談を聞いたものである。柳好はまだ「がまの油」くらいで、得意の「野ざらし」をやったのは、四十過ぎであったろう。三平の父親の林家正蔵は頭のてっぺんから声を出して、「相撲見物」とか「源平盛衰記」をやった。春風亭柳橋の養子さんは兄の友人で、赤城さんの近くに住んでいたが、この人は「時そば」を脚色した「支那そばや」をやっていた。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。
 正月になると、木戸銭は一円になり、惣出は良いが、まくらもそこそこにひっこんでしまうのは、いただけなかった。でもやっと稼ぎ時になったのだから仕方あるまい。

 中村武志氏が「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)に書き、

 坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸館があって、講談、落語がかかっていた。
 当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの蔽落語をあみだして、これも人気があった。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

神楽坂の通りと坂に戻る場合

神楽坂|伏見火防稲荷神社

文学と神楽坂

 さて次に行きましょう。現在路地の右手に小さな稲荷神社があります。場所はここ
三叉路

 これが伏見ふしみ火防ひぶせ稲荷いなり神社です。

組合神社

 神社人(日本を楽しむ神社ファン・コミュニティサイト)によると総本社は伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)。ご祭神は、御魂みたま神。生産の神/五穀豊穣の神。商売繁盛、五穀豊穣などを祈願。参拝形式は、二拝二拍一拝。 つまり火の手から守ることです。
 もう少し近くに行ってみましょう。

神楽坂組合

 こうすると東京神楽坂組合(芸者の組合)や料亭松ケ枝などの名前が出ています。

 つまりこの小さな稲荷神社は東京神楽坂組合の祈りや希望もたくさん入っているんですね。

 実際に芸者さんが稽古に行ったりお座敷を行き帰りにお参りをしていくこともあるようです。

 次は見番横丁です。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

神楽坂|見番横丁(360°パノラマカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂の見番(けんばん)横丁の東端はここです。見番(検番、券番)というのは芸妓組合の事務局のことです。

 正面に「神楽坂組合稽古場」が見えています。場所はここ

神楽坂組合 神楽坂組合

 また「見番けんばん横丁」の標柱があります。この標柱には

見番横丁
Kenban-yokocho
芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる

と書いてあります。

 時々ここ2階から三味線が聞こえてきます。嘘ではなく本当にです。ここでT字路になります。360°カメラでは、伏見火防稲荷神社から、見番横丁、神楽坂組合稽古場、メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ、熱海湯階段です。

 また下の写真は360°のカメラでとったものです。上下左右に動き、また矢印をたたくとその方向に移動して別の写真になります。

 三差路で、左手に行くと熱海湯階段です。

 ここから右に曲がって進むと

見番2

 左手はフランス料理の「メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ」が見えます。場所はここ

ブルゴーニュ

 さらに右に進むと、地下に有名な鉄板焼き「中むら」が入るビル「神楽坂三丁目テラス」があります。千本格子の模様があります。「中むら」のシェフは帝国ホテルの鉄板焼「嘉門」で勤めていました。値段は8400円など。場所はここ

 

 さらに行くと、焼鳥の「文ちゃん」が地下1階に出てきます。お任せ8本で4300円。昔の「伊勢籐」と似ていると、思います。場所は地下一階のここ文ちゃん

 ここで見番横丁は終わりですが…

 最近、「Vietnam Alice」ができました。神楽坂では初めてのベトナム料理店です。日本的なベトナム料理店ですが、それでもできるのは嬉しい。(しかし、2019年春、閉店)

拝啓、父上様」で田原一平が坂下夢子から携帯で呼び出されたY字の路地はここ(↓)です。3叉

 なおY字の右手は見番横丁ですが、Y字の左手は「三つ叉通り」だと『ここは牛込、神楽坂』第13号の座談会でいっています。三つ叉通りの一角で割烹「弥生」は終了し、2018年5月に日本料理「ほそ川」に変わりました。

 ここから地図の右手は元の見番横丁から伏見火防稲荷神社に戻ります。

 左手は五十番や昔の神楽坂演芸場に出る場所です。

神楽坂の通りと坂に戻る場合

文学と神楽坂

石畳❤◇☆|かくれんぼ

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁に❤型のピンコロ石畳と、◇や☆を彫った石畳があるのを、知っていますか。平成28年5月、かくれんぼ横丁の石畳が下水管工事のため新しくなりました。このとき、粋な計らいをする職人はいて、特別な石畳3個を埋めたそうです。

 私は「美味彩花」で、あったんだとわかりました。本文には「場所を教えてもらったり人に言ったりしては願が叶わなくなるとか…」と書いてあります。そこで私も下の絵を描いておき、ダブルクリックしちゃうと、願いがかなわなくなる、と書いておこう。

千寿|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

『製菓実験』昭和13年4月号に「千壽」(千寿)が出ています。

       千壽
倉本
 不折が泣くであらうが――と云つたら、御主人は不平であらう。が、江戸ツ子は口が惡いものである。この店を見ては、そう言はざるを得ない位である。もつとも、之を菓子屋だとおもつたら間違ひかも知れない。汁粉店であらう。それにしても、店といふものが、お客樣の口に入れるものを入れる特別の入れものだと考へたら、モツト、何んとか考へてよさそうではないか。
 この店を、このまゝ活かすなら、の腰にも同じタイルを張り、入口に淸洒湓色暖簾でもかけることだ。面して、讀者諸君に、こゝで注意したいことは陳列窻の有難さといふことだ。この店で、これが無かつたら、何の店かワカリはせぬ。(もつとも、小さな電氣看板の側面には何とか商賣名が書いてはあるのだらうが……)

 あまり技巧的にならない良い店である。看板とタイルとは不思議にマツチしてゐる。ショーウインドウの腰が何となく粗製の感じがあるのと、その欄間チヨンビリしてゐながらドギツく感じられるのが缺點である。全體的にみて少しおさまり過ぎてゐる處はあるが、それも大して氣にはならない。
 右側の小窻には紙張りの障子を入れた方がいゝであらう。こゝに白い處があれば欄間のドギツさも幾分か救はれるかも知れない。

 新字体の「窓」
清洒 せいしゃ。華美なところがなくさっぱりとしている。
湓色 「ほんいろ」か。「湓」は「水がわきでる」こと。水色?
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。
粗製 作り方が粗雑なこと。雑なつくり。
欄間 らんま。採光、通風、装飾のため天井と鴨居との間の開口部材。
ちょんびり わずかに。ほんの少し。ちょっぴり。
缺點 新字体の「欠点」

 2009年12月号の「かぐらむら」「記憶の中の神楽坂」の「神楽坂1丁目・2丁目・3丁目」で「千寿」が出ています。欠点はどこにもなさそうに、あっさりと、書いています。

場所もお店の詳細も不明である。看板は、新宿中村屋のロゴマークや、漱石の「我が輩は猫である」の挿絵で知られる「中村不折」の揮毫。お菓子屋というよりはお汁粉屋さんであったようだ。

揮毫 きごう。毛筆で文字や絵をかく。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。

 この揮毫は中村不折によるとはっきりとわかっていないと思います。
 千寿の写真で、左側と右側の柱ですこし長さが違い、向かって左側が少し長くなっています。これは、坂道の入り口や降り口の周辺なのでしょう。
 岡崎公一氏の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではよく似た店舗がありました。「天寿堂飴店」です。「千寿」と「天寿」、お汁粉屋と飴店。似ている、似ていない。間違えて千寿を天寿と書いたのでしょうか。

盛文堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 現在は元禄寿司などが入っていますが、戦前は盛文堂などの店舗がありました。

大震災直前と昭和12年元禄寿司

 盛文堂は本屋だけではなく、出版も行っています。『英文朗読法』(1897年)『粋客必携音曲集』(1886年)『薩摩琵琶歌大全』(1909年)『信州政党史』(1922年)などです。

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、平成8年には「元禄寿司」があり、一方、昭和5年頃には「成文堂」(盛文堂の誤り?)、「西村毛布店」、「ローヤル洋品」の3店がありました。

平成と昭和の元禄寿司

 残念ながら昭和12年の火災保険特殊地図(都市製図社)はどうなっているのか不明ですが、おそらく大空襲の時に燃えるまで盛文堂は同じように営業していたのでしょう。

  正宗白鳥は昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書き、

(現在の早稲田大学に入学する前に神楽)坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。

と書いています。

 また、稲垣足穂氏は「横寺日記」(昭和30年)で

八月七日 土曜
 昨夜新宿の真暗まつくらな街上で、六日月、その左かたに落ちかかっている天ノ河、、、を見た。きょうおひる床屋とこや椅子いすけて鏡を見ていたら、盛文堂せいぶんどうたなに山本清一博士の『星座の手ほどき』があったことに気がついた。

赤瓢箪[昔]

文学と神楽坂

 小料理の赤瓢箪は神楽坂仲通りにあり、恐らく神楽坂3丁目にあったようです。

 昭和2年6月、「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」には

俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)の江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりした。

 今和次郎編纂『新版大東京案内』(昭和4年)では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん。

 昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

 もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 関東大震災でも当然潰れなかったようで、浅見淵氏の『昭和文壇側面史』(昭和43年)では大震災の時には

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。

 残念ながら、終戦以降は姿はなくなりました。