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つゆのあとさき|永井荷風(2)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。今回は「荷風全集第八巻」(岩波書店)から直接とりました。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人の矢さんを中心にしています。

「神樂。五十錢。」と矢田は君江の手を取つて、車に乗り、「阪の下で降りやう。それから少し歩かうぢやないか。」
「さうねえ。」
「今夜は何となく夜通し歩きたいやうな氣がするんだよ。」と矢田は腕をまはして輕く君江を抱き寄せると、君江は其のまゝ寄りかゝつて、何も彼も承知してゐながら、わざと、
「矢さん。一軆どこへ行くの。」ときいた。
 矢田の方でも隨分白ばツくれた女だとは思ひながら、其の經歴については何事も知らないので、表面は摺れてゐても、其の實案外それ程ではないのかと云ふ氣もするので、此の場合は女の仕向けるがまゝ至極おとなしい女給さんとして取扱つてゐれば聞違ひはないと、君江の耳元へ口を寄せて、
待合だよ。」と囁き聞かせ、「差しつかへはないだらう。今夜は晩いからね。僕の知つてる處がいいだらう。それとも君江さん。どこか知つてゐるなら、そこへ行かう。」
 思ひがけない矢田の仕返しに、流石の君江も返事に困り、「いゝえ。何處だつてかまはないわ。」
「ぢゃ、阪下で降りやう。尾澤カツフヱーの裏で、静な家を知つてゐるから。」
 君江はうなづいたまゝの外へ目を移したので、會話はなしはそのまゝ杜絶とだえる間もなく車は神樂阪の下に停つた。商店は殘らず戸を閉め、宵の中賑な露店も今は道端にや紙屑を散らして立去つた後、ふけ渡つた阪道には屋臺の飲食店がところ/”\に殘つてゐるばかり。酔つた人達のふら/\とよろめき歩む間を自動車の馳過る外には、藝者の姿が街をよこぎつて横町から横町へと出没するばかりである。毘沙門のの前あたりまで來て、矢田は立止つて、向側の路地口を眺め、
「たしかこの裏だ。君江さん。草履だらう。水溜りがあるぜ。」
 石を敷いた路地は、二人並んでは歩けない程せまいのを、矢田は今だに一人先に立つて行つたら君江に逃げられはせぬかと心配するらしく、ハメ板や肩先が觸るのもかまはず、身をにしながら並んで行くと、突當りに稻荷らしい小さなやしろがあつて、低い石垣の前で路地は十文字にわかれ、その一筋はすぐさま石段になつて降り行くあたりから、其時靜な下駄の音と共に褄を取つた藝者の姿が現れた。二人はいよ/\身を斜にして道を譲りながら、ふと見れば、乱れた島田のたぼに怪し氣な癖のついたのもかまはず、歩くのさへ退儀らしい女の様子。矢口は勿論の事。君江の目にも寐静つた路地裏の情景が一段艶しく、いかにも深け渡つた色町の夜らしく思ひなされて來たと見え、言合したやうに立止つて、その後姿を見送つた。それとも心づかぬ藝者は、稻荷の前から左手へ曲る角の待合の勝手口をあけて這入るが否や、疲れ果てた様子とは忽ち變つた威勢のいゝ聲で、「かアさん。もう間に合はなくつて。」
 君江は耳をすましながら、「矢さん。わたしも藝者にならうと思つたことがあるのよ。ほんとうなのよ。」
「さうか。君江さんが。」と矢田はいかにもびつくりしたらしく、其の事情わけをきかうとした時、早くも目指した待合の門口へ來た。内にはまだ人の氣勢けはひがしてゐたが、門の扉の閉めてあるのを、矢田は「おい/\」と呼びながら敲くと、すぐに硝子戸の音と、下駄をはく音がして、
「どなたさま。」と女の聲。
「僕。矢さんだよ。」
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
 坂と阪は異体字で、同じ意味の漢字です。通常では大阪などの特別な地名や人名では「阪」。それ以外には「坂」を使います。
しらばくれた 知らない振りをする。知っていながら知らないふりをする。
摺れる すれる。いろいろの経験をして、純粋な気持ちがなくなる。世間ずれがする。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
尾沢カフェー カフェー・オザワ。大東京繁昌記に詳しい。
 窓の旧字体。
賑な にぎやかな。富み栄えて繁盛する。にぎわう。
 あくた。腐ったりして捨てられているもの。ごみ。くず
ふけ渡つた 更け渡る。ふけわたる。夜がすっかりける。深夜になる。夜が深まる。
馳過る かけすぎる。はせすぎる。走って過ぎる。馬を急ぎ走らせて通る。またたく間に過ぎてしまう。
 ほこら。神を祭った小さなやしろ
向側の路地口 平松南氏によれば、ごくぼその路地です。
草履 ぞうり。歯がなく、底が平らで、鼻緒がある。

女物の草履

ハメ板 壁や天井に連続して張る板
 ひじ。肘。上腕と前腕とをつなぐ関節部の外側。
觸る さわる。軽くさわる。ふれる。
 ななめ。なのめ。傾いている。
稲荷 いなり。稲荷神社。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が総本社。
 やしろ。神の来臨するところ。神をまつる殿舎。神社。
路地は十文字に 地図は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)から取りました。ここで稲荷と四つ角を赤い四角()で、石段を赤丸()で表すと、行った待合は「松月」「よろづ」などになるでしょう。なお、赤丸()から、右につながる道は現在ありません。新しい道は左にできています(兵庫横丁は1960年代から

新宿区教育委員会「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

褄を取る つまをとる。すその長い着物の褄を手でつまみあげて歩く。芸者になる。左褄をとる。
 たぼ。日本髪の部分名で、後頭部から耳裏の部分

日本髪

寝静った ね-しずまる。夜がふけ、人々が寝入ってあたりが静かになる。
艶めかしい なまめかしい。姿やしぐさが色っぽい。あだっぽい。
思いなす 思い做す。心に受け取る。思い込む。推定して、それと決める。
言合す いいあわす。前もって話し合う。口をそろえて言う。同じことを言う。相談する
心づかぬ 心遣(こころづかい)とは「いろいろと、細かく気をつかうこと」。「心づかぬ」は反対語
忽ち たちまち。すぐ。即刻
敲く たたく。叩く。手や道具を用いて打つ。続けて、あるいは何度も打つ。

 君江はおぼえず口の端に微笑を浮べたのを、矢田は何事も知らないので、笑顏を見ると共に唯嬉しさのあまり、力一ぱい抱きしめて、
「君さん、よく承知してくれたねえ。僕は到底駄目だろうと思つて絶望していたんだよ。」
「そんな事ないわ。わたしだつて女ですもの。だけれど男の人はすぐ外の人に話をするから、それでわたし逃げてゐたのよ。」と君江は男の胸の上に抱かれたまゝ、羽織の下に片手を廻し、帶の掛けを抜いて引き出したので、薄い金紗捻れながら肩先から滑り落ちて、だんだら染長襦袢の胸もはだけた艶しさ。男はます/\激した調子になり、
「こう見えたつて、僕も信用が大事さ。誰にもしやべるもんかね。」
「カツフヱーは實に口がうるさいわねえ。人が何をしたつて餘計なお世話ぢやないの。」と言ひながら、端折りしごきを解き棄てひざの上に抱かれたまゝ身をそらすやうにして仰向あおむきに打倒れて、「みんな取つて頂戴、足袋もよ。」
 君江はかういう場合、初めて逢つた男に對しては、度々馴染を重ねた男に對する時よりも却って一倍の興味を覺え、思ふさま男を惱殺して見なければ、氣がすまなくなる。いつから斯う云う癖がついたのかと、君江は口説かれてゐる最中にも時々自分ながら心付いて、中途で止めやうと思ひながら、さうなると却て止められなくなるのである。美男子に對する時よりも、醜い老人や又は最初いやだと思つた男を相手にして、こういう場合に立到ると、君江は猶更烈はげしくいつもの癖が增長して、後になつて我ながら淺間しいと身顫ひする事も幾度だか知れない。
 この夜、平素氣障きざな奴だと思つてゐた矢田に迫まられて、君江は途中から急に其の言うがまゝになり出したのも、知らず/\いつもの惡い癖を出したまでの事である。
帯の掛け 帯掛。おびかけ。大名の奥女中などが使った帯留の一種。女性の帯の上を、おさえしめるひもで、両端に金具があってかみ合わせるようになっている
金紗 きんしゃ。紗の地に金糸などを織り込んで模様を表した絹織物。
 あわせ。裏地のついている衣服
捻る ねじる。捩る。捻る。拗る。細長いものの両端に力を加えて、互いに逆の方向に回す。ひねって回す。
だんだら染 だんだんぞめ。段だら染。布帛ふはくや糸を種々の色で横段に染めること
長襦袢 ながじゅばん。長着の下に重ねて着用する下着
艶しさ なまめかしい。艷めかしい。性的魅力を表現して、色っぽい。つやっぽい。
激する げきする。怒りなどで興奮する。いきりたつ。
端折り はしょり。着物のすそをはしょること。ある部分を省いて短く縮めること
しごき 志古貴。帯の下に巻いて斜め後ろに垂らす飾り帯
棄て すてる。捨てる。いらないか、価値がないものとして投げ出す。
馴染 なじみ。同じ遊女のもとに通いなれること。
却って かえって。予想とは反対になる。反対に。逆に。
口説く くどく。自分の意志に従わせようと、あれこれ言い迫る。こちらの意向を相手に承知してもらおうとして、熱心に説いたり頼んだりする。説得する
止める やめる。継続しているものを続かなくさせる。
立到る たちいたる。ある状態になる。とうとうそのような事態になる。
猶更 なおさら、いちだんと。ますます。
烈しい はげしい。烈い。激い。勢いが強い。あらあらしい。
身顫い みぶるい。寒さや恐ろしさなどのために体がふるえ動く
気障 服装、態度、言葉などが気取っていて、いやみ。

「見返し横丁」に抜け道新設へ

文学と神楽坂

 地元の方から「見返し横丁」(か「見返り横丁」)に関する文章をいただきました。

 神楽坂4丁目、本多横丁から脇に入る通称「見返し横丁」は、ある時期まで「兵庫横丁」に出る抜け道がありました。現在はブロック塀でふさがれています。
 これとは別の「抜け道」を新設するプランが進行しています。
 新宿区は「神楽坂三・四・五丁目地区地区計画の都市計画変更原案」を策定し、令和5年1月13日の新宿区都市計画審議会に報告しました。
 注意点として、区の資料では一貫して該当する路地を「見返り横丁」と呼んでいます。「まちづくりキーワード集」(1977年)で図示した路地と違います。また雑誌「ここは牛込、神楽坂」でつけた愛称「見返し横丁」は採用していません。路地の名前が地元に定着していなかったことを示唆します。
 さて、区は審議会に次のように報告しました。
 見返り横丁につきましては、行き止まり道路になっているといったようなところがありますので、2方向避難の観点から、地区内の地権者のご協力を得て0.6m、60cmの避難経路を確保するといったところで、こちらの避難経路についても地区施設に位置づけるといったところです。

 資料の図を見ると、東京理科大学森戸記念館の脇のスペースを「見返し横丁」から「酔石横丁」へ通じる38メートルの避難路として活用するようです。現在は屏や植栽で通れなくしていますが、これを除去するのだと思います。避難路ですから常時、通れる形でしょう。

避難路「酔石横丁」側 黒い柵の内側

避難路「見返し横丁」側 黒い柵の内側

東京都市計画地区計画 神楽坂三・四・五丁目地区地区計画

 幅60センチは「ごくぼそ」よりはるかに狭く、新たな「路地」として名所になるかも知れません。同時に「見返り横丁」という名も、今後は定着するように思います。
 新宿区は令和5年10月の正式決定を予定しているとのことです。

「見返し」とは「1 書物の表紙と本文との間にあって、両者の接着を補強する2ページ大の紙。一方は表紙の内側に貼りつけ、もう一方は「遊び」といって、本文に接する。2 和装本で、表 (おもて) 表紙の裏にはる紙または布。著者名・書名・発行所などを印刷したものが多い。3 洋裁で、襟ぐりや打ち合わせ・袖ぐり・袖口などの縁の始末に用いる布。多く共切れを用いる」

「見返り」とは「1 ふりかえること。見返り美人。2 担保・保証またはお返しとして差し出すこと。その差し出したもの。見返り品」

 つまり「見返し」と「見返り」、あるいは「見返し横丁」と「見返り横丁」とは別々の意味でした。私もどちらがどちらなのか、よくわからないし、多分、新宿区の人もわかっていなかったのでしょう。しかし、インターネット、地図、津久戸小学校の「つくどがみてきたまちのふうけい」などは全て「見返し横丁」です。おそらく10月までに新宿区は間違えたと思って、正しく直っていると思いますが……。

ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場

文学と神楽坂

黒川鍾信

 2003年3月、黒川鍾信あつのぶ氏が書いた「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」(pdf)です。副題は「神楽坂ホン書き旅館『和可菜』の50年」。2002年、NHK出版で上梓した「神楽坂ホン書き旅館」の評判がよく、そこで明治大学はこの講演会を依頼しました。著者は明治学院大学大学院を卒業し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学。明治大学情報コミュニケーション学部教授。2009年定年退職。ちなみに『神楽坂ホン書き旅館』は第51回日本エッセイスト・クラブ賞をとっています。生年は昭和13年9月2日。

神楽坂の、今回モデルになった「和可菜」のすぐそばに「川田」という旅館があった。年配の方は知っていると思いますが、かつて川田晴久という歌手・俳優がいました。若い人のために説明しますと、美空ひばりを一流の歌手にした人です。その親戚がやっていた「川田」です。そういう旅館があって、ほとんどが昭和20年代に開業しました。
 先ほど言いました私の叔母が、あるとき神楽坂に旅館の売り物があるから買わないかと誘われました。女優をやっていますからお金はたっぷりある。じゃ、買っておこうと、買いにいったら、売り主が自分と同じ名字の、(芸名は木暮実千代、本名は和田つま)和田なんですね。これだったら登記も簡単だ、というような軽い乗りで買ったわけです。それが現在の、たった5部屋きりない旅館だったわけです。
 神楽坂というのは色町なんです。「色町」という言葉は今はなくなっていますけれども三業地です。いわゆる料亭の多いところだった。「料亭」という言葉は、これは戦後、料亭という言葉になったんですけど、昔は「待合茶屋」と言いました。戦後条例が変わりまして、料理屋と茶屋が合併して料亭になったのです。料理を出して、なおかつ宴会をさせて、昔は茶屋ですから泊めたんですけど、今は一切泊めてはいけない。要するに、お座敷遊びの場所を貸し、料理を出すところになったわけです。これがいわゆる三業地です。これが昔の色町との違いです。(中略)
 叔母が旅館を買っだのが昭和28年です。買って、ほっておいたら近所から文句がきた。色町の真ん中に1軒だけ電気も点けない家があるのは困る、何とかしてくれと。それで叔母の一番下の妹に、「あなた、あそこへ行って女将やりなさいよ」と言って開業したのが昭和29年です。
川田晴久 かわだはるひさ。俳優。コメディアン。昭和8年。吉本興業に入社。12年坊屋三郎らと「あきれた・ぼういず」を結成し、ギターを片手に歌謡漫談。14年ミルク・ブラザーズを結成、テーマソング「地球の上に朝が来る…」で再び人気を得る。17年脊髄カリエスを発病。10数年の闘病生活。戦後は美空ひばり映画にしばしば出演した。生年は明治40年3月15日、没年は昭和32年6月21日。享年は50歳。
美空ひばり 歌手。1949年8月映画『踊る竜宮城』に出演し,その主題歌『河童ブギウギ』でレコード・デビュー。日本コロムビア・レコードと専属契約。「歌謡界の女王」として作品は1000曲以上。生年は昭和12年5月29日、没年は平成元年6月24日。享年は52歳。
色町 遊郭、芸者屋、待合などのある町。花柳街
三業地 芸妓げいぎ屋、待合まちあい、料理店からなる三業組合(同業組合の一種)が組織されている区域
待合茶屋 一般に待合と略称。明治以降は芸者との遊興を目的とするところと変質して発展。

 不思議なことに、あそこの旅館で書いたものはヒットするという噂が広まる。それから、昭和40年代になるとあそこで書いた小説が当たったとか、賞をとったとか、次々と出てくるわけです。それで別名「出世旅館」という噂が業界に流れるわけです。
 事実、その頃、これから伸びようとする人たちが大勢来ていたので、これは当然なことなのです。例えばOLをやめて初めての作品『BU・SU』という作品を書いた内館牧子さん。今やあそこまで立派になったけど、初めてあそこへ来たとき、これは記録に残るからまずいんですけど、履いてきた靴も本当にボロで、質素な格好して、それで一生懸命書いて偉くなっていったのです。
出世旅館 ある旅館に泊まり、作品を世に出して、非常に成功する。そんな旅館のこと。

 いい映画というのは脚本を書くとき、2人か3人で共同執筆しているケースが多いです。例えば、山田洋次さんは朝間義隆さんと必ず共同執筆なのです。ほとんど2人で書いているわけです。先週封切りされた『たそがれ清兵衛』も2人で書きました。
 渥美清さんが亡くなったとき、松竹が危機だと言われたことがあります。というのは、「寅さん」の興行収入で松竹社員の給料がほとんど支払われていたからです。収入の40%以上は「寅さん」が稼いでいたわけですから、作る方はいかに大変だったか。年2作ですよ。同じパターンじゃなければいけない。だって観ている人は、寅さんがマドンナと結婚しちゃったら、みんなブーイングです。最後はふられてまた旅へ出て行く。あのパターンの中で、なおかつ人の心にシーンとくるものを作らなければいけないわけですから、大変な作業だったわけです。
 最近書いてる「釣りバカ日誌」は、ワーワーワーワーやりながら若手が書いています。けれども、やはり最後は山田洋次さんと朝間さんが入って、締めるところを締めないと…。これは裏話ですが、西田敏行さんや三國連太郎さんなど錚々そうそうたる俳優をつかえる監督がいなくなっているんです。「これは山田さんの脚本だ」ということで納得させ、そのとおりにさせないと。三國連太郎さんは、自分でも映画を撮った人ですから、「こんなのはだめだ、ここは書き替えろ」と、すぐ現場で始まっちゃうのです。「いや、これは山田さんの脚本ですから」ということで、いつも巨匠が入るわけです。
山田洋次 映画監督。1950年、東京大学法学部卒業。松竹大船撮影所に入社。1968年、フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。1969年、映画化され、大ヒット、以来年1~2本のペースで1996年に48作品をつくって、日本の代表的監督となる。生年は昭和6年9月13日。
朝間義隆 脚本家。1965年、上智大学文学部英文学科卒業。松竹大船撮影所に入社。山田監督作品の脚本を共同で手がける。生年は昭和15年6月29日
たそがれ清兵衛 1985年刊行した藤沢周平氏の時代小説短編集。これを原作とする2002年公開の日本映画。
渥美清 俳優。旧制巣鴨中学卒業。1953年、浅草のフランス座に入る。1968年フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』(山田洋次脚本)に主演、翌1969年に映画化され国民的人気俳優となった。生年は昭和3年3月10日、没年は平成8年8月4日。享年は68歳。
釣りバカ日誌 北見けんいち作画、やまさき十三原作による漫画。これを原作とした映画。サラリーマンのハマちゃん(西田敏行)と社長のスーさん(三國連太郎)が起こす騒動を描いたコメディー。脚本は山田洋次。
西田敏行 俳優。「釣りバカ日誌」シリーズのハマちゃんが当たり役となった。他に「北の家族」「西遊記」など。生年は昭和22年11月4日。
三國連太郎 俳優。映画界を牽引した個性派俳優。『ビルマの竪琴』、『飢餓海峡』、『はだしのゲン』など。生年は大正12年1月20日。没年は平成25年4月14日。享年は90歳
錚々たる 多くのもののなかで、特に優れている人々の集団。傑出した

 「寅さん」では、もう逆さにしても血も出ないというくらい脚本が難航することがあります。
 一番大変だったのは、幻の49作のときでした。もうロケ地も決まっていたわけです。高知県でやる。それから西田敏行さんをつかうために彼のスケジュールも押さえてあって、さあいよいよ脚本を書こうという8月に渥美清さんが亡くなっちゃったわけです。ところが何も撮らないと、松竹はその年のボーナスが払えない。それで押さえてある西田敏行さんを主演にして、ロケ地も、高知じゃなくて愛媛県にしたと思うんですけど、映画館の館主の話タイトル忘れましたけど、観ていて気の毒なぐらいお粗末な映画でした。お粗末なんて言ってば失礼ですけど、本当に苦しんで食事も喉を通らないような思いで作りあげているわけです。
 そういうふうに監督やホン書きが追い詰められたときの作品というのは、いいものもあるかもしれないけれども、ゆとりがなくて、結局、評判が良くないようです。
寅さん 正しくは映画「男はつらいよ」の主人公のくるま寅次郎とらじろうから採用した。
愛媛県 舞台は徳島県でした
映画館の館主の話 公開は1996年12月。渥美清の急逝に伴いシリーズ終了となった「男はつらいよ」に代わって松竹の正月番組をつとめた入情喜劇。監督は「学校II」の山田洋次。
タイトル 「虹をつかむ男」

 マーガレット・プライスさんという、夏目漱石のお孫さんと結婚したオーストラリアの新聞記者だった人が、この旅館を外国で宣伝したために、今は外国のお客さんでにぎわっています。外国のお客さんは、ここはこういう旅館だというのをちゃんと知っていて、物見遊山じゃなくて、日本の作家たちが泊まる旅館だというので、ちゃんと協力して朝もゆっくり起きてくれる。「日本の宿50選」の最初のページに大きく出たものですから、最近は外人が多いそうです。
夏目漱石のお孫さんと結婚した 本当かどうか、わかりませんでした。
外国で宣伝した Margaret Price著「Classic Japanese Inns and Country Getaways(日本の宿)」(講談社、1999年)。全て英語で書いてあります。
日本の宿50選 国立国会図書館、新宿区立図書館、アマゾンで「日本の宿50選」は見つかりませんでした。

尾澤薬局(昔)神楽坂4丁目

文学と神楽坂

『かぐらむら』(サザンカンパニー、1998~2018年)の「記憶の中の神楽坂」で尾澤薬局が取り上げられたことがあります。

(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年) 筑土八幡9番地にあった尾澤良甫の薬舖は、江戸市中で高名な薬種店であり、脈をとらせても当代一と謳われた。明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した。販売も戦略的で、イボ、ホクロ取りという、その頃としては珍奇な売薬を扱うことで「神楽坂尾澤薬舖に行けばどんな薬もある」との評判を得、薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」と呼ばれる様になった。大正2年、独立させていた店員、親族の店を、チェーンストアに組織化し、東京医薬商会を設立する。自社工場で大量生産したものを各店に配る方式は、当時においては大変に斬新であった。大正7 b年夏、拡大した事業の整理を行い神楽坂店を譲渡し、払方町19番地に移転後は薬業に専念した。

尾澤薬局 店内(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年)
 日露戦争後は、長壽丹全治水が売れに売れて、30人の店員が、店先にずらりと並んで後から後からと黒山の様に押しながら立て込んで来るお客を捌いたそうだ。大きな銭函にお金を放り込むチャリンチャリンの音と「いらっしゃいまし」「ありがとうございます」と、挨拶する声は、神楽坂の名物に数えられていた。

 尾澤のもう一つの名物は、中元歳末の七日間に行われる「売り出し」であった。明治41年頃に、日本新聞社主催の神楽坂商店の総合売り出しで好成績だったことに端を発して、単独で行われる様になったという。豊富で実用的な景品(鏡台、反物、火鉢、薬缶、ちり取りなど)を店頭に積み上げ、くじは紅白モナカに入れ、蓄音機で興を添えた。景品が出る度に、伊三さんという店員が見振りおかしく鈴を打ち振って「大当たり、大当たり」と踊るのも売り出しの一風景だった。売り出しが始まると、かなり遠方の店まで薬や化粧品の売り上げが減ったという。
長壽丹 長寿丹。寿命と関係する薬
全治水 皮膚病の薬。効能は「にきび・ぜにかさ・そばかす・しもやけ・ふきでもの・毒虫刺され・いんきん田虫・水虫」

 私は「尾澤豊太郎翁追想録」を引用できると考えて新宿区歴史博物館に行きました。ところが引用はできないものでした。「尾澤豊太郎翁追想録」の中身は「記憶の中の神楽坂」とは無関係でした。おそらく話した人は多分いたと思いますが、普通この本は引用元とはいえません。
 さらに驚く理由がもうひとつ。「記憶の中の神楽坂」のほうが生き生きして、逸話も精彩をだしていたのです。

兵庫横丁(写真)平成31年 ID 14052

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14052は、平成31年(2019)1月、兵庫横丁の北の入り口から南方を見て写真を撮ったものです。影が長いので夕方の撮影のようです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14052 神楽坂から南方面を望む

 前方の石畳が兵庫横丁、手前のアスファルトが公道で名前はありません。左側のゆるやかな上りは2番目の四つ角から下り坂になり、この坂は軽子坂です。右側の先、曲がり角からは和泉屋横町です。斜め後方は材木横丁。兵庫横丁と材木横丁の大部分は私有地です。

道路台帳平面図

 兵庫横丁の石畳には歩行者用の白線はなく、車を想定していません。ただ荷運びなどで例外的に車が入ることはあるようで、この写真でもバンが停まっています。
 石畳の中央部は扇形に並んでいますが、左右は少し違っています。これについて地元の人の解説は……

 石畳は路地の歴史を色濃く残します。この写真の右側には雨水を流す側溝があり、境石を挟んでモザイクのような石敷になっています。石畳とアスファルトの境に正方形の金属製プレートがあり、おそらく土地の境界標です。建物を建てる時に路地を広げて側溝を作ったと想像できます。
 左の家の前は、幅40センチくらいにわたって石畳が直線的に敷かれています。よく見ると赤い三角ポール(駐車禁止)の左側に窪みがあります。この窪みは別の写真で見ると排水溝です。昔はこの位置が路地の端で、今の建物を建てたときに後退して石畳を追加したことが分かります。
 私有地では、こうした側溝や上下水道は路地に面した家が費用を負担して整備します。おそらく下水管は路地の中央にあり、公道に出たところのマンホールにつながっています。
 工事で石畳を部分的に掘削した時は、そこを石畳に戻すのがルールです。従って時代を経るにつれて石畳は傷んでいきます。ちなみに神楽坂通りの歩道のインターロッキングは公道ですが、工事した店が掘削部分を同じ材料で復旧する義務を負っています。
 私有地である路地でも、住人が区に共同で申請すれば上下水道や石畳の整備に補助がもらえます。住人の意見がまとまらない場所では、徐々に石畳を維持できなくなっていくようです。
境石 きょうせき。境界石。きょうかいせき。隣の敷地や道路との境界ライン。素材はコンクリート、金属、プラスチック、鋲など。境界標と同じ
石敷 平たい石を敷き詰めて舗装した所。ピンコロ石より大きい。
境界標 目に見えない境界点を現地で示す標識

https://to-ki.jp/center/useful/kiso010.asp

 左の家1軒目はイタリア料理店ラストリカート(意味は石畳)で、2軒目は「おいしんぼ」です。中央部には旅館「和可菜」があります。ここで終わりに見えても右側に小路があり、さらに奥にはいっています。上の絵(ID 14052)も電柱があり、やはり奥にはいけないという幻想があります。ここから心理的には昭和初期、ちょっと怖くて、わくわくする世界が始まります。

兵庫横丁 住宅地図 2017年

 遠景のビルは左は島田ビル(地上6階、1階はワヰン酒場)、右はオザワビル(地上7階と地下1階、1階は郵便局とカフェ・ベローチェ)です。どちらも神楽坂通りに接しますが、縦横高さの大きさでもオザワビルのほうが巨大です。

和可菜|新宿歴史博物館

文学と神楽坂

 旅館「和可菜わかな」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き旅館」として有名でした。2015年末に一時閉店、隈研吾設計事務所の手を借りて、2022年、再出発、営業再開予定ですが、22年7月。再開はまだのようです。
 和可菜は路地の小さなクランクに印象的な看板を出しています。ここは曲がり角というより、兵庫横丁が狭くなっている場所です。
 路地の石畳は水道工事などで部分的に掘り返すことがあります。ID 13350の左下の石畳が少し新しく見えるのは、そうした工事のせいかもしれません。
 ここでは新宿歴史博物館がカメラで撮った写真を4枚(2008年、2010年、2014年、2017年)収録します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13350 旅館和可菜 平成20年(2008)3月

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13691 旅館 和可菜 平成22年(2010)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13255 旅館 和可菜 平成26年(2014)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13984 旅館和可菜 平成29年(2017)

 なお、平成29年のID 13984では前半分が他の建物です。

和可菜 住宅地図 2017年

 では現在の和可菜の写真です。少し化粧直しをして看板を新しくした以外は、変わっていないようです。

和可菜 2022/7/8

和可菜 2022/7/8

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13167~13170

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13167-70はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目などを東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13167 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13170 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。車道もアスファルト舗装でしたが、コンクリート舗装があるという意見もあります、
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色です。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (テーラー)島(田)
  2. アワヤ(オシャレ洋品 阿波屋)
  3. ▶たばこ
  4. 「福屋不動産 」「毘沙門せんべい」「福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」。無数の字がある。ID 101の説明1の「〇〇〇〇銘茶研究会〇〇」と同じ(大佐和)
  7. 仐とは(きもの)(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 五十(番) 中華料理
  11. 日邦工〇(宮坂ビル)
  12. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 ロッテ商事 おおとり(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13165~66, ID13171

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13165-66とID 13171-73はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目など東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13171 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13165 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13166 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13172 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13173 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。
 ID 13166の写真では花輪が少なくとも7輪ほど出ています。「祝開店 おおとり 〇〇」と読めます。パチンコ「おおとり」の開店祝いに見えます。
「おおとり」を経営する鳳企業株式会社の会社沿革では

1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン
1969年(昭和44年) 鳳企業株式会社設立
1970年(昭和45年) 新宿西口にパチンコ店『アラジン』オープン
アラジン新宿店2階に焼肉店オープン
1971年(昭和46年) 『北京料理 西口飯店』オープン
1977年(昭和52年) 『アラジン池袋店』オープン
1980年(昭和55年) NASA ビル建設

 地元の方によれば

「1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン」とあります。昭和41年のID 12280にも「おおとり」の看板が写っています。
 パチンコ店では新台入れ替えなどを機に「新装開店」で出玉サービスをうたうことがあったので、この花輪はその種のものと想像されます。5丁目に新たに開店した「山水林」に対抗したものかも知れません。

 ID 12280の写真と住宅地図とは全く違います。住宅地図では昭和47年までは「おおとり」はなく、あるのは「フードセンター」です。しかし、地元の方によれば

ID 12272-7312280、12282の縁日(夜店)の写真について念のため撮影年代を再検討しました。
・毘沙門堂の石囲いは再建前のもので、昭和45年以前
・易占の看板は池田信「1960年代の東京」(昭和40年)に酷似
・歩道は文様のない角石で昭和45年より前(ID 8299など)
・「オバケのQ太郎」などのブーム
昭和41年(1966年)という記録に無理はないと思います。

 では、どうして「フードセンター」が住宅地図に昭和39年から昭和47年まで、何年も残ったのでしょう。多分、今のように精密さや正確さは求めていなかったのでしょうか? でも住宅地図の最後に「航空写真一図化一測量修正一調査-トレス一筆耕一仕上。氏名・番地・職種すべて実態調査(足で調べる)。年一回現行維持」と書いてある。う~ん。わかりません。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (カネボ)ウ化粧(品)。尾沢薬局「化粧品/カメラ・材料 尾沢」「
    ――ごくぼその路地
  2. オシャレ洋品(阿波屋アワヤ
  3. ▶たばこ
  4. 福屋不動産 毘沙門せんべい 福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」
  7. 仐(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 おおとり ロッテ商事(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. (ジャウ)トーヤ(果物店)
  11. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13161~13164

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13161、ID 13162、ID 13163、ID 13164はカメラを神楽坂5丁目に置き、東の方向(3、4丁目)に向けて撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13161 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13162 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13163 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13164 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。写真の左端、テントの脇の太い鉄柱は「神楽坂通り/美観街」の標識です。
 そのすぐ右の「寺内横丁」に横看板が見えますが、読めません。横丁を入ったところに、住宅地図によって異同がありますが「米枡」「割烹椿」「クラブパリジェンヌ」「末っ子」などの店名が見えます。「(米)桝」と「(割)烹 椿」と見れなくもないと思います。こうした店が横丁の入り口に共同看板を出していた可能性が高いでしょう。横丁の共同看板は毘沙門横丁のID 11833にも見られます。なお「寺内」ばかりではなく「地内」という名前もありました。

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. 店舗
  2. (車両通行止め)「〇〇〇」「(日曜日)祝日の(12)ー18」
  3. 横看板(寺内横丁
  4. 「(日本)盛 ニホンザカリ 特約店 万長」「Coca -Cola」「Bireley’s バャリース 万長酒店」「キリンビール」UC
  5. 日本法令のロゴマーク 届け用紙 相馬屋
  6. 第一勧業信(用)組(合)(昭和46年10月、日本勧業信用組合から改称)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 電柱の足元に段ボール箱(家電品か)
  2. ▶電柱看板「内科 小児科 産婦人科 放射線科 阿部医院」「 加藤質店」
  3. 中河電(気) SONY (ト)リニトロン ボタ(ン)でん(わ)
  4. 週刊新潮(芳進堂)
  5. 電柱看板「川島歯科」「加藤産婦人科」
    ――地蔵坂(藁店)
  6. 「やきとり殿堂 鮒忠」「鳥の王様」「鮒忠 宴会場 2F 」「鮒」
  7. ▶「日本酒まつり 鮒忠」
  8. パチンコ おおとり 花輪
  9. 田原屋(果物と洋食屋)
  10. ▶電柱看板「斉藤医院
  11. ▶電柱看板「 丸越質店
  12. ▶公衆電話ボックス
  13. 三菱銀行
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

住宅地図。1973年

神楽坂3, 4, 5丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13152-53,13159-60

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13152とID 13153、ID 13159、ID 13160は神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13152 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13153 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13159 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13160 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、おそらく黄色と無彩色に塗り分けていたでしょう。道路標示「駐車禁止」が立っています。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったでしょう。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。例外としてID 13160では右側にも電柱があり、路地の奥に電線をつなぐためのものでしょう。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節と思われます。歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施なので、銀行をはじめ営業していない店が目立ちます。
 ID 13152-13153の三菱銀行は昭和47年(1972)ごろ5丁目の仮店舗から建て直した新店舗に移りました。仮店舗の後に「パチンコ山水林」(現在はシュエット神楽坂)が開業しています。ところが昭和47年や昭和48年の住宅地図では「パチンコ山水林」はまだありません。
 一方、ID 13159-13160の「毘沙門せんべい 福屋本舗」は写真では2階屋ですが、昭和48年(1973)9月に5階建ての現ビルに建て替えられました。従ってこの写真の撮影時期は昭和47年の秋から、遅くとも昭和48年の春先と推定されます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. 電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  2. ジャウトーヤ (喫)茶 フルーツ。手前が果物店、奥がフルーツパーラーでした。
  3. (店舗)
  4. 神楽坂通り/美観街
  5. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  6. 宮坂金物店
  7. (歩行者横断禁止)
  8. フクヤ。電柱看板「川島歯科
  9. 街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  10. DC JCB。サムライ堂洋品店 ばぁ侍(2階)
  11. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  12. FIRE HY(DRANT) 消火栓。広告「カメラのミヨシ」本多横丁にあった。角から4軒目くらい(下の右図)
  13. 電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  14. 毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  15. 善國寺。子どもが石囲いに登っている。本堂再建時に石囲いは一新したので滑り台はなく、この写真はただのワンパク坊主。
  16. (駐車禁止)
  17. 立て看板「こどもの飛び出し多し/徐行」
  18. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  19. 電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  20. おおとり(パチンコ)
  21. やきとり殿堂 鮒忠
  22. 中河電気
  23. パチンコ(山水林)。現在はシュエット神楽坂、築年月は2007年6月
  24. タイヨウ(時計・メガネ)
  25. 神楽坂通り/美観街
  26. 薬ヒグチ
  27. 遠くに協和銀行
  1. 京都。看板「オープン 浪費させない店 コンパ 〇〇プレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. (一方通行入口)。本多横丁へ(ここから4丁目)
    (数店おいて)
  3. (大佐和)神楽坂店(現・楽山
  4. (バー)鼓 この先突き当たり右 (「紅小路」へ)(下図)
  5. 電柱看板「 フクヤ」「旅館 宝楽」
  6. (店舗としもた屋)
  7. 毘沙門せんべい 福屋本舗 福屋不動産
  8. (店舗)
  9. オシャレ洋品 アワヤ
    ―――「ごくぼそ」へ
  10. 紳士服 テーラー 島田
  11. 尾沢薬局 (くす)り尾崎 カネボウ化(粧品)
  12. (店舗) (ここから5丁目)
  13. 第一勧業信用組合(駐車場)
  14. (店舗)
  15. かやの木(玩具店)
  16. (消火栓)
  17. 第一勧業信用(組合)。昭和46年(1971年)10月に改称

住宅地図。1980年。つづみとミヨシ

住宅地図。1976年。

神楽坂4丁目、5丁目(写真)昭和51年 ID 11482

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482は、昭和51年、神楽坂4丁目から当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)方向を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482 神楽坂

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石があり、車の渋滞はかなり長くなっています。歩道もアスファルト舗装で、看板「まず徐行 あそこに子どもとお年より 牛込警察署」が見えます。街灯は大きな円盤形で、下に「神楽坂通り」、さらにその下に数本の木と人工的な葉があり、また電柱の上には柱上変圧器があります。半袖の人が多いので夏、逆転式一方通行の向きから午後1時以降でしょう。

神楽坂4~5丁目(昭和51年)
  1. 善国寺。4角柱?などが見える部分は児童遊園
  2. レストラン フル(ーツ) 田原屋
  3. パチンコ おおとり
  4. 甘なっと 五十鈴
  5. やきとり(殿)堂 鮒忠
  6. 藁店に入る道のカーブミラー
  7. (中)河電(気)
    ここまで5丁目。ここから6丁目
  8. 遠くに協和銀(行)
  1. 福屋不動産
  2. (毘沙門)せんべい(福屋
  3. 神占 思召し/(福屋ビルテナント「神楽大国」)
  4. (事務用)品(福田屋文具店)
  5. 紳士服(テーラー島田)
  6. 尾)沢薬(品)(ク)ス(リ)尾沢
    ここまで4丁目。ここから5丁目
  7. 工事中(神楽坂コアビル 1978年4月竣工)
  8. 路上に積み荷(魚金鮮魚店)
  9. (か)やの木
  10. (第一勧業信用)組合
  11. (消火栓)

神楽坂まっぷ。1985年

住宅地図。1976年

神楽坂5丁目(写真)昭和28年以降 ID 9507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507は、昭和28年(1953年)以降の神楽坂4~5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507 神楽坂 角松

 歩道はコンクリートブロックで3列。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はなかったようです。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。
 紅白幕とのぼり旗「全店 大売出し」、松のような飾りがあり、ID 9495と同時期の撮影でしょう。人々は長袖で、冬服を着ています。正月に門松1対があることから、年末セールの時期と推測できます。

神楽坂4、5丁目(昭和28年以降)
  1. 尾澤薬(局)
  2. 紅白幕
  3. マケヌ屋洋品店(ID 6340参照)
  1. 門松(五十鈴?)
  2. 紅白幕

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

記憶の中の神楽坂(2)

神楽坂3~4丁目辺り

1984年 住宅地図。

三善(みつよし)(料理屋)
某大企業のグルメの社長さんが昔こっそりお忍びで食べに来ていてお気に入りだったそうです。先日久しぶりに神楽坂に来たので行ってみたら「石かわ」に変わっていた。入ってみたら、こちらもおいしくて「やっぱり神楽坂はいいね」と思われたそうです。
✅「石かわ」は最初に(2004年頃?)神楽坂仲坂に居を構えていました。現在は毘沙門横丁。

福島ピアノ店(ピアノ専門店)
きれいなピアノを並べた、高級なピアノ専門店がありました。とても感じが良く上流社会の匂いがしましたね。
✅最初は福島ピアノ店だけ。次に1階はジョンブル、2階はピアノ店に。その後、ピアノ店がなくなり、2002年以前には既にジョンブルも閉店していたようです。現在「ロッキー カナイ 神楽坂店」(大衆酒場)「小浜水産」です。

ジョンブル(喫茶店)
30年ほど前、矢来町の友人宅を訪れた帰りによく入ったのが「ジョンブル」。ドライカレーと食後のコーヒーがおいしくて、ひと息つくのにいい場所だった。背の高いご主人がエプロン姿でよく客に話かけていた。店内は少し暗かったけど、その暗さがちょうどよかった。
✅「東京みてあるき地図」(昭文社、昭和59年)では「50種のコーヒーをお好みによって出す本格派で、2000円也のコーヒーもある」。書家のマスターに詩人のママという異色の組み合わせ。やがて喫茶店からレストランになりました。

小林信彦「新版私説東京繁昌記」 https://kagurazaka.yamamogura.com/new_sketches/神楽坂の写真/ https://www.enjoytokyo.jp/kuchikomi/100057/?__ngt__=TT1238cdfb7003ac1e4ae0321Neq0woK0azXqosy0weVnJ

五条(喫茶店)
1、2階のフロアがとてもきれいなお店でした。
✅おそらく五条ビルでしょう。左に袖看板「SUNTORY BAR 五条」とあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8020 30年代

万平(すき焼き)
ちょっと陰気な柳が目印だった「万平」。名物のおばあちゃんは、四角いカウンターの中で、若かった文学青年たちを相手に、男女の粋な話をいろいろとしてくれた。確か早稲田の坪内逍遥先生の最後の講義を、着物をぱりっと着て、講堂の最前列で聞いたと自慢していた。20代で学生でもなかったけどね、粋だったね。元気で楽しいおばあちゃんだった。ビルになった時は、早稲田通り側に、檜の風呂を作ったのは有名な話だけど…。
✅「おでんやすき焼、荼めしなどがうまい」と「東京みてあるき地図」(昭文社、昭和59年)。「ちょっと陰気な柳」はID 6-7で。現在は「万平ビル」から「クレール神楽坂」。万平ビルの3階に移動すると檜風呂も置かれた。また、2階の「あまくさ」(居酒屋)は万平と同じ吊り看板がある。

小林信彦「新版私説東京繁昌記」https://kagurazaka.yamamogura.com/new_sketches/神楽坂の写真/

神楽坂青果店(八百屋)
その時季の出始めのものが店先に並んでいて、旬のものはもちろん、高級でめずらしいものがそろっていたのを覚えているけど、それも料亭が近くにあったから他の八百屋とは違っていたのかもしれないわね。
✅こまった。この店は「神楽坂フーズガーデン」として現存し、最初は芋を焼いて売ったのが当たり、次第に商品構成が変わったようです。「ビルのオーナーでもあるので生き残っている」とも。

キムラヤ木村屋(パン・菓子)
明治時代からつづく老舗中の老舗。銀座本店と縁戚関係にあって、名物の酒種あんパンをはじめ、クリームパン、マロン、チーズクリームなどとてもおいしかった。お店のおばさんや若夫婦もとても品があって気持ちがよかった。新作メニューのナッツの入ったのや煮タマゴの入ったのも好きでした。残念の一語です。
✅こまった。「キムラヤ」スーパーは6丁目、こちらは正しくは「木村屋」です。銀座木村屋の初代の娘が神楽坂の木村屋に。創業は明治39年(1906)、閉店は平成17年(2005)なので、100年ほど存続。なお「キムラヤ」として「木村屋」店が使っていた場合もありました。

テレビ番組「気まぐれ本格派」から。

銀座木村屋総本店の分店一号を表す証書。後ろに見える店の看板の題字は山岡鉄舟。平松南編「神楽坂まちの手帖」第8号、2005年。けやき舎。

茂木書店(書店)
まちの普通の本屋さんだと思っていたら、ポケットサイズの国語辞典を出版していたので驚いたよ。
✅美容室ニューマヤ以前の店舗

ジョウトーヤ(果物店)
戦前は、毎日毘沙門天辺りにバナナの叩き売りを出していた人が、神楽坂が気に入って果物屋を開業した。
✅ジョウトーヤはここで。

塩瀬(和菓子)
築地明石町の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎おかきのような庶民的なものもおいしかった。
✅こまった。塩瀬は明石町で、築地の隣町。
揚げ煎 揚げて作るせんべい
おかき 餅米を原料とした菓子。なまこ餅などの餅を小さく加工し(欠き)、乾燥させたものを表面がきつね色になるまで炙った米菓

鳥忠(居酒屋)
地元民が普段着ですごせるこの店は、京都で知り合った老舗の友人との再会にぴったりだった。一人でも気負いなくくつろげる店だった。こういう「普通」な店が神楽坂から消えたのは残念で仕方がない。
✅「『安価でいい料理を』という大衆割烹の正しい姿がここにある』と神楽坂宴会ガイド(牛込倶楽部、1999年)

福鮨(寿司)
ご主人の福田さん北海道岩内町の出身。昨年暮れ57歳の若さで急逝した。座席8人の小店。が、そのネタケースはどの店にも負けぬ長さ。ネタは新鮮で、値も張った。が、満足度120%。噂を聞いて時の総理大臣も来店されるほど。福田さんは咽喉ガン手術のため言葉が不自由。それを引き取って、奥サマが通訳。かいがいしくお世話もし、愛想よく素敵な女性。あの豊麗美麗な鮨が二度と口にできなくなったことは、口惜しい限りである。
✅遠政の閉店後に建ったビルの店子でした。

海老屋(そば屋)
お店の前の自転車がすごかった。年季の入ったボディは鈍い光を放ち、フレームにぶら下がったぼろぼろの看板には海老屋の文字がかすかに見える。革のサドルはひびわれておじいちゃんの手みたいになっていた。この自転車がお店の味だった。

「そば處」が海老屋。http://kkb.la.coocan.jp/sampo/35/index3.htm

庄平(ビルマカレー)
ビルマカレーの店。チキンカレーが旨かった。会社の先輩と食べに行きました。

神谷(氷屋)
氷の固まりを買うときには、この店へ行った。夏の暑い時分や、風邪などの高熱の時にはお世話になった。
✅「軽子坂プロジェクト」の再開発で、御殿坂の升本本社の前に移転しました。今は閉店して建物も変わっています。

2016年までは神谷氷店。2017年は更地に。2018年からはマンション。

山本コーヒー(喫茶店)
楽山の場所 の隣りに昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった。
✅こまった。楽山の場所ではなく、隣りの「魚さん」の場所だった。⇒山本コーヒー。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)では「うなぎの御飯」や「コーヒー」を売る店舗がありますが、見ると、小さく「山本」と書いています。

大東京写真案内。神楽坂。牛込見付から肴町に到る坂路さかみちが神樂坂、今や山手銀座の稱を新宿に奪はれたとは云ふものゝ、夜の神樂坂は、依然露天と學生とサラリーマンと、神樂坂藝妓の艶姿に賑々しい。

 

六さんの途中下車|六浦光雄

文学と神楽坂

 昭和42年(1967年)7月2日発行の「サンデー毎日」です。
 六浦むつうら光雄みつお氏はここで「六さんの途中下車」を連載していました。氏は朝日新聞の嘱託漫画家で、細密な風俗漫画で有名でした。昭和38年、第9回文芸春秋漫画賞を受賞。生年は大正2年2月23日。没年は昭和44年6月12日。享年56歳。死因は脳出血でした。

 ドデン、ウイーン、チンジャラ、パラパラ、バタン、キュ。
 この音のヌシは、都電とクルマと、パチンコ屋と、その客をはやいとこオケラにするたくらみのホット・ジャズと、交通事故だ。むかしは人が倒れる音も、バターン、キューとのんびりしとったが、スピード時代のいまは、バタン、キュとのばさずにノビちまう。こちら牛込見付交差点。行く手には神楽坂がある。
 ドデン、パタンという現代の神楽バヤシのひびきのなかをオカメ、ヒットコ群衆が、ピーヒョロ行きかう。テンツクテンツクスッテンテン。物価高はテンをつき、庶民のふところはもはやスッテンテン。なのに右の空に「軽い心」というクラブのネオン。ハハノンキダネ。左の空にジュラルミンの星ひとつ。
 昔、ホシひとつの兵隊のとき、よくこの坂を通った。九段から戸山ヵ原へ行く通りミチだ。同年兵はほとんどフィリピンでパタン、キュと消えた。私って重い心になるとハラの虫がなく。神楽坂下の左手に「信華園」というシナソバ屋がある。この家のチャーシューはうまいねえ(チャーシューメン120円)。
 この店のすじ向かいに『紀の善』というしるこ屋がある。夏の甘味ではなんたって、、、、、氷アズキが一ばんだ。おしまいころのあのシタにのこるアズキの香がなんともいえんねえ。坂上、三菱銀行前のゲタ屋の横丁を右折して明治ビリヤードの角を左にはいると『おひで』というオサケ屋がある。剣菱180円。スイトン180円。
 本日は、話も横道にそれた。「おひで」での私の音は、キュキュ、ゴキーン。いろいろと申しわけない……
オケラ 所持金が全然ない人かないこと。元は博徒・すり仲間の隠語。
ホット・ジャズ モダンジャズ以前のジャズ演奏。黒人色が強く、即興を重視したものを漠然と指していう
のびる さんざんなぐられて動けなくなる。ひどく疲れてぐったりする。グロッキーになる。
ハヤシ 囃子。歌や舞踊,芝居,動作などをにぎやかにはやしたてる音楽やことば
ピーヒョロ トビ(鳶)の鳴き声。ピーヒョロ、ヒョロと鳴く。
テンツクテンツク 囃子の太鼓の音を表す語
スッテンテン 所有していた金や物などがすっかりなくなること
テンをつく 天を衝く。非常に高いこと。
ハハノンキダネ のんき節。歌の終わりに「はは、のんきだね」という囃子はやしことばが入る。大正7年(1918)ごろから流行した俗謡
ジュラルミン アルミニウム合金の一つ。軽量で強力で、航空機などの構造用材として使う。
ホシひとつ 二等兵(右図)
戸山ヵ原 戸山ヶ原。とやまがはら。現在は戸山ハイツ、国立国際医療研究センター、早稲田大学文学部などがある。
ハラの虫 腹の虫。空腹どきの腹鳴りを、腹中に虫がいて、それが鳴くと喩える
信華園 現在は三経第22ビル。翁庵と田口生花店との2店に挟まれた店舗
おひで この場所はわかりませんでした。

住宅地図。1965年

剣菱 剣菱けんびし酒造。本社は兵庫県神戸市東灘区。日本酒「剣菱」の蔵元
スイトン 水団。小麦粉の団子だんごを入れた汁物。

尾澤豐太郎翁追想録|尾澤豐念会 1932年

文学と神楽坂

 尾沢翁追想録編纂会の『尾沢豊太郎翁追想録』(尾沢豊念会、1932年)は新宿歴史博物館図書閲覧室だけにあります。国立国会図書館にはなく、他でもないでしょう。
 尾沢薬店は神楽坂4丁目の郵便局や隣のカフェ・ベローチェ神楽坂店がある場所にありました。

 かうしての店員生活は19歳の春まで續いたのであつた。
       宮比町開業時
 牛込神樂坂も現在のやうに花柳界もなく、勿論、早稲田大學や共他の學校もなかつた。それ故に粋なつぶし島田の藝妓のなまめかしい姿も見られず、隊をなした學生達の散歩姿も見られず、附近は多く武家屋敷のあとで、たゞところ/”\に商家が竝び、淋しい町であつたころだ。明治8年7月21日、毘沙門天前の牛込區上宮比町一番地に、翁は獨立して藥種賣藥業を開業することになつた。店員として、たゞ一人大西橘三氏が、翁の下で働くことになつた。たとへ筑土本店の附近に開業したとはいへ、創業の苦難はやはり味はねばならなかつた。艱難辛苦を嘗めながら翁の活動力は愈々漲つて奮闘は績けられた。

尾沢薬局

 尾沢豊太郎のこと
つぶし島田 芸者衆に特に好まれた粋筋の髪型。髷の中央部が凹んで潰れている。

つぶし島田

薬種 やくしゅ。薬の材料。調剤前の薬品。主として、漢方薬の原料。
売薬 ばいやく。薬を売ること。あらかじめ製造、調合して市販する薬を売ること。
艱難辛苦 かんなんしんく。つらい目や困難な目にあって苦しみ悩むこと。たいへんな苦労
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まるさま。ますます。より一層。
漲る みなぎる。力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる。

 現在、翁の最後に殘した事業としての東京醫藥株式會社が、小石川音羽町に在るのが、妙な奇綠でもあるが、翁が明治12年、23歳の時、最初の事業に着手したのも小石川音羽町7丁目であつた。そこに翁は司藥場の技師であつた某氏と諮り製藥所を設けて、エーテルを製造し叉神樂坂の自宅構内で蒸餾水、杏仁水ギブス林檎酸鐵丁幾等の製造に従事した。これ等の藥品製造に從事したのは恐らく我が邦では最初であつた。翁、去つて今や13年、翁以外にこの藥品製造の動機を聞くべく人もない。何事に依らず慧限な、先見的な翁のことであつたから何等かの大きな動機があつた筈であるが、その術もない。翁は夫等の製造した藥品類を日本橋本石町の藥種問屋中村瀧次郎商店から市場に販賣したのであつた。

 これら薬品の効能はあるのでしょうか。1846年(弘化3年)にアメリカ・ボストンの歯科医がエーテル吸入麻酔を発見します。また、全身麻酔は1804年(文化元年)華岡青洲氏が行いました。明治12年は1879年なので、吸入麻酔は十分できたと思います。蒸留水、鎮咳薬・去痰薬の杏仁水もできたはず。骨折の固定に石膏(ギプス)を応用することは1852年、フランスの軍医が始めて行ない、これもできたはずです。リンゴ酸鉄チンキは不明ですが、やはり鉄剤でしょうか。

司薬場 輸入薬品の検査のために明治政府が設立した官立の薬品検査機関。
製薬所  医薬品を製造する場所
エーテル 尾沢豊太郎氏はエーテルの製造に初めて成功した。一般的には、エチルエーテルのことで、現在は麻酔剤として用いる。
杏仁水 きょうにんすい。アンズの種子からとる杏仁油を除いたものを水蒸気蒸留し、留液にアルコールと水を加えたもの。苦味と芳香があり、鎮咳ちんがい薬・去痰薬として用いる。
ギブス 骨折の患部を固定する石膏。
林檎酸鉄 りんご酸鉄。効能は不明だが、やはり貧血か?
丁幾 チンキ。生薬をエチルアルコールやエチルアルコールと精製水とで浸出した液剤
慧限 けいがん。物事の本質を鋭く見抜く力。炯眼けいがん
先見 物事がおこる以前に見抜くこと。

 その頃また別に牛込區新小川町に渡邊某と製藥所を設け、煙草の葉から炭酸カリの製造をもやつてゐた。
 明治14年には種々の自家製劑を發賣し、そのなかには販賣政策としてイボ・ホクロ取りのやうな、その頃としては珍奇な賣藥を販賣して印象を強め宣傳さした、そして東京中に漸く神樂坂尾澤藥舗の名が擴がり、尾澤に行けば、どんな藥もあるといはれた。當時に於いてイボやホクロとりのやうな藥品を販賣するといふのも、實に珍らしいことで、翁がかやうな美容に関する皮膚病藥にまで着眼したことは、良く人心の機微を掴んだものであると思はざるを得ない。
炭酸カリ 炭酸カリウム。天然には木灰中に存在し、水で抽出したものが灰汁あくといい、漂白・洗浄に用いられた。カリセッケン、硬質ガラス、医薬などの原料、染色、漂白、洗浄などに使用する。
イボ・ホクロ取り 1917年、「売薬製法全書」(川崎近雄編、艸楽新聞社、大正6年)の「全治水」の広告。

明治17年には翁は(中略)、こんどは肝油の販賣に着目した。その頃に外國品で鶴日の出印肝油が輸入されてゐたが、我が邦で肝油製造に從事するといふことなどは思ひも寄らぬことであつたが、翁は逸早く肝油に眼をつけたのであった。傅手を求めて北海道小樽色内町の西川といふ人から鱈肝油を取寄せ、これを精製して、大阪道修町の藥種問屋日野九郎兵衛氏のところから發賣したのである。そしてこの肝油に鷹印の商標をつけた。外國品の鶴日の出印を鷹摑みにして驅逐する意味からであつた。(中略)
 明治22年には蜂蜜の衞生試驗を受け、蜂蜜を小詰として營養劑、ならびに調味料として製造販賣した。營養劑としての蜂蜜は昨今、盛んに流行してゐるが、翁は當時早くもこれに着眼してゐたのである。
肝油 魚の肝臓からとる脂肪油.ビタミンAやビタミンDに富む。
鶴日の出印 鷹印の商標 不明
営養剤 栄養剤。栄養の不足を補うための薬剤

 この年(明治28年)の四月には日淸戦役は、我が軍の勝利に歸し、淸國の全權李鴻章と講和條約を締結し、臺灣は完全に我が領土となつた。條約の上では領土となつたが、尚臺灣の蕃族叛旗を飜すので、畏くも北白川宮能久親王が親征し給ひ、明治29年4月には全く全島を平定されたのである。(中略)
 翁は、また臺灣に偉大なる事業を卒先して目論んだ。明治の新聞界の大先輩である故岸田吟香翁、實業界に雄飛した工學博士故久米民之助氏と共に製氷會社の設立を計畫したのであった。(中略)
 臺灣に於ける事業家としての翁の面目は遺憾なく發揮されて、あらゆる方面に、その活動力は機敏に働いたが、みないづれも成功してゐた。製氷の如きも、我が邦の先駆を爲すもので今日の隆々たる大日本製氷株式會社は臺灣製氷の後身に當る

李鴻章 中国清末の政治家。安徽省合肥出身。日清戦争の敗北で失脚。
臺灣 台湾。
蕃族 ばんぞく。未開の民族
叛旗を飜す はんきをひるがえす。謀反を起こす。反逆する。そむく。
北白川宮能久親王 きたしらかわのみや よしひさ しんのう。幕末ー明治時代の皇族、軍人。日清戦争には近衛師団長として出兵、台湾支配の指揮にあたり、同地で病没。生年は弘化4年2月16日、没年は明治28年10月28日。享年は49歳。
大日本製氷株式會社 和合英太郎は1890年、青山製氷所が設立したが、1892年3月には廃業となる。1897年、日本の採氷業のパイオニアである中川嘉兵衛が、東京・本所に機械製氷を設立。青山製氷所で働いた経験から、和合英太郎も、発起人のひとりとして参画。製氷工場の支配人兼技術師となる。1907年、東京製氷と合併。1919年、東洋製氷と合併、日東製氷を設立。28年、老舗・龍紋氷室と合併。これを機に、社名を大日本製氷と改称。さらに日本食料工業、日本水産、帝国水産統制などと合併、現在はニチレイ(日冷)。
後身に當る 違います。中川嘉兵衛や和合英太郎は無数の会社と合併し、おそらくその1つが台湾製氷だったのでしょう。

 夏など單衣を着て、鞭々たる腹を突き出し、恰度、上野公園の西郷隆盛の銅像そつくりといふ恰好をして店頭に立ち、多くの店員を指揮して、『いらつしやいまし』『ありがたうございます』と一々客に言葉を掛けてゐる光景は、神樂坂で尾澤が名物であつた如く、この光景もまた名物たるを失はなかつた。この何事にも拘泥せすに熱心に努力する態度が大勢の店員に輿へた無言の敎訓は偉大なるものであつた。
単衣 ひとえ。一重に仕立てられた衣服の総称。6月や9月の、季節の変わり目によく着る。
鞭々たる 正しくは「便々べんべん」。腹部の肥満した様子。太鼓腹をしている
拘泥 こうでい。あることを必要以上に気にしてそれにとらわれること

和可菜(写真)

文学と神楽坂

「Save the Kagurazaka」という活動があります。平成28年に始まりました。雑誌「かぐらむら」は90号(平成29年)にその仕事を写真として撮っています。その写真を勝手に再録します。和可菜は隈研吾設計事務所の手を借りて、新しい形になります。これは、あくまでも、昔の和可菜です。和可菜1

料亭「喜久川」(昔) 神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 地元の人の話です。松川二郎氏の「全国花街めぐ里」(誠文堂、1929年) によれば、喜久川きくがわと読むようです。

神楽坂を代表する大料亭と言えば「松ヶ枝」と「喜久川」。自分で入ったことはなくとも、地元ではそれが常識でした。

政財界の要人に愛された松ヶ枝が多くの人の記憶に残るのは当然でしょう。しかし喜久川が、このブログの記事にほとんど出てこないのは残念なように思います。

喜久川の場所は4丁目の北西部、5丁目との境です。入り口は北側(白銀町側)。松ヶ枝同様に戦前から店を構え、戦後に大きくなったことが各種の地図で分かります。花街らしい風情と風格を兼ね備えた立派な門構えでした。廃業後、跡地は「神楽坂プラザビル」というオフィスビルになりました。ビルの完成は1992年11月です。

喜久川がビルになって、玄関前の道(注・和泉屋横町)の風情がなくなりました。それで、再開発されなかった近くの「兵庫横丁」が注目されるようになったと思います。神楽坂の路地ブームは、おおよそ1990年以降です。例えば昭和51年(1976年)の読売新聞の特集のイラストや記事は、路地に興味を示していません。

さて、写真は知りませんが、今に残る痕跡はあります。3丁目の見番手前の伏見火防稲荷神社玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です。両者が奉加帳のトップとして、最も多額の寄進をしたことが分かります。

戦前から店を構え、戦後に大きくなった 実際に大きくなりました。1937年の地図では「御木(待)」と一緒になっています。

1937年火災保険特殊地図から1984年の住宅地図。

玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です 写真を参照。「㐂」は「喜」の異体字。

松ヶ枝と喜久川。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では「全国花街めぐ里」を引用して……

○旧券 芸妓屋121軒。芸妓数446名。内小妓52名。料理店11軒。待合97軒。
 主なる待合は由多加、梅林、玉の井(神楽町)、肴町の重の井、宮比町の喜久川、もみぢ、福仙、若宮町のおかめ、津久戸の中村家、その他かぐら,梅村などが名の通っている待合。
○新券の方はというと、
 芸妓屋45軒、芸妓数173名、内小妓15名、料理店4軒、待合32軒。
 主なる待合。若宮町の松ケ枝を代表として之に次ぐもの小松、住の江。幸楽、萬琴、あけぼの。

 松川二郎氏の別の本「三都花街めぐり」(誠文堂文庫、1932年)にも喜久川がでてきます。

 主なる待合 由多加、梅林、玉の井、楓月(以上神樂町)松ケ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川、もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久土町)。その他小松、住の江、幸樂、かぐら、梅村など。


神楽坂4丁目(360°カメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂4丁目は明治時代にはかみ宮比(みやび)(ちょう)と呼ばれていました。江戸時代では武家地で岡野、奥津、中村、東條他二、三軒の武家が住んでいましたが、明治2年、土地の開放があり、町屋が出来て市街地となりました(明治20年の地図)。宮比神社があったので、宮比町になりました。

礫川牛込小日向絵図。当時の上宮比町(将来の神楽坂四丁目)は青色の部分。

 上下2つの宮比町があり、この上宮比町と下宮比町との間には牛込神楽町三丁目や津久戸町が介在していて上下のつながりはありません。

明治12年「東京実測図」

 昭和26年5月1日、ようやく上宮比町は神楽坂4丁目と名前を変更しました。通りの北側だけが神楽坂4丁目です。 下の写真は矢印をたたくと左右に進み、黄色の∧はその道路の名前です。

紅小路

 ここで「楽山」から奥に行く小さな路地があります。楽山(前方)とみずほ銀行(後方)の間です。この路地をあでやかに「紅小路」と呼びます。なんで? 通りに面するビル、昔の楽山とみずほ銀行がどちらも赤いビルの壁になっているから。これは今の楽山に変わる前で、今ではそうでもないようですが。


 ではまた元の通りに戻りましょう。
鳥茶屋せんべい福屋の間に大きな路地が見えます。これは賞を取ったことで「まちなみ景観賞の路地」、千鳥足で歩きたいことで「酔石横丁」と呼ばれています。酔石

 奥には右側の古い居酒屋「伊勢(いせ)(とう)」と左側のクレープ屋「ル・ブルターニュ 」が対でならんでいます。この奥に、兵庫横丁が出てきます。

 ではもう一度元に戻って、3軒先に進みます。細身

「AWAYA」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」と呼んでいます。神楽坂で最も狭い路地です。

 しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」


ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持ってこの路地を抜け毘沙門天で待つ中川時夫に会う

2013年2月21日→2020年12月6日


コロナ禍と老舗|鳥茶屋

文学と神楽坂

 以下は地元の方からの情報です。
 鳥茶屋の本店は閉店しました。真のコロナワクチンがてきるまで、こういった苦労が続いていくのですね。

鳥茶屋

閉店後の鳥茶屋(2020/11/24)

 4丁目の「鳥茶屋」本店が2020年10月末で閉店することになりました。新型コロナによるお客さんの減少が理由と思われます。3丁目にある別亭は営業を継続するそうなので、伝統の味は残ります。
 もともと別亭は親子丼のランチがメーンで、敷居の高い本店に比べて入りやすい店として企画したと聞いています。その別亭を開いておいたから、本店閉店の決断もしやすかったのでしょう。

 コロナ以降、神楽坂で閉じた店はいくつかありますが、それなりに名の通った老舗の撤退は初めてではないでしょうか。とても残念です。
 神楽坂の店が、コロナに比較的、強いことは以前にもお伝えしたと思います。その理由は、古くからある店の多くが土地・建物のオーナーであることです。
 本業が不振でも、ビルを建てて他のフロアをテナントに貸せば存続できるわけです。また自分の店以外にも貸家などを持っているケースが珍しくありません。逆に、そうした資産のない店は環境変化に弱いです。

 鳥茶屋の撤退も、店としての弱さの現れと思います。
 もともと鳥茶屋は4丁目の軽子坂の側に店がありました。商売がうまくいかなくなり、オーナーが身売りをしたそうです。
 ちょうど地上げの話があったらしく、新しいオーナーは土地を売って借金を返し、テナントとして今の本店を開きました。裏通りから表通りに移ってきたのでイメージは悪くなかったと思います。その後は商売も順調だったと聞きます。

 それでもコロナには勝てませんでした。土地を手放したのは、それだけで店の弱さなのです。
 コロナ禍が続けば、神楽坂でもさらに厳しい局面に追い込まれる店が出てくることでしょう。そうした時に、本当の老舗の強さが試されます。


鳥茶屋 本店と別亭があります。本店は神楽坂四丁目で2020年10月に閉店、別亭は熱海湯後の階段に接して、営業中。

鳥茶屋の閉店のお知らせ

軽子坂の側に店 読売新聞の昭和51年8月16日「上り下りも世につれて…」を見てください。

鳥茶屋(昔)


神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期

文学と神楽坂

 大正~昭和初期における神楽坂3,4丁目の写真です。まずは大正15年、毎日新聞社『法政大学(大学シリーズ)』(1971年)から。これは坂上、3丁目の商店街です。坂下と比べて、立派な構えの店が多いと地元の方。私もそう思います。

神楽坂の今昔

中央線がまだ甲武鉄道のころから、文士や学生に愛されたためだろう 情緒豊かなうちにも文化の匂いがここにはあった(大正15年)

神楽坂の今昔

 また、当時の商店街を出しておきます。 岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図 昭和5年」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から一部改編したもの。

岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」
洋品 西洋風の品物。特に、洋装に必要な衣類・装身具や身の回り品など。舶来品。
サムライ洋品 サムライ洋品の商売の仕方が書いています。
銀行 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。この建物は石造りで、第二次世界大戦中でも頑丈で、壊れず、おそらく昭和30年以降になって新建物になりました。また「昼夜営業」と書いていますが、銀行内に質屋などがあったのか、あるいはサムライ洋品のPRかもしれません。
春月 そば店。詳しくはここで
田原屋 この建物、果物屋の田原屋だと思えると地元の人。

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)で道の両側がでています。左側が神楽坂3丁目、右側が4丁目に当たります。

大東京写真案内

大東京写真案内。神楽坂。牛込見付から肴町に到るさかみちが神樂坂、今や山手銀座の稱を新宿に奪はれたとは云ふものゝ、夜の神樂坂は、依然露天と學生とサラリーマンと、神樂坂藝妓の艶姿に賑々しい。

大東京写真案内

銀行(白) 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では川崎第百神楽坂支店でした。
花柳病 性病。性感染症の巻看板。その下の「間部医院」の場所は袋町5番目。
斉藤医院 皮膚科・婦人科。神楽坂4丁目8番地にあります。

昭和12年『火災保険特殊地図』

昭和12年『火災保険特殊地図』

きそば そば粉だけで打ったそば。また、小麦粉などの混ぜものが少ないそば。これは「春月そば」の袖看板。
キリン おそらく田原屋の袖看板
アーケード 洋風建築で、アーチ形の天井をもつ構造物。その下の通路。拱廊きょうろう。歩道にかける屋根のような覆いや、覆いつきの商店街。一昔の緑門ではなさそう。
銀行(赤) 東京貯蓄銀行の神楽坂店
幟旗? のぼり旗。長方形の縦長の布を棒に括り付けた表示物。集客効果を高め、情報を知らせるため、目印として立てる旗。ここはたぶんモスリン屋の「警世文」
大東京写真案内
三好野甘味 三好野。おしるこなどの甘味屋。「お金持ちで、家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられて、うらやましかった。(年上の子がいたそうです)」と地元の人。
一寸一杯 ちょっといっぱい。居酒屋や飲み屋でよく使う言葉。さて、どの店舗が「一寸一杯」を使ったのか。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会では魚国鮮魚店か旧勧工場。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年では魚国鮮魚店か山形屋支店。山形屋支店はどんな店舗なのか、わかりませんが、山形屋支店に一票いれたいと思います。
加藤荒物店 平屋(一階建て)。荒物は家庭用の雑貨類を売る商売。
メイセン屋 銘仙屋か? でも、それらしい漢字はなさそう。銘仙屋は平織りの絹織物を売る店舗。メイセン屋は反物や呉服を扱っていた。
橋本オモチャ 玩具店
山本喫茶店 詳しくはここで。「コーヒー」や「うなぎの御飯」もここでしょうね。しかし、「うなぎの御飯」まで売るとは、すごい。
竹川靴店 靴店は多くは下駄店や履物店と同じ。ただし、横文字を使っているので、靴だけを売っていた?



兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。
 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸


伊集院静氏「糖蜜、みっつ」

文学と神楽坂

 伊集院静氏は以前は電通やCMディレクター。再婚で女優・夏目雅子氏と結婚したが、妻は死亡。1992年『受け月』で直木賞。女優の篠ひろ子と再々婚。代表作に『機関車先生』など。誕生日は昭和25年2月9日。
 これは氏が三井住友トラストクラブの「シグネチャー」2019年11月号で神楽坂について書いたエッセイです。吉田博氏の木版画「東京拾二題 神楽坂通 雨後の夜」(昭和4年)も付いていました。

和可菜 初めて神楽坂に足を踏み入れたのは、30歳代半ばであったと思う。
 ベテランの編集者に連れられて、タクシーを毘沙門天の前で降り、煎餅屋の脇の細い路地に入り、ちいさな階段を降りて行くと、黒塀の旅館があり、編集者に、ここです、ここでしばらくあなたは頑張るんです、と笑って言われた。
 そこが今月号の扉ページの写真にある『和可菜』という旅館だった。
 木戸を開けて玄関に入ると、老婆が奥の暗がりからあらわれて、あら△×さんいらっしゃい、と言った。こちらが厄介になる伊集院君です。と私を紹介した。私は老婆の顔をじっと見ていた。百歳はとうに越えているのではと思った。
「先生、じゃ部屋にご案内しましょう」
――先生とは誰のことだ?
 どうやら私らしかった。私は子供と老人をあまり好まないので、ちいさく吐息を吐いた。
 初印象と違って、老婆はいい人だった。
 三和土たたきを上がって階段を先に上がる老婆の背中を見ていると、階上から、ミャーオと声がした。見ると黒っぽい猫が一匹、私たちを見下ろしていた。
 三十数年前のことだから猫の名前も、老婆の名前も失念したが、どちらかがトラという名前だった気がする。

百歳はとうに越えている 筆者が35歳と仮定すると、当年は1985年です。「和可菜」の女将、和田敏子氏は1922年に誕生したので(黒川鍾信『神楽坂ホン書き旅館』日本放送出版協会、2002年)、この時は63歳でした。
三和土 土やコンクリートで仕上げた土間。古くは、たたき土と石灰とにがりを混ぜて練ったものを土間に塗り、たたき固めた床仕上げ。

 先月、今はなくなった、その旅館『和可菜』の路地を歩くと、看板は残っていた。
 この塀を飛び越えると、ちいさな池のある小庭があった。水のない池に、あの猫が入って日向ぼこをしていた。
「何やってんだ、おまえ」
 猫は返答しなかったが、気分は良さそうだった。一度、小鳥をくわえて廊下を自慢気に歩いている姿も見た。
 あの夜、連れて行かれた鮨屋とは三十年余りつき合ったが、去年、暖簾を下ろした。
 神楽坂は色川武大さんの生家が近く、先生と二人で競輪の帰りに坂下にある甘み処に入った夕暮れがあった。
 先生は店の人に「餡蜜みっつ」と言った。
 目の前に私のひとつと先生のふたつが並んでいた。ひとつ食べてから、もうひとつ注文すればいいのではと思う人があろうが。
 私は先生のこういうところが好きだった。
「美味しいでしょう? 伊集院君」「はい」

今はなくなった 以前は娘が和可菜を継いでいたようですが、2015年末に閉店
鮨屋 『和可菜』から近くて、現在閉店した寿司屋には「青柳寿司」と「二葉」があります。「青柳寿司」は2013年に閉店、「二葉」は2015年に閉店。ほかに2018年に閉店した寿司屋があるのか、わかりませんでした。
甘み処 あまみどころ。甘い味の菓子を出す飲食店。おそらく「ぜん」のこと。
餡蜜 あんみつ。あんをのせた蜜豆みつまめ。蜜豆とはゆでた赤豌豆えんどう、賽の目に切った寒天、果物などを容器に盛り、蜜をかけて食べるもの。

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

見返り横丁|由来(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

「見返り横丁」は、どうしてこの名前になったのでしょうか?

 もうひとつの「見返し横丁」はわかっています。平成10年(1998年)の雑誌「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で……

井上 さて、それで本多横丁に出て、すでに名前がついている「見返り横丁」。これはいい。で、その先の「鳥静」の脇の横丁も何か名前をつけてあげたい。敷石がゆるやかなS字を描いていて「見返り横丁」よりも長い。そこで『見返し横丁』ではいかが。
林  昔はあそこは抜けられた。道らしい道じゃなかったけど。
註  井上元氏はインタラクション社長
   林功幸氏は「巴有吾有」オーナー

 林氏の「昔はあそこは抜けられた」は、見返し横丁のことですね。
 では、もとに戻って「見返横丁」はいつ、どこで、とんな理由で決まったのでしょうか? 上の1998年には「すでに名前がついている」ということなので、1998年以前からありました。

 まず地図はあるのでしょうか? 1994年の「神楽坂輿地全図」では「本多横丁」は確かに書かれていますが、「見返り横丁」はありません。「かくれんぼ横丁」もありません。また毎年でる「ゼンリン住宅地図 新宿区」、2013~6年の神楽坂通り商店会「神楽坂マップ」、1985年神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』には「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありません。他にも例外が一つある以外を除き、「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありませんでした。

 一つだけが例外で、それは1994年の「神楽坂・楽楽散歩」(編集は神楽坂地区まちづくりの会、編集協力は東京理科大学建築学科沖塩研究室、発行は新宿区都市整備管理課)で、ここには「本多横丁」以外に「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」がでてきます。

 では書籍では? 1997年の「まちづくりキーワード集」(著者と出版は神楽坂地区まちづくりの会)には、「かくれんぼ横丁と「見返り横丁」がでてきます(下図)。一方、渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007)では「かくれんぼ横丁」はありますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はありません。西村和夫氏の「雑学 神楽坂」(角川学芸出版、2010年)ではこの「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」「見返し横丁」は全てでていません。

まちづくりキーワード集

まちづくりキーワード集(1997年、神楽坂地区まちづくりの会)

 雑誌は? 「ここは牛込、神楽坂」では「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で「名前がついている『見返り横丁』」とでてきます。また、2007年「神楽坂まちの手帖」15号「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」では「かくれんぼ横丁」はでますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はでてきていません。

 つまり「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」は、1994年の地図「神楽坂・楽楽散歩」と1997年の本「まちづくりキーワード集」以外にありません。見返り横丁になったのか、その由来もわかりません。

 これからは、まあ、でたらめですが、「神楽坂地区まちづくりの会」 などが横丁や坂をまとめることになって、誰かが「これは個人的な(か昔からの)横丁だけど、見返り横丁というものも使っている」といい、ほかの人たちも「へぇー、なるほど」と答え、あっという間に定着したのではないでしょうか。

 この「神楽坂地区まちづくりの会」のメンバーは、山下修、立壁正子、江口素子、上田邦彦、坂本二朗、荘司雅彦、寺田 弘、保坂公人、渡辺行将、渡邊義孝、矢野貞子、山口幸二などの、そうそうな人物で、「かくれんぼ横丁」の名付け親、森川安雄氏もその一員でした。おそらく「かくれんぼ横丁」と同じ頃に、こんな会合で、森川さんなどのだれかが「見返り横丁」を推したか、知っているといったのでしょう。

いつ「本多横丁」になったのか|スタンド看板

文学と神楽坂

 本多横丁の串カツなどの店舗「本多てつまる横丁」の前に「本多横丁」について書かれたものがあります。

本多横丁について

本多横丁について

      本 多 横 丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地てあったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、禄高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したか、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
    昭和60年7月
本多横丁商店会


御府内沿革図書 ごふないえんかくずしょ。江戸の延宝年間から幕末までの地図集。1808年に収集を開始。
本多修理 本多家の三代目の本多修理忠能が神楽坂に移動。元禄五(1692)年以降である。
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。関東大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
旧名復活 本多横丁は昭和24年頃「スズラン横丁」に変更し、昭和27年頃、本多横丁に戻しました。

 問題は、この旧名復活です。「スズラン横丁」から「本多横丁」に戻したのですが、それはいつでしょうか。上の「昭和27年ごろ、本多横丁に戻した」というのは、本当でしょうか。

 新宿ルーペでは

昭和24年頃、戦災で焼け残ったスズラン型の街灯にちなみ、「スズラン横丁商店会」として発足。その後、旧名の本多横丁の復活を望む声が多くなり、27年頃「本多横丁商店会」に改名。

と書いてあります。昭和27年に商店会としては「本多横丁商店会」に変えたとしても、「すずらん通り」という大きな街灯看板も残っていました。その街灯看板を変更したのは昭和50年ごろです。たとえば「神楽坂を良く知る教科書」(2015年)では

本多横丁
 名称はこの横丁の東側にあつた徳川家家老「本多対馬守」屋敷に由来する。一時「すずらん通り」と呼ばれたが、昭和50年ごろに戻された。両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び「芸者新道」、「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな坂である。

 町をよく知る人は「憶測ですが、街灯には区の補助が出るので正式な名前を変えにくかったのかも知れません。『本多横丁の旧名復活を期して商店会発足』し、その記念にスタンド看板を立てたのが「昭和60年7月」というのが自然に思えます」といっています。

クランク坂|神楽坂4丁目(360°VRカメラ)

文学と神楽坂


 平成10年(1998年)『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では

井上 じゃ、大久保通りをこちらに戻って、読売新聞の販売所がある横丁を通る。
 カギ形だから『クランク坂』
坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
  カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。

読売新聞の販売所 神楽坂5丁目38にあり、2017年からは「Le petit Bistro RACLER」に変わり、さらに焼き鳥屋「酉刻」に変わりました。

ラクレに

読売新聞販売所→ラクレ→酉刻


 なお、クランク (crank、道路)とは「直角の狭いカーブが二つ交互に繋がっている道路のこと」(ウィキペディア)。カギ形(鉤形・鍵形)とは先端が直角に曲がった形。

クランク

クランク

 この坂も微妙にS字に曲がっていますが、上の道路がクランク状に曲がっているからこの名前が付いたものでしょう。

クランク道路

クランク道路

 途中で出てくる「神楽坂レトロなホテル」は2019年3月にできたものです。

 松本泰生氏の「東京の階段」(日本文芸社、平成19年)では

踏み面と蹴上

踏み面と蹴上(松本泰生「東京の階段」から)

神楽坂・小さなS字階段
所在地/新宿区神楽坂4-1
●規模:16段 ●幅員:1.4~1.9m ●高低差:2.5m
●長さ:約6m ●蹴上:14~16cm
●踏み面:35~38cm● 傾斜:22°
評価
●疲労感★☆☆☆☆
●景 観★★★☆☆
●スリル★☆☆☆☆
●立 地★★★☆☆
 神楽坂の路地や料亭街がある地区の北側で、北向きに下りる小さな階段。以前は階段を下りると傍らに料亭があり、その先も木造家屋が建ち並ぶ路地空間だった。下から見ると料亭の玄関の奥に隠れるように階段があり、それが奥行き感のある小路のある神楽坂という街らしく、絵になる景色となっていた。だが90年代に木造家屋群は解体されて超高層マンションと小公園になり、さらに最近、階段下の料理屋もなくなって、ここは単なる小さなS字階段になってしまった。きれいにカーブしたコンクリート擁壁は、もちろん今でも印象的なのだが、以前の周辺景観が素晴らしかっただけに、現在の姿は残念である。


ごくぼその路地(360°パノラマVRカメラ)

「鮨・酒・肴 杉玉すぎだま」(以前は「あわや」)と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。神楽坂では最も狭い路地で、しかし、先の狭い路面には居酒屋も数軒あります。

 正式にはこの路地の名前は付いていません。たとえば中村友香氏、梅崎修氏の「景観としての路地維持の可能性」(地域イノベーション第3号、法政大学地域研究センター、2010年)では「毘沙門向かいの細い路地」と書いてあります。

 もちろん、何かあった方がいいと考える人もいて、たとえば、平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』(けやき舎、2007年)では

ごくぼその路地…神楽坂4丁目
神楽坂ではもっとも狭い路地。表通りから身を隠すのに便利。狭い路に面して居酒屋もあり、路地の多彩さを感じさせる。

 牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年(1998年)夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」でした。

井上 で、この最後の難所で、しのび坂(註:現在は「兵庫横丁」が普通)と交わる伊勢藤の近くの、「みさか」のところを抜けて帰りたいが。あの、ほんの狭い小道を。
  デブは通れないから『デブ止め小路』にとか(笑い)。逆に『細身小路』とか。
井上 「みさか」のママは秋田美人だが、細身とはいえないなあ。名もなきままの小路を一つぐらい残しておくのも愛敬あいきょう

 西側の店舗4軒がここ「ごくぼその路地」で開店し、2019年はさけことぶき、ちょいしてっぺい、バー ソルト、シゲ テイです。一方、東側の店舗はどれも裏側でして、たとえば「ル・ブルターニュ」。これは東は酔石横丁に接して堂々と開き、一方、西は「ごくぼその路地」で、勝手口だけです。

 しかし、戦後のしばらくの昭和27年、「ごくぼその路地」は酔石横丁よりも大きい時代がありました。(☞一番狭く細い路地

 この路地の神楽坂通りに出る南端はわずか91cm、四つ角にぶつかる北端は122cmでした。

ごくぼそ10

ごくぼそ10

ごくぼその路地。2013年

ごくぼその路地。2013年

神楽坂|ル・ブルターニュ 高いけど

文学と神楽坂

 ル・ブルターニュの創業は平成8年(1996)です。ブルターニュ地方の伝統料理、そば粉のクレープ『ガレット』を提供します。このソバのクレープがブルターニュ地方の飢饉を何度も救い、ソバは何世紀もの間「主食」でした。場所はここ

 ちなみにイギリスではほとんどソバは使っていません。ソバはイギリス海峡を超えられなかったのです。

 しかし日本で食べるとほんとに高い。多分値段はフランスの数倍はする。でもソバのクレープは今まではなかったからなあ。
クレープ

伊勢藤福屋鳥茶屋大門湯[昔]

兵庫横丁に戻る
神楽坂通りに戻る
石畳について
神楽坂の通りと坂に戻る
2013年3月17日→2019年5月16日

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。




2013年5月2日→2019年4月27日

待合「誰が袖」|夏目漱石

文学と神楽坂

 夏目漱石氏が描いた「誰が袖」は何だったのでしょうか? まず漱石氏が書いた「硝子戸の中」の「誰が袖」とその注釈を見てみます。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは。

「定本漱石全集 第12巻。小品」の注釈。誰が袖。匂袋においぶくろの名。「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(『古今和歌集』) にちなむ。
寺内 神楽坂五丁目の一部。江戸時代には行元寺があり「寺内」とよばれた。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行元寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です
誰が袖 たがそで。「誰が袖」は待合のこと。
東家 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・ふさの夫です。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

 本当に「誰が袖」は匂袋なのでしょうか? たかが匂袋を看板につけるのはおかしいと思いませんか。実際には「誰が袖」という名の待合がありました。
 横浜市図書館に富里長松氏の「芸妓細見記」(明治43年、富里昇進堂)があり、待合の部(119頁)として待合の「誰が袖」が出ています。

 また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「タガソデ」の絵が出ています。

 さらに同号の「夏目漱石と『寺内』」では、「誰が袖…待合。後に「三勝さんかつ」という名に。」と書いてあります。三勝は新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)でここです。
 また大正3年、夏目漱石作の俳句でも(『定本漱石全集』)

誰袖や待合らしき春の雨
季=春の雨。*誰袖は匂袋。江戸時代に流行し、花街では暖簾につける習慣があった。この句、匂袋をつけた暖簾、そして折からの春雨を、いかにも待合茶屋の風情だと興じたものか。

 俳句は注釈通りではなく、「『誰が袖』は待合らしい。春の雨だ」と簡単に書いた方がいいのではないでしょうか。
 しかし、『定本漱石全集』の注釈が、全くがっかりでした。


三好野|神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 三好野(みよしの)は、おしるこなどの甘味屋でした。神楽坂4丁目で、現在はレディースファッションAWAYAです。場所はここ

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

毘沙門の向ふ側に以前からある、例の三好野式の大衆甘味ホールで、お汁粉、おはぎ等のほかに稲荷ずし、喫茶の類も揃つてゐますが、他に類似の店が尠いので、婦人子供達にも評判がよろしく、毘沙門參詣者の休み場所のやうな形になつてゐます

 三好野は1952年までにはなくなっています。「家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられた」とある私信。

 1960年頃までは「洋品マケヌ屋」、1978年頃までは「阿質屋洋品」、1980年頃からはレディースファッション「あわや」になっています。

「あわや」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」。最も狭い路地で、しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。神楽坂通りに出る方の路地はわずか91cm、四つ角にぶつかる方は122cmでした。(詳細はここで)

「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」


ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持って「ごくぼその路地」を抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会う

4丁目南東部の歴史|神楽坂通り

文学と神楽坂

 神楽坂通りに面した紅小路と本多横丁との間の場所です。楽山茶舗があるのが一番有名でしょう。大正の終わりから、昭和、平成までこの場所を調べてみました。

 まず大正12年の関東大震災の以前の図を見ます。昭和45年新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。

楽山、本多横丁、紅小路

 ここでは「玩具橋本」「山本コーヒー」「竹川」「靴」が書いてあります。「竹川」「靴」は、昭和5年になると「竹川靴店」と書いていますから、これはおそらく一語だと思います。「山本コーヒー」には本多横丁と神楽坂通りの2店があり、中でつながっていたようです。メイセン屋(メイセン屋はおそらく銘仙屋?)は紅小路の左に書いてあります。なお、地元の方の情報を加えてメイセン屋もここに含有されると考えます。

 次は『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」にあった図ですが、原図ではなく、やはり地元の方の情報を加えて一部変更した図です。

『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)「神楽坂と縁日市」

 昭和5年頃の図は左に、平成8年の図は右です。メイセン屋は楽山茶輔と同じ位置にあり、紅小路通りの右にあったようです。どちらがいいのか? 神楽坂の住人によれば「昭和3年生まれの父によると、新宿区の『古老の記憶』が間違い」(通信欄)といいます。なるほど。また、同じ住民から、魚国鮮魚店は表通り側に、牛込花壇は裏道側にあるといいました。上図が正しいと推定させるものです。

 さて次は「火災保険特殊地図」で昭和12年版と昭和27年版の2つです。左の昭和12年版は「コーヒー」だけが見えます。一方、右の昭和27年版は「神楽坂郵便局」「空白」「みさこのみや」「近江やハキモノ」が見えます。

4丁目

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)でこんな写真がでています。

大東京写真案内

 もう1つ、昭和60年に神楽坂青年会がつくった「神楽坂まっぷ」です。

L

神楽坂まっぷ

 平成15年の神楽坂通り商店会の「神楽坂マップ」です。

平成15年

 さらに『神楽坂まちの手帖』第12号の「昭和三十年代とその周辺」から昭和35年の地図をもらいました。また昭和35年以上は国立図書館の地図をまとめています。以上、まとめると

坂上/西北の店舗① 店舗② 店舗③ 坂下/東南の店舗④
大震災前 メイセンヤ 玩具 橋本 山本コーヒー 竹川 靴
昭和5年 メイセンヤ 橋本オモチャ 山本喫茶店 竹川靴店
昭和12年 (建物) (建物) コーヒー (建物)
昭和27年 神楽坂郵便局 (空白) みさこのみや 近江や ハキモノ
昭和35年 神楽坂郵便局 仕出し 魚藤 近江屋
昭和35年頃 神楽坂郵便局 フランス菓子スゴオ 鮮魚 魚三 履物近江屋
昭和45年 (空白) スゴオ菓子店 魚三 近江屋ハキモノ
昭和51年 大佐和商店 スゴオ菓子店 魚三 近江屋
昭和55年 神楽坂楽山 栄和ビル コーヒースゴオ 魚三 近江屋ハキモノ
昭和60年 銘茶楽山 3F ラサール美容室
5F 栄和歯科
魚さん 近江屋ハキモノ
平成2年 神楽坂銘茶楽山 中坪ビル 魚さん 近江屋
平成8年 楽山茶舗 ゲームセンター 魚さん料理 近江屋履物
平成28年 楽山(①+②) うおさん 4丁目近江屋ビル
AGARIS、Poisson、野菜食堂サクラサク、つみき、神楽坂イカセンター 8.va 五十番。蓮、やまあい
La cuchara, 九蔵
楽山

楽山

楽山
『まちの手帖第11号』には楽山のこれまでの歴史があります。昭和34年に牛込北町の中央通りに店を開き、昭和43年に現在の場所に変わりました。『まちの手帖第11号』ではこんなことを書いてあります。

昭和39年のお茶審査競技会で5種5煎というきき茶部門で優勝。「その後何度も入賞したから、トロフィーや賞状がトラックいっぱいになったよ(笑)」

山本コーヒー
 「ここは牛込、神楽坂」第5号のイラスト「戦前の本多横丁」では

(本多横丁のコーヒー店は)表通り(神楽坂通り)のコーヒー店と裏でつながっていて、ここで名物のドーナツを作っていた。サトウハチローさんがここのドーナツのファンだった。

 サトウハチロー氏も『僕の東京地図』で書いていますが、ここは別紙に。

かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

山本コーヒー(喫茶店)
楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった。

 河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである
うおさん

昔の山本コーヒー店、現在のうおさん

 

山本コーヒー|神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 山本珈琲です。現在は「魚さん」。下の図では楽山ビルの隣りで、赤い四角で囲ってあります。また、「たつみや」はドーナツをつくる場所でした。地図の場所はここ

山本コーヒー

うおさん

 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』で「山本コーヒー」が出てきます。

中学へ行くようになっては、何と言っても山本のわずかしか穴のあいてないドーナツに一番心をひかれた。十銭あると山本へ行った。山本は川崎第百の前だ。いまでもある。五銭のコーヒーを飲み、五銭のドーナツを食べた。ドーナツは陽やけのしたサンチョパンザのようにこんがりとふくれていた。コカコラをはじめて飲んだのもこゝだ。ジンジャエールをはじめて飲んで、あゝあつらえなければよかツたと後悔したのもこゝだ。この間、まだあるかと思って、ドーナツを買いに這人ったら、店内の模様は昔と一寸変わったが、陽やけのしたサンチョパンザことドーナツ氏は昔と同じ顔だ。皿に乗って、僕の目の前にあらわれた、なつかしかった。

中学へ サトウハチロー氏は大正5年に早稲田中学に入りました。したがってこの話は関東大震災が起きた大正12年よりも昔です。
川崎第百 川崎第百銀行のことでした。それから、左の蕎麦「春月」を飲み込んで大きくなり、最終的には「三菱UFJ銀行」となりました。したがって「山本は川崎第百の前だ」は「魚さんは三菱UFJの前だ」になります。
いま この文章は昭和11年に書かれています。昭和12年に「火災保険特殊地図」に書いてあった「コーヒー」もこの「山本コーヒー」だったのでしょう。
サンチョパンザ 正しくはサンチョ・パンサ。スペインのセルバンテス(1547-1616)の小説「ドン・キホーテ」に登場する現実主義の従者。
コカコラ コカ・コーラ。ノンアルコールの炭酸飲料で、1886年米国ジョージア州アトランタで生産が開始しました。第2次世界大戦中、米軍とともに世界中に広まっていきましたが、日本には大正時代から出回っていました
ジンジャエール ノンアルコールの炭酸飲料で、ショウガ(ジンジャー)などの香りと味をつけ、カラメルで着色したもの。
あつらう あつらえるの文語形。注文して作らせること。

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)では

大東京写真案内。神楽坂。牛込見付から肴町に到る坂路さかみちが神樂坂、今や山手銀座の稱を新宿に奪はれたとは云ふものゝ、夜の神樂坂は、依然露天と學生とサラリーマンと、神樂坂藝妓の艶姿に賑々しい。

 右手で「うなぎの御飯」や「コーヒー」を売る店舗がありますが、見ると、小さく「山本」と書いています。この写真についてほかの情報はここに。

 河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』 第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)は

喫茶山本――春月(しゅんげつ)の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です

 『ここは牛込、神楽坂』第5号(平成7年)「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では

●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。
うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳

 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。
 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。
 戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。
 ジョン・レノン?ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。

和可菜|兵庫横丁

文学と神楽坂

 旅館「()()()」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き」として有名でした。
 粋なまちづくり倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』(2013年、東洋書店)では和可菜旅館について

霧除けを帯びた入母屋造りの瓦屋根に下見板張りの外観は、玄関脇の植栽とともに閉静な路地に彩りを添えている。板塀にしつらえられた引違いの格子木戸は、動線を屈曲させてアプローチに「引き」を作る。玄関は洗い出し土間に自然石を沓脱ぎとして配し、台形の無垢板の式台ナグリ吹寄せ 竿縁の天井をしつらえるなど手の込んだ意匠が残る。腰には丸太を縦張りし高窓のガラス戸桟を人字型に加工するなど、旅館建築ならではの自由なデザインも見られる。

そう、建物として本当に何かが上品で流麗なのです。
 なお、ここで出てくる設計用語については

霧除け 霧や雨が入り込まないよう、出入り口や窓などの上部に設ける小さなひさし。
入母屋造り 上部で切妻造(前後2方向に勾配をもつ)、下部で寄棟造(前後左右四方向に勾配)となる構造。
下見板張り 外壁で板を横に並べるとき、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。
格子木戸 碁盤の目の木の戸。
洗い出し たたきや壁などで、表面が乾かないうちに水洗いして、小石を浮き出させたもの。
沓脱ぎ 履物を脱ぐ所。
式台 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置する板。
ナグリ 舞台玄能。
吹寄せ 竿を2本ずつ寄せて入れるもの。
竿縁(さおぶち) 一般的和室天井張り形式。
縦と横1縦張り 縦に羽目板などを張ったもの。
戸桟 裏に桟を取り付けた、頑丈な戸。

外から見た旅館・和可奈

 明治大学教授の黒川鍾信氏の本『神楽坂ホン書き旅館』は02年に出版されました。
 NHK出版でそのPRを読むと『今井正、内田吐夢、田坂具隆、山田洋次、石堂淑朗、市川森一、竹山洋、野坂昭如、結城昌治、色川武大、伊集院静、村松友視。日本を代表する映画監督、脚本家、作家たちを、神楽坂の一角で四十八年間にわたって支えてきた「ホン書き旅館」の女将が語る執筆現場の秘話』だそうです。
 本当に「秘話」はちょっと大げさですが、でも「へー」という話が一杯入っています。たとえば、山田洋次氏が寅さんシリーズ第35作で初めてここにやってきた時の話。阿佐田哲也氏のマージャン大会の話。伊集院静氏が宿をここに置いた、その理由など。
 また黒川氏は05~06年、『神楽坂まちの手帖』第9号から第15号にかけて「ホン書き旅館の帳場から」を書いています。
 さらに小田島雅和氏が『神楽坂まちの手帖』15年第1号から第3号にかけて「和可菜通信」を書いています。中身は俳句の「くちなし句会」について。 「くちなし句会」は作家結城昌治氏を中心として俳句の句会のことです。昭和52年(1977年)から開始し、第4回句会以来は「和可菜」で行い、途中で中断がありますが、平成19年(07年)以上、25年以上も続いています。今もやっているのかどうかは、はっきり言ってわかりません。やっていると思いたいです。
 伊集院静氏は11年に『いねむり先生』を書きます。そこで、筆者2人がいるけど実は同一人物だと教わります。伊集院氏がその筆者を連れて

 神楽坂の通りを毘沙門天の向いから路地に入り、くねくねと曲がった石畳の階段を段だらに降りて行くと、黒塀に囲まれたその宿はあった。

 これは和可菜です。「段だら」とはいくつにも段になっているもの。その宿の庭については

 ボクたちはその宿の庭に面した濡縁(ぬれえん)に並んで座っていた。(略)
 ちいさな庭の中央に古びた池があり、手入れかされてないのか、水は涸れてしまっている池の真ん中に一匹の黒猫が吹き溜った枯葉とじっとしていた。(略)
 庭といっても数歩歩けば表に出てしまう箱庭で、時折、塀のむこうの坂道を通る人の足音かすぐ近くに聞こえた。

 濡縁とは雨風を防ぐ雨戸などの外壁はない縁側だそうです。
 しかし、『神楽坂まちの手帖』そのものは第18号になって消えていきます。以来、「和可菜」は沈黙し、声は聞こえてはきません。本当に今も外国人が多いのでしょうか? だれかインターネットを使ってくれるとよく分かるのに。
 06年の『神楽坂まちの手帖』第15号、「ホン書き旅館の帳場から」で黒川鍾信氏は和可菜を取り上げて寿命はもう「風前の灯」だといいます。

「昭和ニ十九年~現在 ここで三千本を超える映画・テレビドラマの脚本と数百編の小説が書かれた」と刻まれるだろう。
 「~現在」が「~平成○○年」に代わる日がくるのは、さほど先のことではない。いや、すでに半分は“休館”の状態である。

 ところが、07年のTVドラマ『拝啓、父上様』はまた大きく変わります。「和可菜」は架空の料亭『坂下』のすぐ隣りになり、第3話の架空の作家・津山冬彦(奥田瑛二)の写真もここで撮影しました。

かくれんぼ横丁(「和可菜」前)
  石畳に並んで立つ津山冬彦と芸者真由美。
  スチールをとっているカメラマン。
カメラ「あ、いいな!  いいですよ! 目線一寸上。ア! いいなァ!」
  その時、撮っている先方の角から和服の男が現われる。
カメラ「ア」
  一瞬ためらい、シャッターを切る。
  和服の男――ルオーさんである。


「和可奈」の前にたたずむ作家、津山冬彦。「拝啓、父上様」で出ました。

 今では和可奈は閉鎖しても閉められない場所になってきたのです。まるで遊園地、観光名所になったようです。いまでは休みの日には人人人です。

 2015年末に一時閉店しましたが、隈研吾設計事務所の手を借りて、2021年、再出発するようです。





神楽坂の通りと坂に戻る

神楽坂|兵庫横丁はどこから来たの

文学と神楽坂

 みんな兵庫横丁はどれぐらいから知っていますか? やはり2008年からでしょうか。それより前にはごく少量の人は知っていましたが、他の人は誰も知らなかったのです。

 たとえば……
 料亭幸本の若女将、寺田歩さんは2007年『神楽坂まちの手帖』第15号では

そういえば、この辺りを兵庫横丁っていうそうですね。住んでる人間は知らないもので、「へえ、名前が付いてるんだ」って驚きました。

といっています。

 もっと古く平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』では

井上 ここは神楽坂で、もっともきれいだといわれるところ。決定打がほしい。黒塀があったりして『しのび坂』はどうか。猫の通り道なので「猫坂」でもいい。
  “おしのび”という感じでいい。あのあたりは昔は確か本多横丁からも抜けられた。

 この座談会に登場する3人とも「兵庫横丁」という用語は全く知りません。

 さらに新宿区の『新宿区60年史ー新宿時物語』(新宿区、平成19年、2007年)では、なんと芸者新道という、別の場所の名前が正々堂々と付いていました。

新宿時物語

新宿時物語

 ところが平成22年(10年)の「神楽坂粋なまちなみルール」(案)では正々堂々と兵庫横丁が出てきます。

 実は水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その際、やはり1説だと書けばよかったのに…。

提言「兵庫横丁」の命名を。
神楽坂まちづくりの会新宿区郷土史会 水野正雄。
 この周辺の横丁や路地に“かくれんぼ横丁”“見返り横丁”とかなんらかの名前がついているのですが、この横丁だけは名前がありません。なんとか名前をつけてみたいと考えています。今流で言えば「総理大臣首きり横丁」といったところですが、中世の町兵庫まちにちなんで「兵庫横丁」としたらいかがでしょう。そうすれば中世の記憶も残ります。
 兵庫まちにちなむことを是非提案いたします。
神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」平成7年

 まあこのあたり、歴史的な云々は別として、以前にはなかった場所、江戸時代ではまったくなかった路地だと、知っておきたいところです。江戸時代と現在では場所も違います。もう正しいことになったのでまあ仕方がない…としておきましょう。でも、兵庫横丁という用語はいい言葉です、うん。

兵庫7



神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

 兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では……

神楽坂五丁目

 神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込うしごめ肴町さかなまちが、神楽坂の北側に行元ぎょうがん門前もんぜんおよび寺地があった。

牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫ひょうごといったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に

安政4年(1857)『市谷牛込絵図』(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)から

 つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

 ところが、兵庫横丁は、神楽坂五丁目ではなく、神楽坂四丁目なのです。四丁目なのに、どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが……

 ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。

 想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。

 ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。なお、原図は新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、1987年)で、新宿区の図書館や国立国会図書館から借りることができます。牛込城の想像図

文学と神楽坂

 兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。

兵庫

 野口冨士夫『私のなかの東京』では

 読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

 石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。

 まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では

 坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった

と書いています。

 特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。

 見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。

「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。

「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?

 さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。

 また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。

 格子戸は格子状の引き戸や扉で、採光や通風を得ることができます。()ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。()り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。

 関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。

 簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。

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 黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。


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