神楽坂5丁目」カテゴリーアーカイブ

あの頃の神楽坂

文学と神楽坂

 けやき舎の「神楽坂 まちの手帖」第12号(2006年、平成18年)の「あの頃の神楽坂」を読み直しています。今は2024年なので、18年もの昔ですが、この思い出はさらに昔で、つまり、昔のまた昔でした。

 それぞれの思いで 

●外濠でね、マッカチンっていう真っ赤なアメリカザリガニを釣ったよ。

マッカチン マッカチンとはアメリカザリガニそのもの。「色が真っ赤」からきた言葉。牛込濠は飯田濠に比べて浅いので、地元の方は「大きな魚はいなくて、釣れるのはクチボソやザリガニばかり。手すりも低く、濠に下りるのは容易でした」。カナルカフェができたあたりから牛込濠で釣りができなくなりました。

神楽坂警察で剣道を教えてたよ。よく竹刀の音が聞こえたね。

神楽坂警察 神楽警察署が早稲田警察署と合併して移転したのは昭和35年(1960年)。その後は地図のように警視庁の他の組織が入っていました。それでも地元では長く「警察署」と呼ばれていました。神楽坂警視庁は図の右下に。他の1〜2丁目の店舗もここに書いてあります。

図1。1962年。住宅地図。西から神楽坂メトロ、清水衣裳店、将来のブックスサカイ、ドミニカ、赤井Yシャツ店、警視庁

●外堀通りも商店街だったんだ。今はビルばっかりになってるけど。

商店街 住宅地図による昭和62年と昭和63年の揚場町の様子です。昭和62年には小さな店が沢山あります。昭和63年には再開発が一気に進んでビルばかりになりました。

昭和62年と63年。揚場町。住宅地図。

メトロの前を山下敬二郎が散歩してたな。

メトロ メトロとは映画館の神楽坂メトロ(図1)。昭和27年元日から昭和42年まで営業。
山下敬二郎 氏はロカビリー歌手で、落語家の柳家金語楼の非嫡出子。山下氏は1939年2月22日ー2011年1月5日、72歳で死亡。

ブックスサカイのお父さんが酒井抱州っていう有名な易者さんだった。

ブックスサカイ ブックスサカイとは神楽坂下交差点から南西に向けて1軒隣の本屋さん(図1と下図)。昭和62年はカメラサカイ、昭和63年はブックサカイ、平成22年もサカイ書店、平成27年には「中華食堂日高屋 神楽坂外堀通店」に。

昭和62年はカメラサカイ。昭和63年はブックサカイ。

●鉄の釘を国電の線路においてね、轢かせると刀みたいな形になって…危ないことやってたよね。
●警察の前の柳は、大正時代に赤井さんが植えたんだ。

赤井さん 赤井さんとは神楽坂下交差点の西北にあった足袋とYシャツの店主(図1)。住宅地図では、平成7年(1995年)まではアカイ洋品店。平成8年はカフェベーカリー「ル・レーブ」。Le Reveはフランス語で「夢」。現在は不動産仲介の「アパマンショップ飯田橋店」。「赤井さんが柳を植えた」は以下の「古老談話」「桜と柳のこと」に出てきます。

●神楽坂警察の主導で、神楽坂ジャガースっていう少年野球のチームを作ったんだ。

古老談話。神楽坂ところどころ
神楽坂一丁目12番地 赤井儀平氏
 桜と柳のこと
 とに角、堀は昔、ずっとそこまであったんです。今のそのポート屋のところも堀だったんですよ、それを埋め立てたんです。ここはそれに桜がありましてネ。お堀端にはずうっと桜が植えてあったんですが、それが中央線の複線工事で全部切っちまったんです。あれぽっちでも植えておけばよかったんですが。大したものになっていたんですがね。
 柳は、そうですね、大震災頃までは有ったんですが、みんなが根を踏みつけるんで枯れちまったんです。それで今度都で全部植え替えたんです。昔は桜と柳で葉が落ちるし、それがごみになるというので、毎朝目が覚めるとそれを掃きに行ったものです。これがなかなかの大仕事で、うちの爺さんは朝4時に起きて橋の脇まで掃きに行く、6時頃ひととおり終って帰って来ると、あっちこっちにごみの溜まりができてるでしょ、そいつを集めに行ったものです。
 桜も柳も随分ありましたが、すっかり枯れたり切ってしまって、都で植え替える前は1本残った柳の木の脇にできた飲食店が柳屋という名をつけています。別に昔の来歴を知って付けた名前ではないんでしょうがね。又むこうの枡形、橋の際にも柳がありましてね。私が覚えてからも毎年植木やさんを入れて、手入れをしていました。柳が伸びちまうんで刈り込みをしなきゃならないんです。あんまり手が掛るというんで何時頃でしたか献木しちまったんです。
 だんだん街に緑が少なくなって来ますが、枯れるんなら止むを得ないとしてもただ邪魔だから切っちまえというんぢゃったまらないです。何んにも知らない人達が何んだか向うが見えないから切っちまえ、切っちまえとやたらに切ってしまったらしいんです。でも、その木は私達が植えたんだから切らないでくれともいえませんでしたネ。
新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年


お堀端にはずうっと桜が植えてあった 市ヶ谷見附付近を描いた絵はがきを見ると、線路と壕の間にも桜が植えてあります。牛込堀も同じような景色だったのでしょう。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)

中央線の複線工事 正しくは昭和初期の中央線の複々線化でしょう。
私が覚えてからも毎年植木やさんを入れて、手入れをしていました。
その木は私達が植えたんだから この2つをまとめると「自分たちの植えた木なので、手入れをしたが、大正12年の大震災をうけて都に献木し、それからは都が植え替えをすることになった」。つまり「赤井さんが柳を植えた」のは正しいでしょう。

坂下

●神楽小路にドミニカっていうバーがあってね、すごいキレイな女の人がいたのを覚えてる。

ドミニカ ドミニカは神楽小路にあった店舗(図1)

清水衣装店のおじさん、顔は怖いけど面白い人だったよ。

清水衣装店 清水衣装店(図1)は千代田区飯田橋3-2-12タキザワビル2Fに移転。
 けやき舎の「神楽坂 まちの手帖」第12号(2006年、平成18年)『座談会・昭和45年生まれが見つけた「昭和30年」』では、
嶋田(毘沙門天・善国寺 住職) 清水衣装店の清水さんに聞いたんだけど、清水さんのお父さんがね、夕方になるとお座敷に行っちゃうんだって。家のものが「駄目だ」っていうと、清水さんに「ちょっと散歩に行こう」っていってね、子供の面倒をみるフリをしてお座敷に行っちゃう。清水さんは奥のほうで仲居さんに遊んで貰ってたそうですよ。
平松(「神楽坂まちの手帖」編集長) それじゃあ、戦前の神楽坂は、商店主たちが結構ふところ豊かで、花柳界にも通ってたわけですか。
岡崎(元神楽坂通り商店会会長補佐) ええ。

清水衣裳店。TV「気まぐれ本格派」第7話。昭和52年

●赤井さんのYシャツは有名だったわよ、お洒落な人はみんな買いに来るのよ。

坂上

万平の柳は風流だったなあ。つい釣られて入っちゃうんだよね。

万平 新宿歴史博物館の写真で柳はID 6, 7, 11, 14, 16, 46, 99, 8806, 12903-12905に出ています。困ったことに小料理屋の万平が確認できるのはID 46ID 99だけです。また、小林信彦氏と荒木経惟氏の「私説東京繁盛記」(中央公論、昭和59年)(下図)では万平は写っていますが、柳は途中でバッサリ切られています。

神楽坂(昭和58年に撮影)私説東京繁盛記

 昭和62年の住宅地図は「小料理屋 万平」、昭和63年には何もなく、平成元年に「万平ビル」がでています。
 また『神楽坂 居酒屋「あまくさ」』では……

 外堀通りから神楽坂を150メートルほど登った右側に〈万平ビル〉はある。この場所には戦後、「万平」というすき焼きを食べさせる店が建った。入口に柳の木が立っており、とても風情のある店で、私も二十数年前に何度か入ったことがあった。小さな古い木のカウンターがあり、そこにおばあさまが一人いて客の相手をしてくれる。あの有名政治家故田中角栄氏が常連であったそうで、国会の帰りにここで軽く呑んでから裏手の神楽坂の料亭街に向かったとのこと。
「その席に角さんがいつも座っていたのよ」と、おばあさまがカウンターの端の席を指さして言っていた。
(2008 01 30 居酒屋探偵DAITENの生活)

万平の柳 気まぐれ本格派(昭和52年)10話。「すき焼」が万平の一番美味しい料理とか

毘沙門様に街頭テレビがあってさ。もう塀の上まで人が鈴なりになってた。
●テレビは日テレが置いたんだ。確か、最初は日テレしか写らなかったかな。

毘沙門様に街頭テレビ 昭和28年8月20日に日本テレビ放送網(NTV)が放送を開始。その直前にNTVの「街頭テレビ」を設置。

●大きな滑り台と砂場があったね。滑り台から砂場に飛び降りた記憶がある。

滑り台と砂場 これも毘沙門の境内の思い出。区に一部を貸すと、神社などは補助を受けられる。写真は「毘沙門さま あれこれ」や「ID 8271-ID 8272」から。図は『ここは牛込、神楽坂』第3号から。

用水池があってさ。2B弾っていう先っぽをマッチみたいにこするとシューって飛んでいく花火を池の上に滑らせて遊んでた。

用水池 用水池がどこにあるのかわかりません。
2B弾 2B弾(にービーだん)とは愛知県の花火業者が開発した花火の一種。昭和30年代の「男子の危険な遊び」。事故が多発して、製造中止命令に。1966年(昭和41年)まで製造。

●毘沙門さんに行くと誰か遊び相手がいるっていう感じだったよ。

坂上・6丁目

リード商会の息子さんは、坂下の白十字の大沼先生なんだ、有名な産婦人科・性病科の先生でね、雑誌にも出てたよ。

リード商会 リード商会は神楽坂5丁目のレコード店。2丁目(ID 9782ID 11869)に支店があった。5丁目は本店ながら三角の変則敷地の小さな店で、隣のうなぎ「大和田」とまとまって建て直し、ドラッグストア「セイジョー」になりました。2020年に都の大久保通り拡幅事業で全て閉店し、2021年1月に「神楽坂5丁目ビル」ができました。
時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

住宅地図(2017年)と航空地図(Google, 2023年)

白十字 白十字診療所は神楽坂1丁目にあった産婦人科・性病科の診療所。現在は「のレン 室」(米麹食品専門店)に。ID 9781が一番明瞭にわかる。

りそな銀行の角を入った先に、巨人の千葉茂が弟と一緒に居候してたんだ。

りそな銀行 りそな銀行神楽坂支店は神楽坂6丁目にある銀行。以前は協和銀行からあさひ銀行になり、さらに大和銀行グループと一緒になって、2002年3月、りそな銀行に統合。
千葉茂 生年は1919年5月10日。没年は2002年12月9日。読売ジャイアンツの名二塁手。愛称は「猛牛」。
居候 りそな銀行の先に左に曲がる路地があり、その路地の世帯数は相当に多く、どこに住んでいたのか不明。

●街灯もね、今みたいにタイマーがないから暗くなったら自分でつけるんだ。付け忘れたら暗いままだし、逆に明るくなってもつけっぱなしだったりね。

路地
石畳は雨が降るとすべるのよね。あそこで鬼ごっこなんかしたら面白かったわよ。だけど塩を盛る頃になると帰らなきゃ怒られちゃう。

石畳 摩擦係数が低い石畳は雨や雪で滑りやすくなります。
塩を盛る頃 盛り塩は塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く縁起物。幸運を招き千客万来を願うとされ、商家では朝、玄関脇に盛る。花柳界では開店する夕方前に盛り塩をしたのでしょう。

津久戸小学校
●むかし、つくど小学校に、てんのうへいかとこうごうへいかがいらっしゃいました。そう、お父さんがいっていました。だから、わたしたちの学校はいまではもう大ゆうめいです。つくど小学校がいっぱいになったしまいましたので、あいじつ(愛日)というがっこうをたててあげました。つくどとあいじつをくらべては、つくどはまけています。どうしてかというと、あいじつはエレベータがあるのでいいのです。
(昭和35年 三年生女子)

つくど小学校 あいじつ 歴史的には愛日小学校は明治13年7月31日開校、津久戸小学校の開校は明治37年4月10日です。(『新宿区史 資料編 区成立50周年記念』)

新宿区史 資料編 区成立50周年記念

 ただし愛日(当時は愛日国民学校)は昭和20年に全焼し、昭和21年に廃校。生徒は津久戸小などに移りました。昭和27年に愛日の再設置が決まり、新校舎第一期工事が完成して生徒が移ったのは昭和32年でした(愛日小学校の歴史)。このことを言っているのでしょう。
 昭和35年の住宅地図には、まだ津久戸小と一緒に愛日小が書いてあります。

昭和35年。住宅地図。津久戸小と愛日小


善國寺(明治時代、昭和初期)

 明治時代の善國寺です。最初は新撰東京名所図会第41編(明治37年)の「善国寺毘沙門堂縁日の図」です。

新撰東京名所図会第41編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

 左から右に見ていきましょう。まず見えるものは縁起のいい餅花もちばなで、ヤナギやミズキなどの木の枝に、紅白の餅や団子を丸めています。鯛や小判、賽、キツネ、「当たり矢」「おたふく」「ひょっとこ」の飾りが下がり、行灯は「商人中」でしょうか。賽銭箱の前で女性2人が拝んでいます。
 その次にのぼりがあり、「奉納 明治三十五年 開運 壬寅 正月」とあり、右側の「開運 毘沙門尊天」と同じものでしよう。
 善国寺は池上本門寺の末寺に当たります。「牛込千部講」というのは法華経8巻を1000回読んで、ご先祖の精霊を供養すること。僧侶100人が2回ずつ読んで200回、これを5日間行って1000回。
 参拝客の中央、メガネの男性がひめ小判守を大事そうに持っています。その奥にはおそらくだてがさがあり、そこで何かを買っている人もいます。右側の屋台はおもちゃ屋でしょう。のぼり鬼などの面、小さな獅子舞や三味線を売っています。その手前の毛氈もうせんの台でも、手ぬぐいをかぶった男性が七福神の人形やおもちゃを柿を持った子供に説明しています。
 これらの露店の奥、本堂前には現在も残る狛虎1匹。右の入母屋の瓦屋根はお守りや縁起物の販売所でしょうか。「神楽坂」の旗、中にも「兼子」「牛込」「名台○○」などの旗があります。
 右上で見切れているのは、たくさんの小さな幟をロープか竹でつなげたものです。「御華◯◯」「牛込芸妓中」「業平吾妻の寿し」「ふくや 業平」「◯し中」「會」「牛込」「◯中形」などです。

 昭和時代になると、次の写真も残っています。

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

善国寺(写真)大正12年

文学と神楽坂

 大正12年、東京市公園課は「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」を出版し、その74は肴町の善国寺を撮った写真です。写真帖の発行日は5月1日で、同年9月の関東大震災の直前でした。

毘舍門天

 1頁前の説明文は「日蓮宗池上本門寺である。文禄麴町に創建し、寛政年間此地に移る。僧日惺の開祖で日蓮宗録所である。本尊毘門天の縁日寅の日には賽者熱閙繁昌を極めて居る」

 末寺。本山(本寺)の支配下にある寺院。江戸幕府は、本山・末寺関係を制度化して、寺院支配を行った。
文禄 1592年から1596年まで
麴町 東京都千代田区西部の地名。皇居の半蔵門から西にのびる新宿通り(甲州街道)をはさんで東西に広がる。
寛政 1789年から1801年まで
日惺 にっせい。安土桃山時代の日蓮宗の僧。
録所 そうろく。一般に寺院を統轄し、人事をつかさどる僧職名
 しゃ。梵語の音写。舎利とは仏陀の遺骨のこと
賽者 さいじん。神社仏閣に参詣する人。
熱閙 ねっとう。ねっどう。人がこみあって騒がしいこと。

 ほぼ同じ画角の牛込区史(昭和5年)掲載の写真と比べながら詳しく見ます。
 境内を囲む石囲いには1本ずつ寄進者の名が刻まれています。左右の門柱にはアーチ状に樹木を透かし彫りにした飾りがあります。中央の灯籠型の門灯は「◯門」か「◯川」と読めます。アーチは牛込区史にも見えますが、戦災で失われたようです。門柱と石囲いは戦後の昭和46年、再建まで使われました(ID 8299)。
 門柱の前には一対の屋根付き提灯。右は「大毘沙門天」、左は同じものが横を向いていて「(奉)納」。この提灯は石囲いの中に立つ柱で支えており、「牛込区史」にもあるので常設のもの思われます。
 境内に入りましょう。5列の石畳が本堂に通じ、その両側に背の高い灯籠が4灯ずつ。左右対称ではなく互い違いに配置されています。灯籠の下に碍子がいしらしきものがあるので電球だったでしょう。この灯りは牛込区史では中央一列の傘型照明に変わっています。
 正面の賽銭箱の左右の隅には「牛込」と小さく切り文字がありますが、中央の大きな字は判読できません。上から本坪鈴ほんつぼすずが垂れています。本堂は入母屋屋根で、破風が正面を向いています。
 手前の石畳の左右にも別の建物があり、本堂の右にも大きな屋根が見えます。木は裸になっているものもあり、この写真は冬か初春でしょう。

善国寺(写真)昭和44年頃 ID 14126-28

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126~28は、善国寺の写真を撮ったものです。撮影の年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
 この時期、善国寺には昭和45年 ID 8299-ID 8300昭和44年 ID 8271-ID 8272などがあり、これらを元として解説します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126 善国寺

 境内の隅から斜めに撮影しています。手前右側の四角い石はおそらく建物の基礎で、戦前にはこの場所には建物があり、東京名所絵図(明治37年)の挿絵には賽銭箱なども描かれています。その奥の建物は基礎がない仮設の小屋と思われ、商店街のセールの福引所などに使われました。
 T字に並んだ敷石は参道です。戦前のものと思われ、凹凸が目立ちます。左手間は毘沙門横丁側の門につながり、左側は本堂(毘沙門堂)に、右は正門に続いています。
 参道の向こうに四角い石があります。このあたりも戦前は建物があったので、礎石の一部かもしれません。左には屋外灯と旗の掲揚塔。さらに左は石虎で、土台に「奉」の一文字が掘られています。
 その奥の手すりは、写真には写っていない石造滑り台から降りてくる子どものための安全柵です。黒っぼい角柱は日よけの支柱で、その足元は砂場。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。いずれも区立毘沙門児童遊園の施設です。
 最も左奥の建物には「易占えきせん/毘沙門天/易断所」という看板がかかり、そこで易者が占っていました。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14127 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14128 善国寺

 ID 14127とID 14128は、いずれも北側の正門の外から本堂を見ています。左側にはベンチと、わずかに見えるくじ引き用の抽選器。その上には「餅花もちばな」を模した小さな正月向けの飾り。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習でした。軒下には提灯が並びます。
 中央の5列の敷石は参道。右は門柱で、大きく欠けているようにも見えます。いずれも戦前から残存したものでしょう、
 屋外灯、石虎、中央奥には本堂と鈴紐すずのお、賽銭箱には右書きで「奉納」と「神楽坂振興会」。石虎の右奥は、背もたれが独特なベンチでしょう。
 参拝者はコートを着ています、時期は年末で「陽差しから見ても、ID 8299と同時撮影でしょう。本堂は昭和46年に再建されるので、その建築前、おそらく昭和44年の年末でしょう」と地元の方。

善國寺。住宅地図。1970年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

神楽坂(写真)昭和20年代 ID 13793

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」に「神楽坂付近か」として写真ID 13793があります。撮影時期は昭和20年代です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13793 神楽坂付近か

 奥には家があり、屋根の左側はあまり長くはなく、下がり棟が始まっています。前の2軒とはほぼ直角になり、10段内外で奥の家のほうが高くなっています(高さで2~3m)。前の2軒同士の間隔は30cmもないようですが、しかし、ゼロではなさそうです。一番前の家にはひょうたんの絵が型抜きされています。
 ではこれとよく似た場所を探しましょう。都市製図社の『火災保険特殊地図』しか残っていません。探していくとクランク坂だと……と書いてきましたが、実は『火災保険特殊地図』は正しいのですが、昭和27年ではなく、昭和12年を探していました。大間違いです、はい。クランク坂も大間違いで、改めて探しています。では、地元の方はどう考えるのかは……。

 ID 13793の場所は分かりません。ただ360度VRカメラで「クランク坂」を数えると15段あります。1段は16-18cm(20cmだと急すぎる)ので、「クランク坂」の高低差は2.5mくらい。この写真の段差は人の背丈や軒より低いので「クランク坂」とは違うように思います。
 階段を上がったところに門灯(裸電球)がついています。この路地は袋地で、階段は突き当たりの家のもののように感じます。同時代と思われるID 1379113792に比べて路地が未舗装で雨水用の側溝がないのも、路地が行き止まりで整備されていないためかも知れません。
 地形的には「かくれんぼ横丁」の突き当たりなど、裏道の袋地の奥が1mくらい高くなっている場所がいくつかあります。特定は出来ませんが、そうした路地の写真ではないかと思います。

善国寺(写真)平成22年 ID 13351

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13351は平成22年(2010年)3月に、神楽坂4丁目にあるちんざんしゃもんてんぜんこくを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13351 神楽坂毘沙門天

 車道はアスファルト舗装、側溝はL型で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色で意味は「駐車禁止」。歩道もアスファルトのインターロッキング(interlocking)ブロック舗装。
 街灯は戦後4代目で、水銀と高圧ナトリウムの2つのランプ。この街灯は令和4年に更新され、古い街灯が本堂前の境内灯として再利用されました。続いて三角コーンがあり、次の標柱の内容はここで解説しています。
 石囲いは無地で、左端に「毘沙門寄席」の看板があります。ちなみに神楽坂毘沙門寄席の第一回は2005(平成17)年11月、22年7月では50回以上だそうです。看板は「七日の出演者」、<昼席 十三時半開場 十四時開演>は五街道彌助、三遊亭遊雀、柳家喜多八、<仲入り>、松旭斉 美智 美登、柳家花緑。<夜席 十八時開場 十八時半開演>古今亭菊六、金原亭馬遊、柳家さん喬、<仲入り>、三遊亭小円歌、林家たい平。下に行って<十三日の出演者 出演順>春風亭一之輔、入船亭扇辰、柳亭市馬、林家正楽、古今亭菊之丞、立川らく次、三遊亭白鳥、古今亭志ん輔、柳亭小菊、立川志らく、<十四日の出演者 出演順>柳家三之助、桃月庵白酒、林屋正雀。その右側に白と青のポスターが2枚、「墓地売出中」と読めます。門前を歩く人は背広、ダウンジャケット、上着を手に持った人などで、肌寒かったと想像します。
 赤い山門は平成6年(1994)に作られたものです。梁の間に「毘沙門天」「善國寺」の提灯が多数。左側の門柱には「毘沙門天」、右側の門柱は「善國寺」と銘板「神楽坂興隆会」。
 山門を潜り、境内にはいると 左の青銅色の屋根は浄行菩薩。境内灯は街灯とは違い、傘と円筒形の照明でした。本堂前の2体の石虎(右は阿形あぎょう、左は吽形うんぎょう)。その右に読めない看板、さらに右には石虎を描いた絵馬やおみくじを結ぶ棚があり、さらにその上は藤棚で、境内はアスファルト舗装されています。さらに右、門脇の石囲いの中はしだれ桜ですが、こちらもシーズン前です。
 最後は本堂(左、おみく[じ]と読める)と庫裏くり(右、住職や家族の住む場所)です。本堂と庫裏とは渡り廊下でつながっています。また庫裏の受付でおみくじが買えます。

神楽坂6丁目(写真)昭和47-49年 ID13227

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13227は神楽坂6丁目から5丁目や3丁目の方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

 横の大通りは大久保通り、縦の大通りは神楽坂通りです。中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。全体にID 7430(昭和45年)と似ていますが、「車両進入禁止」の回転標識は角が丸くなっており、これはID 13174-13180(昭和47年秋~48年春)と同じものです。
 交差点名は「神楽坂」で、信号機にゼブラ柄の背面板はありません。横断歩道は白線のみで、路面のゼブラゾーンは描かれていません。
 交差点の奥と手前右側は神楽坂5丁目で、右側だけが電柱になり、上には大きな柱上変圧器があります。一方、交差点の手前左側は神楽坂6丁目で、左側に電柱があります。
 車道はアスファルト舗装。巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、右側は丸い蛍光灯、左側は蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあります。街灯の主柱は左側は白く、右側は黒く写っています。
 歩行者の1人が普通の背広で、外套等は着ていません。
 いくつかの手かがりから、撮影年代を推定してみましょう。まず三菱銀行神楽坂支店が3丁目の新ビルに戻り、仮店舗の後に「パチンコ山水林」ができました。これは昭和47年(1972年)以降です。
 回転標識の近くに歩行者天国を示す交通標識(歩行者専用)や(自転車及び歩行者専用)はありません。一方、ID 11824(昭和54年)には出てきます。なお、ID 11824の正面の高いビルは、昭和53年(1978年)3月に完成した相馬屋ビルです。しかし、ID 13227には建築中の様子も見えません。
 歩行者天国の交通標識について調べると、坂下の牛込見附の交差点でもID 13158(昭和47年秋~48年春)、ID 8800(昭和48年)にはの標識がありません。しかし田口氏05-10-32-01(昭和49年12月)(下図)には登場します。坂上でも同時期に交通標識が整備されたと考えれば、撮影時期は昭和47-49年と推測できます。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街神楽坂 05-10-32-1 牛込見附交差点から 1974-12-21

神楽坂6丁目→5丁目(昭和47-50年)
  1. ▶街灯。「神楽坂商栄会」「0-12 (駐車禁止)」「(区間内)」
  2. 「ナショナル ナショナル 店会の店」「JCB」(篠原電気店)
  3. 「喫茶室 ▲2階 HAKUSA」「(Coca) Cola (白砂)」「喫茶室 白砂 HAKUSA」
  4. 回転標識の背面
    ――神楽坂交差点
  5. 回転標識(車両進入禁止)
  6. 「(角)のせ(ともの)屋 (河)合(陶)器店
  7. 山下漆器店
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田
  9. 洋品 タカミ
  10. 中国料理 東(花飯店)
  11. 神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告があり、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. コーセー化粧品 桔梗店
  2. 宝石 メガネ 時計 (株)タイヨウ
    ――神楽坂交差点
  3. 営業案内/土地建物売買管(理)/賃貸借周(旋)/電話買取及(販売)/不動産一般(代理)(つくば商事
  4. 東電のサー(ビスステーション)
  5. サントリーバー スローン
  6. 薬ヒグチ
  7. (季)川
  8. タイヨウ メガネセンター メガネ
  9. パチ(ンコ)(山水林
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. やき(とり殿堂)鮒忠
  12. 五十鈴
  13. パチンコ おおとり
  14. 突き出し看板「田原屋
  15. 三菱銀行

住宅地図。昭和52年。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13167~13170

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13167-70はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目などを東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13167 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13170 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。車道もアスファルト舗装でしたが、コンクリート舗装があるという意見もあります、
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色です。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (テーラー)島(田)
  2. アワヤ(オシャレ洋品 阿波屋)
  3. ▶たばこ
  4. 「福屋不動産 」「毘沙門せんべい」「福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」。無数の字がある。ID 101の説明1の「〇〇〇〇銘茶研究会〇〇」と同じ(大佐和)
  7. 仐とは(きもの)(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 五十(番) 中華料理
  11. 日邦工〇(宮坂ビル)
  12. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 ロッテ商事 おおとり(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13165~66, ID13171

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13165-66とID 13171-73はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目など東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13171 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13165 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13166 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13172 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13173 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。
 ID 13166の写真では花輪が少なくとも7輪ほど出ています。「祝開店 おおとり 〇〇」と読めます。パチンコ「おおとり」の開店祝いに見えます。
「おおとり」を経営する鳳企業株式会社の会社沿革では

1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン
1969年(昭和44年) 鳳企業株式会社設立
1970年(昭和45年) 新宿西口にパチンコ店『アラジン』オープン
アラジン新宿店2階に焼肉店オープン
1971年(昭和46年) 『北京料理 西口飯店』オープン
1977年(昭和52年) 『アラジン池袋店』オープン
1980年(昭和55年) NASA ビル建設

 地元の方によれば

「1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン」とあります。昭和41年のID 12280にも「おおとり」の看板が写っています。
 パチンコ店では新台入れ替えなどを機に「新装開店」で出玉サービスをうたうことがあったので、この花輪はその種のものと想像されます。5丁目に新たに開店した「山水林」に対抗したものかも知れません。

 ID 12280の写真と住宅地図とは全く違います。住宅地図では昭和47年までは「おおとり」はなく、あるのは「フードセンター」です。しかし、地元の方によれば

ID 12272-7312280、12282の縁日(夜店)の写真について念のため撮影年代を再検討しました。
・毘沙門堂の石囲いは再建前のもので、昭和45年以前
・易占の看板は池田信「1960年代の東京」(昭和40年)に酷似
・歩道は文様のない角石で昭和45年より前(ID 8299など)
・「オバケのQ太郎」などのブーム
昭和41年(1966年)という記録に無理はないと思います。

 では、どうして「フードセンター」が住宅地図に昭和39年から昭和47年まで、何年も残ったのでしょう。多分、今のように精密さや正確さは求めていなかったのでしょうか? でも住宅地図の最後に「航空写真一図化一測量修正一調査-トレス一筆耕一仕上。氏名・番地・職種すべて実態調査(足で調べる)。年一回現行維持」と書いてある。う~ん。わかりません。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (カネボ)ウ化粧(品)。尾沢薬局「化粧品/カメラ・材料 尾沢」「
    ――ごくぼその路地
  2. オシャレ洋品(阿波屋アワヤ
  3. ▶たばこ
  4. 福屋不動産 毘沙門せんべい 福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」
  7. 仐(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 おおとり ロッテ商事(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. (ジャウ)トーヤ(果物店)
  11. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13161~13164

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13161、ID 13162、ID 13163、ID 13164はカメラを神楽坂5丁目に置き、東の方向(3、4丁目)に向けて撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13161 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13162 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13163 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13164 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。写真の左端、テントの脇の太い鉄柱は「神楽坂通り/美観街」の標識です。
 そのすぐ右の「寺内横丁」に横看板が見えますが、読めません。横丁を入ったところに、住宅地図によって異同がありますが「米枡」「割烹椿」「クラブパリジェンヌ」「末っ子」などの店名が見えます。「(米)桝」と「(割)烹 椿」と見れなくもないと思います。こうした店が横丁の入り口に共同看板を出していた可能性が高いでしょう。横丁の共同看板は毘沙門横丁のID 11833にも見られます。なお「寺内」ばかりではなく「地内」という名前もありました。

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. 店舗
  2. (車両通行止め)「〇〇〇」「(日曜日)祝日の(12)ー18」
  3. 横看板(寺内横丁
  4. 「(日本)盛 ニホンザカリ 特約店 万長」「Coca -Cola」「Bireley’s バャリース 万長酒店」「キリンビール」UC
  5. 日本法令のロゴマーク 届け用紙 相馬屋
  6. 第一勧業信(用)組(合)(昭和46年10月、日本勧業信用組合から改称)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 電柱の足元に段ボール箱(家電品か)
  2. ▶電柱看板「内科 小児科 産婦人科 放射線科 阿部医院」「 加藤質店」
  3. 中河電(気) SONY (ト)リニトロン ボタ(ン)でん(わ)
  4. 週刊新潮(芳進堂)
  5. 電柱看板「川島歯科」「加藤産婦人科」
    ――地蔵坂(藁店)
  6. 「やきとり殿堂 鮒忠」「鳥の王様」「鮒忠 宴会場 2F 」「鮒」
  7. ▶「日本酒まつり 鮒忠」
  8. パチンコ おおとり 花輪
  9. 田原屋(果物と洋食屋)
  10. ▶電柱看板「斉藤医院
  11. ▶電柱看板「 丸越質店
  12. ▶公衆電話ボックス
  13. 三菱銀行
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

住宅地図。1973年

神楽坂で「毘沙門寄席」を旗揚げ|三遊亭金翁

文学と神楽坂

 三遊亭金馬(4代目)氏が「金馬のいななき」(朝日新聞。2006年)の中で、昭和46年、毘沙門寄席という落語会を立ち上げたと書いています。金馬(現在は三遊亭金翁きんおう)氏は令和で唯一の戦中入門の落語家です。1970年『淀五郎』で芸術祭賞優秀賞受賞。ほかに古典落語の演目では『薮入り』『茶の湯』、正月しか口演しない『七草』など。生年は昭和4年(1929年)3月19日、没年は令和4年8月27日。

 昭和46年(1971)10月に神楽坂の「毘沙門寄席」を旗揚げしました。
 神楽坂をあがっていったところの左側にあります毘沙門天、ご縁日で有名なお寺さんで、正確には鎮護山善国寺と言います。文禄4年(1595)に創建された大変に歴史のあるお寺で、神楽坂のシンボル的存在ともいえます。
 この毘沙門さまの本堂が昭和46年に再建されまして、建物の半地下の部分に40畳ほどのホールができたのです。地元の商店街のみなさんが、ここのホールを利用して、寄席を開いてみたら、と発案されまして、私のところへ話がきたのです。
 商店街のみなさんとは以前から親しくしていましたので、すぐに実行することにしました。
 神楽坂は、毎月、五の付く日が毘沙門さまの御縁日で人出があります。
 そこで、5日、15日、25日の三日間、定期的に落語会を開くことにしたのです。名付けて「毘沙門寄席」。
 ところが、お寺のホールであろうと、定期的な興行をするとなると、消防署や保健所の許可が必要になります。その手続き――申請や運営管理――がなかなか煩雑でしてね。ご住職を煩わせるのは申し訳ないので、私か責任者になって興行をはじめることにしました。
 商店街の皆さんは、座布団、引き幕、のぼりなどを用意してくれまして、準備はととのいました。
建物の半地下の部分 「神楽坂伝統芸能―神楽坂落語まつり」から

 のぼり。旗の一種。長辺の一方と上辺を竿にくくりつけるもの

 5の付く日は毎月3回ありますから、まず5日は本牧亭で続けていた創作落語会をここに引っ越して、開くことにしました。
 15日は、若手中心の勉強会。
 25日は、私の独演会「金馬いななく会」をネタ下ろし中心に開くことにしました。
 私はこの3回の興行の責任者、プロデューサーでもあり、しかも会は10日おきにやってくるのです。まったく若かったからできたのでしょうね。
 毘沙門寄席の運営に関しては、家族にもいろいろ助けてもらいました。
 かみさんが、収支一切を管理してくれまして、出演料の支払いから、入場税の納付などを受け持ってくれました。当時の入場税の制度というのは大変に面倒で、あらかじめ官許の切符を購入して、それが何枚売れました、何枚残りました、と事後に届けなくてはならないのです。かみさんはよくやってくれました。
 また、簡単な売店を設けまして、そこで煎餅や飴なんかを売りました。これは娘の役で、いい小遣い稼ぎになったようです。
本牧亭 1857年(安政4年)、江戸上野広小路に軍談席(=講釈場)本牧亭を開場。1876年(明治9年)に閉場し、代わりに鈴本亭(後の鈴本演芸場)が同じ上野に作られた。1950年(昭和25年)、鈴本演芸場の裏に、本牧亭は再建。日本で唯一の講談専門の席で「講談バス」を走らせたり、「講談若い人の会」を開くなどして、多くの講談師や愛好家を育て、講談の普及発展に大いに貢献した。2011年9月24日閉場。
官許 かんきょ。政府から民間の団体または個人に与える許可。落語などについては、現在興行場法で決められています。港区みなと保健所の「興行場法の手引」では

 昭和48年のお正月には初席を6日間、毘沙門さまでやりました。初席に関しては落語協会に協力してもらいまして、なるべく賑やかなメンバーを揃え、私がトリをとりました。
 ただ、お客様の動員に関しては苦戦しましたね。先に人形町末広のときにもお話ししましたが、神楽坂も夜間人口が少なくなってしまい、夜に町をぶらぶらしているような人があまりいないのです。
 元日など、昔の商店街は夜明かしで商売をしていたものですが、いまは店を閉めて、どこかに行ってしまう。商店もビルになり、主人が通いでやってくる――。小地域での寄席というものが成り立ちにくくなっているのですね。
 私は神楽坂をスピーカーを持って歩きまして、
「今晩は毘沙門寄席があります。どうぞいらしてください」
 なんて宣伝をして回りましたが、効果があったかどうか。
 興行の赤字分に関しては、私か背負いました。必要経費と、出演者にたいする最低限の出演料を用意しました。
 定例の会の中では、私の独演会「金馬いななく会」が比較的、安定した動員をしていました。毎回、2席のネタ下ろしを原則にしていましたので、軽めのものと、どっしりした噺と、1席ずつ。人情噺や世話噺もやりまして、圓生師匠から「髪結かみゆい新三しんざ」を教わって上演したこともあります。
初席 正月、元日から10日まで行なわれる興行
トリ 寄席で最後に出演する人。出演料は、最後に出る主任格の真打が全て受け取り、芸人達に分けていた。演者の最後を取る(真を打つ)ことや、出演料を取るところから、最後に出演する人を「トリ」と呼ぶようになった。
人形町末広 東京都中央区日本橋人形町三丁目の寄席。1970年(昭和45年)1月、日本芸術協会(現:落語芸術協会)の定席興行である正月二之席(11日から20日まで)をもって閉場。
髪結新三 かみゆいしんざ。人情噺。日本橋に材木商の白子屋があり、娘のお熊は婿を迎えたが、実は別の男性と良い仲になっていた。そこで店に出入りする髪結いの新三は一計を謀り、お熊をだまし、誘拐して、白子屋から金を奪い取ろうとする。新三の家主の長兵衛が白子屋のため、その折衝を引き受ける。長兵衛は30両を白子屋からもらい、お熊を送り返し、15両を新三の前に置いた。新三は不満を言うと「わからねぇやつだ。鰹は半分もらったよ」と再び同じことを繰り返す。新三は気が付いて「鰹だけではないんですか」、「当たり前だろう。これだけ口利きしたんだ」。おまけに滞った店賃5両を取り上げる強欲ぶりに、さすがの新三もぐうの音も出ない。20両と片身の鰹を下げて帰る長兵衛を黙って見送るしかない新三であった。

 昭和50年代のいつごろだったか……「創作落語会」をやめまして「なかよし会」と改称、金馬・円歌三平柳昇といったメンバーで各人がやりたい噺をする会にしました。
 それにしても、「創作落語会」は昭和37年の発足から20年弱は続いたわけです。
 毘沙門寄席は、昭和56年に終わりました。
 ちょうど10年続けたわけで、まあ、切りもよいところでした。
円歌 三遊亭圓歌(3代目)。生年は1932年1月10日、没年は2017年4月23日。出身地は東京都向島
三平 林家三平(初代)。生年は1925年11月30日、没年は1980年9月20日。出身地は東京都台東区根岸。
柳昇 春風亭柳昇(5代目)。生年は1920年10月18日、没年は2003年6月16日。出身地は東京都武蔵野市

新規街灯と古い街灯

文学と神楽坂

 地元の方が「新規街灯と古い街灯」という記事を書いてくれました。新規街灯といっても普通の街灯もありますが、ユニークな街灯もあるんです。

神楽坂通1-5丁目の街灯が2022年2月に更新されたことは、このブログの記事の通りです。しかし例外的に、古い街灯が残っている場所があります。

【1】神楽坂上交差点

神楽坂通りの最も角になる位置に、古い街灯が一本だけ残っています。ここは遠からず大久保通りの拡幅で道路になる場所なので、更新しても無駄になると考えたのでしょう。

神楽坂上 新旧の街灯

なお神楽坂通りの入り口(坂下)と出口(坂上)の街灯は、他とは違って高い位置に照明があります。また照明の下の横木(神楽坂の旗)がなく、代わりに丸いリング上の金物が上下にあります。これは左右の街灯の間に横断幕をはることを想定したものです。

神楽坂上街灯

大久保通りの拡幅がすめば、神楽坂の出口は高い街灯の場所まで後退し、角の店はコンビニになるのです。

【2】毘沙門天の境内灯

毘沙門天善国寺の本堂の前には、石虎と並んで一対の境内灯があります。この境内灯が、通りの古い街灯に置き換わっています。

毘沙門天境内と街灯2022

毘沙門天境内灯2022

時期は分かりません。ただ2021年6月のストリートビューでは別の境内灯(下図)が写っています。おそらく通りの街灯を取り外したものを再利用したのでしょう。

毘沙門天境内灯2021

善国寺はID 8271-8272では、街灯が円盤形になった後に旧式のスズラン灯を境内灯として使っています。この境内灯は気まぐれ本格派(1977年)(下図)や、ID 9909-9911ID 11481(1986年)では街灯と同じ円盤形に変わっていますが、この時は街灯も円盤形でした。必ずしも街灯を再利用するわけではなさそうです。

気まぐれ本格派 第13話(1977年)

8272b善国寺


ID 8271-8272 境内灯(12)は3つありますが、旧式の鈴蘭灯は中央の青い6角形です。

善國寺(写真)昭和54年 ID 11865

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。これは[A]とします。

[A]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865 善国寺

 同じく昭和54年1月に善國寺を撮ったもの[B]があり、それが下のID 11830です。2つとも昭和54年1月の撮影ですが、いくつか違いがあります。

[B]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 また、ID 9909は昭和50~51年に撮ったもので、これを[C]として3つを比較します。

[C]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

 立て看板[A]は「歳旦祝祷祈願会」、[B]は「歳旦初寅祈願会」です。
 歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。
 祝祷しゅくとうとは宗教行事の終りに会衆や人物に祝福を求める祈り。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。祈願きがんとは神仏などに祈り願うこと。
「毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれる」(善国寺公式サイト)とされ、寅の日を大事にしました。
 昭和54年(1979年)の初寅は1/11(木)でした。[B]は11日以前、[A]はそれ以降の撮影と想像できます。
[A]と[C]には、のぼり旗「奉献開運大毘沙門天」があがっています。添え書きとして[A]は「神楽坂興隆会」、[C]は「神楽坂」しか見えませんが同じものでしょう。「神楽坂興隆会」は地元の方によると「善国寺の応援を主目的にした地元の団体。後に、この団体が中心になって現在の赤い山門を寄進した」とのこと。確かに今の山門には「神楽坂興隆会」の銘板があります。

神楽坂興隆会

[B]にのぼり旗がないのは正月休み中の撮影だったからかも知れません。
[A][B]とも賽銭箱には「志納」とあります。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
[A]は階段脇に一対の提灯があって、「毘沙 善國寺」と書かれています。本堂の長押なげしの中央は正月飾りがあります。その奥の内陣には山号の「鎮護山」。ガラスケースに入っているのは、日蓮宗の祭礼で使うまといでしょうか。ガラスケースの前にも賽銭箱があり、「浄心」と筆書で書かれているようです。

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 鮒忠 五十鈴 ID 11864

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864は、昭和54年(1979年)1月、神楽坂5丁目で鮒忠や五十鈴などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864 神楽坂 鮒忠、五十鈴前

 車道はアスファルト舗装。街灯は円盤形の時代ですが画角から外れていて、下部の「神楽坂通り」の標識しか写っていません。斜めに出ている造花は常設の飾りで、立っている竹は正月用と思われます。逆転式一方通行の向きから午後1時以降に撮ったのでしょう。
 大きく「初荷」と書いたトラックが走っています。初荷とは「年が明けて、最初に工場や倉庫など物流拠点から販売店へ向けて商品や製品が出荷されること。元々は、初売と同じく1月2日に行われていたが、今日では官公庁や多くの企業で業務が開始される1月4日に、新年の初出荷が行われることが多い。その際、昔は『初荷』と書かれた旗やのぼりをつけたトラックが走っていたが、高速道路などでの安全性の点から、現在ではほとんどなくなっている」(ウィキペディア)

神楽坂5丁目(昭和54年)(右→左)
  1. 近江屋(乾物店)
  2. ライトバン。GOLF GOODS WESTERN。自家用。この「WESTERN」のマークはスポーツバッグなどでよくありました。
  3. 中河電気(電気店)(テ)レビ/(神楽)坂店、ボタンでんわ特約店 ナショナル、Lo-D(日立製作所のオーディオブランド)
  4. トラック 「初荷」 フロントグリルに正月飾り
  5. 「文藝春秋 ロゴマーク 文春文(庫)」 芳進堂 TEL(28〇)2978、(週刊)新潮 芳進堂、宣伝用のぼり(おそらく「日立ソリッドステート キドカラー」とCMキャラクターの巨人軍・王貞治選手 少年誌の付録か)
  6. 街灯標識「神楽坂通り」。造花の飾りと竹の飾り
  7. 電柱看板「川島歯科
  8. 地蔵坂(藁店)
  9. 鮒忠、神楽坂店。「やきとり殿堂 鮒忠 神楽坂店 TEL 280-」「忘年会・新年会ご予約承ります。280-6223」「肉まん あんまん」
  10. トラック。
  11. (甘なっ)と。御菓子司。五十鈴。
  12. (パ)チンコ おおとり

善国寺参道の石畳

文学と神楽坂

 地元の方が善国寺参道の石畳という随筆を送ってくれました。「毘沙門さまの写真を見ていて発見があったので、まとめました」と、地元の方。

 かつての善国寺の境内は未舗装で、大きな敷石を並べて参道にしていました。全体の様子は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の ID 8271-ID 8272(昭和44年頃)が分かりやすいようです。正門から本堂に続く参道と、西側の脇門から庫裏に続く道、あとは境内各所を結ぶ敷石です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

『牛込区史』(臨川書店、昭和5年)と、中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社、昭和46年)に掲載されている戦前の写真は、正門から本堂までずっと5列の石が敷かれています。

東京都旧区史叢刊「牛込区史」臨川書店。昭和5年、昭和60年復刻版。

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

 この敷石は戦後も使われたと想像されます。ID 9503(昭和20年代後半)には、昭和26年(1951年)に再建された木造の毘沙門堂(本堂)が写っています。参道の石畳が、途中でよじれたようになっている部分があります。良く見ると手前から途中までの石敷は5列。よじれたような部分から先は石のサイスが大きくなり、本堂との間は4列です。再建本堂が戦前より小規模で、堂前まで石畳を伸ばしたのかも知れません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 昭和44年(1969年)頃、ID 8245も同様に本堂手前の敷石は4列です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 本堂は、昭和46年(1971年)にコンクリート造で建て替えられ、規模も大きくなりました。この時に敷石を改めたと思われます。昭和54年1月のID 11830では幅の異なる石が左右対称に敷かれ、さらに境石に挟まれている様子が分かります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 同時期のID 11833では、毘沙門横丁の石囲いに立てかけるように石材が写っています。これが撤去した古い敷石である可能性が高いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 その後、参道の石畳は敷石6列に改められ、少し全体の幅も広くなったようです。また境内は北西側の側の遊園部分を除いて舗装されて現在に至ります。いつ舗装されたかは分かりませんが、境内にあった駐車場を毘沙門横丁側に移した時か、正門を今の赤い山門に変更した平成6年(1994)かもしれません。

舗装 アスファルト舗装です。

善国寺の舗装


善国寺(写真)昭和54年 ちんござん ID 11834

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11834は、昭和54年1月、毘沙門天 善国寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11834 善国寺

 この写真は毘沙門横丁側に今もありますと、地元の方。以下は地元の方の解説です。

 昭和46年に再建した善国寺本堂は、2階に回廊を巡らし、正面の階段の他、向かって左側にも階段を設け、毘沙門横丁にでるようになっていました。内陣から回廊に出る扉もあり、その上に「びしゃもんぐち ちんござん」という仮名の額があります。
 ID 11832の右側に、毘沙門横丁に面した門柱と階段の手すりが見えます。
 この階段は後に撤去し、「石囲い」も壊して毘沙門横丁側を駐車場にしました。境内の一部にあった駐車場を移し、貸せる台数を増やしたと言います。「月極有料駐車場」の看板のあるところが、かつての階段です。擬宝珠の間に階段がありました。回廊の床の形が、そこだけ変わっています。
 また、この工事の時に境内にある出世稲荷と菩薩像の位置も動かしたようです。

びしゃもんぐち ちんござん 平仮名から漢字になおすと「毘沙門口 鎮護山」でしょう

毘沙門天 1984年と2010年

毘沙門横丁(写真)昭和54年 ID 11832, 11833

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11832とID 11833は、昭和54年1月、毘沙門横丁を撮ったものです。 この2枚とID 76ID 78ID 83は同一の撮影でしょう。季節は冬で、ID 72、73ID 74。75、77もおそらく同じ時期です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11832 神楽坂5-37 善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 ここは以前から毘沙門横丁といっていました。道路はアスファルト舗装で、両側に下水溝(側溝)と縁石があり、車道と歩道の区別はなく、街灯はID 9779と同じ水銀灯に見えます。また、電柱の上には柱上変圧器があります。

神楽坂4~5丁目(昭和54年1月)
  1. 三菱銀行の側面と夜間通用口
  2. 菊正宗 すき焼 割烹 牛もん
  3. 寿し処 寿し作
  4. 一條
  5. 黒い塀(松ヶ枝駐車場)
  1. 石焼いも
  2. (消火栓)
  3. 毘沙門天のコンクリートフェンスと石材数枚
  4. 電柱看板「宮城道雄記念館」「十字路右折」「神楽坂5-37」
  5. 取り外した看板「所」「会」。おそらくID 8299のような「福引所/神楽坂通り商店会」が、歳末の売り出し時に毘沙門天境内に設けられていたのでしょう。
  6. 藤間高寿
  7. 看板「藤間高寿/小勝 /はやま
  8. 電柱看板「あまなっと 五十鈴」「麻雀クラブ 三功」
  9. 料亭「松ヶ枝

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 ID11824 神楽坂上交差点

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824は、昭和54年1月、当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)から神楽坂5丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824 大久保通りから神楽坂通り(早稲田通り)を見る

 車道はアスファルト舗装で、平坦で、凸凹もなく、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装で、平坦です。街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」、さらにその下に木と人工葉があります。標識(一方通行)が大きく描かれて、その奥には大きなサイン「神楽坂」があり、さらに奥には標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 ID 7430(昭和45年)とよく似た写真ですが、10年の間に違いが生じました。
・信号機に交差点名の標識がついた。
・ロール型の方向指示標識の矢印が横から縦に変わった。
・横断歩道が「はしご型」に描かれている。
・大久保通りの路面電車13系統がなくなった(廃止は昭和45年3月)。
 変わっていないのは、電柱が向かって右側だけにあること、標識「神楽坂通り/美観街」があること、それに一方通行の矢印の陰になって「神楽坂」の標識ポールがあることです。この標識ポールは昭和20年代後半に坂下(ID 23)と坂上(ID 9495)に設置した古いものです。坂下は昭和30年代に取り外されましたが、坂上はまだ残っています。
 矢印の下の「自転車を除く」は坂下のロール型の方向指示標識にも見えます(ID 9109など)。しかしID 65(昭和48年)にはありません。自転車は一方通行に従わなくていいことを明確にしたのでしょう。
 店の並びはあまり大きく変わっていませんが、正面の大きなビルは相馬屋ビルで、1978年(昭和53年)3月築です。
 DPE(Development, printing, enlargement)は現像・焼き付け・引き伸ばしの略で、ID 7430(昭和45年)にはつくば商事が行っていたようです。今回の昭和54年では、DPEは2つあります。右側の「DP(E)気軽に海外旅(行)」はそのすぐ下に鳩のトレードマークと「ヒ」があり、ヒグチのDPEだと思います。左側の「DPE 37円」はつくば商事かヒグチか、はっきりしませんが、つくば商事の一部を借りてヒグチが業務を始めたとすると、つくば商事からすれば、ヒグチに全てあげた方がいいでしょう。

ID 11824 DPE

神楽坂5丁目(昭和54年)
  1. 裏向きのスタンド看板(歩行者天国時に車道に出す)
  2. 標識(一方通行)「自転車を除く」。標識(自転車及び歩行者専用)。「歩行者専用道路/12-13/日曜 休日は/4月-10月/12-20/11月-3月/12-18」。標識(駐車禁止)0-12。「ランチタイム・プロムナード」のマーク
  3. 古い標識ポール「神楽坂」
  4. 河合陶器店 陶磁器 ガラス食器 陶芸用品
  5. 山下漆器店
  6. 菊岡三味線店
  7. 明治ゴールド牛乳(田口牛乳店)。2階はBoss ルネ
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田。歩道に出前用と思われるバイク数台。
  9. 立て看板「英会話」
  10. リード商会)ビクター レコード
  11. タカミ洋品店
  12. 中国料理 東花飯店
  13. 標識「神楽坂通り/美観街
  1. 電柱。「神楽坂」交差点。電柱看板(牛込犬猫病院)。貼り紙
  2. 営業案内/土地・建物・売買・管理/賃貸借・周旋/電話買取及販売/不動産一般代理(つくば商事)
  3. DPE 37円。
  4. 看板は「貸出の物件」。あるいは読めない
  5. 薬ヒグチ。DP(E)気軽に海外旅(行)。
  6. 田原屋 フルー(ツ)
  7. 三菱銀行

住宅地図。1980年

坂上の風景

神楽坂4丁目、5丁目(写真)昭和51年 ID 11482

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482は、昭和51年、神楽坂4丁目から当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)方向を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482 神楽坂

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石があり、車の渋滞はかなり長くなっています。歩道もアスファルト舗装で、看板「まず徐行 あそこに子どもとお年より 牛込警察署」が見えます。街灯は大きな円盤形で、下に「神楽坂通り」、さらにその下に数本の木と人工的な葉があり、また電柱の上には柱上変圧器があります。半袖の人が多いので夏、逆転式一方通行の向きから午後1時以降でしょう。

神楽坂4~5丁目(昭和51年)
  1. 善国寺。4角柱?などが見える部分は児童遊園
  2. レストラン フル(ーツ) 田原屋
  3. パチンコ おおとり
  4. 甘なっと 五十鈴
  5. やきとり(殿)堂 鮒忠
  6. 藁店に入る道のカーブミラー
  7. (中)河電(気)
    ここまで5丁目。ここから6丁目
  8. 遠くに協和銀(行)
  1. 福屋不動産
  2. (毘沙門)せんべい(福屋
  3. 神占 思召し/(福屋ビルテナント「神楽大国」)
  4. (事務用)品(福田屋文具店)
  5. 紳士服(テーラー島田)
  6. 尾)沢薬(品)(ク)ス(リ)尾沢
    ここまで4丁目。ここから5丁目
  7. 工事中(神楽坂コアビル 1978年4月竣工)
  8. 路上に積み荷(魚金鮮魚店)
  9. (か)やの木
  10. (第一勧業信用)組合
  11. (消火栓)

神楽坂まっぷ。1985年

住宅地図。1976年

善國寺(写真)昭和51年 ID 11481

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481は、昭和51年、毘沙門天善國寺やスゴオ洋菓子店仮営業所などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481 神楽坂 善国寺前 スゴオ洋菓子店仮営業所

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建し、昭和46年に今の本堂を建てています。したがって、昭和51年には現在の本堂ができてから5年目になりました。
 左奥には毘沙門横丁という道路があります。車道はアスファルト舗装で、歩道はありません。続けて、側溝、縁石です。
 毘沙門横丁に面して善国寺の脇門があり、大きな鉄枠の門扉が横に開く構造になっています。ここは境内をイベント会場や臨時の駐車場に使う時の入り口です。現在も同じ場所に脇門がありますが、この写真当時より幅が広くなっています。
 境内のスゴオ洋菓子店仮営業所は、ID 9911の竹谷電気工事の仮店舗と同じ建物のようです。続けて利用したのかも知れません。
 スゴオ洋菓子店は4丁目、三菱銀行前にありました。ID 6338(1958年)には古い店舗の看板「純フランス菓子ス(ゴオ)」が見えます。また1977年のTVドラマ「気まぐれ本格派」第10話には新築したビルの1階店舗「洋(菓子) ス(ゴオ) COFFEE」が映っています。この写真の1976年頃は新ビルが完成間近だったと思われます。

楽山旧店舗とスゴオ洋菓子店(後の英和ビル)(TVドラマ「気まぐれ本格派」第10話から。1977年)

 ID 89(1979年)でもスゴオが確認できます。現在はこのビルも取り壊され、隣の楽山と一緒の「楽山ビル」の一部になりました。

神楽坂5丁目(昭和51年)左→右
  1. 電柱1本。上から電柱看板「料亭 松ヶ枝」、蛍光灯、看板「 大久保」、「神楽坂3-7」
  2. 掲示板。上に横書き5文字(ID 8247によれば「新宿区役所」) 、脇に縦書き8文字(「箪笥町特別出張所」か)
  3. 奥に善國寺
  4. 善国寺の脇門。模様はない。
  5. 車両進入禁止マーク。「自転車を除く」
  6. 女性の顔に一見みえるが、多分違う。電気の盤かな?
  7. 石囲いはここで終わり…
  8. 毘沙門天の境内で、スゴオ洋菓子店 仮営業所 洋菓子のスゴオ。店内にはショーケースと化粧箱、右端に人影
  9. 「ゴ」の上に円盤形の境内灯

神楽坂5丁目(写真)昭和28年以降 ID 9507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507は、昭和28年(1953年)以降の神楽坂4~5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507 神楽坂 角松

 歩道はコンクリートブロックで3列。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はなかったようです。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。
 紅白幕とのぼり旗「全店 大売出し」、松のような飾りがあり、ID 9495と同時期の撮影でしょう。人々は長袖で、冬服を着ています。正月に門松1対があることから、年末セールの時期と推測できます。

神楽坂4、5丁目(昭和28年以降)
  1. 尾澤薬(局)
  2. 紅白幕
  3. マケヌ屋洋品店(ID 6340参照)
  1. 門松(五十鈴?)
  2. 紅白幕

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂5丁目(写真)昭和20年代後半 ID 9495

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9495は、昭和20年代後半に神楽坂5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9495 神楽坂

 よく似た写真としてはID 24-27ID 5189が挙げられます。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。車道は平坦で、歩道はありますが現在よりかなり狭いようです。右側は家のすぐ前に街灯が立っていてます。自転車に隠れているので正確な形状は不明です。衣服は冬用で、全員が長袖で、大人男性はオーバーコートを着ています。大売出ののぼりと風に吹かれたような紅白幕、松の木のような飾りがあります。また左端には門松が1対、写っています。年末の売り出し時期でしょうか。門松があるのはID 9507も同様で、同じ時期に写真を撮ったのでしょう。

神楽坂5丁目(坂上→神楽坂上交差点)
  1. 「ノーブル 西澤商店」(菓子)
  2. 小路(地蔵坂、藁店
  3. 看板に隠れた店。地図によれば書店の「武田芳進堂」で、庇の上の切り文字はなんとなくそう読めます。
  4. 楕円形の突き出し看板。地図によれば「中河電機」。看板は「ナショナルラジオ」のようです。
  5. 電柱看板「川島歯科 入口」「加藤(産婦)人科 医院」(袋町7番地)
  6. 電柱看板「耳鼻咽喉科 鷹〇医院」。「山ぐち」は袋町に(下図)。
  7. 通りを越えて「協和銀行」
  1. 紙(相馬屋)。(全店) 大売出。神(楽坂)
  2. 空地
  3. 万長酒店
  4. スピーカー。つっかえ棒
  5. 中(華)料理 源〇
  6. 全店 大売出。
  7. 巨大な標識ポール「神楽坂」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂5丁目(写真)昭和20年代後半 ID 9493とID 9494

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9493~9494は、昭和20年代後半、神楽坂5丁目と都電13系統の神楽坂停留所を撮影しました。昭和26年10月20日、同栄信用組合から同栄信用金庫に改組し、ID 9492から時間がかなり経過し、金庫は完成しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9493 都電 神楽坂停留場前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9494都電 神楽坂停留場前

神楽坂5丁目→岩戸町(昭和20年代後半)
  1. 「SAKANAMACHI POLICE BOX/OF/KAGURAZAKA  POLICE STATION/神楽坂警察署 肴町巡査派出所」「青少年相談所 神楽坂警察署派出所」
  2. 同榮信用金庫牛込支店 同栄信用金庫
  3. 架設柱 小さな電灯「神楽坂肴町医師 松村孝市」 築土八幡町←神楽坂→牛込北町 資生堂石鹸
  4. 小路(ここから岩戸町)
  5. 一五屋米店
  6. 西勘左官道具
  7. 電柱看板「江畠不動産」
  8. 建築材料

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年。

大久保通り(写真)昭和20年代後半 ID 9492

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492は、昭和20年代後半、神楽坂5丁目(昭和26年までは肴町)や大久保通りを撮影しました。左側の同栄信用金庫は神楽坂5丁目に、右側の帝都信用金庫は岩戸町にあり、どちらも建築中。現在、同栄信金は合併で「さわやか信用金庫」となり、支店は神楽坂6丁目の東西線神楽坂駅の隣に移転。帝都信金は合併で「東京シティ信用金庫」となり、同じ場所に支店があります。
 都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)とは違う会社が多く、昭和27年以降になって撮影をしたのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492 大久保通り 神楽坂五丁目付近(現牛込神楽坂駅付近)

 歩道は大きく、車道は自転車やリアカーが走り、中央では路面電車が出て、新宿と飯田橋をつないでいます。電柱からは街灯として笠のついた電球が出ています。柱上変圧器もあり、パンタグラフ用の架線も沢山あります。江畠不動産は岩戸町7にありました。

神楽坂5丁目と岩戸町(昭和27年以降)
  1. 看板「(神楽)坂警察署/(肴町)巡査派出所」
  2. (同)榮信用金庫牛込支店建築場
    (「不」か「現」)在 箪笥町新宿生活館ー◯◯◯営業中 電話は◯◯◯ ◯◯51番
  3. 架設柱 小さな電灯「神楽坂肴町医師 松村孝市
  4. 電柱看板「江畠不動産」
  5. 建築材料
  6. 袖看板「きそ(ば)」
  7. 電柱看板「江畠不動産」
  1. 店の前に自転車が一杯
  2. 高級 注文洋服 大野
  3. 帝都信(用)金庫本店建築場
  4. 電柱看板「宮本産婦人科」
  5. 電柱看板「神楽坂大場医院」「川島歯科」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年1月。

善国寺(写真)昭和44年 ID 8245

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8245を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 ここで見られる一代昔の善国寺ですが、蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も健在です。
 賽銭箱には「奉納 神楽坂振興会」と書かれています。神楽坂振興会は後の神楽坂通り商店会です。
 右上に屋外灯があり、手前にもポールが立っています。下の1965年の写真(池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008年)を見ると、堂の前に向かい合わせに鈴蘭すずらん灯が立っているのが分かります。

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

 ID 5189ID 5190の神楽坂通りの街灯と比べると、照明部分の形状、柱のすその広がり具合や途中の飾り金物の位置が酷似しており、おそらく同じものでしょう。
 この写真の撮影当時の街灯は大型蛍光灯に更新されています。鈴蘭灯の使用期間は昭和28年(1953)~37年(1962)と短かったので、あるいは更新時に程度のいい鈴蘭棟を毘沙門天の屋外灯に再利用したものかもしれません。

 善國寺住職も「昭和20年の東京大空襲は、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と書いていました。

 さらにその前の、戦前の善國寺です。

新撰東京名所図会第四十一編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

地蔵坂(写真)藁店 昭和54年 ID 79、80、81、82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79、80、81、82は、昭和54年(1979年)、地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。自動車は対面通行でした。右側は駐車場に使っていて、歩道はどうも左側だけだったと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 82 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 81 地蔵坂付近

地蔵坂(藁店)
  1. 中華料理 太一
  2. 「(コー)ヒーパブ (海)賊)」、自販機「コーヒー」、看板「かいぞく」
  3. 「理髪 モリワキ」。森脇トコヤは六角形が中で回る「理容看板」
  4. その隣の工事中は「石鐵ビル」。築年月は1979年3月。「石鐵」は小林石工店の屋号
  5. 電柱看板「斉藤医院
  1. 白菜やレモン箱などが一杯になったトラック「八百美喜」。「商品は箱積みのまま、列に並んだ客が『〇〇ちょうだい』『きょうは何が安い?』と声を掛けて出してもらう昔ながらの売り方。”安い八百屋”で通用する人気店だった」と地元の方。
  2. CAFE CHARLIE BROWN
  3. 1棟(すずらん荘)
  4. 電柱看板「理髪 モリワキ←」
  5. 松竹荘
  6. 1棟(割烹 佳)
  7. 旅館 竹兆
  8. 工事中(カワイビル)。菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。築年月は1979年3月。
  9. 傾斜地で盛り土に。この先を右に曲がったところがID 79と80。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 80 坂道

 ID 79とID 80の資料名は「住宅」と「坂道」だけです。しかし、ここは地蔵坂(藁店)を上がった場所なのです。歩道はここも左側だけです。ID 80の地面でオーリングはよく見えます。
 トーンカーブを行うと、塀がはっきり見えるようになります。こうやって浮かび上がった塀(板3枚とコンクリートが見えます)はID 79の塀とそっくりです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79 住宅

1978年。住宅地図。

 菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。

1990年。住宅地図。

毘沙門横丁(写真)昭和54年 ID 74~78, 83

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 74、ID 75、ID 76、ID 77、ID 78、ID 83は、毘沙門横丁とその界隈を撮ったものです。ただし、ID 76は別の場所に出ています。ID 75では注連しめ飾りがあり、ID 83ではコートを着ています。おそらくID 74と同じ1979年1月5日に撮影したのでしょう。ID 78と83の街灯はおそらく水銀灯で、下水溝は現在と同じです。

 料亭「一條」には正月のお飾りが何もありません。これはID 11840と類似しています。ただし、ID 78と83では遠くに一條が見えています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 74 料亭「一條」前 1974/1/5

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11840 神楽坂料亭 一條

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 75 袋町37、藤間高寿ドア前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11838 神楽坂 藤間高寿

 袋町37ではなく、神楽坂5丁目37です。藤間ふじま高寿たかじゅ氏の本名は高村光子で、藤間藤子に師事し、日本舞踊家に。生年は大正8(1919)年11月11日、没年は昭和59(1984)年4月29日、享年は満64歳。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11835 神楽坂 善国寺裏小路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 77 裏道、麻雀山彦前

 裏道は、下の地図で「毘沙門横丁」の「横」と「丁」との間に右に曲がる道です。路地の名前はありません。やや遠く見えるのは料理の「ゆかり」、右手は麻雀「山彦」とその手前でクーラーがあるのは すき焼「牛もん」、左手のスチールフェンスは三菱銀行。路地は石畳です。

1980年 住宅地図。「大山」は以前の「麻雀 山彦」

 この裏道は以前から毘沙門横丁といっていました。最初の看板は「すき焼 割烹 牛もん」。毘沙門天のコンクリートフェンスがあり、取り外した看板「所」「会」があります。おそらくID 8299のような「福引所/神楽坂通り商店会」が、歳末の売り出し時に毘沙門天境内に設けられていたのでしょう。さらに電柱看板「宮城道雄記念館」、何も書いていない家は藤間高寿邸、看板の「藤間高寿→ 小勝→ はやま→」、電柱看板の「あまなっと 五十鈴」と「麻雀クラブ 三功」、さらに奥の家は料亭「松ヶ枝」。左側に行き「寿し処 寿し作」で、離れて「一條」があり、松ヶ枝駐車場は最後の黒い塀です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 78 裏道、牛もん前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11836 神楽坂5-37善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 83 袋町37、藤間高寿邸前

神楽坂5丁目(写真)昭和28年頃 ID 5189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5189は、神楽坂5丁目を撮ったものです。5丁目から神楽坂上交差点に向かって撮影しました。半袖の男性もいますが、ほかは長袖や背広です。街灯はおそらく昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかですが、左側の歩道は縁石と下水溝をおおう「どぶ板」以外にはなさそうで、右側は電柱も街灯も、家のすぐ前に立っています。神楽坂上交差点では路面電車の道が見えます。交差点を越えた道路は対面通行です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5189 神楽坂五丁目 恵比寿屋肉店前

神楽坂5丁目(坂上→神楽坂上交差点)
  1. 工事中? 立て看板の「あなたは右側を通って下さい」
  2. 電柱看板「山ぐち」は袋町に。下図では藁店を南に上がり、曲がってから「市ヶ谷高校運動場」に行く前から入ります。
  3. 「明治牛乳ホール」
  4. 通りを越えて「協和銀行」
  1. 牛豚肉(恵比寿亭)。販売中
  2. パチンコ(ホー〇ムセン〇)
  3. マスダヤ(洋品)
  4. 懸垂幕「エープ〇」(レコード店)と電柱広告「●牛込〇」
  5. パチンコ
  6. 2軒がはいり…
  7. 山下漆器店
  8. 標識ポール「神楽坂」
  9. 電柱看板「ナカノ」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂5丁目(写真)昭和37-39年頃 ID 20/12910, ID 22/12908, ID 12909

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 20とID 12910、ID 22とID 12908、ID 12909を見ていきましょう。撮影の方向は、神楽坂5丁目から3-4丁目の方を向いています。降雨でも、半袖の女性もいます。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありませんが、一方、ID 22やID 12908の歩道は痛んで、ぼろぼろです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 20 神楽坂上から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 12910

新宿歴史博物館 ID 22 神楽坂入口から坂上方向。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12908 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12909 神楽坂

神楽坂5丁目→3、4丁目(昭和37-39年頃)
  1. 手焼きせんべい(福屋)
  2. (間に3軒 福田屋文具/あわや洋品/テーラー島田)
  3. 富士フイルム(尾沢写真材料)
  4. 尾澤薬局
    ——————–以上は4丁目
  5. (サンエス洋裁店)
  6. 東莫会館(パチンコ)
  7. (牛込水産)
  8. かやの木
  9. (後の日本勧業信用組合)
    ※建て替え後、開店は昭和40年5月。
  10. 相馬屋
  11. 大関 万長 (酒店と倉庫)
  12. 寺内横丁へ
  13. 牛豚肉 恵比寿亭
  14. 来々軒
  15. 洋品 タカミ
  16. Toshiba ステレオは東芝 ビクター ステレオレコード(リード商会
  17. 大和田(うなぎ)
  1. 三菱銀行
  2. 看板「キンシ正宗」
  3. 電柱看板「加藤産婦人科
  4. 電柱看板「質 丸越」「松〇産婦人科」
  5. 麻雀
  6. 三(笠屋 家具)洋装呉服
  7. 美濃屋 足袋)
  8. 伊勢屋 乾物)
  9. 電柱看板「質は〇値の丸越」「質 買入 丸越」
  10. 街灯「神楽坂」

 なお、ID 20とID 12910はほぼ同じで、 「新宿区の民俗 (5) 牛込地区篇」(新宿歴史博物館、平成13年)54頁では「昭和30年前後の神楽坂5丁目付近」という見出しが付いています。街灯から見ると、実際は「昭和36(1961)年前後の神楽坂5丁目付近」でしょう。またID 22は寺田弘発行「神楽坂アーカイブズチーム第2集」(NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2008年)で「昭和35年頃の神楽坂5丁目付近」となっています。ちなみに昭和40年後半に出てくる「美観街」の大きな標識ポールはありません。
 ID3とよく似ています。1963年(昭和38年)、住宅地図では「洋菓子ハマムラ」でしたが、1964年からは「かやの木」に変わりました。また、日本勧業信用組合の建設前には取り壊し期間が必要でしょう。したがって、写真の時期は昭和38~39年(37年も可能)と推定できます。

神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23

文学と神楽坂

 昭和20年代後半の神楽坂1丁目で写真3枚を見ていきます。どれも新宿歴史博物館にあり、牛込橋からの写真です。なお、地元の方に多大な助言をもらいました。この半分以上は地元の方の言葉です。

[A]新宿区史。新宿区役所。昭和29年

新宿区史・昭和30年

[A]新宿區史(昭和30年)

 最初の[A]の1枚は、「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)に出ていますが、何年に撮影したのかはこれではわかりません。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年です。この写真は「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。一応、これは昭和29年ごろだとしましょう。ちなみにメトロ映画は現在はドラッグストア「マツモトキヨシ」にかわっています。なお、街灯は鈴蘭灯で、信号機はゼブラ柄の背面板があります。


[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]については、神楽坂の左側の大きな「神楽坂」の標識ポールがあります。街灯は上にひとつ、下に2つの電球があり、鈴蘭灯です。メトロ映画の「肉体の冠」の日本の公開は昭和28年。併映はおそらく「奇襲作戦命令」で、日本の公開は昭和26年。これから昭和28年には鈴蘭灯があったと考えます。右端に電柱看板があり、拡大しないとわかりませんが、5丁目の「リード商会」の広告があります。リード商会の場所は道路拡幅のため多くはなくなり、一部はセブンイレブンになりました。神楽坂の右側の壁に「茶」と書いてあり、これは昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では「東京圓茶」(新字体では「東京円茶」)になっています(現在は不二家)。現在のモスバーガーの場所には「清水衣裳店」(現在の千代田区の「清水衣裳店」)がでています。なお、IDは新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID(identification、証明番号)です。


[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]同じく神楽坂入口から坂上を見ています。標識ポールは同じですが、信号機はありません。おそらく[B]よりさらに昔の時代でしょう。ポールの下に『塵に咲く花』の広告が見えます。昭和26年11月、日本公開です。右側の電柱広告「ナカノ」は坂上の中野ボタン店(現・ブロンクス)。この広告の下に電球ひとつの簡素な街灯が見えます。左側の看板は「あなたは/右側を/通って下さい」「この道路は歩行者の/模範右側交通路/であ〇〇〇/交通事故を〇〇〇/皆様の御協力を願います」

珍味堂(現在も5丁目で営業中)

文学と神楽坂

 以前の珍味堂は本多横丁でしたが、現在は5丁目35番地(森脇ハイツ202)に変わりました。注文は予約だけ。電話は03(3269)2094。森脇ハイツは藁店(地蔵坂)にあり、1階左側に「MORIWAKI」と書いてあります。とりに行けば渡してもらえます。

現在の森脇ハイツ。藁店にある。Googleから

 でも、電話注文をしました(2021/4/26頃)。数日後に届きました。
 後ろに
 外装を取ると
 「珍味堂栞」を開くと
 缶がはいっていました。
 最後は

「装苑」の「あの町この店食べ歩き」(昭和51年9月)では

 材料を厳選し、太陽の下で干したおせんべい、こんぶ等、歯ごたえといい味といいすばらしい。珍味揃い(500円から)は、この店の品のほとんどが味わえます。新宿区神楽坂3の2 TEL (269)2094 午前九時半~午後九時半営業 年中無休

「神楽坂、上って下ってちょいと横丁に入って」(季刊銀花、昭和58年夏、文化出版局)では

 入ったら紙包みの山、まるで倉庫みたい。ガラスケースの上まで紙包みが一杯で、ケースの中はまるで真っ暗。歌舞伎のだんまりよろしく、一箱1500円の字をかすかに読む。で、「一箱ください」と言ったら、「今すぐ売れない、注文で――」とのこと。「じゃあ明日来ますよ」と言うと、「明日もだめ、今一か月前の注文をさばいているの」と言う。じゃあ、どうすりゃいいんつてんだ!
 ビールや酒のおつまみにする、豆、あられ、海苔巻き小せんべい、小蓮の揚げたの、えびせん、昆布……その他さまざまの小さいおつまみ。それに“江戸っ子”“初孫”“さざれ石”“多摩川”などとしゃれた名がついている。様子で料理屋さんがお土産に使うと見た。「値上げしないから注文が多くて」とおかみさん、くたびれた様子。「銀花」で取材に来ましたと言ったら、「これ以上忙しくなると困るから、雑誌に出るのはどうもねえ」。でも、書いちゃった。ようやく小さい海苔巻きせんべい、塩味小蓮を、一袋千円ずつで機嫌よく売ってもらいました。お値段もいいが、味が抜群。こりゃあ珍味堂さん、忙しいわけだわ。〔珍味堂神楽坂3の2。電話(269)2094]

「ここは牛込・神楽坂」第5号(牛込倶楽部、平成7年)では

ダンボールが積み上げられているのでわかりにくいが、あられやおかきで有名。

 本多横丁の昔の珍味堂。

神楽坂上の風景(写真)昭和45年 ID 7430

文学と神楽坂

 地元の人から神楽坂上についてです。

 神楽坂はもともと坂の名前なので、外堀通りの「神楽坂下(牛込見附)」交差点から坂を見上げた写真が多い。大久保通りの「神楽坂上」交差点の写真は少ないです。新宿歴史博物館の昭和45年の写真(ID:7430、下図、拡大できます)は、貴重な一枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430 神楽坂 坂上風景。昭和45年11月14日

 この交差点名は戦前は「肴町」だったそうです。町名が神楽坂になり、交差点名も「神楽坂上」に変わりました。当時は「神楽坂の出口」と認識されていました。それが最近では、地下鉄神楽坂駅や牛込神楽坂駅周辺まで、ひとくくりに神楽坂と呼ばれるようになりました。いずれは交差点名も、また変わるのかも知れませんね。

 交差点から向かって左側。「美観街」の大きな標識ポールは寺内に下っていくの角にありました。角店は見えていませんが、この時代は肉屋の恵比寿亭だと思います。ポールに隠れている黒地白文字の看板は、名称変更前の「日本勧業信用組合」本店の高い広告塔だと思います。手前の相馬屋越しに見えています。その左下、やはり読めない看板は酒屋の万長でしょう。

 寺内横丁です。
角店 かどみせ。道の曲がりかどにある店。

 手前の大きな看板は「中国料理 東花飯店」と読めます。ここは戦後、ビルが建ったのは早かったのですが、何度か商売替えをしていて、失礼ながら店としては安定していなかった印象があります。

 隣はタカミ洋品店。その隣の「東芝レコード」の看板は楽器・レコードのリード商会本店です。このリード商会は、間口が広くて奥行きがない、三角形の変則敷地の店でした。2丁目の「神楽坂ビル」に支店がありました。CDや電子配信の台頭とともに、相次いで閉店したように思います。

「割烹 うなぎ蒲焼」の看板は大和田。神楽坂には他にウナギ専門店として坂下の志満金、本多横丁のたつみやがあり、藁店の角の鮒忠もウナギが売りでした。当時の商店街としての密度の濃さを感じます。

 その先からが、大久保通りの拡幅計画で道路になってしまう土地です。新規にビルを建てることも出来ず、戦後すぐの古い建物に手を加えながら使っている店が大半でした。大和田の隣は、この当時は田口牛乳店。明治牛乳の配達から菓子店、弁当店など、時代の変化に合わせて商売替えしていたように記憶します。

 写真の一番左、見切れているのは菊岡三味線店です。ショーウインドウに三味線が下がっているのが、なんとなく分かります。今ではリード商会から左はすべて、新しいビルと道路になってしまいました。

三角形の変則敷地の店 リード商会はまさに三角形の地域でした。

1970年。住宅地図。

 向かって右側は、ほとんど商店が見えていません。この写真の頃の大和田の向かい、戦前に紅谷があったあたりには、タイヨウ時計と三菱銀行の仮店舗が並んでいたのではないかと思います。銀行には大きな金庫が必要だった時代で、仮店舗といえどもわざわざ新しいビルを建てたと聞きました。5丁目に移転しなかったのは3丁目の旧店舗の敷地の方が広いからか、あるいは土地の権利関係の問題があったのかも知れません。

 当時からタイヨウ時計は大久保通りを渡った左の角に支店があり、後にそちらに自社ビル(タイヨウビル、1987年12月竣工)を建てて店を集約。三菱銀行も3丁目に戻りました。今はどちらもこの場所にはありません。当時の銀行の仮店舗は、このブログの「神楽坂の今昔1」の記事中の写真で見られます。このビルは銀行の移転後、パチンコ店になったように記憶しています。

タイヨウ時計… 以前の益美屋からタイヨウ時計になり、紅谷(赤)は空地(赤)になりました。なお、水色は「東京靴下KK」ですが、しばらくして「薬ヒグチ」になりました。

仮店舗 三菱銀行の店舗は見えないですが、最初の写真をよく見ると、沢山の人が待っているようです。ある人は「その向こう、歩道に人が何人か見えるのが銀行っぽい」といっていました。
 住宅地図では昭和45年も昭和46年も空白でした。
 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)では、はっきり見えます。

 電柱広告の「東電のサービスステーション」は、3丁目の菱屋の隣にありました。

「薬」だけ見える看板は薬ヒグチで、「427店」に向けて積極出店していた頃です。後に1丁目と4丁目にも別店舗を出しましたが、今はすべて撤退しています。

 一番右、「DPEつくば」は不動産屋のつくば商事です。ここも大久保通りにとられる土地ですが、それを承知で店を出したそうです。道路拡張時には営業実績に応じた補償金がもらえます。

 小さいですが写真の右下隅の「歩行者天国11/15より 正午~六時」。初期のホコ天は、夏は20:00まで、冬は18:00までと季節で運用時間を変えていました。その告知です。今は通年で19:00までになりました。これも季節感が昔より希薄になったひとつの表れのように思います。

東電のサービスステーション ここです。

1970年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂(一部)

薬ヒグチ 1970年「東京靴下KK」のお隣で、つくば商事の一部が「ヒグチ薬局」になりました。


「ほてや」と「ほていや」

文学と神楽坂

「ほてや」について、地元の人の意見です。

 本多横丁(神楽坂通り~芸者新路)を興味深く拝読しました。
 ただ最後に出てくる「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」の「ほてや」広田静江さん83歳の話は、釈然としません。
 広田さんは「戦前は毘沙門天の隣の「春月」というおそば屋さんがあったところ…今の三菱銀行の隣に店がありました」と話しています。その「春月」は、こちらのブログで何度も登場します。

 たとえば…
 ◎神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形
 ◎待合「誰が袖」では「遊び場だった『寺内』」の明治40年前後の地図が書かれています。
 ◎春月[昔]は、明治25年生まれの子母沢寛氏が「書生の頃から久しく通った」と回顧します。
 ◎大正6年の神楽坂地図(龍公亭物語り)
 ◎神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期
 いずれも同じ場所にあります。「春月」は一貫して人気店で、廃業したのは戦後のことでした。

 じゃあ、ほてやさんはどこに店があったのでしょう。ウェブサイトで自社を「大正初期の創業」としています。「毘沙門横丁」の奥、春月の裏あたりなら可能性があります。


 もう少し、ほてやさんについて考えてみます。店舗は「大正初期」に創業したといいます。大正の地図は1つしかなく、「古老の記憶による関東大震災前の形」です。しかし、ここには「ほてや」はありません。
 戦前の昭和の地図は「昭和12年 火災保険特殊地図」だけです。これにも「ほてや」はありません。店舗としてはまだまだ若いと考えたのでしょうか。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年

 なお、戦後も春月が同じ場所で出てきます。したがって、「ほてや」は春月と同じ場所にはありえませんが、戦前には、その下のXに、あるいは春月の一部分を借りてもよさそうです。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

小林徳十郎「牛込区名鑑」大正15年。自治めざまし新報社

 ちなみに同じ呉服屋で似た名前の「ほていや」という店がありました。この「ほていや」についても説明します。「ほていや」は明治時代にもう出店して、住所は肴町(現在の5丁目11番地)。「ほてや」とは違うものだとわかります。「ほていや」は伊勢丹に合併されて消えました。
 ◎古老の記憶による震災前の形
 ◎東京名所図会(東陽堂、第41編、明治37年、14頁)には「呉服店には布袋屋(11番地)
 ◎明治35年、西村酔夢氏の「夜の神楽坂」では「これは土地の石川屋や、ほていやなどで拵らえる」
 ◎大正13年、泉鏡花作の「春着」では「神樂坂には、他に布袋屋と言ふ――今もあらう――呉服屋があつた」
 戦後はブティックタカミが建っていましたが、大久保通りの拡幅のため取り壊されて、現在は一部がセブンイレブンに変わりました。


 結局「ほてや」は一帯どこにあったのでしょう。「大正初期の創業」だけではわかりません。春月は戦後も生き残っています。現在のところ、「春月」ではなくその裏手にあった(Xの場所)か、あるいは春月の一部分を借りて、三菱銀行の隣に「ほてや」があったと考えます。
 なお、ほていは一般的には「布袋」と書いて、10~11世紀の仏僧で、大きな袋をせおい、体型は肥満体でした。

上村一夫が「寺内」から描いたもの|古賀八千香

上村一夫氏

文学と神楽坂

 平成13年(2001年)『ここは牛込、神楽坂』第18号に「上村一夫が『寺内』から描いたもの」という小文があります。
 古賀八千香氏がこの文をまとめましたが、彼女は雑誌に関わっているらしいこと以外は不明です。まあ、ここは上村氏が問題なので……。しかし、古賀氏も本当にうまい。

上村一夫が「寺内」から描いたもの
 上村一夫の作品は『同棲時代』くらいしか知らない人も、彼の描く女の顔は、すぐ見分けられるはずである。あの特徴的な眼。それが好きかどうかは別として、魅力的であることは否定できない。彼は1986年に45歳で亡くなっているが、最近再び人気が高まっているという。
 その上村一夫が、まだ劇画家としてスタートしたばかりの頃、神楽坂の「寺内」に仕事場を持っていた。1970年頃のことである。ほどなく人気作家となり、手ぜまになったのか、駒場のマンションに移ってしまったため、期間は短い。しかし、神楽坂は彼にとって印象深く、相性の良いまちだったようである。83年発表の『帯の男』というシリーズでは、舞台を神楽坂にもってきて、まちの情景を存分に描き出しており、作品的にも成功している。この『帯の男』を参照しながら、上村一夫にとっての神楽坂、というものを考えてみたいと思う。
同棲時代 双葉社『漫画アクション』の漫画。1972年から1973年まで80回連載。
特徴的な眼 魅惑の眼差しはたとえば代官山蔦屋書店で上村一夫の生誕80周年を記念する作品展(2020/7/24-8/9)があります。
83年 昭和58年

 上村一夫が神楽坂で仕事をしたのは、1968年から1971年頃である。はじめのごく短い期間は、毘沙門様近くの置屋の二階を借りていた。そこから移った本格的な事務所が「寺内」にあったのである。当時の関係者の30年前の記憶から、およその場所はすぐにわかったのだが、何しろあの辺りは特に変化の激しいところだ。事務所のあった建物も、とうになくなっでいるらしく、ここだ、という決め手がなかなか見つからなかった。古くて暗い感じの建物で、やはり二階を借りていたということしかわからない。
 そこで、上村一夫がしょっちゅう出前を取っていた店、という線から探ってみることにした。すぐ近くにあった店で、確か名前は「ひろし」。この店も今はない。が、近くで聞き込みをしたら、読売新聞販売所の方がよくご存知だった。しかもその店の元店長が、今は津久戸町のスナック「佳根子」のマスターをなさっていることまで教えてくださったのである。
 さっそく1970年の航空地図を持ってお訪ねしてみた。上村一夫が生きていたら、あまり年が違わない感じの、ダンディーな方である。事務所のことハッキリ憶えておられ、地図を見るなり「料理・白菊」という建物を指さされた。「これこれ、この白菊が旅館をやめてアパートにして、二階を上村さんに貸してたんだよ」
「白菊」は、まさにあのマンション建設予定地にあったのだった。隣が今井クリーニング店である(今井クリーニング店の方に、あとで白菊のことをたずねてみたが、上村一夫のことはご存知なかった)。今井クリーニング店の隣の隣が「ひろし」、正しくは「」だ。今、山崎パン店になっているところである。上村一夫は、とにかく「寛」のハヤシライスが好きで、出前はもちろん、ひとりでふらりと店に来ては、いつもハヤシライスを食べたという。
置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
読売新聞販売所 当時は青色の家。2020年には、焼き鳥屋「酉刻」に変わっていました。
航空地図 航空地図とは空中写真を元にした地図でしょうか。航空地図の定義はかなり調査してもなさそうです。ちなみに空中写真とは飛行機に搭載した航空カメラを使って撮影された写真。住宅地図は建物の形状や居住者名等が記された大縮尺の地図。現在は、住宅地図を使っているようです。
料理・白菊、今井クリーニング店、寛 1967年の住宅地図では、赤が白菊、橙色は今井クリーニング店とひろしです。

1967年 住宅地図

『帯の男』の源次郎も、酒を愛する男だ。初老の源次郎はアパートに独り暮らしで、しばしば酒の店「いせや」に現れる。「いせや」は明らかに「伊勢藤」がモデルで、店のつくりや雰囲気がそっくりだ。ただ、店の人物は創作で、「いせや」の女主人、お涼さんは源次郎の心の女性でもある。第二話では二人の過去が明かされるが、「いせや」の場面は、六話全部において重要な役割を果たす。(中略)『帯の男』で描かれるのは、路地のピンコロ石や、料亭の黒塀毘沙門様といった、いわばガイドブック的な神楽坂だけではない。待合だった「松の家」の外観が、置屋「松乃家」として出てきたり、岩戸町繁栄稲荷神社が、なぜか好んで描かれたりする。神楽坂通りにいたっては、看板や電信柱まで、ていねいに描きこまれており、妙にリアルで面白い。
伊勢藤 いせとう。神楽坂4-2にある日本酒居酒屋。まるで昭和の風情がある飲み屋。下図での上は兵庫横丁、下は飲み屋の伊勢藤の内部。
 なお、伊勢藤、毘沙門、松の家(現在はTrunk house)、繁栄稲荷神社の地図を出しておきます。拡大できます。ピンコロ石 こぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。
黒塀 柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀。防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出した。
毘沙門 日蓮宗鎮護山善国寺です。

昭和56年頃の毘沙門天。(加藤八重子著『神楽坂と大〆と私』詩学社、昭和56年)

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)

現在の毘沙門天

松の家 新宿歴史博物館の「新宿区の民俗⑸牛込地区篇」(平成13年)の29頁では待合「松ノ家」は戦前までは神楽坂3丁目にあったと書いてあります。戦後はなくなります。都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では本多横丁から一歩入った、現在はかくれんぼ横丁(360°カメラ)の家でした。2019年、Trunk house(一軒家のホテル)に代わり、2021年3月では、1泊632,500円(プライベートバトラー、プライベートシェフ、朝食付き。税込。4名まで宿泊可)。宴会は3時間で15万円。
繁栄稲荷神社 新宿区岩戸町7にある神社。

神楽坂通り 下図を見てください。赤い円の縁石はごく普通で、高くなっています。一方、青円の縁石は低く、なだらかになっています。どうしてこういう形になっているのでしょう。もちろん、車が乗り越えるためで、車道の反対側、歩道の奥、住宅街のほうには、多分、車がはいれる駐車場や袋小路があるのです。
 下図も同じですが、50年ほど昔なので、どこを絵にしたのかは、わかりません。少し上に登った場所でしょうか。
 さらに下図。「つもりらしいけど」の台詞があり、その下を見てください。やはり同じような袋小路にあると思います。
 またこの漫画の絵には「坂」と思える看板も見え、全体に奥の方が高くなっています。これは神楽坂2丁目にある袋小路を描いた絵でしょう。
 実際はこの三点は特定できると地元の方。
 なお、電柱広告の「(質)大久保」商店は、神楽坂仲通りの右側にあり、芸者新路を越えてすぐの位置にありました。

1980年、住宅地図。


 また、「大島歯科」は神楽坂2丁目の袋小路からほぼ反対側にありました。

1980年、住宅地図。





高島屋10銭20銭ストア(写真)

文学と神楽坂

 「三井住友トラスト不動産」の「四谷・牛込」で「戦前期の四谷・牛込」「神楽坂にあった均一ストア」(https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p06.html)を見てみます。

高島屋

百貨店の『高島屋』は1927(昭和2)年より店内に均一商品の売場を設け好評を得ていた。1931(昭和6)年、10銭均一の『高島屋10銭ストア』を大阪で開業。その後、20銭均一の商品も加えて『高島屋10銭20銭ストア』として全国でチェーン展開。「昭和恐慌」の時勢ということもあり、翌年には51店舗まで成長した。1935(昭和10)年の資料では、陶磁器、菓子、玩具、家庭・雑貨用品など、10銭均一の商品として2,000種以上、20銭均一の商品として400種以上を取り扱っていた。現在の100円ショップの原型といえるものであった。写真は1932(昭和7)年に開店した『高島屋10銭20銭ストア 神楽坂店』で、1933(昭和8)年頃の撮影

 では、早速、国立国会図書館で東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)のコピーを依頼しました。でてくると、写真はこれだけ。巨大な地図の一部なのでした。

 では文章は? はい、これだけです。

10銭20銭ストア

 あとは全部「三井住友トラスト不動産」が作った説明だったのです。最後に「三井住友トラスト不動産」では

1938(昭和13)年には別会社の「丸高均一店」として独立、最盛期となる1941(昭和16)年に106店舗となったが、その後、戦時下になると均一での販売は困難となり、戦局の激化に伴い次々と閉店に追い込まれた。

「てくてく牛込神楽坂」の「三角堂と買取り店」では神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)からの引用を行い、

相川さん (中略)そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。

 高島屋10銭ストアは「時代」が「震災後」の所にあります。

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

Paul神楽坂店以前|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 現在の神楽坂5丁目のPaul神楽坂店ができるまでの、波瀾万丈で、人間味が一杯の物語です。そして、ポール神楽坂ができました。なお、以下の図はすべて住宅地図から取っています。

➊ 昭和38年(1963年)

 最初は昭和38年(1963年)➊。東側から尾沢薬局(ここは神楽坂4丁目の最後です)、サンエス洋裁店(ここから神楽坂5丁目が始まります)、パチンコの東莫会館、KK牛込水産、洋菓子のハマムラ、倉庫、文房具の相馬屋、万長酒店、倉庫と並んでいます。

➋ 昭和42年(1967年)

 次は昭和42年(1967年)➋です。1つだけが変わっています。倉庫だったのが、日本勧業信用組合に変わっているのです。実際に、昭和40年、日本勧業信用組合の本店が新宿区神楽坂5-3に移ってきました。

➌ 昭和45年(1970年)

 昭和45年(1970年)➌、地元の人は、東莫会館は「模型自動車のコース」や「遊戯場になってい」たようですが、そこを「勧信が買収し、駐車場にしました」といいます。実際、名前も「日本勧業信用組合〇〇」に変わっています。どうして離れた場所にしたの? 場所がなかったのです。隣同士がいいとわかっていました。

 昭和46年(1971年)、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が誕生し、この組合の名称も第一勧業信用組合に変更しました。

➍ 昭和55年(1980年)

 昭和55年(1980年)➍、さらに第一勧業信用組合の駐車場になります。まだ、牛込水産とかやの木はまだなくなりません。勧信はじーっと見ている以外に方法はありません。
 昭和57年(1982年)、勧信本店を四谷に移して、神楽坂は支店に格下げになっています。

➎ 平成2年(1999年)

 平成2年(1990年)➎には、やっと牛込水産とかやの木はなくなりました。30年前から、大きな土地になる、と第一勧業信用組合は思っていたはずなのですが…… が、この「2店舗(牛込水産、かやの木)を地上げした業者が、勧信に高値の買い取りを迫り、『買わなきゃビル建てるぞ』って。大もめに揉めて、駐車場というより空き地のまま数年間」時間だけが過ぎていったと、地元の人はいいます。

➏ 平成22年(2010年)

 平成22年(2010年)➏、第一勧業信用組合は、あきらめたのか、相馬屋の西(万長酒店と同じ場所)に店舗を建てています。一方、「ゴネた業者は旧勧信本店の土地の一部をあわせる形で、今のPaulのビル(仮称、野本ビル)を建て」ましたと、地元の人。

 最終的に令和2年(2020年)➐になりました。「土地の区切りも変わっているんです。旧勧信は、今のうお匠のビルより間口が広かったと記憶しています」。おそらく憶測すると、勧信が元の場所は要らなくなって、土地を買った人の間で話しあって、今のビルが建ったのではないかと、地元の人。

「商店街ならではの揉め事ですね」と、地元の人。

➐ 令和2年(2020年)

Yahoo!地図から

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。

昭和37年 加藤医院

⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。
➉桜の木 悪いことも起こしました。細かくは牛込駅リターンズで。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。

1枚の写真(上田屋履物)

文学と神楽坂

 改造社の『日本地理大系』(1929年)で「昭和5年の神楽坂通り」の写真です。問題はどこを撮ったの?

神楽坂通

神楽坂通

 絵の右側にはは「上田屋履物店」がはっきりと見えます。その次に看板の「濱田」とのぼり旗の「〇田メリヤス店」。さらに「岡澤菓子店」も見えます。のぼり旗や垂れ幕などが異常に無数に立っています。メリヤス店の直下には何か屋台もあるようです。

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」を見ると、右手に「上田屋履物」と「浜田メリヤス店」「岡沢菓子店」が見えます。ここでしょう。

5丁目の商店

 現代の写真は
5丁目の商店街

 でも。現在と昭和5年の写真を比べると、下の赤の建物は何でしょう?

向こうに見える建物はなに

向こうに見える建物はなに

 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)の昭和5年と比べて見ると、こう見えたのでしょうか? それともアーチ状の屋根が一見建物に見えたのでしょうか? よくわかりません。まだ疑問を残したまま、仕方なく、終わりにします。(と書きましたが、わかりました!!! 図の下に)

昭和5年、あの建物は

昭和5年「牛込区全図」(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 これは緑門(グリーンアーチ)でした。嘉村礒多氏の「神楽坂の散歩」(昭和7年。再版は南雲堂桜楓社、昭和40年)で……

 いつの間にか年末が近づいた。さかな電車線路で隔てた手前の通寺町との歳の市聯合売出しの装飾をこらした緑門アーチが、二三日前に出来上つた。が、去年の暮のやうに幔幕を引きめぐらした両側の店々の軒から軒へと絲瓜へちまだなのやうに五色の電燈が縦横に架やられるやうな贅沢な飾りは、世上が不景気のせゐからか、今年はまだ見られない。

肴町 現在は神楽坂五丁目に。神楽坂三・四丁目の西側の地域。
電車線路 現在は大久保通りに。
通寺町 現在は神楽坂六丁目に。神楽坂五丁目の西側の地域。
歳の市 としのいち。年末に立つ市。年神祭の用具や正月用の飾物,雑貨,衣類,海産物の類を売る市場。
緑門 祝賀の際などに建てる、常緑樹の葉で包んだ弓形の門。グリーンアーチ。

グリーンアーチ

グリーンアーチ

幔幕 まんまく。縦にだんだらの筋のある幕
絲瓜棚 へちまだな。糸瓜棚。庭園の棚や柵に栽植する。へちまの幼果は食用にする。
世上 せじょう。世の中。世間

へちま棚

へちま棚

 最後にまとめると……。ただし「菱屋糸店」ではなく「ひしや糸〇店」となります。〇は不明ですが、「分店」でいいかも。また、猫のお面がたくさんありますが、「吾輩は猫である」のイベントだと面白い、と地元の方。


2016年8月28日→2020年3月4日

行元寺の仇討ち

文学と神楽坂

 鈴木貞夫氏は「行天寺の仇討とその周辺」(歴史研究。平成9年9月)で、行天寺の仇討について詳しく論評しています。

   行天寺の仇討とその周辺

         鈴木貞夫

 天明三年(1783)十月八日午前十時頃、牛込神楽坂上の行元寺境内で敵討があり、冨吉は父の仇甚内を討ち取って本懐を遂げた。
 この事件について、『視聴草』は「牛込復讐」として、行元寺門前の町役人たちが奉行所に報告した文章を記載している。……


行元寺 ぎょうがんじ。神楽坂5丁目にあった寺。明治40年、品川区西五反田に移転。神楽坂アインスタワーの場所にあった。
本懐 ほんかい。もとから抱いている願い。本来の希望。本意。本望。
視聴草 みききぐさ。江戸後期の幕臣、宮崎成身が文政13年(1830)頃から30年以上にわたって、手もとにある資料や記録から作成した雑録。
         牛込行元寺内門前
          月行事 権九郎申口
一 今昼四時分.私店前にて年来二十七八歳罷り成り候百姓体の者、年来五十歳計りに相見え候体の男を親の敵と申し打懸り、脇差にて首を切り落し候に付き、右切り候者は留置き、名・住所相尋ね候へば、松平内匠知行下総国相馬郡早尾村百姓甚内と申す者の由申し聞き候に付き、五人組名主一同御訴え申し上げ候へば御検使下し置かれ候、御役知れず

松平内匠知行所      
下総国相馬郡早尾村   
百姓平蔵兄にて
当時小普請組門名孫市郎家来
戸ヶ崎熊太郎召使    
初太郎事


[現代語訳]今日、午前10時ごろ、私の店の前で、おおむね27,8歳になる百姓と思える者が、約50歳ぐらいの者に対して、親の敵だといってから、攻めかかり、脇差で首を切り落しました。この者を留置して、氏名、住所を尋ねましたところ、松平内匠が領知する地域で、下総国の相馬郡早尾村の百姓である甚内だと言いました。五人組名主は一同訴え、調べをしないと、わからないと考えます。

月行事 月々交替で組合などの事務を取る役
申口 もうしぐち。言い分。申し立て。幕府の訴訟制度で、当人が幼少や女子などの場合に当人に代わって問答した者。
昼四 ひるよつ。今の午前10時か午後10時ころ。よつどき。
年来 としごろ。ねんらい。見た目や声の調子などから大体の年齢。
打懸 うちかかる。武器などで相手に攻めかかる。攻撃する。
留置 りゅうち。家へ帰さないでとめておくこと。
内匠 たくみ。宮廷の工匠。
知行 幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支給したこと。土地の支配権を与えること。
下総国相馬郡 しもうさのくにそうまこおり。明治11年の相馬郡は茨城県北相馬郡利根町、守谷市、我孫子市、取手市・常総市・龍ケ崎市・つくばみらい市・千葉県柏市の一部。図でA7。
早尾村 茨城県八千代町結城郡。
下総国
五人組 江戸時代に近隣の5家が1組に編成された連帯責任の組織。
検使 江戸時代、殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
御役 おやく。役目の丁寧語。義務としてやむをえずやる仕事。役として果たさねばならないつとめ。
知れず わからない。勤めは終わったのか、わからない。
小普請 こぶしん。江戸時代、禄高三千石未満の旗本・御家人のうち、非役の者の称。

 以下は冨吉の言い分です。

冨吉申口(中略)

四五日以前所用これ有り、牛込赤城辺へ罷り越し候節、甚内をふと見掛け候処、私幼年の時分見候儘聢と見極め候内見失い候に付き.いづれこの辺に罷り有るべく存じ奉り、今昼四時分、当町内罷り越し候処、甚内を見掛け侯に付き、元同村甚内にてはこれ無きやと相尋ね候へば、その方は何者の由申すに付き、庄蔵伜冨吉の旨申し聞け、甚内御当地の居所相尋ね候上御願い申し上ぐべきと存じ、甚内へ相尋ね侯へども一向聞き申さず、帯び候刀を抜き候て威し、逃げ去り申すべき見請け侯に付き、取逃がし候てはまたぞろ尋ね当たり候も計り難く、止むことをえず私も帯び仕り候脇差を抜き、親の敵覚えこれ有るべき旨申し、甚内と打合い、右刀を打落とし候へば、甚内内門前の方へ逃げ入り候に付き、引き続き追かけ候処、脇差を抜き候に付き、手首へ打掛け恢へば脇差を捨て、うつぶしに相成り候に付き、首打落とし、私懐中より親の戒名取出し、右へ手向け候節、町役人ども立合い相尋ね侯間、右始末申し聞け候儀に御座候、親庄蔵口論の節は内済に及び候儀故、いずれへも御訴え申し上げず候、私敵打御願い申し上げ候上にて打留め中すべき処、その儀これ無く、右申し上げ候通り甚内居所相糾し候上御願い申し上ぐべく存じ奉り候処、差掛かり止むことをえず、右体に及び候段、甚だ恐れ入り存じ奉り候、何分御慈悲願い上げ奉り候、右体達し候上は何様御咎を蒙り奉り候とも後悔は仕らず候


[意訳]四、五日前に、所用があって、牛込赤城周辺に行きましたが、思いがけずに甚内を見かけました。私は幼年の時に甚内を見ただけで、もっとはっきりと見極めようとしましたが、見失いました。どうせあの辺りにでてくると思っていましたが、今日の午前10時ごろになって、甚内はこの町内に顔を出し、見かけたので「昔、同じ村に住んでいた甚内ではないのか」と尋ね、「その方は誰だ」といわれ、「庄蔵の倅の冨吉だ。よく聞け。おまえの居所はどこか」と、甚内に尋ねましたが、一向に聞く耳を持たず、かわりに帯刀を抜き、おどして、逃げる体勢になったので、ここで逃がしてはまた同じだと思い、やむなく私も脇差を抜き「親の敵だ、覚えていろ」といい、甚内と打合い、甚内の刀を打ち落とし、内門の前の方へ逃げていきました。追いかけ、脇差を抜き、手首をたたくと、甚内は脇差を捨て、うつぶせになったので、首を取り、ふところから親の戒名を取り出し、甚内のほうに向けました。町役人も立ち会って聞いていましたが、このいきさつを言いきかせました。親の庄蔵は口論の時に内々で事をすませ、訴状もなく、私の敵は殺すべきだといいましたが、これ以上のことは何もなかったのです。甚内の居所をただしてほしいといっていました。この件があり、やむをえず、殺した次第です。はなはだ恐れ入りますが、なにぶんともお慈悲をお願いたく、どんな処罰でも受ける覚悟ですが、後悔はありません。

罷る まかる。「行く」の謙譲語。
聢と しかと。確と。しっかりと。確かであるさま。
 縦書きの文章でそれより前の部分。それより前に記してある事柄。
これ無きや これしかないのでは。
申し聞かせる もうしきかせる。よくわかるように教えさとす。説教するす。話して聞かせる。
帯びる 身に着ける。腰に下げたり巻いたりする。
威す おどす。脅す。嚇す。相手を恐れさせる。脅迫する。おどかす。
 てい。体。態。外から見た物事のありさま。ようす。
見請ける みうける。見受ける。見かける。目にとまる。見てとる。見て判断する。
 ぎ。道理。条理。
脇差 わきざし。近世、町民などが道中のときに護身用に腰に差した刀。武士の大刀と小刀の中間の長さ。道中差し。
 人名や人代名詞などに付いて「に関しては」の意味を表す。
打掛ける うちかける。相手に向けて銃砲などを発射する。
うつぶし 「うつぶせ」に同じ。顔を下向きにして横たわること。
懐中 かいちゅう。ふところやポケットの中。そこに入れること。
戒名 仏式で、死者に僧侶がつける名前。
始末 いきさつ。顛末てんまつ
内済 ないさい。表沙汰にしないで内々で事をすませること。
打留む うちとどむ。戦って殺す。しとめる。
糾す ただす。物事の理非を明らかにする。罪過の有無を追及する。
差掛かる さしかける。他のものを覆うように差し出す。
達す たっする。ある場所に行き至る。到達する。物事を成しとげる。達成する。
何様  なにさま。だれかわからないが、偉い人。高貴な人。
御咎 おとがめ。江戸幕府の刑罰体系上、手鎖、叱などの身分の動かない軽微な犯罪に対する刑。

寺内に入る横丁(寺内横丁)(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 「寺内横丁」という言葉は実はありません。ただし、嘘というほど間違いだったとは思っていません。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「寺内に入る横丁」と書いてあります。それを私が簡単に「寺内横丁」と書いたもの。横丁ほどに人はいませんが、それでも何軒の店は十分、流行っています。

相川さん 階段を下りると、下と二階があって、小粋なうちでしたね。寺内に入ってからすぐ右のところに裏木戸がありましたね。土間は玉石だったですね。
馬場さん それで寺内に入る横丁になるんですよね。
相川さん はい、そうです。寺内に入る横丁です。
馬場さん そして、隣がいまの遊馬さんのところで「ウエダ履物店」。

 「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務、「山下さん」は山下漆器店店主です。



 なお、番号9は変な場所です。実際に番号9に行って、振り返ってから神楽坂通りを見て、写真を撮ると…

 何か非常に似ていませんか。そう、ノエル・ヌエットの「神楽坂」 1937年です。

東京のシルエット「神楽坂」 1937年

 2020年7月6日、こう書いた地元の方がいます。

もうひとつのノエル・ヌエット「神楽坂」の画についても、これが「寺内」のどこなのか、地図を見て考えていました。可能性があるのは「寺内横丁」の上り坂です。
「寺内横丁」を描いたという仮設を否定する要素も、決め手もない。いちおう私の妄想を添付しておきますので、ご笑覧下さい

 実際にその方は木版画にイラストをつけてくれました。

 うん、私もヌエットの「神楽坂」は寺内横丁だと思っています。


毘沙門天(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 毘沙門天を360°全天球カメラで撮りました。時間は2019年4~6月まで。

 全体をみたもの。

川柳江戸名所図会④|至文堂

文学と神楽坂

 善国寺の川柳についてです。

鎮護山善国寺
さてまたもとへ戻って、濠端から神楽坂を上り切った辺り、左側、古くは肴町、今は神楽坂五丁目という所にがある。
 そもそもは馬喰町にあり、寛文十年、麹町六丁目横町、御厩谷という所へ移った。そこでその谷を善国寺谷というように成る。
    谷の名に寺名末世置みやげ      (六六・36
いうような句のできるわけは、さらに「武江年表」寛政五年の項に「麹町善国寺去年火除のため地を召上げられ、神楽坂に代地を給はりけるが、今年二月普請成就して、二十七日毘沙門天遷座あり」と記されているようにまた移転したのである。
    あら高くなる谷から坂の上      (六六・31)
    三度目面白い地へ御鎮座       (六六・30)
    所かへてんてこまふかぐら坂     (八一・3)
 本尊毘沙門天は加藤清正守護仏であったとも伝え、尊仰篤く、芝金杉の正伝寺品川の連長寺と共に知られた。
    むりな願ひも金杉と神楽坂       (六六・29)

 日蓮宗鎮護山善国寺です。
馬喰町 東京都中央区日本橋馬喰町です。
御厩谷 おんまやだに。御厩谷坂とは千代田区三番町の大妻通りを北から南に下がる坂。
善国寺谷 現在は千代田区下二番町の間より善国寺谷に下る坂。坂上に善国寺があり、新宿通りから北へ向って左側にありました。坂下のあたりを善国寺谷といい、御厩谷とは無関係。
末世  仏教で、末法の世。仏法の衰えた世。のちの世。後世。道義のすたれた世の中。
置き土産 前任者が残した贈り物、業績、負債。
六六・36 この「川柳江戸名所図会」にはどこにも書いてありませんが、江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この本も「誹風柳多留」の句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇をまとめました。これは66篇の句集36です。ちなみにこの作者は「百河」です。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
普請 家を建築したり修理したりすること。多数の僧に呼びかけて堂塔建造などの労役に従事してもらうこと。
遷座 せんざ。神仏や天皇の座を他の場所に移すこと。
あら 驚いたり、意外に思ったり、感動した時などに発する語。
てんてこ 「てんてこ」とは里神楽などの太鼓の音で、その音に合わせた舞
まふ 舞う。音楽などに合わせて手足を動かし、ゆっくり回ったり、かろやかに移動したりする。
加藤清正 かとうきよまさ。安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。
守護仏 守護本尊。守り仏。一生を守り続けている仏。生年の十二支を求め、8体の仏から決定する。
芝金杉の正伝寺 港区芝の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天がある。
品川の連長寺 正しくは蓮長寺。品川区南品川の日蓮宗の寺院。寺内に毘沙門天像を祀る。
 縁日の日である。
    ゑん日が千里もひゞく神楽坂      (一五〇・10)
虎は千里行って千里かへる」ということわざをふまえている。
    寅の日におばゞへこ/\善国寺     (六六・30)
「おばゞへこ/\」というのは、当時の流行語であったらしい。ここでは老婆が腰をへなへなと動かす形容である。
 他に句もある。
    おばゞへこ/\の気あるやかましい  (天二満2)
    おばゞへこ/\の気あるでむつかしい  (二〇・26 末四・18)
    おばゞへこ/\がおすきで困り    (一〇三・4)
 これらの句は姑婆がまだ色気があって、聟を困らせるというようなことであろう。
    きざな事おばゞへこ/\罷出る     (傍三・41)
 これは吉原遣り手か。
    寅詣牛へひかれし善国寺        (六六・35)

縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
 十二支の第3番目。寅の日には婚礼などを避けたが、「虎は千里を行って千里を帰る」といい、出戻ることを避けるためだった。時刻では、午前4時の前後2時間を「寅の刻」「寅の時」という。方角は東北東。
ひびく 音が遠くまで達する。ある場所で大きな音や声が発せられて、大きく聞こえる。
虎は千里行って千里かへる 虎が、一日のうちに千里もの距離を行き、さらに戻って来ることができる。活力に満ちた、行動力のあるなどを表す言い回し。
おばば 御祖母。祖母や老年の女性を親しんでいう語
へこへこ 張りがなく、へこんだり、ゆがんだりしやすいさま。頭をしきりに下げるさま。また、へつらうさま。ぺこぺこ。
気ある  興味や関心がある。特に、恋い慕う気持ちがある。
やかましい 音や声が大きすぎて、不快に感じられる。さわがしい。
 もこ。むこ。結婚して妻の家系に入った男性。
姑婆 「こば」? 祖父の姉妹。父方の叔母。
きざな 服装・態度やものの言い方などが気取っていて、いやみだ。
罷出る まかりでる。人前に出る。出てくる。
吉原 江戸幕府が公認した遊廓。浅草寺裏の日本堤で、現在は千束4丁目付近。
遣り手 遊郭で客と遊女との取り持ちや、遊女の監督をする年配の女。
寅詣 とらまいり。寅の日に毘沙門天に参詣すること。

 神楽坂のさらに上、通寺町の右側に多くの寺があり、その一つに龍峯山保善寺というのがあった。ここは山門に「獅子窟」というがかけられていて、世俗獅子寺〉といった。この寺は今は中野区昭和通りに面した所に移っている。
 またその先隣に蒼龍山松源寺という寺があった。俗に〈猿寺〉という。この寺では猿を飼っていた。ある時、住持が江戸川の渡船に乗ろうとした時、猿に引留められて乗船を思い止まり、そのため沈没溺死を免れたという話が伝えられている。この寺も獅子寺と同様中野区昭和通りに移転しており、門前に猿の像を載せた「さる寺」という柱を立てている。
    牛込で獅々猿よりもはやる寅      (六六・35)
 この句はこれらの寺々と善国寺とを獣で比べたのである。
 さて神楽坂や善国寺関係の句が多く六六篇にあるのは、同篇に「牛込神楽坂毘沙門天奉納額面会」が催された時の句、一四八句が載っているからであって、ここにあげた外にも、いろいろあるが省略する。しかし他の篇にはあまりこの寺の句は見当らない。

明治20年「東京実測図」(新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から)

龍峯山保善寺 盛高山保善寺(赤)。現在は中野区上高田1-31-2に移動。
獅子窟 ししくつ。「窟」はあな、ほらあなの意味。
 書画を枠に入れて室内の壁などに掛けた文句や絵画。その枠。
世俗 せぞく。俗世間。俗世間の人。世の中の風俗・習慣。世のならわし。
獅子寺 三代将軍徳川家光が牛込の酒井家邸を訪問した折り保善寺に立寄り、獅子に似た犬を拝領した。これから「獅子寺」という
蒼龍山松源寺 蒼龍山松源寺(青)。現在は中野区上高田1-27-3に移動。
猿を飼っていた 佐藤隆三氏や芳賀善次朗氏の「猿寺」を参照。
江戸川 これは利根川の支流です。千葉県北西端の野田市関宿せきやどで分流し、東京湾に注ぐ。
はやる ある一時期に多くの人々に愛好する。流行する。 客。


愛がいない部屋|石田衣良

文学と神楽坂

 石田衣良氏の『愛がいない部屋』(集英社、2005年)です。始めに「おわりに」を紹介します。ここに本を書いた意図が書かれています。

 恋愛短篇集もついに三冊目になりました。
 これまでは二十代、三十代と年齢別に書いてきたけれど、今度はどうしよう。では人生のある時ではなく、場所を限定して書くことにしよう。それなら超高層の集合住宅がおもしろそうだな。東京では百を超えるガラスとコンクリートの塔が空をさしています。今の時代を映す背景としてぴったりだし、一棟のマンションに舞台を圧縮することで、さまざまな対比が鮮やかに描けるかもしれない。
 タワーマンションが建つ街は、以前住んでいた神楽坂にしよう。その名も「メゾン・リベルテ」。自由の家という名のマンションに住む、そう自由ではない人々の暮らしを、これまでよりすこしだけリアルに書いてみよう。この本はそんな気もちで始めた連作集です。

 では、最初の「空を分ける」から

「このマンションは二年まえに竣工しました。計画段階では、地元の住民から超高層への反対運動がありましたが、今では問題なく周辺住民とスムーズにいっています」
 扉が開くとエレベーターの奥は鏡張りだった。防犯対策だろうか。
「どうぞ」
 ボタンを押したまま成美がいった。階数表示がつぎつぎと点滅しながら、操作盤を駆けあがっていく。梨花は息をのんで、耳抜きをした。こんな贅沢なマンションに住めるのも、割安なルームシェアのおかげだ。梨花ひとりではとても手のでる物件ではなかった。建物の案内は続いている。
「当初の計画では地上四十三階建てでしたが、話しあいの結果、地上三十三階となり、公開緑地を多くすることで落ち着きました。最上階は展望室と来客用の宿泊施設などです。ほとんどは分譲ですが、賃貸物件もいくつかあります」
 エレベーターは十九階で停止した。中央の吹き抜けを内廊下が四角くかこんでいた。博人は手すりから顔をのぞかせ、したを見おろしてから、ガラスの屋根を見あげた。梨花も同じようにする。遥か下方に放射状に大理石の組まれた明るいロビーが落ちていた。博人はのんびりという。
「うえを見ても、したを見てもきりがない。なんだか、このマンションだけでひとつの街みたいだ。ぼくたちは中の上くらいのところに住むんだな」
 梨花はうなずいて博人の横顔をそっと見つめた。広告代理店のクリエイターがどんな仕事をするのかよくわからないが、ものをつくる人の細やかな神経を感じさせる横顔だった。廊下の先から成美が声をかけてくる。
「こちらです。どうぞ」
 部屋番号は1917号室だった。梨花は贅沢な共有部分から、ため息のでるような室内を想像していたが、ドアのなかは案外普通のつくりだった。ロビーと同じ大理石は張ってあるが玄関は狹く、まっすぐ奥に延びる廊下も余裕たっぷりというわけではなかった。不動産会社の女は、天井まで届くシューズクローゼットを開けて、配電盤のブレーカーをあげた。先に立って部屋にあがり廊下をすすんでいく。図面に目を落としていった。
「廊下の左右に個室がひとつずつあります。六畳と変形の七畳で、どちらも大容量のクローゼットがついています。全部で六十平米ちょっとの2LDKになります」
 博人と梨花はドアを開けて室内を確かめた。どちらの部屋も窓は吹き抜け側にあいているので、それほど明るくはなかった。天気の悪い日には昼間でも照明が必要だろう。

ルームシェア roomshare。ひとつの住居を他人同士が、共同で借りたり、共有して居住すること
公開緑地 地方公共団体の条例要綱等に基づき、土地所有者と地方公共団体などが契約を結び、緑地を一定期間住民の利用に供するために公開するもの。
クリエイター 創作家、制作者。広告クリエイターとは広告制作でコピーライトやCMプランニングを中心に行う人。
シューズクローゼット Shoe Closet。玄関で靴を入れるための収納箱。下駄箱
クローゼット 衣類を仕舞う洋風の空間。押入れ。
LDK リビングルーム(居間)とダイニング(食堂)とキッチン(台所)

 建物のモデルは「神楽坂アインスタワー(Eins Tower)」なのでしょう。これは神楽坂五丁目にあり、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションで、普通の分譲マンションではありません。2018年、67.37㎡の価格は6,180万円。なお、ドイツ語のeinsは「ひとつ、1」。「神楽坂アインスタワー」と大久保通りの関係は拡幅計画で。

アライバル社の広告から(https://www.arrival-net.co.jp/article/condominium/kagurazaka_einstower/)

 東急リバブルの広告では……「タワーマンション特有の共用施設の充実、フロントサービス、24時間有人管理、24時間総合監視システム、オートロック、防犯カメラ、モニター付きインターホンと徹底した安全管理体制が設けられています。室内はバリアフリー、ディスポーザー、カウンター付きシステムキッチン、オートバスなど生活設備も充実しています」

アライバル社の広告から

 さて別の章「いばらの城」では

「なんて名前」
メゾン・リベルテ神楽坂。ほらもうさっきから見えてるよ」
 茂人は美広の指さす空を見あげた。白く輝く積乱雲を背に、この街には似あわない巨大な超高層ビルが灰色の切り絵のように空を占めている。
「あんなところか。すごく高いんじゃないの」
「部屋によってはそうでもないみたい」
 その物件は神楽坂上の交差点近くに建っていた。周辺の公開緑地もかなりの広さがあリ、ちょっとした公園なみである。エントランスはホテルのように広々としていた。中央が巨大な吹き抜けになったロビー階には、ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋まである。休日のせいか オープンカフェの日傘のテーブルはほとんど埋まっていた。一番端の席に、妙に目立つ真紅のストールを巻いた小柄な老女が座って、こちらをじっと見つめていた。

メゾン・リベルテ 「家、住宅」maisonと「自由」liberté
オープンカフェ 道路側の壁を取払ったり店の前に客席を設けたり、開放的な演出を凝らしたカフェやレストラン。
ストール 婦人用の細長い肩掛け

 残念ながら、神楽坂アインスタワーには「ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋」はありません。

地上の楽園|杉本苑子

文学と神楽坂

 杉本その氏は東京市牛込区(現東京都新宿区)若松町に生まれた小説家です。吉川英治に師事し、歴史小説を発表。1963年、「孤愁の岸」で直木賞を受賞。現在まで大量の歴史小説は書いているのですが、それ以外の随筆やインタービューは極めて稀か、書いても全集等には載りません。生年は1925年6月26日、没年は2017年5月31日。享年は満91歳。これは神楽坂に関するインタービューです。

地上の楽園    杉本苑子 作家
 ハイカラに神楽坂でココア

   お年玉のギザ(50銭硬貨)を握りしめ、岩波文庫を読んだ。文学という病に取りつかれるまでの幸せな日々は、両親と歩いた神楽坂の縁日や新宿の雑踏の淡い記憶に彩られている。

 ――全集が刊行中ですね。
 二十二巻あっても、入るのは書いたものの半分ですね。習作時代からだと五十年。木の机なんか体の形にすり減ってるの。
 二十代の初めに小脱を書こうと志し、まっすぐにきてしまった。物語に打たれ、触発され、ものを考え出すようになってからは、どこへ行っても、何をしていても、深刻な無念や憎悪、外的・内的な怒り、屈託というものがいつも一緒だった。
 ――早熟な子だった。
 英語が敵性語とされ、短歌が必修科目になったときの女学校時代に「思うこと無げに遊べる童らよ我にもありきかかる遠き日」という歌を作った。十四、五歳の小娘が「かかる遠き日」なんていうのは生意気だけど、ちょっとおませな子どもだったら、子どもなりのもの思いが生じてくる。そういう悩みがまつたくなかったころだけが、楽園だという思いは今も同じ。
 ――楽園の風景は?
 あなたがたは戦前世代というと、もんぺで雑炊、空襲と条件反射みたいに想像するけど、大正末年生まれの子ども時代は、クリスマスだってお正月だって今と同じですよ。東京の小さな薬屋の娘だったわたしでも、よそいきは真っ赤なビロードの生地にウサギの毛のついたオーバー。赤い靴に子ども用の帽子、ハンドバッグはブロンドのフランス人形で、背中にファスナーがついていて、ハンカチとかキャンデーが入れられるの。
 ――ハイカラですね。
 神楽坂のビシャモン縁日に、両親に連れられてよく出かけたものです。お参りの人と夜店とで明るい活気があった。とくに紅家という子どもの目にもモダンな喫茶店があって、そこでケーキを食べてココアを飲むのがとっても楽しみだった。大きならせん階段があるの。その木の手すりに乗っかってツーッて滑り降りたわ。
 両親も若かったし時代にも関東大震災からの復興の雰囲気があった。あのころのビシャモンの縁日のにぎわいを思い出すと、いい雰囲気の幼児期だったなあって思いますよ。
 ――そんな子がなぜ文学へ。
 どうしてでしょうねえ。やみくもに小説が好きだった。お年玉をもらっても、岩波文庫を買って読みふけっていた。『幸福な王子』『青い鳥』だとか、子ども心にどれだけ打たれたか。小説の持つ力を、もしわたしのものにできたらと思ったのかもしれません。
 子どもの時から、長生きはしないだろうなあと予感して、自分の限られた時間は自分ひとりのためだけに使おうと決めた。夫とか子どもなど執着の対象を持つと、どうしたって時間がとられるでしよ。そういうのはいやだったの。エゴイストよね。
 ――死後は家も何もかも、熱海市に託すとか。
 ええ、本当にさっぱりした。物欲も生への執着もあまりない。もともと生存本能が淡いのかも。来世とか前世は信じてないけど、無だった状況から間違って生まれてきたような気がしてしようがない。わたしの作品にも、そんな虚無感がずっと通っている気がします。
(朝日新聞。1998.1.8.)


ビロード パイル織物の一種。綿・絹・毛などで織り、細かい毛をたて、なめらかでつやのある織り方。ポルトガル語のveludo、スペイン語のvelludoから来たもので、ベルベットvelvetと同義語。
ビシャモン 日蓮宗鎮護山善国寺毘沙門天。東京の縁日発祥の地です。
縁日 特定の神仏に縁のある日。有縁うえんの日。その日に参詣すると、特別な功徳があるという。
紅家 正しくは紅谷
『幸福な王子』 英国作家O・ワイルドの童話。1888年刊。黄金の王子像がツバメを通して黄金や宝石を貧しい人たちに配る。像は火に溶かされるが、美しい心臓だけは残ったという。
『青い鳥』 メーテルリンクの戯曲。六幕。1908年初演。チルチルとミチルの兄妹は、夢の中で幸福の使いである青い鳥を求める。翌朝目覚めて、鳥籠に青い鳥をみつけ、幸福は身近にあることを知る。

行元寺の仇討ち|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、元は肴町(現在は神楽坂五丁目)にありました。この行元寺の柳の下で、仇討ちがおよそ250年前にありました。第10代将軍の徳川家治の頃です。
 明和4年(1767年)9月、下総国相馬郡早尾村(現在の茨城県結城郡)で百姓2人が口論になり、組頭の甚内は、百姓の庄蔵を殺しました。しかし、甚内の処罰はなく、5か月以内に甚内本人もいなくなっています。
 それから16年経ち、天明3年(1783年)、庄蔵の長男、富吉(28歳)は行元寺で甚内を発見。甚内(49歳)は御先手浅井小右衛門組同心の二見丈右衛門と称していました。一方、富吉は剣術家の戸賀崎熊太郎の下僕になり、10月8日、富吉は下図で見られるような柳の下で甚内を殺害しました。
 これは「天明の仇討」として有名になり、その結果、戸賀崎氏の門弟は3000人以上に増えたといいます。一方、富吉では、『新撰東京名所図会第41編』によれば、「初根來喜内亦麾下士也、從戸賀崎學、愛富吉爲一レ人、欲延爲臣隷、富吉固辭不就、至是、又欲祿百石」(17頁上)。うーん、よくわからない。好村兼一氏の小説「神楽坂の仇討ち」(廣済堂、平成23年)では「その後、ごろ喜内という旗本に禄百石で召抱えられた」とハッピーエンドに終わっています。

麾下 きか。将軍じきじきの家来。はたもと
臣隷 しんれい。召使い、使用人。

 事件後、「大崎富吉復讐の碑」ができ、表に法華経の「念彼観音力 還著於本人」が描かれ、さらに、法事三十三回忌(文化12年、1815年)には裏面をつけ加え…

  癸卯天明 陽月
二人 不戴 九人
同有下田 十一口
湛乎無水 納無絲
南畝子 願主 休心

 と行元寺住職の依頼を受け、大田南畝(蜀山人)が記しています。現在、この碑は品川区西五反田の行元寺の中にあります。

[現代語訳]観音菩薩の力を念ずれば かえって自分に報いをうける
天明3年10月8日  天を戴かざる仇は誰か
(討つのは)富吉  (討たれるのは)甚内
大田南畝  安心を願う

念彼観音力 ねんぴかんのんりき。「法華経」の言葉。「観音菩薩の力を念ずれば」
還著於本人 げんじゃくおほんにん。「法華経」の言葉。還って本人に著きなん。「かえって自分に報いをうける」
癸卯天明 天明年間の癸卯年。天明三年
陽月 十月の異称
 8日
二人 天という文字
九人 仇。文章は「天を戴かざる仇は誰か」
同有下田 同の下に田の文字は富
十一口 十一口の文字は吉。文章は「富吉」
湛乎無水 湛に水が無いの文字は甚。
納無絲 納に絲が無いの文字は内。文章は「甚内」
願主 神仏に願をかける当人。ねがいぬし。
休心 心を休める。安心する。

行元寺|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年以降は品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。なお、地図などでは「行願寺」と書くともありますが、正しくは「行元寺」です。

江戸名所図会』では……

 牛頭ごずさん行元寺ぎょうがんじ
千手院と号す。同所神楽坂の上、寺町道てらまちみちより右にあり。天台宗東叡山に属す。本尊千手観音大士の像は恵心僧都の作なり。(襟懸えりかけの本尊と称す。)慈覚大師を開山とすと云ふ。(土俗伝へ云ふ、当寺昔は大刹にして、総門は今の牛込御門の辺にありて、神楽坂その中門の旧跡なりしとなり。大永たいえい兵乱堂塔破壊はいす。その頃のものとて古き大般若経を秘蔵せりと云ふ。昔門の内左右に南天樹なんてんじゅ多かりしとて、世俗今も南天寺と字せり)本尊縁起に云く、右大将頼朝卿石橋山合戦の後、安房上総を歴て下総国より、この国に打ち越え給ふ頃、尊前に通夜す。その夜の夢に、頼朝卿自らこの霊像を襟にかけたてまつり、源家の武運を開くと見給ふ。後、果して天下を一統せられたりしより、頼朝襟懸の尊像と称へ奉ると云々。

[現代語訳]○牛頭山行元寺
号は千手院。その場所は神楽坂の坂上で、通寺町(現在は神楽坂6丁目)の道の右側に当たる。天台宗東叡山に属する。本尊の千手観音像は恵心僧都の作で、襟懸の本尊という。開山は慈覚大師。この土地の住民によると、かつては巨大な寺で、総門は今の牛込御門の辺りで、神楽坂は中門の旧跡だったという。大永の乱で堂塔は破壊されたが、当時のものとして、古い大般若経を所蔵する。また、昔、門の左右に南天の木が多く、南天寺と呼ばれる。本尊の言い伝えによると、石橋山合戦で源頼朝が敗れ、その後、安房、上総を経て下総国から、武蔵に入国した。頼朝は行元寺の前で夜中に祈願したが、その夜、夢の中で、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、予想通り、天下は統一し、頼朝襟懸の尊像と呼ばれたという。

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌で、神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成された。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説している。7巻20冊から成り、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版された。
恵心僧都 えしんそうず。源信げんしん。平安中期の天台宗の僧。
襟懸 衣服の首回りの部分にひっかける。ぶらさがる。
慈覚大師 平安時代前期の僧。遣唐使の船に乗って入唐。帰ってから天台宗山門派、天台密教の祖。
土俗 その土地の住民
大永 1521年~28年。室町後期の年代。
兵乱 大永の内訌ないこうでしょうか。戦国時代初期の大永年間に起こり、18代当主の宇都宮忠綱と芳賀氏の家臣団との対立で起こった下野宇都宮氏の内訌のこと
堂塔 どうとう。堂と塔。仏堂や仏塔など
大般若經 大乗経典。600巻。唐の玄奘げんじよう訳。別々に成立した般若経典類を集大成し、最高の真理(般若はんにゃ)から見るとすべてのものは実体がないくうだという教えを説く。
南天樹 ナンテン木の異称(下図を)

縁起 社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。事物の起源や由来。
石橋山合戦 平安時代末期の治承4年(1180年)、源頼朝と平氏方での戦い。敗北した源頼朝は船で安房国へ落ち延びた。
安房国、上総国、下総国 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。

通夜 神社や仏堂にこもって終夜祈願すること。

新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、1904年)でも内容はほとんど同一です。

   ●行元寺
行元寺ぎやうげんじは。牛込肴町三十九番地に在り。牛頭山と號す。天台宗にして東叡山寛永寺の末寺たり。
當寺往古は大刹にて。總門は牛込門の内に在り。今の神樂坂は中門の内にて。其の左右に南天燭●●●行樹なみきありしを以て。俗に南天でら●●●●といひしといふ。赤城神社はもと當寺の鎭守なるよしにて。奉納の大般若經にも。行元寺鎭守と記しありしといへり。大永の兵亂に堂塔破壊せしむね。砂子に載せたり。境内今は大半人家連り。其の表門は小路を入りて。其の奥に在り。書間も之を鎖せり。荒凉想ふべし。
開山は慈覺大師にて。其の本尊千手觀音は。惠心僧都の作。俗に襟懸●●觀音●●といふ。
本尊の緣起に云。右大將賴朝卿石橋山合戰の後。安房あわ上總かずさを歴て下總國しもうさより此國に打越給ふ頃。尊前に通夜す、其夜の夢に賴朝卿自ら此靈像を襟にかけたてまつり。源家の武運を開くと見給ふ。後果して天下を一統せられらりしより。賴朝襟懸の尊像と稱へ奉る云々。

[現代語訳]行元寺は、牛込肴町(現神楽坂五丁目)39番地で、号は牛頭山。天台宗で東叡山寛永寺の末寺である。
 古くは大きい寺で、総門は牛込御門の内側、現代の神楽坂は中門の内側にある。その左右にナンテンの並木があり、俗に南天寺という。赤城神社はもとこの寺を守護する神であり、奉納した大般若経に行元寺を守護すると書いてある。大永の乱に堂塔は破壊したと、『江戸砂子』はいう。現在の境内の大半は人家がはいり、この表門は小路の奥にある。昼間も門は閉鎖中で、荒凉を想うべきだ。
 開山は慈覚大師。その本尊千手観音は、恵心僧都の作で、俗に襟懸観音という。
本尊の縁起では右大将源頼朝は石橋山合戦の後、安房、上総を歴て下総から武蔵に入国し、この尊前で通夜した。この夜、夢を見て、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、案の定、天下を統一したので、賴朝襟懸の尊像という。

牛込門 牛込御門(牛込見附)と同じ。
書間 昼間。日中。太陽の出ている間。
荒凉 荒涼。こうりょう。さびれた、荒涼とした
襟懸 えりがけ。襟がけとは、襟の中に金銭など大切な物を縫い込んだこと。
頼朝 源頼朝。みなもとのよりとも。鎌倉幕府の初代将軍。
石橋山合戦 平安時代末期に源頼朝と平氏方との戦い。頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫し、安房国へ落ち延びた。
南天燭 ナンテンの異称

行元寺|縁起

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年、品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。

 さて、江戸幕府は文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、文政12年(1829)に完成しました。史料としては「文政ぶんせい寺社じしゃ町方まちかた書上かきあげ」を提出せさました。江戸の町々や寺社から起立や由来などの詳細な調査した報告書です。総計は寺社方121冊,町方146冊にもなりました。

 行元寺の史料もあり、国会図書館の「牛込寺社書上」のコマ番号38から50です。うちコマ番号45から50は「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。
 この略縁起は、寛政10年(1798)、当時の行元寺住持じゅうじだった法印(つまり、最高の僧位)の海澄が作成し、当寺の起立・由緒、十一面千手観世音立像の効験・霊験などをまとめたものです。ちなみに「住持」とは、一寺を管理する主僧のこと。ここには明確な事実と判断できないものもあります。それでは「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。なお、この翻訳は新宿区生涯学習財団の「行元寺跡」(平成15年)に多くを担っています。

牛頭山千手院行元ぎょうがん寺千手観世音縁起
武蔵国豊島郡牛込郷牛頭山千手院行元寺ハ、台家たいけ高祖伝教慈覚両大師の開基累代古跡なり、古へ伝教大師東遊して此地に来り、一宇を建て行元寺と号す。所謂祖師当寺を開き、行法修行のもとなるを以てなり、然るに大師開基なりといへども、台家の法いまだ弘らず、寺号のみにして一宇成がたし、其後慈覚大師また此地に来り、先師開基の故を以て再興ありしより相続し、今に至るまで九百余年、台家不易の寺院なり、依之これを開基と申伝る事誠に故ある哉、祖師伝教当寺に於て不動明上ならびにこん迦羅がらせい吒迦たかの二童子を作り給ふ、代々護摩の本尊として今に鎮座まします、霊験古今に是多し、うや/\うしおもんじれば、本堂の千手観世音恵心大僧都の御作なり、むかし千手の示現ありて堂宇を建立し奉る、よりて千手院の名あり

 寺院の創立者(開基)は 天台宗を開いた最澄(767~822)で、「行法修行の元」であるという意味から「行元寺」と名づけられました。しかし、名ばかりの寺院となっていたところ、延暦寺の円仁(794~864)は当地に下向し、相続して再興しました。実証はできませんが、開基の時期は9世紀末から10世紀頃。行元寺の本尊である十一面千手観世音立像は恵心僧都源信(942~1017)の作で、当寺を千手院と呼ぶゆえんです。

[現代語訳] 武蔵国豊島郡牛込郷にある牛頭山千手院行元寺は、天台宗の高僧である伝教大師(最澄)と慈覚大師の2人が創立したもので、代を重ね、歴史に残る遺跡になっている。かつて伝教大師は東遊して、ここで下向し、棟一軒を建て、行元寺と呼んだ。いわゆる祖師はこの寺を開き、仏道を修行する元だという。しかし、大師は天台宗の仏法を広められず、家以外には寺号しかなかった。その後、慈覚大師は再びこの土地に来て、伝教大師の創立と聞き、再興をして、名前なども受けついだ。今にいたる900年余、天台宗の変わらない寺である。つまり、寺を創立したのは誠に由緒があるといえよう。伝教大師はこの寺で不動明上と、矜迦羅童子と制吒迦童子2人を作り、代々、護摩堂の仏様として今も鎮座している。神仏などの不可思議な力は古今に数多い。恭しく思えば、本堂の千手観世音は恵心大僧都の作品である。むかし千手観音の示現があり、堂の建物を建立したので、千手院の名がついた。

観世音 かんぜおん。観世音菩薩。世の人々の音声を観じて、その苦悩から救済する菩薩
縁起 仏教用語。社寺の由来。起源、沿革や由来。
台家 たいけ。天台宗の別称。
高祖 仏教。一宗一派を開いた高僧
伝教 伝教大師。でんぎょうだいし。最澄さいちょうの諡号。平安初期の僧。767~822。日本天台宗の祖。諡号しごうとは、生前のおこないをたたえ、死後におくる贈り名。
慈覚 慈覚大師。じかくだいし。円仁の諡号。平安初期の僧。794~864。最澄の業績を発展させ、天台宗の密教化に影響を与えた。
開基 寺院を創立すること。創立した人。開山。
累代 るいだい。古くは「るいたい」。代を重ねること。
古跡 歴史に残る有名な事件や建物などのあと。遺跡。
一宇 いちう。「宇」は軒、屋根のこと。一棟の家・建物。
行法 ぎょうほう。仏道を修行すること。
相続 先代に代わって、家名などを受け継ぐこと。
不易 ふえき。いつまでも変わらないこと。
 幷(ヘイ)の異体字。あわせる。ならぶ。ならびに。
童子 寺院へ入ってまだ剃髪ていはつはなく、仏典の読み方などを習って、雑役に従事する少年
護摩 不動明王などの前に壇を築き、火炉かろを設けてヌルデの木などを燃やして、煩悩を焼却し、併せて息災・降伏ごうぶくなどを祈願する修法。
護摩堂 護摩をたき修法を行うための仏堂。
鎮座 ちんざ。神霊が一定の場所にしずまっていること。
霊験 れいげん。人の祈請に応じて神仏などが示す不可思議な力の現れ
千手観世音 せんじゅかんぜおん。千手観音。千手観音菩薩。すべてのものを同時に見で同時に救う菩薩。
恵心大僧都 平安時代中期の天台宗の僧。942~1017。源信和尚。恵心えしん僧都そうずと尊称。
示現 神仏が霊験を示し現すこと。
堂宇 堂の建物。

その右大将源頼朝公伊豆国石橋山合戦の後、安房 上総をて武蔵にいたり給ふみぎり、当寺の千手尊の霊験あらたなるきこし召、しのび通夜し、願文を宝前こめ、終夜源氏の家運を祈給ふ、願書の大意ハ、頼朝みやこ清水寺の千手尊をあがめてより、信敬此尊にあり、あおぎ願ハくハ千手千眼のちかひを以て坂東八箇国の諸士を幕下に来らしめよ、所願の如く満足せば、永く観音の檀那となり、千手の堂宇并に寺院にいたるまで建立し、仏供料を寄附せんとなり、しかるに千葉 小山 宇都宮をはじめ八州の諸士ことことく来集し、相州鎌倉に入り給ふ、其後富士川に於て源平対陣のきざし、当寺の千手また富士中禅寺の千手に終日いのりありていはく、我引卒する所の二十万兵ハ皆是大菩薩の与へ給ふ軍士なれば、平氏を退けん事掌中にあり、いよいよ加護の御ぼうしを廻し勝事を得しめ給へとなり、其夜平氏の兵十万余水鳥の羽音に驚き退散と云々、夫より鎌倉に帰入ありて、願文の如く観世音の堂宇御再興并境内はう十町と定め、仏供料の地を御寄附あり、其後代かハり時移り、旧規の如くならずといへども、代々の将軍家より御朱印寺領頂戴し今に至れり。昔ハ大寺にて惣門ハ今の牛込御門の内、神楽坂ハ寺門の内にて、左右に南天の並木あり、俗に南天寺といひしと也

 治承四年(1180年)、源頼朝氏が相模石橋山で敗戦し、養和元年(1181年)、富士川の戦いで、行元寺の千手観音像に源家の家運を祈ると、勝利を収めました。なお、品川区教育委員会の行った文化財調査では、千手観音像は鎌倉末期から南北朝期の作とわかり、現存する千手観音は源信作ではなかったと判明しています。

[現代語訳]その昔、右近衛大将 源頼朝公は伊豆国の石橋山合戦の後、安房、上総をへて武蔵に渡り、ここでこの寺の千手観音の霊験ははっきりと現れると聞き、人目を避けて夜中祈願した。仏の前に願文を置き、泊まり、終夜源氏の家運を祈ったのである。その大意は、頼朝は京都の清水寺の千手尊をあがめ、尊敬できるのはこの仏だけだという。千手千眼の誓いを聞き、関東8か国の諸士を幕下に参集を祈る願文を掲げ、結願した暁には、末永く観音の寄進者となり、千手堂や寺院にいたるまで建立し、仏具料を寄附しようという。すると、千葉・小山・宇都宮をはじめ関東8か国の在武士団が次々に参向し、相模国鎌倉に入った。その後、富士川で源平対陣があり、当寺の千手尊や富士の中禅寺の千手尊に終日祈って、引卒する二十万兵は全員、大菩薩の与えた軍士であり、平氏を退ける兆候があるという。いよいよ加護の御眸を廻し、勝事を決めたいとしたが、その夜、十万余の平氏の兵は水鳥の羽音に驚いて、退散したという。これで頼朝公は鎌倉に帰り、願文の内容と同じように、観世音の建物を再興し、境内は十町四方と定め、仏具料の土地として寄附した。その後、世代が変わり、時が移り、古い規定であるが、代々の将軍家から御朱印の寺領を頂戴して、今にいたっている。≪昔は大きな寺で、正門は現在の牛込御門の内側、神楽坂は寺門(中門)の内側にあり、左右には南天の並木がある。俗に南天寺といった≫

右大将 右近衛大将。右近衛府の長官。武器を持って宮中の警護、行幸の供奉などをつかさどった役所。
 みぎり。とき。ころ。おり。
あらたなる 神仏の霊験がはっきり現れるさま
忍て 人目を避ける。隠れ忍ぶ。
宝前 ほうぜん。神仏の前
籠む 祈念するために社寺に泊まり込む。
信敬 しんけい。信じて心から尊敬すること。
 いや。いよ。いよいよ。ますます。
坂東八箇国 関東地方の古名。相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東8か国を坂東八国という。
所願 しょがん。神仏に願っている事柄。願い。
檀那 だんな。寺院や僧侶への寄付・寄進、布施。
堂宇 堂の建物
八州 かん八州はっしゅう。江戸時代、関東8か国の総称。
相州 そうしゅう。相模国と同じ
 物事が起ころうとする気配。兆候。
掌中 てのひらの中。自分の勢力の及ぶ範囲。
 ひとみ、目を開いてよく見る。
云々 以下略の意味。
 ほう。正方形の一辺の長さを示す語。
旧規 昔からの規則。古い規定。
朱印 江戸時代、将軍の朱印状で、寺領の年貢が免除された寺院や神社
惣門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
寺門 じもん。寺の門。

中比太田備中守入道春苑道灌はじめて江戸の金城を築き、祈願寺を定めんと欲す、時に道灌おもへらく、さいわいに行元寺ハ伝教・慈覚両大師の開基、ことに右大将家祈をかけ源氏擁護の本尊たり、我また同流の源氏なり、祈願寺となすべしとて、金城堅固安鎮の法みな当寺に請て勤めしめ、又金城の落成を賀し、富士見櫓に於て当寺の院主を請じ、種々の布施を給り、自ら愛好する所の挿花瓶名を富士と称する名器を給ふ、所謂わが庵ハ松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見るの歌も此時となん、又当所赤城大明神ハ行元寺の境内にありて鎖守なり。≪其此大寺なればなり≫、応永年中当国六郷の城主松原讃岐守入道沙弥妙讚といふ武士あり、大般若経六百巻を書写せしめ、赤城の神祠に奉納す、応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日に納む、時に当寺の現住等当代なり、巻軸ことに奥書して行元寺住持法印等当とあり≪赤城の神祠はもと当寺の鎮守たる故に大般若経今に行元寺に蔵め有之≫。其後天正年中に、小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に御入あり、時に饗応人不慮に失火して古記録等多く焼失せしとぞ、
辱かたじけなくも寛永年中大猷院殿の御時、右の古跡こせきの趣を聞し召れ、残る所の領地御朱印を下し給ふ、時の住持ハ伝慶なり、

 次は3つ、新しい事実がでています。1つ目は、太田道灌は江戸城の祈願寺は行元寺に決めたこと。2つ目、松原妙讚という城主は大般若経600巻を書写し、行元寺が所蔵していること。3つ目、北条は没落し、奥様は当寺に来たが、この時に料理人が失火したことです。

[現代語訳]太田道灌は初めて江戸に堅固な城を築き、祈願寺を定めようと思った。その時に、幸いに行元寺は伝教・慈覚両大師が創立し、特に源頼朝は家祈をかける擁護の本尊で、私自身も同流の源氏だという。そこで、行元寺を祈願寺にして、金城堅固安鎮の修法を行い、全員行元寺に祈って仏道に勤め、さらに、江戸城の落成を賀して、富士見櫓で行元寺の院主を招き、種々の布施を行い、自ら愛好する生け花の瓶で名を富士という名器も与えよう。いわゆる「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る」の歌もこの時だろう。また、赤城神社は行元寺の境内にあり、守護神になっている。≪これは大きな寺だからだ≫。応永年間に当国六郷の城主の松原妙讚という武士がいて、大般若経の600巻を書写し、赤城の神祠に奉納した。応永の初めに書写をして、文安元年11月7日に納入した。時に行元寺の住職は等当で、巻軸ごとに奥書して、行元寺の最高僧正は等当だという。≪赤城の神祠はもとはこの寺の守護神で、そこで今でも大般若経は行元寺に収蔵している≫。天正年間に、小田原北条は没落し、その時、氏直の奥様は行元寺にお越しになったが、その時に饗応する人が不注意に失火して、古い記録等は多く焼失した。
 かたじけないが、寛永年間に、徳川家光はこの有名な事件を聞き、残りの領地も御朱印とした。その時の主僧は伝慶である。

中比 まったくわかりません。太田道灌か、文章の一部なのか、不明です。
備中守 律令制で定めた岡山県西部の長官
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
金城 守りの固い城。堅固な城
祈願寺 神仏に願い事を行う寺社
我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 太田道灌が詠んだ歌。意味は「私の家は松林の続く海の近くにあり、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる」
安鎮法 あんちんほう。天皇・親王・将軍の住む邸宅の新築などに際し、その建物の安全や除災、国家の平安を祈る密教の修法。
請う 神や仏に祈って求める。
勤める 仏道に励む。勤行ごんぎょうする。仏事を営む。
富士見櫓 皇居東御苑にある三重櫓。唯一残った江戸城遺構。
挿花瓶 花を生ける瓶。生け花の瓶
赤城大明神 現在の赤城神社。
鎖守 一定の地域や施設を守護する神。
松原讃岐守入道沙弥妙讚 松原妙讚が布施をした。
大般若経 大乗仏教の経典。600巻。
現住 現にそこに住んでいる。またはその住居。
住持 じゅうじ。一寺の主僧を務める。その僧。住持職。住職。
法印 ほういん。僧位の最上位。僧正に相当。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語
饗応人 きょうおう。酒や食事などを出してもてなす人
辱くする かたじけなくする。おそれ多くも…していただく。…していただいてもったいなく思う。
大猷院 だいゆういん。徳川家光の戒名。

そも/\いにしへより今にいたるまで当寺千手観世音の利益を蒙しもの、あげてかぞへがたし。≪右大将頼朝公陣中にて御祈念ありし故、俗に襟懸観音といふ≫、或ハ遠流の罪を蒙りしもの此尊を祈りて速に赦免を蒙り≪貞享年中 山角氏≫、又ハ父の流罪を哀し女、七条の袈裟を自ら縫て住持に贈り護摩を修せしめ、遂に帰国ありて父子相遇ふ事を得たり≪天野氏≫、或ハ重病に沈みし者忽本復し≪上総僧慈観≫、又ハ安産の後絶死せるもの蘇生せしなと≪元禄年中 小笠原氏≫。其外不思議の霊験等住持法印雄賢の記せる本縁起に詳なり、近くハ天明年中にも、与に天を戴ざるの難あるもの、此尊に祈誓し其志を遂げ名を揚し事、諸人のしる所、まのあたりなれば、願ふ所の事一つとして満足せざる事なし、しからばすなハち一心称名観世音菩薩の威神力にハ百千万億衆生の諸苦悩を除き、一たび礼拝供養する輩ハ無量無辺の福徳を得ん事、弘誓深如海歴却不思議の金言疑あるべからず、別してハ武運長久・怨敵退散・諸病悉除・息災延命・諸願成就の霊験響の聲に応じる如し、あおいうやまふへく俯して信ずべしと云尓
寛政十年戊午孟秋   行元教寺現住法印海澄

 最後は効能です。十一面千手観世音を襟懸そでかけ観音というようです。

[現代語訳]そもそも過去から今にいたるまで、当寺の千手観世音の利益を受ける人は、数多い。≪右大将の頼朝公が陣中で祈念をあげていて、俗に襟懸観音という≫。あるいは遠流の罪を受けた人が、この仏を前に祈ると、あっという間に赦免を受けたという ≪貞享年間で山角氏≫。父の流罪を哀しむ女性は、七条の袈裟を縫って、住持に贈り、護摩を焚くと、やっと帰国し、父と子が逢うことができたという ≪天野氏≫。さらに重病の者も治っている ≪上総僧慈観≫。また、出産時に死亡したが、生き返った人もある ≪元禄年間 小笠原氏≫。その外、人間の理解を越える霊験は最高僧正の雄賢の縁起に詳細に書いてある。近くは、天明年間、一緒にこの世に生きられない人は、この仏に祈誓し、その志を遂げ、名を揚げたことは、庶民が知っているところだ。願う所はすべて満足になる。観世音菩薩の威神力には百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を除去し、ひとたび礼拝供養する人々は無量無辺の福徳を得て、「弘誓深如海歴却不思議」という金言には疑いはない。特に武運長久、怨敵退散、諸病悉除、息災延命、諸願成就の霊験はひびきの声に応じて、仰いでうやましく、下を見ては信じるべきだという。

 そもそも。改めて説き起こすとき、文頭に用いる語。いったい。だいたい。
弘誓 ぐぜい。衆生を救おうとしてたてた菩薩の誓願。
別して べっして。特別であるさま。とりわけ。
云尓 云爾。漢文で、文章の終わりに用いて、これにほかならない。上述のとおり。

善国寺|由来

文学と神楽坂

 善国寺の由来を調べようと思って、『江戸名所図会』を見ても「毘沙門天」「善国寺」の項はまったくありません。「神楽坂」では「高田穴八幡神社」「津久戸明神」「若宮八幡」はありますが、「善国寺」はまったくありません。「行元寺」「松源寺」はあるのですが「毘沙門天」も「善国寺」もありません。なお、挿絵はでてきます。『江府名勝志』にもありません。つまり、善国寺は江戸時代はあまり知られていなかったのです。

 まず『江戸名所図会』で「神楽坂」は…

○神楽坂
同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所たびしょあり。祭礼の時は神輿しんよこの所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)
[現代語訳。主に新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年を参照]
○神楽坂
この神楽坂は牛込御門から外に行く坂である。坂の中途の右側に、穴八幡神社の御旅所がある。祭礼の時は神輿がここに渡ってくる。その時に神楽を奏するのでこう呼ばれたという。(あるいは、津久戸明神が田安の地から現在地に移った時、この坂で神楽を奏したため、または若宮八幡が近く、いつも神楽の音が坂まで聞こえたためとも伝えられる)

 なお、画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。これだけです。

 新宿歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』(平成12年)では

 神楽坂が最も栄えたのは、明治時代になってからのことで、甲武鉄道の牛込停車場ができたのをきっかけとして商店街となり、毘沙門天の縁日の賑わいとも相まって、大正時代にかけて「山の手銀座」と呼ばれました。

 また、槌田満文氏の『東京文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)では

 神楽坂毘沙門。神楽坂上の毘沙門天は牛込区肴町〔新宿区神楽坂五丁目〕の善国寺(鎮護山・日蓮宗)境内にあり、本尊は加藤清正の守護仏と伝えられる。縁日は寅の日で、明治28年に甲武鉄道(明治39年から中央線)の牛込駅が出来てからは特に参詣者が急増した。

 つまり、明治28年、甲武鉄道の牛込停車場(つまり牛込駅)ができてから、善国寺の参詣者も増えてきたといいます。

新撰東京名所図会 第41編』(1904)では

●善國寺
善國寺は肴町三十六番地に在り。日蓮宗池上本門寺の末にして鎭護山と號す。
當寺古は馬喰町馬場西北の側に在りしが。寛文十年庚辰二月朔火災に罹り。麹町六丁目の横手に移る。(今の善國寺谷)寛政九年壬子七月二十一日麻布笄橋の大火に際し。烏有となり。同五年癸丑此地に轉ぜり。
西門を入れぱ玄關あり。日蓮宗錄所の標札を掲ぐ。東門を入れば毘砂門堂あり。其の結構大ならざるも。種々の彫鏤を施して甚だ端麗なり。左に出世稻荷の小祠右に水屋あり。
本尊毘砂門天は。加藤清正の守佛なりといふ。江戸砂子に毘砂門天土中より出現霊驗いちじるしとあり。孔雀經に云。北方有大天王名曰多聞陀羅尼集に云。北方天王像其身量一肘種々天衣。左手。右手佛塔。長一丈八尺。今の所謂毘砂門天の像は即ち是なり賢愚經等に據るに。三界に餘る程のを持ち給ひ。善根の人に之を與ふといふ。是れ我邦にて七福神の一に數ふる所以か。此本尊に参詣する者多きも亦寳を獲むとの爲めなるべし。東都歳事記に。芝金杉二丁目正傳寺と此善國寺の毘砂門詣りのことを掲記して右の二ケ所分て詣人多く。諸商人出る。正五九月の初寅開帳あり。三ツあれば中寅にあり。」とあれぱ明治以前より繁昌せしものと知られたり。
[現代語訳]善国寺は肴町36番地で、日蓮宗池上本門寺の末寺であり、号は鎮護山という。昔は馬喰町馬場の西北側にいたが、寛文10年(1669年)2月に火災が起こり、麹町六丁目の横に移動した(今の善国寺谷)。寛政9年(1797年)7月21日、麻布笄橋の大火では、全て焼失。同五年、ここに移動した。
西門を入ると玄関で、日蓮宗の登録所という標札がある。東門を入ると毘沙門堂だ。この構成は大きくはないが、種々の彫刻があり、はなはだ綺麗だ。左に出世稻荷の小さな神社があり、右に手を洗い清める所がある。
本尊の毘沙門天は、加藤清正の守護仏だという。「江戸砂子」では毘沙門天は土中より出現し、霊験はいちじるしく、「孔雀経」では、北方には大天王があり、名前は多聞天という。「陀羅尼集」では北方の天王像では背丈は前腕の長さで、種々な天衣を付け、左の腕は伸ばし、地は支え、右の肘は屈し、仏教の塔を高く持っているという。長さは一丈八尺。今のいわゆる毘沙門天の像はつまり道理にかなっている。「賢愚経」等によると三界にあまる程の宝を持ち、善行が多い人ではこの宝を与えるという。わが国で七福神の一つになる由縁だろうか。この本尊に参詣する者が多いのもこの宝を取りたいためだろう。「東都歳事記」には芝金杉二丁目の正伝寺とこの善国寺の毘沙門詣りのことを記し、この二か所の参詣人は多く、いろいろな商人も出ているという。正月、五月、九月の初寅の日に毘沙門天を開帳する。三つともあれば、「中寅」になるという。明治以前から繁昌したと、知られている。

寛文十年 1670年。江戸幕府将軍は第四代、徳川家綱。
寛政九年 1797年。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。
烏有 うゆう。何も存在しないこと。
日蓮宗錄所 日蓮宗の僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職
結構 もくろみ。計画。
彫鏤 ちょうる。ちょうろう。細かい模様を彫りちりばめること。
水屋 社寺で、参詣人が口をすすぎ手を洗い清める所。みたらし。
江戸砂子 菊岡沾凉せんりよう著。1732年(享保17)万屋清兵衛刊。6巻。府内の地名、寺社、名所などを掲げて解説。
孔雀経 すべての恐れや災いを除き安楽をもたらすという孔雀明王の神呪を説いた経
北方有大天王名曰多聞 北方は大天王有り。名は多聞と曰く
陀羅尼集 諸仏菩薩の種々の陀羅尼の功徳を説いたもの
種々天衣 種々天衣を著す
天衣 てんい。天人・天女の着る衣服
臂執稍拄 臂は伸し稍は執し地は拄す。直訳では「腕は伸ばし、すこし心にかけ、地は支える」。よくわかりません。
 ヒ。肩から手首までの部分。腕
 しっす。深く心にかける。とらわれる。執着する。尊重する。大切に扱う。敬意を表する
 やや。ようやく。小さい。
 体・頭を支える
肘擎佛塔 肘は屈し、佛塔に於いて擎つ。直訳では「ひじは曲がり、仏教の塔では高く持ち続ける」。よくわかりません。
 かかげる。力をこめて物を高く持ち続ける。
是なり ぜなり。道理にかなっている。正しい
賢愚経 けんぐきょう。書跡。中国北魏ほくぎ慧覚えかく等訳の小乗経で全13巻。仏の本生ほんしょう、賢者、愚者に関する譬喩的な小話69編を集める。
 たから。宝の旧字体。貴重な物。
善根 ぜんこん。仏語。よい報いを招くもとになる行為。
東都歳事記 近世後期の江戸と近郊の年中行事を月順に配列し略説した板本。斎藤月岑げつしん編。1838年(天保9年)、江戸の須原屋茂兵衛、伊八が刊行。半紙本5冊。
初寅 正月最初の寅の日。毘沙門天に参詣する風習がある。福寅。
三ツ 正月、5月、9月の最初の寅の日でしょうか。
●毘沙門の緣日
舊暦を用ゐざる吾曹記者は。けふは寅の日なるや。はた午の日なるやを知らず。甲武線の汽車に搭し。牛込停車場に至るに隨ひ。神樂阪に當り。皷笛人を動し。燭火天を燒くのありさまを見。始て其の日なるを解す。乃ち車を下りて濠畔に出れば槖駝師の奇異草を陳じで之を鬻くあり。競賣商の高く價を呼て客を集るあり。諸店はけふを晴れと飾りて大利を博せむとし。露肆は巧みに雜貨を列ねで衆庶を釣らむとす。肩摩轂鑿、漸く阪に上り。身を挺して寺門に入れば毘砂門堂には萬燈輝き。賽貨雨の如し。境内西隅には常に改良劔舞等の看場を開き。玄関の傍にも種々の看場ありて。幾むと立錐の地なし。去て門前の勧業場靜岡館の楼上に登りて俯瞰すれば。賽者の魚貫鱗次の景況。亦一奇観なり。
境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。一層の繁昌を添たり。年中この兩緣日にはか丶る景況なるも。殊に夏夜を熱閙とす。當區辯天町に辨財天ましませども。一向に參詣者なし。蓋し神の繁昌を招くにあらずして。人が神を藉りに繁昌ならしひるに因るなり。
[現代語訳] 旧暦を使っていない、われわれ記者は、今日は寅の日か、それとも午の日かわからない。そこで甲武線の汽車(今の中央本線)に乗り、牛込駅に行き、神楽坂にたどり着いて、見ると、太鼓と笛が空を舞い、燭火は天を衝き、この様子を見て、初めてその日だとわかった。お堀のほとりに出てみると、奇妙な花や変わった草を売る植木屋がいる。声高く値段を呼び、客を集める競売商もいる。今日は晴れの日だと着飾って、大利を生むとする店もいる。巧みに雑貨を売り、大衆から金を釣ろうとしている露店もある。人や車馬の往来が激しいが、なんとか神楽坂の坂に上がり、寺門に入ると、毘沙門堂には仏前に点す灯明が無数に輝き、宝の貨はまるで雨のようだ。境内の西隅には常に改良剣舞の見世物屋は開き、玄関の傍にも種々の小屋がある。立錐の余地もない。そこで門前の勧業場の静岡館の楼上に登り、俯瞰すると、お参りする人が、列をなし、並んでいる景況が見える。ほかでは見られないような風景だ。
 境内には出世稲荷があり、最近、午の日にも縁日を開くようになり、一層、繁昌している。年中、特にこの両縁日にはこんな景況が見えるが、殊に夏の夜は騒がしい。当区の弁天町にも弁財天があるが、参詣者は一向にいない。つまり神の繁昌を招くのではなく、人が神樣にいいわけをして、繁昌しているのだ。

吾曹 われわれ。われら。吾人
搭し とうする。乗る。上にのせる。積み込む。
隨ふ したがう
皷笛 こてき。太鼓と笛
槖駝師 タクダシ。植木屋の異称。ラクダの異称。
 くさ。草の総称
鬻く ひさぐ、売る
露肆 ほしみせ。露店。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
肩摩轂鑿 人や車馬の往来が激しく、混雑しているさま。
挺する 他よりぬきん出る。人の先頭に立って進む。
看場 かんば。注意してよくみる場所。見世物小屋など。
魚貫 ぎょかん。魚が串刺しに連なったように、たくさんの人々などが列をなして行くこと
鱗次 りんじ。うろこのように並びつづくこと。
近来 午の日も縁日になった日はいつなのでしょうか。『新撰東京名所図会 第41編』は明治37年(1904年)よりも昔です。区の「新宿区史・史料編」(昭和31年)の「古老談話」によれば「明治中頃」です。
熱閙 ネットウ。 人が込みあって騒がしいこと。
奇観 珍しい眺め。ほかでは見られないような風景。
藉る かりる。よる。お陰をこうむる。「藉口しゃこう」とは口実をもうけていいわけをすること。

龍膽と撫子|泉鏡花

文学と神楽坂

「龍膽と撫子」は大正11年から12年にかけて、泉鏡花氏が書いた未完の小説です。龍膽は「リンドウ」、撫子は「ナデシコ」と読み、どちらも花の名前です。この1部分は、最初は簡単に見えて、でも後半に行くと、なんだかよくわかりません。
 問題は(なべ)と書いた小料理屋です。その名前と場所は何なのでしょうか。

 神樂坂かぐらざかまちは、まつたひらけた、いまあのむねたかそろへた表通おもてどほりの家並やなみては、薄暗うすぐらのきに、はまぐりかたちを、江戸繪えどゑのはじめごろのやうなしよくいろどつて、(なべ)としたにかいた小料理これうりがあつたものだとはたれおもふまい。またあつてもひとにはかなからう。もつと横町よこちやう裏道うらみちことふのではない。現今げんこんカフエーにかはつたが以前いぜん毘沙門天びしやもんてんならびところに一けんあつた。時分じぶんは、土間どまはもとよりだが、二階にかいへもきやくとほした。入込いりこみおもて二階にかいと、べつ一間ひとまめうに一だんトンとひくくなつて、敷居しきゐまたいで六でふりる。すわると、うへへやたゝみよりは身體からだひくくなる部屋へやがあつた。島田しまだつた、あかぬけのしたねえさんが、唐棧たうざんがらものに繻子くろじゆすえり晝夜帶ちうやおび前垂まへだれがけで、きちんとして、さけやすくても、上手じやうずしやくをした。
 とほりすがりに、光景くわうけいおもふと、なんだか、まぼろしくも屋造やづくりに、そらごとうつしたもののやうながする。……たゞ七八ねん間隔てだたりぎないが、たちまちアスパラガスのみどりかげに、長方形ちやうはうけいしろいしたく順々じゆん/\に、かすみ水打みづうつたやうにならべたおもむきかはつたのである。
 就中なかんづくいちじるしいのは、……うしろが岩組いはぐみがけづくりつて、一面いちめん硝子戸がらすどしきつたおくところの、天井てんじやうが一だんたかい――(すなは以前いぜんだんひくかつた裏二階うらにかい小部屋こべやしたそれあたる)――其頃そのころだと、わん茶碗ちやわん板頭いたがしらに、お手輕でがる料理れうり値段ねだんづけを張出はりだしたかべわきの床柱とこばしらに、葱鮪ねぎまねぎ失禮しつれいしたかとおも水仙すゐせん竹筒たけづつかつたのを……こゝでは、硝子ビイドロなか西洋豌豆花スウィートピが、給仕きふじをんなの、種々さま/\なキスしたあとのくちびるのやうないろされて、さて、その給仕きふじは、しろのエプロンで明滅めいめつかつ往来わうらいする。
 こゝにおいて、蛤鍋はまなべ陽炎かげろふ眞中まんなかに、島田しまだ唐棧柄たうざんがらをんなおもふと、あたかもそれが安價あんかなる反魂香はんごんかう現象げんしやうて、一種いつしゆ錯覺さくかくかんぜざるをない。……それはまだい。もつと近代きんだいひとたちは、蛤鍋はまなべ風情ふぜいを、ねずみ嫁入よめいりすひものをるやうに、あかる天井てんじやうあふであらう。
[現代語訳]神楽坂の町は、全く開けた。表通りの家並みはどれも高くなった。薄暗いひさしにぶら下がった蛤の絵があり、錦絵の初めの頃に見た3色に彩って、下に(なべ)と書いた小料理店があったとは、誰も思わないだろう。また、我々の目に留まることもないだろう。もっとも横丁や裏道のことをいっているのではない。今はカフェーにかわっているが、以前は毘沙門天と並んで、そんな一軒があったのだ。そのころは、土間はもちろん、2階にも、客ははいっていた。通りに接した2階は人が多いが、ほかにひと間、敷居をまたいで、妙に一段だけ低くなって、大きさは六畳、座ると、上の部屋から見えるが、畳よりも体が低くなる、そんな部屋だった。島田髷を結い、洗練した女性が働いて、唐棧柄の着物、黒繻子の襟、表と裏に別の生地を使った帯、前がけをしていて、きちんとして、酒は安いが、上手にお酌をした。
 通りすがりに、この光景を思うと、なんだか、まぼろしの雲の中に家屋があり、絵空事を映したもののような気がする。……ただ七八年の間隔に過ぎないが、これがたちまち、アスパラガスの緑のかげがあり、長方形の白い石のテーブルが順々に、霞に水をまくように並べたという趣に変わったのである。
 なかでも、著しいのは、……この店舗は、後に岩石を配置し、床下を支え、硝子戸で仕切り、奥のところには天井が一段高くなり――(すなわち以前に一段低かった裏二階の小部屋の下にあたる)――そのころには、壁わきの床柱で、椀、茶碗を先頭に、お手軽料理の値段づけを張出して、葱鮪の葱を失礼するかと思う水仙が竹筒に生けてあった……ここでは、ガラスの中にスウィートピーがはいり、給仕女は、種々なキスしたあとの唇のような色を配置し、さて、その給仕は、白のエプロンをひらめかし、あちらこちらの場所で出現している。
 ここで、蛤鍋の陽炎は真ん中にあり、島田髷で唐棧柄の女性を思うと、あたかも死者の姿があらわる安価な香の現象にも似て、一種の錯覚を感ずるをえない。……しかし、これではまだいい。もつと近代的な人たちは、その蛤鍋の風情を見て、鼠の嫁入りの絵がはいった吸いものを見るように、明るい天井を仰ぐであろう。

 と、最後は何だかわかりません。

江戸繪 一枚刷りの極彩色の江戸役者絵。浮世絵の前身になった。2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵として人気を博した。
三色 寛保末頃、紅色と緑色(藍色、黄色)の2~3色を印刷する方法が開発。紅摺べにずりといわれたそうです。これでしょう。
小料理 大正3~4年に、毘沙門天のならびに、小料理店があり、のちにカフェにかわったというのですが、これは、どこで、何なのでしょうか。神楽坂にカフェは多くはなく、毘沙門天のならびで、近くにあるのは「白十字」だけです。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、この「白十字」ができる以前には「明治食堂」があったといいます。「肴町よもやま話③」では…

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。

 この「明治食堂」が(なべ)と書いた小料理店だったのでしょうか。なお、「明治食堂」は現在の「椿屋珈琲店」になりました。


現今 いま。現在
土間 建築内部は床を張らず、地面のままか、三和土たたき、石、煉瓦などにしたところ。
ならび 並ぶこと。並んでいるもの。列。
入込 差別なく入りまじること。人が入りまじって集まっていること。雑踏。
表2階 玄関に近いほう、目立つ方、前面・正面になる方の2階。
島田 島田まげのこと。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
あかぬけのした 洗練されている
唐桟 紺地に浅葱あさぎ・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。

繻子 しゅす。繻子織りにした織物。縦糸と横糸とが交差する点が連続することなく、縦糸か横糸だけが表に現れるような織り方。

昼夜帯 表地と裏地が異なるものを合わせて仕立てた女帯。もとは黒繻子に白の裏を付け、昼夜に見立てたもの。
前垂がけ まえだれがけ。帯のあたりから体の前面に下げて、衣服の汚れを防ぐ布。
屋造 家の構え。家屋の構造。
絵そら事 絵空事。大げさで現実にはあり得ないこと。
 机。テーブル。
水打つ 街路や路地などにたつちりほこりをしずめるために水をまくこと
 風情のある様子。あじわい。
かはつた 「かわった」でしょう。
就中 その中でも。とりわけ。
岩組 いわぐみ。庭園の岩石の配置。立て石。石立て。岩が入り組んでいる所。
崖づくり 崖や池などの上に建物を長い柱と貫で固定し、床下を支える建築方法。
画る かくする。線を引く。物事をはっきり分ける。区分する。
裏二階 表面と反対の面の2階。
板頭 「板頭」は、江戸時代、岡場所で最も多額の揚げ代をかせぐ遊女。「板元」は「料理場」「料理人」。「最初の料理]の意味?
床柱 床の間の片方の、装飾的な柱。
葱鮪 ねぎとまぐろを煮た料理。鍋料理と汁物があるが、鍋をいうことが多い。
硝子 ポルトガル語のvidroから。ガラスのこと。
西洋豌豆花 香豌豆。スイートピー Sweet pea のこと。
插す 刺す。細長い物を他の物の間に入れる。
明滅 あかりがついたり消えたりすること
往来 行ったり来たりすること。行き来。
蛤鍋 蛤のむき身と焼豆腐・ねぎなどを味噌や塩で味をつけ、煮ながら食べる鍋料理。はまなべ。
陽炎 強い日射で地面が熱せられるか、焚き火などを通して遠くを見ると、その物体が細かくゆれたり形がゆがんで見える現象。揺らめき。
 夫のある女性。女性。婦人。
反魂香 反魂香。はんこんこう。はんごんこう。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香。
 裏。逆。内部。心の中。腹。
鼠の嫁入り ネズミの夫婦が秘蔵の娘に天下一の婿をとろうとして、次々に申し込むが、結局は同じ仲間のネズミを選ぶ。まず、太陽のところに行くと、太陽は雲に遮られると光が届かないので雲のほうが偉いという。そこで雲に相談すると、雲は風には吹き飛ばされてしまうので風のほうが偉いという。次に風に頼むと、いくら吹いても遮る壁にはかなわないという。そこで壁を訪ねると、壁をかじって穴をあけてしまうネズミがいちばん偉いといい、結局は同じ仲間のネズミから婿をとる。あれこれ迷っても平凡なところに落ち着く。
仰ぐ 上を向いて高い所を見る。見上げる。

亀十|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

「製菓実験」昭和13年4月号に「亀十」が出ています。肴町21番地(現在は神楽坂5丁目21)のパン屋さんです。現在は「‎おかしのまちおか」に変わりました。

龜十
倉本 老廢的存在の設計屋や、教養のない大工さんなどが、新人の眞似をしてやると、こういふ設計が出來上るのである。この店ばかりでなく、到るところに、このやうにマゴツイた店が多いものである。感じは惡いけれども、俗つぽく目につくところは、カヘツテ強い存在を主張する。
 パンとサンドウヰツチと和菓子といふよくばつた多角的経營は果してどうだらうか。見かけたところどうしても、パン屋さんである。こういふ構えの店でも和菓子は賣れるに相違ないけれども、大したことではない。良い和菓子を買う人は、こういふ店へはよりつくまいとおもふ。
 などと、惡くいふが、しかし、大工さんは、この店構えを非常によいと思つて設計したのであらう如くに、一部大衆も亦、かういふのを好むのであるから、御主人は大いにお店を自慢しでよい筈である。
 可なり凝つたデザインではあるが、全体的に見てデテイルの調和が取れてゐない。その爲に何處なく素人臭い設計である。ケースの配置はかなりすつきりして面白いと思ふ。
 向つて右横の入口の處と左側の壁面の處が少し物足りないやうに思はれる。
 客が店頭のみで買物をする傾向が感じられるがもしそれが事實ならもつと奥迄客を導く手段を考へる必要があらう。

老廃 年をとったり、古くなったりして役に立たなくなること。
まごつく どうしていいかわからず、迷う。まごまごする。
如く 活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付いて、比喩や例示を表す。…のように。…のとおり。「彼の言うごとく市場はまもなく安定した」「脱兎のごとく逃げ帰った」「10年前のことが今さらのごとく思い出される」
デテイル ディテール。detail。全体の中の細かい部分。細部。

 これを「かぐらむら」2009年12月号の「今月の特集第2部 戦前編 記憶の中の神楽坂」ではこう描いています。

 肴町21番地。現在、ファミリーマートが在る場所(神楽坂6-77)で、大正末から平成の初めまでパンと菓子の店だった。この建物は調和に欠ける面があるものの、大工さんが凝りに凝ってデザインしたものだ。こうした存在感のある建物は、一般のお客さんに人気があるのだという。

 うまい。悪い点でも満点のように伝わるのは素晴らしい。なお、ここは(神楽坂6-77)ではなく、神楽坂5丁目21です。ここは神楽坂の坂道を通り過ぎ、大久保通りも通り過ぎると、神楽坂通りの北側は6丁目、でも、南側は5丁目なのです。

三角堂と買取り店

文学と神楽坂

 2019年の現在、店は取り壊されてしまいました。ここでは以前の店舗を扱います。

将来の神楽坂上交差点

 「機山閣」から昭和7年の「高島屋10銭20銭ストア 神楽坂店」ができ、戦時中に閉店。戦後は「山岡書店」から「明治牛乳」、「Fance」、「弁当たぐち」、「キッチンママ」、「シロクマの買取り屋」などに変わり、最後は「みんなの買い取りプラザ」でした。
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 みんなの買い取りプラザでは「お売りください 高価買取 無料査定/かしこい 生前整理 遺品整理 ご予約受付中/貴金属・ダイヤ・色石 ブランド品・時計/骨董品・美術品 中国骨董・刀剣 掛け軸・絵画 茶道具・書道具 象牙・珊瑚・翡翠 着物・帯・毛皮」と、高価ならば何でも買うと宣伝していました。
 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京しました。

馬場さん それから「三角堂」ってちっぽけな眼鏡屋さんがありましたね。夜になると三角堂の黄色い看板が出ててね。
相川さん その前はおもちゃ屋だったんですよ。私が聞いた話によると、蕎麦屋のセイちゃん。
馬場さん 蕎麦屋の神田セイタロウさん?
相川さん 三角堂のところでやっていたんです。私は知りませんよ。そういう話がある。うちのおふくろが言っていましたよ。それから、三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。

5丁目12など

大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます

国友温太「新宿回り舞台」(出版者は国友温太、1977年)

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

山下漆器店

文学と神楽坂

 昭和22年から神楽坂で漆器や和家具を売ってきた店です。場所はここ。しかし、東京都の大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、この山下漆器店も道路になるという流れは変えられず、平成29年(2017年)2月、閉店し、7月ごろ、更地にしました。下の写真は昔のもの。
 新しい大久保通りは4車線で、その両側に自転車道(幅員2メートル)と歩道(幅員4メートル)を整備する予定でした。平成31年度に完成する予定。(しかし、予定は予定。現在は不明になっています

山下漆器店

かぐらむら」87号(平成28年8・9月)にNPO法人粋なまちづくり倶楽部理事長(山下漆器店二男)山下馨氏が「大久保通り拡幅と山下漆器店レクイエム(鎮魂歌)」として書いています。

 神楽坂5丁目の老舗、多くの顧客に愛されてきた山下漆器店が大久保通り拡幅事業によって近々閉店する。
 この店は開業70年の老舗であり、最近では、ちょいちよいテレビや雑誌に取り上げられる神楽坂の人気店の一つである。特に話題は、大正14年生まれの91歳店主兼看板おばあちゃん、山下弘子のしゃんとした立ち振る舞いで見せる元気ぶりである。(中略)
 ところが、そんな折、突然戦後70年間話題にも出てこなかった都市計画道路大久保通り拡幅事業が決定。拡幅事業エリア内にある山下漆器店は、隣接商店ともども閉店する運命となったのだ。(中略)
 本来、道路づくりはまちづくりと一体的に計画されるべきものである。域内交通とは異なり、通過交通動線としての大久保通りは、コミュニティを壊し、地域を分断し、商店街にダメージを与えるという宿命を持っている。従って、この拡幅計画には、地域へのマイナス面を極力小さくすべき慎重さが必要とされるべきなのだ。
 無駄な都市計画道路計画が全国各地で廃止されている時代にあって、多くの都民の人生を台無しにする事業を進めようとするならば、都知事、行政マンを含めすべての為政者は、よく心してことに当たるべきである。さもなければ、弘子のこころを納得させ、失われる大きな大切なものに対しての償いは出来ない。

と書いています。神楽坂は沢山の都市計画の末に今の神楽坂になりました。しかし、この拡幅計画自体に限定すれば、はるか昔からあったものだと思います。(この計画はあると私も知っていました)。それにしても、黙祷を捧げます。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京してきました。

馬場さん それでいよいよ山下さんのところへくるわけだ。
相川さん それで山下さんのところは「伊藤洋品店」ってのがあって、そのあと昭和の代になってからキクヒデさんの兄さんが(店を)出した。いま京都の方にいるのは弟さんでね。兄さんは子どもがないんで京都に帰っちゃった。それで弟さんにキクヒデってのを譲った。中河清一さん(注)と仲がよくってね。いまは弟さんが何年かに一度は中河さんを呼ぶそうですよ。こっちの天利さんの方はもう借りられない、ダメらしいって見切りつけて、神田の小川町へ「キクヒデ刃物店」を出したんですよ。(注)元中河電気店の店主。現在「ゑーもん」の所で営業していた。
馬場さん 神田小川町に行ったがもうなかった。
相川さん そうですか。一度行ったけどね、その後、見ないからいなくなったかな。ところが霊友会に凝っちゃって、もうみんな差し上げちゃってね。娘さんをひとり亡くしたんですよ。それで、中河さんの亡くなったおじいちゃんが「よせとは言わないけど、ほどほどにしとけよ」って言ったんだから。
山下さん 四、五日あとにキクヒデさんが天利さんへやってきて「また貸してくれ」って言ってたって、私が神楽坂へきたあとにそんな話を聞きましたよ。

チカリシャスニューヨークアマリージュ

文学と神楽坂

 新しいケーキのお店がここにできました。中町に出ているチカリシャスニューヨークアマリージュが引っ越ししてきました。売りはコブラーですが、ケーキは全て美味しい。おそらくアマリージュも河合陶器店山下漆器店と同じようにいずれはなくなると思います。そして、2020年、なくなりました。

アマリージュ、山下漆器店、河合陶器店の跡

 チカリシャスニューヨークアマリージュについて。

コブラー
  以前は五十番2号店がここにでていました。神楽坂4丁目の本店とまったく同じ中華まん等を売っている店舗です。

五十番2号店

 以前の店舗は右側が旧五十番、左側が山下漆器店です。

旧五十番と山下漆器店

 大正から昭和後半までは菊岡琴三絃店でした。三絃は「さんげん」と読み、三味線と同じ意味です。

菊岡

 また写真も半分だけですが、あります。左側に「岡菊」と書いてあります。これは国友温太氏が書いた『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)に載っていました。

大正時代の神楽坂通り

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人でした。

相川さん それからいまの塚原さん(注。元三味線屋さん、今は葛屋さんの松屋本店)。その前は「ツヅキ」つていう洋服屋さんだった。そこを買って。
馬場さん それがいまの場所ですよね。これはみんな天利さんの地所で。
相川さん そうです。

 最後に昭和51年(1976年)8月16日の読売新聞「都民版」イラストの一部を拡大しました。

菊岡

セイジョー

文学と神楽坂

 セイジョーは薬の店舗で、「ココカラファイン神楽坂店」に変わり、現在は全て閉店中です。

セイジョーの跡

 新しいビルが出てきました。(写真は2020年12月20日)



 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)にはセイジョーが出る前の話が出ています。なお、この会談の当時(昭和63年)は、「馬場さん」は万長酒店の専務で、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人でした。

馬場さん それでタカミさんの隣は?いまの「リード」*さんのところでしょう。
    *「リード」さんは今のドラックストアーのセイジョウの場所
相川さん あの人はね、「神楽坂煎餅」というお煎餅屋さん。
馬場さん ああ、戦争前は。
相川さん その隣は「松葉屋」っていう塩物屋(魚の塩漬け屋)さん。
馬場さん そこのところがあとで床屋になったでしょ。
相川さん 「ナトリ」ね。昭和五年に開業したんです。
馬場さん 昭和五年? そんなに早かったの。
相川さん 二、三年遅れているな。昭和七、八年だな。
馬場さん ナトリさんはモダンな床屋でしたよね。その当時までは、床屋さんってのは履物を脱いで、床でもってやっていたけど、ナトリさんは違うんだ。タイル張りなんですよ。僕も子ども時分を覚えていますよ。
相川さん ナトリさんの兄さんっていうのが、東京駅の地下だか上だか知らないけど、「ショウジ」っていう床屋さんをやっていてね。その人の肝煎りで、お嫁さんももたせるについて、あのうちを借りたんですよ。その持主は。白銀町に「くびきや」って米屋があるでしよ、その田原さんが建てたんです。だから結局、家賃です。
馬場さん 借地権は「くびきやさん」がもっていたの? 地所は?
相川さん 地所は天利さん。それで、「くびきやさん」の女中さんをしていたのを世話されて、ナトリさんのお嫁さんになった。
馬場さん ご隠居、ナトリさんで散髪したことある?
相川さん ありますよ。
馬場さん あそこは、洗髪するのにそこで椅子のまま、できるんですか?
相川さん そうだったかな。
馬場さん これがモダンだったってことなんですよ。当時は。洗い場へ行って頭を洗うのに、ナトリさんはその場所でもって頭が洗えるっていうんでね。なにしろモダンだったんだよ。
相川さん 十台ぐらい椅子がありましてね、タカミさん寄りにずーっと。奥深いお店でしたよ。
馬場さん それはリードさんといまの大和田さん*のあたり。
    * 大和田さんは「うなぎや」でリードさんと大和田さんは今のセイジョウのところ。
相川さん 大和田さんまでは行かないの。リードさんのところに、布袋屋さんの基礎がまだ夕カミさんのところに残っていますよ。このあたりは軒数は多いがそんなに。軒の間口は広くはないんだね。


タカミ タカミブティックです。

5丁目12など

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集から

 実際にはセイジョーは「リード」と「大和田」を2つまとめた大きな店舗です。

1980と2010

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

ブティックタカミ、布袋屋[昔]

文学と神楽坂

 5丁目11番地です。戦前はほていや呉服屋、戦後はタカミ(高見)洋品店(ブティック)です。場所はここ。現在は大久保通りの拡幅のため、取り壊し、一部はセブンイレブンになりました。タカミ

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、この当時は、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主でした。

馬場さん そうすると、いよいよ「タカミ」さんのところが前の「布袋屋」さんだった。
山下さん あそこは菱屋さんの天利さん(注)の地所なんだよね。戦後は甘利さんが借り上げ所をやっていて、それをタカミさんが買ったわけだ。(注)菱屋さん(天利さん)は三丁目にある洋装小間物屋で五丁目に今もかなりの地所を所有している。
相川さん 聞いた話だが、なんでも私のそのときの主治医の話だと、あのとき高見さんは地所付きの天利さんの家を普請するということバラックをあそこへ建てたんですよ。それを私が三丁目から、大八車二台で両方へつけて、下ヘ丸太をかまして、家をそのまま乗っけてきた(一同、大笑い)。のんきなもんだよ。また、おばあさんも何にも言わないんだ。「あ、動いた」なんて、丸太の上に乗っけてね、引いてきたよ。そこへ着いたらダーっと下ろして、あとはコウロ(ジャッキのようなもの?)でグイグイっとあげて、奥へ。菱屋さんの家を持ってきた。
山下さん ええっ? 大八車に乗るような小さなうちだったんですか。
相川さん だから下へ縁台人れて。
馬場さん (大八車に)台を乗っけて、その上に(うちを)乗っけてきたの。
佐藤さん じやあ、道路いっぱいだった?
相川さん ほとんどいっぱい(一同笑)。そのころは終戦の直後で原っぱ同然だから。のんきなもんですよ。
馬場さん 強盗が出たって(平気? 一同笑)。
相川さん だから、いまの先生に話をすると、「ああ、そうだったな」つて思い出しますよ。三丁目のシサンっていう(かしら)がいるんですけど、「お前んところの町内へうちの天利さんが仮ごしらえでいくんだけど、「俺はあんなのは壊さなきやだめだ(と思うよ)」と言ったら、「いま壊そうにもお金かない。なんとかうまく運べる方法を考えてくれ」と言われたんだ。「お前、どうする?」って言われて、それで私のところへ来ていた若い衆が、「一か八かやってみますか」って。床をすっかり取っ払ってね、丸太で縁台をこしらえて、それで乗っけてきたんですよ。
佐藤さん じゃあ、土台はしっかりしているんですね、昔の家だから。
山下さん バラックでしょ。要するに、堀っ立て小屋だから動いたんだよね。でも、ちゃんと人間が住めるようになっていたんだよ。

タカミ 高見さんでしょう
布袋屋 ほていやと読みます
甘利さん 天利さんでしょうか

ほていや

 明治35年、西村酔夢氏が『文芸界』に書いた「夜の神楽坂」で芸妓の服装は

服裝(ふくさう)  と()たらあはれ(、、、)(もの)で、新柳(しんりう)二橋(にけう)藝妓(げいしや)衣裳(いしやう)三井(みつゐ)大丸(だいまる)(あつら)へるのと(ちが)ひ、これは土地(とち)石川屋(いしかはや)ほていやなどで(こしら)えるのだが、()(やす)(かは)りに、(がら)(わる)ければ品物(しなもの)(わる)くて、まあ()()いた田舎的(ゐなかてき)だ、

と酷評しています。また「ほていや」はこの写真の中心にあります。

うを匠 鱻(神楽坂TNヒルズ)

文学と神楽坂

 現在、神楽坂5丁目3番地という地籍はありません。3番地に当たる地域は「東京貯蔵銀行」「東洋電動」、現在「うを匠 鱻」(現、1番地2)でした。なお、4番地は昭和12年でもなく、5番地は相馬屋でした。漢字の魚が3つ並んだ鱻は「せん」と読みます。うを匠の場所はここ。 うを匠は女性客で一杯。行った時は9割が女性でした。ちょっと上品で、ちょっと安くて美味しい。

神楽坂5丁目(1)

 下に神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」を一部を掲げます。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。

相川さん そのが「東京貯蔵銀行」がありまして、そこの行員さんが出人りするところが三尺ほど空いていましたよ。東京貯蔵銀行の社長は原クニゾウさんという方でしたよ。
馬場さん それが「東洋電動」になる。
相川さん 原クニゾウさんは茅場町の「田中貴金属」の社長さんとお友達で、親友には売ってくれるんだってことで田中さんに売ったんですよ。終戦後、長いこと空いていましたね。金融でなければいいだろうってことで、三井系の東洋電動っていうのがね。これは洋食屋さんのストーブやなんかをこしらえる、なんていうんですか、あれは?
馬場さん オーブン。
相川さん 東洋電動はそういったものをこしらえる会社なんです。あそこは本社機能で、事務を執っていたわけです。そこに(土地を)売りましてね。現在の入口のところ、大正七年清水組が工事により貯蔵銀行が出来たのです。「相馬屋」さんの地所が人口に引っかかってたんです。私も記憶がないんですけど、何坪かが引っかかっていた。それでハスマンに相馬屋さんの方に寄って、地所が入っているような形。

 以下は相馬屋から東京貯蔵銀行に土地を売る問題です。問題なく終わりました。

相川さん それで「小林」つていう人が田中貴金属から譲り受けるときに、相馬屋さんの地所が入っているということがわかったんでしょう。原さんに聞いたら「そうなんだ、ずっと借りてるんだ」と。これはマズイってんで売ってもらえないかという相談が私のところにきました。当時相馬屋さんは椎名町に自宅があり、神楽坂の店は間引き疎開に指定され、椎名町に移り住んでいた訳です。そこへ私が(土地のことを)聞いたから、「実は東洋電助が、お宅の地所がかかっているから整備上一本にしたいので譲っていただけませんでしょうか」という交渉を、私と「小林」つていう人と二人で行って頼んだんです。
ところが亡くなった先代が、今の旦那のお父さんですね、「私は番頭に任せている」と。黒田という番頭さんがいたんです。相馬屋さんには三人の番頭さんがいて不動産や何かを扱っている大番頭がいてね、その方が中野の野方のほうにいるから、それで相馬屋さんに教わって黒田さんとこに行ったんですよ。ところがあいにくいなくてね、旦那からのご紹介で相談してみてくれという話なんだけど」と言ったら、「それじゃ、二、三日のうちに店の方へ行きますから、それで旦那によく確かめてお話してみましょう」ということになって、トントンときまして。そんときに私は坪数を聞きやよかったんだけど、全然聞かなかったのね。銀行との地境についてはほとんどが相馬屋さんの土地であり、相馬屋さんが使用することがなかった関係で銀行に共同利用してよいという許可を与えていた訳です。結局、部分的に相馬屋さんが銀行に無償で貸していたのでね。昭和五年時分には相馬屋さんは横に内玄関があり、店から出入りしないようになっていたのです。

 5丁目3番地です。
ハスマン 「ハスマン社」だとすると、米国の業務用冷凍・冷蔵ショーケースのメーカー

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)


岩座とハピマルフルーツ神楽坂

文学と神楽坂

 正面の岩座(いわくら)と、その左側はハピマルフルーツ神楽坂です。岩座は祈りのパワーストーンと和雑貨の店です。地図で岩座はここハピマルフルーツ神楽坂はここ

岩座とフルーツ店

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」ではこの現在は岩座店である上田屋と現在はフルーツ店の浜田屋メリヤス店の跡地を巡って話が進みます。
 なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務、「山下さん」は山下漆器店店主です。
 この2店とも5丁目8番地です。最初は昔の岩座です。

馬場さん それで寺内に入る横丁になるんですよね。
相川さん はい、そうです。寺内に入る横丁です。
馬場さん そして、隣がいまの遊馬さんのところで「ウエダ履物店」。
相川さん そのあと「キクヤ」つていうレコード屋でしたね。
馬場さん そのキクヤのレコード屋と、寺内の突き当たりにあった「キクヤ」というお汁粉屋は?
相川さん そう同じ人です。レコード屋をやめて、お汁粉屋になった。「大橘」っていう割烹料理屋のところが空いたんで、そこへ引つ越した。それでお汁粉屋をやったんです。

 次は2020年後半にできたハピマルフルーツ神楽坂。いちご農家から元々できて、生フルーツゼリー、フルーツサンド、ベリーソフト、フルーツパフェ、フルーツジュース等を売っています。昔は浜田屋から立ち食いそば屋、そして、ハピマルフルーツ神楽坂といっていました。

馬場さん それから隣が「浜田屋」さん。
相川さん はい、浜田屋さん。「浜田屋メリヤス店」。
山下さん うちの長男坊が浜田屋さんとこの息子さんと友達でね。
相川さん あれは、妹さんのご亭主。浜田屋さんのおうちはね、娘が二人だった。お姉さんの方のご養子は問屋あたりを回っている。小売はあまりしなかった。小売の方は、お父さん、お母さん、それから自分のおかみさんとに任せておいて、自分は問屋の組合のことだのを専門にやっていたんです。それから、妹さんのご亭主がそのあとを引き受けたんですね。戦争中はお姉さんの方の家族は早くに疎開しちやった。そのあとに義弟さん夫婦が入って、あそこでやってて、売ったわけですね。そうそうそう。
馬場さん 浜田屋さんところはいまの? 青山さん(注)のところ。

(注)現在も青山さんは立ち食いそば屋さん。

時代←北西南東→
震災前洋品浜田屋はき物上田屋
昭和5年頃浜田メリヤス店
昭和27年パチンコ精肉 恵比寿亭
昭和35年中華来々軒
昭和45年
昭和55年中国料理 曳花
平成2年立喰そば 青山恵比寿亭ビル
平成8年青山そば IDOプラザ(au店)
平成16年閉店岩座
平成20年ハピマルフルーツ神楽坂
来々軒

丸屋跡

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では丸屋跡について次のように話が進みます。
 なお、「相川さん」は大正二年生まれで、棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。足袋の丸屋と万長酒店は5丁目7番地でした。

 なお、丸屋の場所はこれぐらいでしょうか?

神楽坂5丁目(1)

マルヤ

馬場さん 相馬屋さんがあって、「万長」さんがあって、「マルヤ」という樽屋さんがあって。樽屋さんはずっと裏まであったんですか?

 この対談では「マルヤ」はたる屋になっていますが、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」や新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、「マルヤ」は足袋たび屋になっています。おそらく聞き取りによる「肴町よもやま話」の樽「たる」よりも、古老達や郷土研究会による足袋「たび」の方が正しかったのでしょう。

相川さん いや、そうじやないですよ。曲がっているんですよね。いくらもないんですよ。
馬場さん 昔、うちの台所が半地下みたいになってましてね、それで、向こう側に玄関があって。
相川さん 通り(*)に面した玄関でしょう。それに木戸があった。その木戸でマルヤさんはおしまいです。だから奥行きはそんなにないんですよ。
* 現在の勧信とauの横丁が寺内に入る横丁
馬場さん じゃあ、うちは玄関が?
相川さん もう三尺あったわけ。そこに玄関があったんですよ。
馬場さん うちで裏を直しだのはいつごろだったんですか?
相川さん オイドのおばちゃんが嫁いでくる前ですよ。あれかできあかってからお嫁に来たんだから。おばちゃんが嫁いでくるについてあそこを手入れしたんですよ。なぜって裏がね、いまの敏夫さん(当時のご主人)の住まい、蔵の泥が落っこちてしょうがない。それとネズミが出てしょうがないっていうんで、蔵の土を全部落っことして、今度は板張りにして、その上にトタンをはったですよ。蔵ん中にね。ネズミが(こも)を食べてしょうがないんですよ。そのときに中の改造をしたんです。お店の後ろのお座敷のところなんか、みんな改造したんですよ。
馬場さん 奥の離れは、築地のマイナスロウの部屋とおんなじに造れって左官屋さんにやらせてね。
相川さん 階段を下りると、下と二階があって、小粋なうちでしたね。寺内に入ってからすぐ右のところに裏木戸がありましたね。土間は玉石だったですね。

オイド 東京方言で「尻」の意味。韓国では土地名のオイド(烏耳島)のこと。
 こも。マコモを粗く編んだむしろ。現在はわらを用いることが多い。こもむしろ。
マイナスロウ 意味不明です。

 その後、戦後、昭和27年に丸屋は倉庫になり、30年頃には万長酒店に合併されていきます。

ポール

文学と神楽坂

 現在、神楽坂5丁目2~3番地という地籍はありませんが、本来の2番地はおそらく昭和初期の大和屋から小谷野モスリンまでの地域で、現在のフランスのパンづくりの老舗ポール(Paul)等の神楽坂テラスです(現、1番地2)。3番地はおそらく「東京貯蔵銀行」「東洋電動」「うを匠」などの地域。4番地は昭和12年でもありません。なお、相馬屋は5番地でした。

神楽坂5丁目(1)

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 大和屋から小谷野モスリン店までの比較的広い場所が集まって神楽坂テラスになりました。神楽坂テラスの場所はここ。

 神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業中)(当方の注。Miss Urbanもなくなり、「おかしのまちおか」になっています)

馬場さん それで、漆器屋(大和屋)さんのあとに(当方の注。5丁目2番地)、「つくし堂」っていうお菓子屋さんが入ったのね。
相川さん 戦争で焼かれてからいなくなっちやってね。焼かれるまではいましたよ。その隣がね、額縁屋さんとブロマイドを売っていたうちがありましてね、そのあとすぐに「神楽屋」というメリンス屋さんがありましてね、それがちょうど。
馬場さん 「魚金」のとこだ。
相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新(よしん)」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧信(注)のところまでつなかっているとこだ。(注)この勧信は現在の百円パーキング
佐藤さん じやあ、魚金さんのところの路地は戦前からずっとあったんですか?
相川さん ああ、あったね。魚金さんの手前、勧銀さんに寄ったところに「小谷野モスリン店」ってモスリン屋さんがありましてね。その隣が「東京貯蔵銀行」がありまして、そこの行員さんが出入りするところが3尺ほど空いていましたよ。

 吉新については出口競氏の『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で

區役所前の吉熊(よしくま)は今は無慘や、代書所時計店等に()してゐるが、区外の人々にも頷かれる有名な料理屋でかつては一代の文星紅葉山人が盛んに大尽を極めこんだことが彼の日記にも仄見える。此店の営業中慣例のやうに開かれた早稲田系統の諸会合も今は其株を吉新(よししん)にとられてしまつた。

と書かれています。こちらは「よししん」と読むようです。

「神楽屋メリンス」について、大宅壮一氏は『モダン層とモダン相』(大鳳閣書房、昭和5年、1930年)の1章「神楽坂通り」を書き

神楽坂の通りを歩いていて一番眼につくのは、あの芸者達がお詣りする毘沙門様と、その前にあるモスリン屋の「警世文」である。この店の主人は多分日蓮凝りらしく、本多合掌居士を真似たような文章で「思想困難」や「市会の醜事実」を長々と論じたり、「一切の大事の中で国の亡ぶるが大事の中の大事なり」といったような文句を書き立てた幟りを店頭に掲げたりしているのを道行く人が立停って熱心に読んでいるのは外では一寸見られない光景である。これが若し銀座か新宿だとすると、時代錯誤であるのみならず、又場所錯誤でもあるが、神楽坂だとそういう感じを抱かせないばかりか、その辺りの空気とびつたり調和しているようにさえ見えるのである。

 現在の店舗、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」、昭和12年と昭和27年の「都市製図社」「火災保険特殊地図」、1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)、住宅地図(昭和55年)を加えると、こうなります。上州屋から東京貯蓄までの5店舗が、現在の3店舗に減っています。

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)