カテゴリー別アーカイブ: 神楽坂5丁目

愛がいない部屋|石田衣良

文学と神楽坂

 石田衣良氏の『愛がいない部屋』(集英社、2005年)です。始めに「おわりに」を紹介します。ここに本を書いた意図が書かれています。

 恋愛短篇集もついに三冊目になりました。
 これまでは二十代、三十代と年齢別に書いてきたけれど、今度はどうしよう。では人生のある時ではなく、場所を限定して書くことにしよう。それなら超高層の集合住宅がおもしろそうだな。東京では百を超えるガラスとコンクリートの塔が空をさしています。今の時代を映す背景としてぴったりだし、一棟のマンションに舞台を圧縮することで、さまざまな対比が鮮やかに描けるかもしれない。
 タワーマンションが建つ街は、以前住んでいた神楽坂にしよう。その名も「メゾン・リベルテ」。自由の家という名のマンションに住む、そう自由ではない人々の暮らしを、これまでよりすこしだけリアルに書いてみよう。この本はそんな気もちで始めた連作集です。

 では、最初の「空を分ける」から

「このマンションは二年まえに竣工しました。計画段階では、地元の住民から超高層への反対運動がありましたが、今では問題なく周辺住民とスムーズにいっています」
 扉が開くとエレベーターの奥は鏡張りだった。防犯対策だろうか。
「どうぞ」
 ボタンを押したまま成美がいった。階数表示がつぎつぎと点滅しながら、操作盤を駆けあがっていく。梨花は息をのんで、耳抜きをした。こんな贅沢なマンションに住めるのも、割安なルームシェアのおかげだ。梨花ひとりではとても手のでる物件ではなかった。建物の案内は続いている。
「当初の計画では地上四十三階建てでしたが、話しあいの結果、地上三十三階となり、公開緑地を多くすることで落ち着きました。最上階は展望室と来客用の宿泊施設などです。ほとんどは分譲ですが、賃貸物件もいくつかあります」
 エレベーターは十九階で停止した。中央の吹き抜けを内廊下が四角くかこんでいた。博人は手すりから顔をのぞかせ、したを見おろしてから、ガラスの屋根を見あげた。梨花も同じようにする。遥か下方に放射状に大理石の組まれた明るいロビーが落ちていた。博人はのんびりという。
「うえを見ても、したを見てもきりがない。なんだか、このマンションだけでひとつの街みたいだ。ぼくたちは中の上くらいのところに住むんだな」
 梨花はうなずいて博人の横顔をそっと見つめた。広告代理店のクリエイターがどんな仕事をするのかよくわからないが、ものをつくる人の細やかな神経を感じさせる横顔だった。廊下の先から成美が声をかけてくる。
「こちらです。どうぞ」
 部屋番号は1917号室だった。梨花は贅沢な共有部分から、ため息のでるような室内を想像していたが、ドアのなかは案外普通のつくりだった。ロビーと同じ大理石は張ってあるが玄関は狹く、まっすぐ奥に延びる廊下も余裕たっぷりというわけではなかった。不動産会社の女は、天井まで届くシューズクローゼットを開けて、配電盤のブレーカーをあげた。先に立って部屋にあがり廊下をすすんでいく。図面に目を落としていった。
「廊下の左右に個室がひとつずつあります。六畳と変形の七畳で、どちらも大容量のクローゼットがついています。全部で六十平米ちょっとの2LDKになります」
 博人と梨花はドアを開けて室内を確かめた。どちらの部屋も窓は吹き抜け側にあいているので、それほど明るくはなかった。天気の悪い日には昼間でも照明が必要だろう。

ルームシェア roomshare。ひとつの住居を他人同士が、共同で借りたり、共有して居住すること
公開緑地 地方公共団体の条例要綱等に基づき、土地所有者と地方公共団体などが契約を結び、緑地を一定期間住民の利用に供するために公開するもの。
クリエイター 創作家、制作者。広告クリエイターとは広告制作でコピーライトやCMプランニングを中心に行う人。
シューズクローゼット Shoe Closet。玄関で靴を入れるための収納箱。下駄箱
クローゼット 衣類を仕舞う洋風の空間。押入れ。
LDK リビングルーム(居間)とダイニング(食堂)とキッチン(台所)

アライバル社の広告から(https://www.arrival-net.co.jp/article/condominium/kagurazaka_einstower/)

 建物のモデルは「神楽坂アインスタワー(Eins Tower)」なのでしょう。これは神楽坂五丁目にあり、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションで、普通の分譲マンションではありません。2018年、67.37㎡の価格は6,180万円。なお、ドイツ語のeinsは「ひとつ、1」。
 東急リバブルの広告では……「タワーマンション特有の共用施設の充実、フロントサービス、24時間有人管理、24時間総合監視システム、オートロック、防犯カメラ、モニター付きインターホンと徹底した安全管理体制が設けられています。室内はバリアフリー、ディスポーザー、カウンター付きシステムキッチン、オートバスなど生活設備も充実しています」

 さて別の章「いばらの城」では

アライバル社の広告から


「なんて名前」
「メゾン・リベルテ神楽坂。ほらもうさっきから見えてるよ」
 茂人は美広の指さす空を見あげた。白く輝く積乱雲を背に、この街には似あわない巨大な超高層ビルが灰色の切り絵のように空を占めている。
「あんなところか。すごく高いんじゃないの」
「部屋によってはそうでもないみたい」
 その物件は神楽坂上の交差点近くに建っていた。周辺の公開緑地もかなりの広さがあリ、ちょっとした公園なみである。エントランスはホテルのように広々としていた。中央が巨大な吹き抜けになったロビー階には、ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋まである。休日のせいか オープンカフェの日傘のテーブルはほとんど埋まっていた。一番端の席に、妙に目立つ真紅のストールを巻いた小柄な老女が座って、こちらをじっと見つめていた。

オープンカフェ 道路側の壁を取払ったり店の前に客席を設けたり、開放的な演出を凝らしたカフェやレストラン。
ストール 婦人用の細長い肩掛け

 残念ながら、神楽坂アインスタワーには「ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋」はありません。 

地上の楽園|杉本苑子

文学と神楽坂

 杉本その氏は東京市牛込区(現東京都新宿区)若松町に生まれた小説家です。吉川英治に師事し、歴史小説を発表。1963年、「孤愁の岸」で直木賞を受賞。現在まで大量の歴史小説は書いているのですが、それ以外の随筆やインタービューは極めて稀か、書いても全集等には載りません。生年は1925年6月26日、没年は2017年5月31日。享年は満91歳。これは神楽坂に関するインタービューです。

地上の楽園    杉本苑子 作家
 ハイカラに神楽坂でココア

  お年玉のギザ(50銭硬貨)を握りしめ、岩波文庫を読んだ。文学という病に取りつかれるまでの幸せな日々は、両親と歩いた神楽坂の縁日や新宿の雑踏の淡い記憶に彩られている。

 ――全集が刊行中ですね。
 二十二巻あっても、入るのは書いたものの半分ですね。習作時代からだと五十年。木の机なんか体の形にすり減ってるの。
 二十代の初めに小脱を書こうと志し、まっすぐにきてしまった。物語に打たれ、触発され、ものを考え出すようになってからは、どこへ行っても、何をしていても、深刻な無念や憎悪、外的・内的な怒り、屈託というものがいつも一緒だった。
 ――早熟な子だった。
 英語が敵性語とされ、短歌が必修科目になったときの女学校時代に「思うこと無げに遊べる童らよ找にもありきかかる遠き日」という歌を作った。十四、五歳の小娘が「かかる遠き日」なんていうのは生意気だけど、ちょっとおませな子どもだったら、子どもなりのもの思いが生じてくる。そういう悩みがまつたくなかったころだけが、楽園だという思いは今も同じ。
 ――楽園の風景は?
 あなたがたは戦前世代というと、もんぺで雑炊、空襲と条件反射みたいに想像するけど、大正末年生まれの子ども時代は、クリスマスだってお正月だって今と同じですよ。東京の小さな薬屋の娘だったわたしでも、よそいきは真っ赤なビロードの生地にウサギの毛のついたオーバー。赤い靴に子ども用の帽子、ハンドバッグはブロンドのフランス人形で、背中にファスナーがついていて、ハンカチとかキャンデーが入れられるの。
 ――ハイカラですね。
 神楽坂のビシャモン縁日に、両親に連れられてよく出かけたものです。お参りの人と夜店とで明るい活気があった。とくに紅家という子どもの目にもモダンな喫茶店があって、そこでケーキを食べてココアを飲むのがとっても楽しみだった。大きならせん階段があるの。その木の手すりに乗っかってツーッて滑り降りたわ。
 両親も若かったし時代にも関東大震災からの復興の雰囲気があった。あのころのビシャモンの縁日のにぎわいを思い出すと、いい雰囲気の幼児期だったなあって思いますよ。
 ――そんな子がなぜ文学へ。
 どうしてでしょうねえ。やみくもに小説が好きだった。お年玉をもらっても、岩波文庫を買って読みふけっていた。『幸福な王子』『青い鳥』だとか、子ども心にどれだけ打たれたか。小説の持つ力を、もしわたしのものにできたらと思ったのかもしれません。
 子どもの時から、長生きはしないだろうなあと予感して、自分の限られた時間は自分ひとりのためだけに使おうと決めた。夫とか子どもなど執着の対象を持つと、どうしたって時間がとられるでしよ。そういうのはいやだったの。エゴイストよね。
 ――死後は家も何もかも、熱海市に託すとか。
 ええ、本当にさっぱりした。物欲も生への執着もあまりない。もともと生存本能が淡いのかも。来世とか前世は信じてないけど、無だった状況から間違って生まれてきたような気がしてしようがない。わたしの作品にも、そんな虚無感がずっと通っている気がします。
(朝日新聞。1998.1.8.)

ビロード パイル織物の一種。綿・絹・毛などで織り、細かい毛をたて、なめらかでつやのある織り方。ポルトガル語のveludo、スペイン語のvelludoから来たもので、ベルベットvelvetと同義語。
ビシャモン 日蓮宗鎮護山善国寺毘沙門天。東京の縁日発祥の地です。
縁日 特定の神仏に縁のある日。有縁うえんの日。その日に参詣すると、特別な功徳があるという。
紅家 正しくは紅谷
『幸福な王子』 英国作家O・ワイルドの童話。1888年刊。黄金の王子像がツバメを通して黄金や宝石を貧しい人たちに配る。像は火に溶かされるが、美しい心臓だけは残ったという。
『青い鳥』 メーテルリンクの戯曲。六幕。1908年初演。チルチルとミチルの兄妹は、夢の中で幸福の使いである青い鳥を求める。翌朝目覚めて、鳥籠に青い鳥をみつけ、幸福は身近にあることを知る。

行元寺の仇討ち|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、元は肴町(現在は神楽坂五丁目)にありました。この行元寺の柳の下で、仇討ちがおよそ250年前にありました。第10代将軍の徳川家治の頃です。
 明和4年(1767年)9月、下総国相馬郡早尾村(現在の茨城県結城郡)で百姓2人が口論になり、組頭の甚内は、百姓の庄蔵を殺しました。しかし、甚内の処罰はなく、5か月以内に甚内本人もいなくなっています。
 それから16年経ち、天明3年(1783年)、庄蔵の長男、富吉(28歳)は行元寺で甚内を発見。甚内(49歳)は御先手浅井小右衛門組同心の二見丈右衛門と称していました。一方、富吉は剣術家の戸賀崎熊太郎の下僕になり、10月8日、富吉は下図で見られるような柳の下で甚内を殺害しました。
 これは「天明の仇討」として有名になり、その結果、戸賀崎氏の門弟は3000人以上に増えたといいます。一方、富吉では、『新撰東京名所図会第41編』によれば、「初根來喜内亦麾下士也、從戸賀崎學、愛富吉爲一レ人、欲延爲臣隷、富吉固辭不就、至是、又欲祿百石」(17頁上)。うーん、よくわからない。好村兼一氏の小説「神楽坂の仇討ち」(廣済堂、平成23年)では「その後、ごろ喜内という旗本に禄百石で召抱えられた」とハッピーエンドに終わっています。

麾下 きか。将軍じきじきの家来。はたもと
臣隷 しんれい。召使い、使用人。

 事件後、「大崎富吉復讐の碑」ができ、表に法華経の「念彼観音力 還著於本人」が描かれ、さらに、法事三十三回忌(文化12年、1815年)には裏面をつけ加え…

  癸卯天明 陽月
  二人 不戴 九人
  同有下田 十一口
  湛乎無水 納無絲
      南畝子 願主 休心

 と行元寺住職の依頼を受け、大田南畝(蜀山人)が記しています。現在、この碑は品川区西五反田の行元寺の中にあります。

[現代語訳]観音菩薩の力を念ずれば かえって自分に報いをうける
  天明3年10月8日  天を戴かざる仇は誰か
  (討つのは)富吉  (討たれるのは)甚内
    大田南畝  安心を願う

念彼観音力 ねんぴかんのんりき。「法華経」の言葉。「観音菩薩の力を念ずれば」
還著於本人 げんじゃくおほんにん。「法華経」の言葉。還って本人に著きなん。「かえって自分に報いをうける」
癸卯天明 天明年間の癸卯年。天明三年
陽月 十月の異称
 8日
二人 天という文字
九人 仇。文章は「天を戴かざる仇は誰か」
同有下田 同の下に田の文字は富
十一口 十一口の文字は吉。文章は「富吉」
湛乎無水 湛に水が無いの文字は甚。
納無絲 納に絲が無いの文字は内。文章は「甚内」
願主 神仏に願をかける当人。ねがいぬし。
休心 心を休める。安心する。

行元寺|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年以降は品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。なお、地図などでは「行願寺」と書くともありますが、正しくは「行元寺」です。

江戸名所図会』では……

牛頭ごずさん行元寺ぎょうがんじ
千手院と号す。同所神楽坂の上、寺町道てらまちみちより右にあり。天台宗東叡山に属す。本尊千手観音大士の像は恵心僧都の作なり。(襟懸えりかけの本尊と称す。)慈覚大師を開山とすと云ふ。(土俗伝へ云ふ、当寺昔は大刹にして、総門は今の牛込御門の辺にありて、神楽坂その中門の旧跡なりしとなり。大永たいえい兵乱堂塔破壊はいす。その頃のものとて古き大般若経を秘蔵せりと云ふ。昔門の内左右に南天樹なんてんじゅ多かりしとて、世俗今も南天寺と字せり)本尊縁起に云く、右大将頼朝卿石橋山合戦の後、安房上総を歴て下総国より、この国に打ち越え給ふ頃、尊前に通夜す。その夜の夢に、頼朝卿自らこの霊像を襟にかけたてまつり、源家の武運を開くと見給ふ。後、果して天下を一統せられたりしより、頼朝襟懸の尊像と称へ奉ると云々。

[現代語訳]○牛頭山行元寺
号は千手院。その場所は神楽坂の坂上で、通寺町(現在は神楽坂6丁目)の道の右側に当たる。天台宗東叡山に属する。本尊の千手観音像は恵心僧都の作で、襟懸の本尊という。開山は慈覚大師。この土地の住民によると、かつては巨大な寺で、総門は今の牛込御門の辺りで、神楽坂は中門の旧跡だったという。大永の乱で堂塔は破壊されたが、当時のものとして、古い大般若経を所蔵する。また、昔、門の左右に南天の木が多く、南天寺と呼ばれる。本尊の言い伝えによると、石橋山合戦で源頼朝が敗れ、その後、安房、上総を経て下総国から、武蔵に入国した。頼朝は行元寺の前で夜中に祈願したが、その夜、夢の中で、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、予想通り、天下は統一し、頼朝襟懸の尊像と呼ばれたという。

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌で、神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成された。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説している。7巻20冊から成り、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版された。
恵心僧都 えしんそうず。源信げんしん。平安中期の天台宗の僧。
襟懸 衣服の首回りの部分にひっかける。ぶらさがる。
慈覚大師 平安時代前期の僧。遣唐使の船に乗って入唐。帰ってから天台宗山門派、天台密教の祖。
土俗 その土地の住民
大永 1521年~28年。室町後期の年代。
兵乱 大永の内訌ないこうでしょうか。戦国時代初期の大永年間に起こり、18代当主の宇都宮忠綱と芳賀氏の家臣団との対立で起こった下野宇都宮氏の内訌のこと

堂塔 どうとう。堂と塔。仏堂や仏塔など
大般若經 大乗経典。600巻。唐の玄奘げんじよう訳。別々に成立した般若経典類を集大成し、最高の真理(般若はんにゃ)から見るとすべてのものは実体がないくうだという教えを説く。
南天樹 ナンテン木の異称(右図を)
縁起 社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。事物の起源や由来。
石橋山合戦 平安時代末期の治承4年(1180年)、源頼朝と平氏方での戦い。敗北した源頼朝は船で安房国へ落ち延びた。
安房国、上総国、下総国 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。
通夜 神社や仏堂にこもって終夜祈願すること。

『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、1904年)でも内容はほとんど同一です。

   ●行元寺
行元寺ぎやうげんじは。牛込肴町三十九番地に在り。牛頭山と號す。天台宗にして東叡山寛永寺の末寺たり。
當寺往古は大刹にて。總門は牛込門の内に在り。今の神樂坂は中門の内にて。其の左右に南天燭●●●行樹なみきありしを以て。俗に南天でら●●●●といひしといふ。赤城神社はもと當寺の鎭守なるよしにて。奉納の大般若經にも。行元寺鎭守と記しありしといへり。大永の兵亂に堂塔破壊せしむね。砂子に載せたり。境内今は大半人家連り。其の表門は小路を入りて。其の奥に在り。書間も之を鎖せり。荒凉想ふべし。
開山は慈覺大師にて。其の本尊千手觀音は。惠心僧都の作。俗に襟懸●●觀音●●といふ。
本尊の緣起に云。右大將賴朝卿石橋山合戰の後。安房あわ上總かずさを歴て下總國しもうさより此國に打越給ふ頃。尊前に通夜す、其夜の夢に賴朝卿自ら此靈像を襟にかけたてまつり。源家の武運を開くと見給ふ。後果して天下を一統せられらりしより。賴朝襟懸の尊像と稱へ奉る云々。
[現代語訳]行元寺は、牛込肴町(現神楽坂五丁目)39番地で、号は牛頭山。天台宗で東叡山寛永寺の末寺である。
  古くは大きい寺で、総門は牛込御門の内側、現代の神楽坂は中門の内側にある。その左右にナンテンの並木があり、俗に南天寺という。赤城神社はもとこの寺を守護する神であり、奉納した大般若経に行元寺を守護すると書いてある。大永の乱に堂塔は破壊したと、『江戸砂子』はいう。現在の境内の大半は人家がはいり、この表門は小路の奥にある。昼間も門は閉鎖中で、荒凉を想うべきだ。
 開山は慈覚大師。その本尊千手観音は、恵心僧都の作で、俗に襟懸観音という。
 本尊の縁起では右大将源頼朝は石橋山合戦の後、安房、上総を歴て下総から武蔵に入国し、この尊前で通夜した。この夜、夢を見て、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、案の定、天下を統一したので、賴朝襟懸の尊像という。

牛込門 牛込御門(牛込見附)と同じ。br /> 書間 昼間。日中。太陽の出ている間。
荒凉 荒涼。こうりょう。さびれた、荒涼とした
襟懸 えりがけ。襟がけとは、襟の中に金銭など大切な物を縫い込んだこと。
頼朝 源頼朝。みなもとのよりとも。鎌倉幕府の初代将軍。
石橋山合戦 平安時代末期に源頼朝と平氏方との戦い。頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫し、安房国へ落ち延びた。
南天燭 ナンテンの異称

行元寺|縁起

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年、品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。
 さて、江戸幕府は文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、文政12年(1829)に完成しました。ここで史料としては「文政ぶんせい寺社じしゃ町方まちかた書上かきあげ」を提出せさました。江戸の町々や寺社から起立や由来などの詳細な調査した報告書です。総計は寺社方121冊,町方146冊にもなりました。
 行元寺の史料もあり、国会図書館の「牛込寺社書上」のコマ番号38から50です。うちコマ番号45から50は「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。 
 この略縁起は、寛政10年(1798)、当時の行元寺住持じゅうじだった法印(つまり、最高の僧位)の海澄が作成し、当寺の起立・由緒、十一面千手観世音立像の効験・霊験などをまとめたものです。ちなみに「住持」とは、一寺を管理する主僧のこと。ここには明確な事実と判断できないものもあります。それでは「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。なお、この翻訳は新宿区生涯学習財団の「行元寺跡」(平成15年)に多くを担っています。

牛頭山千手院行元ぎょうがん寺千手観世音縁起
武蔵国豊島郡牛込郷牛頭山千手院行元寺ハ、台家たいけ高祖伝教慈覚両大師の開基累代古跡なり、古へ伝教大師東遊して此地に来り、一宇を建て行元寺と号す。所謂祖師当寺を開き、行法修行のもとなるを以てなり、然るに大師開基なりといへども、台家の法いまだ弘らず、寺号のみにして一宇成がたし、其後慈覚大師また此地に来り、先師開基の故を以て再興ありしより相続し、今に至るまで九百余年、台家不易の寺院なり、依之これを開基と申伝る事誠に故ある哉、祖師伝教当寺に於て不動明上ならびにこん迦羅がらせい吒迦たかの二童子を作り給ふ、代々護摩の本尊として今に鎮座まします、霊験古今に是多し、うや/\うしおもんじれば、本堂の千手観世音恵心大僧都の御作なり、むかし千手の示現ありて堂宇を建立し奉る、よりて千手院の名あり

 寺院の創立者(開基)は 天台宗を開いた最澄(767~822)で、「行法修行の元」であるという意味から「行元寺」と名づけられました。しかし、名ばかりの寺院となっていたところ、延暦寺の円仁(794~864)は当地に下向し、相続して再興しました。実証はできませんが、開基の時期は9世紀末から10世紀頃。行元寺の本尊である十一面千手観世音立像は恵心僧都源信(942~1017)の作で、当寺を千手院と呼ぶゆえんです。

[現代語訳] 武蔵国豊島郡牛込郷にある牛頭山千手院行元寺は、天台宗の高僧である伝教大師(最澄)と慈覚大師の2人が創立したもので、代を重ね、歴史に残る遺跡になっている。かつて伝教大師は東遊して、ここで下向し、棟一軒を建て、行元寺と呼んだ。いわゆる祖師はこの寺を開き、仏道を修行する元だという。しかし、大師は天台宗の仏法を広められず、家以外には寺号しかなかった。その後、慈覚大師は再びこの土地に来て、伝教大師の創立と聞き、再興をして、名前なども受けついだ。今にいたる900年余、天台宗の変わらない寺である。つまり、寺を創立したのは誠に由緒があるといえよう。伝教大師はこの寺で不動明上と、矜迦羅童子と制吒迦童子2人を作り、代々、護摩堂の仏様として今も鎮座している。神仏などの不可思議な力は古今に数多い。恭しく思えば、本堂の千手観世音は恵心大僧都の作品である。むかし千手観音の示現があり、堂の建物を建立したので、千手院の名がついた。

観世音 かんぜおん。観世音菩薩。世の人々の音声を観じて、その苦悩から救済する菩薩
縁起 仏教用語。社寺の由来。起源、沿革や由来。
台家 たいけ。天台宗の別称。
高祖 仏教。一宗一派を開いた高僧
伝教 伝教大師。でんぎょうだいし。最澄さいちょうの諡号。平安初期の僧。767~822。日本天台宗の祖。諡号しごうとは、生前のおこないをたたえ、死後におくる贈り名。
慈覚 慈覚大師。じかくだいし。円仁の諡号。平安初期の僧。794~864。最澄の業績を発展させ、天台宗の密教化に影響を与えた。
開基 寺院を創立すること。創立した人。開山。
累代 るいだい。古くは「るいたい」。代を重ねること。
古跡 歴史に残る有名な事件や建物などのあと。遺跡。
一宇 いちう。「宇」は軒、屋根のこと。一棟の家・建物。
行法 ぎょうほう。仏道を修行すること。
相続 先代に代わって、家名などを受け継ぐこと。
不易 ふえき。いつまでも変わらないこと。
 幷(ヘイ)の異体字。あわせる。ならぶ。ならびに。
童子 寺院へ入ってまだ剃髪ていはつはなく、仏典の読み方などを習って、雑役に従事する少年
護摩 不動明王などの前に壇を築き、火炉かろを設けてヌルデの木などを燃やして、煩悩を焼却し、併せて息災・降伏ごうぶくなどを祈願する修法。
護摩堂 護摩をたき修法を行うための仏堂。
鎮座 ちんざ。神霊が一定の場所にしずまっていること。
霊験 れいげん。人の祈請に応じて神仏などが示す不可思議な力の現れ
千手観世音 せんじゅかんぜおん。千手観音。千手観音菩薩。すべてのものを同時に見で同時に救う菩薩。
恵心大僧都 平安時代中期の天台宗の僧。942~1017。源信和尚。恵心えしん僧都そうずと尊称。
示現 神仏が霊験を示し現すこと。
堂宇 堂の建物。

その右大将源頼朝公伊豆国石橋山合戦の後、安房 上総をて武蔵にいたり給ふみぎり、当寺の千手尊の霊験あらたなるきこし召、しのび通夜し、願文を宝前こめ、終夜源氏の家運を祈給ふ、願書の大意ハ、頼朝みやこ清水寺の千手尊をあがめてより、信敬此尊にあり、あおぎ願ハくハ千手千眼のちかひを以て坂東八箇国の諸士を幕下に来らしめよ、所願の如く満足せば、永く観音の檀那となり、千手の堂宇并に寺院にいたるまで建立し、仏供料を寄附せんとなり、しかるに千葉 小山 宇都宮をはじめ八州の諸士ことことく来集し、相州鎌倉に入り給ふ、其後富士川に於て源平対陣のきざし、当寺の千手また富士中禅寺の千手に終日いのりありていはく、我引卒する所の二十万兵ハ皆是大菩薩の与へ給ふ軍士なれば、平氏を退けん事掌中にあり、いよいよ加護の御ぼうしを廻し勝事を得しめ給へとなり、其夜平氏の兵十万余水鳥の羽音に驚き退散と云々、夫より鎌倉に帰入ありて、願文の如く観世音の堂宇御再興并境内はう十町と定め、仏供料の地を御寄附あり、其後代かハり時移り、旧規の如くならずといへども、代々の将軍家より御朱印寺領頂戴し今に至れり。≪昔ハ大寺にて惣門ハ今の牛込御門の内、神楽坂ハ寺門の内にて、左右に南天の並木あり、俗に南天寺といひしと也≫

 治承四年(1180年)、源頼朝氏が相模石橋山で敗戦し、養和元年(1181年)、富士川の戦いで、行元寺の千手観音像に源家の家運を祈ると、勝利を収めました。なお、品川区教育委員会の行った文化財調査では、千手観音像は鎌倉末期から南北朝期の作とわかり、現存する千手観音は源信作ではなかったと判明しています。
 なお、≪≫は割注で、wordでは簡単に作れますが、htmlでは簡単に作れません。

[現代語訳]その昔、右近衛大将 源頼朝公は伊豆国の石橋山合戦の後、安房、上総をへて武蔵に渡り、ここでこの寺の千手観音の霊験ははっきりと現れると聞き、人目を避けて夜中祈願した。仏の前に願文を置き、泊まり、終夜源氏の家運を祈ったのである。その大意は、頼朝は京都の清水寺の千手尊をあがめ、尊敬できるのはこの仏だけだという。千手千眼の誓いを聞き、関東8か国の諸士を幕下に参集を祈る願文を掲げ、結願した暁には、末永く観音の寄進者となり、千手堂や寺院にいたるまで建立し、仏具料を寄附しようという。すると、千葉・小山・宇都宮をはじめ関東8か国の在武士団が次々に参向し、相模国鎌倉に入った。その後、富士川で源平対陣があり、当寺の千手尊や富士の中禅寺の千手尊に終日祈って、引卒する二十万兵は全員、大菩薩の与えた軍士であり、平氏を退ける兆候があるという。いよいよ加護の御眸を廻し、勝事を決めたいとしたが、その夜、十万余の平氏の兵は水鳥の羽音に驚いて、退散したという。これで頼朝公は鎌倉に帰り、願文の内容と同じように、観世音の建物を再興し、境内は十町四方と定め、仏具料の土地として寄附した。その後、世代が変わり、時が移り、古い規定であるが、代々の将軍家から御朱印の寺領を頂戴して、今にいたっている。≪昔は大きな寺で、正門は現在の牛込御門の内側、神楽坂は寺門(中門)の内側にあり、左右には南天の並木がある。俗に南天寺といった≫

右大将 右近衛大将。右近衛府の長官。武器を持って宮中の警護、行幸の供奉などをつかさどった役所。
 みぎり。とき。ころ。おり。
あらたなる 神仏の霊験がはっきり現れるさま
忍て 人目を避ける。隠れ忍ぶ。
宝前 ほうぜん。神仏の前
籠む 祈念するために社寺に泊まり込む。
信敬 しんけい。信じて心から尊敬すること。
 いや。いよ。いよいよ。ますます。
坂東八箇国 関東地方の古名。相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東8か国を坂東八国という。
所願 しょがん。神仏に願っている事柄。願い。
檀那 だんな。寺院や僧侶への寄付・寄進、布施。
堂宇 堂の建物
八州 かん八州はっしゅう。江戸時代、関東8か国の総称。
相州 そうしゅう。相模国と同じ
 物事が起ころうとする気配。兆候。
掌中 てのひらの中。自分の勢力の及ぶ範囲。
 ひとみ、目を開いてよく見る。
云々 以下略の意味。
 ほう。正方形の一辺の長さを示す語。
旧規 昔からの規則。古い規定。
朱印 江戸時代、将軍の朱印状で、寺領の年貢が免除された寺院や神社
惣門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
寺門 じもん。寺の門。

中比太田備中守入道春苑道灌はじめて江戸の金城を築き、祈願寺を定めんと欲す、時に道灌おもへらく、さいわいに行元寺ハ伝教・慈覚両大師の開基、ことに右大将家祈をかけ源氏擁護の本尊たり、我また同流の源氏なり、祈願寺となすべしとて、金城堅固安鎮の法みな当寺に請て勤めしめ、又金城の落成を賀し、富士見櫓に於て当寺の院主を請じ、種々の布施を給り、自ら愛好する所の挿花瓶名を富士と称する名器を給ふ、所謂わが庵ハ松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見るの歌も此時となん、又当所赤城大明神ハ行元寺の境内にありて鎖守なり。≪其此大寺なればなり≫、応永年中当国六郷の城主松原讃岐守入道沙弥妙讚といふ武士あり、大般若経六百巻を書写せしめ、赤城の神祠に奉納す、応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日に納む、時に当寺の現住等当代なり、巻軸ことに奥書して行元寺住持法印等当とあり≪赤城の神祠はもと当寺の鎮守たる故に大般若経今に行元寺に蔵め有之≫。其後天正年中に、小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に御入あり、時に饗応人不慮に失火して古記録等多く焼失せしとぞ、
かたじけなも寛永年中
大猷院殿の御時、右の古跡こせきの趣を聞し召れ、残る所の領地御朱印を下し給ふ、時の住持ハ伝慶なり、

 次は3つ、新しい事実がでています。1つ目は、太田道灌は江戸城の祈願寺は行元寺に決めたこと。2つ目、松原妙讚という城主は大般若経600巻を書写し、行元寺が所蔵していること。3つ目、北条は没落し、奥様は当寺に来たが、この時に料理人が失火したことです。

[現代語訳]太田道灌は初めて江戸に堅固な城を築き、祈願寺を定めようと思った。その時に、幸いに行元寺は伝教・慈覚両大師が創立し、特に源頼朝は家祈をかける擁護の本尊で、私自身も同流の源氏だという。そこで、行元寺を祈願寺にして、金城堅固安鎮の修法を行い、全員行元寺に祈って仏道に勤め、さらに、江戸城の落成を賀して、富士見櫓で行元寺の院主を招き、種々の布施を行い、自ら愛好する生け花の瓶で名を富士という名器も与えよう。いわゆる「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る」の歌もこの時だろう。また、赤城神社は行元寺の境内にあり、守護神になっている。≪これは大きな寺だからだ≫。応永年間に当国六郷の城主の松原妙讚という武士がいて、大般若経の600巻を書写し、赤城の神祠に奉納した。応永の初めに書写をして、文安元年11月7日に納入した。時に行元寺の住職は等当で、巻軸ごとに奥書して、行元寺の最高僧正は等当だという。≪赤城の神祠はもとはこの寺の守護神で、そこで今でも大般若経は行元寺に収蔵している≫。天正年間に、小田原北条は没落し、その時、氏直の奥様は行元寺にお越しになったが、その時に饗応する人が不注意に失火して、古い記録等は多く焼失した。
 かたじけないが、寛永年間に、徳川家光はこの有名な事件を聞き、残りの領地も御朱印とした。その時の主僧は伝慶である。

中比 まったくわかりません。太田道灌か、文章の一部なのか、不明です。
備中守 律令制で定めた岡山県西部の長官
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
金城 守りの固い城。堅固な城
祈願寺 神仏に願い事を行う寺社
我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 太田道灌が詠んだ歌。意味は「私の家は松林の続く海の近くにあり、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる」
安鎮法 あんちんほう。天皇・親王・将軍の住む邸宅の新築などに際し、その建物の安全や除災、国家の平安を祈る密教の修法。
請う 神や仏に祈って求める。
勤める 仏道に励む。勤行ごんぎょうする。仏事を営む。
富士見櫓 皇居東御苑にある三重櫓。唯一残った江戸城遺構。
挿花瓶 花を生ける瓶。生け花の瓶
赤城大明神 現在の赤城神社。
鎖守 一定の地域や施設を守護する神。
松原讃岐守入道沙弥妙讚 松原妙讚が布施をした。
大般若経 大乗仏教の経典。600巻。
現住 現にそこに住んでいる。またはその住居。
住持 じゅうじ。一寺の主僧を務める。その僧。住持職。住職。
法印 ほういん。僧位の最上位。僧正に相当。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語
饗応人 きょうおう。酒や食事などを出してもてなす人
辱くする かたじけなくする。おそれ多くも…していただく。…していただいてもったいなく思う。
大猷院 だいゆういん。徳川家光の戒名。

そも/\いにしへより今にいたるまで当寺千手観世音の利益を蒙しもの、あげてかぞへがたし。≪右大将頼朝公陣中にて御祈念ありし故、俗に襟懸観音といふ≫、或ハ遠流の罪を蒙りしもの此尊を祈りて速に赦免を蒙り≪貞享年中 山角氏≫、又ハ父の流罪を哀し女、七条の袈裟を自ら縫て住持に贈り護摩を修せしめ、遂に帰国ありて父子相遇ふ事を得たり≪天野氏≫、或ハ重病に沈みし者忽本復し≪上総僧慈観≫、又ハ安産の後絶死せるもの蘇生せしなと≪元禄年中 小笠原氏≫。其外不思議の霊験等住持法印雄賢の記せる本縁起に詳なり、近くハ天明年中にも、与に天を戴ざるの難あるもの、此尊に祈誓し其志を遂げ名を揚し事、諸人のしる所、まのあたりなれば、願ふ所の事一つとして満足せざる事なし、しからばすなハち一心称名観世音菩薩の威神力にハ百千万億衆生の諸苦悩を除き、一たび礼拝供養する輩ハ無量無辺の福徳を得ん事、弘誓深如海歴却不思議の金言疑あるべからず、別してハ武運長久・怨敵退散・諸病悉除・息災延命・諸願成就の霊験響の聲に応じる如し、あおいうやまふへく俯して信ずべしと云尓
  寛政十年戊午孟秋   行元教寺現住法印海澄

 最後は効能です。十一面千手観世音を襟懸そでかけ観音というようです。

[現代語訳]そもそも過去から今日まで、当寺の千手観世音の利益を受ける人は、数多い。≪右大将の頼朝公が陣中で祈念をあげていて、俗に襟懸観音という≫。あるいは遠流の罪を受けた人が、この仏を前に祈ると、あっという間に赦免を受けたという ≪貞享年間で山角氏≫。父の流罪を哀しむ女性は、七条の袈裟を縫って、住持に贈り、護摩を焚くと、ついに帰国し、父と子が逢うことができたという ≪天野氏≫。さらに重病の者も治っている ≪上総僧慈観≫。また、出産時に死亡したが、生き返った人もある ≪元禄年間 小笠原氏≫。その外、人間の理解を越える霊験は最高僧正の雄賢の縁起に詳細に書いてある。近くは、天明年間、一緒にこの世に生きられない人は、この仏に祈誓し、その志を遂げ、名を揚げたことは、庶民が知っているところだ。願う所はすべて満足になる。観世音菩薩の威神力には百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を除去し、ひとたび礼拝供養する人々は無量無辺の福徳を得て、「弘誓深如海歴却不思議」という金言には疑いはない。特に武運長久、怨敵退散、諸病悉除、息災延命、諸願成就の霊験はひびきの声に応じて、仰いで、うやまい、どうかどうか信ずるべきだという。

 そもそも。改めて説き起こすとき、文頭に用いる語。いったい。だいたい。
弘誓 ぐぜい。衆生を救おうとしてたてた菩薩の誓願。
別して べっして。特別であるさま。とりわけ。
云尓 云爾。漢文で、文章の終わりに用いて、これにほかならない。上述のとおり。

善国寺|由来

文学と神楽坂

江戸名所図会』を見ると「毘沙門天」「善国寺」の項はまったくありません。「神楽坂」では「高田穴八幡神社」「津久戸明神」「若宮八幡」で「神楽」をするのはありますが、「善国寺」で音楽が流れたという伝説はまったくありません。「行元寺」「松源寺」はあるのですが「毘沙門天」も「善国寺」もありません。なお、挿絵としてはでてきます。『江府名勝志』にもありません。まず『江戸名所図会』で「神楽坂」は…

○神楽坂
同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所たびしょあり。祭礼の時は神輿しんよこの所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)
[現代語訳。主に新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年を参照]○神楽坂
この神楽坂は牛込御門から外に行く坂である。坂の中途の右側に、穴八幡神社の御旅所がある。祭礼の時は神輿がここに渡ってくる。その時に神楽を奏するのでこう呼ばれたという。(あるいは、津久戸明神が田安の地から現在地に移った時、この坂で神楽を奏したため、または若宮八幡が近く、いつも神楽の音が坂まで聞こえたためとも伝えられる)

 なお、画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。これだけです。

 新宿歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』(平成12年)では

 神楽坂が最も栄えたのは、明治時代になってからのことで、甲武鉄道の牛込停車場ができたのをきっかけとして商店街となり、毘沙門天の縁日の賑わいとも相まって、大正時代にかけて「山の手銀座」と呼ばれました。

また、槌田満文氏の『東京文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)では

 神楽坂毘沙門。神楽坂上の毘沙門天は牛込区肴町〔新宿区神楽坂五丁目〕の善国寺(鎮護山・日蓮宗)境内にあり、本尊は加藤清正の守護仏と伝えられる。縁日は寅の日で、明治28年に甲武鉄道(明治39年から中央線)の牛込駅が出来てからは特に参詣者が急増した。

 つまり、明治28年、甲武鉄道の牛込停車場(つまり牛込駅)ができてから、善国寺の参詣者も増えてきたといいます。

『新撰東京名所図会 第41編』(1904)では

●善國寺
善國寺は肴町三十六番地に在り。日蓮宗池上本門寺の末にして鎭護山と號す。
當寺古は馬喰町馬場西北の側に在りしが。寛文十年庚辰二月朔火災に罹り。麹町六丁目の横手に移る。(今の善國寺谷)寛政九年壬子七月二十一日麻布笄橋の大火に際し。烏有となり。同五年癸丑此地に轉ぜり。
西門を入れぱ玄關あり。日蓮宗錄所の標札を掲ぐ。東門を入れば毘砂門堂あり。其の結構大ならざるも。種々の彫鏤を施して甚だ端麗なり。左に出世稻荷の小祠右に水屋あり。
本尊毘砂門天は。加藤清正の守佛なりといふ。江戸砂子に毘砂門天土中より出現霊驗いちじるしとあり。孔雀經に云。北方有大天王名曰多聞陀羅尼集に云。北方天王像其身量一肘種々天衣。左手。右手佛塔。長一丈八尺。今の所謂毘砂門天の像は即ち是なり賢愚經等に據るに。三界に餘る程のを持ち給ひ。善根の人に之を與ふといふ。是れ我邦にて七福神の一に數ふる所以か。此本尊に参詣する者多きも亦寳を獲むとの爲めなるべし。東都歳事記に。芝金杉二丁目正傳寺と此善國寺の毘砂門詣りのことを掲記して右の二ケ所分て詣人多く。諸商人出る。正五九月の初寅開帳あり。三ツあれば中寅にあり。」とあれぱ明治以前より繁昌せしものと知られたり。
[現代語訳]善国寺は肴町36番地で、日蓮宗池上本門寺の末寺であり、号は鎮護山という。昔は馬喰町馬場の西北側にいたが、寛文10年(1669年)2月に火災が起こり、麹町六丁目の横に移動した(今の善国寺谷)。寛政9年(1797年)7月21日、麻布笄橋の大火では、全て焼失。同五年、ここに移動した。
 西門を入ると玄関で、日蓮宗の登録所という標札がある。東門を入ると毘沙門堂だ。この構成は大きくはないが、種々の彫刻があり、はなはだ綺麗だ。左に出世稻荷の小さな神社があり、右に手を洗い清める所がある。
 本尊の毘沙門天は、加藤清正の守護仏だという。「江戸砂子」では毘沙門天は土中より出現し、霊験はいちじるしく、「孔雀経」では、北方には大天王があり、名前は多聞天という。「陀羅尼集」では北方の天王像では背丈は前腕の長さで、種々な天衣を付け、左の腕は伸ばし、地は支え、右の肘は屈し、仏教の塔を高く持っているという。長さは一丈八尺。今のいわゆる毘沙門天の像はつまり道理にかなっている。「賢愚経」等によると三界にあまる程の宝を持ち、善行が多い人ではこの宝を与えるという。わが国で七福神の一つになる由縁だろうか。この本尊に参詣する者が多いのもこの宝を取りたいためだろう。「東都歳事記」には芝金杉二丁目の正伝寺とこの善国寺の毘沙門詣りのことを記し、この二か所の参詣人は多く、いろいろな商人も出ているという。正月、五月、九月の初寅の日に毘沙門天を開帳する。三つともあれば、「中寅」になるという。明治以前から繁昌したと、知られている。

寛文十年 1670年。江戸幕府将軍は第四代、徳川家綱。
寛政九年 1797年。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。
烏有 うゆう。何も存在しないこと。
日蓮宗錄所 日蓮宗の僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職
結構 もくろみ。計画。
彫鏤 ちょうる。ちょうろう。細かい模様を彫りちりばめること。
水屋 社寺で、参詣人が口をすすぎ手を洗い清める所。みたらし。
江戸砂子 菊岡沾凉せんりよう著。1732年(享保17)万屋清兵衛刊。6巻。府内の地名、寺社、名所などを掲げて解説。
孔雀経 すべての恐れや災いを除き安楽をもたらすという孔雀明王の神呪を説いた経
北方有大天王名曰多聞 北方は大天王有り。名は多聞と曰く
陀羅尼集 諸仏菩薩の種々の陀羅尼の功徳を説いたもの
種々天衣 種々天衣を著す
天衣 てんい。天人・天女の着る衣服
臂執稍拄 臂は伸し稍は執し地は拄す。直訳では「腕は伸ばし、すこし心にかけ、地は支える」。よくわかりません。
 ヒ。肩から手首までの部分。腕
 しっす。深く心にかける。とらわれる。執着する。尊重する。大切に扱う。敬意を表する
 やや。ようやく。小さい。
 体・頭を支える
肘擎佛塔 肘は屈し、佛塔に於いて擎つ。直訳では「ひじは曲がり、仏教の塔では高く持ち続ける」。よくわかりません。
 かかげる。力をこめて物を高く持ち続ける。
是なり ぜなり。道理にかなっている。正しい
賢愚経 けんぐきょう。書跡。中国北魏ほくぎ慧覚えかく等訳の小乗経で全13巻。仏の本生ほんしょう、賢者、愚者に関する譬喩的な小話69編を集める。
 たから。宝の旧字体。貴重な物。
善根 ぜんこん。仏語。よい報いを招くもとになる行為。
東都歳事記 近世後期の江戸と近郊の年中行事を月順に配列し略説した板本。斎藤月岑げつしん編。1838年(天保9年)、江戸の須原屋茂兵衛、伊八が刊行。半紙本5冊。
初寅 正月最初の寅の日。毘沙門天に参詣する風習がある。福寅。
三ツ 正月、5月、9月の最初の寅の日でしょうか。

●毘沙門の緣日
舊暦を用ゐざる吾曹記者は。けふは寅の日なるや。はた午の日なるやを知らず。甲武線の汽車に搭し。牛込停車場に至るに隨ひ。神樂阪に當り。皷笛人を動し。燭火天を燒くのありさまを見。始て其の日なるを解す。乃ち車を下りて濠畔に出れば槖駝師の奇異草を陳じで之を鬻くあり。競賣商の高く價を呼て客を集るあり。諸店はけふを晴れと飾りて大利を博せむとし。露肆は巧みに雜貨を列ねで衆庶を釣らむとす。肩摩轂鑿、漸く阪に上り。身を挺して寺門に入れば毘砂門堂には萬燈輝き。賽貨雨の如し。境内西隅には常に改良劔舞等の看場を開き。玄関の傍にも種々の看場ありて。幾むと立錐の地なし。去て門前の勧業場靜岡館の楼上に登りて俯瞰すれば。賽者の魚貫鱗次の景況。亦一奇観なり。
境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。一層の繁昌を添たり。年中この兩緣日にはか丶る景況なるも。殊に夏夜を熱閙とす。當區辯天町に辨財天ましませども。一向に參詣者なし。蓋し神の繁昌を招くにあらずして。人が神を藉りに繁昌ならしひるに因るなり。
[現代語訳] 旧暦を使っていない、われわれ記者は、今日は寅の日か、それとも午の日かわからない。そこで甲武線の汽車(今の中央本線)に乗り、牛込駅に行き、神楽坂にたどり着いて、見ると、太鼓と笛が空を舞い、燭火は天を衝き、この様子を見て、初めてその日だとわかった。お堀のほとりに出てみると、奇妙な花や変わった草を売る植木屋がいる。声高く値段を呼び、客を集める競売商もいる。今日は晴れの日だと着飾って、大利を生むとする店もいる。巧みに雑貨を売り、大衆から金を釣ろうとしている露店もある。人や車馬の往来が激しいが、なんとか神楽坂の坂に上がり、寺門に入ると、毘沙門堂には仏前に点す灯明が無数に輝き、宝の貨はまるで雨のようだ。境内の西隅には常に改良剣舞の見世物屋は開き、玄関の傍にも種々の小屋がある。立錐の余地もない。そこで門前の勧業場の静岡館の楼上に登り、俯瞰すると、お参りする人が、列をなし、並んでいる景況が見える。ほかでは見られないような風景だ。
 境内には出世稲荷があり、最近、午の日にも縁日を開くようになり、一層、繁昌している。年中、特にこの両縁日にはこんな景況が見えるが、殊に夏の夜は騒がしい。当区の弁天町にも弁財天があるが、参詣者は一向にいない。つまり神の繁昌を招くのではなく、人が神樣にいいわけをして、繁昌しているのだ。

吾曹 われわれ。われら。吾人
搭し とうする。乗る。上にのせる。積み込む。
隨ふ したがう
皷笛 こてき。太鼓と笛
槖駝師 タクダシ。植木屋の異称。ラクダの異称。
 くさ。草の総称
鬻く ひさぐ、売る
露肆 ほしみせ。露店。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
肩摩轂鑿 人や車馬の往来が激しく、混雑しているさま。
挺する 他よりぬきん出る。人の先頭に立って進む。
看場 かんば。注意してよくみる場所。見世物小屋など。
魚貫 ぎょかん。魚が串刺しに連なったように、たくさんの人々などが列をなして行くこと
鱗次 りんじ。うろこのように並びつづくこと。
熱閙 ネットウ。 人が込みあって騒がしいこと。
奇観 珍しい眺め。ほかでは見られないような風景。
藉る かりる。よる。お陰をこうむる。「藉口しゃこう」とは口実をもうけていいわけをすること。

龍膽と撫子|泉鏡花

文学と神楽坂

「龍膽と撫子」は大正11年から12年にかけて、泉鏡花氏が書いた未完の小説です。龍膽は「リンドウ」、撫子は「ナデシコ」と読み、どちらも花の名前です。この1部分は、最初は簡単に見えて、でも後半に行くと、なんだかよくわかりません。

 問題は(なべ)と書いた小料理屋です。その名前と場所は何なのでしょうか。

 神樂坂かぐらざかまちは、まつたひらけた、いまあのむねたかそろへた表通おもてどほりの家並やなみては、薄暗うすぐらのきに、はまぐりかたちを、江戸繪えどゑのはじめごろのやうなしよくいろどつて、(なべ)としたにかいた小料理これうりがあつたものだとはたれおもふまい。またあつてもひとにはかなからう。もつと横町よこちやう裏道うらみちことふのではない。現今げんこんカフエーにかはつたが以前いぜん毘沙門天びしやもんてんならびところに一けんあつた。時分じぶんは、土間どまはもとよりだが、二階にかいへもきやくとほした。入込いりこみおもて二階にかいと、べつ一間ひとまめうに一だんトンとひくくなつて、敷居しきゐまたいで六でふりる。すわると、うへへやたゝみよりは身體からだひくくなる部屋へやがあつた。島田しまだつた、あかぬけのしたねえさんが、唐棧たうざんがらものに繻子くろじゆすえり晝夜帶ちうやおび前垂まへだれがけで、きちんとして、さけやすくても、上手じやうずしやくをした。
 とほりすがりに、光景くわうけいおもふと、なんだか、まぼろしくも屋造やづくりに、そらごとうつしたもののやうながする。……たゞ七八ねん間隔てだたりぎないが、たちまちアスパラガスのみどりかげに、長方形ちやうはうけいしろいしたく順々じゆん/\に、かすみ水打みづうつたやうにならべたおもむきかはつたのである。
 就中なかんづくいちじるしいのは、……うしろが岩組いはぐみがけづくりつて、一面いちめん硝子戸がらすどしきつたおくところの、天井てんじやうが一だんたかい――(すなは以前いぜんだんひくかつた裏二階うらにかい小部屋こべやしたそれあたる)――其頃そのころだと、わん茶碗ちやわん板頭いたがしらに、お手輕でがる料理れうり値段ねだんづけを張出はりだしたかべわきの床柱とこばしらに、葱鮪ねぎまねぎ失禮しつれいしたかとおも水仙すゐせん竹筒たけづつかつたのを……こゝでは、硝子ビイドロなか西洋豌豆花スウィートピが、給仕きふじをんなの、種々さま/\なキスしたあとのくちびるのやうないろされて、さて、その給仕きふじは、しろのエプロンで明滅めいめつかつ往来わうらいする。
 こゝにおいて、蛤鍋はまなべ陽炎かげろふ眞中まんなかに、島田しまだ唐棧柄たうざんがらをんなおもふと、あたかもそれが安價あんかなる反魂香はんごんかう現象げんしやうて、一種いつしゆ錯覺さくかくかんぜざるをない。……それはまだい。もつと近代きんだいひとたちは、蛤鍋はまなべ風情ふぜいを、ねずみ嫁入よめいりすひものをるやうに、あかる天井てんじやうあふであらう。

[現代語訳]神楽坂の町は、全く開けた。表通りの家並みはどれも高くなった。薄暗いひさしにぶら下がった蛤の絵があり、錦絵の初めの頃に見た3色に彩って、下に(なべ)と書いた小料理店があったとは、誰も思わないだろう。また、我々の目に留まることもないだろう。もっとも横丁や裏道のことをいっているのではない。今はカフェーにかわっているが、以前は毘沙門天と並んで、そんな一軒があったのだ。そのころは、土間はもちろん、2階にも、客ははいっていた。通りに接した2階は人が多いが、ほかにひと間、敷居をまたいで、妙に一段だけ低くなって、大きさは六畳、座ると、上の部屋から見えるが、畳よりも体が低くなる、そんな部屋だった。島田髷を結い、洗練した女性が働いて、唐棧柄の着物、黒繻子の襟、表と裏に別の生地を使った帯、前がけをしていて、きちんとして、酒は安いが、上手にお酌をした。
 通りすがりに、この光景を思うと、なんだか、まぼろしの雲の中に家屋があり、絵空事を映したもののような気がする。……ただ七八年の間隔に過ぎないが、これがたちまち、アスパラガスの緑のかげがあり、長方形の白い石のテーブルが順々に、霞に水をまくように並べたという趣に変わったのである。
 なかでも、著しいのは、……この店舗は、後に岩石を配置し、床下を支え、硝子戸で仕切り、奥のところには天井が一段高くなり――(すなわち以前に一段低かった裏二階の小部屋の下にあたる)――そのころには、壁わきの床柱で、椀、茶碗を先頭に、お手軽料理の値段づけを張出して、葱鮪の葱を失礼するかと思う水仙が竹筒に生けてあった……ここでは、ガラスの中にスウィートピーがはいり、給仕女は、種々なキスしたあとの唇のような色を配置し、さて、その給仕は、白のエプロンをひらめかし、あちらこちらの場所で出現している。
 ここで、蛤鍋の陽炎は真ん中にあり、島田髷で唐棧柄の女性を思うと、あたかも死者の姿があらわる安価な香の現象にも似て、一種の錯覚を感ずるをえない。……しかし、これではまだいい。もつと近代的な人たちは、その蛤鍋の風情を見て、鼠の嫁入りの絵がはいった吸いものを見るように、明るい天井を仰ぐであろう。

 と、最後は何だかわかりません。

小料理

 大正3~4年に、毘沙門天のならびに、小料理店があり、のちにカフェにかわったというのですが、これは、どこで、何なのでしょうか。神楽坂にカフェは多くはなく、毘沙門天のならびで、近くにあるのは「白十字」だけです。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、この「白十字」ができる以前には「明治食堂」があったといいます。

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。

 この「明治食堂」が(なべ)と書いた小料理店だったのでしょうか。なお、「明治食堂」は現在の「椿屋珈琲店」になりました。

唐棧

江戸繪 一枚刷りの極彩色の江戸役者絵。浮世絵の前身になった。2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵として人気を博した。
三色 寛保末頃、紅色と緑色(藍色、黄色)の2~3色を印刷する方法が開発。紅摺べにずりといわれたそうです。これでしょう。
現今 いま。現在
土間 建築内部は床を張らず、地面のままか、三和土たたき、石、煉瓦などにしたところ。
ならび 並ぶこと。並んでいるもの。列。
入込 差別なく入りまじること。人が入りまじって集まっていること。雑踏。
表2階 玄関に近いほう、目立つ方、前面・正面になる方の2階。
島田 島田まげのこと。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
あかぬけのした 洗練されている
唐桟 紺地に浅葱あさぎ・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。
繻子 しゅす。繻子織りにした織物。縦糸と横糸とが交差する点が連続することなく、縦糸か横糸だけが表に現れるような織り方。
昼夜帯 表地と裏地が異なるものを合わせて仕立てた女帯。もとは黒繻子に白の裏を付け、昼夜に見立てたもの。
前垂がけ まえだれがけ。帯のあたりから体の前面に下げて、衣服の汚れを防ぐ布。
屋造 家の構え。家屋の構造。
絵そら事 絵空事。大げさで現実にはあり得ないこと。
 机。テーブル。
水打つ 街路や路地などにたつちりほこりをしずめるために水をまくこと
 風情のある様子。あじわい。
かはつた 「かわった」でしょう。
就中 その中でも。とりわけ。
岩組 いわぐみ。庭園の岩石の配置。立て石。石立て。岩が入り組んでいる所。
崖づくり 崖や池などの上に建物を長い柱と貫で固定し、床下を支える建築方法。
画る かくする。線を引く。物事をはっきり分ける。区分する。
裏二階 表面と反対の面の2階。
板頭 「板頭」は、江戸時代、岡場所で最も多額の揚げ代をかせぐ遊女。「板元」は「料理場」「料理人」。「最初の料理]の意味?
床柱 床の間の片方の、装飾的な柱。
葱鮪 ねぎとまぐろを煮た料理。鍋料理と汁物があるが、鍋をいうことが多い。
硝子 ポルトガル語のvidroから。ガラスのこと。
西洋豌豆花 香豌豆。スイートピー Sweet pea のこと。
插す 刺す。細長い物を他の物の間に入れる。
明滅 あかりがついたり消えたりすること
往来 行ったり来たりすること。行き来。
蛤鍋 蛤のむき身と焼豆腐・ねぎなどを味噌や塩で味をつけ、煮ながら食べる鍋料理。はまなべ。
陽炎 強い日射で地面が熱せられるか、焚き火などを通して遠くを見ると、その物体が細かくゆれたり形がゆがんで見える現象。揺らめき。
 夫のある女性。女性。婦人。
反魂香 反魂香。はんこんこう。はんごんこう。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香。
 裏。逆。内部。心の中。腹。
鼠の嫁入り ネズミの夫婦が秘蔵の娘に天下一の婿をとろうとして、次々に申し込むが、結局は同じ仲間のネズミを選ぶ。まず、太陽のところに行くと、太陽は雲に遮られると光が届かないので雲のほうが偉いという。そこで雲に相談すると、雲は風には吹き飛ばされてしまうので風のほうが偉いという。次に風に頼むと、いくら吹いても遮る壁にはかなわないという。そこで壁を訪ねると、壁をかじって穴をあけてしまうネズミがいちばん偉いといい、結局は同じ仲間のネズミから婿をとる。あれこれ迷っても平凡なところに落ち着く。
仰ぐ 上を向いて高い所を見る。見上げる。

亀十|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

「製菓実験」昭和13年4月号に「亀十」が出ています。肴町21番地(現在は神楽坂5丁目21)のパン屋さんです。現在は「‎おかしのまちおか」に変わりました。

龜十

倉本
 老廢的存在の設計屋や、教養のない大工さんなどが、新人の眞似をしてやると、こういふ設計が出來上るのである。この店ばかりでなく、到るところに、このやうにマゴツイた店が多いものである。感じは惡いけれども、俗つぽく目につくところは、カヘツテ強い存在を主張する。
 パンとサンドウヰツチと和菓子といふよくばつた多角的経營は果してどうだらうか。見かけたところどうしても、パン屋さんである。こういふ構えの店でも和菓子は賣れるに相違ないけれども、大したことではない。良い和菓子を買う人は、こういふ店へはよりつくまいとおもふ。
 などと、惡くいふが、しかし、大工さんは、この店構えを非常によいと思つて設計したのであらう如くに、一部大衆も亦、かういふのを好むのであるから、御主人は大いにお店を自慢しでよい筈である。


 可なり凝つたデザインではあるが、全体的に見てデテイルの調和が取れてゐない。その爲に何處なく素人臭い設計である。ケースの配置はかなりすつきりして面白いと思ふ。
 向つて右横の入口の處と左側の壁面の處が少し物足りないやうに思はれる。
 客が店頭のみで買物をする傾向が感じられるがもしそれが事實ならもつと奥迄客を導く手段を考へる必要があらう。

老廃 年をとったり、古くなったりして役に立たなくなること。
まごつく どうしていいかわからず、迷う。まごまごする。
如く 活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付いて、比喩や例示を表す。…のように。…のとおり。「彼の言うごとく市場はまもなく安定した」「脱兎のごとく逃げ帰った」「10年前のことが今さらのごとく思い出される」
デテイル ディテール。detail。全体の中の細かい部分。細部。

 これを「かぐらむら」2009年12月号の「今月の特集第2部 戦前編 記憶の中の神楽坂」ではこう描いています。

肴町21番地。現在、ファミリーマートが在る場所(神楽坂6-77)で、大正末から平成の初めまでパンと菓子の店だった。この建物は調和に欠ける面があるものの、大工さんが凝りに凝ってデザインしたものだ。こうした存在感のある建物は、一般のお客さんに人気があるのだという。

 うまい。パチパチ。悪い点でも満点のように伝わるのは素晴らしい。なお、ここは(神楽坂6-77)ではなく、神楽坂5丁目21です。ここは神楽坂の坂道を通り過ぎ、大久保通りも通り過ぎると、神楽坂通りの北側は6丁目、でも、南側は5丁目なのです。

三角堂と買取り店

文学と神楽坂

ゴールドフォンテン神楽坂上店のシロクマの買取り屋でしたが、現在は「みんなの買い取りプラザ」になりました。場所はここ%e8%b2%b7%e5%8f%96%e5%ba%97

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京しました。

馬場さん それから「三角堂」ってちっぽけな眼鏡屋さんがありましたね。夜になると三角堂の黄色い看板が出ててね。
相川さん その前はおもちゃ屋だったんですよ。私が聞いた話によると、蕎麦屋のセイちゃん。
馬場さん 蕎麦屋の神田セイタロウさん?
相川さん 三角堂のところでやっていたんです。私は知りませんよ。そういう話がある。うちのおふくろが言っていましたよ。それから、三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。

5丁目12など

大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます

震災前 震災後 1930ごろ 1952 1955 1980 1996 現在
洋服・都築 菊岡三味線   菱屋 五十番
機山閣 十銭ストア 山岡書店 雑貨 明治牛乳 Fance タグドーナツ  買い取り
玩具店 三角堂 (不明)   関口商店 セイジョー
松菜屋塩物店・食品 ナトリ パチンコ 割烹・うなぎ大和田  
神楽坂せんべい 岡沢菓子店 楽器 レコード リード  (西川)

山下漆器店

文学と神楽坂

 昭和22年から神楽坂で漆器や和家具を売ってきた店です。場所はここ。しかし、大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、この山下漆器店も道路になるという流れは変えられず、平成29年(2017年)2月、閉店し、7月ごろ、更地にしました。下の写真は昔のもの。
 新しい大久保通りは4車線で、その両側に自転車道(幅員2メートル)と歩道(幅員4メートル)を整備する予定です。平成31年度に完成します。

山下漆器店

 「かぐらむら」87号(平成28年8・9月)にNPO法人粋なまちづくり倶楽部理事長(山下漆器店二男)山下馨氏が「大久保通り拡幅と山下漆器店レクイエム(鎮魂歌)」として書いています。

 神楽坂5丁目の老舗、多くの顧客に愛されてきた山下漆器店が大久保通り拡幅事業によって近々閉店する。
 この店は開業70年の老舗であり、最近では、ちょいちよいテレビや雑誌に取り上げられる神楽坂の人気店の一つである。特に話題は、大正14年生まれの91歳店主兼看板おばあちゃん、山下弘子のしゃんとした立ち振る舞いで見せる元気ぶりである。(中略)
 ところが、そんな折、突然戦後70年間話題にも出てこなかった都市計画道路大久保通り拡幅事業が決定。拡幅事業エリア内にある山下漆器店は、隣接商店ともども閉店する運命となったのだ。(中略)
 本来、道路づくりはまちづくりと一体的に計画されるべきものである。域内交通とは異なり、通過交通動線としての大久保通りは、コミュニティを壊し、地域を分断し、商店街にダメージを与えるという宿命を持っている。従って、この拡幅計画には、地域へのマイナス面を極力小さくすべき慎重さが必要とされるべきなのだ。
 無駄な都市計画道路計画が全国各地で廃止されている時代にあって、多くの都民の人生を台無しにする事業を進めようとするならば、都知事、行政マンを含めすべての為政者は、よく心してことに当たるべきである。さもなければ、弘子のこころを納得させ、失われる大きな大切なものに対しての償いは出来ない。

と書いています。神楽坂は沢山の都市計画の末に今の神楽坂になりました。しかし、この拡幅計画自体に限定すれば、はるか昔からあったものだと思います。(この計画はあると私も知っていました)。それにしても、黙祷を捧げます。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京してきました。
馬場さん それでいよいよ山下さんのところへくるわけだ。
相川さん それで山下さんのところは「伊藤洋品店」ってのがあって、そのあと昭和の代になってからキクヒデさんの兄さんが(店を)出した。いま京都の方にいるのは弟さんでね。兄さんは子どもがないんで京都に帰っちゃった。それで弟さんにキクヒデってのを譲った。中河清一さん(注)と仲がよくってね。いまは弟さんが何年かに一度は中河さんを呼ぶそうですよ。こっちの天利さんの方はもう借りられない、ダメらしいって見切りつけて、神田の小川町へ「キクヒデ刃物店」を出したんですよ。(注)元中河電気店の店主。現在「ゑーもん」の所で営業していた。
馬場さん 神田小川町に行ったがもうなかった。
相川さん そうですか。一度行ったけどね、その後、見ないからいなくなったかな。ところが霊友会に凝っちゃって、もうみんな差し上げちゃってね。娘さんをひとり亡くしたんですよ。それで、中河さんの亡くなったおじいちゃんが「よせとは言わないけど、ほどほどにしとけよ」って言ったんだから。
山下さん 四、五日あとにキクヒデさんが天利さんへやってきて「また貸してくれ」って言ってたって、私が神楽坂へきたあとにそんな話を聞きましたよ。