神楽坂以外の牛込」カテゴリーアーカイブ

神楽坂、坂と路地の変化40年

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。

ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

整美歯科 以前は「正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう」と書きましたが、しかし、昭和42年の『新修新宿区史』を見ると、整美歯科は確かにあったようです(参照は「新修新宿区史」で左端の電柱広告を)。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。



神楽坂下から揚場町まで

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、1962年、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)


山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。
⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。
➉桜の木 悪いことも起こしました。細かくは牛込駅リターンズで。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。


帯取の池|半七捕物帳

文学と神楽坂


 岡本綺堂氏の小説「半七捕物帳」です。1917年、氏はシャーロック・ホームズに影響を受けて、日本最初の岡っ引捕り物「半七捕物帳」を執筆。それから1936年までの20年にわたり断続的にこの捕物帳を発表しています。

 これは「半七捕物帳」の「帯取の池」の最初の部分です。ここで出てくる「帯取の池」は市ヶ谷の月桂寺の西側にありました。でも、それってどこ? 本当にあるの?

「今ではすっかり埋められてしまって跡方も残っていませんが、ここが昔の帯取の池というんですよ。江戸の時代にはまだちゃんと残っていました。御覧なさい、これですよ」
 半七老人は万延版の江戸絵図をひろげて見せてくれた。市ヶ谷の月桂寺の西、尾州家の中屋敷の下におびとりの池という、可成かな大きそうな池が水色に染められてあった。
京都の近所にも同じような故蹟こせきがあるそうですが、江戸の絵図にもこの通りしるしてありますから嘘じゃありません。この池を帯取というのは、昔からういう不思議な伝説があるからです。勿論、遠い昔のことでしょうが、この池の上に美しいの帯が浮いているのを、通りがかりの旅人などが見付けて、それを取ろうとしてうっかり近寄ると、たちまちその帯に巻き込まれて、池の底へ沈められてしまうんです。なんでも池のぬしが錦の帯に化けて、通りがかりの人間を引寄ひきよせるんだと云うんです」

帯取 おびとり。太刀を腰につけるためのひも
万延版の江戸絵図 以下は国際日本文化研究センターの「萬延江戸図」(1860年)です。中央部に月桂寺が描かれています。その西の「尾張ドノ」は現在の東京女子医科大学です。

万延江戸図

万延江戸図

 現在の地図で、中央下の赤黒色の地図マーカーが「正覚山月桂寺」。

女子医大と月桂寺

現在の女子医大と月桂寺

大きそうな池 残念ながら「萬延江戸図」の附近では池は書いていません(上図)。万延元年「礫川牛込小日向絵図」(1860年)には月桂寺そのものがありません。嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」(1854年)では月桂寺の中に多分青いかわらきの建物数棟がありました(下図)。でも、池があるのかは、不明です。青色を拡大すると瓦だと思います。また尾刕(=尾張、尾州)殿には池は描いていません。

月桂寺

月桂寺。「牛込市谷大久保絵図」から

京都の近所 秋里籬島氏の『都名所図会』(安永九年、1780年)では「帯とり池。広沢のひがしなり、路のかたはらにくぼみたる所あり、是なり。むかしはいと深くて、此池の霊帯と化して人を取りしとぞ」と書かれています。場所は左上の青い地図マーカーで。現在は「弁慶池」となっていました。

故蹟 古跡。歴史に残るような有名な事件や建物などがあったあと。遺跡。旧跡。古址
 様々な色糸を用いて織り出された絹織物の総称

「大きいにしきへびでも棲んでいたんでしょう」と、わたしは学者めかして云った。
「そんなことかも知れませんよ」と、半七老人はさからわずに首肯うなずいた。「又ある説によると、大蛇が水の底に棲んでいる筈はない。これは水練に達した盗賊が水の底にかくれていて、錦の帯をおとりに往来の旅人を引摺ひきずり込んで、その懐中ふところ物や着物をみんなぎ取るのだろうと云うんです。まあ、どっちにしても気味のよくない所で、むかしは大変に広い池であったのを、江戸時代になってだんだんにせばめられたのだそうで、わたくしどもの知っている時分には、岸の方はもう浅い泥沼のようになって、夏になると葦などが生えていました。それでも帯取の池といういやな伝説が残っているもんですから、誰もそこへ行ってさかなを捕る者も無し、泳ぐ者もなかったようでした。すると或時あるとき、その帯取の池に女の帯が浮いていたもんだから、みんな驚いて大騒ぎになったんですよ」

錦蛇 にしきへび。ニシキヘビ亜科のヘビの総称。インド・東南アジア・オーストラリア・アフリカの熱帯地方に約20種。全て無毒。
水練  水泳の練習。水泳の技術。水泳の名人。

 帯取の池はあったのでしょうか? 嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」に青い絵がありますが、これは瓦葺きの屋根でしょう。現在の私は、この池は岡本綺堂氏が小説のため作り出したものだと思っています。

婦系図

文学と神楽坂


泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。



漱石と市谷の小学校

文学と神楽坂

 夏目漱石が通った市谷の小学校はどこにあったのでしょうか。

 北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺文学会、2011年)では…

 1876年、養父母の離婚が成立し、養母とともに実家へ引き取られた漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった。当時は市谷柳町交差点を少し南へ行った、市谷柳町16番地にあった。家から1km余の距離である。
 現在の市ヶ谷小学校(新宿区市谷山伏町)とは別系統で、愛日小学校(新宿区北町)の前身になる。愛日小学校は1880年、吉井小学校(1870年創立。市谷加賀町16番地)と漱石の通った市ヶ谷小学校(1874年創立)が合併し、現在地につくられたものである。 1878年4月、市ヶ谷小学校を卒業した漱石は、錦華学校小学尋常科に入学した。

「漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった」と書いてありますが、実は「市ヶ谷学校」が正しく、「小」は不要です。では、もう1つ。「市ヶ谷学校」の場所は、本当に市谷柳町16番地なのか、それとも柳町69番地か、山伏町2番地なのか、どうなのか、という問題です。ここで柳町69番地と山伏町2番地は、荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂』(集英社、1984年)にでています(下線は私がつけたもの)。

 明治九年(1876)10歳
★5月30日(火)(不確かな推定)、戸田学校下等小学校第四級を修了したかもしれぬ。
★6月頃(推定)、市谷学(牛込区市が谷山伏町2番地、現・新宿区市が谷山伏町)の下等小学第三級に転校したかも知れぬ。同窓に、島崎友輔(柳塢りゆうお)・桑原喜・山口弘一・篠本二郎・中川某(不詳)らいて親しく交わる。

脚注
◇第一大学区東京府管内第三中学区第四番小学市が谷学校。明治6年設立。生徒数男児82人、女児38人。旧民家を校舎にしたもので、程度は戸田学校より低かった。明治九、十年頃までに、牛込区柳町69番地(当時、69番扱所)に移る。金之助が通ったのはここかもしれぬ。明治13年公立小学(第二番)吉井学校と合併し、「愛日小学校」となる。現在の新宿区立愛日小学校(新宿区北町26番地)である。
◇「喜いちゃん」と呼ばれる友人から、蜀山人の自筆と称する『南畝なんぼ莠言ゆうげん』を買わされたことがある。翌日取りもどしに来たので、本は返したが、代金は受取らない。

 はじめに「柳町69番地」はまず違います。当時の地図を見ても、柳町には48番地が最大でした。柳町69番地はありえません、では「山伏町2番地」はどうでしょうか。

 唐澤るり子氏の「モノが語る明治教育維新 第27回-双六から見えてくる東京小学校事情 (5)」(三省堂、2018年8月)では「明治7年に開校した『市ヶ谷学校』は、明治8年に生徒増加のため市谷柳町(現・新宿区市谷柳町)の民家を買収し移転しました」と書いてあります。

市ヶ谷学校

市ヶ谷学校。東京小学校教授雙録。新宿区教育委員会『新宿区教育百年史資料編』(1979年)の口絵から。

 新宿区愛日小学校の歴史では「明治7年3月23日、第一大学区に第四番公立小学 市ヶ谷学校が開校される(市谷柳町16)」と書き、また、新宿区の『新宿区史 資料編』(新宿区、1998年)でも下図となり、同様です。

公立小学校沿革一覧

公立小学校沿革一覧。一部を改編

 どうも市谷柳町16が正しいようです。でも、わからない場合も残っている。その場合、聞いてみます。唐澤るり子氏にこの質問をお送りしました。以下はその回答です。

 市ヶ谷学校に関してですが、私の調べによれば明治7年3月に市ヶ谷山伏町に開校、明治8年4月1日に生徒増加のために市谷柳町16番地の民家を買収、移転したとなります。
 漱石が戸田学校から市ヶ谷学校下等小学第3級に転校したのは、明治9年5月から10月の間ですから、「6月頃(推定)、市が谷学校(牛込区市が谷山伏町2番地)」とありますが、この時期には移転しており、山伏町とは考えられないと思います。
 三省堂のブログは出典を明記しておりませんが、開校に関しては『小学校の歴史Ⅲ』(倉沢剛著)、移転に関しては『新宿区教育百年史』を参考にしております。

 なるほど。市谷柳町16番地の民家を買収し、漱石も柳町16番地の小学校に通っていたんですね。

柳町16

柳町16。東京実測図。明治28年。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から


漱石の東京|武田勝彦

文学と神楽坂


武田勝彦

武田勝彦

  武田勝彦氏の『漱石の東京』(早稲田大学出版部、1997年)です。この伝記はかなりほかの本とは違ったところがあります。つまり、細かいことが重要なのです。特に「それから」の中心は市電です。東京市には市電が市内に縦横に張り巡られていて、したがって、市電を知らないと、この本の問題もよくわからないとなってしまいます。
 武田勝彦氏の生年は1929年5月4日、没年は2016年11月25日。享年は満87歳でした。

   和良店の坂道

 小説「それから」は、明治42年6月27日から10月14日まで、110回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された。初版は春陽堂(明治43年1月1日)から刊行された。この作品の主要な舞台は、牛込台、小石川台、そしてその間を流れる江戸川べりである。また、赤坂台の青山もこの作品の主大公の実家があるので見逃せない。下町では、銀座、木挽町、神田が登場する。また、当時は汐留の新橋停車場が東京の中央駅であったので、主人公もここに足を運ぶことがある。
 主人公長井代助は30歳の高等遊民である。学校を卒業しても定職を持たない。父、得の庇護を受けて生活している。牛込区袋町5番地あたりに家を借りて住んでいる。婆さんを傭い、書生を置く結構な身分である。
 代助の家を袋町と推定したのは、「ところ天氣てんき模樣もやうわるくなって、藁店わらだながりけるとぽつ/\した」との描写があるからだ。江戸から明治にかけて、東京には二つの藁店があった。一つは、金杉の方で、一つは、神楽坂であった。この名称は金杉の場合も、神楽坂の場合も、いわゆる通りの通称であって、地名辞典の類に公式に書き記され、現行町名の丁目や番地を与えられているわけではない。そのために、とかく曖昧である。
 漱石は「僕の昔」と題する談話の中でも、「落語はなしか。落語はなしはすきで、よく牛込の肴町の和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ」といっている。正確には和良店亭で、これが牛込館となり、大正、昭和を通して、牛込、小石川の山の手族に洋画を提供する場となった。場所は袋町三番地と四番地にまたがっていた。


江戸川 神田川中流。昭和40年以前には、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
高等遊民 こうとうゆうみん。明治末期から昭和初期にかけて、世俗的な労苦を嫌い、定職につかず、自由に暮らしている人。
牛込区袋町五番地 地図を参照。

昭和5年 牛込区全図

昭和5年 牛込区全図

書生 学問を身につけるために勉強をしている人。他家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する人。
藁店 原義は「わらを売る店」。槌田満文編「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)では「藁店は牛込区袋町(新宿区袋町)と肴町(新宿区神楽坂五丁目)のあいだ、地蔵坂(藁坂)下の狸俗名」
金杉 東京都台東区金杉でしょうか。不明です。なお、至文堂編集部の『川柳江戸名所図会』(至文堂、昭和47年)では「もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという」。筋違橋は神田川にかかる万世橋の前身です。
袋町三番地と四番地 正確に言えば、牛込館(現在はリバティハウスと神楽坂センタービル)が建っていた場所は袋町3番地だけでした。

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)


 代助の借家は藁坂の上の袋町に、三千代の借家は金剛寺坂、または安藤坂を昇り詰めた小石川表町の高台に設定されている。この設定の仕方に注意してみたい。単に漱石が自分の住んだことのある地域を無雑作に選んだと見倣してよいだろうか。現在でも、この二つの地域を結ぶ便利な交通機関は発達していない。山水の形状が、それを阻害している。
 漱石は代助と三千代を両方の高台に住まわせることで、二人の逢う瀬の難しさを高めようとしたのではなかろうか。これは無意識な操作であったかもしれない。特に、心臓の悪い三千代に急坂を登り降りさせ、それで躰に変調を招くことで、代助の同情を深める。
 「それから」の執筆された明治42年の夏から秋にかけて、いわゆる東京鉄道時代の市電は、延長につぐ延長で、市内は刻一刻と便利になっていった。しかし、三千代が代助の家に行く電車は、それほど便利ではなかった。一つは小石川表町から春日町に出る。ここで乗り換え、水道橋まで行く。さらに、外濠線に乗り換え、牛込見附で下車する。ここから神楽坂を昇り、さらに一息ついで、地蔵坂を昇る。か弱い三千代には、かなりの強行軍だ、もう一つの道は、往路だけには便利だと思う。金剛寺坂か安藤坂を降り、大曲まで歩く。ここから市電で飯田橋に行き、乗り換えて牛込見附に出る。あとは徒歩である。戦前の牛込肴町を知っている読者だと、三千代が水道橋か飯田橋から角筈行に乗って、牛込肴町で下車すれば、神楽坂の急坂を避けることができたと思われるかもしれない。ところが、飯田橋-牛込柳町間の市電が開通するのは、大正元年暮のことであって、三千代の頃には工事中であった。

金剛寺坂 本田労働会館わきを通って地下鉄丸ノ内線を越え、巻石通り交差点近くに出る狭い道(下図の橙色の坂道)
安藤坂 安藤坂交差点から伝通院前交差点までの道(下図の紫色の坂道)
伝通院、金剛寺坂と安藤坂
小石川表町 伝通院や善光寺あたり一帯を表町と呼んだ。以前は伝通院前表町。

表町

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」(1981年)から

一つ 以下は図を書いていますから、それを参考してください。黒の実線や点線は当時何本があった市電の線路、黄色は徒歩で、赤色の実線は市電で動いた距離。青はそれぞれの借家です。

江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

原図は明治44年の市電。一部を変更。江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

牛込見附 市電の駅です。国鉄(現在のJR)の駅は牛込駅でしたが、1928年(昭和3年)から飯田橋駅にかわりました。
牛込肴町角筈牛込柳町 下図を参照。

日本鉄道旅行地図帳

昭和7年の市電系統図。今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」新潮社。2008年



十千万堂日録|尾崎紅葉

 文学と神楽坂

尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。

 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。

 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。

十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。

直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。

明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。

 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。

桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。つまり、当時の10円は今でいう10万円ぐらいでしょうか(http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J050.htm)。


「夏目君、君のボートの腕前は…」伊集院静氏

文学と神楽坂

 伊集院静氏の「『夏目君、君のボートの腕前はどんなもんぞな?』(子規)」(シグネチャー、2020年)です。

伊集院静

伊集院静

昨秋から新聞小説を執筆していて、主人公が明治、大正期に活躍した夏目漱石ということもあり、漱石の生まれ育った牛込や、浅草界隈を散策することが多くなった。
 丁度、長く仕事場にしていたお茶の水のホテルから、神楽坂の丘の上にあるホテルに移ってしばらくして、連載小説の執筆がはじまった。
 漱石の誕生、幼少、少年時代から書きはじめることになったのだが、百五十年前の話であるから、遠い時間を想像するのだが、さしてそれが遠い日のことではないのは、七、八年前、漱石と同時代に生きた正岡子規のことを書いた経験で、幕末、明治はつい昨日のことでもあるという考え方ができるようになっていた。

新聞 日本経済新聞
小説 2019年9月11日から伊集院静氏の「ミチクサ先生」が始まりました。
お茶の水のホテル おそらく「山の上ホテル」
神楽坂の丘の上にあるホテル おそらく「アグネス ホテル アンド アパートメンツ東京」
連載小説 伊集院静氏の「ミチクサ先生」が『日本経済新聞』で始まりました。
書いた経験 伊集院静氏の「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社、2013)です。

 新しい仕事場になった神楽坂から、漱石の誕生した牛込坂下すぐ近くである。
 漱石記念館も静かで、思惟するには良い所であった。
 散策する場所を、物語の主人公が歩いていたり、赤ん坊の時なら、泣いていたりしていたのだろう、と想像するのは楽しいものだ。
 漱石は生まれてすぐ実母が高齢だったので、乳を貰わねばならず、里子に出された。里子に出されたが古道具屋だった。が心配になって夕刻見に行くと、夜店の商売道具を陳列した坂の隅に寵に入れられた弟がいたというので、あわてて抱いて帰ったという。その夜店のあった内藤新宿にも、夕刻行ってみたが、今はマンションになっていた。同じく乳を与えたのが、今、毘沙門天のある大通りの前の煎餅屋隣りの二階に髪結いの店があり、そこの女房であったらしい。昼間出かけた折、今は焼鳥屋になっている二階をしばらく眺めていた。
 どんな目をした、どんな赤児が、乳母の乳を飲み、満腹になるとどんな顔で眠っていたのだろうか、と想像した。

牛込坂下 「牛込坂」という坂はありません。漱石が誕生した場所は「早稲田前交差点」から「夏目坂」をのぼりかけた所です。また、誕生した坂は夏目坂です。『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)の想像図を使うと夏目家は赤色で囲まれた場所でした。

夏目漱石博物館

夏目漱石博物館

すぐ近く 「夏目漱石誕生の地」(新宿区喜久井町1番地)から「神楽坂下交差点」までは徒歩で約28分もかかります。また「夏目漱石誕生の地」から「アグネスホテル」までは徒歩で同じく約28分です。
漱石記念館 正しくは「新宿区立漱石山房記念館」です。
実母 母ちゑは数え年42歳でした。
 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 二月中旬、または下旬(不確かな推定)、母乳不足も原因となり、生後ただちに四っ谷の古道具屋に里子にやられる。源兵衛村(豊多摩郡戸塚村宇源兵衛村、現・新宿区戸塚)の八百屋ともいわれる。里子にやられる前後に、神楽坂の平野理髪店の主婦から貰い乳をする。

 夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』(角川書店、1966年)では

(四っ谷の古道具屋は)毎夜お天気がいいと四谷の大通りへ夜店を張る大道商人だったのです。
 ある晩高田の姉さんが四谷の通りを歩いていますと、大道の古道具店のそばに、おはちいれ、、、、、に入れられた赤ん坊が、暗いランプに顔を照らしだされて、かわいらしく眠っております。近よってみるとまごう方なくそれが先ごろ里子にやった弟の「金ちゃん」なのです。何がなんでもおはちいれ、、、、、に入れられて大道の野天の下に寝せられているのはひどい。姉さんはむしようにかわいそうになつて、いきなり抱きかかえて家へかえつて参りました。が一時の気の毒さで連れ帰って来てはみたものの、もともと家には乳がありません。そこでお乳欲しさに一晩じゆう泣きどおしに泣き明かす始末に、連れて来た姉さんは父からさんざん叱られて、しかたなしにまたその古道具屋へかえしてしまいました。こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。
高田の姉 「高田の姉」とは漱石の腹違いの二番目の姉にあたり、ふさです。

その夜店 漱石が夜店に関係したのは、四谷で里子になった時だけです。生まれたときからすぐに里子になり、実家に戻った年月は不明ですが、一年ぐらいでしょうか。続いて内藤新宿北裏町の塩原昌之助の養子になりましたが、時期は明治元年ごろからでした(他の説もあり)。「内藤新宿に夜台があった」と「四谷に夜台があった」とは同一ではありません。「内藤新宿に養父母が住んでいた」のほうが正しいと思います。
内藤新宿 江戸時代に設けられた宿場の一つで、新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯。荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)の中に梅沢彦太郎氏の「夏目漱石の遺墨」『日本医事新報』(第929号、発行は昭和15年6月15日)によれば

漱石さんは五歳の頃、古道具屋へ里子に遣られた。それは自分が母親に連れられて神樂坂の毘沙門さんの緣日に遊びに行つたら、金ちやんが籠に入って、がらくた、、、、道具と一緒に緣日に出てゐたといふので、それは先生が末子で、除りに母親が年をとってから出来たので世間體を恥ぢて里子にやられたもので、その古道具屋は、先生を連れては、淺草、四谷、神樂坂と轉々として夜店を出してをつたものらしく、それでがらくた、、、、道具を列べた傍の籠の中に先生を蒲團にくるんで置いてをつたものであります。
 それで、金ちゃんが笊に入つてゐると言つてをつたので、廣森の母親は漱石先生一家とも交際があったものだから、早速、これを先生の御両親にも傅へた。それで、先生の御一家でも驚かれて、寒いのに、夜店にがらくた、、、、道具と一緒に並べておかれてはといふので、遂に引取つて、實家から小學校にも上り、それで小學校時代から先生とずつと友達だつたと廣森は私に話してゐました
浅草、四谷、神楽坂 この3か所には夜店が出ています。

同じく乳を与えた 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 母親は乳が出なかったので、神楽坂の毘沙門天(日蓮宗鎮護山護国寺、現・新宿区神楽坂五丁目三十六番)前の平野という床屋(髪結かみゆい)の先代(または先々代)の主婦から乳を貰う。(鏡・昭和三年)これは、森田草平が漱石から直接聞いている。漱石は直矩から聞いたものと思われる。里子に出される前後らしいが、後であったとも想像される。

「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』(新宿区教育委員会、昭和45年)では「床ヤ・平の」と書いてあります。

平野という床屋

平野という床屋。「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』昭和45年新宿区教育委員会。

煎餅屋 「毘沙門せんべい 福屋」です。以前は「履物・三河屋」でした。
隣りの二階 「神楽坂界隈の変遷」によれば、居酒屋「伊勢藤」の方が正しいでしょう。「隣りの二階」ではなく「向こう隣りの家で1階」でした。
焼鳥屋 「神楽坂 鳥茶屋」です。当時は「魚國」でした。

 その髪結いのあった場所から五分も歩いた所に地蔵坂という坂があり、その坂の途中に、『和良わらだなてい』という寄席小屋があり、漱石は四、五歳から姉や兄に連れられて寄席へ行っていた。
 子供が寄席へ? と思われようが、江戸中期に全盛を迎えた寄席小屋は、町内にひとつの割合いで店を出していた。子供も父親や家の贔屓の役者、噺家はなしかの楽屋へ遊びに行き、菓子等をもらっていた。その『和良店亭』のあった坂道に立つと、一高の学生になった漱石が子規と二人で寄席見物に出かけた姿を思い、何やら楽しい気分になった。

地蔵坂 神楽坂通り4丁目から光照寺に行く坂。地域名は藁店わらだな
和良店亭 江戸時代からの牛込で一番の寄席。寄席は閉店し、明治39年に「牛込高等演芸館」が新築されました。
四、五歳 矢野誠一氏の『文人たちの寄席』(文春文庫)では

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。


 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治2年、数え年3歳で、

12月20日(陰暦11月18日)(推定)、『桃山譚』の「地震の場」の初日を養父昌之助に連れられて観に行く。(最初の記憶)(小森隆吉)

と書かれています。
姉や兄に連れられて 八歳になる前の漱石は養子で、養父母のもと、一人っ子として生活しました(荒正人著『漱石研究年表 増補改訂版』集英社、昭和59年)。漱石が四、五歳の時に「姉や兄に連れられ」たという経験はおそらくありません。