神楽坂以外の牛込」カテゴリーアーカイブ

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

565b 大久保通り箪笥町付近

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

横寺町(写真)昭和48年、ID 467

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 467は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂通りから少し入った場所から横寺町方向を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 467 横寺町入口附近

 スーパーARAIと、その次の建物までが神楽坂6丁目。飯塚酒店からが先が横寺町になります。

全国地価マップ 朝日坂。一部を改変

 写真の坂は朝日坂といいます。また、商店街ではないので専用の街灯はなく、電柱からバンドで固定した蛍光灯が出ていて街灯の役割をしています。道の片側だけてす。
 柱上変圧器もあります。下水は道路の側溝を流れ、子供2人がローラースケートを遊んでいます。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「〇紀」
  2. 理容サトウ。床屋のサインポール ※地図はかすれていますが読めます。
  3. 電柱看板「質 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。
  4. その下に読めない貼り紙。最後が「町会長」なので、おそらくゴミ出しの注意。
  5. 「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇綜本〇」
  1. 大台宗 薬龍山 光圓寺 正藏院
  2. Super ARAI
  3. 電柱看板「セルフサービス アライ ココ」(街灯はなく、細い電柱)
  4. 清酒 澤之鶴 飯塚
  5. 内野医院

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で05-10-60-03 朝日坂下から 1974-12-25ではよく似た写真がでています。

05-10-60-03 朝日坂下から 1974-12-25

1976年。住宅地図。

 

武士の勲章|納戸町

文学と神楽坂

 池波正太郎氏の『武士の勲章』の小説「決闘高田の馬場」は「面白倶楽部」に昭和33年に発表されました。

 それから五年後――中山安兵衛は、江戸、牛込うしごめ“天竜寺”門前の長屋に住み、麹町の堀内源太左衛門の道場で、師範代をつとめるまでになっていた。
 若い精力のすべてを剣と学問の道に投げ込んで一心不乱の修業が実を結んだのも、菅野六郎左衛門の激励と援助があればこそだったともいえよう。(中略)
 翌日の早朝に、中山安兵衛が天竜寺の長屋へ戻ってくると、長屋中は大騒ぎだった。大草重五郎が路地へとびだしてきて、
「安兵衛殿ッ。一体、何処どこへ行っていたのだッ」
「千駄ケ谷にいる道場の友達のところで碁を打って夜を明かしてしまったよ。ははは」
「それだからわからんはずだ。塩町保久屋細井次郎太夫殿の家や、あっちこっちへ長屋の者が走りまわって、おぬしを一晩中、探していたのだぞ」

 中山安兵衛氏は天竜寺門前の納戸町に住んでいたのは事実です。

それから五年後 小説は元禄2年に始まっているので、5年経った今は元禄7年です。元禄7年2月11日(1694年3月6日)に高田馬場の決闘が起きました。
中山安兵衛 越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生。のちに堀部家の婿養子に中山家のまま入り、元禄10年(1697年)堀部家に変更。
天竜寺門前 天竜寺は新宿区南山伏町と細工町にあった寺。その門前なので、御納戸町か御細工町の家になりました。
麹町 東京都千代田区の1地名。
道場 小石川牛天神下に直心影流の道場を開いた。
師範代 しはんだい。先生の代理で教授する人
菅野六郎左衛門 すがのろくろうざえもん。伊予西条藩松平家に仕える。村上庄左衛門と高田馬場の決闘を行い、中山安兵衛(堀部武庸)の助太刀を得て勝利。しかし、この決闘で、菅野六郎左衛門は死亡している。
大草重五郎 中山安兵衛と同じ長屋に住む中年の浪人。
塩町 塩町は沢山あります。たとえば、大伝馬塩町は日本橋本町四丁目。通塩町の小伝馬下町は中央区日本橋横山町と日本橋馬喰町一丁目。四谷塩町は新宿区本塩町など。
保久屋 ぼくや。荷車の車輪を通す仕事をする店の屋号
細井次郎太夫 松平美濃守吉保の家臣

 これで味方の菅野六郎左衛門と、敵の村上庄左衛門との2人の決闘に呼ばれたと知ります。

 安兵衛は、市ヶ谷の高台を下って喜久井きくいちょうにでると、牛込馬場下ばばしたの居酒屋「小倉屋」の軒先で一息入れ、桝酒ますざけを求めて、一息に飲み干し、口に含み残した冷酒を刀の柄へ霧に吹き、ようやくの色が漂よう高田の馬場へ駈けつけた。
 高田の馬場は、幕府が寛永13年に、弓場、馬場の調練所として二筋の追回しを築き、松並木の土手を配した草丘そうきゅうである。
 安兵衛が駈けつけると、斬合いは、もう始まっていた。
 村上方は庄左衛門の弟、三郎右衛門。中津川祐範の他に、――祐範の門弟、といってもいずれもごろつき浪人などに違いないだろうが、これが八人ほど加わり、菅野六郎左衛門と若党佐次兵衛さじべえを取囲んでいる。
「待てッ。待てッ。叔父上ッ。安兵衛、只今駈けつけましたぞ」
 土手を下って馬場にとびおりた安兵衛を見て、さすがに菅野老人も嬉しさを隠しきれなかった。
「おう。きてくれたかッ」
「安兵衛様ッ。よう間に合うてくれました」
 と佐次兵衛も歓声をあげる。
「卑怯な奴どもめ。これが尋常の果し合いかッ」
 安兵衛は抜き打ちに一人を斬り倒して叫んだ。

寛永13年 1636年。
調練所 ちょうれんば。調練を行なう場所。練兵場。
追回し 馬場の中央に築いた土手
斬合い きりあい。互いに刃物で相手を切ろうとして争うこと。
村上方 敵です。村上庄左衛門、弟の中津川祐見、弟の村上三郎右衛門の3人ば安兵衛が確実に殺した人。江戸の瓦版では「18人斬り」になりました。
若党 若い侍。若い従者。江戸時代、武家で足軽より上位の小身の従者。
佐次兵衛 かくたさじべえ。角田佐次兵衛。

 あとは、もう乱戦である。
 佐次兵衛も門弟一人を倒したし、安兵衛は一人を斬るたびに自信が湧き上り、帯を切り裂かれ、左の二の腕に傷を負いながらも凄まじい闘志をみなぎらせ、激しい気合いと共に敏速果敢なる攻撃を行なっては一人、また一人と相手を倒した。
 門弟の残り三名ほどは逃げ散り、中津川祐範の槍だけが、安兵衛の前に突きつけられたとき、安兵衛は、嗄がれて疲れた菅野老人の叫び声を耳にした。
「叔父上ッ」
 思わず振り向きかける一瞬、祐範の槍が閃光のように安兵衛の胸を目がけて繰り出された。
 そのとき、どう動いたのか、安兵衛は自分でもわからなかった。無意識のうちに左手が小刀にかかり、身を捩って祐範の槍を中段から斬り落すと共に右手の大刀は間髪を入れず、祐範の首から肩口にざくッと斬り込んでいたのである。
菅野老人 菅野六郎左衛門のこと。

「叔父上ッ。安兵衛参りましたぞ。相手は村上一人。あとの者は全部斬り捨てましたぞッ」
 安兵衛の、この大声は、もう決定的に村上庄左衛門の余力を奪ってしまった。こうなっては、庄左衛門も菅野老人のトドメの一刀を首に受けないわけには行かない。
 しかし、菅野六郎左衛門も、七カ所ほどの深い傷を受け、この馬場で息を引取った。

 これで味方の菅野六郎左衛門(菅野老人)も敵の村上庄左衛門も死亡します。

 この果し合いの助太刀が世の評判となり、中山安兵衛が、堀部弥兵衛の養子となって、八年後の元禄十五年十二月十四日――吉良邸へ討入った四十七士の一人として活躍したことはいうまでもないことである。

福島中佐と単騎シベリヤ横断

文学と神楽坂

福島安正中佐

 一瀬幸三氏は「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」(新宿郷土会、新宿郷土研究史料叢書、平成2年)を書いています。氏は学者、郷土史家、教育者(近現代)でした。
 一方、福島中佐は明治・大正の陸軍軍人で、維新後、大学南校に入学して英語を習い、明治7年、陸軍省に入り、明治15年に朝鮮に派遣、翌年北京公使館付武官となり、満州とモンゴル方面を踏査。明治20年、駐独武官としてバルカン半島を視察、帰国の際、ロシアのシベリア鉄道建設の状況視察のため、明治25年2月からベルリンからウラジオストクへと、1年4カ月かけて単騎横断を行いました。
 では、一瀬氏の記載に行きましょう。

     はじめに
 私は最早や80歳を越えた老人であるが、少年の頃は、単騎シベリヤ横断の快挙をなし遂げた、福島中佐(安正・後の大将)を英雄として崇拝していたものである。
 それというのも小学生当時は寄るとさわると、「偉い人だったんだってねえ」と、話合ったものである。そんなことから私の蒐集癖は福島中佐に関するものを手当りしだいに集めてきた。今ここにそれらを整理して置こうと小冊子を出すことにした。
 私の小学校入学は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)の谷村町高等尋常小学校で入学したのは、大正7年(1918年)4月であった。体操の時間や運動会には、必ずといっていいほど、福島中佐の作歌『波蘭(ポーランド)懐古』が、歌われこれに遊戯がついていて、いやでも自然に口遊むようになった。
 ところが、奇縁といおうか、福島中佐の居住地であった矢来町に近い山伏町に住むようになって、一層その念を強くして、ここにもはや忘れられた英雄の足跡を改めて記録しておこうと思ったことに外ならない。
都留市 地図参照
波蘭懐古 ポーランド懐古。明治の軍歌。作詞、落合直文。作曲、不詳。その1番は「ひと日ふた日は晴れたれど 三日四日五日は雨に風 道の悪しきに乗る駒も 踏みわづらひぬ野路山路」

 この勇姿はいろいろな形ででてきたという。著者蔵の例では……

雪の広野を行く福島中佐

壮挙を終え帰国した福島中佐

 福島中佐の快挙 明治25年(1892)2月11日ベルリンを出発して、単騎シベリヤ横断をおこなって、勇名を馳せた。福島安正陸軍中佐は、当時、牛込矢来三番地中の丸24号に居住していた。これについては後述する。
 中佐はドイツ駐在武官をしていた頃、陸軍省に対し、「中央アジアの政治・経済・国情の調査をして行かないと、国家百年の計は樹てられない」旨の上申を行い、これが軍部の容るところとなって、駐在武官の任期満了を機会に、明治25年2月11日を期して、単騎ベルリンを出発した。
 苦難の多いコース そして、ドイツ、ポーランド、欧露を横切って、オムスクに出て、それより馬をアルタイに向け、峻嶮をこえコブトウイヤスクタイウランバートルキヤクタイを経て、バイカル湖畔に出て、更にイルツクから再び引き返して、バイカル湖畔を東へと進み、ウェルフネウーヂンスクを通り、ブラゴエシチェンスクに至り、対岸の黒河より興安嶺山脈を横切って、チチハルに出て、ズンガリー(松花江)に沿って、キチリン(吉林)ニンクタコンジュン(琿春)を過ぎて、ボシエツト地方より、ウラジオストックに到着、ここでのその長途の騎馬旅行を終わっている。時に翌26年(1893年)6月であった。
オムスク ロシア連邦中南部の都市。カザフスタンとロシアにまたがるエルティシ川を通ってアルタイに向かう。
アルタイ 中央アジアの一地域
コブト ホブト。モンゴル西部ホブド県の県都。
ウイヤスクタイ ウリャスクタイ。モンゴル・ザブハン県の県都。
ウランバートル モンゴル国の首都。中国語ではクーロン(庫倫)。
キヤクタイ ロシア南部ブリヤート共和国のキャフタ市。
バイカル湖畔 ロシア南東部のシベリア連邦管区の三日月型の湖
イルツク イルクーツク。バイカル湖の西岸。
ウェルフネウーヂンスク 現在はウラン・ウデ。ヴェルフネウジンスク。東シベリアのロシア・ブリヤート共和国の首都。バイカル湖の南東約100km。
ブラゴエシチェンスク シベリア南部のアムール州の州都。対岸には中国黒河市がある。
黒河 中国黒竜江省の地級市。黒竜江右岸の河港都市。対岸にはシベリア南部ブラゴベシチェンスクがある。
興安嶺 こうあんれい。中国北東部にあるターシンアンリン(大興安嶺)山脈とシヤオシンアンリン(小興安嶺)山脈の総称。
チチハル 中国黒竜江省の直轄市。
キチリン(吉林) 中国東北部の省。省都は長春市。
ズンガリー(松花江) ソンホワチアン。松花江。しょうかこう。アムール川最大の支流。
ニンクタ 正しくはニングタ。寧古塔。現在は黒竜江省牡丹江市寧安市。
コンジュン(琿春) 中国吉林省の県級市
ボシエツト地方 クラスキノ町など。北朝鮮国境に近いポシェト湾岸に位置する。
ウラジオストック ロシアの極東部沿海地方の州都。
翌26年6月 全行程は1年4ヶ月かかったという。

アルタイ山脈の踏破。島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

福島中佐単騎旅行図絵

 それはそれとして、矢来町に住まわれるようになったのは、いつ頃からか不明であるが、単騎シベリヤ横断をなし遂げた頃は、すでに牛込区矢来町三番地に居住していた。
 ところが、この三番地というのは広範囲で現在の地図と比較すると、87番地から106番地までの広い区域である。
 しかし、中佐の居住を明細に記したものに明治43年(1910)10月の刊行になる中央電話局の「電話番号簿」には、
  番町 二四六 福島安正 牛、矢来三、中ノ丸24号
とある。そこで明治44年(1911)6月逓信協会の発行にかかわる「東京市牛込区」の地図を見ると矢来町中ノ丸は、現在の地名番地では、75番地に当たると見てよいだろう。ちょうど、新潮社のやや南横に当たるところである。
逓信協会「東京市牛込区」 これは新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』(昭和57年)326-7頁と同じ。「75番地に当たると見てよい」とはいえません。https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/search/uploads/2_ippanntizu.pdf

地蔵坂(写真)藁店 昭和54年 ID 79、80、81、82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79、80、81、82は、昭和54年(1979年)、地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。自動車は対面通行でした。右側は駐車場に使っていて、歩道はどうも左側だけだったと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 82 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 81 地蔵坂付近

地蔵坂(藁店)
  1. 中華料理 太一
  2. 「(コー)ヒーパブ (海)賊)」、自販機「コーヒー」、看板「かいぞく」
  3. 「理髪 モリワキ」。森脇トコヤは六角形が中で回る「理容看板」
  4. その隣の工事中は「石鐵ビル」。築年月は1979年3月。「石鐵」は小林石工店の屋号
  5. 電柱看板「斉藤医院
  1. 白菜やレモン箱などが一杯になったトラック「八百美喜」。「商品は箱積みのまま、列に並んだ客が『〇〇ちょうだい』『きょうは何が安い?』と声を掛けて出してもらう昔ながらの売り方。”安い八百屋”で通用する人気店だった」と地元の方。
  2. CAFE CHARLIE BROWN
  3. 1棟(すずらん荘)
  4. 電柱看板「理髪 モリワキ←」
  5. 松竹荘
  6. 1棟(割烹 佳)
  7. 旅館 竹兆
  8. 工事中(カワイビル)。菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。築年月は1979年3月。
  9. 傾斜地で盛り土に。この先を右に曲がったところがID 79と80。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 80 坂道

 ID 79とID 80の資料名は「住宅」と「坂道」だけです。しかし、ここは地蔵坂(藁店)を上がった場所なのです。歩道はここも左側だけです。ID 80の地面でオーリングはよく見えます。
 トーンカーブを行うと、塀がはっきり見えるようになります。こうやって浮かび上がった塀(板3枚とコンクリートが見えます)はID 79の塀とそっくりです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79 住宅

1978年。住宅地図。

 菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。

1990年。住宅地図。

若宮町(写真)昭和54年 ID 84

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 84は1974年に「若宮町坂の下」で撮ったものです。しかし、普通すぎる写真であり、どうして問題なのか、歴史的に何が起こったのか、そもそも、どの四つ角なのか、何もわかりません。

 そこで、まずどの四つ角があるのか調べてみました。驚いたのは若宮町には四つ角が2つだけしかない、ということでした。全て残りは三つ角でした。では、見てみましょう。四つ角の➀は神楽坂により近い場所で、➁は新坂の一部です。坂下は矢印で示します。

東京都新宿区若宮町 (131040490) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット
https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/13/131040490.html

 では2枚を比べてみましょう。向こう側はともに下を向き、谷になっています。

若宮町の2つの4つ角

 よく似ています。それでも違うことがあり、まず電柱。数は➀は2本で、➁は1本。位置も違い、➀は1974年と完全に同じです。また、1979年の電柱看板は「西條歯科医院↑」(おそらく「この↑さき」)です。➀は谷のところに西條歯科医院があります。
 つまり➀が正しいと思っています。
 左右の塀にはペンキ書きで「無余地ニツキ 駐車シナイテ下サイ」と書かれています。すなわち、この撮影場所の背後にあるのは料亭「松ケ枝」の玄関なのです。左手の黒塀は駐車場。四つ角の向こう側の右角は若宮町の「一平荘」になります。どうも「松ケ枝」はここでもなくてはならない貴重な建物でした。
 なお、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で「05-10-50-1 新坂上から 1974-12-21」のうち「新坂上から」ではなく、実際は「若宮町の坂上」が正しいと思っています。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」 05-10-50-1 新坂上から 若宮町の坂上 1974-12-21

神楽坂5丁目(写真)昭和28年頃 ID 5189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5189は、神楽坂5丁目を撮ったものです。5丁目から神楽坂上交差点に向かって撮影しました。半袖の男性もいますが、ほかは長袖や背広です。街灯はおそらく昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかですが、左側の歩道は縁石と下水溝をおおう「どぶ板」以外にはなさそうで、右側は電柱も街灯も、家のすぐ前に立っています。神楽坂上交差点では路面電車の道が見えます。交差点を越えた道路は対面通行です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5189 神楽坂五丁目 恵比寿屋肉店前

神楽坂5丁目(坂上→神楽坂上交差点)
  1. 工事中? 立て看板の「あなたは右側を通って下さい」
  2. 電柱看板「山ぐち」は袋町に。下図では藁店を南に上がり、曲がってから「市ヶ谷高校運動場」に行く前から入ります。
  3. 「明治牛乳ホール」
  4. 通りを越えて「協和銀行」
  1. 牛豚肉(恵比寿亭)。販売中
  2. パチンコ(ホー〇ムセン〇)
  3. マスダヤ(洋品)
  4. 懸垂幕「エープ〇」(レコード店)と電柱広告「●牛込〇」
  5. パチンコ
  6. 2軒がはいり…
  7. 山下漆器店
  8. 標識ポール「神楽坂」
  9. 電柱看板「ナカノ」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂水族館の内幕|峰竜太

文学と神楽坂

 俳優・タレントのみね竜太りゅうた氏が20年余前に家を新しく購入しました。その顛末を含めて氏は「かんべんして下さいヨ!」(集英社、2000年)で書いています。大事なことですが、今の邸宅ではありません。1代前の邸宅についてです。
 生年は1952年(昭和27年)2月29日。趣味は熱帯魚、犬、スポーツジムなど。

 私と大違いの度胸のよさは、現在の下嶋大邸宅(ってほどでもありませんがね)購入の際にも発揮されました。
 土地は、バブル絶頂期のとき、私がちょうど海外に取材に行っている平成2年に、カミさんが新宿の神楽坂で見つけて買いました。帰国するなり、
「買ったわよ」
 と言うわけです。何を? って感じでした。
 土地を買ったなんて、そんな思い切ったことをと思っても、もうあとの祭り。決断が早いというか、後先考えないというか。(略)
 値段を聞いてまたびっくり。場所がまた神楽坂という東京の中心地ですから、安いはずがない。なんでカミさん、そんなに高い土地買っちゃったわけ? これには税理士の人ですら、びっくりしてましたもん。
 どうして神楽坂かといえば、私もカミさんもできるだけ山手線の中へ中へという気持ちが強かったからです。特にカミさんのところは代々東京の下町ですから、高級住宅地といわれる世田谷の成城や田園調布に対しても、
「えー、あんな遠い田舎、住めない」
 と思っていたようです。
 私がちょうど忙しくなる時期でしたが、まだそんなに稼いでいたわけじゃない。それでも当時の銀行は無担保でお金を貸してくれた、恐ろしい時代でした。バブルの頃はそうだったんです。あの頃土地を買って大変なことになっている人は(私を含めて)、いっぱいいるんですから。
 でもあまりにも金額がでかすぎて、ぜんぜんリアリティがない。100万、200万の借金なら、大変だ~、なんて思うけれど、本当に天文学的数字で、現実感がまったくありませんでした。
 買った土地は更地ではなく、ウワモノがついていたので、そこはずっと人に貸していました。新築したのは平成8年です。
 最初に買った土地は45坪ですが、その後バブルがはじけ、土地の値段も急激に下がり、つけ足しつけ足しで少しずつ買っていき、今は100坪ぐらいになりました。
私と大違いの度胸のよさ 妻の度胸のよさです。
下嶋 本名は「下嶋清志」氏です。
大邸宅 現在はこの邸宅に住んでいません。あくまでも以前の話題になった邸宅です。

1997年 住宅地図。

バブル絶頂期 1985年から1990年まで。株や土地をはじめとした資産の価格が、経済の基礎的条件からみて適正な水準を大幅に上回って上昇した状況。
平成2年 1990年
更地 建物がなく、すぐにも建物を建てることのできる宅地や工業用地。
ウワモノ うわもの。上物。不動産関係の用語。土地の上にある家屋やビルなどの建築物

 建築は『殖産住宅』なんですが(ちなみに営業マンの彼は今は独立しています)。
「つきましては更地の状態から家のできるまでをドキュメントで撮りますから、少し安くしてくださいね」
 カミさんのひとことで、『殖産住宅』の社長も登場して、撮影が入りました。地鎮祭から撮りはじめ、半年で完成するまでのドキュメント。
 家具は、知る人ぞ知る四国の高松に、『森繁』という家具屋さんがあり、その東京支社に頼みました。
 社員の方がうちへ来て設計図を作り、1階と3階に漆塗りの特注の家具を備えつけました。椅子に家紋を入れたり、家具だけでもそうとうかかったと思います。それも、
「撮影しますから」
 ということで安くしていただきました。
 撮影のためにカミさんはわざわざ着物姿で四国まで出かけ、家具造りの工程をビデオに収めてきたのです。
森繁 株式会社 森繁もりしげ。創業は1944年。家具の製造と販売、特別注文の家具の設計と販売、インテリアのプランニングと販売など。

 こんなカミさんでも値切れないモノがふたつありました。バブル期の土地と水槽です。
 ふたりで相談し、家のメインテーマとして好きな熱帯魚を飼うことに決め、大きな水槽を置くことにしました。熱帯魚は唯一カミさんとの共通の趣味。(略)
 水槽を置くことに関してはいろいろ勉強したのですが、勉強すればするほど奥の深いものであることがわかり、結局高くついてしまったようです。
 家のテーマが水槽だなんてカッコいいのですが、簡単に言えば「こんにちは~」と玄関を開けて入ってきたお客さまを、これで驚かそうと思って作ったものです。でも作ってよかった。これが今一番、癒しになっている。
 とにかく海と魚が好きな私は、水族館は一日いてもあきないところ。そのミニ版が家にあるだけで、ほっとします。海の中はまったく違う世界なのです。しばし現実から離れてリラックスできます。あと家でリラックスできるのは、トイレの中だけでしょうか……。
 この下嶋家の大邸宅、神楽坂水族館と命名しています(偉そうに、スイマセン)。

升本総本店(写真)

文学と神楽坂

 升本ますもと総本店は、江戸時代から創業の酒類問屋です。かつて揚場町にありました。昭和47年(1972年)、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、店舗の写真を撮っています。

05-14-39-2 飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」では(ただし写真の前方にあるゴミはトリミング しています。ここに正しい写真があります)

「神楽河岸」昭和46年4月。加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

 昭和60年(1985年)、民間再開発があり、以前に揚場町だった場所は「飯田橋升本ビル」になります。やはり田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」です。

05-14-41-1 升本酒店ビル 1985-04-16

 昭和57年(1982年)、升本総本店は揚場町から津久戸町に移転します。

2009/11 津久戸町にあった升本総本店 Google

 平成24年(2012)、都道(放射第25号線)の建設のため、津久戸町から御殿坂に登る途中の、筑土八幡町5−10にまた移転します。

現在の筑土八幡町の升本総本店。Google

2020/02 現在。升本総本店だった場所

 なお、 昭和46年の升本総本店の地図と、平成22年の飯田橋升本ビルの地図を書いておきます。

昭和46年 升本総本店

2010年 飯田橋升本ビル

学校帰り、筑土八幡神社で遊ぶ。升本総本店は氏子の筆頭。新宿歴史博物館 ID7448の一部  昭和41年9月

人間直木の美醜|鷲尾雨工

鷲尾雨工

文学と神楽坂

 直木三十五氏は、文壇ゴシップ欄で毒舌を振るい、『南国太平記』で流行作家になった人です。しかし、かつての同僚鷲尾雨工氏の見方は違っており、「人間直木の美醜」(中央公論。昭和9年4月号)では……

 牛込矢来江戸屋というおでん屋をやった時分から、僕と直木関係を知っていた人々は、なぜ直木を訪ねないのか、と訝しんだ。けれども僕が飢える場合、こちらから憐みを乞うまでもなく、先方からやって来て応分なことをしてくれるのが、我々の倫理観念からは当然すぎる事柄だと、僕は考えた。そんなわけで、彼が「南国太平記」を書き出すまでは、どんなに困っても、行かなかった。「南国太平記」の筆は冴えていたし(待て、彼の作品には触れるな、触れたら長くなる)、こちらは時々自殺という観念が頭に去来する情態だったので、僕は食べ物も喉へ素直に通らないほど苦慮した末ついに、木挽町の、直木・香西菊池と三枚の標札の懸つた豪奢な三階造りの待合風な建物を訪れた。昔に変わらぬボソボソとした彼の声が、二階から聞こえていた。話相手は、新聞記者らしかった。
 昔はとにかく、これだけ偉くなっているのだから、もっと早く訪ねなかった僕が悪かったかしら? 溺るる者は藁にも槌るという。僕はなんとも浅間しい情緒に支配されながら、玄関で待っていると、今は忙しいから会えないという御挨拶だ。来ている新聞記者は二、三名らしく、どこの天ぷ羅がどうだとかいう大声が、ちょうどその時、僕の鼓膜をあやしく顫動させた。
 だが渇き切った僕は、盗泉の水でもいい飲みたかった。そこで家へ帰ると、長い手紙を書いて、窮状をつぶさに訴え、若干の助けを依頼した。そして数日後に訪ねると、訪ねる時は電話をかけてから来い、という返辞だ。
 止んぬるかな、直木は、本当に忘恩の徒であった。
 けれども必要は無慈悲にも三度び木挽町を訪わせた。勿論、電話で都合を聞いて行ったのだ。だが、行って見ると、二時間後に来い。僕はその二時間に、早法新人戦のラヂオを、築地河岸の汚いミルクホールで、実にうら悲しく聞いたことを今でも生々しく憶えている。僕がそのあとで、貰った金は、30円であった。

関係 直木氏は鷲尾氏の最も親しい友人でした。しかし、直木氏の金銭的無軌道があり、仲違いし、生涯うち解けることはなかったようです。
応分なこと 身分や能力にふさわしいこと。その程度。分相応ぶんそうおう
当然すぎる事柄 直木氏のほうが「悪いことをした。金銭を貰ってほしい」と言ってくるのが普通だったと、鷲尾氏は思っていたようです。
南国太平記 直木三十五氏の長編小説。1930年(昭和5)6月から翌年10月にかけて『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に連載。
木挽町 こびきちょう、東京都中央区銀座の東部の地名。現在、歌舞伎座がある。
香西 香西織恵。こうざいおりえ。直木三十五の生涯の愛人。
建物 昭和4年10月、文藝春秋社は京橋区木挽町八丁目一番に「文藝春秋社倶樂部」を設置。三階建ての日本家屋で、社友、直木三十五の執筆所を兼ねていて、直木三十五は離婚後、この「文藝春秋社倶樂部」に住み続けます。
溺るる者は藁にも槌る 溺れる者は藁をも掴む。おぼれるものはわらをもつかむ。危急に際しては、頼りにならないものにもすがろうとする。
盗泉の水 「渇しても盗泉の水を飲まず」とは「いくら困窮していても、不義・不正にはいささかたりとも関わるべきではない」。「盗泉の水」は「すこし不正があってもしょうがない」でしょうか。
止んぬるかな 已んぬる哉。もうおしまいだ。今となっては、どうにもしようがない。
忘恩の徒 ぼうおんのと。世話になった人に感謝することもなく、その恩を踏みにじるような人
築地河岸 つきじがし。築地の海軍省所有地を借り受け、臨時の魚市場を開設し、築地河岸から築地市場になりました。
ミルクホール 牛乳、パン、ケーキ類などを出す、手軽な飲食店。明治後期に、新聞・雑誌を自由に閲覧し、これから昭和初期にかけて流行した。やがて喫茶店やカフェに取って代わられた。
30円 昭和元年は、公務員初任給75円、ビール大瓶42銭、コーヒー10銭、牛乳1本8銭、アイスクリーム1個20銭、映画館入場料30銭、新聞代1ケ月1円。企業物価指数では昭和2年の1円は令和元年の636円。したがって、昭和初年の30円は約2万円です。