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愛日小学校(写真)給食見学 ID 10794

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794は昭和39年、新宿区北町の愛日小学校の給食を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794 愛日小学校 給食見学

 黒板に「六月十九日」とあります。昭和39年6月19日は金曜日でした。父母の参観日の様子でしょう。教室の後ろの母親らは外出着で、就学前の子ども連れやおんぶ紐の姿もあります。暑い日らしくサッシ窓が開いています。
 黒板は低学年らしく平仮名ばかりです。生徒は木製の2人掛けの机で、横にランドセルを掛けています。
 机の数は前後6列、一番右は7列あります。左右は見切れている左側にもう1列ありそうです。4×6+1=25の机に2人ずつで、1学級50人です。
 文部省は50人だった義務教育の学級定員を昭和39年度から45人に引き下げました。ただ教室や教員が不足していて守られないケースもあったようです、
 給食は角形トレーに厚めの食パン。2枚もらっている男の子もいます。主菜と副菜の2品を先割れスプーンで食べています。小さめのお椀は脱脂粉乳と思われます。第2次大戦敗戦後の米国からの援助物資として始まり、地域によっては昭和40年代まで続きました。

愛日小学校の歴史では…

期間出来事
明治3年東京府第三校開設(愛日校の前身)
明治13年7月牛込区北町26番地に吉井学校と市ヶ谷学校の二校を合併、愛日校を創立。
昭和20年5月戦災で校舎全焼する。
昭和21年4月愛日国民学校は閉鎖し、児童は市谷、津久戸、牛込仲之小学校に移る。
昭和27年9月東京都新宿区立学校設置条例により、愛日小学校の設置が決まる。
昭和31年12月東京都新宿区北町26番地に、小学校として我が国最初の4階建て鉄筋コンクリート校舎建築に着手する。(第一期工事)
昭和32年3月東京都教育委員会より、東京都新宿区立愛日小学校設置が認可。
昭和32年4月学区域変更により、市谷、津久戸、牛込仲之小学校より、1年から5年まで786名を受け入れ、入学式を市谷小学校で行う。
昭和32年9月新校舎で第2学期始業式を行う。(第一期工事完成)

 昭和29年、学校給食法が制定されました。また農林水産省「ふるさと給食自慢」の献立例では、昭和39年、「揚げパン、ミルク(脱脂粉乳)、おでん」という献立が出ています。

箪笥町(写真)南蔵院 昭和44年頃 ID 8294

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294は南蔵院を撮ったものです。撮影は「昭和44年頃か」と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294 南蔵院

 石の門柱に小さく「南蔵院」の表札があります。その右に「大聖歓喜天」の石標、よく見ると左側にも同じくらいの高さの石標があります。現在は新しい門柱に代わっていますが、両脇の石標は残っています。
 本堂がやや奥まって建っているのは大久保通りの拡幅計画に備えたものです。本道の後ろのコンクリートの建物は前田建設牛込北町寮で、2016年頃までありました。
 歩道と車道との間には段差があります。昭和35年(1960年)のID 565とは違うのはガードレールができたことです。右側の電柱にはパチンコ「おおとり」と「旅荘駒」の広告があります。
 前の大久保通りには都電13系統の石畳の軌条があります。その脇の車道は、良く見るとピンコロ石で舗装してあります。この部分は「弁天坂」と呼ばれる坂なので、滑りにくくしたものでしょう。
 大久保通りの都電は昭和45年(1970)に廃止されました。
 南蔵院は真言宗豊山派の寺院で、長く読むと、天谷山竜福寺南蔵院です。住所は新宿区箪笥町42番地でした。元和元年(1615年)吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天2体を上宮・下宮として祀っていましたが、御用地となり、延宝9年(1681)上宮と共に当地へ移転し、南蔵院と改号しました。なお、もう一体の下宮は弁天町の宗参寺に祀られています。

牛込柳町(写真)昭和51年 ID 441

文学と神楽坂

全く場所はわかりませんでした。これは地元の方からです。

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441は、昭和51年(1976)6月、牛込柳町(市谷柳町)交差点付近の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441市谷柳町、箪笥町方向

 写真説明では「市谷柳町、箪笥町方向」とあり、交差点から東側の大久保通りの坂(焼餅坂)の上がりはじめであるようです。しかし当時の住宅地図と写っている店名が一致しません。
 一方、反対の西側の坂(若松町方向)の住宅地図には写真の店名があるので、説明の向きを間違えたものでしょう。

住宅地図。2013年7月牛込柳町付近(google)

住宅地図。1978年 牛込柳町付近

 街灯は2種類あるようです。1つ目は円盤形の大型蛍光灯で、首のところで大きく曲がり、その中に無名の名札らしきものがついています。2番目は高い電柱についた道路照明灯です。
 写真左側の白くて高いビルはマンション「シャトレブーケ」(1972年01月築)で、現在もあります。
 また写真中央の「カワ◯◯◯◯」は地図では「カワカミくつ店」で、2013年のストリートビューでは店名が確認できます。
 柳町交差点の地名は「市谷柳町」ですが、「牛込柳町」として親しまれてきました。かつての都電の停留所や、現在の都営地下鉄江大江戸線の駅名も「牛込柳町」です。
 空気が流れにくいスリバチ地形が原因の「排気ガス禍」で昭和45年、全国的に有名になりました。

 この写真は排ガス問題より少し後です。子どもの立つ左側の交通標識は読めませんが、おそらく交差点内に車が止まらないよう促す「ゴー・ストップ規制」でしょう。

牛込柳町(昭和51年)
  1. オリエント ROYAL CHALLENGER(洋服店)
  2. 鈴木商店 鈴木金物店
  3. カワ◯◯◯店(カワカミ靴店)DC
  4. 質 松永 松永◯◯ 松永質店
  5. 電柱。加藤産婦人科。笹川時計◯◯店
  6. 金子◯◯製作所 数軒おいて
  7. 白いマンション(シャトレブーケ)

日本新劇史

文学と神楽坂

 松本克平氏の「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から芸術倶楽部の誕生を見ていきます。新劇では一元論「金銭だけ」ではなく、二元論「研究所」も大事だとして、島村抱月は「芸術座研究所」、改名して「芸術倶楽部」を作りました。

 まず抱月が彼の牙城とたのんだ芸術倶楽部建築のいきさつ、、、、から紹介してゆきたい。
 大正4年10月号創刊の芸術座の機関誌「演劇」には、「芸術座の創立当時からの根本計画だつた芸術座研究所は今回愈々竣成を告げて名称も芸術倶楽部と改め8月20日芸術座全部移転した」という知らせと演劇学校開校の記事を掲げている。これまでの事務所は牛込区西五軒町34番地の貸席清風亭であった。
 すでにたびたび述べたように大正3年7月18日より24日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、50銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年10月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、4年2月4日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町9番地に敷地を改めて、7ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到つたのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい7000円と推定される)。抱月はこの倶楽部を文化人の憩いの場、会合の場にしようと夢みていた以外に、ここでやる研究劇に精魂を注ぎ、俳優の再教育を目ざして、須磨子中心のスターシステムに代るべき新しい俳優を育て上げる学校にしようと考えていたのであった。だが工事の挫折は予算の膨脹を招き、危機はさらに危機を生んで芸術座を窮地へ追い込んでいった。建物が完成した時、いちばん最初に訪れてきたのは恐ろしい債鬼であった。そしてこの債鬼に追い立てられて台湾へ、朝鮮、大連へ、さらに浅草常盤座へと矢つぎばやの活動を余儀なくされたのであった(中村吉蔵筆「芸術座の幕の閉るまで」より)。自分の小劇場を完成しながらそこで念願の研究劇をやる時間と経済の余裕を芸術座は当分の間持てなかったのである。
牙城 がじょう。「牙」は大将の旗。城内で大将のいる所。城の本丸。根拠地。ねじろ。
西五軒町34番地の貸席清風亭 西五軒町の北部は目白通り、首都高速と神田川に、東は新宿区東五軒町に、南は赤城元町に、西は水道町と築地町に接する。清風亭は北にあった。地図は

東京市及接続郡部地籍地図https://dl.ndl.go.jp/pid/966079/1/454

肴町停留場 現在は「牛込神楽坂駅前停留所」
9番地 9番地のほかに、8番地や10番地があります。詳細は別項で。
文化人の憩いの場 これはフランス語の客間(サロン)を意味するもので、貴族やブルジョアが日を定めて客間を開放し、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しむ場。
債鬼 さいき。借金や掛金をきびしく取り立てに来る人。借金とり。
浅草常盤座 ときわざ。明治17年、浅草公園六区で初の劇場として始まる。歌舞伎、新派劇、連鎖劇等を興行し、映画を上映した。ほかに大正6年「浅草オペラ」の発祥の場、昭和23年には「浅草ストリップ」の発祥の場である。1991年、閉鎖。
矢つぎばや 物事を続けざまに手ばやくすること。

 まことに超人的な巡業ぶりであった。
 まず大正4年早々信州をふり出しに、九州博多、長崎、鹿児島の旅に出た。その間工事は進められていた。8月20日、事務所移転の時ちょっと帰京して、8月24日には早くも出発、秋田、山形を巡り、そのまま北海道へ渡り函館、小樽、札幌、旭川を打って9月末一旦帰京、その月のうちに台湾へ渡っている。左に芸術座記録よりその長期興行を略記する。(略)
 まことに凄じい巡業である。留守中の工事は相馬御風、中村星湖、片上伸、石橋湛山、尾後家省一の諸氏が協力、学校と雑誌の方は中村吉蔵、田中介二が協力して意外に早く竣成開校の運びとなったのであった(上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件は、九州巡業中のことであることはすでに述べた)。
 新劇の堕落、新派以下の新劇と小山内たちから罵倒されながら、抱月は建築費のためにこうして苦闘していたのであった。
 泥まみれのこの頃の抱月について水守亀之助は「読むことも書くことも止めてしまつたといふ荒廃時代」と言っている(『わが文壇紀行』より)。抱月には寸暇もなかったのである。後世に金玉の文字を残すことを念願としている個人芸術家の眼には、集団のために自分を拠げ出している演劇人の自己犠牲は、荒廃としか映じなかったのである。そしてただ「実行の人」として、その文才を惜しまれただけで、その行動の底に燃えていた夢と理想は演劇人にも文壇人にも理解されなかったのである。作家と演劇人の世界の隔り、批評と行動の溝は、全然食い違っていたのであった。この乖離は昭和の現在にまで尾をひいている。

上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件 「日本新劇史」によれば…
 当時九州を巡業していた上山草人は鹿児島で須磨子の『復活』大当りの評判をきいたのであった。そして土地の記者団や興行師から懇望され、ついに千秋楽の夜は一夜稽古の「そのカチューシャを演出しなければならなかった」と言っている。以後、草人は朝鮮、支那、満州、台湾にかけて十六ヵ所で、山川浦路のカチューシャでこの『復活』を売り物にして巡業したのであった。やるに到ったその言いわけがまた振っている。「砂糖入りのロシヤパンが流行るのなら普通のパン屋でも精々甘い所を焼出さなければなるまい」
「これでは芸術座が渡鮮する時の利害に対する影響は頗る重大です」として抱月も鈴木弁護士に依頼して上山草人を相手取って興行権侵害の告訴をおこした。早稲田の師弟はこうして法廷で相見えることになったのである。
 草人は大陸巡業の帰り、四国の宇和島に来てはじめて自分が抱月に訴えられていることを大阪朝日新聞の特派員から知らされた。草人はこの事件を義侠的に引き受げてくれた鈴木弁護士の一団に一任した。その後さまざまな曲折を見せたが、結局、裁判長がものわかりのいい人で、法廷から抱月と草人を会議室に呼び入れ、法服をぬいでから、「貴君方は社会の先覚者でいらっしゃるのだから、こんな感情問題はさらりと水にお流しになったらいいでしょう」(草人著『煉獄』より)と物柔らかに和解を勧めたので至極簡単にけりがついた。つまり示談になったのだった。原作がトルストイで、脚色がアンリ・バタイユで、それを抱月が翻案したのでは著作権、上演権問題は曖昧になってくる。だが作曲の著作権があるので、中山晋平も原告の仲間に加えられ、新聞のはやし立てるなかで、審理がつづけられた結果、唄の著作権だけは侵害の事実が明白となった。晋平はこの事件の結末についてこう書いている。判決言渡しの直前、裁判長が法服をぬぎ捨てて、島村、上山の原被告に面接、「文化人同志の間で余り黒白を明白にすることも望むところではあるまいから、近代劇協会は今後この唄を使わぬということを条件に和解してはどうか」と勧告、両氏とも異議なくこれを諒として、告訴はとり下げられ、新聞は両氏の笑って握手している写真を掲げて社会面を賑わしたと。

小山内 小山内薫、おさないかおる。明治、大正で劇作家、演出家、小説家。東京帝国大学を卒業し、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。松竹撮影所長から、大正13年、土方与志らとともに築地小劇場を設立。生年は明治14年7月26日、没年は昭和3年12月25日。享年は48歳。

 写真は芸術倶楽部の全景。二階正面の三つの窓の上に横に並んだ五つの○の中には、右から芸術倶楽部という浮彫りの字が一つずつはめこまれている。その上の大型の○の中には芸術座のマークである仮面(マスク)の浮彫りがはめこまれている。一階正面中央の窓の左側が事務所と応接室であったという。

芸術倶楽部の全景。松本克平「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から

 二階正面の突き出た窓の処は個室(二室とも三室ともいう)であり、個室の裏側は二階廊下を隔てて二階の客席があったという。二階の個室は脚本の読み合わせや、外部の人々の小集会にも貸したという。空いている時は劇団員の寝泊りにも使っていた。
 一階正面左手の黒い処は玄関であり試演場への入口であった。客席の両脇と後方は廊下であり、通路であった。入口のさらに左の突出た横板の一階建の部屋らしいものは手洗所であり、その奥は台所になっていた。座員は手洗所の外側を廻って台所の脇の内玄関から稽古場その他へ(下手廊下奥)出入りしていた。(次頁は筆者の想像による見取図)

芸術倶楽部

若宮町(写真)令和4年、ID 17060~62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060~17062は、令和4年(2023)3月、若宮町から善国寺方面を望む写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17061 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17062 若宮町から善国寺方面を望む

 この道は「毘沙門横丁」と呼ばれ、ほぼ同じアングルの写真が過去にもあります。左側は料亭「松ヶ枝」のあった場所でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む。平成31年

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

昭和30年代の料亭「松ヶ枝」資料提供:新宿歴史博物館(上村敏彦「東京花街・粋な街」街と暮らし社、2008年)

 松ヶ枝の創業は明治38年。廃業は不明ですが、牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第8号(1996)では

松ヶ枝は、K興業の手に渡りしばらく営業していたが、オーナーの死後、取り壊され、周囲をコンクリートで固めた駐車場となったまま今日に至っている。
K興業 国際興業です。
オーナー 小佐野賢治氏です。死亡は1986年(昭和61年)10月27日。
駐車場 平成2年(1990)には住宅地図では松ヶ枝はありますが、確かに1995年には駐車場に。クレアシティ神楽坂若宮町は2002年10月に完成。

 オーナーの死後、直ちに取り壊されたとすると、松ヶ枝は昭和62年頃に廃業し、一方、住宅地図を信用すると、廃業は平成2年以降ですが、住宅地図の印刷は数年間遅れるのが普通です。「ここは牛込、神楽坂」も平松南氏の「神楽坂まちの手帖」(けやき舎)も廃業は何年なのかを書いていません。

若宮町(令和4年)
  1. クレアシティ神楽坂若宮町
  1. (神楽坂もりのいえ)
  2. 果房 メロンとロマン
  3. (かぐらビル)
  4. サンライズ神楽坂と自動販売機
  5. 神楽坂 たれ焼肉のんき

地蔵坂(写真)藁店 ID 7804-7806, 14104、昭和41年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804-7806とID 14104は地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。時期は「昭和41年頃か?」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804 袋町 地蔵坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7805 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7806 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14104 袋町 地蔵坂入口の建物

 西側の電柱はすべてコンクリート製で細い柱上変圧器がありますが、東側には木製のものもありました。車道は滑り止めのオーリングを使い、下水は道路の側溝を流れています。
 これは昭和41年(1966年)でしょうか? 「旅館 竹兆」は住宅地図の昭和47年(1972年)にはなく、昭和48年(1973年)では出てきます。昭和39年までには「松竹荘」は一軒だけですが、昭和40年から47年までは「田中医院」と一緒に出てきて、昭和48年には再び1軒だけの「松竹荘」として登場しますが、「歯科 佐々木」と一緒に出るのは全くありません。「あかつき」は昭和49年に始めて出てきて、田口重久氏の写真でも昭和49年に出てきます。つまり昭和49年が正しいとこになります。
 これでよければいいのですが、まだ出ていない建物も考えます。地蔵坂と神楽坂通りを結ぶ場所にある武田芳進堂(現・八潮第二ビル)と中河電気(現・八潮ビル)です。武田芳進堂は昭和46年9月に、中河電気は昭和43年9月に大きなビルが完成しています。どちらも5階建てなので、見えるはずですが、ありません。ビルは完成するのに1年ぐらいかかるので、昭和42年以前にこの写真4枚が撮られたものでしょう。
 住宅地図についてはただただ印刷が遅すぎたようです。

地蔵坂(昭和41年頃)
正面突き当たりに相馬屋文具店
  1. 道路標識。指定方向外進行禁止。 (逆転式一方通行を示す標識)
  2. 日本盛。〇◯ あかつき
  3. 電柱看板「すき焼 恵比寿 ココ」
  4. シャッターの降りた店(地図では八百屋)
  5. 家屋2軒
  6. 電柱看板「理髪 モリワキ ここ 」「斉藤医院」
  7. 松竹荘「歯科 佐々木」広報板
  8. 家屋1軒。「車庫につき 駐車お断り」
  9. 旅館 竹(兆)
  10. 電柱看板「質 は 上値 サ〇〇〇 のフクヤ袋町 4」「日本出版クラブ」
  11. 電柱看板「質 大久保」「日本出版クラブ」
  12. 道路標識。8-20。(駐車禁止)(区間内)
  1. 電柱看板「加藤産婦人科」
  2. BAR Hayama ニッカバー
  3. (川島)病院


松井須磨子の臨終|飯塚友一郎

文学と神楽坂

飯塚友一郎 飯塚友一郎氏は『随筆 腰越こしごえ帖』(書物展望社、昭和12年)で松井須磨子氏の自殺について書いています。飯塚友一郎氏は横寺町の飯塚酒場の子供で、演劇研究家。東京帝国大学法学部卒業後、10年間弁護士を開業し、同時に歌舞伎を研究。大正15年『歌舞伎細見さいけん』にまとめ、昭和7年に日本大学芸術学部教授。生年は明治27年11月11日、没年は昭和58年4月21日。享年は88歳。

     松井須磨子の臨終

 容易に段落のつかぬ仕事を持つ身には、暮も正月も、氣ぜはしく、あわたゞしく過ぎて今日はもう一月五日だ。さうだ、一月五日といへば松井須磨子の命日ではないか。忘れもせぬ大正八年の今日があの日だつた。

 私は、須磨子の生前中に別段の私交があつたわけでもなく、又、あんまり物覺のいゝ方でも決してないのに、何故、この日が記憶に殘つてゐるかといふと、不思議な因緣で彼女の臨終の物音を、恐らく誰よりも一番近く耳に聞いたからだ。臨終の物音といふのは、をかしな言ひ方だが、御承知の通り彼女は藝術倶樂部の一番奥まつた物置で、テーブルと椅子を踏臺にして、梁へ紐をかけて、その踏臺を足蹴りにして縊死をとげた、そのガターンといふ物音だつた。
 その頃、私は牛込横寺町の藝術倶樂部と、すぐ隣接した宅から大學に通つてゐた。殊に私の起居する奥の離れ座敷は、建仁寺垣をへだてて藝術倶樂部の建物とは三四間しか離れてゐない。その窓から、島村抱月の靜かに淋しい顏がのぞかれたり、須磨子の喚聲叫聲が洩れたりしてゐた。
 須磨子は、よく近所へ買物などに出かける時、櫛巻に白粉氣もなく洗ひざらしの浴衣か何かで、極く世帶じみた風をしてゐた。當時豪勢な帝劇女優などゝ比べて、凡そ女優らしくない、長屋のおかみさんか女工の樣だと、近所の者は陰口をきいてゐた。それに誰いふとなく須磨子は横暴で、抱月先生はじめ一座の男優までも尻に敷くといふ噂も立つて、近隣の評制はあまり芳しくなかつた。
気ぜわしい 気忙しい。あれこれと気持ちがせかれて、落ち着いていられない。
建仁寺垣 竹垣の一種。京都の建仁寺で初めて用いた。竹を敷き詰めて、縦に密に並べる。

櫛巻 くしまき。女性の髪の結い方。髪をくしに巻きつけてまげとした手軽な結い方

櫛巻 コトバンク

 ところが前年、大正七年十一月に急に抱月を失ふと、須磨子の愁嘆は實に人の見る目にも氣の毒で、さすがに世間の同情は翕然として、この孤獨の女王に集まつた。藝術座の正月興行は有樂座メリメエの「カルメン」だつた。いつも新劇などは振向きもしない家人が、珍らしく有樂座の須磨子を見ようと言ひだしたのは、恐らく須磨子その人の悲劇に關心をもつたに違ひなかつた。私共が三日に見物した有樂座の「カルメン」は、新劇には珍らしく興行價値百點の大入だつた。「煙よ煙、一切合切みな煙」と空うそぶくカルメンの頬に、ほんとうの涙が光つてゐるように、見物には見えるのだつた。
 それから、中一日置いて五日の未明、私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段氣にも止めず、叉、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞ん込でくる。
「物置で椅子卓子踏臺にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した。後で聞くと、藝術倶樂部の人々はみんな、ずつと離れた表の方に寢てゐにので、誰も奥の物置の物音などには氣がつかず、夜が明けてから、たしか小使が、何かの拍子に圖らずも、死骸を發見したのだといふ。して見ると、やはり私が一番、彼女の死の床の近くに寢てゐわけになるのかしら。
翕然 きゅうぜん。多くのものが一つに集まり合うさま
有楽座 高等演芸場として東京の有楽町に建てられた日本最初の洋式劇場。 1908年11月1日開場。定員は桟敷を含めて900人。従来の平土間ではなく椅子指定席。食堂と休憩室も設置。
メリメエ Prosper Mérimée。プロスペル・メリメ。フランスの作家。代表作は中編小説の「カルメン」(1845)
カルメン スペインを舞台にしてロマの女カルメンと竜騎兵ドン・ホセの恋愛悲劇
新劇 旧劇(歌舞伎)に対する明治以降に興った近代演劇,戯曲(ドラマ)が土台になる
卓子 たくし。つくえ。食卓。テーブル。
踏臺 実際に縊死した時の踏み台が出ています。https://dl.ndl.go.jp/pid/966251/1/24

 も一つ奇しき因緣は、その須磨子の遺言狀が届けられて、それを最初に手に握つたのがまだ娘時代の今の私の妻であつた。須磨子はその前夜、お詑と後事を托した遺言狀を認めて、それを翌早朝、牛込余丁町坪内家へ届けるように甥に當る青年に命じた。その青年も知らずにその書面を余丁町へ持參したが、妻の記憶によると、たしか起きぬけに玄關で受取つたといふから、朝七時頃でもあつたらうか。その頃は誰も、何も知らなかつたらしい。その時恰も兩親は熱海の別宅へ滯在中だつた。妻は、その受取つた書面を何の氣なしに懷にはさんで、朝の用事などを片づけてゐると、それから一時間餘も經つた頃、新聞記者が、どやどやと押かけてきた。はじめてそれが、たつた今しがた自殺した人の遺言狀と知つて、妻はぞつとしたといふ。
 薄氣味わるく懷中から摘み出たした遺言狀を、新聞記者はどうしても見せろといふ。いえ宛名人が留守だから、御見せできません。それならば表書きだけでも、といつたやうな押問答が繰返されたが、そうと知つては、早速熱海へ届けなければと、人を派したのであつた。

 私は、その年の夏に大學を卒業した。そしてその翌年、緣あつて結婚したのが、この遺言状を何の氣なしに手にした今の妻である。何の氣なしに臨終の物音を最初に耳にした男と、何の氣なしに遺言狀を最初に手にした女とが、こうして一緒になつてゐるのも、不思議な因緣「である。(昭和十二年一月)
表書き おもてがき。手紙や文書などを包む用紙(封筒など)の、表面に書く文字。
因緣 前世から定まった運命。宿命。以前からの関係。ゆかり。

矢来能楽堂(写真)昭和47年 ID 12155、令和4年 ID 17578, 17579

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155、17578、17579は矢来能楽堂を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17578 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17579 矢来能楽堂

 最初の写真の撮影は昭和47(1972)年9月、残りの2枚は令和4(2022)年10月で、時間差50年があります。「データベース 写真で見る新宿」には、さらに古い昭和27年のID 9842もあります。何回か化粧直しをしているようですが、建物は同じです。
 公益社団法人観世九皐会所有の能楽堂で、明治41(1908)年、神田西小川町に舞台を設けるも、関東大震災で焼失。昭和5(1930)年、矢来町の現在地で復興、昭和20(1945)年5月24日、空襲でまた焼失。戦後の昭和27(1952)年、現在の舞台を完成。平成23(2011)年、国の登録有形文化財に登録。

 矢来能楽堂は、能・狂言の公演・稽古に使用し、観世九皐会の主催公演や、所属能楽師の公演が主体で、ほかに矢来能楽堂での小学校修学旅行や狂言体験教室、中学校の能楽体験講座、大学講堂での能狂言観賞会開催、官公庁招聘の能楽ワークショップ、建築物の国際学会イベントで能楽堂見学会など。
 客席総数は座敷席を含んで237席。地階に喫茶室があります(360°バーチャルギャラリー)。

矢来能楽堂

新潮社(写真)昭和44年 ID 8282

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282は、昭和44年(1969)頃、矢来町の新潮社の前から北に向かって写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282 矢 来町 新潮社

 右の社屋が新潮社本館です。この社屋は昭和41年8月に落成しました(佐藤俊夫「新潮社七十年」新潮社)。右側の街灯は左側の背の高い街灯と違って、私設灯(軒灯)でしょう。
 ID 114(昭和45年3月)よりも少し前の写真です。すでに新潮社の2棟の社屋の間にあった石造旧社屋はなくなっています。一方、石造本社が残っているID 121 新潮社前(昭和56年)とは矛盾しますが、ID 121の撮影時期が間違っています。
 右の歩道と車道の間には側溝がありますが、縁石は低く段差がほとんどないように見えます。
 後ろ姿の女性の右の郵便ポストは新潮社の敷地(植え込み)内にありますが、私設ポストではなく、郵便局の管理だと思われます。おそらく新潮社から場所を借りているものでしょう。
 左側のトラックの側面には「株式会社三原製本所」の文字が見えます。運転台と荷台の隙間から道路標識「車両進入禁止」が見え、その下にある横書きの銘板は「新潮社〇〇部」でしょうか。地図によれば車庫になっています。
 道沿いの店の看板は「理容後藤」、前の電柱の縞模様も「後藤理髪店」でしょう。地図では「ゴトウパーマ」です。
 電柱の上にの突き出し広告は「大日本印刷」と読めます。出版・印刷の町らしい1枚です。

住宅地図。1970年

矢来町(写真)明治末期 赤城神社の山車 ID 156

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156は、明治末期、矢来町派出所付近で赤城神社祭礼の山車だしを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156 赤城神社祭礼山車、矢来町派出所付近

 写真説明の矢来町派出所は現在、牛込警察署矢来町地域安全センターといい、下図の✕印です。1世紀を経た現在も、牛込天神町交差点の同じ場所に交番があります。
 広場のような場所で、道は左奥に向かって下っています。山車を曳く人が右に並んでいるので、坂を上る途中でしょう。
 路面は舗装されていないだけでなく、大きくうねっている部分があります。
 人々の服装は長袖や薄手の着物で、おそらく秋祭りです。赤城神社の祭礼は現在でも9月です。雨模様らしく、傘を差している人が目立ちます。
 周囲は店舗が並んでいるようてすが、左の「理髪舗」以外は読めません。
 山車を見ている人は沢山いて、人力車も出ています。多くは和服を着ていますが、左側の白い洋服を着た人は帽子をかぶり、ニッカボッカーらしいズボンをはいています。
 以下は全くの想像ですが、中央の立派な石造りの建物は「田中銀行牛込支店」ではないでしょうか。右にカーブする道は人力車も走れる程度に平らです。三角形の道の中央部(薄水色)に盛り上がりがあることも理解できます。この盛り上がりを避けつつ、山車が神楽坂方の赤城神社に戻ってくる様子ではないかと思います。

東京市及接続郡部地籍地図-天神町交差点付近

矢来町交番と天神町交差点 Google

矢来町(写真)町並み 昭和30年頃 ID 124

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 124は、昭和30年(1955)頃、矢来町を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 124 矢来町

 この写真は「新宿区史」(昭和30年)の挿画として使われたものです。小見出しは「山の手住宅地」「台地上の宅地としての利用例を示す。写真は矢来町」。本文は「牛込は本区の東北部にある高度20米から40米の台地である。牛込台地の特徴は小日向台或は関口台から観察できるとおり、小日向・関口の両台が神田上水が急崖となって臨むに対し、牛込台の北面は赤城社・筑土社附近を除いてこの低地に向ってゆるやかな傾斜をなしでいる。」
 これから、地元の方は……

 手がかりが少ないので、撮影場所を大胆に考えてみます。
 中央の地平線に早稲田大学の大隈講堂が見えます。その左の遠くに三角屋根の建物群が見えますが、これはID 12145「神楽坂上空(昭和35年)」を参考にすれば、早大の早稲田キャンパスでしょう。

 一方、ほぼ同時期のID 13029「赤城神社より遠望(昭和28年)」に比べると撮影位置は低く、一般的な2階屋の窓くらいから撮影しているようです。
 商店はなく道は舗装されていません。木造の平屋も多く、早稲田通りや牛込中央通りから入った場所でしょう。雪が残っているので季節は冬で、写真右が北だと思います。
 もう一度遠景に戻って、大隈講堂の右手前に四角い窓の並んだコンクリート造らしき大きな建物が見えます。屋上には切り文字看板があるようです。病院や工場のような建物でしょう。この建物はID 13029でも左端に写っているようです。

地理院地図 矢来町付近

 当時の地図から推測すると、大日本印刷の榎町印刷工場が有力候補になります。この仮定が正しければ、撮影場所は日本興業銀行矢来町社宅(旧・酒井家矢来屋敷)付近ではないでしょうか。


 

矢来町(写真)第二交差点 昭和63年 ID 123

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 123は、昭和63年(1988)2月、矢来町の早稲田通りと牛込中央通りとの三叉路を西から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 123 矢来町

 遠くに見える信号機(矢来第二交差点)から右に行くと牛込中央通りになり、対面通行です。まっすく進むと早稲田通りの逆転式一方通行の区間に入ります。
 逆転式は、0時から12時まで写真前方から奥に向かって、13時から24時まで奥から前方に向かって車が走ります。写真では信号機の右側にある回転式の交通標識が「一方通行出口」になっており、撮影は午後でした。
 神楽坂1~5丁目では逆転する平日12-13時に歩行者天国を挟みますが、この矢来町の区間にはそれがありません。細かくは神楽坂通りの交通規制を見てください。
 また信号手前の区間は、その先の逆転式の区間と大差ない道幅を対面通行にしています。このため歩道が非常に狭く、場所によっては危険を感じるほどです。この状態は現在も変わっていません。

矢来町(昭和63年)
  1. 駐車場
  2. (横断歩道)
  3. 電柱。雨森歯科、このさき。旺文社。
  4. .東京(都) 水道(局下)水局 指(定工)事店 水道下水工事 萬水(工)業
  5. (道路標識・指定方向外進行禁止)
  6. 信号機(右折矢印信号)
  7. (横断歩道)
  1. (横断歩道)
  2. 質 ヌマベ
  3. クリーニング
  4. 白〇 宮川 ジャノメ
  5. 信号機(裏側)
  6. 明治生命 トーヨーサッシ

住宅地図。昭和63年。

新潮社(写真)昭和30年後半 ID 121

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 121は、新潮社前を撮ったものです。撮影時期は昭和56年(1981)頃と説明されていますが、この正門は大正時代のものなので、昭和41年8月までになくなっているはずです(佐藤俊夫「新潮社七十年」新潮社)。したがって撮影は昭和40年(1965)以前のいつかです。さらに下の3枚目の写真を見ると、昭和34年(1959年)には奥の倉庫ができています。そうすると、撮影は昭和34年から昭和40年まででしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 121 新潮社前

 佐藤義亮氏が明治29年、月刊誌「新声」を創刊し、明治37年、月刊誌「新潮社」を創刊、大正2年、矢来町で社屋を建て、大正12年、4階建ての新社屋を建築しました。

 この大正期の社屋があるのは矢来町71番地です。ID 121の手前に見える社屋は、元は72番地でした。この建物には玄関がなく、奥にある石造りの旧社屋を手前に建て増したものでしょう。ID 121では古い玄関と、その上の丸みを帯びた旧社屋の外壁が確認できます。

新潮社

 さらに奥にも別棟(倉庫)が続いています。ここは元の69番地です。
 手前の72番地は1957年、69番地の別棟(現在は営業部書店係)は1959年の完成でした。さらに国立国会図書館で調べると1966年「新潮社新社屋落成記念」(新潮社、昭和41年)が出版されています。新潮社は発展と共に本社を建て増したようなので、何が新社屋なのか分かりにくいようです。
 現在の新潮社本社は、石造社屋を取り壊し、4階建てのビルを奥に伸ばした形になっています。玄関も新しくなりました。また別棟も含め、すべてが「矢来町71番地」に合筆されています。

新潮社。営業部書店係と本館

矢来町(写真)中の丸 昭和45年 ID 118-120

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118からID 120までは、昭和45年、矢来町の中の丸を撮ったものです。ただし、ID 118とID 119の撮影時期は昭和45年3月、ID 120は昭和45年4月となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 118 矢来町中の丸あたり

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 119 矢来町中の丸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 120 矢来町中の丸

 ID 118は自動車が遠くに走っています。T字路だと思われ、おそらく一方通行か、あるいは対面通行でもほとんど自動車は通らない場所でしょう。中の丸というのは明治時代に矢来町3番地は巨大な区域なので旧殿、中の丸、山里の3つのあざに分けていました。中の丸は中の丸御殿の跡の意味で、北東部分(下図で橙枠)になります。
 ここでT字路になる場所は9か所です。

 次は電柱を見ていきましょう。電柱の位置はまず不変ですが、ただし変わるものもあるので、ここからは全て推量です。ID 118-120のコンクリート製と木製の電柱は右側にあります。
➀ 左側だけ ➁ 左側だけ ➂ T字の中央に電柱1本
➃ 電柱0本 ➄ 右側だけ ➅ 左側だけ
➆ 電柱は遠くの左側1本と近くの右側1本
➇ 右側だけ ➈ 左側だけ
 これからすると、➄か➇だけが正しく、うち➄では電柱の位置が違うので、➇でしょうか?

 一方、地元の方は違う方法でこの難問に取りかかります。

 一連の写真は、ID 120に見える木塀の家を中心にお屋敷町のイメージを狙ったのでしょう。この写真の撮影場所を推理してみます。
 条件は以下になります。
1) 電柱が3本見えるので、60-70mある平坦で真っ直ぐな道。
2) 突き当たりに塀がある。(複数の建物ではない)
3) 車が通行しにくい。(4m幅に拡幅されていない)
4) 左側には少なくとも4軒の家が道に迫って立っている。
 これを1970(昭和45)年当時の中の丸付近の住宅地図と照らし合わせると、➀-➃が候補に浮上します。(矢印は撮影方向です)これを個別に検討します。

1970 矢来中の丸周辺b

 ➀は2016年のストリートビューで古いブロック塀が壁の写真があり、おそらく違います。
 ➁は雨水用の側溝が右側にあり、また2013年のストリートビューで突き当たりの古いブロック塀の様子が違います。
 ➂は地図上では真っ直ぐに見えますが、出口付近がカーブしていて写真と印象が違います。
 ➃は塀など写真の面影はありませんが、条件には合致しています。
 もう1点、注目すべきはID 118の樹木の間に見える人工物らしきものです。これは恐らく、突き当たりの家の向こうに4階以上のビル(屋上のテントのようなもの?)が見えていると思われます。
 ➃の位置からは牛込中央通りに面した旺文社のビルが見えていたはずで、この点でも④が最も可能性が高いと思います。

 最初にこの50年で矢来町に新しい道路がてきたんだと知りませんでした。反省です。

矢来能楽堂(写真)昭和45年 ID 117

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 117は、昭和45年3月、矢来能楽堂の裏を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 117 能楽堂うら

 この写真を撮った番地は矢来町53番地と60番地の間の通りでした。左側の電柱は背が高く、コンクリート製で、街灯もあります。一方、右側の電柱は背が低く、おそらく木製でしょう。左の側溝ははっきり見えませんが、右はきちんと見えます。
 右側の木造平屋は地図によれば「魚定」ですが、通りに沿ってトロ箱(木箱)が積んであり、「魚錠」とも読めます。
 その木の壁で見切れているのは佳作座の上映案内で、「チキチキパンパン」「空軍大戦略」と推測できます。ID 64、ID 8317も昭和45年(1970年)3月に「チキチキバンバン」を上映中で、同時期の撮影かもしれません。
 「魚錠」から1軒置いて矢来能楽堂が見えます。その前のトラックには人が集まっており、野菜売りの行商の八百屋でしょうか。


矢来町(写真)75番地等 昭和45年 ID 113-4, 8312-3

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113と8312、ID 114と8313は、昭和45年3月、矢来町75番地を中心に撮ったものです。なお、前後の通りは牛込中央通り、左右の路地には名前はありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 113 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8312 牛込中央通り 新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 114 矢来町71、新潮社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8313 牛込中央通り 新潮社前

 左側でこの写真を撮った番地は矢来町3番地、先に行くと61番地です。右側はトラックが見えるのは77番地、車が渋滞しているのは75番地でした。
 左側の電柱は背が高く、コンクリート製で、柱上変圧器や街灯もあります。右側の電柱は背が低く、おそらく木製です。街灯は道の両側にありますが、同じ道の他の場所(77~82)は片側しかありません。新潮社前の街灯は奥まった位置にあり、私設灯(軒灯)の可能性が高いと思います。現在でも新潮社の敷地(植え込み)内に街灯が立っています。

矢来町(昭和45年)
  1. (日本英語教育協会)(3番地)
    ――無名の路地
  2. (黃 キザ)クラ 桜 白鷹 ハクタカ 〇〇本醸 和泉屋酒店 日本盛 和泉屋酒店 (61番地)
  3. 電柱広告「  加藤」
  4. 道路標識・横断歩道 (横断歩道)
  5. 第一パン
  6.  (一方通行)
  1. 歩道に出ているトラック(旺文社)(77番地)
  2. 後ろ向きの道路標識
  3. 電柱広告は見えない
    ――無名の路地
  4. 横地医院 内科 小児科(75番地)
  5. 新潮社 4階建て(71番地)

住宅地図。昭和45年

矢来町(写真)77-82番地 昭和45年 ID 107-112

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 107-112は、昭和45年3月、矢来町の牛込中央通りを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 107 矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 108 矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 109矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 110矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 111矢来町77~82、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 112矢来町77~82、旺文社前

 番地でいうと左側はほとんど矢来町1番地です。1番地が広大なのは、矢来町の名の由来になった酒井家の矢来屋敷の主要部分が分筆されないまま、現在も団地(矢来町ハイツA棟~J棟)として一体で使われているからです。
 右側は矢来町82番地が中心で、直行する道路を越えると、奥に行くときに81番地、79番地、78番地、77番地の順に並んでいます。現在は78番地と79番地を合わせて大きな78番地になりました。
 ID 8311はID 107-112と同じ時の写真だと考えます。この数台のなかに車種も同じでナンバープレートも同じ車があり、他の車でも車種が同じものもあり、ID 8311も同じく「昭和45年3月」だと考えます。
 ID 107~110で、左側のプレハブは「キュービクル式高圧受電設備」(高圧変電設備、キュービクル)でしょう。発電所からの電気は6,600Vですが、それを100Vや200Vの電気に変圧するため、機器一式を金属製の外箱(筐体)に収めたものです。

矢来町(昭和45年)
  1. キュービクル。 さわらぬこと DANGER 貼紙せぬこと 東京電力 NO.牛 00
  2. 長い万年塀(日本興業銀行矢来寮)
  3. 電柱看板「ほねつぎ 加茂」
  4. 8-20 (駐車禁止)(区間内)
  1. 瓦屋根の2階屋
  2. 地図で「中島会計事務所」
  3. 瓦屋根の2階屋
  4. 天ぷらそば 更科
  5. 電柱看板「旺文社」
  6. 東京朝日新聞牛込北町専売所
  7. 荒木表具店。表具師◯◯◯◯◯ TEL ◯◯◯◯◯◯
  8. 数軒
  9. 消火栓
  10. 三菱のマーク(三菱石油ガソリンスタンドは地図上に見当たらず。燃料店か)
  11. 旺文社事業部


横寺町(写真)飯塚酒場跡 昭和40年頃 ID 13610

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13610は、横寺町の朝日坂にある飯塚酒店を撮ったものです。ID 13610の資料名は「飯塚酒場跡」、時期は「昭和40年頃か」です。「酒場さかば」「居酒屋いざかや」は酒を飲ませる店、「しゅてん」(他にさかだな、さかみせ、さかてん、さけみせ)「酒屋さかや」「酒販店しゅはんてん」は酒を売る店で、本来は違う意味です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13610 飯塚酒場跡

 飯塚酒場は第2次世界大戦前、酒造業の規制が緩かった時代に安価な「にごり酒」(雑酒)を製造販売し、それを呑ませる店として繁盛しました。
 戦後、自家醸造の酒(にごり酒など)は出しませんでした。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)では……

精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場はその坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許にごり、、、なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。

 野田宇太郎の『文学散歩』では……

 戦災がひどく、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店が、戦前の官許にごりの店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。

 写真の看板は「清酒※澤之鶴 飯塚酒店」とあり、普通の酒屋です。飯塚酒店は田口重久氏の昭和50年でもあり、住宅地図では平成に入っても営業していました。現在は店はなく、飲料とタバコの自販機が置いてあります。

05-05-34-1芸術倶楽部跡遠景 1975-08-28

 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)では……

 飯塚酒場の官許にごり酒のことは、野田宇太郎氏、野口富士夫氏などいろいろな人の本に書かれていますが、まだ子供だった私でもあの賑やかな雰囲気はよく覚えています。勿論私の記憶にあるのは酒場の中の賑わいより、いいご機嫌で縄のれんを出て来た人たちで賑わう酒場前の光景です。足下の危なくなった人もいれば、大声で放吟する人もいましたが、不思議と「酔っぱらいは嫌だなあ」と思った記憶はありません。荒縄でしばった侭のみかん箱を片手に、通りすがりの人に誰彼となく一個ずつみかんを配っている気のいい酔っぱらいもいたし、客は皆楽しそうに見えました。
 ところでその官許にごりの看板ですが、「官許」の文字が縦長で、右からの横書きになっていたため、私はてっきり「鯛」とか「繊」の字のような一字だと思いこみ、なんという宇だろうと前を通る度に首をひねっていました。ある時母に何という字かと尋ねて、やっと官許だとわかったのですが、大事なことを忘れてしまっているのに、そういう小さな思い出はいつまでも消えません。
(鳥居)

横寺町(写真)尾崎紅葉旧居跡 ID 13520, 13525 昭和30年代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520とID 13525は昭和30年代頃、尾崎紅葉旧居きゅうきょ跡に撮ったものです。氏は、明治24(1891)年3月から死亡する(明治36年10月30日)まで、12年半、横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。

ID 13520 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

 ID 13520は、昭和29年の野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)の写真とよく似ています。垣根は四ツ目垣です。ただし、ID 13520は真新しいモルタル造の家に変わっています。玄関脇の廃材は古屋を解体したものかも知れません。

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)

ID 13525 新宿歴史博物館「写真で見る新宿」尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13525 尾崎紅葉旧居跡

 ID 13525は、イチジクと思われる木のそばの井戸を狙っています。周囲は雑然としていて、ゴミ箱らしき木箱や物干の竿かけ、半ば開いた勝手戸のようなものが写っています。建物の裏庭のようです。
 この写真は恐らく、尾崎紅葉宅にあった井戸でしょう。位置はわかりませんが徳田秋声氏の『和解』(昭和8年)では……

 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
 O―とK―は 尾崎紅葉泉鏡花です。
「馴染の門の柳」については、後藤宙外氏の「明治文壇回顧録」(昭和11年)で……

門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。

 したがって「門」の左側に「柳」があり、そのそばに「井戸」があったはずです。
 井戸は門の外だったかもしれませんが、内では流しや風呂場が近いので便利だったでしょう。現代の地図では以下の場所にあたるかもしれません。

【尾崎紅葉 旧宅位置想像図】赤が47番地(鳥井家)、青が紅葉旧居、緑が井戸

横寺町(写真)尾崎紅葉旧居跡? ID 13518~19 昭和30年代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13518~19は昭和30年代頃、尾崎紅葉旧居きゅうきょ跡に撮ったものです。氏は、明治24(1891)年3月から死亡する(明治36年10月30日)まで、12年半、横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13518 尾崎紅葉旧居跡

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13519 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代頃

 東京市及接続郡部地籍台帳(明治45年)によれば、横寺町47番地は鳥井家がすべて所有し、280坪(約900平方メートル強)ありました。地籍地図(大正元年)を見ても、46番地と48番地の間の路地の奥一体が47番地です。つまり、この路地の両側全体が横寺町47番地になります。撮影当時、鳥井家は路地の左側だけになっていたようです。

東京市及接続郡部地籍地図。東京市区調査会。大正元年。国立国会図書館デジタル

東京市及接続郡部地籍台帳(明治45年)横寺町47

 写真で見る限り、私道に出る門はありませんでした。私道は中央だけが簡易に舗装されているようですが、荒れていて排水の側溝もありません。正面の2階屋は「松坂鉄工所・安西」でしょうか。

住宅地図。昭和35年。写真は細い私道を北側から撮影。

 下図は昭和29年と現在の同じ場所です。これも左側が47番地です。この2枚と最初の2枚は全く同じ場所だったというと、嘘でしょと言われそうです。

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年)。第二次世界大戦後、この地域はすべて灰燼と化しました。

現在

 しかし、嘘だという理由があります。別の言い方では、この写真ID 13518~19には疑問があります。地元の人は「一番、不思議なのはID 13519の左に一列にブロック塀があり、47番地の鳥井宅に出口がないことです。現代まである路地中央の敷石や、敷地内の老樹がID 13519では見えないことも説明を思いつきません。撮影場所の記録ミスを疑った方がいいのかも知れません」
 また「松坂鉄工所・安西」の場所にも後者2枚は家はなさそうです。写真ID 13518~19は隣の番地を間違えて撮ったものでしょうか?

牛込北町(写真)昭和51年 ID 11452~11454

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11452~11454は昭和51年(1976年)8月、大久保通りを西からバスで牛込北町交差点にくる直前に撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11452 牛込北町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11453 牛込北町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11454 牛込北町交差点

 牛込北町交差点が見え、左右の道路は牛込中央通りで、前後は大久保通り、交差点の左は箪笥たんす町、右手前は細工町、右後ろは北町です。箪笥町は武具をつかさどる箪笥奉行に由来します。細工町は御細工同心に由来し、江戸城内の建物や道具を制作、修理します。北町は北かち町から来た名前で、御徒組屋敷は将軍外出の際、徒歩で先駆を務め沿道警備などに当たりました。
 左の電柱はコンクリート製で背は高く、柱上変圧器が付いています。右には電柱はなさそうです。丸っぽい街路灯は道の両側にあります。

牛込北町(昭和51年)
  1. セブンイレブン。コンビニエンス。
  2. 天麩羅
    —–牛込中央通り
  3. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  4. カネボウ化粧品。北町薬局
  1. ◯ 歯科上矢
    —–牛込中央通り
  2. 金ちゃん洋品店
  3. (共同石油)
  4. Bのマーク(文英堂)

住宅地図。昭和53年。

矢来町(写真)牛込中央通り ID 8311 昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8311は、旺文社から北に進んだ牛込中央通りの写真を撮ったものです。撮影は「昭和44年頃か」としていますが、ID 107-112を考えると、「昭和45年3月」が正しいと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8311 牛込中央通り 旺文社前

 ここは矢来町で、道路は舗装し、左から歩道、縁石、コンクリート、車道があり、縁石は一定間隔で黃色になり、「駐車禁止」です。左の電柱はコンクリート製で背は高く、柱上変圧器や蛍光灯の街灯が付いていますが、右の電柱は背は低く木製です。

矢来町(昭和44年)
  1. 8-20 (駐車禁止)(区間内)
  2. (電柱広告)大日本(印刷)
  3. 長い万年塀(日本興業銀行矢来寮)
  1. 瓦屋根の2階屋 軒高にホーロー看板らしき門票「矢来町◯」
  2. 天ぷらそば 更科 「生そば」の暖簾(新店には見えないが地図上では昭和45年頃から表記)
  3. (電柱広告)旺文社
  4. 東京朝日新聞牛込北町専売所
  5. 荒木表具店。表具師◯◯◯◯◯ TEL ◯◯◯◯◯◯
  6. 数軒
  7. 消火栓
  8. 三菱のマーク(三菱石油ガソリンスタンドは地図上に見当たらず。燃料店か)
  9. 旺文社事業部

昭和40年には「更科そば」がないが、45年から登場する。

現在の矢来町

横寺町(写真)ID 8278-8281 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8278-8280では、昭和44年(1969年)横寺町の駐車場の写真を撮ったものです。道路は舗装し、左右に側溝があります、
 北側(左)は矢来町で、やや低い電柱は木製です。南側(右)は横寺町で、高い電柱はコンクリート製で、柱上変圧器や蛍光灯の街灯もついています。

[A]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8278 横寺町

横寺町(昭和44年)
  1. 電柱広告「旺文社」
  1. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。牛込清掃事務所か?
  2. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱広告「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  3. あさひ児童公園
  4. 東洋綿花牛込寮。
  5. 電柱広告「大佐和

現在の駐車場

[B]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8279 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8280 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8281 矢来町 新潮社

  1. 電柱広告「横寺町二十六 電(2XX)二八五八 / 加藤質店 / ここは横寺町53」
  2. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  3. 旺文社
  1. 木製の電柱。現在は右側の電柱はなくなった。
  2. 三叉路のうち右に行くものは見えない
  3. 遠くに突き出し看板「パーマ ミハル美容室」スタンド広告「パーマ MIHARU 美容室」

現在の三叉路

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 8277 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8277では、昭和44年(1969年)朝日坂にさしかかるあたりから、坂下に向けて、横寺町の写真1枚を撮りました。道路は舗装し、左右に側溝があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8277 横寺町 1944年頃か。

 左右に電柱があります。左側の奥の木製電柱は、道路中央に寄っているように見えます。ID 461でも同じです。側溝もねじれたようになっていて、ここから先の道路が狭くなっていることが分かります。この部分の道路は現在でも、やや狭くなったままです。
 写真左の眼科の脇の路地に4文字の標柱のようなものが建っています。「芸術座跡」だといいのですが、恐らくは行き止まりを示す「進入禁止」等でしょう。

横寺町(昭和44年)
  1. 神楽坂眼科 診察時間/午前9時~午後 時/午後3時~午後6時/(コ)ンタクトレンズ出来ます/(神)楽坂眼科
  2. 標柱?
  3. 白い塀の家
  4. ソテツの木(内野医院)
  5. 消火栓。広告福屋不動産」
  6. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」。塩
  7. (駐車禁止)
  1. 自転車
  2. 電柱広告「ヤナギサワ ここは横寺町 36」。柳沢理髪は見えないが、神楽坂眼科の隣にある。
  3. 看板「飯塚工務所」

現在の神楽坂眼科

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 455-463, 8314-15 昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 455-463とID 8314-15では、昭和45年(1970年)に牛込中央通りから神楽坂通りに抜ける裏通りを5カ所から撮影したものです。解像度に違いがありますが、道端の駐車車両などが同じなので、同じ撮影でしょう。
 途中までは北側(左側)が矢来町、それ以外は横寺町です。道沿いには浅田宗伯邸跡(現・あさひ児童遊園)、尾崎紅葉邸跡芸術倶楽部跡朝日坂などがあります。道路は舗装されていて、左右に側溝があります。

[A] 赤尾好夫氏の邸宅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 455 裏通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 456 裏通り 横寺町と矢来町

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。
 道路左には木製の低い電柱、右側にはコンクリートの高い電柱があります。これは朝日坂の下になるまで変わりません。現在は片側のコンクリート電柱だけなので、この昭和45の写真は過渡期だったかもしれません。
 街灯は長い蛍光灯で右側の電柱に付いています。また、柱上変圧器もあります。

横寺町(昭和45年)
  1. パーマ MIHARA 美容室。テント「ミハル」。50年強たっても現在も営業中
  1. 電柱看板「龍門◯ 照心会 書道 教室 この先 ここ(は)横寺町」
  2. 屋敷門(棟門)とシャッター。赤尾好夫氏邸。旺文社の元社長で、テレビ朝日の初代社長。
  3. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  4. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱看板「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  5. あさひ児童公園
  6. 東洋綿花牛込寮。
  7. 電柱看板「大佐和

現在の裏通り

住宅地図。1970年

[B] あさひ児童公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 457 裏通り、あさひ児童公園前

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。

  1. 普通の家々
  1. あさひ児童公園
  2. 電柱看板は「創業㐂永五年 お茶とのり 老舗 大佐和 神楽坂 ここは横寺町51」

現在の裏通り、あさひ児童公園前

現在の裏通り、あさひ児童公園前

[C] 三孝酒店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 458 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8314 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 459 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 460 横寺町46、三孝商店前

 神楽坂通りまでの中間地点の三叉路で、ここから両側とも横寺町です。三孝商店は住宅地図では「三孝酒店」。現在は自動販売機だけが営業しています。
 右側の「キムラヤのパン」は、住宅地図とやや位置が違うようですが「野田パン店」でしょう。この店も現在はありません。なお、ID 8314はID 458と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. 三孝商店
    壁面看板「王酒 千福 三孝商店」「神體 三孝商店」「発売元 黄桜酒清酒造株式会社 黄桜 三孝商店」「代表清酒 山邑酒造株式会社蔵 櫻正宗 三孝商店」「白鷹 ハクタカ 三孝商店」「宮酒造〇 日本盛」
    店名「ビール 合資会社 三孝商店 リボンジュース」テント「サントリー」店先「サントリー」「あさひ本◯」「Cola」トイレットペーパーの山、「ニッカ」
  2. 倉庫につき駐車禁止
  3. 東京消防庁 消火栓 東京知事。消火栓広告「電気工事設計施工 上原電気設計事務所」
  4. (駐車禁止)
  1. 電柱看板「加藤質店  ここは横寺町46 」「ゴミ提出出の注意 一 ゴミは……」
  2. GINZA 木(トレードマーク) キムラヤのパン
  3. 電柱看板「内科・外科 皮膚科 泌尿器科 内野医院」「神楽坂 皮膚科」
  4. 突き出し看板「畳」(内山タタミ店)

現在の三孝商店跡

[D] 内野医院

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 461 裏通り、飯塚酒店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8315 横寺町

  ID 8315はID 461と比べて画角がやや広く、解像度も高くなっています。

  1. (内野医院)
  2. 東京消防庁 FIRE HYDRANT 消火栓 火事と救急車は 119。消火栓看板「神楽坂福屋店裏 毘沙門天〇 福屋不動産 フクヤ」
  3. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚 酒店」「塩」
  4. (駐車禁止)
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ
  1. 看板「ポンプ 衛生 水道 東京都〇水道工業所 東京都〇水道工業所〇〇・飯塚工業所」
  2. 電柱看板「 買入 丸越」「 右門の和菓子」
  3. 「(龍)門禅(寺)」
  4. 電柱看板「土地家屋 野口商会」「歯科 川畑」
  5. チェッカーボードに似た「歯(科 川)畑」

現在の内野医院

[E] スーパーアライ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 462 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 463 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 464 横寺町入口附近

 この場所は他の4箇所と逆で、朝日坂の下から上へ矢来町の方を向いて撮影しています。ID 463は撮影時期を「昭和45年3月」としています。立木の葉は枯れ落ち、右手前の八百屋にはミカンやイチゴが売られています。
 現在、八百屋は正蔵院の敷地になり、スーパーアライはマンションと「ろばたや次朗」に変わました。他の店も住宅になったり別の店になっています。

  1. 花輪(フラワー 一紀)開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. チェッカーボード様の「(川)畑」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 」
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

現在のスーパーアライ

横寺町58番地(写真)昭和45年 ID 451-454, 8308-10, 8319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451~454、ID 8308-10, ID 8319は昭和45年(1970年)3月、牛込中央通りに南からやってきて牛込北町交差点を通り越した場所(横寺町 58、旺文社前)を撮ったものです。またID 8308はID 452と、ID 8309はID 453と、ID 8310はID 454と、画角がやや広いのを除くとほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8319 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 452 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8308 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 453 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8309 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 454 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8310 牛込中央通り 旺文社前

 旺文社本社が右にあります。ID 452で道が曲がった左奥に長い万年塀が見えます。これは日本興業銀行(現みずほ銀行)の矢来寮です。それ以前は酒井子爵の邸でした。ID 453ではバスが走っていますが、これは西武バスと都営バスが手を結んだバス路線です。大泉学園駅前から出発し、練馬駅通り、目白駅前、護国寺前、江戸川橋、矢来町、牛込北町、納戸町、市ヶ谷見附、赤坂見附、溜池、虎ノ門、最後は新橋駅前です。昭和45年10月、この路線は廃止しました。

横寺町。住宅地図。1970年

 ではこの地域になにかニュースになることがあったのでしょうか? 明治時代には訳者としても有名な上田敏氏が横寺町58番地に住んでいました。しかし、昭和時代になるとウィキペディアによれば横寺町でも牛込北町でも特にニュースでなりそうではありません。
 昭和45年には何かがあるのでしょうか? 新宿区の「新宿区史 区成立50周年記念」では「昭和45(1970)年5月に表面化した牛込柳町交差点付近における自動車排気ガスによる鉛公害問題は、地域住民に不安と衝撃を与えるものであった」と書いてあります。3月には「データベース 写真で見る新宿」は「牛込柳町の交通渋滞」が取り上げられます。これでしょうね。牛込北町交差点は、牛込柳町ほどではないにしても両側から坂が落ち込んだ地形です。この3月以降、横寺町や矢来町でも「交通公害」が問題になっていきます。

飯田橋駅東口(写真)令和元年 ID 13319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319は令和元年(2019年)飯田橋歩道橋の下から飯田橋交差点を中心に撮ったカラー写真です。ここは飯田橋駅東口に近く、昭和58年8月5日に区境変更していますが、この写真を撮った場所はおそらく新宿区でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319 飯田橋交差点令和

 この飯田橋交差点は五叉路ですが、道路は奥に行く大久保通りと左右の外堀通りしか見えず、前後をつなぐ目黒通りは見えません。歩道橋には「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。空に雲はなく、無電柱化の成功のため電柱もありません。左側の中央分離帯にあるのはブリンカーライト(障害物表示灯)です。

飯田橋交差点(令和元年)
    1. 名代 富士そば 24
    2. TULLY’S COFFEE 
    3. 格安販売 チケット モモ 新幹線自販機 黄色のバックカラーに「魚」か?
    4. (駐車禁止)
    5. (店舗 TULLY’S COFFEE)
    6. 「ふくの鳴」「ラーメン」
    7. 鳥よし
    8. 遠くに熊谷組ビル
  1. THE SUIT COMPANY ECC外語学院 英・中・韓・仏 伊・西・独 3F Leave a Nest 4, 5F 鳥どり B1F
  2. 魚盛  うおもり  みずほビジネスパートナー MIZUHO みずほ銀行
  3. 大野屋
  4. サンワード貿易 飯田橋内科歯科クリニック  JJS 〒
  5. 東京新宿メディカルセンター別館(東京厚生年金病院別館を平成9年に改築、平成26年に改称)

住宅地図 令和2年

飯田橋交差点(写真)昭和53年 ID 673

文学と神楽坂

新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 673は、昭和54年3月に飯田橋交差点の新宿区側を撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 673 飯田橋交差点

 左右は外堀通りで、コンクリート製の中央分離帯から立っているのはブリンカーライトでしょう。横断歩道から左奥へ通じるのは大久保通りです。この他に目白通りも交差していますが写っていません。
 道路はすべて都道で、ナトリウム灯と思われる街路灯が高い位置にあります。この時代の大久保通りの左右は下宮比町でした。後に町域が変更され、写真左側は揚場町に変わりました。また図の左上にある電柱に長四角のものは自動式開閉器でした。
 東京厚生年金病院の別館は下宮比町に、本館は津久戸町にありました。

673 飯田橋交差点

飯田橋交差点(昭和54年)
  1. 剣菱 天麩羅みやこ
  2. 清酒大関 ニューア(サク)サ
    (ここから揚場町)
  3. 朝日生命 鳥よし(飯塚ビル)
  1. 東海銀行(飯田橋東海ビル 1965年竣工)
  2. 日本写真学園/(カ)ワセコンピューターサプライ株式会社/不明/銀座コージーコーナー/第一勧業銀行(第一勧銀稲垣ビル 1974年竣工)
  3. 大野屋(武道具店)
  4. 津多屋
  5. 読めない看板(日本精鉱株式会社)
  6. 東京厚生年金病院 別館
    (ここから津久戸町)
  7. 東京厚生年金病院 本館

下宮比町付近 1980年

 

筑土八幡神社(写真)境内 昭和44年 ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8297, 8290, 14156, 14157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8290, 14156, 14157は筑土八幡神社境内の写真です。撮影は昭和44年ごろ。
 1枚ずつ見ていきます。最初はID 8255です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 筑土八幡神社

 左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥の囲いは純米大吟醸「白鷹」の積み樽です。白鷹は灘の蔵元の清酒ですが、明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛に見出され、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 左奥に駐車車両2台。表参道は石の階段ですが、左手の裏参道では車が通行可能です。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。玉垣の内に狛犬が一対。拝殿は昭和20年の戦災で焼失し、しかし、昭和38年、氏子の浄財で再建されました。また神前幕しんぜんまくで前を覆われています。
 右には筑土会館。会合のための施設です。手前に自動車があり、その前に注連しめなわをかけた銀杏の樹。銀杏の根本には百度参りをする時に標識する百度石ひゃくどいし
 右端は手水ちょうずばち。現在は手水が建っていますが、この時はなかったようです。
 一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。

 続いてID 8258です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8258 筑土八幡神社

 左手前から拝殿と筑土会館を狙っています。拡大すると玉垣に書かれた寄進者もよく読めます。寄進額の多い角柱は「氏子総代 牧田甚ー」「崇敬会会長 升本喜兵衛」。その他の太い柱は「筑土自治会」「新小川町自治会」「飯田橋自治会」と読めます。
 左右の柱に竹を1本ずつくくりつけてあるのは門松の一種でしょう。
 田口氏「歩いて見ました東京の街」 05-00-10-2 筑土八幡社殿の遠景 (1968-07-13)では、この玉垣はありません。撮影はそれ以降で、おそらく昭和44年(1969年)1月でしょう。

筑土八幡社殿遠景 1968-07-13 歩いて見ました東京の街

 次のID 8259は、玉垣のすぐ手前から右側の狛犬(阿形)をアップで撮影しています。

新宿歴史博物善え館「データベース 写真で見る新宿」ID 8259 筑土八幡神社 狛犬(阿形)

 狛犬は1810(文化7)年に奉納されました。台石には「津久戸」と「奉」が刻まれています。写真には見えませんが、対になる左側の吽形の台石は「津久戸」と「納」です。門柱では「崇敬会々長 升本喜兵衛」。「崇敬すうけい」とは神仏や立派な人などをあがめること。

 ID 8260ではやや引いて、参道から境内の右側を見ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8260 筑土八幡神社 境内

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まい。銀杏の木の向こう、白い雨戸が閉じているのが神楽を奏する神楽かぐら殿でん。神楽殿の手前は境内社の宮比みやび神社と鳥居。銀杏の根元の百度石と庚申塔。庚申塔は現在は銀杏に向かって右側に移されました。屋根のない手水鉢ちょうずばちには白銀町と掘ってあります。一番右は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。

 ID 8297はID 8260の左側に寄った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8297 筑土八幡神社 庚申塔(側面)

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まいで、御守りの言葉「一陽来復/〇〇〇」が見える。その右に伝言板。竹2本と切った木々と葉。黒い壁と民家があり、白い壁の神楽殿。庚申塔と鳥居があり、その前に注連縄がある御神木と、葉がない木々。

 次はID 14156とID 14157です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14156 筑土八幡神社 御供水

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14157築土八幡神社 御供水鉢 寄進者名陰刻(一部)

 手水舎の裏に御供水が見えます。「ごくうすい」「おこうすい」と読むようです。御供水とは神仏に供える水のこと。八角形の石とフタからできていて、新宿文化観光資源案内サイトでは天保5年(1834)8月に奉納されたのこと。
 ID 14157の陰刻とは文字や模様をくぼませた彫り方。ID 14157の真ん中に「川喜田新右ェ門」という陰刻があります。また文政10年(1827年)に提出した「牛込町方書上」では神楽坂5丁目と6丁目の間に川喜田屋横丁があって「川喜田屋久右ェ門」がそこに住んでいたといいます。この2件は7年しか離れていないし、2人はなにか関係があれば面白いと思います。また、ほかの氏名でも「〇〇屋」が多く、奉納する人は商人が多かったことがわかります。

筑土八幡神社 御供水 Google

筑土八幡神社 御供水

 最後はID 8290です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8290 筑土八幡神社境内 田村虎蔵顕彰碑

 参道の石段を登り切ると、最初に左側にこの「田村虎藏先生をたたえる碑」があります。昭和40年12月に設置したものです。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があります。顕彰けんしょうとは「隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰すること」。碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」。視学しがくとは、旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たること。

四谷・市ヶ谷見附の桝形撤却[明治の市区改正](明治32年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 旧江戸城の城門のうち、内郭(内堀より内側)は皇居なので、古い姿をよく残しています。これに対して外郭(外堀沿い)の門は交通の障害になるとして順次、取り壊されました。
 そのうち四谷見附と市ヶ谷見附の桝形の「撤却」資料があります。両案とも明治32年(1899年)8月14日開催の東京市区改正委員会159号会議で異議なく決定しました。

拡大図。青線は撤却を決めた石垣

 両者とも石垣すべてではなく、道路にかかる部分を選んで取り壊します。ただ市ヶ谷見附が旧見附橋の部分に新しい橋をかけるのに対し、四谷見附は旧橋の脇に新たな橋をかける計画でした。つまり門によって橋の位置は昔と違うのです。
 明治37年(1904年)、両門のすぐ外の橋の下に甲武鉄道(現・中央線)が開通します。参考までに市ヶ谷門の図面を回転し、現在の地図と並べてみると、中央線も靖国通りも当時は計画すらなかったことが分かります。

市ヶ谷見附 比較図

 牛込門の桝形撤却は両門より少し後で、残念ながら資料は公開されていません。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

靖国通り 両国橋から皇居の北の丸公園、靖国神社、防衛省等を通り、新宿駅北の大ガードまでの延長8kmの道路。この路線は東京中央部を南北に分ける。