神楽坂以外の牛込」カテゴリーアーカイブ

光照寺(写真)昭和27年頃 ID 9496

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496は、昭和20年代後半、こうしょうを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496 光照寺

 光照寺は、新宿区袋町の浄土宗の寺院で、増上寺の末寺。正式には樹王山正覚院光照寺といいます。
 手前の車道の舗装、参道の敷石はいずれもかなり荒れています。
 左手に文化財の木札があります。残念ながら本文は読めません。

新宿区文化財
史跡
 牛込城址
(不明)
昭和二十七年

新宿区役所

 ちなみに1972年(昭和47年)9月21日に田口重久氏は「歩いて見ました東京の街」のなかで写真を撮っています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-1

 20年を経ていますが塀や敷石、門柱は同じもののようです。新宿区の木札はより詳細な説明になりました。現在は、すべて一新されています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-2

旧跡 牛込城跡
 牛込氏の居城地は袋町北部の大部分であるが、大切な部分は光照寺境内である。
 戦国時代の天文6年(1537)前後のころ、小田原の北条氏は群馬県赤城山ろくの大胡城主大胡重行を招き、牛込に住わせた。大胡氏はここに牛込城をつくって住むことになったが、城といっても大勢の家来と住む平山城の居館地であったろう。
 その規模は西は南蔵院に通じる道、北は都電通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は境内南の崖で、舌状半島の台地の尖端部である。大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる道にあった。牛込家の居館は光照寺境内北部にあったようである。
 大胡重行の子勝行は、天文24年(1555)正月6日に姓を牛込と改め、小田原氏の重要家臣となり、赤坂、桜田、日比谷あたりまで領していたが、北条氏が滅亡したあとは、徳川家の家臣となり、館は廃止された。今の光照寺は正保2年(1645)神田から移転したものである。
  昭和43年1月
新宿区


神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 8820-8823、ID 8826

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8820~8823とID 8826は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8821 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8820 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8822 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8823 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8826 神楽坂六丁目

 ID 8813-8819と異なり、左にあった自動車はなくなり、はるか遠くに停車した自動車は動かず、前の八百政は変わりないですが、奥の八百政はこの時点で開店しました。さらに、これは昭和44年(ID 8273~8276)、昭和45年(ID 8316)と同じ場所ですが、昭和47年12月、荒井精肉店は荒井ビルと変わり、昭和48年にはスーパーアライになっています。なお、ID 8823はID 467と同じ写真です。
 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉は枯れ、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器もあります。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「(フラワー 一)紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「質 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. 消火栓

1976年。住宅地図。

横寺町と神楽坂6丁目(写真)昭和48年 ID 8812

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8812は、昭和48年(1973年)2月、横寺町から見た朝日坂神楽坂6丁目を扱ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8812 横寺町

 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器もあります。左側の自動車はID 8807からID 8811まで遠くにある自動車と同じでしょう。

横寺町と神楽坂6丁目(昭和48年)
  1. 木に隠れて「内野医院」
  2. 突き出し看板「( 澤)之鶴 飯塚 酒店」Cokeの自動販売機
  3. 多分「寺島巧芸社」。「 ▽ 寺島巧芸社 」(看板・標識製作の会社)。前に自動車。段ボールか書類の山
  4. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  1. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 右門の和菓子 ここ➡」「質 買入 丸越 」。
  2. 看板「ヤマハ エレクトーン スクール」
  3. 「曹洞宗 龍門禅寺」
  4. 道路反射鏡
  5. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「歯科 川畑」「〇〇堂」
  6. 突き出し看板「歯科 川畑」
  7. (パーマ)スミレ
  8. 突き出し看板「白鷹 寿司清」
  9. 床屋のサインポール
  10. 「フラワー 一紀」
  11. 「ドライクリーニング」

1976年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 8813-8819

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8813~8819は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8813 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8814 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8815 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8816 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8817 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8818 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8819 神楽坂六丁目

 左にある自動車はバックドアを開き、はるか遠くにある自動車はID 8807からID 8820以上まで同じように停車し、さらにID 8815から見える自動車は、おそらく数十分後になると、なくなり、かわって八百政が店を開くはずです。
 さらに、この撮影は昭和44年(ID 8273~8276)や、昭和45年(ID 8316)と同じ場所ですが、昭和47年12月、荒井精肉店は荒井ビルに変わり、昭和48年にはスーパーアライになっています。
 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉は枯れ、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器はかなり立派でした。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「(フラワー 一)紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「質 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. パーマ スミレ
  6. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  7. 突き出し看板「川畑」
  8. 道路反射鏡
  1. 盆栽と盆栽鉢。キャベツ、国光(リンゴ)、愛媛ミカン(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 未開店(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. 消火栓

1976年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和45年 ID 8316

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8316を見ましょう。撮影時期は1970年(昭和45年)頃。撮影は神楽坂6丁目から朝日坂横寺町までです。ID 8317と同じID 64(神楽坂1丁目)の撮影は昭和45年3月だったので、ID 8316(神楽坂6丁目)の撮影も同様に昭和45年3月だったのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8316 神楽坂六丁目

 立木の葉は枯れ落ち、歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器はかなり立派でした。女子高校生は長袖か半袖。和装の女性はショールを羽織り、右手前の男性はYシャツに薄手のカーディガン。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和45年)
  1. 看板「(一)紀」「のし 中〇」花輪。開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「質 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. 突き出し看板「 (川)畑」
  1. 右下隅、男性の足元の野菜が「青果丸大商事」
  2. 男性が直方体の箱を持っている。葬式?
  3. 「天台宗 光圓寺/伝教大師(御真)作/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「古流 松村崇〇 於 当寺内」
  4. 正面の平屋の八百屋が「広瀬」。「Bonita Banana」「サニー」「西浦みかん」。道路でキュウリの箱。「いちご一山200エン」「「最高品 一山200エン」(みかん)。バナナ。甘夏、玉ネギ、長ネギ、葉物野菜など。出荷時期はたぶん春先の3月と地元の方
  5. 「肉のアライ」「お砂糖はカップ印」「セルフサービスの店 アライ」
  6. 「第一パン」「SELF-SERVICE」「雪印バター」。電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 
  7. 「寺島巧芸社」(看板・標識製作の会社)脚立か鉄枠みたいなものがいくつも立てかけてある。
  8. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  9. 内野医院
  10. 消火栓

1970年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 8807-8811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807-8811は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。なお、ID 467も同じく昭和48年2月、朝日坂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8808 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8809 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8810 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8811 神楽坂六丁目

 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉はなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯でした。立派な柱上変圧器もありました。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「フラワー 一紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「質 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. パーマ スミレ
  6. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  7. 突き出し看板「川畑」
  8. 道路反射鏡
  1. ビル
  2. 電柱看板「(川)畑 入口 すぐそこ」
  3. キャベツ 国光(リンゴ)愛媛ミカン(八百政)
  4. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師(御真)作 草(刈)薬師如来 閻魔大王尊 安置」「宗顕流 古流 いけ花 松村崇〇 於 当寺内」
  5. 未開店か閉店(八百政)
  6. 「Super ARAI」
  7. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  8. 「寺島巧芸社」(看板・標識製作の会社)
  9. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  10. 内野医院
  11. 消火栓

1976年。住宅地図。

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

565b 大久保通り箪笥町付近

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

横寺町(写真)朝日坂、昭和48年、ID 467

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 467は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂通りから少し入った場所から横寺町方向を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 467 横寺町入口附近

 スーパーARAIと、その次の建物までが神楽坂6丁目。飯塚酒店から先が横寺町になります。

全国地価マップ 朝日坂。一部を改変

 写真の坂は朝日坂といいます。また、商店街ではないので専用の街灯はなく、電柱からバンドで固定した蛍光灯が出ていて街灯の役割をしています。しかも道の片側だけにこの街灯があります。なお、ID 467と同じ写真がID 8823です。
 柱上変圧器もあります。下水は道路の側溝を流れ、子供2人がローラースケートを遊んでいます。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「〇紀」
  2. 理容サトウ。床屋のサインポール ※地図はかすれていますが読めます。
  3. 電柱看板「質 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。
  4. その下に読めない貼り紙。最後が「町会長」なので、おそらくゴミ出しの注意。
  5. 「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗」
  1. 八百政
  2. 大台宗 薬龍山 光圓寺 正藏院
  3. 八百政(ピーマン、みかん)
  4. Super ARAI
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ ココ」(街灯はなく、細い電柱)
  6. 清酒 澤之鶴 飯塚
  7. 内野医院

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で05-10-60-03 朝日坂下から 1974-12-25ではよく似た写真がでています。

05-10-60-03 朝日坂下から 1974-12-25

1976年。住宅地図。

武士の勲章|納戸町

文学と神楽坂

 池波正太郎氏の『武士の勲章』の小説「決闘高田の馬場」は「面白倶楽部」に昭和33年に発表されました。

 それから五年後――中山安兵衛は、江戸、牛込うしごめ“天竜寺”門前の長屋に住み、麹町の堀内源太左衛門の道場で、師範代をつとめるまでになっていた。
 若い精力のすべてを剣と学問の道に投げ込んで一心不乱の修業が実を結んだのも、菅野六郎左衛門の激励と援助があればこそだったともいえよう。(中略)
 翌日の早朝に、中山安兵衛が天竜寺の長屋へ戻ってくると、長屋中は大騒ぎだった。大草重五郎が路地へとびだしてきて、
「安兵衛殿ッ。一体、何処どこへ行っていたのだッ」
「千駄ケ谷にいる道場の友達のところで碁を打って夜を明かしてしまったよ。ははは」
「それだからわからんはずだ。塩町保久屋細井次郎太夫殿の家や、あっちこっちへ長屋の者が走りまわって、おぬしを一晩中、探していたのだぞ」

 中山安兵衛氏は天竜寺門前の納戸町に住んでいたのは事実です。

それから五年後 小説は元禄2年に始まっているので、5年経った今は元禄7年です。元禄7年2月11日(1694年3月6日)に高田馬場の決闘が起きました。
中山安兵衛 越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生。のちに堀部家の婿養子に中山家のまま入り、元禄10年(1697年)堀部家に変更。
天竜寺門前 天竜寺は新宿区南山伏町と細工町にあった寺。その門前なので、御納戸町か御細工町の家になりました。
麹町 東京都千代田区の1地名。
道場 小石川牛天神下に直心影流の道場を開いた。
師範代 しはんだい。先生の代理で教授する人
菅野六郎左衛門 すがのろくろうざえもん。伊予西条藩松平家に仕える。村上庄左衛門と高田馬場の決闘を行い、中山安兵衛(堀部武庸)の助太刀を得て勝利。しかし、この決闘で、菅野六郎左衛門は死亡している。
大草重五郎 中山安兵衛と同じ長屋に住む中年の浪人。
塩町 塩町は沢山あります。たとえば、大伝馬塩町は日本橋本町四丁目。通塩町の小伝馬下町は中央区日本橋横山町と日本橋馬喰町一丁目。四谷塩町は新宿区本塩町など。
保久屋 ぼくや。荷車の車輪を通す仕事をする店の屋号
細井次郎太夫 松平美濃守吉保の家臣

 これで味方の菅野六郎左衛門と、敵の村上庄左衛門との2人の決闘に呼ばれたと知ります。

 安兵衛は、市ヶ谷の高台を下って喜久井きくいちょうにでると、牛込馬場下ばばしたの居酒屋「小倉屋」の軒先で一息入れ、桝酒ますざけを求めて、一息に飲み干し、口に含み残した冷酒を刀の柄へ霧に吹き、ようやくの色が漂よう高田の馬場へ駈けつけた。
 高田の馬場は、幕府が寛永13年に、弓場、馬場の調練所として二筋の追回しを築き、松並木の土手を配した草丘そうきゅうである。
 安兵衛が駈けつけると、斬合いは、もう始まっていた。
 村上方は庄左衛門の弟、三郎右衛門。中津川祐範の他に、――祐範の門弟、といってもいずれもごろつき浪人などに違いないだろうが、これが八人ほど加わり、菅野六郎左衛門と若党佐次兵衛さじべえを取囲んでいる。
「待てッ。待てッ。叔父上ッ。安兵衛、只今駈けつけましたぞ」
 土手を下って馬場にとびおりた安兵衛を見て、さすがに菅野老人も嬉しさを隠しきれなかった。
「おう。きてくれたかッ」
「安兵衛様ッ。よう間に合うてくれました」
 と佐次兵衛も歓声をあげる。
「卑怯な奴どもめ。これが尋常の果し合いかッ」
 安兵衛は抜き打ちに一人を斬り倒して叫んだ。

寛永13年 1636年。
調練所 ちょうれんば。調練を行なう場所。練兵場。
追回し 馬場の中央に築いた土手
斬合い きりあい。互いに刃物で相手を切ろうとして争うこと。
村上方 敵です。村上庄左衛門、弟の中津川祐見、弟の村上三郎右衛門の3人ば安兵衛が確実に殺した人。江戸の瓦版では「18人斬り」になりました。
若党 若い侍。若い従者。江戸時代、武家で足軽より上位の小身の従者。
佐次兵衛 かくたさじべえ。角田佐次兵衛。

 あとは、もう乱戦である。
 佐次兵衛も門弟一人を倒したし、安兵衛は一人を斬るたびに自信が湧き上り、帯を切り裂かれ、左の二の腕に傷を負いながらも凄まじい闘志をみなぎらせ、激しい気合いと共に敏速果敢なる攻撃を行なっては一人、また一人と相手を倒した。
 門弟の残り三名ほどは逃げ散り、中津川祐範の槍だけが、安兵衛の前に突きつけられたとき、安兵衛は、嗄がれて疲れた菅野老人の叫び声を耳にした。
「叔父上ッ」
 思わず振り向きかける一瞬、祐範の槍が閃光のように安兵衛の胸を目がけて繰り出された。
 そのとき、どう動いたのか、安兵衛は自分でもわからなかった。無意識のうちに左手が小刀にかかり、身を捩って祐範の槍を中段から斬り落すと共に右手の大刀は間髪を入れず、祐範の首から肩口にざくッと斬り込んでいたのである。
菅野老人 菅野六郎左衛門のこと。

「叔父上ッ。安兵衛参りましたぞ。相手は村上一人。あとの者は全部斬り捨てましたぞッ」
 安兵衛の、この大声は、もう決定的に村上庄左衛門の余力を奪ってしまった。こうなっては、庄左衛門も菅野老人のトドメの一刀を首に受けないわけには行かない。
 しかし、菅野六郎左衛門も、七カ所ほどの深い傷を受け、この馬場で息を引取った。

 これで味方の菅野六郎左衛門(菅野老人)も敵の村上庄左衛門も死亡します。

 この果し合いの助太刀が世の評判となり、中山安兵衛が、堀部弥兵衛の養子となって、八年後の元禄十五年十二月十四日――吉良邸へ討入った四十七士の一人として活躍したことはいうまでもないことである。

福島中佐と単騎シベリヤ横断

文学と神楽坂

福島安正中佐

 一瀬幸三氏は「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」(新宿郷土会、新宿郷土研究史料叢書、平成2年)を書いています。氏は学者、郷土史家、教育者(近現代)でした。
 一方、福島中佐は明治・大正の陸軍軍人で、維新後、大学南校に入学して英語を習い、明治7年、陸軍省に入り、明治15年に朝鮮に派遣、翌年北京公使館付武官となり、満州とモンゴル方面を踏査。明治20年、駐独武官としてバルカン半島を視察、帰国の際、ロシアのシベリア鉄道建設の状況視察のため、明治25年2月からベルリンからウラジオストクへと、1年4カ月かけて単騎横断を行いました。
 では、一瀬氏の記載に行きましょう。

     はじめに
 私は最早や80歳を越えた老人であるが、少年の頃は、単騎シベリヤ横断の快挙をなし遂げた、福島中佐(安正・後の大将)を英雄として崇拝していたものである。
 それというのも小学生当時は寄るとさわると、「偉い人だったんだってねえ」と、話合ったものである。そんなことから私の蒐集癖は福島中佐に関するものを手当りしだいに集めてきた。今ここにそれらを整理して置こうと小冊子を出すことにした。
 私の小学校入学は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)の谷村町高等尋常小学校で入学したのは、大正7年(1918年)4月であった。体操の時間や運動会には、必ずといっていいほど、福島中佐の作歌『波蘭(ポーランド)懐古』が、歌われこれに遊戯がついていて、いやでも自然に口遊むようになった。
 ところが、奇縁といおうか、福島中佐の居住地であった矢来町に近い山伏町に住むようになって、一層その念を強くして、ここにもはや忘れられた英雄の足跡を改めて記録しておこうと思ったことに外ならない。
都留市 地図参照
波蘭懐古 ポーランド懐古。明治の軍歌。作詞、落合直文。作曲、不詳。その1番は「ひと日ふた日は晴れたれど 三日四日五日は雨に風 道の悪しきに乗る駒も 踏みわづらひぬ野路山路」

 この勇姿はいろいろな形ででてきたという。著者蔵の例では……

雪の広野を行く福島中佐

壮挙を終え帰国した福島中佐

 福島中佐の快挙 明治25年(1892)2月11日ベルリンを出発して、単騎シベリヤ横断をおこなって、勇名を馳せた。福島安正陸軍中佐は、当時、牛込矢来三番地中の丸24号に居住していた。これについては後述する。
 中佐はドイツ駐在武官をしていた頃、陸軍省に対し、「中央アジアの政治・経済・国情の調査をして行かないと、国家百年の計は樹てられない」旨の上申を行い、これが軍部の容るところとなって、駐在武官の任期満了を機会に、明治25年2月11日を期して、単騎ベルリンを出発した。
 苦難の多いコース そして、ドイツ、ポーランド、欧露を横切って、オムスクに出て、それより馬をアルタイに向け、峻嶮をこえコブトウイヤスクタイウランバートルキヤクタイを経て、バイカル湖畔に出て、更にイルツクから再び引き返して、バイカル湖畔を東へと進み、ウェルフネウーヂンスクを通り、ブラゴエシチェンスクに至り、対岸の黒河より興安嶺山脈を横切って、チチハルに出て、ズンガリー(松花江)に沿って、キチリン(吉林)ニンクタコンジュン(琿春)を過ぎて、ボシエツト地方より、ウラジオストックに到着、ここでのその長途の騎馬旅行を終わっている。時に翌26年(1893年)6月であった。
オムスク ロシア連邦中南部の都市。カザフスタンとロシアにまたがるエルティシ川を通ってアルタイに向かう。
アルタイ 中央アジアの一地域
コブト ホブト。モンゴル西部ホブド県の県都。
ウイヤスクタイ ウリャスクタイ。モンゴル・ザブハン県の県都。
ウランバートル モンゴル国の首都。中国語ではクーロン(庫倫)。
キヤクタイ ロシア南部ブリヤート共和国のキャフタ市。
バイカル湖畔 ロシア南東部のシベリア連邦管区の三日月型の湖
イルツク イルクーツク。バイカル湖の西岸。
ウェルフネウーヂンスク 現在はウラン・ウデ。ヴェルフネウジンスク。東シベリアのロシア・ブリヤート共和国の首都。バイカル湖の南東約100km。
ブラゴエシチェンスク シベリア南部のアムール州の州都。対岸には中国黒河市がある。
黒河 中国黒竜江省の地級市。黒竜江右岸の河港都市。対岸にはシベリア南部ブラゴベシチェンスクがある。
興安嶺 こうあんれい。中国北東部にあるターシンアンリン(大興安嶺)山脈とシヤオシンアンリン(小興安嶺)山脈の総称。
チチハル 中国黒竜江省の直轄市。
キチリン(吉林) 中国東北部の省。省都は長春市。
ズンガリー(松花江) ソンホワチアン。松花江。しょうかこう。アムール川最大の支流。
ニンクタ 正しくはニングタ。寧古塔。現在は黒竜江省牡丹江市寧安市。
コンジュン(琿春) 中国吉林省の県級市
ボシエツト地方 クラスキノ町など。北朝鮮国境に近いポシェト湾岸に位置する。
ウラジオストック ロシアの極東部沿海地方の州都。
翌26年6月 全行程は1年4ヶ月かかったという。

アルタイ山脈の踏破。島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

福島中佐単騎旅行図絵

 それはそれとして、矢来町に住まわれるようになったのは、いつ頃からか不明であるが、単騎シベリヤ横断をなし遂げた頃は、すでに牛込区矢来町三番地に居住していた。
 ところが、この三番地というのは広範囲で現在の地図と比較すると、87番地から106番地までの広い区域である。
 しかし、中佐の居住を明細に記したものに明治43年(1910)10月の刊行になる中央電話局の「電話番号簿」には、
  番町 二四六 福島安正 牛、矢来三、中ノ丸24号
とある。そこで明治44年(1911)6月逓信協会の発行にかかわる「東京市牛込区」の地図を見ると矢来町中ノ丸は、現在の地名番地では、75番地に当たると見てよいだろう。ちょうど、新潮社のやや南横に当たるところである。
逓信協会「東京市牛込区」 これは新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』(昭和57年)326-7頁と同じ。「75番地に当たると見てよい」とはいえません。https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/search/uploads/2_ippanntizu.pdf

地蔵坂(写真)藁店 昭和54年 ID 79、80、81、82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79、80、81、82は、昭和54年(1979年)、地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。自動車は対面通行でした。右側は駐車場に使っていて、歩道はどうも左側だけだったと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 82 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 81 地蔵坂付近

地蔵坂(藁店)
  1. 中華料理 太一
  2. 「(コー)ヒーパブ (海)賊)」、自販機「コーヒー」、看板「かいぞく」
  3. 「理髪 モリワキ」。森脇トコヤは六角形が中で回る「理容看板」
  4. その隣の工事中は「石鐵ビル」。築年月は1979年3月。「石鐵」は小林石工店の屋号
  5. 電柱看板「斉藤医院
  1. 白菜やレモン箱などが一杯になったトラック「八百美喜」。「商品は箱積みのまま、列に並んだ客が『〇〇ちょうだい』『きょうは何が安い?』と声を掛けて出してもらう昔ながらの売り方。”安い八百屋”で通用する人気店だった」と地元の方。
  2. CAFE CHARLIE BROWN
  3. 1棟(すずらん荘)
  4. 電柱看板「理髪 モリワキ←」
  5. 松竹荘
  6. 1棟(割烹 佳)
  7. 旅館 竹兆
  8. 工事中(カワイビル)。菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。築年月は1979年3月。
  9. 傾斜地で盛り土に。この先を右に曲がったところがID 79と80。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 80 坂道

 ID 79とID 80の資料名は「住宅」と「坂道」だけです。しかし、ここは地蔵坂(藁店)を上がった場所なのです。歩道はここも左側だけです。ID 80の地面でオーリングはよく見えます。
 トーンカーブを行うと、塀がはっきり見えるようになります。こうやって浮かび上がった塀(板3枚とコンクリートが見えます)はID 79の塀とそっくりです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79 住宅

1978年。住宅地図。

 菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。

1990年。住宅地図。

若宮町(写真)昭和54年 ID 84、ID 11825

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 84は1974年に「若宮町坂の下」で撮ったものです。しかし、普通すぎる写真であり、どうして問題なのか、歴史的に何が起こったのか、そもそも、どの四つ角なのか、何もわかりません。

 そこで、まずどの四つ角があるのか調べてみました。驚いたのは若宮町には四つ角が2つだけしかない、ということでした。全て残りは三つ角でした。では、見てみましょう。四つ角の➀は神楽坂により近い場所で、➁は新坂の一部です。坂下は矢印で示します。

東京都新宿区若宮町 (131040490) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット
https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/13/131040490.html

 では2枚を比べてみましょう。向こう側はともに下を向き、谷になっています。

若宮町の2つの4つ角

 よく似ています。それでも違うことがあり、まず電柱。数は➀は2本で、➁は1本。位置も違い、➀は1974年と完全に同じです。また、1979年の電柱看板は「西條歯科医院↑」(おそらく「この↑さき」)です。➀は谷のところに西條歯科医院があります。
 つまり➀が正しいと思っています。
 左右の塀にはペンキ書きで「無余地ニツキ 駐車シナイテ下サイ」と書かれています。すなわち、この撮影場所の背後にあるのは料亭「松ケ枝」の玄関なのです。左手の黒塀は駐車場。四つ角の向こう側の右角は若宮町の「一平荘」になります。どうも「松ケ枝」はここでもなくてはならない貴重な建物でした。
 なお、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で「05-10-50-1 新坂上から 1974-12-21」のうち「新坂上から」ではなく、実際は「若宮町の坂上」が正しいと思っています。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」 05-10-50-1 新坂上から 若宮町の坂上 1974-12-21

 なお、昭和54年1月に撮ったID 11825も画角は違っていますが、それ以外はよく似た写真でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11825 若宮町11

神楽坂5丁目(写真)昭和28年頃 ID 5189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5189は、神楽坂5丁目を撮ったものです。5丁目から神楽坂上交差点に向かって撮影しました。半袖の男性もいますが、ほかは長袖や背広です。街灯はおそらく昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかですが、左側の歩道は縁石と下水溝をおおう「どぶ板」以外にはなさそうで、右側は電柱も街灯も、家のすぐ前に立っています。神楽坂上交差点では路面電車の道が見えます。交差点を越えた道路は対面通行です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5189 神楽坂五丁目 恵比寿屋肉店前

神楽坂5丁目(坂上→神楽坂上交差点)
  1. 工事中? 立て看板の「あなたは右側を通って下さい」
  2. 電柱看板「山ぐち」は袋町に。下図では藁店を南に上がり、曲がってから「市ヶ谷高校運動場」に行く前から入ります。
  3. 「明治牛乳ホール」
  4. 通りを越えて「協和銀行」
  1. 牛豚肉(恵比寿亭)。販売中
  2. パチンコ(ホー〇ムセン〇)
  3. マスダヤ(洋品)
  4. 懸垂幕「エープ〇」(レコード店)と電柱広告「●牛込〇」
  5. パチンコ
  6. 2軒がはいり…
  7. 山下漆器店
  8. 標識ポール「神楽坂」
  9. 電柱看板「ナカノ」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂水族館の内幕|峰竜太

文学と神楽坂

 俳優・タレントのみね竜太りゅうた氏が20年余前に家を新しく購入しました。その顛末を含めて氏は「かんべんして下さいヨ!」(集英社、2000年)で書いています。大事なことですが、今の邸宅ではありません。1代前の邸宅についてです。
 生年は1952年(昭和27年)2月29日。趣味は熱帯魚、犬、スポーツジムなど。

 私と大違いの度胸のよさは、現在の下嶋大邸宅(ってほどでもありませんがね)購入の際にも発揮されました。
 土地は、バブル絶頂期のとき、私がちょうど海外に取材に行っている平成2年に、カミさんが新宿の神楽坂で見つけて買いました。帰国するなり、
「買ったわよ」
 と言うわけです。何を? って感じでした。
 土地を買ったなんて、そんな思い切ったことをと思っても、もうあとの祭り。決断が早いというか、後先考えないというか。(略)
 値段を聞いてまたびっくり。場所がまた神楽坂という東京の中心地ですから、安いはずがない。なんでカミさん、そんなに高い土地買っちゃったわけ? これには税理士の人ですら、びっくりしてましたもん。
 どうして神楽坂かといえば、私もカミさんもできるだけ山手線の中へ中へという気持ちが強かったからです。特にカミさんのところは代々東京の下町ですから、高級住宅地といわれる世田谷の成城や田園調布に対しても、
「えー、あんな遠い田舎、住めない」
 と思っていたようです。
 私がちょうど忙しくなる時期でしたが、まだそんなに稼いでいたわけじゃない。それでも当時の銀行は無担保でお金を貸してくれた、恐ろしい時代でした。バブルの頃はそうだったんです。あの頃土地を買って大変なことになっている人は(私を含めて)、いっぱいいるんですから。
 でもあまりにも金額がでかすぎて、ぜんぜんリアリティがない。100万、200万の借金なら、大変だ~、なんて思うけれど、本当に天文学的数字で、現実感がまったくありませんでした。
 買った土地は更地ではなく、ウワモノがついていたので、そこはずっと人に貸していました。新築したのは平成8年です。
 最初に買った土地は45坪ですが、その後バブルがはじけ、土地の値段も急激に下がり、つけ足しつけ足しで少しずつ買っていき、今は100坪ぐらいになりました。
私と大違いの度胸のよさ 妻の度胸のよさです。
下嶋 本名は「下嶋清志」氏です。
大邸宅 現在はこの邸宅に住んでいません。あくまでも以前の話題になった邸宅です。

1997年 住宅地図。

バブル絶頂期 1985年から1990年まで。株や土地をはじめとした資産の価格が、経済の基礎的条件からみて適正な水準を大幅に上回って上昇した状況。
平成2年 1990年
更地 建物がなく、すぐにも建物を建てることのできる宅地や工業用地。
ウワモノ うわもの。上物。不動産関係の用語。土地の上にある家屋やビルなどの建築物

 建築は『殖産住宅』なんですが(ちなみに営業マンの彼は今は独立しています)。
「つきましては更地の状態から家のできるまでをドキュメントで撮りますから、少し安くしてくださいね」
 カミさんのひとことで、『殖産住宅』の社長も登場して、撮影が入りました。地鎮祭から撮りはじめ、半年で完成するまでのドキュメント。
 家具は、知る人ぞ知る四国の高松に、『森繁』という家具屋さんがあり、その東京支社に頼みました。
 社員の方がうちへ来て設計図を作り、1階と3階に漆塗りの特注の家具を備えつけました。椅子に家紋を入れたり、家具だけでもそうとうかかったと思います。それも、
「撮影しますから」
 ということで安くしていただきました。
 撮影のためにカミさんはわざわざ着物姿で四国まで出かけ、家具造りの工程をビデオに収めてきたのです。
森繁 株式会社 森繁もりしげ。創業は1944年。家具の製造と販売、特別注文の家具の設計と販売、インテリアのプランニングと販売など。

 こんなカミさんでも値切れないモノがふたつありました。バブル期の土地と水槽です。
 ふたりで相談し、家のメインテーマとして好きな熱帯魚を飼うことに決め、大きな水槽を置くことにしました。熱帯魚は唯一カミさんとの共通の趣味。(略)
 水槽を置くことに関してはいろいろ勉強したのですが、勉強すればするほど奥の深いものであることがわかり、結局高くついてしまったようです。
 家のテーマが水槽だなんてカッコいいのですが、簡単に言えば「こんにちは~」と玄関を開けて入ってきたお客さまを、これで驚かそうと思って作ったものです。でも作ってよかった。これが今一番、癒しになっている。
 とにかく海と魚が好きな私は、水族館は一日いてもあきないところ。そのミニ版が家にあるだけで、ほっとします。海の中はまったく違う世界なのです。しばし現実から離れてリラックスできます。あと家でリラックスできるのは、トイレの中だけでしょうか……。
 この下嶋家の大邸宅、神楽坂水族館と命名しています(偉そうに、スイマセン)。

升本総本店(写真)

文学と神楽坂

 升本ますもと総本店は、江戸時代から創業の酒類問屋です。かつて揚場町にありました。昭和47年(1972年)、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、店舗の写真を撮っています。

05-14-39-2 飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」では(ただし写真の前方にあるゴミはトリミング しています。ここに正しい写真があります)

「神楽河岸」昭和46年4月。加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

 昭和60年(1985年)、民間再開発があり、以前に揚場町だった場所は「飯田橋升本ビル」になります。やはり田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」です。

05-14-41-1 升本酒店ビル 1985-04-16

 昭和57年(1982年)、升本総本店は揚場町から津久戸町に移転します。

2009/11 津久戸町にあった升本総本店 Google

 平成24年(2012)、都道(放射第25号線)の建設のため、津久戸町から御殿坂に登る途中の、筑土八幡町5−10にまた移転します。

現在の筑土八幡町の升本総本店。Google

2020/02 現在。升本総本店だった場所

 なお、 昭和46年の升本総本店の地図と、平成22年の飯田橋升本ビルの地図を書いておきます。

昭和46年 升本総本店

2010年 飯田橋升本ビル

学校帰り、筑土八幡神社で遊ぶ。升本総本店は氏子の筆頭。新宿歴史博物館 ID7448の一部  昭和41年9月

人間直木の美醜|鷲尾雨工

鷲尾雨工

文学と神楽坂

 直木三十五氏は、文壇ゴシップ欄で毒舌を振るい、『南国太平記』で流行作家になった人です。しかし、かつての同僚鷲尾雨工氏の見方は違っており、「人間直木の美醜」(中央公論。昭和9年4月号)では……

 牛込矢来江戸屋というおでん屋をやった時分から、僕と直木関係を知っていた人々は、なぜ直木を訪ねないのか、と訝しんだ。けれども僕が飢える場合、こちらから憐みを乞うまでもなく、先方からやって来て応分なことをしてくれるのが、我々の倫理観念からは当然すぎる事柄だと、僕は考えた。そんなわけで、彼が「南国太平記」を書き出すまでは、どんなに困っても、行かなかった。「南国太平記」の筆は冴えていたし(待て、彼の作品には触れるな、触れたら長くなる)、こちらは時々自殺という観念が頭に去来する情態だったので、僕は食べ物も喉へ素直に通らないほど苦慮した末ついに、木挽町の、直木・香西菊池と三枚の標札の懸つた豪奢な三階造りの待合風な建物を訪れた。昔に変わらぬボソボソとした彼の声が、二階から聞こえていた。話相手は、新聞記者らしかった。
 昔はとにかく、これだけ偉くなっているのだから、もっと早く訪ねなかった僕が悪かったかしら? 溺るる者は藁にも槌るという。僕はなんとも浅間しい情緒に支配されながら、玄関で待っていると、今は忙しいから会えないという御挨拶だ。来ている新聞記者は二、三名らしく、どこの天ぷ羅がどうだとかいう大声が、ちょうどその時、僕の鼓膜をあやしく顫動させた。
 だが渇き切った僕は、盗泉の水でもいい飲みたかった。そこで家へ帰ると、長い手紙を書いて、窮状をつぶさに訴え、若干の助けを依頼した。そして数日後に訪ねると、訪ねる時は電話をかけてから来い、という返辞だ。
 止んぬるかな、直木は、本当に忘恩の徒であった。
 けれども必要は無慈悲にも三度び木挽町を訪わせた。勿論、電話で都合を聞いて行ったのだ。だが、行って見ると、二時間後に来い。僕はその二時間に、早法新人戦のラヂオを、築地河岸の汚いミルクホールで、実にうら悲しく聞いたことを今でも生々しく憶えている。僕がそのあとで、貰った金は、30円であった。

関係 直木氏は鷲尾氏の最も親しい友人でした。しかし、直木氏の金銭的無軌道があり、仲違いし、生涯うち解けることはなかったようです。
応分なこと 身分や能力にふさわしいこと。その程度。分相応ぶんそうおう
当然すぎる事柄 直木氏のほうが「悪いことをした。金銭を貰ってほしい」と言ってくるのが普通だったと、鷲尾氏は思っていたようです。
南国太平記 直木三十五氏の長編小説。1930年(昭和5)6月から翌年10月にかけて『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』に連載。
木挽町 こびきちょう、東京都中央区銀座の東部の地名。現在、歌舞伎座がある。
香西 香西織恵。こうざいおりえ。直木三十五の生涯の愛人。
建物 昭和4年10月、文藝春秋社は京橋区木挽町八丁目一番に「文藝春秋社倶樂部」を設置。三階建ての日本家屋で、社友、直木三十五の執筆所を兼ねていて、直木三十五は離婚後、この「文藝春秋社倶樂部」に住み続けます。
溺るる者は藁にも槌る 溺れる者は藁をも掴む。おぼれるものはわらをもつかむ。危急に際しては、頼りにならないものにもすがろうとする。
盗泉の水 「渇しても盗泉の水を飲まず」とは「いくら困窮していても、不義・不正にはいささかたりとも関わるべきではない」。「盗泉の水」は「すこし不正があってもしょうがない」でしょうか。
止んぬるかな 已んぬる哉。もうおしまいだ。今となっては、どうにもしようがない。
忘恩の徒 ぼうおんのと。世話になった人に感謝することもなく、その恩を踏みにじるような人
築地河岸 つきじがし。築地の海軍省所有地を借り受け、臨時の魚市場を開設し、築地河岸から築地市場になりました。
ミルクホール 牛乳、パン、ケーキ類などを出す、手軽な飲食店。明治後期に、新聞・雑誌を自由に閲覧し、これから昭和初期にかけて流行した。やがて喫茶店やカフェに取って代わられた。
30円 昭和元年は、公務員初任給75円、ビール大瓶42銭、コーヒー10銭、牛乳1本8銭、アイスクリーム1個20銭、映画館入場料30銭、新聞代1ケ月1円。企業物価指数では昭和2年の1円は令和元年の636円。したがって、昭和初年の30円は約2万円です。

クーデンホーフ光子

文学と神楽坂

 実はクーデンホーフ光子という名前はよく知っていました。19世紀後半にボヘミア(チェコの西部)の貴族と結婚した人です。でも、欧州に関わる逸話はあまり伝わらないし、 この事件とあの事件はどちらが先なのかともよくわからない。 随想や話はたくさん読みました。でも、結局わからない。どうしてなんだろう。1つ、理由がありました。年表がなかったのです。そのため、95%は知ってはいるけど、100%ではなく、書けない、という中途半端な状態でした。
 新宿区の「居住の地」でもいったんボヘミアに出て行くと、それからはわからない。
 でも、結局、年表はありました。なるほどそうだったんだと判明するものもありました
。年表は、折井美耶子と新宿女性史研究会編の「新宿 歴史に生きた女性100人」(ドメス出版、2005年)に出ていました。以下はその「女性100人」と年表です。

ヨーロッパ貴族と結婚した日本女性
クーデンホーフ光子(くーでんほーふ・みつこ)
 クーデンホーフ光子は、ヨーロッパ貴族に見初められ正式に結婚した初めての日本女性である。また二男リヒアルトが構想した「汎ヨーロッパ」思想とその運動が、今日のEU統合に発展したことから「欧州連盟案の母」とも呼ばれた。
 光子は、佐賀県出身の商人で骨董屋と油屋を営む父青山喜八と母津弥つやの三女みつとして、1874(明治7)年、牛込区牛込納戸町26番地に生まれた。当時の裕福な商家の町娘がそうであったように光子も稽古事を広く習得していたが、年ごろになると芝に和風の高級社交場として開業した紅葉館で働くようになり、三味線、琴、茶の湯、和歌、絵画などの素養もここで身につけたと思われる。

汎ヨーロッパ思想 汎ヨーロッパ主義。汎欧州主義。Pan-Europeanism。欧州の平和や統合を主張する思想や運動。欧州全体を一体的に捉え、1つに統合し、一体性を高める思想
EU European Union。欧州連合。外交・安全保障政策の共通化と通貨統合の実現を目的とする統合体。27か国が加盟。
牛込区牛込納戸町26番地 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)の明治20年では赤い3角形です。このなかの公園に「クーデンホーフ光子 居住の地」の史跡があります。

明治20年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

 この下図を見ると。26番地には2軒か1軒しかありません。おそらく26番地は1軒で、巨大な青山家だけあるのでしょう。ちなみに、ハンガリー公使館は青い四角です。
紅葉館 芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。1881年に開設、1945年3月の東京大空襲で焼失、跡地には東京タワーが立っている

 92年2月、オーストリア・ハンガリー帝国代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が日本に赴任した。当時ハンガリー公使館は牛込納戸町28番地にあったことから、おそらく伯爵が近くにあった光子の父親の店を訪れたのが二人の出会いになったと思われる。また納戸町の坂で落馬した伯爵を光子が助けたというエピソードもある。光子は背が高く群をぬいた美少女であったようで、二人はまもなく結婚した。光子17歳、ハインリッヒ32歳であった。
 クーデンホーフ・カレルギー家は、ヨーロッパを通じての旧家であり、ハプスブルク王家にもっとも近い名家である。夫は父の跡を継いで外交官の道を歩み、18ヵ国語を操り、政治、外交にも優れた才能に恵まれていた。二人の結婚は当然両家の猛反対にあった。

92年2月 明治25年です。
牛込納戸町28番地 青い三角形です。
納戸町の坂 中根坂でしょう。
エピソード シュミット村眞寿美氏は「ミツコと七人の子供たち」(講談社、2001年)で…
 次男のリヒアルトは、「私たちの両親は、自分たちの出会いについての話を、全然してくれなかった。そこで私としては、私の両親や友人や、同時代の人々について詳しい木村毅の言葉を借りることにする」(『美の国』)として、有名な「落馬事件」に言及している。……凍てつく牛込の道で落馬した異国の青年を助けて看病した勇敢な美少女が光子で、これをきっかけに二人は愛し合うようになった……という伝説である。
 その木村毅は、「……出会いについては、一つの挿話が語られている」と前置きして、この出来過ぎた話を、事実だとは断言しないまでも、異人に対しても躊躇しなかったのは、紅葉館時代に受けた訓練のたまものと光子をほめて、まとめている。ほめられるような話だったら、なぜ光子自身が手記に書き残さず、子供たちにも語らなかったのだろう。
 木村毅も執筆している「国際時評」の同時代人吉岡義二などは、
「ときは今をさかのぽる明治23年の正月のこと、松飾りも凍り付くばかりの寒気の問屋町の朝まだき、騎馬の蹄の音たかく通りかかったのは、見るからに気品ある若い異国の貴公子、ある店先で馬は何に驚いたか突然跳ね上がったとたんに、氷に蹄をすべらせて人馬もろとも路上に横倒しになった。人々は傍観するまま、そこへ店舗の奥から、みめ麗しい十七、八の乙女がかけ寄って、われを忘れて介抱し……」
 と、まことしやかに書いている。
ハプスブルク王家 オーストリアの旧帝室で、中世以来ヨーロッパ随一の名家。スイス北部出自の貴族の家系で、家名は山城ハプスブルクHabsburg(たかの城の意)に由来する。

 結婚した翌年長男ハンス(光太郎)が生まれ、翌々年には二男リヒアルト(栄次郎)が生まれたが、戸籍簿には私生子として記載されている。その後夫が父の急死を機に帰国することになり、ようやく結婚の許可も得て妻、子どもとして認められた。渡欧に先立ち皇居で皇后から「日本人としての誇りを忘れないように」との言葉と象牙製の立派な扇が贈られ、これが光子の一生の支えになったという。
 96年1月、光子は牛込生まれの長男、二男とともに夫の故郷ロンスペルクヘ出発した。夫はボヘミアとハンガリーにある伯爵家の広大な上地や莫大な財産を管理するために外交官を退官し大地主としての生活を営むことになった。針のむしろに座すような周囲の目が厳しいなかで、光子は語学を始め立居振る舞いなど完全にヨーロッパ流に再教育され、七人の子どもの母となった。
 1906年、夫ハインリッヒが心筋梗塞のために46歳で急逝した。遺言状による膨大な遺産相続、子女教育の責任者という立場が光子を一変させ、優しく忍耐強かった光子は厳格で専制的にすらなったという。光子は子どもの教育のためにウィーンの宮殿近くに移住し、亡夫の精神を継いで子どもたちにヨーロッパ人としての最高の教育を受けさせる一方、自分はウィーン社交界の花として人々を魅了した。香水「ミツコ」はこうした光子をイメージして名づけられた。7人の子どもたちはみな多方面に活躍するが、とくに二男のリヒアルトは23年に『パン・ヨーロッパ』を出版、ナチスに命を狙われながらも欧州統合運動に奔走した。
 光子は、病と孤独のなかで再び日本の地を踏むことなくウィーン郊外で67歳の生涯を終えた。(藤目幸子)

ロンスペルク Ronsperk。西ボヘミア(現チェコ共和国)のロンスペルク村。ドイツ国境に近いこの小さな町は、チェコ語で正式名称を「ポビェジョヴィツェ」という。

Ronsperk

BS日テレの「大人のヨーロッパ街歩き」から

香水「ミツコ」 ゲラン社の香水「Mitsouko」はクーデンホーフ光子に由来するものではなく、1909年に発行されたクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』に登場するミツコという。しかし、ジャック・ゲランが1919年にこの香水を製作した際、クーデンホーフ光子の名前を知らなかったということはなかろうと、ゲラン社フレグランス・エキスパートの社員が自社のコラムに記述しています。

* クーデンホーフ光子居住の地

 この地には、初めて西洋の貴族と結婚した日本女性であるクーデンホーフ光子[青山みつ](1874~1941)が、明治29年(1896)に渡欧するまで住んでいた。
 光子は、明治七年(1874)骨董商と油商を営んでいた青山喜八と妻つねの三女として生まれた。東京に赴任していたオーストリア・ハンガリー帝国代理公使のハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと知り合い、明治25年(1892)に国際結婚し、渡欧後は亡くなるまでオーストリアで過ごした。
 渡欧までの間、光子と共にこの地で暮らした次男のリヒャルト[栄次郎](1894~1972)は、後に作家・政治家となり、現在のEUの元となる汎ヨーロッパ主義を提唱したことから「EUの父」と呼ばれている。

年日年齢出来事
1874(明治7年)7.160歳東京市牛込区牛込納戸町で、青山喜八と津弥の三女として生まれる。
1881(M14)7歳 高級社交場である紅葉館が東京芝に開業。光子、一時働く
1891(M24)16歳紅葉館退職。光子、家業の骨董屋を手伝う
1892.2(M25)17歳ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵、オーストリア・ハンガリー帝国駐日代理公使として来日。3月ハインリッヒと光子結婚。ハインリッヒ32歳、光子17歳
1893.9(M26)19歳長男ハンス東京で生まれる。ハインリッヒの父フランツ・カール死去
1894.11(M27)20歳二男リヒアルト東京で生まれる
1895(M28)21歳教会で結婚式を挙げる。3月正式入籍。7月カトリックの洗礼(マリア・テクラ)を受ける
1896.1(M29)21歳宮中参賀で皇后に拝謁。夫の領地ロンスペルクヘ。三男ゲロルフ出産
1898(M31)24歳長女エリザベート出産
1900(M33)26歳 二女オルガ出産
1901(M34)27歳三女イダ出産
1903(M36)29歳四女カール出産。光子、喀血し肺結核と診断
1904(M37)30歳南チロルの結核療養所に入る
1905(M38)31歳修復の終わったロンスペルク城に戻る
1906.5(M37)31歳ハインリッヒ急逝、46歳。遺言により包括相続人、および子どもたちの後見入になる
1908(M41)34歳ウィーンに転居。社交界で活躍
1914(T3)40歳第一次世界大戦勃発。ストッカウの城に戻る仮設病院で娘だちと奉仕活動。長男、三男は戦場へ。二男リヒアルト、女優イダ・ロ-ランと結婚
1920(T9)前後46歳二女オルガを伴ってウィーン郊外のメードリンクへ移住。日本の要人が頻繁に光子を訪ねる
1923.10(T10)49歳リヒアルト著『パン・ヨーロッパ』出版
1924(T11) 秋50歳脳卒中の発作で右腕が麻庫、右足弱る、以後、娘オルガが代筆
1926(T15)1052歳第1回パン・ヨーロッパ会議開催。リヒアルト、パン・ヨーロッパ連盟の会長に選出
1941(S16)8.2867歳2度目の脳卒中発作にて死去。ウィーンのカレルギー家の墓地に葬られる

「どんどん橋」は一般名詞? 固有名詞?

文学と神楽坂

 神楽坂に住む地元の人がこんな異議を送ってくれました。 神田川(昔の用法では江戸川)にある「どんどん橋」についてです。
 まずその内容です。
「どんどん」は2つ?
 こちらのサイトで、神田川の「どんどん」を知りました。ただ、どうにも分かりにくいところがあります。
 歌川広重団扇絵「どんどん」の記事には「船河原橋は『どんど橋』『どんどんノ橋』『船河原のどんどん』などと呼ばれていた」とあります。一方で団扇絵に描かれた「どんどん」については「牛込御門で、その向かいは神楽坂」と説明しています。
 別の記事の船河原橋と蚊屋が淵では「船河原橋は(中略)俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。」
 牛込橋では「この『どんどん』と呼ぶ牛込御門下の堰」と書かれています。
 同じものかと錯覚してしまうのですが、牛込御門のある牛込橋と、船河原橋は別の橋です。
 おかしいなと思って改めて地図(明治20年 東京実測図)を見たら、船河原橋のすぐ下に堰と思われるものが書かれています。

 つまり「船河原のどんどん」と、広重団扇絵の「どんどん」は別モノなんですね。
「どんどん」と呼ばれるものが2つあったのでしょうか。それとも何かの間違いでしょうか。

 まず「どんどん橋」を考えてみます。辞書を見ると「踏むとどんどんと音のする木造の太鼓橋(反り橋、全体が弓なりに造ってある橋)」。また「どんどん」は「物を続けざまに強く打ったり大きく鳴らしたりする音を表す」ことだといいます。なるほど、太鼓橋だったんだ。つまり、これは固有名詞ではなく、あくまでも一般名詞なのです。そして、船河原橋でも、牛込橋でも、一般名詞の「太鼓橋」や「どんどん橋」と呼んでもいいのです。
 赤坂の溜池では堰をつくって、やはり「赤坂のどんどん」と呼ばれていたようです。この「どんどん」は「どんどんと音のする橋」なのでしょう。

「溜池葵坂 溜池は、江戸時代初期に広島藩主浅野幸長が赤坂見附御門とともに築造した江戸城外堀を兼ねる上水源で、虎ノ門から赤坂見附まで南北に長さおよそ1,400m、幅45~190mの規模を持つダムである。写真はその南端部の堰の部分で、堅牢な石垣の間から滝のように流れ出ている水が溜池の水である。どうどうと流れ落ちる水量の多さから、その落とし口は「赤坂のどんどん」と呼ばれ、江戸の名所の一つとして錦絵にも数多く描かれている。葵坂は写真左手を緩やかに登る坂で、高い樹本のあたりが坂の頂上となる。溜池は明治10年(1877)にこの堰の石を60cmほど取り除いたところ、瞬く間に干上がってしまったという.またこの付近は大正から昭和にかけての大幅な道路改正が行われ、葵坂は削平され、溜池も埋め立てられて外堀通りとなった」マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 御府内備考(府内備考の完成は1829年)の「揚場町」には船河原橋、つまり「どんどん橋」がありました。

 右は町内東北の方御武家方脇小石川邊えの往來江戸川落口に掛有之船河原橋と相唱候譯旦里俗どん/\橋と相唱候得共

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製。日本地図センター、2011年)


 解説とは違い、中景に船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。
 町方書上(書上の完成は1825-28年)の「揚場町」も同じです。
船河原橋之義町内東北之方御武家方脇小石川辺之往來、江戸川落口掛有之、船河原橋相唱候訳、且里俗どんどん橋相唱候得共
 なお、御府内備考の牛込御門の外にある「牛込橋」(牛込土橋)では「どんどん橋」だと書いてはありません。おそらく時間が経ち「どんどん橋」から、普通の橋になったのでしょう。御府内備考の「牛込御門」は……
    牛込御門
【正保御國繪図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英寛永十三年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が隨筆】に昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血槍・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といひ、牛込方は小栗牛左衛門・間富七郎兵衛・都筑叉右衛門などの並びを牛込方といふ。其間道はゞ百間にあまりしゆへ。牛込と番町の間ことの外廣く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。
 さて、この「どんどんノ図」はどちらなのでしょうか。牛込揚場町にある茗荷屋は右岸にあり、この位置から、おそらく、牛込橋(牛込土橋)だろうと思っています。

神楽坂地蔵屋

文学と神楽坂

最近気がついたものは、せんべいの自販機があったということ。インターネットでは

神楽坂地蔵屋     2020年9月30日
お煎餅の自動販売機を神楽坂地蔵屋の本店に設置しました。手土産も充実しています。是非皆さま、お立ち寄りください!

かなり昔からあったんですね。神楽坂通り五丁目を南に上がり、藁店(地蔵坂)から袋町に出ると、登場します。


2つ、買ってみました。1つは「はちみつおかき」で、賞味期限は2021.4.24、125g、580円。もう1つは「こわれ久助」で、賞味期限21.5.25、150g、500円。買った日は21.1.29。

決して湿ってはいません。でも、高級品を食べたって感じはない。そもそも、せんべいの高級品であるのかなあ。しかし、なかなか美味しい。

2012/2/22、この日もテレビかな、録画をしてました。

2012/3/13、こんな新聞広告も掲載していました。すごい! お主はただの煎餅店ではない。

高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのか

文学と神楽坂


 特定非営利活動法人「粋なまちづくり倶楽部」の神楽坂を良く知る教科書では…
(6) 三年坂
本多横丁を含み、筑土八幡神社へ至る緩やかな坂である。堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かった際、ここを駆け抜けたとも言われる。

 本当に堀部安兵衛が自分の住居から三年坂を通り、決闘した高田馬場跡に向かったのでしょうか。講談「安兵衛 高田馬場駆け付け」では、自宅は京橋八丁堀・岡崎町にあり、八丁堀から高田馬場へと向かったといいます。しかし、本当の自宅は牛込納戸町でした。
 郷土史家の鈴木貞夫氏の『新宿歴史よもやま話』(公益社団法人新宿法人会、平成13年)「高田馬場と安兵衛の助太刀」では… なお、ここでの括弧つきのひらがなはルビに変えています。
 ここで、安兵衛が「何処から高田馬場に駆けつけたのか」について考えてみよう。
 まず、安兵衛は事件後、堀部家の養子に入るについて『父子契約の顛末てんまつ』として事情を書留めるとともに「2月11日高田馬場出合喧嘩之事」を自ら認めた手記が熊本の細川家に伝えられている。これによると、
 元禄元年(1688)越後新発田しばたから江戸に出、牛込元天竜寺竹町(新宿区納戸町)に住んだ。やがて前記の菅野六郎左衛門(区内若葉に住む)を名目上の叔父として親類書を作り、納戸町に屋敷をもつ徒頭かちがしら稲生いのう七郎右衛門の家来速見重右衛門の口入れで稲生家の中小姓になり、元禄七年に高田馬場の助太刀に及んだ、というのである。
 これを根拠付ける、元禄4年の安兵衛自筆の従弟宛手紙が現存し、これに「去春(元禄3年)より唯今に牢人ろうにんにて、住所は牛込元天龍寺竹町と申す所に罷り有り候」と書かれている。また、幕府が作成した元禄期の地図に稲生七郎右衛門屋敷が現在の区立牛込三中の道を隔てた東側角地に記されている。七郎右衛門は1500石の旗本で延宝8年(1680)から元禄10年まで御徒頭を勤めており、時期的にもうまく符合する。
 稲生屋敷から高田馬場まで、2.2キロメートルと意外に近い。安兵衛が高田馬場に駆けつけるのに不可能な距離ではない。
 以上、納戸町の旗本稲生家から高田馬場に赴いた、と考えてよいのではなかろうか。

牛込元天竜寺 図の左上の天龍寺は天和3年(1683年)、火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越ししました。その後、天竜寺前は代地でしたが、町並名主付にしたいと願い出、元禄九年(1696)町奉行支配となり、御納戸町と名付けられました。また、払方町の地域も合わせて「元天龍寺前」とも呼ばれていました。

地図➀ 地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

竹町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「中御徒町通南側は竹町といわれている。これは寛永12年(1635)に天龍寺が召し上げられた跡に、竹薮があったからといわれる」
御徒頭 江戸幕府の職名。若年寄わかどしよりの支配に属し、御徒組おかちぐみを率い、江戸城および将軍の警固に任じた。

地図➁ 現在の地図

中小姓 ちゅうこしょう。小姓は武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う職種。中小姓は徒歩で随従する歩行小姓
牢人 主人を失い秩禄のなくなった武士。
稲生七郎右衛門屋敷 「地図➀」では橙色で、「➁現在の地図」では赤色で囲んだ家は稲生七郎右衛門の家です。
意外に近い 稲生屋敷から高田馬場までは徒歩で27分でした。駆け足の速度はほぼ2倍、約14分です。
 最後に両者の人数を書いています。
 また、高田馬場の決闘に、村上は弟二人、浪人村上三郎右衛門と中津川祐範に助太刀を頼み五人、菅野は安兵衛、若党角田左次兵衛、草履取ぞうりとり七助の四人。安兵衛の手記は、決闘の場所を馬場の西部としている。

村上 この決闘の一方は伊予西条藩の村上庄左衛門の軍団6~7人。
菅野 他方は伊予西条藩の菅野六郎左衛門の軍団4人。
若党 わかとう。江戸時代、武家で足軽よりも上位にあった身分が低い従者。
草履取 武家などに仕えて、主人の草履を持って供をした下僕。

 なお、決闘前に自宅にいたという根拠も、全くどこにもありません。たとえば、池波正太郎氏の『堀部安兵衛』では、決闘前日は近くの林光寺に外泊したと書いています。同じ作者の『決闘高田の馬場』では、天竜寺の長屋から決闘に行ったと書かれています。住所でも外泊でも三年坂や本多横丁は全く出てきません。つまり、高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのは、ほぼ間違いなのです。


浄瑠璃坂の仇討跡

文学と神楽坂

 2020年11月、最近(でもないけれど)市谷鷹匠町の「浄瑠璃坂の仇討跡」は新しい案内標示板になっていました。でも、内容はほとんど何も変わりません。ただしこの標示板を取り巻く周囲を見回すと、マンションや大日本印刷のビルが沢山建築中でした。

「浄瑠璃坂の仇討跡」は赤い矢印で書かれていますが…

現在の地図と新板江戸外絵図(1679)

でも、決闘した戸田七之助邸は実際は遙かに巨大な場所でした(下図)。大日本印刷とおそらく同じぐらいの大きさだったと思っています。(大日本印刷はまだまだ大きくなっている)

明暦江戸大絵図(1657)

 平成28年の標識は…

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
   所 在 地 新宿区市谷鷹匠町 浄瑠璃坂上・鼠坂上
         指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂ねずみざかの坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、「赤穂事件」、「伊賀越いがこえの仇討」(鍵屋かぎやの辻の決闘)とともに、江戸時代の三大仇討のひとつと呼ばれる「浄瑠璃坂の仇討」が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月に死亡した宇都宮藩主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允くらのすけだが同じく家老の奥平隼人はやとに、以前から口論となっていた主君の戒名かいみょうの読み方をめぐって刃傷にんじょうにおよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易かいえきになったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記げきらと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠たかじょう町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討ち入り、牛込見附門付近で隼人を討ち取った。源八らは大老井伊掃部守かもんのかみ直澄へ自首したが、助命され伊豆大島に配流はいるとなり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成28年12月2日
新宿区教育委員会

宇都宮藩 現在のおおむね栃木県。
戒名の読み方 竹田真砂子氏が『浄瑠璃坂の討入り』(集英社、1999年)についてこう書いています。
「まず仇討ちに至るまでの経緯を、『中津藩史』に倣いつつ、いささか意訳してお伝えしておこう。
 寛文8年(1668)2月19日、宇都宮藩奥平家の当主奥平忠昌ただまさが他界する。享年61歳であった。その折、位牌にしたためられた亡君の戒名の読み方が分がらなかった家老の一人である奥平隼人に対し、同じく家老職にある奥平内蔵允くらのじょうがすらすらと読み下してみせたことから事件は始まる」
源八 竹田真砂子氏によれば「その総大将源八は、弱冠15歳の若衆で人目を惹く美少年であった」といいます。
改易 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収する。
掃部守 行事に際して設営を行い、殿中の清掃を行う。
配流 流罪に処する。島ながし。

 ちなみに、この標識が、1代古くなると、平成3年に発行したものとなります。ルビがなく、印刷は非常に見にくいけど、内容は同じです。

(文化財愛護シンボルマーク)

 新宿区指定史跡

じょう瑠璃るりざか仇討跡あだうちあと
        所 在 地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂上・鼠坂上
        指定年月日 昭和60年11月1日
 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた場所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前から口論となっていた主君の戒名の読み方をめぐって刃傷におよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込鷹匠町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは大老井伊掃部守へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。
 平成3年1月
東京都新宿区教育委員会

 さらに昭和57年もありました。

 新宿区指定文化財
  旧 跡  浄瑠璃坂の仇討跡
 
 宇都宮藩家老の奥平内蔵允は、主君奥平忠昌の追福法要の際、同じ家老の奥平隼人と口論の末、刃傷に及んで切腹した。その子源八は父の恨みを晴らそうと近縁の奥平伝蔵、夏目外記らとその機会をうかがった。追放された隼人は父半斎ら家族と江戸に逃れて浄瑠璃坂上に隠れ住んだ。探しあてた源八は四年後の寛文12年(1672)2月2日夜、総勢42名で、大風に乗じ門前に火を放って討入り、牛込御門前で隼人を討取った。自首した源八らは、そのけなげな挙動は感じた井伊直澄のはからいで助命され、伊豆大島に流された。
 浄瑠璃坂の名の由来については江戸時代から諸説があるが、いずれも確証はない。
 昭和57年3月
東京都新宿区教育委員会
浄瑠璃坂の仇討跡

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-11-24-3「浄瑠璃坂仇討案内板」 1984-10-18

 


納戸町

文学と神楽坂

 納戸なんどはそもそも天龍寺の門前町(下図の青色)でした。下図で江戸時代の延宝年間(1673-1681年)です。この時代、将来の納戸町になる青色の町が三つありました。なお、納戸とは物置部屋で、服や調度類、器財など物品を収納します。また、天龍寺は天和3年(1683年)に火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越しします。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

 町方書上(文政8年、1825。再版は新宿近世文書研究会、平成8年)では

町内里俗之唱
一 町内東之方北側片側町之所、里俗木津屋町唱申候、年代不知、先年木津屋申、太物、醤油類渡世仕候者罷在候付、里俗右之如く唱候由
一 同中御徒町通南側、里俗竹町唱申候、寛永十二亥年 天龍寺御用付、被召上候跡竹薮有之候場所故、竹町唱候由
一 同所飛地、弐拾騎町続之所、里俗墓町唱申候、天龍寺墓所有之候由
一 同所裏通り、御細工町隣り候処、表大門里俗唱申候天龍寺大門有之候由申傅候


太物 太物は呉服(絹織物)と正反対で、太い糸の織物の総称。綿織物や麻織物など。

 つまり、納戸町の東方は木津屋町、中御徒町(現在の中町)と同じ通りを竹町、飛地は墓町、御細工町と隣り合った通りを表大門と呼んでいます。

 また、「市ヶ谷牛込絵図」(安政6年、1857年)では…

 通りは表大門だけではなく、裏大門も出ています。さらに通りには木ヅヤ丁、タケ丁もでて、合計で3つの通りが出てきました。木ヅヤ丁は、木津屋丁に、タケ丁は竹丁に変えることができます。現在の言葉では木津屋路地、竹路地でしょうか。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、慶応四年(1868)、牛込御納戸町は「御」の字を削除して牛込納戸町に、明治44年(1911)牛込も省略し、納戸町となったようです。

 さらに牛込中央通りの一部を通り、銀杏坂通り中根坂鼠坂は納戸町から出ます。以上をまとめて……。なお、士邸とは武士の邸宅です。



新蛇段々(360°カメラ)

文学と神楽坂

 新蛇段々です。以前は、といっても昭和時代ですが、ここが袖摺坂だと思っていました。実は袖摺坂は大久保通りの北側で、別です。

新蛇段々

 360°カメラでは道路を南から北に向かって下がっていきます。矢印を叩いてみてください。ひとつ先にでていきます。ここから袖摺坂まで歩いてみましょう。


 下図は東京都都市整備局の地図です。この地図を実際に見てみましょう。最下部の「同意する」を選び、「新宿区」を選択、「都市計画情報」の「表示切替」から「都市計画道路」だけに✓をいれると下図がでてきます。大久保通りの道幅は、現在と比べて、南に拡大します。

神楽坂、坂と路地の変化40年(2)|三沢浩

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(1)(3)も引用可能の分量に限って引用します。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。


ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

整美歯科 以前は「正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう」と書きましたが、しかし、昭和42年の『新修新宿区史』を見ると、整美歯科は確かにあったようです(参照は「新修新宿区史」で左端の電柱広告を)。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。




神楽坂下から揚場町まで

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、1962年、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。

昭和37年 加藤医院

⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。
➉桜の木 悪いことも起こしました。細かくは牛込駅リターンズで。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。



帯取の池|半七捕物帳

文学と神楽坂


 岡本綺堂氏の小説「半七捕物帳」です。1917年、氏はシャーロック・ホームズに影響を受けて、日本最初の岡っ引捕り物「半七捕物帳」を執筆。それから1936年までの20年にわたり断続的にこの捕物帳を発表しています。

 これは「半七捕物帳」の「帯取の池」の最初の部分です。ここで出てくる「帯取の池」は市ヶ谷の月桂寺の西側にありました。でも、それってどこ? 本当にあるの?

「今ではすっかり埋められてしまって跡方も残っていませんが、ここが昔の帯取の池というんですよ。江戸の時代にはまだちゃんと残っていました。御覧なさい、これですよ」
 半七老人は万延版の江戸絵図をひろげて見せてくれた。市ヶ谷の月桂寺の西、尾州家の中屋敷の下におびとりの池という、可成かな大きそうな池が水色に染められてあった。
京都の近所にも同じような故蹟こせきがあるそうですが、江戸の絵図にもこの通りしるしてありますから嘘じゃありません。この池を帯取というのは、昔からういう不思議な伝説があるからです。勿論、遠い昔のことでしょうが、この池の上に美しいの帯が浮いているのを、通りがかりの旅人などが見付けて、それを取ろうとしてうっかり近寄ると、たちまちその帯に巻き込まれて、池の底へ沈められてしまうんです。なんでも池のぬしが錦の帯に化けて、通りがかりの人間を引寄ひきよせるんだと云うんです」

帯取 おびとり。太刀を腰につけるためのひも
万延版の江戸絵図 以下は国際日本文化研究センターの「萬延江戸図」(1860年)です。中央部に月桂寺が描かれています。その西の「尾張ドノ」は現在の東京女子医科大学です。

万延江戸図

万延江戸図

 現在の地図で、中央下の赤黒色の地図マーカーが「正覚山月桂寺」。

女子医大と月桂寺

現在の女子医大と月桂寺

大きそうな池 残念ながら「萬延江戸図」の附近では池は書いていません(上図)。万延元年「礫川牛込小日向絵図」(1860年)には月桂寺そのものがありません。嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」(1854年)では月桂寺の中に多分青いかわらきの建物数棟がありました(下図)。でも、池があるのかは、不明です。青色を拡大すると瓦だと思います。また尾刕(=尾張、尾州)殿には池は描いていません。

月桂寺

月桂寺。「牛込市谷大久保絵図」から

京都の近所 秋里籬島氏の『都名所図会』(安永九年、1780年)では「帯とり池。広沢のひがしなり、路のかたはらにくぼみたる所あり、是なり。むかしはいと深くて、此池の霊帯と化して人を取りしとぞ」と書かれています。場所は左上の青い地図マーカーで。現在は「弁慶池」となっていました。

故蹟 古跡。歴史に残るような有名な事件や建物などがあったあと。遺跡。旧跡。古址
 様々な色糸を用いて織り出された絹織物の総称

「大きいにしきへびでも棲んでいたんでしょう」と、わたしは学者めかして云った。
「そんなことかも知れませんよ」と、半七老人はさからわずに首肯うなずいた。「又ある説によると、大蛇が水の底に棲んでいる筈はない。これは水練に達した盗賊が水の底にかくれていて、錦の帯をおとりに往来の旅人を引摺ひきずり込んで、その懐中ふところ物や着物をみんなぎ取るのだろうと云うんです。まあ、どっちにしても気味のよくない所で、むかしは大変に広い池であったのを、江戸時代になってだんだんにせばめられたのだそうで、わたくしどもの知っている時分には、岸の方はもう浅い泥沼のようになって、夏になると葦などが生えていました。それでも帯取の池といういやな伝説が残っているもんですから、誰もそこへ行ってさかなを捕る者も無し、泳ぐ者もなかったようでした。すると或時あるとき、その帯取の池に女の帯が浮いていたもんだから、みんな驚いて大騒ぎになったんですよ」

錦蛇 にしきへび。ニシキヘビ亜科のヘビの総称。インド・東南アジア・オーストラリア・アフリカの熱帯地方に約20種。全て無毒。
水練  水泳の練習。水泳の技術。水泳の名人。

 帯取の池はあったのでしょうか? 嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」に青い絵がありますが、これは瓦葺きの屋根でしょう。現在の私は、この池は岡本綺堂氏が小説のため作り出したものだと思っています。

婦系図

文学と神楽坂

泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

婦系図 明治40年に書かれた泉鏡花の小説。お蔦と早瀬主税の悲恋物語が中心で、ドイツ文学者の酒井先生の娘お妙の純情、家名のため愛なき結婚のもたらす家庭悲劇、主税の復讐譚などを書く。
糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。



漱石と市谷の小学校

文学と神楽坂

 夏目漱石が通った市谷の小学校はどこにあったのでしょうか。

 北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺文学会、2011年)では…

 1876年、養父母の離婚が成立し、養母とともに実家へ引き取られた漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった。当時は市谷柳町交差点を少し南へ行った、市谷柳町16番地にあった。家から1km余の距離である。
 現在の市ヶ谷小学校(新宿区市谷山伏町)とは別系統で、愛日小学校(新宿区北町)の前身になる。愛日小学校は1880年、吉井小学校(1870年創立。市谷加賀町16番地)と漱石の通った市ヶ谷小学校(1874年創立)が合併し、現在地につくられたものである。 1878年4月、市ヶ谷小学校を卒業した漱石は、錦華学校小学尋常科に入学した。

「漱石は5月から市ヶ谷小学校へ通うようになった」と書いてありますが、実は「市ヶ谷学校」が正しく、「小」は不要です。では、もう1つ。「市ヶ谷学校」の場所は、本当に市谷柳町16番地なのか、それとも柳町69番地か、山伏町2番地なのか、どうなのか、という問題です。ここで柳町69番地と山伏町2番地は、荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂』(集英社、1984年)にでています(下線は私がつけたもの)。

 明治九年(1876)10歳
★5月30日(火)(不確かな推定)、戸田学校下等小学校第四級を修了したかもしれぬ。
★6月頃(推定)、市谷学(牛込区市が谷山伏町2番地、現・新宿区市が谷山伏町)の下等小学第三級に転校したかも知れぬ。同窓に、島崎友輔(柳塢りゆうお)・桑原喜・山口弘一・篠本二郎・中川某(不詳)らいて親しく交わる。

脚注
◇第一大学区東京府管内第三中学区第四番小学市が谷学校。明治6年設立。生徒数男児82人、女児38人。旧民家を校舎にしたもので、程度は戸田学校より低かった。明治九、十年頃までに、牛込区柳町69番地(当時、69番扱所)に移る。金之助が通ったのはここかもしれぬ。明治13年公立小学(第二番)吉井学校と合併し、「愛日小学校」となる。現在の新宿区立愛日小学校(新宿区北町26番地)である。
◇「喜いちゃん」と呼ばれる友人から、蜀山人の自筆と称する『南畝なんぼ莠言ゆうげん』を買わされたことがある。翌日取りもどしに来たので、本は返したが、代金は受取らない。

 はじめに「柳町69番地」はまず違います。当時の地図を見ても、柳町には48番地が最大でした。柳町69番地はありえません、では「山伏町2番地」はどうでしょうか。

 唐澤るり子氏の「モノが語る明治教育維新 第27回-双六から見えてくる東京小学校事情 (5)」(三省堂、2018年8月)では「明治7年に開校した『市ヶ谷学校』は、明治8年に生徒増加のため市谷柳町(現・新宿区市谷柳町)の民家を買収し移転しました」と書いてあります。

市ヶ谷学校

市ヶ谷学校。東京小学校教授雙録。新宿区教育委員会『新宿区教育百年史資料編』(1979年)の口絵から。

 新宿区愛日小学校の歴史では「明治7年3月23日、第一大学区に第四番公立小学 市ヶ谷学校が開校される(市谷柳町16)」と書き、また、新宿区の『新宿区史 資料編』(新宿区、1998年)でも下図となり、同様です。

公立小学校沿革一覧

公立小学校沿革一覧。一部を改編

 どうも市谷柳町16が正しいようです。でも、わからない場合も残っている。その場合、聞いてみます。唐澤るり子氏にこの質問をお送りしました。以下はその回答です。

 市ヶ谷学校に関してですが、私の調べによれば明治7年3月に市ヶ谷山伏町に開校、明治8年4月1日に生徒増加のために市谷柳町16番地の民家を買収、移転したとなります。
 漱石が戸田学校から市ヶ谷学校下等小学第3級に転校したのは、明治9年5月から10月の間ですから、「6月頃(推定)、市が谷学校(牛込区市が谷山伏町2番地)」とありますが、この時期には移転しており、山伏町とは考えられないと思います。
 三省堂のブログは出典を明記しておりませんが、開校に関しては『小学校の歴史Ⅲ』(倉沢剛著)、移転に関しては『新宿区教育百年史』を参考にしております。

 なるほど。市谷柳町16番地の民家を買収し、漱石も柳町16番地の小学校に通っていたんですね。

柳町16

柳町16。東京実測図。明治28年。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から