カテゴリー別アーカイブ: 神楽坂以外の牛込

筑土八幡神社|文化財③

文学と神楽坂

 筑土八幡神社の文化財の説明です。神社に入る前の坂を登り終える途中で、鳥居が見えてきます。写真のような石造りの鳥居です。  鳥居の左側に説明板があります。

新宿区登録有形文化財 建造物
      石造いしぞう鳥居とりい
                 所 在 地 新宿区筑土八幡町二ー一
                 指定年月日 平成九年三月七日
 石造の明神型みょうじんがた鳥居とりいで、享保十一年(一七二六)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ三七五センチ、幅四七〇センチ、 三五センチ。
 柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸ひたち下館しもだて藩主はんしゅ黒田豊前守ぶぜんのかみ直邦により奉納されたことがわかる。

新宿区指定有形民俗文化財
      庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
                 指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがたの庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。

  平成九年五月

                    新宿区教育委員会

明神型 柱や笠木など主要部材に照りや反りが施された鳥居。
庚申塔 庚申信仰でつくった石塔。江戸時代に流行った民間信仰で、庚申の日の夜には、長寿するように徹夜した。細かくは「道ばたの文化財 庚申塔」を参考に。
舟形光背 ふながたこうはい。仏像の光背(仏身からの光明)のうち、船首を上にして舟を縦に立てた形に似ている光背。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

三四、珍らしい庚申塔
          (筑土八幡町七)
 筑土八幡境内には珍らしい庚申塔がある。高さ約一・五メートル、巾約七十センチの石碑で、碑面にはオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。一猿は立って桃の実をとろうとしているところ、一猿は腰を下ろして桃の実を持っており、アダムとイブとを思わせるものである。下の方には、判読できないが、十名の男女名が刻まれている。
 寛文四年(一六六四)の銘が刻んであり、縁結びの神とか、交通安全守護神として、信仰が厚かった。
 またこの庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った十三年前の慶安四年(一六五一)に死んでいるのである。そのような話が作られたのは、矢来町の正雪地蔵と同じように、袋町や天神町に正雪が住んだことから結びつけたものであろう(五二参照)。
 庚申塔の研究家清水長輝は、これは好事家が幕末につくったものではないかといっている。
 その理由として、庚申塔としては余りにも特異であり、猿と桃との結びつきは元祿からと思われること、年号を荒削りの光背に彫ることは、普通はあり得ないこと、などをあげている。この庚申塔は、もと吉良の庭内にあったものを移したというが、廃寺になった白銀町の万昌院にあったものではないかという。
 「参考」新宿郷土研究第一号  路傍の石仏

由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。江戸へ出て塾を開き楠流軍学を講義して門弟は多数。1651年徳川家光の死に際し、幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企図。事前に露見し駿府で自殺。
清水長輝 おそらく清水長輝著「庚申塔の研究」(大日洞、1959年)でしょう。
光背 こうはい。仏身から発する光明を象徴化したもの。後光ごこう 、円光、輪光などともいう。
万昌院 明治29年の「東京市牛込区全図」ではまだありました。

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筑土八幡神社|田村虎蔵旧居跡②

文学と神楽坂

田村虎蔵

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある小さい小さい神社ですが、しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財としては巨大です。

 ここでは「田村虎蔵先生顕彰碑」について。

 筑土八幡神社の入口で「田村虎蔵先生顕彰碑 入口」とあります。
 門を通り、登りつめると、左手に「田村虎藏先生をたたえる碑」がでてきます。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があり、碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と書いてあります。

顕彰 けんしょう。隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰する。
視学 しがく。旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たった。

 以前は、文部省の唱歌教科書ではどれも漢文調で難しい歌詞が多く、一方、軍歌では乱暴な言い回しが多かったといいます。これに対して、田村虎蔵氏は優しい言葉で、優しい詩を書き、言文一致の唱歌の創始者の一人でした。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では、

三二、作曲家田村虎蔵旧居跡
          (筑土八幡町三一)
 大久保通りから左手に行く路地の坂道を上る。坂を上りつめると、右が筑土八幡となるが、その左側は明治、大正時代の小学唱歌の作曲家田村虎蔵が明治三十九年十二月から昭和十八年まで住んでいたところで、新宿区の文化財となっている。
 代表的なものは、「金太郎のうた」、「花咲爺」、「大黒様」、「青葉の笛」、「一寸法師」、「浦島太郎」などで、今でも愛唱されているものが多い。
 昭和四十年十一月、教え子たちは、先生の二十三回忌を記念して、その徳をしのび、先生がよく散歩していた隣の筑土八幡境内に顕彰碑を建てた。大理石で、みかげ石台の上に据えられ、碑面には「田村庭蔵先生をたたえる碑」というタイトルの下に、「金太郎のうた」の音符と歌詞が刻みこまれ、その下に簡単に氏の略歴を刻んだスマートなものである。
 なお田村氏子孫は、昭和四十四年十月十五日、神楽坂六の二一に移転した。
 〔参考〕新宿区文化財

坂道 昭和5年の「牛込区全図」。赤は筑土八幡町31(現在は筑土八幡町4の24)。青は登っていく坂道で、坂は「御殿坂」といいます。

 筑土八幡神社から筑土八幡町31番地(現在は4-24)までに行く場合は、筑土八幡神社を右に越えて、西北西に下り、神社から出ると、目の前に「新宿区指定史跡 田村虎蔵旧居跡」があります。とてもとても小さく標示されています。

新宿区指定史跡
    田村たむら虎蔵とらぞうきゅう居跡きょあと
             所 在 地 新宿区筑土八幡町三十一番地
             指定年月日 昭和六十年三月一日
 作曲家田村虎蔵(一八七三~一九四三)は、明治三十九年(一九〇六)から、その生涯をとじるまでの三十七年間、この地で暮らし、作曲活動を行った。
 虎蔵は、明治時代の言文一致げんぶんいっちの唱歌運動を石原和三郎、巌谷いわや小波さざなみ、芦田恵之助、田辺友三郎らと共に展開し、その普及に尽力した。小学唱歌を主に作曲し、「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「花咲はなさかじじい」など、現在も愛唱されているものが多い。
 旧居は太平洋戦争時の戦災で焼失したが、筑土八幡神社境内には虎蔵の功績をたたえた記念碑がある。
       平成二十五年三月  新宿区教育委員会
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筑土八幡神社|由緒①

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある、今や小さい小さい神社です。

 しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」を始め、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財となると巨大な空間です。

  まず筑土八幡神社の由緒について。天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した「江戸名所図会」では

築土八幡宮 津久土明神の宮居に竝ぶ地主の神にして、別當は天台宗松霊山無量寺と号す。祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、以上三座なり。相傳ふ、嵯峨天皇の御宇、この地に一人の老翁住めり。常に八幡宮を尊信す。或時、當社の御神、この翁が夢中に託して、永くこの地に跡を垂れ給はんとなり、老翁奇異の思ひをなす、その翌日一松樹の上に、瑞雲ずいうん靉靆あいたいして、旌旗はたの如くなるを見る。(松霊山の号こゝにおこると云ふ。)時に一羽の白鳩來つて、同じ樹間このまにやどる。郷人さとびと翁が霊夢を聞きて、直ちにこの樹下きのもと瑞籬みずがきめぐららして、八幡宮とあがむ、遙の後慈覺大師東國遊化ゆうげの頃、傳教大師彫造し給ふ所の阿彌陀如来を本地佛とし、小祠を經始けいしす、其後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき、社壇を修飾し、此地の産土神とすといふ。(或ふみにいふ、當社の地は往古管領上杉時氏の壘[トリデ]の跡にして、時氏の弓箭ゆみやを以て八幡宮に勸請なし奉ると云々)

「江戸名所図会」の図では、筑土八幡は右、築土神社は左の神社です。現在は右側の筑土八幡しか残っていません。左側の築土神社は千代田区九段に移動し、かわって小玉製作所やカトリックの修道院などがやって来ました。

[現代語訳]津久戸明神と並ぶ土地の神で、別当は天台宗松霊山無量寺という。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。伝承によると、嵯峨天皇の時代、この地に一人の老人がいた。常に八幡宮を信仰していたが、ある時、当社の神が老人の夢に現れ、永くこの地に自らの跡を残すように告げた。翌日、松の木の上に瑞雲がたなびき旗のように見えた。松霊山の山号は、これに由来する。この時 一羽の白鳩が飛んで来て松の枝にとまった。里人たちは老人の夢の話を聞き、松の木の下に玉垣をめぐらして八幡宮として祀った。その後、慈覚大師が東国遊歴の頃、伝教大師が彫った阿弥陀如来を本地仏として祠が建てられ、さらに文明年間(一四六九~八七)江戸城主上杉朝興が社殿を整え、この地の鎮守とした。一説に、この場所は昔、関東管領上杉時氏の城館があり、時氏の弓矢を八幡宮に奉納したという。(多くは新宿区歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』平成12年から)

御宇 ぎょう。帝王が天下を治めている期間。御代
瑞雲 ずいうん。めでたいことの起こるきざしとして現れる雲。祥雲
靉靆 あいたい。雲のたなびくさま。雲の厚いさま。
旌旗 せいき。はた。のぼり。軍旗
瑞籬 ずいり。神社などの玉垣。みずがき。

「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

 筑土八幡神社は筑土八幡町七番地卽ち筑土山に鎮座す。表門は石柱にて銅製の注連をかけ。石磴中段に石の鳥居あり。筑土八幡神社と題する銅額を掲ぐ。享保十一年丙午建る所にして。從四位下行豊前守丹治眞人黑田直邦と銘せり。山上に株の松あり。千年松といふ株の遺蘖なりとて。ここにも注連を張りぬ。社殿は土蔵造りにて。格天井。拝殿には大なる弓とうつぼとを掛け右の方に獅子頭を安じ。筑土八幡神社の扁額を打たり。殿前の石獅には文化七庚午年八月吉日。石燈篭には寛政十二庚申八月十五日とあり。左には梅右には櫻を植へぬ。
[現代語訳]筑土八幡神社は筑土八幡町七番地、つま周辺の高台を「筑土山」といったが、ここに鎮座している。表門は石柱で銅製のしめなわをかけ、石段の中段には石の鳥居がある。筑土八幡神社という銅額を掲げている。銘は、享保十一年、従四位下行豊前守の丹治眞人黒田直邦。山上に株の松があり、千年松という株がでている。ここにもしめなわを張っている。社殿は土蔵造りで、天井は格天井、拝殿には大なる弓と矢を掛け、右の方に獅子頭をおいた。筑土八幡神社の横長の額がある。殿前の石獅には1810年8月吉日、石燈篭には1800年8月15日と書いてある。左には梅、右には桜を植えた。

石磴 せきとう。石段。石の多い坂道。
中段 今も下から48段目
享保十一年 1726年
黒田直邦 上野沼田藩主。寛文6年(1666年)生れ。享保8年(1723年)奏者番。同20年(1735年)3月歿。享年は70歳
 旧の旧字体
遺蘖 蘖は切り株や木の根元から出る若芽。余蘖。
格天井 太い木を井桁いげた状に組み、上に板を張った天井
 えびら。矢を入れて右腰につける武具。うつぼ(靫・空穂・靭)は矢を携帯する筒状の容器。
扁額 門戸や室内に掲げる横に長い額
文化七庚午年 1810年
寛政十二庚申 1800年

 境内には由来も書いてあります。

      筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨さが天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋こおり牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁かいた。ある時、翁の夢の中に神霊しんれいが現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそはへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人さとびとに語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連しめなわをゆいまわして、その松をまつった。
 その後、伝教でんぎょう大師だいしがこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻してほこらに祀った。その時に筑紫つくしの宇佐の宮土をもとめていしずえとしたので、筑土つくど八幡はちまん神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土うぶすな神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災て焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。

御祭神
  応神天皇
  神功皇后
  仲哀天皇

大祭
  九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十 年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。

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上田敏|『海潮音』

文学と神楽坂

 この詩は聞いたことはありますか。30代以下の人はまず知らないでしょう。

  やまのあなた
やまのあなたのそらとほ
さいはひむとひとのいふ。
あゝ、われひととめゆきて、
なみださしぐみ、かへりきぬ。
やまのあなたになほとほ
さいはひむとひとのいふ。

 もとはドイツ語からやって来ました。原文は

Über den Bergen,weit zu wandern,
sagen die Leute,wohnt das Glück.
Ach, und ich ging,im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen,weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.

 一応、英語の翻訳もあります。

Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.

 有名な人が翻訳していますが、その人の姓名は知っていますか? 

 次も同じ人が訳した有名な文章です。

「秋の日の」の次は「ヸオロンの」が縦書きとして続き、それから「ためいきの」と続きます。「うら悲し」の後、一行空き、「てくてく牛込神楽坂」では改行も行い、「鐘のおとに」になります。
 すいません。あくまでも空白をつくらないと考えて、途中で改行するように決めています。

 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦の時に、BBCのフランス語放送で流れた詩でもあります。各地のレジスタンスに命令を出す暗号なのです。

 フランス語の原文、英語の翻訳も出しておきます。

 翻訳者は上田びん氏です。夏目漱石氏と比べると、年齢は8歳若く、東大には明治27年、21歳で入学しています。1905年(明治38年)、数え32歳になってから訳詞集『海潮音かいちょうおん』は発行しました。どちらの訳詞も『海潮音』からとってあります。

 では、他の『海潮音』の訳詩を知っている人は? 残念ながら、私はこれ以外の訳詩はなにも知りません。他の人も同じでは?

 ちょうど1987年、俵万智氏の『サラダ記念日』は大ブームになり、中学校の教科書にも取り上げられましたが、1句あげてといわれると、うーんというのと同じです。まあ、これが詩の生き方。『海潮音』は青空文庫で全部が載っています。

 上田敏氏は東京高等師範学校教授、東大講師、京大教授を歴任し、死亡は数え43歳、満41歳で、萎縮腎と尿毒症でした。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。

 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

明治二十年(十四歳)四月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治二十一年(十五歳)、父は四十三歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町五十八番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶二十二年(十六歳)九月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。

矢来町|「東京物語」辞典①

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。最初は矢来町。

文士罷り通る

 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
矢来町 左図を参照
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。
名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。

発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 右図を参照
学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治二十年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、二十四年からほぼ十年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治三十六年三月、本郷区千駄木町へ居を構えた。

竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて十八歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正二年のことであった。

矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮

新潮社

文学と神楽坂

佐藤義亮氏

 佐藤義亮氏は1896年に新声社を創立、しかし失敗。そこで1904年、矢来町71で文芸中心の出版社である新潮社を創立。雑誌は『新潮』。この時、編集長は中村武羅夫氏でした。自然主義文学運動と結んで多くの文学作品や雑誌を出版し、文壇での地位を確立します。

 今では新宿区矢来町に広大な不動産があります。

 佐藤義亮氏の『出版おもいで話』から。

 退社後しばらく姿を見せなった正岡芸陽氏が、ひょっくりやって来て、「あなたも近ごろ経済上お困りのようですが、新声社を手離す気持はありませんか」というのである。私は驚いた。これは、私を簡単に都合よく転身させるために、神業としてこの人が出て来たのではないか――とさえ思ったのである。
 話はその場ですんだ。
 誰一人相談もせず、譲渡の条件も一切先方まかせ。ただ「結構です、結構です」と、猫の子一匹の受けわたしよりも手軽に終った。
 明治二十九年以来の、私の新声社は、こうして幕が閉ざされたのである。(中略)
 いよいよ雑誌を出すことに決めた。
 が、金が一文もない。質草も大抵尽きてしまった。実際当惑したが、思いついたのは、その時の借家は、飯田町赤十字の下のかなり大きな庭のある家で、敷金が二百五十円入れてある。敷金の少ない家ヘ引越して、敷金の差を利用するということだった。牛込区新小川町一丁目のすこぶる家賃のやすい家に大急ぎで越したのはそのためであって、敷金の差約百五十円――、これが私の更生の仕事の全資金だった。
 新潮社かくして明治三十七年(1904)五月十日、『新潮』第一号は、発行所を新潮社と名づけて世に出たのである。真先きに喜びの言葉を寄せられたのは、中村吉蔵氏だった。

正岡芸陽 まさおかげいよう。明治時代の評論家。『嗚呼売淫国』『人道之戦士 田中正造』『裸体の日本』などを刊行。明治36年「新声」主筆。人道主義の立場から社会批判を行った。生年は明治14年9月5日。没年は大正9年3月24日。享年は満40歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。

誓閑寺|喜久井町

文学と神楽坂

 新宿区喜久井町の誓閑寺せいかんじの文化財としては2つあります。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 工芸品
誓閑寺(せいかんじ梵鐘(ぼんしょう)
所 在 地  新宿区喜久井町六十一番地
指定年月日  昭和五十九年十二月七日
天和二年(1682)に近在の住民の寄進により鋳造された区内最古の梵鐘である。
総高一三八センチ、口径七九センチ、周囲二三六センチで、形状は比較的古い様式を残している。
(いけ)()(銘文等を刻む空間)は四つに区画され、全面に銘文が刻まれており、特に銘文中の「武州荏原(えばら)(ぐん)」の記載は、当時すでに豊島郡になっていたこのあたりが、古い郡名で呼ばれていた例を示す史料となっている
なお、鐘楼は昭和四十九年四月に、千葉県木更津市の選擇寺より移築されたものである。
      平成八年三月
東京都新宿区教育委員会

実際、鐘楼の下には

浄土宗 開宗八百年記念 昭和四十九年四月

と書いてあります。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)半跏像
新宿区登録有形文化財 彫刻
銅造(どうぞう地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)半跏(はんか)(ぞう)
所 在 地 新宿区喜久井町六一
指定年月日  平成一三年二月一四日
文政元年(一八一六)誓閑寺第十世住職進誉求道の時に鋳造された像で、神田の鋳物師太田駿河守藤原政義の作である。
総高一三六センチメートル。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ半跏像で肉身部には鍍金が施されている。
台座正面には「百万遍議中」と刻まれており、「市ヶ谷大奥中」以下一八〇名あまりの人名が刻まれている。「市ヶ谷大奥中」とは市ヶ谷に上屋敷を構えていた尾張徳川家に関連するものと考えている。江戸時代、この近くには尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)もあり、誓閑寺には同家の奥女中らが葬られるなど関わりが深かった。
          平成一三年九月
東京都新宿区教育委員会

三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。

 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップに加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
 「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
 と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。
住んでいた 住所は横寺町36。右図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

書かでもの記|永井荷風

文学と神楽坂

永井荷風

 大正7(1918)年、永井荷風氏が39歳の時に書いた『書かでもの記』です。矢来町で永井氏と師匠の広津柳浪氏が初めて出会いました。

 永井荷風は小説家で『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』などを執筆、耽美派の中心的存在になりました。また、花柳界の風俗を描写しています。生年は明治12年12月3日。没年は昭和34年4月30日。享年は満79歳でした。

 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、すだれの月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町うしごめやらいちょうなる広津柳浪ひろつりゅうろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしがひとばしなる校舎におもむく日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席よせを見歩きたまさかいえにあれば小説俳句漢詩狂歌のたわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念ようやく押へがたくなりければ遂に何人なんびとの紹介をもたず一日いちにち突然広津先生の寓居ぐうきょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしはあらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中いまどしんじゅう』、『(くろ)蜥蜴とかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん(とう)の諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂かぐらざかを上りて寺町てらまちどおりをまつすぐに行く事数町すうちょうにして左へ曲りたる細き横町よこちょうの右側、格子戸造こうしどづくり平家ひらやにてたしか門構もんがまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木すくなからず手水鉢ちょうずばちの鉢前には梅の古木の形面白くわだかまたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯はせがわとうがい机を置きぬ。)それより枚立まいだてふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。とこには遊女の立姿たちすがたかきし墨絵の一幅いっぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張いっかんばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳のとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生へいぜい物に頓着とんじゃくせず襟懐きんかい常に洒々落々しゃしゃらくらくたりしを知るに足るべし。

簾の月 その原稿は今でも行方不明になったままで、荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものだという。
外国語学校 旧制東京外国語学校。現在は東京外国語大学。略称は外語大、外大、東京外大など
たまさか 思いがけず、そのような機会を得る。たまたま
 ぎ。たわむれ。面白半分にふざける
寓居 仮の住まい。わび住まい
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描く
黒蜥蜴 くろとかげ。明治28年発表。醜女お都賀が無頼の(しゅうと)を毒殺し、自殺するまでの人生を描く。
河内屋 かわちや。明治29年発表。封建主義の制度下にある家の問題点を明るみにだす
亀さん 明治28年発表。遊女と遊んだ亀麿は、女性数名に強姦未遂を起こす。一方、遊女は火災で死亡する。
雅俗文 雅俗折衷文。がぞくせっちゅうぶん。地の文は文語文(雅文)で書き,会話は口語文(俗文)で書く文体
格子 対話体 話し言葉(口語文)の文体。
何番地 牛込矢来町3番地中の丸52号(http://www.library.shinjuku.tokyo.jp/jinbutuyukari/detail.php?id=63)でした。3番地は大きすぎて、大正か昭和になってから新しい番地をあてています。では新番地ではどこにあるのでしょうか。「広津和郎の生家」で考えをまとめて、73番地でした。
寺町 寺院が集中して配置された町。ここでは牛込区横寺町と通寺町のこと。
格子戸造 こうしどづくり。格子状の引き戸や扉が主の建造物。採光や通風もできる。
門構 もんがまえ。門をかまえていること
蟠り わだかまり。心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など
手水鉢 ちょうずばち。手を洗ったり、口をすすいだりするための水(=手水)を溜めておく鉢。寺社の境内に置かれるほか、茶庭や日本庭園の重要な構成要素
長谷川濤涯 はせがわとうがい。明治40年から大正2年まで「東京の解剖」「誤られたる現代の女」「海外移住新発展地案内」「婦人と家庭」などを書いています
4枚立4枚立 よまいだち。柱と柱の間に4枚の襖が入るもの
一閑張 竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作り、柿渋や漆を塗る。食器や笠、机などの日用品に使いました。
襟懐 きんかい。心の中。胸のうち。
洒洒落落 しゃしゃらくらく。性質や言動がさっぱりして、物事にこだわらない