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タイのピプン首相亡命地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 13.タイのピプン首相亡命地」についてです。

タイのピプン首相亡命地
      (南町2)
 加賀町から約五百メートル先の中町の東端十字路を右折する。右側の南町2番地は、タイ国のピプン首相の亡命地であった。
 ピプンは、第二次世界大戦中に日本に協力したので戦犯に問われたが、昭和23年にクーデターを起して政権をにぎった。しかし32年に再びクーデターが起きて失脚し、日本に亡命してここに住んだのであった。
ピプン首相 現在は「ピブーン」と表記。正確にはプレーク・ピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, タイ語 แปลก พิบูลสงคราม)。タイの軍人・政治家。1924年(26歳)から3年間、フランスの砲兵学校に留学。帰国後、人民党に入党し、1932年に立憲革命、さらに立憲君主制を樹立。1938年、41歳で首相に就任。国名をシャムからタイに改変。日本タイ同盟条約を締結したが、戦局の悪化とともに日本と距離を置き、1944年、独裁ぶりに反感もあり、ピブーンは辞表を提出。終戦を迎えて、英印進駐軍により戦犯容疑者としてタイ国内で拘置。1946年、無罪で釈放。1948年、クーデターで政権に復帰。1957年、新たなクーデターで政権の座を追われ、1958年、東京で亡命生活を送る。後にインドへ渡り出家。還俗後、1964年、神奈川県相模原市で一生を終えた。生年は1897年7月14日。没年は1964年6月11日、66歳没
南町2番地 南町2番地ではなく、払方町9番地では? 払方町9番地は「ビブンソングラム」氏の家でした。

ピブーン。人文社「日本分県地図地名総覧 1960年版」(人文社編集部。1960年)

払方町9番地のうちで、ここがピブーン宅か?

焼跡・都電・40年

A

文学と神楽坂

 林順信氏の「焼跡・都電・40年ー山手ー激変した東京の街」(大正出版、昭和62年)です。北方から飯田橋駅や外堀通り、船河原橋、神田川などを撮影しました。年月が違う撮影があり、1枚は昭和41年12月で、もう1枚は20年ほど未来の昭和62年1月でした。

 まず昭和41年12月です。左端にあるのは都道8号で、外堀通りと合わさり、右は船河原橋に、左は後楽園や水道橋などに向かいます。都道8号の電柱に電柱広告「東明徽章」「オザワ」、さらに向こうには飯田橋駅のホーム、さらに行くと、千代田区の建物が並んでいます。神田川の反対側には目白通りがあります。
 船河原橋を渡り切る直前の都電13系統が1台、神田川には船2槽が出ていますが、船は平たく、わいぶね西さい船)かもしれません。神田川の右縁で船河原橋の直前に江戸期の大下水、それを飲み込む明治期の下水管の吐口があります。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

 船河原橋の右側に五叉路がありますが、この写真ではわかりません。ゼブラ柄の背面板の信号機が2つあり、近くに標識(ともに指定方向外進行禁止)もあります
 右側の建物については「ごらくえん」以外に文字は小さく、読めません。この部分は下宮比町の一部でしたが、区境の変更もあり、最終的に人は住めない地域になりました。

 昭和62年1月です。上空には首都高速道路5号線(池袋線)と歩道橋があるため、辺りは薄暗く、神田川に船はありません。
 遠くの中央やや左には第7田中ビル(10階)、大和ビル(10階)、飯田橋プラザ(7階)が並び、その右には巨大な飯田橋セントラルプラザ(マンションは地上16階)、また右端には広告塔「(婦)人倶(楽部)」ができました。

矢来町(写真)図書館資料室紀要 1970年

文学と神楽坂

 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の138頁には次の写真が載っています。

大正期の面影を残す矢来町中の丸

 今までは写真は全く不明で、これ以上は何もわからない。さわらないように、そーっと置いておこう、と考えていました。「中の丸」だけでも巨大で、矢来町の5分の1を占めています。下図では矢来町は赤、中の丸は青です。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)

 しかし、このID 118〜120と見比べると、これも一連の写真のひとつだと判明します。つまり、これはID 119ID 120との間にあるべき写真なのでした。場所は上図か下図のが正しい位置なのです。
 郵便の宛先は大正11年には「矢来町3番地あざ旧殿」、昭和5年には「矢来町78番地」か「矢来町81番地」が正しく、以降も変化はありませんでした。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)。住宅地図。昭和5年

飯田橋(写真)昭和51年 ID 495-497

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495-97は、昭和51年8月、飯田濠、飯田橋(架橋)、飯田橋歩道橋、遠くの首都高などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495 飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 496 飯田橋橋きわ

 ID 495-496の2枚は、下の地図の赤線の画角です。右の橋がコンクリート製の飯田橋。正面が新宿区側の護岸の石垣です。
 この様子は昭和初期の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)の写真から変わっていません。
 石垣に関しては、大正8年頃の絵はがきと同じに見えます。この石垣は今は人工地盤の下に隠れています。今も利用される飯田橋は昭和4年(1929)に鉄橋からコンクリート製の橋に改良されています。
 左から……

  1. 看板「Coca-Cola 焼肉 京城館」「(サクラ)はカラーFH」
  2. 公衆電話ボックス
  3. 歩道橋「(目)白通り/新宿区下宮比町」
  4. 電柱看板「◯科」
  5. 看板「麻雀 東南荘」「近畿日本ツーリスト」「サッポロビール  八鶏園」「イーグルボウル」「写真植字機」
  6. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  7. 看板「所」「東京都◯◯◯◯◯◯事務所」
  8. 目白通りを横断する歩道橋。
  9. 飯田濠と飯田橋(架橋)
  10. 首都高速道路5号線(池袋線)
  11. (指定方向外進行禁止)、(時差式信号)、信号機
  12. 歩道橋「外堀通り/新宿区下宮比町」

住宅地図。昭和51年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 497飯田橋

 ID 497はやや右にズレて、地図の青線の画角で撮影しています。
 左寄りの東京都の看板は「セントラルプラザ飯田橋」の完成予想図ですが、この時点では名称も決まっていなかったはずです。飯田濠の再開発は昭和48年3月に始まりましたが、地権者の反対で難航しました。紆余曲折の末に昭和59年に商店街ラムラが開業。昭和61年3月、13年を経て再開発事業は完了します。
 正面右奥、歩道橋の下り階段が見えます。この階段は後に撤去され、交差点の向こうの新宿区を結ぶ歩道橋が増設されました。
 では左から……

  1. 歩道橋の上り階段
  2. 看板「東京都」(セントラルプラザ飯田橋)
  3. 橋名「いいだばし」
  4. 看板「(魚)下立喰寿(司)」
  5. 看板「キンシ政宗」
  6. ごらくえん
  7. 東海(銀行)と東海銀行の窓枠
  8. 歩道橋と飯田橋(架橋)
  9. 電灯
  10. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  11. (指定方向外進行禁止)8-20

神田川(写真)浅草橋とお茶の水橋 昭和63年 ID 506〜507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 506〜507は、昭和63年(1998)8月、神田川を撮ったカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 506 飯田橋、堀

 ID 506の写真説明は「飯田橋、堀」ですが、ここは数キロ離れた台東区浅草橋で、正面には上流の左衛門橋があります。屋形船の間をカヌーが何艘も漕いでいるのは、飯田橋付近からのツアーの様子を撮影したのでしょうか。
 神田川は滔々と流れ、マンションやオフィスビル、ホテルなどが並んでいます。

浅草橋(昭和63年)カヌーと他の船
左衛門橋(東神田二丁目と三丁目を結ぶ)
  1. ネオンサイン「サウナHotel」
  2. 看板「ヤマハ」
  3. 屋上広告塔「Etoile」(服飾品卸売会社エトワール)
  1. 第七 三浦屋(屋形船)
  2. 屋形船・つり船 野田屋(屋形船)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 507 飯田橋、堀、中央線

 ID 507も写真説明の飯田橋ではなく、JR御茶ノ水駅に近い「お茶の水橋」から撮ったものです。西向きに神田川を見ており、数艘のカヌーが川を下っています。左をJR総武線やJR中央本線が走り、黄色い電車は各駅停車で結ぶ中央・総武緩行線です。

お茶の水橋(昭和63年)カヌー
  1. 御茶の水美術学院/第二学期補欠募集受付中/御茶の水美術学院
  2. 池坊お茶の水学院
  3. 池坊◯◯お茶の水学院
  1. 順天堂大学(2館とも)

神田川(写真)昭和51年 ID 479, 489-90

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479、489-90は、昭和51年8月、飯田橋歩道橋の上から神田川やそこにかかる橋などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 489高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 490 高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 491 飯田橋周辺、橋

 ID 489は神田川の下流方向を撮っています。左から植物に覆われて突き出しているのは文京区の「市兵衛河岸」です。小屋があり、ガラス扉の中にイスが見えます。昭和55年の住宅地図では「都市◯地再開発(事)飯田橋工区」とあり、工事の詰め所のようなものでした。
 その奥、首都高速道路の橋脚ごしに見えているのは「飯田橋公共職業安定所」(現・ハローワーク飯田橋)。さらに右にクレーンが見えているのは、中央大学の旧後楽園校舎(文学部)を解体しているのでしょう。
 神田川の右岸は千代田区です。古めかしい「釣り具」の看板が見えるのは、かつて外堀や神田川で釣りを楽しむ人がいたことを示しています。
 ID 490-491は、やや手前の橋を撮影しています。誤解されがちですが、この橋は文京区と千代田区をつなぐ「船河原橋」です。

船河原橋
 飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として、交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので、飯田橋の一部と見られがちです。

 船河原橋は一見すると2本あります。メーンは文京区と新宿区を結ぶ大きな橋で、外堀通りの一部です。その橋が神田川の上で左にV字に大きく分岐し、千代田区につながっています。これも船河原橋です。
 飯田橋は千代田区と新宿区を結び、目白通りの一部です。ID 491では右下のコンクリート製の欄干部分が飯田橋になります。
 神田川の右側は近いところから…

  1. (一時停止)(指定方向外進行禁止)(駐車禁止)(区間内)
  2. 電柱。電柱広告「宮村歯科」「新村印刷」
  3.  Subway 地下鉄
  4. 消火栓。
  5. 千代田街ビル飲食街
  6. 資材置場
  7. (最高速度30キロ)
  8. 電柱。電柱広告「新村印刷」
  9. つり具
  10. 岡田不動産株式会社
  11. ビル
  12. ダイヤモンド航空サービス
  13. 東京アテナ

住宅地図。昭和55年

 

神楽河岸(写真)昭和51年 ID 474, 479, 11456, 12189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474とID 12189は昭和51年(1976年)下宮比町のおそらく歩道橋の上から南西の神楽河岸方向を狙ったカラー写真で、ID 479とID 11456は昭和51年8月、モノクロ(白黒)写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474 揚場町神楽河岸界隈

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12189 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11456 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479 駅前付近より外堀通り四谷方向

 手前の目につく街灯は水銀灯かナトリウム灯でしょう。中央は外堀通り。自動車はヘッドランプが丸く、時代を感じさせます。
 外堀通りの町並みはこの当時、右側は下宮比町、左側は神楽河岸だったようです。その後に区境変更や住居表示があり、現在は右側は揚場町、左側は千代田区になっています。

下宮比町→神楽河岸(平成51年)
  1. 東京都水道局神楽河岸営業所
  2. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  3. ▶都バス「飯田橋」
  4. 交通局定期券売り場
  5. 空き地
  6. 新宿東清掃事務所

▶は歩道上で車道寄りに看板等がある

  1. 空地。鉄の塀に無数のポスター跡と麻雀店の立て看板
  2. ▶交通信号機「飯田橋」。架線柱
  3. 文鳥堂書(店)
  4. (山)路(飯店)(中華料理店)
  5. 麻雀店とパチンコ店の突き出し看板

住宅地図。1976年

逢坂入口(写真)市谷船河原町 昭和41年頃 ID 7809-7811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809-7811は市谷船河原町の逢坂の坂下付近を撮影したものです。新宿歴史博物館の写真説明は「逢坂入口 昭和41年頃か?」としています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809 市谷船河原町 逢坂入口付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7810 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7809-10では、男女10数人が坂の途中で何かを見ています。男性は背広、女性は着物が多く、子供はいません。手にした資料のようなものに目を落とす人もいます。

逢坂(昭和39年と43年)

 右側から……

  1. 外堀通り
  2. 民家と(一時停止)
  3. 自転車の図。自転車店 水谷の自転車、協◯輪車 古川自転車店 TEL 千代田火災 SS
  4. ナショナル ポンプ 上下水道衛生工事◯◯ アルプスポンプ
  5. 古い家
  6. 左端にも家

参考 昭和51年 住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7811 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7811は一転して無人で、普通の民家(現、階段と堀兼の井)と坂の脇のコンクリート敷きの部分が写っています。何を撮影したのか分かりません。左側には日仏学院があるようです。
 この家には船河原町々会のポスターがあります。「くらしに生かそう/カギとベル」「くらしに生かそう カギとベル」「カギ◯/あなたの◯」

現在の地図

CKT7415 コース番号C27B 写真番号10 撮影年月日 1975/01/19(昭50)

 この場所には、筑土神社(千代田区九段北)の摂社である船河原町築土神社と「堀兼の井」がありますが、神社はうつっておらず、ID 7811でも堀兼の井は確認できません。
 筑土神社の社伝では「この井戸は、昭和40年代の地下鉄工事の折に一時枯渇したものの、平成21年には、当時とほぼ同じ位置に再整備されている」とあります。
 これから全くの想像ですが、堀兼の井が枯れ、埋もれてしまったことを文化財関係者や氏子らが調べ、今後の対策を協議している様子でしょうか。または、一人は史跡やその歴史を解説し、残りの全員が話を聞いている場合もあります。全員が都や国の歴史関係の委員である可能性もあり、さらに以上と違って、全く別の可能性もあります。ただし、新修新宿区史編集委員会「新修 新宿区史」(新宿区、昭和42年)では昭和41年以前に委員が築土神社か堀兼の井、その周辺を解説したという話はありませんでした。

市谷船河原町 (写真)地下鉄 昭和48年 ID 535-36

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535-36は昭和48年(1973年)5月、地下鉄工事のため牛込濠を大きく掘削したものです。カメラは新見附橋の上で、市谷田町三丁目、市谷船河原町、神楽坂一丁目などに向いています。翌49年(1974年)に地下鉄・有楽町線が開通しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535 市谷船河原町付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 536 市谷船河原町付近:市谷見附より牛込

 メトロ アーカイブ アルバムの「有楽町線の歴史」では……

有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設築堤仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。
留置線 駅などにおいて、列車を一時的に停め置くための線路。
検車用ピット線 検車とは車両を検査すること。ピット(pit)とは車の下部の検査や修理ができるよう低くなっている場所
桟橋架設 桟橋とは谷間などに高くかけた橋。架設とは線路を一方から他方にかけわたすこと
築堤 堤防をきずくこと
仮締切り 一時的に戸・窓などを、閉じたままにすること
鋼矢板 鋼製の平らな板
支保工 しほこう。坑道やトンネルなどの工事で、掘削してから覆工するまで土圧を支持する仮設の足場
土留め どどめ。高低差のある敷地で、土が低い土地に崩れてこないように止めること。
アンカー 部材や器具などを建物へ取り付けるために打つ鋲で、抜けにくい構造をもつ。

 写真の中央左、外堀通りから工事現場に下りる仮設の斜路の上に看板があり、「営団地下鉄8号線牛込第二工区土木工事」「企業者 帝都高速度交通営団」「施工業者 鉄建建設株式会社◯」とあります。
外堀通りには高層の建物は少なく、二階建てが目立ちます。昭和45年のID 13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に左から見ていくと……
 その奥に外堀通りがあり、高層の建物は少なく、二階建ての建物が目立ちます。参考は昭和45年のID13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に、左から見ていくと……

  1. 看板「三平ストア 食堂三平」
  2. 看板「タケヤみそ」
  3. 八木医院
  4. 看板「雪印牛乳」
  5. 奥山歯科
  6. 新益塾
  7. 恵◯社マイクロフィルム
  8. 週刊大衆 双葉社
  9. 龍生会館(いけばな龍生派)
  10. 東京理科大学 薬学部
  11. 東京理科大学(体育館)

  1. 双葉社
  2. 日本不動産短期大学校
  3. 三興製本
  4. 油井工業所
  5. 神田印刷㈱
  6. 渋谷ガラス㈱、看板「日本ペイント」
  7. ◯◯自動車工業㈱
  8. 教育図書㈱
  9. 尾形伊之助商店
  10. 丸善石油(ガソリンスタンド)
  11. 日仏学院
  12. 家の光会館(農協の出版・文化団体)

  1. 家の光会館
  2. 研究社新館
  3. 研究社旧館
  4. 東京理科大学
  5. 東京理科大学
  6. 東京理科大学
  7. 飯田橋東海ビル(現、飯田橋御幸ビル 下宮比町)
  8. 首都高速道路5号線(池袋線)
  9. 貸ボート乗り場(現、カナルカフェ)

寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡

下宮比町(写真)分水路吐口 昭和51年 ID 476-77, 485, 488, 12187-88

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476-77、485、488、12187-88は昭和51年(1976)8月に飯田橋歩道橋の上から下宮比町、首都高速道路5号線(池袋線)や目白通り、神田川などを撮影しています。資料名は「下宮比町、高速道路下」で、ID 476-77, 12187-88(カラー)が4枚、ID 485, 488(白黒)が2枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12188 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. 袖看板「麻雀 東南 お気軽にご◯」
  2. 袖看板「3F 武西歯科 ☎2◯」
  3. 袖看板「◯◯◯ ◯◯◯◯◯機械専門/東京伊藤鉄工 株式会社」
  4. 袖看板「有限会社 銀座◯」
  5. 袖看板「近畿日本ツー(リスト)」
  6. 袖看板「お気軽に大小コンパ/御宴会受け承ります/サッポロビール/たたき◯巻/大衆酒場/八鶏園」
  7. 袖看板「12月生(募)集中/M/フィニッシュワ(ークスクール)」
  8. 袖看板「(52レーン)」(イーグルボウル)
  9. 左の歩道
  10. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)(消火栓)
  1. 片側2車線。中央に三角コーン1。右側の2車線は色が違う。
  2. 隆慶橋。一時的に片側3車線に増える。交通信号機は青色。
  3. 右の歩道。両側に木製の仮設と思われる柵。裏側の道路標識。スポットライト様のライト。
  4. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  5. 神田川
  6. 首都高出口のランプから下に行く道路
  7. 右は文京区。近くに松屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 477 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12187 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. ポール看板「イーグルボウル」(52レーン) P有料駐車場 駐車料金◯◯ 200円
  2. 塔屋看板「モリサワ/写植スクール/随時受付 夜間部 12月生募集中」壁面看板「M」袖看板「フィニッシュワークスクール」「モリサワ写真植字機」
  3. 電柱看板「つる家」(ホテル)
  4. ポール看板「つる家」
  5. 左の歩道
  6. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)
  7. 高いビルは「池田ビル」(地上8階)
  1. 右の歩道。歩道の両側に木製と思われる柵。
  2. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  3. 神田川
  4. 川の上で隆慶橋と反射像
  5. 首都高出口のランプから下に行く道路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 485 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 488 下宮比町、高速道路下

 神田川に近い歩道ではスポットライト様の光をあてていて、歩道橋に行く階段があります。ID 485と488で隆慶橋の交通信号機は赤。川を渡った文京区では「建物・不動産/松屋」がID 485と488ともにあり、ID 488は首都高から車が出てくる場所の上で「◯ガロ」やネオンサイン「競」「調」などが見えています。しかし、建物の名称について多くは小さすぎて読めません。
 この4枚の写真は、おそらく神田川の「江戸川橋分水路」が完成に近づいたことを記録したものでしょう。分水路は目白通りの地下に建設し、ID 488の手前に見えるコンクリートと鉄板の「吐口はきぐち」を通って神田川に流れ込みます。
 分水路が通っている部分の目白通りの舗装はコンクリートのような色で、左側のアスファルトらしき部分と色が違います。分水路はカーブして吐口につながっています。
 吐口のすぐ手前には飯田橋歩道橋の上り階段があり、交差点ギリギまで分水していることが分かります。
 江戸川橋分水路は神田川流域の洪水被害を防ぐ目的で建設され、写真の翌年の昭和52年に完成しました。

飯田橋交差点(写真)目白通り 平成元年 ID 508

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508は平成元年9月に「下宮比町交差点」(正しくは「飯田橋交差点」)を、おそらくセントラルプラザの2階デッキ部分から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508 下宮比町交差点

 中央には五叉路があり、左下から横断歩道と飯田橋歩道橋を越えて右に抜けるのが外濠通り。横断歩道の向こうから左上に続くのが大久保通り。歩道橋の向こうの首都高速道路5号線(池袋線)に沿う形で中央奥にカーブしていくのが目白通りです。歩道橋は「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。
 手前に見えているのは地下の駐車場につながる換気装置でしょう。ラムラの「せせらぎ」にかかる「ひいらぎばし」の上で、おそらくフリーマーケットを開催中。やや離れて交差点に近い小屋は、地下鉄の出入り口のエレベーターです。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 遠くに見えるビル等は左から……

  1. 「週刊現代」と「飯田橋東海ビル」
  2. 「(セント)ラル/(ファイ)ナンス」
  3. 地面に小さなテント
  4. 「ビューティープラザ/レディ」(パーマ)
  5. 「ミカワ薬局」
  6. 「五洋建設」

昭和55年(1980年) 飯田橋交差点 ラムラ建設前

看護婦養成の苦心と賞牌

文学と神楽坂

 石黒いしぐろ忠悳ただのり氏の「懐旧九十年」(東京博文館、昭和11年。再録は岩波文庫、昭和58年)です。女の看病人をつけたらという発想から看護婦(現、看護師)が生まれ、また、日本赤十字社から今の国際的な開発協力事業が発生しました。
 氏は陸軍軍医。江戸の医学所に学び、西洋医学の移入、陸軍軍医制度や日本赤十字社の設立に尽くしました。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。97歳で死去。
 住所は牛込袋町26番地から明治13年、牛込区揚場町17番地に転居。

第5期 兵部省出仕より日清まで
  21 看護婦養成の苦心と賞牌
 我が国での看護婦の沿革を述べると、その始りともいうべきものは、維新の際、東北戦争の傷病者を神田かんだ和泉いずみばし病院へ収容した時です。この傷病者は官軍諸藩の武士ですからなかなか気が荒く、ややもすれば小使や看病人に茶碗や煙草タバコぼんを投げ付ける騒ぎが毎々のことで、当局ももて余し、一層のことにこれは女の看病人を附けたらよかろうというので、これを実行してみると案外の好成績を得たのです。
 その後、明治12, 3年頃海軍々医大監高木たかぎ兼寛かねひろ氏が、東京病院で看護婦養成を始めました。
 これが我が国看護婦養成の最初です。越えて明治19年、我が国の国際赤十字条約加入、日本赤十字社の創立となり、万国赤十字社に聯合すべき順序となりました.その結果、明治21年5月に篤志看護婦人会が組織せられ、有栖川ありすがわのみや熾仁たるひと親王董子ただこ殿下を総裁に推載し、鍋島侯爵夫人を会長と仰ぎました。これから看護婦養成事業がちょに就いて大いに発達して参ったのです。
 前にも述べた通り、私は最初陸軍々医方面に身を投じた際、自分の職分は兵隊の母たる重要任務であるとさとりました。さて、その兵隊の母として考えてみると、傷病者が重態になった時はこれを婦人の柔かき手で看護するのでなけれぱ親切な用意周到の看護は出来ない。ところが陸軍官軍では、看護婦を養成したり使用したりすることはまだ出来ない。そこで戦時に軍隊医事衛生の援助を主眼とする日本赤十字社においてこれを養成し、戦時にこれを使用することとし、世が進むと平時には重病者には看護婦を付けるようにするというのが、私の年来の計画であったのと、今一つには幸いにしてこの看護婦がその業務に熟達して来たならば、皇族におかせられてもぜひ看護婦を御使用ありたいというのが希望でした。また、そうなると皇族方の御看護をしたる手を以て傷病者の看護をさせることになる訳です。それで日本赤十字社の看護婦は看護は勿論、平素人格ということに注意しなくてはならぬという主張を持ったのです。
 そもそもやまいの治療に十の力を要するとすれば、医師の力が五、薬剤と食物が三、看護婦の力が二といったように三つの力が揃わなくてはならぬと思います。

 えき。(人民を徴発する意味から)戦争
賞牌 しょうはい。競技の入賞者などに賞として与える記章。メダル。
神田和泉橋 神田川に架かり昭和通りにある橋。
病院 明治元年、横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転、大病院と称していたが、明治10年、東京大学医学部附属病院と改称。
高木兼寛 鹿児島医学校に入学し、聖トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。臨床第一の英国医学を広め、脚気の原因について蛋白質を多く摂り、また麦飯がいいと判断。最終的には海軍軍医総監。東京慈恵会医科大学の創設者。生年は嘉永2年9月15日(1849年10月30日)。没年は大正9年(1920年)4月13日。
東京病院 明治14年、有志共立東京病院を設立。現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身。
日本赤十字社 明治10年(1877)の西南戦争時に、佐野さの常民つねたみ大給おぎゅうゆずるらが中心となり、傷病者救護を目的として組織した団体を「博愛社」と呼び、明治20年(1887)日本赤十字社と改称。
有栖川宮熾仁親王 江戸時代後期から明治時代の皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁たかひと親王の第1王子。反幕府・尊王攘夷派で、戊辰戦争では江戸城を無血開城。
董子 有栖川ありすがわの宮妃みやひ董子。有栖川宮熾仁親王の妃。博愛社(現、日本赤十字社)創設。10年間、東京慈恵医院幹事長。
鍋島侯爵夫人 鍋島なべしま榮子ながこ。イタリア公使であった侯爵鍋島直大とローマで結婚。明治20年、日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任。
緒に就く しょにつく。見通しがつく。いとぐちが開ける。

相生坂(写真)真清浄寺 令和4年 ID 17088

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清しんしょうじょう付近から相生あいおいざかなどを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOオーリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088 真清浄寺前から相生坂を望む

相生坂

相生坂(令和4年)
  1. 片岡ビル
  2. 道路標識(幅員減少)
  3. 道路標識(駐車禁止)
  4. 電柱看板「八洋」
  5. 白い店舗「パン デ フィロゾフ」。パンを求めて沢山の顧客が並んでいます。
  6. パークコート神楽坂レゼリア
  7. 電柱看板「八洋」
  8. 正面はヴィークコート神楽坂(マンション)
  1. 4階建てのアパート?
  2. カーブミラー 「よく見て 通りましょう」
  3. 電柱看板「ZEBRA」「地元でお葬式一筋 西五軒町1」
  4. 真清浄寺 のぼり「真清(浄寺)」
  5. 駐車場
  6. 掲示板
  7. 黒い店舗は「神楽坂富貴ふきぬき」(うなぎ店)
  8. 自動販売機「KIRIN」

東五軒町(写真)西五軒町 令和4年 ID17089

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089は、令和4年2月に東五軒町から西五軒町などを撮影しました。資料名は「東五軒町から西五軒町方面を望む」です。なお、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14062です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089 東五軒町から西五軒町方面を望む

東五軒町(令和4年)
  1. メープルハウス(地上3階のマンション)の一部
  2. フレスクーラ神楽坂(地上7階のマンション)、自動販売機「KIRIN」、大型ゴミ箱、3角コーン
  3. 電柱、(最高速度20キロ)、(駐車禁止)、バナー「放火に注意/牛込消防署・牛込防火協会」
  4. raum神楽坂(地上5階のマンション)
  5. ルーブル神楽坂(地上8階のマンション)
  6. ENEOS(共栄石油)、FC(燃料カード)
  7. (指定方向外進行禁止)、カーブミラー
  8. 横断歩道
  9. 左に行くと「相生坂」
  10. ハート株式会社/新宿支店
  1. 工事中
  2. 電柱看板「(株)八洋 次の角/左折 東五軒町6」
  3. トーハン本社、駐車場
  4. 郵便ポスト
  5. 横断歩道、(横断歩道)、バナー「一方通行につき/右折できません」、左に行くと「相生坂」
  6. 五軒町ビル
  7. アルスクモノイ(古書)
  8. 最も高いビルは、ラ・トゥール神楽坂(地上24階、地下2階)賃貸マンション

西五軒町(写真)神田川 昭和33年 ID 8430-32

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。

S38 大曲付近(地理院地図に加筆)

神田川の橋

 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。
 目白通りの中央には都電の軌道があります。首都高速道路は建設されていません。通り沿いの建物は低層が主体です。
 神田川の護岸は、手すりが埋もれるような形でコンクリートでかさ上げされています。大雨のたびに、この地域が洪水に悩まされていたことを物語ります。
 地図や空中写真と照合すると、左側で見切れている建物が凸版印刷の工場、右側の端が同潤会江戸川アパートです。江戸川アパートの前の通り沿いの低いビルは日本交通大曲営業所で、横看板も無理に読めば読めそうです。その奥のビルは、日本専売公社ではないでしょうか。

ID 8430 西五軒町(一部を拡大)

 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8431 西五軒町(目白通り、江戸川)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8432 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。
 西江戸川橋は石切橋とは違って鋼板をそのまま壁高欄かべこうらん(特に丈夫な欄干らんかん)に使っています。
 右側には電柱看板「質 新客歓迎 小森」「質 長島」「ナショナル」などが付いた電柱が沢山見えます。左側の電柱看板は「活字母型製造」「」(駐車禁止。これは昭和20年代に見られた英文と和文を混合した標識)です。ID 8432では路面電車が走行中。左側には店舗が並び、「文化印刷◯」、三軒あけて「カタログ社」、また数軒あけて三菱のロゴマークがあります。
 30年代の自動車がいかにも昔々しています。当時、昭和35年のサラリーマンの平均月収は約4.2万円でしたが、一方、昭和33年「スバル360」は42.5万円でした。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

首都高速(写真)東五軒町 水道町 昭和44年 ID 12781-84

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781-84は、昭和44年9月、目白通りと首都高速道路5号線(池袋線)を撮影しました。資料名には「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12782 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12783 新小川町付近高速道路下

 実際には北部の東五軒町から、目白通りを東に向けて撮影しています。
 通りは2車線ずつの対面通行です。左の神田川との境に橋脚が立ち、その上を首都高速が走っています。写真奥で首都高が膨らんだ場所が見えますが、これは「飯田橋料金所」です。2車線のランプが入り口につながった場所は4車線の幅があり、それが2車線に合流します。
 中央に見える信号機の下に、神田川を渡るざくらばしがかかっています。こちらを向いた信号機2機はゼブラ柄が確認できます。
 目白通りの向かって右側は縁石で高くなった歩道ですが、左側の首都高直下は歩道ではなく、車道と段差がない路側帯になっています。この部分にはバリケードやブロックなどが置いていてあり、神田川の洪水対策となる「放水路」ができる予定です(関口一丁目南部会)。
 ID 12781では都営バスが行き交っています。手前に向かってくるバスは「515」「小滝橋車庫ー茅場町」「ワンマン」の表示があり、逆台形のヘッドマークの中に「代替15」(「その他のヘッドマーク」の項)の字が確認できます。前年の昭和43年に廃止された都電15系統の代替バスです。また、対向車線を遠ざかるバスには同じ逆台形に「39」とあるようです。15系統と同時に廃止された都電39系統の代替バスです。
 ID 12783に見えるのは都バスではなく「KKK」(国際興業)で、「常盤台駅」「ワンマン」の表示、「ISUZU」のエンブレムが確認できます。
 電柱広告には「質 福山」「印刷ローラー 博文社」、川の対岸の文京区には「(TOP)PAN」(凸版印刷)の看板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12784 新小川町付近高速道路下

 ID 12784は、ID 12781-839より背後(西側)に移動した新宿区水道町付近から、東方向に撮影しています。神田川に架かる橋は西江戸川橋。遠くの信号がある場所が小桜橋です。路側帯はやはりバリケードで仕切られ、小型トラックが何台か停まっています。

死者を嗤う|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛は大正7年6月に小説「死者をわら」(中央文学)を発表しています。29歳でした。

 二、三日降り続いた秋雨が止んで、カラリと晴れ渡ったこころよい朝であった。
 江戸えどがわべりに住んでいる啓吉は、平常いつものように十時頃家を出て、ひがし五軒ごけんちょうの停留場へ急いだ。彼は雨天の日が致命的フェータルに嫌であった。従って、こうした秋晴の朝は、今日のうちに何かよいことが自分を待っているような気がして、なんとなく心がときめくのを覚えるのであった。
 彼はすぐ江戸川に差しかかった。そして、ざくらばしという小さい橋を渡ろうとした時、ふと上流の方を見た。すると、石切橋いしきりばしと小桜橋との中間に、架せられているを中心として、そこに、常には見馴れない異常な情景が、展開されているのに気がついた。橋の上にも人が一杯である。堤防にも人が一杯である。そしてすべての群衆は、川中に行われつつある何事かを、一心に注視しているのであった。
 啓吉は、日常生活においては、興味中心の男である。彼はこの光景を見ると、すぐ足を転じて、群衆の方へ急いだのである。その群衆は、普通、路上に形作らるるものに比べては、かなり大きいものであった。しかも、それが岸にあっては堤防に、橋の上では欄杆らんかんへとギシギシと押しつめられている。そしてその数が、刻々に増加して行きつつあるのだ。
 群衆に近づいてみると、彼らは黙っているのではない。銘々に何かわめいているのである。
「そら! また見えた、橋桁はしげたに引っかかったよ」と欄杆に手を掛けて、自由に川中を俯瞰みおろし得る御用聴らしい小憎が、自分の形勝けいしょうの位置を誇るかのように、得意になって後方に押し掛けている群衆に報告している。
「なんですか」と啓吉は、自分の横に居合せた年増の女に聴いた。
土左衛門ですよ」と、その女はちょっと眉をしかめるようにして答えた。啓吉は、初めからその答を予期していたので、その答から、なんらの感動も受けなかった。水死人は社会的の現象としては、ごく有り触れたことである。新聞社にいる啓吉はよく、溺死人に関する通信が、反古ほご同様に一瞥を与えられると、すぐ屑籠に投ぜられるのを知っている。が実際死人が、自分と数間の、距離内にあるということは、まったく別な感情であった。その上啓吉は、かなり物見高い男である。彼もまた死人を見たいという、人間に特有な奇妙な、好奇心に囚われてしまった。
嗤う 相手を見下したように、笑う。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
東五軒町の停留場 路面電車の停留場です。現在はバス停留所(バス停)に代わりました。

東五軒町のバス停 Google

フェータル fatal。命にかかわる。破滅をもたらす
小桜橋石切橋 図を参照
 西江戸川橋です。

神田川の橋

欄杆 欄干。らんかん。橋や建物の縁側、廊下、階段などの側辺に縦横に材を渡して墜落を防ぐもの。
喚く わめく。叫く。怒ったり興奮したりして大声で叫ぶ。大声をあげて騒ぐ
橋桁 はしげた。川を横断する道路の橋脚の上に架け渡して橋板を支える材。
御用聴 ごようきき。御用聞き。商店などで、得意先の用事・注文などを聞いて回る人
形勝 地勢や風景などがすぐれていること、その様子や土地
土左衛門 どざえもん。溺死者の死体。江戸の力士成瀬川土左衛門の色白の肥満体に見立てて言ったもの。
眉を顰める まゆをひそめる。不快や不満などのために、眉のあたりにしわを寄せる。顔をしかめる。
反古 反故。書きそこなったりして不要になった紙。
一瞥 いちべつ。ちらっと見ること。流し目に一たび見ること
屑籠 くずかご。紙屑など、廃物を入れる籠。
数間 1間は1.818…メートル。数間は約7〜8メートル。

 と、啓吉のすぐ横にいる洋服を着た男と、啓吉の前に、川中を覗き込んでいる男とが、話している。
 すると突然、橋の上の群衆や、岸に近い群衆が、
「わあ!」と、大声を揚げた。
「ああとうとう、引っ掛けやがった」と所々で同じような声が起った。人夫が、先にかぎの付いた竿で、屍体の衣類をでも、引っ掛けたらしい。
「やあ! 女だ」とまた群衆は叫んだ。橋桁はしげたに、足溜あしだまりを得た人夫は、屍体を手際よく水上に持ち上げようとしているらしい。
 群衆は、自分たちの好奇心が、満足し得る域境に達したと見え、以前よりも、大声をたてながら騒いでいる。が、啓吉には、水面に上っている屍体は、まだ少しも見えなかった。
足溜 足を掛ける所。足がかり。

 すると、突然「パシャッ」と、水音がしたかと思うと、群衆は一時に「どっ」と大声をたてて笑った。啓吉は、最初その場所はずれの笑いの意味が、わがらなかった。いかに好奇心のみの、群衆とはいえ屍体の上るのを見て、笑うとはあまりに、残酷であった。が、その意味は周囲の群衆が発する言葉ですぐ判った。一度水面を離れかけた屍体が、鈎のずれたため、ふたたび水中に落ちたからであった。
「しっかりしろ! 馬鹿!」と、哄笑から静まった群衆は、また人夫にこうした激励の言葉を投げている。
 そのうちに、また人夫は屍体に、鈎を掛けることに、成功したらしい。群衆は、
「今度こそしっかりやれ」と、叫んでいる。啓吉は、また押しつまされるような、気持になった。彼は屍体が群集の見物から、一刻も早く、逃れることを、望んでいた。すると、また突然水音がしたかと思うと、以前にも倍したような、笑い声が起った。無論、屍体が、再び水面に落ちたのである。啓吉は、当局者の冷淡な、事務的な手配と、軽佻な群衆とのために、屍体が不当に、曝し物にされていることを思うと、前より一層の悲憤を感じた。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
倍する 倍になる。倍にする。大いにふえる。大いに増す。
軽佻 けいちょう。考えが浅く、調子にのって行動する様子

 三度目に屍体が、とうとう正確に鈎に掛ったらしい。
「そんな所で、引き揚げたって、仕様がないじゃないか、石段の方へ引いて行けよ」と、群衆の一人が叫んだ。これはいかにも時宜タイムリイな助言であった。人夫は屍体を竿にかけたまま、橋桁はしげたから石崖の方へ渡り、石段の方へ、水中の屍体を引いて来た。
 石段は啓吉から、一間と離れぬ所にあった。岸の上にいた巡査は、屍体を引き揚げる準備として、石段の近くにいた群衆を追い払った。そのために、啓吉の前にいた人々が払い除けられて啓吉は見物人として、絶好の位置を得たのである。
 気がつくと、人夫は屍体に、繩を掛けたらしく、その繩の一端をつかんで、屍体を引きずり上げている。啓吉はその屍体を一目見ると、悲痛な心持にならざるを得なかった。希臘ギリシャの彫刻で見た、ある姿態ポーゼのように、髪を後ざまに垂れ、白蠟のように白い手を、後へ真直にらしながら、石段を引きずり上げられる屍体は、確かに悲壮な見物であった。ことに啓吉は、その女が死後のたしなみとして、男用の股引を穿うがっているのを見た時に悲劇の第五幕目を見たような、深い感銘を受けずにはいなかった。それは明らかに覚悟の自殺であった。女の一生の悲劇の大団円カターストロフであった。啓吉は暗然として、滲む涙を押えながらおもてそむけてそこを去った。さすがに屍体をマザマザと見た見物人は、もう自分たちの好奇心を充分満たしたと見え、思い思いにその場を去りかかっていた。
 啓吉も、来合せた電車に乗った。が、その場面シーンは、なかなかに、啓吉の頭を去らなかった。啓吉は、こういう場合に、屍体収容の手配が、はなはだ不完全で、そのために人生における、最も不幸なる人々が、死後においても、なおさらし物の侮辱を受けることをいきどおらずにはおられなかった。それと同時に啓吉は死者を前にして哄笑する野卑な群衆に対する反感を感じた。
 そのうちフト啓吉は、今日見た場面を基礎として、短篇の小説を書こうかと思い付いた。それは橋の上の群衆が、死者を前にして、盛んに哄笑しているうちに、あまり多くの人々を載せていた橋は、その重みに堪えずして墜落し、今まで死者をわらっていた人たちの多くが、溺死をするという筋で、作者の群衆に対する道徳的批判を、そのうちに匂わせる積りであった。が、よく考えてみると、啓吉自身も、群衆が持っていたような、浮いた好奇心を、全然持っていなかったとは、いわれなかったのである。
時宜 じぎ。その時々に応じた。ちょうど良い頃合。適時。タイミング。
タイムリイ タイムリー。ちょうどよい折に行われる。時機を得ている
後ざま うしろざま。その人や物の、後ろのほう
白蠟 はくろう。白い蝋燭ろうそく。黄蝋を日光にさらして製した純白色の蝋。
穿う うがつ。穴を開ける。人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。衣類やはきものを身につける。
カターストロフ  カタストロフ。ギリシア語のkatastrophēに由来。悲劇的結末。破局。
滲む にじむ。涙・血・汗などがうっすらと出る。
 おもて。顔。顔面。

赤城神社(写真)鳥居と拝殿 令和4年 ID 17581-82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年令和元年、また拝殿は昭和44年昭和50-51年平成29年でも出ています。

(1)鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581 赤城神社鳥居

 左側から……

  1. 横断歩道
  2. コンビニ(LAWSON)
  3. 電柱とカーブミラー
  4. 赤城神社
    • どもえ)の紋と社号標(石柱などに刻んで建てた神社名)「赤城大明神」
    • いちの鳥居
    • 神額しんがく(神社で鳥居などにある額)「赤城神社」
    • 巨大な広葉樹
    • 参道。両側に春日灯籠、遠くに創作した灯籠
    • 掲示板と読めない掲示物
  5. 道路標識 (車両進入禁止)
  6. 裏側を向いた道路標識。縁石。歩道
  7. 民家
  8. 駒寿司


(2)拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17582 赤城神社

 左側から……

  1. 屋根があり、「螢雪天神」の提灯。かつて横寺町の朝日天満宮だったが、明治9年(1876)、信徒がなく、境内社(神社の境内に鎮座して、その管理に属する摂社や末社)になる。平成17年(2005)10月、横寺町の旺文社の寄進で『螢雪天神』として復興。
  2. 絵馬、絵馬がけどころ
  3. 八耳神社、出世稲荷神社、東照宮などの屋根
  4. 民家の2階
  5. 赤城神社の社殿
    • 「狛犬」2匹と「奉」「納」。右側は口を開き「」形を、左側は口を閉じていて「うん」形を表しています。
    • 「赤城神社」のちょうちん型の御神灯が1対。
    • 「(赤城神)社」の額
    • しめ縄。神道における神祭具。白い紙飾りが「紙垂しで
    • 本坪ほんつほすずと鈴の
    • 賽銭箱と左どもえ)の紋
    • 拝殿。本殿の参拝も可。
  6. 高札様の看板
  7. 絵馬、絵馬がけどころ
  8. マンション「パークコート神楽坂」(築年は2010年)

赤城神社(写真)駐車場の眺望 令和4年 ID 17063-66

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17063-66は、令和4年(2022)3月、備考では「赤城神社から早稲田方面を望む」となっていて、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真です。この部分は崖の上になっており、昭和28年平成31年令和元年などの撮影もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17063 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17064 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17065 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17066 赤城神社から早稲田方面を望む

 撮影時刻は夕方のようで、建物の手前側(東側)が影になっています。それ以外は令和元年と大きな変化がありません。
 令和元年の◯で囲んだ部分は令和4年には見られませんが、詳細は分かりません。

【参考】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13306A 赤城神社からの眺め 令和元年

【参考】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13305 赤城神社からの眺め 令和元年

神楽河岸の酒問屋(写真)路面電車 昭和42年 

文学と神楽坂

 雪廼舎閑人氏の「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)に次の写真がでてきました。撮影時期は昭和42年8月でした。

雪廼舎閑人「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)昭和42年8月に撮影

 都電「飯田橋」行きなのに、方向板だけは早々と「品川駅」に直してしまうという結構面白い写真です。理由は以下に
 この都電系統3番は4か月後の昭和42年12月10日に廃線しました。あとこの写真は升本酒問屋についても説明があり、『新撰東京名所図会』が続きます(引用は以下の「神楽河岸の酒問屋」で)。
 酒問屋の升本総本店は、確か田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」にもあったっけ。で、見つけました。これが(↓)昭和47年に撮った写真です。都電はなくなり、「京英自動車株式会社」は「安全第一/大林組」の看板に変わっています。この時期にはID 8793のように飯田壕で地下鉄有楽町線や護岸の工事が進んでおり、その関係の現場事務所かも知れません。
 升本の背後に出現したビルは、左が東衣裳店、右が小川ビル。いずれも大久保通り沿いです。右端はボウリングのピンの広告塔で、下宮比町のイーグルボウルです。

05-14-39-2飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 升本総本店のサイトにも写真があったはず……。ありました(↓)。説明は昭和38年ごろとあります。しかし、よく見ると最初の雪廼舎閑人氏の写真と似ている。非常に似ている。けた違いに似ている。眼光紙背に徹すると、同じじゃないか。

 雪廼舎氏と升本総本店、いずれも嘘をつく理由はなく、どちらかが間違いです。
 住宅地図で調べると、升本の倉庫の隣は昭和39年が「駐車場」、昭和42年と43年が「百合商会」、昭和45年から「京英自動車」に変わります。住宅地図の更新は数年遅れになることが多いので、これを考えると雪廼舎氏に軍配があがります。
 「続・都電百景百話」の中で雪廼舎氏は

 当初、「都電百景百話」は、私の撮影した1万枚を越すネガから、先ず四百の場面を選んで、更にそこから百景にしぼったものだった。この広い東京の町々を、百の場面で代表させることの難しさは並大抵なものではなかった。江戸の昔、葛飾北斎は「富嶽三十六景」で三十六景ならぬ四十八景を、そして安藤広重は「江戸名所百景」で、百十八景もの場面を残しているのに徴しても、このことはお解り頂けると思う。

 雪廼舎氏は趣味が高じて写真を撮っていて、都電3系統の廃止を前に撮影に行ったのでしょう。写真の大きさや解像度から見ても氏のほうが正しいでしょう。

 神楽河岸の酒問屋
 中央線に乗って四谷から御茶の水に向かって行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべる者や釣糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しいところだ。その外濠に沿って走っている電車は、昔の外濠線で、この伝統ある線は、③番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の五叉路にさしかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立往生だ。方向板は折返す時に直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げしたので、船宿や問屋などがたくさんあり、このあたりの河岸を神楽河岸と言った。
 明治37年の『新撰東京名所図会』の「牛込区之部」の巻一に、「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には油問屋の小野田。三番地には東京火災保険株式会社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ。」と出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町四丁目の質屋大和屋、本郷三丁目のかんむり質屋、音羽一丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることもできない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた水面積か減った。残念なことである。

★飯田橋の都電ミニ・ヒストリー
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、三社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川橋までが完成して、飯田橋は乗換地点となる。一方、大正1年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、⑩番江東橋~江戸川橋、⑨番の外濠線の循環線、それに新宿からの③番新宿~牛込万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで⑱番角筈~飯田橋~万世橋、⑲番早稲田~大手町~日本橋~洲崎、㉒番若松町~御茶の水~神田橋~新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から⑱番が⑬番に、⑲番が⑭番に、そして㉒番は改正されて㉜番飯田橋~虎の門~新橋~三原橋と、㉝番飯田橋~虎の門~札の辻間となった。昭和15年には㉜番は廃止となった。
 戦後は、⑮番高田馬場駅~茅場町、⑬番新宿駅~水天宮、③番飯田橋~品川駅とになった。
 ③番は42年12月10日、⑮番は43年9月29日に廃止、⑬番は43年3月31日岩本町までに短縮の後、45年3月27日から廃止された。

清隆寺(写真)赤城元町 昭和44年 ID 14134

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」 ID 14134は昭和44年頃に赤城元町の日蓮宗清隆寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14134 日蓮宗本光山清隆寺

「一実」は仏語で、絶対平等の真実、「会堂」は集会の大きな建物のこと。表札は「日蓮宗本光山 清隆寺」。
「牛込区史」(昭和5年、576頁)では

本光山清隆寺、中山法華経寺末
起立不明、開基妙行院日徳、慶安四年九月九日遷化、旧境内年貢地百二十八坪、借地百四十四坪半。

 と極めて簡潔に書いています。なお「中山法華経寺」は千葉県市川市中山にある正中山法華経寺、「遷化」は高僧の死亡したこと。
「当山縁起」によれば、寛永15年(1638年)、妙行院日徳が開基として創建したといいます。

住宅地図。1967年

 清隆寺には初代・立花家橘之助の墓があることでも知られます。橘之助は明治から大正にかけで活躍した女流音曲師で、名人と呼ばれました。
 平成29年に三遊亭小円歌師匠が二代目立花家橘之助を襲名し、82年ぶりに名跡が復活したことで改めて注目されました。
 二代目は清隆寺で初代のおんの供養をしています。
 また、後ろにはお墓以外に「神楽坂樹木葬あかぎガーデン」があります。

清隆寺 上空から

赤城神社(写真)神輿蔵 眺め ID 14133, 14159-60 昭和44年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。

(1)神輿蔵

あ 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133 赤城神社 神輿蔵

 神輿みこしぐらは下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左どもえ紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
 ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
 冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。

赤城神社 住宅地図 2000年

(2)赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14159 赤城神社からの眺め

 左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。

住宅地図 昭和42年

(3)赤城神社境内
 石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14160 赤城神社境内

 左から……

  1. 東宮殿下碑
  2. 北参道の鳥居と門柱
  3. しょうちゅう。大山巌碑。初代の陸軍大臣大山巌が揮毫
  4. 手前に裸電球のような境内灯。石の土台から長い旗竿。
  5. 赤城会館(結婚式場)
  6. 赤城神社の社殿(拝殿)
  7. 出世稲荷神社(摂社)の鳥居

1948年1月18日(昭23)赤城神社付近(地理院地図)

赤城神社(写真)拝殿と狛犬 平成29年 ID 13977

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977は平成29年、赤城神社の社殿と狛犬などの写真を撮っています。赤城神社の境内は建築家のくまけん氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977 赤城神社社殿・狛犬

 神社の社殿とは本殿ほんでん拝殿はいでん、舞殿などといった境内の重要な建物のことです。また、本殿とは神様がいらっしゃるとされている社殿のことで、拝殿とは参拝者が拝礼を行う社殿。したがって、この写真は拝殿です。屋根には簡単な切妻きりづま屋根です。
 新社殿は、旧社殿の跡に築いた人工地盤の上に建っています。鳥居から長い階段を上って、写真の拝殿前に出ます。
 拝殿の下は氏子参集殿(あかぎホール)、本殿の下は人工地盤を貫く基礎になっています。
 では左側から……

  1. 絵馬、絵馬け、絵馬がけどころ。絵馬は社寺などに祈願や感謝の目的で奉納する絵。絵馬掛所は祈願を書いた絵馬を掛ける場所
  2. 「納」と「狛犬」。左側は口を閉じていて「うん」形を表しています。
  3. 拝殿。
    • 「赤城神社」のちょうちん型の御神灯が1対。拝殿左からは殿内に入れるようで、受付らしい机が見える。
    • 「(赤)城神社」の額
    • しめ縄。神道における神祭具。白い紙飾りが「紙垂しで
    • 本坪ほんつほすずと鈴の
    • 賽銭箱と左どもえ)の紋
  4. 「狛犬」。右側は口を開いて「」形を表しています。
  5. 狛犬の下に立て看板「厄年祈願 受付中/子ども豆まき大会/平成二十九年1月二十八日(土)十四時」
  6. 高札こうさつ様の看板「奉納 斉◯芳子」

赤城神社(写真)駐車場の眺望 令和元年 ID 13303-06

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303-06は、令和元年(2019)5月、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真4枚です。この部分は高台の崖上になっており、昭和28年平成31年などの撮影もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13304 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13305 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13306 赤城神社からの眺め

 最近の写真なので建物が特定するのも簡単で、手前のえんじ色のマンションで屋上に白い正方形の模様がたくさんあるのは「ライオンズマンション神楽坂第三」(地上5階)で、同じく北に見えるえんじ色のマンションは「神楽坂ココハイツ」(地上11階)、ID 13303-05の薄い茶色のマンションは「グラーサ 神楽坂」(地上8階)です。

近い場所

 ID 13305の奥は、池袋周辺の高層ビル群です。同時期の撮影であるID 14051で詳しく見ています。ただし、豊島区役所、つまり「ブリリアタワー池袋」(地上49階 / 地下3階)は、薄い茶色のマンションの右側で、半分は隠れています。

14051b 赤城神社から池袋方向を望む

赤城神社裏(北側)駐車場

 ID 13303-04の奥は、早稲田方面のマンションなどが写っています。左側から見ていくと、屋上に貯水槽がある青灰色のビルは赤城下町にある旭創業東京支店の「神楽坂アサヒビル」、「BELISTA 神楽坂」は地上13階/地下1階、白い「グランスイート神楽坂」は地上14階で、天神町交差点の近くです。
 水色は「菱秀神楽坂ビル」(地上10階)、その右は「フリーディオ神楽坂」(地上11階)、薄い茶色は「パーク・ハイム神楽坂」(地上14階)、全部マンションであり、江戸川橋通り沿いの渡邊坂と呼ばれているあたりです。
 中央の一番奥、高い建物は山手線高田馬場駅に近い「住友不動産新宿ガーデンタワー」(地上37階/地下2階)で、ガラスの外装が濃紺に写っています。

渡邊坂近辺

 ID 13303-4の下を走る道路は無名ですが、そのまま上に行くと「赤城坂」と一緒になってT字をつくります。

路面電車(写真)飯田橋駅 第15系統 昭和6年 昭和31年 昭和43年

文学と神楽坂

 都電15系統の飯田橋停留所付近の写真5枚をまとめました。15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
(1)昭和6年頃 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)

飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合する地点にあってその下流は神田川となる。写真の中央より少しく右によって前後に通ずる川が江戸川である。突きあたりの台地が小石川台で川を隔てて右は小石川区左は牛込区また飯田橋の橋手まえが麹町区。電車は5方面に通ずる。
 大正3年、市電に系統番号が採用され、電車の側面に大きく取り付けられるようになり、三田は1番、時計回りに8番まで番号をつけていました
 写真は昭和3年(1928年)に開業したばかりの中央線飯田橋駅のホームから目白通り方向を撮影しました。手前の幅の広い橋が「飯田橋」で、右に通じるのが「船河原橋」です。
 船河原橋は欄干の四隅が高い柱になっていて、その上に丸い大きな擬宝珠が乗っています。
 ここから写真奥に向けてが江戸川と呼ばれ、上流の「隆慶橋」が見えています。おそらく国鉄飯田橋駅のホームから写真を撮ったのでしょう。
 なお戦後、江戸川の名称はなくなり、神田川に統一しました。小石川区は文京区、牛込区は新宿区、麹町区は千代田区になりました。また、戦後の名称ではありますが、前後の通りは「目白通り」、左右の通りは「外堀通り」で、左奥にある「大久保通り」は見えません。
 では写真を左側から見ていきます。

  1. 小さな建物の一部。自働電話(公衆電話)でしょう。交番は船河原橋に派出所があり、不自然です。
  2. 外濠の水面は見えませんが、対岸に石垣と手すり。江戸期のものではなく、昭和4年(1929年)の飯田橋の掛け替え時に整備したものでしょう。
  3. 掲示板(裏から)。
  4. 電柱と電柱広告「耳鼻咽喉科」
  5. 交差点の向こうに店舗。看板が読めるのは「エ[ビス]ビール」と「春日堂」。
  6. 早稲田方向に向かう電車は停車中で、電停に乗降客多数。13系統は交差点を横断中。
  7. 降雪後らしく、路面は白く、車道は黒くなっている。
  8. 右前に電柱広告「魚喜」? 電柱の上にあるのは擬宝珠でしょうか。

(2)昭和31年(1956年)6月16日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

戦前と戦後の風景が重なっていた昭和30年代初めの飯田橋駅前風景
低層の建造物ばかりだったので遠望がきいた。右に神田上水、直進する電車通りは目白通り。上流の大曲、江戸川橋にかけては沿道に中小の製造・加工工場、小出版社、印刷・製本業などが密集していた。神田川に架る外堀通りの橋は「船河原橋」。左奥が神楽坂・四谷見附方面、右奥が水道橋・御茶ノ水方面である。電車の姿は無いが、撮影当時の外堀通りには⑬系統(新宿駅前~万世橋)の都電が頻繁に往復していた。現在は高層のオフィス街に変り、頭上には首都高速5号池袋線が重くのしかかっている。
◎飯田橋 1956(昭和31)年6月16日 撮影:小川峯生

 東京都電は戦後再編され、江戸川線は高田馬場まで延長して15系統になりました。外濠線は飯田橋から南が3系統。飯田橋からお茶の水方向は大久保通りにつながり、本文のように13系統になりました。「電車の姿は無いが」という文章は本文通り。
 写真は(1)の昭和6年頃と同様、中央線飯田橋駅ホームから目白通り方向を撮影しています。2枚の写真は同じ本に掲載されていますが、下は少し画角が狭くなっています。上の写真の右側の鉄骨のようなものと、空中を横切るケーブルのようなものは後の写真には見えず、防鳥対策を含めて何かの工事をしていたのでしょう。また右下には花柄らしい車が歩道に停まっています。移動販売の車でしょうか。
 停留所の安全地帯(路面電車のホーム)ではゼブラ柄の台座から2mぐらいの高い柱があり、前面に「飯田橋」と読めます。
 街灯は昭和6年と同じように照明3個が街灯1つにまとめてついています。

  1. 交差点の向こうに商店街。看板は「つるや」が縦横2つと読めない「▢口▢▢▢▢」。
  2. 飯田橋のたもとに「光」
  3. 13系統(茅場町行)は「15」と「612」

(3)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点での出会い、⑮系統茅場町行きの3000形(右)と、⑬系統秋葉原駅前行きの4000形(左)飯田橋駅至近の飯田橋交差点は五差路になっていて、⑮系統の走る目白通りと、神楽坂から下ってきた⑬系統の走る大久保通り(飯田橋まで。当所から先の⑬は外堀通りを進む)が交差しており、さらに外堀通りを赤坂見附から走ってきた③系統(品川駅~飯田橋)の線路が、交差点手前で終点となっていた。信号や横断歩道も複雑なため、交差地点を取巻く井桁スタイルの歩道橋が巡らされ、歩行者が空中を歩く「大型交差点」として知られるようになった。写真はその建設開始の頃の模様で、正面のビルは東海銀行。JRの飯田橋駅には中央・総武緩行線しか停車しないが、現在は飯田橋駅周辺の道路地下や神田川の下には東京メトロ東西線・有楽町線・南北線、都営大江戸線の「飯田橋駅」が完成していて、巨大な地下鉄ジャンクションの1つとなっている。街の方も中小商工業の街から高層ビルが並ぶオフィス街に大変身している。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 手前に向かってくる15系統の都電は「茅場町」、マーク「15」と「週刊文春」、「3214」号、「乗降者優先」。一方、左奥から下ってきて13系統は「4041」号しかわかりません。
 ゼブラ柄の交通信号機は交差点の中央にあり、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、その下にゼブラ柄の台座と脇に警察官。
 歩道橋は手すりは完成しておらず、橋台や橋脚も足場やシートがかかっています。
 歩道橋は最初は井桁スタイルではなく「士の字」形でした。井桁になるのは1978~79年です。

昭和44年 住宅地図

 店舗は左から……

  1. 東海銀行(時計と東海銀行、東[海]銀行、[T]OKAI BANK)
  2. 電柱看板「多加良」(旅館)
  3. [三平]酒造 商金
  4. パーマレディー。LADY
  5. サロンパス。[か]っぱ家
  6. 「銀行」
  7. [ミカワ薬品] アリナミン

(4)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点で信号待ちする目白通りの⑮系統高田馬場駅前行き2000形(右)と、大久保通りの⑬系統岩本町行きの8000形・4000形(左奥)
五差路の飯田橋交差点に見る都電風景である。撮影時には左側の信号の奥にここが終点の③系統品川駅行きの停留場もあった。鉄筋コンクリート仕様の本格的な歩道橋の工事が頭上で行われていた。国鉄飯田橋駅(当時)は画面の背後にあり。ホーム上からこのような展望が開けていた。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2009」号と「15」「小説読売」。13系統岩本町行きは大久保通りで発車中。

 店舗などは左から……

  1. きんし正宗◯
  2. [ご]らくえん
  3. 日本精[鉱]
  4. 三割安い
  5. (速度制限解除)(転回禁止)(駐車禁止)
  6. 電柱看板「飯田橋」「飯田橋」「多聞」
  7. (歩行者横断禁止)
  8. 電柱と(指定方向外進行禁止)
  9. 「科学と美味」
  10. 「話し方」「ス」
  11. 東海銀行(時計、東海銀行、TOKAI BANK)
  12. ゼブラ柄の交通信号機、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、警察官
  13. 電柱広告「フクヤ」

(5)昭和43年9月28日 運転最終日 諸河久氏の「路面電車がみつめた50年前のTOKYO

自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久 1968年9月28日)

路面電車がみつめた50年前のTOKYO  諸河久
https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html
 都電の背景に写っている横断歩道橋は1968年3月に設置されている。当時、総延長242mに及ぶ長大な歩道橋で、上野駅前や渋谷駅前の歩道橋と長さを競っていた。街の景観を阻害する歩道橋だが、撮影者にとっては都電撮影の格好の足場となった。筆者も歩道橋に上る階段の途中から、やや俯瞰した構図で都電を撮影することができた。

 これまでの写真とは逆に飯田橋駅の方向を撮影しています。「士の字」の歩道橋の左の階段から撮影しました。
 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2502」号と「15」「小説読売」。イースタン観光のバスが併走中。また、15系統の路面電車と水平にある線面は13系統のもの。
 本文では「横断歩道橋は1968年3月に設置」とありますが、(3)や(4)ではまだ工事中です。3月に歩道橋を架設し始め、9月に供用したというペースではなかったでしょうか。

 標識などは左から……

  1. (指定方向外進行禁止)8-20
  2. (帝都高速度交通営団)
  3. ガード下に「最高速度」
  4. (転回禁止)
  5. 「飯田橋駅」
  6. 奥の千代田区のビルに「ジ◯ース味」「林◯會◯」
  7. 右隅に「飯田橋」2枚

赤城神社(写真)昭和50-51年 ID 9899‐9901

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899、ID 9900、ID 9901は昭和50-51年頃、赤城神社からの眺めを撮っています。天気は曇りで、遠くがよく見えません。トタン屋根が光っているので、雨上がりかもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899 赤城神社からの眺め

 ID 9899で目立つのは、中央にある「大日本印刷」の広告です。左手前には電柱から街灯がつき出していて、その街灯は消えていません。この下に道路があるのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9900 赤城神社からの眺め

 ID 9900では、左端の石柱に「大正十一(年)」と彫られています。その右のビルの塔屋に「はいばら」の広告看板。煙突が何本かあり、右には「竹の湯」とあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9901 赤城神社からの眺め

 ID 9901は、少し引いた位置からの撮影です。石柱は屋根つきで、門灯のようなデザインです。「竹の湯」の煙突も確認できます。遠くの集合住宅の上には広告がありますが「日本火災」以外は読めません。
 さて以上です。撮影場所の特定は難しい。ところがわかりました。

ID 9899は赤城神社から西に、ID 9900とID 9901は北西で撮りました。

 赤城神社から西の方角に「大日本印刷㈱榎町工場」、北西に「竹の湯」があります。屋根つきの石柱は赤城神社北参道の門柱です。北参道から境内に入ったところ、鳥居の下あたりから撮影したのでしょう。

TV「気まぐれ本格派」29 神社の恋の物語 1978年

赤城神社(写真)鳥居 令和元年 ID 13302

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302は令和元年(2019年)5月、赤城神社鳥居を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302 赤城神社鳥居

 鳥居は「いちの鳥居」(神社の境内に入って最初の鳥居)で、中央に神額しんがく(鳥居等の高い位置に掲げたがく)として「赤城神社」が書かれ、左には社号しゃごうひょう(入口に石柱などの神社名)として「赤城神社」があります。昭和44年のID 8298にあった玉垣はなくなり、鳥居も二回りほど大きくなって道路ギリギリに立っています。これから参道が続きます。
 鳥居の前の左側には立て看板2つがありますが、「あかぎカフェ」の広告でしょうか、しかし読めません。右側には掲示板があり、「御大礼」以外は読めません。大礼たいれいとは冠婚葬祭などの最も重要な礼式です。この年の5月1日に今上天皇が即位されましたが、これでしょうか。
 境内けいだいには巨大な広葉樹があり、両側には春日灯籠、遠くに創作した灯籠があります。

灯籠

 社殿などの境内は建築家のくまけん氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。立木の奥に見える縦縞の建物は地上6階・地下1階のマンション「パークコート神楽坂」で、これも隈氏の設計です。赤城幼稚園の跡地を中心に境内の東側に建てられました。
 鳥居の前はT型の三叉路で、女性がスマホで鳥居や社号標を撮影しています。
 後は左から……

  1. コンビニ「[LA]WSON」
  2. 道路標識 道路標識 横断歩道(横断歩道)
  3. 電柱とカーブミラー
  4. 赤城神社
  5. 道路標識 (車両進入禁止)
  6. シャッターは閉店
  7. 味色海鮮 駒寿司

赤城神社(写真)拝殿と赤城会館 昭和50-51年 ID9902 ID9903 ID9904

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902 赤城神社

 赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒すずおは賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 右端に金網フェンスがあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9903 赤城神社

 右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左どもえ紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9904 赤城神社

 右から赤城会館、しょうちゅうの台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。

TV「気まぐれ本格派」 29 神社の恋の物語、1977年

住宅地図 1976年

赤城神社(写真)鳥居 ID 8298 ID 14161 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298とID 14161は「赤城神社」を「昭和44年頃か」に撮ったと備考で書かれています。この2枚の写真は人間がわずかに違うだけで、連続して撮影したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14161 赤城神社境内

 ID 8293とよく似ていますが、相違点があります。
 第一に、左の玉垣の一部がないことです。ID 8293をよく見ると、玉垣の上部に黒い筋があります。この位置で計画的に除却したのか、あるいは継ぎ目が割れて外れたのか、分かりません。
 第二に、このID 8298は好天で、建物の影が出ていることです。また境内の駐車車両も違っており、別の日の撮影と推測できます。
 それ以外はよく似ています。看板は「昭和四十五年度園児募集」、写っている人もコート姿や厚着で、季節は冬です。ちなみにID 389とID 390は昭和44年12月でした。
 では、左から見ておきます。

  1. 自動車と箱を抱えた男性
  2. 外灯
  3. 玉垣。何本か抜けている。
  4. ポスター「赤城ラジオ体操◯」
  5. 2階建ての民家
  6. 高札様の看板「赤城幼稚園」「11月1日◯◯◯◯◯◯/昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」
  7. 神門に「赤城神社」
  8. 鳥居
  9. 自動車と自転車
  10. アーチ型(⨅)の車止め、赤城神社拝殿
  11. 母と子供1人
  12. 民家
  13. 玉垣、外灯、社号しゃごうひょうの「赤城神社」、自動車通行止、背の高い電柱、高札様の看板「結婚式場 赤城会館」、背の低い電柱
  14. 屋根付きの屋外掲示板
  15. 参道沿いの民家
  16. 3-4階建てのビル(東京都教育会館、現・東京都教育庁 神楽坂庁舎

路面電車(写真)飯田橋駅 第3系統 昭和27年 昭和40年 昭和42年

文学と神楽坂

 路面電車の飯田橋駅は第3系統、第13系統、第15系統が走っていました。第3系統は「外濠線」とも呼ばれ、品川駅前から飯田橋駅までを走行しました。ここでは第3系統の飯田橋駅を3つ見てみます。昭和27年、昭和40年、昭和42年です。

(1)昭和27年

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 ここは飯田橋交差点、五差路で車の往来しげく、真ん中にロータリーを置く。品川駅と飯田橋とを結ぶ③番の折り返し点である。右側は水道局の神楽河岸出張所、その前に薬の広告のある小さな塔は、高圧線の変圧器でそばを通ると「ブーン」とうなっていた。電車には英語で、「停車中追越時速8粁以下」の注意書きがある。

 この当時の飯田橋交差点はロータリー式でした。ロータリーとは「交通整理のための円形地帯」(大辞林)で、ゼブラ柄の模様で囲まれています。写真では複数の円形地帯が見えます。昭和22年の航空写真だと、ロータリーが2つ重なったような構造が分かります。
 円形地帯を貫いているのは、おそらく路面電車の軌道です。手間のかかる軌道移設工事まではしなかったのでしょう。飯田橋交差点は昭和28年に普通の五差路になりました。
 このロータリーの1つには大きな看板で「◯◯立入るな」か、あるいは「◯◯来る」と縦書きで書かれています。

地図院地図 昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 写真に戻ると、路面電車の運転手がしゃがんでタバコを吸い、前には横断歩道があります。停留所はロータリーと同様なゼブラ柄で安全地帯になっていて、「KEEP LEFT/左側通行」と書かれています。英文が大きく書かれたのは占領下の名残でしょう。安全地帯からは四本足の柱が立ち上がり、上部には行灯のような時計が設置してあります。
 700形の路面電車の方向幕は「品川駅」とあり、乗客が数人、電車内で出発を待っています。車両の側面には「クラブ/◯◯」などの広告があります。
 右端に見えるのは東京都水道局の事務所で、飯田壕再開発の直前まで使われていました。建物の前の歩道には「小児せき」という薬の広告があります。

神戸市電の700形 都電の700形はありませんでした。

(2)昭和40年

諸河久「路面電車がみつめた50年」(天夢人、2023)

飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える。(1965年9月12日撮影)
水運で栄えた神楽河岸(かぐらがし)の街並み
 上のカットは飯田橋交差点の南西側から外濠通りを撮影したーコマで、飯田橋停留所で品川駅前への折り返しを待つ3系統の都電にカメラを向けた。3系統は700型の独壇場だったが、1965年秋頃から旧杉並線用の2000型に置換えられていった。
 画面右側の「クララ劇場」や左方向の牛込見付にある「佳作座」が「特選洋画を大衆料金で」のフレーズによる100円均一映画館として、近隣の法政大学、理科大学の学生に親しまれていた。撮影時にはホラー映画「妖女ゴーゴン」(イギリス映画/1965年7月公開)が上映中たった。

 これは右から見ていきます。

  1. クララ劇場 特選洋画を大衆料金で 100円均一
  2. 消火栓 セントラルホテル
  3. 電柱広告「外科」
  4. 路面電車「品川駅」➂ 三菱◯◯◯ 2017 乗降者優先
  5. ◯◯家具十ヶ(丸吉家具洋装店)
  6. (松本)自動車株式会社
  7. 遠くの垣根の上に「升本総本店」
  8. 銀嶺会館(5階建て)

住宅地図。1962年。

【参考】第15系統の車体の色。これも2000形です。

当時の第15系統。J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

(3)昭和42年

三好好三「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)

飯田橋交差点 外堀通りを赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附と走ってきた3系統の終点で、前方の目白通りを行く路線への線路が切られていた。右が飯田橋駅、左が神楽坂方面だが、外堀通りは比較的閑静で、都電の利用客も少なかった。この地点は現在ビルが林立し、オフィス街になっている。◎昭和42年12月7日 撮影:荻原二郎

中央から左下に行くのが第3系統 吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

 東京都交通局の東京都電アーカイブ③(3系統 品川駅前~飯田橋)と比較しながら見ていきます。

  1. 道路標識(指定方向外進行禁止)
  2. 小学館の百科(事典)
  3. 電柱に「飯田橋」(交差点名標示か)
  4. 路面電車の停留所で駅名標「飯田橋」広告「日本電子計算学院」上部に時計
  5. 東海銀行
  6. 酒は黄桜 きざくら 三平酒造 カッパの絵
  7. パーマレヂィー
  8. 路面電車 品川駅 ➂ 週刊文春 2015 乗降者優先
  9. 稲葉工業(建築中のビル)
  10. 田中土建(建築中のビル)
  11. ゼブラ柄の信号機

赤城神社(写真)昭和26-30年 ID 6869、6890

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
 赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。

(1)ID 6869 七五三詣り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869 赤城神社(七五三)

 正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿にはすだれ(和風カーテン)、おそなえ、三宝さんぽう(お供えを盛る台)と高坏たかつき金襴きんらんの布などが並び、回廊にはぼうしゅの飾りがあります。神職の左右はさかきの枝です。
 その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
 高札こうさつ様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/とう料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「ふきげ」は 屋根を仕上げることです。

(2)ID 6869 露店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6870赤城神社(七五三)

 石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代かいたい町」と読むのは、ID 389と同じです。
 右の狛犬の背には鉄製の天水桶てんすいおけが見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
 写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
 露店では香具師やしがさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
 参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
 左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。

住宅地図。1965年

赤城神社(写真)拝殿と鳥居 昭和44年 ID 389-90、8262、8292-93

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
 戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。

(1)赤城神社拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 389 赤城神社本殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8262 赤城神社(改代町の狛犬)

 ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒すずおが左どもえ)の賽銭箱に向かって垂れています()。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
 赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
 ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。

住宅地図 1978年 赤城神社付近

(2)神門と鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 390 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8293 赤城神社

 門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号しゃごうひょう(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
 鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居のせきの「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
 さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。

(3)赤城神社の遠景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8292 赤城神社

 さらに赤城神社から遠くなります。左から。

  1. 電柱看板に「三共グラビヤ印刷 株式会社/グラビヤ印刷/神社鳥居前/赤城元町」
  2. 自家用車、婦人2人
  3. (駐車禁止)8-20  (終わり)
  4. 男性2人
  5. 外灯
  6. 玉垣
  7. ポスター「赤城 ラジオ体操」
  8. 高札様の看板「公認 赤城幼稚園」「11月1日 昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」。神門に「赤城神社」
  9. 母と娘1人(スカートをはいている)
  10. 鳥居と自動車1台、アーチ型(⨅)の車止め、男性1人。
  11. 赤城(神社)、外灯、自動車通行止、高札様の看板の「結婚式場/赤城会館」
  12. バイク2台
  13. 看板「御婚礼 御衣裳 東衣◯◯」
  14. 看板「キッチン  トップ」テントで「キッチン  トップ」
  15. 看板「駒」

住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。

赤城神社(写真)入り口付近 昭和28年 ID 388

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388は、昭和28年11月に、赤城神社の入り口付近を撮った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388 赤城神社入口付近

 左に石の社号しゃごうひょう(神社名を石柱などに刻んで建てたもの)の「赤城神社」、右に看板「赤城神社御造営作事場」があります。「造営」とは神社・寺院・宮殿などを建てることで、「作事場」とは土木建築の仕事場や 工事現場のこと。赤城神社のウェブサイトによると…。

 残念なことに、その立派なお社も昭和20年4月13日夕刻の戦災により、ことごとく焼失してしまいました。
 終戦後、昭和23年より復興の計画を立て昭和26年10月16日には本殿を竣功、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、復興計画から10有余年を経た昭和34年5月でした。

 つまり、この撮影の時は戦災からの再建途上で、本殿はあっても拝殿はまたできていません。参道の右奥のトラックも工事のためでしょうか。
 社号標の手前は側溝をはさんで道路がありますが、よく見ると現在の神楽坂の路地のようにピンコロ石を扇状に並べた石畳でした。
 参道は未舗装で、鳥居の跡にせきがあります。後に鳥居は写真より奥まった位置に再建され、社号標も別のものになりました。
 参道の両脇は民家のようです。右の電柱の看板は「赤城〇〇建設中」と読めますが、詳細は不明です。左にはいかにも昔の自動車が停まっています。
 左に5角形の板「赤城〇〇」があり、正面奥には中鳥居、その奥に本殿が見えます。中鳥居の奥にはガーデンパラソルが見え、何かを売っているようです。
 参道には晴着姿の親子連れが目立ち、七五三の参拝客でしょう。1人の女の子は洋服と千歳ちとせあめを持ち、もう1人の女の子は着物と帯を着て、隣の母親でしょうか、千歳飴を持っています。ID 388の説明は11月ですが、おそらく11月15日頃です。

飯田河岸|中村道太郎と織田一磨

文学と神楽坂

 飯田河岸を描いた作品はあまり多くはなさそうです。中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)や版画家である織田一磨氏の「武蔵野の記録」(洸林堂書房、1944年。武蔵野郷土史刊行会、1982年)などです。で、この3点を見ていきます。

1.中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」

中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)

飯田河岸は江戸開府の当時まで神田川の河口であった地で海港として諸国の船舶が輻輳していた。下町建設のため駿河台を切り開いてその方面に流路を転ぜしめて以来現在の如き水路を見るに至ったので今日ではさしたる重要性を認めず唯汚物船などが往来する。

 この飯田河岸は、背後に大きな平地があるので、船河原橋から小石川橋までの地域でしょう。ただし、千代田区の飯田河岸とすれば、背後の土手を中央線が走っているはずです。つまり、神田川から市兵衛河岸などの文京区側を見たものです。この河岸は極めて狭く、神田川が外堀通りに接しています。
 煙突がついた建物が並んでいるのは陸軍の東京砲兵ほうへい工廠こうしょうでしょう。大正12年、関東大震災のため、小倉工廠に移転を開始、昭和10年、完了しました。
 通りには無数の電線とうで7本の電柱が3本見え、道路には自動車と荷車が走っています。船荷を陸揚げする揚場には沢山はしけがとまり、1台は運送中です。

飯田河岸(明治22年以降)

2. 織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 大正3年秋の第一回二科展に著者が出品した作である。著者の解説に『当時の牛込見附附近はポプラの樹が茂っていて、現在の飯田橋停車場ホームのあるあたりには、常に石灰岩の破片が山積されていたものだ。これを小船に積込んでセメント工場に運搬する。その為にいつもこの河岸には伝馬船が集まっていた』とある。
新宿区役所「新宿区史」昭和30年

 飯田河岸を正面に見すえて、右端には石垣があり、下には床石があります。牛込橋のの下の橋台から飯田壕を見たものでしょう。てん船(=はしけ)が沢山とまり、舟員2人は竿を動かし、はしけを操っています。
 右の土手の中腹、緑と白の切れ目を中央線の電車が走っています。傾いた木の柱は架線柱でしょうか。なお、以前はこの部分を甲武鉄道といいましたが、明治39年、鉄道国有法で国有化し、中央本線になりました。
 昭和3年11月15日、複々線化し、また牛込駅と飯田町駅から飯田橋駅に統合。この水彩画はそれ以前に描いたものでしょう。

【参考】石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

3.織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 これも織田一磨氏の「飯田河岸」です。左岸は飯田河岸、右岸は神楽河岸で、牛込橋はまだ見えません。左岸の斜め屋根の荷揚場の下の壕に、はしけ数隻があります。
 また、左岸に高い崖があり、上端は平らに整理し、その上に樹木数本があり、中腹には黒く段差があります。この黒い段に中央線の鉄道があると考えると、線路より高いところに土手があるので、これが下図の土手でしょう。飯田壕がやや狭くなっているのもわかります。
 織田一磨氏は明治15年の生まれで、牛込駅が開業した時(明治27年)には12歳でした。これは2の飯田河岸と同様で、中央線の複々線化前の情景でした。

明治四十年一月調査東京市麹町區全圖 飯田壕付近。「飯」は「飯田河岸」の「飯」から。

飯田河岸と画家2人

文学と神楽坂

 飯田河岸かしはどこにあるのでしょうか。江戸時代、飯田河岸の名前はなく、その利用も全くなく、ただの「土手」でした。明治9年にまず飯田橋が架橋され、明治22年3月、東京府の「区部共有河岸地規則」で初めて牛込橋から小石川橋までを「飯田河岸」と呼ぶようになりました。

飯田河岸(江戸期)

飯田河岸(明治22年以降)

 高道昌志「明治期における飯田河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集、2016)では、当時「飯田河岸」を広大な空き地として考えられ、1号地から8号地まで分かれていました。

 明治22年、この飯田河岸は麹町区の一部になり、市町村と同等の名前になりました。ところが、昭和8年、帝都復興計画の一環としてこの河岸は飯田町二丁目に編入され、名前は廃止されています
 さて、現在は、この飯田河岸はどうなるのでしょう、橋の右側(地図では南側)は飯田河岸でいいと思います。橋の左側(南西側)では? 飯田橋ラムラがある場所です。現在、この部分は壕が暗渠になってしまったので、飯田河岸という言葉も消えてしまったものでしょう。
 さて、ではこの絵です。どこになるのでしょうか。

昼の東京 飯田橋

 解説があります。

文京区境界道をグルリ一周
「昼の東京 飯田橋」吉田遠志 画 1939〔昭和14年〕
 手前から外堀からの流れ(現在は埋め立てられている)、一方神田川が突き当たりの左から流れてきて合流し、右の水道橋方向に流れて行く合流地点を描いている。つまり現在では左岸が新宿区で右岸が千代田区、そして突き当たりが文京区になる。とすると現在は左岸の手前にJR飯田橋駅、正面には首都高速道路の高架が見えていることになる。

 しかし、少しだけ地図と一致しません。飯田橋の上から小石川方向を描いているので、神田川の合流点は画面の左で見切れている場所です。左岸は文京区です。JR飯田橋駅は右岸の手前になります。

 もう一つ同じ絵を描いた解説もあります。平松南氏が「神楽坂 まちの手帖 第11号」(2006年、けやき舎)の「神楽坂まちかど画廊11」です。

 ちょうど1年前の弊誌7号で、わたしは、「堀潔が描いた飯田濠」を取り上げた。
「昼の東京 飯田橋」は、それより5年前、同じ場所で描かれたものである。
 わたしは神楽坂下(1丁目)育ちであるから、飯田濠はいたってちかしい存在である。セントラルプラザという20階建の駅ビルが建つ前はそこに水面があり、水の生活があったことを鮮明に記憶している、いまでは数少ない住人である。
 飯田濠は埋め立てられて、いまはない。いまはないということは、永遠にないということではない。世の中には、復元ということもある。復元しないまでも、ひとの記憶のなかで、生き続け、また作品のなかで、繰り返し命を吹き込まれ、甦る。
 わたしが知る飯田濠は、美しい水辺ではなかった。しかし、ひとは、現実の光景だけを見ているわけではない。背後に、かっての姿を想像するのである。ひとりの画家が風景を描く。画家は、現存する風景を画布に定着させたいという強い動機に突き動かされる。飯田橋の水面は、昭和10年代には、ふたりの画家の絵筆を動かさしめた。風景が、さらにいえば、水辺が、それだけ豊かだった。
 ところで、吉田遠志の父は、これも風景版画家として高名だった吉田博である。堀潔もまた、吉田博に学んでいる。(平松南)

「堀潔が描いた飯田濠」の両岸の建物は、「昼の東京 飯田橋」とよく似ています。もし、これが同じ場所を描いたとすれば「飯田壕」ではなく「飯田河岸」でしょう。流れている川は神田川になるはずです。
 電車が走っていますが、これは路面電車です。

堀潔が描いた飯田濠

 堀潔は路上の画家である。
 つねに町をあるき、建物、路面電車、橋、川、空、人ごみ、野原−−目に留まったものはなんでも描く対象にした。
 滾る好奇心、エネルギー、力の根源は、堀自身の生きることへの渇望からきているようにおもえる。
 堀は広島出身だが、大正5年牛込の喜久井町に転居している。
 太平洋画会研究所で、石井柏亭、中村不折、吉田博らに学んだ。
 昭和20年5月25 日馬場下町で空襲にあい、全身に大火傷をおって、九死に一生をえた。母と妹は、そのとき焼死している。
 戦後、下落合の日本聖書神学校の管理人を勤めながら、「アイ・ラブ・TOKYO」「懐かしの東京風物百景」などを発表していくが、世に出る野望は希薄だった。
 戸山ハイツで 10数年前77歳で没したが、東京を描きつくした2000枚に絵は、いま新宿区歴史博物館に眠っている。わたしは彼の偉業を編集者として、世に問いたいと思っている(みなみ)。

 しかし、地元の方の意見では……

 吉田遠志の「昼の東京 飯田橋」は、牛込橋側から飯田壕を眺めたように見えます。壕幅が広く、左岸の石垣が高く切り立っています。また左岸の建物の向こうに高台の上の建物があります。これは揚場町の高台(現在のセントラルコーポラスのあたり)ではないでしょうか。少なくとも文京区側には、この高台はありません。
 一方、「堀潔が描いた飯田濠」は、飯田橋から小石川方向の神田川のようです。飯田壕に比べると神田川の方が幅が狭い。市電も飯田壕からは見えません。
 また正面左には石垣から川に下りる坂がありますが、これは飯田壕にはなく、小石川側にはありました。(「飯田河岸の写真」)
 両者は構図がよく似ていますが、写実的に描いたのだとすれば別の場所である可能性を考えるべきです。

ロータリーの廃止 飯田橋交差点 昭和28年

文学と神楽坂

 飯田橋交差点は戦前は普通の五交差でしたが、戦後、ロータリー交差点に改められました。これを昭和28年12月に廃止し、また普通の交差点にしました。なおロータリー交差点とは中心部分の周囲を一方向に周回する方式の交差点です。

邪魔なロータリー取り壊し
 13信号燈で交通整理
  運転手泣かせの飯田橋交差点

 下町と山手をつなぐ交通の関門飯田橋交差点のロータリー取除き工事が近く完成、これとともに都内では珍しい13の信号燈が設けられ、いままで運転手泣かせの”関門”が解消される。このロータリーは九段、水道橋、新宿、大曲、市ヶ谷に通ずる五差路の真ん中にあって、こゝ二三年来自動車の増加で交通量が急増、昨年暮ごろから朝夕のラッシュ時には車のこう水になり、ひどいときには500台ぐらいが五つの道にひしめいて歩行者も命がけで横断する始末。そこでロータリーを取除く必要にせまられ、神楽坂署や地元関係者が都、警視庁へ陳情、9月中旬着工、10月上旬完成の予定だったところロータリー用地の舗装や都電の路面引上げなどに手聞取り、ようやく2日完成することになった。
 また信号燈はすでに警視庁で取付けを終り、3日から点滅を始めるが、これで車も順調に流れるようになる。この信号燈は普通の交差点では4つだが、こゝでは歩行者専用8、車馬専用3、車馬、歩行者兼用2の13ヵ所で点滅し、80秒ごとに一めぐりして車をさぱく仕組になっている。
読売新聞 1953年12月1日

 林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)では昭和27年、ロータリーがある時点を捉えています。

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 新宿区内務部「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年)ではロータリーの撤去は失業対策の一例として登場しました。

飯田橋ロータリーの撤去

 昭和11年6月11日の地図院地図(B7-C10-10)ではこの交差点は以下の通りで、ロータリーではなかったといえます。

昭和11年6月11日 (B7-C7-10)

 昭和22年12月20日の地図院地図(USA-M698-99)では環状になっているのが分かります。それも2つの円形が合わさった変則ロータリーだったようです。

昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 しかし昭和31年3月10日(USA-M324-422)では再び、円形ではなくなります。

昭和31年3月10日(USA-M324-422)

 ちなみに2019年では歩道橋と高速道路ができています。

2019年 地図院地図

 ID 13030は、昭和28年、ロータリーを廃止した写真です。道路の真ん中にあるゼブラ柄の土台に「自動交通信号機設置記念」の立て看板があるのは、ロータリーを撤去した代わりに信号を設置したためでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 この交差点の中の信号機は、これ以後もしばらく同じ場所にありました。1962年や1968年の写真でも確認できます。

東京オリンピック時代の都電と街角

下宮比町(写真)消防訓練 昭和41年頃 ID 12317-18

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317-18は昭和41年頃、下宮比町の飯田橋交差点の消防訓練を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12318 消防訓練 飯田橋駅前大久保通り

 正面左の8階建ては飯田橋東海ビル(昭和41年(1966年)5月完成)です。1階は東海銀行飯田橋支店でした。現在は飯田橋御幸ビルです。
 また一見して分かるように、飯田橋交差点の大きな歩道橋も、首都高速道路もありません。歩道橋が出来たのは昭和43年3月で、首都高の開通は昭和44年ごろです。
 道路は左へ行くと大久保通り、右奥が目白通りです。交差点を南から北に向けて撮影しています。

住宅地図 昭和42年

 中央に東京消防庁の「はしご車」が出ていて、消防職員と警察官も数名います。遠くにポンプ車(消防ポンプ自動車)もあります。はしご車は車体から張り出すアウトリガーのため停止し、ポンプ車は撤退しているようです。路面は水に濡れており、少なくとも一部の放水は終了しています。
 ビルの3階より上は窓を開けて多くの会社員が訓練を見下ろしています。歩道にも見物している人がいます。
 ID 12318の左端にゼブラ柄の背面板がついた信号機があります。隣のビルは「東海銀行飯田橋支店」、袖看板は「東海銀行」と掲示板「BANK」。その右隣に「三平酒造」があり、酒の黄梅きざくらとカッパの絵があります。さらにその右隣は「パーマレディー」「Beauty Sh(op)」「LADY」です。
 1968年の写真(J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」光文社新書 2018年)とよく似ていますが、交差点の中に立つ信号は写っていません。
 はしご車の左の電柱には「質 オザワ」、その左に「大久保通り/Okubo-dori」の道名標、右の電柱は右の電柱では「ミカワ」「松信産婦人科」です。
 目白通りの路面電車の飯田橋停留所では少なくとも男女2人が待っています。これは都電15系統で、左に行けば「大曲」から「高田馬場駅前」に、右は「九段下」から「茅場町」に通じます。
 停留所の向こうは神田川ですが、見えません。その奥は文京区で、「お待たせしない家」とサインポールと「◯◯理◯◯の◯◯」、「◯◯◯5◯◯」などの看板が見えます。
 空中には電線と、都電の架線が縦横に張り巡らされています。歩行者の多くは長袖で、コート姿も数名います。飯田橋御幸ビルの完成が昭和41年5月なので、その年の晩秋の撮影でしょうか。

目白通り(写真)昭和54年 ID 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111は昭和54年3月、飯田橋駅を背中にして五叉路を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋「ゆずり合いモデル交差点/ひとり◯◯◯◯◯◯◯に」「目白通り/新宿区下宮比町」があり、それと同じ方向で、1台の自動車が左から右に走る道路は「外堀通り」です。たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。またその奥には高速道路とそれを支える橋脚があります。高速道路の下は神田川で、昔は江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。

花埋み|渡辺淳一氏

文学と神楽坂

荻野吟子 (Wikipedia)

 渡辺淳一氏の「はなうずみ」(河出書房新社、昭和45年)です。これは初めての女性医師、荻野おぎの吟子ぎんこの一生を描いたものです。
 なお「花埋み」という言葉は多分ありません。『とみなが屋』では「埋めるという字は、不足しているものを補ったり、平らにする意味。お花と絡めると、埋葬という言葉、死のイメージが浮かびます。華やかな側面だけ見るのではなく、死や老いを含めた生命の美しさ、そして人間の痛みを伴う情景を表現したいので『花埋み』という名前は結果的にすべてを繋げてくれるのだと思っています」
 これは荻野吟子氏が初めての女医を目指して陸軍軍医監の石黒忠悳氏に会う場面です。

 永井久一郎が紹介した人物は、当時の医界の有力者、陸軍軍医監、石黒いしぐろ忠悳ただのりであった。この人は幕府の官立医学校であった医学所をえ、その後、新政府ができるとともに医学校(大学東校)に少助教として勤めたことがある。この時、医学校長であった佐藤さとう尚中しようちゆう大博士に仕え、また先の皇漢医道復興運動の折りには岩佐純さが知安ともやすらと結んで反対論のきゅう先鋒せんぽうとなった人物である。
 彼はのちに軍医総監となり子爵を授けられたが、吟子が会いに行った時はまだ三十歳半ばの働きざかりで軍医監としてひょうしょうにいたが、同時に大学医学部そう心得として週に二日ほど文部省に出向していたのである。
 女の身でいかめしい官庁へ出かけるのはさすがの吟子もためらわれた。しかも場所は軍人の出入りする兵部省である。吟子は石黒の私邸を尋ねることにした。一度むだ足を踏んで、二度目に牛込うしごめあげちょうの石黒邸でどうやら会える機会を得た。
 石黒は顎骨あごぼねの張った、いかつい感じの男だった。彼は吟子の持っていった永井久一郎からの添書を読むと「うん」と一度、大きくうなずいた。
「成程、君が荻野吟子君か」
 維新を生きぬいてきた男らしく、石黒の声は周りに響くほど大きい。
「お初にお目にかかります」
 吟子はこの無骨な感じの男にすっかり緊張していた。女子師範で接した教授達とはいささか勝手が違う。
「君の意見には儂も賛成だ。婦人は総じて内気なもので、ことさら婦人病等をあらわに診察されることをじらってきらうものだ。きちんと診なければ分るものも分らない。これには儂も往生した経験がある。これらに対して女医が処することは大いに有益である。医学で女では学ばれぬという程の学科もないから、女がなってもおかしくはない」
 今更、何故なぜやりたいか、などと決りきった質問はしない。さすが実際に西洋医学を学んできた人だけに分りがいい、と吟子はほっとした。
「ところで、何処どこの学校をお望みかな」
「私のような者でも、いれて下さるところがあれば、選り好みは致しません」
「とにかく君も知っているように、今は何処も女人禁制だ。すぐと言われても困るが、どこか探してみよう」
「ありそうでしょうか」
「分らん。分らんからこれから探すのだ」
 石黒は掛け値のない男である。言われてみれば当り前のことであった。吟子は恐縮して石黒のもとを辞した。
 吟子が石黒忠悳から連絡を受けたのは、その一週間後の三月の初めである。早速出向くと石黒は例の大声で、
「いろいろ当ってみたが女学生は断わると言うて応じてれぬ」
「…………」
「ただ一つ、下谷の好寿院だけが、引き受けようと言うて呉れた」
「本当ですか」
 吟子は椅子いすから立ち上った。
すわって聞いても話は同じじゃ、坐りたまえ」
 吟子はあわてて坐った。
「風紀のことをはじめ、女ではいろいろと不便なことがある故、初めは駄目だと言いおったが、儂の懇請なら仕方がないとついには降参しおった」
「ありがとうございます」
 自慢しても石黒の場合はいやみに聞えない。
「院長の高階たかしな経徳君は私もよく知っているなかなか優秀な男だ。ちょっとこうるさいがな」
 いよいよ医者へ一歩近づいたのだ。吟子はめくるめく思いで石黒を見上げた。
「二、三日中に行ってみると良い」
「早速伺わせていただきます」吟子は深々と頭を下げた。
 皮肉なことに吟子は、皇漢医道復興問題で相対した井上頼圀、石黒忠悳という二人の人物の知遇を得たことになったのである。
 好寿院へ入ると決って吟子は再び頼圀の許を訪れた。好寿院の高階院長が宮内省侍医を兼ね、頼圀が宮内省御用掛であった以上、吟子の入学が頼圀に知れることは時間の問題であった。だが吟子が訪れたのは単なる挨拶あいさつと報告だけからの理由ではない。それよりも頼圀の近況を探るのが吟子にとっては大きな目的であった。
「そうか、西洋医になられるか」
 吟子の医学への志を初めて聞かされた頼圀は、沈痛な表情で腕を組んだ。漢方医ならともかく、西洋医では頼圀の手の及ぶところではない。といって西洋医になるのを断念させる理由もなかった。たしかに西洋医は時流にかなっている。その辺りのことは皇漢医である頼圀にも見通せた。
「長いのう」
「はあ?」
「いや、これからがじゃ」

永井久一郎 ながい きゅういちろう。漢詩人。米国留学後、工部省、文部省、衛生局第3部長、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)三等教諭兼幹事、帝国大学書記官をつとめ、のちに日本郵船の上海・横浜支店長。永井荷風の父。生年は1852年9月15日(嘉永5年8月2日)。没年は大正2年1月2日。
石黒直悳 いしぐろただのり。医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
大学東校 明治初期の官立の医学教育機関。明治政府は、1869年(明治2)旧幕府の昌平学校、開成学校、医学校を統合して大学校とした。同年末(旧暦明治2年12月)大学校が、大学と改称され、医学校を大学東校、開成学校を大学南校と称し、東校はドイツ人教師の指導の下で、プロシア軍医学校を模した教育改革が行われ、1874年東京医学校、1877年東京大学医学部、1886年帝国大学医科大学となった。
少助教 明治時代に政府が設置した大学の教官の職階。大博士の下に中博士・少博士、大助教・中助教・少助教の官職があった。
佐藤尚中 さとうしょうちゅう。たかなか。幕末明治の蘭方医。外科医。大学東校(東京大学医学部の前身)初代校長。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年は1827年5月3日(文政10年4月8日)。没年は明治15年7月23日。
皇漢医道復興運動 明治初期に起こった運動。漢方から発達した日本古来の医道を復興し西洋医学を排斥する活動。
岩佐純 いわさじゅん。明治時代の医学者。福井藩主の執匙侍医。医学校創立取調御用掛。医学教育制度の範をドイツにとることを力説、実現した。生年は天保7年5月1日。1836年6月14日。没年は明治45年1月5日。
相良知安 さがらともやす。幕末明治の医師。佐賀藩主鍋島閑叟の侍医。第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)校長。明治2年医学校取調御用掛。ドイツ医学の採用につとめる。生年は天保7年2月16日。没年は明治39年6月10日
荻野吟子 おぎのぎんこ。明治18年(1885年)、初めての医術開業試験に合格した女性医師。医籍に登録し、本郷に荻野医院を開業。またキリスト教婦人矯風会に参加、明治23年、牧師の志方之善と結婚し、27年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、41年東京でも医院を開いた。生年は1851年4月4日(嘉永4年3月3日)。没年は大正2年6月23日。
三十歳半ば 満34歳でした。
兵部省 ひょうぶしょう。明治2年、六省のひとつ。他は民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、外務省。明治5年に陸軍省と海軍省に分離したので、ここでは兵部省ではなく陸軍省が正しいでしょう。
大学医学部綜理心得 現在の東京大学総長特任補佐に当たるのでしょうか。石黒直悳は明治14年7年6日から明治19年1年16日まで綜理心得。
石黒の私邸 牛込区揚場町だと言いますが、そうでしょうか。

1912年、地籍台帳・地籍地図

 吉岡弥生『吉岡弥生伝』(日本図書センター、1998年)は「明治12年10月、荻野さんは、ほかならぬ石黒子爵の紹介だからというので、この好寿医院に入学を許されました」。したがってこの2人があったというエピソードが起こったのは明治12年10月以前です。一方、石黒直悳『懐旧九十年』(岩波文庫、1983年)の年譜では「明治6年 29歳。1等軍医正となり、牛込へ転居」「明治13年 36歳。牛込揚場町に家を購い、ここが終生の住居となる」。終生の住居(=揚場町)を決めたのは、明治13年です。つまり、牛込区に住んでいましたが、揚場町かどうかは不明なのです。
顎骨の張った、いかつい感じの男 写真では……

石黒直悳

女子師範 正しくは「東京女子師範学校」。小学校・国民学校の女子教員を養成した旧制国公立学校。明治8年、荻野吟子氏は女子師範(現在のお茶の水女子大学)に第1期生として入学し、12年に卒業。現在、東京医科歯科大学に。
好寿院 こうじゅいん。明治12年、下谷区練塀町(現在のJR秋葉原駅の北側地域)に開設。明治16年、おそらく閉院。
高階経徳 たかしな つねのり。孝明天皇と明治天皇の侍医。「西洋医学御採用方」を著す。晩年は私塾「好寿院」を開いて医師育成に務める。生年は天保5年8月9日(1834年9月11日)。没年は明治22年3月23日。高階氏の方が石黒直悳氏よりも12歳も年寄りです。
井上頼圀 いのうえ よりくに。国学者。文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた。國學院,学習院教授。皇漢医道御用掛。生年は天保10年2月18日(1839年4月1日)。没年は大正3年7月4日。
宮内省御用掛 宮内省の役所の命を受けて用務をつかさどった職。元官僚や大学教授など有識者から構成された。
漢方医 もともと日本で行われていた医学を漢方医学。対して江戸時代に日本に入ってきた西洋医学を蘭方医学と呼ぶ。
皇漢医 皇漢こうかんとは日本と中国の意で、中国から伝来し日本で発達した医学、すなわち漢方医学をさす。

飯田橋付近(写真)地理風俗大系 昭和12年

文学と神楽坂

 誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。神楽坂五丁目と同じくこれも新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。

飯田橋駅附近

飯田橋附近
飯田橋は江戸川と外濠との合流する地点でこれから下流は神田川と称す。写真は市電交叉点附近背景の小丘は富士見町一帯の台地で前は省線飯田橋駅。前面の橋は飯田橋でその下を流れるのが江戸川。この辺は四流八達の区域で市電はここを中心に五方面に通ずる。

四流八達 しつうはったつ。道路が四方八方に通じ、とても便利な交通。往来が多く、にぎやかな場所。

昭和16年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 手前の川は当時は江戸川(現在は神田川)で、ふなわらばしを超えて外濠そとぼり(外堀)と一緒になって初めて神田川になりますが、外濠(外堀)と神田川はこのアングルでは見えません。船河原橋を越えるのは外堀通りで、また外堀通りと直交するのは目白通りです。五叉路の一つ、大久保通りは出てきません。
 また目白通りの下には飯田橋という橋がかかり、さらに現在とあまり変わらない飯田橋駅が見えます。地元の方は「白文字『飯田橋駅』の『駅』の上にある階段状の建物は大松閣ですね」と言います。
 小石川区には巡査派出所(現在は交番)と自働電話(現在は公衆電話)、自動車もあり、路面電車は小石川区と牛込区をつなぐ船河原橋を渡っています。
 左隅の角丸四角の店舗には「◯◯◯◯品」と書かれ、右の角丸四角の中にはおそらくアルファベットの10字の看板、2灯が並んだ街灯、「◯◯◯京」、ロゴマークがあります。

 また地元の方は「見直して気づきましたが、船河原橋のたもとの小さなアーチは『大下水』の出口ですね。『暗渠さんぽ』の写真と同じもののように見えます」と書いています。明治44年に東京市が敷設したヒューム製下水管も同じ開口部にあり、これは厳密には江戸時代の大下水ではなく、明治時代の下水管でしょう。大下水(横幅は約1.8m、御府内備考)の一部が下水管(卵形で短径約90cm)になりました。

洋泉社MOOKの「東京ぶらり暗渠探検」(洋泉社、2010年)

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12083、85-90、94−95、98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12083、85-90、94−95、98の10件は昭和54年3月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区です。

住宅地図 昭和55年

(1)左から「ネクタイ」「(レ)ンタル」。突出し看板「珈琲専門店 珈琲館 飯田橋店」、ファサード看板「珈琲館」、ウインドーサインの1枚は「営業中」、「売店コーナー ◯◯式◯◯◯ 売店コーナー」、スタンド看板の「珈琲館」。山商ビル。袖看板「中華料理 新三陽」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12083 目白通り 飯田橋駅付近

(2)下から上を見ています。前から「美(穂美容室) TEL」サインポール(理容所)。次の商店は「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛り 小屋 庄や 飯田橋東口店 236-5300」、ファサード看板も同じ。次の商店は「会話 外人教授 TEL 262 5817」「遠心技研 株式会社」「FLセンター 英仏会話 4階 外人教授」。テントの「カメラのミハル」「カメラのミハル シャンス」。「KODAK film ミハル商会」「スポーツ用品 シャンス」。次の商店は「学生 サラリ ローン」「日動火災」「洋品 紳士物専門店 高橋洋◯」。次は「社」「なかの」「(Coc)aC(ola) や」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12085 目白通り 飯田橋駅付近

(3)おそらくカメラを(2)から下向きに変えただけでしょう。前からサインポール(理容所)。次の商店は「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛り小屋 庄や 飯田橋東(口)」、提灯「庄や」、サントリー、サントリービール、ダンボールの「ヘ」と「イ」「タマネギ」「ホクレン じやが」、スタンド看板の「清酒 ビール 田舎料理 磯料理 山筍珍味 やき鳥 各種揚物 なべ物 どぞう 庄や」。次の商店は「英仏会話 4階 外人教授」、テントの「カメラのミハル」「Kadak 写真の楽しさを売る ミハル商店」。公衆電話。「カラー 本日出来ます」。「シャンス」ではスキーも販売中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12086 目白通り 飯田橋駅付近

(4)右の道路側では「FLセンター 英仏会話 4階 TEL 262 5817」、ゴミ置き場にポリペールとダンボール「フリーア(ル)バム」「▲キ◯」(キュウリかキャベツ)、「FIRE HYDRANT 消火栓」と消火栓広告「ハツヤ 初谷歯科 この先イワタビル 4F TEL 262-8206」、「◯◯◯科」。
 左の商店側では「小屋 庄や 飯田橋東口店 236-5300」。サインポールと「いらっしゃいませ 只今営業中 美穂美容室」。Coca Colaの自動販売機。テントの店舗。「日刊工業新(聞)」「朝日新聞」「(日)刊スポーツ」。「KM 国際ハイヤー (飯)田橋 (営)業所 64 931」。「駒忠」。屋上に「用字便覧 小◯◯◯」。「自衛官募集中」。屋上に「◯ビル」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12087 目白通り 飯田橋駅付近

(5)左側では電柱看板「眼科保健取扱い 診療所 入口 ◯り二つ十字路先左側」「質 上値サービス 新宿区白銀町 神楽坂 フク◯」「日本労働党 政策演説会」「武見会長にもの申す 患者にも言わせてほしい 『医者にも言わせてほしい』に反論する。生天目昭一著 ¥880 泉文社」。右側の商店のテントでは「道しるべ」、スタンド看板の「Coca Cola 道しるべ coffee & snack」、窓におそらく「募集中」。 地下鉄入り口の付近では (最高速度30キロ)(区間内)(駐車禁止)(区間内)。入り口では「SUBWAY 地下鉄」「飯田橋駅」「飯田橋駅 東西線 有楽町線」。国鉄の飯田橋駅の向こうには「第一勧銀」「週刊現代」「東海銀行」「セントラル ファイナンス」。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12087 目白通り 飯田橋駅付近

(6)左から「琴古流尺八教授」。(指定方向外進行禁止)8−20。寿司正 準備中。突出し看板「きし」「めん」「尾張屋」、ファサード看板「 張屋」、のれん「尾張 きしめん」、はり紙「あ◯ と◯」「きしめん なべやき」、プラスチック製品の「準備中」、食品サンプル。隣の商店は「公衆電話」「たばこ」「新宿 中村屋」。消火栓。「新宿 中村屋」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12089 目白通り 飯田橋駅付近

(7)中央に飯田橋駅、高架橋、ガード下があり、左側から飯田橋交差点(五叉路、市ヶ谷と水道橋)の交通標識、交通信号機、 (交通標識 指定方向外進行禁止)、交通信号機、(自転車及び歩行者専用)が2個、交通信号機、(指定方向外進行禁止)、交通信号機、「中央線 飯田橋駅 JNR」、「大型最徐行 制限高4.0M」、交通信号機、(左・指定方向外進行禁止)、電話ボックス。国鉄飯田橋駅の向こうには「第一勧銀」「週刊現代」が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12090 目白通り 飯田橋駅付近

(8)右側からはり紙「紳士靴 主催 革◯」「靴の◯◯ 本日より 安い!」「◯◯◯◯◯◯◯◯ 本日より 安い!」。突出し看板の「マスミゴルフ」「コピー 飯田橋」「昭德工業」、スタンド看板「Canon NP コピーサービス」「ゴルフ マスミゴルフ」。テントの上に「フルーツパーラー」。突出し看板「◯ーンヒル 販売(株)」「高級 果実 罐詰 タキン果実店」。突出し看板「きそば」「新宿 中村屋」「めん・尾張屋」「寿司正」「(甲)玉堂」「田」「中華料理 新三陽」「珈琲館」。
 道路側には交通信号機(横型灯器)、交通信号機(歩行者灯器)、電柱看板の「質 中◯」、 「SU(B)WAY 地下鉄」。
 左側は「朝日新聞」「国際ハイヤー」「みど◯」「イワタビル」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12094 目白通り 飯田橋駅付近

(9)左側は「信販 飯田橋」「こう書房」、「飯田ビル」、「鉄(か銭)道不動産」「◯和商事」。(横断歩道)と(指定方向外進行禁止)が見えますが、あとは小さくて読めません。
 中央に地下鉄出入口と(指定方向外進行禁止)8−20。交通信号機(横型灯器)。(指定方向外進行禁止)8−20。(自転車及び歩行者専用)。「千代田区」も右に見えます。最後に交通信号機(横型灯器)。
 中央の商店では「(鯉)のぼり 特別奉仕価格提供中 ◯って売る店 林商店 263 1771」「ナイロン ◯リ印 鯉のぼり 発売中」「五月鯉のぼり たこ 林商店」。「道しるべ」「なかや食堂」「Coca Cola なかや食堂」「なかや食堂」「め◯ 店」「電話会話」「現代の理論社」「学生 サラリ ローン」「日動火災」「洋服 洋品 紳士物専門店」「KODAK film ミハル商会」「シャン(ス)」「スキー用品大バーゲン」「英仏会話」「遠心技研」「朝日新聞」「国際ハイヤー」「イワタ」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12095 目白通り 飯田橋駅付近

(10)ガード下の「飯田橋駅 IIDABASHI STATION」。アーチ状の駅入り口の下に「レストラン」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12098 飯田橋駅ガード下 駅案内板

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12074, 76-82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12074、76-82の8件は昭和54年3月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区で、地図では見えませんが、北西方面に行くと飯田橋駅東口が出てきます。

住宅地図。昭和55年

(1)左側から電柱広告の「飯田橋診療」、歩行者用信号機、3階以上のビルの入口の名前は不明、2階建ての商店には突出し看板「カルピス」「味の玉川」「杉山商店」「Coka Cola」、次の2階の家のシャッターは閉鎖中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12074 目白通り飯田橋付近

(2)左側から飯田橋書店、路地があり、奥に進むと「陣太鼓/名物そば・うどん」「営業中 安い」「名物」。突出し看板は「揚げ立て天ぷら 蕎麦・うどん 陣太鼓」、壁面看板の「スタンド そば・うどん 納豆みそ汁 とにかく安い! うまい! 早い! 揚げ立て天ぷら 陣太鼓」、正面は「揚げ立て天ぷらいろいろご座います」「天丼 コロッケ」「名物そば・うどん コロッケ」木に立てかけた「名物/天◯」。3軒目の二階は「東洋美術創作画廊」とクーラー、一階は「さぬき名物 手打うどん 三◯」「手打/うどん/三代」。突出し看板がありますが、中身は不明、一方、(直進以外進行禁止)は見えます。4番目の店は桶らしいものがあり、壁一面にガラスが張られ、商店の名前はやはり不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12076 目白通り飯田橋付近

(3)前から「◯ン洋菓子店」「初谷歯科/AM 9:30-PM1:00/PM 2:00-PM8:00/休日 日曜 木曜 祝祭日/土曜 午前中/健康保険取扱/時間予約制/TEL 262-8206」「BRO」「サッポロビール/若鳥料理/魚貝山菜珍味/酒蔵/駒忠」「自衛隊採用中/飯田橋募集案内」。トラックが走る道路と駐車場があり、次は「国際ハイヤー」「庄や」「英仏会話」「日動火災」「サラリ/ローン」。さらに国鉄の飯田橋駅(2階にホーム)を越えると、遠くに第一勧銀と東海銀行が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12077 目白通り飯田橋付近

(4)駒忠です。上から「階上 カウンター お座席 若鳥料理 魚貝山菜 珍味もの 灘の清酒 菊川 若(鳥料理) 魚貝山菜 処」「御奉仕一途 若鳥料理 魚貝山菜 珍味 お茶づけ おにぎり めし物 駒忠」「呼小と/心◯し/家◯ ◯笑/星の間」「大小御宴会 承ります」。道路には「自(衛隊)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12078 目白通り飯田橋付近 駒忠

(5)左側から「◯ビル」。「キリン生ビール」「やき鳥 割烹 宴会 ◯亭 清酒 大信州」「吉野家 牛丼 大小 肉皿 大小」「米乃油ビル」。空間(ガソリンスタンド)。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12079 目白通り飯田橋付近

(6)左側から「米乃油ビル」「P←」(駐車場)、ガソリンスタンド、大きな道路に接して「飯田橋スナック」「(Fa)ntaスナック」、2店の看板、「アサヒビール ◯山 瓢箪」「P」。電柱看板は「つけ麺 大王」「おにぎり パン 牛乳」。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12080 目白通り飯田橋付近

(7)左側には「届け用紙」「甲玉堂」「尺八」「澤之鶴 寿司正」「きしめん」交通標識「首都高速 飯田橋 北池袋 高島平 この先 150m」「中村屋」。離れて地下鉄。飯田橋交差点(五叉路)の交通標識。中央に「飯田橋駅」。右側には電柱広告「◯部歯科 895」「質 上値 サービス フクヤ」、店舗は「朝日新聞/日刊スポーツ」「日刊工業新聞」スタンド看板の「CocaCola」「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛の小屋 庄や 飯田橋東口店」「会話 外人教授 TEL 252 6817」「遠心技研株式会社」「Bar ◯◯」「スポーツ用品 シャンプ」「KODAK film ミハル商会」(ミハルビル)「サラリ 学生 ローン」「日動火災」「CocaCola なかや」「なかや食◯」「(セント)ラル ナン」。中央奥に「第一勧銀」「週刊現(代)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12081 目白通り飯田橋付近

参考。昭和45年。住宅地図。

(8)前から「(朝)日新聞/日刊スポーツ」「日刊工業新聞」。スタンド看板の「CocaCola」。サインポール。「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛の小屋 庄や 飯田橋東口店 263-5300」「英仏会話 外人教授 TEL 252 6817」「遠心技研株式会社」「Bar ◯◯」「スポーツ シャンプ」「KODAK film」「サラリ 学生 ローン」「日動火災」「CocaCola なかや」「なかや食◯」「セントラル ファイナン(ス)」。中央に「飯田橋駅」。中央奥に「東(海)銀行」「ハート(第一勧銀のロゴ)」「週刊(現代)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12082 目白通り飯田橋付近

神楽河岸(写真)加藤嶺夫氏 昭和46年

文学と神楽坂

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)から。加藤氏は1929年(昭和4年)東京都文京区に生まれて、出版社勤務のかたわら東京を散策し、新聞紙上にルポルタージュを執筆しました。2004年に他界。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 これと昭和46年と50年の地図を比較します。なお、目にみえるゴミは別項で。

全住宅案内地図帳(新宿区版)公共施設地図 1971年

S50(1975-01-19)揚場町-筑土八幡町(地理院地図)

  1. セントラルコーポラス(地上6階)
  2. 野崎栄義商店飯田橋寮
  3. 厚和寮(厚生年金病院職員寮)
  4. 津久戸小学校? または熊谷組本社ビル工事(津久戸町、昭和49年完成)
  5. 日本製乳株式会社
  6. 升本総本店
  7. 升本 倉庫
  8. 日本製乳株式会社 事務所
  9. 升本 事務所
  10. 升本 倉庫
  11. (不明)
  12. 京英自動車
  13. 土萬商店
  14. 土萬商店

 地元の人は……

1) 厚和寮の右、切妻屋根の上に見えているのが津久戸小の外壁と屋上フェンスでしょう。
2) 黒っぽいものは津久戸小より奥にあり、私には建築中のクレーンのように見えます。
3) 校倉づくりのような横縞は確かに厚和寮の一部ですね。そこに津久戸小の屋上構造物が重なって見えているようです。
(イ)厚和寮・手前側
(ロ)厚和寮・奥側(校倉づくりのような横縞)
(ハ)切妻屋根(升本)
(ニ)川島ガラス?
(ホ)津久戸小(右側が最高部)
(ヘ)建築中の熊谷組本社

厚和寮 奥の建物

目白通り(写真)飯田橋駅 昭和54年 ID 12019, 22

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12019と12020は昭和54年2月、目白通り周辺を撮影したものです。撮影位置は地下鉄東西線飯田橋駅の出口を地上に出た千代田区です。ID 12019の右端に、下駄履き住宅(現「飯田橋サンポーロハイツ」)が写っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12019 目白通り沿い飯田橋駅付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12022 目白通り沿い飯田橋駅付近

 目白通りの九段下方面を狙っていて、ID 12019では「山京ビル」が見えます。その奥、かすんでいる高い建物はホテルグランドパレスです。1972年開業、2021年6月営業終了、2023年現在は解体されています。
 山京ビルの手前は、片側3車線の広い道に面していながら2-3階の低い建物が目立ちます。現在は、多くが10階建てくらいのビルになっています。
 「山京ビル」は千代田区飯田橋1丁目7−9です。また、坂田一真堂は飯田橋3丁目4−3です。

千代田区飯田橋(昭和54年頃)
  1. (H)OT COFFEE/BRESSON/海外・国内旅行 新日本トラベル株式会社 春休は海外 ハワイ
  2. トヨタレンタ 案内所
  3. 北の春 おゝむら 酒亭
  4. (坂)田一真堂 ウイン
  5. 潮出版社
  1. 産図有料駐車場
  2. (自転車及び歩行者専用)(区間内)
  3. (左・指定方向外進行禁止)
  1. そば・天ぷら
  2. 山京ビル

飯田橋駅(写真)西口 ID 8267, 8269, 8270, 8286 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267と8269と8270と8286は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅西口周辺を撮影したものです。
 牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっています。ID 8269と8270の歩行者はコートやマフラー姿が目立ち、冬から早春にかけての時期と思われます。ID 8267と8286では建物の窓が何カ所も明いていて、小春日和だったかもれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8267 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8286 飯田橋駅舎から見た飯田橋、神楽河岸

 ID 8267と8286は飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。正面の橋は牛込橋で、写真説明にある「飯田橋」は写っていません。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物については……

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課
1 立喰そば? 2 二鶴?
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8269 飯田橋、飯田橋駅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8270 飯田橋、飯田橋駅

 ID 8269と8270は飯田橋駅西口前から神楽坂下に向け、早稲田通りの牛込橋などを撮ったものです。牛込橋は戦前に架けられたコンクリート橋で、路面は石畳でした。
 街灯は2種類あります。中央やや左の逆円錐形は千代田区のものでしょう。そのすぐ左は新宿区で、神楽坂と同じ大きな円盤形の街灯が2本あり「神楽坂通り」の表示もあります。右側は円盤型カバーが外れているようです。
 千代田区と新宿区の境界付近の電柱には街灯放送用の拡声器がついていて、「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 早稲田通り沿いの警視庁の建物は、牛込橋の土橋の崖下に建っています。建物の右奥には銀鈴会館の屋上広告、さらに揚場町のセントラルコーポラスが見えます。

全住宅案内地図帳 昭和44年 共施設地図株式会社

箪笥町(写真)明治神宮遷宮祭、昭和33年 ID 5367

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5367は昭和33年(1958)、明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり自動車パレードを撮影したものです。場所は箪笥町です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5367 明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり自動車パレード(北町現大久保通り)

 これはID 6338やID 6340と同一の明治神宮遷宮祭のパレードでしょうか。ID 5367は雨で路面が濡れている点が大きく違います。
「データベース 写真で見る新宿」は、同じ「明治神宮遷宮祭記念新宿区商業観光まつり」の写真を複数、公開しています。その中には「少女鼓笛隊」が晴天でパレードしているものもあります。(ID 70667069) 一方、花自動車パレードは写っていません。
 ウィキペディアによれば「10月31日夜、遷座の儀が行われ~14日まで都内各所で奉祝行事が行われた」とあり、このパレードはID 6338などと別の日だったかも知れません。
 遠くに東京厚生年金病院(現在はJCHO 東京新宿メディカルセンター)が見えます。屋上の丸い建物は展望室です。
 2〜3メートル先に、急に道路は下向きの坂になります。これは弁天坂です。
 パレードは神楽坂(現在は神楽坂上)交差点から大久保通りを通り、北町方向に向っています。ここでの先頭自動車はオープンカーでしたが、雨のため屋根をつけています。次の自動車は雨に降られても大丈夫、大きなアヒルの着ぐるみをきています。
 電柱は木製もコンクリート製もありそうで、左側は右側と比べて一般的には背は高く、柱上変圧器があります。横断幕は「安全速度」。路面電車の軌道があり、架線も多くなっています。右の建物などは……

  1. 看板「ベニヤ板・木曽檜・秋田杉・一般材・梚立請負/株式会社 大崎材木店販売所」
  2. トラック「株式会社 大崎材木店」
  3. 電柱広告「牛込犬猫病院」
  4. 看板「葬祭◯◯具一式御用達 ◯◯商店」「葬儀と花(輪)」

 昭和39年の住宅地図があります。大崎材木店はその時でも営業中です。現在は3階建ての「大崎ビル」になり、1階は「メゾンカイザー」です。
 葬祭店(地図の「大川」)は大川商店で、その後「神楽坂斎場」になりましたが2020年ごろ解体されました。

1964年 住宅地図

Google地図 現在(2023年4月)


南蔵院(写真)昭和44年頃か ID 14135-42

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14135からID 14142までの8枚は新宿区箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院を撮ったものです。これは「箪笥町(写真)南蔵院 昭和44年頃 ID 8294」として出た写真と似ていて、同じく冬期の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14136 南蔵院

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14137 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14138 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14139 南蔵院 狛犬

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14140 南蔵院 狛犬

 2023年現在の現在の南蔵院は下の写真のように左の本堂と右の大聖歓喜天堂が並んでいます。昭和44年には本堂はありませんでした。
 本堂や墓苑が奥まっていますが、手前の部分は大久保通りの拡幅で道路になる予定です。

南蔵院

 現在の南蔵院です。左の本堂と右の大聖歓喜天堂です。 本堂は昭和44年以降にできました。

本堂

 大聖歓喜天堂は昭和44年にあったものと全く同じです。歓喜天の梵名ぼんめいはナンデイケーシユヴァラといい、仏教の守護神でした。

大聖歓喜天堂

 狛犬は右と左で口の形が違っています。右の狛犬は口を開いての音声を、左の狛犬は口を閉じてうんの音声を出しています、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴します。
 大聖歓喜天堂の右、墓苑に向かう道には小屋があり、物置のように使われています。なお、手水鉢は神社の施設で、ここにはありません。

新宿生活館(写真)ID 13228~30 昭和47〜55年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13228~13230は、新宿生活館を撮ったものです。撮影時期は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13228 箪笥町 新宿生活館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13229 箪笥町 新宿生活館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13230 箪笥町 新宿生活館

 中央に見える建物は新宿生活館です。半地下だと考えるなら3階と屋上で、半地下でないとすると4階と屋上です。その手前に武田製作所と読めない「商会」。奥には日東書院があります。
 新宿区史年表では、昭和62(1987)年4月、新宿生活館を「新宿老人福祉センター」と改称しています。建物は同じですが「生活館」として記録されているので、この3枚は昭和62年より昔の写真です。
 住宅地図について、図書館では昭和50年から昭和59年まできちんと1年ごとにありますが、私のコピーは昭和50年、55年、57年の3年間だけです。昭和50年では新宿生活館のすぐ右に「幸家スポーツ」があります。55年では「喫茶 麻里」、57年には「古明地花代」に変わっています。また武田製作の左に昭和50年で「菊地電気商会」、昭和55年に「菊地電気」、57年に「つるや人形研究所」に変わっています。私は左は「菊地電気商会」、右は「幸家スポーツ」を取りたいと思います。したがって昭和55年以前です。

 「幸家スポーツ」は昭和49年には同じですが、昭和47年には「富沢」になりました。したがっておそらく昭和47年よりも新しいものだと思います。つまり昭和47年~昭和55年でしょう。

 街灯は2つあります。背の高いものと背の低いものです。前者は自動車に、後者は歩行者用でしょうか。

 

愛日小学校(写真)給食見学 昭和39年 ID 10794

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794は昭和39年、新宿区北町の愛日小学校の給食を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 10794 愛日小学校 給食見学

 黒板に「六月十九日」とあります。昭和39年6月19日は金曜日でした。父母の参観日の様子でしょう。教室の後ろの母親らは外出着で、就学前の子ども連れやおんぶ紐の姿もあります。暑い日らしくサッシ窓が開いています。
 黒板は低学年らしく平仮名ばかりです。生徒は木製の2人掛けの机で、横にランドセルを掛けています。
 机の数は前後6列、一番右は7列あります。左右は見切れている左側にもう1列ありそうです。4×6+1=25の机に2人ずつで、1学級50人です。
 文部省は50人だった義務教育の学級定員を昭和39年度から45人に引き下げました。ただ教室や教員が不足していて守られないケースもあったようです、
 給食は角形トレーに厚めの食パン。2枚もらっている男の子もいます。主菜と副菜の2品を先割れスプーンで食べています。小さめのお椀は脱脂粉乳と思われます。第2次大戦敗戦後の米国からの援助物資として始まり、地域によっては昭和40年代まで続きました。

愛日小学校の歴史では…

期間出来事
明治3年東京府第三校開設(愛日校の前身)
明治13年7月牛込区北町26番地に吉井学校と市ヶ谷学校の二校を合併、愛日校を創立。
昭和20年5月戦災で校舎全焼する。
昭和21年4月愛日国民学校は閉鎖し、児童は市谷、津久戸、牛込仲之小学校に移る。
昭和27年9月東京都新宿区立学校設置条例により、愛日小学校の設置が決まる。
昭和31年12月東京都新宿区北町26番地に、小学校として我が国最初の4階建て鉄筋コンクリート校舎建築に着手する。(第一期工事)
昭和32年3月東京都教育委員会より、東京都新宿区立愛日小学校設置が認可。
昭和32年4月学区域変更により、市谷、津久戸、牛込仲之小学校より、1年から5年まで786名を受け入れ、入学式を市谷小学校で行う。
昭和32年9月新校舎で第2学期始業式を行う。(第一期工事完成)

 昭和29年、学校給食法が制定されました。また農林水産省「ふるさと給食自慢」の献立例では、昭和39年、「揚げパン、ミルク(脱脂粉乳)、おでん」という献立が出ています。


箪笥町(写真)南蔵院 昭和44年頃 ID 8294

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294は南蔵院を撮ったものです。撮影は「昭和44年頃か」と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294 南蔵院

 石の門柱に小さく「南蔵院」の表札があります。その右に「大聖歓喜天」の石標、よく見ると左側にも同じくらいの高さの石標があります。現在は新しい門柱に代わっていますが、両脇の石標は残っています。
 本堂がやや奥まって建っているのは大久保通りの拡幅計画に備えたものです。本道の後ろのコンクリートの建物は前田建設牛込北町寮で、2016年頃までありました。
 歩道と車道との間には段差があります。昭和35年(1960年)のID 565とは違うのはガードレールができたことです。右側の電柱にはパチンコ「おおとり」と「旅荘駒」の広告があります。
 前の大久保通りには都電13系統の石畳の軌条があります。その脇の車道は、良く見るとピンコロ石で舗装してあります。この部分は「弁天坂」と呼ばれる坂なので、滑りにくくしたものでしょう。
 大久保通りの都電は昭和45年(1970)に廃止されました。
 南蔵院は真言宗豊山派の寺院で、長く読むと、天谷山竜福寺南蔵院です。住所は新宿区箪笥町42番地でした。元和元年(1615年)吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天2体を上宮・下宮として祀っていましたが、御用地となり、延宝9年(1681)上宮と共に当地へ移転し、南蔵院と改号しました。なお、もう一体の下宮は弁天町の宗参寺に祀られています。

新宿生活館(写真)昭和35〜38年 ID 5736

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5736は大久保通りと新宿生活館などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5736 箪笥町生活館(旧牛込区役所)付近(現大久保通り)

 撮影の年は不明ですが、いくつかの手がかりから推理します。
 大久保通りの中央には、石敷の都電13系統の軌条があります。13系統は昭和45年(1970)3月に廃止されます。
 左側の道路標識に「NO PARKING」などの英語表示があります。現在の文字のない標識は昭和39年(1969)の東京オリンピックを機に採用され、順次、変更が進みました。
 大久保通りの先に、昭和28年(1953)竣工の東京厚生年金病院の丸い塔屋がかすんで見えます。しかし、その右側に文英堂ビル(岩戸町)が見えません。大きな「B」の時が印象的な文英堂の旧東京支社ビルの竣工は昭和39年(1964)で、地下に郵便局が入っていました
 左手前の商店の並びは昭和35年(1960)の住宅地図とよく合致しています。また『新宿区15年のあゆみ』(昭和37年刊)の牛込生活館の写真は前面の歩道に街灯がなく、ID 5736はそれより新しい写真でしょう。昭和35〜38年頃ではないかと思います。
 写真中央のコンクリート3階建ての牛込生活館は旧・牛込区役所です。関東大震災の被災後、昭和3年に再建しました。第2次大戦でも焼け残り、昭和22年(1947)に新宿区が発足したときには区役所になりました。昭和25年(1950)年1月に区役所が歌舞伎町に移転し特別出張所に降格。さらに昭和26年5月に、東京都の「新宿生活館」として開館しました。新宿区史によれば新宿生活館は昭和40年(1965)4月に東京都から新宿区に移管されました。移管を前に撮影したのかもしれません。
 旧・四谷区役所もほぼ同時期に「文化会館」に改められました。廃止になった区役所を活用したものと思われます。
 ここの牛込生活館は戦前の区役所の1~2階部分に手を加えているようです。また3階のアーチ窓の高さに、戦前は時計のようなものが突き出していました。また、看板になっていて、無理をすれば「新宿生活館」と読めそうです。
 大久保通りの電柱は少なくても3種類あります。1番目は背が最も高い電柱でコンクリート製で配電線や柱上変圧器があります。2番目は木製で擬宝珠のような飾りがあり、これは路面電車の架線柱のようです。3番目は低く、おそらく鉄製です。左右の腕木の植えにボンボリ型2個の街灯があり、道路照明を兼ねていたようです。
 車道は舗装してあり、歩道との段差はありません。この様子は昭和20年代後半のID 9492や昭和35年(1960年)のID 565と似ています。通行人はコート姿で、街灯にはセールのような飾りがあります。年末の風景かもしれません。
 特記すべきは、複数の民家に汲み取りトイレ用の「臭突しゅうとつ」(煙突形の装置で悪臭を外に出す)があることです。この付近は戦災を免れており、戦前の建物が残っていた可能性もあります。

箪笥町生活館(旧牛込区役所)付近(現大久保通り)

箪笥町(昭和30年代)
  1. 街灯。駐車禁止の標識。
  2. (贈)答器・記念〇・一般家庭用品/◯漆器産地直売/漆工芸有限(会)社東京出張所都新宿区箪笥町2(2)番地/福島県会津郡
  3. 綜合保健剤/ビタホルン/〇〇元 亀井薬品株式会社
  4. 電柱広告「質は加藤質店」
  5. 宝◯ ネオンサイン(地図では「天ぷら宝来」)
  6. ショーケースのある店(地図では「堀田肉店」)
  7. 牛込◯◯(牛込印刷 路地をはさんで両側)
  8. 電柱広告「横井小児科」「松永質店」
  9. 文秀堂(電柱広告)三菱マーク(三菱鉛筆?)
  10. 店舗(地図では「東京新聞専売所」)
  11. つるや(電柱広告)(地図では「つるや人形研究所」)電柱広告「横井小児科」
  12. 新宿生活館
  13. (東)亜自動車
  1. 安くてきれいな/元祖 貸衣装/オーサトヤ/大里屋
  2. 山本貸衣装

住宅地図。昭和35年 人文社

住宅地図。昭和39年(1964年)箪笥町付近

住宅地図。昭和40年(1965年)箪笥町付近

牛込柳町(写真)昭和51年 ID 441

文学と神楽坂

全く場所はわかりませんでした。これは地元の方からです。

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441は、昭和51年(1976)6月、牛込柳町(市谷柳町)交差点付近の写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 441市谷柳町、箪笥町方向

 写真説明では「市谷柳町、箪笥町方向」とあり、交差点から東側の大久保通りの坂(焼餅坂)の上がりはじめであるようです。しかし当時の住宅地図と写っている店名が一致しません。
 一方、反対の西側の坂(若松町方向)の住宅地図には写真の店名があるので、説明の向きを間違えたものでしょう。

住宅地図。2013年7月牛込柳町付近(google)

住宅地図。1978年 牛込柳町付近

 街灯は2種類あるようです。1つ目は円盤形の大型蛍光灯で、首のところで大きく曲がり、その中に無名の名札らしきものがついています。2番目は高い電柱についた道路照明灯です。
 写真左側の白くて高いビルはマンション「シャトレブーケ」(1972年01月築)で、現在もあります。
 また写真中央の「カワ◯◯◯◯」は地図では「カワカミくつ店」で、2013年のストリートビューでは店名が確認できます。
 柳町交差点の地名は「市谷柳町」ですが、「牛込柳町」として親しまれてきました。かつての都電の停留所や、現在の都営地下鉄江大江戸線の駅名も「牛込柳町」です。
 空気が流れにくいスリバチ地形が原因の「排気ガス禍」で昭和45年、全国的に有名になりました。

 この写真は排ガス問題より少し後です。子どもの立つ左側の交通標識は読めませんが、おそらく交差点内に車が止まらないよう促す「ゴー・ストップ規制」でしょう。

牛込柳町(昭和51年)
  1. オリエント ROYAL CHALLENGER(洋服店)
  2. 鈴木商店 鈴木金物店
  3. カワ◯◯◯店(カワカミ靴店)DC
  4. 質 松永 松永◯◯ 松永質店
  5. 電柱。加藤産婦人科。笹川時計◯◯店
  6. 金子◯◯製作所 数軒おいて
  7. 白いマンション(シャトレブーケ)

日本新劇史

文学と神楽坂

 松本克平氏の「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から芸術倶楽部の誕生を見ていきます。新劇では一元論「金銭だけ」ではなく、二元論「研究所」も大事だとして、島村抱月は「芸術座研究所」、改名して「芸術倶楽部」を作りました。

 まず抱月が彼の牙城とたのんだ芸術倶楽部建築のいきさつ、、、、から紹介してゆきたい。
 大正4年10月号創刊の芸術座の機関誌「演劇」には、「芸術座の創立当時からの根本計画だつた芸術座研究所は今回愈々竣成を告げて名称も芸術倶楽部と改め8月20日芸術座全部移転した」という知らせと演劇学校開校の記事を掲げている。これまでの事務所は牛込区西五軒町34番地の貸席清風亭であった。
 すでにたびたび述べたように大正3年7月18日より24日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、50銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年10月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、4年2月4日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町9番地に敷地を改めて、7ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到つたのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい7000円と推定される)。抱月はこの倶楽部を文化人の憩いの場、会合の場にしようと夢みていた以外に、ここでやる研究劇に精魂を注ぎ、俳優の再教育を目ざして、須磨子中心のスターシステムに代るべき新しい俳優を育て上げる学校にしようと考えていたのであった。だが工事の挫折は予算の膨脹を招き、危機はさらに危機を生んで芸術座を窮地へ追い込んでいった。建物が完成した時、いちばん最初に訪れてきたのは恐ろしい債鬼であった。そしてこの債鬼に追い立てられて台湾へ、朝鮮、大連へ、さらに浅草常盤座へと矢つぎばやの活動を余儀なくされたのであった(中村吉蔵筆「芸術座の幕の閉るまで」より)。自分の小劇場を完成しながらそこで念願の研究劇をやる時間と経済の余裕を芸術座は当分の間持てなかったのである。
牙城 がじょう。「牙」は大将の旗。城内で大将のいる所。城の本丸。根拠地。ねじろ。
西五軒町34番地の貸席清風亭 西五軒町の北部は目白通り、首都高速と神田川に、東は新宿区東五軒町に、南は赤城元町に、西は水道町と築地町に接する。清風亭は北にあった。地図は

東京市及接続郡部地籍地図https://dl.ndl.go.jp/pid/966079/1/454

肴町停留場 現在は「牛込神楽坂駅前停留所」
9番地 9番地のほかに、8番地や10番地があります。詳細は別項で。
文化人の憩いの場 これはフランス語の客間(サロン)を意味するもので、貴族やブルジョアが日を定めて客間を開放し、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しむ場。
債鬼 さいき。借金や掛金をきびしく取り立てに来る人。借金とり。
浅草常盤座 ときわざ。明治17年、浅草公園六区で初の劇場として始まる。歌舞伎、新派劇、連鎖劇等を興行し、映画を上映した。ほかに大正6年「浅草オペラ」の発祥の場、昭和23年には「浅草ストリップ」の発祥の場である。1991年、閉鎖。
矢つぎばや 物事を続けざまに手ばやくすること。

 まことに超人的な巡業ぶりであった。
 まず大正4年早々信州をふり出しに、九州博多、長崎、鹿児島の旅に出た。その間工事は進められていた。8月20日、事務所移転の時ちょっと帰京して、8月24日には早くも出発、秋田、山形を巡り、そのまま北海道へ渡り函館、小樽、札幌、旭川を打って9月末一旦帰京、その月のうちに台湾へ渡っている。左に芸術座記録よりその長期興行を略記する。(略)
 まことに凄じい巡業である。留守中の工事は相馬御風、中村星湖、片上伸、石橋湛山、尾後家省一の諸氏が協力、学校と雑誌の方は中村吉蔵、田中介二が協力して意外に早く竣成開校の運びとなったのであった(上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件は、九州巡業中のことであることはすでに述べた)。
 新劇の堕落、新派以下の新劇と小山内たちから罵倒されながら、抱月は建築費のためにこうして苦闘していたのであった。
 泥まみれのこの頃の抱月について水守亀之助は「読むことも書くことも止めてしまつたといふ荒廃時代」と言っている(『わが文壇紀行』より)。抱月には寸暇もなかったのである。後世に金玉の文字を残すことを念願としている個人芸術家の眼には、集団のために自分を拠げ出している演劇人の自己犠牲は、荒廃としか映じなかったのである。そしてただ「実行の人」として、その文才を惜しまれただけで、その行動の底に燃えていた夢と理想は演劇人にも文壇人にも理解されなかったのである。作家と演劇人の世界の隔り、批評と行動の溝は、全然食い違っていたのであった。この乖離は昭和の現在にまで尾をひいている。

上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件 「日本新劇史」によれば…
 当時九州を巡業していた上山草人は鹿児島で須磨子の『復活』大当りの評判をきいたのであった。そして土地の記者団や興行師から懇望され、ついに千秋楽の夜は一夜稽古の「そのカチューシャを演出しなければならなかった」と言っている。以後、草人は朝鮮、支那、満州、台湾にかけて十六ヵ所で、山川浦路のカチューシャでこの『復活』を売り物にして巡業したのであった。やるに到ったその言いわけがまた振っている。「砂糖入りのロシヤパンが流行るのなら普通のパン屋でも精々甘い所を焼出さなければなるまい」
「これでは芸術座が渡鮮する時の利害に対する影響は頗る重大です」として抱月も鈴木弁護士に依頼して上山草人を相手取って興行権侵害の告訴をおこした。早稲田の師弟はこうして法廷で相見えることになったのである。
 草人は大陸巡業の帰り、四国の宇和島に来てはじめて自分が抱月に訴えられていることを大阪朝日新聞の特派員から知らされた。草人はこの事件を義侠的に引き受げてくれた鈴木弁護士の一団に一任した。その後さまざまな曲折を見せたが、結局、裁判長がものわかりのいい人で、法廷から抱月と草人を会議室に呼び入れ、法服をぬいでから、「貴君方は社会の先覚者でいらっしゃるのだから、こんな感情問題はさらりと水にお流しになったらいいでしょう」(草人著『煉獄』より)と物柔らかに和解を勧めたので至極簡単にけりがついた。つまり示談になったのだった。原作がトルストイで、脚色がアンリ・バタイユで、それを抱月が翻案したのでは著作権、上演権問題は曖昧になってくる。だが作曲の著作権があるので、中山晋平も原告の仲間に加えられ、新聞のはやし立てるなかで、審理がつづけられた結果、唄の著作権だけは侵害の事実が明白となった。晋平はこの事件の結末についてこう書いている。判決言渡しの直前、裁判長が法服をぬぎ捨てて、島村、上山の原被告に面接、「文化人同志の間で余り黒白を明白にすることも望むところではあるまいから、近代劇協会は今後この唄を使わぬということを条件に和解してはどうか」と勧告、両氏とも異議なくこれを諒として、告訴はとり下げられ、新聞は両氏の笑って握手している写真を掲げて社会面を賑わしたと。

小山内 小山内薫、おさないかおる。明治、大正で劇作家、演出家、小説家。東京帝国大学を卒業し、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。松竹撮影所長から、大正13年、土方与志らとともに築地小劇場を設立。生年は明治14年7月26日、没年は昭和3年12月25日。享年は48歳。

 写真は芸術倶楽部の全景。二階正面の三つの窓の上に横に並んだ五つの○の中には、右から芸術倶楽部という浮彫りの字が一つずつはめこまれている。その上の大型の○の中には芸術座のマークである仮面(マスク)の浮彫りがはめこまれている。一階正面中央の窓の左側が事務所と応接室であったという。

芸術倶楽部の全景。松本克平「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から

 二階正面の突き出た窓の処は個室(二室とも三室ともいう)であり、個室の裏側は二階廊下を隔てて二階の客席があったという。二階の個室は脚本の読み合わせや、外部の人々の小集会にも貸したという。空いている時は劇団員の寝泊りにも使っていた。
 一階正面左手の黒い処は玄関であり試演場への入口であった。客席の両脇と後方は廊下であり、通路であった。入口のさらに左の突出た横板の一階建の部屋らしいものは手洗所であり、その奥は台所になっていた。座員は手洗所の外側を廻って台所の脇の内玄関から稽古場その他へ(下手廊下奥)出入りしていた。(次頁は筆者の想像による見取図)

芸術倶楽部

若宮町(写真)令和4年、ID 17060~62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060~17062は、令和4年(2023)3月、若宮町から善国寺方面を望む写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17061 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17062 若宮町から善国寺方面を望む

 この道は「毘沙門横丁」と呼ばれ、ほぼ同じアングルの写真が過去にもあります。左側は料亭「松ヶ枝」のあった場所でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む。平成31年

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

昭和30年代の料亭「松ヶ枝」資料提供:新宿歴史博物館(上村敏彦「東京花街・粋な街」街と暮らし社、2008年)

 松ヶ枝の創業は明治38年。廃業は不明ですが、牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第8号(1996)では

松ヶ枝は、K興業の手に渡りしばらく営業していたが、オーナーの死後、取り壊され、周囲をコンクリートで固めた駐車場となったまま今日に至っている。
K興業 国際興業です。
オーナー 小佐野賢治氏です。死亡は1986年(昭和61年)10月27日。
駐車場 平成2年(1990)には住宅地図では松ヶ枝はありますが、確かに1995年には駐車場に。クレアシティ神楽坂若宮町は2002年10月に完成。

 オーナーの死後、直ちに取り壊されたとすると、松ヶ枝は昭和62年頃に廃業し、一方、住宅地図を信用すると、廃業は平成2年以降ですが、住宅地図の印刷は数年間遅れるのが普通です。「ここは牛込、神楽坂」も平松南氏の「神楽坂まちの手帖」(けやき舎)も廃業は何年なのかを書いていません。

若宮町(令和4年)
  1. クレアシティ神楽坂若宮町
  1. (神楽坂もりのいえ)
  2. 果房 メロンとロマン
  3. (かぐらビル)
  4. サンライズ神楽坂と自動販売機
  5. 神楽坂 たれ焼肉のんき

地蔵坂(写真)藁店 ID 7804-7806, 14104、昭和41年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804-7806とID 14104は地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。時期は「昭和41年頃か?」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804 袋町 地蔵坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7805 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7806 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14104 袋町 地蔵坂入口の建物

 西側の電柱はすべてコンクリート製で細い柱上変圧器がありますが、東側には木製のものもありました。車道は滑り止めのオーリングを使い、下水は道路の側溝を流れています。
 これは昭和41年(1966年)でしょうか? 「旅館 竹兆」は住宅地図の昭和47年(1972年)にはなく、昭和48年(1973年)では出てきます。昭和39年までには「松竹荘」は一軒だけですが、昭和40年から47年までは「田中医院」と一緒に出てきて、昭和48年には再び1軒だけの「松竹荘」として登場しますが、「歯科 佐々木」と一緒に出るのは全くありません。「あかつき」は昭和49年に始めて出てきて、田口重久氏の写真でも昭和49年に出てきます。つまり昭和49年が正しいとこになります。
 これでよければいいのですが、まだ出ていない建物も考えます。地蔵坂と神楽坂通りを結ぶ場所にある武田芳進堂(現・八潮第二ビル)と中河電気(現・八潮ビル)です。武田芳進堂は昭和46年9月に、中河電気は昭和43年9月に大きなビルが完成しています。どちらも5階建てなので、見えるはずですが、ありません。ビルは完成するのに1年ぐらいかかるので、昭和42年以前にこの写真4枚が撮られたものでしょう。
 住宅地図についてはただただ印刷が遅すぎたようです。

地蔵坂(昭和41年頃)
正面突き当たりに相馬屋文具店
  1. 道路標識。指定方向外進行禁止。 (逆転式一方通行を示す標識)
  2. 日本盛。〇◯ あかつき
  3. 電柱看板「すき焼 恵比寿 ココ」
  4. シャッターの降りた店(地図では八百屋)
  5. 家屋2軒
  6. 電柱看板「理髪 モリワキ ここ 」「斉藤医院」
  7. 松竹荘「歯科 佐々木」広報板
  8. 家屋1軒。「車庫につき 駐車お断り」
  9. 旅館 竹(兆)
  10. 電柱看板「質 は 上値 サ〇〇〇 のフクヤ袋町 4」「日本出版クラブ」
  11. 電柱看板「質 大久保」「日本出版クラブ」
  12. 道路標識。8-20。(駐車禁止)(区間内)
  1. 電柱看板「加藤産婦人科」
  2. BAR Hayama ニッカバー
  3. (川島)病院


松井須磨子の臨終|飯塚友一郎

文学と神楽坂

飯塚友一郎 飯塚友一郎氏は『随筆 腰越こしごえ帖』(書物展望社、昭和12年)で松井須磨子氏の自殺について書いています。飯塚友一郎氏は横寺町の飯塚酒場の子供で、演劇研究家。東京帝国大学法学部卒業後、10年間弁護士を開業し、同時に歌舞伎を研究。大正15年『歌舞伎細見さいけん』にまとめ、昭和7年に日本大学芸術学部教授。生年は明治27年11月11日、没年は昭和58年4月21日。享年は88歳。

     松井須磨子の臨終

 容易に段落のつかぬ仕事を持つ身には、暮も正月も、氣ぜはしく、あわたゞしく過ぎて今日はもう一月五日だ。さうだ、一月五日といへば松井須磨子の命日ではないか。忘れもせぬ大正八年の今日があの日だつた。

 私は、須磨子の生前中に別段の私交があつたわけでもなく、又、あんまり物覺のいゝ方でも決してないのに、何故、この日が記憶に殘つてゐるかといふと、不思議な因緣で彼女の臨終の物音を、恐らく誰よりも一番近く耳に聞いたからだ。臨終の物音といふのは、をかしな言ひ方だが、御承知の通り彼女は藝術倶樂部の一番奥まつた物置で、テーブルと椅子を踏臺にして、梁へ紐をかけて、その踏臺を足蹴りにして縊死をとげた、そのガターンといふ物音だつた。
 その頃、私は牛込横寺町の藝術倶樂部と、すぐ隣接した宅から大學に通つてゐた。殊に私の起居する奥の離れ座敷は、建仁寺垣をへだてて藝術倶樂部の建物とは三四間しか離れてゐない。その窓から、島村抱月の靜かに淋しい顏がのぞかれたり、須磨子の喚聲叫聲が洩れたりしてゐた。
 須磨子は、よく近所へ買物などに出かける時、櫛巻に白粉氣もなく洗ひざらしの浴衣か何かで、極く世帶じみた風をしてゐた。當時豪勢な帝劇女優などゝ比べて、凡そ女優らしくない、長屋のおかみさんか女工の樣だと、近所の者は陰口をきいてゐた。それに誰いふとなく須磨子は横暴で、抱月先生はじめ一座の男優までも尻に敷くといふ噂も立つて、近隣の評制はあまり芳しくなかつた。
気ぜわしい 気忙しい。あれこれと気持ちがせかれて、落ち着いていられない。
建仁寺垣 竹垣の一種。京都の建仁寺で初めて用いた。竹を敷き詰めて、縦に密に並べる。

櫛巻 くしまき。女性の髪の結い方。髪をくしに巻きつけてまげとした手軽な結い方

櫛巻 コトバンク

 ところが前年、大正七年十一月に急に抱月を失ふと、須磨子の愁嘆は實に人の見る目にも氣の毒で、さすがに世間の同情は翕然として、この孤獨の女王に集まつた。藝術座の正月興行は有樂座メリメエの「カルメン」だつた。いつも新劇などは振向きもしない家人が、珍らしく有樂座の須磨子を見ようと言ひだしたのは、恐らく須磨子その人の悲劇に關心をもつたに違ひなかつた。私共が三日に見物した有樂座の「カルメン」は、新劇には珍らしく興行價値百點の大入だつた。「煙よ煙、一切合切みな煙」と空うそぶくカルメンの頬に、ほんとうの涙が光つてゐるように、見物には見えるのだつた。
 それから、中一日置いて五日の未明、私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段氣にも止めず、叉、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞ん込でくる。
「物置で椅子卓子踏臺にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した。後で聞くと、藝術倶樂部の人々はみんな、ずつと離れた表の方に寢てゐにので、誰も奥の物置の物音などには氣がつかず、夜が明けてから、たしか小使が、何かの拍子に圖らずも、死骸を發見したのだといふ。して見ると、やはり私が一番、彼女の死の床の近くに寢てゐわけになるのかしら。
翕然 きゅうぜん。多くのものが一つに集まり合うさま
有楽座 高等演芸場として東京の有楽町に建てられた日本最初の洋式劇場。 1908年11月1日開場。定員は桟敷を含めて900人。従来の平土間ではなく椅子指定席。食堂と休憩室も設置。
メリメエ Prosper Mérimée。プロスペル・メリメ。フランスの作家。代表作は中編小説の「カルメン」(1845)
カルメン スペインを舞台にしてロマの女カルメンと竜騎兵ドン・ホセの恋愛悲劇
新劇 旧劇(歌舞伎)に対する明治以降に興った近代演劇,戯曲(ドラマ)が土台になる
卓子 たくし。つくえ。食卓。テーブル。
踏臺 実際に縊死した時の踏み台が出ています。https://dl.ndl.go.jp/pid/966251/1/24

 も一つ奇しき因緣は、その須磨子の遺言狀が届けられて、それを最初に手に握つたのがまだ娘時代の今の私の妻であつた。須磨子はその前夜、お詑と後事を托した遺言狀を認めて、それを翌早朝、牛込余丁町坪内家へ届けるように甥に當る青年に命じた。その青年も知らずにその書面を余丁町へ持參したが、妻の記憶によると、たしか起きぬけに玄關で受取つたといふから、朝七時頃でもあつたらうか。その頃は誰も、何も知らなかつたらしい。その時恰も兩親は熱海の別宅へ滯在中だつた。妻は、その受取つた書面を何の氣なしに懷にはさんで、朝の用事などを片づけてゐると、それから一時間餘も經つた頃、新聞記者が、どやどやと押かけてきた。はじめてそれが、たつた今しがた自殺した人の遺言狀と知つて、妻はぞつとしたといふ。
 薄氣味わるく懷中から摘み出たした遺言狀を、新聞記者はどうしても見せろといふ。いえ宛名人が留守だから、御見せできません。それならば表書きだけでも、といつたやうな押問答が繰返されたが、そうと知つては、早速熱海へ届けなければと、人を派したのであつた。

 私は、その年の夏に大學を卒業した。そしてその翌年、緣あつて結婚したのが、この遺言状を何の氣なしに手にした今の妻である。何の氣なしに臨終の物音を最初に耳にした男と、何の氣なしに遺言狀を最初に手にした女とが、こうして一緒になつてゐるのも、不思議な因緣「である。(昭和十二年一月)
表書き おもてがき。手紙や文書などを包む用紙(封筒など)の、表面に書く文字。
因緣 前世から定まった運命。宿命。以前からの関係。ゆかり。

矢来能楽堂(写真)昭和47年 ID 12155、令和4年 ID 17578, 17579

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155、17578、17579は矢来能楽堂を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12155 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17578 矢来能楽堂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17579 矢来能楽堂

 最初の写真の撮影は昭和47(1972)年9月、残りの2枚は令和4(2022)年10月で、時間差50年があります。「データベース 写真で見る新宿」には、さらに古い昭和27年のID 9842もあります。何回か化粧直しをしているようですが、建物は同じです。
 公益社団法人観世九皐会所有の能楽堂で、明治41(1908)年、神田西小川町に舞台を設けるも、関東大震災で焼失。昭和5(1930)年、矢来町の現在地で復興、昭和20(1945)年5月24日、空襲でまた焼失。戦後の昭和27(1952)年、現在の舞台を完成。平成23(2011)年、国の登録有形文化財に登録。

 矢来能楽堂は、能・狂言の公演・稽古に使用し、観世九皐会の主催公演や、所属能楽師の公演が主体で、ほかに矢来能楽堂での小学校修学旅行や狂言体験教室、中学校の能楽体験講座、大学講堂での能狂言観賞会開催、官公庁招聘の能楽ワークショップ、建築物の国際学会イベントで能楽堂見学会など。
 客席総数は座敷席を含んで237席。地階に喫茶室があります(360°バーチャルギャラリー)。

矢来能楽堂

新潮社(写真)昭和44年 ID 8282

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282は、昭和44年(1969)頃、矢来町の新潮社の前から北に向かって写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8282 矢 来町 新潮社

 右の社屋が新潮社本館です。この社屋は昭和41年8月に落成しました(佐藤俊夫「新潮社七十年」新潮社)。右側の街灯は左側の背の高い街灯と違って、私設灯(軒灯)でしょう。
 ID 114(昭和45年3月)よりも少し前の写真です。すでに新潮社の2棟の社屋の間にあった石造旧社屋はなくなっています。一方、石造本社が残っているID 121 新潮社前(昭和56年)とは矛盾しますが、ID 121の撮影時期が間違っています。
 右の歩道と車道の間には側溝がありますが、縁石は低く段差がほとんどないように見えます。
 後ろ姿の女性の右の郵便ポストは新潮社の敷地(植え込み)内にありますが、私設ポストではなく、郵便局の管理だと思われます。おそらく新潮社から場所を借りているものでしょう。
 左側のトラックの側面には「株式会社三原製本所」の文字が見えます。運転台と荷台の隙間から道路標識「車両進入禁止」が見え、その下にある横書きの銘板は「新潮社〇〇部」でしょうか。地図によれば車庫になっています。
 道沿いの店の看板は「理容後藤」、前の電柱の縞模様も「後藤理髪店」でしょう。地図では「ゴトウパーマ」です。
 電柱の上にの突き出し広告は「大日本印刷」と読めます。出版・印刷の町らしい1枚です。

住宅地図。1970年

矢来町(写真)明治末期 赤城神社の山車 ID 156

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156は、明治末期、矢来町派出所付近で赤城神社祭礼の山車だしを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 156 赤城神社祭礼山車、矢来町派出所付近

 写真説明の矢来町派出所は現在、牛込警察署矢来町地域安全センターといい、下図の✕印です。1世紀を経た現在も、牛込天神町交差点の同じ場所に交番があります。
 広場のような場所で、道は左奥に向かって下っています。山車を曳く人が右に並んでいるので、坂を上る途中でしょう。
 路面は舗装されていないだけでなく、大きくうねっている部分があります。
 人々の服装は長袖や薄手の着物で、おそらく秋祭りです。赤城神社の祭礼は現在でも9月です。雨模様らしく、傘を差している人が目立ちます。
 周囲は店舗が並んでいるようてすが、左の「理髪舗」以外は読めません。
 山車を見ている人は沢山いて、人力車も出ています。多くは和服を着ていますが、左側の白い洋服を着た人は帽子をかぶり、ニッカボッカーらしいズボンをはいています。
 以下は全くの想像ですが、中央の立派な石造りの建物は「田中銀行牛込支店」ではないでしょうか。右にカーブする道は人力車も走れる程度に平らです。三角形の道の中央部(薄水色)に盛り上がりがあることも理解できます。この盛り上がりを避けつつ、山車が神楽坂方の赤城神社に戻ってくる様子ではないかと思います。

東京市及接続郡部地籍地図-天神町交差点付近

矢来町交番と天神町交差点 Google