大田南畝は、天明期を代表する文人・狂歌師、御家人です。生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。通称は直次郎、後に七左衛門に改名しています。では、どこに住んでいたのか。はい。中町です。しかし、北町だと間違えて答えにするものもまだあるのです。
たとえば2006年の『東京10000歩ウォーキング 神楽坂』では
大田南畝の住居跡
新宿区北町41番地
と書いてあります。当然インターネットでもそういう答えもまだ出てくるのです。たとえば『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の45頁です。北町と書いています。しかし正しいのは中町なのです。
鈴木貞夫氏が書いた『大田南畝の牛込中御徒町住所考』を読めば簡単に答えが出てくるのですが、問題はこの本です。見ただけでわかる自費出版のこの本は、新宿区立中町図書館にしかありません。国会図書館ではなく、東京都図書館でもなく、新宿区の他の図書館でもありません。しかも1冊だけ。これがなくなるとどうしようかと、心配です。
では『大田南畝の牛込中御徒町住所考』を読んでみましょう。
はじめに 従来、大田南畝の牛込御徒町の屋敷は、北御徒町とか中御徒町といわれ、諸説があって確定的ではない。 北御徒町とする説は『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」に書かれている。 一方、南畝研究者の間では、中御徒町の通り北側の東端あたりが定説となっており、中には中御徒町内のごく近い場所に転居をしているという説もある。 |
では『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」を読んでみると
これから北町になったのですね。『大田南畝の牛込中御徒町住所考』では
(「蜀山人の故宅」では)北町四十一番地を南畝の旧居跡としている。筆者の山下重民は四谷に在住した人であり、同じ四谷の荒木町に住む南岳から話を聞いたものと思われる。ちなみに、南岳は名を亨、南畝から五代下る大田家の当主、金森南塘門下の画家として名をなし、大正六年七月十三日に四十五歳で亡くなっている。 |
つまり北町41番地は聞き語り、口承なのです。正しい住所は『大田南畝の牛込中御徒町住所考』によると
南畝は享和三年(1803年)の由緒書の中で、住居を「牛込中御徒町」と書いているので、中御徒町に屋敷のあったことは確実であるが、以前に他の御徒組(例えば、北御徒町の西丸御徒二番組)から移ったとも考えられるので由緒書の祖父あたりから頭の系列(番組)を検討してみよう。 1.由緒書 高百俵五人扶持 本国生国共武蔵 内 七拾俵五人扶持本高 三拾俵御足高 支配勘定 大 田 直 次 郎 当亥五十五歳 拝領屋敷無御座候 当時牛込中御徒町 稲葉主税御徒組東左一郎地内借地仕罷在候 (省略) 2.(省略) 3.その他 『一話一言』の「車留の札」に、 「予がすむ所は、牛込中御徒町なりしかば……」(『全集』一三ー四七六) とある。 |
つまり、大田南畝氏は牛込中御徒町(現在は中町)に住んでいました。
では住所は? 永井荷風の大正14年5月の『断腸亭日乗』によれば
五月廿二日。午後牛込仲町辺を歩む。大田南畝が旧居の光景を想像せむとてなり。南畝が家は仲御徒町にて東南は道路、北鄰は北町なりしとの事より推察するに、現時仲町と袋町との角に巡査派出所の立てるあたりなるべし。 |
袋町派出所は昭和5年の地図『牛込区全図』(上図)では▼と書いてあります。牛込警察署が描いた「牛込警察署の歩み」(1976年)の付図「牛込神楽坂警察署管内全図」(原図は昭和7年)では、土井邸にかかるように建っていたようです。
さらに新宿区立新宿歴史博物館の『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』では表としてはっきり書いています。
No | 名称 | 種別 | 坪数 | 住所 | 現在地 | 期間 | 備考 |
① | 息偃館 | 借地 | 200坪 | 牛込中御徒町 | 新宿区中町37・38 | 寛延2年(1749)~? | |
② | 借地 | 210坪 | 牛込中御徒町 | 新宿区中町36 | ?~文化元年(1804) | 書斎「巴人亭」 | |
③ | 遷喬楼 | 買得 | 93坪 | 小日向金剛寺坂上 | 文京区春日2-16 | 文化元年(1804) ~同6年(1809) |
年賦で購入。 2階建て。 |
④ | 拝領 | 139坪余 | 牛込若松町 | 新宿区大久保 | 文化6年(1809) ~同9年(1812) |
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⑤ | 緇林楼 | 拝領 | 150坪余 | 駿河台淡路坂上 | 千代田区神田駿河台4-6 | 文化9年(1812)~ 文政6年(1823) |
大久保と交換 |