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揚場町|町方書上と御府内備考

文学と神楽坂

揚場町・現代

揚場町・現代

 揚場あげばちょうは新宿区北東部にある町名で、飯田濠に面した荷揚げ場があったので、この名前になりました。
 文政9年(1826年)の「町方書上」の揚場町です。「相」という言葉が出てきますが、「相成る」「相変わらず」と同じで、意味は「語勢や語調を整える。意味を強める」ものです。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。非売品。新宿区立図書館。

牛込揚場町
一 御城之方り、弐拾七町
一 町方起立之年代、草分人之名書留無御座分り不申候得共、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、年月不知武家方御屋鋪相成、其後追々拝領町屋相渡、神田川附而山之手諸色運送之揚場相成候付、町名揚場町相唱申候
[現代語訳]牛込揚場町
一 江戸城からは北西の方角で、およそ3kmぐらい
一 町成立の年代や成立時の人々の名前は書きとめはなく、不明ですが、昔は武蔵国豊島郡野方領牛込村の中にありました。年月はわかりませんが、初めに武家方の御屋敷がでてきて、その後、だんだんと拝領町屋もでできました。神田川の側であり、山の手で種々の品物を運送するのが揚場になりました。町名も揚場町といいます。

書上 かきあげ。特定の事項を調査して、下位から上位の者や機関に上申すること。その文書。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)
 い。北西よりやや北寄り。北西微北。北から東回りで330°
 新字体は「当」
 おおよそ。ほぼ。大体。
弐拾七町 27町。約3km。
起立 きりつ。都市などを建設すること
草分人 くさわけにん。草分は、江戸時代、荒れ地を開拓して新しく町村を設立すること。従事した者や設立当時からの住民を草分町人や草分百姓という。
書留 書き終える。書きとめる。
無御座 ござなく。ありません。ございません。「無し」の尊敬語、丁寧語。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。意味を強める。
不申候 〜と言いませんでした。
候得共 そうらへども。ではありますが
武州 武蔵国の別称。
豊島郡 武蔵国と東京府にあった郡。概ね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、練馬区の区域
野方領 地名に武蔵野のように野がつくところが多く、まとめて野方と読んでいた。豊島郡のうち牛込村から吉祥寺村までの広範な部分。
屋鋪 やしき。屋敷。
追々 おいおい。これから徐々に。時間が経つにつれて。だんだんと。
諸色 諸式。いろいろな品物。いろいろな品物の値段。物価。
 しこうして。しかして。そして。順接を表す語。しかも。しかるに。それでも。逆接を表す語。

 次は文政12年(1829年)の「御府内備考」の揚場町です。ほとんど同一なので、訳はしません。

揚場町

(左図)御府内備考。第53~55巻。牛込1~3。揚場町。(右図)大日本地誌大系。第3巻。御府内備考巻54。どちらも国会図書館。

一 町方起立の年代草分人の名書留等無御座相分不申候得共往古武州富島郡野方領牛込村の内に有之候處年月不知武家方御屋鋪に相成共後追々拝領町屋に相渡神田川附に而山の手諸色運送の揚場に相成候に付町名揚場町と相唱申候

牛込揚場町|東京名所図会

 牛込揚場町では「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)でこう書いていました。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
牛込揚場町は。東の方神樂河岸に面し。西方は津久戸前町に接し。南は神樂町一二丁目にし。北は下宮比町に鄰せり。地號は一番地より二十番地に至る
     ◎町名の起原幷に沿革
牛込揚場町は。神田川の船寄にして。此河岸より運送し來れる貨物を陸揚するを以て此名あり。明治以前は其の町域僅かに東面の一帶なりしが。明治の初年平岩小之助其の他諸士の邸地を併合して。之を擴張せり。
     ◎景 況
此地の東は河岸通りなれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には。油問屋の小野田。三番地には東京火災保險株式會社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を擬したるものにて。稻荷社なども見ゆ。
大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製

大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製。柏書房。1989年。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
 牛込揚場町の東は神楽河岸に面し、西は津久戸前町に接し、南は神楽町1~2丁目の区画で、北は下宮比町に隣り合う。地番は一番地から20番地まで。
     ◎町名の起原と沿革
 牛込揚場町は、神田川の船を寄せる場所であり、この河岸まで運送されて来た貨物を陸揚する。この町名もこれにちなんでいる。明治以前、この町はわずかに東の一帯だったが、明治の初年に、平岩小之助や他の諸士の邸地を併合して、これを拡張させた。
     ◎景 況
 この地の東は河岸通りなので、茗荷屋や丸屋などいう船宿がある。一番地には油問屋の小野田、三番地には東京火災保険株式会社の支店、四番地には酒問屋の升本喜兵衛、九番地には石けん製造業の安永鉄造、20番地には高陽館という旅人宿がある。このうち、升本家は最も盛大で、その本宅も同町にあり、庭園なども意匠をこらしたものだ。稲荷神社も見える。
揚場町。江戸時代。安政3年

江戸時代の揚場町。安政3年。「江戸・明治・現代重ね地図」から。2007年。

 かい。空間を分けた区切り。物事のさかい目。範囲を区切った特定の場所。
地号 地番。土地の区画に付けた番号
 りん。隣の異体字。となり。となりあう。
幷に ならびに。並に。并に。前の事柄と後の事柄とが並列の関係にあることを示す。また。および。
船寄 ふなよせ。船を寄せること。その場所
平岩小之助 新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(2007年)の「江戸・明治・現代重ね地図」の江戸地図(安政3年、1856年)では、揚場町13に平岩七之助が出てきます。これでしょうか。
景況 けいきょう。経済上の景気の状態。
船宿 江戸時代~明治初期、港町におかれた入港船舶の乗組員のための宿屋。
而して しこうして。そうして。
意匠 美術・工芸・工業製品などで、その形・色・模様・配置などについて加える装飾上の工夫。趣向。デザイン。
稻荷社 稲荷神社。稲荷神を祀る神社。ここでは最上の大正元年の地図で、揚場町12-2にあった神社でしょうか。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考3|揚場町

文学と神楽坂

 磯部鎮雄氏が描いた『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』のうち「揚場町」について書いています。実は揚場町の歴史は華美であり、江戸時代は、昭和時代の濁水ではなく、本当に綺麗な水が流れ、荷揚げの人足で混雑したようです。

揚場町

揚場町(Google)

揚場町(あげばちょう) 牛込御門下まで船入にしてここを荷揚場にしたことは、今でもある通り、ここに市ヶ谷方面の濠から落下する水の堰が設けてあって、どうしても船はここまでしか入れないからである(元牛込警察署の裏)。であるからここを揚場といい、市ヶ谷尾州邸(その他旗本や町方の物資もあったが)の荷揚場とした。揚場町の名の起りとするところである。
 “備考”にも、町方起立相分らず、昔から武州豊島郡野方領牛込村の内にして武家屋敷や町方発達し、神田川の川尻にて山の手の諸色運送の揚場となり、したがって揚場町の名が生じた、といっている。そこで荷物揚場の軽子が町の中央を貫く坂は神楽坂ほど急坂でないので、主にここを利用したので軽子坂の名が付けられた。(軽子とは篭に物を入れたり、馬を駆って荷物を運搬する者をいう)
 坂は登りおよそ半丁程で幅は3間ばかり、抜け切ると津久戸前へ出る。当時の物揚場は二ヶ所に分れていて、河岸の南の方は間口9間5尺奥行12間、北の方は間口17間奥行12間あった。普段は荷物揚場として用いられたが、将軍家御用のため神田川筋の鴨猟や江戸川鯉の猟(ここは御留川で、船河原橋より上は庶人の猟は禁鯉といって禁止されていた)のため御鳥見や狩猟の役人が出張する日は前々より役人から命ぜられて、荷物を物揚場に積荷しておく事は許されず、すべて取払いを命ぜられた。物資揚場許可は享保17年からであるが、文政7年頃から冥加金(税金)を上納すれば自由に使用することが出来るようになった。この他、尾州侯専用の物揚場があり、大きさは間口30間巾9間5尺で尾州侯の市ヶ谷藩邸で使用する物資がここより揚った。
 坂の入口には田町より流れて来る大下水があり、その巾一間。軽子坂登り口に長さ9尺、幅1丈1尺3寸という石橋が架っていた。この下水は船河原橋際の江戸川へ落ちていた。坂は揚場町の町内持である。
飯田壕全景 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸と唱えられていた。だが明治末年にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木(雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに囚る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年 東京地名字引」(江戸町づくし)にも小石川御門外と記されてある。

揚場町 新宿区北東部の町。北は下宮比町に、東は外濠(現在は神楽河岸)に、南は神楽坂1丁目と二丁目に、西は津久戸前町(現在は津久戸町)に接する。

明治20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

明治20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。

神楽土手と市兵衛土手

高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。

尾州 尾州は尾張国の別名。
 五爵(公侯伯子男)で第二位の爵位。世襲制。
備考 御府内備考(ごふないびこう)のこと。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、文政12年(1829年)に成稿。ところが、これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。御府内備考は現存。
神田川の川尻 御府内備考によれば「神田川附ニ而山之手諸色運送」。川附とは「川の流れに沿った。その土地。川ぞい。」つまり「神田川に沿い、かつ、山の手で種々の品物を運送する」。川尻は「川下、下流」あるいは川口と同じと考えて「川が海や湖に注ぐ所。河口」。「神田川の川尻」ではちょっと難しいけれど「以前の江戸川の川尻」なら正しい。
中央 本当は町の南端です。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。
軽子坂 軽子坂の標柱は「この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた」
半丁 半丁は約60m。
3間 約5.45m。
津久戸前 明治時代は津久戸前町、現在は津久戸町です。
物揚場 ものあげば。船荷を陸にあげるところ。表に出ている「惣物」は盆・暮れに主人が奉公人に与える衣類などで、お仕着せ。ここでは町方揚場と同じ。

神楽河岸の利用方法

神楽河岸の利用方法。高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。

明治18-20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

明治18-20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

間口9間5尺奥行12間 17.6m × 21.8m
間口17間奥行12間 31m × 21.8m
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。昔は文京区後楽2丁目と新宿区下宮比町をつなぐ橋(上図を参照)
禁鯉 きんり。鯉の料理は不可
御鳥見 おとりみ。江戸幕府の職名。鷹場の維持・管理を担当した。
享保17年 1732年
文政7年 1824年
冥加金 みょうがきん。江戸時代の雑税。商工業者などが営業免許や利権を得た代償として、利益の一部を幕府や領主に納めた。のちに、一定の率で課されることが多くなった。
尾州 尾張藩の別名。
間口30間巾9間5尺 54.5m × 17.6m
田町 市谷田町のこと。
大下水 町方や武家屋敷から小下水を集めてから、堀や川の落口にいたるまでの水路。
長さ9尺、幅1丈1尺3寸 長さ2.7m、幅3.4m
江戸川 現在の神田川
町内持 おそらく「軽子坂に不測の事態があれば復旧するが、その支払いは揚場町が行う」ではないでしょうか。
揚場河岸 江戸時代、河岸地は牛込揚場町に伴う河岸だけであり、揚場河岸と呼ばれたといいます。
明治末年 別の「神楽河岸」の説明では、磯部鎮雄氏は「明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい」と説明します。
神楽河岸 近世になって、揚場河岸を含めた一帯の地域を神楽河岸と総称し、さらに、昭和63年、住居表示でも実施した。
雁木 道から川原などにおりるための、棒などを埋めて作った階段。船着き場の階段。桟橋さんばしの階段。
市兵衛河岸 現在、市兵衛河岸について、船着場の位置はここです。また、市兵衛土手とは船河原橋を越えてから水道橋に達するまでの土手でした。

市兵衛河岸船着場

市兵衛河岸船着場(http://www.zeal.ne.jp/file/file_pia/pia_suidoubashi.pdf)

明治六年 東京地名字引 国会図書館で、駅逓寮が書いた「地名字引 東京之部」(御書物所、明治6年)の41頁で、市兵衛河岸の「町名、別名、区別、総名、近傍、新名、旧名、区分」は、「市兵衛いちべえ河岸かし、ー、ー、小石川、小石川御門外、小石川町、ー、第4大区1小区」となっています。

船河原橋と蚊屋が淵

文学と神楽坂

 神楽河岸、飯田橋、船河原橋、蚊屋が淵の4つは「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)で書いてありました。

    ●神樂河岸
神樂河岸は、牛込門外の北岸にして、神樂町一丁目より揚場町及び下宮比町の一部なる前面に横る一帯の河岸地をいふ。もとは市兵衛河岸●●●●●叉は市兵衛雁木●●●●●●と稱したり。そはむかし此所に岩瀬市兵衛●●●●●の屋敷ありしに因る。
牛込警察署は此河岸地の南端に在り。
目下當地の北端より飯田町の方に煉瓦にて基底を作り、新橋を架設し居れり。是は市區改正の計畫に據るものにして、下宮比町より津久戸前町等を貫通して開創すべき道路と連絡せむが爲めなりといふ。
    ●飯田橋
飯田橋は、神樂河岸の北端卽ち下宮比町の東隅なる河岸より、飯田町九段阪下の通りに連絡する架橋をいふ。今より凡そ十七八年前に架設したるものなり。前項の新架橋落成せぱ撤去せらるべきか。
[現代語訳]
    ●神楽河岸
 神楽河岸は、牛込御門外の北岸で、神楽町一丁目から、揚場町と下宮比町までの、一帯の河岸地をいう。もとは市兵衛河岸や市兵衛雁木といったが、昔、ここに岩瀬市兵衛の屋敷があったからだ。
 牛込警察署もこの河岸地の南端にある。
 当地の北端から飯田町の方に向かって煉瓦で基礎を作り、目下、新しい橋をかけようとしている。これは市区改正の計画によるもので、下宮比町から津久戸前町などを貫通して、新しい道路に連絡するためだという。
    ●飯田橋
 飯田橋は、神楽河岸の北端、つまり下宮比町の東隅の河岸から、飯田町九段阪下までの道路に連絡する橋をいう。今からおそよ17、8年前、架橋ができたが、前項の新しい橋が落成するとこの橋も撤去するべきといえないか。

 神楽河岸については、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」によると

 明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい。今も見附際の所にペンキ塗りの元牛込警察署があり柳の並木と共に明治らしい面影がある。戦後警察は牛込警察署として南山伏町16に移っている。警察が河岸地にあった時分は明治5年第3大区5~6小区の巡査屯所として発足したのが始めで、明治14年第二方面牛込区神楽町警察署と改められた。その年3月牛込警察署と改名された。
昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。

昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。新道路も開始予定。明治28年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。
牛込門 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」「牛込御門」と同じ。
揚場町 町名は山の手で使用する商品を運送する荷を揚げる物揚場になったため
しも宮比みやび 江戸時代は武家地。明治2年、武家地を開いて宮比町に。宮比神社を祀る祠を建てたので宮比町と。ただし、この宮比神社は現在ない。明治5年、付近の武家地跡を合わせ、台地上を上宮比町(昭和26年からは神楽坂四丁目)、台地下は下宮比町である。下宮比町の変更はない。
雁木 がんぎ。船着き場や桟橋さんばしの階段。
基底 基礎となる底面。
架設 橋や電線などを支えを設けて一方から他方へかけ渡すこと。
市区改正 東京市区改正事業。明治時代から大正時代の都市計画。明治21年(1888年)東京市区改正条例が公布。道路を拡幅し、路面電車の開通し、上水道の整備などを行った。
據る よる。たよりとなる足場とする。よりどころ
津久戸前町 津久戸明神前にあるため、津久戸前町と呼ばれた。明治2年、牛込西照院前と併合し、牛込津久戸前町となり、明治44年、さらに津久戸町となる。
開創 かいそう。初めてその寺や事業を開くこと。
架橋 橋を架けること。その橋。
明治の終りか大正の始めまで 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)では、ここを神楽河岸と呼んでいました。明治中旬でもう神楽河岸に呼称が変わったのです。一方、明治20年「神楽坂附近の地名」(新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』、1970年)では、明治20年以降に神楽河岸に呼称が変わったとしています。つまり、明治20年代に変わったのでしょう。
南山伏町16 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)「大正11年 東京市牛込区」を見ると、南山伏町16は大久保通りに直接接していませんでした。南山伏町1番地から2番地までは確実に移動したのでしょう。なお、牛込警察の住所は1番15号です。

    ●船河原橋
船河原橋は、牛込下宮比町の角より、小石川水戸邸、卽ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいふ。俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。江戸川落口にて、もとあり。水勢常に捨石激して淙々の音あるに因る。此橋を仙臺橋とかきしものあれども非なり。仙臺橋は水戸邸前の石橋の稱なるよし武江圖説に見えたり。松平陸奥守御茶の水開鑿の時かけられしには相違なしといふ。
    ●蚊屋が淵
蚊屋かやふちは船河原橋の下をいふ。江戸川の落口にて水勢急激なり。或はいふ。中之橋隆慶橋の間にて今おほまがといふ處なりと江戸砂子に云。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。
[現代語訳]
    ●船河原橋
 船河原橋は、牛込区下宮比町の角から、小石川区の旧水戸邸、つまり今の砲兵工廠の前に出る道と連絡する橋をいう。俗にドンド橋、単にドンドンともいう。江戸川が落下する場所に堰があった。水の勢いは、投石に激しくぶつかり、常に高く、ドンドンという音がしていた。この橋を仙台橋と書いたものあるが、これは間違いだ。武江図説では、仙台橋は旧水戸邸前の石橋だと書いてある。旧松平陸奥守の「御茶の水」の橋は開削の時に、架橋して、現在はない。
    ●蚊屋が淵
 船河原橋の下面を蚊屋が淵という。神田川中流が落下する場所であり、水勢が急激だ。江戸砂子では、別の説を出し、中之橋と隆慶橋の間に相当し、現在は大曲という場所がそれだという。昔、ひどい姑がいて、嫁にこの川で蚊帳を洗わせていたが、浅瀬は速く、水に蚊帳をとられ、嫁はその蚊帳に巻かれて死亡したという。

船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
 「旧」の旧字。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り。
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙臺橋 仙台橋。明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-16.html)を使うと、おそらく小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう(右図)。
武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開鑿 かいさく。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋が淵 「半七捕物帳」では「蚊帳ケ淵」と書かれています。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保 17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。

川柳江戸名所図会②|至文堂

文学と神楽坂

 つづいて軽子坂、船河原、とんど橋、猪牙ちょき舟を取り上げます。

軽 子 坂

江戸川合流してくる少し手前、左側を揚場町という。船着場で荷揚げをしたからである。この辺りから濠に直角に上る坂を軽子坂という。軽子は荷揚げの人足、軽籠あしかもっこ)で荷を運ぶ人夫のことである。それらの住居があったので坂の名となったという。
 今は飯田橋から新宿へ行く都電に大体平行になっている。
   楽になるまでお杖にかるこ坂     (一一三・34)
   忠義に重き士の住む軽子坂      (一〇三・17)
 これらの句は、この坂の左側に、大久保彦左衛門の邸があったのでそれを言ったものであろう。

船 河 原

船河原というのは、いま揚場町と言っている所で、国電飯田橋駅の濠を隔てた向う側である。
 昔はこの辺も河原のようになっていて、船が着いたものであろう。
   舟河原今家並さん瓦         (六六・37)
 昔は船河原と言ったが、今は人家が建てこめて、しかも瓦としては上等の桟瓦が使われているというので、荷揚げ等で繁昌し、住民の懐も楽になって行ったことを物語るのであろう。

 ごう。城を取り囲む、水のある堀。ほり。飯田橋~四谷の牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠は神田川に通じている。
江戸川 三鷹市の井の頭池を水源として、東京都の中央部を東西に流れて両国橋上手で隅田川に合流する川。上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川と呼んでいたが、1965年、河川法改正で全体を神田川と総称することになった。
合流 江戸川(神田川)と外堀が合流する。
揚場町、軽子坂 右の地図を参照。
軽籠 「軽籠」で「かるこ」と読みます。縄で編んだ目の粗い網の四隅に、棒を通す縄をつけた、土石運搬用の道具。もっこ。
あしか 不明。
お杖 つえであれば、杖を敬っていう語。「楽になるまでは、杖を頼って軽子坂を上ろう」でしょうか?
大久保彦左衛門  戦国時代から江戸時代前期の武将。幕臣。家康・秀忠・家光の三代に仕える。天下のご意見番。その子孫が神楽坂に住んでいたのでしょうか? 右図を参照。
家並み 家が続いて並んでいること。
船河原 揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原の意。
河原 川の流れに沿う平地で、ふだんは水の流れていない、石や砂の多い所
さん瓦 桟瓦。さんがわら。断面が波形で,一隅または二隅に切り込みのある瓦。

とんど橋

江戸川が、濠に入る所にかかる橋で、今は大久保通りを飯田橋から水道橋へ向う都電の渡る橋である。
 仙台侯が、お茶の水の堀割りをした時、かけたものといい、仙台橋という名もあったという。橋の下に水堰の捨石があって、水音が高いので、とんど橋という。また船河原橋ともいう。
   神楽坂付て廻ッてとんど橋       (一三五・31)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋     (重 出)
 さてこの第一句は、少し意味が分りにくいが、橋が神楽坂の直下にある訳ではないということと、神楽とその太鼓の音とを結んだものであろう。
 第二句は、神楽坂の坂上に岩戸町というのがあるところから、つらねて天鈿女命の天の岩戸の神楽とし、さきの句と同じく、太鼓の音との結びであろう。

牛込の猪牙

柳橋からの猪牙舟は、大川へ出て、上流へ山谷堀へ行くか、下って深川へ行くのが普通であるが、稀には、神田川をさかのぼって行ったものもあるらしく、次のような句がある。
   牛込へこいでくちよきのやぼらしさ   (天七・一〇・一五)
   牛込に悪所くるひを知らぬ猪牙    (一六七・25)
   牛込の舟蒲焼を不断かぎ        (五二・9)
 この最後の句は、猪牙に限らない、運び船でもあり得るが、水道橋のところに、うなぎやがあったという。そこを通る度に鰻香がただようのであろう。
   水戸ばし御びくにうなぎ丸でかい    (天三鶴1)
という句もある。

とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
仙台侯 「仙台藩主」のこと。しかし封地名に「侯」をつけるほうが多かった。例えば「仙台侯」など。
堀割り 地面を掘ってつくった水路。濠
つらねて 列になるように位置させる。一列に並べ、または、つなぐ。
天鈿女命 あまのうずめのみこと。記紀神話の女神。天照大神あまてらすおおみかみが天の岩屋に隠れた時、その前で踊った。
猪牙 「猪牙ちょきぶね」から。江戸時代、屋根のない舳先へさきのとがった細長い形の小舟。
大川 東京都を流れる隅田川の下流部における通称。
山谷堀 さんやぼり。隅田川の今戸から山谷に至る掘割。吉原の遊郭への水路として利用。現在は埋め立てされ「山谷堀公園」になった(左図を参照)。
深川 東京都江東区の町名。
ちよき 「猪牙」のこと
くるひ 「狂い」では物事の状態・調子が正常でないこと。悪所狂い(あくしょぐるい)とは、遊里に入りびたって酒色にふけること
不断 とだえないで続く。決断力に乏しい。「普段」と当てて、日常、平生へいぜい、いつも。
かぎ 「嗅ぎ」でしょう。鼻でにおいを感じとること。「牛込の舟は蒲焼の匂いをいつも嗅いでいる」
水戸ばし 東京都葛飾区小菅一丁目、綾瀬川に架かる橋(右上図を参照)
御びく 魚籠びく。とった魚を入れておく器。
丸でかい 完全で、欠けたところのないこと。まるごと。江戸の吉原遊郭で、遊女の揚代が倍額になる日

柿の木横町

蜂屋柿

文学と神楽坂

 揚場町と下官比町との間を柿の木横町と呼んでいました。その南角、つまり、おそらくブックオフがある所(下図)に、柿が一本立っていました。市電ができる時に、つまり明治38年(1905年)以前に、この柿は伐採されましたが、ほかの蜂屋柿の写真を見ても、この柿の実は、かぞえ切れないほどの量だったと思います。

 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では

●柿の木横町

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かき横町は揚場町と下官比町との境なる横町をいふ。其の南角に一株の柿樹あるを以て名く。現今其の下に天ぷらを鬻げる小店あり。柿の木●●●と稱す此柿の樹は色殊に黒く。幹の固り三尺餘高さ三間半。常に注連縄を張りあり。
柿の木横町一に澁柿横町●●●●ともいふ。この樹澁柿を結ぶを以てなり。相傳へて云ふ。徳川三代の將軍家光公。この柿の枝に結びたる實の赤く色づきて麗しきを。遠くより眺望せられ。賞美し給ひしより。世に名高くなりたりと。但この樹のある處は舊幕臣蜂屋●●何某の邸にて。何某いたくこの樹を愛したり。後世此樹に結ぶ實と。同種類の柿の實を蜂屋柿●●●といふとあり。因て嘉永五年の江戸の切繪圖を檢するに。蜂屋半次郎と見ゆ。即ち其の邸宅の跡なりしこと明かなり。

昭和5年「牛込区全図」

[現代語訳]柿の木横町は揚場町と下官比町との境の横町である。その南角に一株の柿の木があり、これが名前の由来である。現在、この下に天ぷらを揚げる小さな店ができている。この柿の木は色は殊に黒く、幹の周りが1メートル以上、高さは6.4メートル。絶えずしめ縄を張っている。
柿の木横町一番地は渋柿横町ともいう。この木は渋柿を作るためだ。言い伝えられてきた話だが、徳川家光三代将軍が、この柿の枝になった実が赤く色づき麗しいと、遠くから眺めて賞美し、これで世の中に名高くなったという。この木の生えた場所は、かつての幕臣蜂屋氏の邸で、氏はいたくこの樹を愛したという。後世にこの木に結ぶ実と同種類の柿の実を蜂屋柿といっている。そこで嘉永五年の江戸切絵図を調べると、蜂屋半次郎という名前が見えた。すなわち、その邸宅の跡とは明らかだったという。

鬻ぐ ひさぐ。ひさぐ。売る。商いをする。
注連縄 一般的には聖域を外界から隔てる結界として使う縄
相伝 代々受継ぐこと。代々受伝えること。
蜂屋柿 はちやがき。柿の一品種。岐阜県美濃加茂市蜂屋町原産の渋柿。果実は長楕円形で頂部がとがる。干し柿にする。

 新宿歴史博物館の「新修新宿区町名誌」(平成22年)でも同様な説明があります。

揚場町(中略)  また、下宮比町との間を俗に柿の木横丁といった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ縄が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る実が美しいのを遠くから見て、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという。この柿は旗本蜂屋半次郎の敷地内にあったもので、蜂屋柿ともいったが、ここが蜂屋柿の名称発祥地といえる。蜂屋柿は渋柿なので、渋柿横丁ともいった。この柿の木は、外堀通りに市電(のちの都電)が敷設される時に道路拡張が行われ、伐り払われたという(町名誌)。

蜂屋柿の名称発祥地 現在の名前は岐阜県の蜂屋町から来たもので、違うと思います。
外堀通りに市電(のちの都電)が敷設 Wikipediaによれば、明治38年(1905年)に、外濠線東竹町(竹町)から神楽坂(神楽坂下)までが開業。

 夏目漱石氏の『硝子戸の中』21では、「柿の木横町」が出てきます。

 彼等は築土つくどりて、かきよこ町から揚場あげばて、かねて其所そこ船宿ふなやどにあつらへて置いた屋根やねぶねに乗るのである。

屋根船 屋根板がいてある小船。大型の屋形やかたぶねと区別した江戸での呼称。やねぶ。

 また『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』では、こうなります。これは江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。

 この横町は明治になって下宮比町1番地と揚場町8番地の境となる。明治29年東京郵便図をみると女子裁縫専門学校の左側の横丁で、切図をみると蜂屋半次郎とある。今の水道局神楽河岸営業所の前の横丁に当る。東京名所図会に、この樹に結ぶ実と同種類の柿の実を蜂屋柿という、とあるがここの柿は屋敷名が偶然蜂屋氏に当るだけで、蜂屋柿の産地はここではなく、美濃国各務郡蜂屋村に産する柿をいう。渋柿ではあるが皮を剥き、つるし柿として絶品である。

軽子坂|歌川広重団扇絵「どんどん」

文学と神楽坂

 軽子坂を別の向きで描いた絵があります。広重団扇絵で「どんどん」「どんどんノ図」や「牛込揚場丁」という題が付いています。版元は伊勢屋惣右衛門で、天保年間(1830-44)後期の作品です。(絵は拡大できます)

牛込揚場丁どんどん ちなみに江戸時代、飯田町と神田川にかかる船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていました。これから船河原橋は「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていたといいます。
広重団扇絵|牛込揚場丁|どんどん3 左奥に見えるわたりやぐらは牛込御門で、その向かいは神楽坂です。
広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁2 目を近くにやると、茗荷屋という船宿から(赤い扇子を持った若旦那が芸者さん二人と船に乗り込む様子が見えます。船宿の奉公人たちが酒、肴を抱え、お客さんの乗り込むのを待っています。
広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁3 少し上を見ると左手には「自身番屋」が建ち、木戸もみえます。番屋と木戸のすぐ先は、見えませんが、右側に上る坂道があったはず。これが軽子坂です。その手前の右側一帯は揚場町で、荷を揚げたため。この神楽河岸があることが神楽坂が盛り場として発展していくために重要でした。
揚場町 自身番屋 地図では「軽子サカ」の左に黒の穴あき四角で書いたものが見えます。これが「自身番屋」です。町内警備を主な役割とてし町人が運営しました。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれました。
自身番 写真では右側の家に「自身番」と書いていますね。自身番は火の番も重要な役割でした。(ワープステーション江戸のPRで)

夏目漱石の『硝子戸の中』ではこの神楽河岸から浅草猿若町まで舟で出ていき、芝居を見たのを描いています。