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帯取の池|半七捕物帳

文学と神楽坂


 岡本綺堂氏の小説「半七捕物帳」です。1917年、氏はシャーロック・ホームズに影響を受けて、日本最初の岡っ引捕り物「半七捕物帳」を執筆。それから1936年までの20年にわたり断続的にこの捕物帳を発表しています。

 これは「半七捕物帳」の「帯取の池」の最初の部分です。ここで出てくる「帯取の池」は市ヶ谷の月桂寺の西側にありました。でも、それってどこ? 本当にあるの?

「今ではすっかり埋められてしまって跡方も残っていませんが、ここが昔の帯取の池というんですよ。江戸の時代にはまだちゃんと残っていました。御覧なさい、これですよ」
 半七老人は万延版の江戸絵図をひろげて見せてくれた。市ヶ谷の月桂寺の西、尾州家の中屋敷の下におびとりの池という、可成かな大きそうな池が水色に染められてあった。
京都の近所にも同じような故蹟こせきがあるそうですが、江戸の絵図にもこの通りしるしてありますから嘘じゃありません。この池を帯取というのは、昔からういう不思議な伝説があるからです。勿論、遠い昔のことでしょうが、この池の上に美しいの帯が浮いているのを、通りがかりの旅人などが見付けて、それを取ろうとしてうっかり近寄ると、たちまちその帯に巻き込まれて、池の底へ沈められてしまうんです。なんでも池のぬしが錦の帯に化けて、通りがかりの人間を引寄ひきよせるんだと云うんです」

帯取 おびとり。太刀を腰につけるためのひも
万延版の江戸絵図 以下は国際日本文化研究センターの「萬延江戸図」(1860年)です。中央部に月桂寺が描かれています。その西の「尾張ドノ」は現在の東京女子医科大学です。

万延江戸図

万延江戸図

 現在の地図で、中央下の赤黒色の地図マーカーが「正覚山月桂寺」。

女子医大と月桂寺

現在の女子医大と月桂寺

大きそうな池 残念ながら「萬延江戸図」の附近では池は書いていません(上図)。万延元年「礫川牛込小日向絵図」(1860年)には月桂寺そのものがありません。嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」(1854年)では月桂寺の中に多分青いかわらきの建物数棟がありました(下図)。でも、池があるのかは、不明です。青色を拡大すると瓦だと思います。また尾刕(=尾張、尾州)殿には池は描いていません。

月桂寺

月桂寺。「牛込市谷大久保絵図」から

京都の近所 秋里籬島氏の『都名所図会』(安永九年、1780年)では「帯とり池。広沢のひがしなり、路のかたはらにくぼみたる所あり、是なり。むかしはいと深くて、此池の霊帯と化して人を取りしとぞ」と書かれています。場所は左上の青い地図マーカーで。現在は「弁慶池」となっていました。

故蹟 古跡。歴史に残るような有名な事件や建物などがあったあと。遺跡。旧跡。古址
 様々な色糸を用いて織り出された絹織物の総称

「大きいにしきへびでも棲んでいたんでしょう」と、わたしは学者めかして云った。
「そんなことかも知れませんよ」と、半七老人はさからわずに首肯うなずいた。「又ある説によると、大蛇が水の底に棲んでいる筈はない。これは水練に達した盗賊が水の底にかくれていて、錦の帯をおとりに往来の旅人を引摺ひきずり込んで、その懐中ふところ物や着物をみんなぎ取るのだろうと云うんです。まあ、どっちにしても気味のよくない所で、むかしは大変に広い池であったのを、江戸時代になってだんだんにせばめられたのだそうで、わたくしどもの知っている時分には、岸の方はもう浅い泥沼のようになって、夏になると葦などが生えていました。それでも帯取の池といういやな伝説が残っているもんですから、誰もそこへ行ってさかなを捕る者も無し、泳ぐ者もなかったようでした。すると或時あるとき、その帯取の池に女の帯が浮いていたもんだから、みんな驚いて大騒ぎになったんですよ」

錦蛇 にしきへび。ニシキヘビ亜科のヘビの総称。インド・東南アジア・オーストラリア・アフリカの熱帯地方に約20種。全て無毒。
水練  水泳の練習。水泳の技術。水泳の名人。

 帯取の池はあったのでしょうか? 嘉永7年「牛込市谷大久保絵図」に青い絵がありますが、これは瓦葺きの屋根でしょう。現在の私は、この池は岡本綺堂氏が小説のため作り出したものだと思っています。