牛込駅」タグアーカイブ

史跡紹介パネル|飯田橋駅西口

文学と神楽坂

 JR東日本は令和2年(2020)7月12日(日)初電から飯田橋駅の新しいホーム新西口駅舎歩行者空間を供用開始しました。
 さらに令和3年3月19日から、西口駅舎1階の歩行者空間に「国指定史跡『江戸城外堀跡』」、「遺構巡り」を加え、また1階の西口改札外コンコースの「史跡紹介解説板」に「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を加えました。
 そして令和3年7月21日朝9時から、西口駅舎2階にも「史跡眺望テラス」を展開し、「史跡紹介解説板」を使って「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」を説明し、また「牛込門と枡形石垣」を紹介しています。
 最後に飯田橋ホームの中に「外堀の堰の構造」があります。

史跡解説板テーマ設置箇所供用開始日
牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)西口駅舎2階「史跡眺望テラス」2021年7月21日
国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り歩行者空間2021年3月19日
外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造西口改札外コンコース2021年3月19日

飯田橋駅西口1階

史跡紹介解説板 西口駅舎1階の歩行者空間 国指定史跡『江戸城外堀跡』とその遺構巡り

史跡紹介解説板 西口改札外コンコース 外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造

スガツネ工業株式会社

 また、「スガツネ工業株式会社」がドイツ「Q-railing」社から輸入したガラスについて「(この)自立ガラスフェンスシステムを使うとガラスとガラスの継ぎ目に支柱のないフェンスを作ることができます。支柱が邪魔にならず、景観を主役にするためのシームレスなデザインを作り上げることができます。ご覧の通り『史跡』も支柱の遮りなく、愉しむことができます」と自慢げに書いていました。

Q-railing社の自立ガラスフェンスシステム

神楽から名づけられた神楽坂|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 1. 神楽から名づけられた神楽坂」についてです。

神楽から名づけられた神楽坂
      (神楽坂1から6丁目)
 飯田橋駅九段口の前に立つ。駅すぐ左手に旧牛込見付門跡の石垣の一部が残っている。そこに牛込御門があってその向うが江戸城内だった。
 九段と反対側が神楽坂である。坂を上り、矢来下、戸塚、高田馬場、下井草駅と続く道早稲田通りである。
 神楽坂の地名の由来にはいろいろあるが、江戸城内の田安にあった筑土神社を今の筑土八幡町に遷座する時、この坂の中途で神楽を奏したことからつけられた(改選江戸誌)というのが信じられている。その筑土神社は、戦後飯田町へ移転した。
 このほか、市谷駅近くの市谷八幡の祭礼時、みこしがこの坂で止って神楽を奏する習慣になっていたとか、江戸中期、坂の中ほどで穴八幡祭礼の神楽を奏するしきたりがあったから(江戸誌)とか、若宮八幡の神楽がここまで聞えるからとか、赤城元町の赤城神社の神楽音が聞えたからとか、いろいろある(江戸名所図会)が、神社の神楽と結びついて名づけられたことにはまちがいない。それだけ牛込には神社が多いということを示している。
 江戸時代には、坂に向って左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった。明治になり、早稲田に早稲田大学ができ、今の飯田橋駅九段口に甲武鉄道牛込駅ができると、そこが大学の玄関口となり、神楽坂にはしだいに商店が並んでにぎやかになったのである。
 神楽坂という町名は、以前は外堀通りから上って、大久保通りまでであった。それが、昭和26年5月1日、戦後の発展をめざす神楽坂振興会の音頭とりで、付近6ヵ町を一丸として神楽坂と改称し、赤城神社入口まで、名称が統一されたのである。
九段口 現在は西口。
石垣の一部 旧牛込御門の渡櫓わたりやぐらの土台が残ったものです。
続く道 下図参照。
神楽坂の地名の由来 「神楽坂の由来」を参照
江戸城内の田安 たやす。田安門は九段坂から北の丸に入る門。しかし、筑土神社は一度も城内に入ったことはありません。田安郷(現、千代田区九段坂上)にはありますが。
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現、千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀り「津久戸明神」として創建。室町時代、太田道灌が田安郷(現、千代田区九段坂上)に移転、以降「田安明神」とも呼ばれた。元和2年(1616年)、筑土八幡神社隣接地(現、新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。1945年の東京大空襲で全焼し、1954年、現在の九段中坂の途中にある世継稲荷境内へ移転(住所は千代田区九段北1-14-21)。

改選江戸誌 正しくは「改撰江戸志」。原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

信じられている 現在は信頼度100%のものはありません。
市谷八幡 市谷亀岡八幡宮。市谷八幡町15。文明10年(1478年)に太田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請
穴八幡 穴八幡宮出現殿。西早稲田2-1-11。康平5年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した源義家が当所に兜と太刀を納めて八幡宮を勧請し、東北鎮護の社になった。
若宮八幡 神楽坂若宮八幡神社。若宮町18。鎌倉時代の文治5年(1189年)、源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため、当所で下馬宿願し、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分社した。

神楽坂の名前の由来。築土明神、市谷八幡宮、穴八幡宮、若宮八幡宮

飯田町 飯田町ではなく現在は九段北1-14-21です。
江戸誌 「江戸志」が正しい。別名は「新編江戸志」。寛政年間に作成。ウェブサイトのコトバンクによれば「近藤儀休編著・瀬名貞雄補訂」。改正新編江戸志では(くずし字は私訳)……

市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ

江戸名所図会 神楽坂については以下の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった 「左側(下)には民家、店と寺院、武家屋敷二軒が並び、右側(上)は年貢町屋を除き全て武家屋敷」

当時(嘉永5年、1852年)の状況

早稲田大学 前身は「東京専門学校」で、明治15年10月21日に創設。20年後の明治35年9月2日、「早稲田大学」と改称。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
牛込駅ができる 明治27年10月9日、牛込駅が開通しました。
大学の玄関口 現在はJR山手線の高田馬場駅から徒歩20分。東京メトロの東西線早稲田駅から徒歩5分。都バス(学バス)の高田馬場駅から早大正門までバス7分。都電の荒川線早稲田駅から徒歩5分。
 早大正門から神楽坂4丁目までは徒歩約30分。
商店が並んで 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では、もう商店だけです。
大久保通り 戦前、神楽「町」に終わりを告げるのは、大久保通りではありません。また、戦前、神楽坂4−6丁目はなく、あるのは上宮比町、肴町、通寺町でした。終わりを告げるのは、本多横丁と毘沙門横丁です。

昭和16年、牛込区詳細図

赤城神社入口

昭和56年、新宿区史跡地図

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅|史跡パネル③

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル③は「甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅」です。写真5枚(うち空中写真が1枚)、図は1枚で、日本語と英語で解説しています。

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅

こう鉄道てつどう国有化・複々ふくふくせんと飯田橋駅
The Nationalization of Kobu Railways and Construction of Multiple Lines and Iida Station

 1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1909(明治42)年に中央東線(1911(明治44)年に中央本線に改称)の一部となりました。
 甲武鉄道の乗客数は、開業した1894(明治27)年には85万8千人、翌年には242万2千人と急増していました。大幅に増えた旅客輸送に対応するため、汽車・貨物と電車の分離を目的に、1922(大正11)年から複々線化工事が行われました。複々線化の際、牛込うしごめえき下りホーム等が支障となったため、1928(昭和3)年に電車線のいいまちえき(現在の千代田区飯田橋三丁目)と統合する形で、そのちょうど中間となる曲線位置に飯田橋駅が開業しました。
 開業当時の飯田橋駅は両端に出口があり、東口側は高架駅のような構造になっている一方、西口側は橋上の駅舎でした。この西口は旧牛込駅の利用者に対して影響が少なくなるよう設けられたものであり、長い通路が造られ、2016(平成28)年まで使用されていました。駅の屋根は古レールを使って作られ、現在もホーム上から確認することができます。
 飯田橋駅のホームは急曲線にあったため、車両の大型化に伴いホームと電車の間には広いすきができていました。2020(令和2)年に、ホームを牛込駅があった市ヶ谷駅寄りの直線部分に移設し、より安全な直線ホームに改められました。あわせて、地域のシンボルとして史跡を活かした駅前広場や駅舎が整備されました。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
駅の屋根は古レールを使って 屋根だけではなく、あらゆるところに古レールを使っていました。Golgodenka Nanchatte Researchでは……

レール

柱はホーム中央に1本の架構パターンと2本の部分に分かれており、2本が1本に集約される端部では梁の納まりにこれまた独特の古レールの絡み具合が見られる。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景
冒頭でも触れた西口への通路も古レールが下部構造に大量に使用されている。まるで線路上から撮影したような写真であるが、あくまでもホーム上から撮影したものであり、ホームの曲がり具合が相当のものであることを実感できる。奥に見える下駄ばきの建物が西口の駅舎である。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

同通路を西口改札外の牛込橋付近より見下ろす。これだけの長さで立ち上がる古レールが延々と続くのは壮観である。しかし、現在の耐震基準ではまずアウトではなかろうかと思われる華奢な架構とも言える。一体どのような構造計算の結果で OK となったのだろうか。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

 Kōbu Railway was nationalized in 1906 and became part of the Chūōtō Line in 1909. Two years later, the Chūōtō Line’s official name was changed to the Chūō Main Line.
 In 1894, Köbu Railway’s ridership numbered 858,000. By the following year, it had nearly tripled to 2,422,000. In 1922, additional lines were constructed in order to accommodate the line’s rapidly expanding ridership and to separate the steam and freight lines from the electric passenger lines. In 1928, Ushigome Station was merged with Iidamachi Station (present-day Chiyoda Ward Iidabashi 3-chome) because the platform for its outbound line obstructed the construction of the additional lines. This led to the creation of Iidabashi Station, which was located along a curve section of track equidistant from Ushigome and Iidamachi Stations.
 At the time of its opening, there were entrances at both ends of Iidabashi Station. While the eastern side had an elevated, viaduct-like structure, the eastern portion was located on a bridge. In order to accommodate passengers who previously boarded the train at Ushigome Station, a long passage connecting Iidabashi Station with its western entrance was constructed and remained in use until 2016. The Station’s roof was constructed using old pieces of rail track. These sections of the roof are visible today from the station platform.
 Because Iidabashi Station was located along a sharp curve, the construction of larger rail cars resulted in a wide gap between the platform and trains that served the station. In 2020, the platform was relocated to the straight section in the direction of Ichigaya Station previously occupied by Ushigome Station. This narrowed the gap between the platform and trains and made it safer for passengers to board. In conjunction with the platform’s relocation, a station-front plaza and station XX, was constructed.

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

手前が都電の走っていた外堀通り、左下が神楽坂方面。牛込濠と中央線の線路を越えてゆく橋が牛込橋。橋の下から右の濠端にかけてが旧・牛込駅の跡地である。橋の上に飯田橋駅の西口駅舎がある。そこからゆるやかに左へ下る長いスロープの通路とカーブを描いた飯田橋駅が見える。その先のカーブ右側一帯が旧・飯田町貨物駅。駅の左側の小さな水面 が旧飯田濠で、現在は埋め立てられて「セントラルプラザ・ラムラ」のビルが建っている。昭和38年11月8日 写真:三宅俊彦、三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

地図・空中写真閲覧サービス コース番号 M698 写真番号 99 1947/12/20(昭22)撮影高度 1524m 焦点距離 154.000mm 撮影計画機関 米軍

写真 昭和初期の牛込見附・飯田橋駅西口

写真 昭和初期の牛込濠と土塁の様子

写真 飯田橋駅旧西口通路
 飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

牛込駅|史跡パネル②

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル②は「牛込駅」です。写真は6枚、図は2枚、コンピューターグラフィックス(CG)1枚で、日本語と英語で解説しています。

牛込駅

牛込うしごめえき
Ushigome Station

 1894(明治27)年10月9日にとう鉄道てつどうがいせんの新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が開業しました。この牛込駅は翌年4月3日のいい町駅まちえき開業までのわずか半年の間ですが、甲武鉄道の始発駅として活躍していました。
 牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあたりとなります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線快速のあたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。
 駅の改札口は現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、駅のこ線橋から階段で土手どてを上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。その駅舎脇にあった土手の擁壁ようへきが現在でも外濠そとぼり公園こうえん入口の付近にそのままの姿で残っています。一方新宿区側は、牛込見附のばしの脇を埋め立てて道路が塾備され、せきの水路付近に設置された小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
2方向に 正しくは、当初は新宿区側の出口だけで、遅れて跨線橋と千代田区側の出口が出現。(註:牛込駅の通路新設
こ線橋 跨線橋。こせんきょう。鉄道線路の上をまたぐような形で架けた橋。渡線橋。
擁壁 土圧に抵抗して土の崩壊を防止する土止め壁。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 川を横切って流水をせき止める施設。水を取るため、また、水深・流量の調節のため、川の途中や流出口などに設けて流水をせき止める構造物

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

  Ushigome Station opened on October 9, 1894, the same day that Kōbu Railway initiated service between Shinjuku and Ushigome Stations. Before Iidama-chi Station opened on April 3, 1895, Ushigome Station served as the starting station on the Kōbu Line.
  Ushigome Station was located on the portion of present-day Iidbashi Station that extends from Ushigome Bridge in the direction of Ichigaya Station. At the time, portions of the outer moat were reclaimed in order to construct the station house and train tracks. Ushigome Station’s platform was located on the site currently occupied the JR Chuo Rapid Transit Line. In addition, the station house was constructed on the site currently occupied by the JR Chuo and Sobu Local Lines.
  Ushigome Station had two ticket gates. One was located on the present-day Shinjuku Ward side and the other was located on the Chiyoda Ward side. The gate building on the Chiyoda Ward side was constructed facing the road alongside the outer moat’s embankment and could be accessed by a staircase that rose from the Station’s rail bridge and climbed the embankment. A retaining wall from a section of the embankment next to the station house remains in place today in the vicinity of the entrance to Sotobori Park.
  On the Shinjuku Ward side, a road was constructed on land reclaimed from alongside Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Thereafter, Ushigome Station could be reached via a small pedestrian bridge, which was erected near the aqueduct attached to Ushigome-mon Gate’s weir. Today, portions of the foundation that supported the pedestrian bridge remain in place and are visible from Iidabashi Station’s platform and atop Ushigome Bridge.

牛込駅と土橋

 上と同じような写真はありませんが、ただし、三井住友トラスト不動産の写真「牛込駅」の開業が似ています。説明では「写真は明治後期~大正期の撮影で、手前が『牛込駅』の駅舎、その北(写真では上)に『牛込濠』が広がり、その先が『神楽坂』の入口となる。『牛込駅』から『神楽坂』の入口までは『牛込見附』の坂の隣に通路・橋が設けられており、坂を通らないで行き来することができた」

「牛込駅」の開業。三井住友トラスト不動産

 手前の駅舎と牛込濠の間にある立派な瓦屋根の建物は本屋でした。

牛込駅のCG

牛込駅見取り図

牛込駅駅舎

① 写真 牛込駅駅舎

牛込駅。法政大学専門部商科卒業アルバム(1929年3月)所載。牛込駅は1928年11月廃止。HOSEIミュージアム。

写真 現在の牛込駅駅舎跡

現在の牛込駅駅舎跡

2024/09/02の牛込駅駅舎跡

②写真 現在の外濠公園入口

現在の外濠公園入口

2024/09/02の外濠公園入口

牛込駅

③図 跨線橋立体図

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

④写真 関東大震災直後の牛込駅

関東大震災直後の牛込駅

 国立映画アーカイブで、上の「駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族」(映画)が残っています。キャプションは「被災した牛込駅や焼失した車両とともに、無蓋貨車に避難した一家の中に、幼少期の三木鶏郎の姿が写っている」。ひらがなの「うしごめ」の後ろで倒れた家は本屋でしょう。牛込濠の向こう側にある牛込区の建物は無傷に見えます。
 映画の「地割れした牛込駅前の道」のキャプションは「牛込駅とその手前の道に発生した地割れの様子。当時中央本線の駅舎は万世橋駅(煉瓦造)を除いて木造であったが、牛込駅付近は火災を逃れ、駅舎についても焼失ではなく倒壊の被害が報告された」。倒れた本屋が写っています。新宿区側(連絡橋付近)から見た牛込駅です。

⑤写真 連絡橋レンガ擁壁遺構

連絡橋レンガ擁壁遺構

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」(1972年)の「首都圏の鉄道と駅の写真」「駅市谷側」には連絡橋があり、実際に使われていたようです。ただし、この橋は橋脚よりかなり幅が狭く、おそらく牛込駅の現役時代には、もっと幅の広い橋が架けられていて、戦災で橋は焼失し、戦後に管理用の橋が架けられたのでしょう。

 また、「ひとりごと 主に鉄道工事現場・車両改造を観察した内容を紹介するページJR飯田橋駅改良工事(その26)の最後に「余談ですが、濠にちょっと出っ張った部分があります。旧牛込駅の連絡橋の擁壁遺構なのだそうです。草むらで覆われていますがよく見るとレンガ造りの遺構が見えます」と書かれています。

JR飯田橋駅改良工事

JR飯田橋駅改良工事

江戸城外堀跡の案内図|史跡解説板5

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 西口駅舎1階の歩行者空間にある「遺構巡り」は「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」と「江戸城外堀跡 散策案内図」です。

江戸城外堀跡

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡 散策案内図
Edo Castle’s Outer Moat Walking Map

 この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。

大木戸 おおきど。大きな城門。近世、国境や都市の出入り口に設けた関門。
墨引図 「御府内」とは朱引で表し、江戸時代「江戸の市域」のこと。朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、墨引で示された範囲は「町奉行所支配の範囲」

 These two maps indicate the location of historical sites in the vicinity of Iidabachi and Yotsuya Stations. The sites offer vital insights about Tokyo’s history from the early modern to the modern period.
 The map on the left traces the path of early modem Japan’s “Five Routes,” which radiated out in all directions from central Edo’s Nihon-bashi Bridge, and indicates the location of the city’s entrance gates and post stations on its periphery.
 The second map is a jurisdictional map indicating the territories under the authority of the Edo City Governor. It shows that areas inside the Yamanate Line comprised the city center and that the city area extended over a vast space that stretched far east as present-day Kinshicho Station.

江戸城外堀跡周辺案内図

 小さな小さな文字です。でも、神楽坂に関係するものは多くはありません。

神楽坂界隈(Kagurazaka District)江戸時代に武家や神社の街として作られましたが、明治期に料亭に利用され、今も江戸以来の路地が残されています。
善国寺(Zenkoku Temple)1595(文禄4)年に馬喰町で創建、麹町を経て1793(寛政5)年に現在地へ移転しました。神楽坂の毘沙門さまです。
牛込門跡(The Remains of Ushigome-mon Gate)1636(寛永13)年に作られた江戸城外郭門の1つで、1902(明治35)年に大部分が撤去されましたが、現在でも石垣が良好に保存されています。
外濠公園(Sotobori Park)1927(昭和2)年に外堀を埋め立てることにより、土手公園を開設。グランドなどに利用されています。
田安門(Tayasu-mon Gate)上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点で、1620(元和6)年に完成しました。高麗門は江戸城に残る最も古い建築物です。
市谷亀岡八幡宮(Ichigaya’s Kamegaoka Hachiman Shrine)江戸城の鎮守として1479(文明11)に建てられましたが、外堀築造で現地に移転しました。江戸名所として多くの錦絵に描かれました。
江戸歴史博物館(Shinjuku Historical Museum)旧石器、縄文時代等の遺跡から江戸時代の暮らし、明治以降の発展まで新宿区の歴史を紹介しています。
江戸歴史散歩コーナー 東京メトロ市ヶ谷駅構内(Exhibit: Walking Edo’s History/Ichigaya Metro Station Concourse)地下鉄工事で発掘された江戸城の遺構や外堀機築技術が紹介されています。
江戸城外堀跡史跡展示広場(Edo Castle Outer Moat History Plaza)外堀及び四ツ谷駅周辺の歴史を四ツ谷駅構内の展示広場で紹介しています。
市谷門跡(The Remains of Ichigaya-mon)1639(寛永16)年に完成した江戸城外郭門で、1913(大正2)年に石垣撤去され、現在は土橋の石垣のみが残っています。
コモレ四谷(CO・MO・RE YOTSUYA)四谷地域の歴史を紹介する解説版が設置されています。
四谷門跡(The Remains of Yotsuya-mon)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。1903(明治36)年に大部分は撤去され、現在枡形石垣の一部が残っています。
心法寺(Shimpo Temple)心法寺は1597(慶長2)年に創建され、一部が千代田区の文化財に指定されています。
四谷大木戸と水道碑(Totsuya Gateway and Tamagawa Aqueduct Commemorative Monuments)江戸への人や物の出入りを監視するため江戸初期に設置されました。玉川上水の碑とともに大木戸の記念碑が残っています。
四谷見附橋(Yotsuya-mistuke-bashi Bridge)1913(大正2)年に東宮御所(迎賓館)にあわせネオバロック調の意匠で架橋されました。1991(平成3)年現在の橋に架け替えられました。
須賀神社(Suga Shrine)1634(寛永11)年に江戸城外堀が造られた際に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)から移転された稲荷神社が起源で、のちに神田明神の牛頭天王が合祀されました。
外堀普請で移転した寺院(Temples Relocated in Conjunction witk Outer Moat’s Construction)江戸城外堀の工事に伴い寺院が四谷地域に移転し、現在もこの地域に多く立地しています。
御所隧道(Gosho Tunnel)1894(明治27)年に開通した甲武鉄道のトンネルで、東宮御所(現在の迎賓館)を通過することから名が付けられました。現在も利用されています。
喰違(The Remains of Kuichigai Gate)外堀で唯一土塁を組み合わさせた門で、1612(慶長17)年に完成しました。現在も原形を確認できます。
赤坂門跡(The Remains of Akasaa-mon Gate)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。石垣は一部現存し、福岡黒田家の刻印がみられます。

飯田橋周辺案内図

牛込駅(千代田区側)駅舎跡

牛込駅(千代田区側)駅舎跡
 甲武鉄道時代、ここには牛込駅の出入口がありました。
 現在でも、当時作られた駅舎の左右にあった石積み擁壁がそのまま残されており、見ることができます。
The Remains of Ushigome Station
石積み擁壁 高低差のある土地で土砂崩れを防ぐために設置し、石を積んだ壁。

牛込門枡形石垣跡の舗装表示
 かって牛込門の枡形石垣があった位置が自然石舗装で表現されており、その大きさを体感することができます。
Remnants of Ushigome-mon Gate’s Stone Walls
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。

石に刻まれた印

石に刻まれた印
 かつて牛込門の枡形石垣を構成していた石垣石が移設展示されています。
 枡形石垣の整備を担当した徳島藩蜂須賀阿波守の刻印とみられるものが確認できます。
Inscriptions on the Stone

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡散策案内図

散策モデルルート
Aルート:「外堀散策ルート」Edo Castle’s Outer Moat
周囲14kmの江戸城外堀を史跡中心に巡ります。
This walk visits heritage sites along the outer moat’s 14-kilometer periphery
Bルート:「江戸城内ルート」Edo Castle
牛込門から北の丸の田安門を経て旧江戸城本丸跡を巡ります。
Departing from Ushigome-mon Gate, this walk passes through the Northern Citadel’s Tayasu-mon Gate before visiting the remains of Edo Castle’s Inner Citadel.
Cルート:「外堀水辺散策ルート」The Outer Moat Riverside Walk
神田川と日本橋川にある鉄道遺産などを巡ります。
This route visits sites along the Kanda and Nihonbashi Rivers relates to local railroad development.

神楽坂よ、もう一度|昭和39年

文学と神楽坂

 くず勘一氏の「月刊金融ジャーナル」(金融ジャーナル社)『新・東京散歩』の「神楽坂よ、もう一度」(1964年)です。氏は随筆家で春秋社顧問、著書は「世界名作小説を中心とする文学の鑑賞 小説篇」「若き人々のための文学入門と鑑賞の手引」「文学の鑑賞」など。「金融ジャーナル」では連載『新・東京散歩』(「神楽坂よ、もう一度」のほかに「新宿」「お茶の水」「神田川から隅田川へ」「鎌倉」「池袋」「渋谷周辺」など)を執筆していました。没年は昭和57年6月25日。享年は80歳。

 飯田檎駅は、市ガ谷寄りのお堀端の水際にあった甲武線牛込駅が、関東大震災以後、水道橋寄りに改築されて面目一新し、出入口が二つ出来たために、そのころの評判小説、菊池寛の「心の日月」では、男と女の待合せ場所が、表口と裏口とになってしまい、飯田橋駅ニレジイが発生するというエピソードによって有名になった。今でこそ駅に出入口が二つあるのは少しも不思議ではないが、大正から昭和の始めごろの小駅の出入口は一つしか無かったのである。
 その飯田橋駅の長い廊下のような通路を抜けて、牛込見付のほうへ出てみると、山の手唯一の繁華街であった神楽坂は、この路の一直線上にある。明治・大正のころから神楽坂は、情緒たっぷりな市民の憩いの場であったが、大正十二年の関東大震災で下町を失ってからは、いっそう拍車がかかって、春や夏の宵など、夜店のアセチレン灯の光に映えた町全体は、まるで極彩色の錦絵を眺めるような風情ふぜいがあった。夢二の絵が、もてはやされた時代である。少年たちの瞳は、アセチレンの灯になまめく芸妓たちの褄先つまさきや白い素足におどおどと吸い寄せられたものである。
甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
心の日月 菊池寛。大日本雄弁会講談社。初版は昭和6年。皆川麗子には親が決めた結婚相手がいるが、嫌悪感は強く、同じ岡山県の学生磯村晃と飯田橋駅で待合せをする。しかし、麗子は飯田橋の改札口、磯村は神楽坂の改札口で待っていたので、数時間後も会えなかった。麗子は丸ビルで中田商事の青年社長の秘書として働くが、社長の妻からは退職するよう言われる。その後、中田社長は離婚する。また麗子は磯村と話し合い、磯村は中田の妹を愛しているので、心の友達として会いたいと答える。最後は麗子は中田社長の勧めで、音楽学校に入ることになる。
ニレジイ フランス語L’élégie。英語ではelegy。悲歌、哀歌、挽歌。
飯田橋駅の長い廊下のような通路 かつての通路。

アセチレン灯 炭化カルシウムCaC2と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるランプ。硫黄化合物などの不純物を含むため、特有のにおいがある。
錦絵 にしきえ。浮世絵版画で、多色ずりの木版画
艶めく なまめく。つやめく。異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。
褄先  着物の褄の先端。

 久しぶりに牛込見付の石崖近くに立って私は暮れなずむ神楽坂の灯を眺めた。法政大・物理大の学生の人並で押しつぶされそうである。石崖につづくお堀の上の土手に、戦前は「この土手に登るべからず警視庁」という、いかめしい制札が建っていて、これが現代俳句の濫觴らんしょうだなどと私たちは皮肉ったものである。その土手に、今では散歩道がついて、学生たちの気取った散歩姿が見られる。土手の登りぎわにある煤けた白亜の逓信博物館の、煤けた白亜に捨て難い風情がある。しかし、情緒・風情などの言葉は既に死語といえそうだ。戦争直後の廃墟のようなただ、、に過ぎなかった神楽坂も、幅広い歩道が完成し、老舗しにせの灯も復活した今は、どうやら生気が甦ったようである。
制札 せいさつ。禁令の個条を記し,路傍や寺社の門前・境内などに立てる札。
濫觴 らんしょう。ものごとの始まりや起源を指すことば
煤けた すすける。すすがついて黒く汚れる。
逓信博物館 京橋区木挽町に逓信省庁舎にあった「郵便博物館」から、大正11年、東京市麹町区富士見町二丁目の建物に移転し「逓信博物館」と改称。1964年(昭和39年)、千代田区大手町の逓信ビルに移転。

 坂の中途の左側に、文人墨客の溜り場であった名物屋という珈琲パーラーがあり、中国の詩人コーエイの若き日の姿も、この辺で見られたものである。その右手の亀井鮨に「そっと握ったその手の中に君の知らない味がある」という平山芦江ろこうの筆になる扁額がかかっていたが、今はどうなったか。さらに四、五軒上には、牛込会館という、一種の貨演芸場があり、私たちは、水谷八重子(井上正夫共演)の「大尉の娘」に涙を流し、「ドモ又の死」や「人形の家」や「青い鳥」などでりきんだり興奮したりして″新時代″を感じたものである。その牛込会館の下は、美容院になり、上は何かの事務所か貸室になっているようであった。神楽坂を登り切ったところ、左ヘ曲がると、三語楼金語楼が活躍した神楽坂演芸場があったが、今は、さむざむと自動車の駐車場か何かの空地になっていた。左側の本多横町の角から三軒目かに山本コーヒー店があり、一杯五銭の渋いコーヒーと、外国航路船の浮袋のようにふとく大きいドーナツが呼びものであった。日本髪で和服の可憐な娘さんが、カウンターにいて、学生たちは胸をときめかしたはずだが、さて、山の彼方の空は、そのころは、いっそう遠かった——のである。
文人墨客 文人と墨客。詩文・書画などの風雅の道に携わる人
名物屋 不明です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では昭和5年ごろ、亀井すしの坂下南では「カフェ神養軒」「はりまや喫茶」「白十字喫茶」しかありません。
コーエイ 詳細は不明。コーエーとも。大正末期から昭和初期にかけて日本語で詩を書いた詩人。
平山芦江 小説家・随筆家。花柳ものが得意で、都々逸の作詞、随筆を残した。第一次『大衆文芸』を創刊。小説『唐人船』『西南戦争』など。生年は明治15年11月15日、没年は昭和28年4月18日。享年は70歳。
扁額 へんがく。室内や門戸にかかげる横に長い額。
大尉の娘 ロシアの詩人プーシキンの完成された唯一の中編歴史小説。1836年に発表。僻遠の地キルギスの要塞に赴任した少尉補グリニョフとミロノフ大尉の娘マリヤとの恋を、プガチョフの叛乱を背景に描く。
ドモ又の死 有島武郎の作品。大正11年(1922)に発表。若い画家5人は1人(ドモ又)を天才として死亡させるが、実は死亡するのは石膏の面で、ドモ又はドモ又の弟となり、モデル(とも子)と結婚する。そして、悪ブローカーやえせ美術愛好家から金をとろうとしている。
人形の家 1879年、ヘンリック・イプセンの戯曲。弁護士の妻ノラは借金のことで夫になじられ、人形のような妻であったことを悟り,夫も子供も捨てて家をとび出す。
青い鳥 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。1908年発表。チルチルとミチルは幸福の青い鳥を探しに行く。
美容院 マーサ美容室です。
山の彼方の空 上田敏氏の『海潮音』「山のあなた」からきています。「山のあなたになお遠く「幸」さいわい 住むと人のいう」。詩では「幸福」ですが、ここでは「恋愛」を指すのでしょう。

 その先の沙門天しゃもんてんをまつる善国寺のお隣りには、山の手の洋食の味を誇った田原屋があり、晩年の鷲尾雨工は、この店の酒と料理と雰囲気とを、こよなく愛していたようだ。同じ側に五十鈴といった甘い物屋と鮒忠という鳥料理屋があるが、これは、いずれも戦後派である。その角を左へ、急坂を少し登ると、今はアパートか何かになっているが、山の手の洋画封切場として偉容を誇る牛込館があった。徳川夢声の前のインテリ弁士といわれた藤浪無鳴がここに拠り、やがて夢声も、つづいて奇声と頓才で売出した大辻司郎が、右手を符の上へ突込んで銀幕の前へ、のこのこと現われて大喝采を博した懐しい大正時代。さらに、その以前、隣り上の下宿屋には、宇野浩二広津和郎などの若い文士たちが、とぐろを巻いていたものである。さらに大昔、藁店わらだなといったこのあたりは、由井正雪何何剣客のゆかりの地でもあったらしい。
封切 ふうきり。ふうぎり。封を切る。開封する。(近世、小説本は袋に入れられ発売した)新版の本。新作映画をはじめて上映して一般に見せること。一番館。
藤浪無鳴 活動写真弁士(無声映画の説明者)の1人。映画会社の翻訳を行い、のちに活動弁士になり、初めは浅草の金竜館、のちに新宿の武蔵野館の主任弁士を務めた。徳川無声の兄分で、2人で大正六年三月に帝国劇場でトマス・インス監督の大作映画「シヴィリゼーション」で弁士を行っている。また大日本映画協会を主宰しヨーロッパ映画の輸入に携わった。生年は明治20年8月4日。没年は昭和20年6月11年。享年は59歳。
大辻司郎 漫談家。活動写真弁士。兜町の株屋から弁士に転向し、「胸に一物、手に荷物」「海に近い海岸を」「勝手知ったる他人の家へ」「落つる涙を小脇にかかえ」などという「迷説明」など珍妙な台詞で有名になった。頭のてっぺんから出る奇声とオカッパ頭も有名。昭和27年、日航機もく星号の伊豆大島三原山の墜落事故で遭難死。生年は明治29年8月5日。没年は昭和27年4月9日。享年は55歳。
下宿屋 みやこ館です
とぐろを巻く 蛇などが渦巻状に巻いてわだかまっている。何人かの人が、ある場所に集まって長時間いる。腰を落ちつけて動かなくなる。
何何 不定称。不定の人や物事についていう。あれこれ。

 新宿―水天宮間の都電通りへ出る少し手前の左側に、紅屋という二階建の洋菓子店があり、高級な甘党を喜ばせていた。三階に、東京でも嚆矢といわれるダンスホールがあったが、いつの間にか消え失せ、その後はもっばら味の店としてさかっていた。そのころ一週間に二、三回は必ず二階の隅の卓に、小柄で白髪童顔の老紳士が、コーヒーを喫しながら何かを読んでいるのにぷつかったものだ。その老紳士秋田雨雀に、私は、ここで知り合いになった。
都電通り 現在の大久保通り。
嚆矢 こうし。何かの先がけとなるもの。物事の初め。最初。やじりにかぶらを用いていて、射ると音をたてる矢。昔、中国で、戦争の初めにかぶら矢を射たところから。

 都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋通りを左へ入ると、カフエ・プランタンがあった。大麗災で下町を追われたダンディたちのメッカであったカフエ・プランタン。しかし私には、その薄暗い客席が、どうしても馴染なじめなかった。今でこそ町名の区別がなくなったが、この辺は、もととおてらといい、少し横へ曲れば、横寺町になり、飯塚というとぶろく、、、、屋があり、その先の路次の奥に松井須磨子のくびれ死んだ芸術倶楽部があった、ひところは倉庫のようになっていて、子供たちの遊び場であったことを覚えている。今は、もうその場所跡すら誰も知らない。記憶の中に溶けこんでしまっているようだ。この通りを少し歩いた左側に明冶の文豪尾崎紅葉の住んでいた古びた二階家と庭木が、戦争前までは残っていたが、新しい世代には関係のない絵空事とでもいおうか。
 今、この通り寺町(矢来から江戸川方面と早稲田、高冊馬場通りへつづく)は、地下鉄工事でバスなどは一方交通になっているが、ここから神楽坂へかけては、散歩道としても全くよい環境であったのだ。右側にある神楽坂武蔵野館という映画館は、文明館といって、神田の錦輝館とともに東京の映画館の草分けの一つでもあった。
 その隣りに南北社という本屋があり四六判型の「日本」という珍らしい大衆総合雑誌を発行していた。
 昭和の始めごろだったろうか。夜店のバナナの叩き売りとは違う青年のかけ声が聞こえるので、人混みをかきわけて覗いてみると、白皙長髪の青年たちが、部厚い原稿用紙の束をり売りしているのであった。つまり印刷工程を経ていないなまの小説なのである。こういう時代もあったのだ。青年たちの一人は、新しい小説家の金子洋文であった。
錦輝館 きんきかん、1891年10月9日、開業し、1918年8月19日に焼失。多目的会場。明治30年、東京でバイタスコープ(トマス・エジソンが発明したアメリカ最初の活動写真)の初めての映画があった。
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
金子洋文 かねこようぶん。小説家、劇作家。武者小路実篤に師事。労農芸術家連盟を結成。昭和22年、社会党の参院議員を一期務めた。創作集「地獄」「鷗」「白い未亡人」、戯曲集「投げ棄てられた指輪」「飛ぶ唄」「狐」「菊あかり」など。生年は明治27年4月8日。没年は昭和60年3月21日。享年は91歳。

 通り寺町をまっすぐ通り抜けると矢来下に出る。その先が江戸川橋、左へ折れて早稲田へつづくが、矢来下の交番の横手に水守亀之助の家があり、小川未明もこの近所に住んでいて、娘さんの大きな澄んだ眼が印象的だった。矢来通りには東洋経済新報社もあったと思うが、古道具屋が多く「カーネギー曰く、多くの不用品を貯えんよりは有用の一品を求めよ」と大書した看板の店があった。その頃は古道具屋をあさるほどの身分でもなかったから、どんな有用な品があったか知らないが、古道具屋とカーネギーの取り合わせが珍らしく、この店はあまりはやらないのだろうと思ったりした。悠長な時代であった。
 矢来下から引返してだらだら坂を上り、右にそれると新潮社の通りだ。滝沢修が近くに住んでいた。今でも新潮社通いの文士達を時たま見かける。
(筆者は随筆家)

江戸川橋 神田川中流で目白通りの橋。場所は文京区関口一丁目。
水守亀之助 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では、大正11~14年、矢来町3番地中ノ丸2号に住んでいました。昭和3年は矢来町66番地でした(下図)。「ラ・カグ」のあたりです。さらに、昭和6年は弁天町60でしたが、戦災で焼失し、終戦直後は世田谷に疎開したと、地元の人の調査で。概略は明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏といったようです。生年は明治19年(1886年)6月22日。没年は昭和33年(1958年)12月15日。享年は72歳。

昭和5年 牛込区全図 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年から


小川未明 同じく、大正5~6年には矢来町38番地に住んでいました。
カーネギー 実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業。スコットランドで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住。
だらだら坂 矢来通りに相当します。
新潮社の通り 牛込中央通りです。
滝沢修 俳優、演出家。開成中学を卒業後、1924年築地小劇場に入る。昭和22年、宇野重吉らと劇団民藝を創設。映画・テレビドラマへの出演も多い。生年は明治39年(1906年)11月13日、没年は平成12年(2000年)6月22日。享年は93歳。

甲武鉄道の複線化(明治28年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治26年(1893年)、新宿から都心に向けた「市街線」=新線の建設に乗り出しました。「甲武鉄道市街線紀要」(明29.10)によれば、建設は以下のように進みました

年表
明治26年3月新線敷設の本免状
7月着工
明治27年9月青山軍用停車(現・国立競技場付近)完成、
日清戦争の部隊が出征
10月新宿-牛込間を開業
本社・技術部を飯田町に移転
明治28年4月牛込-飯田町間を開業
5月複線敷設を願出
7月上記の許可、着工
12月複線開業

 つまり牛込駅開業から1年ちょっとで複線化します。あらかじめ計画しておいたから可能なスピードでした。

……新線開通の結果は、素望むなしからず(計画倒れではない)と言えども、単線のみなるを以て乗客の便利を満たすあたわざる(満たせない)を認め、当初の計画に基づき複線敷設の願書を提出し……(新字・新かなで適宜修正)

 なぜ最初から複線にしなかったのかは分かりません。東京市区改正委員会が外濠の土手の木を切らないよう注文をつけたことや、地元に一部反対運動があったことも関係しているかも知れません。複線化着工の直前に社債を発行しているので、資金面の問題だったとも考えられます。
 市街線は途中に4箇所のトンネルと多数の橋がありました。牛込橋は土堤の一部を切り崩して鉄橋をかけ、線路を下に通しました。新見附は土堤部分にトンネルを作りました。これらは当初から複線を想定していました。

 新見附の「四番町トンネル」の図面や事故時の写真を見ると複線とは思いにくいようです。なお四番町トンネルの建設は、新見附橋そのものを民間資金で建設していたのと同時期です。民間の代表者と甲武鉄道の間に、なんらかの連絡があったのでしょう。

 しかし当時の短い車両には十分でした(左下、甲武鉄道四谷トンネル)。今も現役のトンネルは単線に変更して使われています(右下)。

 甲武鉄道が国有化された中央線は、昭和4年ごろに複々線に転換する大工事をします。この時にトンネルや橋は大きく姿を変えます。それまでは小さな汽車や電車が外堀を行き来していました。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)


小川一真出版部「東京風景」(明治44年)四谷見附より市ヶ谷方面を望む

牛込見附と桜の木(大正11-12年)

文学と神楽坂


「牛込見附」の写真について地元の方が解説をしました。

 東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖は、当時の東京市役所公園の手による関東大震災直前の写真集です。「序」には「都市改造ノ業益進」む中で「真景ヲ留」める目的とあります。精細なコピーが国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
「牛込見附」は第1集4(コマ番号11)で、以下の写真と解説があります。


 麴町區富士見町より牛込神樂坂に通ずる門で、牛込口または牛込門ともいひ、此邊に楓樹があったので俗に紅葉門とも呼んだことがある。寛永十三年幕府が江戸城の修築を諸侯に命じた時、此見附は蜂須賀忠秀が營んだもので、恐らく此時新たに出来た見附と思はれる。今は殆んど舊態を失ひ、僅かに石垣のみに其名残を留めて居る。

 牛込見附については、このブログの別記事で詳細に検討されています。
 ここでは、写真帖の牛込見附の写真を見ていきます。牛込橋は神楽坂の反対側を左手前から上にあがり、欄干がでています。その先の木柵部分は千代田区側で、下を中央線(旧・甲武鉄道)がくぐっていると思われます。正面右の石垣手前に立つ白いポールは鉄道の信号機でしょう。線路らしきものも確認できます。この右側が旧・牛込駅(後に廃止)になります。積雪があるので季節は冬でしょう。
 道路の舗装部分から外れると土手で、右はガケになります。ガケの下は現在のカナルカフェです。土手の電柱の広告は篠崎インキの「万年筆用ライトインキ」。牛込周辺の学生をターゲットとしたものでしょう。
 電柱はたくさん立っていますが、街灯らしきものは見えません。牛込土橋の店もなく、夜は真っ暗だったでしょう。赤井足袋店の赤井儀平氏の回想に一致します。

 土手の中央に桜の木があります。この三股が特徴的な桜は時代を超えて、いくつかの写真に登場します。
・昭和6年 ID 2 飯田橋駅付近より坂上方向
 左端の木で、太くなりました。土手は歩道として整備されました。
・昭和20年 早乙女勝元『東京空襲写真集』
 左端で見切れています。
・昭和37年頃 ID 55-56 飯田橋駅付近より坂上方向
・昭和37年 ID 5993-5994 神楽坂入口をのぞむ
 店ができています。歩道を半分占めるほどの大樹に。
その後、おそらくジャマになって切り倒されました。
・昭和42年 田口氏05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を
桜の木を基準にすると、牛込橋の幅が徐々に広がっていったことが分かります。

都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)を見ましょう。

小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照。ただし13系統と15系統は間違いで、逆が正しい。

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】 1968年(昭和43年)
 傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】 1962年(昭和37年)
 新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」(J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年)で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。(1964年12月4日)

牛込の文士達➆|神垣とり子

 泰三は文士のだれ彼を辛辣に評していた。よくまああんな毒舌があの小男の口から出るかと思うくらいだ。葛西善蔵さえも「田舎っぺい」とやっつけたらしい。それにしてはよく若い者が集った。お節句には文学青年が集って泰三が郷里から持って来た獅子噛み火鉢にさざえを入れて、めいめい具を足して壷焼きにして食べた。お酒は茅場町白雪の支配人の池田みのるが2升ぶら下げてきた。この連中は集れば銀座をのすより京橋の裏通りや横町のうまいもんやを歩き、甚兵衛で「くさや」の干物を買ってきたり「酒盗」を買ってきてくれた。その頃猫が7匹もいて、くさやは、赤いけどあべこべの名をつけた「くろ」には大好物のものであった。「ちび」というのは一番大きくてアスパラガスの鍵をあけると一目散に飛んでくるので不思議だった。味淋ぼしを、それもよくかんでごはんにまぜてやる役に早稲田の学生で、泰三の隣村の村長の次男坊があたった。はじめて横寺町の家を訪れた時、「ちまき」をうんとこさともってきた坊主頭の男の子で「どうもう児」と名をつけた。それが近所の下宿から泰三の所へころがりこんで猫の食事係となった。「みりんぼしを噛んでいてよく食べたもんですよ、とてもうまかった」と何十年かたってから聞いて思わず苦笑した。

郷里 相馬泰三氏は現在の地域で、新潟県新潟市南区の生まれです。
獅子噛み火鉢 「獅噛火鉢」が正しい。しかみひばち。獅噛みを足や把手にとりつけた金属製の丸火鉢。
茅場町 東京都中央区の地名。日本橋茅場町一丁目から日本橋茅場町三丁目まで。
白雪 おそらく兵庫県伊丹市の小西酒造では? 「山は富士 酒は白雪」がそのキャッチフレーズ。
池田みのる 名前があまりにも普通なので探すことはできません。
のす 勢いや力を伸ばす。発展させる。
京橋 明治11年から昭和22年までの東京市京橋区。現在は中央区南部。

1878年東京15区

甚兵衛 不明。現在、新橋駅にある甚兵衛の開店は3~40年前。ここでは約100年前に開店していたので、違います。
くさや 魚からつくる塩干しの一種。伊豆七島の特産物。特有の臭みがある。
酒盗 しゅとう。魚の内臓を原料とする塩辛
くろ 猫の名前です
 いわし。マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシの海水魚の総称
味淋ぼし 味醂干。みりんぼし。魚の干物の一種。魚を開き醤油や砂糖、みりんなどを合わせたタレに漬け込んで味付けし、乾燥する。
ちまき 餅菓子の一種。笹や竹の皮などで巻き、い草で三角形に縛ってつくる。

 バスケットに原稿を入れて島田清次郎の向うを張るつもりらしい新潟の質屋の伜が上京して横寺町の泰三のところへおちついた。同郷のよしみでたずねてきたおとなしい少年で「豚児をよろしく」と親から添え手紙をもってきたのでみんなが「質やのトントン」ということにして、今もって「トントン」で通っている。
 神楽坂で現金の一番あるのが坂の途中の焼芋やだといわれていた。一番月給の多いのは牛込郵便局長さんだというので折があった時きいたら「95円」だというので少いと思った。うちではいくら人の出入りが多いとはいえ、家賃は17円の二階だが北町の岩瀬肉店へ15円、出入りの魚やが10円、八百やが10円、映画、寄席、芝居が7円くらい、ほかにオザワ水文紀の善など。横寺町に新居をもった年の暮に残金2円50銭で大笑いをした。佐倉炭が1俵2円の頃だったかしら。「今日は帝劇、明日は三越」の頃で、帝劇の入場料が最高4円で牛込駅から坂を上って横寺町までの入力車が50銭だった。

豚児 自分の子供をへりくだっていう語。豚の子。
坂の途中の焼芋や 焼芋屋は、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではなく、『露店研究』でもありません。
岩瀬肉店 昭和12年の火災保険特殊地図では、新宿区北町に同じ名前はありませんでした。
佐倉炭 千葉県佐倉地方に産するクヌギからつくる炭。上質で、茶の湯などに用いられる。

 無一物主義で通していた泰三も、結婚したらお宗旨を変えてしまった。というより私の浪費癖がそうさせたのだろう。「クルイロフ」の「乞食の財布」を捨てなければならない時が来た。長谷川時雨女史が経営している鶴見の旅館「花香苑」に原稿を書きに出かけたり、越後寺泊りに冬の日本海の荒波を見に行ったりするのに疲れて来た。泰三は誰にも相談しないで郷里に帰った。広津和郎葛西善蔵は鎌倉へ住みつき、秋庭俊彦等々力に農園を始めてメロンを作ったりしていた。その秋に関東大震災があったが焼けなかった神楽坂は前にも増して賑やかになった。その賑わいに文士たちが一役買っていたことも事実だった。

無一物 むいちもつ。何もないこと。何も持っていないこと。
主義 常にいだく主張、考えや行動の指針
宗旨 しゅうし。自分の主義・主張・趣味。好みのやり方や考え方。
クルイロフ イワン・クルイロフ。Иван Андреевич Крылов。19世紀ロシアの劇作家、文学者。庶民の日常語を用いて、不道徳、社会悪、農奴制による罪悪を風刺した。生年は1769年2月13日、没年は1844年11月21日。
乞食の財布 豊島与志雄、高倉輝訳「世界童話集」(アルス、昭和3年)ではコマ番号110-111が「不思議な財布」として出ています。この財布、1日に1枚ずつ中で金貨を生んでくる。でも、使えない。財布を川でなくすと、はじめて金貨を使える。主人公は900枚金貨を持っていて、使わずに、死亡しました。
花香苑 はなかえん。大正14年、横浜市鶴見区に長谷川時雨氏が田舎料理の旅館「花香苑」を開いた。
越後 佐渡を除いて新潟県の全域にあたる地域
寺泊り 固有名詞として、新潟県長岡市の地名。日本海に面し、漁業が盛んで、古くは佐渡へ渡る重要な港として栄えた。他寺の僧や参詣人が泊まる、寺の宿舎は宿坊(しゅくぼう)といいます。おそらく固有名詞のほうでしょう。
等々力 とどろき。東京都世田谷区と神奈川県川崎市中原区の地名
関東大震災 大正12年(1923年)9月1日11時58分頃に発生。

牛込の文士達➀|神垣とり子

文学と神楽坂

「牛込の文士達」(新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷、新宿区立図書館、 昭和45年)を書いた神垣とり子氏は1899年(明治32年)に新宿の貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた江戸っ子で、美貌であっても、気性は激しく、浪費家で、しかも、相馬泰三氏の元妻。この2人、大正9年に結婚して、しばらくして横寺町の小住宅を借りていました。しかし、この結婚は長続きできず、大正12年頃、離婚します。ただし、相馬氏が死亡した直前の昭和27年に再会し、亡くなるまで神垣とり子氏は傍にいました。
 これは大正10~12年頃の世界です。

  牛込の文士達
火事はとこだい
「牛込だい」
「牛込のきん玉丸焼けだい!」
 牛込というと明治、大正時代の東京の子供達は、こういって噺し立てるほど、牛込の牛宿は芝の高輪車町辺の牛宿と共に有名だった。そして両方とも近所に飲み屋や小料理屋があり賑わったものだ。牛込の神楽坂は表通りが商店、裏通りは花柳界で、昔の牛込駅から入力車にのるとかなりの坂道なので車力が泣いたといわれた。「東雲のストライキ節」をもじって
「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」と替唄が出来た。
 毘沙門さまの本堂の鈴が鳴り出し、お百度道の石だたみに芸者の下駄の音が一段と冴えてくると毘沙門横丁の角のそばやの春月で「イラッシャイ」  ふらりっとはいるお客が気がつくと一羽のオームがよく馴らされていていうのだ。「もり」「かけ」 5銭とかいてあるので、もりかけを注文して10銭とられた上、もりの上からおつゆをかけて袴を汚した早稲田の学生の逸話もあった。その学生達にとりまかれて着流しのいわゆる「文士」連がいた。

火事はとこだい 昭和一桁に生まれた人はよく唄った「かけあい」言葉、「ハヤシ」言葉、地口じぐち歌、ざれ歌。地口とはしゃれで、諺や俗語などに同音や発音の似た語を使って、意味の違った文句を作ること。たとえば〈舌切り雀〉を〈着た切り雀〉という。
牛宿 牛の牧場のこと。神楽坂には大宝律令で牛の牧場が開けて以来の歴史があります。701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧ぎゅうまき」という牧場が設置、飼育舎「乳牛院」が建てられたという。古代の馬牧が今日都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているが、古代の牛牧では「牛込」に当てはまるという。
高輪車町 高輪牛町。たかなわうしまち。牛町。市ヶ谷見附の石垣普請の時、重量運搬機の牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せて材木や石類の運搬に当たらせた。工事終了後、この町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えた。「車町」(通称牛町)とよぶ。
車力 大八車などで荷物を運ぶのを職業とする人や荷車
東雲のストライキ節 東雲節、しののめ節、ストライキ節。明治後期の1900年ころから流行した流行歌はやりうたのひとつ。代表的な歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」
お百度 病気平癒や念願成就のため社寺に参りて、その境内の一定の距離をはだしなどで100回往復し、そのたびに拝する軽い苦行
もり 従来のつゆに浸して食べること。一説には高く盛りあげるから。
かけ 「おそばにつゆをぶっかけて食べ始める」から「ぶっかけそば」転じて「かけ」
着流し はかまや羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり。

 大正の初めから神楽坂は「文士の街」になった。そうして山の手随一のさかり場だった。肴町を中心にして文なし文士は「ヤマモト」で5銭のコーヒーと、ドーナツで2時間もねばりおかみさんの大丸まげにみとれていた。
 雑司ヶ谷の森から木菟みたいに毎晩やってくるのは秋田雨雀で、雨が降ると見えないのは雨傘がないからだろうなんていわれていた。秋田雨雀は小柄な人なつっこい童顔でだれかれに愛想よく挨拶をしてゆく。「土瓶面なあど精二」とは、印度の詩入ラビンドラナート・タゴールが来朝して若い男女が話題にしたのをもじってつけた名で、谷崎精二潤一郎の弟でいい男だと己惚れていたが履物が江戸っ子のわりには安ものらしくすりへって、そり上げた額の青さとは似ても似つかぬものだった。矢来町を通って弁天町からやってくるのだから下駄もへってしまうのだろう。「」(このしろ)みたいに妙に青っぼい着物ばかり着ている細田民樹が五分刈りの頭でヒョコヒョコと歩いていた。

大丸まげ  既婚女性の代表的な髪型。丸髷の大きいもの。

大丸髷

雑司ヶ谷 東京都豊島区の町名。池袋から南に位置する。
木菟 みみずく。フクロウ科のうち羽角(うかく、いわゆる「耳」)がある種の総称。
土瓶面なあど精二 「ドビンメンナード・精二」と名前をつけたわけです。
ラビンドラナート・タゴール インドの詩人、思想家、作曲家。1913年、ノーベル文学賞を受賞。1916年から1924年まで5回来日。生年は1861年5月7日、没年は1941年8月7日。
弁天町 谷崎精二は大正8年頃から昭和元年頃までは弁天町6に住んでいました。
 このしろ。ニシン科の海水魚。全長約25センチ。約10センチのものをコハダという。
細田民樹 早稲田大学英文科卒。大正2年「泥焔」を「早稲田文学」に発表。島村抱月らの称賛をえ、早稲田派の新人に。兵役の体験を大正13年に「或兵卒の記録」、昭和5年「真理の春」として発表。プロレタリア文学の一翼を担った。大正10年から12年頃まで北町41の大正館。生年は明治25年1月27日、没年は昭和47年10月5日。

 都館という下宿やの三階に広津和郎が女房と暮していた。くたびれているが栗梅色縫紋の羽織着てソロリとしていた。親爺の柳浪お下りだといっていたがシャレタ裏がついていたっけ。ルドルフ・バレンチノにどこか似ているといわれていたが、本物が聞いたら泣きべそをかくだろうけど文士の中ではともかくいい男だった。宇野浩二葛西善蔵と歩いていると贅六や田舎っぺと違っていた。
 詩人の生田春月白銀町豆腐やの露地裏のみすぼらしい、二階に住んでいた。名とはあべこべの花世女史とー緒にいた。この花世女史が、油揚げを買ってる姿をよく見た。女弟子らしいデパートの女店員が二階にいた。これもだらしのない姿で、裾まわしがきれて綿が出ていても平気で神楽坂を散歩していた。「帯のお太鼓だけが歩いている」なんて背のひくい花世女史の陰口を長谷川時雨をとりまく女たちがいっていたが、花世はむしろ媚をうって男の詩人仲間を娼婦的に泳ぎまわる彼女らを見くだしていた。

栗梅色 くりうめいろ。栗色を帯びた濃い赤茶色。#8e3d22。#8e3d22
縫紋 ぬいもん。刺繍ししゅうをして表した紋。
ソロリ 静かにゆっくりと動作が行われるさま。そろそろ。すべるようになめらかに動く。するり
お下り おさがり。客に出した食物の残り。年長者や目上の人からもらった使い古しの品物。お古。
ルドルフ・バレンチノ サイレント映画時代のハリウッドで活躍したイタリア出身の俳優。生年は1895年5月6日.没年は1926年8月23日。
贅六 ぜいろく。関東の人が上方かみがたの人をあざけっていう語]
豆腐や 『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は白銀町を描き、豆腐屋は現在の交番に当たるといいます。

白銀町・豆腐屋

花世 生田花世。いくたはなよ。大正から昭和時代の小説家。大正2年、平塚らいてうの「青鞜せいとう」同人となり、昭和3年「女人芸術」誌の創刊に参画した。夫の生田春月の死後「詩と人生」を主宰。生年は明治21年10月15日。没年は昭和45年12月8日。享年は満82歳。
裾まわし 裾回し。すそまわし。着物の裾部分の裏布をいう。
お太鼓 おたいこ。女帯の結び方の一種。年齢,未婚既婚を問わず最も一般的な結び方

[名所名店]

牛込駅リターンズ

文学と神楽坂

 2020年7月12日、JR飯田橋駅が新しい駅に生まれ変わります。駅の西口も新しいものにかわる予定です。さて、地元にお住まいの協力者の方から、こんなメールを頂きました。

駅舎完成イメージ

 神楽坂の住民にとって、もちろん飯田橋駅はなじみ深い駅なんですが、飯田橋という地名は千代田区のものだし、駅舎も東口に「みどりの窓口」があるなど飯田橋側がメーンなんです。神楽坂に近い西口は、どうしても裏口的な感じがありました。
 この東口と西口の競争みたいな感情は多分、旧牛込駅旧飯田町駅の時代から続くものなんでしょう。地下鉄の有楽町線のができる時、地元商店会は「駅名を『神楽坂』に」と運動したんです。東西線に『神楽坂』駅があるので無理だと分かっていても、目の前の駅が別の名前であることは納得しがたかったんでしょう。
 もう立ち消えになったようですが、東口に近い新宿区側の下宮比町に町名変更の話があって、その候補名が「西飯田橋」だという。そりゃないだろと思いました。今も「飯田橋駅東口郵便局」が下宮比町にあるんてすが、おかしいですよね。けど地方の人からしたら、飯田橋の方が分かりやすいんでしょう。駅名って、とても大事だと思います。
 昔の国電の飯田橋駅西口は、改札を入ってから長い傾斜路でホームに降りていくので、電車が見えているのにドアが閉まって発車してしまう。そんな時に東口との距離を感じました。
 今のJR飯田橋は普通の各駅停車の駅ですが、昔はちょっと違ったんです。総武線と中央線の線路の脇に、隣接する飯田町貨物駅引き上げ線があって、狭い場所ながら貨物列車の入れ替えがあった。この引き上げ線の跡地は、新しい西口を作るまでの仮駅舎になりました。
 それと千葉方面から来る総武線の各駅停車は何本かに1本、飯田橋が終点でした。市ヶ谷の方にあった折り返し線に入ってから、向きを変えてホームに入ってきて、今度は飯田橋始発になる。ちょっとターミナル駅みたいな感じがありました。大人が「昔の甲武鉄道は、ここが始発駅だったんだよ」と言っているのを聞いて、なるほどなと思ったものです。
 各駅停車の飯田橋始発着がなくなったのは1990年ごろかな。折り返し線も撤去されました。ちょうどそのころ、地元の商店会にJR側から「いずれ、あの折り返しの線の場所にホームを移したい」という意向が伝えられました。曲線ホームが危険だということは、ずっと前から認識されていましたからね。この話に地元は大いに期待しました。けど実現するまで30年かかった。
 新しい西口の駅舎には「みどりの窓口」も出来て、今度は西口がメーンになります。東口からは古いホームを歩いてこないと電車に乗れない。ちょうど昔と反対の立場です。
 ほかに西口の旧駅舎で、思い出話がふたつあります。ひとつは、いまラムラに入るみやこ橋のところにあった古い神楽坂警察署の木造の建物。1970年頃、もう警察は移転していたんですが、剣道場が残っていて人が出入りしていました。機動隊も一緒に使っていたんじゃないかな。
 もうひとつは桜の木です。駅から牛込見附の交差点まで下りる坂に大きな桜が2本ありました。花の季節は綺麗なんですが、桜って毛虫がつくんですよ。初夏になると頭の上からポロポロ落ちてきて、そこを通勤通学の人が歩くものだから、もうグチャグチャで大変。苦情が出たんでしょうね、いつの間にか伐採されました。
 お堀の脇の土手公園も、昔はもっと桜が生えていたと思います。けど同じ苦情で、通路の部分の木を減らしたようです。今も桜の名所ですが、毛虫が話題にならないのはなぜなんでしょうね。

旧飯田町駅 甲武鉄道で牛込駅の東で、次の駅。飯田町駅開業当初は始発駅。1928年(昭和3年)に牛込駅と同時に廃止、両駅の中間の曲線部分に飯田橋駅が開業。その後、飯田町駅は荷物や貨物の専用駅になり、1999年(平成11年)飯田町駅は廃止。
 営団地下鉄有楽町線の飯田橋駅です。1974年開業。
運動 駅名が正式決定する前の段階なので、開業の1-2年前でしょう。商店会から営団地下鉄に要望しました。
東西線に『神楽坂』駅 1964年開業。有楽町線に比べて東西線神楽坂駅の開設は10年早い。
下宮比町に町名変更の話 噂として聞こえてきた話です。神楽坂は住居表示「未実施」で、下宮比町は昭和63年2月15日に「実施」しえいます。おそらく、その前の「候補」か「構想」の段階だと思います。
飯田橋駅東口郵便局 新宿区下宮比町3-2で、大久保通りに面しています。
飯田町貨物駅 アイランズ著『東京の戦前昔恋しい散歩地図』(草思社、2004年)で、飯田橋貨物駅は

飯田橋貨物駅

また、アルビオ・ザ・タワー千代田飯田橋では

飯田橋貨物駅(旧飯田町駅・昭和63年)毎日新聞社

引き上げ線 停車場において、列車や車両の方向転換や入れ換えを行うために、一時的に本線から列車(車両)を引き上げるための側線。
折り返し線 あきぼうのブログ(https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html)に「折り返し用引き上げ線があった」として「この線路と線路の間の土地は、かつて飯田橋駅で折り返していた千葉方面への折り返し列車を引き上げていた線路跡なのです。現在折り返し運転が亡くなったため線路は撤去されています。そこで、この線路跡の土地を利用して飯田橋駅の改良工事が進められています。」と書かれています。下の図「飯田町駅牛込間新停車場」の1番奥の線路は折り返し用引き上げ線です。

飯田橋駅と牛込見附と橋

西口の駅舎 新西口駅舎は、鉄骨造・2階建て。延床面積は約2200㎡。多機能トイレ1カ所、1人乗りエレベーター1基が設置。一階は駅施設と店舗(3店舗)、二階は店舗(2店舗)。

ラムラ 昭和59年、飯田橋のセントラルプラザビル(店舗、事務所、住宅機能をもった大規模複合ビル)が完成。うち、セントラルプラザビルの1、2、20階を占めるショッピングセンターは「ラムラ」と呼ぶ。(株式会社セントラルプラザ

https://chikatoku.enjoytokyo.jp/spot/ramla.html

みやこ橋 牛込橋の周縁道路と総合ショッピングセンター・ラムラをつなぐ橋

みやこばし

毛虫が話題にならない 自治体の人が桜が咲き始める前に大量の殺虫剤をまくらしいと、あるブロガー



牛込橋

文学と神楽坂

 北西の「神楽坂下」から南東の牛込見附跡までにある橋を牛込橋といいます。

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 千代田区では交番の脇の標示に…

牛込橋

牛込橋

牛 込 橋
 この橋は、「牛込橋」といいます。
『御府内備考』によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と牛込方(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
 最初の橋は、寛永13(1636)年に外堀が開かれた時に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。
 現在の橋は、平成八年三月に完成したもので、長さ46メートル、幅15メートルの鋼橋てす。
     平成八年三月
千代田区教育委員会

 最初は広重の「どんどんノ図」の一部です。神田川を遡る荷船はこの『どんどん橋』(どんどんと音のする木造の太鼓橋)と呼んだ牛込御門下の堰より手前に停泊し、右岸の揚場町へ荷揚げしました。天保年間(1830-44)後期の作品です。
  団扇絵3

 次は国立国会図書館の「神田川通絵図」の図です。書誌の解題には「巻頭に天明五巳年三月とあり、図中、昌平橋近くの鳳閣寺に寛政11年に所替となった旨の書き入れがあり、およその作成時期がわかる」と書いてあります。天明五巳年は1785年、寛政11年は1799年のことで、江戸中期です。
牛込橋と船河原橋

 次は明治4年(1871)の橋で、「旧江戸城写真帖」に載っている写真です。太政官役人の蜷川式胤が写真師・横山松三郎と絵師・高橋由一の協力を得て、江戸城を記録した写真集です。湿式コロジオン法といわれる撮影技法を用い、感光能力に優れ、取り扱いも簡便、画像が鮮明で保存性もよかったといいます。いつの間にか「どんどん橋」(木造の太鼓橋)ではなく、普通の橋になっています。
牛込門

 さらに明治6、7年の牛込橋です。

牛込橋之景。一瀬幸三「浄瑠璃坂の敵討は牛込土橋」(新宿郷土会。平成6年)

牛込門橋台石垣イメージ(牛込門と枡形石垣 飯田橋駅西口2階)

 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近でした。駅の建設が終わると、下の橋もできています。翌年、飯田町駅も開業されました。

東京実測図。明治28年

東京実測図。明治28年

 次は明治後期で、小林清親氏の「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 明治37年、東陽堂編『東京名所図会』第41編(1904)では牛込橋を下流から見ています。右は牛込区(現・新宿区)、左は麹町区(現、千代田区)です。牛込濠から飯田橋濠に向かう排出口は小さくなっています。

東陽堂編『東京名所図会』第41編(明治37年)江戸東京研究センター

 今度は、東京市編纂の「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)の牛込橋から見た神楽坂です。

 牛込見附の桜花について、石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)は

明治34年、牛込御門の前に明治34年架橋の牛込橋。右手にあった牛込御門は明治5年に渡櫓が撤去され、明治35年には門構えも取り壊された。左手は神楽坂になる。右に甲武鉄道が走るが飯田橋駅(明治3年11年15日開業)はまだなかった。この写真で右後方に牛込停車場があった。ルーペで覗くと右橋脚の中程に線路が見える。橋上の人は桜見物を演出するためのサクラのようだ。

 同じく石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」で

これと同じ牛込橋だ。現JR中央線飯田橋駅西口付近である。赤坂溜池からの水(南側)と江戸川から導いた水(北側)の境目で、堀の水位に高低差があった。今も観察すると水に高低があることが分かる。

 さらに明治42年(1909年)の牛込見附です。(牛込警察署「牛込警察署の歩み」、1976年) L

 1927年(昭和2年)、織田一磨氏は「外濠の雪」(東京誌料)を描いています。

織田一磨「外濠の雪」東京誌料、昭和2年

 1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 また、牛込橋と関係はないですが、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。牛込橋も変更の可能性があります。新飯田橋駅

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

文学と神楽坂

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)


かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。
 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。

同年10月29日 石川啄木の日記から。
 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。

本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。


外濠線にそって|野口冨士男③

「外濠線にそって」その3です。甲武鉄道と、牛込駅とその東口の思い出です。大正8年から13年にかけて野口冨士男氏は小学校の慶應義塾幼稚舎に通っていました。
 国電の中央線は、げんざい飯田橋と水道橋の中間に貨物駅としてのこっている飯田町駅から八王子に通じていた、甲武鉄道のあとを走っている。
 甲武鉄道が官有に帰したのは明治三十九年十月のようだが、大正四、五年ごろ赤坂の紀伊国坂下に住んでいた私の幼年時代の記憶によれば、その時分にもまだ「甲武線」という呼び方はのこっていた。そして、現在でも国電は四ツ谷駅から信濃町へむかって発車するとすぐ迎賓館のちかくで赤煉瓦づくりのトンネル——御所隧道へ入るが、私は年長の友人から「甲武線を見に行こうよ」とさそわれて、トンネルへ吸い込まれていく電車や汽車を上からのぞきこみに行った帰りには、喰違見附の土手でノビルツクシの摘み草をしたものであった。
 その電車は国電になる以前には省線、それよりさらに以前には院線とよばれていた。万世橋=東京駅間の開通は大正八年だから、幼稚舎ボーイだった私が真紅のクロースの表紙がついていて二つ折になる定期券をもって、院線の田町駅まで乗った期間があるのが大正八年以後であることは確実だが、その時分にはまだ飯田橋駅はなくて、私が乗降したのは牛込駅であった。
 げんざい飯田橋駅の西口=神楽坂口は、神楽坂下からゆるい坂をのぽって千代田区へ入ろうとする直前の左側にあるが、その坂道の右側の下の道を歩いていっていまものこっている木橋をわたってから右折すると、桜並木の奥に牛込駅はあった。そして、その裏口は線路むこう——千代川区側の高い位置にあって、裏口の前には阿久津病院という漆喰塗の古めかしい洋館があった。病院が大正年間に神田紅梅町あたりへ移ったあとは戦後まで逓信博物館になっていたが、その建物はどうなっているだろうかと、霧雨のけむっていた日であったが、田原屋で食事をする前に行ってみたら、一階に飯田橋郵便局が入っている飯田橋会館というありふれたビルになっていた。そして、江戸時代の遺構である牛込見附跡の石塁に近接する位置にあった牛込駅の裏口の跡には、共同便所が出来ていた。

国電 JR線です。国電とは大都市周辺の近距離電車線のこと。
貨物駅 貨物列車に貨物を積み降ろしする鉄道駅
飯田町駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通(ここをクリックして地図を出すと、飯田町駅は右側の赤い矢印です)。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。平成11年、この駅も廃止
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。

赤坂田町

赤坂田町

紀伊国坂 東京都港区元赤坂1丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂
住んでいた 子供時代を書いた「かくてありけり」(講談社、昭和52年)で氏の住所は赤坂区田町(現在は赤坂3丁目)だと書いています。図では赤の範囲なのでしょう。
迎賓館 迎賓館赤坂離宮は東京都港区元赤坂2-1-1にある外国の元首や首相など国の賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた迎賓施設。
御所隧道 丸ノ内線四ツ谷駅からよく見えるJR総武線四ツ谷駅側の煉瓦トンネル。総武線四ツ谷駅から信濃町に向かうときに赤坂御用地の下を走る。
御所隧道喰違見附 くいちがいみつけ。「喰違」は防衛のため見附に入る土橋の道をジグザグにしたため。この見附は城門はなかった。
%e5%96%b0%e9%81%95%e8%a6%8b%e9%99%84ノビルとツクシノビル ユリ科ネギ属の多年草。山菜に使う
ツクシ 早春に出るスギナの胞子茎
省線 1920年から1949年までの国有鉄道。鉄道省(1920―1943年)、運輸通信省(1943―1945年)、運輸省(1945―1949年)が管理
院線 1920年以前は鉄道院の所管だった。
クロース cloth。本の表紙に使う型付けなどの加工をした布
田町駅 港区芝五丁目のJR駅
飯田橋駅 現在のJR駅
牛込駅 飯田橋駅よりは南寄りの駅
ここに

朝倉病院

朝倉病院

阿久津病院 正しくは朝倉病院でしょう。明治43年と大正12年の地図で朝倉病院がありました。
%e3%82%b5%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%86%e3%83%a9%e3%82%b9逓信博物館 昭和4年には同じ場所に逓信博物館がありました。
飯田橋郵便局 同じ場所の千代田区富士見2丁目では「飯田橋サクラテラス」があり、ここの一階に今でも飯田橋郵便局があります。
共同便所 その反対側に共同便所があります。

私の東京地図|佐多稲子⑤

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「曲り角」には牛込駅が出ています。

 このときから二十年の月日が流れている。それなのに、飯田橋から九段下へ出る電車に乗ってそこを通り過ぎるとき、私はときおりふいと九段の方を見上げることがある。飯田橋から九段へ出る電車通りはいつも埃をかぶったようにくすんでいて見栄えのしない道だ。魚屋だの八百屋だのの毎日の商い屋に混って、わが家で何かの企業をしているといったようなのが目につく。神田の方へ道の岐れた二股の突っ先の角には自動車の修理をするあけっぴろげな工場があって、円タクの町に流れていたころはよく、ガラスのみじんにひび破れた車などが修理場へ持ち込んであった。片側は九段上なので、そばやの角などから石畳の狭い坂が上へ登っている。家と家との間から高台の石垣ののぞいているところもある。かつての昔、私の生活が結びついていたのは、この辺りなのだと思う。何だか遠い悪夢でも思い出したように、半ば信じられない。この辺りの土地のことを自分の利害で、区劃整理があるらしい、飯田橋の駅が中央線の起点になるらしいなどという夫の話に私も相手になっていた。飯田橋の駅が大きくなれば、あのへんの地価はずっと上るのだという。そのころ飯田橋の駅は貨物駅で、電車の客は牛込見附寄りにあった牛込駅で乗り降りしていた。その飯田橋駅の長々とした歩廊は味気ないが、桜の花の散る濠の前にあった牛込駅は愛らしく、ハイカラな玩具の停車場のようなおもむきだった。駅の隣は貸ボート屋だなんて。今だからこそ私はこんなことをいっている。飯田橋駅が中央線の始発駅になるというとき、九段下のあたりまで旅館ができたり、大きな商店のたち並ぶのを頭に描いてみたのであった。

 このとき。大正13年(1924)頃です。また『私の東京地図』は昭和24年(1949年)に出ています。

飯田橋 市電の飯田橋停留場です。下の図で。
九段下 下の図で。市電で飯田橋から目白通りを通って九段下に行くときに目に入ってきた情景です。

飯田橋と市電

飯田橋と市電。明治40年の地図。人文社「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」。2003年

電車 もちろん、JRではなく、市電(都電)です。
見栄えのしない道 飯田町1丁目の写真です。この写真を撮った日時は不明ですが、この路線の都電は昭和43年に廃止されていますので、それ以前に撮った写真でしょう。

飯田町1丁目

飯田町1丁目(東京都交通局『わが街 わが都電』アドクリエーツ社、平成3年)

二股 明治40年の地図にはありませんが、下の昭和6年の地図でははっきり2股になっています。
九段上 下の地図を。
私の生活 佐多稲子氏の住所は麹町区飯田町6丁目24番地でした。上の赤い場所です。

昭和6年の飯田町

昭和6年の飯田町

区画整理 宅地などの区画を整形して新たに道路や公園を造る事業。
中央線の起点 明治27年(1894年)に新宿から牛込駅まで、28年には飯田町駅までが開通。37年に御茶ノ水駅が完成。昭和3年(1928年)、飯田橋駅が完成し、牛込駅は廃駅、飯田町駅は本線の駅は廃駅に、代わりに南側の貨物駅だけが残りました。1999年(平成11年)、この駅も廃止。
貨物駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。
牛込駅 明治27年から昭和3年まで(1894~1928年)、牛込駅がありました。
貸ボート屋 平成8年、水上レストラン「カナルカフェ」が開業しました。それよりも昔、西村和夫氏は『雑学神楽坂』のなかで

 牛込停車場のホームは牛込橋の下、市谷寄りにあった。駅舎は現在の駅舎の反対側早稲田通りの下にあった。乗客は神楽坂下から水上レストランのわきを通って駅舎に入り、濠を渡ってホームへ出た。昭和の初めまで使われていた駅舎は、牛込橋の下、メガネドラッグの後ろで、現在はJRの用地として空地になっている。
 駅舎前には桜が植えられていて、東京の夜桜の名所として知られ、桜の満開の時期は、わざわざ路面電車でやってくる夜桜の見物人が出た。牛込停車場の乗降客は桜のトンネルをくぐるようにしてホームに出た。
 ここに水上公園が出来て、ボートが浮かべられたのは震災後間もない頃だった。若い男女がパラソルをかざして語り合う絶好の場所になり、休日には親子連れが集まる憩いの場になっていた。大戦後、外堀通りには東京オリンピックを前に市電が廃止された後、桜が植えられた。

 また加能作次郎氏は『大東京繁昌記』のなかの「早稲田神楽坂」「牛込見附」で

 あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、(ごく)近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てて市の公園にするとかいう(うわさ)も幾度か聞いたが、そのままお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。

『大東京繁昌記』は昭和2年に発行し、一方、『雑学神楽坂』は平成22年に発行し、筆者の西村和夫氏は昭和3年生まれです。それから考えると「震災前一、二年頃から」のほうが正しいと思います。
 実際には大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができたそうですが、古いインターネットでははっきり書いてあったのに、新版でなくなっています。

牛込停留場と停車場

 停留場と停車場、簡単には駅。でもこの2つ、どう違うの。

停留場は路面電車、市電、都電

 現在も都電が停車し、客が乗降する場所は停留場と呼びます。バスではバスの停留になります。

停車場は鉄道(省鉄、国鉄、JR線など)

 こちらは停車場。簡単に言えば、駅。しかし、昔は停留所と停車場、この2つを正確に言わないと分からなかったのです。

ちなみに見附は

 なお、見附とは江戸城の外郭に構築された城門のこと。牛込見附も江戸城の城門の1つで、この名称は城門に番所を置き、門を出入りする者を見張ったことに由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげ堤防や土手状にする)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。

 しかし、この牛込見附という言葉は、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯も牛込見附と呼びました。大正時代や昭和初期には「牛込見附」は飯田駅に近い所にあった「城門」ではなく、神楽坂通りと外堀通りの4つ角で、市電(都電)の「牛込見附」停留所の周辺辺りを「牛込見附」と呼んだほうが多かったと思います。

鉄道

昔の「牛込駅」。線路が変に曲がっていますが、牛込駅があったため


牛込駅から飯田橋駅

文学と神楽坂

 牛込駅の開業は明治27年(1894)10月9日。廃業は昭和3年(1928)11月15日。風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。

●牛込停車場
牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。
當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。
今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。

[現代語訳]牛込停車場は、牛込堀の東側を埋めて設備した甲武鉄道線の駅であり、飯田町の次に来る停車場だ。その構成は四谷停車場と大差はない。ただし、当所の階上の廊下は、駅の西側にあり、直ちに旧牛込門の南口の乗車券売り場に行く場合、右の下に行けばよく、四谷や新宿に行くブラットホームになる。飯田町行は改札所の前で、跨線橋を登るわずらわしさはない。
 当所の土手には四谷と違って多くのつつじの花はないが、秋の夜、草むらのつゆのなかで、虫の音は心がひかれる。
 現在は電車の準備中で、長い黒煙を吹いて走る奇観はないといえよう。なお、土手の松では電車のほうがよくはないか。

甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
飯田町 牛込駅の建設が終わると、下の橋も利用可。飯田町の場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。

 明治初期(おそらく明治10年以前)、まだ牛込橋は1つだけです。

 明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 牛込見附の桜花について、石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)は

明治34年、牛込御門の前に明治34年架橋の牛込橋。右手にあった牛込御門は明治5年に渡櫓が撤去され、明治35年には門構えも収り壊された。左手は神楽坂になる。右に甲武鉄道が走るが飯田橋駅(明治3年11年15日開業)はまだなかった。この写真で右後方に牛込停車場があった。ルーペで覗くと右橋脚の中程に線路が見える。橋上の人は桜見物を演出するためのサクラのようだ。

 同じく石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」で

これと同じ牛込橋だ。現JR中央線飯田橋駅西口付近である。赤坂溜池からの水(南側)と江戸川から導いた水(北側)の境目で、堀の水位に高低差があった。今も観察すると水に高低があることが分かる。

 関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、1928年(昭和3年)11月15日、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 新光社「日本地理風俗大系 II」(昭和6年)では……

牛込見附

 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が繞らされている。濠の内側には要所要所に幾多の関門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾が大方跡形もないが山手方面には当時が偲れる石堰や陸橋が残っている。写真は牛込見附で石垣が完全に保存されている。

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「首都圏の鉄道と駅の写真」には

 山高登氏の「東京昭和百景」(星雲社、2014)では 昭和48年(1973年)頃の牛込橋の絵画です。

山高登「東京昭和百景」星雲社。2014。「牛込見附夕景」は1973年

 牛込見附夕景(1973年)
JR飯田橋駅のホームから描いた。市ヶ谷堀から来た水が落ちるところが揚場町の堀だった。此の河岸は文字通り建築材料や材木を陸揚げする岸で、外堀は飯田橋で神田川に合流していた。右手の灰色の建物は近くの警察病院の病棟の分室。正面の神楽坂口を出ると左にはいくつか学校があって学生の乗降が多かった。

警察病院の病棟の分室 正しくは警察官の牛込寮でした。

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

 以前の飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

 また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。

新飯田橋駅

20/7/12から http://blog.livedoor.jp/schulze/archives/52256026.html

 新しい西口駅舎