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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
 「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)

41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。
同年10月29日 石川啄木の日記から。

 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。
本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。

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外濠線にそって|野口冨士男③

「外濠線にそって」その3です。甲武鉄道と、牛込駅とその東口の思い出です。大正8年から13年にかけて野口冨士男氏は小学校の慶應義塾幼稚舎に通っていました。
 
 国電の中央線は、げんざい飯田橋と水道橋の中間に貨物駅としてのこっている飯田町駅から八王子に通じていた、甲武鉄道のあとを走っている。
 甲武鉄道が官有に帰したのは明治三十九年十月のようだが、大正四、五年ごろ赤坂の紀伊国坂下に住んでいた私の幼年時代の記憶によれば、その時分にもまだ「甲武線」という呼び方はのこっていた。そして、現在でも国電は四ツ谷駅から信濃町へむかって発車するとすぐ迎賓館のちかくで赤煉瓦づくりのトンネル――御所隧道へ入るが、私は年長の友人から「甲武線を見に行こうよ」とさそわれて、トンネルへ吸い込まれていく電車や汽車を上からのぞきこみに行った帰りには、喰違見附の土手でノビルツクシの摘み草をしたものであった。
 その電車は国電になる以前には省線、それよりさらに以前には院線とよばれていた。万世橋=東京駅間の開通は大正八年だから、幼稚舎ボーイだった私が真紅のクロースの表紙がついていて二つ折になる定期券をもって、院線の田町駅まで乗った期間があるのが大正八年以後であることは確実だが、その時分にはまだ飯田橋駅はなくて、私が乗降したのは牛込駅であった。
 げんざい飯田橋駅の西口=神楽坂口は、神楽坂下からゆるい坂をのぽって千代田区へ入ろうとする直前の左側にあるが、その坂道の右側の下の道を歩いていっていまものこっている木橋をわたってから右折すると、桜並木の奥に牛込駅はあった。そして、その裏口は線路むこう――千代川区側の高い位置にあって、裏口の前には阿久津病院という漆喰塗の古めかしい洋館があった。病院が大正年間に神田紅梅町あたりへ移ったあとは戦後まで逓信博物館になっていたが、その建物はどうなっているだろうかと、霧雨のけむっていた日であったが、田原屋で食事をする前に行ってみたら、一階に飯田橋郵便局が入っている飯田橋会館というありふれたビルになっていた。そして、江戸時代の遺構である牛込見附跡の石塁に近接する位置にあった牛込駅の裏口の跡には、共同便所が出来ていた。

国電 JR線です。国電とは大都市周辺の近距離電車線のこと。
貨物駅 貨物列車に貨物を積み降ろしする鉄道駅
飯田町駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通(ここをクリックして地図を出すと、飯田町駅は右側の赤い矢印です)。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。平成11年、この駅も廃止
甲武鉄道 明治22年4月、新宿-立川が初めて開通。明治27(1894)年には新宿-牛込が、1895年4月に牛込-飯田町が開通。明 治37(1904)年、御茶ノ水に延長。明治39(1906)年、鉄道国有法で国有化。中央本線の一部となりました。

赤坂田町

赤坂田町

紀伊国坂 東京都港区元赤坂1丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂
住んでいた 子供時代を書いた「かくてありけり」(講談社、昭和52年)で氏の住所は赤坂区田町(現在は赤坂3丁目)だと書いています。図では赤の範囲なのでしょう。
迎賓館 迎賓館赤坂離宮は東京都港区元赤坂2-1-1にある外国の元首や首相など国の賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた迎賓施設。
御所隧道 丸ノ内線四ツ谷駅からよく見えるJR総武線四ツ谷駅側の煉瓦トンネル。総武線四ツ谷駅から信濃町に向かうときに赤坂御用地の下を走る。
御所隧道喰違見附 くいちがいみつけ。「喰違」は防衛のため見附に入る土橋の道をジグザグにしたため。この見附は城門はなかった。
%e5%96%b0%e9%81%95%e8%a6%8b%e9%99%84ノビルとツクシノビル ユリ科ネギ属の多年草。山菜に使う
ツクシ 早春に出るスギナの胞子茎
省線 1920年から1949年までの国有鉄道。鉄道省(1920―1943年)、運輸通信省(1943―1945年)、運輸省(1945―1949年)が管理
院線 1920年以前は鉄道院の所管だった。
クロース cloth。本の表紙に使う型付けなどの加工をした布
田町駅 港区芝五丁目のJR駅
飯田橋駅 現在のJR駅
牛込駅 飯田橋駅よりは南寄りの駅
ここに

朝倉病院

朝倉病院

阿久津病院 正しくは朝倉病院でしょう。明治43年と大正12年の地図で朝倉病院がありました。
%e3%82%b5%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%86%e3%83%a9%e3%82%b9逓信博物館 昭和4年には同じ場所に逓信博物館がありました。
飯田橋郵便局 同じ場所の千代田区富士見2丁目では「飯田橋サクラテラス」があり、ここの一階に今でも飯田橋郵便局があります。
共同便所 その反対側に共同便所があります。

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三孫質店[昔]|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

神楽坂2丁目に質屋の三孫がありました。お店の地図はここ。『まちの手帳』第3号の水野正雄氏の『新宿・神楽坂暮らし80年』で

一家で神楽坂に越してきて、祖父は神楽坂2丁目の「三孫(さんまご)」という質屋の通い番頭、長男は質屋に奉公、次男は質屋に婿養子、三男は着物の整理屋へ奉公に出ていたのを、三男だった親父を呼び戻して39年「湯のし屋」を始めた。

「さんまご」と読み、「さんそん」とは読まないようです。

邦枝完治氏が書いた「恋あやめ」 (朝日新聞、1953年)には

 牛込見附の石垣に弁慶蟹が這って、飯田町駅を出た甲武鉄道の汽車の煙が、夕焼空に吸われて行った六時近く、神楽坂裏の質屋三孫ののれんをくぐったのは、ふろしき包を小脇に抱えた、四十がらみの肥ったおかみさん。

弁慶蟹はイワガニ科で海岸の湿地にすみ、約3センチ。本州中部以南に分布。今では蟹はこのあたりにはいません。

質屋「三孫」の場所は↓。現在はポルタ神楽坂になりました。

三猿(さんまご)質店

三猿質店。都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

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牛込駅

牛込停車場

文学と神楽坂

風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。

●牛込停車場
牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。
當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。
今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。

甲武鉄道 東京市内の御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道を運営しました。 1906年(明治39年)公布の鉄道国有法で同年10月1日に国有化、中央本線の一部に。
飯田町 牛込駅は明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。翌年、飯田町駅も開業し、場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。

牛込駅&飯田町駅

 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近でした。駅の建設が終わると、下の橋もできています。翌年、飯田町駅も開業されました。
 明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。
小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」




 1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。
牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃



 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。
牛込見附雪景

牛込見附雪景



 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。
飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分



 また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。新飯田橋駅