石畳」タグアーカイブ

兵庫横丁(写真)平成31年 ID 14052

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14052は、平成31年(2019)1月、兵庫横丁の北の入り口から南方を見て写真を撮ったものです。影が長いので夕方の撮影のようです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14052 神楽坂から南方面を望む

 前方の石畳が兵庫横丁、手前のアスファルトが公道で名前はありません。左側のゆるやかな上りは2番目の四つ角から下り坂になり、この坂は軽子坂です。右側の先、曲がり角からは和泉屋横町です。斜め後方は材木横丁。兵庫横丁と材木横丁の大部分は私有地です。

道路台帳平面図

 兵庫横丁の石畳には歩行者用の白線はなく、車を想定していません。ただ荷運びなどで例外的に車が入ることはあるようで、この写真でもバンが停まっています。
 石畳の中央部は扇形に並んでいますが、左右は少し違っています。これについて地元の人の解説は……

 石畳は路地の歴史を色濃く残します。この写真の右側には雨水を流す側溝があり、境石を挟んでモザイクのような石敷になっています。石畳とアスファルトの境に正方形の金属製プレートがあり、おそらく土地の境界標です。建物を建てる時に路地を広げて側溝を作ったと想像できます。
 左の家の前は、幅40センチくらいにわたって石畳が直線的に敷かれています。よく見ると赤い三角ポール(駐車禁止)の左側に窪みがあります。この窪みは別の写真で見ると排水溝です。昔はこの位置が路地の端で、今の建物を建てたときに後退して石畳を追加したことが分かります。
 私有地では、こうした側溝や上下水道は路地に面した家が費用を負担して整備します。おそらく下水管は路地の中央にあり、公道に出たところのマンホールにつながっています。
 工事で石畳を部分的に掘削した時は、そこを石畳に戻すのがルールです。従って時代を経るにつれて石畳は傷んでいきます。ちなみに神楽坂通りの歩道のインターロッキングは公道ですが、工事した店が掘削部分を同じ材料で復旧する義務を負っています。
 私有地である路地でも、住人が区に共同で申請すれば上下水道や石畳の整備に補助がもらえます。住人の意見がまとまらない場所では、徐々に石畳を維持できなくなっていくようです。
境石 きょうせき。境界石。きょうかいせき。隣の敷地や道路との境界ライン。素材はコンクリート、金属、プラスチック、鋲など。境界標と同じ
石敷 平たい石を敷き詰めて舗装した所。ピンコロ石より大きい。
境界標 目に見えない境界点を現地で示す標識

https://to-ki.jp/center/useful/kiso010.asp

 左の家1軒目はイタリア料理店ラストリカート(意味は石畳)で、2軒目は「おいしんぼ」です。中央部には旅館「和可菜」があります。ここで終わりに見えても右側に小路があり、さらに奥にはいっています。上の絵(ID 14052)も電柱があり、やはり奥にはいけないという幻想があります。ここから心理的には昭和初期、ちょっと怖くて、わくわくする世界が始まります。

兵庫横丁 住宅地図 2017年

 遠景のビルは左は島田ビル(地上6階、1階はワヰン酒場)、右はオザワビル(地上7階と地下1階、1階は郵便局とカフェ・ベローチェ)です。どちらも神楽坂通りに接しますが、縦横高さの大きさでもオザワビルのほうが巨大です。

若宮町(写真)平成31年 ID 14050

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14050は、平成31年(2019)1月、若宮町から善国寺方面を望んで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む

 新宿区の「新宿区史・昭和30年」「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています。この3枚目(下図)が、実は同じ場所です。時間は65年ほど離れています。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

 中央の「毘沙門横丁」は石畳からアスファルト舗装に変わっています。右側は神楽坂3丁目、左側は若宮町で、町のかつての料亭「松ヶ枝」はクレアシティ神楽坂若宮町というマンションになりました。
 この写真の少し後、2019年(令和元年)7月7日にメロン専門工房「果房 メロンとロマン」が開店しました。場所は右から2軒目(地図のジャスバー「もりのいえ」の隣)です。

若宮町 住宅地図 2017年

 

神楽坂1丁目(写真)昭和54年牛込見附→飯田橋駅西口 ID 11874とID 11876

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874とID 11876は、昭和54年(1979年)の神楽坂1丁目の牛込見附から飯田橋駅西口に向かって撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874飯田橋駅前 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11876飯田橋駅前 牛込見附

 右側の歩道が狭くなっている部分が牛込橋です。この少し手前から向こうは千代田区富士見になります。右側の自動車のフロントグリルには正月飾りがついています。ID 94、ID 11873と同時の1月17日の撮影でしょう。
 車道はアスファルト舗装で、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装です。飯田橋駅の前の橋の部分はおそらく戦前から続く石畳でしだが、ここでは見えません。
 右の商店の前には、神楽坂通りと同じ円盤型の街灯が2つあり、「神楽坂1丁目」で、店は神楽坂通りの商店会の会員。一方、左側は水銀灯のようで、同じ新宿区でも「神楽河岸」という別の町でした。さらに奥の牛込橋のあたりには別の街灯があり、これは千代田区の管轄でしょう。
 交差点名の「牛込見附」は、現在は「神楽坂下」に変わりました。交通標識は「逆転式一方通行の延長」の写真と同じで、「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」「スプーン・フォーク・スープの標識」。「30」は最高速度が30km/h。右側で、上には「調整中」「自転車を除く」、下には「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」です。さらに「立喰そば 飯田橋」の道路側に「歩行者通行止め」があります。

神楽坂1丁目(昭和54年)牛込見附→飯田橋駅西口
  1. 波板の囲い(旧・神楽坂警察跡地、再開発準備中)
  2. 看板「神楽坂 ナカノ」(中野洋装店)
    (ここから千代田区)
  3. 飯田橋駅西口駅舎
  4. 巨大な日本歯科大学体育館
  5. ビリヤードニッポン(濃い灰色にみえるビル)
  6. ホテルグランドパレス(遠くかすんでいるビル)
  7. 看板「麻雀 ビリヤード」
  1. 東山(酒蔵)
  2. 麻雀 COFFEE SHOP
  3. 電柱看板「質 大久保
  4. (白)鷹 とんかつ 森川
  5. 金鷹 〇〇〇/ラーメン(二鶴)
  6. 立喰そば 飯田橋<
  7. 電柱看板「とんかつ 森(川)」
    (ここから千代田区)
  8. 富士見町教会(黒い低い建物)
  9. 東京警察病院(大きな白いビル)

住宅地図。1976年

善国寺参道の石畳

文学と神楽坂

 地元の方が善国寺参道の石畳という随筆を送ってくれました。「毘沙門さまの写真を見ていて発見があったので、まとめました」と、地元の方。

 かつての善国寺の境内は未舗装で、大きな敷石を並べて参道にしていました。全体の様子は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の ID 8271-ID 8272(昭和44年頃)が分かりやすいようです。正門から本堂に続く参道と、西側の脇門から庫裏に続く道、あとは境内各所を結ぶ敷石です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

『牛込区史』(臨川書店、昭和5年)と、中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社、昭和46年)に掲載されている戦前の写真は、正門から本堂までずっと5列の石が敷かれています。

東京都旧区史叢刊「牛込区史」臨川書店。昭和5年、昭和60年復刻版。

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

 この敷石は戦後も使われたと想像されます。ID 9503(昭和20年代後半)には、昭和26年(1951年)に再建された木造の毘沙門堂(本堂)が写っています。参道の石畳が、途中でよじれたようになっている部分があります。良く見ると手前から途中までの石敷は5列。よじれたような部分から先は石のサイスが大きくなり、本堂との間は4列です。再建本堂が戦前より小規模で、堂前まで石畳を伸ばしたのかも知れません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 昭和44年(1969年)頃、ID 8245も同様に本堂手前の敷石は4列です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 本堂は、昭和46年(1971年)にコンクリート造で建て替えられ、規模も大きくなりました。この時に敷石を改めたと思われます。昭和54年1月のID 11830では幅の異なる石が左右対称に敷かれ、さらに境石に挟まれている様子が分かります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 同時期のID 11833では、毘沙門横丁の石囲いに立てかけるように石材が写っています。これが撤去した古い敷石である可能性が高いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 その後、参道の石畳は敷石6列に改められ、少し全体の幅も広くなったようです。また境内は北西側の側の遊園部分を除いて舗装されて現在に至ります。いつ舗装されたかは分かりませんが、境内にあった駐車場を毘沙門横丁側に移した時か、正門を今の赤い山門に変更した平成6年(1994)かもしれません。

舗装 アスファルト舗装です。

善国寺の舗装


気まぐれ本格派(1)

文学と神楽坂

 「気まぐれ本格派」は昭和52年(1977)年10月26日から昭和53年(1978)年9月20日まで日本テレビ系列で放送されたテレビ映画です。最初は道路や石畳を中心に書いていきます。

 最初は、神楽坂通り/美観街の標識で、構成は4つ。赤い文字で➀「神楽坂通り」と➁「美観街」、脇には➂縞々のH、さらに➃四角の箱です。夜になると、外から水銀灯で照らしています。

 次は「餅花もちばな」を模した正月向けの飾りです。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習です。

 これも冬の風景。クリスマスではないと思います。この時代、クリスマスだからといっても大々的に大騒ぎはしませんでした。ほかにも、いろいろな造花があったようです。

 芸者新道ですが、これも石畳でした。なお、2枚目の「堂」は「明月堂」の「堂」です。

 さらに牛込橋も石畳でした。下で青線で引いた場所でしょう。
 軽子坂も出てきます。今と道幅は同じです。左側の高い石積みと塀は地元の資産家・升本家の広大な本邸でした。車止めの部分が門にあたります。

 なお「軽子坂プロジェクト」でビルが後退したのは津久戸町のところです。
 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」では

毘沙門横丁(写真)昭和54年 ID 74~78, 83

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 74、ID 75、ID 76、ID 77、ID 78、ID 83は、毘沙門横丁とその界隈を撮ったものです。ただし、ID 76は別の場所に出ています。ID 75では注連しめ飾りがあり、ID 83ではコートを着ています。おそらくID 74と同じ1979年1月5日に撮影したのでしょう。ID 78と83の街灯はおそらく水銀灯で、下水溝は現在と同じです。

 料亭「一條」には正月のお飾りが何もありません。これはID 11840と類似しています。ただし、ID 78と83では遠くに一條が見えています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 74 料亭「一條」前 1974/1/5

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11840 神楽坂料亭 一條

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 75 袋町37、藤間高寿ドア前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11838 神楽坂 藤間高寿

 袋町37ではなく、神楽坂5丁目37です。藤間ふじま高寿たかじゅ氏の本名は高村光子で、藤間藤子に師事し、日本舞踊家に。生年は大正8(1919)年11月11日、没年は昭和59(1984)年4月29日、享年は満64歳。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11835 神楽坂 善国寺裏小路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 77 裏道、麻雀山彦前

 裏道は、下の地図で「毘沙門横丁」の「横」と「丁」との間に右に曲がる道です。路地の名前はありません。やや遠く見えるのは料理の「ゆかり」、右手は麻雀「山彦」とその手前でクーラーがあるのは すき焼「牛もん」、左手のスチールフェンスは三菱銀行。路地は石畳です。

1980年 住宅地図。「大山」は以前の「麻雀 山彦」

 この裏道は以前から毘沙門横丁といっていました。最初の看板は「すき焼 割烹 牛もん」。毘沙門天のコンクリートフェンスがあり、取り外した看板「所」「会」があります。おそらくID 8299のような「福引所/神楽坂通り商店会」が、歳末の売り出し時に毘沙門天境内に設けられていたのでしょう。さらに電柱看板「宮城道雄記念館」、何も書いていない家は藤間高寿邸、看板の「藤間高寿→ 小勝→ はやま→」、電柱看板の「あまなっと 五十鈴」と「麻雀クラブ 三功」、さらに奥の家は料亭「松ヶ枝」。左側に行き「寿し処 寿し作」で、離れて「一條」があり、松ヶ枝駐車場は最後の黒い塀です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 78 裏道、牛もん前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11836 神楽坂5-37善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 83 袋町37、藤間高寿邸前

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 67

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67は、昭和48年(1973年)5月22日、牛込橋から神楽坂1丁目などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 67 飯田橋駅付近より坂上方向

 中央の通りは早稲田通りで、中央帯はありません。渡辺功一氏によれば、昭和54年にここも逆転式一方通行になったといいます(『神楽坂がまるごとわかる本』けやき舎、36頁)。この通りの右側は神楽河岸、左側は神楽坂1丁目です
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、左側の街灯(写真では「同棲時代」の右前。4枚目の写真)だけが形が違っています。新宿区の予算ではなく、この場所は区境を越えて、千代田区でした。
 また、最前部の車道と歩道は、石畳でした。この時代の牛込橋はコンクリート製。平成8年に現在の鋼製の橋に架け替えられました。ID 68も同様です。

 最初は4階以上の高層ビルです。これこそ地元の方の協力がないとできません。

高層ビル

  1. 理科大
  2. 週刊大衆なので双葉ビル
  3. 理科大
  4. 1丁目の田口屋(花屋)ビルで5階建て。2丁目の田口屋は2階建て
  5. 大島ビル。1階は大島糸店。4階建て。竣工は1959年5月。
  6. 五条ビル。2丁目。竣工は1967年。
  7. 三菱銀行。3丁目。現在は三菱UFJ銀行。
  8. 「軽い心」のビル。2丁目。現在はカグラヒルズビル
  9. 丸金ビル。3丁目。神楽坂仲通り。1973年の住宅地図だと「金丸ビル」。現存しません。
  10. 川田ハイツ。3丁目。現在は「クレール神楽坂6」。1973年6月竣工、5階建て。芸者新道に面していて、上に行くほど床面積がすぼまります。
  11. 七福ビル。2丁目。1971年2月竣工。5階建て。足元に「神楽坂ゴルフガーデン」(緑の楕円)がありました。

84年 住宅地図。五条ビル、大島ビル、田口ビル。丸金ビル、川田ハイツ、七福ビル。

 では1丁目です。左から右に…

67 1丁目

  1. キッチン熊
  2. ボート場
  3. 街灯。赤い円。新宿区のものではない。
  4. もつやき、正宗。キリンビール。やなぎ
  5. 立喰そば。飯田橋
  6. 金鷹。ラーメン。(二鶴)
  7. 電柱に「とんかつ森川」
  8. とんかつ森川。白鷹。
  9. コーヒー77
  10. 東山酒蔵

 右側に電柱看板「洋装店 ナカノ」があります。現在は3丁目のナカノビル。

マーガレットの神楽坂日記

文学と神楽坂


 マーガレット・プライス(Margaret Elizabeth Price)の「マーガレットの神楽坂日記」(淡交社、1995年)です。氏は1956年、オーストラリア・メルボルン市に生まれ。1982年、毎口新聞社に「Mainichi Daily News」のスタッフライターとして働き、当時はNHK「バイリンガルニュース」や編集企画の方面で活躍。現在はオーストラリア・クイーンズランド州スプリングブルックに住んでいます。茶道歴は30年。
 文章がうまいのですが、あとがきで「だいたい翻訳本というと、原文よりおもしろくないことが多いのですが、この本はその逆です。私の英文を和訳し、私の日本語の文章を調節してくれた伊藤延司さん(理屈っぽい信州人のイトーさんとしてときどき出てくる人物)が、『そうよ、そうよ、そういうことよ、ワハハハ』と、私の考え、いいたいことをピッタリの日本語にしてくれました。おかげで私の原文よりはるかにおもしろいものになりました。どう感謝したらいいか…」と書いています。

    イキな男がいなくなつた
 いつごろからか、神楽坂に住みたいと思うようになったのか、なんで神楽坂なのか、自分でもよくわかりません。
 日本人の友人はみんな「山手線の内側、それも神楽坂みたいなところに、安く住もうなんて、常識はずれだよ」という固定観念の持ち主ですから、「神楽坂に安い2DKのアパート見つけたよン。赤城神社っていう神社のすぐ近くだよン。すっごく静かなところだよン。安いよン」といったら、「いまどき、そんな場所にそんな安いアパートがあるなんて。こりゃ、モーテンだね」と驚いていました。
 長年、神楽坂に住みたい、神楽坂に住みたい、といってきた私の願いが、日本のヤオヨロズの神様のどなた様かに通じたのでしょう。「ヤオヨロズ」とは八百万という意味だそうですが、世界に冠たるハイテク社会の日本に、八百万もの神様がいるというミスマッチがいいですね。私は日本の神様のことがわかってくるにつれ、森羅万象に神が宿るという日本人の自然観が好きになっていきました。八百万も神様がいれば、中には私みたいなガイジンの無理な願いをきいてみようかという変わった神様がいたのかもしれません。
モーテン 盲点。うっかりして人の気づかない点。
ヤオヨロズの神 八百万神。数多くの神。実際の数を表すものではない。
森羅万象 宇宙に数限りなく存在するいっさいの物事

 ところで、神楽坂はまったく知らない町でした。人から「神楽坂はどう?」ときかれても「いいところですよ」というのが関の山なのです。結局は夜寝に帰ってくるだけのところで、町を歩く機会がなかったのです。そこで、ある日、神楽坂探訪を思い立ちました。まず、この町で生まれて育ったというハヤシさんに会いました。ハヤシさんは超すてきな喫茶店「パウワウ」のマスターです。ハヤシさんが「神楽坂のどこに住んでいるの?」ときくので、私は胸を張って「赤城元町です」と答えました。ハヤシさんは「アカギモトマチィー? あれはカグラザカじゃない。虫のすむところだよ」というのです。
毘沙門天あたりまでが神楽坂で、その先は寺町。またその先の、要するに赤城元町は神楽坂と関係ない。こっちのほうへ引っ越してきなさい」まるで、私のアパートはアカギの山奥のそのまた奥の一軒家みたいないわれよう。これにはガクゼンとしました。私の住んでいるところは神楽坂じゃなかったのか。でも、いいんです。私が住む赤城元町は赤城神社という木がうっそうと生い茂った小さな神社のそばで、とても静かです。ハヤシさんがいうように虫も鳴くけど、朝は鳥の鳴き声で目がさめるさわやかなところです。
ハヤシさん 林功幸さんです
寺町 通寺町(現在は神楽坂6丁目)です。
アカギ 赤城山。群馬県のほぼ中央に位置する山。群馬県の赤城山を祀る神社。

 ご存知のとおり、神楽坂は芸者さんの町でもあります。つい20年前までは芸者さんが200人もいたそうです。おもしろい町だったでしょうね。いまでも80人ほどがいるそうですが。ほとんどが50歳以上の方だそうです。
「芸者と遊べるようなイキな男がいなくなったから、ここももうだめだね。昔は、歌も踊りも洒落も知らないと芸者とは遊べなかったもんだ。ところが、いまの男どもときたら、カラオケぐらいしか芸がない。情けなくないか」とハヤシさんは、まるで目の前の私を怒ってるみたいです。
 私は元総理の宇野さんを思い浮かべました。あの人のお相手が、この町の芸者さんだった。あのスキャンダルのころ、私も女のはしくれとして、宇野さんとの関係をばらした芸者さんに「よくやった」と拍手を送ったのですが、ハヤシさんは「あの女はこの世界のルールを破った。神楽坂の芸者はもうやばい、とみんなが思ったのよ」といいます。
 この事件は神楽坂の花柳界に決定的打撃を与えたそうです。いまでも神楽坂は粋な町だけれど、大勢の芸者さんがお正月の挨拶まわりに派手なきものでシャナリシャナリ歩いた20年前は、どんなにすてきだったろう。見たかったな。ケイコさんが「江戸のシックがなくなった」といっていたのは、こういうことでもあったのでしょう。
宇野さん 75代総理大臣の宇野宗佑氏が指を三本出し、神楽坂芸者・中西ミツ子氏を「自分の愛人になってくれたらこれだけ出す」と迫った。3本とは「月30万円のお手当」の意味だった、愛人となった後、慰謝料・手切れ金をロクにくれなかった。このような人物が日本の総理大臣であってはいけないと考え、1989年、この事実をサンデー毎日にリークしたという。鳥越俊太郎がその編集長だった、G7サミットでは、当時の英国女性首相のサッチャーさんが、宇野氏との握手を拒否している。
ケイコさん おそらく女友達の一人。詳しいことは出ていません。

 神楽坂がいいのは道がせまいところです。私の国の首都キャンベラは、完全に車社会を頭に入れてつくられた人工の町で、車でまわるには大変便利ですが、私にはそれがかえって息苦しい。車のために町をつくると、町のぬくもりまで抜かれてしまいます。日本の町もだんだんと車に振りまわされた町づくりをするようになりました。東京の真ん中でも、神楽坂は違います。神楽坂はいまでも二台の車が通れる道が少なく、いちばん大きな「神楽坂」の坂道まで一方通行です。たくさんの狭い裏道に家が肩寄せ合って、江戸の形がみえるような気がする。
 私は京都に行くときには「石塀小路」の旅館に泊まるのが楽しみです。あの狭い石畳の道は、ちょっとした夢の世界ですが、最近わかったのですが、「うち」の神楽坂にも石塀小路とさほど変わらない素敵な石畳の道がかなり残っていました。「虫の居所」に住んでいても、昔ながらの狭い道のそばにいるだけで、私は幸せもんだと思っています。
キャンベラ オーストラリアの首都。
石塀小路 いしべこうじ。ねねの道とその1本西の下河原通を東西につなぐ、石畳と石塀が美しい小路。

下河原町石塀小路

Google。石塀小路


お座敷遊び|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏が書いた「女50歳からの東京ぐらし」(産経新聞出版、2008年)の「お座敷遊び」(2005年秋)です。神楽坂で「芸者衆とお座敷遊び」を行った経過を書いています。筆者は1951年生まれなので、この時は54歳ぐらい。
 芸者さえいれば、どこでも同一か類似の座敷遊びをやっているんだ。なお、東京神楽坂組合にはいっている料亭は、現在は、うを徳、千月、牧、幸本の4軒だけですが、芸者がでる料亭は割烹加賀などにもあります。

 ハリウッドが鳴り物入りで「SAYURI」を作ったように、芸者という存在はどこか人の心をかき立てるものがある。あでやかで、神秘的で、あやしくて、物悲しい。残念ながら映画は、そんな陰影と無関係にあまりにストレートな美しさしかありませんでしたが。
 そんなわけで、「神楽坂の料亭で芸者衆とお座敷遊び」というイベントに参加しませんか、という案内をいただいて、二つ返事で飛びついた。声をかけてくれたのは、以前、ご紹介したグループタウンウォッチングの会の代表・前田波留代さん(58)。神楽坂は町歩きの会でも人気の場所だが、界隈かいわいの神髄はお座敷遊び。料亭「うを徳」の協力を得て、昼間の一席を企画したという。「うを徳は明治の文豪・泉鏡花の小説にも登場する老舗です。お江戸の土産話にいかが」。土産話にしては少々高くつくが、これも体験。芸者新道と呼ばれる石畳の路地を抜け、胸おどらせて黒板塀をくぐった。参加者は約20人。ほとんど中高年女性。大変な人気で、急遽きゅうきょ追加のお座敷を用意したという。
「それこのあたり、四季の眺望は築土の雪、赤城の花、若宮の月、目白、神楽坂から見附晴嵐。縁日歩きのすそ模様(中略)魚よし、酒よし、あん梅よし」
 名調子の文章は、初代と親交の厚かった鏡花が開店のお披露目に書いたもの。歴史ある神楽坂だが厳しいご時勢に料亭の数も減っていまや10軒、芸者さんも35人ほど。ただ最近は芸の世界にあこがれてOLから転身する女性もありうれしい傾向です、といった女将のあいさつのあと、いよいよお待ちかね、芸者衆の登場だ。
 若手とややベテランの芸者さんに、三味線をかかえたおねえさん。三人の登場で座が一気に華やかになる。金びょうぶを背に長唄三番そうなどをひと舞。金比羅ふねふねやら、じゃんけんやらで、にぎやかなお座敷遊びが続く。女だてらの疑似体験、少々こそばゆいところを、お姐さん方は慣れたもの。着物の話など女性向きの話題で盛り上げる。
 お白粉しろいのにおい、きぬ擦れの音、三味の音色。伝統を身につけたきれいどころがどこまでも客をたててくれる。これを自分のものとできる醍醐だいごは格別のものだろう。
 外に出ると、春の日差しがまぶしかった。

SAYURI 2005年、米国映画。原作は1997年の米国人作家のA・ゴールデンの小説『さゆり』。第二次世界大戦前後で京都で活躍した芸者の話
お座敷遊び 芸者や芸妓を相手に、酒を飲み余興を行うこと。
二つ返事 「はいはい」とためらわず、快く承知すること
高くつく 2020年の神楽坂では、おそらく1人3万円ぐらい
石畳の路地 現在の芸者新道は白黒タイルで舗装した道路です。1990年代、芸者新道の石畳の取り替えがあり、当局に石畳を再び使えないかと聞いたところ、ダメといわれ、現在の白黒タイルになったといいます。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。
築土 赤城 若宮 目白 見附 揚場 全て周辺地域の名前です。見附(みつけ)は、ここでは牛込見附のこと。

 目白下新長谷寺(旧目白不動)の鐘は、江戸時代に時刻を知らせる「時の鐘」の1つでした。
晴嵐 晴れた日に山にかかるかすみ。晴れた日に吹く山風
裾模様 着物の上半分を地染めした無地のままに残し、裾回りにだけ模様を置いたもの。衣装全体に模様を施すより手間が省ける。
あん梅 塩梅。あんばい。飲食物の調味に使う塩と梅酢。食物の味かげん。
芸者さんも35人ほど 現在はおそらく10数人でしょうか
金びょうぶ 金屏風。地紙全体に金箔きんぱくをおいた屏風。
長唄 三味線音楽。歌舞伎舞踊の伴奏音楽として誕生
三番叟 能の「おきな」で、千歳せんざい、翁に次いで3番目の狂言方が演じる老人の舞。
金比羅ふねふね 日本の古い民謡。舞妓や芸妓と行うお座敷遊びの曲。「金毘羅こんぴら船々ふねふね 追風おいてに帆かけてシュラシュシュシュ」と歌う。
じゃんけん グー、チョキ、パーの手の形で勝敗を決める。じゃんけん「とらとら」では、青年・和籐内わとうないの鉄砲は虎に勝ち、虎は老母に勝ち、老婆は息子の和藤内に勝つ。歌詞は「千里走るよなやぶの中を 皆さん覗いてごろうじませ 金の鉢巻きタスキ 和藤内がえんやらやと 捕らえしけだものは とらとーら とーらとら」
女だてら 女に似つかわしくないという非難を込めて、女らしくもなく
きぬ擦 きぬずれ。衣擦。衣摺。着ている衣服のすそなどがすれあうこと
三味 「三味線」の略。
きれいどころ 綺麗所。花柳界の芸者をさす語。または着飾った美しい女性。
醍醐味 物事の本当のおもしろさ。深い味わい。

兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

現在と古老の記憶による関東大震災前の形。4丁目。

現在と古老の記憶による関東大震災前の形。4丁目。

寺内公園(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 寺内じない公園は神楽坂通りの北側の石畳の一つです。2003年、北側に超高層マンション「神楽坂アインスタワー」ができたとき、開発業者は区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」を区に提供しました。

 を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンをつかんで動かすと、360度回ります。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。は案内板の説明で、ここで詳しく出ています。

寺内公園

寺内公園

 この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装で、黄色で書いてあります。もう1つは大きな板を置いた舗装で、南方の木の中にあります。最後はアスファルトで覆った舗装です(淡紫色)。

 点字ブロックは正確には「視覚障害者誘導用ブロック」です。ほかに、車止めポールと街灯、椅子、防災施設などがあります。

[1-6]


石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻したその時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。


石畳とマンホール

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21

石畳1

石畳

神楽小路横 かくれんぼ 毘沙門横丁 紅小路 見返し横丁 兵庫横丁 クランク 寺内公園 酔石横丁

 明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。

復興土地住宅協会著 東京都市計画図

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。




2013年5月2日→2019年4月27日

石畳|神楽坂|駒坂(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

 駒坂は『ここは牛込、神楽坂』で

井上  それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎  あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上  あの階段のあるところですね。

 ほかに玉の湯階段という名前も付いています。

 一応、地図で同じことを見ておきます。小さな小さな赤点は石畳がある駒坂です。長くて赤い路地も区道です。地図では立派に見えますが、う~ん噓です。
駒坂3

 これが駒坂です。区道です。
石畳|駒坂1

  この階段は小さくて、2.7メートル。この石畳は1.96メートルでした。

石畳|駒坂2石畳|駒坂3

 下から見るとこうなっています。

石畳|駒坂4

 ちなみにもうひとつ、区道?を上げておきます。前の右側に書いてあったところです。東側はここで、幅はたったの91センチ。

区道東

 西側はここで、幅は1.55cm。

区道西

 幅1メートルもないので、これは本当に区道でしょうか。



石畳❤◇☆|かくれんぼ

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁に❤型のピンコロ石畳と、◇や☆を彫った石畳があるのを、知っていますか。平成28年5月、かくれんぼ横丁の石畳が下水管工事のため新しくなりました。このとき、粋な計らいをする職人はいて、特別な石畳3個を埋めたそうです。

 私は「美味彩花」で、あったんだとわかりました。本文には「場所を教えてもらったり人に言ったりしては願が叶わなくなるとか…」と書いてあります。そこで私も下の絵を描いておき、ダブルクリックして読んじゃうと、願いがかなわなくなる、と書いておこう。


階段の話|神楽坂

文学と神楽坂


 神楽坂の坂に江戸時代には階段があったが、明治になると普通の坂になったという話です。
 平成22年、新宿歴史博物館「新修 新宿区町名誌」によれば、神楽坂は
神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。
 明治四年(一八七一)六月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽かぐらちょうとしたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正一四年(一九二五)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、二年ほどして御影石に筋を入れた舗装に変わった。
 また、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』で……
 やはりむかしは相当な急坂であったのを明治になって改修したもの。明治13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。

  牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。

 また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……(なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主です。)

相川さん 古い資料を見ると、昔の神楽坂ってのは階段だったらしいね。
山下さん 牛込見附から上かってくる方ですね。
相川さん 商店街ができるからってんで階段を坂にしたら、えらい坂が急勾配になったんで、「車力も辛い神楽坂」っで歌ができたくらいなんです。それを天利さん(注)ショウジロウさんって区会議長をやった人が、ハンコを関係各機関からもらって、区のお金を使って坂を下げたんです。下げたら今度は下の方から苦情が来て。坂を下げて勾配をずうっと河合さんの方までもってくる予定で設計図はできていた。ところがあんまり喧喧囂囂(けんけんごうごう)で収まりがつかなくなって、それでピタッとやめたんで、天利さんの前のところだけグッと上がっちやった。あれが忘れ形見だ。注:菱屋さんの先代店主
佐藤さん そういえばそうですね。最後のいちばん登りきるところが基点(起点?)なんですね。
馬場さん 自分の家の前に来ちゃった。ヘヘヘ。
相川さん 「工事中止」ってんでね。ということは、坂下の方の店(本道?)は階段じゃないとお店へ入れない。階段の商店街になっちゃうのはまずいってんで、それであそこでピシッと切った。歩いていてもわかるでしよ? 上がりきったな、と思うと、またグッと上がる。それがちょうど天利さんの前へ来ていた(笑)。区会議長やってる時分に天利さんはお釈迦様(注)の後ろへうちを買い足して、ご隠居しちゃったんです。
(注)弁天町にある宗相寺
馬場さん ああ、弁天町のね。
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。

車力も辛い神楽坂 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌は「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
 上州屋は5丁目の下駄屋で、以降は藪そば、ampm、最後はとんかつさくらに変わります。
 同じく2010年(平成22年)の西村和夫氏の『雑学 神楽坂』によれば…

 江戸期は階段が作られるほど急な神楽坂だったが、明治になって何回となく改修され、工事の度ごとに緩やかになっていった。階段がいつなくなったのかわからないが、明治の初めと考えて間違いはなさそうだ。
 坂上は明治10年代に平坦にされたが、坂下は勾配をそのままにして先に商店街が出来てしまった。傾斜した道路の店があったのでは商売がやりづらいと、サークルKの先、当時糸屋を営んでいた菱屋が中心になって牛込区役所に働きかけ、坂を剃り勾配を緩くした。ところが、工事が進むにつれて坂上の商店ほど道との高低差が広がり、再び埋め直すという笑えぬ失敗があったという。こんな苦労を何度も繰り返し、神楽坂は今の勾配になったようである。
 芸者新道の入口の傾斜はそのままにされたので階段が作られて、手すりがないと上がれないような急坂が現在まで残り、昔の神楽坂の急勾配の様子をうかがわせる。

『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイの赤井義松氏は(この店はなくなりました)
 よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 中村武志氏も『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で同じ話を書いています。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった

段があった 陶柿園と「さわや」の前にある縁石を比べます。

陶柿園とさわやの縁石

江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸名所図絵の牛込神楽坂

 江戸時代の(だん)(ざか)については、天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した『江戸名所』「牛込神楽坂」では10数段の階段になっています。
 なお、この画讃の上には『月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり』と書いています。
 また平成14年(2002年)になってから電線もなくなりました。

東京の路地を歩く|笹口幸男①1990年

文学と神楽坂

笹口幸男 笹口幸男氏は単行本『東京の路地を歩く』で「花街の粋をたたえる格調高い路地 神楽坂・四谷荒木町」(1990年、冬青社)を書いています。
 笹口幸男氏は、1940年生まれ。中央大学法学部政治学科を卒業し、ジャパンタイムズやTBSブリタニカ社、扶桑社の編集長などを経て、この当時は『International Financing Review』の東京編集部に勤務していました。

 神楽坂。好きな名前である。
 JR総武線の飯田橋駅から北へ行った高台の区域が神楽坂で、法政大学寄りの出口を出て、右手を望むと、かなり急な上り勾配の、街路樹と街路灯の続く町並みが目に入ってくる。冬の陽の落ちる直前の、景観は詩情すら感じさせてくれる。
 ここ三年ほど、職場が神楽坂に近くにあったせいで、昼飯などときたま食べに出かけて行くことも多かったが、私と神楽坂の最初の結びつきは、一軒の酒場から始まった。飯田橋駅から、神楽坂を上りつめたところの路地を右に入ったところにある。十五年ほど前になるかもしれない。同じ職場の先輩に仕事帰りに連れてこられたのが最初である。『ニューヨークータイムズ』で、東京の由緒ある居酒屋の一軒として紹介されたこともある。
 この酒房の名は〈伊勢藤〉。神楽坂のシンボルともいうべき毘沙門天の真ん前、お茶屋の脇を入った右手の奥まった角にひっそりとしてある。石畳を踏みしめてゆっくり歩いていくと、暗い闇の中にぼんやりと提灯の灯が見えてくる。「ああ、神楽坂へ来たんだ」という気分になる。表通りから一歩この路地に入ると、空気が一変する。そっと木戸を開けて中へ入ると、薄暗い土間になっていて、正面、カギの手のカウンターの向こうに主人が膝を折って正座している。酒の燗をつけてくれる。まるで酒場全体が、時代劇の旅籠屋のなかをのぞくような雰囲気に満ちていて、とても九十年の現代とは思えない。
 忘れることかできないのは、この反時代的な舞台装置だけでなく、主人の頑固一徹さである。昔ふうの酒飲みのスタンスを一歩たりとも崩さない。だから、この店では、ビールはもちろんのこと、焼酎もウイスキーも置いてない。それも白鷹いっぽんやり。自分の酒の好みを共有できる人のみに来てもらえばよい、ということをはっきり主張している。
 さらにこの店では、飲んで大声を上げたり、酔って他人に迷惑の及ぶ行為は厳しく禁止されている。かつて先輩や同僚を案内して立ち寄ることもたびたびあったが(最近はとんとご無沙汰している)、声が大きすぎるといって叱られたことも一再ならずあった。したがって気にくわないと思ったこともある。ちょっと良くなったが、かくのごとく私にとって〈伊勢藤〉は、神楽坂へのイントロであり、なつかしい。そして〈伊勢藤〉といえば、忘れられないのが、その石畳の路地であった。ここへ来るたびに、この路地の先はどうなっているのだろうか、というのがいつも抱く疑問だった。ある時この一帯の路地を歩く機会が訪れた。たっぷりと時間をかけ歩いてみた。この〈伊勢藤〉の前の路地は、すぐ左に曲がり、そして曲ったと思う間もなく、すぐ二又に分かれる。その右手に折れると、下りの石段になり、あたりの風情といったら、とても東京の一角などには感じられない。まるで京都の産寧坂あたりに迷い込んだかのような錯覚にとらわれる。割烹〈吉本〉と黒塀の旅館〈和可奈〉が両脇に並び、ムードをいっそう高めてくれる。〈和可奈〉の屋根の上を三毛猫かゆっくりと歩いている図もよくこの景観に似合う。
 一方、二又で分かれたもう一本の路地は、これほど魅惑的でないにせよ、長く、何回も曲がりくねりながら続いている点に、別種の趣きをおぼえる。先の路地か花街的な粋をたたえているとすれば、こちらの路地には、狭いアパートでの生活を強いられながらも、毎日に潤いを忘れない庶民の美意識があちこちに見られる。それは、二階のアパートの窓いっぱいを植木鉢で飾った家や、玄関脇をやはり植木鉢でかためた家などからうかがえる。
 そして両方の路地に共通にみられるのが、みかげ石の石畳であり、石段という小道具の存在である。石段の上と下で、どれだけ風景か変化するかは、体験してみればわかると思う。視点の移動による景観の変化は楽しいが、それが人間社会の意識にかかわると、見上げる・見下ろすといった心理的な位相にまで影響がありそうだ。さらにこの路地空間には、あとで見る神楽坂の別のエリアにもいえることだが、旅館や料亭のたたずまいがかもしだす古き良き時代の雰囲気が、現代という乾いた舞台で、いっそう情緒の光彩を放っているともいえる。


出口 飯田橋駅は先後の二方面で外にでられます。市ヶ谷方面と水道橋方面なのですが、法政大学寄りは市ヶ谷方面です。
法政大学

法政大学のキャンパス


町並み 実際に右を振り向くと神楽坂通りが非常によく見えてきます。 神楽坂通りの遠景
職場 はっきりしたことはわかりませんが、扶桑社やフジテレビの関係から、職場は新宿区河田町などに近い所ではなかったのではと思います。
伊勢藤 「伊勢籐 大好きな人もいるけど」を参考にしてください。しかし、伊勢藤か伊勢籐か。これについては藤のほうが正しいようです。
お茶屋  お茶屋は京都などで花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のこと。実際にそんな店は神楽坂にはありません。うどんすきの「鳥茶屋」と間違えているのでしょう。
この路地  この路地は賞を取ったことで「まちなみ景観賞の路地」((けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』)、または千鳥足で歩きたいことで「酔石横丁」(牛込倶楽部平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名)と呼ばれています。細かくはここで1990年の兵庫横丁(説明あり)
産寧坂 さんねいざか。京都市にある坂。三年坂(さんねんざか)とも。 東山の観光地として有名で、音羽山清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道です。
吉本 正しくは割烹「幸本」(ゆきもと)。たぶん「よしもと」だと間違えたもの。1990年でも「幸本」と読みました。
和可奈 「わかな」と読みます。細かくはここで
路地 この路地は「クランク坂」といった人もいます。『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では

坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
  カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。


石畳 石畳石畳の狭義の定義では、ピンコロ石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装のこと。

東京気侭地図2|神吉拓郎

文学と神楽坂


 その頃の神楽坂は、石畳だったように憶えている。四角なサイコロ型の石を、扇面の形に敷きつめてあったように思う。それ以前の神楽坂は、木レンガ敷きだったように聞いている。そして、震災以前は、砂利道で、勾配も、もっと急であったらしい。
 神楽坂は、あれでいて徴妙な上り下りがある。上って行くと、坂は一度頂点に達する。
 その先の毘沙門さまの善国寺や、レストラン田原屋のあたりは一旦平らになって、それから今の大久保通りに向ってやや下りになる
 神楽坂と呼ばれるのは、本来はその大久保通りまでらしいが、坂はそれを横切ってからまた上りになって、その先で一番高くなるようである。

現在の考えでは神楽坂通りの路面は、

震災以前 砂利道
震災直後
~昭和初年
木レンガから御影石のブロック、石畳に
昭和十年代 坂上の石畳はアスファルト、坂下の石畳は同じまま
戦後 坂上も坂下もアスファルトに

 また、標高差については『ここは牛込、神楽坂』第14号に載っています。3丁目は18mで一旦高くなり、それから下り、大久保通りは14m、その後、再び高くなって25.5mになります。

L

『ここは牛込、神楽坂』第14号


 表通りの店には、なんとなくあっちこっちと入ったことがある。
 坂の上り口から、ほんの二三軒先の左側に「おきな庵」という蕎麦屋があるが、この店は好きだ。学生にとりわけ人気のある店で、見かけも値段も、まったく並の蕎麦屋だが、今どきには珍しいほど、ちゃんとしたものを出す店だと思う。
 法政大学を出た男に教えられて入って以来、たびたびこのノレンをくぐるようになった。
 お目当ては、カツそば、という珍味なのである。
 カツそば、などというと、眉をひそめられそうだが、どうして、どうして、これが悪くない。かけそばの上に、庖丁を入れた薄いトンカツが一枚のっている。普通の感覚でいうと、どうもギラギラとして、シツコくて、とても喰えないと思うだろうが、これが淡々として軽い味わいなのである。
 食べてみて、あまりにも意外だったので、教えてくれた男に早速報告すると、その男は、しまった、と額を叩いた。
「忘れてました。温かいのを食べちゃったんでしょう」
「そうだ」
「いうのを忘れたけれど、冷たいのを喰わなくちゃ話になりません。カツそばは、冷しに限るんです」
 ますます奇妙である。冷したカツそばなんて喰えるのかしらんと思ったけれど、次に行ったとき、その、冷し、というのを註文した。食べてみて、へえ、と感心した。
 温かいのもウマかったけれど、冷し、は一段とウマい。世のなかには不思議な取合せがあるものだと、目をぱちくりして帰ってきた。
 ここのカツそばの味は保証してもいいけれど、喰いものの評価は、まったく独断と偏見によるものなので、口に合わないということだってあり得る。でも、大人が食べてみて、損をしたような気にならないことは承け合える。
 甘いものの「紀の善」、饅の「志満金」、珈琲の「巴有吾有(パウワウ)」、中華の「五十番」、レストランの「田原屋」、佃煮の「有明屋」、お茶の大佐和改め「楽山」などなど、神楽坂には、特色を持ったしっかりした店が多い。それを順々に楽しむのも悪くないが、なんといっても、神楽坂の一番の楽しみは。表通りから横に逸脱したところにある。

以下、同じ中屋金一郎編著の『東京のたべものうまいもの』の引用です。
おきな庵 翁庵。蕎麦屋です。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

ひるどきと夕方は、法政と理科大学の学生で一ぱいになる

翁庵
カツそば かつそば。温かいかつそばと冷たいかつそばがあり、どちらも880円です。確かに「冷しかつそば」の方があっさりしていいと思いますが、それほど違いはあると思えません。

温冷かつそば

かつそばの2種。左は温かいかつそば。右は冷やしかつそば

紀の善 甘味の店。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

 もとすしやで有名だった――
「紀ノ善」がしるこ屋になって繁昌。初代紀の国屋善兵衛。幕末創業で大名屋敷へ出入りしていたといわれる。現在は、女のお客さんでにぎやか。浅草駒形町の名物八百やせんべいも売っている

紀の善
志満金 中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

 吉益のまえ側にうなぎの老舗――
「島金」がある。店を区切って隣りは同じ経営で中華料理をやっている。うなぎの方は二階に座敷があり、出版関係や大学関係の人々のよりあいが多いといわれる。丼は百五十円からだが、値段からいってうまい。外に、錦丼というのがある。細かく切った蒲焼と糸切りの卵焼と焼のりをまぜたもの。安直な食事で評判がよい。一人前八十円。


巴有吾有 喫茶店です。木造の山小屋風で、2階はギャラリー、しかし、2006年にはなくなり、代わって理科大の巨大な「ポルタ神楽坂」の一部になりました。

Porta

五十番 中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

中華料理店。神楽坂を上りきった右かど。新店だが明るいきれいなかんじではやっている

2016年3月に場所が変わりました。本多横丁に向かって右側だったのが、左側になっていました。
五十番
田原屋 一階は果実の店、二階は洋食の店でした。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

昆沙門天さきのもとの場所は果実専門の店。

現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。
有明屋 佃煮の店。神楽坂6丁目の「よしや」の左隣でしたが、現在は「センチュリー21ベストハウジング」に変わっています。中屋金一郎が書いた『東京のたべものうまいもの』(1958年)では

 まっすぐあるいて六丁目、映画の武蔵野舘のさきに、佃煮の…
「有明家」がある。昭和四年開店。四谷一丁目が本店で、ここの鉄火みそ、こんぶ、うなぎの佃煮をたべてみたが、やっぱりAクラスで、うす塩味の鮒佐とはまたちがったおもむきがある。店がよく掃き清められ、整頓しているかんじ。食べもの屋として当然のことながら、好感が持てる。ここの佃煮をいくら買ってもいいわけだけれど、まあ、鉄火みそ、こんぶだったらそれぞれ五十円以上、うなぎは二百円ぐらいから、買うのが妥当のようである。

大佐和 昭和34年、牛込中央通りに茶、海苔、コーヒーの「斉藤園」を開店。昭和43年、神楽坂4丁目に移転し、「老舗大佐和支店」として営業を開始しました。
楽山 昭和52年、独立し、神楽坂銘茶「楽山」に変えます。楽山</a

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