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夏目漱石「それから」|神楽坂

「それから」は明治42年に夏目漱石氏が書いた小説です。
 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂、あるいは、藁店わらだなの上で、おそらく袋町に住んでいます。
 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。
 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。
 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。

一の一
 誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄

 これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。
 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。

八の一
 神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いてようやく安心した。
 家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略)
 その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

神楽坂 新宿区東部の地名。
日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。

ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では

 三月十四日 日[曜]
 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。
八の二
 仕舞にアンニュイを感じ出した。何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂から外濠そとぼりへ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近

十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。

十一の一
 新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。

十三の二
 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

電車 これも路面電車でしょう

十四の六
 津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういん焼跡の前へ出た。(中略)
 神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。
 ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨をいて又坂を上った。花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(右図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始
安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊」でしょうか?

十六の四
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。

門野 代助の書生です。

十六の七
平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門びしゃもんまえへ出た。(中略)
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。

「一七の三」で最後の文章です。

十七の三
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略)
 たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。(了)

飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
 「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂
 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

富士見二丁目

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。
警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。
最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

柴田宵曲|漱石覚え書

文学と神楽坂

 柴田宵曲(しょうきょく)は、大正-昭和時代の俳人で、昭和10年、俳誌「こだま」を主宰し、また俳句に関する随筆や考証物をまとめています。著作に「古句を観る」など。これは随筆をまとめた『漱石覚え書』のうち「神楽坂」の全てです。

 「『漱石覚え書』は、古書通信誌の昭和二十四年十月号から三十七年十二月号にかけて、『藻塩草』の題名のもとに書かれた随筆のうちから、抽出したものであったことは、その『はしがき』にも明らかにせられるごとくである。」と書かれています。したがって「神楽坂」は第二次世界大戦後で、間もない時期に書かれたものでしょう。

     神楽坂

 震災を免れたため、下町か復興するまでの間、特に繁華を示した神楽坂も、今度の戦火で全く亡びてしまった。両側の店の明るい灯影の中に夜店が立って、幅の狭い道をぞろぞろと人の往来するあの町も、何時になったら旧に復するか、今になって考えるといろいろ連想に上ることが多い。
 横寺町の先生と云われた紅葉の家は、神楽坂を上って肴町電車通を突切ってから、左へ曲ったあたりに在ったらしい。あの辺で育った友人などは、子供の時分に太弓場で弓を引く紅葉を見かけたことがあるそうである。紅葉中心の世界が神楽坂に及ぶのは当然であろう。
紅白毒饅頭」に出て来る縁日の描写は、毘沙門の縁日の夜に出かけて行って、ノートに書止めた材料を使ったのだという。御供についた泉鏡花が玄関番になって間も無い頃で、紅葉もまだ二十五歳の若い盛であった。
 鏡花の書いたものに神楽坂が現れるのは珍しくない。彼が半生を回顧すれば、はじめて文学の上に立脚地を与えられた横寺町時代の事が、何よりもなつかしく浮んで来る筈だからである。「春著」という随筆には、紅葉を中心とした当時の世界――未だ志を得ざる門下の士の生活が浮彫のように描かれている。その中に一人混っていた後藤宙外、この人の「明治文壇回顧録」の中にも神楽坂附近の消息に触れたものが屡々ある。
 漱石の小説は「三四郎」を最後として本郷から離れた観がある。これは早稲田南町に移った結果であるが、彼としては自分の生れた町の近くに帰ったわけであった。「それから」の中で深夜神楽坂にさしかゝって強い地震を感ずる一条は、彼自身の経験であることが日記によって証せられる。
 主人公の書生が「今夜は寅毘沙ですぜ」という寅毘沙なるものは紅葉が「紅白毒饅頭」に用いた毘沙門の縁日なので、常でも人通りの多い神楽坂が、この夜は一層のを呈するのである。
「早稲田派の忘年会や神楽坂」という子規の句は明治三十一年の作である。抱月宙外筑水梁川等が「早稲田文学」に筆陣を張った頃であろう。「藁店や寄席の帰りの冬の月 五城」という句の藁店は昔の寄席で、そのあとが後に牛込演芸館になった。この演芸館の事は「それから」の書生も口にしているが、今日ではちょっと説明のしようが無い。文学に現れたところによって、過去の歴史を辿る外はあるまいと思う。

横寺町。右図を。
肴町。現在は神楽坂5丁目です。
電車通。現在は大久保通り。
紅白毒饅頭。神道大成教に属する蓮門(れんもん)教は、コレラや伝染病が毎年のように流行するなか、驚異的に発展し、明治23年、信徒数は公称90万人。翌年尾崎紅葉の『読売新聞』「紅白毒饅頭」などの批判を受け、大成教は光津の資格を剥奪し活動を制限した。30年以降、教団は分裂し消滅。
屡々。しばしば。同じ事が何度も重なって行われる様子。たびたび。
早稲田南町。下図を。漱石山房記念館は現在建築中。
賑。しん。にぎわう。
五城。作は数藤五城氏でしょう。
牛込演芸館。寄席や舞台が中心でした。また私立東京俳優学校もここで開校しています。この場所は牛込館になりました。

 

明治文壇回顧録

 後藤宙外氏が描く『明治文壇回顧録』は、昭和11年に岡倉書房から出版されたもので、尾崎紅葉氏や島村抱月氏の回想は特に生彩が高いといわれています。氏が初めて紅葉氏と会った場所は横寺町で、ここにその一端を載せます。

 明治三十年五月頃、「作家苦心談」の筆記のために、牛込横寺町の尾崎紅葉氏を訪うて、初めて面晤することを得たのである。私は明治二十年頃からの氏の作は大抵讀んで居り、才人であり、好男子であることも聞いて居りましたが、親しく其の人に接して話を聞いたのは、この時が初めてであつた。かねて想像したよりは、強健さうな體格で、身の長も尋常の人よりは高い方であり、態度も何となく男らしく、所謂キビ/\したサツパリとした男ぶりに見えた。文人によくある色の生ツちろい、 弱々とした優男ではなかつた。眼のぱツちりした明るい顔で、活氣にみちて居られた。これは後に門下の某君から聞いたことだが、徴兵檢査の際には砲兵科の甲種合格であつたと云ふことだ。これを以て青年時代の同氏の體格と健康との程度が察しられる。
強い地震  夏目漱石作の「それから」「八の一」で強い地震が出てきます。

 神楽坂かぐらざかへかゝると、ひつそりとしたみちが左右の二階家にかいやはさまれて、細長ほそながまへふさいでゐた。中途迄のぼつてたら、それが急に鳴りした。代助はかぜむねに当る事と思つて、立ちまつてくらのきを見上げながら、屋根からそらをぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。と障子と硝子がらすおとが、見る/\はげしくなつて、あゝ地震だと気がいた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでゐた。其時代助は左右の二階さかうづむべく、双方から倒れてる様に感じた。すると、突然右側みぎかはくゞをがらりとけて、小供をいた一人ひとりの男が、地震だ/\、大きな地震だと云つてて来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
 うちいたら、婆さんも門野かどのも大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人ふたりとも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置しやうかと思案して見た。然し分別をらす迄には至らなかつた。ちゝあにの近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡をめた。さうしてねむりに入つた。
寅毘沙、この演芸館  「それから」の「八の六」に寅毘沙や演芸館が出てきます。

代助は書斎に閉じ籠こもって一日考えに沈んでいた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些ちと御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙(とらびしゃ)ですぜ演芸館支那人(ちゃん)の留学生が芝居を()ってます。どんな事を演る積りですか、行って御覧なすったらどうです。支那人てえ奴は、臆面(おくめん)がないから、何でも()る気だから呑気(のんき)なものだ。……」と一人で喋舌(しゃべ)った。

春着|泉鏡花④

文学と神楽坂

 少々せう/\はなしとほりすぎた、あとへもどらう。
 まんちやんさそつたいへは、以前いぜんわたしんだ南榎町みなみえのきちやう同町内どうちやうないで、おく辨天町べんてんちやうはうつてことはすぐにれた。が、家々いへ/\んで、したがつてみちせまつたやうながする。ことよるであつた。むかしんだいへ一寸ちよつと見富けんたうかない。さうだらう兩側りやうがはとも生垣いけがきつゞきで、わたしうちなどは、木戸内きどうち空地あきち井戸ゐどりまいてすもゝ幾本いくほんしげつてた。すもゝにはから背戸せどつゞいて、ちひさなはやしといつていゝくらゐ。あの、そこあまみをびた、美人びじんしろはだのやうな花盛はなざかりをわすれない。あめにはなやみ、かぜにはいたみ、月影つきかげには微笑ほゝゑんで、淨濯(じやうたく)明粧めいしやう面影おもかげにほはせた。……
[現代語訳] 少々話は通りすぎた。もとに戻ろう。
 その日、この万ちゃんの家は、以前、私が住んでいた南榎町と同じ町内だが、弁天町の方へ近いことはすぐにわかった。が、家々は立て込んでいるし、したがって道も狭くなったよう気がする。ことに夜だった。むかし住んだ家はどこなのか、ちょっと見当はつかない。そう、両側とも生垣つづきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて、すももの木が何本も茂っていた。すももは庭から裏門まで続いて、小さな林といってもいいぐらい。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のような花盛を忘れない。雨では悩み、風では腐敗し、月影にはほほえんで、きよらかで美しいよそおいの面影を匂っていた。……

南榎町 弁天町。右図を
背戸 家の裏口。裏門。背戸(せど)(ぐち)
浄濯 きよらかで洗う。
明粧 美しいよそおい。美しい化粧。

 たゞ一間ひとまよりなかつた、二階にかい四疊半よでふはんで、先生せんせい一句いつくがある。

(ふん)きよう乳房ちぶさかくすや花李はなすもゝ

 ひとへしろい。ちゝくびの桃色もゝいろをさへ、おほひかくした美女びぢよにくらべられたものらしい。……しろはなの、つてころの、その毛蟲けむし夥多おびたゞしさとつては、それはまたない。よくも、あのみづんだとおもふ。一釣瓶ひとつるべごとにえのきのこぼれたやうなあか毛蟲けむし充滿いつぱい汲上くみあげた。しばらくすると、毛蟲けむしが、こと/″\眞白まつしろてふになつて、えだにも、にも、ふたゝ花片はなびららしてつてみだるゝ。幾千いくせんともかずらない。三日みつかつゞき、五日いつか七日なぬかつゞいて、ひるがへんで、まどにも欄干らんかんにも、あたゝかなゆきりかゝる風情ふぜいせたのである。
 やがてみのころよ。――就中なかんづくみなみ納戸なんど濡縁ぬれえんかき(ぎは)には、見事みごと巴旦杏はたんきやうがあつて、おほきなひ、いろといひ、えんなる波斯ペルシヤをんな爛熟らんじゆくした裸身らしんごとくにかをつてつた。いまだと早速さつそく千匹屋せんびきやへでもおろしさうなものを、川柳せんりうふ、(地女ぢをんなりもかへらぬ一盛ひとさか)それ、意氣いきさかんなるや、縁日えんにち唐黍たうきびつてかじつても、うちつたすもゝなんかひはしない。一人ひとりとして他樣ひとさまむすめなどに、こだはるものはなかつたのである。

[現代語訳] ただ住んでいるのは一間だけだった。二階の四疊半で、先生の一句がある。
     紛胸の乳房かくすや花李  (膨らんだ胸の乳房を隠すのか、花すもも)
 ひとえに白い。乳首の桃色さえ、おおいかくした美女に比べたものらしい。……この白い花が、散って葉になる頃の、その毛虫のおびただしさといっては、もうひどい。よくも、あの水を飮んだと思う。一釣瓶ごとに榎の実のこぼれたような赤い毛虫をいっぱいに汲みあげた。しばらくすると、この毛虫が、ことごとく真っ白な蝶になって、枝にも、葉にも、再び花片をちらして舞ってみだれていく。数は何千あるのか、わからない。三日続き、五日、七日続いて、蝶はひらめき、飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかかる風情を見みせたのである。
 やがて実る頃になる。――特に、南の納戸の濡縁にあった垣根には、見事な()(たん)(きょう)があって、おおきな実と言い、色といい、艷なるペルシャの女の爛熟した裸身のごとくに匂っていた。今では早速千匹屋でも卸そうなものだが、例の川柳では、(地女は振りもかへらぬ一盛り。訳すと、その土地の女なら無視する、これぞ若さだな)。つまり、意気のさかんな青年は、縁日のトウモロコシは買って食べても、家でなったすももなんか食いはしない。一人として他人様の娘などには、こだわる人はなかったのである。

 物事がもつれる。
ひとえ そのものだけだ。重ならないこと
翻る ひるがえる。風になびいて揺れ動く。ひらめく。
就中 なかんずく。多くの物事の中から特に一つを取り立てる様子。とりわけ。中でも。特に。
 ませ。竹や木で作った、目の粗い低い垣根。多く、庭の植え込みの周りなどに作る。
巴旦杏 はたんきょう。スモモの一品種。果実は大きい。熟すと赤い表皮に白粉を帯びて、甘い。食用。
地女 じおんな。その土地の女。商売女に対して、素人の女
一盛り ひとさかり。一時期盛んであること。若さの盛んな一時期。
こだわる 気にしなくてもいいようなことを気にする。

 が、いまはひらけた。そのころともだちがて、酒屋さかやから麥酒ビイルると、あわたない、あわが、麥酒ビイルけつしてあわをくふものはない。が、あわたない麥酒ビイル稀有けうである。酒屋さかやにたゞすと、「ときさかさにして、ぐん/\おりなさい、うするとあわちますよ、へい。」とつたものである。十日とをかはらくださなかつたのは僥倖げうかうひたい――いまはひらけた。
 たゞ、しいかななかまる大樹たいじゆ枝垂櫻しだれざくらがもうえぬ。新館しんくわん新潮社しんてうしやしたに、吉田屋よしだや料理店れうりてんがある。丁度ちやうどあのまへあたり――其後そのご晝間ひるまとほつたとき切株きりかぶばかり、のこつたやうにた。さかりときこずゑ中空なかぞらに、はなまちおほうて、そして地摺ぢずりえだいた。よるもほんのりとくれなゐであつた。むかしよりして界隈かいわいでは、通寺町とほりてらまち保善寺ほぜんじ一樹いちじゆ藁店(わらだな)光照寺くわうせうじ一樹いちじゆ、とともに、三枚振袖みつふりそで絲櫻いとざくら名木めいぼくと、となへられたさうである。
 むかがは湯屋ゆややなぎがある。此間このあひだを、をとこをんなも、一頃ひところそろつて、縮緬ちりめん七子なゝこ羽二重はぶたへの、くろ五紋いつゝもんした。くにも、蕎麥屋そばやはひるにも紋付もんつきだつたことがある、こゝだけでもはるあめ、また朧夜おぼろよ一時代いちじだい面影おもかげおもはれる。
 つい、その一時代前ひとじだいまへには、そこは一面いちめん大竹藪おほたけやぶで、よわ旗本はたもとは、いまの交番かうばんところまでひるけたとふのである。酒井家さかゐけ出入でいり大工だいく大棟梁おほとうりやうさづけられて開拓かいたくした。やぶると、へび場所ばしよにこまつたとふ。ちひさなだうめてまつつたのが、のちに倶樂部くらぶ築山つきやまかげたにのやうながけのぞんであつたのをおぼえてる。いけちん小座敷こざしきれうごのみで、その棟梁とうりやう一度いちど料理店れうりてん其處そこひらいたときのなごりだといた。
[現代語訳] が、今では開けた。その頃、友だちが来て、酒屋からビールを取ると、泡が立たない。ビールは泡を食べるのはないが、泡の立たないビールは稀だ。酒屋にただすと、「抜く時にさかさにして、ぐんぐん、ふりなさい。そうすると泡が立ちますよ、へい。」といわれた。十日間、腹をくださなかったのは僥倖といいたい――今は開けた。
 ただ、惜しいことがある。中の丸の大樹のしだれ桜がもう見えない。新館の新潮社の下に、吉田屋という料理店がある。ちょうどあの前のあたり――その後、昼間通った時、切株ばかりが見えて、根だけが残ったように見えた。盛りの時は梢が中空に、花は町をおおい、そして地摺りの文様には枝を使っていた。夜もほんのりと紅色だった。昔から界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店光照寺に一樹とともに、三樹合わせて、三枚振袖として、糸桜の名木と、称えられたそうだ。
 向側の銭湯に柳がある。このあいだ、少し前だが、男も女も、そろって、縮緬と羽二重の絹織物、金工技法の魚々子、さらに黒の五紋を着て町に出た。湯へ行くにも、そば屋へ入るにも紋着だった。ここだけでも春の雨、また朧夜という一時代が思い出される。
 その一時代前には、一面の大竹藪で、気の弱い旗本は、いまの交番のところまで昼も駆け抜けたというのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が工事を請け負い、開拓した。藪を切ると、何匹も蛇が出てきて、捨てる場所がなく、困ったという。小さな堂にまとめて祭ったのだが、矢来倶楽部の築山の影に谷のような崖があり、堂はそこにあったと覚えている。その棟梁は池、東屋、小座敷、茶室などが大好きで、この堂も一度料理店をそこに開いた時のなごりだと聞いた。

僥倖 ぎょうこう。思いがけない幸い。偶然に得る幸運
惜しい おしい。大切なものを失いたくない。むだにすることが忍びない。もったいない。
地摺り じずり。生地に文様を摺り出した織物。地に藍や金泥で模様を摺り出すこと、その織物。
曳く ひく。地面をこすって進むようにする。引きずる
となえる 唱える。称える。名づけていう。呼ぶ。称する。
縮緬 表面に細かい(ちぢみ)) がある絹織物。縦糸に()りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織した。
七子 ななこ。魚々子。魚子、七子、魶子とも書く。金工技法の一つ。切っ先の刃が小円となった(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい(あわ)粒をまいたようにみせる技法。
羽二重 日本の代表的な高級絹織物の一種。生糸を用いて平織か綾織にしたのち、精練と漂白をして白生地とし、用途によって無地染や捺染模様染にする。
五紋 着物に付いている家紋の数。一つ紋は家紋は背中心に1つ。三つ紋はさらに両後ろ袖。五つ紋はさらに両胸。紋が増えるほど格が高くなり、黒留袖と喪服は必ず五つ紋。写真は五つ紋。
紋着 紋をいれた着物。「格」が最高な紋着は礼装着(第一礼装)で、打掛、黒留袖、本振袖、喪服など。
授かる さずかる。神仏や上位の人から、大切なものを与えられる。授けられる。 学問や技術を師から与えられる。
 神仏を祭る建物。
籠める こめる。物の中にいれる。詰める。表に出さないよう包み隠す。閉じこめる。
 眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物。あずまや。
 茶室としてつくった小さな建物。数寄屋。江戸の富裕町人の別宅。下屋敷。
ごのみ 好み。名詞の下に付いて、複合語をつくる。好きなものの傾向。ある時代や、ある特定の人に好まれた様式

 かけはしちんで、はるかにポン/\とおる。へーい、と母家おもやから女中ぢよちうくと、……たれない。いけうめ小座敷こざしきで、トーンと灰吹はひふきたゝおとがする、むすめくと、……かげえない。――その料理屋れうりやを、たぬきがだましたのださうである。眉唾まゆつば眉唾まゆつば
 もつともいま神樂坂上かぐらざかうへ割烹かつぱう魚徳うをとく)の先代せんだいが(威張ゐばり)とばれて、「おう、うめえものはねえか」と、よつぱらつてるから盤臺ばんだい何處どこかへわすれて、天秤棒てんびんぼうばかりをりまはして歩行あるいたころで。……
 矢來邊やらいへんは、たゞとほくまで、榎町えのきちやう牛乳屋ぎうにうや納屋なやに、トーン/\とうし跫音あしおとのするのがひゞいて、いまにも――いわしこう――酒井家さかゐけ裏門うらもんあたりで――眞夜中まよなかには――いわしこう――と三聲みこゑんで、かたちかげえないとふ。……あやしいこゑきこえさうなさびしさであつた。
[現代語訳] 架け渡した橋の東屋で、遙かにポンポンとお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰もいない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹をたたく音がする、娘が行くと、……影も見えない。――その料理屋を、狸がだましたのだそうである。ご用心。ご用心。
 もっともいま神楽坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張(いば)り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食わねえか」と、酔っ払っているから魚を運ぶ盤台はどこかに忘れて、天秤棒だけを振りまわして歩いた頃で。……
 矢来あたりの夜は、ただ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーントーンと牛の足音のするのが響いて、今にも――いわしこう――酒井家の裏門あたりで――真夜中には――鰯こう――と三回、売り子が売る声が聞こるが、形も影も見えないという。……怪しい声が聞こえそうな寂しさだった。

 サン。かけはし。険しいがけなどに、架け渡した橋。かけはし
はるか 遥か距離が遠く隔たっているさま
灰吹 タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。
眉唾 まゆつば。眉に唾をつければ狐や狸にだまされないと信じられたことから、だまされないように用心すること。信用できないこと。真偽の疑わしいこと。
盤台 はんだい。ばんだい。板台。半台。魚屋が魚を運ぶために浅くて大きな楕円形か円形の桶。比較的小型の円形のものはすし飯を作るのに用いる。

鈴木春信 『水売り』/棒手売をする水売りの童子を描いた浮世絵。1760年代の作。東京国立博物館所蔵

天秤棒 両端に荷をかけ物を運ぶための棒。中央を肩にあてかついで運ぶ。天秤とも。
榎町 左図を参照。
いわしこう 鰯こう。後半に「鰯こ」と書いているところもあります。「…こ」「…っこ」は①まだ一人前でない状態の人物や動物などで、乳幼児、ひな、幼虫など。たとえば「売り子」「おばあさんこ」「売れっ子」「江戸っ子」など。②特定の状態にいる人物や動物、物品で、たとえば「振り子」「根っこ」など。いわしを売っていた売り子が「いわしこ」「いわしこう」と声を掛けながら売っていたのでしょう。三浦哲郎が書いた『笹舟日記』の随筆「鰯たちよ」(毎日新聞、1973年)では「鰯っこ」で出ています。家で食べる食品としての鰯なのです。

東京俳優学校と牛込高等演芸館

かぐらむら』の「藤澤浅二郎と東京俳優学校」を読むと「東京俳優学校」や「牛込高等演芸館」についていろいろな情報が入ってきます。

藤澤浅二郎と東京俳優学校
神楽坂通りから光照寺に行く地蔵坂の右手の袋町3番地には、かつて、江戸時代から続く、牛込で第一と言われた寄席があった。夏目漱石が通い中流以上の耳の肥えたお客が集まったという「和良店亭」である。明治41年、新派の俳優、藤澤浅二郎は、この場所に、日本で初めての俳優養成所(後に私立東京俳優学校と改称)を開設した。この頃はまだ、江戸時代の慣習が色濃く、歌舞伎役者の地縁や血縁にある人だけが、芝居を行っていた。けれども文学の多様化により従来の型にはまらない、新しい表現のできる俳優が必要とされていた。

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
(「和良店亭」の席亭である竹本)小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。(中略)

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤氏は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。 藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

東京俳優学校の開設
当初は、(藤澤氏は)西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。

入学前後の様子
生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。最終合格者は23名であった。
授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。

授業の内容と生徒達
毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。(中略)

赤字、そして閉校
生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。(中略)。
第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。

『ここは牛込、神楽坂』第7号の「地蔵坂」で、高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

一方、同じく同号で、作家山下武は

牛込館の前身、牛込高等演芸館では藤沢浅二郎の俳優学校が設けられ、創作試演会が上演されたそうだ

西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを独力で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設し、ここの舞台に立つことは俳優を目指す者のあこがれになり、多くの俳優を育てた

と書いています。ただし「独力で高等演芸館に改装」したのは寄席「高等演芸館・和良店」の佐藤康之助氏でした。藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五〇年九月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

紅谷研究家の谷口典子氏は「かぐらむら」平成25年4・5月第67号で

高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。高等演芸館は再度改築され、大正三年六月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。2年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。
 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)

麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

4.5丁目

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。十六代目の生年は1904年(明治37年)1月15日、没年は1952年(昭和27年)10月2日
歌右ヱ門 中村歌右衛門。なかむら うたえもん。歌舞伎役者
松永和風 まつなが わふう。長唄の名跡
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒

明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。

 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
駐車場 Pカフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わり、左の駐車場ではありません。
風俗画報 以下の通りです。

L

早川雪洲 早川雪洲はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日で、87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。,岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日で、87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

神楽坂|大東京案内(5/7)

前は大東京案内(4/7)です。

あまり広くないこの界限(かいわい)で、娯楽(ごらく)機関(きくわん)は五つ六つある。昔、神市場といった現在の神樂坂演藝館牛込亭などは色もの席。手踊り浪花節席の柳水亭(りゆうすゐてい)は今の勝岡(かつをか)牛込(うしごめ)會館(くわいくわん)は最も立派な建物だが、震災直後には水谷八重子汐見洋などが新劇(しんげき)を演じた思ひ出を持ってゐる。
 映畫常設館の文明館(ぶんめいくわん)は三流どころの活動小屋らしい。そこへ行くと、(きう)藁店(わらだな)牛込館(うしごめくわん)は、所謂(いわゆる)山の手系統の流れを汲む説明者と、呼びもののレヴユーを以つて、一脉(みやく)新鮮(しんせん)な現代風を(かも)し出すところ。その客筋も新しい。

色もの 寄席で、講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などのこと。
手踊り 寄席などで、端唄や俗曲・流行歌につれておどる踊り
浪花節 江戸末期、大坂で成立。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたもの。浪曲。
新劇 歌舞伎・新派劇などの旧劇に対抗して明治末期以降の新興演劇
一脉 一脈。ひとつづき。一連のつながりがあること。わずかに
客筋 きゃくすじ。その店に来る客の傾向・種類。客種

神楽坂演芸館 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。さらに解説
牛込会館

神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。水谷八重子氏の『芸 ゆめ いのち』(1956年)では

(関東大震災が終わると、一か月後の)十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました」
文明館 文明館の地図は上の鶴扇亭と同じ地図に出ています。詳しくはここで
藁店 藁店(わらだな)は神楽坂5丁目と袋町とを結ぶ坂道です。
『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会を引用すると

小林さん(小林石工店) で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。

文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。
夏目漱石氏の『吾輩は猫である』で

この子供の言葉ちがいをやる事は(おびただ)しいもので、(中略)或る時などは「わたしゃ藁店(わらだな)の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き(ただ)して見ると裏店(うらだな)と藁店を混同していたりする。

裏店とは裏通りにある家で、商家の裏側や路地などにある粗末な家をいいました。

レビュー レビューrevue。フランス語です。音楽やコント踊り等で構成。時事風刺の効いた舞台娯楽ショー。19世紀末から20世紀にかけて各国で流行。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

文学と神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂14|矢来・江戸川

矢来・江戸川

文学と神楽坂

その頃のことを追想すると、私は今でも心のときめくような深い感慨をもよおさずにいられない。芸術座創立前後における、私達島村先生の周囲に集まった者等の異常な感激と昂奮とは別としても、私自身も一度は舞台に立とうかなどと考えて、同好同志の数氏と毎日その清風亭に集まり、島村先生や須磨子について脚本の朗読を試みたり、ゴルキイ「夜の宿」などを実際に稽古をしたりしたものだった。私はルカ老人の役にふんし、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その高等演芸館が今の牛込館になったのであるが、当時そこには藤沢浅二郎俳優学校が設けられていたり、度々創作試演会が催されたりしたもので、清風亭は別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。

矢来交番

芸術座 第一次は島村抱月(ほうげつ)、松井須磨子(すまこ)を中心とした芸術座。1913年(大正2年)、島村抱月松井須磨子とのスキャンダルがあり、坪内逍遥の文芸協会を脱退し、2人は相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。1918年(大正7年)11月、島村がインフルエンザ(スペイン風邪)で急死、2か月後には松井が後を追って自殺。芸術座は解散。
清風亭 この頃の清風亭は、赤城神社内ではなく、石切橋に新築しています。
ゴルキイ マクシム・ゴーリキー(Максим Горький)。ロシアの作家。生年は1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)。享年は1936年6月18日。
夜の宿 劇は「どん底」と同じ。1902年作。帝制末期のモスクワの木賃宿に住むどん底の人々の生活を描きました。1910年(明治43)12月の自由劇場の公演名は「夜の宿」。1922年2月、1回だけ「どん底」に変更。1936年9月、新協劇団があらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。
ルカ老人 「どん底」の登場人物ルカは60歳の巡礼者。途中から現れてどん底にいる住人たちを一人一人勇気づけ、未来への希望を願うといいます。
藁店 神楽坂通りに神楽坂五丁目の南に曲がる道を上に登る坂道のこと。標柱もあり、「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた」と書いてあります。詳しくはここで
高等演芸館 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では「藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設。
牛込館 藁店の中腹にあった映画館。以前は高等演芸館・東京俳優養成所。
藤沢浅二郎 ふじさわあさじろう。俳優、劇作家、ジャーナリスト。生年は慶応2年4月25日(グレゴリオ暦 1866年6月8日)。享年は1917年3月3日。
俳優学校 1908年(明治41年)11月11日、藤沢浅二郎は自費で牛込に東京俳優養成所を開設。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では「第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった」。詳しくはここで
余丁町 坪内逍遥が新劇活動を行った場所は余丁町7でした。「坪内逍遥旧居跡(文芸協会演劇研究所跡)」と書いた標識板もあります。
文芸協会 坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体。新劇運動の母体になりました。
横寺町 新宿区の北東部の町。北部は神楽坂6丁目に接し、北東部は岩戸町、南東部は箪笥町、南部は北山伏町、西部は矢来町に接する。主に住宅地。

矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで延長して、更に江戸川の通りと連続すべき運命にあるように思われる。消防署附近に、矢来ビルディングなるハイカラな貸長屋が建ち、あたりも大変明るい感じになった。そしてカッフエその他の小飲食店も沢山軒を並べて、この辺はこの辺だけで又一廓の小盛り場をなすが如き観を呈しているが、ここまで来ると、その盛り場は最早純然たる早稲田の学生の領域である。私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行くが、そののれんを外にくぐり出ると、真向の路地の入口にわが友水守亀之助君経営の人文会出版部標木が、闇にも白く浮出しているのが眼につくであろう。仰げば近く酒井邸前の矢来通りに、堂々たる新潮社の四層楼が、わが国現代文芸の興隆発達の功績の三分の一をその一身に背負っているとでもいいたげな様子に巍然ぎぜんとして空高く四方を圧し、経済雑誌界の権威たる天野博士の東洋経済新報社のビルディングが、やや離れて斜に之と相対しているが、やがてこの二大建築の中間に、丁度三角形の一角をなして、わが水守君の人文会の高層建築のそびえ立たん日のあるべきを期待することは甚だ愉快である。

矢来の通り 早稲田通りのうち牛込天神町交差点から矢来町の終わるまでの通り。
寺町の通り 早稲田通りのうち神楽坂6丁目(以前は通寺町)に入る通り。
江戸川の通り 牛込天神町交差点から江戸川橋交差点までの通り。現在は「江戸川橋通り」。ここには明治・大正の呼び方を書いておきます。
神楽坂・矢来・江戸川 消防署 矢来町104にありました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」です。
矢来ビル… 場所は不明
ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。丈の高い襟という意味の英語「high collar(ハイカラー)」に由来します。明治時代に、西洋帰りの人や西洋の文化や服装を好む人が、ハイカラーのワイシャツを着ていたことから。
一廓 いっかく。一郭。一廓。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
学生の領域 戦前、早稲田大学は神楽坂に大きな力を持っていました。しかし、戦後になると、多くの早稲田学生は高田馬場や新宿に流れていきます。
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日。
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。ほかにはLa Città morta(死都、1898年)など。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、また、売ったりする店。書店。本屋。江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、板元はんもと(版元、書肆しょし、本屋)が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていました。
鷲尾浩 早稲田大学文学士でした。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。鷲尾浩氏の翻訳は『マーテルリンク全集』以外は、ほぼ性愛、性欲、色情に関するものばかり。『性愛の技巧』『性欲研究名著文庫』『風俗問題』『性慾生活』『色情表徴』『男と女』『恋愛発達史の新研究』『人間の性的撰択』『純潔の職能と性的抑制』『性的感覺』『性的道徳と結婚』『姙娠の心的状態』『愛と苦痛』『性教育と性愛の価値』『売淫と花柳病』。
江戸屋 尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には「矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾(のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。」と書いてあります。しかし、正確な場所はこれでもわかりません。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。
水守亀之助 みずもりかめのすけ。大阪の医専を中退して、1907年、田山花袋に入門。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社し、『新潮』編集部に。編集者の傍ら、『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏といわれました。生年は1886年6月22日。享年は1958年12月15日。
人文会出版部 国会図書館で調べると、人文会出版部の以前の住所は矢来町3番目。この3番目は大きすぎて、わかりません。しかし、新規の番号に再制定され、新しい番号は矢来町66番地でした。この図(火災保険特殊地図、昭和12年)では階段から上に登ったところが66番です。下の図では現在の66番ですが、ちょうど新潮社のLa Kaguの大きなテラスだけになっています。 人文会
標木 ひょうぼく。目印にする木
酒井邸 江戸時代は小浜藩酒井家。明治時代は酒井邸になります。
新潮社 昭和12年の「火災保険特殊地図」によれば、この当時の新潮社は矢来町71番地だけでした。(現在は膨大な場所です)。しかし下の図では下の青い四角。
巍然 ぎぜん。高くそびえ立つさま。抜きんでて偉大な様子。
天野 天野為之(あまの ためゆき)。明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任。生年は1861年2月6日(万延元年12月27日)。享年は 1938年(昭和13年)3月26日。
東洋経済新報社 1895年に創立し、『週刊東洋経済』や『会社四季報』などを手がけました。1907年から1931年までは牛込区天神町6番地に社屋がありました。下図では左上の青い四角です。中央の青い四角は人文会出版部、下の青い四角は新潮社です。

新潮社など

牛込区全図、昭和5年

江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿穢小なる一細民窟に過ぎなかったが、交通機関の発展は、今やその地を神楽坂に次ぐの繁華な商店街となし、毎晩夜店が立って、その賑かさはむしろ神楽坂をしのぐの概がある。矢来交番前に立って、正面遠く久世山あたりまで一眸いちぼうに見渡した夜の光景も眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完通の暁には、更に面目を一新して一層の繁華を増すことであろう。

低湿穢小 土地は低く、湿気は多く、きたなく、小さい
細民窟 貧しい人たちが集まり住んでいる地域。貧民窟
久世山 くぜやま。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では「八幡坂(はちまんざか)は音羽一丁目と小日向二丁目の境界にあたる。この坂の上は通称久世山とよぶ。小日向の高台で、江戸時代は下総国関宿の藩主久世氏の広大な下屋敷があったので久世山の名が起った」。久世山は小日向台地の1部です。
音羽護国寺前 最北部は交差点「護国寺前」。目白通りから南方に向かってくると音羽になります。
電車 都電(市電)のことで、「矢来下」停留場まで来ていました。
あるまじく あってはならない。
繁華 人が多く集まってにぎやかなこと

それにつけて思い出されるのは江戸川の桜衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいことである。あの川をはさんだ両側の夜桜の風情の如き外には一寸見られぬものであったが、墨堤ぼくていの桜が往年の大洪水以来次第に枯れ衰えたと同様に、ここもまた洪水の犠牲となったものか、あの川の改修工事以来駄目になってしまった。その代りというわけでもないが、数年前に江戸川公園が出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の滝の下の緑蔭下に、小舟にさおし遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続いていた一頃の如き賑いは見られないようだ。行く川の流れは元のままにしてしかも元の水にあらずか?

江戸川の桜 文京区の「江戸川公園」では次のようになっています。

明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで、石切橋から大曲まで、約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、河川改修に伴い、昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退
墨堤 隅田川の土手
江戸川公園 関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園

江戸川公園

関口の滝 神田上水は、関口大洗堰で左右に分かれ、左側は上水、右側は余水の江戸川となり、関口から飯田橋までは江戸川、飯田橋から浅草橋までは神田川と呼びました。1965年(昭和40年)の法改正で、両川とも神田川に。『江戸名所図会』ではこの大洗堰は「目白下大洗堰」として紹介されています。1937年(昭和12)、改修時、大洗堰はなくなり、跡には大滝橋が架けられています。
緑蔭 木の青葉が茂ってできるひかげ。こかげ。季語は夏
葉桜 花が散って、若葉の出はじめた桜。季語は夏

大東京繁昌記 早稲田神楽坂

神楽坂今昔(2)|正宗白鳥

文学と神楽坂

私がはじめて寄席へ行つたのは彼等に誘はれたゝめであった。神樂坂あたりには、和良店牛込亭との二軒の寄席があつたが、前者は落語を主とした色物席で、後者には義太夫がよくかゝつてゐた。朝太夫といふ本格的の語り手ではなくつても、大衆に人気のあつた太夫が一時よく出てゐたことがあつた。私は自分の寄席ばひりも可成り功を經た時分、或る夏の夜この牛込亭の一隅で安部磯雄先生の浴衣姿を發見したので、御人柄に似合ぬのを不思議に思つて、傍へ行つて訊ねると、先生は朝太夫の情緒ある語り囗を讚美され、樂んで聞いてゐると云はれた。先生の如きも、浄瑠璃に漂つてゐる封建的人情味に感動されるのか。
あの頃の和良店は、東京の寄席のうちでも、名の聞えた、榮えた演藝場であつて、私のはじめて行つた頃は、圓遊の全盛時代であつた。これも圓朝系統では本格的の噺家ではなかつたさうだが、大衆には人気があった。私はよく聽きに行つた。落語家の東京言葉江戸言葉が、田舎出の私にも面白く聽かれたのだ。神樂坂區域の都曾情味だけでは次第に物足りなくなって、單獨行動で、下町の寄席へも出掛けた。

彼等 この文章の前に彼等とは早稲田の法科の学生だと書いてあります。
和良店 和良店亭の設立時期は判っていません。が、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が公演し、天保年間には「わら新」で義太夫が興行をしました。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席が中心になっていきます。
牛込亭 牛込亭の場所は6丁目でした。。
色物席 寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。これで色物と呼ぶようになりました。
義太夫 義太夫節。ぎだゆうぶし。江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。
朝太夫 竹本朝太夫。たけもとあさたゆう。1856-1933。明治-昭和時代前期の浄瑠璃太夫。
>寄席ばひり 寄席ばいり。寄席這入り。寄席にたびたび行くこと。
安部磯雄 あべ いそお。生まれは元治2年2月4日(1865年3月1日)。死亡は昭和24年(1949年)2月10日。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者。日本の野球の発展に貢献し「日本野球の父」。早稲田大学野球部創設者。
圓遊 2代目三遊亭 圓遊。生まれは慶応3年(1867年)7月、死亡は大正13年(1924年)5月31日。江戸出身の落語家
圓朝 初代三遊亭 圓朝、さんゆうてい えんちょう。生まれは天保10年4月1日(1839年5月13日)。死亡は明治33年(1900年)8月11日。江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した落語家。

私は、學校卒業後は、一年あまり學校の出版部に奉職してゐた。この出版の打ち合せの會を、をりをり神樂坂近邊で高級な西洋料理屋とされてゐた明進軒で催され、忘年會も神樂坂の日本料理屋で開かれてゐたので、私も、學生時代には外から仰ぎ見てゐただけの享樂所へはじめて足を入れた譯であつた。明進軒に於ける編輯曾議には、一度、高田早苗 坪内逍遙兩先生が出席された。私が學生生活を終つてはじめて世間へ出た時の集まりだから、爽やかな氣持でよく記憶してゐる。秋の夕であつた。たつぷりうまい洋食をたべたあとで、高田先生は漬物と茶漬とを所望され、西洋料理のあとではこれがうまいと、さもうまさうに掻込んでゐられた。

明進軒2

出版部 早稲田大学出版部。1886年の設立以来、多くの書籍を出版してきました。
明進軒 昭和12年の「火災保険特殊地図」では明進軒は岩戸町ニ十四番地です。なお後で出てくる求友亭は通寺町75番地でした。また神楽坂通りから明進軒や求友亭をつなぐ横丁を川喜田屋横丁と呼びます。
享樂所 快楽を味わう所

我々の部屋の外を横切った筒つ袖姿で、氣の利いた顏した男に、高田さんは會釋したが、坪内先生はふと振り返つて、「尾崎君ぢやなかつたか。」と云つた。
横寺町の先生は、この頃よくいらつしやるかね。」
 と、高田さんは、そこにゐた給仕女に訊いた。この女は明進軒の身内の者で、文學好きの少女として噂されてゐた。私は、牛門の首領尾崎紅葉は、この界隈で名物男として知られてゐることに思ひを寄せた。紳樂坂のあたりは、紅葉一派の縄張り内であるとともに、早稲田一派の縄張り内でもあつたやうだ。
 私は學校卒業後には、川鐵相鴨のうまい事を教へられた。吉熊末よし笹川常盤屋求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。記憶力の衰へた今日でもまだ覺えてゐるから不思議である。こんな家へは、一度か二度行った事があるか、ないかと云ふほどなのだが、東京に於ける故郷として、故郷のたべ物屋がおのづから心に感銘してゐると云ふ譯なのか。

tutusode筒つ袖 つつそで。和服の袖の形で、(たもと)が無いこと
横寺町の先生 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。尾崎紅葉の住所は横寺町でした。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門
相鴨 あいがも。合鴨。野性真鴨とアヒルを交配させたもの
吉熊 箪笥町三十五番「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では「吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。」箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左図。地図は現在の地図。
笹川 0328明治40年新宿区立図書館が『神楽坂界隈の変遷』を書き、それによれば 場所は3丁目1番地です(右図)。しかし、1番地の住所は大きすぎて、これ以上は分かりません。 
常盤屋 場所は不明。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、4丁目の「料亭常盤」と書いてある店がありますが、「常盤屋」とは同じかどうか、わかりません。
求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
おのづから 自然に。いつのまにか。偶然に。たまたま。まれに
  

袋町|由比正雪の抜け穴

由比正雪の抜け穴について

雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会でこの話が出てきます。糸山氏は袋町・光照寺住職、山本氏は袋町・山本犬猫病院、小林氏は神楽坂5丁目・小林石工店、司会は日本出版クラブの大橋氏です。

糸山氏 うちに深い井戸があるんですが、明治のはじめに井戸替えをしたら横に穴があったので掘っていったら百メートルも向うの南蔵院の本堂に出て、そこで碁を打っていた人に、ここは地獄ですか、極楽ですかと聞いたら、極楽だって言ったという話が伝わっているんですがね(笑い)
山本氏 出版クラブで最初の建物を建てるとき、東京芸大の内藤先生が調査にいらして、敷地の古井戸に石を落として深さを計ったんですが、四、五十メートルではきかなかったような気がします。そのとき丸橋忠弥とか由比正雪の抜け穴の話なども出ましたが、やはり真実とは違うようです。
小林氏 うちの隣の森さんがビルを建てたたとき、横穴がぽこんと出てきたのを初めて見ました。真四角で人間が這って通れるような。これがみんなのいう牛込城に抜ける穴かと。
糸山  こうじ(むろ)という話もありましたが。
小林  でも、それであんなに深く掘るもんでしょうか。
司会  よく、南蔵院へ抜けるとか、筑土八幡に抜けるとか、どこかに埋蔵金があるというような話が出てきますね。このあたりは牛込城の城跡ですし、江戸期にはそれなりに栄えたところで、高台だけに穴があって抜けられるというような話が生まれやすいところでもあるんでしょうね。
小林  うちの先祖代々の言い伝えでは、どこかに金の茶釜が埋まっているというので、終戦後、がれきの中から本気になって探したそうです。

昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』では

13.由比正雪の抜け穴
[時代]江戸時代
[場所]袋町 光照寺
 神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた。
 明治末のことである。光照寺の井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は、150メートルも離れた箪笥町の電車通りにある南蔵院まで続いていたという。
 昭和32年、光照寺の西北の日本出版クラブの建築工事の時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。また江戸時代初期の徳利や實永通宝、その他の古銭などが発掘された。
 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下牢だろうという説が出たが、ここは水野邸跡でないことが分かった。それではやはり光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だということで話題をまいた。
[原典] 毎日新聞 昭和32年10月17日連載記事「武蔵野の城あと」No16牛込
[解説] 明治末にここに抜け穴があったと伝えられたのは井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き、碁を打って遅くなったので、横穴をたどって行ったとうそをついたことがもとで広まった話である。
 昭和32年の時は、それが抜け穴でないなら麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫(光照寺跡一帯は牛込氏館跡であることから)だとか、いろいろ話題でにぎわったのである。
 江戸研究の綿谷雪氏は「続江戸ルポルタージュ(昭和36年6月) 人物往来社」の中でつぎのように書いている。
 『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。
 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』と。
 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうが、もしも掘れたとすれば、その掘り出した土の処理を、世間に分からないように処理することができたであろうか。

昭和47年、上の本を書いた芳賀善次朗氏は『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)を書きます。そこでは

由比正雪の抜け穴
 光照寺には、由比正雪の抜け穴があったと騒がれたことがある。
 神田連雀町(今淡路町内)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて光照寺境内に移ってきた。正雪はのちに榎町に移ったが、正雪が住んでいたことから結びつけたものである。
 明治の末ごろのこと、光照寺で井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は150メートルも離れた箪笥町の大久保通りにある南蔵院まで続いていたというのである。
 これは、井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き碁を打って遅くなったので、「横穴をたどって行った」とうそをついた事がもとになって広まった話であり、罪なことをいったものである。
 ところが、昭和32年、光照寺の西北に日本出版クラブが建築工事をした時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。そこから江戸時代の初期の徳利や寬永通宝、古銭なども発掘された。
 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下ろうだろうという説が出たが、そこは水野邸跡でない。だからやはり、光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だとか、麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫だとか、いろいろな話題でにぎわったものである。
 由比正雪を研究した綿谷雪氏は、「続江戸ルポルタージュ」の中でつぎのように書いている。
 『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』
 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうか、もしも掘れたとしても次の掘り出した土の処理を、世間に分からないよう処理することができたであろうか疑問である。
[参考] 続江戸ルポルタージュ 新宿と伝説