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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。o

材木横丁 和泉屋横町 から傘横丁 三年坂 神楽小路横 みちくさ横丁 神楽小路 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 神楽坂仲坂 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁

 

 その名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 寂しい坂道だから転ぶと三年以内に死ぬという迷信から。
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から



16/3/13⇒20/8/6⇒21/6/16⇒21/9/23

地蔵坂|天神町

文学と神楽坂

 新宿区の地蔵坂には神楽坂5丁目と袋町の坂と、矢来町や天神町に近い坂という二つの坂があります。天神町に近い地蔵坂は正確にはどうなっているのでしょうか。まず標柱は……

地 蔵 坂
(じぞうざか)
江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『すな残月ざんげつ』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 しかし、ここから100mも離れていない北方に渡邊坂があります。この渡邊坂については別の場所に書いています。ここでは地蔵坂について書いていきます。
 横関英一氏の「続江戸の坂 東京の坂」(有峰書店、昭和50年)では……

都内における古今の坂名、橋名の同じものを一括して揚げると、次のようになる。(中略)
地蔵坂(牛込、王子、志村、向島)
地蔵橋(築地川)

とほとんど何も書いてありません。
 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、昭和46年)では……

地蔵坂(じぞうざか)
 矢来町交番の前の道(江戸川橋通り)を北に下る坂で、坂下は山吹町を通って江戸川橋に至る。坂上は通称矢来下とむかしからよばれた。『異本武江披抄』には「地蔵坂 酒井修理大夫下屋敷脇、天神町へ下る坂也。今此坂を地蔵坂といへど、むかし楠ふでんが害せられたるは、酒井の屋敷と御先手組屋敷の間なり、由井正雪が宅地は榎町済松寺脇、西丸御先手組の所なりといふ」とあり、袋町の地蔵坂の楠不伝暗殺の伝えを否定している。
「新撰束京名所図会」にはこのあたりのことを「昔の酒井邸は土手を築き、矢来を結び、老樹陰森として昼なほ暗く、夜は辻斬、迫剥出没せり、されば臆病者の武士は門前夜行なりがたく、帯刀の柄に手をかけて、一目散に駆け披けたりとの談柄あり」と述べ、また地蔵坂については「同町(矢来町)と東榎町の間を南に上る坂あり、地蔵坂といふ」とし、『異本武江披抄』が「天神町へ下る」としているのとは少しくい違いがあるようだ。

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では……

地蔵坂(天神町、矢来町交番前を西北へ東榎町へ下る坂)
  〈別名〉 三年坂
「長十三間巾二間」(東京府志料)
 交番前を左にカーブして下る早稲田通りの坂。三年坂の別名をもつのは、転べば三年の後には命を失うというほどの急坂であったと思われる。いまも、交番前は、どすんと落ちる急勾配である。
 坂下で早稲田通りの南側から奥の裏通りに入ると、露地を挾んで家がびっしりと並んでいる。向かい合った家の軒が、くっつかんばかりだ。
「矢来の坂を下りた所、天神町の裏通りには、結婚当時に住つてゐた。長屋住ひ見たいで、子供の泣声、台所のにほひ、便所通ひの気色まで此方へ通じるので、明窓浄几と云つたやうな、文人の生活趣味は、その借家では感ぜられなかった。」(正宗白鳥『心の焼跡』)(中略)
 明治は暗く、そして、泥ンこであった。
明窓浄几 めいそうじょうき。明るい窓と清潔な机。明るく清らかな書斎をいう。

『今昔東京の坂』に出てくる別名「三年坂」は、神楽坂の本多横丁とほぼ同じ名です。さて、天神町の地蔵坂に戻って、この場所は3冊とも本質的に同じ場所を指します。つまり坂が始まる牛込天神町交差点から坂が終わる(下図)までの地域です。
 ただし坂の始まりと終わりは現在と江戸時代で違うのが普通です。また、明治時代には、地蔵坂と渡邊坂が真っ直ぐな1本の道(江戸川橋通り)に改修しました。つまり江戸時代から明治時代まで2つの坂を少しずつ、凸凹は直し、クランクは止めて、なだらかな坂1つに替えました。また、現在の渡邊坂には、高低差は感じません。江戸時代は坂らしい坂ばずだ…と思います。

礫川牛込小日向絵図。嘉永2年~文久3年(1849-1863)これは蔓延元年(1860)の図

 なお、文京区の礫川牛込小日向絵図(嘉永5年、1852年)では天神町の道に階段がありました。すぐに階段はなくなりますが、この階段があると、坂下の天神町と坂上の矢来下で、2つの坂は別々になっても、一本には普通はできないと思います。

小日向絵図礫川牛込小日向絵図 尾張屋板 嘉永5年(1852)

 最後に現在の地蔵坂と渡邊坂、江戸川橋通りの地図です。江戸時代の絵図とは南北が逆で、天神町交差点は一番下になります。

神楽坂3丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13183~86

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13183~86 はカメラを神楽坂3丁目の坂上付近に置き、坂下を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13183 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13184 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13185 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13186 神楽坂歩行者天国

 坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装です。Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。車道の中央には舗装の継ぎ目があります。ここで地元の方は

舗装の継ぎ目はOリングの部分から坂上までずっと続いています。この当時の舗装はアスファルトではなく、コンクリートであったと思われます。少し前の時代のID 12903には、これほど大きな継ぎ目がありません。

といっています。しかし、アスファルトのほうが道路の継ぎ目や接合点は多いし、色合いが決め手だといっても、はっきりはしません。ID 13185では道路の照り返しがOリングがあるほうが強いと思います。
 縁石は黄色と無彩色との2色で(現在もよく見ると2色)、意味は「駐車禁止」。歩道はアスファルト舗装。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。神楽坂通りの中央にはローラースケートを履いた男の子。中央の上空には(横断歩道)の道路標識。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱はモノクロ写真では薄い色でしたが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。「神楽坂通り」が街灯に光っています。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→坂下(昭和48年)
  1. (駐車禁止)(区間内)
  2. (車両進入禁止)
  3. (横断歩道)
    ――神楽坂仲通り
  4. 化粧品さわや
  5. (ビク)ター(リード商会)
  6. 純喫茶クラウン
  7. 喫茶(坂)
  8. 看板「パチンコは(マリーで)」
  9. クスリ 山一薬品
  10. ハ(ッピー)ジャック

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. (ヒデ)美容室 HIDE HEALTH SALON。突き出し看板「ueta エダ」(看板は、おそらく化粧品)
  2. 道路標識(裏面)
  3. くすりは 山本薬局 純良医薬
  4. BAR まき
    ――神楽坂仲坂
  5. BARBER よね(ざわ)
  6. 臼井歯
  7. せともの 太陽堂
  8. ニッポンハム 肉のますだや
  9. ▶電柱看板「歯 石川」「 大久保
  10. UC(大川時計店)かつ一(2階)
  11. ESUYA
  12. コーセー化粧品 十奈美
  13. 夏目写真館 夏目写真館
  14. カブト虫(純喫茶)
  15. ▶電柱看板「石川
  16. 麻雀 サンコール(松本商店)

住宅地図。1974年

神楽坂2丁目(写真)昭和37~39年 ID 4とID 12914

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 4とID 12914を見ていきましょう。ID 12903からID12914までは雨の日の神楽坂通りの写真で、昭和37~39年(1962-64)頃と思われます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4 神楽坂途中から坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12914 神楽坂

 撮影の方向は、神楽坂2丁目から坂下に向いています。雨は現在上がっています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道は石敷いしじき、石だたみでした。歩道の表面には文様があります。電柱は向かって右側だけで、その上には大きな柱上変圧器があります。
 パチンコマリーとニューイトウの間に横丁の入口があり、奥のレストラン京屋や神楽坂ビリヤードの看板が出ています。横丁に入る部分には歩道と車道の段差を解消する小さなスロープがあります。スロープの脇に街灯とは別に四角張った柱が立ち、上部に「火災〇〇〇」の表紙が突きだしています。街頭型の火災報知器で、柱の下寄りの丸い部分に消防への通報スイッチがあったと思われます。
 横丁に沿ったパチンコマリーの壁面には佳作座の上映案内があります。読みにくいですが、3段のうち上段は「非情の町」(日本公開1962年1月27日)、中段は「ボーイハント」(同1961年5月2日)か「ガールハント」(同1961年12月26日)ではないでしょうか。左端も「(上)映中!」で、こちらはメトロ映画と思われます。マリー、佳作座、メトロ映画とも熊谷興業の経営でした。
 ニューイトウの前の車道は穴を補修してあります。石敷の補修は手間がかかるので、アスファルトで応急処置をしたような感じです。この穴は同時代のID 17-19では確認できません。また横丁へのスロープはID 17にはありません。ID 12903-12914の方が少し後の写真と思われます。

神楽坂2丁目→坂下(昭和37-39年頃)
  1. 陶柿園
  2. (珈琲 音楽 坂)
  3. この辺りで道路に修復後の穴
  4. 「靴はニューイトウ」「洋食 レストラン 京屋」「ビリヤード 神楽坂
  5. 佳作座「非情の町」「〇・ハント」「男の罠・女〇〇」
  6. 袖看板「パチンコはマリーで」
  7. 街灯。「火災〇〇〇」。掲示「神楽坂」
  8. 志乃多寿し
  9. (メトロ映画)
  10. 床屋のサインポール(理容バンコック)
  1. 街灯
  2. ダイヤモンド毛糸 株式会社 大島糸店
  3. (食品 丸八)
  4. たばこ ☎(果実 田金)
  5. オザキヤ(靴)
  6. 電柱「 大久保
  7. 御料理 蒲焼 うなぎ 志満金

住宅地図。1963年

神楽坂2丁目(写真)昭和54年 神楽坂通り ID 11869

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11869は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂2丁目を坂上から坂下に向かって撮ったものです。なお、ID 88とID 11868はほぼ同じ時刻に神楽坂3丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11869 神楽坂

 車道はΟリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、側溝と縁石があり、歩道はアスファルト舗装です。街灯は昭和36年(1961)以降の巨大な円盤形で、「神楽坂通り」を覆うように木と人工葉があり、正月の飾りとして、足元には細長い竹と松が結びつけられています。さらに奥には標識「神楽坂通り/美観街」があります。

神楽坂2丁目(昭和54年)
  1. (ビ)クターレゴ―ド リード商会。チャコ。でんでんむし。(神楽坂)ビル
  2. やっ(「」は変体仮名の「こ」)
  3. 音楽 坂(珈琲)
  1. TONAMI(十奈美化粧品)
  2. 巴有吾有」(おそらくシャッターの貼り紙は年賀で、正月休みでしょう)
  3. 地図によれば「仲門堂」(閉鎖中)
  4. 西川みゆき
  5. 電柱看板「 大久保」「歯 石川
  6. 夏目鍼灸治療/夏目写真館 夏目写真館。PHOTOGRAPH
  7. (消火栓標識)と消火栓広告「(神楽坂)針灸院
  8. 「麻雀」
  9. 電柱看板「 大久保」「歯 石川」
  10. 「純喫茶 カ(ブト虫)」
  11. 大(島歯科)
  12. 「(ジロ)ー 5F 4F 3F う」(志満金)(下の写真を)
  13. 丸和(証券)
  14. 神楽坂通り/美観街
中央に(横断歩道)2つ

住宅地図。1976年

気まぐれ本格派 25話 赤字は[ジロー」(志満金)

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9782

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782は、昭和50年頃(1975年)、神楽坂2丁目から坂下を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782 神楽坂

 車道のすべり止めでOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 外堀通りを越して千代田区側、最も遠い大きなビルはホテルグランドパレスでした(1972年開業-2021年営業終了)

神楽坂2丁目→坂下(昭和50年頃)
  1. 化粧品さわや (MAX) FACTOR 資生堂
  2. 停車中の「ニッポンハム」納品車。
  3. 空き店舗(元の亀井鮨)
  4. ビクターレコード リード商会
    名人荘(麻雀店)
    雪ぐに/ちゃこ/でんでんむし
    (すべて神楽坂ビルのテナント)
  5. 純喫茶クラウン
  6. (陶磁器 陶柿園)昭和47年(1972年)3月に完成。
  7. 珈琲 音楽 (坂)
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 袖看板「パチンコはマリーで」
  10. 山(一薬)品
  11. 屋上看板「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  1. せともの太陽堂
  2. ニッポンハム 肉のますだや
  3. 日本信販 UC シャッターで閉店中(大川時計店)
  4. 電柱看板「 大久保  」「歯 健康保険医 石川 このうら  
  5. とんかつ(かつ一)
  6. 資生堂化粧品 コーセー 十奈美
  7. 夏目写真館
  8. カブト虫(純喫茶)

1976年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9781

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781は、昭和50年頃、神楽坂1~2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781 神楽坂

 車道はアスファルト舗装、そばに側溝、縁石、歩道もアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」、さらに「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。電柱は道路の左側にしかありません。また電柱には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和50年頃)
  1. 「12-23 (駐車禁止)「レッカー移動 牛込警察署長」
  2. 電柱看板「 大久保
  1. ✚ 診療〇〇 皮膚泌尿科 婦人科 外科 内科(白十字診療所)
  2. (消火栓) 消火栓広告「三菱銀行前 福屋 神楽坂 不(動)産」
  3. 「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店」「」「事務用品」「文具」「原稿用紙」「Canon  NP コピーサービス」「Kodak」「さくら  さくらカラー」
  4. 地下鉄 飯田橋駅
  5. 不二家。不二家洋菓子
  6. 紀の善
  7. 床屋のサインポール
  8. 屋上看板「(ハッピ)ージャック」袖看板「喫茶 軽(い)心 」
  9. (山一)薬品
  10. 袖看板「パチンコはマリーで」
  11. (ニュー)イトウ(靴)
  12. (珈琲 音楽 坂)
  13. 純喫茶 クラウン

1976年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9778

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778は、昭和50年(1975年)頃、神楽坂2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778 神楽坂

 車道のOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。電柱は道路の左側にしかなく、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 坂の途中に非常に大きなクレーン車が出ていますが、該当しそうな新築ビルはありません。

神楽坂2丁目(昭和48年)
  1. (横断禁止)
  2. たばこ 経済新聞
  3. 「大島歯科」「オリジナルボタン」 「(株)オオシマ」「ᘂ ハマナカ手芸糸」「マジックバック」「カネボウ毛糸 ハマナカ手芸糸」
  4. 神楽家(せんべい)
  5. 純喫茶 カブト虫 Coca Cola
  6. 看板「通学路」
  7. 電柱看板「石川  」「 大(久保)」
  8. 麻雀
  9. 夏目写真館
  10. 西川 みゆき
  11. 地図によれば「仲門堂」
  12. (消火栓)「歯科 石川  ここ」
  13. 電柱看板「歯 石川  」「 大久保」
  14. 地図によれば「巴有吾有」
  15. 地図によれば「十奈美」
  16. とんかつ(かつ一)
  17. ニッポンハム(肉のますだや)
  18. ヒデ美容(室)
  19. 屋上看板「話し方教室」袖看板「旭図書」「話し方教室」(五条ビル)
  20. (遠くに)三菱銀行
  1. 「D/SL気分を/満喫して下さい」「サービス中!!」「マ〇ー/祝/さ・」造花(パチンコマリー)
  2. ニューイトウ(靴):
  3. 珈琲 音楽 坂
  4. 陶柿園。昭和47年(1972年)3月に完成。
  5. 純喫茶 クラウン
  6. 資生堂化粧品(さわや

1976年。住宅地図。

 

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8801~ID 8804

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801からID 8804は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂1丁目から坂上を撮ったものです。ID 8803はID 66と同じ写真です。休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8802 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8803 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8804 神楽坂

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)も左右に1本ずつできています。その一方は中華料理「信華園」がある歩道にできました。また遠くに同じ「神楽坂通り/美観街」が見えています。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 看板「中華料理 信華園」と6角形の竜形
  2. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  3. 電柱看板「川島歯科
  4. 小栗横丁への道
  5. 半分だけの標示「御料理 志満金
  6. 電柱看板の「 大久保
  7. 「靴 オザキヤ
  8. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸」(大島糸店)
  1. 突き出し看板「喫茶室 軽い心」。一階で 洋酒とお食事 ハッピージャック
  2. 麻雀 桜(桜別館)
  3. 山一薬品(工事中)
  4. 看板「パチンコはマリーで」
  5. ニューイトウ(靴)
  6. 坂(喫茶)
  7. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  8. 喫茶  クラウン
  9. 「神楽坂ビル」。1969年2月完成。
  10. MAX FACTOR(化粧品)
  11. 資生堂化粧品(さわや
  12. 菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か
  13. 東京電力

1973年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)夕景 昭和43年 ID 8019

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8019を見ましょう。年は1968年(昭和43年)、月は「神楽坂百年」の提灯があり、頭に浮かぶのがID 8018(「目で見る神楽坂百年写真展」、10月15日~10月25日)で、おそらく10月。撮影は神楽坂2丁目から坂下をねらっています。車道はゴム製リング(オーリング)でつけた滑り止めのドーナツ状の窪みがあります。歩道はややサイズの大きい平らな正方形のブロックで、街灯は丸い巨大蛍光灯です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8019 神楽坂1

神楽坂2丁目(昭和43年)
  1. 化粧品さわや
  2. 亀井鮨でしたがID 8-12の看板は外され、閉店しているようです。貼り紙があります
  3. 街灯看板「神楽坂」造花
  4. 神楽坂ビル 5階建て 建築中 小林工務店
  5. 喫茶クラウン
  6. 陶柿園
  7. 喫茶 音楽 坂
  8. ニューイトウ(靴)
  9. ファサード看板「マリー」突出し看板「パチンコはマリーで」
  10. 4階建て。ネオン(桜 3F 軽い心 2F パブ ハッピージャック)屋上広告「今宵楽しく軽い心」
  1. 電柱看板「健康保険医 石川歯科 この奥」「 倉庫完備 取扱丁寧 大久保
  2. CHINA & GLASS せともの 太陽堂 TAIYODO 1割引
  3. 〇スハム 増田屋 特選 牛豚鶏 ますだや
  4. マルマン ガスライター大川時計店(ショーウインドウ)
  5. とんかつ かつ一(2階)
  6. 街灯看板「神楽坂」「神楽坂百年」造花
  7. ⚫ ESUY(洋品の「エスヤ」)
  8. (洋装生地)林屋
  9. タイヤモンド毛糸 大島糸店
  10. オザキヤ(靴)

昭和45年 住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和54年 ID 87とID 11870

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 87とID 11870は、昭和54年(1979年)の神楽坂2丁目の坂下から坂上に向かって撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 87 神楽坂途中より坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11870 神楽坂

「あけましておめでとうごさいます」の看板などから正月だと分かります。ID 11869とは逆向きの撮影です。
 ID 72からID 92まで、神楽坂周辺のさまざまな正月風景が見られます。新宿歴史博物館によれば昭和54年1月5日に撮影したものです。これと重複して、ID 11824からID 11872まで、より多くの鮮明な写真が残っています。おそらく前者はプリントで、後者は保存ネガから再録したのでしょう。
 車道はΟリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、側溝と縁石があり、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36年(1961)以降の巨大な円盤形で、「神楽坂通り」を覆うように木と人工葉があり、正月の飾りとして、足元には細長い竹と松が結びつけられています。横断歩道が見え、坂が終わる所には標識「神楽坂通り/美観街」があります。

神楽坂2丁目(昭和54年)
  1. 通学路
  2. と小売。久保質店)。(神)楽坂 (3)-6
  3. 「PHOTOGRAPH 夏目写真館」「 鍼灸治療|夏目鍼灸院←」
  4. 西川 みゆき
  5. 消火栓標識と消火栓広告「神楽坂針灸院←」
  6. 「巴有吾有」(おそらくシャッターの貼り紙は年賀で、正月休み)
  7. きらきら光る人工観葉植物(下図参照)
  8. とん(かつ かつ一 2F)(福田屋?)
  9. @ニッポ(ンハム)(肉屋のますだや)
  10. ヒデ(美容室)
  11. 言研。話し方教室。(割字で株式会社)旭図書。ともに五条ビル
  1. 看板「あけましておめでとうごさいます。本年もよろしくお願い申し上げます」。(おそらくパチンコマリー)
  2. 街路消火器格納箱「この地域の避難場所は/後楽園周辺/第1672号」
  3. NEW IT(ニューイトウ 靴)
  4. 坂(珈琲)
  5. 寿し (やっこ)。やっこのイラスト。奥の土地と一体になってマンション「ラインビルド神楽坂」に変更。竣工は1984年5月。
遠くに道路標識(横断歩道)と実際の横断歩道
さらに遠くに「神楽坂通り/美観街」
最後に(横断歩道)

1977年の日本テレビ系列「気まぐれ本格派」第9話「ダサイ男の噺し」

1980年 住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 65、66

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 65と66は、昭和48年(1973年)2月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識があります。電柱の上には柱上変圧器があり、「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできています(カラー写真)。また、休日の歩行者天国が始まり、バリケード看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」が出ています。なお、ID 65は「神楽坂入口から坂上方向」でも細かく見ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 65

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 65 神楽坂入口から坂上方向。昭和48年2月。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 66 神楽坂入口付近から坂上方向

神楽坂1丁目(昭和48年)
  1. 有楽町線。将来の「飯田橋駅」。道路を開削、上に鉄板。埋め戻しは開業後。
  2. 看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」
  1.  牛込見附  (車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 12-13。
  2. 電柱看板の斉藤医院
  3. パチンコ ニューバリー。
  4. 電柱看板の(質)大久保質屋
  5. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  6. 中華料理 信華園
  1. (一方通行入口)。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 12-13。
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. (白十字医院)
  5. 地下鉄入口の建築中のためこの時点では山田紙店はなくなっている。
  6. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  7. あんみつ。紀の善。切妻の屋根
  8. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  9. 白く光るのは理容バンコックのサインポール
  10. (右折以外進行禁止)(区間内)
  11. 上でビル「軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  12. 山一薬品
  13. パチンコマリー
  14. ニューイトウ(靴)
  15. 坂(喫茶)
  16. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  17. 喫茶  クラウン
  18. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。1969年2月完成。
  19. 「菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か前年末。

神楽坂1~2丁目(写真)昭和37年夏 ID 17-19

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 17から19までを見ていきましょう。ID 17と18は降雨はなく、ID 19はあります。多くは半袖です。撮影の方向は、神楽坂1~2丁目から坂上に向いています。街灯は一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。歩道の表面には文様があり、ところどころ割れています。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 18 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 19 神楽坂下から坂上方向

神楽坂1~2丁目
  1. 甘味 桜井。ここは1丁目。
  2. パール ビリヤード。現在はないが、小栗横丁にあった。
  3. 小栗横丁に行く小道
  4. 壁面看板の「花 田口屋」。ここから2丁目
  5. 電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店にあった。
  6. 志満金
  7. オザキヤ
  8. たばこ ☎(果実 田金)
  9. (食品 丸八)
  10. タイヤモンド毛糸 大島糸店
  11. 松本商店
  12. 菓子 神楽屋
  13. 夏目写真館
  14. クスリ
  15. 林屋
  16. (十奈美)
  17. エスヤ
  1. ここは2丁目。白い建物の1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。2階に床屋のサインポール
  2. メトロ映画で「九ちゃん音頭」公開は1962年7月と「男度胸のあやめ笠」公開1962年6月
  3. 白い建物はスナックとバー みなみ
  4. 麻雀⇒(志乃多の前から麻雀ルビーに入ることができる)
  5. 志乃多寿し
  6. グロンサン 山一薬品
  7. パチンコマリー
  8. ニューイトウ靴店
  9. レストラン京屋(奥にあった)
  10. ビリヤード 神楽坂(奥にあった)
  11. 喫茶 音楽 坂
  12. 陶磁器 陶柿園
  13. (旅館 かぐら苑)
  14. クラウン
  15. (美容室 リカ)
  16. ポーラ化粧品
  17. (鮨 亀井)
  18. 資生堂化粧品 さわや

 メトロ映画では1962年の夏用に映画2本立てを出しています。
 ID 17にはきれいなアスファルト舗装が広がります。はるかに彼方に別の舗装があるようで、反射も違っています。ID 18ではオザキヤ頃から上にこの舗装があるようです。しかし、よく見ると、Oリングはまだつけていないようです。

新宿歴史博物館 ID 18の一部

 ID 19もOリングはなく、つまり、1962年7月はOリングのないものを使って舗装をしたのです。おそらく1962年末にはOリングもついているはずです。
 この舗装はコンクリートではなく、石敷いしじき、石だたみでした。地元の方によれば「当時の車のエンジンはパワー不足で、アスファルト舗装では坂を上れなかった。表面のザラザラした石敷だった。ただ石が割れて飛ぶことがあったので、コンクリートに替えることにした。しかしコンクリートでも使っているうちにツルツルになって滑るので、Oリングの溝が必要だった」といいます。

神楽坂3丁目(写真)昭和40年以前 ID 8-12

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8からID 12までを見ていきましょう。今は晴れで、半袖の人が多いので、おそらく夏。撮影の方向は、神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道にはOリングのくぼみが作られて、歩道は四角いブロックを敷き詰めただけで、凸凹が目立ちます。1970年頃までにアスファルト舗装に変わったと思われます。

新宿歴史博物館 ID 12 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 9 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 8

歴史博物館 ID 10

新宿歴史博物館 ID 11

 道路標識が横断歩道の側に見えます。「横断歩道」、2つの平行線、「PEDESTRIAN CROSSING」と書かれています。

新宿歴史博物館 ID 7002 神楽坂 昭和34年頃

「マーサ美容室」は窓1枚1枚が斜めに開き、つまり冷房はなく、大きい店舗で、コールドパーマと書いてあります。ボーラー化粧品は1964年(昭和39年)ではありますが、1965年(昭和40年)にはリード商会に変わります。したがって、昭和40年が最大年度でしょう。
 下の漢字は「野乃木」でした。「」は変体仮名の「の」でした。

全航空住宅地図帳 1965年


 電柱看板の「菅理髪館」は小栗横丁にあります。

1963年。住宅地図。

神楽坂2丁目と3丁目(坂上→坂下)
  1. (学校、幼稚園、保育所等あり)
  2. 竹谷電機 ナショナル冷蔵庫テレビ
  3. 趣味の店 あざみ
  4. (横断歩道)
  5. マーサ美容室
  6. 将来の神楽坂仲通り。2と3丁目の間
  7. 資生堂化粧品 さわや
  8. (駐車禁止)
  9. 亀井鮨
  10. (美容室ルカ)
  11. ボーラー化粧品
  12. (陶磁器 陶柿園)
  13. コーヒークラウン
  14. 「野乃木」か「かやの木」
  15. 喫茶 坂
  16. (靴 ニューイトウ)
  17. パチンコマリー
  1. ヒデ美容室
  2. 山本薬局 パンビタン
  3. 将来の神楽坂仲坂。2と3丁目の間
  4. 電柱看板で「菅理髪館⇒」
  5. 牛豚鶏 增田屋
  6. プラチナ万年筆 大川時計店
  7. エスヤ洋品 福田屋
  8. 洋装生地 林屋
  9. 十奈美 資生堂
  10. クスリ
  11. 夏目写真館

神楽坂1ー2丁目(写真)坂のある街 昭和41年

坂のある街
 1966(昭和41)年、メトロアーカイブの「坂のある街」(インターネット)から
 年代:1966(昭和41)年 路線:東西線 駅: 神楽坂 カテゴリ:街の様子 坂と小路の街、神楽坂。写真の神楽坂通りは日本でも珍しい「逆転式一方通行」(進行方向が午前と午後で逆転する)が実施されている。

  1. パチンコマリーの前の歩道が濡れている。昔は自分の店の前にほこりが立たないようジョーロで水まきしました。
  2. オー(Ο)リング。スベリ止めコンクリート
  3. 歩道が30センチ角くらいの石で舗装。この後、神楽坂はアスファルト舗装を経てカラーブロック舗装に。
  4. パチンコマリー
  5. レストラン京屋(右側にはいっていく)
  6. ニューイトウ(靴)
  7. 坂(コーヒー)
  8. 陶柿園
  9. クラウン(喫茶)
  10. カネボウ化粧品(さわや)
  11. レコード
  12. 菱屋(寝具・インテリア)
  13. さわや(化粧品)
  14. 柱上変圧器
  15. 石川歯科
  16. 夏目写真館
  17. 街路灯に看板「神楽坂」
  18. カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 特約店 大島糸店(のちに大島歯科)
  19. 大島糸店
  20. 食品まつはち
  21. 果実田金
  22. オザキヤ(靴)
  23. 質屋(大久保)。神楽坂仲通りの質屋

参考。神楽坂の今昔1

上村一夫が「寺内」から描いたもの|古賀八千香

上村一夫氏

文学と神楽坂

 平成13年(2001年)『ここは牛込、神楽坂』第18号に「上村一夫が『寺内』から描いたもの」という小文があります。
 古賀八千香氏がこの文をまとめましたが、彼女は雑誌に関わっているらしいこと以外は不明です。まあ、ここは上村氏が問題なので……。しかし、古賀氏も本当にうまい。

上村一夫が「寺内」から描いたもの
 上村一夫の作品は『同棲時代』くらいしか知らない人も、彼の描く女の顔は、すぐ見分けられるはずである。あの特徴的な眼。それが好きかどうかは別として、魅力的であることは否定できない。彼は1986年に45歳で亡くなっているが、最近再び人気が高まっているという。
 その上村一夫が、まだ劇画家としてスタートしたばかりの頃、神楽坂の「寺内」に仕事場を持っていた。1970年頃のことである。ほどなく人気作家となり、手ぜまになったのか、駒場のマンションに移ってしまったため、期間は短い。しかし、神楽坂は彼にとって印象深く、相性の良いまちだったようである。83年発表の『帯の男』というシリーズでは、舞台を神楽坂にもってきて、まちの情景を存分に描き出しており、作品的にも成功している。この『帯の男』を参照しながら、上村一夫にとっての神楽坂、というものを考えてみたいと思う。
同棲時代 双葉社『漫画アクション』の漫画。1972年から1973年まで80回連載。
特徴的な眼 魅惑の眼差しはたとえば代官山蔦屋書店で上村一夫の生誕80周年を記念する作品展(2020/7/24-8/9)があります。
83年 昭和58年

 上村一夫が神楽坂で仕事をしたのは、1968年から1971年頃である。はじめのごく短い期間は、毘沙門様近くの置屋の二階を借りていた。そこから移った本格的な事務所が「寺内」にあったのである。当時の関係者の30年前の記憶から、およその場所はすぐにわかったのだが、何しろあの辺りは特に変化の激しいところだ。事務所のあった建物も、とうになくなっでいるらしく、ここだ、という決め手がなかなか見つからなかった。古くて暗い感じの建物で、やはり二階を借りていたということしかわからない。
 そこで、上村一夫がしょっちゅう出前を取っていた店、という線から探ってみることにした。すぐ近くにあった店で、確か名前は「ひろし」。この店も今はない。が、近くで聞き込みをしたら、読売新聞販売所の方がよくご存知だった。しかもその店の元店長が、今は津久戸町のスナック「佳根子」のマスターをなさっていることまで教えてくださったのである。
 さっそく1970年の航空地図を持ってお訪ねしてみた。上村一夫が生きていたら、あまり年が違わない感じの、ダンディーな方である。事務所のことハッキリ憶えておられ、地図を見るなり「料理・白菊」という建物を指さされた。「これこれ、この白菊が旅館をやめてアパートにして、二階を上村さんに貸してたんだよ」
「白菊」は、まさにあのマンション建設予定地にあったのだった。隣が今井クリーニング店である(今井クリーニング店の方に、あとで白菊のことをたずねてみたが、上村一夫のことはご存知なかった)。今井クリーニング店の隣の隣が「ひろし」、正しくは「」だ。今、山崎パン店になっているところである。上村一夫は、とにかく「寛」のハヤシライスが好きで、出前はもちろん、ひとりでふらりと店に来ては、いつもハヤシライスを食べたという。
置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
読売新聞販売所 当時は青色の家。2020年には、焼き鳥屋「酉刻」に変わっていました。
航空地図 航空地図とは空中写真を元にした地図でしょうか。航空地図の定義はかなり調査してもなさそうです。ちなみに空中写真とは飛行機に搭載した航空カメラを使って撮影された写真。住宅地図は建物の形状や居住者名等が記された大縮尺の地図。現在は、住宅地図を使っているようです。
料理・白菊、今井クリーニング店、寛 1967年の住宅地図では、赤が白菊、橙色は今井クリーニング店とひろしです。

1967年 住宅地図

『帯の男』の源次郎も、酒を愛する男だ。初老の源次郎はアパートに独り暮らしで、しばしば酒の店「いせや」に現れる。「いせや」は明らかに「伊勢藤」がモデルで、店のつくりや雰囲気がそっくりだ。ただ、店の人物は創作で、「いせや」の女主人、お涼さんは源次郎の心の女性でもある。第二話では二人の過去が明かされるが、「いせや」の場面は、六話全部において重要な役割を果たす。(中略)『帯の男』で描かれるのは、路地のピンコロ石や、料亭の黒塀毘沙門様といった、いわばガイドブック的な神楽坂だけではない。待合だった「松の家」の外観が、置屋「松乃家」として出てきたり、岩戸町繁栄稲荷神社が、なぜか好んで描かれたりする。神楽坂通りにいたっては、看板や電信柱まで、ていねいに描きこまれており、妙にリアルで面白い。
伊勢藤 いせとう。神楽坂4-2にある日本酒居酒屋。まるで昭和の風情がある飲み屋。下図での上は兵庫横丁、下は飲み屋の伊勢藤の内部。
 なお、伊勢藤、毘沙門、松の家(現在はTrunk house)、繁栄稲荷神社の地図を出しておきます。拡大できます。ピンコロ石 こぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。
黒塀 柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀。防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出した。
毘沙門 日蓮宗鎮護山善国寺です。

昭和56年頃の毘沙門天。(加藤八重子著『神楽坂と大〆と私』詩学社、昭和56年)

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)

現在の毘沙門天

松の家 新宿歴史博物館の「新宿区の民俗⑸牛込地区篇」(平成13年)の29頁では待合「松ノ家」は戦前までは神楽坂3丁目にあったと書いてあります。戦後はなくなります。都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では本多横丁から一歩入った、現在はかくれんぼ横丁(360°カメラ)の家でした。2019年、Trunk house(一軒家のホテル)に代わり、2021年3月では、1泊632,500円(プライベートバトラー、プライベートシェフ、朝食付き。税込。4名まで宿泊可)。宴会は3時間で15万円。
繁栄稲荷神社 新宿区岩戸町7にある神社。

神楽坂通り 下図を見てください。赤い円の縁石はごく普通で、高くなっています。一方、青円の縁石は低く、なだらかになっています。どうしてこういう形になっているのでしょう。もちろん、車が乗り越えるためで、車道の反対側、歩道の奥、住宅街のほうには、多分、車がはいれる駐車場や袋小路があるのです。
 下図も同じですが、50年ほど昔なので、どこを絵にしたのかは、わかりません。少し上に登った場所でしょうか。
 さらに下図。「つもりらしいけど」の台詞があり、その下を見てください。やはり同じような袋小路にあると思います。
 またこの漫画の絵には「坂」と思える看板も見え、全体に奥の方が高くなっています。これは神楽坂2丁目にある袋小路を描いた絵でしょう。
 実際はこの三点は特定できると地元の方。
 なお、電柱広告の「(質)大久保」商店は、神楽坂仲通りの右側にあり、芸者新路を越えてすぐの位置にありました。

1980年、住宅地図。


 また、「大島歯科」は神楽坂2丁目の袋小路からほぼ反対側にありました。

1980年、住宅地図。





神楽坂ぶらり散歩(1984年)


文学と神楽坂

 昭和59年(1984年)「東京みてあるき地図」(昭文社)のうち神楽坂です。昭和59年には、三浦和義のロス疑惑事件があり、アニメ映画「風の谷のナウシカ」が公開。国は新紙幣を発行して、1万円札が福澤諭吉、5千円札が新渡戸稲造、千円札が夏目漱石にかわりました。
 また「神楽坂ぶらり散歩」の全体は引用文です。もしおかしいと思っても引用文はそのままです。

 神楽坂ぶらり散歩 

 国電飯田橋の神楽坂口を出ると、直線の坂が一本外堀通りをよぎってはるか彼方へとのびている。これが有名な神楽坂。坂下の右手にはカレーショップのボナ、あんみつのうまい紀の善がある。もう少し坂をのぼれば左手にうなぎの志満金、せんべいの福田家神楽家、右側にはパブのハッピージャック、純喫茶のクラウン、民芸陶器を売っている陶柿園などがつづく。ジョンブルは50種のコーヒーをお好みによって出す本格派で、2000円也のコーヒーもある。その上の酒亭万平はおでんやすき焼、荼めしなどがうまい。向いにはハンドバッグや財布を売っている助六なんていうシックな名の店もある。神楽坂はこのあたりが最高所で、あとは平坦だ。
 丸岡陶苑、水羊羹やくず桜のうまいしおをすぎると左手にようやく山手七福神の一つ毘沙門さまが見えてくる。本堂の下は毘沙門ホールで、ここで毎月五の日に毘沙門寄席がひらかれる。金馬いななく会だとか創作落語会などがあり、若手落語家がごきげんをうかがう。お堂に一礼してふと背後を見ればそこもまた毘沙門せんべいという店。その右わきの跡地に伊勢とうという通には知られた酒亭がある。繩ノレンをくぐると囲炉裏に自在カギから鉄瓶が下がっていて、すべてがシック調。石畳の路地を先へ行くとよし川、幸本、和可菜といった料亭がつづく。粋な黒塀みこしの松とはこのことで、戦前の料亭街の面影をよく残している。
 毘沙門天よこの田原屋は明治の中頃からある菓物屋兼西洋料理の老舗で、島村抱月夏目漱石永井荷風ら多くの文人が訪れている。その前は嘉永5年(1852)創業という茶屋の大佐和、その先の神楽坂六丁目八の大〆は宮内庁御用の由緒ある店で、凝った大阪寿司を出す。洋風の落着いた店構えでクラシック音楽が流れてくるという異色篇。そして三色だんごのうまい五十鈴、焼鳥の鮒忠、うなぎの大和田を過ぎると、神楽坂の色彩も次第にうすれていく。

ボナ 紀の善 神楽坂一丁目です。ボナは現在は「カレーショップ ボナッ」
志満金 神楽坂二丁目です。
福田家 増田屋と書いてありますが、ほかの年度は福田家になっています。神楽坂二丁目。現在はおそらくボルタ神楽坂の1つになりました。
神楽家 ハッピージャック 神楽坂二丁目です。現在の神楽家はボルタ神楽坂に、ハッピージャックは第2カグラヒルズになりました。
 純喫茶「坂」。1990年の「焼肉家 坂」とは位置が違いますが、それでも同じ店かもしれません。
クラウン 陶柿園の左側。「寿司ませや十八」と書いてある場所にありました。
陶柿園 神楽坂二丁目です。住宅地図によれば、1963年はイトウ靴屋、コーヒー坂、陶柿園の3店が、1978年には、ニューイトウ(靴屋)、喫茶坂、陶柿園がありましたが、喫茶坂の場所は違います。1984年では、喫茶坂が消え、陶柿園は1963年と同じ大きさで、ニューイトウ靴店はなぜか巨大です。1990年には、ニューイトウが2軒になり、「焼肉家 坂」がまた増えます。1996年、この2軒は第83東京ビルとGIRAFFになり、現在は、第83東京ビル(俺流塩らーめんなど)、食道楽、陶柿園です。本来は1963年、1990年、1996年は正しく、1978年と1984年は間違いのでしょうね。
2020年。Googleから

ジョンブル 万平 助六 丸岡陶苑 塩瀬 神楽坂三丁目です。ジョンブルは貝殻荘に、万平はクレール神楽坂に、塩瀬はドラッグストアスマイルになりました。
毘沙門寄席 神楽坂五丁目です。
毘沙門せんべい 福屋不動産と同じ場所です。神楽坂4丁目。
伊勢藤 神楽坂4丁目。
田原屋 神楽坂5丁目。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」。
大佐和 神楽坂の大佐和は文京区湯島の老舗大佐和の支店でしたが、現在は独立し、名前も楽山と変わっています。神楽坂4丁目。
大〆 おおじめ。神楽坂6丁目。2017年7月に閉店。蕎麦の「かね田 宝庵」が開店。
五十鈴 鮒忠 大和田 神楽坂5丁目。大和田はなくなり、薬の「セイジョー」になりました。

1984年の住宅地図。

階段の話|神楽坂

文学と神楽坂


 神楽坂の坂に江戸時代には階段があったが、明治になると普通の坂になったという話です。
 平成22年、新宿歴史博物館「新修 新宿区町名誌」によれば、神楽坂は
神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。
 明治四年(一八七一)六月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽かぐらちょうとしたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正一四年(一九二五)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、二年ほどして御影石に筋を入れた舗装に変わった。
 また、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』で……
 やはりむかしは相当な急坂であったのを明治になって改修したもの。明治13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。

  牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。

 また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……(なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主です。)

相川さん 古い資料を見ると、昔の神楽坂ってのは階段だったらしいね。
山下さん 牛込見附から上かってくる方ですね。
相川さん 商店街ができるからってんで階段を坂にしたら、えらい坂が急勾配になったんで、「車力も辛い神楽坂」っで歌ができたくらいなんです。それを天利さん(注)ショウジロウさんって区会議長をやった人が、ハンコを関係各機関からもらって、区のお金を使って坂を下げたんです。下げたら今度は下の方から苦情が来て。坂を下げて勾配をずうっと河合さんの方までもってくる予定で設計図はできていた。ところがあんまり喧喧囂囂(けんけんごうごう)で収まりがつかなくなって、それでピタッとやめたんで、天利さんの前のところだけグッと上がっちやった。あれが忘れ形見だ。注:菱屋さんの先代店主
佐藤さん そういえばそうですね。最後のいちばん登りきるところが基点(起点?)なんですね。
馬場さん 自分の家の前に来ちゃった。ヘヘヘ。
相川さん 「工事中止」ってんでね。ということは、坂下の方の店(本道?)は階段じゃないとお店へ入れない。階段の商店街になっちゃうのはまずいってんで、それであそこでピシッと切った。歩いていてもわかるでしよ? 上がりきったな、と思うと、またグッと上がる。それがちょうど天利さんの前へ来ていた(笑)。区会議長やってる時分に天利さんはお釈迦様(注)の後ろへうちを買い足して、ご隠居しちゃったんです。
(注)弁天町にある宗相寺
馬場さん ああ、弁天町のね。
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。

車力も辛い神楽坂 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌は「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
 上州屋は5丁目の下駄屋で、以降は藪そば、ampm、最後はとんかつさくらに変わります。
 同じく2010年(平成22年)の西村和夫氏の『雑学 神楽坂』によれば…

 江戸期は階段が作られるほど急な神楽坂だったが、明治になって何回となく改修され、工事の度ごとに緩やかになっていった。階段がいつなくなったのかわからないが、明治の初めと考えて間違いはなさそうだ。
 坂上は明治10年代に平坦にされたが、坂下は勾配をそのままにして先に商店街が出来てしまった。傾斜した道路の店があったのでは商売がやりづらいと、サークルKの先、当時糸屋を営んでいた菱屋が中心になって牛込区役所に働きかけ、坂を剃り勾配を緩くした。ところが、工事が進むにつれて坂上の商店ほど道との高低差が広がり、再び埋め直すという笑えぬ失敗があったという。こんな苦労を何度も繰り返し、神楽坂は今の勾配になったようである。
 芸者新道の入口の傾斜はそのままにされたので階段が作られて、手すりがないと上がれないような急坂が現在まで残り、昔の神楽坂の急勾配の様子をうかがわせる。

『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイの赤井義松氏は(この店はなくなりました)
 よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 中村武志氏も『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で同じ話を書いています。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった

段があった 陶柿園と「さわや」の前にある縁石を比べます。

陶柿園とさわやの縁石

江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸名所図絵の牛込神楽坂

 江戸時代の(だん)(ざか)については、天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した『江戸名所』「牛込神楽坂」では10数段の階段になっています。
 なお、この画讃の上には『月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり』と書いています。
 また平成14年(2002年)になってから電線もなくなりました。

神楽坂|かくれんぼ横丁とから傘横丁の由来

文学と神楽坂

 この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは2つの、まあいえる理由があります。

 一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(2007年、展望社)では、

 この路地内には、東京都で初の五つ子の母の実家がある。この五つ子ちゃんが歩けるようになって、実家の路地内でかくれんぼ遊びをしていたことから「かくれんぼ横丁」と呼ぶようになった。

 または、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』(けやき舎)で渡辺功一氏は

「かくれんぼ横丁」という名前の名づけ親は、この路地にお住まいだった森川安男さんです。お孫さんとかくれんぼをしたりして遊ぶということで、この名前をつけたそうです。

 あるいは、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最版神楽坂の路地その魅力のすべて」で田中ひとみ氏は

孫たちが遊んでいる姿を見て、石畳の路地に「かくれんぼ横丁」という名前を付けられたという森川安男さん。残念ながらご高齢のため数年前に亡くなられました。

 もう1つは、山口則彦氏の案(お亡くなりになりました)で

 やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。

というものです。

 西村和夫氏は『雑学 神楽坂』では

入り組んだ街中で突然前方を歩く人が、家並に隠れて見えなくなるという町に遊び心から地域の住人が付けた愛称である。

「神楽坂まちの手帖」第15号の座談会「路地歩きAtoZ」では……。なお、持田氏はかくれんぼ横丁在住49年のアマチュア写真家。金原氏は法政大学教授。平松氏は手帖の編集長です。

持田 うちの路地をみんな「かくれんぼ横丁」って呼ぶんですけど、あれは住んでる人間が知らないうちに名前がついてたんですね。
金原 誰がつけたんでしょうね。
持田 二十四、五年前に、うちの奥の森川さんって家に五つ子ちゃんが生まれたんです。日本テレビがずっと追いかけて番組を作ったんですけど、その時に森川さんのおじいさんが名付けたそうです。孫たちとかくれんぼして遊ぶから、かくれんぼ横丁って。それがテレビで広まったんですね。
平松 勝手に名前がついちゃうっていうのは、そこに住んでる側としていやなものですか。
持田 べつに悪い名前じゃないですし、愛称があったほうが親しみやすいと思いますよ。

 やはり『森川さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ』ほうが正しいようです。

 なお、『ここは牛込、神楽坂』では「寿司幸」のある路を『から傘横丁』と名前をつけています。理由は傘がほしてあったから。なるほど。なお、寿司幸は2018年一杯で閉店しました。

かくれんぼnew

『神楽坂まちの手帖』…けやき舎、平松南さんが編集長

文学と神楽坂

『神楽坂まちの手帖』はけやき舎が編集・発行する季刊誌です。03年4月から07年12月まで続きました。第18号が最後です。編集長の平松南氏が体調を崩し入院しました。現在はインターネット用の『週刊 神楽坂ニュース』に変わっています。
「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は本当にプロが書いた文章です。
http://blog.livedoor.jp/m-00_33187/

本編で『神楽坂まちの手帖』から参照したものは
神楽坂 長~い3丁目 みちくさ横丁 神楽小路 新女性大学 まだ一杯あります。

 18号の特集をすべて書いておきます。

 1号 神楽坂の路地の魅力・全解剖。神楽坂界わい らーめん徹底ガイド
 2号 神楽坂でフランスを探す
 3号 和が息づくまち・神楽坂
 4号 坂を思いっきり楽しむ
 5号 坂歩き名人の散歩術
 6号 落語と神楽坂
 7号 お江戸の歴史と神楽坂
 8号 神楽坂の街を支える古建築
 9号 街を元気にするクラッシックの音楽力
10号 復活! 神楽坂の水辺
11号 街を元気にする<アートパワー>
12号 昭和三十年代とその周辺 僕らの育った神楽坂
13号 街なかで学ぼう カルチャーで花盛り
14号 神楽坂と本
15号 神楽坂の路地・その魅力の全て
16号 江戸城と神楽坂
17号 漱石と早稲田・神楽坂
18号 「西歐的」小交差点を神楽坂に探す


神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

 兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では……

神楽坂五丁目

 神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込うしごめ肴町さかなまちが、神楽坂の北側に行元ぎょうがん門前もんぜんおよび寺地があった。

牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫ひょうごといったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に

安政4年(1857)『市谷牛込絵図』(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)から

 つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

 ところが、兵庫横丁は、神楽坂五丁目ではなく、神楽坂四丁目なのです。四丁目なのに、どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが……

 ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。

 想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。

 ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。なお、原図は新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、1987年)で、新宿区の図書館や国立国会図書館から借りることができます。牛込城の想像図

文学と神楽坂

 兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。

兵庫

 野口冨士夫『私のなかの東京』では

 読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

 石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。

 まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では

 坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった

と書いています。

 特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。

 見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。

「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。

「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?

 さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。

 また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。

 格子戸は格子状の引き戸や扉で、採光や通風を得ることができます。()ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。()り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。

 関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。

 簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。

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 黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。


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