見返し横丁」タグアーカイブ

「見返し横丁」に抜け道新設へ

文学と神楽坂

 地元の方から「見返し横丁」(か「見返り横丁」)に関する文章をいただきました。

 神楽坂4丁目、本多横丁から脇に入る通称「見返し横丁」は、ある時期まで「兵庫横丁」に出る抜け道がありました。現在はブロック塀でふさがれています。
 これとは別の「抜け道」を新設するプランが進行しています。
 新宿区は「神楽坂三・四・五丁目地区地区計画の都市計画変更原案」を策定し、令和5年1月13日の新宿区都市計画審議会に報告しました。
 注意点として、区の資料では一貫して該当する路地を「見返り横丁」と呼んでいます。「まちづくりキーワード集」(1977年)で図示した路地と違います。また雑誌「ここは牛込、神楽坂」でつけた愛称「見返し横丁」は採用していません。路地の名前が地元に定着していなかったことを示唆します。
 さて、区は審議会に次のように報告しました。
 見返り横丁につきましては、行き止まり道路になっているといったようなところがありますので、2方向避難の観点から、地区内の地権者のご協力を得て0.6m、60cmの避難経路を確保するといったところで、こちらの避難経路についても地区施設に位置づけるといったところです。

 資料の図を見ると、東京理科大学森戸記念館の脇のスペースを「見返し横丁」から「酔石横丁」へ通じる38メートルの避難路として活用するようです。現在は屏や植栽で通れなくしていますが、これを除去するのだと思います。避難路ですから常時、通れる形でしょう。

避難路「酔石横丁」側 黒い柵の内側

避難路「見返し横丁」側 黒い柵の内側

東京都市計画地区計画 神楽坂三・四・五丁目地区地区計画

 幅60センチは「ごくぼそ」よりはるかに狭く、新たな「路地」として名所になるかも知れません。同時に「見返り横丁」という名も、今後は定着するように思います。
 新宿区は令和5年10月の正式決定を予定しているとのことです。

「見返し」とは「1 書物の表紙と本文との間にあって、両者の接着を補強する2ページ大の紙。一方は表紙の内側に貼りつけ、もう一方は「遊び」といって、本文に接する。2 和装本で、表 (おもて) 表紙の裏にはる紙または布。著者名・書名・発行所などを印刷したものが多い。3 洋裁で、襟ぐりや打ち合わせ・袖ぐり・袖口などの縁の始末に用いる布。多く共切れを用いる」

「見返り」とは「1 ふりかえること。見返り美人。2 担保・保証またはお返しとして差し出すこと。その差し出したもの。見返り品」

 つまり「見返し」と「見返り」、あるいは「見返し横丁」と「見返り横丁」とは別々の意味でした。私もどちらがどちらなのか、よくわからないし、多分、新宿区の人もわかっていなかったのでしょう。しかし、インターネット、地図、津久戸小学校の「つくどがみてきたまちのふうけい」などは全て「見返し横丁」です。おそらく10月までに新宿区は間違えたと思って、正しく直っていると思いますが……。

兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

道路通称名

文学と神楽坂

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り、外堀通りでしょう。

都道(https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000006191.pdf)

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。


360度VRカメラ(2)

かくれんぼ横丁


兵庫横丁

見返り横丁

見返し横丁

浅田宗伯医院跡

酔石横丁

島村抱月の終焉

尾崎紅葉と十千万堂

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

見返り横丁|由来(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

「見返り横丁」は、どうしてこの名前になったのでしょうか?

 もうひとつの「見返し横丁」はわかっています。平成10年(1998年)の雑誌「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で……

井上 さて、それで本多横丁に出て、すでに名前がついている「見返り横丁」。これはいい。で、その先の「鳥静」の脇の横丁も何か名前をつけてあげたい。敷石がゆるやかなS字を描いていて「見返り横丁」よりも長い。そこで『見返し横丁』ではいかが。
林  昔はあそこは抜けられた。道らしい道じゃなかったけど。
註  井上元氏はインタラクション社長
   林功幸氏は「巴有吾有」オーナー

 林氏の「昔はあそこは抜けられた」は、見返し横丁のことですね。
 では、もとに戻って「見返横丁」はいつ、どこで、とんな理由で決まったのでしょうか? 上の1998年には「すでに名前がついている」ということなので、1998年以前からありました。

 まず地図はあるのでしょうか? 1994年の「神楽坂輿地全図」では「本多横丁」は確かに書かれていますが、「見返り横丁」はありません。「かくれんぼ横丁」もありません。また毎年でる「ゼンリン住宅地図 新宿区」、2013~6年の神楽坂通り商店会「神楽坂マップ」、1985年神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』には「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありません。他にも例外が一つある以外を除き、「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありませんでした。

 一つだけが例外で、それは1994年の「神楽坂・楽楽散歩」(編集は神楽坂地区まちづくりの会、編集協力は東京理科大学建築学科沖塩研究室、発行は新宿区都市整備管理課)で、ここには「本多横丁」以外に「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」がでてきます。

 では書籍では? 1997年の「まちづくりキーワード集」(著者と出版は神楽坂地区まちづくりの会)には、「かくれんぼ横丁と「見返り横丁」がでてきます(下図)。一方、渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007)では「かくれんぼ横丁」はありますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はありません。西村和夫氏の「雑学 神楽坂」(角川学芸出版、2010年)ではこの「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」「見返し横丁」は全てでていません。

まちづくりキーワード集

まちづくりキーワード集(1997年、神楽坂地区まちづくりの会)

 雑誌は? 「ここは牛込、神楽坂」では「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で「名前がついている『見返り横丁』」とでてきます。また、2007年「神楽坂まちの手帖」15号「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」では「かくれんぼ横丁」はでますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はでてきていません。

 つまり「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」は、1994年の地図「神楽坂・楽楽散歩」と1997年の本「まちづくりキーワード集」以外にありません。見返り横丁になったのか、その由来もわかりません。

 これからは、まあ、でたらめですが、「神楽坂地区まちづくりの会」 などが横丁や坂をまとめることになって、誰かが「これは個人的な(か昔からの)横丁だけど、見返り横丁というものも使っている」といい、ほかの人たちも「へぇー、なるほど」と答え、あっという間に定着したのではないでしょうか。

 この「神楽坂地区まちづくりの会」のメンバーは、山下修、立壁正子、江口素子、上田邦彦、坂本二朗、荘司雅彦、寺田 弘、保坂公人、渡辺行将、渡邊義孝、矢野貞子、山口幸二などの、そうそうな人物で、「かくれんぼ横丁」の名付け親、森川安雄氏もその一員でした。おそらく「かくれんぼ横丁」と同じ頃に、こんな会合で、森川さんなどのだれかが「見返り横丁」を推したか、知っているといったのでしょう。

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻したその時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。


石畳とマンホール

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21

石畳1

石畳

神楽小路横 かくれんぼ 毘沙門横丁 紅小路 見返し横丁 兵庫横丁 クランク 寺内公園 酔石横丁

 明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。

復興土地住宅協会著 東京都市計画図

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。




2013年5月2日→2019年4月27日

石畳|神楽坂|駒坂(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

 駒坂は『ここは牛込、神楽坂』で

井上  それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎  あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上  あの階段のあるところですね。

 ほかに玉の湯階段という名前も付いています。

 一応、地図で同じことを見ておきます。小さな小さな赤点は石畳がある駒坂です。長くて赤い路地も区道です。地図では立派に見えますが、う~ん噓です。
駒坂3

 これが駒坂です。区道です。
石畳|駒坂1

  この階段は小さくて、2.7メートル。この石畳は1.96メートルでした。

石畳|駒坂2石畳|駒坂3

 下から見るとこうなっています。

石畳|駒坂4

 ちなみにもうひとつ、区道?を上げておきます。前の右側に書いてあったところです。東側はここで、幅はたったの91センチ。

区道東

 西側はここで、幅は1.55cm。

区道西

 幅1メートルもないので、これは本当に区道でしょうか。



本多横丁の路地|神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂通り(大通り)を入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地だと考えれば、全部路地になるのですが、ところがどっこい、違います。やはり路地は路面が狭くないとだめ。

本多横丁2

 本多横丁から東側に行くのは2本の路地があります。神楽坂通りに近い路地から「芸者新路」、「かくれんぼ横丁」です。

 最も近い道は「芸者新路」で、この路地から入っていきます。1990年後半、芸者新路の石畳はなくなりました。

本多-1

 遠い道は「かくれんぼ横丁」で、この路地から入っていきます。

本多-2

 西側には4本の路地があります。神楽坂通りに近い路地は「紅小路」で、その次の道は名前はなく、石畳になっています。

 その次の袋小路の道は「見返し横丁」、最後の袋小路の道は「見返り横丁」です。この4本は非常に短い。なお、東側と西側の6本はすべて私道です。なお、本多横丁と神楽坂通りは区道です。

 紅小路は神楽坂通りの「楽山」と「みずほ銀行」の間に入り、しばらくそのまま進み、それから右の直角に曲がって、本多横丁の「海老屋」とスペイン料理「エルプルポ」の間に出てきます。通りから離れていくと石畳がきれいです。神楽坂通りに入っていく場合、「楽山」も赤い色が使ってあるし、「みずほ銀行」も赤い壁の色で、ゆえに紅小路です。
本多1

 しかし、楽山は立替で赤い色ではなくなりました。現在の写真は…。

 見返し横丁と紅小路の間に「名無し」がありました。このまま、本多横丁から東に行くと南に曲がる狭い路地があり、その先は紅小路になります。実際は2017年までには、ここも石畳で覆われましたので、とりあえず「裏紅小路」としておきます。ただの「紅小路」になる可能性もあります。まあ、商店街がどう判断するかですが。

 以前はコンクリートで覆ってありました。

本多2

 見返し横丁は本多横丁の「鳥静」と「本多鉄〇てつまる横丁」の間に入り、昔はわずかにSに曲がりました。見返し横丁は見返り横丁よりも新しく出来て、言葉のあやでこんな名前になりました。石畳もあるし、高層マンションを真正面に見て、やがて袋小路になります。昔は兵庫横丁にでていくこともできました。



本多3

 見返り横丁は本多横丁の「ヘア  ラ・パレット」と「はじめの一っぽ」の間に入り、高層マンションを横に見て、旅館「和可菜」の裏で袋小路になります。これも昔は兵庫横丁まででていくことができました。

路地5

 地域の方から大きな助言をいれて、昭和12年の火災保険特殊地図では

火災保険特殊地図。都市製図社。昭和12(1937)年。

火災保険特殊地図。都市製図社。昭和12(1937)年。

 本多横丁の「地図」では「紅小路」や「見返し横丁」を堂々と書いています。ふーん、紅小路はいかにもそれらしい。いい名前をつけた『ここは牛込、神楽坂』の日本路地・横丁学会の坂崎、井上、阿久津先生とバウワウの林さんに大感謝。






三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。

 石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。

石畳

石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。

見返しとかくれんぼ

 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

石畳と化粧マンホールふた

文学と神楽坂

 神楽坂の石畳とマンホールをまとめて見ました。マンホールで人間が入れない枡や側溝もまとめています。場所は石畳の地図に書いてあります。

 見返し横丁が一番マンホールらしくはないもの。化粧蓋(化粧マンホールふた)を使うところはここだけです。クランク坂上はもっとも昔のもので、別の意味でマンホールらしくないものです。酔石横丁はマンホールらしくないものを狙ってマンホールらしいマンホールになりました。

化粧蓋とは景観を損なう事なく、周囲と全く同じ材料や舗装材を使って充填できるものです。

紅小路 マンホールの形をそのまま出しています。まあ、なにもしていないわけです。 石畳とマンホールと紅小路石畳とマンホールと紅小路2

見返し横丁 石畳とマンホールの蓋を比べてみると、見返し横丁だけがあらゆる点で似ています。正確に石畳の形をとってそれをマンホールの上に載せたものでしょうか。こんな蓋を化粧蓋(化粧マンホールふた)とよんでいます。石畳とマンホールと見返し横丁3

かくれんぼ横丁 やはりいろいろな形になっています。❤の石畳があります。

石畳とマンホールとかくれんぼ石畳とマンホールとかくれんぼ

兵庫横丁 最初は和可奈の前で、おれはおれだと自己主張していもの、もう1つはひっそりと他のものとそっくりなもの。
石畳とマンホールと兵庫横丁石畳とマンホールと兵庫2

クランク坂上 これはほかのマンホールと全く違います。大きな石板自身がマンホールの上蓋になっています。一番昔のものでしょうか。石畳とマンホールとクランク坂

酔石横丁 さまざまな大きさのマンホールがありますが、形は全部この形です。一番安い化粧蓋なのでしょうか。似合わないなあ。もうすこしいいものを買った方がよかった。石畳とマンホールと酔石横丁

毘沙門横丁 2つのマンホールが出ています。手前は普通のマンホールの蓋、奥も普通の円盤状のマンホールです。石畳とマンホールと毘沙門横丁

寺内公園 公園の中身にはありませんが、外の2つがマンホールです。ここはそのうち1つです。たぶん側溝(ます)でしょうか? 石畳とマンホールと寺内

石畳[昔]|赤城神社|赤城坂

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
 ここでは北側のひとつを見てみましょう。場所は赤城神社の下、赤城坂の傍です。赤城神社からはあっという間もなく着いてしまいます。
 しかし、13年5月では石畳はちゃんとあったのですが、13年8月にはなくなってしました。

赤城坂の石畳

 今はなくなっています。ここは区のものですから、仕方がないといえばそうなのですが。

赤城神社[昔]

 これを上に上がると赤城神社です。

赤城坂の石畳2


石畳|神楽坂|寺内公園

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 ここは神楽坂通りの北側の石畳のうち「寺内(じない)公園」です。

 この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装です。もう1つは大きな板を置いた舗装。最後はアスファルトで覆った舗装です。

石畳 寺内公園

 一番前の舗装は鱗張り(扇の文様)です。右には赤茶けた石の舗装が貼っています。さらに遠くにはアスファルト・コンクリートで覆っています。ここでは手前が赤茶けた石の舗装、奥がピンコロ石畳です。

石畳 寺内公園

 ここでは手前がピンコロ石畳で、奥がアスファルト・コンクリートです。

石畳 寺内公園 アスファルト

 2019年の寺内公園です。土はなくなり、芝生になっています。

 この名前については平松南氏がインターネットの「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」2004年03月01日「神楽坂学を成立させることができるか(2月27日)」にこう書いています。

 神楽坂はじめての超高層26階建てマンションは、新宿区の区道付け替えで区長が住民から訴訟を起こされたが、区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」がデベロッパー側から区に差しだされた。
 公園には名前がなかった。新宿区は名前がないことをとくに気にする様子もなかったが、わたしたちは「寺内公園」の名前を提案した。江戸時代ここは行元寺があり、「寺内」とよばれるようになった。新宿区の公園担当部局は、みどりや歴史のことはあまり関心がなく、わたしたちの要望はそのまま受け入れられた。
「寺内公園」では、新住民にはなにがなんだか分からなかろうということで、公園周辺の歴史や名前の由来を説明する看板をつくることになった。寺内の花柳界を昭和12年に浮世絵版画に仕立てたフランス人ノエル・ヌエットの絵も載せることにした。提供してくれたのは麹町のフランス人収集家クリスチャン・ポラックさんである。
 2月初旬にそのゲラがでてきた。私は掲載直前の文章の校閲を担当した。

 この文章の看板は「寺内公園」の案内板に書いてあります。

 この奥、先にはまた階段です。この先は前に玄関があって、行っても行き止まりだと思うのは間違いです。クランク坂上につながるのです。

クランク坂

 しかし、2016年1月に行くとこの場所はレストランが数軒集まったビルになっていました。

寺内公園20160117

石畳



石畳|神楽坂|見返し横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

本多横丁」の1つ、見返し横丁です。

見返し2

石畳と見返し横丁2

 見返し横丁の後ろから本多横丁を見たものです。右手に見えるものが東京理科大学の施設です。右をよく見てみると、新しい路地の表面が東京理科大に添ってあるですが、しかし一見しただけでは昔から全く変わっていないようにつくっています。


石畳と見返し

 また下水道があるのですが、この上はまったく外と違っていません。「みなし道路」を作る場合にもっとも綺麗な道路です。どうしてここは外と違って綺麗なのか? 不思議ですが、右の建物が理科大なので、そこが違うのでしょうか。

 2016年、法政大学デザインエ学部建築学科岡本哲志研究室の「東京のストリート景観と路地空間」(発行は法政大学エコ地域デザイン研究所)では……。

 1945年3月と5月にあった東京大空襲では、残念ながら神楽坂一帯は焦土と化してしまう。先に検証した花街の立地変化を視野に路地を見ていくと、幾つかの路地が失われ、あるいは新たに誕生する変化を確認することができる。注目したい路地は、見返し横丁と呼ばれる路地である。この路地は現在袋小路の行き止まり路地である。先に述べた花街の変化によって、路地も変化した。

 最後部はブロックで行き止まりになっていますが、本当は兵庫横丁につながっていたのです。

 1978年には、つながっていますが

見返し横丁(1978年)

 1980年には、なくなりました。

見返し横丁(1980年)

見返し横丁(1980年)

 行き止まりになり、その後「見返し横丁」という名前もできてきました。



石畳|神楽坂|かくれんぼ横丁(360°カメラ)

文学と神楽坂

 石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。 ここは「かくれんぼ横丁」です。


 は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』で渡辺功一氏が発言したものの一部です。は私の説明です。また図の上下左右360度で動き、を叩くと地図は奥に進みます。

 残念ながら、家のすぐ傍の土地を覆う石畳は中央を流れる石畳と流れは違っています。左側は扇の文様ですが、右側は一直線です。

石畳とかくれんぼ

 これは「みなし道路」のためですね。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物建物は後ろに下げて作るのです。が、このセットバックで、路地は破壊してします。

石畳とかくれんぼ2

 しかし、左の流れは一見すると中央の流れと同じように見えますが、ここも違うようで、後から来た人が丹念に前と同じようにピンコロを填めていったのでしょう。残念ながマンホールは違います。

わかまつについて

 今はない「わかまつ」です。2007年3月19日、火災で焼失。「神楽坂まちの手帖」第17号(けやき舎、2007年)では……

「かくれんぼ横丁」の情緒の復活を願う神楽坂の人々

持田晃(神楽坂三丁目・かくれんぼ横丁在住)

 3月19目、午後12時50分ごろ、神楽坂3丁目の通称「かくれんぼ横丁」で火災が発生。火元となった「わかまつ」は、昭和30年代に建てられた古い木造家屋だったため、火はまたたく間に右隣の料亭「志の田」、左隣の馳走「紺屋」へと燃え広がりました。(中略)
 一年前に閉店した旅荘「駒」が、外観の雰囲気を保つたまま「神楽坂しなり」に変わったのでほっとしていたら、この1月には、料亭「高藤」の閉店と早早の取り壊し。せっかくの横丁に、吏地がぽっかりと口をあけたところへ、今回の火災です。路地の持つ「ゆったり」とした零囲気が、あっという間に火われてしまい、住民の1人として残念としか言いようがありません。
 復興がどのような経路をたどるか私にはわかりませんが、50年間保たれてきた路地らしい情緒も残ってくれることを、切に願っております。

 下の地図は2000年頃。「わかまつ」は赤い四角です。

「神楽坂まちの手帖」第15号の「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」(けやき舎、2007年)のイラストでは

 神楽坂地区まちづくりの会「まちづくりキーワード集」(神楽坂地区まちづくりの会、1997年)では

わかまつ

「神楽坂の夜と昼」(アサヒグラフ、昭和63年6月3日、朝日新聞)では

 花街の路地にひっそりとある店。「先代は芸者置屋をやっていまして、養女のわたしも芸者で出たことがありますが、先代が亡くなったあと、昭和44年におにぎり屋になりました」と諸橋佐起子さん。下谷生まれのシャキシャキしたおばさんだ。作るものは焼きおにぎり(1個300円)ただ1種。「使っているお米も調味料も秘密よ」。カウンターは7~8人も座ればいっぱい。歌舞伎座や近所の料亭などへも出前している。香ばしい、なかなかおいしいおにぎりである。営業19~23時。日曜祝日休み。

* ピンコロ石とはこぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。