新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年、令和元年、また拝殿は昭和44年、昭和50-51年、平成29年でも出ています。
(1)鳥居
左側から…… |
(2)拝殿
左側から……
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年、令和元年、また拝殿は昭和44年、昭和50-51年、平成29年でも出ています。
(1)鳥居
左側から…… |
(2)拝殿
左側から……
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。
(1)神輿蔵
神輿蔵は下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左三つ巴紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。
(2)赤城神社からの眺め
左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。
(3)赤城神社境内
石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。
左から……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303-06は、令和元年(2019)5月、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真4枚です。この部分は高台の崖上になっており、昭和28年、平成31年などの撮影もあります。
最近の写真なので建物が特定するのも簡単で、手前のえんじ色のマンションで屋上に白い正方形の模様がたくさんあるのは「ライオンズマンション神楽坂第三」(地上5階)で、同じく北に見えるえんじ色のマンションは「神楽坂ココハイツ」(地上11階)、ID 13303-05の薄い茶色のマンションは「グラーサ 神楽坂」(地上8階)です。
ID 13305の奥は、池袋周辺の高層ビル群です。同時期の撮影であるID 14051で詳しく見ています。ただし、豊島区役所、つまり「ブリリアタワー池袋」(地上49階 / 地下3階)は、薄い茶色のマンションの右側で、半分は隠れています。
ID 13303-04の奥は、早稲田方面のマンションなどが写っています。左側から見ていくと、屋上に貯水槽がある青灰色のビルは赤城下町にある旭創業東京支店の「神楽坂アサヒビル」、「BELISTA 神楽坂」は地上13階/地下1階、白い「グランスイート神楽坂」は地上14階で、天神町交差点の近くです。
水色は「菱秀神楽坂ビル」(地上10階)、その右は「フリーディオ神楽坂」(地上11階)、薄い茶色は「パーク・ハイム神楽坂」(地上14階)、全部マンションであり、江戸川橋通り沿いの渡邊坂と呼ばれているあたりです。
中央の一番奥、高い建物は山手線高田馬場駅に近い「住友不動産新宿ガーデンタワー」(地上37階/地下2階)で、ガラスの外装が濃紺に写っています。
ID 13303-4の下を走る道路は無名ですが、そのまま上に行くと「赤城坂」と一緒になってT字をつくります。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899、ID 9900、ID 9901は昭和50-51年頃、赤城神社からの眺めを撮っています。天気は曇りで、遠くがよく見えません。トタン屋根が光っているので、雨上がりかもしれません。
ID 9899で目立つのは、中央にある「大日本印刷」の広告です。左手前には電柱から街灯がつき出していて、その街灯は消えていません。この下に道路があるのでしょう。
ID 9900では、左端の石柱に「大正十一(年)」と彫られています。その右のビルの塔屋に「はいばら」の広告看板。煙突が何本かあり、右には「竹の湯」とあります。
ID 9901は、少し引いた位置からの撮影です。石柱は屋根つきで、門灯のようなデザインです。「竹の湯」の煙突も確認できます。遠くの集合住宅の上には広告がありますが「日本火災」以外は読めません。
さて以上です。撮影場所の特定は難しい。ところがわかりました。
赤城神社から西の方角に「大日本印刷㈱榎町工場」、北西に「竹の湯」があります。屋根つきの石柱は赤城神社北参道の門柱です。北参道から境内に入ったところ、鳥居の下あたりから撮影したのでしょう。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302は令和元年(2019年)5月、赤城神社鳥居を撮ったものです。
鳥居は「一の鳥居」(神社の境内に入って最初の鳥居)で、中央に神額(鳥居等の高い位置に掲げた額)として「赤城神社」が書かれ、左には社号標(入口に石柱などの神社名)として「赤城神社」があります。昭和44年のID 8298にあった玉垣はなくなり、鳥居も二回りほど大きくなって道路ギリギリに立っています。これから参道が続きます。
鳥居の前の左側には立て看板2つがありますが、「あかぎカフェ」の広告でしょうか、しかし読めません。右側には掲示板があり、「御大礼」以外は読めません。大礼とは冠婚葬祭などの最も重要な礼式です。この年の5月1日に今上天皇が即位されましたが、これでしょうか。
境内には巨大な広葉樹があり、両側には春日灯籠、遠くに創作した灯籠があります。
社殿などの境内は建築家の隈研吾氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。立木の奥に見える縦縞の建物は地上6階・地下1階のマンション「パークコート神楽坂」で、これも隈氏の設計です。赤城幼稚園の跡地を中心に境内の東側に建てられました。
鳥居の前はT型の三叉路で、女性がスマホで鳥居や社号標を撮影しています。
後は左から……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。
赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒は賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
右端に金網フェンスがあります。
右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左三つ巴紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。
右から赤城会館、昭忠碑の台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298とID 14161は「赤城神社」を「昭和44年頃か」に撮ったと備考で書かれています。この2枚の写真は人間がわずかに違うだけで、連続して撮影したものでしょう。
ID 8293とよく似ていますが、相違点があります。
第一に、左の玉垣の一部がないことです。ID 8293をよく見ると、玉垣の上部に黒い筋があります。この位置で計画的に除却したのか、あるいは継ぎ目が割れて外れたのか、分かりません。
第二に、このID 8298は好天で、建物の影が出ていることです。また境内の駐車車両も違っており、別の日の撮影と推測できます。
それ以外はよく似ています。看板は「昭和四十五年度園児募集」、写っている人もコート姿や厚着で、季節は冬です。ちなみにID 389とID 390は昭和44年12月でした。
では、左から見ておきます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。
(1)ID 6869 七五三詣り
正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿には簾(和風カーテン)、お供え、三宝(お供えを盛る台)と高坏、金襴の布などが並び、回廊には擬宝珠の飾りがあります。神職の左右は榊の枝です。
その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
高札様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/御祈祷料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「葺上げ」は 屋根を仕上げることです。
(2)ID 6869 露店
石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代町」と読むのは、ID 389と同じです。
右の狛犬の背には鉄製の天水桶が見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
露店では香具師がさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。
(1)赤城神社拝殿
ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒が左三つ巴()の賽銭箱に向かって垂れています(図)。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。
(2)神門と鳥居
門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号標(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居の礎石の「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。
(3)赤城神社の遠景
さらに赤城神社から遠くなります。左から。
住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388は、昭和28年11月に、赤城神社の入り口付近を撮った写真です。
左に石の社号標(神社名を石柱などに刻んで建てたもの)の「赤城神社」、右に看板「赤城神社御造営作事場」があります。「造営」とは神社・寺院・宮殿などを建てることで、「作事場」とは土木建築の仕事場や 工事現場のこと。赤城神社のウェブサイトによると…。
残念なことに、その立派なお社も昭和20年4月13日夕刻の戦災により、ことごとく焼失してしまいました。 終戦後、昭和23年より復興の計画を立て昭和26年10月16日には本殿を竣功、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、復興計画から10有余年を経た昭和34年5月でした。 |
つまり、この撮影の時は戦災からの再建途上で、本殿はあっても拝殿はまたできていません。参道の右奥のトラックも工事のためでしょうか。
社号標の手前は側溝をはさんで道路がありますが、よく見ると現在の神楽坂の路地のようにピンコロ石を扇状に並べた石畳でした。
参道は未舗装で、鳥居の跡に礎石があります。後に鳥居は写真より奥まった位置に再建され、社号標も別のものになりました。
参道の両脇は民家のようです。右の電柱の看板は「赤城〇〇建設中」と読めますが、詳細は不明です。左にはいかにも昔の自動車が停まっています。
左に5角形の板「赤城〇〇」があり、正面奥には中鳥居、その奥に本殿が見えます。中鳥居の奥にはガーデンパラソルが見え、何かを売っているようです。
参道には晴着姿の親子連れが目立ち、七五三の参拝客でしょう。1人の女の子は洋服と千歳飴を持ち、もう1人の女の子は着物と帯を着て、隣の母親でしょうか、千歳飴を持っています。ID 388の説明は11月ですが、おそらく11月15日頃です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 564は昭和27年(1952年)の、ID 13029は、昭和28-29年の、赤城神社の台地からの遠望写真です。
以下は地元の方の解説です。へーっと驚くことばかり。たとえば、台地と上の建物、これってなんでしょう。
ID 13029では、写真左の水平線に早稲田大学の校舎と大隈講堂が見えます。正面の高台は文京区の関口台で、植物に覆われた斜面は現在の文京区立江戸川公園です。明治以来ソメイヨシノの名所として知られ、この斜面に沿って神田川が流れています。 台地の上はホテル椿山荘です。戦災で三重塔以外が焼け落ちましたが、戦後に椿山荘は建物を再建して昭和28年3月に営業再開しました。ID 12145(昭和36年)の最遠部でも確認できます。 さらに右側の白い建物は分かりませんが、獨協学園の校舎と思われます。右端の水平線のビルは講談社かもしれません。 つまり撮影したのは北西方向でした。この台地の眺望を野田宇太郎は「文学散歩」でパリのモンマルトルの丘に例えました。現在はビルですっかり視界が狭まりましたが、ID 14051(平成31年)のように、まだ眼下に「赤城下町」を見ることが出来ます。 一帯は戦災焼失区域ですが、戦後10年にならないのに家で埋め尽くされています。ただ終戦直後のにわか作りと思われる平屋が目立ちます。煙突が多数あることも印象的です。銭湯ばかりでなく店や会社が自前でゴミ焼却炉を備えていた時代でした。 正面手前、細い鉄柱からポールが伸び、最上部に黒っぽい丸い玉がついているものは、恐らく航空障害塔です。夜には赤い光を発したでしょう。赤城台が、それだけ高く感じられていたことだと思います。 ID 564は、ID 13029と似た写真ですが、少し左を向いています。大きな煙突が左端に写り、大隈講堂の塔も右に寄った位置に写っています。 |
ゴミ焼却炉 環境省の「日本の廃棄物処理の歴史と現状」(2014年)を簡単にまとめると
航空障害灯 航空機に対し、航行の障害となる高い建物などの存在を知らせるために設置する灯火。昭和35年から高さ60m以上の物件。その以前の高さは未詳。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14051は、平成31年(2019)1月、赤城神社駐車場から写真を撮ったものです。なお「データベース」には「赤城神社から早稲田方面を望む」と書いてありました。また平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。
はい、早稲田はもっと左側なので、方向が違っています。
近くの赤い建物は「ライオンズマンション神楽坂第三」です。遠くの高いビルは左から豊島区役所などの「としまエコミューゼタウン」(地上49階)、ライズシティ池袋の「エアライズタワー」(地上42階)、最も高いのが「サンシャイン60」(地上60階)、重なって見えるのが「アウルタワー」(地上52階)と池袋周辺のビルです。最も右は少し手前で、音羽の講談社(地上26階)のようです。
ではなぜこの場所を撮ったのでしょうか。野田宇太郎氏の『文学散歩』「牛込界隈」「赤城の丘」(初稿は昭和44年)を読むと分かってきます。
赤城の丘 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。(中略) 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9905~ 9906は、昭和50年(1975年)か昭和51年(1976年)に神楽坂赤城神社入口を撮ったものです。
車道はアスファルト舗装で、続けて、側溝、縁石、ガードパイプが付いた柵、歩道は無地のアスファルト舗装です。電柱の上には柱上変圧器があります。
街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあり、「神楽坂 商栄会」とあります。神楽坂商栄会は6丁目の商店会で、神楽坂商店街振興組合(昭和58年設立)の前身です。
街灯からは紅葉の造花が沢山ついた枝が斜めに出ています。街灯とは別に、高い場所にナトリウム灯と思える、おそらく都道の街路灯があります。
さらに、道沿いには、ほかの街灯よりは低く、しかし人間の頭よりは高い、神社の参道をイメージした春日灯籠が並んでいます。
写真の右、建物の階段を下から見ています。音楽之友社の本社で、階段の上が入り口でした。階段の様子はID 90で分かります。
神楽坂6丁目(昭和51年) | |
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145は、昭和36年(1961年)、上空から神楽坂全体を撮ったものです。また、新宿区役場「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年3月)にもでています。
これから神楽坂通りを1番目として、北(右)でも南(左)でも遠くなると番号も増えていきます。また、近景から遠景まで順番に書いていきます。なお、地元の方から多大な助力を頂きました。特に遠景ではこの助けがないとできませんでした。感謝、感謝です。
近北 |
近南
●は東京理科大学 |
中北 |
中南 |
遠北 |
遠南 |
最遠
最後は最も遠い光景です。地元の方が教えてくれました。そのまま描いています。
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5056は昭和34年(1959年)、第14回「国民体育大会新宿区商業観光まつり」を撮ったものです。花自動車パレードで神楽坂振興会が出展しました。場所は早稲田鶴巻町の早大通りでした。
「神楽坂振興会」は昭和24年に設立し、昭和41年に「神楽坂通り商店会」と改称。神楽坂1~5丁目の商店街です。昼時なのか、自動車に乗っている人はいません。「新宿区商業観光まつり」と書いた看板と、若い水着の女性の等身大バネルだけが乗っていました。この女性は王冠(ティアラ)とローブ(マント)、「(ミ)ス神楽坂 神楽坂振興会」というサッシュをつけています。「新宿区商業観光まつり」の絵図では……
名称 | 簡単な説明 |
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神(楽)坂通り | 通り |
堀部安兵ヱ碑 | 高田馬場の決闘と赤穂浪士四十七士 |
筑土(八幡) | 神社 |
赤城神社 | 神社 |
牛込城址 | 築城年は天文年間(1532〜1555) |
穴八幡 | 神社 |
大田 蜀山人旧居 | 江戸後期の文人 |
毘沙門天 | 寺院 |
関孝和墓 | 江戸中期の数学者 |
漱石猫塚 | 明治大正の作家。飼っていた猫の墓 |
十千万堂 尾崎紅葉旧居 | 明治の作家 |
松井須磨子墓 | 明治大正の女優 |
坪内逍遥旧居 | 明治大正の作家 |
市谷八幡 | 神社 |
お岩稲荷 | 四谷怪談 |
抜弁天 | 神社 |
太宗寺 | 寺院 |
小泉八雲旧居 | 明治の作家 |
新井白石旧居 | 江戸中期の政治家、儒学者 |
島崎藤村旧居 | 明治の作家 |
新宿映画デパート街 | 新宿大通り街 |
(熊)野神社 | 神社 |
神宮維画館 | 明治天皇の維新の大改革 |
競技場 | 国立競技場 |
マーガレット・プライス(Margaret Elizabeth Price)の「マーガレットの神楽坂日記」(淡交社、1995年)です。氏は1956年、オーストラリア・メルボルン市に生まれ。1982年、毎口新聞社に「Mainichi Daily News」のスタッフライターとして働き、当時はNHK「バイリンガルニュース」や編集企画の方面で活躍。現在はオーストラリア・クイーンズランド州スプリングブルックに住んでいます。茶道歴は30年。
文章がうまいのですが、あとがきで「だいたい翻訳本というと、原文よりおもしろくないことが多いのですが、この本はその逆です。私の英文を和訳し、私の日本語の文章を調節してくれた伊藤延司さん(理屈っぽい信州人のイトーさんとしてときどき出てくる人物)が、『そうよ、そうよ、そういうことよ、ワハハハ』と、私の考え、いいたいことをピッタリの日本語にしてくれました。おかげで私の原文よりはるかにおもしろいものになりました。どう感謝したらいいか…」と書いています。
イキな男がいなくなつた いつごろからか、神楽坂に住みたいと思うようになったのか、なんで神楽坂なのか、自分でもよくわかりません。 日本人の友人はみんな「山手線の内側、それも神楽坂みたいなところに、安く住もうなんて、常識はずれだよ」という固定観念の持ち主ですから、「神楽坂に安い2DKのアパート見つけたよン。赤城神社っていう神社のすぐ近くだよン。すっごく静かなところだよン。安いよン」といったら、「いまどき、そんな場所にそんな安いアパートがあるなんて。こりゃ、モーテンだね」と驚いていました。 長年、神楽坂に住みたい、神楽坂に住みたい、といってきた私の願いが、日本のヤオヨロズの神様のどなた様かに通じたのでしょう。「ヤオヨロズ」とは八百万という意味だそうですが、世界に冠たるハイテク社会の日本に、八百万もの神様がいるというミスマッチがいいですね。私は日本の神様のことがわかってくるにつれ、森羅万象に神が宿るという日本人の自然観が好きになっていきました。八百万も神様がいれば、中には私みたいなガイジンの無理な願いをきいてみようかという変わった神様がいたのかもしれません。 |
ところで、神楽坂はまったく知らない町でした。人から「神楽坂はどう?」ときかれても「いいところですよ」というのが関の山なのです。結局は夜寝に帰ってくるだけのところで、町を歩く機会がなかったのです。そこで、ある日、神楽坂探訪を思い立ちました。まず、この町で生まれて育ったというハヤシさんに会いました。ハヤシさんは超すてきな喫茶店「パウワウ」のマスターです。ハヤシさんが「神楽坂のどこに住んでいるの?」ときくので、私は胸を張って「赤城元町です」と答えました。ハヤシさんは「アカギモトマチィー? あれはカグラザカじゃない。虫のすむところだよ」というのです。 「毘沙門天あたりまでが神楽坂で、その先は寺町。またその先の、要するに赤城元町は神楽坂と関係ない。こっちのほうへ引っ越してきなさい」まるで、私のアパートはアカギの山奥のそのまた奥の一軒家みたいないわれよう。これにはガクゼンとしました。私の住んでいるところは神楽坂じゃなかったのか。でも、いいんです。私が住む赤城元町は赤城神社という木がうっそうと生い茂った小さな神社のそばで、とても静かです。ハヤシさんがいうように虫も鳴くけど、朝は鳥の鳴き声で目がさめるさわやかなところです。 |
ご存知のとおり、神楽坂は芸者さんの町でもあります。つい20年前までは芸者さんが200人もいたそうです。おもしろい町だったでしょうね。いまでも80人ほどがいるそうですが。ほとんどが50歳以上の方だそうです。 「芸者と遊べるようなイキな男がいなくなったから、ここももうだめだね。昔は、歌も踊りも洒落も知らないと芸者とは遊べなかったもんだ。ところが、いまの男どもときたら、カラオケぐらいしか芸がない。情けなくないか」とハヤシさんは、まるで目の前の私を怒ってるみたいです。 私は元総理の宇野さんを思い浮かべました。あの人のお相手が、この町の芸者さんだった。あのスキャンダルのころ、私も女のはしくれとして、宇野さんとの関係をばらした芸者さんに「よくやった」と拍手を送ったのですが、ハヤシさんは「あの女はこの世界のルールを破った。神楽坂の芸者はもうやばい、とみんなが思ったのよ」といいます。 この事件は神楽坂の花柳界に決定的打撃を与えたそうです。いまでも神楽坂は粋な町だけれど、大勢の芸者さんがお正月の挨拶まわりに派手なきものでシャナリシャナリ歩いた20年前は、どんなにすてきだったろう。見たかったな。ケイコさんが「江戸のシックがなくなった」といっていたのは、こういうことでもあったのでしょう。 |
神楽坂がいいのは道がせまいところです。私の国の首都キャンベラは、完全に車社会を頭に入れてつくられた人工の町で、車でまわるには大変便利ですが、私にはそれがかえって息苦しい。車のために町をつくると、町のぬくもりまで抜かれてしまいます。日本の町もだんだんと車に振りまわされた町づくりをするようになりました。東京の真ん中でも、神楽坂は違います。神楽坂はいまでも二台の車が通れる道が少なく、いちばん大きな「神楽坂」の坂道まで一方通行です。たくさんの狭い裏道に家が肩寄せ合って、江戸の形がみえるような気がする。 私は京都に行くときには「石塀小路」の旅館に泊まるのが楽しみです。あの狭い石畳の道は、ちょっとした夢の世界ですが、最近わかったのですが、「うち」の神楽坂にも石塀小路とさほど変わらない素敵な石畳の道がかなり残っていました。「虫の居所」に住んでいても、昔ながらの狭い道のそばにいるだけで、私は幸せもんだと思っています。 |
雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。
飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。 |
江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。 伝説によると、正雪の道場は済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。 |
34、珍らしい庚申塔 (略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略) |
「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。
現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、葵神社です。
庚申塔もあります。
昭和45年、稲垣足穂氏が『海』に発表した「我が黙示録」です。ここでは「稲垣足穂全集10」(筑摩書房、2001年)から取っています。東京大空襲も、B-29爆撃機も、焼夷弾も、第二次世界大戦も、全くでていませんが、何が起こったのかは明らかです。
そんな冥界のやからでなく、又、アルコール幻覚でなく、私が曾て現実に見た最も華麗壮大な物象を御紹介したい―― 戦時中、牛込横寺町にいた頃だった。午後三時すぎだったろう。私は神楽坂上を矢来の方へ歩いていて、頭上におどろくべき景観を見た。雲のまんなかが開けて、そこが赤熱化した真鍮さながらに光り輝いているのである。それはあの〽妙なる恵みや天なる御門は、わがためひらかれたりとリフレーンの付いた、讃美歌を思い合わさせた。灼熱のふちを備えた天の門があいているのだった。 それから横丁へはいって、我が住いにいったん帰り、あの天の門がどうなったか見ようとして、それとも他に用事があったのか、もう一ペん矢来の通りに出てみた。 先刻の天の輝ける門は大きなのが一つ、その他に余り目立たない五ツ六ツがあったように憶えているが、それらが右の方へ向って、それぞれに光に縁取られた竜になって、編隊を組んで走り出していた。天の門は崩れておのおの竜形になっていた。これはあの玉を掴んでいるシナの竜では無い。キリンビールの商標に似た、馬形の火で竜であった……。 私はその見事さに呆れたように見上げていたが、気が付いて赤城神社境内の西に面した崖ぷちにまで出て、そこで釘付けになってしまった。 竜群は遠くへ飛び去ってしまった。入れ代って右手の遥か向うに、大斜面の上に載った、言語に絶する展望があった。 全体が青い、幾分ぼやけた色をした広大な斜面は、そのまま大都の遠望であった。それは只の都市ではない。無限に見える傾斜面には、黄金の塔や銀の橋や宝石作りの家々が立ち詰っているように見えた。私が立ちつくしていた小一時間のあいだ、その不思議な都は少しずつ右へずれているようであったが、大体として形はくずれなかった。ド・クインシーはその著『英国阿片吸飲者の告白』の中で、アヘンの夢に見た都会を挙げ、あんなものは時たまの夢の中でしか見られない。自分の下手な文章では却ってぶち毀しだと云って、その代りとしてコールリッジの詩を引用している。星々が燦めき、揺れ動く不安な空をバックにしたおどろくべき宮殿風城塞の描写なのである。私はこの都を表現するのに、さしずめ黙示録第二十一章にある所を引く以外はない―― 「都は清らかなる玻璃のごとき純金にて造れり。都の石垣の基は、さまざまの宝石にて飾れり。第一の基は碧玉。第二は瑠璃。第三は玉髄。第四は緑玉。第五は紅縞瑪瑙。第六は赤瑪瑙。第七は貴橄欖石。第八は緑柱石。第九は黄玉石。第十は緑玉髄。第十一は青玉。第十二は紫水晶なり。十二の門は十二の真珠なり。おのおのの門は一つの真珠より成り、都の大路は透徹る玻璃のごとき純金なり。われ都の内にて宮を見ざりき。主なる全能の神および羔羊はその宮なり。都は日月の照らすを要せず、神の栄光これを照し、羔羊はその灯火なり。諸国の民は都の光のなかを歩み、地の王たちは己が光栄を此処に携えきたる。都の門は終日閉じず(此処に夜あることなし)」 |
昭和23年、稲垣足穂氏は「方南の人」を発表しました。
この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。
ヤマニバーの、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者である。「あれは分家の弟だ」とは、縄暖簾のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町のどぶろく屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋りは別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並の向うの茜の夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は……。 横寺片隅の孤りぼっちの起臥は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊ね」である。 |
白銀町から赤城神社境内へ抜ける鈎の手が続いた通路。紅い蔦に絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう? 「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長が云った。 「それにはお白粉が入用なんだ」 「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎が白馬を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニヘ引張って行く。 「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」 そう云いながら、彼は濁り酒を四本明けた。いっしょに日活館の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也のように、急に何処かへ消え失せてしまった。 |
そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。
トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴ったけれど、その、客捌きの鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り出せない事共がひと餅になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。 |
昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。
正面に緑青の吹いた鹿鳴館風の円屋根が見える神楽坂上の書割は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館前のギー坊に、肴町のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って、それぞれに明暗物語が進捗していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更に、牛込一帯は天降った火竜群の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋の煙突と、消防本部の格子塔と、そして新潮社のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗ばかりが昔なりけり――になってしまった。 |
緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影艦隊と共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製の鉤をつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。
天降った火竜群 航空機B29による無差別爆撃と、焼夷弾による爆発と炎上がありました。
お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。
それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。
武蔵野館の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール塗の小屋の表には然し暖簾が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。 「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、 「まだ氷がはいらないので、お午からです」 五、六秒の間があった。 「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」 「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。 「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。 「いいえ田舎で――」 その田舎は……? とは、はずみにもせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。 その代り接穂は次のようになった。 「姉さんの方はどちらに?」 「千葉とか聞いています」 「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。 「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。 「ではまた」と云って、俺は歩き出した。 |
次で小説は終わりです。
「涙が零れたのよ」釣革を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々終ったことを知るのだった。 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。 |
水谷八重子氏は明治38年8月1日に神楽坂で生まれました。この文章は氏の『松葉ぼたん』(鶴書房、昭和41年)から取ったものです。
氏が5歳(昭和43年)のとき、父は死亡し、母は、長女と一緒に住むことになりました。長女は既に劇作家・演出家の水谷竹紫氏と結婚しています。つまり、竹紫氏は氏の義兄です。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項では、大正2年(8歳)頃から4年頃までは矢来町17 、大正5年頃(11歳)は矢来町11、大正6年頃(12歳)~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年(18歳)から大正15年頃は通寺町に住んでいました。氏が小学生だった時はこの矢来町に住んでいたのです。
神楽坂の思い出 ――かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川――啄木の歌だが、私は東京牛込生まれの牛込育ち、ふるさとへの追慕は神楽坂界わいにつながる。思い出の坂、思い出の濠(ほり)に郷愁がわくのだ。先だっての晩も、おさげで日傘をさし、長い袖の衣物で舞扇を持ち、毘沙門様の裏手にある踊りのお師匠さんの所へ通う夢をみた。 義兄竹紫(ちくし)の母校が早稲田だったからでもあろう。水谷の家は矢来町、横寺町と居をえても牛込を離れなかった。学び舎は郵便局の横を赤城神社の方ヘはいった赤城小学校……千田是也さんも同窓だったのだが、年配が違わないのに覚えていない。滝沢修さんから「私も赤城出ですよ」といわれた時は、懐かしくなった。 |
学校が終えると、矢来の家へ帰って着物をきかえ、肴(さかな)町から神楽坂へ出て、踊りのけいこへ……。お師匠さんは沢村流だった。藁店(わらだな)の『芸術俱楽部』が近いので松井須磨子さんもよくけいこに見えていた。それから私は坂を下り、『田原屋』のならび『赤瓢箪』(あかびょうたん・小料理屋)の横町を右に折れて、先々代富士田音蔵さんのお弟子さんのもとへ長唄の勉強に通うのが日課であった。神楽坂には本屋が多い。帰りは二、二軒寄っで立ち読みをする。あまり長く読みふけって追いたてられたことがある。その時は本気で、大きくなったら本屋の売り子になりたいと思った。乙女ごころはほほえましい。 |
藁店といえば、『芸術座』を連想する。島村抱月先生の『芸術倶楽部』はいまの『文学座』でアトリエ公演を特つけいこ場ぐらいの広さでばなかったろうか? そこで“闇の力”を上演したのは確か大正五年……小学生の私はアニュートカの役に借りられた。沢田正二郎さんの二キイタ、須磨子さんのアニィシャ。初日に楽屋で赤い鼻緒(はなお)のぞうりをはいて遊んでいたら、出(で)がきた。そのまま舞台へとびだして、はたと弱った。そっとぞうりを積みわらの陰にかくし、はだしになったが、あとで島村先生からほめられた記憶がある。 |
私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り煬だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋』のお菓子と紅茶、『山本』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。『わかもの座』のころ私は双葉女学園に学ぶようになっていたが、麹町元園町の伴田邸が仲間の勉強室……友田恭助さんの兄さんのところへ集まっては野外劇、試演会のけいこをしたものである。帰路、外濠の土手へ出ては神楽坂をめざす。青山杉作先生も当時は矢来に住んでおられた。牛込見附の貸しボート……夏がくるたびに、あの葉桜を渡る緑の風を思い出す。 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の二階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ページになるであろう。 神楽坂の追憶が夏に結びつくのはどうしたわけだろう。やはり毘沙門様の縁日のせいだろうか? 風鈴屋の音色、走馬燈の影絵がいまだに私の目に残っている。 |
友田恭助 新劇俳優。本名伴田五郎。大正8年、新劇協会で初舞台。翌年、水谷八重子らとわかもの座を創立。1924年、築地小劇場に創立同人。1932年、妻の田村秋子と築地座を創立。昭和12年、文学座の創立に加わったが、上海郊外で戦没。生年は明治32年10月30日、没年は昭和12年10月6日。享年は満39歳。
青山杉作 演出家、俳優。俳優座養成所所長。1920年(大正9年)、友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」では演出家。
稲門 とうもん。早稲田大学卒業生の同窓会。
水上勉氏が書いた神楽坂に関する文章を2つご紹介します。最初は『文壇放浪』(毎日新聞、1997年)から採ったものです。
水上勉氏の誕生は大正8年3月なので、この文章は77歳頃に書かれたものです。
この事件が起こったのは文章の前後の関係から1941(昭和16)年でしょう。2月の学芸社への移動から、12月の真珠湾攻撃までに起きています。
『文壇放浪』の中で、神楽坂が出てくるのはここだけです。
和田芳恵さんは、その当時、新潮社の「日の出」(読物月刊誌)編集長だった。その仕事のかたわら、元改造社出版部長だった広田義夫氏が経営する学芸社の相談役だったようで、むろん、非常勤である。 私は、神楽坂の赤城神社の斜め向かいにあった小さな喫茶店で和田さんと待ち合わせて、仕事を指示されて作家訪問と印刷屋ゆきなどをした。ある曰、暑い日に、いつもの喫茶店よこのガラスのすだれをかけたかき氷を売るミルクホールで待っていると、四十前後と思われる中背の和服を着た女性と和田さんがみえて、ふたりは、氷あずきか何かをたべて、話し込んでおられた。女性の方が先に帰られると、和田さんは私の卓子にきて、 「林芙美子さんですよ」 といわれたので、私は躯を硬直させて、かき氷の「すい」(色のない砂糖だけ入れたかき氷のこと)にさしこんでいたスプーンを落としそうになった。「風琴と魚の町」や「放浪記」を読んでいたから、走って出て、その人のうしろ姿を拝みたいほどの気持ちだった。和田さんは、いろいろな流行作家とおつきあいがあるらしかった。私は戦後まもなくに、林さんの訃報をきくのだけれど、その新聞記事をよんでいても、暑い夏の一日の神楽坂でのことを思いおこしていた。地方から出てきた文学青年には、東京では一流の閨秀作家が氷あずきをたべておられる風景が見られることさえ不思議であった。和田さんは甘党だったし、林さんも市井の作家であったから当然のことだったろうが、私には瞼に焼きついて忘れられない光景となった。 |
2番目は『わが六道の闇夜』(読売新聞、1975年)からのものです。
丸山義二氏の世話をうけて、「日本農林新聞」に就職したのは、この年のたぶん四月だったと思う。社は富士見町にあったので、早稲田から榎町、矢来町、神楽坂を歩いて、毎日往還することになった。月給は二十円そこそこでなかったか、と思うが、下宿代を払えば、朝夕の食事が出来、寝泊まりも出来るのだから、余った金は酒と女ということになる。悪友がいたわけではない。私の躯に虫がいたのである。(中略) 酒はまず、社からの帰りに酒屋へ寄った。神楽坂にも矢来町にも表通りに酒屋はあって、夕方になると、四、五人の労働者が桝酒を呑んでいた。女将が樽からじかについで、桝のスミに塩をのせてくれる。これをぐいっとやった。バーやおでん屋にゆくのは月給日ぐらいで、あと はぴいぴいだからこのような呑み方しか出来ない。のちに友人も出来たから、友人におごられる日はまたべつである。 |
丸山義二 まるやまよしじ。農民作家。日本プロレタリア作家同盟に参加。1938年「田植酒」で芥川賞候補。生年は明治36年2月26日、没年は昭和5年8月10日。享年は満76歳。
富士見町 富士見は東京都千代田区の地名。北西部に位置する。現在の富士見一丁目と二丁目。
桝酒 升酒。酒屋の店先で立ち飲みする、ますに注いだ冷や酒。升の角には塩を盛り、塩を少しづつ舐め、升の平面な部分で酒を飲む。
赤城の丘 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。 |
パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。 |
戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」 |
無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。 |
それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加能作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月や松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。 |
清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋に抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。 |
野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」の「神楽坂」(創元社、1954年)です。
神樂坂 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町に尾崎紅葉が住み、矢来町に広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席で坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。 |
大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月の芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々の要もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。 |
飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
要 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在は碑が立っています。
北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道のカダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。 「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。 |
甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。明治22年(1889)4月11日に内藤新宿駅と立川駅との間に開通し、やがて御茶ノ水から、飯田町、新宿、八王子までに至りました。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。
織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。
一四 牛込神樂坂の夜景 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の俤が流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者の湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳の東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。 |
牛込、小石川、麹町 代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。
夜更 よふけ。深夜。
大戸 おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。
散乱 さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。
五色 5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。
下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。
俤 おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影
流露 気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。
浪花 大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。
東山 ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。
都大路 みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。
屋台 やたい。屋形のついた移動できる台。
牛飯 ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。
遊人 ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。
お店者 おたなもの。商家の奉公人。
湯歸り 風呂からの帰り。
東都名所 国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。
傳坊肌 でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。
舊態 きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。
電燈 でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。
卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈は小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡、赤城神社、築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。 |
江戸川 神田川中流の呼称。ここでは文京区水道・関口の江戸川橋の辺り
石切橋 神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。
朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。 神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。 |
朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
音楽之友社 音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
神楽坂口 地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはず。
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。
別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
或屋敷 「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。
広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪の『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作『簾の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。 |
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。
コトブキネオン 現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。
ガス風呂 「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。
新潮社 1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。
旺文社 1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。
そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。 |
交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。
江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
講談社 こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本雄辯會」として設立
榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。
矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平が住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。 |
中里町 なかざとちょう。下図を。
住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません。
本郷区丸山福山町四番地 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山宗柏寺。日蓮宗です。
お百度 百度参り。百度詣で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを煎じた飲料
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。
浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」の一部です。
早稲田界隈の盛り場そういう世相だったので、一方では景気がよくて学生が俄かにふえたのだろう、さて早稲田に入って下宿屋探ししてみると、早稲田界限から牛込の神楽坂にかけては、これはという下宿屋は満員で非常に払底していた。辛うじて下戸塚の法栄館という小さな下宿屋の一室か空いていたので、ひとまずそこへ下宿した。大正末期に川崎長太郎が小説が売れだしたので、のちに夜逃げするに到ったが、偶然とぐろを巻いていた下宿屋である。朝夕を戸山ヶ原の練兵場を往復する兵隊が軍歌を歌って通り、またその頃の学生には尺八を吹く者が多く、神戸の町なかに育ったぼくは、当座、なんだか田舎の旅宿に泊っているような心細さを覚えたものだ。 |
払底 ふってい。すっかりなくなること。乏しくなること。
下戸塚 豊多摩郡戸塚町大字下戸塚は淀橋区になるときは戸塚町1丁目になりますが、新宿区ができる時に戸塚町1丁目はばらばらになってしまいます。そのまま戸塚1丁目として残った部分①と、西早稲田1、2、3丁目②~⑤になった部分です。
法栄館 東京旅館組合本部編の『東京旅館下宿名簿』(大正11年)ではわかりませんでした。
とぐろを巻く 蛇などがからだを渦巻き状に巻く。何人かが特に何をするでもなく、ある場所に集まる。ある場所に腰をすえて、動かない。
戸山ヶ原 とやまがはら。江戸時代には尾張徳川家の下屋敷で、今も残る箱根山は当時の築山で東京市内で最高地の44.6メートル。箱根山に見立てて、庭内を旅する趣向にしていました。明治以降は陸軍戸山学校や陸軍の射撃場・練兵場に。現在は住宅・文教地区。
練兵場 れんぺいじょう。兵隊を訓練する場所。陸軍戸山学校の練兵場は下図に。
当時は早稲田界隈の盛り場というと神楽坂で、新宿はまだ寂しい場末町だった。新宿が賑やかになりだしたのは、大正十二年の関東大震災以後である。新学期が始まるとぼつぼつ学生が下宿屋の移動をはじめ、まもなくぼくは神楽坂界隈の下宿屋に引越した。その下宿屋は赤城神社の境内にあって、長生館といった。下宿してから知ったのだが、正宗白鳥や近松秋江などの坪内逍遙門下がよく会合を開いていた貸席の跡で、下宿屋になってからも、秋江は下宿していたことがあるということだった。出世作「別れた妻に送る手紙」に書かれている、最初の夫人と別れた後のどん底の貧乏時代だったらしく、夏など、着た切り雀の浴衣まで質屋へいれてしまって、猿股一つで暮らしていたこともあるという、本当か嘘か知らぬがそんなエピソードまで残っていた。それから少し遅れて、片上伸、加能作次郎なども下宿していた。のち、太平洋戦争の頃、「新潮」の編集者だった楢崎勤を所用あって訪ねたら、長生館がいつかなくなってしまっていて、その跡に建った借家の一軒に住んでいて意外な気がした。楢崎君はそこで戦災を蒙ったのである。 |
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷
別れた妻に送る手紙 正しくは「別れたる妻に送る手紙」。情痴におぼれる自己を赤裸々に描く作品。もっと詳しくはここで。
平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは
山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。 神楽坂の大通りをはさんで、その左右に幾筋となく入り乱れている横町という横町、路地という路地を大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏が痛くなるほどくたびれた。 ――右の一行は、盗用である。すなわち、1928年(大正三年)の小説から盗用しても、さほど不自然ではないところに、神楽坂のユニークさがある。原文は左の如し。 〈神楽坂の大通を挟んで其の左右に幾筋となく入乱れてゐる横町といふ横町、路地といふ路地をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏の痛くなるほどくたぶれた。〉(永井荷風「夏すがた」) |
以下、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」(名前の紹介だけ)があり、続いて
神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる… |
「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしてません。さて、後半です。
荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン・ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきんであり、良くない、と判定したためである。 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。 大久保通りを横切って、白銀公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。 「女の子の顔がきれいだ」 と、荒木氏が断言した。 |
言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンクレディの写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。 |
どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう。
これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。
川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。
たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手のローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。 |
と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。
坊っちゃん 夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
毘沙門 善国寺は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の毘沙門天は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁の日。神仏の降誕・示現・誓願などの縁のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩 その季節の感じをよく表しているもの
藝者 宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の巷
盛り場 人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街<
山ノ手 市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭 同じものがまとまっている地域
ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町の都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。 |
つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。
関東大震災 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座 東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人 文化的教養を身につけている人
袋町 行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
都館 みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
三上於莵吉 『区内に在住した文学者たち』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<
もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。
ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。 |
建長寺 鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請 あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人 大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子 大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。
後は省略し、最後の結末を書いておきます。
いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋、山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。 (了) |
田原屋など | 昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井鮓、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。 |
不同調 大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社 1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路全集 武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災 戦争による災害。第2次世界大戦の後です。
広津和郎氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。
氏は生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。
氏は先輩作家の近松秋江氏の質草の話を新潮社の社長から聞き、まだ売れていない宇野浩二氏に書かせると面白いと考えます。
私が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。 |
それから秋江はまた非常に著物が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。 |
神楽坂の「清風亭」という場所があります。具体的にはどこにあったのでしょうか。インターネットの「西村和夫の神楽坂」では
赤城神社の境内の突き当たりにかって清風亭という貸し座敷があった。ここは坪内逍遥を中心に早稲田の学生らが脚本の朗読や舞台稽古に使った所で、後の「文芸協会」の基礎を作ったところである。その後清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に変わり、広津和郎など同時代(大正6年頃)の多くの早稲田の文士が住んでいた。広津和郎などはわざわざ神楽坂の銭湯まで来たという話が残っている。 |
江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。 |
(赤城神社)は、牛込氏が建てた神社である。ここから、江戸川低地や小日向台地の眺望がよい。この境内西の石段上の崖に面した空地に、明治のころ清風亭という貸座敷があった。 そこは、明治文学史上重要なところで、坪内逍遥の芝居台本朗読会や実演の稽古、俗曲研究会か開かれたり、文学関係の会合が開かれたところである。 この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になるが、そこに片山伸や近松秋江などが下宿していたことがある。 |
千代田商会前からさらに西に進むと神田川に架る石切橋がある。ここは文京区水道町であるが、この橋東寄りに明治末年から大正時代にかけて清風亭という貸し席があった。もと赤城神社境内にあった(二八参照)ものである。 ここは、島村抱月の芸術座の発祥地である。大正二年の秋、恩師坪内逍遥の文芸協会から分離した抱月を擁護する早稲田の同志七、八十名が集まり、主幹、幹事、評議員を選出し、新劇団名の芸術座が決定したのであった(二七参照)。 〔参考〕 大東京繁昌記山手篇 随筆松井須磨子 早稲田の下宿屋 |
ところで境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖を臨んで、明治のころ「清風亭」という貸席があった。明治三十八年(一九〇五)に、早稲田大学で教えていた文学者坪内逍遥が芝居台本の朗読会と俗曲研究会の会合を開き、易風会と名付けて雅劇「妹背山」という三大狂言にならぶ傑作の歌舞技に移行されたものを演じている。これがのちに文芸協会のいしずえを築いた由緒ある貸席であった。この清風亭が江戸川べりの石切橋へ移転する。そのあと「長生館」という下宿屋になり、作家たちが住むことになる。 |
赤城神社宮司夫人であり、境内にある赤城幼稚園の園長先生でもある人にお話を伺った。 「もとは群馬県の赤城にあった社殿がまず早稲田に、それからここへ移されました。 戦災でこのあたりも焼け野原、今の社殿は戦後再建されたものですし、落雷で大きな穴のあいた大銀杏があったんですが、やはり戦火にやられました。 巨大なやけぼっくいになった大銀杏のずっとむこうに富士山が見えて、 それはきれいでした。戦前のことはよく知りませんが、今幼稚園があるあのあたりに清風亭という料亭があって、坪内逍遥が新劇運動の場に利用したとか。のち下宿屋になって、近松秋江や片上昇(たぶん片山伸の間違い)が寄宿したそうです」 |
もうひとつ、赤城幼稚園ってどこなの? 赤城幼稚園は平成20年(2008年)まで残っていました。赤城神社の老朽化が進み、建て替えが必要で、その際、赤城幼稚園も閉園したのです。左図は2000年ころの図です。赤城幼稚園はきちんとありました。右は現在です。なんと大きなマンションになっています。
追憶
私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染だが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。 |
都寿司 織田一磨作の神楽阪(1917)(「東京風景」より )には都寿司は次の絵のように載っています。
また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では現在の「福屋せんべい」の前に寿司がありました。
郵便局 神楽坂6丁目にあった「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
ヤマニバー 菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物が昔のヤマニバーでした。細かくはここで。
神谷バー 創業明治13(1880)年。日本初のバー。ずっと浅草1丁目1番地で。2011年(平成23年)、神谷ビル本館は登録有形文化財に
その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ/\した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手にお閻魔様があり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう/\とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。 |
新宿区横寺町交友会『よこてらまち今昔史』(00年)の「昭和10年頃の横寺町」を見ていきます。
第一銀行支店 現在は「スーパーキムラヤ」です。これは、まあちょっと高級なスーパーです。上の図では最も右で、青灰色です。
お閻魔様 正蔵院のこと。丸形で色は濃紺色。
市営の公衆食堂 「神楽坂公衆食堂」です。薄緑色で。
飯塚酒場 現在は普通の家ですが、長い間酒場をやっていました。薄茶色です。
同じ酒場 新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)の「昭和10年頃の横寺町」では「1. 米屋 2.パーマネント 3. 公証人役場 4.目覚し新聞 5.マッサージ業 6.靴修理店 7.歯医者 8.若松屋 9.大工職 10.洋服店」で、昭和10年頃で「同じ酒場」はありません。若松屋が何を指しているのか分かりませんが、酒場ではないようです。若松家であればテキヤの1つ。テキヤとは縁日など人出の多いところなどで、居合抜き、独楽回し、手品、曲芸などの見世物を演じ、各種の薬品,商品を売る者。なお、横寺町の「もきち」(居酒屋)はこの時はまだ生まれていません。この横寺町の「もきち」は「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」にでています。
芸術座跡 座長の島村抱月が大正7年12月、スペインかぜで死亡し、大正8年1月、1か月後に主演女優の松井須磨子氏は自殺し、2人を失った芸術座もこれでなくなり、松井須磨子氏の兄、小林さんのアパート(芸術倶楽部跡)になりました。紫色
荒物… 「荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋」は「荒物屋、染物屋、女髪結、製本屋、質屋」のこと。荒物屋は「家庭用の雑貨類を売る商売や店」で、別名は「雑貨屋」。以下のイラストでは赤で書いてあります。横寺町はあらゆる店があり、なんでも売っていたようです。
日蓮宗のお寺 円福寺です。黄色で。現在も円福寺はあります。
田川 花屋の田川は青色で。現在はありません。
私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しい傷しい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。 |
芸術座 げいじゅつざ。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。これは第一次芸術座のほう。
トルストイ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой、Lev Nikolayevich Tolstoy)。帝政ロシアの小説家、思想家。生年は1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)。没年は1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)。
闇の力 愚かさにより父殺し・嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
死とその前後 大正7年10月、須磨子は有島武郎の「死と其(その)前後」の妻役で好評を博しました。
印銘 いんめい。 公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すこと。
傷しい死 島村抱月はスペインかぜ(新型インフルエンザ)で、大正7年11月5日に死亡し、翌8年1月5日、松井須磨子氏は自殺します。
私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋の都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。 |
赤城神社 現在は赤城元町1-10。700年にわたり牛込総鎮守として鎮座しています。
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。しかし、清風亭はどこにあるのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで。
博文館 はくぶんかん。東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊。取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、戦前は日本最大の出版社に。
筑土の植木屋旅館 近松秋江がここに来る前は筑土の植木屋旅館だったといいます。場所は不明。筑土とは「津久戸」なのか、「筑土八幡町」なのか、合わせてそう呼んだのか、わかりません。
楠山正雄 くすやま まさお。1884年11月4日 – 1950年11月26日。演劇評論家、編集者、児童文学者
永代橋 えいたいばし。隅田川にかかる橋で、地上には永代通り、地下には東京メトロ東西線が通っています。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。実際は巨大な地図が東京紅團(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ にあります。
都川 都川も上図で。
その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀、土肥、水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会の基を作った由緒づきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。 |
清風亭 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋になりました。しかし、赤城神社内で清風亭はどこあったのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで。
貸席 料金を取って貸す座敷
土肥 土肥春曙。どひしゅんしょ。明治2(1869).10.6.-1915.3.2。俳優。1890年東京専門学校 (現早稲田大学) 文科の第1期生として入学。卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、1901年川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、翌 06年文芸協会が設立されると技芸監督、中心俳優として活躍。
水口 水口薇陽。びよう。1873-1940。05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、上演運動を行う。
文芸協会 1906年、坪内逍遥、島村抱月が中心で、演劇のみならず宗教・美術・文学など広範な文化運動を目的として発足。09年演劇研究所を設立して演劇団体に。1913年、解散。
江戸川の清風亭 清風亭は石切橋に転移しました。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」(三交社)では「この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になる」と書いてあります。石切橋は
古蹟 こせき。古跡とも。歴史に残るような有名な事件や建物などのあと。遺跡。旧跡。古址
近松秋江は明治9(1876)年5月4日に生まれ、昭和19(1944)年4月23日に死亡し、死亡時は満67歳の作家でした。では、どんな作家でしょうか。
名前以外には思いつかず、しかし、この「別れたる妻に送る手紙」の名前はなかなかよく、おそらく擬古文を使う明治時代の作家だと思っている。なるほど、残念ながら違います。
あるいは、秋江を「あきえ」と呼んでしまって昔の男性ではなく女性作家だと思っている。あるいは、夏目漱石や森鴎外には及びもしないけど、それでも明治時代にはまあまあ知られていて、『別れたる妻に送る手紙』などはおそらく切々とした情感がある手紙だと思っている。これも間違いです。
一言でまとめると、近松秋江の次女、徳田道子氏が、近松秋江著『黒髪、別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫)の「或る男の変身」で、こう書いています。
収録されている作品はすべて情痴ストーリーで、美しいラブストーリーでもなければ純愛物語でもない。 書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。 |
逆に近松秋江はこう書いています。
『別れたる妻…』は、紅葉の『多情多恨』と『金色夜叉』のお宮に棄てられた貫一の心とを合したものです。
「新潮」 明治43年9月1日、近松秋江全集第9巻429頁)
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う~ん。なんとまあ。『金色夜叉』に匹敵する小説と考えているんだ。さすがに昭和5年にはこの豪語はなくなります。
文筆懺悔・ざんげの生活
自分が、長い間に書いて来た物で、あんなことを書くのではなかったと、今日から回顧して、孔あらば、入りたい心地のするものが、私には数多くある。どれも是れも、そんな物ばかりである。
一体自分は、以前から、既に筆を持って紙にのぞんでゐる時に、非常な懐疑的態度に襲はれてゐる方で、(こんな物を書いてゐて、それでも好いのかなあ)と、幾度となく反省してみる。その為に筆が鈍るのである。尤もそれは、専ら芸術的立場からの批判であったが。 (「中央公論」昭和5年1月。近松秋江全集第12巻112頁)
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本人の自画像がとてもかわいい。真剣なものをもっと書けば良かったのに。『別れたる妻』なども真剣ですが、真剣な方角を変えたものがもっとあれば良かったのに。晩年は歴史物に流れていきました。
赤城坂は新宿区赤城元町の坂上から直線的に北に下り、途中で10mほど西にずれて再び北に落ち込み、築地町に入り、終わる長い坂です。長さは140m、高低差は6メートル,平均斜度は2.5度です。明治時代の赤城坂はここ。
標柱は
赤城坂 | 赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所図絵』によれば、『…俊悪にして車通ずべからず…』とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。 |
『新撰東京名所図会』では
赤城坂 同町(赤城元町)と赤城下町の間を北へ下る坂あり、赤城坂といふ、峻惡にして、車、通ずべからず、赤城神社の裏門に位し、濱松屋といへる銅鐵商あり、又雇人ロ入宿、室内射的あり、坂の中腹より西、赤城下町へ下る坂あり、V字街頭に一札を掲ぐ。 |
ピンコロ石畳を使った鱗張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
ここでは北側のひとつを見てみましょう。場所は赤城神社の下、赤城坂の傍です。赤城神社からはあっという間もなく着いてしまいます。
しかし、13年5月では石畳はちゃんとあったのですが、13年8月にはなくなってしました。
今はなくなっています。ここは区のものですから、仕方がないといえばそうなのですが。
これを上に上がると赤城神社です。