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柳家金語楼|矢来町

文学と神楽坂

 柳家金語楼(きんごろう)は、生まれは1901(明治34)年2月28日、本名は山下(やました)敬太郎(けいたろうで、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人でありました。戦前の吉本興業では最高給取りでした。戦時中になると、上からの圧力で落語家を廃業し、喜劇俳優になり、1940年、金語楼劇団を旗揚げします。戦後では、1953~68年のNHKテレビ『ジェスチャー』で白組キャプテン、1956年、TBSテレビとテレビ朝日『おトラさん』で主役。1968年、日本喜劇人協会会長に就任し、1972(昭和47)年10月22日、死去します。

 さて戦前に住んでいたところが矢来町です。山下武氏の『父・柳家金語楼』によれば

 四谷から牛込へ越すことになった原因が変わっています。吉本興業から借金して車を買うことになったものの、それまで住んでいた四谷伝馬町の家では車が置けません。そこでガレージを作れるほど庭の広い借家をさがした結果、牛込の矢来町に大きな古い借家を見つけたのでした。人間が住むほうは屋根さえあればどうでもよく、車を置くために借りた家ですから、こういうところにも享楽的な父の性格がのぞけます。凝り性といえばそうともいえますけれども、もともと父にはマイ・ホーム主義など破片(かけら)もありません。また、そんな雰囲気に浸るほどの時間的余裕(ゆとり)もないのです。なにせ、当時の父は目が回るほどの忙しさでしたから。
 矢来町の家は三百坪ほどもあったでしょうか。ガレージを作ってもなお大きな庭が余るのはいいのですが、家が古く、しかも暗くて陰気なのです。建坪(たてつぼ)だけでも百坪以上はあったでしょう。古い邸で、一部が二階になっているほかはあらかた平屋です。この二階建ての部分はあとで継ぎ足したものらしく、俗に“おかぐら”といって家相がよくないのは父も知っていたはずですが、ガレージが欲しいばかりに急いで越してしまったのです。怪異とまではいかないにせよ、この家に怪しい影がついて回ったのもそのせいではなかったかと思います。

 なお、“おかぐら”とは「御神楽」で、平屋だったものを、あとから2階を継ぎ足したもので、一階と二階には別々に作り、通し柱はありません。

 金語楼社の住所は矢来町34番地でした。ここが自宅の住所だとすると、

金語楼の屋敷(矢来)

 色川武大氏の『寄席書き帖』によれば

 私の生家のある牛込矢来町では、金語楼は特別な意味あいで有名人だった。というのは彼の本宅が町内にあったから。刑務所のように背の高い黒板塀で囲まれた大邸宅で、私どもは学校の行き帰りに山下敬太郎という表札をみてはクスクス笑い合ったものだ。たしか息子さんが一級上ぐらいに居たと思う。
 そうして、彼の妾宅が、附近に点在しているのを町の人々は皆知っていた。そのころの噂によると、金語楼は妾宅では、明治の元勲のようにいかめしい顔つきで口もきかずに酒を呑んでいたという。(略)
 私が感心したのは、酒が手に入った夜に必ず現れる、ということだ。
 Yさんの所ばかりではなく、町内の誰彼のところにも現れるらしい。当時、酒は貴重品で、やたらに誰のところでもあるわけではなかった。あっても他人に呑ませる的交際があったわけではあるまい。金語楼なら突然入ってきても歓待するということだったのだろう。
 同級生からもこういう話をきいた。
「不思議なんだよ。今夜、二合あるとするだろ。誰も二合なんてしゃべらないのに、金語楼さんが来て、わァッと家じゅうをわかしてさ、二合が出たなッと思うと、すうっと元の顔に戻って、帰っていくんだ」
「呼んだわけでもないのに来るのかい」
「そうだよ。夕方、町をぶらついて気配を見てるんじゃないかい」
 実にどうも、偉い。空襲でどこもかしこも焼けて、むろん自分の家も焼けて、日本が負けるかどうかというときにお酒一筋に気を凝らして、狙い定めてすうッと入っていく。
 偉いともなんともいいようがない。兵隊落語や映画で感じていた俗な顔つきはあれは営業用のもので、本人は俗どころか、超俗的なものを持っている。

 昭和20年5月25日、東京最後の大空襲でこの家は灰になりました。

数学体験館|東京理科大学

文学と神楽坂

「数学体験館」は東京理科大が近代科学資料館の地下一階に作った数学の理論を体験するもの。人も少なく、しーんと静まった一階と比べて、地下一階の「数学体験館」には土曜には子供が非常に多く、家族連れが沢山います。将来的にはこちらを一階にする方がいいのではと思ってしまいます。入口
 同館の館長は秋山仁氏。開設の目的は、いろいろありますが、要は教具・教材等を開発すること…といってしまうと、身も蓋もありません。他には高校までの理解を補う補習教育の強化、大学で数学の初年次教育を充実し、学内外に発信すること。でも楽しいのが多い。

区分

 同館は「数学体験プラーザ」が95%を占めています。「数学体験プラーザ」では小学校から大学の概念や定理、公式を学べる作品を常設展示。たとえばほかにはあまり見かけないものとして「区分求積法」。このアイデアを使った模型で面積を求めます。ただし、あまり面白くないようで、あまりやってはいませんでした。
2項分布パチンコ よくあるものとして「2項分布パチンコ」。絶対に2項分布の通りには並びません。それを実体験します。(そうですよね)。また無数の球を上に持って行くのはあなたで、ほかの人はやってくれず、自分で綺麗にするのもあなた以外にありません。
らせん木琴「らせん木琴」は途中で球が止まると音も止まることや、音程が乱れることを除けば、綺麗な名曲…迷ではないぞ…が流れてきます。これはドアの外にそっと置いてあります。しかし、部屋の中では子供たちはわーわーと大喜び。土曜に行ったのがよかった。月曜から金曜ではこれだけの子供はいないと思う。

 ほかには「数学工房」。これは数学的作品や教具、教材などを制作し開発する場所で、その成果を授業で活用します。「数学授業アーカイブス」は、DVDなどを視聴する場所。算数・数学の講義を、大型ディスプレイやオーディオ機器で学習できます。

 こんな博物館はアメリカや香港では何十年も昔からやっていました。でも日本で国立博物館ではできないものでした。それが、ようやくできた。しかも100個ある。パチパチパチと拍手を送ります。

神楽坂|翁庵 なんたってかつそばだ

文学と神楽坂

 蕎麦の「翁庵(おきなあん)」は神楽坂上を見で左側にあります。明治17年(1884)、関東大震災以前から商売を続けています。場所はここ

翁庵

 朝間義隆氏は映画監督の山田洋次との共著『シナリオをつくる』(筑摩書院、1994年)でこう書いています。

「和可菜」は夕食は出さないので、神楽坂下の山田さんのお気に入りのそば屋「翁」に大体は出かける。近くの理科大学の学生でいつも賑わっている店で、おかみさんたちがすっかり山田ファンになりいつも特別の惣菜をこしらえてもてなしてくれる。主役級の俳優さんとの顔合わせの場所にも、たびたびなっている。

 黒川鍾信氏の『神楽坂ホン書き旅館』(日本放送出版協会、2002年)では

 神楽坂を下って外堀通りにぶつかるちょっと手前に、「(おきな)(あん)」というそば屋がある。午後は東京理科大の学生たちで賑にぎわっている。ここの「カツ(どん)ライス」を知らない者は理科大生でないといわれるほど、卵でとじたカツの皿と大盛り(どんぶり)(めし)は有名である。
 ある晩、山田(洋次氏)たちはこの店に入った。注文を取りにきたアルバイトの店員は、寅さん映画のファンだった。客のひとりが山田洋次だということに気づいた店員は、女将に耳打ちした。それでは奥の座敷に上がってもらいなさいとなり、注文した料理の他に、「これは自家用の惣菜ですがよろしかったら召し上がってください」と、小松菜をそえた厚揚げの煮物と大根のあら()きが出てきた。
 これが決め手となった。山田たちはここをすっかり気に入り、また、店の人たちも山田組のファンになった。和可菜でカズさんがやったように、翁庵の女将さんは、徐々に山田や朝間の嗜好(しこう)を覚えていった。(たい)や松坂牛は必要ない。季節の食材を惣菜風にして出せば喜ばれるのだから、親戚(しんせき)縁者が遊びにきたというあんばいで気楽に調理することができた。

 また「拝啓、父上様」でも登場します。第7話で板前と仲居さんで翁庵(台本では「まるそば」)を舞台に集会があり、料亭「坂下」が廃業してしまうのでは、どうしようというものでした。

まるそば
  客で賑わっている.

まるそば
 昭和56年(1981年)、神吉(かんき)拓郎(たくろう)氏の『東京気侭地図』の一節です。氏は小説家、俳人、随筆家で、昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がけ、昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞を受賞しました。『東京気侭地図』の神楽坂は別に書いています。

 坂の上り口から、ほんの二三軒先の左側に「おきな庵」という蕎麦屋があるが、この店は好きだ。学生にとりわけ人気のある店で、見かけも値段も、まったく並の蕎麦屋だが、今どきには珍しいほど、ちゃんとしたものを出す店だと思う。
  法政大学を出た男に教えられて入って以来、たびたびこのノレンをくぐるようになった。
 お目当ては、カツそば、という珍味なのである。
 カツそば、などというと、眉をひそめられそうだが、どうして、どうして、これが悪くない。かけそばの上に、庖丁を入れた薄いトンカツが一枚のっている。普通の感覚でいうと、どうもギラギラとして、シツコくて、とても喰えないと思うだろうが、これが淡々として軽い味わいなのである。
  食べてみて、あまりにも意外だったので、教えてくれた男に早速報告すると、その男は、しまった、と額を叩いた。
「忘れてました。温かいのを食べちゃったんでしょう」
「そうだ」
「いうのを忘れたけれど、冷たいのを喰わなくちゃ話になりません。カツそばは、冷しに限るんです」
 ますます奇妙である。冷したカツそばなんて喰えるのかしらんと思ったけれど、次に行ったとき、その、冷し、というのを註文した。食べてみて、へえ、と感心した。
 温かいのもウマかったけれど、冷し、は一段とウマい。世のなかには不思議な取合せがあるものだと、目をぱちくりして帰ってきた。
 ここのカツそばの味は保証してもいいけれど、喰いものの評価は、まったく独断と偏見によるものなので、口に合わないということだってあり得る。でも、大人が食べてみて、損をしたような気にならないことは承け合える。

 ここの「かつそば」は「かつ」と「そば」をあわせたもの。かつそばってはじめてだと思った人はだめだめ。食べログによれば「全国にあるカツそばに関連するお店62件を一般ユーザーの口コミをもとに集計した様々なランキングから探すことができます」とでてきます。 すごい。62件もあるんだ。ただし、「カツカレーのカツ そば大盛り」など、「カツ そば」もいれて62店なのですが。入れない場合はとても怖くって調べていません。
 かつそばは毎月5日、15日、25日は限定100食まで500円で食べることができます。さらに、毎月8日、18日、28日はいなりずし1個を無料でサービス。
  でかつそばを食べてみるとなんと美味しい。かつは厚くはなくて、普通のかつの70%の厚さ。しかも油っこくはない。そばとあっている。おどろきでした。
 かつそばには、温かいかつそばと冷たいかつそばがあり、どちらも880円です。確かに「冷しかつそば」の方があっさりしていいと思いますが、それほど違いはあると思えません。

温冷かつそば

かつそばの2種。左は温かいかつそば。右は冷やしかつそば




和可菜|兵庫横丁

文学と神楽坂

 旅館「()()()」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き」として有名でした。
 粋なまちづくり倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』(2013年、東洋書店)では和可菜旅館について

霧除けを帯びた入母屋造りの瓦屋根に下見板張りの外観は、玄関脇の植栽とともに閉静な路地に彩りを添えている。板塀にしつらえられた引違いの格子木戸は、動線を屈曲させてアプローチに「引き」を作る。玄関は洗い出し土間に自然石を沓脱ぎとして配し、台形の無垢板の式台ナグリ吹寄せ 竿縁の天井をしつらえるなど手の込んだ意匠が残る。腰には丸太を縦張りし高窓のガラス戸桟を人字型に加工するなど、旅館建築ならではの自由なデザインも見られる。

そう、建物として本当に何かが上品で流麗なのです。
 なお、ここで出てくる設計用語については

霧除け 霧や雨が入り込まないよう、出入り口や窓などの上部に設ける小さなひさし。
入母屋造り 上部で切妻造(前後2方向に勾配をもつ)、下部で寄棟造(前後左右四方向に勾配)となる構造。
下見板張り 外壁で板を横に並べるとき、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。
格子木戸 碁盤の目の木の戸。
洗い出し たたきや壁などで、表面が乾かないうちに水洗いして、小石を浮き出させたもの。
沓脱ぎ 履物を脱ぐ所。
式台 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置する板。
ナグリ 舞台玄能。
吹寄せ 竿を2本ずつ寄せて入れるもの。
竿縁(さおぶち) 一般的和室天井張り形式。
縦と横1縦張り 縦に羽目板などを張ったもの。
戸桟 裏に桟を取り付けた、頑丈な戸。

外から見た旅館・和可奈

 明治大学教授の黒川鍾信氏の本『神楽坂ホン書き旅館』は02年に出版されました。
 NHK出版でそのPRを読むと『今井正、内田吐夢、田坂具隆、山田洋次、石堂淑朗、市川森一、竹山洋、野坂昭如、結城昌治、色川武大、伊集院静、村松友視。日本を代表する映画監督、脚本家、作家たちを、神楽坂の一角で四十八年間にわたって支えてきた「ホン書き旅館」の女将が語る執筆現場の秘話』だそうです。
 本当に「秘話」はちょっと大げさですが、でも「へー」という話が一杯入っています。たとえば、山田洋次氏が寅さんシリーズ第35作で初めてここにやってきた時の話。阿佐田哲也氏のマージャン大会の話。伊集院静氏が宿をここに置いた、その理由など。
 また黒川氏は05~06年、『神楽坂まちの手帖』第9号から第15号にかけて「ホン書き旅館の帳場から」を書いています。
 さらに小田島雅和氏が『神楽坂まちの手帖』15年第1号から第3号にかけて「和可菜通信」を書いています。中身は俳句の「くちなし句会」について。 「くちなし句会」は作家結城昌治氏を中心として俳句の句会のことです。昭和52年(1977年)から開始し、第4回句会以来は「和可菜」で行い、途中で中断がありますが、平成19年(07年)以上、25年以上も続いています。今もやっているのかどうかは、はっきり言ってわかりません。やっていると思いたいです。
 伊集院静氏は11年に『いねむり先生』を書きます。そこで、筆者2人がいるけど実は同一人物だと教わります。伊集院氏がその筆者を連れて

 神楽坂の通りを毘沙門天の向いから路地に入り、くねくねと曲がった石畳の階段を段だらに降りて行くと、黒塀に囲まれたその宿はあった。

 これは和可菜です。「段だら」とはいくつにも段になっているもの。その宿の庭については

 ボクたちはその宿の庭に面した濡縁(ぬれえん)に並んで座っていた。(略)
 ちいさな庭の中央に古びた池があり、手入れかされてないのか、水は涸れてしまっている池の真ん中に一匹の黒猫が吹き溜った枯葉とじっとしていた。(略)
 庭といっても数歩歩けば表に出てしまう箱庭で、時折、塀のむこうの坂道を通る人の足音かすぐ近くに聞こえた。

 濡縁とは雨風を防ぐ雨戸などの外壁はない縁側だそうです。
 しかし、『神楽坂まちの手帖』そのものは第18号になって消えていきます。以来、「和可菜」は沈黙し、声は聞こえてはきません。本当に今も外国人が多いのでしょうか? だれかインターネットを使ってくれるとよく分かるのに。
 06年の『神楽坂まちの手帖』第15号、「ホン書き旅館の帳場から」で黒川鍾信氏は和可菜を取り上げて寿命はもう「風前の灯」だといいます。

「昭和ニ十九年~現在 ここで三千本を超える映画・テレビドラマの脚本と数百編の小説が書かれた」と刻まれるだろう。
 「~現在」が「~平成○○年」に代わる日がくるのは、さほど先のことではない。いや、すでに半分は“休館”の状態である。

 ところが、07年のTVドラマ『拝啓、父上様』はまた大きく変わります。「和可菜」は架空の料亭『坂下』のすぐ隣りになり、第3話の架空の作家・津山冬彦(奥田瑛二)の写真もここで撮影しました。

かくれんぼ横丁(「和可菜」前)
  石畳に並んで立つ津山冬彦と芸者真由美。
  スチールをとっているカメラマン。
カメラ「あ、いいな!  いいですよ! 目線一寸上。ア! いいなァ!」
  その時、撮っている先方の角から和服の男が現われる。
カメラ「ア」
  一瞬ためらい、シャッターを切る。
  和服の男――ルオーさんである。


「和可奈」の前にたたずむ作家、津山冬彦。「拝啓、父上様」で出ました。

 今では和可奈は閉鎖しても閉められない場所になってきたのです。まるで遊園地、観光名所になったようです。いまでは休みの日には人人人です。

 2015年末に一時閉店しましたが、隈研吾設計事務所の手を借りて、2021年、再出発するようです。





神楽坂の通りと坂に戻る

漱石と『硝子戸の中』14

文学と神楽坂

『硝子戸の中』は大正4年1月13日に発表し、ほとんど毎日続き(1月31日、2月5日、12日は休載)、2月23日に終了した随筆です。

十四
 ついこの間むかし私のうちへ泥棒の入った時の話を比較的くわしく聞いた。
 姉がまだ二人ともかたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行はやったやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中よなか小用こように起きたあと、手を洗うために、潜戸くぐりどを開けると、狭い中庭のすみに、壁をしつけるようないきおいで立っている梅の古木の根方ねがたが、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらすいとまもないうちに、すぐ潜戸をめてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらいあざやかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側えんがわに立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓りんかくを具えている鼻、人並ひとなみより大きい二重瞼ふたえまぶちの眼、それから御沢おさわという優しい名、――私はただこれらを綜合そうごうして、その場合における姉の姿を想像するだけである。


潜戸

勤王 江戸末期、佐幕派に対し、天皇親政を実現しようとした一派
佐幕 幕末、江戸幕府を支持した一派
一番目の姉 漱石の兄弟は、先妻「こと」の子供として「(さわ)」「(ふさ)」の漱石の姉2人と、後妻の「千枝」の子供として、大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直短)の兄3人がいました。一番目の姉なので「沢」です。「沢」と漱石とは21歳も違っていました。房は17歳年上でした。
潜戸 門の扉などに設けた、くぐって出入りする小さい戸口。 切り戸。くぐり
根方 木の根もと。下部
歯を染めた 歯を黒く染める習俗。お歯黒ともいいます。鉄くずを焼いて濃い茶に浸し、酒などを加えて発酵させた液で歯を染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしでした。
娘盛り 若い女性として最も美しい年ごろ。
御沢 姉は「さわ」です。

 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念けねんが起った。それで彼女は思い切ってまた切戸きりどを開けて外をのぞこうとする途端とたんに、一本の光る抜身ぬきみが、やみの中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身をあと退いた。そのひまに、覆面をした、龕灯提灯がんどうぢょうちんげた男が、抜刀のまま、さい潜戸から大勢うちの中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数にんずはたしか八人とか聞いた。

龕灯提灯切戸 潜戸と同じです。
抜身 鞘(さや)から抜いた刀
龕灯提灯 強盗(がんどう)提灯とも書き、銅やブリキで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えません。
抜刀 刀を鞘から抜くこと。その刀

 彼らは、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
 その事があって以来、私の家では柱をくみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束くろそうぞくを着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組きりくみにしてある柱かまるで分らなくなっていた。

軍用金 軍事上の目的で使う金銭。軍資金。幕末期に軍用金調達のための強盗や強迫事件は多かったといいます
小倉屋 酒屋。生け垣を隔てたお隣同士でした
不精無性 いやいやながら。現在は「不承不承」と書く
小判 江戸時代における金貨。
切り組 材木を切り組むこと。材木などを切って組み合わせる仕組み

 泥棒が出て行く時、「このうちは大変しまりの好いうちだ」と云ってめたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。
 私はこの話をさいから聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

締りの好い 倹約家。しまつや。
茶受話 茶飲み話

漱石公園と猫塚|早稲田

文学と神楽坂

 最初は昭和3年(1928)に立てられた一代目の猫塚です。まず夏目漱石氏が詠んだ句は

 此の下に稲妻起る宵あらん(句番号2085。猫塚の裏に書いた句)
 ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚(句番号2380)
 吾猫も虎にやならん秋の風(句番号2518)

 猫塚「吾猫も…」の猫は「吾輩は猫である」の猫と同じ猫かはわかりません。

 夏目伸六氏の『父・夏目漱石』で「猫の墓」についてこう書いています。

 一代目の猫塚 漱石公園確かに、この石塔は、私の母が、初代の猫を弔うために建てたのだけれど、実際を云うと、この猫だけを供養する積りで建てた訳ではないのである。というのも、今でこそ、戦火に焼かれて、その石面は、見分けのつかぬほどに焼けただれてはいるけれども、以前は、台石の表面に、猫をはさんで、犬と文鳥の3つの像が、仲良く刻み込まれていたのである。

 一番目の塔は3つの像はあったといいますが、下のほうが何かがあったのでしょうか、何も見えないように見えます。ただし、いまあるものよりも立派な9重の塔で、屋根のむくりもあります。より荘重で、より墓らしい場所なのでしょうか。

 母が、猫と犬と文鳥の遺骨を、1つにまとめて、すでに朽ちかけた墓標の代りに、九重の石塔を建てたのは、丁度、初代名無しの十三回忌にあたる年で、その台石の正面には、津田青楓さんの筆で、猫と犬と文鳥の像が、三尊式に、並んで彫りつけられていたのである。

 ところが第2次世界戦争で大空襲になり、どこを見ても塵や灰だという状態になります。このとき、猫の塔は

(第2次世界大戦の跡で)その眼に、空襲当夜のすさまじい火焔と熱気を、まざまざと石面に刻んで、すっかりぼろぼろに、周囲の欠け落ちた猫の塔だけが、未だに倒れもせず、夕日を浴びて、隅の方に立っているのが眺められた。

 現在の猫塚は二代目です。25年後の昭和28年、再度建立しています。

現在の猫塚 漱石公園

 これで、荘重さはどこにもなく、墓らしくない場所になりました。新宿区の職員がつくったものでしょうか。

 では1代目の猫塚の重要性といえば…1代目の猫の13回忌で夏目鏡子氏がつくったもの。不要性は…「吾輩は猫である」で有名な猫の死体がないこと。

 本来の猫塚では困る点は…まあそうだよね、どうせ嘘だからと、しらけた気分になる。本来の猫塚で困らない点は…まあそうだよね、どうせ嘘だし、それもいいんじゃないの。

 これまではほかを見るといっても他に見る物はなかったのが問題でした。2017年には張りぼての書斎と客間ができてきます。でも心の奥深くに猫塚は嘘だという叫びも実際ありますね。

 まあ、「今回は」嘘の猫塚でもいいんじゃないの。「将来は」変更の可能性を探る。と、これはいかにも大人で、まあこれも嘘だな。

[硝子戸]
[漱石雑事]

漱石と『硝子戸の中』16

文学と神楽坂

 十六

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪をつて貰った事がある。
 平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子ガラスの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻つて、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむか寺町郵便局そばに店を持つて、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。
高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」
その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知つてるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、つて贔屓ひいきにして下すったもんです」
 彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声をげた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」
「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

宅の前 うちはこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。2つの説があるわけです。
M40

 一番の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園が始まります。

 その先の坂を下りかけた左手が区立漱石公園。ここは「漱石山房」…漱石が最後に住んだ住居跡で(家は貸家だった)、中央に、漱石の胸像、右手後ろに石を積み重ねた猫の墓がある。これは漱石の死後、鏡子夫人が『吾輩は猫である』の主人公や犬、文鳥などを供養するために建て、戦災で焼けたのを修復したもの。これだけが当時をしのぶよすがとなっている。
 ここで漱石は『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』などを次々執筆した。木曜日には弟子たちが集まって山房は文学サロンとなった。でも、園内はひと気もなくそんな面影はない。「漱石終えんの地」という文字ももの悲しい。本来なら漱石記念館などあってしかるべきなのに。
 門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。
“宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度其処で髪を刈ってもらった事がある。”
 見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」

 第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり

 当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。

 第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと

“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
(中略)
 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。

と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっていて、橋はなくなっていた場所が弁天橋の場所でした。

小川 名前がついています。「加二かに川」です。

金巾(かなきん) 平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
金巾
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺とおりてら町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺よこてら町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
T11郵便局
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・(ふさ)の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。

「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉をぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝ひ物なんかあつて、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたつけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
成金横丁
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
古老の地図 寺内(じない)へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作(かさく))でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋(たび)屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝さんかつ」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…

誰袖や待合らしき春の雨
(岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。)

東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

道草庵|漱石公園

文学と神楽坂

道草庵(みちくさあん)は漱石や山房の資料を展示しています。
正面には漱石の書籍が復刻本で7冊並んでいます。
復刻本
7冊について「春陽堂刊行『複製品』 夏目漱石著  橋口五葉 装丁」は全部同じです。

1.(うずら)(かご)   明治40年(1907)1月
『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』の三篇を収めています
2.(くさ)(あわせ)   明治41年(1908)9月
朝日新聞に連載された『坑夫』と、「ホトトギス」に発表した『野分』の二篇を収めています
3.()()(じん)(そう) 明治41年(1908)1月
朝日新聞社に入社して最初に書いた作品です。連載中に、ここ漱石山房に転居して来ました。
4.(さん)()(ろう)  明治42年(1909)5月
『それから』『門』へと続く三部作の第一作。一人の青年を通じて当時の欧化主義を批判して注目されました。
5.()(へん)   明治43年(1910)5月
『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところヾ』という四篇の短篇や紀行文を収めています。
6.(もん)    明治44年(1911)1月
親友の妻を奪った主人公・宗助は、易者に過去の罪を指摘され驚きます。人の心の中に内在する罪の意識を描いた作品で、題名は小宮豊隆が命名しました。
7.()(がん)(すぎ)(まで) 大正元年(1912)9月
明治43年8月の修善寺の大患(胃潰瘍)を克服し、療養生活から復帰した漱石が、約2年ぶりに執筆した長篇小説。春陽堂からは最後の出版となりました。

橋口はしくち五葉ごようは版画家・装丁家で、明治14年(1881)~大正10年(1921)。 本名 橋口清。鹿児島市生まれ。鹿児島中学卒業後上京し、橋本雅邦に入門します。黒田清輝の白馬会研究所で洋画を学び、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二らに師事しました。明治37年10月から、熊本で漱石に師事した実兄・橋口貢の推薦で「ホトトギス」に口絵・挿絵を掲載。翌年2月に『我輩は猫である』続編で挿絵を担当して漱石から賞賛され、単行本や「漱石山房」の原稿用紙のデザインを手掛けました。

また、壁のボードの正面は5枚並んでいます。左から
1.新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
2.主な作品
3.夏目漱石の生涯
4.漱石山房に集った人々
5.漱石山房に集った人々

新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
日本を代表する文豪「夏目漱石」は、慶応3年(1867)に牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)に名主の末子として生まれました。松山・熊本、英国留学など経て、大正5年に現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で生涯をとじました。
英国留学を終えて帰国後、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などを発表し、山房に移ってから「三四郎」や「それから」「門」「こころ」、そして最後の作品となる「明暗」(未完)など多数の作品を執筆しました。
山房は空襲で全焼し、現在、その跡の一部が漱石公園となっており、猫塚や漱石の胸像などがあります。
2007年に夏目漱石の生誕140年を迎えるにあたり、新宿ゆかりの文豪「夏目漱石」と、住まいとなった「漱石山房」を皆様にご紹介したします。
主な作品
発表年  執筆年齢     作品
1905年   37歳     『我輩は猫である』
      37歳     『倫敦塔』
1906年      39歳     『草枕』
      39歳     『坊っちゃん』 
       39歳     『二百十日』
1907年   39歳     『野分』
漱石山房で執筆した作品 
*漱石が早稲田南町の家(のちの漱石山房)に引越したのは、1907年9月。
       40歳     『虞美人草』  
 1908年   40歳     『坑夫』    
        41歳     『夢十夜』   
        41歳     『文鳥』    
        41歳     『三四郎』   
 1909年    42歳     『それから』  
 1910年   43歳     『門』     
 1912年   44歳     『彼岸過迄』  
          45歳     『行人』    
 1914年   47歳     『こころ』   
 1915年   47歳     『硝子戸の中』 
       48歳     『道草』    
 1916年   49歳     『明暗』(未完)

夏目漱石の生涯。ここにはいろいろな活動を書いていますが、ここは写真だけ。(ダブルクリックで拡大)。テキストは別のHTMLで。

「漱石山房に集った人々」は2つに分けてリストされます。

高浜虚子  たかはま きょし   明治7年~昭和34年(1874~1959)
俳人・小説家     愛媛県松山市出身
伊予尋常中学校で級友の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事し、虚子の号を与えられる。明治30年、松山で創刊された俳句雑誌『ホトトギス』の経営を引き継ぎ、翌年東京に移る。漱石との親交は続き、神経衰弱に悩む漱石に小説を書くことを勧めたのも虚子であった。こうして「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、『ホトトギス』に発表された。
寺田寅彦  てらだ とらひこ   明治11~昭和10年(1878~1935)
物理学者・随筆家   東京市麹町区(現、千代田区)出身
熊本の第五高等学校時代の教え子で、漱石の新婚家庭を訪ねて俳句の手ほどきを受けている。明治32年、上京し東京帝国大学物理学科に入学。卒業後は物理学者として活動するかたわら、科学と文学を調和させた随筆を数多く発表している。漱石の最古参の弟子であり、『吾輩は猫である』の寒月のモデルにもなっている。
小宮豊隆  こみや とよたか   明治17~昭和41年(1884~1966)
評論家・ドイツ文学者 福岡県京都郡犀川村(現、みやこ町)出身
明治38年、東京帝国大学独文科入学時に、従兄の紹介で漱石を訪ね、以後親交を結ぶ。卒業後は漱石の紹介で、森田草平らとともに朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。漱石没後は全集の編纂に携わり、また、東北大学教授・附属図書館長として漱石文庫の受入れに尽力した。これにより漱石の蔵書は戦災を免れることができた。
森田草平  もりた そうへい   明治14~24年(1881~1940)
小説家        岐阜県稲葉郡鷺山村(現、岐阜市)出身
東京帝国大学英文科卒業。明治38年に発表した処女作『病葉』の感想を漱石に求めたのをきっかけに漱石門下となる。明治41年3月、草平は平塚明子(雷鳥)と塩原で心中未遂を起こした際、漱石は草平を自宅に迎え、醜聞の渦中から彼を守った。この体験を書いた小説『煤煙』は、朝日新聞の「文芸欄」第一回に掲載された。

鈴木三重吉  すずき みえきち  明治15~昭和11年(1882~1936年)
小説家・児童文学者 広島県広島市出身
東京帝国大学英文科卒業。在学中に自作「千鳥」を漱石に送り、その推薦により『ホトトギス』に掲載されたことを機に漱石門下となる。多忙な漱石に「木曜会」を提案したのは彼であった。大正7年、児童文学誌『赤い鳥』を創刊、児童文学運動をリードした。
安部能成   あべ よししげ   明治16~昭和41年(1883~1966年)
評論家・哲学者   愛媛県松山市出身
第一高等学校で漱石に師事し、東京帝国大学哲学科卒業後、森田草平・小宮豊隆らと朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。後に第一高等学校校長、文部大臣、学習院院長を務める。喜久井町の漱石生誕の地の記念碑の題字は、能成の筆によるものである。
内田百閒   うちだ ひゃっけん 明治22~昭和46年(1889~1971年)
小説家・随筆家   岡山県岡山市出身
第六高等学校在学中に『老猫』という作品を漱石に送り、評価される。東京帝国大学独文科在学中、長与胃腸病院に入院中の漱石を訪ね、木曜会への出席を許される。
和辻哲郎   わつじ てつろう  明治22~昭和35年(1889~1960年)
哲学者・文化史家  兵庫県神崎郡仁豊野(現、姫路市)出身
第一高等学校時代には、教室の窓の外から授業を聞くほど漱石に心酔した。東京帝国大学哲学科卒業後、漱石門下となる。『古都巡礼』『風土』などの著作で知られる。
芥川龍之介  あくたがわ りゅうのすけ 明治25~昭和2年(1892~1927年)
小説家       東京市京橋区(現、中央区)出身
大正4年、漱石の死の前年に、東京帝国大学英文科の同級生である久米正雄と共に漱石山房を訪れる。漱石は『鼻』を絶賛し、龍之介を感動させた。

高浜虚子を除き、全員東京帝国大学の生徒です。安部能成は文部大臣(これは驚き)や学習院院長を勤めあげています。 右側の壁には「猫塚」と「漱石山房」、「『漱石山房』に関する新宿区の取組み」が出てきます。

猫塚(ねこづか)
漱石没後の大正8年(1919)、『吾輩(わがはい)は猫である』のモデルとなった猫の十三(じゅうさん)(かい)()にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔(くようとう)。『文鳥』という作品で、その死が描かれた文鳥など、夏目家のペットの合同供養塔であった。
九重の層塔(そうとう)で、意匠(いしょう)は漱石作品の装丁(そうてい)も手がけた画家の津田(つだ)青楓(せいふう)による。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元(ふくげん)されたものである。
猫塚を清掃する早稲田小学校の児童たち(昭和42年12月9日)
「猫塚」復元除幕式
この写真は、昭和28年(1953)12月9日、漱石山房跡(現在の漱石公園)で行われた「猫塚」復元除幕式の様子を撮影したフィルムから構成したものです。戦災で倒壊した猫塚が、漱石の37回目の命日に再建されたもので、式典には鏡子夫人や長男の純一氏、弟子の小宮豊隆・安部能成らが出席しており、その姿がフィルムに収められています。
夏目(なつめ) 鏡子(きょうこ) 明治10~昭和38年(1877~1963)
夏目漱石の妻。戸籍(こせき)名はキヨ。貴族院書記官長・中根(なかね)重一(じゅういち)の長女として広島県に生まれる。
明治28年(1895)漱石と見合いをし、翌年熊本の第五高等学校に赴任(ふにん)していた漱石と結婚した。2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうける。漱石の没後、夫との生活ぶりを口述(こうじゅつ)し、長女・筆子の夫で漱石の弟子でもあった松岡(まつおか)(ゆずる)筆録(ひつろく)した『漱石の思い出』が出版されている。
漱石山房
夏目漱石は、明治40年(1907年)、早稲田南町に引越してきました。漱石は、この場で多くの有名な作品を生み、大正5年、49歳で「明暗」執筆中に亡くなるまで住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を「漱石山房」といいます。
「漱石山房」の家はベランダ式の回廊のある広い家で、奥に板敷きの洋間がありました。漱石は、この洋間に絨毯を敷き紫壇の机と座布団をしつらえて書斎としていました。
漱石は面会者がとても多かったので、面会日を木曜日と決め、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け入れました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所となり、漱石没後も彼らの精神的な砦となりました。
「漱石山房」の変遷と漱石公園の整備

 

3.「猫塚」復元除幕式の映像。ビデオです。見たい場合は頼んでみましょう。約20分。漱石号
漱石山房の小冊子4.小冊子。「漱石山房秋冬」と「漱石山房の思い出」はただでもらえます。ただし、残りは僅かだと聞いています。

神楽坂の通りと坂に戻る

漱石と『硝子戸の中』19

文学と神楽坂

十九

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴすみの方にあったに違ないのである。

馬場下 馬場下町で、東京都新宿区の町名です
宿場 江戸時代、街道の要所要所にあり、旅行者の宿泊・休息で宿屋・茶屋や、人馬の継ぎ立てをする設備をもった所。
高田の馬場 東京都新宿区の町名
朱引 江戸の図面に朱線を引いて、府内(江戸市内)と府外(郡部)を分けたもの。朱引内は江戸の管轄内、朱引外は管轄外です。馬場下はかろうじて朱引内(江戸市内)になっています(図)。一方、高田の馬場は朱引外です。

馬場下

それでも内蔵くらづくりうちが狭い町内に三四軒はあつたろう。坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。それから坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。その御蔭おかげで私はとうとう「旅のころも篠懸すずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
近江屋 『吾輩は猫である』第7章でも「近江屋」は登場します。『猫』に出てくる爺さんの言葉を引用すると…

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした」
御北さん 『草枕』では「御倉さん」として登場します。

小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

内蔵造 土蔵づくりの家。土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った家屋。倉のように四面を壁で作った家屋。
薬種屋 薬を調合・販売する店。平成21年施行の改正薬事法で登録販売者制度が創設し、薬種商制度は廃止に。
小倉屋 延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694年)、二代目半右衛門の頃、堀部安兵衛は高田馬場の決闘の前に、小倉屋に立ち寄り升酒を飲みました。
渡辺翠氏の「高田馬場の仇討」では、江戸時代、米の酒は奈良でしか作られず、江戸では1升3万円かかったそうで(若松地域センター「地域誌 このまちに暮らして」平成9年)、芋酒を飲んだといいます。またこの升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
倉造り 土蔵づくりの家。内蔵造と同じ。
堀部安兵衛 赤穂事件四十七士のひとり。
枡酒 枡に盛って売る酒
長唄 古典的な三味線歌曲
篠懸 修験者(しゅげんじゃ)が衣服の上に着る麻の法衣。この文言は長唄「勧進帳」の歌い出しです。

このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋かじやも一軒あった。少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ、、、だのがれん、、、だのという符徴ふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうが茄子なすとう茄子のかごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

八幡坂

棒屋 樫材の木工品を作る家。臼、まな板のみならず、大型水車や荷車も作りました。木工品ならなんでもつくったようです。
鍛冶屋 金属を打ち鍛え、諸種の器具をつくることを仕事とする人
八幡坂 高田町の坂。馬場下町から西北に向かいます。西に穴八幡神社があります。下は馬場下町と穴八幡幡神社を地下鉄早稲田駅前から見たものです。八幡坂
やっちゃ場 青物市場のこと。「大言海」(昭和7-10年)によれば「やっちゃば」は「やさいいちば」から訛ったものではないかという。
貞水 講釈師真龍斎貞水のこと
矢立 矢立(すずり)と筆を一つの容器におさめた筆記用具。
ろんじ 六の合い言葉
がれん 五の合い言葉

 どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。その豆腐屋には油のにおいんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門のうしろは、深い竹藪たけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめかねは、今でも私の耳に残っている。ことにきりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。
豆腐屋 『二百十日』では圭さんの幼時の経験として出てきます。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋とうふやがあってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」(中略)
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆をうすく音がする。ざあざあと豆腐の水をえる音がする」
しょう 鉦中国・日本・東南アジアなどで用いられる打楽器。銅や銅合金製の平たい円盤状で、撞木しゅもくばちで打ちます。カンカンと鳴るようです。

ふたたび『二百十日』の圭さんの幼時の経験です。

「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪おおたけやぶばかり見えて、本堂も庫裏くりもないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんとかすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、しもが強く降って、布団ふとんのなかで世の中の寒さを一二寸の厚さにさえぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃いしだたみと、倒れかかった山門さんもんと、山門をうずめ尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかをのぞいた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具のうち海老えびのようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」

縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。転じて、居酒屋・一膳飯屋などのこと。
門口 家や門の出入り口
西閑寺 喜久井町にある誓閑寺のこと。今では小さな小さな寺になっています。誓閑寺の梵鐘は天和2年(1682)製作。区内最古の梵鐘です。文化財は2つあります。
御勤 おつとめ。御勤め。仏前で読経すること。勤行ごんぎよう

誓閑寺

漱石と小倉屋|牛込馬場下

文学と神楽坂

 牛込馬場下の()(くら)()は酒店で、延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下のつじで開業しました。
堀部安兵衛の酒升

 元禄7年(1694年)、小倉屋は2代目で、堀部安兵衛は小倉屋に立ち寄り、升酒を飲み、高田馬場の決闘に急ぎました。米の酒は奈良でしか作られない江戸時代、1升は今の金額で3万円。そこで芋酒を飲んだといいます(平成9年、渡辺翠氏『高田馬場の仇討』、若松地域センター『地域誌 このまちに暮らして』)。また堀部安兵衛の升は現在まで帛紗ふくさに包まれて貸金庫に保管されているそうです。
 う~ん、升に残った芋焼酎も金庫にねむっているわけで、なにか立派になった気がします。

 四つ辻。十字路
帛紗 方形の絹布。進物の上にかけたり物を包んだりする。茶の湯では、道具をぬぐったり盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。

 さて『吾輩は猫である』第7章では「近江屋」が登場します。

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした

 また、1907年(明治40年)の『僕の昔』では「小倉屋」がでています。

父親おやじは馬場下町の名主なぬしで小兵衛といった。別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、あの交番――喜久井町きくいちょうを降りてきた所に――の向かいに小倉屋おぐらやという、それ高田馬場の敵討あだうちの堀部武庸たけつねかね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいうますを持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家いえがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。

 1915年(大正4年)の『硝子戸の中』14でも「小倉屋」がでています。

(泥棒)は、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金をせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
(略)その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。

『硝子戸の中』19でも小倉屋は登場します。

坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。

吟醸酒

 なお、小倉屋にはこれ以外のほかのアルコールもはいっています。特筆するものは、ここの商店会連合会の「地ビール早稲田」、早稲田大学・京都大学の「ホワイトナイル」ビール、「ブルーナイル」ビール、吟醸酒「夏目坂」と吟醸酒「高田馬場 堀部安兵衛」などです。

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小倉屋

文学と神楽坂

漱石と『硝子戸の中』20|矢来町

文学と神楽坂

      二十

この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤いすじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男のうちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし 花魁おいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込むやいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになって落語家はなしかのやる講釈師真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

人寄場 日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。
鳶頭 土木・建築工事に従事する人の長、かしらです。明治以降も消防職員の俗称として使われました。
目暗縞 経糸緯糸とも紺染めにした最も細かい綿糸で織った無地の木綿の織物です。
印袢纏 襟・背などに,家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から,職人などが着用しました。
めくらじまと半纏
突っかけ草履 草履を足の指先にひっかけるようにして無造作に履くこと。
しもうた屋 仕舞た屋 (シモタヤ)と同じ。商店でない、普通の家。
南麟 講釈師の田辺南麟
見当 大体の方向・方角
道普請 道路を直したり、建設したりすること。道路工事
家並 立ち並んでいる家。その並び方。家ごと。どの家もみな。軒並み。よその家と同じ程度。世間なみ。
もうし 申し申し。もうしもうし。人に呼びかける時に用いる語。もしもし。
花魁 吉原遊廓の遊女で最高妓。広く遊女一般を指して花魁ということもある。
八ツ橋 元禄年間(1688~1704)百姓次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を殺した事件があった。多くの講談や戯曲になった。岩波書店の漱石全集によれば、「野州(栃木県)佐野の百姓次郎左衛門が江戸吉原大兵庫屋の花魁ハツ橋を殺害した江戸享保頃の事件は、『佐野八ツ橋』と称されて多くの小説や戯曲に作られた。ここで述べられているのは、その話を講談に仕組んだもの。歌舞伎脚本『籠釣瓶(かごつるべ)花街(さとの)酔醒(ゑひざめ)』(三世河竹新七作。明治二十一年初演)が有名。」
講釈師 軍談や講談の講釈を職業とする人。講談師。軍談師。小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げること

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂あがって酒井様の見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。

矢来の坂  もちろん、牛込天神町交差点から東に上がって南に牛込中央通りがでるまでの通りですが、ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では違ったことが書いてあります。

滝の坂(たきのさか) 早稲田通から榎町四〇と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。現矢来町一帯は、江戸時代は小浜藩主酒井氏の邸地で、明治維新後に分譲されて住宅地帯となった。……矢来の坂というのは現早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。

 しかし、子供の漱石が「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出よう」とする場合、滝の坂だとすると方向は全く違います。やはり矢来の坂というのは現早稲田通り、交差点「牛込天神町」の坂のことでしょう。これから上に行って酒井様の火の見櫓を通るのでしょう。
矢来町 歴史 江戸時代
交差点「牛込天神町」
酒井様の火の見櫓 どこにあったのでしょうか。江戸時代の地図(上を見て下さい)を見ると、まず穴あき四角で書いたものは「自身番屋」です。自身番は町内警備と火の番を主な役割としています。火の見櫓もここに建てました。その後の文章で「町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった」を読んでも、ここ「自身番屋」でしかありません。自身番屋は末寺横丁と矢来下の交叉するところにありました。
寺町 「とおり寺町」と「横寺町」の2つをまとめて呼びます。ただし、通寺町を簡易にして寺町と書く場合もあったようです。自身番屋を越えると、まっすぐだと通寺町から神楽坂に行き、右に曲がると横寺町です。漱石の時代では通寺町ですが、今では通寺町は神楽坂6丁目に名前が変わっています。なお、自身番屋の左側は「矢来町」、右側は「通寺町」です。
五六町の一筋道 5町は545メートル、6町は655メートルです。交差点「牛込天神町」から真っ直ぐ行って曲がるまで、つまり音楽の友ホールの前で曲がるまで、約470メートルです。現在は早稲田通りの道幅は大きくなって、さんさんと太陽が照り、陰惨ではないでしょう。しかし、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)ではこう書いています。

酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったか、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治三十五年九月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。”

矢来町 漱石 現代

あの土手の上に二抱ふたかかえ三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿いて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。
 そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かなという句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

HinomiYagura_06g4599sx日和下駄 もとは平足駄ひらあしだと呼んで、歯が低い足駄。晴天に使用された。
半鐘 火の見櫓ではよく見られる小型の釣り鐘。
一膳飯屋 一膳飯(盛り切りの飯)を食べさせる簡易食堂。
縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。なわのれん。店先に縄暖簾を下げたところから、居酒屋や一膳飯屋などのこと
煮〆 にしめ。煮染め。根菜・いも類・干ししいたけ・鶏肉・高野豆腐・こんにゃくなどに、しょうゆを主に砂糖・みりんなどで味つけした煮汁をしみ込ませ、煮汁の色がつくまで時間をかけて煮た、味の濃い煮物。おせちにも使う。
 おもむき。風情(ふぜい)のある様子
半鐘と並んで高き冬木哉 明治29年(1896)の作。

鏑木清方と矢来町

築地明石町

「築地明石町」の一部

文学と神楽坂

 鏑木(かぶらき)清方(きよかた)は生年は1878年(明治11年)8月31日、没年は1972年(昭和47年)3月2日で、死亡日は94歳でした。明治から昭和期の日本画家、兼浮世絵師でした。
 大正15年(48歳)からは矢来町に住み、昭和2年、最高の名作『築地明石町』で帝国美術院賞を受賞します。しかし、昭和20年(67歳)、空襲で家をなくし、鎌倉に移っていきます。
 さて矢来町の住所はどこにあったのでしょうか。鏑木清方自身が書いた『続こしかたの記』(中央公論美術出版)では

 この所在は神樂坂から(とほり)寺町(てらまち)を経て、道はやがて北へ下りて矢来下に續かうとするところに交番が立つ。矢来の交番は、この付近の目標になった。その一と小路手前を左へ折れると道はやがて小高く、その右側北下りの(がけ)上に立つのがわか家である。明治建築の洋風の應接室、それに續いた二階座敷が庭樹を越して通りから見られる。その建物とのつりあひはよく取れるが、私の住居としてはふさはしからぬ花崗(みかげ)石の大きい門柱が聳え立つので、わか家を訪ねる人の多くがこの石門を話題にした。台湾銀行理事久宗(ただす)の舊邸であって見れば無理はないが、どういふものか私は石の門柱に縁があって、それまで住んだ龍岡町の借家にも細いけれどやはり御影の石柱が立ってゐた。中外商業の記者外狩素心庵は矢来の家の門柱を気にして一文をかいたこともある。

 通寺町は神楽坂6丁目に変わりました。交番は現在も同じ場所にあります。
鏑木清方と矢来町崖

 その一つ前を曲がって、左側に行き、やがて崖になるところは赤で示しました。写真も出しています。
 地図の上から下に説明しているので、鏑木氏の住宅は道路の西側(左側)になります。崖の直上と書いていますので、地図上では現在の雨森歯科の「雨」の下にあるのでしょう。もしこの住宅が本当にそうだとすると、説明板をつけるとか、できなかったのでしょうか。(令和になってようやくができました。)なお、地図の下の「山里」とは当時使った(あざ)(市町村内を細分した区画の名)です。

漱石と『硝子戸の中』21

文学と神楽坂

二十一

私の家に関する私の記憶は、そうじてこういう風にひなびている。そうしてどこかに薄ら寒いあわれな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間こないだ、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出はでな暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
 その頃の芝居小屋はみんな猿若町さるわかちょうにあった。電車もくるまもない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半よなかに起きて支度したくをした。途中が物騒ぶっそうだというので、用心のため、下男がきっとともをして行ったそうである。
 彼らは筑土つくどを下りて、柿の木横町から揚場あげばへ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期にちた心をもって、のろのろ砲兵工厰ほうへいこうしょうの前から御茶の水を通り越して柳橋までがれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。

猿若町 江戸末期の芝居町。現在の東京都台東区浅草6丁目。ここには江戸三座(中村座、市村座、森田座)を初めとして常設の芝居小屋がありました。しかし明治政府は三座に移転を勧告し、関東大震災でほぼなくなります。
浅草の観音様 東京都台東区にある浅草寺(せんそうじ)の通称
きっと 屹度、急度。話し手の決意や強い要望などを表す。確かに。必ず。
明治8年の揚場 筑土 東京都新宿区にある地名。津久戸(つくど)町なのか、または筑土(つくど)八幡町なのか、明治8年の地図のように「つく土前丁」なのか、はたまた、大まかにここいら全体を指すのでしょうか。おそらく全体を指すのでしょう。
柿の木横町 『新宿区町名誌』では「(揚場町と)下宮比町との間を俗に柿の木横町といった。この横町の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があった。幹の周囲一メートル、高さ十メートルの巨木で、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞讃したので有名になり、そのことから名づいた」
揚場 船荷を陸揚げする場所。以上を明治8年の地図を使って書いています。
砲兵工厰 陸軍造兵廠の旧称。陸軍の兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した軍需工場。東京砲兵工厰は広大な土地を所有し、高速道路の飯田橋を越えたところから、白山通りの水道橋交差点まで川から見えるものはすべて砲兵工厰でした。このなかには小石川後楽園もはいっていました。しかし一般には公開されず、国家的な慶事の場合や、公的な園遊会の場合にのみ使っていました。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は後楽園球場となりました。 砲兵工厰
御茶の水 東京都千代田区北部(神田駿河台)から文京区南東部(湯島)にかけての地名。行政名ではありません
柳橋 東京都台東区南東部の地名。柳橋はAで書いてあります。ようやく船の中間地点になったのです。柳橋は船宿があり、芸者町でもありました。
全行程

大川へ出た船は、流をさかのぼって吾妻橋あずまばしを通り抜けて、今戸いまど有明楼ゆうめいろうそばに着けたものだという。姉達はそこからあがって芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間たかどまに限られていた。これは彼らの服装なりなり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。

大川 東京都を流れる隅田川で吾妻橋から下流の通称
吾妻橋 隅田川に架かる橋のひとつ
今戸 東京都台東区北東部の地名。隅田川西岸の船着き場として栄えました。
浅草猿若町有明楼 今戸橋のたもとにありました。成島柳北『柳橋新誌』(刊行は1940年)では

 江戸の開府以来、都下の名妓で容色は絶倫、技芸にも通ぜざるなく、名を草紙紙に伝え、跡を芝居に残すものは数知れぬほど多い。しかし、現今はしからず、一統みな拮抗して、一人として群を越えて抜きんでた女人がいない。 強いて一人を挙げてみれば、両国橋東のお菊といえようか。かれに傾国の容色、絶世の技芸があるわけではない。かよわい女手で隅田川の西に宏大な料亭を営み、扁額をあげて有明楼という。有明楼の名は都下に鳴り響いている。豪興の士も風流の客も、この楼閣に遊ばぬものはない。

芝居茶屋 江戸から明治・大正期まで劇場付近で観劇客に各種の便宜を供した施設。江戸の芝居見物は早朝から夜までかかり幕間も長く、快適な観劇を望む客は多く茶屋を利用しました。また桟敷などで観劇するためには茶屋を通すほかなかったといいます。芝居茶屋の構造は2階建て。軒にのれん,提灯がかかり,内部の座敷が表から見える造りになっています。観劇のため早朝芝居茶屋に到着した客は休憩後茶屋の草履をはき劇場の桟敷席に案内しました。
高土間 観客席が(ます)形式の時代の劇場では1階の東西桟敷の前通りに、土間より一段高く設けられた席。

幕の間には役者にいている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬ちりめんの模様のある着物の上にはかま穿いた男のあといて、田之助たのすけとか訥升とっしょうとかいう贔屓ひいきの役者の部屋へ行って、扇子せんすなどをいて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄みえだったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
 帰りにはもと来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心ぶようじんだからと云って、下男がまた提灯ちょうちんけてむかえに行く。うちへ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半よなかから夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
 こんな華麗はなやかな話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
 もっとも私の家も侍分さむらいぶんではなかった。派出はで付合つきあいをしなければならない名主なぬしという町人であった。私の知っている父は、禿頭はげあたまじいさんであったが、若い時分には、一中節いっちゅうぶしを習ったり、馴染なじみの女に縮緬ちりめん積夜具つみやぐをしてやったりしたのだそうである。青山に田地でんちがあって、そこから上って来る米だけでも、うちのものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米をく音を始終しじゅう聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関げんか玄関ととなえていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒つくぼうや、袖搦そでがらみ刺股さつまたや、また古ぼけた馬上ばじょう提灯などが、並んでけてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

ちりめん田之助 三代目沢村田之助。歌舞伎俳優。1845~78年。人気役者でした。
訥升 三代目沢村訥升。歌舞伎俳優。1838~86年。
侍分 武士階級
名主 領主の下で村政を担当した村の長。身分は百姓だが、在地有力者が多い
一中節 三味線の一流派。浄瑠璃節の一種。
縮緬 表面に細かいしぼ(凹凸)のある絹織物
式台1積夜具 遊郭で、馴染(なじみ)客から遊女に贈られた新調の夜具を店先に積んで飾ったもの
三番目の兄 直矩(なおたか)です。9歳年上。捕具
式台 玄関先に設けた板敷きの部分
玄関付の家 江戸時代、町人階級では名主だけが玄関を作ることを許されていた。
突棒、袖搦、刺股 捕手(とりて)が下手人を捕らえるために使った3つ道具。捕具
馬上提灯上提灯 乗馬で使う提灯。丸形で、腰に差すように長い柄がある

矢来屋敷 矢来公園 石畳と赤城坂[昔] 駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 魚浅 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 寺内公園 神楽坂5丁目 4丁目 3丁目
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漱石と『硝子戸の中』23

文学と神楽坂

二十三

 今私の住んでいる近所に喜久井町きくいちょうという町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪ひょうろうして帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来ねごろの方まで延びていた。

喜久井町 東京都新宿区の町名。新宿区ではかなり大きな町で、早稲田から柳町に行く場所のほぼ半分を占めています。昭和22年の地図で見れば、右下は「市谷柳町」で、それから左上に行くと、「原町」の「1丁目」、「辨天町」(現在は弁天町)があり、その上に「喜久井町」、夏目坂を通り、「馬場下町」、それから「高田町」に行きます。なお、現在は「高田町」はありません。
喜久井町
私の生れた所 酒店・小倉屋を南東に向かって歩くとすぐに「夏目漱石誕生之地」の石碑があります。
漂浪 さまよいあるくこと。放浪
根来 江戸時代には弁天町と原町1丁目の代わりに根来町があり、そこには根来組という先手組屋敷があり幕府の鉄砲隊の1つでした。現在は新宿区弁天町と原町1丁目の一部で、南東部にあります。これは江戸末期の牛込弁財町絵図です。
根来町

 私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出すなつかしい響を私に与えてくれない。しかし書斎にひとり坐って、頬杖ほおづえを突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想れんそうが、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく彽徊(ていかい)し始める事がある。

縁故 えんこ。血縁や姻戚などによるつながり。人と人とのつながり。よしみ。縁
彽徊 一つの事をつきつめて考えずに、余裕のある態度でいろいろと思考すること。

 この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父がこしらえたものに相違ないのである。
 私の家の定紋じょうもん井桁いげたに菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものからおすわったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主なぬしがなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由もいたかも知れないが、それをほこりにした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、いやな心持はくに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。

定紋 家で定まった正式の紋
井桁に菊 図を井桁に菊

 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。

夏目坂 坂の下は早稲田通りと交わる点です。早稲田通りは都道なので、区道はそこで終わりです。
夏目坂通り

 では、坂の上は? まず区はどういっているのでしょうか。残念ながら区は「夏目坂通り」についてしかいっておらず、「夏目坂」についてはなにもいっていません。ちなみに「夏目坂通り」はここから南の若松町交差点にいたる坂道をいっています。しかし、昔の「夏目坂通り」を見ると通りの幅は狭く、途中で90度も曲がっています。

 結局、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』の122頁の図が最もいいのでしょう。これは、夏目坂通りが南に流れを変えるその地点、三叉点までを夏目坂とするものです。はい。

石川悌二書『東京の坂道-生きている江戸の歴史』122頁

 しかし、まあ、夏目坂の上をはっきり言うなんて困難なのです。坂は正確にどこで、どうやって終わるのか、わかりません。なお、夏目坂について標柱があり、説明もあります。

 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになった。

夏目坂

 私が早稲田わせだに帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居すまいに移る前、うちを探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦ふるがわらが少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表からのぞくと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板がかかっていた。私は昔の早稲田田圃たんぼが見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来ねごろ茶畠ちゃばたけ竹藪たけやぶ一目ひとめ眺めたかった。しかしその痕迹こんせきはどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当けんとうは、当っているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。

早稲田田圃 早稲田は昔田んぼが広がっていました。神田川がよく洪水をおこすので早く収穫できる早稲種を植えたといいます。この写真は早稲田の田圃と東京専門学校(のちの早稲田大学)の校舎です。

早稲田の田圃

https://www.waseda.jp/top/news/61287

茶畠 茶の木を植えた畑。茶園

 私は茫然ぼうぜんとして佇立ちょりつした。なぜ私の家だけが過去の残骸ざんがいのごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれがくずれてしまえば好いのにと思った。
「時」は力であった。去年私は高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗きれいに取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。そのそばには質屋もできていた。質屋の前にまばらなかこいをして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児きけいじのようになっていたが、どこか見覚みおぼえのあるような心持を私に起させた。むかし「(かげ)参差しんし松三本の月夜かな」とうたったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。

高田 高田町は馬場下町に接してその西北部でした。 穴八幡神社があるので有名です。 先ほど見た地図は、昭和22年に製作したので、 この地図に高田町はちゃんと載っています。 1975年(昭和50年)6月、新しい住居表示の ため消滅し、現在は西早稲田二丁目の一部に なっています。
三本の松 『草枕』の第七章にでてきます。

 小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

影参差松三本の月夜かな 漱石自身の俳句です。明治28年の作
参差 参差とは長短・高低入り混じり、ふぞろいな様子

夏目漱石誕生の地|早稲田

文学と神楽坂

 三角形の大きな石碑には「夏目漱石誕生之地」、その左側に小さく「遺弟子安倍能成書」と書いてあります。

漱石生誕の地

 また、石碑の下部には

夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者文豪として不滅の業績を残し大正5年(1916)12月9日新宿区早稲田南町七において没す 生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ

 また右側には

昭和41年2月9日
夏目漱石生誕百年記念
     新宿区建之

 また説明板もあります。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定史跡
(なつ)()漱石(そうせき)誕生(たんじょう)()
所 在 地 新宿区喜久井町一番地
指定年月日 昭和六十一年十月三日
 文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の5男3女の末子としてこの地に生れた。
 夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。
 なお、この地での幼少時代のことは大正四年に書かれた随筆『硝子戸の中』に詳述されている。
 また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
  平成3年11月
東京都新宿区教育委員会
[漱石雑事]

喜久井町|夏目漱石

文学と神楽坂

 明治20年の喜久井町の地図を見ていきましょう。相当に広く、しかも原っぱなども多くなっています。番地は1番地から36番地までが右側で、下に行くほどその番号は大きくなり、それから、道の反対側に行き、上って、37番地から67番地まで行きます。
 この番号は少なくとも東京ではありふれた付け方です。アメリカでも同じような順番です。
 喜久井町の名主は夏目家です。夏目家は1番地に住んでいました。この地図で1番地はピンクで書いてあります。

喜久井町

『まちの手帳』17号の「生家跡在住 加藤利雄さんに聞く。早稲田・喜久井町と夏目家」で谷口典子氏はこう書いています。

明治三十年に漱石の父が亡くなると、兄直矩(なおかた)は家作百五十坪を、永田町に住む天谷(あまや)永孝氏に八千二百五十円あまりで売却、神楽坂の寺内に移り住み、喜久井町と夏目家の関わりはここで途絶えた。その後、旧夏目家の母屋は下宿屋(明月館)となった。大正初年頃、その母屋が取り壊され、下宿が建て替えられつつあるのを偶然目にした漱石は、夏目家の三本の松が、変な形に刈り込まれていることに気がつき、感慨を深くしている。(中略)
昭和二十一年、国語の先生から喜久井町のどこかに漱石の生家があったことを教わり探索をはじめたのが、現在生家跡に住み、地域と漱石の絆を深める活動を続けておられる加藤利雄さんである。当時早稲田中学四年だった加藤少年は、同じ町内の友人とその場所を探すうちに、加藤家のはす向かいで代々大工を営む大倉(だいくら)老人と知りあい、「それは、今、あんたんちがある場所だよ」と教わる。
「あんたんちの裏にレンガ造りの壁があるだろう。あれは、夏目さんちの土蔵跡だよ。夏目さんの後に住んだ人が住居に改造して使っていたんだ。金之助(漱石)さんは私より五~六歳年上だったが、子供の頃よく遊んでもらったもんだ。大変ハイカラな人で、またガキ大将で近所の子供を集めては当時、珍しかった野球道具をそろえて戸山ケ原で野球をやったもんだ。白絣に紺の袴、高下駄をはいて本郷の帝大まで歩いて通っていたのが今でも目に浮かぶ。絵が得意だったようで、よく写生なんかしていたが、帝大に通っていたころ私を描いてくれた肖像画を大事に保存していたが、この戦災で焼いてしまったよ」(中略)
夏目坂に沿って1軒ずつ割り振ってつけた番地がいまも使われている。千坪のお屋敷跡に、五十軒近くの家が建てられているのだから、漱石は知ったら「気が利かぬ」と笑うことだろう。昭和四十一年、喜久井町1番地、すなわち「漱石生家跡」の1画を加藤氏が提供、そこに新宿区による石碑が建てられ、除幕式には漱石の長男次男夫婦と弟子の安部能成が出席した。

 江戸時代、喜久井町の屋敷には松平越後守が住み、また、普通の町もありました。明治になると、屋敷は野原に変わりましたが、普通のお店や酒店は江戸時代同様栄えていきます。
 一方、漱石は1907年(明治40年)の『僕の昔』で……

ちょうど、今、あの交番――喜久井町きくいちょうを降りてきた所に――の向かいに小倉屋おぐらやという…酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家いえがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。

 この「そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった」というのは、1番地ではない感じです。何か違っているような気がしますが、しかし、これ以上なにもいえません。
 また、『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)では、実際の地図が出ていますが、あくまでも想像図でしょう。やはり『僕の昔』とは違っています。右下の地図には「同馬場下横丁」と出ているだけです。

夏目漱石博物館

夏目漱石博物館

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夏目漱石