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都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)を見ましょう。

小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照。ただし13系統と15系統は間違いで、逆が正しい。

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】 1968年(昭和43年)
 傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】 1962年(昭和37年)
 新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」(J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年)で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。(1964年12月4日)

毘沙門さま あれこれ

文学と神楽坂

 地元の方が毘沙門さまについてのあれこれです。

 毘沙門天は神楽坂の象徴的存在で、こちらのブログでも詳しく述べられています。それらに語られていないことを、落ち穂拾いのように綴ってみます。

【1】児童遊園
 戦前の毘沙門さまの敷地内には、いろいろな出店があったそうです。戦後、そのスペースは区の児童遊園になりました。

 写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」や 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-02-32-1毘沙門天遠景 1968-07-13に、当時の様子が写っています。撮影日に3年の違いがありますが、その間にブロック塀が出来たようです。

 門脇にある小高い四角いものは石造の滑り台で、近所の子どもが「お山の大将」を競いました。余った敷地をこういう形で区に貸すと、寺は固定資産税の減免や補助を受けられ、区は子どもの遊び場や避難場所を確保できるという政策なのだそうです。同様の児童遊園は近隣だけでも筑土八幡の階段脇(歴史博物館ID:7451)若宮八幡の境内など多くの例があり、現在の毘沙門さまにも一部が残っています。

早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

毘沙門天遠景 1968-07-13

田口政典氏。毘沙門天遠景。1968-07-13。http://masanori1919.web.fc2.com/05_Shinjuku/05-02/05-02.htm#09_Bishamonten

筑土八幡の階段脇(歴史博物館 ID:7451 昭和41年12月15日。学校帰りに筑土八幡神社で遊ぶ子ども達

歴史博物館 7451 筑土八幡境内の遊び場開設

若宮八幡の境内 以前の若宮八幡神社。ブランコがわかります

田口政典氏。若宮神社入口遠景。1977-08-27。http://masanori1919.web.fc2.com/05_Shinjuku/05-01/05-01.htm#03_WakamiyaJinja

若宮八幡神社。雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」

【2】石囲いの寄進者
 神社の玉垣にあたる毘沙門さまの石囲い。多くの場合、地元に奉加帳を回し、寄進者の名を石柱に1本ずつ掘ります。角の太い柱は時の顔役が名を残すのです。
 1960年代の写真の石囲いは戦前の焼け残りです。その後、毘沙門堂を建て直した1971年(昭和46年)に一新しました。政財界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫氏がひとりで寄進したそうなので、石柱に他の名前がありません。後にこの石囲いを少し削り、地元の寄付で現在の赤い山門を建てました

石囲い 石で作った塀
奉加帳 ほうがちょう。神仏に奉加する金品の目録や寄進者の氏名などを記した帳簿。寄進きしん帳とも。
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
赤い山門を建てました 平成6年です。渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007)では「平成6年(1994)開創400年を迎えた毘沙門天は、本堂と唐破風造りの山門の建立を無事すませ、開創400年記念事業『落慶式』が、10月14日しめやかに執りおこなわれた。街の明るいイメージに合わせて、山門、本堂ともに、伝統色である朱色にしている」
 

【3】今も残る毘沙門堂
 毘沙門堂は今のコンクリート造に建て替えられましたが、1951年(昭和26年)に再建した旧堂は近くの蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も残っているのだそうです。これについては風聞だけで、確認を取っていません。ただ同じ日蓮宗ですし、写真を見るとよく似た建物ではあります。
※ 蓮秀寺
https://www.aiemu.co.jp/graveyard/temple_detail.php?tid=57
http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/市谷薬王寺町/蓮秀寺
蓮秀寺 新宿区市谷薬王寺町にある日蓮宗の蓮秀寺。山号は久栄山。

確認を取っていません いいえ。確認はあるようです。昭和26年建立の毘沙門堂は実際に今も蓮秀寺に移築され、祭っています。

昭和26年建立の毘沙門堂がなつかしい
昭和26年から45年頃まで神楽坂通りに建っていた毘沙門堂は、実は今もその姿のまま拝観することができる。市谷薬王寺にある同じ宗派の蓮秀寺に移築されているからだ。戦後間もなく建てられた毘沙門堂は、当時の姿のまま時間が止まったように建っている。嶋田住職は、いまでも同じ宗派のお寺なので訪れることがあり、その度になつかしいと語る。
神楽坂deかぐらむら 神楽坂・声のライブラリー 第5弾
毘沙門様と神楽坂の発展」毘沙門天善國寺嶋田尭嗣住職



飯田橋と牛込区筑土方面遠望(写真)大正8年頃

文学と神楽坂

 この絵葉書は個人が所蔵するものですが、最初に雑誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」に出たときは低解像度で、もっと解像度が高くないと発表には向かないと思っていました。最近、石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)を見ていると、初めて大きな写真を発見し、さらに「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)でも発見しました。
 まず何台かの電車が走っていますが、全て路面電車です。つまり道路上を走る市電や都電です。現在ではバスに代わり、なかには地下鉄に代わっています。JR(国鉄、省鉄)とは違います。路面電車の駅もバス停や地下鉄の駅に代わりました。

 林順信氏の「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)は

飯田橋の変則交差点 大正8年頃
 左に見える小さな鉄橋が飯田橋、右に見えるのは江戸川に架かる船河原橋である。江戸川がここで外濠に落ちるとき、どんどんという響きをたてていたので、通称「どんどん」と呼ばれていた。外濠に沿った左手を神楽かぐら河岸がしといい、目の前の町をあげちょうという。諸国の物資を陸掲げした頃の名前である。船河原橋上を渡るのは、外濠線の環状線の➈番と新宿と万世橋とを結ぶ③番の電車、それと交差するのは、江東橋から江戸川橋に通う⑩番である。飯田橋は、昔から変則的五差路で交通の難所である。
飯田橋 東京都千代田区の地名
江戸川 ここでは神田川中流のこと。昭和40年以前に、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
揚屋町 正しくはあげ町です。
環状線の➈番 あっという間に市電の線路番号は変わります。これは大正4年に市電の系統でしょう。
万世橋 千代田区の神田川に架かる橋。秋葉原電気街の南端にある。
江東橋 墨田区の地名。墨田区で大横川に架かる橋
江戸川橋 目白通りにあって神田川を架かる橋。東京メトロ有楽町線江戸川橋駅前にある。

 五差路と視線の方向です。

牛込区の地形図。大正5年第一回修正測図。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年)

 石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)の説明は……

【飯田橋と牛込区筑土方面遠望】
現在は飯田橋交差点になり面影はない。左の鉄橋が飯田橋。右は船河原橋で、電車は新宿―万世橋間の③番と環状線の⑨番で、左の飯田橋を渡る電車は江東橋―江戸川橋間を走る⑩番だそうだ(『東京・市電と街並み』による)。⑩番の電車の奥の道は大久保通り。堀に沿って左に行けば市谷方面。現在も飯田橋交差点は変則的な五叉路で複雑である。

 最後は「かぐらむら」の文章です。「今月の特集 記憶の中の神楽坂」でおそらく2009年に出ています。

飯田橋界隈(大正時代/絵はがき、個人所蔵〉
複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。
左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期~後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年~44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。

吾妻医院 東京女子医科大学「東京女子医科大学80年史」(東京女子医科大学、昭和55年)では……

 吾妻病院は、大正5年(1916)まで順天堂の産科部長をしていた吾妻勝剛が、そこを辞めて、下宮比町に開業したとき建てた病院である。当代一流の産科医であった吾妻は最新の設備を備えた産科病院を建て、隆盛を極めたが、好事魔多しの譬えどおり大震災の日、熱海の患家で家の下敷となり、圧死したのであった。
 吾妻病院は火をかぶらなかったものの、地震で建物のあちこちが痛んでいた。しかし産科婦人科専門の弥生にとっては願ってもない病院であった。それを入手し、修理し、この年11月23日からここを第二東京至誠病院として再開した。この場所が牛込区下宮比町(現在の厚生年金病院の場所)であることからその後はここを学校のある“河田町”に対し“宮比町”と呼ぶのが内部での慣わしとなった。
 現在は名前は変わり、東京新宿メディカルセンターです。
吉岡弥生 医者。済生学舎(現日本医科大学)を卒業、東京で開業。明治33年(1900)東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創立。昭和27年、東京女子医科大学の学頭に就任。生年は明治4年3月10日(1871年4月29日)、没年は昭和34年5月22日。享年は満88歳
デッキ deck、vestibule(USA)。車内への出入口があり、客室との間に仕切戸が設けてある車端部の空間。鉄道車両で客室への出入口の部分。

総武線・飯田橋行き

文学と神楽坂

 地元の方から「総武線・飯田橋行き」というエッセイです。かつて「飯田橋行き」があり、これは線路の跡を見ればわかったといいます。

1980年代まで、千葉方面から来る総武線各駅停車(中央・総武緩行線)に「飯田橋行き」があったことを記憶している方もいるでしょう。通勤時のピストン輸送を、日中の少ない本数に減らす調整などの目的があったと思います。乗客を降ろした電車は新宿方の引き込み線に入り、時間をおいて折り返しの飯田橋始発になりました。

その引き込み線の写真が、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」にあります。
02-00-53-02 ホーム旧跡 1972-06-10

02-00-53-02 ホーム旧跡 1972-06-10 田口重久「歩いて見ました東京の街」

02-00-72-02 市谷方面を 1992-07-01

02-00-72-02 市谷方面を 1992-07-01 田口重久「歩いて見ました東京の街」

の2枚です。いずれも牛込橋から見下ろした写真で、手前の駅側から新宿方に向けてY字の引き込み線が見えます。長いこと運用されていたことが分かります。

ここは戦前の「牛込駅」の跡地なので、田口氏は「ホーム旧跡」という説明をつけたのでしょう。かつてのホームはお堀側にあり、乗降客は写真の橋を渡ってボート乗り場(現・カナルカフェ)の場所を抜け、神楽坂に向かったそうです。

2020年、飯田橋駅改良工事として牛込駅跡の直線部分に新しいホームが出来ました。

 では、ちょっと昔から現在までです。

牛込橋から飯田橋駅を見る。2014.9.21

牛込橋から飯田橋駅を見る。2017.7.14

2012.6.20 飯田橋駅


大阪寿司は絶滅品種?|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏は2005年から2007年までに産経新聞に「お江戸単身ぐらし」を連載し、それをまとめて、2008年『女50歳からの東京ぐらし』(産経新聞出版)を上梓しました。中でも大阪寿司の専門店『大〆おおじめ』については2題を2005年秋に書き、これは第2部です。大〆は神楽坂6丁目8番にあった店舗ですが、2017年、閉店しました。

やっぱり絶滅品種?
「絶滅寸前・東京の大阪寿司ずし」に何通ものお便りをいただいた。
 まずは、「大阪寿司ってなんですか」という東京育ちのKさん。「江戸前でいうところのちらしのことですか? 押し寿司といえば笹寿司しか知りません」。そうですか。それほど東京では知られていないですか。とため息をつきつつ説明しようとしたがこれがなかなか難しい。広辞苑ではあっさり「関西風の押し寿司・巻き寿司の総称」とあるだけ。ブリタニカではもう少し詳しく「江戸前の握りに対し、大阪特有の押し寿司、巻き寿司をいう。箱寿司サバ寿司・蒸寿司などがあり、ネタにはサバ、小ダイ、コハダなどを使う」とあり、これが現実認識に近いでしょうか。
「神楽坂の大〆おおじめさん。懐かしい名前です」と書いて来られたのは滋賀県栗東市にすむ中西予芝子さん(46)。結婚前は東京住まいで祖母のお気に入りの店だった思い出の地。「まだ健在と知りうれしい。今度は主人と一緒に」。ええ、ええ、ぜひとも。1940年代に東京・牛込で少女時代をすごしたという大田区の読者からは「昔は蒸寿司を注文できる店がたくさんありましたね。専門店があったとは知りませんでした」と。
 東京の大阪寿司がどのような変遷をたどってきたか、もっと知りたいと書いてこられたのは浅草の男性。これについては寿司の業界団体でもはっきりせず、この種の資料豊富な「食の文化ライブラリー」を訪ねてみた。司書の方に『すし技術教科書』(旭屋出版)の「江戸前ずし編」「関西ずし編」という大著を見せられた。それらによれば、かつて江戸でも押し寿司が主流だったが、江戸末期に握り寿司が登場し、明治から大正にかけて関西では箱寿司、関東では握りと分かれて、けんを競うようになった。東京では明治33年に大阪寿司と命名して売り出したがあり人気を集めたが、結局、握りには対抗できなかった。
 同ライブラリーで「なぜ箱寿司は全国区にならなかったか」という難問に食文化研究家の石毛直道さんが答えている一文を見つけた(平成10年『別冊サライ・鮨(すし)特集』)。それには「東京が日本の首都になったからだ」とある。
 えーつ、じやあやっぱり絶滅品種?
ちらし すし飯の上に各種の具を飾ったもの。
笹寿司 笹の葉の上に、酢飯と味付けした山菜や卵焼、紅ショウガ、鮭のそぼろなどの具をのせたもの。
巻き寿司 海苔や厚焼き卵の上に寿司飯をのせ、寿司種を芯にして巻いた寿司。
箱寿司 方形の枠の中に寿司飯を詰め、その上に魚などの種をのせ、ふたの上から重しをして作る寿司。
サバ寿司 サバの肉を上にのせた押しずし。
食の文化ライブラリー 公益財団法人味の素食の文化センターの食分野に特化した専門図書館。場所は都営地下鉄の浅草線高輪台駅から徒歩4分。
すし技術教科書 全国すし商環境衛生同業組合連合会監修、荒木信次編著者。旭屋出版。昭和53年。写真も綺麗。姸を競う けんをきそう。女性たちが美しさを競い合う。「姸」とはみがきのかかった容色のうつくしさ。
 「元祖大阪寿司 ぎんざ日乃出」ですが、日乃出ビルを建てて、閉店。場所は中央区銀座5-13-19。
別冊サライ・鮨特集 岩本敏。小学館。1998年。
東京が日本の首都になったからだ どこにもそんな文章はありません。似た文章はありますが。つまり、実際にはもっと高尚なのです。後は「別冊サライ・鮨特集」で。

料亭「喜久川」(昔) 神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 地元の人の話です。松川二郎氏の「全国花街めぐ里」(誠文堂、1929年) によれば、喜久川きくがわと読むようです。

神楽坂を代表する大料亭と言えば「松ヶ枝」と「喜久川」。自分で入ったことはなくとも、地元ではそれが常識でした。

政財界の要人に愛された松ヶ枝が多くの人の記憶に残るのは当然でしょう。しかし喜久川が、このブログの記事にほとんど出てこないのは残念なように思います。

喜久川の場所は4丁目の北西部、5丁目との境です。入り口は北側(白銀町側)。松ヶ枝同様に戦前から店を構え、戦後に大きくなったことが各種の地図で分かります。花街らしい風情と風格を兼ね備えた立派な門構えでした。廃業後、跡地は「神楽坂プラザビル」というオフィスビルになりました。ビルの完成は1992年11月です。

喜久川がビルになって、玄関前の道(注・和泉屋横町)の風情がなくなりました。それで、再開発されなかった近くの「兵庫横丁」が注目されるようになったと思います。神楽坂の路地ブームは、おおよそ1990年以降です。例えば昭和51年(1976年)の読売新聞の特集のイラストや記事は、路地に興味を示していません。

さて、写真は知りませんが、今に残る痕跡はあります。3丁目の見番手前の伏見火防稲荷神社玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です。両者が奉加帳のトップとして、最も多額の寄進をしたことが分かります。

戦前から店を構え、戦後に大きくなった 実際に大きくなりました。1937年の地図では「御木(待)」と一緒になっています。

1937年火災保険特殊地図から1984年の住宅地図。

玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です 写真を参照。「㐂」は「喜」の異体字。

松ヶ枝と喜久川。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では「全国花街めぐ里」を引用して……

○旧券 芸妓屋121軒。芸妓数446名。内小妓52名。料理店11軒。待合97軒。
 主なる待合は由多加、梅林、玉の井(神楽町)、肴町の重の井、宮比町の喜久川、もみぢ、福仙、若宮町のおかめ、津久戸の中村家、その他かぐら,梅村などが名の通っている待合。
○新券の方はというと、
 芸妓屋45軒、芸妓数173名、内小妓15名、料理店4軒、待合32軒。
 主なる待合。若宮町の松ケ枝を代表として之に次ぐもの小松、住の江。幸楽、萬琴、あけぼの。

 松川二郎氏の別の本「三都花街めぐり」(誠文堂文庫、1932年)にも喜久川がでてきます。

 主なる待合 由多加、梅林、玉の井、楓月(以上神樂町)松ケ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川、もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久土町)。その他小松、住の江、幸樂、かぐら、梅村など。


神楽坂の中心

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂の中心」というエッセイを頂きました。

 大正から昭和初期の神楽坂が最も栄えた時代、その中心は毘沙門さま周辺の3丁目から4丁目(旧・上宮比町)、5丁目(旧・肴町)にかけてだったそうです。表通りに石造りの立派な店が多く、裏にキメ細かな路地と賑やかな花町が広がっていました。

 当時の坂の中腹から下は、通り沿いこそ店が並んでいたものの、裏通りは住宅や倉庫、学校などが主だったようです。「古老の記憶による震災前の形」で1-2丁目の裏道の路地が描かれていないのも、坂下の「紀の善」が昔は職人相手の店だったのも、「田原屋」毘沙門天の隣で大いに栄え、兄弟店が少し離れた場所にあったのも、こうした表れのように感じます。


古老の記憶による震災前の形 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年に出ています。インターネットでみることも可。
職人相手の店 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号の冨田冨江氏の「神楽坂昔がたり」「紀の善と牡丹屋敷」では
 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、さようは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。

 江戸時代の商売は江戸城に薬草を届け、明治から戦前までは寿司、戦後は甘味処です。職人相手の店といえないと思います。
田原屋 毘沙門天の側は5丁目で長男、兄弟店は3丁目で3男がやっていました。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号「お便り投稿交差点」の奥田卯吉氏の「おれも江戸っ子、神楽坂」では
 神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた(中略)
 時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った味で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。

 戦後も毘沙門さまが中心だという意識は残っていました。神楽坂の夜店は「5の日の縁日」として限定的に復活し、昭和50年頃まで続いたと記憶します。しかし露店が並んだのは藁店から見番ぐらいがせいぜいで、坂下に賑わいは及びませんでした。1丁目の商店会会員は、そのことが不満だったそうです。

 様相が変わったのはビルが建ち、多くの貸店舗ができはじめた頃でしょう。飯田橋駅に近い坂下と、地下鉄東西線の神楽坂駅に近い6丁目(旧・通寺町)の店や事務所の家賃が、毘沙門さま周辺より高くなる「逆転現象」がおきました。

「神楽坂上」の位置づけが戦前・戦後で変わったことも影響していると思います。現在の神楽坂上の交差点から牛込北町にかけては戦前、牛込区役所(現・箪笥町特別出張所)を中心としたビジネス街で、牛込の中心と目されていたそうです。しかし戦後、区役所が新宿に移り、さらに地域交通の大動脈だった大久保通りの都電が撤去されると、一転して「不便な場所」「陸の孤島」になってしまいました。相対的に、飯田橋駅に近い坂下の価値が上がったのです。

 毘沙門さまの場所は飯田橋駅と神楽坂駅の中間で、ある意味「中途半端」です。坂下に比べると人通りも少ない。中心とは言いにくくなってしまいました。

 とはいえ新たな変化も芽生えています。近年、神楽坂がメディア等で紹介されて人気が高まった結果として、昔より広い範囲が「神楽坂」と認識されるようになりました。都営大江戸線の牛込神楽坂駅が坂上に開業したことも、それを後押ししています。今日、神楽坂として括られる範囲には、矢来町筑土八幡町中町南町まで含まれることがあります。しかし、さすがに区が違う千代田区富士見町は入りません。

 新しい広域の神楽坂の中心は、やはり毘沙門さまになるのではないでしようか。

限定的に復活 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)では「戦後は、縁日の出店がままならずにしばらくその火が消えていたが、昭和33年7月に、商店街の尽力で毘沙門の境内と門前に縁日がめでたく復活し、毎月5の日に開かれている」
地下鉄東西線の神楽坂駅 現在、地下鉄の飯田橋駅、神楽坂駅、牛込神楽坂駅があります。

千代田区富士見町 千代田の北西部に位置し、富士見一丁目と二丁目になる。


貸ボート(写真)カナルカフェ 神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 始めに1918年(大正7年)、ボート場がつくられました。こん和次郎わじろう編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)の「神楽坂」では…

 昭和5年、牛込區史(国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号32頁)には牛込濠の水が干上がった光景があります。原因は自然のためで、関東大震災ではなさそうです。

 昭和8年(1933)、博文館編纂の「大東京写真案内」(博文館部)は……

市ヶ谷見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神樂坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボードは、都心に珍らしい快適な娯樂機關である。

大東京写真案内 1933 博文館

 これから昭和30年代に飛んでいきます。ボート場はできていますが、あくまでも外堀通りと平行ではなく、牛込橋や神楽坂通り(早稲田通り)と平行に並んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7003 外濠 昭和34年

外濠 外堀風景牛込濠 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5101

牛込濠 ボート乗り場

牛込濠 ボート乗り場 外堀風景 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5102

住宅地図。1990年

 さらに時間が経ち、1996年に喫茶店とレストランが加わり、名前もカナルカフェとして巨大なボート乗り場とレストランになりました。

カナルカフェ。住宅地図。2020年。



飯田橋駅東口(写真)ID 475, 481~483, 11457, 12190 昭和51年

文学と神楽坂

 新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で写真ID 475の表題は「揚場町」、撮影日時は「1976年8月」、またID 481は「飯田橋駅前 飯田橋四丁目」、「昭和51年8月26日」。ID 481では解説もついて「飯田橋東口のすぐ近くにも、古い街並みの一角が残っていた」と書いています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 481 飯田橋駅前 飯田橋四丁目 「飯田橋東口のすぐ近くにも、古い街並みの一角が残っていた」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11457 飯田橋交差点付近 飯田橋駅ホーム

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 475 揚場町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12190 飯田橋交差点付近 飯田橋駅ホーム

 しかし、いくつがおかしい。歩道橋はこちらに向かって開いている。それに、どうしてこの写真は飯田橋四丁目になるの? 飯田橋は千代田区で、新宿区ではないけど。また「ごらくえん」の前の歩道は車道よりも下かな? 右端の中央によく似たアパート(?)が2軒並んでいる。どこかで見たはずだが、すぐには思い出さない。

 まず、この場所はどこ? 「飯田橋駅前」で、さらに「飯田橋東口のすぐ近く」だったと書いています。では東口の左側、それとも右側。 堀を越えて左側まで行くと新宿区、右側に行くと千代田区になります。ただし、この昔の写真と違って、現在は違います。堀を越えて左側に行っても右側に行っても、今では千代田区飯田橋4丁目が広がっています。区境が1983年(昭和58年)8月に変更したためです。ただし、この時代は堀を越えて左側には「新宿区揚場町1丁目」が広がっているだけです。
 もう一度、左側か右側か。これは簡単です。東口の右側の千代田区に行っても、歩道橋はありません。横断歩道しかありません。つまり、歩道橋は東口の左側、新宿区にしかありません。

 おそらくカメラは歩道橋から撮ったものでしょう(赤色)。1978年の歩道橋は「エ」の形です。「この型の歩道橋は完成当時、渋谷と並ぶ大型歩道橋として警察や都がPRしました。けど地元の評判は非常に悪かった。飯田橋東口から下宮比町へ渡るのに、あまりに遠回りなので利用者が少ない。すぐに改修の必要性が認識されたんでしょう。後から1本付け足して『只の字』になったわけです」とある地元の人。また、歩道橋の降り口は1つなくなっています(水色)。この水色の歩道橋が最初の写真にあったものです。
「ごらくえん」の前の歩道は車道よりも下でしょうか? 多分下だと思います。東京都の当初の計画では水路は暗渠(カルバート、culvert)だけでした。しかし、都と住人の話し合いから、人工の開渠「せせらぎ」をつくるという考えがでてきます。つまり、本来の水路にコンクリートのカルバートをかぶせ、多くは地下を流し、わずかな水は「せせらぎ」として流す。多分この時に「せせらぎ」の水位が少し高くなったのです。歩道も車道と同じ高さになりました。

暗渠と開渠。東京都「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

暗渠と開渠。東京都「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 では、右側の中央ですが、よく似たアパートが2軒あります。これは「東京燃料林産の社宅」でした。これも崩されて、飯田橋セントラルプラザ・ラムラになります。

 では、写真の中で、建物数軒についても全て壊されました。

1976年 住宅地図

  1. ごらくえん。当時はすでに閉店。
  2. キンシ正宗
  3. 鳥よし
  4. 魚大と立ち食い寿司
  5. カメラ店
  6. シームレス(後ろ中央に縫い目のない婦人用長靴下)
  7. 立喰いそば 富士

 実は「データベース 写真で見る新宿」写真ID 481、482、483は全て一連の写真でした。また写真ID 484は中で撮った写真でした。赤い四角は全て一年後になくなる街だったのです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 482 飯田橋駅前 飯田橋四丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11458 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 483

 また、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「05-新宿区」「補-14(15/15)」「05-14-40-3神楽河岸付近の旧屋 1976-05-28」では

神楽河岸付近の旧屋 1976-05-28

神楽坂の大阪寿司|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏は2005年から2007年までに産経新聞に「お江戸単身ぐらし」を連載し、それをまとめて、2008年『女50歳からの東京ぐらし』(産経新聞出版)を上梓しました。中でも大阪寿司の専門店『大〆おおじめ』については2題を2005年秋に書いています。これは第1部です。大〆は神楽坂6丁目8番にあった店舗ですが、2017年、閉店しました。
 イタリアらしい店舗も箱ずしも普通だし、価格はちょっと高いと思っていても、その裏にある大阪寿司をもっと知っていればよかったのにと思っています。
 石毛直道氏は「大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由」を書いています。どうか読んでください。今では大阪寿司をちょっとよく知り、まあちょっと食べています。 

神楽坂の大阪寿司
 フレンチレストランで大阪寿司ずし店のご亭主に出会った。知人を介しての小さな集まりで、しやれたシャツを着てご夫婦で参加していたので、寿司職人といわれて驚いた。「大阪寿司なんて、絶滅品種ですから。おやあなた、大阪の人? 大阪の人だってあまり食べないでしょう」。確かに大阪時代、代表的老舗「吉野寿司」の本店に足を運んだことはなかったが、百貨店で何度か買い求めたことはある。でも、絶滅品種などと言い切られては 気になる。早速、店にお邪魔して二度びっくり。店構えはまるでイタリアンレストランだ。
 神楽坂のメーンストリートを一本路地に入ったところ。南仏風の洋館に、小さく「大阪寿司・大〆おおじめ創業明治43年」とある。重い木のドアを開けると革張りの椅子いすにテーブル。出窓には伊万里焼の器が飾られ、壁一面にイタリアの風景画。ご亭主、加藤堅二郎さん(59)の作品だ。「イタリアが好きでしてね。新婚旅行もイタリア。30年ほど前に家屋を改築するとき思い切っていまの形にしました。うちは女性客も多いですから」
 看板にあるように、創業は古い。初代は関西で修業し、宮内省(当時)の寿司部門の主任も務めた。当時、東京でも結構大阪寿司が流行していて、大阪寿司店も多かった。しかし、戦後は江戸前握り全盛。「だから、二代目のおやじで店も終わりだと私も広告代理店に勤めたのですが、おやじが病気で倒れ、私が後を継ぐことに」
「絶滅品種」と公言するのは、大阪寿司は手間がかかること。調理場に一定の広さがいること。さらに世の中が握り一辺倒となれば弟子も独立のメドが立たず、常に人手不足に悩みつつの営業だという。
「まあ、食べてみてください」。押し寿司蒸し寿司のセットをいただく。タイやエビをきれいに飾ったおなじみの大阪寿司。加藤さんのこだわりで夏場はアナゴでなくタイをつかう。錦糸卵をたっぷり乗せて蒸したおわんにも、タイの身がたっぷり入っていて、幸せ。
 加藤さんは大阪寿司のうまさを「なれた味」と表現する。「熟成した味、大人の味わいですかね。なまのおいしさもわかるけど、そればっかりじゃあ」。確かに。絶滅させるには惜しい味。それに大阪が絶滅するようで悔しいじゃないですか。
大阪寿司 大阪の押し寿司。関西寿司とも。具材を酢飯と共に型に入れて押し固めた寿司
吉野寿司 吉野鯗。大阪市中央区淡路町にある寿司屋。箱寿司、棒寿司、蒸し寿司、穴子蒸し寿司などが有名。
伊万里焼 佐賀県有田町を中心とした肥前国(佐賀県と長崎県)の磁器。
江戸前 江戸の近海。特に、芝・品川付近の海。江戸湾(東京湾)でとれる新鮮な魚類。江戸や東京風の料理
握り 握り寿司。酢飯を一口大に握り、魚介類や厚焼き卵などの寿司種をのせた寿司。
押し寿司 木枠に酢飯と具材を詰めて押し固めた寿司
蒸し寿司 ぬくずし。ちらし寿司を丼等に入れて蒸し上げた冬限定の寿司。
錦糸卵 薄焼き卵を細く切ったもののこと。

新坂しんざかばし|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋」(昭和52年、新人物往来社)の「新坂橋」によれば

 新宿区神楽坂一丁目船河原町のさかいを北西へ若宮八幡神社の方へ上る坂を新坂または幽霊坂というが、新坂橋はこの坂下の大下水に架されていたもので、明治28年版東京15区区分図によれば、この構渠は市谷御門橋の方から飯田橋へかけて外濠ぞいの道端に通じている。新撰東京名所図会は「新坂橋 市谷船河原町と牛込神楽町一丁目の間、大下水に架す。木橋、新坂下、若宮町に通ず。」と記している。
新坂または幽霊坂 現在は庾嶺ゆれいと呼んでいます。

神楽坂付近の地名。新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4』から

 現在、大下水はなく、当然、新坂橋もありません。下部の左はGoogleで、右は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)です。これから、左の緑の円は新坂橋はあったと思う場所です。
 おそらく横断歩道のあるところに新坂橋があったのでしょう。

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