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牛込氏についての一考察|⑤供養塚
牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 まず芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑤「供養塚」です。

 宗参寺の西南方350メートルほどの、喜久井町14〜20番地には江戸時代に供養塚があり、町名も供養塚町といっていた。
御府内備考』によると、この地は宗参寺の飛地境内で、古くから百姓家があり、奥州街道一里塚として庚申供養塚があったという。『江戸名所図会』の誓閑寺の絵には、その庚申塔と塚が画かれてある。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内として認められていたことは、それだけ宗参寺との特殊な関係が認められていたことで、この塚が奥州街道の一里塚だったのではなく、宗参寺に関係ある塚であったということである。とすれば、それは宗参寺の所に移住してきた大胡氏の牛込初代者を葬った塚だったのではあるまいか。
宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗の寺院。天文13年(1544)、牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため嫡男の牛込勝行が建立。
喜久井町14〜20番 赤線の「喜久井町14〜20番」の方が、実際の供養塚町よりも範囲は大きいようです。緑線で描かれていた場所は供養塚町ではないでしょうか?

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

大久保絵図(1857年、尾張屋)。左は供養塚町、右が宗参寺。

供養塚 大飢饉などの災害で亡くなった人々を供養する塚。「塚」は必ずしも遺骸が含まれず、無生物を含む。
供養塚町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌 : 地名の由来と変遷』(2010)では……

牛込供養塚町 当地一帯は寛永年中(1624-44)に宗参寺の飛地となった。往古より百姓家があったが、次第に家が造られ、町並となった。正徳元年(1711)寺社奉行に永家作を願って認められ、延享2年(1745)町奉行支配となる。町名は、地内に庚申供養塚があったことに由来する(町方書上)。この塚については、古来奥州街道の一里塚であった(町方書上)とか、大胡氏が移住した際の初代の墓や中野長者鈴木九郎の墓とする説(町名誌)、太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を立て傍らに石碑を建てたとする説(寺社備考)などがある。
 明治2年(1869)4月、牛込馬場下横町、牛込誓開寺門前、牛込西方寺門前、牛込来迎寺門前、牛込浄泉寺門前、牛込供養塚町を合併し、牛込喜久井町とする(己巳布)。この地域の旧家で名主の夏目小兵衛の家紋が、井桁の中に菊の花であることから名付けられた。

註:永家作 「家作」は家をつくること、貸家。「永家作」とは不明だが、長く住み続ける家か?
庚申供養塚 庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。


 また、岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)では……

 供養塚町(くようづかまち)
 1857年の安政改板の大久保絵図をみると、宗参寺の西方、馬場下横町の東どなりに牛込供養塚町としてある。南側は往来を距てて感通寺、本松寺、松泉寺、来迎寺、西方寺、誓閑寺などが並んでいる。
 寛永年中(1624~43年)宗参寺の境内4千坪の場所が御用地となって替地を下された時に当地が飛び地になっていた。ここは古くから百姓家があって、おいおいと家作が建って、奥州街道の一里塚として庚申供養塚があった。そのことから牛込供養塚町と唱えた。
 正徳元年(1711年)2月に寺社方へ家作のゆるしを得て、延享2年(1745年)に町方の支配となった。
 町内は、南北35間、東西20間余。(註:64mと37m)
 自身番屋・牛込馬場下横町と組合。
 町の裏に庚申堂がある。
 庚申塚・町の裏にあって、高さ5尺、幅1間4方〔備考〕

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 供養塚町については……
当町起立之儀 寬永年中宗参寺境內四千坪余之場所御用地に相成 当所え替地被仰付候ニ付 飛地ニ而同寺境內ニ有之候 右地所之内往古より百姓家有之候所 追々家作相増 其後町並ニ相成 往古当所奧州海道之節 一里塚之由ニ而 庚申供養塚有之候ニ付 牛込供養塚町相唱申候 尤宗参寺境内には有之候得共 地頭宗参寺え年貢差出し古券ヲ以譲渡仕来申候……
飛地 江戸時代、大名の城付きの領地に対して遠隔地に分散している領地
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から宇都宮を経て奥州白河へ至る街道。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。

庚申供養塚 こうしんくようづか。庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。庚申の夜に眠ると命が縮まるので、眠らずにいると災難から逃れられる。そこで神酒・神饌を供え、飲食を共にして1夜を明かす風習がある。娯楽を求めて、各地で多く行われた。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
誓閑寺 江戸名所図会では 

鶴山かくざん誓閑せいかん 同じ北に隣る。ぎょういんと号す。浄土宗にして霊巌れいがんに属す。本尊五智如来の像は(各長八尺)開山木食もくじきほん上人しゅうふう誓閑せいかん和尚の作なり。じょう念仏ねんぶつの道場にして清浄無塵の仏域なり。当寺昔は少しの庵室にして、その前に松四株を植えて、方位を定めてほうしょうあんといひけるとぞ。今四五十歩南の方、道を隔てて向らの側に庚申堂あり。これち昔の方松庵の地なり。
稲荷の祠(境内にあり。開山誓閑和尚はすべて仏像を作る事を得て、常にふいをもって種々の細工をなせり。この故に境内に稲荷を勧請し、11月8日には吹革まつりをなせしとなり。今もその余風にて年々としどしその事あり。)
庚申塔と塚 道の反対側に庚申塔と塚、絵図では札「庚申」もあり、赤丸です。

誓閑寺


大胡氏の牛込初代者 そう考える理由はどこにもありません。一つの考え方、想像です。当時の風習は全く知りませんが、豪族だった大胡氏が塚に入るのではなく、せめて墓ぐらいに入らないとおかしいと考えます。

 なお『御府内備考』にあるこの地の奥州街道については、同じように『江戸名所図会』の感通寺の項に「この地は往古鎌倉海道の旧跡なりといへり」とある。また『東京名所図会』(明治37年、東陽堂刊)の牛込矢来町の項に「沓懸くつかけざくら」がある。往時の街道を旅する人が切れた草履を梢にかけて立ち去る者が多かったので名づけられた名木の彼岸桜であった。
 これらを考えると、牛込台地の北端を当時の古道が、神楽坂から矢来町、宗参寺、供養塚と東西に通って戸塚一丁目に向い、そこを南北に通っていた鎌倉街道に合流するのである。この鎌倉街道を通って、戸塚から宗参寺の所に大胡氏は移住してきたのであろう。
感通寺 新宿区喜久井町39にある日蓮宗の寺です。江戸名所図会では……
本妙寺感通寺 (中略)摩利まりてんの像は松樹の下にあり。頼朝卿の勧請にして、頼義朝臣の念持仏といひ伝ふ。この地は往古そのかみの鎌倉海道の旧跡なりといへり。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち
東京名所図会 新撰東京名所図絵。明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。

 供養塚の由来は……

《町方書上》往古ゟ百姓家有之候所、追々家作相増、其後町並相成、往古当所奧州海道之節一里塚之由て庚申供養塚有之候付、牛込供養塚町相唱申候
《新宿区町名誌》大胡氏の牛込移住初代者の墓とする。供養塚町が宗参寺の飛地として所有していたということは、宗参寺に関係深い塚だったということになる。とすれば、群馬県大胡から牛込に移ってきた初代大胡氏を葬った塚であろうと。
《新宿区町名誌》中野長者鈴木九郎の墓とする。「江戸名所図会」に、その問題を提示しているが、「大久保町誌稿」につぎのようにある。「鈴木九郎は牛込供養塚町に住し、生涯優婆うばそく塞(西新宿一丁目参照)を勧行して、遂に永享12年(1440)終歿せり」と(淀橋誌稿)。
 中野長者鈴木九郎は、中野区本郷のじょうがんや西新宿二丁目の熊野神社を建立したといわれる人である。しかし、この塚を鈴木九郎の塚とするのは、あまりにも作為的である。鈴木九郎の伝説は、戸山町内の旧みょう村にもある(戸山町参照)。
《寺社備考=御府内備考続編》文明年中(1469〜87)に太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を建て傍らに石碑を建てた。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972)「牛込地域 75.牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」では……

牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚
      (喜久井町14から20)
 来迎寺から若松町に行く。右手に感通寺がある。その左手一帯は、昔「供養塚町」といった。
 「御府内備考」によると、この地は前に案内した宗参寺の飛地で、境内になっていたという。そしてこのあたりは古くから百姓家があり、鎌倉海道一里塚の庚申供養塚があったといい、「江戸名所図会」の誓閑寺の項に、その鎌倉海道のことと庚申塔や塚の絵が出ている。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内にしていたということは、宗参寺に関係深い塚であったということであろう。とすれば、それは宗参寺でものべたように、大胡氏の初代牛込移住者を葬った塚だったのではあるまいか(60参照)。
 徳川家康の関東入国により、それ以前の土着武士の旧跡・事蹟は消されていったようである。
 牛込氏について不明の点が多いのは、牛込氏が徳川氏に対する遠慮から史料を処分したろうと思われるばかりではなく、為政者も黙殺していったのではなかろうか。宗参寺(60参照)でものべたように、官撰の「御府内備考」では、宗参寺の位置を大胡氏の居住地とすることを否定しているし、袋町の牛込城跡には一言もふれていないのである。
〔参考〕  牛込氏についての一考察
来迎寺 らいこうじ。新宿区喜久井町46の浄土宗の寺院。寛永8年(1631)に建立。
60参照 「新宿の散歩道」の「60」は「牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」でした。

牛込氏についての一考察|④赤城神社の旧地「田島森」

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の④「赤城神社の旧地『田島森』」です。

 宗参寺北方400メートル、早稲田鶴巻町185番地に、大胡氏が赤城山ろくにあった赤城神社をはじめて勧請した旧地「田島森」があり、小さい祠がある。ここにあった神社は、寛正元年(1460)に太田道灌によって牛込御門の所に移され、さらに牛込勝行が弘治元年(1555)9月19日に現在地に遷座したものという(「神社縁起」)。これは境内にあった正安3年5月25日の銘がある板碑が神社に保存されてあった(戦災で消失)ことから想定したものであろうと思う。というのは、正安2年は、まだ大胡氏が上州大胡に居住していたと思われる年代である。

宗参寺 そうさんじ。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)に重行の嫡男牛込勝行が建立。牛込氏や赤穂義士の師・山鹿素行の菩提寺などがある。
早稲田鶴巻町185番地 現在は新宿区早稲田鶴巻町568-13です。
田島森 江戸名所図会では

赤城明神旧地 同所田の畔、小川に傍ふてあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は、神輿を此地に渡しまいらす。

 この「小川」はかに川でしょう。新撰東京名所図会第41編では

   ◯元赤城神社
早稲田村(185番地)にあり、今鶴巻町に編入す、祭神石筒雄命、正安3年草創、牛込郷社赤城神社の古跡なり、古来より赤城神の持なりしが、明治6年1月更に赤城神社附属社となれり。
本社石祠、高さ2尺巾1尺5寸、境内35坪立木3本あり。

元赤城神社。鳥居の左側は記念碑「田島森碑」。後ろに神社。コンクリートの建物は「元赤城神社 社務所」

元赤城神社。中央右に「元赤城神社新築資金寄附者御芳名」の板。

元赤城神社。説明板「神崎の牛牧」がある。

小さい祠 「ほこら」は「やしろ。おたまや。先祖の霊をまつる所」。海老沢了之介 著「新編若葉の梢 : 江戸西北郊郷土誌」(新編若葉の梢刊行、1958)は、金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)を底本しており、「牛込氏と赤城神社」を書いています。

元赤城神社仮殿(昭和31年)

牛込氏と赤城神社
 牛込忠左衛門の屋敷は、胸突坂上の番所の前に在る。この牛込家の遠祖は、大胡太郎重俊なる者であった。子孫の大胡重行の代に及んで、この牛込に移住した。その嫡男を牛込宮内少輔藤原勝行といい、父の菩堤を弔わんがために、雲居山宗参寺を開基した。
 昔その祖先の大胡常陸なる者が、上野国赤城山の三夜沢の神を敬信し、その領地の赤城山麓大胡の地に勧請し、それを近戸明神と呼んで今もある。
 大胡常陸の末孫牛込忠左衛門の先祖、即ち大胡重行が、大胡氏の氏神である上州赤城の神を、牛込惣領守として、早稲田の田の中の小森に勧請したが更に今の赤城神社の所に遷座した。よって最初の地を元赤城といっている。
 日光山の記にいう。下野国二荒山、今の日光山の神と、上野国赤城山の神とが中禅寺の湖水のことで争った。その時、二荒山の神はうわばみとなり、赤城山の神は蜈蚣むかでとなって戦ったという。
 私(直徳)が先頃旅をした時、新町と倉賀野との間の田の中において、忽ち疾風起こり、黒雲が覆い来たって、日中暗闇となった。雨は水をあびるが如く、雹は槌をもって打つが如くであったが、三時ばかりして拭うが如く晴れた。それからというものは一寸した風が直にあたっても、恐ろしくなって病気になる程であった。
 元赤城は正安二年(1300)早稲田に鎮座との説がある。これによると、大胡氏の牛込に来るより230余年前からあることとなる。なお赤城神社には、文安元年(1444)の奥書納経(大般若経)がある。これも大胡氏より百年前のものである。

註:菩提 ぼだい。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達すること。
蟒  うわばみ。巨大な蛇、大蛇、おろち
蜈蚣 ごこう。「むかで(百足)」の異名。

 また、鳥居の左側に「田島森碑」が立っています。「温故知しん!じゅく散歩」は

概要
赤城神社の由来と「田島の森」と呼ばれた当地の歴史を伝える記念碑である。当地は、牛込早稲田村の「田島の森」と呼ばれる沼地であったところへ、正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移り住んだ大胡氏(後に牛込氏に改姓)が故郷の赤城明神を祀ったと伝えられる。碑文には、赤城神社が寛正元年(1460)太田道灌によって牛込に移され、弘治元年(1555)に現在地へ遷座した後も、元赤城神社として崇敬者の手によって維持されてきたことが刻まれている(※ 実際に大胡氏が牛込に移り住んだのは15世紀末頃と推定されている)。

田島森碑

 「この宮處は古へ「田島の森」と云ひ、又、椚の大樹ありしを以て「椚の森」とも称へ。赤城元町にある「赤城神社」の旧址跡にて、今より六百三十一年前、後伏見天皇の正安二年といふに創めて赤城の大神を濟ひ鎮め奉りし處なれば、元赤城神社と称へ奉りき。そも牛込の地は北條氏菅領地たりし頃、牛込氏の領地なりしか。同氏は上野國赤城山の麓なる大胡の里より移り来しかは素より赤城の大神を尊び奉れり(以下略)」とyama’s noteは書いています。

神社縁起 赤城大明神縁起がありますが、天暦2年(948年)に書いた縁起なので、これは使えません。赤城神社の【御由緒】では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

新撰東京名所図会第41編では……

〇由緒
正安2年牛込早稲田村田島の森中に小祠を奉祠す、其後160余年を経て寛正元年太田持資、田島の小祠を牛込台に遷座す、後ち上野国大胡の城主大胡宮内少輔重行、神威を尊敬し、赤城姫命を合殿に祀り、弘治元乙卯年9月19日、方今の地に移し、赤城神社と称せり。別当は天台宗赤耀山等覚寺なり。

田島森碑

正安3年5月25日の銘がある板碑 正安3年は1301年の昔ですと、まず一言断わっておき、群馬県地域文化研究協議会編「群馬文化」(1967)では……

 神社で大切に保存してきたものに一枚の板碑があった。昭和20年に戦災で失ったが、神社誌に写真が載っており、その説明に高さ4尺、巾1尺余で、阿弥陀如来三尊の種子がそれぞれ蓮台上にあり、銘文は
   池中蓮華 大如車輪
  正安三年辛丑五月二十五日
   青色青光 黄色黄光
とあったという。出土地は早稲田鶴巻町185番地にあった田島の森という赤城神社の旧地で別当等覚寺所蔵のものであった。正安3年は板碑として写真をみた限りではよいようだが、神社との関係はわからないし、むしろ偶然に板碑が発見され所蔵していたとするのが正しいであろう。神社では何時ごろからかわからないが、祭日が9月19日なので、この日を創建の月日にあて、板碑の年月日が正安3年5月25日だから神社草創はそれ以前の9月19日、即ち正安2年9月19日としたのであろう。—————————————————

註:写真は東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)から。「神社誌」がさす文書は不明。

 なお、現在「田島森の板碑」は赤城明神勧請と無関係だとわかっています。新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「2 牛込のあけぼの「赤城神社」考」「(1) 牛込の赤城神社(元赤城明神と番町台、牛込台への遷座」「① 元赤城明神(元赤城神社)」では……

戦前、田島森附近から正安3年(1301)5月25日記銘の板碑が出土しており、『牛込区史』ではこれが大胡氏が赤城明神を勧請した傍証としていたが、戦後落合附近から徳治2年(1307)、建武5年(1338)、貞治6年(1367)の3枚、放生寺より南北朝時代のもの1枚、自証院附近からも3枚の板碑が出土、鎌倉末期、北朝年号もまじる供養塔で、田島の森の板碑も同類で、赤城明神勧請に直接関係のないことがわかった。

 田島森あたりは、想像するに、戸山町から北流してくる金川(一名かに川)が早稲田大学の大隈講堂あたりで東流してくるのと、南方市谷薬王寺町から牛込柳町、弁天町を通って北流してくる川(加二川)とが合流する所であり、そこが沼地になり、島状の地もあったので金川以北から神田川までは、田島森と呼ばれたものと思われる。
 大胡氏が宗参寺の所に移住してくると、この田島森に上州の赤城神社を勧請して鎮守にしたものである。なぜそこを鎮守の森にしたのであろうか。上州の赤城神社は、大胡町の北方にあり、赤城山頂の大沼のほとりにある沼(水)神である。一方この地は弁天町の大胡氏居住地の北方にあたる沼地である。こうみてくるとここに故郷の赤城神社を勧請するには好適の地であったためであろう。

金川(一名蟹川) 水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。
加二川 水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する。

江戸川小の歴史散歩③ 牛込地区に坂が多いのはなぜ①

東京実測図。明治18-20年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

鎮守 ちんじゅ。辺境に軍隊を派遣駐屯させ、原地民の反乱などからその地をまもること。奈良・平安時代では、鎮守府にあって蝦夷を鎮衛する。一国や村落など一定の地域で、地霊をしずめ、その地を守護する神。また、その神社。霊的な疫災から守護する神や神社。
上州の赤城神社 御祭神は「赤城神社は、赤城山の麓に佇む、自然と歴史が交差する聖地です。この神社は崇高な赤城山の神と水源を司る沼の神を崇拝し、農業と産業の神として、そして東国開拓の神として崇められています」

 鶴巻町は、『新編武蔵風土記稿』によると、鶏を放し飼いし、鶴番人がいたことから名づけられた町名といっているが、これは後世の意味づけである。「鶴巻」の本義は、世田谷区の「弦巻」も同様であるが、朝鮮語からきたツル(荒野・原野)のマキ(牧)の意であるという(中島利一郎著『日本地名学研究』)。
 牛込という地名は、牛の牧場という意味で、『延喜式』にある「神崎牛牧」は牛込の地に擬されているが(『南向茶話』、『御府内備考』)、それもこの辺だったのではなかろうか。
 神田川にかかる駒留橋というのも牧場に関係あるものだろう。
 大胡氏は、高田八幡(穴八幡)の高台下と、宗参寺東との二つの谷間に柵をつくれば、前述したように、戸山町からの金川、柳町からの加二川に囲まれた 形の地域内は立派な牧場になる。牧場はその北の神田川まで広げて考えてもよい。その牧場を南の高台である宗参寺の所に居館を建てて管理し、前述の田島森に鎮守の赤城神社を建てたということになろう。

鶴巻町 新編武蔵風土記稿東京都区部編 第1巻では

早稲田ノ二所ニオリシ由其頃当村ニモ鶴番人アリシコト或書ニ見コ鶴巻ノ名ハ恐クハ是ヨリ起リシナラン

新編武蔵風土記稿 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
中島利一郎 東洋比較言語学者。国士舘大学教授。生年は明治17年1月2日、没年は昭和34年1月6日
日本地名学研究 「日本地名学研究」で

この地方は弦巻に連接し、一帯の曠野で、農作に適せぬので、牧場として発達したわけ。荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、「つるまき」は「曠野ツルまき」という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである。ここに駒留橋あり、世田谷に駒留八幡神社あり。由来は牧場からである。

延喜式 経済雑誌社「国史大系第13巻」(明治33年)の「延喜式」では「諸国馬牛牧」として武蔵国は檜前馬牧と神崎牛牧2種を上げています。
神崎牛牧 かんざきのうしまき。兵部省所管の武蔵国の牛牧。「東京市史稿」では新宿区牛込のあたりだと推定。
南向茶話 これ以外にいい問答がなさそうです。

  問曰、牛込小日向筋御聞承及も候哉。
答曰、此地は数年居住仕候故、幼年より承り伝へ候儀も有之候。先牛込の名目は、風土記に相見へ不申候得共、古き名と被存候。凡当国は往古曠野の地なれば、駒込馬込(目黒辺)何れも牧の名にて、込は和字にて多く集る意なり。(南向茶話

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 大日本地誌大系 第3巻 御府内備考によれば、

此所は往古武蔵野の牧の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に馬込村あり  等の名もしかなりと 南向茶話 さもありしならん江戸古図にも牛込村見へたり

この辺だった 実は元赤城神社には「神崎の牛牧」という説明板があります。

江戸・東京の農業 神崎かんざき牛牧うしまき
 もん天皇の時代(701〜704)、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
 大宝元年(701年)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするために天皇の意思により32ヶ所の牧場(ちょくまき)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、『牛が多く集まる』という意味の牛込と呼ばれるようになりました。
 牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で『生類憐みの令』が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
平成9年度JA東京グループ    
農業協同組合法施行五十周年記念事業

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kanzaki Dairy Farm
  In the era of the Emperor Monmu (701-704), government-operated stock farms were established here and there in the center of the present metropolis. The area from Waseda to Toyama thronged with roaming cows and, therefore, called ‘Ushigome’ (cow throngs). The area of this shrine was also cow ranches.
  In the dairy farm, there was established a dispensary where cows were reared on the floor for a period and unproductive old cows or sick cows were sorted out.

駒留橋 こまどめばし。丸太橋で放牧された馬がここまで来ても先には行けないので名付けたという(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年)。現在は駒塚こまつかばしです。文京区の神田上水に架かって、文京区目白台1・関口2と文京区関口1丁目を結ぶ小橋。創架時期は不明。

牛込氏についての一考察|③最初の移住地

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の③「最初の移住地」です。

  3 最初の移住地
 まず、大胡氏の牛込移住は、重行の時といわれているが(「牛込氏系図」)、重行の出生は寛正元年(1460)であるから、それよりも前のことになる。『南向茶話』には、重行の父大胡彦太郎重治とあるが、この人物は「牛込氏系図」にはない。
 ところで新宿区弁天町9番地に宗参寺がある。宗参寺は、大胡勝行が天文12年(1543)83才で死去した父重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。そこには牛込氏の墓地があり、大胡重行、勝行父子の墓があり、都の文化財に指定されている。
 思うに、この地が大胡氏の牛込移住の最初の土地ではないかと思う。『江戸砂子』には「……此の地に来り牛込城主となり」とある。
 菩提寺を建立するにはそれだけの場所選定の理由があるし、家族の居住地に寺院が建つ例が多い。『御府内備考』では、宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのはだといっているが、『東京案内』(明治40年、東京市編)は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 なぜここに居住したかについては、大胡氏勧請の赤城神社の旧地を考察する必要がある。
南向茶話 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)と『南向茶話附追考』(明和2年、1765年)はともに江戸の地誌
重治 南向茶話附追考では、「大湖重治」氏が所在地を大胡から牛込に変更し、「勝行」氏は名前を牛込家に変えたとしています。ここでも「重治」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

 なお「新撰東京名所図会 牛込区之部 中」(東陽堂、明治39年)の場合は……。

牛込の称は。北條分限帳に見えて。大胡常陸守領とあり。牛込氏家伝に。大胡宮内少輔重行。法名は宗參。其の子従五位下勝行。北條氏康に属す。勝行は武蔵国牛込並今井、桜田、日尾谷、其の外下総の堀切。千葉を領し。牛込に居住す。因て天文14年正月6日。大胡を改め牛込とすとあれば。牛込の称は。それより以前在りしてと明かなり。牛込氏居住して始て牛込の称起れるにはあらざるなり。
(新撰東京名所図会)

宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗雲居山の寺院。

都の文化財 宗参寺の「牛込氏墓」が文化財になっています。

   牛込氏墓
 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会
註:江戸氏牛込氏文書 江戸幕府の旗本・牛込家の古文書群21通

江戸砂子  享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り牛込城主となり 同じ言葉ではないですが、続江戸砂子温故名跡志巻之四が埋まっていました。

雲居山宗参寺 寺産十石 吉祥寺末 牛込弁天丁
開山看栄禅師、牛込氏勝行、父の重行菩提のため、天文13甲辰建立しでん四十こくす。雲居院殿前大胡大守実翁宗参大菴主。天文12年に卒す。是おほ重行しげゆきの法名也。これをとりて山寺の号とす。此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょう嫡男ちゃくなん勝行天文24乙卯従五位下ににんず。于時ときに本名大胡をあらため牛込氏とごうす、御幕下牛込氏の也。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
旧蹟 有名な建物や事件が昔にあった所。
 「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのは誤だといっている」と書かれています。実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。

牛込城蹟
牛込家の傳へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(中略)
彦太郎藤原重治は武蔵守秀卿の後胤もと上野国大胡の住人なり、重治が世に至て武蔵国豊島郡牛込の城にうつり住す この城をいふなるべし その子宮内少輔重行天文12年9月27日卒す78歳、その子宮内少輔勝行北條左京大太氏康の麾下に属す、天文13年牛込の地に於て一寺を建て雲居山宗参寺と号す是父の法名によつてなり、寺領十石を寄進す 按に宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし

いかさま (1) なるほど。いかにも。(2) いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき。不正。
麾下 きか。将軍に直属する家来。ある人の指揮下にある。その者。


東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では
牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方がありそうです。1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 また、大胡家から牛込家に名前を変えた時期は、移住した時よりも遅く、勝行氏が牛込家に変えたと、多くの人が考えているようです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

牛込氏についての一考察|②牛込氏の牛込移住

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の②「牛込氏の牛込移住」を読んでいきます。②と③の問題はいつ名前を「大胡氏」から「牛込氏」に変え、住所を「群馬県大胡地域」から「神楽坂」に変えたのか、です。

  2 牛込氏の牛込移住
 牛込氏の先祖は、群馬県勢多郡おおの大胡城に住んだ大胡氏である。大胡氏は、藤原秀郷の後裔(牛込氏系図)と称し、大胡を領していたので大胡氏と称したが、大胡重行の時に北条氏康の招きで牛込に移住したという(『寛政重修諸家譜』)。そしてその移住年代を『日本城郭全集』(新人物往来社刊)では、天文6年(1537)前後と推定している。
 しかし、南北朝が合体した明徳3年(1392)には、すでに大胡には大胡氏はいなかったと見られている(『新宿区史』)
 その10年後の応永9年(1402)に、大胡氏が牛込に勧請したという赤城神社に奉納した大般若経の写経が、後述するが別当寺であった神楽坂のぎょうがん(明治45年7月、品川区西大崎4-780に移転)に所蔵されていた(『江戸紀聞』)。その一巻は、郷土研究家一瀬幸三氏宅に渡って所蔵されている。それからみると、遅くとも応永9年には赤城神社があったのだから、その勧請者である大胡氏が牛込に来ていたことになる。
 そこで、大胡氏は室町時代初期には牛込に移り住んでいたものと思われる。大胡氏は、大胡で牧場経営をしていたのではあるまいか。それで牛込の牧場管理のため、江戸の上杉氏の命で牛込に移住したのではあるまいか。

勢多せた郡大胡町 平成16年(2004年)12月以降は「前橋市大胡町」に変更
大胡氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国大胡を領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

 つまり、姓は足利氏から大胡氏に変わったのは重俊氏、大胡氏から牛込氏に変更したのは勝行氏、住所の大胡地域から牛込地域に変えたのは重行氏の時と、寛政重修諸家譜では考えています。

藤原秀郷 平安中期の武将。平将門の乱を平定し、下野守・武蔵守となる。百足むかで退治の伝説で有名。生没年未詳。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
 1543年から77を引くと生年は1466年(寛正7年)でした。

新宿歴史博物館 常設展示解説シート 大胡氏が牛込に居住したのは、勝行の時代からで、勝行が重行の跡を継いで姓を「大胡」から「牛込」に改めた可能性が高いのではと思われます。重行を牛込重行と記したのは「牛込」という地名を指しているからで、本来は大胡を名乗っていたのでは、との指摘もありますが、勝行の時に、大胡氏が牛込氏の遺跡ゆいせきを継いだと考えるのがスムーズかと思います。『寛政重修諸家譜』の成立は、寛政年間(1789~1801)と後世になり編纂されたものなので、時代を遡れば遡るほど、信憑性に欠けてききます。そのため、『寛政重修諸家譜』を疑いの目で見てみました。

寛政重修諸家譜」から。
重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす。
勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲。

 下図「江戸名所図会」は江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌です。ここでは「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したと書かれています。しかし、「重泰」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。以下は「江戸名所図会」です。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏の第4代。晩年、豊臣秀吉に小田原城を包囲され、敗れて切腹。[1538~1590]
日本城郭全集 日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。

天文6年(1537) 戦国時代。将軍は足利義晴で、室町幕府の第12代征夷大将軍。
明徳3年(1392)には……(『新宿区史』) 『新宿区史』(新宿区役所、昭和30年)の126頁では……
明徳4年(1393)には大胡の地は上杉氏の所領となつており、大胡上総入道跡とゆう書様から推すと、大胡の地には大胡氏は居なかつたように感ぜられる。若しそうとすれば牛込助五郎が史上に明文を見る大永6年〔1526〕までは何処にいたかと云うことになるが、この間の牛込氏の動向は史料を失いていて分らない。「米良文書」に「牛米てんきう」なるものが見えるが牛込氏との関係は不明である
書様 かきざま。書いたもののようす。かきよう。字や文章の書きぶり。
牛込助五郎 牛込重行です。(参照は「牛込氏文書 上」戦国時代)
明文 はっきりと規定されてある条文。わかりやすく筋の通った文章。
米良文書 めらもんじょ。熊野三山のうち那智大社に伝えられた古文書で、鎌倉期から室町期までのものが多い。

 また、赤城神社社史では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

 1555年は天文24年=弘治元年の牛込勝行氏です。
 なお、繰り返しになりますが、「大胡彦太郎重治」は牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。
大般若経の写経 「江戸紀聞」の記載から「松原讃岐守入道妙讃大般若六百巻を書写として赤城の神祠に奉納にて応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日おさむ」

江戸紀聞

江戸紀聞 えどきぶん。江戸時代の地誌。
室町時代初期 色々な考え方がありますが、文化庁重要文化指定目録の基準によると、応永時代~嘉吉時代(1394~1443)だそうです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

牛込氏についての一考察|①はじめに

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の①「はじめに」です。

  1 はじめに
 武州牛込氏については、『新宿区史』(昭和30年・新宿区役所編)に書かれているが、総合的に考察されていないし、史料が少ないので、まだ不明な点が多い。そこでここに牛込氏についての一考察をのべて今後の研究課題としたいので、諸賢のご批判ご指導を賜りたい。

 これで①は終わりです。あとは「武州牛込氏」と「新宿区史」を説明すればいいのですが、「新宿区史」の説明は長く続きます。

武州牛込氏 武州の別称は武蔵国で、これは東京都、埼玉県、神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。「武蔵国にいた牛込氏」「武蔵国牛込氏」などと同じ。
新宿区史 牛込氏については「新宿区史:区成立30周年記念」23頁から25頁までに出てきます。「総合的に考察されていないし、史料が少ない」と書かれていますが、確かに、新宿区の室町幕府〜戦国時代の史料は現在でも少なく、増やせないし、「総合的」な考察もありません。しかし、牛込関係は少なくても、書籍一冊の「新宿区史」は十分に分厚くなっています。では「新宿区史」の牛込関係を見てみましょう。

 鎌倉時代の新宿区は、近くの府中に武蔵国の国衙があり、留守所がおかれていたし、江戸・豊島・葛西氏などこの地方に分布した豪族との関係が深かったものと思われるが、具体的な史料はない。市谷冨久町の自証院に残された高さ1.2メートルの板碑に、弘安6年(1283)6月の造立年月日が記されているのが最古の記録で、区文化財の指定を受けている。しかし、こうした碑が残されていることは、この時代、かなりの財力をもった豪族が、この地域と関係をもっていたことを示しているだろう。
 さらに、正安2年(1300)、現在牛込にある赤城神社が早稲田の田嶋の森(後の元赤城、現在の鶴巻町)に祀られたという社伝も残されているが、史料としては、暦応3年(1340)、鎌倉公方足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏から芋茎郷名上げ、替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えたことを示すものが残っている。これによれば牛込郷は荏原郡に属していたことが判る。この文書は『牛込家文書』といわれ、牛込、日比谷、堀切、177貫余の所領を本貫とし、牛込袋町に居館を構えた牛込家伝来のもので、内容は江戸氏宛の7通と、牛込氏宛の11通、大胡氏宛2通、牛込七ゕ村宛1通、加藤系図写1通からなっており、牛込氏の由来については、上野国大胡城主大胡重行が天文年間(1532~55)北条氏康の招きで牛込に移ったと、「牛込系譜」に記してある。牛込氏と改めたのは天文24年(1555)のこととある。大胡氏が牛込に移った年代は、史料的には矛盾があり、同じ『牛込家文書』の後北条氏印判状写をみると、大永6年(1526)10月、北条氏綱から牛込助五郎宛に日比谷村の陣夫・夫役の徴用権を与える旨が記されていて、年代の遡りがみられる。『新編武蔵風土記稿』には大湖重行の父重治の代に牛込に移ったとも書かれている。また牛込姓も、系譜にある天文24年以前にすでに称していたようで、古い記録が紛失しているためもあり、明確ではない。牛込氏はその後徳川時代には旗本となり、明治維新には徳川家とともに駿府へ移ったが、何年かののち再び東京に戻ってきた。(暦応3年の文書他の場所に詳細があるので省略)
 後北条氏と牛込氏との関係を示す史料としては、『小田原衆所領役帳』があるが、この帳簿は後北条氏所領内の知行主(給人)を衆別(職種や地域別)にまとめ、それぞれの知行地に課せられる知行役高を書きあげたもので、いわば後北条氏の租税台帳にあたるものである。この帳簿の江戸衆のところに、牛込氏について次のように記されている。
 一、大胡
 六拾四貫四百卅文  江戸牛込
 六拾七貫七百八拾文 同 比々谷本郷
 四拾五貫文     葛西堀切
  此内廿二貫五百文 当年改而被仰付半役
  以上 百七拾七貫弐百十文
   此内八拾弐貫弐百拾文ハ   御赦免有御印判
    此内七捨弐貫五百文  知行役辻半役共
   以上
 この記述で役高の合計が177貫余で、知行役高は72貫500文として登録されていたことが判るが、この役高は他の知行主の平均が50貫前後であったのに比べると、かなり大きいものといってよい。

 これでおしまいです。「新宿区史」の話は江戸氏と太田道灌氏に移っていきます。

武蔵国の国衙 各令制国の中心地にこくなど重要な施設を集めた都市域は「国府」、その中心となる政務機関の役所群は「国衙」、その中枢で国司が儀式や政治を行う施設は「国庁」(政庁)。武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の政治中心地「国府」は府中市に置かれた。「衙」は、つかさ、天子のいる所、宮城。
留守所 るすどころ。平安後期以降一般化した地方行政を担う在地の執務機関。
田嶋の森 田島森。新宿区早稲田鶴巻町568にあり、島に似た土地と沼地があるので「田島の森」と呼びました。
暦応3年 鎌倉公方の足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷の替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えた。これは「高師冬奉書」暦応3年8月23日の手紙です。

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

鎌倉公方 室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。
足利義詮 あしかが よしあきら。室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。
執事 室町幕府の将軍と鎌倉府の関東公方を補佐して政務を行なう職
高師冬 こうのもろふゆ。南北朝時代の武将。
芋茎郷 いもぐきごう。現在は「埼玉県加須市芋茎芋郷」です。
名上げ 「名」には「きこえ、てがら」の意味があり、「名が上がる」には「名声をあらわす、有名になる」という意味があるようです。「牛込家文書」は芋茎郷に何が起こって、何が起こる予定なのか等について全く触れていません。
上野国 こうずけのくに。群馬県域の古代国名。
大胡城 群馬県前橋市河原浜町の城。築城は天文年間(1532年〜1555年)、廃城は元和2年(1616年)。
牛込系譜 「牛込氏系図」です。

牛込氏系図」(牛込区史、昭和5年)

後北条氏印判状写 大永6年10月13日の「北条家朱印状写」です。

「北条家朱印状写」大永6年10月13日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

牛込助五郎 牛込重行です。
新編武蔵風土記稿 大湖重行の父重治の代に牛込に移ったと書いてあります。

 また、赤城神社社史では

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています

 さらに重泰の代に牛込に住んだというものもあります。例えば「江戸名所図会」です。これは江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌で、赤城明神社の説明のところで、「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したのです。なお「重治」も「重泰」も牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

後北条氏 日本の氏族で、本来の氏は「北条(北條)」だが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」「相模北条氏」とも呼ばれる。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

史跡紹介パネル|飯田橋駅西口

文学と神楽坂

 JR東日本は令和2年(2020)7月12日(日)初電から飯田橋駅の新しいホーム新西口駅舎歩行者空間を供用開始しました。
 さらに令和3年3月19日から、西口駅舎1階の歩行者空間に「国指定史跡『江戸城外堀跡』」、「遺構巡り」を加え、また1階の西口改札外コンコースの「史跡紹介解説板」に「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を加えました。
 そして令和3年7月21日朝9時から、西口駅舎2階にも「史跡眺望テラス」を展開し、「史跡紹介解説板」を使って「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」を説明し、また「牛込門と枡形石垣」を紹介しています。
 最後に飯田橋ホームの中に「外堀の堰の構造」があります。

史跡解説板テーマ設置箇所供用開始日
牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)西口駅舎2階「史跡眺望テラス」2021年7月21日
国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り歩行者空間2021年3月19日
外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造西口改札外コンコース2021年3月19日

飯田橋駅西口1階

史跡紹介解説板 西口駅舎1階の歩行者空間 国指定史跡『江戸城外堀跡』とその遺構巡り

史跡紹介解説板 西口改札外コンコース 外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造

スガツネ工業株式会社

 また、「スガツネ工業株式会社」がドイツ「Q-railing」社から輸入したガラスについて「(この)自立ガラスフェンスシステムを使うとガラスとガラスの継ぎ目に支柱のないフェンスを作ることができます。支柱が邪魔にならず、景観を主役にするためのシームレスなデザインを作り上げることができます。ご覧の通り『史跡』も支柱の遮りなく、愉しむことができます」と自慢げに書いていました。

Q-railing社の自立ガラスフェンスシステム

外堀の堰の構造

文学と神楽坂

 JR飯田橋駅のホームに「外堀そとぼりせき構造こうぞう」があります。

外堀の堰の構造

外堀の堰の構造

江戸城外堀縦断面

 牛込うしごめつけは牛込ぼりいい濠の間に位置しており、牛込濠の水をせき止める土橋と、その水位を調整するためのが設けられていました。
 2017(平成 29)年のJR飯田橋駅ホーム移設工事において、牛込橋の真下より、この堀の一部と思われる石敷いしじきが外堀で初めて発掘されました。明治期に撮影された古写真には、堰のおとしぐちが写っており、発掘された石敷はこの落口の手前の水路をなす箇所の一部分であることが考えられます。
 せき。河川の流水を制御し、水を取り入れるために、川の流れをさえぎって造る構造物。水力発電用ダムや堤防の機能はない。

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。

石敷 いしじき。平たい石を敷き詰めて舗装した所。石畳。
落口 おとしぐち。滝となって水流が落下する所。下水などの排水口。

牛込御門

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001)

 現在、この石敷はホームの下に保存されていますが、調査によって明らかになった限りにおいてこの石敷があったと想定される範囲がわかるように、ホーム上のそうの種類を変えて表現しています。また、一部取り外した敷石を、駅前広場に展示しており、その大きさを確認することができます。

石敷発掘位置

石敷構造図、発掘された石敷

色を変えたホームの下に敷石があった。

駅前広場に展示した敷石

 現時点で、外堀の堰の構造に関する文章や記録は残されていませんが、同時代で類似する構造物の石敷の事例として、神田川から神田上水を市中に引き込むために設置された堰である関口せきぐちおおあらい堰(現在の文京区関口に存在していた) があります。この記録によると、堰の水路に当たる部分の石材の並び方が、今回発見された石敷と類似していることがわかります。
 また、ホーム上からは堀を繋いでいる現在の水路を見ることができます。

  Ushigome-mon Gate was located between the Ushigome-bori and Iida-bori Moats. A weir was constructed under Ushigome Gate in order to protect the earthen bridge that dammed the water in Ushigome-bori Moat and control the water level.
  When JR Iidabashi Station’s platform was relocated in 2017, remnants of stone paving believed to comprise a portion of the weir was discovered for the first time anywhere in the outer moat area. Photographs from the Meiji period contain images of the weir’s outfall and the sections of stone paving uncovered at the site are thought to have comprised a portion of the aqueduct located immediately in front of the outfall.
  Currently, the section of stone paving discovered is 2017 is preserved in its original location directly under the train platform. A portion of the platform’s surface has been modified in order to express the scope of the area that was covered by the stone paving. In addition, a portion of the paving removed from the site is on display in the plaza in front of the Station. It enables visitors to get a sense of the weir’s size.
  Unfortunately, no documents or records that describe the weir’s structure have been discovered. A similar type of structure known as the Sekiguchi Weir, however, which was constructed during the same period and transported water into the city from the Kanda River, provides us with some insights about weir technology and design. Located in present-day Bunkyo Ward’s Sekiguchi district, the arrangement of stone material used to construct the Sekiguchi Weir’s channel resembles that of the stone paving discovered along the outer moat in 2017.
  Also from the platform you can see the current waterway connecting the moats.