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鎮護山善國寺|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る No. 13 新宿区 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)で善国寺について詳しく説明しています。

日蓮宗 鎮護山善國寺
     新宿区神楽坂5-36
開基は徳川家康
 佛乗ぶつじょういん日惺にっせい上人(父は二条関白昭實あきざね)が日蓮宗池上いけがみ本門ほんもん12代貫首に迎えられてから9年が経った天正てんしょう18(1590)年、徳川家康が江戸に入った。父の縁で家康と交流があった日惺上人は、直ちに父祖伝来のしゃもんてん尊像に天下泰平の祈祷きとう修した。それを伝え聞いた家康は、文禄ぶんろく4(1595)年に日本橋馬喰町ばくろちょう馬場北に寺領を設け、自ら寺号を「鎮護ちんごさん善國ぜんこく」と定めて日惺上人に贈った。
 開基は徳川家康公、開山は日惺上人と、格式の高い善國寺だが、寛文かんぶん10(1670)年に焼亡した。それを水戸藩主徳川光圀みつくにが現在の麹町三丁目に伽藍を築いて再興した。
開基 かいき。基礎を作ること。仏寺を創立すること。
佛乗 仏乗。ぶつじょう。「乗」は乗物の意で、悟りの彼岸に到達し、成仏する教え。大乗、一乗、一大乗、一仏乗などともいう。
日惺 安土桃山時代の日蓮宗の僧。号は仏乗院。京都妙覚寺の日典に学び、鎌倉比企谷妙本寺と江戸池上本門寺の2寺の貫主(一宗一派を管理・支配する最高責任者)に招請。徳川家康より江戸に寺地を与えられ、善国寺など五か寺を開創した。
上人 しょうにん。浄土宗、日蓮宗、時宗での僧侶の敬称。高僧。
池上本門寺 東京都大田区池上本町にある日蓮宗の大本山。大本山とは総本山の下で、所属の寺院を総括する寺。
貫首 かんじゅ。かんしゅ。各宗総本山や諸大寺の住持。貫長。管主。
父の縁 池上本門寺の縁起では「徳川家康が江戸へ入府すると、第12世日惺聖人はその居を鎌倉から池上に移し、以来貫首は池上に常住する。これにより、当山は徳川家や加藤清正などの諸侯の外護を得て更なる発展を遂げ、大伽藍を形成するに至った」と書き、「父の縁」は書いていません。一方、善國寺では「初代住職は佛乗院日惺上人と言い、池上本門寺十二代の貫首を勤めた方である。 上人は、二条関白昭実公の実子であり、父の関係で徳川家康公と以前から親交を持っていた。 上人が遊学先の京都より、本門寺貫首として迎えられてから九年後の天正18(1590)年、家康公は江戸城に居を移し、二人は再会することになった。
 そこで上人は、直ちに祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷を修した。 それを伝え聞いた家康公は、上人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、手ずから『鎮護山・善國寺』の山・寺号額をしたためて贈り、開基となられた」
毘沙門天尊像 文禄4年(1595年)の開創以来、毘沙門天像は祀られています。
祈祷 神秘的な力をもつ特定の対象に対し,期待する結果を得るために祈ること
修する しゅうする。仏事などを執り行う。
寺地 てらち。寺の地所
寺号 じごう。寺の称号。寺の名。山中に寺院を設ける伝統があり、その所在を示す山名さんごうを付し、山名と寺名を連称してよぶようになった。
鎮護 ちんご。乱をしずめて外敵・災難からまもること。
開基 かいき。基礎を作ること。仏寺を創立すること、またはその人。開山。開祖。
開山 かいさん。「山」を開いて寺を建てること。または、その寺をはじめて開いた僧。
焼亡 しょうもう。建造物などが焼けてなくなること。焼失しょうしつ
伽藍 がらん。僧が集まって仏道を修行する清浄閑静な所。寺の建物の総称。寺。寺院

☆神楽坂への遷座
 麹町の善國寺は威容を誇る伽藍であり、参詣人も絶えなかったらしく、脇の坂道は善國寺通り(現・日本テレビ通り)と呼ばれ、今も麹町三丁目交差点角に「善國寺谷跡」碑が建立されている。しかし享保きょうほう12(1727)年に火災に遭い、寛政かんせい4(1792)年の大火で類焼すると寺領は火除地となり、神楽坂への遷座が決まった。当時は武家屋敷ばかりの神楽坂だが、毘沙門天はしゃせつを率い仏法と北方世界を守護する「軍神」であると敬われ、武士たちに篤く信仰された。また毘沙門天は寅年とらどし寅月寅日の出生とされてとらしゃとも称す。善國寺19代日順上人の嘉永かえい元(1848)年、地元有志より秘蔵の毘沙門天を守護する「寅石像」が奉納された。この狛犬ならぬ「寅石像」は鈴木保教作という。
日本テレビ通り 市ヶ谷駅交差点から麹町四丁目交差点までの通り。

善國寺坂と日本テレビ通り。Google

麹町三丁目交差点角 現在は麹町四丁目交差点角。
善國寺谷跡 現在は「善国寺坂」に変更
類焼 よそから出た火事で焼けること。もらいび。類火。延焼。
火除地 ひよけち。江戸時代、延焼防止と避難のための空き地。
遷座 せんざ、神体、仏像などをよそへ移すこと。
夜叉 サンスクリット語のヤクシャyakṣaから。容貌・姿が醜怪で猛悪な鬼神。毘沙門天の眷属で、諸天の守護神となり、北方を護る。
羅刹 サンスクリット語のラークシャサrākṣasaから。血肉を食うという悪鬼。男は醜悪で、女は美麗という。後に仏教の守護神となった。
北方世界 昆沙門天は仏法を守る四天王の一つとされた。持国天は東、増長天は南、広目天は西、昆沙門天は北である。日本で見られる四天王の像には、邪鬼という仏法を犯す鬼を踏んで立つ勇ましい姿をしたものが多い。
軍神 軍事・戦争を司る神。武神、闘神、戦神とも
寅年 暦法で「うしとらたつうまひつじさるとりいぬ」の「十二支」の一つ。
寅石像 平成21年第11回新宿区教育委員会定例会で区文化観光国際課長は、善国寺の石虎は「安山岩製。阿吽一対。台石中段正面に浮彫(阿形には虎と滝、吽形には一対の虎)。阿形の台石下段右側面に「岩戸町一丁目」「藁店」「神楽坂」「肴町」と刻彫。石工は原町の平田四郎右衛門、横寺町の柳沼長右衛門。彫工は駒込の鈴木喜三郎保教」

明治大正見聞史|生方敏郎

文学と神楽坂

 生方敏郎氏の『明治大正見聞史』(春秋社、大正15年)の「明治時代の学生生活」です。牛屋の「いろは」に対抗して、同じく牛屋の「いろけ」が神楽坂6丁目の昔の郵便局のあたりに出ていたようですが、地図はなく、不明です。

明治時代の学生生活
 一般の人々、わけても学生がよく行った食物屋は牛屋であろう。いろはヽヽヽというのが殊に名高く到るところに支店を持っていた。いろはヽヽヽ肖せていろけヽヽヽというのが有った。或は私の身損こないかも知れないが兎に角いろけヽヽヽと記した招牌をかかげた牛屋が有った。牛込神楽坂の今の二等郵便局のあたりにも三階建のいろけヽヽヽが日露戦争後まであったと記憶する。
 前よりは高く成ったと人々は言っていたけれども、それでも食盛りの学生が三人で行って酒を少々飲んでも1円50銭もあれば払いに差支えることはなかった。
 西洋料理は牛屋と較べて数も遙かに少し、また繁昌しなかった。一品料理屋というものはなくたまたま洋食店があればまず堂々としたもので、また私達、客は自分の好きな物だけ二三品取って食事するというような事も知らず、万事不馴れで、少さく大人しくしていた。ボーイの運ぶままに必ず定食を食べねばならぬように思っていたから、その上エチケットを無視するほど大胆でもなかったので、誰も洋食の卓に向う事を多少億劫がる傾があった。完食は1円か1円20銭位で幾皿も選ばれ、私などには何うしても一人前の定食は食べきれなかった。近年万事気が利いて来て、胃袋の小さい日本人に対し西洋人並みの分量を供給して困らせるという事がなく成った。家に依って気が利きすぎて定食だけではとても腹に足らず、出てから又何か食べ直すことが珍らしく無いが、以前には多量のために困惑させられたものなのだった。時代と共に何も歟もちがう。面白いものではないか。
生方敏郎 うぶかたとしろう。随筆家、評論家。早稲田大学英文科卒。「東京朝日新聞」の記者から文筆家に。軍国主義の世相を批判した。生年は明治15年8月24日、没年は昭和44年8月6日。86歳。
牛店 うしみせ。明治時代に牛肉料理を提供する料理屋。牛肉屋。牛鍋屋。
肖せる あやかせる。肖る。あやかる。感化されて、同様な状態になる。似る。
身損こない みそこない。見そこなう。見あやまる
兎に角 とにかく。他の事柄は別問題としてという気持ちを表す。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。
招牌 しょうはい。看板のこと。
二等郵便局 明治19年(1886)に制定。一・二等郵便局は国直営、三等郵便局は地域の名士等の郵便局。昭和16年(1941)、一〜三等の等級制は廃止。
定食 食堂・料理店などの献立で、その料理数点を予め決めている。
億劫がる おっくうがる。めんどうで気が進まない。
依って よって。 原因・理由を表す。…ので。…ために
何も歟も なにもかも。一切のもの全部。どれもこれも。すべて。終助詞「歟」は「か」「や」と読む。

神楽坂の変遷|神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事

文学と神楽坂

神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「神楽坂演芸場と落語切り絵図を検証した民俗学者坂本要さん」(2004年3月11日)を引用し、神楽坂の変遷についてちょっと触れてみます。なお、地元の人から多大な情報を頂きました。感謝します。

神楽坂演芸場と落語切り絵図を検証した民俗学者坂本要さん
新宿区の民俗」は新宿区立博物館の刊行物だ。民俗学者5人が参加して神楽坂、大久保、市ヶ谷などをしらべてまわって報告書をかいた。出版は5年くらい前だが、調査とまとめに3年かかったので、着手してから8年たつ。
「いやあ、変わりましたね」
 調査のリーダー坂本先生はしみじみと語った。当時は川崎の定時制高校の教師だったが、現在は東京家政学院筑波女子大学教授である。
「どこがかわりましたか」
「商店がどんどんかわっていますね」
 たしかにかわった。わたしが父の店をついで不二家神楽坂店の経営をはじめたのは6年前。その間わたしの店のある神楽坂1丁目だけでも、清水衣装店が廃業してモスバーガーになり、となりの元田原屋は不動産屋に、赤井衣装店はカフェに、まえのテナントビルは、ビルオーナーがかわって、すべてのテナントがいれかわわった。
 2丁目では、山一薬局がゲームセンターに、パラパラを産んだディスコのツインスターはフレンチに、うどんやがラーメン屋に、ポルノ本屋がラーメン屋に、カフェがマッサージに、——。きりがないが、5丁目は特に劇的なのでふれておきたい。芳進堂という古い書店がブティックに、漱石がかよった田原屋が廃業、江戸時代から営業していた万長も廃業——。
 神楽坂商店街は本当に変わっていく。そしてまだまだ変わる。
 この波はどこまでつづくのだろうか。
「チェーン店が増えていてわたしら中高年はさびしいけれど、わかいひとはこの方がいいんでしょうね」
 わたしの店舗は、不二家とドトールだ。両方ともナショナルチェーンである。ただ神楽坂の不二家はぺコちゃん焼という日本でここでしか買えないレア商品をもっている。ドトールも、理科大学のジャズ研究会に3階を無料で貸しだして定期ジャズコンサートをやっているし、神楽坂編集者の学校もそこで開校してきた。他のドトールにはないユニークな運営をしていている。
新宿区の民俗 6冊が知られていて、1(民俗芸能篇)は1992年3月、 5(牛込地区篇)は2001年3月、6(淀橋地区篇)は2003年3月でした。1〜4の著者は「新宿歴史博物館」、5〜6は「新宿生涯学習財団」でした。
坂本先生 坂本かなめ。筑波学院大学名誉教授。埼玉大学教養学部を卒業後、東京教育大学大学院で日本民俗学を学び、東方学院で仏教学を学ぶ。2005年、筑波学院大学情報コミュニケーション学部の教授。生年は1947年。

2000年の1〜2丁目 住宅地図

不二家神楽坂店 ⓪昭和42年(1967)に開店。ペコちゃん焼は昭和44年から。ペコちゃん焼は結局大判焼きなので、手間がかかり、不二家の中でもこの店舗だけが販売中。
清水衣装店 ①千代田区飯田橋3-2-12タキザワビル2Fに移転。清水衣装店の場所は現在「モスバーガー」に。
田原屋 ②田原屋フルーツパーラー。トレードマークが「TAWARAYA」と黒い看板と白の球。現在は不動産会社「エイブル」。
赤井衣装店 ③カフェやベーカリーの「ル・レーブ」に変わり、さらに現在は不動産仲介業「アパマンショップ」に。
まえのテナントビル ④「神楽坂スカイビル」から現在は「三経22ビル」に。中は「GIRL’S DINING BAR Canan(カナン) 神楽坂店」や「Girls Bar Luna 神楽坂 Luna」など。
山一薬局 ⑤「山一薬局」からゲームセンター「オアシススロットクラブ」に。現在はフランス生まれの冷凍食品専門店「ピカール 神楽坂店」に。
ツインスター ⑥ディスコの「ツインスター」からフランス料理「ラリアンス」に。
うどん ⑦うどんや(店名は不明)からラーメン「天下一品 神楽坂店」に。
ポルノ本屋 ⑧本屋「ブックスローラン」は成人向け書籍が主体。だが普通の本も。神楽坂の他に新宿にも店舗があった。

ブックスローラン 神楽坂(ブックカバー)

現在は「うまい中華そば 日高屋」から「俺流塩らーめん 神楽坂店」に。
カフェ ⑨喫茶「坂」からマッサージ「PrimeTreat Body & Foot」に。現在は居酒屋「食道楽」に。
芳進堂 飯田橋駅の芳進堂ラムラ店で営業中。5丁目の旧芳進堂は婦人服「イッサ」ISSAに。
田原屋 5丁目の旧田原屋は「玄品ふぐ神楽坂の関」に。
万長 酒店の「万長」から現在は「第一勧業信用組合」に。
ドトール 正確には「ドトールコーヒーショップ飯田橋神楽坂店」。地下階は不二家神楽坂店。営業時間は平日7時から22時まで。土日と祝日は8時から20時まで。
理科大学のジャズ研究会 現在は「神楽坂キャンパス3号館地下防音室」で。
神楽坂編集者の学校 現在は廃止。平松南氏は講談社のOBなので、多分これを元手に講習会を行っていたもの。

正雪地蔵|新撰東京名所図会、新宿郷土研究、新宿の散歩道

文学と神楽坂

「正雪地蔵」あるいは「織部型灯籠」は矢来町日下が池」の崖下から見つかりました。でも、この灯籠は本当に「キリシタン灯籠」でしょうか? それともただの灯籠でしょうか? そもそもキリシタン灯籠といわれるものはあるのでしょうか?
 まず『風俗画報』の「新撰東京名所図会 第41編」(東陽堂、明治37年)では……

◇牛山書院
(中略)書院の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあり、日下が池崖地より堀出すと、同邸の正雪と曾て縁故あるなし、但し、近傍榎町正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚の地蔵ともいう。

書院 小浜藩酒井家がつくった牛山書院のこと。書院とは「書斎、寺院の僧侶の私室、書院造りの座敷」。「新撰東京名所図会 第41編」によれば、牛山書院は「旧庭園の風致を保存せむが為めに、酒井家にて設くる所なり、即ち伯爵家の別寮(茶室としてつくった小さな建物)にして、前記日下が池も岸の茶屋も皆な之に付属して凡そ千五百坪、一区割をなし、妄に入るを許さず矢来倶楽部にて取締居るなり。書院は茶屋の南にありて相隣れり、書院の側らに古樅老銀杏各一株あり、共に三代将軍時代の物なり、其他甃石、琴柱形の石燈籠等物の今に存するあり」
註:矢来倶楽部 「新撰東京名所図会」では、設立は明治25年頃。場所は山里5号地。明治37年の部員は約80人。客室6間、離れ座敷2間、茶室。割烹や宿泊はなく、料理は門前の吉田屋で。弁当は可。娯楽は囲碁、球技、謡曲など。

正雪 由井正雪。江戸前期の兵学者。3代将軍徳川家光の死を契機に牢人丸橋忠弥らと幕府転覆をはかった(慶安事件)が、駿府の宿屋で包囲され、自殺した。47歳。
地蔵 地蔵は土地を悪いものから守る仏教の菩薩。右手に錫杖しゃくじょう,左手に宝珠を持つ。その信仰は道祖神や庚申信仰などと結合し、広く民間に信仰された。
崖地 崖地とは宅地内にありながら傾斜が急で、宅地としては使用できない土地。正雪地蔵は「日下が池」に面している崖にあったのでしょう。

参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」 明治16年(複製は日本地図センター、2011年)

同邸 酒井邸の邸宅。
曾て かつて。過去のある一時期を表す語。以前。昔。
縁故 血縁・姻戚いんせきなどによるつながり。
正雪屋敷 榎町に由井正雪が張孔堂という邸宅を構え、門弟は4000〜5000人という。しかし、事件の6年後に生まれた新井白石はくせきは、正雪の道場は神田れんじゃく町のいつの裏店だと佐久間洞巌に宛てた手紙で書いています。(新井白石、今泉定介編『新井白石全集 第5巻』吉川半七、1906)

駿河の由井の紺屋の子と申し候さもあるべく候神田の連雀町と申す町のうらやに五間ほどのたなをかり候て三間は手習子を集め候所とし二間の所に住居候よし中々あさましき浪人朝不夕の體にて旗本衆又家中の歴々をその所へ引つけ高砂やのうたひの中にて軍法を伝授し候
正雪桜 由比正雪と丸橋忠弥が酒を酌み交わし叛乱の密談を行った場所。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 52. 慶安の変立役者由比正雪旧居跡」では……
横町を進むと右手(天神町)78番地の小野沢製本所のところには、「正雪桜」という桜の古木が昭和5年まであって天然記念物になっていた。その桜は、正雪の学問所の庭先だったという。慶安2年(1649)の春の夜、正雪はこの桜の下で花見の宴を張りながら、丸橋忠弥と謀略の誓いを立てたと伝えている。
附会 まとめる。追従する。こじつける。
尊容 そんよう。仏像や高貴な人で尊いお顔やお姿
徴す 証明する。照らし合わせる。取り立てる。徴収する。もとめる。要求する。
一里塚の地蔵 一里塚は1里(4km)ごとに土を高く盛り上げた盛土(塚)で、旅人の道しるべになった。地蔵は、この場合は土地を悪いものから守る神で、疫病が村に入り込まないよう魔よけをしたり、旅人の安全を願うなど、さまざまな役割があった。

 ここでは「正雪地蔵」は「由比正雪の像ではない」ということだけがわかりました。次に新宿郷土会『新宿郷土研究』第1号(新宿郷土会、昭和40年)を見てみます。一瀬幸三氏は調査して、「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」と報告しています。

正雪地蔵はキリタン灯籠なり

矢来キリシタン灯籠

1. 男根の形に疑問   一瀬幸三
 新宿区矢来町町会事務所前に『正雪地蔵尊』がある。むかしから眼病に効顕ありと知られているものである。この地蔵について、矢来町会の加藤嘉男氏は「この正雪地蔵は秋葉神社とともに酒井家(旧小浜藩主)が、移転に際し、同町会の守り本尊として、同町会にゆづられたものである」とその来歴を説明してくれた。また、「地蔵尊は男根の形をしている」ということも附け加えられた。そこで、近くにはキリシタン大名として知られている豊後の大友宗麟の長子義統(後に吉続)の住居したという『大友屋敷』などがあり、もしやすると、地方でいわれるヤソ地蔵ではなかろうかと、詳細に調査の結果ヤソ地蔵ともいわれるまごうなきキリシタン灯籠であることが判明した。
2.灯籠の復元
『正雪地蔵』すなわちキリシタン灯籠は高さははめこんだ台石から51cm、ヨコ巾最小15cm、最大で21cm、火熖をこうむって赤茶けておりしたがって、石質ははなはだもろいが御影石のようである。現在は欠損した竿石のみを残している。しかし、キリシタン灯籠としての特徴であるラテン十字形はみられないが、下部にはアーチ形に彫られた中に人物像をみることができる。(この人物像について学者の定説というものはないが、伴天連(Fa dere)ともいい、イエスキリストともいい、マリヤなどともいうが、明かでない。)いまここに矢来のキリシタン灯籠を図をもって、復元すると図のようになる。(斜線は欠損の個所)

矢来町町会事務所 不明。
秋葉神社 東京都神社名鑑では「当社は寛永年中(1624−44)まで牛込寺町(今の神楽坂六丁目付近)に鎮座され、火除の神として崇められていたが、同所住民の願いにより、矢来の酒井若狭守の下屋敷へ遷座され、爾来酒井家の邸内社として崇敬せられていた。明治になって門戸を開き一般の人も参詣できるようになった。昭和27年に酒井家より、矢来町秋葉神社奉賛会に無償にて贈与せられ、昭和49年9月より宗教法人として発足した」
酒井家(旧小浜藩主) わか国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に置かれた藩
守り本尊 いつも信仰し、自分を守る神社。
大友宗麟 おおともそうりん。戦国大名。天文19年(1550)父の跡を継ぎ、豊後、筑後、肥後、肥前、豊前の6ヵ国を領し、朝鮮貿易を行い、キリスト教に帰依。天正10年(1582)少年使節をローマへ派遣した。
義統(後に吉続) 戦国時代の武将。宗麟の長子。豊臣秀吉から「吉」を与えられて義統から吉統へと改名し、豊臣一家に。関ヶ原の戦いで敗れ、幽閉された。
大友屋敷 キリシタン大名の大友宗麟の孫・義延の屋敷。義延の孫、義親も1619(元和5)年に死亡し、大友家は断絶に。大友義延は敷地内に大宰府天満宮を勧請、この天神信仰は隠れキリシタンの天主(デウス)信仰に通じるという。
ヤソ地蔵 キリシタン地蔵。十字架地蔵。キリスト教を信仰していた人々が、キリストを抱くマリア像を仏像の姿に置き換え、その一部に十字架などを隠し刻んだ地蔵尊。
キリシタン灯籠 竿石(さおいし。胴の部分)に十字架や像が刻まれ、キリストの尊像だとして崇拝した。切支丹灯籠ともいう。
御影石 花崗岩のこと。当初は神戸市御影地方から生産した。硬く、耐久性があり建材や墓石などに用いる。
竿石 石灯籠で、台石の上にあって火袋を支える柱状の石
ラテン十字形 キリスト教で最も頻繁に用いられる十字の一つ。正十字の下方にのびている線が他の三つより長く,十字の中心がやや上方にある。ギリシャ十字は四枝の長さが等しい。
伴天連 バテレン。ポルトガル語(padre)。神父。転じて、キリシタン。キリスト教。

 一瀬幸三氏の「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」の続きです。

3.崖下から発堀
 このキリシタン灯籠はいまの新潮社の前あたりに三代将軍徳川家光が、酒井讃岐守忠勝の牛込下屋敷へ来た際に水泳などをしてたびたび興じた、「日たるが池」というのがあった。正雪地蔵すなわちキリシタン灯籠はこの崖下から掘り出されたものであるという。
 これについて、『風俗画報』「新撰東京名所図会」は次のように誌している。
  書院(著者註=牛山書院)の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあたり、日下が池の崖地より堀出すと、同邸(著者注=酒井邸)の正雪とて縁故あるなし、但し、近傍榎町に正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚地蔵ともいう。
 これが、正雪地蔵に関するすなわちキリシタン灯籠ただひとつの文献である。
 キリシタン灯籠の来歴についてはハッキリしてない。
1.江戸初期にキリシタンが、迫害を受けた際、纖部門下の教徒が、潜伏信仰の対象として創案したもの。
2.キリシタン信奉の茶人が好んで、茶室に用いたもの。
3.道祖神と並べ、迫害下のキリシタンの連絡用として用いたもの。
4.洗礼式に聖盤をのせ聖水を注ぐのに用いたるの。
などであるが、いずれのものが判然としていない。だがこの灯籠がキリシタンと深い関係にあることはいなめない。これが、江戸においてキリシタンの詮義だてのとくに厳しかった、元和(1615~1623)から寛永(1624~1643)にかけてのころ焼すてられ土中に埋められていたるのであろう。
 しかし、一般にはキリシタン灯籠の創案者といわれる、古田織部正重然(教名=フランスコ)が、大阪勢に通じたという理由で、慶長20年(1615)5〜6月一族が切腹を命ぜられたあと、一名織部灯籠ともいわれるキリシタン灯籠が、キリシタンと気脉を通じていることが、露見し、この灯籠の製作、所有の一切を禁じられた。そこで庭の植込みに隠したり、土中深く埋めたり墓地に運んだりして、為政者の目をくらましたものであるともいわれている。
 現に新宿区には二基のキリシタン灯籠がある。ひとつは河田町月桂寺、新宿2丁目の大宗寺のもので、いずれももとは墓地内にあったものであるというからカムフラージーの意味で置いたものだろう。
 こうしたキリシタンの遺物であるキリシタン灯籠が、区内から三基までも発見せられることは四谷にあったといわれる南蛮寺、それから牛込にあったキリシタン宗徒のアジトとに深いつながりがあり、今後の興味ある研究課題といわさるを得ない。ここでは矢来のキリシタン灯籠についてのみ紹介しておいたままである。

纖部 ふる重然しげなり。古田おり。古田おりのかみ。信長、秀吉、家康の三代に仕えた武将。茶道でのせんのきゅうの弟子で、織部流の開祖。大坂夏の陣では、豊臣家への内通を疑われて切腹。徳川秀忠に茶法を伝授し、陶芸で織部陶の名を後世に伝えた。
潜伏信仰 17~19世紀、ひそかにキリスト教信仰を続けていた形態
道祖神 村の境や道の分岐、山道の道端に祀られる石の彫像に宿る神道の神
詮義 評議して明らかにすること。その評議。罪人を取り調べること。
古田織部正重然 上の「纖部」を参照
織部灯籠 夜の茶会のため社寺の石灯籠。織部灯籠は四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。茶人・古田織部好みの灯籠ということで「織部」の名がある。
気脉 きみゃく。気脈。血液の通う道筋。仲間うちなどでの、考え・気持ちのつながり。
月桂寺 正覚山月桂寺。臨済宗円覚寺派。新宿区河田町2-5。寛永9年(1632)市谷に起立、寛永11年河田町に移る。
大宗寺 霞関山本覚院太宗寺。浄土宗。新宿区新宿2-9-2。慶長2年(1597)開山。
カムフラージー カムフラージュ。camouflage。敵の目をくらますために、軍艦・戦車・建造物・身体などに迷彩などを施す
南蛮寺 室町末期〜安土桃山時代のキリスト教の教会堂。
宗徒のアジト 宗徒とはある宗教・宗派の信徒、信者。アジトとは地下運動者の隠れ家。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵

 以上は一瀬幸三氏の思慮です。この「像」はキリスト像(かマリア像、宣教師像)にも似ていますが、本当?と考えてしまいます。
 ここで牧村史陽氏の『織部灯籠はキリシタン灯籠か』(史陽選集刊行会、昭和43年)の写真を4枚ほど上げておきます。

「織部灯籠はキリシタン灯籠か」

 次は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、昭和47年)「牛込地区 24. キリシタン灯籠だった正雪地蔵」で、賛否両論をまとって登場します。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵
      (矢来町三)
 旺文社業務局反対側にある町会事務所横の細道奥に秋葉神社がある。その入口左手に「正雪地蔵尊」を祭る祠がある。昔から眼病に効能があると信仰されていた。
 もと近くの崖下から掘り出され、酒井家屋敷内にあったものを、酒井家が移転する時に、町会の守り神として町会にゆずられたものである。
 これは、実はミカゲ石(火災を受けて赤くなっている)でつくられた頭部の欠けた織部型灯籠のキリシタン灯籠である。かくれキリシタン信徒の連絡用やひそかに信仰するためのものだろうというが、確実な証拠はない。しかし、たいてい地中から掘り出されるので、正常な姿で置かれることを好まれなかったか、世間からはばかれたものであるということができる。
 正雪地蔵と呼ばれたのは、この北方の天神町に、由比正雪の住んだ跡があるので結びつけられたものだろうという(52参照)。
 正雪地蔵はキリシタン灯籠であるとするのは、これが地中にかくされていたものを掘り出されたものであること、掘り出された所はキリシタン大名である小浜藩酒井家の屋敷内であること、天神町の北野天満宮あたりにキリシタン大名として知られていた豊後の大友宗麟の子孫、義乗が住んでいた大友屋敷であることなどから、それらと関係があるのではないかと推察するのである(53参照)。
 これが眼病に効験あるといわれたのは、かくれキリシタンが自分たちの信仰対象物をカムフラージュするために、「この灯籠を見ると眼がつぶれる」と、まことしやかにいいふらしたことが、後世になって眼病の守り神としての言仰に変ったのではないかという(市谷37・新宿21参照)。

旺文社業務局 昭和48年の住宅地図です。

昭和48年の住宅地図

キリシタン大名である小浜藩酒井家 小浜藩の藩主を務めた酒井家はキリシタンではありませんでした。
北野天満宮 北野神社。新宿区天神町63。創建年代等は不詳。

 松田重雄氏の「切支丹燈籠の信仰」(恒文社、昭和63年)はキリシタン灯籠であることは疑いはないと考えています。

▶︎ 一般の燈籠や織部燈籠には、病気と結んだ伝承はないが、切支丹燈籠にはいろいろの病気恢復信仰に習合したものがある。これは、この燈籠のみにある特異性である。
 東京都矢来町の燈籠の尊像を正雪地蔵と称し、「この地蔵様を信仰すると眼病が治る」との信仰が現在も続き、お花や満願の願開きの旗が供えられている。東京付近だけでなく、大阪市方面、その他の地方からの信仰が、今もって絶えない。小浜市雲浜地区蔵のものは、竿の型が男子の性器に似ていることから、性器に関する病気の守護地蔵として今も信仰が続き、水と花が供えられていた(中略)。このように二重信仰によって、彼等が熱祷の場を守り抜いた信念には、心に重圧を受けた。(103頁)
▶︎ 江戸牛込屋敷に、旧小浜藩主酒井讃岐守忠勝の屋敷があった。庭内に切支丹燈籠を祀っていたが、幕府の手前園内の、清らかな「ひたるが池」の崖下に沈め、聖地としていた。その後、池から拾い上げたと、酒井家では伝えている。小浜時代、切支丹大名であった酒井家が礼拝の対象とし、いつの頃か秋葉神社の境内に祀られた。
 新宿区矢来町に秋葉神社の小祠がある。その横に「正雪地蔵」が祀られている。『新撰東京名所図会』によると、近く榎町には正雪屋敷があり、その近くにあったので、正雪地蔵と呼んだ。これは擬装するため、表画上地蔵信仰に習合し、よく聖地を守り抜いたのである。(111頁)
▶︎ 切支丹燈籠の文様が風化のため見のがすこともあり、読み取りにくい場合がある。このようなとき拓本によって判明する場合が多い。東京都新宿区矢来町の正雪地蔵は、戦災を受けて焼けただれ、竿の上部半分が火によって破裂している。肉眼では文様がさだかではなかったが、拓本を取ったところ、創造時代型の印の一部が浮き出て、時代的考証の上に大いに役立ったことがある。(234頁)
習合 異なる教義などを折衷すること。「神仏習合」

 以上、正雪地蔵は「キリシタン灯籠」だったという賛成論を書きましたが、いえいえ、それで終わる話ではありません。最後に反対論を。
 まず小浜若狭藩では寛永11年(1634)11月に酒井忠勝が小浜町・敦賀町に条々を発し、キリシタンの信仰は厳禁していました。小浜若狭藩がキリシタンで「日下が池」にキリスト像(かマリア像、宣教師像)がある……なんてことはありえないのです。
 隠居お勉強帖ではこの地蔵を「こじつけが幾重にも重なった謎多き小祠」と書いています。
 武者小路千家の「卜深庵」ではブログの「織部灯篭」の中で……

大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まり、織部灯篭に彫られた長身像がマントを羽織った宣教師に似ているとして、織部灯篭の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。そして現在、地方自治体で文化財指定ものが全国で21基の織部灯篭が「キリシタン灯篭」として文化財指定されています。
 キリシタン灯篭の研究書として、美術史家の西村貞の『キリシタンと茶道』と松田重雄の『切支丹灯籠の研究』等があります。西村は織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めています。また松田重雄も曖昧な論述でキリシタン灯篭であると主張していますが、スペイン・ポルトガルの関係史を専門とし南蛮文化研究家で歴史学者の松田毅一は、『キリシタン 史実と美術』でこれらの説を完全に論破しています。また『潜キリシタンと切支丹灯籠』(松田重雄著、1966)の書評に日本のキリスト教・キリシタン史家の海老沢有道は、「一言にして云えばキリシタン研究が半世紀も逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各頁誤謬、曲解、こじつけにみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほど執筆せねばならない。(中略)従来の学問研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタンの教理、信仰についても理解に欠けており、とに角恐れ入った著作である」と手厳しく酷評しています。
 この書評は海老沢有道著「ゑぴすとら」(キリスト教史学会、1994)の「『切支丹灯籠』評」(203頁)でした。全部の評論を取り出すと……
 鳥取民族美術館長松田重雄氏が、永年のキリシタン燈篭の研究を公けにするから、推薦して欲しい旨、昨秋同地の永田牧師から再三の依頼を受けた。そして執筆意図と目次、その要点等を拝見したが、学間的に極めて不安なものがあるので強く御辞退し、刊行の暁には批評させて戴く旨お答えして置いた。それが、このたび愈々出版されたのであるが、一言にして云えばキリシタン研究が半世紀を逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各誤謬・曲解・こじつけにみちみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほどを執筆せねばならない。ただ全国各地に散在する130余の、いわゆるキリシタン燈籠を調査し、形態的整理をしたという点にとりえがある。また問題の謎の文字をPatri(父に)と解する新説を出している。が、参考文献が巻末に若干掲げられているものの、従来の学的研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタン教理・信仰についても理解を欠いており、とに角恐れ入った著述である。
 こうした書を、部外者の京大建築学の福山教授や元拓大総長矢部貞治氏が、学的研究として持ちあげた序を寄せているのは、まだしも、日本基教団総会議長大村勇氏が提灯もちをされていることは誠に遺憾の極みである。

 松田毅一氏の『キリシタン 史実と美術』(淡交社、昭和44年)では……
 わが国では上代から神社仏閣に石燈籠が安置され、近世初期からは茶庭にも、そして近代になっては広く庭園一般にも各種の石燈籠が普及するようになった。ここで取り扱ういわゆる「織部型燈籠」は、近世の初期から愛用され、茶庭のみならず、寺社、庭園、墓地その他全国各地に見受けられるものである。それは普通、竿石さおいしの上部が横に突き出し、下部に人像が刻まれている点が大きい特徴とされているのであるが、特に本書で問題とするゆえんは、大正末期から、それはキリシタン宗門と密接な関係があるという説が流布しているからである。そして今では、多くの人々が、織部型燈籠のことをたとえその一部にせよ「キリシタン燈籠」と称するに至った。
 しかしながらこのキリシタン燈籠説は、はなはだしく根拠に久け、キリシタン史の権威者と認められている人々は、すべて織部型燈籠とキリシタンは無関係である、あるいは少なくとも直接的には関係がないとして、問題にもしていない。それにもかかわらず、キリシタン燈籠説が今なお鳴りをひそめないのみか、これを誇示し流行させる風潮が見受けられるのである。けだし、わが史学界なり読書界における奇現象といわねばなるまい。だが、それには若干の理由がある。すなわち、その一は、優れた美術史家であった故西村貞氏が、事実上、初めてキリシタン燈籠説を学術書として公にした際、学界はあえて反駁しようとはせず、したがって同説はあたかも公認されているかのような印象を世人に与えたことにあると思われる。もとより今日までに、西村説、およびそれに類する説を「認められない」と主張した方は幾人もおられるが、西村氏が、その博覧強記と蘊蓄うんちく、ならびに情熱を傾け、数百枚にわたって筆されたのに対し、わずか数頁の反論ないし所感といったものに留まったので、キリシタン燈籠説を主張する人々をなお決定的に沈黙せしめるに至らぬのであろう。理由の第二は、キリシタン燈籠説と称するものにも異説があり、織部型燈籠そのものにも種々の形態があって、これについて問題を提起し、論争することは容易でないからである。それをあえて試みようとすれば、勢い相当な長文ないし一書を執筆する覚悟が必要となる。理由の第三は、織部型燈籠といっても、中台以上を欠いた竿石だけのものが多いので、それらは、もともと燈籠の形態であったのか、あるいは卒塔婆そとばか五輪塔に由来するような竿石の部分だけのものが先に存在し、それを利用して燈籠としたのであるかという基本的なことが明らかでない。もしその後者であるならば、織部燈籠の実体を究めるためには、種々の石造物や民間信仰の研究にまで拡大せしめねばならない。そのような次第で、私は今日まで執筆をちゅうちょして来たのであるが、「キリシタン燈籠」という誤った説が公然と流布し、甲論乙駁、混迷の状態にあることを、今にして秩序立てなければ、後世、キリシタン研究は収拾のつかない状態に陥るのではないかとさえ要点されるまでになった。

 また川島恂二氏の「古河藩領とその周辺の隠切支丹」(日本図書刊行会、1986)では……
 昭和44年松田毅一氏著『キリシタン—史実と美術』では、『切支丹灯籠なぞは推理小説の類で学問的根拠は絶無であり全くの作り話に過ぎない』と断定を下された。突如、一天忽かにかき曇り、雹が降って来て皆びっくりして押し黙ってしまった。
 今は松田毅一著「南蛮巡礼」昭和56年中央文庫に、同氏著昭和42年南蛮巡礼(朝日新聞社)も加えられていて名著である。
 松田毅一氏と共に日本の指折り数える切支丹権威者海老沢有道氏も「曲解の極である」として切支丹灯籠を否定している。松田毅一は正直な偉い人で正々堂々とその潜キリシタンでない理由を我々素人に書いて呉れている。

 つまり、この地蔵は「キリシタン燈籠」ではなく、そもそも「キリシタン燈籠」という燈籠はなく、普通の織部灯篭で、これを崇拝するのは大間違いだ……としています。
 研究の比較として、一方は一流の郷土研究家や美術史家たち、一方はキリシタンの権威者たち、さあ正しいのがどちらなの? 私は後者の方に軍配を上げます。

松山藩酒井家の光照寺墓石43基|神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事

文学と神楽坂

 「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「山形県松山町との市民交流に秘められた『神楽坂光照寺酒井家墓石群43基のナゾ』」(2004年6月4日)を引用します。

 松山町は山形県庄内平野にある町である。地理に詳しくなければ、この町がいづこにあるか、まずピンとこない。地理音痴のわたしは、もちろんピンとこなかった。7年前までは。
 松山町が神楽坂と深く結びついていることは、いまでもほとんどの人が知らない。そのナゾから、神楽坂と松山町の市民交流ははじまっていった。今回はそのショートストーリーである。
 神楽坂一帯は、戦前まで牛込といった。いまの新宿区は、牛込区、四谷区、淀橋区が合併してできている。
 牛込区の歴史は、中世の牛込城に溯る。
 赤城山山麓地方の大胡氏が神楽坂に進出して、いまは光照寺になっている袋町に城をかまえたのが、牛込城の始まりである。
 平城で格別の城郭があったわけではないので、光照寺を牛込城の跡というには少少の気恥ずかしさを感じてしまうが、歴史家はそういっているのでそれに倣おう。
 大胡氏がきたころの牛込台地は広々として、武蔵野台地の端に位置しているので海も近く、草原も形成されていたのだろう。牛の放牧に適していたようである。牛込つまり牛の牧場もあった。
 そんな土地柄なので、ここらは人呼んで牛込といっていた。
 大胡氏は、やがて自らも牛込氏を名乗るようになった。
 牛込氏は、北条方についていたので、徳川幕府開府とともに、この城も取り潰されて、その跡地に神田から光照寺がやってきた。1645年のことである。
 さてその光照寺である。
 ご住職はいかにも住職住職している方である。こういう言い方は変なのだが、むかしのご住職はみな光照寺さんのように住職住職されていた。浮世離れしているといったら怒られるかもしれないが、お寺は浮世から離れているのが本来だから、その点古典的つまり本来の神職の風情により近いお方である。おなじ神楽坂のお寺に善国寺がある。毘紗門さまとしてよく知られ親しまれている。このご住職は、人当たりもよく街に溶け込んでいる。犬の散歩などされている時に会うと、一見普通人然としたまま気さくに声をかけてくれる。
 神楽坂商店街のど真ん中にある所為で、精神的に街との距離も近い。商店会の新年会にもかならず御参加になる。
 さて先の光照寺さんには、異様な墓石群がある。異様なというのは、怪奇なという意味ではない。
 普通人の墓はみな一様につつましい。それにくらべてあまりにも目立ち過ぎ、数も多い。
 じつはこれが、旧松山藩酒井家の一族の墓なのである。
 新宿区の教育委員会は、この墓については文化財と位置づけていないが、区内で江戸時代から残っていて手付かずの墓石は、ここ光照寺の酒井家の墓石群と弁天町の寺のものだけである。
 では酒井家はなぜ光照寺に歴代の墓を築いたのだろうか。
 地元の郷土史家によれば、酒井家初代の奥方が利口だったかららしい。
 江戸初期の酒井家の最初の墓は芝増上寺であった。当時寛永寺、増上寺は幕府の菩提寺であるため、ここに墓を持つことは相当な経費を覚悟しなければならない。
 その財政負担から逃れるため、光照寺が神田から神楽坂へ移ってきたのときにいち早く墓を移転したというのだ。
 二代を除いて、藩主、奥方、側室、子供の墓がなんと43基も揃っている。門構えのある墓などもあり、形容矛盾な言い方だが、豪華絢爛なのである。
 そこに立つと、耳なし芳一になって霊界からの死者と対している気分になるほどだ。
 その武士一族の墓場は、しかし一方では、別の問題で光照寺を苦しめているのである(続く)。
松山町 山形県飽海郡の町で、昭和30年(1955)1月1日発足したが、50年後の平成17年(2005年)11月1日、酒田市、飽海郡八幡町、平田町と合併し、新たに酒田市が発足。江戸時代では正保4年(1647年)、庄内藩主酒井忠勝が三男忠恒に松山の領地を分地し、松山藩が始まっている。
庄内平野 山形県北西部で最上川流域に広がり、南北約50km、東西約40kmの平野。穀倉地帯で有名。

庄内平野の地形図

牛込区、四谷区、淀橋区 昭和22年(1947)3月15日に3区が合併。新宿区になった。
牛込城 新宿区の牛込藁店わらだな(地蔵坂)の坂上、袋町の光照寺付近の台地にあった。牛込城の廃城は1590年ごろ。築城は不明だが、1510〜1520年か?
赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
大胡氏 上野国(群馬県)勢多せたおお郷を基盤とする領主で、武士の一族。
光照寺 新宿区袋町にある浄土宗の寺院。慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開祖。正保2年(1645)に現在地へ移転。
平城 平地に築かれた城。
牛込台地 早稲田通り以南は、牛込台地と本村台地の2つの台地からなっています。

牛込氏を名乗る 牛込氏は牛込に移り住んで、初めは大胡姓を使ってきました。北条氏康に申請して許可を得てから、天文24年(1555)以降は牛込姓を使ってきました。
善国寺 日蓮宗の鎮護山善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、文禄4年(1595)日惺上人が麹町六丁目に創建、寛政5年(1793)当地へ移転。
松山藩酒井家 出羽松山藩(山形県酒田市)の酒井家です。矢来町の矢来屋敷が有名な小浜藩(福井県)の酒井家とは違います。同じ姓名が2人いるのも(若狭小浜藩酒井讃岐守忠勝と松山藩酒井忠勝)混乱します。
弁天町の寺 弁天町には宗参寺、浄輪寺、南春寺、照臨山多聞院があり、江戸時代の墓石はどの寺でも持っています。
芝増上寺 港区芝公園四丁目の浄土宗の三縁さんえんこうぞうじょう寺。徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正18年、1590年)。
寛永寺 かんえいじ。天台宗の東叡山寛永寺円頓院。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
耳なし芳一 盲目の琵琶法師、芳一は、霊に取りつかれる。寺の和尚は芳一の体中にお経を書くのだが、耳には書き忘れた。芳一は耳を怨霊に引きちぎられてしまう。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。
 現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。
 そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。
 酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。
 通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。
 しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。
 もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 ご住職はいま風の方ではないので、多分そうは考えなかったと思うが、傍から見ている下々は、そんなことを考えかねない。
 新宿区は、江戸時代からある43基の大型墓石群は、区内の貴重な史跡であると思っている。事実史跡調査もかけている。
 かといって、財政逼迫のおりからそうそう金銭的援助もできかねる。宗教問題も絡んできて、ややっこしい。
 こうして光照寺の苦悩はますます深まっていった。
 このはなしを耳にした神楽坂まちづくりの衆の何人かが奮い立った。
「なら、おらほで、山形の酒井家と光照寺さんの仲をとりもつべえ」
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
「おせっかいな」
と思われる御仁もいるとおもうが、まちづくりというものは、基本的にはお節介焼きなのだ。
 むかし、町には必ずお節介な世話好きがいたものだ。
「なんだなんだい、おらにまかせておけ」
 じぶんのことはさて置いて、困っている人がいると聞けば東奔西走。困っていない人がいても
「どうしたどうしたい」
と首を突っ込む。
 戦後、行政というものの範囲が広がり、個人の確立、個の自由、権利と義務などスマートで西欧的なルールが導入されて以降、こうした世話好きは他人の生活への闖入者と忌み嫌われ、疎まれた。
 社会の諸制度も確立し、個人主義も蔓延した結果、町の世話好きはもはや絶滅危惧種であった。
 しかし行政は公平主義、手続き主義、機会均等の原則、すべったころんだで縛られるため、現実には町の要望にこたえられない。
 こうして世話好きたちは、ありあまるおのれたちの情熱に捌け口を、まちづくりというあたらしい市民活動のなかに求めてきた。
 だからまちづくり活動は別に新しいことではなく、かつてのまちの世話好きさんがあたらしい装いの出店をしたに過ぎない。
 神楽坂のまちづくりの会のみんなは、光照寺さん応援の意気に燃えた。
 もしこれが上手くまとまれば、光照寺さんはもちろん、新宿区にとっても、また江戸からの貴重な墓石群一式が保存されることでの町おこしのためにも、万万歳、めでたしめでたしということになる。一石三鳥である。
 まちづくりの会の人たちは、功名心というものに無縁の人がほとんどだ。みんなはこのことを純粋に考えて、酒井家を訪ねる庄内旅行に出発することになった。
 この旅は、また大いなる珍道中だった(続く)。
神楽坂まちづくりの会 平成3年、結成。代表者は坂本二朗。神楽坂まちづくり推進計画、神楽坂まちづくり憲章、神楽坂まちづくり協定、神楽坂キーワード表等を作成。平成30年(2018)を最後に休眠中。
致道博物館 ちどうはくぶつかん。庄内藩主酒井家の御用屋敷地だった。貴重な歴史的建築物(旧西田川郡役所、旧庄内藩主御隠殿、民具の蔵、旧渋谷家住宅、旧鶴岡警察署庁舎)、酒井氏庭園、重要有形民俗文化財収蔵庫などが移築。
おらほ 東北弁などで「私たち」

 庄内旅行は、松山町と隣接する櫛引町も訪問することになった。
 まちづくりの会に所属するFさんの事務所の共同使用者が、櫛引町の東京代表を務めていたからである。
 この旅行はFさん中心で企画されていった。
 Fさんはエコロジーに強い下水道などの設計者で、設計事務所を経営しているのだが、わたしなどが見ていても、どこまでが本業でどこからがボランテイアか判然としない。
 まちづくりの会にはそんな人が多いのでだれも気にしないが、社長業のかたわら庄内旅行を遂行するのは大変だったろう。
 バスを借りることになったので30人は集めようということになり、旅行には3つの会が参加した。神楽坂まちづくりの会、わたしが主催する川を歩く会、Fさんの関係の山方面の会である。
 わたしの会では、時間がなかったため趣旨の伝達が不充分で、課題をはっきり把握していない参加者が混じってしまったが、この混成部隊はいずれにしても目的がバラバラだったことは否めない。
 光照寺さん支援がメインだったが、黒川能鑑賞にひかれたもの、最上川歩きに好奇心を募らせたものなど、観光目的の人々がいたことは事実であった。
 町の歓迎会の席上、松山町、櫛引町がどこかわからないまま参加したという発言を平気でする無邪気なものも出て、わたしたち主催者者側をひやひやさせた。
 町側の歓迎は驚くべきものであった。
 町長以下、助役、総務部長、観光課長、商工課長、農協役員など、総勢20名近くが、わたしたち30名を歓待してくれた。
 その熱意にはほとほと感謝したが、私たちの団体がなにを目的としてきているかを誤解しているのではないかと心配になったほどである。
 わたしたちは、新宿区の行政ではないし、神楽坂の商店会でもない。任意のまちづくり団体である。
 結成して数年が経っているが、それほど力量があるとも思っていない。
 それなのに、この歓迎である。松山町に限らず、櫛引町でもである。
 ありがたいと思う反面申し訳ないとも思い複雑であったが、地方の町が東京と地域交流して、商工でも農産物でも、販売や開発の切っ掛けになればと真剣に思っていることは、手にとるように実感した。
 やがてこの庄内旅行から一定の成果がうまれたのであるが、このときは、多彩な歓迎にただただ恐縮するのみであった。
 ところで、光照寺さんは、致道博物館館長である松山藩のお殿様の末裔と面会した。私たちも同行した。
 博物館は町の中心にある名建築を使用していて、収蔵品も漁具や民具がそろっていて、たいへん優れた博物館であった。
 その応接室で、お二人は対面した。いずれもやんごとなきかたなので、会見はとても不思議であった(続く)
櫛引町 くしびきまち。旧山形県東田川郡の町。2005年10月1日、鶴岡市、藤島町、羽黒町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市に。
黒川能 くろかわのう。山形県鶴岡市黒川の春日神社に奉納された能。氏子で農民の能役者はほぼ世襲で、およそ160名。伝承の規模の大きさ、組織の強固さは、他の民俗芸能に類を見ない。
やんごとなき 家柄や身分がひじょうに高い。高貴だ。止む事無し。「終わりを迎えることは決してない」との表現。転じて「捨て置けない」「とても大事だ」「尊ぶべきだ・高貴だ」の意味が派生。

 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。
 末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。
 随行の人間はこのはなしには加われるはずもないから、ひたすらふたりのはなしに耳を傾けた。
 光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。
 光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。
 いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。
 末裔さんは恬淡として静寂であった。
 こうして光照寺さんと末裔さんは、一期一会の限りであった。
 ふたりはご年配である。今生で再会することはまずあるまい。
 わたしたちは神楽坂から山形に大勢で出かけてきた。そして、酒井家一族の43の墓石を維持管理している光照寺さんと、キリスト教に改宗されて神楽坂とは無縁になられた酒井のお殿様の末裔との歴史的会見を実現した。
 1600年代に芝の増上寺から牛込神楽坂にお墓を移したことから始まった酒井のお殿様と光照寺の祖先の延延350年ものお付き合いがこうして物別れになったことに、わたしは一抹の感慨と不安を抱いた。そしてわたしがそこに立ち会っている不思議さに改めて思い致した。
 この会見を限りに、あるいは光照寺と酒井家との関係は断絶するかもしれない。光照寺は、都心の一等地を占める酒井家の無縁墓地を改修して、一基うん百万円で分譲するかもしれない。
 43の墓については、新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一さんが丹念に調べているが、それは停止した歴史の調査であり、こうした血肉をもって現存する人間の歴史的関係は、時代のある瞬間に突然消滅する。
 神楽坂まちづくりの会の参加者たちは、あと10年もすれば年老いていき、記憶も薄らいでいく。そして単なる団体旅行の思い出話になっていくに違いない。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。
 わたしは、川が好きである。四半世紀、都市河川の環境問題に関わったこともあり、全国の川を歩くのを楽しみにしてきた。
 山形は何といっても「五月雨を——」の芭蕉最上川である。
 旅の一日、わたしたちは、松山町の町長やお偉方に招待されほろ酔いになった夜、小高い丘に投宿した。
 翌朝目覚めて見渡すと、丘の眼前に、大蛇がたゆたうように流れ行く最上川があった。左に出羽三山、右に鳥海山、最上の流れの遥かさきには日本海が広がっていた。
 松山の人たちは、遠くにあってふるさとを思うとき、この丘の上からの眺望を思い描くという。
 これが庄内平野かと、わたしはこの風景を目に焼き付けるためひとときまぶたを閉じた。
 そしていまこれを書いているときも、ひとときまぶたを閉じてみた。
 するとあのときとまったく同じ光景がまぶたの奥に立ちあがってきた。
 あの日この光景に接したとき、わたしの妻が隣にいてくれたのが幸運だった。
 こんなすばらしい風景というものは、めったにあるものではないからだ。
 この丘を眺海の森と、地元では呼んでいる。
 このことが縁で、松山町と神楽坂まちづくりの会は、いまでもずっと細細ながら市民交流を続けているのである。
 ことしもその季節がやってきた。
末裔 まつえい。子孫。後裔。
忖度 そんたく。他人の心中をおしはかること。自分なりに考えて、他人の気持ちをおしはかること。
恬淡 てんたん。あっさりしていて物事に執着しないこと。心やすらかで欲のないこと。
一期一会 いちごいちえ。一生に一度限りの機会。生涯に一度限りであること
一抹 いちまつ。ほんのわずか。わずかにある。かすか。
無縁墓地 墓の継承者や縁故者がいなくなったり、管理費が一定期間支払われなかったりした墓。官報に記載し、該当する墓地の見やすい場所に札を立て1年間公告し、この期間に申し出がなかったら無縁墓と認定できる。
新宿区歴史博物館 新宿歴史博物館。新宿区四谷三栄町にある、新宿区の郷土資料を扱う博物館。
五月雨を—— 五月雨を集めてはやし最上川。さみだれを あつめてはやし もがみがわ。季語は初夏。梅雨の雨が最上川へと流れ込んで流れが早くなっている。
芭蕉 松尾芭蕉。まつおばしょう。江戸前期の俳人。深川の芭蕉庵に住み、蕉風俳諧の頂点をきわめた。紀行文は「奥の細道」など。生年は寛永21年(1644)。没年は元禄7年10月12日(1694年11月28日)
最上川 山形県を流れる一級河川。流れが大きく激しいことで有名。
出羽三山 磐梯朝日国立公園の最北部を占める山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称
鳥海山 ちょうかいさん。出羽富士とも。山形県と秋田県の県境で日本海に面し、標高2236メートル。
眺海の森 ちょうかいのもり。県民の森。アウトドア施設(スキー場、キャンプ場、ピクニックランド)、学習施設(森林学習展示館、天体観測館)がある。

出羽三山と鳥海山、眺海の森、松山城