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文壇昔ばなし③|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 谷崎潤一郎氏は耽美(たんび)派の作家でした。ここに出てくる作家の生まれた年は泉鏡花氏が明治6年、里見弴氏は明治11年、谷崎潤一郎氏は明治19年、芥川龍之介氏は明治25年でした。「文壇昔ばなし」は昭和34年、73歳で発表、『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、昭和58年)第21巻に出ています。

             ○
京橋大根河岸あたりだつたと思ふ、鏡花のひいきにしてゐる鳥屋があつて、鏡花里見芥川、それにと四人で鳥鍋を突ツついたことがあつた。健啖で、物を食ふ速力が非常に速い私は、大勢で鍋を圍んだりする時、まだよく煮え切らないうちに傍から傍から喰べてしまふ癖があるのだが、衛生家で用心深い鏡花はそれと反封に、十分によく煮えたものでないと箸をつけない。従つて鏡花と私が鍋を圍むと、私が皆喰べてしまひ、鏡花は喰べる暇がない。たびたびその手を食はされた經驗を持つてゐる鏡花は、だから豫め警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に化切りを置くことにしてゐるのだが、私は話に身が入ると、ついうつかりと仕切りを越えて平げてしまふ。「あツ、君それは」と、鏡花が氣がついた時分にはもう遲い。その時の鏡花は何とも云へない困つた情ない顏をする。私は濟まなくもあるが、その顏つきが又をかしくて溜らないので、時にはわざと意地惡をして喰べてしまふこともあつた。その鳥屋でもさうであつたが、芥川は鏡花が抱き胡坐をしてゐるのに眼をつけて、「抱き胡坐をする江戸ツ兒なんてあるもんぢやないな」と云つてゐた。人も知る通り鏡花は金澤人だけれども、平素江戸ツ兒がつてゐた人である。鏡花の大作家であることについては、芥川も私も無諭異存はなかつたけれども、江戸ツ兒と云ふ感じには遠い人であることにも、二人とも異論はなかつた。

京橋 京橋区。現在は中央区。
大根河岸 京橋から紺屋橋にかけて以前の京橋川河岸。神田多町の青物市場と並び称せられる大きな青物市場があった。図を。

健啖 けんたん。好き嫌いなくよく食べること。食欲が旺盛なこと。
豫め あらかじめ。予め。物事の始まる前に、ある事をしておく。前もって。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。現代語では、改まったときや手紙文などで使われる場合が多い。
意地悪 いじわる。わざと人を困らせたり、つらく当たったりすること。
抱き胡坐 だきあぐら。全く分かりません。あぐらをして、だっこをしているのでしょうか。それとも、火鉢を抱いているのでしょうか。泉鏡花のあぐらの写真を出しておきます。
泉鏡花。あぐらの写真。江戸ツ兒 江戸っ子。江戸で生まれ江戸で育った人。父祖以来東京、特にその下町に住んでいる人。さっぱりとした気風や、歯切れがよいが、けんかっぱやいところなどが特徴。
がっている …がる。そのように思う。そのように感じる。「うれしがる」。そのように振る舞う。そのようなふりをする。ぶる。「強がる」「痛がる」
平素 ふだん。つね日ごろ。

松井須磨子-芸術座盛衰記|川村花菱

文学と神楽坂

 川村花菱氏の「松井須磨子ー芸術座盛衰記」(青蛙房、平成18年刊)は『随筆松井須磨子』(昭和43年刊)の新装版です。これは川村花菱氏が島村抱月氏と松井須磨子氏らと一緒になって芸術倶楽部で夜食を取る場面です。ここでも鶏料理店の川鉄が出ています。
 川村花菱氏は芸術座の脚本部員兼興行主事として活躍した人で、のちに新派の脚本、演出を担当し、若い俳優の育成に力を注ぎました。
 松井氏の発言、続いて島村氏の発言と思います。

「あら、皆さん、まだごはん前、私ァとっくに食べちゃったけど……」
「なにか、あったかいものはないかな」
「川村さん、あんたが好きなのよ、ねえ、そら、あの、親子……あれなら私もたべたいわ! あれ、どこの親子? 私、あんたが食べてるところ見て、一度たべたいなァと思ってたのよ! あれ、どこから取るの?」
 それは、近所の鳥屋の“川鉄”という家のもので、ほかの親子丼とちがった、まったく独特の味を持っているものだった。
「川鉄の親子ですよ」
「川鉄? じゃ、言うわ……先生あがる?」
「たべます]
「と、一ツ、ニツ、三ツ……私もたべるから四ツね……四ツ言うわ」
 須磨子は、袂をふらふらさせて駈けて行った。
 それ以来、私が芸術座へ行く毎に、必ずこの川鉄の親子が出た。おそらく芸術座で、行くたびに食事の出るのは、私ひとりだったと思う。いや、私のほかにもうひとりの客があった。それは、阪本()蓮洞(れんどう)という人で、紅蓮洞は島村先生に対して、
「おい、島村……」
と、呼びつけにした。
「ぐれさんが来た、親子を御馳走しなさい」
 先生は快くいつもそう言われた。島村先生に対して、「おい、島村」と呼びすてにするのは、紅蓮洞だけだと言ったが、芸術座の中に、
「おい、島村……」
と言った者がもうひとりある。それは、倶楽部に厄介になっていた役者だが、なにかのことで須磨子と争い、そのさばきが不当であるのに激昂して、先生の(へや)に飛び込んで、
「おい、島村……」
と言っただけで、その場で首になってしまった。

 坂本紅蓮洞氏の生まれた年は慶応2年9月で、島村抱月氏は明治4年1月10日です。西暦では1866年対1871年なので、坂本氏のほうが4歳半ほど年長です。坂本紅蓮洞氏はもともと数学者で、「数学の天才」と呼ばれていましたが、教師はうまくいかず、雑誌記者、その後、与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、文学者と交流。これで奇癖の逸話も多く、文壇の名物男として有名でした。新詩社は詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月11日創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。

織田一磨|武蔵野の記録

文学と神楽坂

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。

       一四 牛込神樂坂の夜景
 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。
 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

牛込、小石川、麹町 代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。
夜更 よふけ。深夜。
大戸 おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。
散乱 さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。
五色 5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。
下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。
 おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影
流露 気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。
浪花 大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。
東山 ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。
都大路 みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。
屋台 やたい。屋形のついた移動できる台。
牛飯 ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。
遊人 ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。
お店者 おたなもの。商家の奉公人。
湯歸り 風呂からの帰り。
東都名所 国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。
傳坊肌 でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。
舊態 きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。
電燈 でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。

 卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。
 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡赤城神社築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。

卑賤 ひせん。地位・身分が低い。人としての品位が低い。
都ずし 江戸前鮨(寿司)は握り寿司を中心にした江戸郷土料理。古くは「江戸ずし」「東京ずし」とも。新鮮な魚介類を材料とした寿司職人が作る寿司。
遊野郎 ゆうやろう。酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者
お神樂藝者 おかぐらげいしゃ。牛込神楽坂に住む芸妓。
廃堂 廃墟と化した神仏を祭る建物。
軒燈 けんとう。家の軒先につけるあかり
画趣 がしゅ。絵の題材になるようなよい風景
早稲田矢来 地図を参照。
俗趣味 低俗な趣味。俗っぽいようす
穴八幡、赤城神社、築土八幡 地図を参照。

穴八幡、赤城神社、築土八幡

江戸川 神田川中流の呼称。ここでは文京区水道・関口の江戸川橋の辺り
石切橋 神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。


春着|泉鏡花①

文学と神楽坂

 大正13年、50歳の泉鏡花氏は、紅葉氏の弟子になったばかりの時を思い出しながら「春着」を書いています。登場人物は全員20歳内外で、若い時期です。

     (はる)()

大正十三年一月
あらたま春着はるぎきつれてひつれて

 少年行せうねんかうまへがきがあつたとおもふ……こゝに拜借はいしやくをしたのは、紅葉先生こうえふせんせい俳句はいくである。ところが、そのつれてとある春着はるぎがおなじく先生せんせい通帳おちやうめん拜借はいしやくによつて出來できたのだからめうで、そこがはなしである。さきに秋冷しうれい相催あひもよほし、次第しだい朝夕あさゆふさむさとり、やがてくれちかづくと、横寺町よこでらまち二階にかいあたつて、座敷ざしきあかるい、大火鉢おほひばちあたゝかい、鐵瓶てつびんたぎつたとき見計みはからつて、お弟子でしたちが順々じゆん/\、かくふそれがしも、もとよりで、襟垢えりあかひざぬけ布子ぬのこれんかしこまる。「先生せんせい小清潔こざつぱりとまゐりませんでも、せめて縞柄しまがらのわかりますのを、新年しんねん一枚いちまいぞんじます……おそりますが、帳面ちやうめんを。」「また濱野屋はまのやか。」神樂坂かぐらざかには、ほか布袋屋ほていやふ――いまもあらう――呉服屋ごふくやがあつたが、濱野屋はまのやはう主人しゆじんが、でつぷりとふとつて、莞爾々々にこ/\してて、布袋ほてい呼稱よびながあつた。

[現代語訳]新春の着物
[俳句] 新春で新人たちは一緒に着物も着、酒も呑み
「少年行」と前書きがあったと思うが……ここで拝借したのは、尾崎紅葉先生の俳句である。ところが、おなじく新春の着物も先生の通帳の金を拝借してできたのだから妙であり、いきさつもある。秋になって肌に感じられる冷ややかさになり、それが次第に朝夕の寒さになり、やがて暮も近づくと、横寺町の紅葉先生の二階に日があたり、座敷が明るくなり、大火鉢も暖かく、鉄瓶の湯は沸騰する。そんな時を見計らって、弟子たちが順々に、こう言うのである。それがしも、襟には垢があり、穴が膝のところに開いている粗末な防寒衣をまとい、正座して、「先生、小清潔とはいえませんが、せめて縞柄だとわかるものを、新年に一枚ぐらい作りたいのです。おそれいりますが、お金を貸してください」。「また浜野屋か」。神楽坂には他に布袋屋という――いまもあるはずだが――呉服屋もある。この浜野屋の主人は、でっぷりと肥っていて、にこにこして、まさに布袋樣という呼び名があった。

春着 はるぎ。正月に着る晴れ着。春に着る衣服。春服。
あら玉 その真価や完成された姿をまだ発揮していないが、素質のある人。「新玉」では枕詞「あらたまの」が「年」にかかるところから「新玉の年」の意味で、年の始め。新年。正月。2つの掛詞でしょう。
きつれて酔いつれて 着物を一緒に着て、一緒に酒も飲んでいる
通帳を拝借 尾崎紅葉から金を借りたことにして
秋冷 しゅうれい。秋になって肌に感じられる冷ややかさ
横寺町 地図を参照。ここに尾崎紅葉氏が住んでいました。また二階は氏の書斎でした。
尾崎紅葉邸の跡
襟垢 えりあか。衣服の襟についた垢。
膝ぬけ 穴が膝のところに開いている。
布子 綿入れのこと。庶民が胴着にして着用した粗末な防寒衣。
畏まる 身分の高い人、目上の人の前などで、おそれ敬う気持ちを表して謹んだ態度をとる。謹みの気持ちを表し堅苦しく姿勢を正して座る。正座する。
縞柄 しまがら。縦か横の筋で構成した幾何学模様
お帳面 帳簿。収支帳。金を貸すことでしょう
浜野屋 神楽坂6丁目にあったようです。新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に「通寺町1番地(現在は神楽坂6丁目 )に牛肉の第十八いろは、通寺町75番地(明進軒の先)に料理屋求友亭など、さすが花柳界が近いので料亭も多かった。まだこの外にも牛込勧工場、呉服の浜野屋、瓦せんべいの近江屋、茶の明治園、蒲鉾の山崎、菓子の小まつ、紙の小松屋、洋酒の青木堂、千とせ鮓、蒲焼の橋本、甘藷の児玉、しるこの松月、缶詰の越後屋、洋酒と煙草の青木堂、乾物の西川、洋傘の東条など目白押しに両側に並んでいたし、東裏通りには宮内省へ納めていた大阪鮨で有名な店があった。」と書いてあります。しかし、これ以上の記録はありません。
布袋 唐代末期で中国浙江省寧波市に実在した仏僧。巨大な太鼓腹にいつも半裸の僧侶は大きな袋を背負い、袋の中に身の周りの持ち物を入れて、放浪生活を送っていました。日本では七福神の一つ。

 が、太鼓腹たいこばら突出つきだして、でれりとして、團扇うちは雛妓おしやくあふがせてるやうなのではない。片膚脱かたはだぬぎで日置流へぎりうゆみく。獅子寺ししでら弓場だいきうば先生せんせい懇意こんいだから、したがつて弟子でしたちに帳面ちやうめんいた。たゞし信用しんようがないから直接ぢかでは不可いけないのである。「去年きよねんくれのやつがぼんしてるぢやないか。だらしなくみたがつてばかりるからだ。」「は、今度こんど今度こんどは……」「かぶつてら。――くれにはきつれなよ。」――そのくせ、ふいとつて、「一所いつしよな。」で、とほりて、みぎ濱野屋はまのやで、御自分ごじぶん、めい/\に似合にあふやうにお見立みたくだすつたものであつた。
[現代語訳] が、浜野屋の主人は太鼓腹を突出して、でれーとして、うちわを雛妓にあおがせているような人間ではない。片膚脱いで、日置流の弓を引く。獅子寺の大弓場で先生と懇意だ。したがって先生は弟子たちにとって必要な金を貸してくれるが、信用がないから直接いっても、くれないのである。「去年の暮のやつが盆を越えてもまだ返していない。だらしなく飮みたがってばかりいるからだ。」「は、今度という今度は……」「うそだろう。――この暮にはきっと入れなよ。」――そのくせ、ふいと立って、「一緒に来な。」で、通りへ出て、浜野屋に入り、自分用と各自の弟子用に似合うように見立てしたものだった。

雛妓 まだ一人前にならない芸妓。半玉(はんぎょく)
日置流 へきりゅう。弓術の一派。近世弓術の祖の日置弾正正次が室町中期に創始
獅子寺 曹洞宗保善寺のことです。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」とも呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。

新宿文化絵図-新宿まち歩きガイド。2010年。新宿区。

東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

弓場 弓の練習をする所。尾崎紅葉氏の大弓場はここに
お株 その人の得意とする芸。「うまいことを言ってら」「おおぼらつきだな」でしょうか

 春着はるぎで、元日ぐわんじつあたり、たいしてひもしないのだけれど、つきとあしもとだけは、ふら/\と四五人しごにんそろつて、神樂坂かぐらざかとほりをはしやいで歩行あるく。……わかいのが威勢ゐせいがいゝから、だれも(帳面ちやうめん)をるとはらない。いや、つてたかもれない。道理だうりで、そこらの地内ちない横町よこちやうはひつても、つきとほしかうがいで、つまつて羽子はねいてが、こゑけはしなかつた。割前勘定わりまへかんぢやうすなは蕎麥屋そばやだ。とつても、まつうちだ。もりかけとはかぎらない。たとへば、小栗をぐりあたりいもをすゝり、柳川やながははしらつまみ、徳田とくだあんかけべる。しやくなきがゆゑに、あへ世間せけんうらまない。が、各々おの/\その懷中くわいちうたいして、憤懣ふんまん不平ふへい勃々ぼつ/\たるものがある。したがつて氣焔きえんおびたゞしい。
のありさまを、たか二階にかいから先生せんせいが、

あらたま春着はるぎきつれてひつれて

なみだぐましいまで、可懷なつかしい。

[現代語訳] この新春のお祝いで、着物を着て、元日には、たいして酔いもしないのだが、目つきと足もとだけは、ふらふらと四五人揃って、神楽坂の通りをはしゃいで歩いている。……若いのが威勢がいいから、誰も(金を借りて)いるとは知らない。いや、知っていたかもししれない。道理で、そこらの地内や横町にはいっても、芸者たちはかんざしや羽子板をついているが、声を掛けてはくれない。ええい、割り勘だ。蕎麦屋に行こう。と言っても、松の内なので、もりそばやかけそばとは限らない。たとえば、小栗氏はヤマイモの根っこをすすり、柳川氏はホタテガイをつまみ、徳田氏があんかけを食べている。お酌はしないので、あえて世間は恨まない。が、各々その懐中に対して、憤懣や不平には勃々たるものがある。したがって気炎もおびただしい。
このありさまを、高い二階から先生が、
[俳句] 新春で新人たちは一緒に着物も着、酒も呑み
涙ぐましいまで、なつかしい。

帳面 帳簿。収支帳。つまり金を借りていること。
地内 一区域の土地の内。なお、「寺内」と書くとかつて行元寺という寺があり、牛込肴町と呼ばれていた、現在神楽坂5丁目の地域を指す。
つきとほす つきとおす。突き通す。突いて裏まで通す。突き抜く。つらぬく。
 こうがい。女性の(まげ)に横に挿して飾りとする道具。
褄を取る 芸者になる。芸者が左褄をとって歩くことから。
羽子 ムクロジの種に穴をあけ、色をつけた鳥の羽を4、5枚さしこんだもの。羽子板でついて遊ぶ。はね。つくばね。
 以上は芸者や芸妓、雛妓のことです。
割前勘定 これから「割り勘。割勘。わりかん」に。費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。
松の内 正月の松飾りのある間。元旦から7日か15日まで。
もり もりそば。盛り蕎麦。蕎麦を冷たいつゆをかけて食べる麺料理。
かけ かけそば。蕎麦に熱いつゆをかけて食べる麺料理。
あたり芋 擂り芋。ヤマノイモの根をすりおろしたもの。醤油や酢で食べたり、とろろ汁にする。
はしら ホタテガイ、イタヤガイなどの肉柱を加工した食品。
あんかけ くず粉やかたくり粉でとろみをつけた料理。
お酌 酌をする女。酌婦。一人前になっていない芸者。
懐中 ふところやポケットの中。また、そこに入れて持っていること。
憤懣 いきどおって、発散させず、心にわだかまる怒り。
勃々 勢いよく起こり立つさま。
気焔 きえん。気炎。燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ


春着|泉鏡花②

文学と神楽坂

 牛込うしごめはうへは、隨分ずゐぶんしばらく不沙汰ぶさたをしてた。しばらくとふが幾年いくねんかにる。このあひだ、水上みなかみさんにさそはれて、神樂坂かぐらざか川鐵かはてつ鳥屋とりや)へ、晩御飯ばんごはんべに出向でむいた。もう一人ひとりつれは、南榎町みなみえのきちやう淺草あさくさから引越ひつこしたまんちやんで、二人ふたり番町ばんちやうから歩行あるいて、その榎町えのきちやうつて連立つれだつた。が、あの、田圃たんぼ大金だいきん仲店なかみせかねだはしがかり歩行あるいたひとが、しかも當日たうじつ發起人ほつきにんだとふからをかしい。
 途中とちう納戸町なんどまち(へん)せまみちで、七八十尺しちはちじつしやく切立きつたての白煉瓦しろれんぐわに、がけちるたきのやうな龜裂ひゞが、えだつて三條みすぢばかり頂邊てつぺんからはしりかゝつてるのにはきもひやした。その眞下ましたに、魚屋さかなやみせがあつて、親方おやかた威勢ゐせいのいゝ向顱卷むかうはちまきで、黄肌鮪きはださしみ庖丁ばうちやうひらめかしてたのはえらい。……ところ千丈せんぢやうみねからくづれかゝる雪雪頽ゆきなだれしたたきゞよりあぶなツかしいのに――度胸どきようでないと復興ふくこう覺束おぼつかない。――ぐら/\とるか、おツとさけんで、銅貨どうくわ財布さいふ食麺麭しよくパン魔法壜まはふびんれたバスケツトを追取刀おつとりがたなで、一々いち/\かまちまですやうな卑怯ひけふうする。……わたしおほい勇氣ゆうきた。

[現代語訳] 牛込のほうは、随分しばらくの間、ご無沙汰であった。しばらくというが、何年にもなる。この間、水上滝太郎さんに誘われて、神楽坂の川鉄(鳥屋)へ、ご飯を食べに出向いた。もう一人の連れは南榎町に浅草から引っ越しした万ちやんこと、久保田万太郎さんで、水上さんと番町から歩いて、南榎町で久保田さんと一緒になり、川鉄に行ったのである。だが、浅草田甫の大金(鳥屋)と仲見世の金田(鳥屋)に橋を回って歩いた久保田万太郎さんが当日の発起人だというのだから、おかしい。
 途中、納戸町のあたりの狭い道で30メートルの真新しい白煉瓦は、まるで崖を落ちる滝のような亀裂が、三条ぐらいの小枝に別れて、頂点から走っていている。これは肝を冷やした。その真下に、魚屋の店があり、威勢のいい親方が鉢巻を前にかぶり、魚のキハダに刺身包丁を閃かしている。本当に偉い。外で見ると、3000メートルの峰から崩れかかる雪崩がある下で薪を作るよりも危ないのに、この度胸がないと復興は出来ない。ぐらぐらと地震が来ると、おっと叫び、銅貨の財布と食パンと魔法瓶を入れたバスケットをあわてて掴み、玄関まで飛び出すような意気地なしはどうする。私は大いに勇気を得た。

南榎町。南榎町は以下の地図で左上の多角形です。このなかのどこかに久保田万太郎さんが住んでいたはずですが、これ以上はわかりません。
番町。千代田区観光協会によれば、泉鏡花は麹町区下六番町11(現在は千代田区六番町7番地)の建物水上滝太郎は下六番町29(現在は六番町2番地)の建物に住んでいました。以下の地図で矢印の場所です。
連立。三人の場所と鳥屋「川鉄」を書いています。
田圃。浅草田甫。浅草公園の裏は昔は田圃がいっぱいだったと言います。久保田万太郎氏の「『引札』のはなし」で、「たとへば浅草公園裏の、そこがまだ田圃の名残をとゞめてゐた時分からの、草津といふ宴会専門の料理屋の広告に、「浅草田甫、草津」とことさらめかしく書いてあつたり(中略)するのをみるとたまらなく可笑しくなる」と出ています。
大金。だいきん。浅草田甫にあった「大金」は 鳥肉の料理を出す飲食店でした。
仲店。仲見世。東京都台東区の地名。浅草寺(せんそうじ)の門前町として発達。
かねだ。金田。同じく鳥肉の料理を出す飲食店。久保田万太郎氏の「浅草の喰べもの」では「鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。」と書いてあります。
橋がかり。建物の各部をつなぐ通路として渡した橋。渡殿。渡り廊下。二つの建物をつなぐ廊下。回廊。
納戸町。上図で納戸町と書いた場所。
七八十尺。1尺は約30cmなので、約21~24メートル。
切立。仕立ておろして間もないこと。新しい。
枝を打つ。わき枝を切る。しかし、ここでは「小枝に別れて」という意味でしょう。
向鉢巻き。前頭部で結んだ鉢巻き。
黄肌鮪。きはだ。きはだまぐろ。黄肌鮪。紅色が鮮やかなさっぱり上品な味。
さしみ庖丁。刺身を作るのに用いる包丁。刃の幅が狭くて刀身が長い。
千丈。1丈の1000倍(約3000メートル)。または非常に長いこと。
樵る。こる。山林の木を切る。
追取刀。おっとりがたな。押っ取り刀。腰に差すひまもなく、刀を手にしたままである。緊急の場合に取るものも取りあえず駆けつける様子をいう。
框。かまち。床板などの切断面を隠すために取り付ける化粧用の横木。玄関などの上がり口に付ける上がり框など。
卑怯。気が弱く意気地がないこと。弱々しい。

 が、吃驚びつくりするやうな大景氣だいけいき川鐵かはてつはひつて、たゝきそば小座敷こざしき陣取ぢんどると、細露地ほそろぢすみからのぞいて、臆病神おくびやうがみあらはれて、逃路にげみちさがせやさがせやと、電燈でんとうまたゝくばかりくらゆびさしをするにはよわつた。まだんだまゝの雜具ざふぐ繪屏風ゑびやうぶしきつてある、さあお一杯ひとつ女中ねえさんで、羅綾らりようたもとなんぞはもとよりない。たゞしその六尺ろくしやく屏風びやうぶも、ばばなどかばざらんだが、屏風びやうぶんでも、駈出かけだせさうな空地くうちつては何處どこいてもかつたのであるから。……くせつた。ふといゝ心持こゝろもち陶然たうぜんとした。第一だいいちこのいへは、むかし蕎麥屋そばやで、なつ三階さんがいのものほしでビールをませた時分じぶんから引續ひきつゞいた馴染なじみなのである。――座敷ざしきも、おもむきかはつたが、そのまゝ以前いぜんおもかげしのばれる。……めいぶつのがくがあるはずだ。横額よこがく二字にじ、たしか(勤儉きんけん)とかあつて(彦左衞門ひこざゑもん)として、まるなかに、しゆで(大久保おほくぼ)といんがある。「いかものも、あのくらゐにると珍物ちんぶつだよ。」と、つて、紅葉先生こうえふせんせいはそのがく御贔屓ごひいきだつた。――屏風びやうぶにかくれてたかもれない。

 まだおもことがある。先生せんせいがこゝで獨酌どくしやく……はつけたりで、五勺ごしやくでうたゝねをするかただから御飯ごはんをあがつてると、隣座敷となりざしきさかんに艷談えんだんメートルをげるこゑがする。まがふべくもない後藤宙外ごとうちうぐわいさんであつた。そこで女中ぢよちうをして近所きんじよ燒芋やきいもはせ、うづたかぼんせて、かたはらへあの名筆めいひつもつて、いはく「御浮氣おんうはきどめ」プンとにほつて、三筋みすぢばかり蒸氣けむところを、あちらさまから、おつかひもの、とつてた。本草ほんざうにはまいが、あんずるに燒芋やきいもあんパンは浮氣うはきをとめるものとえる……が浮氣うはきがとまつたかうかは沙汰さたなし。たゞ坦懷たんくわいなる宙外君ちうぐわいくんは、此盆このぼんゆづりうけて、のままに彫刻てうこくさせて掛額かけがくにしたのであつた。

[現代語訳] が、びっくりするぐらい景気がいい川鉄に入って、土間の側の小さな座敷に陣取ると、臆病神が、細い路地の隅から現れ、逃げる道を探せよ探せよといってくる。電灯が閃くまもなく、暗い場所を指さしするのは弱った。積んだままの雑多な道具は絵屏風で仕切っている。さあ、一杯いかがと女中さんが声をかけてくるが、美しい衣服が似合う女中さんはどこにもいない。2メートル弱の屏風は飛んだが飛ばないかはわからないが、飛んださきの空き地はどこにもない。……そのくせ、酔った。酔うという心持ちに酔いしれた。第一この家は、昔はそば屋で、夏は三階の物干しでビールを飲んだ時からの馴染みだ。――座敷も、味わいこそ違うが、そのままの姿がある。……名物の額があるはずだ。横に二字。たしか(勤倹)とか書いてあり、(彦左衛門)として丸の中で朱色で(大久保)というハンコがあった。「いかさまでも、あれぐらいになると、珍品だよ」といって、尾崎紅葉先生はその額が大好きだった。――額は屏風に隠れていたかもしれない。

 まだ思い出すことがある。尾崎先生がここで、ひとりで酒をついで飲む……のはつけたしだが、90mLでうたたねをするほうだから、ご飯をあがっていると、隣の座敷で盛んに艷談をしながら、酒を沢山飲んでいる声がする。疑いはなく後藤宙外さんだった。宙外さんは近所で女中に焼き芋を買ってもらい、うずたかく盆に載せ、傍らにはあの名筆で書いたのは「浮気どめ」。焼き芋はぷんと匂って、三筋ほどの湯気がたって、あちら様から、贈り物ですと言って、持ってきた。「本草学」にはでていないだろうが、案ずるに焼き芋とあんパンには浮気をとめる力があるようだ。……本当に浮気がなくなったのかは、不明だが、ただおおらかな宙外君はこの盆を譲り受けて、そのまま彫刻をして掛け額にしたのである。

吃驚。びっくり。意外や突然なことに驚くこと。
たたき。三和土。土やコンクリートで仕上げた土間床。ここでは厨房を指す。
瞬くばかり。一瞬。
雑具。ざつぐ。ぞうぐ。種々雑多な道具
羅綾。らりょう。うすぎぬとあやぎぬ。美しい衣服
六尺。一尺の六倍。曲尺で約1.8メートル。
飛ばば。飛ぶことができれば
陶然。酒に酔ってよい気持ちになる。
なじみ。馴染み。本来は「馴染み客」で、いつも来てなれ親しんでいる客
趣。風情のある様子。あじわい
俤。おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿
勤倹。仕事にはげみ、むだな出費を少なくすること。勤勉で倹約すること。
いかもの。本物に似せたまがいもの。
珍物。ちんぶつ。珍しい物。珍品
独酌。どくしゃく。ひとりで酒をついで飲むこと。
勺。しゃく。尺貫法の容積の単位。1勺は約18ミリリットル。5勺は約90mL。
艷談。男女の情事に関する話。
メートルをあげる。酒を沢山飲んで勢いづく。
本草。ほんぞう。「本草学」の略。中国の薬物の学問で、薬物についての知識をまとめたもの。
坦懐。あっさりした、おおらかな気持ち。

春着|泉鏡花③

文学と神楽坂

 

横寺町 さて其夜そのよこゝへるのにもとほつたが、矢來やらい郵便局いうびんきよくまへで、ひとりでしたおぼえがある。もつと當時たうじあをくなつておびえたので、おびえたのが、可笑をかしい。まだ横寺町よこでらまち玄關げんくわんときである。「この電報でんぱうつてた。巖谷いはやとこだ、局待きよくまちにして、返辭へんじつてかへるんだよ。いそぐんだよ。」で、きよくで、局待きよくまちふと、局員きよくゐん字數じすうかぞへて、局待きよくまちには二字分にじぶん符號ふがうがいる。のまゝだと、もう(いち)音信おんしん料金れうきんを、とふのであつた。たしか、市内しない一音信いちおんしんきん五錢ごせんで、局待きよくまちぶんともで、わたし十錢じつせんよりあづかつてなかつた。そこで先生せんせいしたがきをると「ヰルナラタヅネル」一字いちじのことだ。わたしかう一考いつかうしてしかして辭句じくあらためた。「ヰルナラサガス」れなら、局待きよくまち二字分にじぶんがきちんとはひる、うまいでせう。――巖谷氏いはやし住所ぢうしよころ麹町かうぢまち元園町もとぞのちやうであつた。が麹町かうぢまちにも、高輪たかなわにも、千住せんぢゆにも、つこと多時たじにして、以上いじやう返電へんでんがこない。今時いまどきとは時代じだいちがふ。やまきよくかんにして、赤城あかぎしたにはとりくのをぽかんといて、うつとりとしてゐると、なゝめさがりのさかした、あまざけやのまちかどへ、なんと、先生せんせい姿すがた猛然まうぜんとしてあらはれたらうではないか。
 飛出とびだすのと、ほとん同時どうじで「馬鹿野郎ばかやらうなにをしてる。まるで文句もんくわからないから、巖谷いはやくるまけつけて、もううちてゐるんだ。うつそりめ、なにをしてる。みなが、くるまかれやしないか、うま蹴飛けとばされやしないかとあんじてるんだ。」わたしあをくなつた――(るならたづねる。)を――(るならさがす。)――巖谷氏いはやしのわけのわからなかつたのは無理むりはない。紅葉先生こうえふせんせい辭句じく修正しうせいしたものは、おそらく文壇ぶんだんおいわたし一人ひとりであらう。そのかはりるほどにしかられた。――なに五錢ごせんぐらゐ、自分じぶん小遣こづかひがあつたらうと、串戲じようだんをおつしやい。それだけあれば、もうはやくに煙草たばこ燒芋やきいもと、大福餅だいふくもちになつてた。煙草たばこ五匁ごもんめ一錢いつせん五厘ごりん燒芋やきいも一錢いつせんだい六切むきれ大福餅だいふくもち一枚いちまい五厘ごりんであつた。――其處そこ原稿料げんかうれうは?……んでもない、わたしはまだ一枚いちまいかせぎはしない。先生せんせいのは――内々ない/\つてゐるが内證ないしようにしてく。……

[現代語訳] さてその夜、ここに来るために通った場所である牛込郵便局の前で、ひとりで吹き出した記憶がある。もっとも当時は青くなって怯えていたのだが。おびえた仕草もまたおかしい。まだ横寺町の尾崎紅葉先生の玄関番としてそこにいた時である。「この電報をうってきな。巌谷小波氏のところだ。局待ちにして、返事は持って帰るんだよ。」で、局待ちというと、局員が字数を数えて、局待ちになると2字分の字数がさらに必要であり、このままだともう1通分の料金がいるというのだった。たしか市内は電報は5銭、局待ちをすると、10銭になる。これ以上の費用はもらっていない。そこで先生の下書きを見ると、「イルナラタズネル」と書いてある。1字分のことだ。私はもう一度、考えて、字句を改めた。「イルナラサガズ」。これなら局待ちの2字分もきちんと入る。うまいね。――巌谷氏の住所はその当時は麹町元園町だった。しかし、麹町でも、高輪でも、千住でも、待つ時間は多大だが、しかし、返電は来ない。今とでは時代が違う。山の手の郵便局は閑散として、赤城の下でニワトリが鳴くのをぽかんと聞いて、うっとりとしていると、斜め下の坂で、甘酒屋の町の角へ、なんと、先生の姿が猛然として現れたではないか。
 ただ見て飛び出すのと、ほとんど同時に「馬鹿野郎。何をやってる。全然言ったことがわからないから、巌谷は人力車で駆けつけて、もう家の中に来ているんだ。ぼんやり屋め。みんなが人力車にひかれないか、馬に蹴飛ばさないかと、心配していたんだ。」私は青くなった――(居るなら訪ねる)を――(要るなら捜す)に替えたのである――巖谷氏が訳がわからないのは無理はない。紅葉先生の字句を修正した人は、おそらく文壇では私一人だったろう。その代わり、目の出るほどに叱られた。――なに、5銭ぐらい、自分の小遣いがあるはずだと、冗談は言っちゃいけない。それだけあれば、もっと早く、煙草と焼き芋と大福餅を買っていた。煙草は約19グラムで1銭5厘、焼き芋が1銭で大で6切れ、大福餅は一枚5厘だった。――では原稿料は? ……とんでもない。私はまだ一枚も稼ぎはない。先生の原稿料は――内々に知っているが、内緒にしておく……

矢来の郵便局。旧牛込郵便局は左図の下方で→
横寺町。上図で。
玄関。泉鏡花氏は尾崎紅葉氏の玄関番でした。
局待。郵便物の配達先を郵便局気付けにしておくこと。
符号。ある事を表すために、一定の体系に基づいて作られたしるし。コード。
音信。おんしん。便り。おとずれ。
麹町元園町。元園町は右側のここ→。麹町元園町
高輪。ここで
千住。ここで←
赤城。赤城神社はこの上で。↑
猛然。勢いが激しい様子。
うっそり。ぼんやりしている様子。
五匁。ごもんめ。一匁は3.75グラム。五匁は18.75グラム
まるで。まるきり。全然

 まだ可笑をかしいことがある、ずツとあとで……番町ばんちやうくと、かへりがけに、錢湯せんたう亭主ていしゆが「先生々々せんせい/\ちやうひるごろだからほか一人ひとりなかつた。「一寸ちよつとをしへをねがひたいのでございますが。」先生せんせいで、おをしへを、で、わたしはぎよつとした。亭主ていしゆきはめて慇懃いんぎんに「えゝ(おかゆ)とはきますでせうか。」「あゝ、れはね、かうかうやつて、眞中まんなかこめくんです。よわしと間違まちがつては不可いけないのです。」なんと、先生せんせい得意とくいおもふべし。じつは、じやくを、こめ兩方りやうはうくばつたかゆいて、以前いぜん紅葉先生こうえふせんせいしかられたものがある。「手前勝手てまへがつてこしらへやがつて――先人せんじんたいして失禮しつれいだ。」そのしかられたのはわたしかもれない。が、ときおぼえがあるから、あたりをはらつて悠然いうぜんとしてをしへた。――いまはもうだいかはつた――亭主ていしゆ感心かんしんもしないかはりに、病身びやうしんらしい、おかゆべたさうなかほをしてた。女房にようばう評判ひやうばん別嬪べつぴんで。――のくらゐの間違まちがひのないことを、ひとをしへたことはないとおもつた。おもつたなりでとした。實際じつさいとした。ついちかころである。三馬さんば浮世風呂うきよぶろむうちに、だしぬけに目白めじろはうから、釣鐘つりがねつてたやうにがついた。湯屋ゆやいたのは(岡湯をかゆ)なのである。
[現代語訳] まだおかしいことがある。ずっと後で……この番町の銭湯に行くと、帰りがけに、銭湯の亭主が「先生、先生」という。ちょうど正午頃で、他の人はいなかった。「ちょっと教えをお願いしたいのですが]。先生で、お教えを、で、私はぎょっとした。亭主は極めて慇懃に「ええ、(おかゆ)とはどう書きますのでしょうか。」「ああ、それはね、弓、弓と書いて、真ん中に米を書くのです。弱いと間違ってはいけません。」なにせ先生の得意顔を思ってほしい。実は弱を米の両方に配った粥を書いて、以前、紅葉先生に叱られた人がある。「手前勝手に字を作りやがって――先人に対して失敬だ。」その叱られた人は私かもしれない。が、その時の記憶があるから、あたりの人がいないと確かめ、悠然と教えた。――今ではもう亭主は次の代に替わった――亭主は感心しない代わりに、病身らしく、おかゆを食べそうな顔をしていた。女房は評判の別嬪で――このくらい間違いのないことを、人に教えたことはないと思った。思ったなりに年を取った。実際、年月を経た。つい近頃である。式亭三馬の浮世風呂を読んでいると、だしぬけに目白の方から、釣り鐘が鳴ったようだが、これで気がついた。銭湯で聞いたのは((おか)())、つまり、入浴後に身体を清める湯のことだったのだ。

慇懃。真心がこもっていて、礼儀正しいこと
払う。取り除く。不用なもの、害をなすものなどを除く。
悠然。ゆうぜん。落ち着いてゆったりとしている
浮世風呂。式亭三馬作。1809~13年刊。江戸町人の社交場であった銭湯を舞台に、客の会話を通じて世相・風俗を描いたもの。写実性に富み、滑稽味豊かな作品。
目白。東京都豊島区南部、山手線目白駅周辺の地区。
おかゆ。陸湯。あがりゆ。上がり湯。かかりゆ。入浴後、身体を清めるのに使う湯。

春着|泉鏡花④

文学と神楽坂

 少々せう/\はなしとほりすぎた、あとへもどらう。
 まんちやんさそつたいへは、以前いぜんわたしんだ南榎町みなみえのきちやう同町内どうちやうないで、おく辨天町べんてんちやうはうつてことはすぐにれた。が、家々いへ/\んで、したがつてみちせまつたやうながする。ことよるであつた。むかしんだいへ一寸ちよつと見富けんたうかない。さうだらう兩側りやうがはとも生垣いけがきつゞきで、わたしうちなどは、木戸内きどうち空地あきち井戸ゐどりまいてすもゝ幾本いくほんしげつてた。すもゝにはから背戸せどつゞいて、ちひさなはやしといつていゝくらゐ。あの、そこあまみをびた、美人びじんしろはだのやうな花盛はなざかりをわすれない。あめにはなやみ、かぜにはいたみ、月影つきかげには微笑ほゝゑんで、淨濯(じやうたく)明粧めいしやう面影おもかげにほはせた。……
[現代語訳] 少々話は通りすぎた。もとに戻ろう。
 その日、この万ちゃんの家は、以前、私が住んでいた南榎町と同じ町内だが、弁天町の方へ近いことはすぐにわかった。が、家々は立て込んでいるし、したがって道も狭くなったよう気がする。ことに夜だった。むかし住んだ家はどこなのか、ちょっと見当はつかない。そう、両側とも生垣つづきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて、すももの木が何本も茂っていた。すももは庭から裏門まで続いて、小さな林といってもいいぐらい。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のような花盛を忘れない。雨では悩み、風では腐敗し、月影にはほほえんで、きよらかで美しいよそおいの面影を匂っていた。……

南榎町 弁天町。右図を
背戸 家の裏口。裏門。背戸(せど)(ぐち)
浄濯 きよらかで洗う。
明粧 美しいよそおい。美しい化粧。

 たゞ一間ひとまよりなかつた、二階にかい四疊半よでふはんで、先生せんせい一句いつくがある。

(ふん)きよう乳房ちぶさかくすや花李はなすもゝ

 ひとへしろい。ちゝくびの桃色もゝいろをさへ、おほひかくした美女びぢよにくらべられたものらしい。……しろはなの、つてころの、その毛蟲けむし夥多おびたゞしさとつては、それはまたない。よくも、あのみづんだとおもふ。一釣瓶ひとつるべごとにえのきのこぼれたやうなあか毛蟲けむし充滿いつぱい汲上くみあげた。しばらくすると、毛蟲けむしが、こと/″\眞白まつしろてふになつて、えだにも、にも、ふたゝ花片はなびららしてつてみだるゝ。幾千いくせんともかずらない。三日みつかつゞき、五日いつか七日なぬかつゞいて、ひるがへんで、まどにも欄干らんかんにも、あたゝかなゆきりかゝる風情ふぜいせたのである。
 やがてみのころよ。――就中なかんづくみなみ納戸なんど濡縁ぬれえんかき(ぎは)には、見事みごと巴旦杏はたんきやうがあつて、おほきなひ、いろといひ、えんなる波斯ペルシヤをんな爛熟らんじゆくした裸身らしんごとくにかをつてつた。いまだと早速さつそく千匹屋せんびきやへでもおろしさうなものを、川柳せんりうふ、(地女ぢをんなりもかへらぬ一盛ひとさか)それ、意氣いきさかんなるや、縁日えんにち唐黍たうきびつてかじつても、うちつたすもゝなんかひはしない。一人ひとりとして他樣ひとさまむすめなどに、こだはるものはなかつたのである。

[現代語訳] ただ住んでいるのは一間だけだった。二階の四疊半で、先生の一句がある。
     紛胸の乳房かくすや花李  (膨らんだ胸の乳房を隠すのか、花すもも)
 ひとえに白い。乳首の桃色さえ、おおいかくした美女に比べたものらしい。……この白い花が、散って葉になる頃の、その毛虫のおびただしさといっては、もうひどい。よくも、あの水を飮んだと思う。一釣瓶ごとに榎の実のこぼれたような赤い毛虫をいっぱいに汲みあげた。しばらくすると、この毛虫が、ことごとく真っ白な蝶になって、枝にも、葉にも、再び花片をちらして舞ってみだれていく。数は何千あるのか、わからない。三日続き、五日、七日続いて、蝶はひらめき、飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかかる風情を見みせたのである。
 やがて実る頃になる。――特に、南の納戸の濡縁にあった垣根には、見事な()(たん)(きょう)があって、おおきな実と言い、色といい、艷なるペルシャの女の爛熟した裸身のごとくに匂っていた。今では早速千匹屋でも卸そうなものだが、例の川柳では、(地女は振りもかへらぬ一盛り。訳すと、その土地の女なら無視する、これぞ若さだな)。つまり、意気のさかんな青年は、縁日のトウモロコシは買って食べても、家でなったすももなんか食いはしない。一人として他人様の娘などには、こだわる人はなかったのである。

 物事がもつれる。
ひとえ そのものだけだ。重ならないこと
翻る ひるがえる。風になびいて揺れ動く。ひらめく。
就中 なかんずく。多くの物事の中から特に一つを取り立てる様子。とりわけ。中でも。特に。
 ませ。竹や木で作った、目の粗い低い垣根。多く、庭の植え込みの周りなどに作る。
巴旦杏 はたんきょう。スモモの一品種。果実は大きい。熟すと赤い表皮に白粉を帯びて、甘い。食用。
地女 じおんな。その土地の女。商売女に対して、素人の女
一盛り ひとさかり。一時期盛んであること。若さの盛んな一時期。
こだわる 気にしなくてもいいようなことを気にする。

 が、いまはひらけた。そのころともだちがて、酒屋さかやから麥酒ビイルると、あわたない、あわが、麥酒ビイルけつしてあわをくふものはない。が、あわたない麥酒ビイル稀有けうである。酒屋さかやにたゞすと、「ときさかさにして、ぐん/\おりなさい、うするとあわちますよ、へい。」とつたものである。十日とをかはらくださなかつたのは僥倖げうかうひたい――いまはひらけた。
 たゞ、しいかななかまる大樹たいじゆ枝垂櫻しだれざくらがもうえぬ。新館しんくわん新潮社しんてうしやしたに、吉田屋よしだや料理店れうりてんがある。丁度ちやうどあのまへあたり――其後そのご晝間ひるまとほつたとき切株きりかぶばかり、のこつたやうにた。さかりときこずゑ中空なかぞらに、はなまちおほうて、そして地摺ぢずりえだいた。よるもほんのりとくれなゐであつた。むかしよりして界隈かいわいでは、通寺町とほりてらまち保善寺ほぜんじ一樹いちじゆ藁店(わらだな)光照寺くわうせうじ一樹いちじゆ、とともに、三枚振袖みつふりそで絲櫻いとざくら名木めいぼくと、となへられたさうである。
 むかがは湯屋ゆややなぎがある。此間このあひだを、をとこをんなも、一頃ひところそろつて、縮緬ちりめん七子なゝこ羽二重はぶたへの、くろ五紋いつゝもんした。くにも、蕎麥屋そばやはひるにも紋付もんつきだつたことがある、こゝだけでもはるあめ、また朧夜おぼろよ一時代いちじだい面影おもかげおもはれる。
 つい、その一時代前ひとじだいまへには、そこは一面いちめん大竹藪おほたけやぶで、よわ旗本はたもとは、いまの交番かうばんところまでひるけたとふのである。酒井家さかゐけ出入でいり大工だいく大棟梁おほとうりやうさづけられて開拓かいたくした。やぶると、へび場所ばしよにこまつたとふ。ちひさなだうめてまつつたのが、のちに倶樂部くらぶ築山つきやまかげたにのやうながけのぞんであつたのをおぼえてる。いけちん小座敷こざしきれうごのみで、その棟梁とうりやう一度いちど料理店れうりてん其處そこひらいたときのなごりだといた。
[現代語訳] が、今では開けた。その頃、友だちが来て、酒屋からビールを取ると、泡が立たない。ビールは泡を食べるのはないが、泡の立たないビールは稀だ。酒屋にただすと、「抜く時にさかさにして、ぐんぐん、ふりなさい。そうすると泡が立ちますよ、へい。」といわれた。十日間、腹をくださなかったのは僥倖といいたい――今は開けた。
 ただ、惜しいことがある。中の丸の大樹のしだれ桜がもう見えない。新館の新潮社の下に、吉田屋という料理店がある。ちょうどあの前のあたり――その後、昼間通った時、切株ばかりが見えて、根だけが残ったように見えた。盛りの時は梢が中空に、花は町をおおい、そして地摺りの文様には枝を使っていた。夜もほんのりと紅色だった。昔から界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店光照寺に一樹とともに、三樹合わせて、三枚振袖として、糸桜の名木と、称えられたそうだ。
 向側の銭湯に柳がある。このあいだ、少し前だが、男も女も、そろって、縮緬と羽二重の絹織物、金工技法の魚々子、さらに黒の五紋を着て町に出た。湯へ行くにも、そば屋へ入るにも紋着だった。ここだけでも春の雨、また朧夜という一時代が思い出される。
 その一時代前には、一面の大竹藪で、気の弱い旗本は、いまの交番のところまで昼も駆け抜けたというのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が工事を請け負い、開拓した。藪を切ると、何匹も蛇が出てきて、捨てる場所がなく、困ったという。小さな堂にまとめて祭ったのだが、矢来倶楽部の築山の影に谷のような崖があり、堂はそこにあったと覚えている。その棟梁は池、東屋、小座敷、茶室などが大好きで、この堂も一度料理店をそこに開いた時のなごりだと聞いた。

僥倖 ぎょうこう。思いがけない幸い。偶然に得る幸運
惜しい おしい。大切なものを失いたくない。むだにすることが忍びない。もったいない。
地摺り じずり。生地に文様を摺り出した織物。地に藍や金泥で模様を摺り出すこと、その織物。
曳く ひく。地面をこすって進むようにする。引きずる
となえる 唱える。称える。名づけていう。呼ぶ。称する。
縮緬 表面に細かい(ちぢみ)) がある絹織物。縦糸に()りのない生糸、横糸に強く撚りをかけた生糸を用いて平織りに製織した。
七子 ななこ。魚々子。魚子、七子、魶子とも書く。金工技法の一つ。切っ先の刃が小円となった(たがね)を打ち込み、金属の表面に細かい(あわ)粒をまいたようにみせる技法。
羽二重 日本の代表的な高級絹織物の一種。生糸を用いて平織か綾織にしたのち、精練と漂白をして白生地とし、用途によって無地染や捺染模様染にする。
五紋 着物に付いている家紋の数。一つ紋は家紋は背中心に1つ。三つ紋はさらに両後ろ袖。五つ紋はさらに両胸。紋が増えるほど格が高くなり、黒留袖と喪服は必ず五つ紋。写真は五つ紋。
紋着 紋をいれた着物。「格」が最高な紋着は礼装着(第一礼装)で、打掛、黒留袖、本振袖、喪服など。
授かる さずかる。神仏や上位の人から、大切なものを与えられる。授けられる。 学問や技術を師から与えられる。
 神仏を祭る建物。
籠める こめる。物の中にいれる。詰める。表に出さないよう包み隠す。閉じこめる。
 眺望や休憩のために高台や庭園に設けた小さな建物。あずまや。
 茶室としてつくった小さな建物。数寄屋。江戸の富裕町人の別宅。下屋敷。
ごのみ 好み。名詞の下に付いて、複合語をつくる。好きなものの傾向。ある時代や、ある特定の人に好まれた様式

 かけはしちんで、はるかにポン/\とおる。へーい、と母家おもやから女中ぢよちうくと、……たれない。いけうめ小座敷こざしきで、トーンと灰吹はひふきたゝおとがする、むすめくと、……かげえない。――その料理屋れうりやを、たぬきがだましたのださうである。眉唾まゆつば眉唾まゆつば
 もつともいま神樂坂上かぐらざかうへ割烹かつぱう魚徳うをとく)の先代せんだいが(威張ゐばり)とばれて、「おう、うめえものはねえか」と、よつぱらつてるから盤臺ばんだい何處どこかへわすれて、天秤棒てんびんぼうばかりをりまはして歩行あるいたころで。……
 矢來邊やらいへんは、たゞとほくまで、榎町えのきちやう牛乳屋ぎうにうや納屋なやに、トーン/\とうし跫音あしおとのするのがひゞいて、いまにも――いわしこう――酒井家さかゐけ裏門うらもんあたりで――眞夜中まよなかには――いわしこう――と三聲みこゑんで、かたちかげえないとふ。……あやしいこゑきこえさうなさびしさであつた。
[現代語訳] 架け渡した橋の東屋で、遙かにポンポンとお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰もいない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹をたたく音がする、娘が行くと、……影も見えない。――その料理屋を、狸がだましたのだそうである。ご用心。ご用心。
 もっともいま神楽坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張(いば)り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食わねえか」と、酔っ払っているから魚を運ぶ盤台はどこかに忘れて、天秤棒だけを振りまわして歩いた頃で。……
 矢来あたりの夜は、ただ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーントーンと牛の足音のするのが響いて、今にも――いわしこう――酒井家の裏門あたりで――真夜中には――鰯こう――と三回、売り子が売る声が聞こるが、形も影も見えないという。……怪しい声が聞こえそうな寂しさだった。

 サン。かけはし。険しいがけなどに、架け渡した橋。かけはし
はるか 遥か距離が遠く隔たっているさま
灰吹 タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。
眉唾 まゆつば。眉に唾をつければ狐や狸にだまされないと信じられたことから、だまされないように用心すること。信用できないこと。真偽の疑わしいこと。
盤台 はんだい。ばんだい。板台。半台。魚屋が魚を運ぶために浅くて大きな楕円形か円形の桶。比較的小型の円形のものはすし飯を作るのに用いる。

鈴木春信 『水売り』/棒手売をする水売りの童子を描いた浮世絵。1760年代の作。東京国立博物館所蔵

天秤棒 両端に荷をかけ物を運ぶための棒。中央を肩にあてかついで運ぶ。天秤とも。
榎町 左図を参照。
いわしこう 鰯こう。後半に「鰯こ」と書いているところもあります。「…こ」「…っこ」は①まだ一人前でない状態の人物や動物などで、乳幼児、ひな、幼虫など。たとえば「売り子」「おばあさんこ」「売れっ子」「江戸っ子」など。②特定の状態にいる人物や動物、物品で、たとえば「振り子」「根っこ」など。いわしを売っていた売り子が「いわしこ」「いわしこう」と声を掛けながら売っていたのでしょう。三浦哲郎が書いた『笹舟日記』の随筆「鰯たちよ」(毎日新聞、1973年)では「鰯っこ」で出ています。家で食べる食品としての鰯なのです。

春着|泉鏡花⑤

はるかねうなりけり九人力くにんりき

 それは、そのすもゝはなはなすもゝころ二階にかい一室いつしつ四疊半よでふはんだから、せまえんにも、段子はしごうへだんにまで居餘ゐあまつて、わたしたち八人はちにん先生せんせいはせて九人くにん一夕いつせき俳句はいくくわいのあつたとききようじようじて、先生せんせいが、すゝいろ古壁ふるかべぶつつけがきをされたものである。かたはらに、おの/\のがしるしてあつた。……神樂坂かぐらざかうらへ、わたし引越ひつことき、そのまゝのこすのはをしかつたが、かべだからうにもらない。――いゝ鹽梅あんばいに、一人ひとりあひがあとへはひつた。――ほこりけないとつて、大切たいせつにしてた。

[現代語訳] 春の夜 鐘がうなるよ 九人力
 すももの花、つまり花のすももの季節になり、二階の一室に、四畳半だから、狭い部屋のへりでも、梯子の上の段でも、人間が集まってくる。わたしたちは八人、尾崎紅葉先生を加えて九人で、ある夕方、俳句の会があり、興に乗じて、先生が煤色の古壁に下書きをしないで書いたものである。句のそばには各自の名前がしるしてあった。……神楽坂へ、私が引越す時、そのまま残すのは惜しかったが、壁だからどうにもならない。――いい工合に、一人の知り合いが後に入った。――ほこりはかけないといって、大切にしていた。

 物の端の部分。物の周りで一定の幅をもった部分。へり。
一夕 いっせき。ひと晩。一夜
すす色 すすいろ。煤色。煤の色。薄い墨色。すす。 #887f7a
ぶっつけがき 打っ付け書き。下書きをしないで、すぐに書くこと。
あんばい 塩梅。按排。按配。味の基本である塩と梅酢の意の「えんばい」と、物をぐあいよく並べる意の「按排」とが混同した語。料理の味加減。物事や身体のぐあいや様子。

 ――五月雨さみだれ陰氣いんき一夜あるよさかうへから飛蒐とびかゝるやうなけたゝましい跫音あしおとがして、格子かうしをがらりと突開つきあけたとおもふと、神樂坂下かぐらざかした新宅しんたく二階にかいへ、いきなり飛上とびあがつて、一驚いつきやうきつしたわたしつくゑまへでハタとかほはせたのは、知合しりあひのそのをとこで……眞青まつさをつてる。「大變たいへんです。」「……」「ばけものがます。」「……」「先生せんせいかべのわきの、あの小窓こまどところつくゑいて、勉強べんきやうをしてりますと……う、じり/\とあかりくらりますから、ふいとますと、障子しやうじ硝子がらす一杯いつぱいほどのねこかほが、」と、ぶるひして、「かほばかりのねこが、すもゝ眞暗まつくらなかから――おほきさとつたらありません。そ、それが五分ごぶがない、はなくち一所いつしよに、ぼくかほとぴつたりと附着くツつきました、――あなたのお住居すまひ時分じぶんから怪猫ばけねこたんでせうか……一體いつたいねこ大嫌だいきらひで、いえ可恐おそろしいので。」それならば爲方しかたがない。が、怪猫ばけねこ大袈裟おほげさだ。五月闇さつきやみに、ねこ屋根やねをつたはらないとはたれよう。……まどのぞかないとはかぎらない。しかし、可恐おそろしねこかほと、不意ふい顱合はちあはせをしたのでは、おどろくも無理むりはない。……「それで、矢來やらいから此處こゝまで。」「えゝ。」といきいて、「夢中むちうでした……なにしろ、正體しやうたいを、あなたにうかゞはうとおもつたものですから。」
[現代語訳] ――五月雨さみだれの陰気な一夜、坂の上から飛びかかるようなけたたましい足音がして、格子をがらりと開けたと思うと、神楽坂下のその新宅の二階へ、いきなり飛び上がって、驚いた私の机の前でハタと顔をあわせたのは、知り合いのその男で……真っ青になっていた。「たいへんです。」「……」「化けものが出ます。」「……」「先生の壁のわきの、あの小窓のところに机を置いて、勉強をしておりますと……こう、じりじりと灯りが暗くなりますから、ふいと見ますと、障子のガラス一杯ほどの猫の顔が、」と、身ぶるいして、「顔ばかりの猫が、すももの葉の真っ暗な中から――その大きさといったらありません。そ、それがほとんど時間はなく、目も鼻も口も一緒に、僕の顔とぴったりとくっつきました。――あなたのお住居の時分から怪猫がいたんでしょうか……本当に猫が大嫌いで、いえおそろしいので。」それならばしかたがない。が、怪猫は大袈裟だ。陰暦5月の暗やみに、猫が屋根をつたわらないとは誰がいえよう。……窓の灯を覗かないとは限らない。しかし、おそろしい猫の顔と、不意に鉢合わせをしたのでは、驚くのも無理はない。……「それで、矢来町からここまで。」「ええ。」と息を吸い、「夢中でした……何しろ、正体を、あなたにうかがうと思ったものですから。」

一驚 いっきょう。驚くこと。びっくりすること。
きっする 吃する。喫する。(よくないことを)受ける。こうむる。
五分 あとに打消しの語を伴って)ほんのわずか(もない)。「五分のすきもない」
五月闇 さつきやみ。陰暦5月の、梅雨が降るころの夜の暗さや、暗やみ。

いまむかし山城介やましろのすけ三善春家みよしはるいへは、まへ蝦蟆がまにてやありけむ、くちなはなんいみじおぢける。――なつころ染殿そめどの辰巳たつみやま木隱こがくれに、君達きみたち二三人にさんにんばかりすゞんだうちに、春家はるいへまじつたが、ひとたりけるそばよりしも、三尺許さんじやくばかりなる烏蛇くろへび這出はひでたりければ、春家はるいへはまだがつかなかつた。ところを、君達きみたち、それ春家はるいへ。と、そでこと一尺いつしやくばかり。春家はるいへかほいろくちあゐのやうにつて、一聲ひとこゑあつとさけびもあへず、たんとするほどに二度にどたふれた。すはだしで、その染殿そめどのひがしもんよりはしで、きたざまにはしつて、一條いちでうより西にしへ、西にし洞院とうゐん、それからみなみへ、洞院下とうゐんさがりはしつた。いへ土御門西つちみかどにし洞院とうゐんにありければで、むと(ひと)しくたふれた、とふのが、今昔物語こんじやくものがたえる。とほきそのむかしらず、いまのをとこは、牛込南榎町うしごめみなみえのきちやう東状ひがしざまはしつて、矢來やらいなかまるより、通寺町とほりてらまち肴町さかなまち毘沙門びしやもん(まへ)はしつて、みなみ神樂坂上かぐらざかうへはしりおりて、そのしたにありける露地ろぢいへ飛込とびこんで……打倒うちたふれけるかはりに、二階にかい駈上かけあがつたものである。あま眞面目まじめだからわらひもならない。「まあ、落着おちつきたまへ。――景氣けいきづけに一杯いつぱい。」「いゝえ、かへります。――成程なるほどねこ屋根やねづたひをして、まどのぞかないものとはかぎりません。――わかりました。――いえうしてはられません。ぼくがキヤツとつて、いきなり飛出とびだしたもんですから、あれが。」とふのが情婦いろで、「一所いつしよにキヤツとつて、跣足はだし露地ろぢくらがりを飛出とびだしました。それつきり音信いんしんわかりませんから。」あわててかへつた。――知合しりあひたれとかする。やがて報知新聞はうちしんぶん記者きしや、いまは代議士だいぎしである、田中萬逸君たなかまんいつくんそのひとである。反對黨はんたいたうは、ひやかしてやるがいゝ。
[現代語訳] 今昔物語集によれば、山城国次官の三善春家は、前の世ではがま(・・)だったのか、蛇を非常に恐れていた。――夏のころ、築山が藤原良房の邸宅から南東方にあり、その木陰で、貴人二、三人と春家は涼んでいた。春家がいた側から、1メートルぐらいの黒っぽい蛇が這い出てきたが、春家はまだ気がつかず、ところが、貴人は、おい見てくれ、春家、と、袖から30cmほど離れた蛇を指さした。春家の顏の色は腐ったように青色になって、一声あっと叫び、立とうとして二度倒れた。裸足で、その藤原邸の東門から走り出て、北方に走り、一条より西へ、西洞院、それから南へ、洞院下へと走った。家は土御門西洞院にあるので、駈け込むと同時に倒れた、という説話がある。その昔については知らないが、この男は、牛込南榎町を東に走って、矢来中の丸から、通寺町、肴町、毘沙門前を走って、南に神楽坂上を走りおり、その下にあった路地の家へ飛びこんで……倒れるかわりに、二階へ駈け上ったものである。あまり生真面目だから笑うこともできない。「まあ、落ち着きたまえ。――景気づけに一杯。」「いいえ、帰ります。――なるほど、猫は屋根を伝って、窓をのぞかないものとは限りません。――わかりました。――いえ、そうしてはいられません。ぼくがキャッといって、いきなり飛びだしたもんですから、あの人も。」とは情婦で、「一緒にキャッといって、裸足で露地の暗がりに飛びだしました。それっきり音信がわかりませんから。」慌てて帰った。――この知い合いは誰だろう、かの報知新聞の記者、いまは代議士の、田中万逸君その人である。反対党は、ひやかしをしてみるがいい。

山城介 山城国の次官
染殿 そめどの。摂政藤原良房の邸宅。
辰巳 たつみ。方角の名。南東。辰と巳との間。
 築山。つきやま。庭園などに小高く土を盛って作ったもの。
君達 ここでは、貴人や目上の人をいう語。お方。
朽ちる くちる。腐ってぼろぼろになる。
すはだし 素裸足。足に何もはいてないこと。はだし
斉しく ひとしく。等しく。全体的に一様で。どれも同じ。同様。ともに。そろって同じ行動をとる。同時に。一斉に。するや否や。
今昔物語集 平安後期の説話集。編者未詳。1059話(うち本文を欠くもの19話)を31巻に編成。ただし巻八、巻十八、巻二十一は欠巻。本朝部の説話はあらゆる地域と階層の人間が登場。生き生きした人間性を描写。
大正11年。東京市牛込区。南榎町 牛込。右図を。以前の鏡花氏の家が見えます。
矢来町中の丸 右図を。
通寺町 右図を。現在は神楽坂6丁目
肴町 右図を。現在は神楽坂5丁目
毘沙門 右図を。
神楽坂上 右図を。
露地の家 今(当時)の鏡花氏の家です。

が、その、もう一度いちどおびやかされた。眞夜中まよなかである。そのころ階下した學生がくせいさんが、みし/\と二階にかいると、寢床ねどこだつたわたしまくらもとで大息おほいきをついて、「へんです。……どうもへんなんです――縁側えんがは手拭掛てぬぐひかけが、ふはりと手拭てぬぐひけたまゝで歩行あるくんです。……トン/\トン、たゝらをやうにうごきましたつけ。おやとおもふとはすかひに、兩方りやうはうひらいて、ギクリ、シヤクリ、ギクリ、シヤクリとしながら、後退あともどりをするやうにして、あ、あ、とおもふうちに、スーと、あのえんつきあたりの、戸袋とぶくろすみえるんです。へんだとおもふと、またまへ手拭掛てぬぐひかけがふはりとて……ると、トントントンとんで、ギクリ、シヤクリ、とやつて、スー、うにも氣味きみわるさつたらないのです。――一度いちどてみてください。……矢來やらいねこが、田中君たなかくんについてたんぢやあないんでせうから。」五月雨さみだれはじと/\とる、そと暗夜やみだ。わたし一寸ちよつと悚然ぞつとした。
[現代語訳]] が、その夜、もう一回、おびやかされた。真夜中である。その頃階下にいた学生さんが、みしみしと二階へくると、寝床だった私の枕もとで大きな息をついて、「へんです。……どうもへんなんです――縁側の手拭掛けが、ふわりと手拭をかけたままで歩くんです。……トントントン、ふいごを踏むように動きましたっけ。おやと思うと斜めになって、両方へ開いて、ギクリ、シャクリ、ギクリ、シャクリとしながら、後退をするようにして、あ、あ、と思ううちに、スーと、あの縁の突きあたりの、戸袋の隅へ消えるんです。へんだと思うと、また目の前へ手拭掛けがふわりとでて……出ると、トントントンと踏んで、ギクリ、シャクリ、とやって、スー、どうにも気味の悪るさったらないんです。――一度見てみて下ください。……矢来町の猫が、田中君くんについて来たんじゃあないでしょうか。」五月雨はじとじとと降り、外は闇だ。私もちょっとぞっとした。

たたらを踏む 踏鞴を踏む。たたらは送風装置のふいごのこと。ふいごを踏んで空気を送る。勢いよく向かっていった的が外れて、から足を踏む。

春着|泉鏡花⑥

文学と神楽坂

 はゝあ、怪談くわいだんりたさに、前刻さつきたぬき持出もちだしたな。――いや、あへうではない。
 ふものか、のごろわたしのおともだちは、おばけとふとまゆひそめる
 口惜くやしいから、紅葉先生こうえふせんせい怪談くわいだんひとかせよう。先生せんせい怪談くわいだんきらひであつた。「いづみが、またはじめたぜ。」そのたゞひとつの怪談くわいだんは、先生せんせいが十四五のとき、うらゝかなはる日中ひなかに、一人ひとり留守るすをして、ちやにゐらるゝと、臺所だいどころのおへツつひえる。……へツつひかどに、らくがきのかにのやうな、ちひさなかけめがあつた。それがひだりかどにあつた。が、陽炎かげろふるやうに、すつとみぎかどうごいてかはつた。「たゞそれだけだよ。しかしいまでも不思議ふしぎだよ。」とのことである。――ねこまどのぞいたり、手拭掛てぬぐひかけをどつたり、へツつひかにつたり、ひよいとさいつてたやうである。はるだからお子供衆こどもしう――に一寸ちよつと……ばけもの雙六すごろく。……
[現代語訳] ははあ、この怪談をやりたくて、さっき狸を持出したな。――いや、全然違う。
 どういうものかわからないが、このごろ私のおともだちは、おばけというと眉をひそめる。
 くやしいから、紅葉先生の怪談をひとつ聞かせてみよう。先生も怪談はきらいであった。「泉が、またはじめたぜ。」そのただひとつの怪談は、先生が十四、五の時、うららかな春の日中に、ひとりで留守をしていたが、茶室にいると、台所のかまどが見える。……かまどの角に、らくがきで書いた蟹のやうな、小さな割れ目があつた。それが左の角にあった。が、陽炎にのるように、すっと右の角へ動いた。「ただそれだけだよ。しかし今でも不思議だよ。」とのことである。――猫が窓を覗いたり、手拭掛けが踊ったり、かまどの蟹がはったり、ひょいとさいころを振って出でたようである。春から子供衆に――ちょっと……化け物すごろくだ。……

敢えて。特に取り立てるほどの状態ではないことを表す。必ずしも。打消しを強める。少しも。全く。
眉を(ひそ)める。他人の嫌な行為に不快を感じて顔をしかめる。眉根を寄せる。
竈。かまど。へっつい。 土・石・煉瓦などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。
かけめ。欠け目。欠目。不足した目方。減量。欠けて不完全な部分。
陽炎。かげろう。春、晴れた日に砂浜や野原に見える色のないゆらめき。大気や地面が熱せられて空気の密度が不均一になり、通過する光が不規則に屈折するため見られる現象。
賽。さい。さいころとも。立方体に1〜6の目を刻み、すごろくや賭博等に用いる遊具。
化け物双六。双六は紙面を多数に区切って絵を描いたものを用いる。化け物双六は絵に化け物が書いてある。数人が順にさいを振って、出た目の数だけ区切りを進み、早く最後の区切り(上がり)に達した者を勝ちとする遊び

 なき柳川春葉やながはしゆんえふは、よくつみのないうそつて、うれしがつて、けろりとしてた。――「按摩あんまあ……はありツ」とたちまみつきさうに、霜夜しもよ横寺よこでらとほりでわめく。「あ、あれはね(按摩あんま)とつてね、矢來やらいぢや(いわしこ)とおんなじに不思議ふしぎなかはひるんだよ」「ふう」などと玄關げんくわん燒芋やきいもだつたものである。花袋くわたい玉茗ぎよくめい兩君(りやうくん)が、そちこち雜誌類ざつしるゐえたころ、よそからかへつてるとだしぬけに「きみ、いてたよ。――花袋くわたいふのは上州じやうしう或大寺あるおほでら和尚をしやうなんだ、花袋和尚くわたいをしやう僧正そうじやうともあるべきが、をんなのために詩人しじんつたんだとね。玉茗ぎよくめいふのは日本橋室町にほんばしむろまち葉茶屋はぢやや若旦那わかだんなだとさ。」
[現代語訳] 亡き柳川春葉は、よく罪のない嘘をいって、うれしがって、けろりとしていた。――「按摩あ……鍼っ」と急にかみつくように、霜の降る夜、横寺町の通りでわめく。「あ、あれはね(ほえ按摩)といってね、矢来町じゃ(鰯こ)とおなじで、不思議の中へはいるんだよ」「ふう」などと玄関でやきいもを食べた時にいったものだ。田山花袋太田玉茗の二人の名前が、あちこちの雑誌類にみえた時も、よそから帰ってくるとだしぬけに「きみ、聞いてきたよ。――花袋というのは群馬県のある大寺の和尚なんだ。花袋和尚。僧正ともあるべき人が、女のために詩人になったんだとね。玉茗というのは日本橋室町の葉茶屋の若旦那だとさ。」

上州。じょうしゅう。上野(こうずけ)国の別名。群馬県のほぼ全域。
葉茶屋。はちゃや。茶の葉を売る店。

このひとのいふのだからあてにはらないが、いま座敷ざしきうけの新講談しんかうだん評判ひやうばん鳥逕子てうけいしのおとうさんは、千石取せんごくどり旗下はたもとで、攝津守せつつのかみ有鎭いうちんとかいて有鎭ありしづとよむ。村山攝津守むらやませつつのかみ有鎭ありしづ――やしき矢來やらい郵便局いうびんきよく近所きんじよにあつて、鳥逕てうけいとはわたしたち懇意こんいだつた。渾名あだなとび鳥逕てうけいつたが、厚眉こうび隆鼻りうびハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町はらひかたまち教會けうくわい背負しよつてつた色男いろをとこで……おとうさんの立派りつぱ藏書ざうしよがあつて、わたしたちはよくりた。――そのおとうさんをつてるが、攝津守せつつのかみだか、有鎭ありしづだか、こゝが柳川やながはせつだからあてにはらない。その攝津守せつつのかみが、わたしつてるころは、五十七八の年配ねんぱい人品ひとがらなものであつた。つい、そのころもんて――あき夕暮ゆふぐれである……何心なにごころもなく町通まちどほりをながめてつと、箒目はゝきめつたまちに、ふと前後あとさき人足ひとあし途絶とだえた。そのとき矢來やらいはうから武士ぶし二人ふたりて、二人ふたりはなしながら、通寺町とほりてらまちはうへ、すつととほつた……四十しじふぐらゐのと二十はたちぐらゐの若侍わかざむらひとで。――るうちに、郵便局いうびんきよくさかさがりにえなくなつた。あゝ不思議ふしぎことがとおもすと、三十幾年さんじふいくねんの、維新前後ゐしんぜんごに、おなじとき、おなじせつ、おなじもんで、おなじ景色けしきに、おなじ二人ふたりさむらひことがある、とおもふと、悚然ぞつとしたとふのである。
 これすこしくものすごい。……
 初春はつはることだ。おばけでもあるまい。
[現代語訳] この人がいうのだからあてにはならないが、いま宴会でうけのいい新講談で、評判も高い鳥径子のお父さんは、千石取りの旗下で、摂津守、有鎮(ゆうちん)とかいて有鎮(ありしづ)とよむ。村山摂津守の有鎮で――その邸宅は矢来の郵便局の近所にあって、鳥径は私たちにとっては懇意だった。渾名を鳶の鳥鎮といったが、眉は厚く鼻は高く、ハイカラのクリスチャンで、そのころ払方町の教会をしょってたった色男で……お父さんの立派な蔵書があって、私たちはよく借りた。――そのお父さんを知っているが、摂津守なのか、有鎮なのか、ここが柳川の説だからあてにはならない。私の知っている頃は、その摂津守は、五十七八の年配で、人柄もよく、その話では、その頃、門へでて――秋の夕暮である……なんの心構えもなく町通をながめて立っていると、箒で地面を掃いた町に、ふと前後の人足がとだえた。その時、矢来町の方から武士が二人やってきて、二人で話しながら、通寺町の方へ、すっと通った……四十ぐらいの人と二十ぐらいの若侍だった。――すると、みるうちに、郵便局の坂を下がってみえなくなった。ああ不思議なことがあると思いだすと、三十余年の前にも、維新前後に、同じ時間、同じ時期、同じ門で、同じ景色に、同じ二人の侍を見たことがある、と思うと、ぞっとしたというのである。
 これはいささか、もの凄い。……
 初春のことだ。おばけでもあるまい。

座敷。宴会の席。酒席。また、酒席での応対。
新講談。講談の様式と題材を採り入れて、最初から書き言葉で表現した物語。大正2年、講談社の『講談倶楽部』が掲載した。のちに大衆文学に推移した。
摂津守。せっつのかみ。大阪府北中部の大半と兵庫県南東部。
忽ち。たちまち。非常に短い時間のうちに動作が行われる様子。すぐ。即刻。突然、ある事態が発生する様子。にわかに。急に。にわかに。急に。
払方町の教会。右図を参照。
箒目。ほうきめ。箒で地面を掃いたあとの模様。
悚然。しょうぜん。竦然。恐れて立ちすくむ様子。こわがる様子。慄然(りつぜん)。 少しく。わずかに。すこし。いささか。

春着|泉鏡花⑦

 春着はるぎにつけても、ひとつやつぽいところをおけよう。
 ときに、川鐵かはてつむかうあたりに、(水何みづなに)とかつた天麩羅屋てんぷらやがあつた。くどいやうだが、一人前いちにんまへ、なみで五錢ごせん。……横寺町よこでらまちで、おぢやうさんのはつのお節句せつくときわたしたちはこれ御馳走ごちそうつた。その時分じぶん先生せんせい御質素ごしつそなものであつた。二十幾年にじふいくねんもつとわたしなぞは、いまもつて質素しつそである。だんは、勤儉きんけんだいして、(大久保おほくぼ)のいんしてもい。
[現代語訳] 新春の着物につけても、ひとつ艷っぽいところをお目にかけよう。
 そのとき、川鉄のむかうあたりに、(水何)とかいった天麩羅屋があった。くどいようだが、一人前、並で五銭。……横寺町で、お孃さんの最初のお節句の時、私たちはここでご馳走になった。その時分、尾崎紅葉先生の生活は御質素なものだった。二十数年が経つが、もっとも私なぞは、今もって質素である。この場合は、勤倹と題して、(大久保)の印を押してもいい。

水何 これは岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」によれば、「水文料理」だったのでしょうか。ほかには全くありません。
 初めてであること。初め。最初。
 技量・品質などによる格付け。また、その格。変化・進行している物事の過程の一つ一つ。場面。局面

 その天麩羅屋てんぷらやの、しかも蛤鍋はまなべ三錢さんせんふのをねらつて、小栗をぐり柳川やながは徳田とくだわたし……宙外ちうぐわいくんくははつて、大擧たいきよして押上おしあがつた、春寒はるさむ午後ごごである。銚子てうしいりわるくつて、しかも高値たかいとふので、かただけあつらへたほかには、まち酒屋さかやから、かけにしてばん口説くどいた一升入いつしよういり貧乏徳利びんぼふどくりたれかが外套ぐわいたうちう。おなじく月賦げつぷ……這個このまつくろなのを一着いつちやくして、のそ/\と歩行あるやつを、先生せんせいあざけつて――月府げつぷげんせん。)のしたしのばしたいきほひだから、氣焔きえんと、殺風景さつぷうけいしてるべしだ。……酒氣しゆき天井てんじやうのではない、いんこもつてたゝみけこげをころまはる。あつかんごと惡醉(あくすゐ)たけなはなる最中さいちう
[現代語訳] その天麩羅屋の、しかも蛤鍋三銭というのを狙って、小栗柳川徳田……宙外君が加わって、大挙して店の上に登った。春の寒い午後である。お銚子は効いてこなくって、しかも高値というので、注文は一本だけで、ほかには、町の酒屋の番人にあと払いにと口説き、一升入りの貧乏徳利を誰かが外套の下に(註。外套はおなじく月賦で買ったもの……この真っ黒な着物をつけ、のそのそと歩く人を、先生は嘲って――月府黒蝉と呼ぶ)、勢いで忍ばしたので、威勢のよさと、殺風景なのはよくわかる。……酒気をおびて天井の一点を強く押すのではない。陰にこもって畳の焼けこげを転んでいるのだ。あつ燗で火のような悪酔いは、今や、たけなわである。

大挙 たいきょ。多数のものが一団となって行動すること
銚子 燗をつけた酒を移し入れる器。現代では銚子と徳利はまず同じ意味。
いり はいること。収入。費用。分量やはいりぐあい。かかり
 一定のやり方。作法。きまり。ひとそろい。
かけ 掛け。掛け買い。代金あと払いの約束で品物を買うこと。
 交代して行われる勤務。順送りに入れ替り事に当たること。順番。注意して見張ること。番人。

貧乏徳利 びんぼうどくり。びんぼうどっくり。円筒形の上部に長めの口をつけた陶製の粗末な徳利。
 げん。黒い色。黒。
忍ぶ しのぶ。他人に知られないようにこっそりと何かをする。
勢い はずみ。なりゆき。
気焔 きえん。気炎。燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。
衝く 細い物で一点を強く押す。弱点などを攻める。刺激する。物ともせず進む。
悪酔い わるよい。酒に酔って頭が痛くなったり、吐き気を覚えたり、まわりの人が不快になる言動をとること
 たけなわ。酣。行事・季節などが最も盛んになった時。

連樣つれさまつ――と下階したから素頓興すとんきようこゑかゝると、「みんなるかい。」と紅葉先生こうえふせんせいこゑがした。まさか、壺皿つぼざらはなかつたが、驚破すはことだと、貧乏徳利びんぼふどくり羽織はおりしたかくすのがある、誂子てうしまた引挾ひつぱさんで膝小僧ひざこぞうをおさへるのがある、なべ盃洗はいせんみづ打込ぶちこむのがある。わたしをついてかしこまると、先生せんせいにはお客分きやくぶん仔細しさいないのに、宙外ちうぐわいさんもけむかれて、かた四角しかくすわなほつて、さけのいきを、はあはあと、もつぱらピンとねたひげんだ
[現代語訳] おつれさまっ――と下階から素っ頓狂な声がかかると、「みんないるかい。」という尾崎紅葉先生の声がした。まさか、本膳料理などの食器はなかったが、すわ、ことだと、貧乏徳利を羽織の下へ隱す人がいる。銚子を股へ挾んで膝小僧をおさえる人がいる。杯をすすぐ器の水を鍋へぶちこむ人がいる。私が手をついて畏まると、先生にとってはお客分で何もないのに、宙外さんも煙に巻かれて、肩を四角にして、座り直して、酒の息ははあはあとして、専らピンとはねた、ほおひげをもんでいた。

素頓興 すっとんきょう。素っ頓狂。ひどく調子はずれで、まぬけな様子。
壺皿 つぼざら。本膳料理などに使う、小さくて深いふた付きの食器。
すわ 突然の出来事に驚いて発する語。そら。さあ。あっ。
盃洗 はいせん。杯洗。酒宴の席で、人に酒をさす前に杯をすすぐ器。杯洗い。
子細ない しさいない。仔細無い。さしつかえない。構わない。これといった問題もない。
 髯は「ほおひげ」のこと。
揉む もむ。両方のてのひらで物を挟んでこする。

 ――ところへ……せりあがつておいでなすつた先生せんせいは、舞臺ぶたいにしてもせたかつた。すつきりをとこぶりのいゝところへ、よそゆきから歸宅きたくのまゝの、りうとしたつけである。勿論もちろん留守るすねらつておよしたのであつたが――そろつて紫星堂しせいだうじゆく)をたといて、その時々とき/″\弟子でし懷中くわいちう見透みとほによくわかる。明進軒めいしんけん島金しまきん飛上とびあがつて常磐ときははこはひる)とところを、奴等やつら近頃ちかごろ景氣けいきでは――蛉鍋はまなべと……あたがついた。「いや、さかんだな。」と、火鉢ひばちを、鐵火てつくわめしまたはさんで、をかざしながら莞爾につこりして、「後藤ごとうくん、おらくに――みなみなよ、おれわり一杯いつぱいやらう。」殿樣とのさま中間部屋ちうげんべやおもむきがある。おそれながら、此時このとき先生せんせい風采ふうさい(おも)ふべしで、「懷中ふところはいゝぜ。」とたゝかるゝ。おうじて、へいと、どしん/\とあがつた女中ぢよちうが、次手ついで薄暗うすぐらいからランプをつけた、つりランプ(……あゝひさしいがいまだつてランプなしにはられますか。)それがちやう先生せんせいかたうへ見當けんたうかゝつてた。
[現代語訳] ――ところへ……下から上がっていった先生は、舞台にでるかのように立派に見えた。すっきりして、男ぶりの高いところに加えて、外出から帰宅したままの、りゅうとした着物を着ている。もちろん妻子の留守をねらってここに来たのだが――一同がそろって紫星堂(塾)から出たと聞き、その時々の弟子の財布は洞察すると、よく分かる。明進軒か志満金、よくて常磐(芸者が入る)だろう。やつらの近頃の景気では――蛉鍋ではないか……と、見当がついた。「いや、盛んだな。」と、真っ赤になった欠け火鉢を、着物の股へはさんで、手をかざしながら、にっこりして、「後藤君、お楽に――皆も飲みなよ、俺もワリカンで一杯やろう。」殿樣が下級武士の長屋にやってきたという趣きがある。おそれながら、このとき、先生の風采を考えてほしい。先生は「財布はいいぜ。」と手をたたいた。この手に応じて、へいと答え、どしんどしんとあがった女中が、ついでに薄暗いのでランプをつけた、吊りランプ(……ああ、懐かしいランプ。いまではランプなしにはいられますか。)が、ちょうど、先生の肩の上というところに掛かっていた。

よそゆき 余所行き。よそへ行くこと。外出すること。よそいき。
迫り上がる せりあがる。下から上へすこしずつ上がってゆく。
着つけ きつけ。着付け。衣服、特に和服を形よく着ること。着せること。
紫星堂 詩星堂。
りゅうと 隆と。身なりや態度などが立派で目立つ様子
懐中 ふところやポケットに入れているもの。特に財布・紙入れなど
見通し みとおし。遠くの方まで見えること。他人の本心や考えなどを見抜くこと。洞察。
飛上る 喜びや驚きのために、思わず飛びはねる。
あたり 手掛かり。見当。
はこ 三味線を入れる箱。三味線。転じて、芸者。「はこが入る」
缺け 欠け。かけること。かけていること。かけてこわれた部分。かけら。
鉄火 真っ赤に焼けた鉄。やきがね。
お召し おめし。着る人を敬って、その着物をいう語。
 割り勘でしょう。費用を各自が均等に分担すること。また、各自が自分の勘定を払うこと。
中間部屋 近世の武家屋敷内の長屋。
風采 ふうさい。外部から見た、人の容姿や身なりなどの様子
釣りランプ 天井などからつり下げてあるランプ。
見当 未知の事柄について立てた見込み。予想。大体の方向・方角。

面疱にきびだらけの女中ねえさんが燐寸マツチつてけて、さしぼやをさすと、フツとしたばかり、まだのついたまゝのもえさしを、ポンとはすつかひげた――(まつたく、おたがひが、所帶しよたいつて、女中ぢよちうこれにはなやまされた、用心ようじんわるいから、それだけはよしなよ。はい、とくちしたから、つけさしのマツチをポンがおさだまり……)先生せんせいひざにプスツとちた。「女中ねえや、お手柔てやはらかにたのむぜ。」と先生せんせい言葉ことばしたに、ゑみわれたやうなかほをして、「れた證據しようこだわよ。」やや、とみなかほる。……「れたに遠慮ゑんりよがあるものかツてねえ、……てね、……ねえ。」とあまつたれる。――あ、あ、ああぶない、たな破鍋われなべちかゝるごとく、あまつさべた/\とくづれて、薄汚うすよごれた紀州きしうネルひざから溢出はみださせたまゝ、……あゝ……あゝつた!……男振をとこぶり音羽屋おとはや特註とくちう五代目ごだいめ)の意氣いきに、團十郎だんじふらう澁味しぶみくはゝつたと、下町したまちをんなだちが評判ひやうばんした、御病氣ごびやうき面痩おもやては、あだにさへもえなすつた先生せんせいかたへ、……あゝかじりついた
 よゝつツと、宙外君ちうぐわいくんまらず奇聲きせいふのをげるにれて、一同いちどうが、……おめでたうととなへた。
[現代語訳] にきびだらけの女中さんがマッチを擦って火をつけ、それから本体に点火して、フッと火を消し、まだ火のついたままの燃えさしを、ポンと斜めに投げた――(まったく、お互いが、所帯を持って、女中のこれには悩まされた。火の用心が悪いから、それだけはよしなよ。はい、というその口の下から、つけさしのマツチをポンと棄てる。それがお定まり……)と、燃えさしは先生の膝にプスッと落ちた。「ねえや、お手柔らかに頼むぜ。」と先生の言葉。しかし、女中さんは微笑するような顏をして、「惚れた証拠だわよ。」おやおや、と全員が顔を見る。……「惚れたに遠慮があるものかってねえ、……てね、……ねえ。」と甘ったれた様子もする。――あ、あ、あ、危ない。棚の割れた鍋が落ちかかるように、いや、それどころか、べたべたと崩れて、薄汚れた暖かいネルを膝からはみださせたままで、……ああ……ああ、やった!……先生の男ぶりは音羽屋(特に註を加えると、五代目である)の意気と団十郎の渋みが加わったと、下町の女たちは評価するのだが、御病気のため顔はやつれていて、色っぽくさえも見える先生の肩へ、……ああ、かぶりついた。
 よよっと、宙外君がたまらず奇声というのを上げて、同時に、一同は、……おめでとうと声を上げた。

挿しぼや 小さな火を他の物の間に入れる。
はすっかい 斜っ交い。斜めに。斜めにまじわること。
破鍋 破損した鍋。
あまつさえ さらに別の物事が加わるさま。多くは悪い事柄が重なるときに使う。
紀州ネル 綿生地を起毛させた平織り生地。明治初期に、紀州の瀬戸重助が作り始めた。特徴はやわらかさとあたたかさ。
男振り おとこぶり。男としての容貌・風采。特に、堂々とした男らしい顔だちや態度など。おとこっぷり。
面窶れ おもやつれ。病気や心配事などのため、顔がやつれること。
あだ なまめかしく美しいさま。色っぽいさま。
齧り付く かじりつく。物の端に勢いよく歯を立てる。ぎゅっとかじる。食いつく。

 それよりして以來いらい――癇癪かんしやくでなく、いきどほりでなく、先生せんせいがいゝ機嫌きげんで、しかも警句けいくくもごとく、弟子でしをならべて罵倒ばたうして、いきほひあたるべからざるときふと、つゝきつて、くばせして、一人ひとりすこしくまかる。「先生せんせい……(みづ)……」「なに。」「蛤鍋はまなべへおともは如何いかゞで。」「馬鹿ばかへ。」「いゝえ、大分だいぶ女中ねえさんがこがれてりますさうでございまして。」かたはらから、「えゝわづらつてるほどだとまをしますことですから。」……かねて、おれをおもをんなならば、つかちでもはなつかけでもとふ、御主義ごしゆぎ?であつた。――
 紅葉先生こうえふせんせい、そのとき態度たいどは……

采菊東籬下きくをとうりのもとにとつて
悠然見南山いうぜんとしてなんざんをみる
大正十三年一月
[現代語訳] それ以来――かんしゃくではなく、憤りでもなく、先生がいい機嫌になっていて、しかも弟子をならべて、警句が雲の如くに出てきて、罵倒し、勢いはあたるべからずという時に、つつき合って、目くばせして、一人が座布団から少し身を出して、「先生……(水)……」「なに。」「蛤鍋へおともはいかがで。」「馬鹿を言え。」「いいえ、だいぶ、女中が、焦がれておりますそうでございまして。」そばからも「ええ、わずらっているほどだと申しますから。」……かねて、おれを思う女ならば、目っかちでも鼻っかけでもいこうという、御主義?であった。――
 紅葉先生、その時の態度は……

    菊を()東籬(とおり)のもと
    悠然として南山を見る。
大正十三年一月

警句 けいく。短く巧みな表現で、真理を鋭くついた言葉。
目くばせ 目配せ。目を動かして、意思を伝えたり合図をしたりすること
目っかち めっかち。一方の目が見えないこと。また、両目の大きさにかなりの差があること。
鼻っかけ はなかけ。鼻が欠けおちていること。梅毒になる場合が多かった。
采菊東籬下 悠然見南山 菊を()東籬(とおり)のもと 悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見る。東の垣根の下で菊を採り、のんびりと南の山を眺める。陶淵明(365~427)の作。「飲酒二十首 其五」から。
悠然 ゆうぜん。ゆったりと落ち着いている。

漱石と『硝子戸の中』29

文学と神楽坂

二十九
 私は両親の晩年になってできたいわゆるすえである。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々はかえされている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私をにやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世とせいにしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多がらくたといっしょに、小さいざるの中に入れられて、毎晩四谷よつやの大通りの夜店にさらされていたのである。それをある晩私のが何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れてうちへ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。
 私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込うつされた私は、生れたうちへ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺おじいさん、御婆おばあさんと呼んでごう怪しまなかった。むこうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通のすえのようにけっして両親から可愛かわいがられなかった。これは私の性質が素直すなおでなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷かこくに取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆じじばばとのみ思い込んで、どのくらいの月日をくうに暮らしたものだろう、それをかれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼をましたが、周囲あたり真暗まっくらなので、誰がそこに蹲踞うずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語みみこすりをするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父おとっさんと御母おっかさんなのですよ。先刻さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちのうちが好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心のうちでは大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

四つの歳 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、養子に行った年月は4説あります。
(1)明治1年4~5月頃。(関荘一郎)
(2)「明治元年11月中私2歳の砌」(金之助・昌之助・直克・田中重兵衛(親類)らの連署を下谷区長に提出した「戸籍正誤願」から)
(3)「明治2年11月中右金之助3歳の砌養子に差出置候處」(金之助の父小兵衛(直克)と塩原昌之助の間に紛争が生じた際の「手続書」から)
(4)「それは慥私の四つの歳であつたやうに思ふ。」(『硝子戸の中』)
荒正人氏は(3)より(2)が正しいと考えられると述べています。つまり数え年で2歳、満年齢では1歳です。
両親の晩年 夏目小兵衛(こへえ)直克(なおかつ)は51歳、母の千枝は42歳で、漱石が生まれました。漱石は8人兄弟の末子でした。
年歯 ねんし。年齢。とし。よわい。
間もなく 生後4ヶ月です。
 さと。養育費を出して子供を預けておく家。
渡世 生活する職業。なりわい。生業。稼業。
夫婦もの 漱石は最初は里子として夏目鏡子氏によれば四谷の古道具屋に、小宮豊隆氏によれば源兵衛村(現・新宿区戸塚)の八百屋に出されています。
 ざる。細長くそいだ竹や針金・プラスチックを編んで作った中くぼみの器
四谷 新宿区の1地名。旧四谷区の地域
 夏目鏡子氏の『漱石の思ひ出』によれば「高田の姉さん」でした。漱石の腹違いの二番目の姉で、房です。
ある家 内藤新宿の塩原昌之助・妻やすを養父母に。
ごたごた 養父の不倫と、引き続く養父母の離婚でした。
実家へ戻る 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治8年12月末から9年初めまでに、塩原家に在籍のまま、再び夏目家に引き取られたといいます。満8歳でした。
牛込 牛込馬場下横町です。
豪も 少しも。ちっとも。
 事実でないこと。よりどころのないこと。
耳語 みみこすり。耳擦り。そっとささやくこと。耳打ち

砂土原町|入江相政

文学と神楽坂

%e5%85%a5%e6%b1%9f%e7%9b%b8%e6%94%bf 入江(いりえ)相政(すけまさ)氏は東大卒で、官僚、歌人、随筆家。学習院大教授をへて、昭和9年宮内省侍従になり、侍従長を長く務めました。生年は明治38年6月29日。没年は昭和60年9月29日。80歳で死亡しました。
 入江相政氏の「余丁町停留所」(人文書院、1977年)では

 昭和八年に、同じ牛込の、砂土原町に新居を構えた。「新居を構える」などと言えばいかにも自力で一軒建てたようにも聞えるけれど、土地は家内の母にめぐまれ、家は私の父が建ててくれた。地面は三百三十坪、建て坪は六十何坪、まさに贅沢過ぎるものだった。父は言った、「これは、お前の分には過ぎたもの。お前はこれを競争相手と思い、この家と自分とをくらべて、この家にはずかしくないような人になれ」と。これは大変なことになったと思った。
 長女ができてから、ここに移り、ここに移ってすぐ長男が生まれた。二人の子供が小学生になるころ、つまり昭和十何年という時、つくづく思ったのは、道路は舗装され、暖房は発達、車はふえて、東京はますます自然を遠ざける。だからなんとか工夫を重ねて、自然をここに招き寄せる。また一方では、自然の中にはいっていかなければならない、と。
 庭が広かったから、そこに花の咲く木を植えた。「先ず咲く」がその語源というマンサク、卵の薄焼きを細く切ったような黄色い花に、近づく春を楽しもう。サンシュユはどこに植えるか。ハクモクレンは中国からの伝来、あの花の下には、樹下美人のような女でも、立たせなくては。

砂土(さど)(はら) おそらく砂土原町2丁目でしょう。あと一歩で浄瑠璃坂を登りおえる場所にあり、現在はマンションがいっぱいになりました。都市製図社の『火災保険特殊地図』では「入江」と書いた場所があります。砂土原町の説明は『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)によると「江戸時代は武家地であった。市谷田町三丁目から船河原町続きの裏通りとその周辺の武家屋敷一帯を俗に砂土原と呼んでいた。本多佐渡守正信の別邸があったためで、佐渡原、佐渡殿原とも呼ばれていた(町方書上)。また、この本多邸跡の土を取って外堀端を埋め立てて市谷田町を造成したので、土(砂土)取場とも呼んだ。佐渡と砂土は同音であるため、砂土原と書いた」

砂土原・昭和12年と現在

マンサク マンサク科マンサク属の落葉小高木。マンサクの語源は明らかでないが、早春に咲くことから「まず咲く」「まんずさく」が東北地方で訛ったものとも。
サンシュユ 山茱萸。ミズキ目ミズキ科の落葉小高木。
ハクモクレン 白木蓮。モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。白色の花をつける。

3種の植物

 同じく「陛下側近として五十年」(講談社、1986年)では

 わが家はもと牛込砂土原町にあったが、親類中で一番あとまで焼けのこるだろうなどといわれていたのだが、二十年三月九日、十日、あの下町の大空襲の晩に、まっ先かけて焼けてしまった。妻や子は、それから疎開して東京を離れ、私は家が無いから、ほとんどつとめ先にとまりつづけていた。
 しばらく経って行ってみたら、わか焼けあとに、半地下式の壕舎(ごうしゃ)が建てられている。市ケ谷の陸軍省、参謀本部が近かったので、軍は地主には無断で、焼跡の方々にこれを建て、万一、陸軍省などが爆撃された場合には、この壕舎に分散して軍務を()り、戦争を遂行しようとしたのである。
 それが、そこまで行かないうちに、八月に戦いはおわった。秋には妻も二人の子供も、疎開先からかえってくることになった。家を建てようにも建てられないので、五,六坪のその壕舎に、いくらか床の板を張ったりして住むことにした。
 壕舎というのは、つまり屋根がペシャンコにつぶれたような格好をしている。だから()ていて上を見ると、天井が無いから、目の上はいきなり屋根裏ということになる。屋根には防水の紙を張り、その紙を釘で打ちつけた。その釘の先がたくさん突き出ている。ふだんは目立たないのだが、気温が零度以下に下ると、白いものかポッポッとちりばめられる。室内に臥ているわれわれ親子のぬくもりが、霜となって釘の先にくっつくわけである。
   屋根裏を 貫き出でし 錆釘に
   あかとき白く 霜降れる見ゆ
は、その時に()んだものである。
 楽しみながら自然たまった書斎の本のすべてを失い、父からも譲られ、また自分でも集めた書画の類も、ほとんど烏有(うゆう)に帰した。万策尽きたはずではあったが、もう一遍日本を建て直し、ふたたび繁栄させなくてはという、天皇陛下の御意気ごみにつづいて、われわれも、案外、昂然たる風だった。

壕舎 ごうしゃ。敵の襲撃に備えて地中につくった部屋。防空壕
あかとき 「明時=あかとき」は「あかつき」の古形。夜半から明け方までの時刻。
烏有 うゆう。全くないこと。何も存在しないこと
昂然 こうぜん。自信に満ちて、意気盛んなさま


啄木の死亡

文学と神楽坂

 明治45(1912)年4月13日、啄木は26歳で死亡しました。
 明治45(1912)年5月1日、北原白秋は『朱欒(サンボア)』(2巻5号)の「余録」で、

○石川啄木氏が死なれた。私はわけもなく只氏を痛惜する。ただ黙つて考へやう。赤い一杯の酒が、薄汚ない死の手につかまれて、ただ一息に飲み干されて丁つたのだ。氏もまた百年を刹那にちぢめた才人の一人であつた。

 ここでの『朱欒(サンボア)』は文芸雑誌の名前ですが、本来のサンボア(zamboa)はポルトガル語からきたもので、インドネシア由来の常緑小高木を示します。しかし、サンボアよりも同じ意味のザボンや文旦(ぶんたん)のほうがはるかに普通でしょう。
『朱欒』は明治44年11月から大正2(1913)年5月まで19冊を発行しています。編集は北原白秋。後期浪漫派の活躍の場となりました。

 また、大正15年1月、『フレップ・トリップ』(アルス刊、昭和3年。白秋全集19巻「詩文評論5」、昭和60年、岩波書店)で北原白秋は書き

 二十一二の頃、さうだ、私が石川啄木に逢つてまだほんの二三度目の時だったと思ふ。
「盛岡の在です。」と彼は答へた。
「さうですか、奥州や北海道は、僕の国では鬼でもゐさうなところだと思つてゐますよ。五六百里も北だからね。」それはほんの何の気もなく、寧ろ親和の心で私は微笑して云つたのが、それが彼の性来の癇癪にきつく障つたらしい。私には答へないで、すぐに、隣りにゐる人に向つて、
「君、君も鬼のゐる国の人だね。」
と両肩をスツと怒らして云つた。それで私は吃驚して、
「君、君、僕の国だつて熊襲だからね。」
と大真面目であつた。
「ぢやあ、鬼の一種だね。」
「うむ、さうだよ、君の方から見れば鬼の一種だらう、やつぱり。」
 あの頃も何かと云へば反抗心の強い、負けずぎらひの少年だつたな、啄木は。尤も細君は持つてゐたが。

 なんとなく、2人の人となりや人柄の違いがわかるような気がします。胸を張っている啄木と、おどおどする白秋。

 石川啄木は明治19年2月20日で東北の岩手県で生まれ、北原白秋は明治18年1月25日で九州の福岡県で生まれています。年齢は一歳しか違っていません。ちなみに、北原白秋は昭和17年の57歳のときに、糖尿病のため死亡しています。


中野実|新女性大学①

文学と神楽坂

 中野実のユーモア小説「新女性大学」について『神楽坂まちの手帖』17号の佐々木光氏は

 封建時代の女子教育書「女大学」をもじったかのような「新女性大学」は結婚を主題としたユーモア小説で、会社重役の父から結婚話を切り出された女学校出の令嬢「皆川美絵子」が、まずは結婚設計のため“世間見学の武者修業”をしたいと主張、父を説き伏せ質屋を営む同窓の友人の家に奉公し番頭となる。……
この作品は中野実(劇作家・小説家。明治三十四年~昭和四十八年)が作家としての地位を固めつつあった初期のもので、神楽坂を他所に置き換えても成立するが、それでも洋食の田原屋、牛込見附の貸ボート、弁天町、鶴巻町等神楽坂界隈の風景がちらほらと描かれ、当時衰退期にあった神楽坂をモダンなユーモア小説の舞台としている点に注目したい。「婦人画報」(昭和九年六~十二月)に連載後、映画化もされた(日活。昭和十年六月。主演・西峰エリ子)。ただし、映画の舞台も神楽坂かどうかは未見のため不明である。

 (おんな)大学は江戸時代の代表的な女子教訓書で、著作者も初版年も不明ですが、貝原益軒の著述として、18世紀初頭から広く流布しました。「夫女子は 成長して他人の家へ行 舅姑に仕るものなれば 男子よりも親の教忽にすべからず」など19ヵ条の封建的女子道徳を説いたものです。インターネットの本もあります。

 中野実の「新女性大学」は新宿区の図書館にはなく、インターネットを通じて国立図書館から『現代ユーモア小説全集』第七巻の「新女性大学」をコピーしました。まず質屋です。

 新橋駅とW大学の間を連絡している黄バスの実業前というところで降りて、大学通りを左へ折れたところに、山口質店と書いた暖簾の店舗がある。
黄バス

黄バス(ただし東京環状乗合のバスではなさそう)

 昭和9年の黄バスは東京環状乗合(環状)のバスの色が黄色だったからで、黄バスには豊島園~目白駅~江戸川橋~市谷~新橋駅の幹線といくつかの支線がありました(http://pluto.xii.jp/bus/line/s17.html)。昭和17年にこの黄バスの経営は市営バスに変わっています。また、W大学とは早稲田大学でしょう。

 美絵子の発案で、山口質店は面目を一新した。まず時代な暖簾が取りはわれ、Pawnbroker(しちや)と横文字で書いた真鍮板(ブレス・プレート)がそれに変わった。(中略)つづいて薄くらい帳簿が改造され、蓄音機屋の試験室みたいな明るい感じの小室が、設けられ、取引は一切そこで行われることになった。そこへ、美絵子と悦子が貸付係兼接待係という役目で、紅茶をもって愛想をふり撒きながら現れるという寸法である。果然、山口質店は素晴らしい業績をあげ始めた。

 質屋をここまで変えるとは驚きです。ただし、昔の質屋は現在の質屋と比べて店舗数は圧倒的に多かったようです。例えば昭和10年の横寺町では81店舗のうちなんと5店舗は質屋です(今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』新宿区横寺町交友会、2000年)。歩くと質屋にぶつかる状況でした。

 質草を聞く場面で、客が住所は弁天町と答える場合があります。

 客は、(ふところ)から錦紗(きんしゃ)(づつみ)を出して、美絵子の前に拡げて見せた。ダイヤ入の指輪、鼈甲(べっこう)(くし)(こうがい)翡翠(ひすい)()がけ。それに、帯止(おびどめ)の金具。
「いくらほどお入用なんですの。」
「三百円調達したいと思うんですの。」
「三百円ね。」
「これで足りなければ、あたしの着物を入れてもと思っています。」
「どちらです。お宅は?」
「弁天町の三十七」

錦紗 紗の地に金糸・箔・絹の色糸などを織り込んだ絹織物
鼈甲 ウミガメのタイマイの背甲、縁甲、四肢の鱗片をはいだもの
 江戸時代の女性用髪飾り。金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作り、髷などに挿す
翡翠 緑色の硬玉。主産地はミャンマー・中国など
根がけ 女性が日本髪の髷の根元に結ぶ飾り。金糸・銀糸・絹ひも・緋縮緬・宝石類など。
帯止 解けるのを防ぐために女帯の上からしめる平打ちの紐

「弁天町の三十七」は現在は巨大なマンションになり、三十七という号数は単独ではなくなっていますが、昭和五年には確かにありました。

弁天町37

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 次に田原屋と貸ボートです

 その晩、美絵子は悦子に誘われて神楽坂の通り歩いていると、田原屋の前で、
「悦ちゃんじゃないか」
と、なれなれしく悦子に声をかけて近づいて来た青年があった。
「まあ、西山さん」(中略)
「どう、お茶のみにつき合ってくれないか。」
 美絵子は断りたかったが、悦子が誘ったので仕方なしに、西山について田原屋へ這入った。
「四菱に出てらっしゃるんですってね。就職難時代に偉いものだって母が感心していましたわ」
 悦子がちょっと、愛想を言うと
「あっちこっちから引ぱりだこで弱っちゃったよ」
 西山は得意そうに鼻をうごめかした。

 田原屋で3人の話が終わり

「どう。見付へ下りて、ボートへ乗らない?」
と、(西山は)二人を誘った。
 美絵子はいい加減に切りあげたかったが、西山は厚かましく悦子の手をとって先に歩き出したので、悦子のことも心許なくなり、田原屋を出て坂を下りて行った。
 蒸暑い晩だったので見付の貸ボート屋は賑わっていた。西山はボートに乗ろうと云い出したが、そこまで西山の機嫌をとる必要もないと美絵子は思った。水泳の選手であることを鼻にかけ、若い女性をふたりまでも連れて歩いていることに内心得意でいるらしい西山を、いつまでものさばらせておきたくはなかった。
「悦子さん、帰らない?」
「ええ」
「いいじゃあないか。せっかくここまで来て、乗っていきたまえよ」
「あなたにサインしてもらいたい人を乗せてあげるといいわ。きようなら」
 美絵子はつっぱなすようにいって歩きだしたが、ふり返って、
「ああ、そう、西山さん。お店へいらっしゃいね、待ってるから。利子を持ってね」
 西山と別れて、悦子をせきたてて、おほりばたにそい、牛込見付へさしかかったときであった。
 彼女はなにげなくほりのほうを見たが、
「アラ」
と叫んだ。
 ちょうちんの灯影に見えたのは、たしかに下村であった。下村ひとりではなかった。下村のといでいるボートの中に、純白なドレスを着た若い女が乗っていた。
(ひょっとすると、あの船の中にいる女の人のために、下村さんは恋愛が必要になったのかもしれない)
 美絵子は落ちつけなくなった。

 そこには別の男性、W大学を卒業して、大和製鋼に入る予定の下村氏がいたのです。

中野実|新女性大学②

文学と神楽坂

 ユーモア小説「新女性大学」について先に行きます。

 鶴巻町の通りを大学の正門ヘ向って2丁程行った右角の東北館という下宿屋が下村の住居だった。

早稲田正門 二丁は約200メートルです。「鶴巻町通り」は現在「早大通り」になりました。始点はどこからなのでしょうか。わかりません。鶴巻町は相当大きく一番右からなのでしょうか? もし「鶴巻町東」からだとすると、「鶴巻小前」に近くなっています。

 さて、神楽坂が出てくる最後の場面です。

「実は今晩、下村の就職祝の会が7時から神楽坂の鳥正とかいう料理屋であると云っとりました。」
「そう、それは有難う。じゃあ」
 電話を切った美絵子は、つまらなそうにぶらぶらしている西山へちらりと流し目をくれると、
「西山さん、今晩お供するわ。」
「来てくれるのかい?」
「ええ。」
「銀座?」
「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ。7時に肴町停留場で待っていて頂戴」
       4
 鳥正という神楽坂の料理屋は肴町の方から行って電車通りを一寸左へ這入った細い露地の右側にあった。美絵子は西山について二階へ上って行った。そして西山に気取られないようにそっと女中を廊下に呼んで
「今夜ここで下村さんとかいう人の会があるでしょう。」
「ええございますわ。」
「その部屋の隣の座敷へ通してくれない?」
「はあ、かしこまりました」

停留場 市電・都電の停留所です。
電車通り 市電・都電が通る道路のこと。ここでは大久保通り

 鳥正は川鉄をモデルにしています。

 「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ」といわれた神楽坂ですが、半ば笑いのネタになっているのではないでしょうか?  普通は銀座のほうが遙にいい。なのに、神楽坂がいいのは、下村さんの就職祝の会があったからです。

 以上で終わりですが、あまり神楽坂は出てきませんでした。

 しかし、それ以上に驚いたことはこの文章全体の軽さです。昭和9年に書かれたなんて思えません。

外濠線にそって|野口冨士男⑤

 逢坂下のつぎが、新見附であった。
 見附とは城門番兵の見張所の意で、江戸三十六見附ということばはあっても実数ではなくて、曲輪(くるわ)城門は二十六しかなかった。しかし、新見附は二十六城門はおろか、明治十六年から翌年にかけて測量された『参謀本部陸軍部測量局地図』にも、内務省が明治二十年に測図した『東京五千分壱実測図』にも、明治二十七年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』にもまだあらわれていない。つまり、それ以後に造成されたものだから新見附と命名されたに相違ないのだが、他の見附の場合同様に濠を渡る道としての機能はそなえているものの、見附という呼称がもつ本来の字義とはなんらの関係もない。牛込見附から市ケ谷見附に至る外濠が市ケ谷堀とよばれているのも、江戸時代には新見附がなかったからである。

逢坂下 市電の逢坂下停留所です。
新見附 市電の新見附停留所です。
江戸三十六見附 江戸城門に置かれた見附(見張り番所)の36か所を挙げたもの
外曲輪 そとぐるわ。外郭。一番外の囲い。がいかく。とぐるわ。
城門は26  大熊喜邦氏の『江戸建築叢話』(東亜出版社、1947年)によると、外曲輪26門は、①雉子橋門、②一ッ橋門、③神田橋門、④常盤橋門、⑤呉服橋門、⑥鍛冶橋門、⑦数寄屋橋門、⑧日比谷門、⑨山下門、⑩幸橋門、⑪虎の門、⑫赤坂門、⑬四谷門、⑭市ヶ谷門、⑮牛込門、⑯小石川門、⑰筋違橋門、⑱浅草橋門、⑲芝口門、⑳和田倉門、㉑馬場先門、㉒外桜田門、㉓半蔵門、㉔田安門、㉕清水門、㉖竹橋門です。

江戸城三十六見附。外廓城門

江戸城三十六見附。外曲輪26門

まだない 明治23年の「東京市区改正全図」でも当然ながら新見附は現れていません。

牛込橋と市ヶ谷橋

牛込橋と市ヶ谷橋

それ以後 新見附は明治27年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』ではでていませんが、しかし、新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、明治28年の「東京市牛込区全図」に新見附がでています(322頁)。おそらく27年にはなく、28年にあったものでしょう。新見附 明治28年
市ケ谷堀 江戸城の堀の一つ。現在の呼び方は牛込堀

 市ケ谷見附といえば、私の少年時代には九段坂がもっと急傾斜で、神田方面からくる市電は九段坂と牛ヶ淵の中間につくられた勾配のゆるい専用軌道を通っていた。そしてその軌道はげんざい坂上の消防署のある地点から左折して、フェアーモントホテル戦没者慰霊のある千鳥ヶ淵ぞいに半蔵門のほうへ走っていたが、それとは別箇に九段坂上市ケ谷駅前間だけを往復していた路線もあった。したがって、その電車に乗ると、いったん市ケ谷駅前でおろされて、濠のむこうまで歩いてから外濠線の電車に乗換えねばならなかった。

地理院地図1974-1978 千鳥ヶ淵

九段坂 九段下交差点から靖国神社の南側を上る坂。明治維新に石段を急坂に変えて、さらに関東大震災の復興計画で緩徐な坂に変更。
牛ヶ淵 うしがふち。江戸城の堀の一つ。上図を。
専用軌道 江本廣一氏の『都電車両総覧』(大正出版、1999年)では実際に専用軌道を描いています。専用軌道

九段坂
消防署 明治45年6月、麹町消防署九段出張所ができた。平成25年3月、廃止。
フェアーモントホテル 2002年(平成14年)1月27日に閉鎖。かわって高級マンションができました。
戦没者慰霊 第二次世界大戦の戦没者の遺骨で遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置。上図を。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。江戸城の堀の一つ。正称は皇居外苑千鳥ヶ淵堀。桜の名所。上図を。
半蔵門 皇居西側の門。下図を参照。下図では外曲輪城門のうち23番目。
九段坂上 「九段坂上」交差点にありました。
市ケ谷駅前 市ケ谷駅前はかなり古い路線図で出てきます。「日本鉄道旅行地図帳五号」(新潮「旅」ムック、2008年)の大正8年頃では、右の丸のように「市ヶ谷見附」は2つに分かれています。その後、「市ケ谷駅前」ができていたのでしょう。この路線では往復していたのか、わかりませんでした。

大正8年の路線図

大正8年の路線図

 もっとも、当時の市電には全線の路線図を印刷した横長い乗換券というものがあって、車掌が行先と乗換場所にパンチを入れてくれたから、何回乗換えても基本料金は変らなかった。全線一区の周遊券のようなもので、料金は震災前から七銭だったと記憶するが、昭和四年十二月中央公論社発行の『新版大東京案内』をみたところ、そこにも七銭と記載されていて、戦前の物価の安定ぶりを再確認させられた。ついでに記しておけば、戦前――特に私たちの少年時代にはあらゆる方面に名人、または職人芸の違人がいて、市内全線の路線図が印刷されてあった乗換券を裏返しにして、なにも印刷されていない真白な面に、行先と乗換場所とその時刻のパンチを入れて1ミリの狂いもないような車掌がいた。

乗換券 例は大正11年2月3日に発行された乗換券。大正11年の乗換券
七銭 今和次郎氏の『新版大東京案内』では

 市電に対する不平の声は既に古い事である。一回どこまで乗つても七銭である事、及市内到るところに(ひろ)まつて布かれてゐると云ふ点では(よろこ)ばれてゐるけれど、あの「チンチン動きまあす……」の気だるさは、緩慢な速力は非近代的な感触を与へ、あれに乗る人々を時世後れにするやうな結果をもち来すかのやうだ。もっとモダン的にハイカラな感触が市電に欲しい……。これだけにして次のものにうつってみやう。

と書かれています。都交通局の『わが街わが都電』(平成3年)によると、料金は昭和17年までは7銭ですが、18年になると10銭でした。なお、昭和20年に日本の敗戦が決まります。

 駅前から外濠線の市ヶ谷見附停留所までは牛込見附や新見附同様に坂道をくだるが、濠を渡る道が傾斜状をなしているのは以上の三見附だけで、そのあたりから濠外の地勢は隆起しはじめる。
 市ケ谷見附の濠外の正面には靴屋があって、「ヤスイカラヨクウレル。ウレルカラナホヤスイ」と書いた看板が眼をひいた。あのキャッチ・フレーズには大正ムードがみなぎっていたとおもうが、大正時代を誤解してもらってはこまる。花屋の飾窓にはSay it with flowerというような金文字もみられた。チュウインガムはリグレイコーンビーフリビイ乾葡萄サンメイド、果物の罐詰はS&Wなどの製品を私たちは食べていた。
 市ヶ谷見附のつぎの停留所は本村町であった……

市ヶ谷見附停留所 外堀通りにありました。
坂道 この停留所3か所は東も西も坂道を下に降りた場所にありました。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

ヤスイ… 「安いからよく売れる。売れるからなお安い」と書いてあります。
大正ムード 大正時代は西洋の近代文明と、日本の伝統文化が融合して生まれ、個人の解放や理想に満ちた風潮があった時代でした。
Say it… 正しくはSay it with flowersと複数形で。このキャッチフレーズの詳しい説明は花豊ででています。
リグレイなど リグレイ。Wrigley
コーンビーフ Corned beef
リビイ Libby。
乾葡萄 レーズン(Raisin)のこと。
サンメイド Sun-Maid
S&W 英語もS&Wです
米国の食品
本村町 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』(昭和57年)では昭和16年は本村町で、昭和22年は本塩町でした。木村町と本塩町

 

外濠線にそって|野口冨士男④

 牛込見附を境界にして、飯田堀の反対側の外濠は市ケ谷堀とよばれる。
 ここから赤坂見附弁慶堀に至る外濠は明治五年ごろまでいちめんの蓮池であったらしく、魚釣りも禁じられていた様子だが、私の少年昨代の市ケ谷堀には、禁漁どころか大正十年前後には貸ボート屋まで開業して、その直後に私も乗った。照明をして、夜間営業をしていた一時期もあったように記憶している。それにくらべれば、赤坂の弁慶堀や皇居の内濠の千鳥ヶ淵の貸ボートはずっとあとになってからはじまったもので、城濠のボートに関するかぎり牛込見附の開業はずばぬけて早かった。
 車体の小さな外濠線の市電は、外濠づたいに、運転台と車掌台をシーソーのように交互に上下させながら走っていた。
 運転台と車掌台について一言しておけば、ドアのしまるのは客席だけで、前後の乗務員は雨や雪の日も、ドアのない吹きさらしの運転台と車掌台に立ちつくしていた。だから飛び乗り、飛び降りも可能だったのである。そして、その車内には「煙草すふべからず」「痰唾はくべからず」「ふともも出すべからず」などと書いた印刷物が掲額されていた。

飯田堀(濠) いいだぼり。下図で。外濠を橋でさらに分割し、「○○濠」としました。
市ケ谷堀(濠) いちがやぼり。下図で。現在の名称は牛込濠。
赤坂見附 千代田区紀尾井町と平河町との間にあります。下図で。%e5%a4%96%e6%bf%a0%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%972
牛込見附 見附とは江戸時代、城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所。牛込見附は外濠が完成した寛永13(1636)年に、阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって建設されたもの。
貸ボート屋 牛込壕のボート屋は大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができました。弁慶橋ボート場は戦後すぐに創業します。千鳥ヶ淵のボート場はいつできたか不明です。
ドアのしまるのは客席だけ 明治・大正時代にはオープンデッキ式の車が一般的で、運転士と車掌は車内ではなく、デッキに立っていました(写真)。東京でも昭和初期まではオープンデッキ式の市電がごく当たり前のように都心部を走り回っていました。この場合、運転士と車掌は横から風や雨、水滴がはいってきます。

電気鉄道会社

大正時代の東京電気鉄道会社、

ふともも… 獅子文六氏の『ちんちん電車』(朝日新聞社)では

“ふともも出すべからず″
 というのが、今の人の腑に落ちないらしい。私は、そのことを、若い人に語ったら、
「明治の女は、キモノを着てたから、裾を乱しやすかったのですね」
 と、早合点された。
 いくら、明治の女だって、電車に乗って、フトモモを露わすほど、未開ではなかった。それは、男性専門の注意である。当時の職人や魚屋さんなぞ、勇み肌であって、紺の香の高い腹がけ(旧式の水泳着みたいなもの)を一着に及んだだけで、乗車する者が多かった。これは胸部は隠すが、下部は六尺フンドシとか、日本式サルマタも、隠見するくらいだから、無論、フトモモ全部を、露わす仕掛けになってる。それでは外国人に対して不体裁であるというところから、禁令が出たのだろう。

なお、隠見(いんけん)とは「みえがくれ。みえたりかくれたりすること」。

 震災後もあったとおもうが、牛込見附と新見附との中間にあった逢坂下という停留所が廃止されたのは、いつごろだったろうか。その対岸の土手が遊歩道に開放されて公園になったのは、昭和三年のことである。
 永井荷風の『つゆのあとさき』が発表されたのは昭和六年十月で、女主人公の君江が友人のかつてのパトロンであった川島に久しぶりで再会するのがその土手公園だが、私の少年時代には将棋の駒を短かく切りつめたような形の白ペンキを塗った立札が立っていて、「この土手に登るべからず 警視庁」という川柳調の文字が黒く記されていたばかりか、棒杭に太い針金を張った柵があった。が、その禁札はほとんど無視されていた。私もしばしば禁を犯した一人だが、土手にあがってみると、雑草のあいだには人間が足で踏みかためた小径がくっきり出来上っていた。
 零落してひそかに自裁を決意している『つゆのあとさき』の川島は君江にむかって、《あすこの、明いところが神楽阪だな。さうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》と思い出ふかい小石川大曲方面を眺望しながらつぷやくが、戦前の対岸は暗くて、ビルの櫛比している現在でも正面にみえる牛込の高台の緑は美しい。土手公園も松根油の採取が目的であったかとおもうが、戦時中には松の巨木が次々と伐り倒されて一時は見るかげもなくなっていたが、戦後三十年を経過した現在ではだいぶん景観を取り戻している。ただし、桜が多くなったのはあまり感心できない。土手には、松の緑のほうがふさわしい。

廃止 新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、昭和15年には「逢坂下」停留場は確かにありました(右図。348頁)が、7年後の昭和22年にはなくなっています(380頁)。一方、東京都交通局の『わが町 わが都電』(アドクリエーツ、平成3年)では昭和15年の『電車運転系統図』(76-77頁)では逢坂下停留場はもうなくなっています。つまり昭和15年に逢坂下停留場はある場合とない場合の2つがあり、これから廃止は昭和15年なのでしょう。
逢坂下停留場、昭和15年公園 結局、外濠公園になりました。下の図を参照。
つゆのあとさき 銀座のカフェーを舞台にして、たくましく生きる女給・君江と男たちの様子を描く永井荷風氏の作品。『つゆのあとさき』の最後は、会社の金を使い込んで刑務所にいっていた川島に君江は出会い、酒を飲み、朝起きると、君江への感謝を書いた遺書が置いてあり、これが終わりです。何か、もやもやが残る結末です。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
外濠公園
弁慶堀(濠) 右図で。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。皇居の北西側にある堀。右図で。零落 れいらく。おちぶれること
自裁 じさい。自ら生命を絶つこと。
安藤阪 本来の安藤坂は春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。明治時代になって路面電車の開通のため新坂ができ、西に曲がって大曲(おおまがり)まで行くようになりました。
安藤坂
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
櫛比 しっぴ。(くし)の歯のようにすきまなく並んでいること。
松根油 しょうこんゆ。松の根株や枝を乾留して得られる油

外濠線にそって|野口冨士男③

「外濠線にそって」その3です。甲武鉄道と、牛込駅とその東口の思い出です。大正8年から13年にかけて野口冨士男氏は小学校の慶應義塾幼稚舎に通っていました。
 国電の中央線は、げんざい飯田橋と水道橋の中間に貨物駅としてのこっている飯田町駅から八王子に通じていた、甲武鉄道のあとを走っている。
 甲武鉄道が官有に帰したのは明治三十九年十月のようだが、大正四、五年ごろ赤坂の紀伊国坂下に住んでいた私の幼年時代の記憶によれば、その時分にもまだ「甲武線」という呼び方はのこっていた。そして、現在でも国電は四ツ谷駅から信濃町へむかって発車するとすぐ迎賓館のちかくで赤煉瓦づくりのトンネル——御所隧道へ入るが、私は年長の友人から「甲武線を見に行こうよ」とさそわれて、トンネルへ吸い込まれていく電車や汽車を上からのぞきこみに行った帰りには、喰違見附の土手でノビルツクシの摘み草をしたものであった。
 その電車は国電になる以前には省線、それよりさらに以前には院線とよばれていた。万世橋=東京駅間の開通は大正八年だから、幼稚舎ボーイだった私が真紅のクロースの表紙がついていて二つ折になる定期券をもって、院線の田町駅まで乗った期間があるのが大正八年以後であることは確実だが、その時分にはまだ飯田橋駅はなくて、私が乗降したのは牛込駅であった。
 げんざい飯田橋駅の西口=神楽坂口は、神楽坂下からゆるい坂をのぽって千代田区へ入ろうとする直前の左側にあるが、その坂道の右側の下の道を歩いていっていまものこっている木橋をわたってから右折すると、桜並木の奥に牛込駅はあった。そして、その裏口は線路むこう——千代川区側の高い位置にあって、裏口の前には阿久津病院という漆喰塗の古めかしい洋館があった。病院が大正年間に神田紅梅町あたりへ移ったあとは戦後まで逓信博物館になっていたが、その建物はどうなっているだろうかと、霧雨のけむっていた日であったが、田原屋で食事をする前に行ってみたら、一階に飯田橋郵便局が入っている飯田橋会館というありふれたビルになっていた。そして、江戸時代の遺構である牛込見附跡の石塁に近接する位置にあった牛込駅の裏口の跡には、共同便所が出来ていた。

国電 JR線です。国電とは大都市周辺の近距離電車線のこと。
貨物駅 貨物列車に貨物を積み降ろしする鉄道駅
飯田町駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通(ここをクリックして地図を出すと、飯田町駅は右側の赤い矢印です)。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。平成11年、この駅も廃止
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。

赤坂田町

赤坂田町

紀伊国坂 東京都港区元赤坂1丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂
住んでいた 子供時代を書いた「かくてありけり」(講談社、昭和52年)で氏の住所は赤坂区田町(現在は赤坂3丁目)だと書いています。図では赤の範囲なのでしょう。
迎賓館 迎賓館赤坂離宮は東京都港区元赤坂2-1-1にある外国の元首や首相など国の賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた迎賓施設。
御所隧道 丸ノ内線四ツ谷駅からよく見えるJR総武線四ツ谷駅側の煉瓦トンネル。総武線四ツ谷駅から信濃町に向かうときに赤坂御用地の下を走る。
御所隧道喰違見附 くいちがいみつけ。「喰違」は防衛のため見附に入る土橋の道をジグザグにしたため。この見附は城門はなかった。
%e5%96%b0%e9%81%95%e8%a6%8b%e9%99%84ノビルとツクシノビル ユリ科ネギ属の多年草。山菜に使う
ツクシ 早春に出るスギナの胞子茎
省線 1920年から1949年までの国有鉄道。鉄道省(1920―1943年)、運輸通信省(1943―1945年)、運輸省(1945―1949年)が管理
院線 1920年以前は鉄道院の所管だった。
クロース cloth。本の表紙に使う型付けなどの加工をした布
田町駅 港区芝五丁目のJR駅
飯田橋駅 現在のJR駅
牛込駅 飯田橋駅よりは南寄りの駅
ここに

朝倉病院

朝倉病院

阿久津病院 正しくは朝倉病院でしょう。明治43年と大正12年の地図で朝倉病院がありました。
%e3%82%b5%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%86%e3%83%a9%e3%82%b9逓信博物館 昭和4年には同じ場所に逓信博物館がありました。
飯田橋郵便局 同じ場所の千代田区富士見2丁目では「飯田橋サクラテラス」があり、ここの一階に今でも飯田橋郵便局があります。
共同便所 その反対側に共同便所があります。

外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

外濠線にそって|野口冨士男①

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。氏は65歳でした。ここでは神楽坂と周辺に関する前半の1部分を読もうと思います。

     外濠線にそって

 せめてもう三、四年早く生まれていたかったとおもうことがしばしばある。
 大正12年9月1日の関東大震災のとき私は小学校の六年生であったが、中学の三、四年生になっていたら、もっと震災前の束京のあちらこちらを見ていただろうとくやまれてならない。
 本書では、明治以後の文学作品と私の記憶のなかにある過去の東京の姿に、可能なかぎり現状の一端などを織りまぜていってみたいとおもうのだが、ひとくちに東京といっても、あまり広大すぎてとらえようがない。げんに今から二十年ほど以前に出版した自作のなかでも、私はのべている。

東京ほど広い都会もないが、東京の人間ほど東京を知らぬ者もすくないのではなかろうか。ぼくらが知っているような気になっている東京とは東京のきわめて一小部分の、そのまたほんの一小部分にしか過ぎない。たまたまぼくらはなんらかの機会をあたえられて幾つかの町を知る。そして、その知っているだけの町を幾つかつなぎ合わせたものが、ぼくらの頭のなかで一つの東京になっている。ぼくの知らない町を知っていて、ぽくの知っている町を知らない人の頭のなかにある東京と、ぼくの頭のなかにある東京は一つの東京ではない。

 ことに私は山ノ手生まれの山ノ手そだちで、浅草の観音さま花屋敷両国の川開き洲崎沖の投網などにも親に連れていかれたことはあっても、ひとり歩きをしたのはほぼ山ノ手につきている。ただ、私は神楽坂に住んで芝の小学校へかよっていたから、自分と同年の少年たちにくらべれぱ、なにほどか広い東京を知っていたといえるだろう。
 大正七年に私が入学した小学校は慶応義塾の幼稚舎で、現在では天現寺に移っている幼稚舎はまだ三田の大学の山の下にあったために、飯田橋から市ケ谷、四谷、赤坂、虎ノ門を経て札の辻に至る系統の市電――のちに都電三号線となった外濠線を毎日往復していた。しかも牛込から芝までといえば、旧十五区時代のせまい東京市の南北縦断の全長にちかい距離であった。
 まずその沿線を軸として、気ままに道草を食いながら書きはじめていってみることにしよう。

*

 飯田橋から芝の方角にむかう市電の外濠線には、二系統あった。一つは私が乗った札の辻行で、他の一つは芝口行であったが、前者は虎ノ門から右折して三田の方面にむかって、後者は新橋駅方向へ真直ぐ走った。が、芝口という地名も、こんにちではわからなくなってしまっているらしい。二、三年前に、私は芝口をある雑誌で「芝国」と二ヵ所も誤植された。東海道五十三次の起点日本橋から第一宿の品川へむかうとき、そこで芝へさしかかるから芝口だったわけで、いま高速道路の下に形だけのこっている新橋芝口橋ともよばれていた。

 引用の元は分かりませんでした。国立図書館などで調べなくては解らないのでしょう。これ以外の注釈は以下に書きました。
外濠線

昭和7年の外濠線

外濠線 「そとぼりせん」と読みます。最終的には外濠線は都電三号線と同じで、都電の「品川駅前」から「飯田橋」を結ぶ路線でした。しかし昔の外濠線では違う地域を指している場合もあります。
山ノ手 区部西半の地域。武蔵野台地東端で下町に対する俗称。本来は山手線の内側の住宅街を形成する地域
浅草の観音さま 浅草寺。台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺。聖観音宗の総本山。山号は金龍山
花屋敷 台東区浅草二丁目にある遊園地
両国の川開き 川開きとは夏に水辺で行う納涼祭のこと。両国では屋形船や伝馬船が川を埋め、両岸には人垣ができてはなやかに花火が打上げられていました。現在では「隅田川花火大会」のこと
洲崎 江東区木場東隣一帯の通称。元禄年間(1688~1704)埋め立てでできました。
投網 円錐形の袋状の網のすそにおもりを付け、魚のいる水面に投げて引き上げる漁法
芝の小学校 芝区(現在の港区)の慶應義塾幼稚舎です
天現寺 渋谷区恵比寿。慶應義塾幼稚舎の西には都立広尾病院があります。
札の辻 ふだのつじ。港区芝5丁目で田町駅西口の地区。札の辻とは、江戸幕府が法令などを公示する高札を立てた道のこと。この制度は明治6年に廃止。札の辻の市電系統図では下部に書いています。
二系統 外濠線が都電三号線と同じ場合は、外濠線は1系統しかありません。ところが、この路線はそれよりも以前にかかっていたものなのです。実際に昭和7年の東京市電では「飯田橋」から出て、「札の辻」に行く路線と、「三原橋」に行く路線がありました。
芝口 しばぐち。交差点「新橋」のこと。上の市電系統図では右方に。下図では外堀通り、昭和通り、中央通り、第一京浜が1つに交わる場所。

新橋

新橋

虎ノ門 三田 新橋駅 以上は上の市電系統図で。
新橋 新橋は銀座通り南端の汐留川にかかる新橋8丁目の橋。新しい橋だから「新橋」
芝口橋 しばぐちばし。江戸時代は「新橋」を「芝口橋」と呼びました。

紅白毒饅頭|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治24年、尾崎紅葉氏は読売新聞に『紅白毒饅頭』の連載を始めます。ここでは架空の玉蓮教会の縁日の様子ですが、毘沙門の縁日がもとになっていると言われています。昔の光景ですが、昔の名前で今の品物を売っていることも多いのでした。たとえば「竹甘露」は水羊羹と同じものでした。
 架空の玉蓮教会は実際は神道大成教に属する新宗教の蓮門(れんもん)教だといわれています。コレラや伝染病が毎年のように流行するなか、驚異的に発展し、明治23年、信徒数は公称90万人。翌年尾崎紅葉の「紅白毒饅頭」などの批判を受け、大成教は教祖の資格を剥奪し活動を制限。30年以降、教団は分裂し消滅しました。

今日(けふ)月毎(つきなみ)祭日(さいじつ)とかや。玉蓮(ぎよくれん)教会(けうくわい)(もん)左右(さいう)には、主待客待(しゆまちきやくまち)腕車(くるま)整々(せいせい)(ながえ)(なら)べ、信心(しんじん)老若男女(らうにやくなんによ)(たもと)(つら)ねて絡繹(しきりに)参詣(さんけい)す。
往来(おうらい)両側(りやうかは)(いち)()床廛(とこみせ)色々品々(いろいろしなじな)、われらよりは子供衆(こどもしゆ)御存(ごぞん)じ、太白飴(たいはくあめ)煎豆(いりまめ)かるめら文字焼(もんじやき)椎実(しゐのみ)炙栗(いりぐり)(かき)蜜柑(みかん)丹波(たんば)鬼灯(ほゝづき)海鬼灯(うみほゝづき)智恵(ちゑ)()智恵(ちゑ)(いた)化物(ばけもの)蝋燭(らふそく)酒中花(しゆちうくわ)福袋(ふくぶくろ)硝子筆(がらすふで)紙製(かみの)女郎人形(あねさま)おツペけ人形(にんぎやう)薄荷油(はくかゆ)薄荷糖(はくかたう)皮肉桂(かはにくけい)竹甘露(たけかんろ)干杏子(ほしあんず)今川焼(いまがはやき)まるまる(やき)煮染(にこみ)田楽(でんがく)浪華鮨(なにはずし)大見切(おほみきり)半直段(はんねだん)蟇囗(がまぐち)洋紙製小函(やうしのこばこ)、おためし五(りん)蜜柑湯(みかんたう)(くし)(かんざし)飾髪具(あたまかけ)楊枝(やうじ)歯磨(はみがき)(はし)箸函(はしばこ)老女(ばば)常磐津(ときはづ)盲人(めくら)(こと)玩具(おもちや)絵双紙(ゑざうし)銀流(ぎんなが)早継粉(はやつぎのこ)手品(てじな)種本(たねほん)見世物小屋(みせものごや)女軽業力持(をんなかるわざちからもち)切支丹(きりしたん)首切(くびきり)猿芝居(さるしばゐ)覗機関(のぞきからくり)手無(てな)(をんな)日光山(につくわうざん)雷獣(らいじう)大坂(おほさか)仁和賀(にわか)天狗(てんぐ)(ほね)(かしま)しく()()(はや)(たて)て、大道(だいだう)雑閙(にぎわい)此神(このかみ)繁昌(はんじやく)()るべし。
[現代語訳] 今日は毎月の祭日だという。玉蓮教会の門の左右には、主人や客を待つ人力車がでており、整然と把手をならべている。信心の老若男女は袂をつらねて頻繁に参詣する。
道路の両側にある屋台はにぎわい、いろいろな品々をならべている。私たちよりも子供のほうがよく知っているが、太白飴、煎豆、カルメラ、もんじゃ焼き、椎の実、甘栗、柿、みかん、ほおづき、海ほおづき、知恵の輪、智恵の板、化物蝋燭、水中花、福袋、ガラス製ペン、紙製の女郎人形、オッペケ人形、ハッカ油、ハッカ入り砂糖菓子、シナモン、水羊羹、ほしあんず、今川焼、お好み焼き、にこんだ田楽、大阪寿司、値段半分のがまぐち、洋紙製の小函、おためし五厘の蜜柑風呂。櫛、かんざし、髪飾り、楊枝、はみがき、箸、箸函、婆さんの常磐津、盲人の琴、玩具、絵入りの小説、水銀塗り、接着剤、手品の種本。見世物小屋で見るのは、女軽業、力持ち、切支丹の晒し首、猿芝居、のぞきからくり、手無し女、日光山の妖怪、大坂の寸劇、天狗の骨。かしましく呼び立てて、はやしたて、大通りのにぎわいを見ると、この神の活況を知ってもいいと思える。

腕車 わんしゃ。人力車。客を乗せて車夫が引く二輪車。
 ながえ。馬車・牛車などの前方に長く突き出ている2本の棒。
絡繹 本来は「らくえき」で人馬などが次々に続いて絶えない様子。
市をなす 人が多く集まる。にぎわう。
床廛 とこみせ。床店。廛は店と同じ。商品を並べるだけの寝泊まりしない簡単な店。移動できる小さな店。屋台
太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/ 太白飴
煎豆 豆・米・あられなどを炒って砂糖をまぶした菓子
かるめら 赤砂糖と水を煮立て重曹を加えてかきまぜ、膨らませた軽石状の菓子
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
炙栗 熱した小石の中に入れ加熱した栗。甘栗に近い。
丹波鬼灯 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。

植物のほおづき

植物ほおづき

海鬼灯 うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
海ほおづき
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。e9394230 http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの

化物蝋燭 — 藝海餘波。

酒中花 ヤマブキの茎の髄などで、花・鳥などの小さな形を作り、杯や杯洗などに浮かべると、開くようにしたもの
硝子筆 ガラス製のペン
女郎人形 女郎は本来は「じょうろ」と読み、遊女、おいらん。あるいは単なる女性のこと。女性の形をした人形でしょうか。<a
おツペけ人形 明治20年代、川上音二郎氏はオッペケペー節を書生芝居の幕間に歌いました。自由民権運動の歌で、格好は鉢巻、陣羽織、軍扇でした。同じ格好をした人形でしょうか。
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薄荷油 ハッカ油。主成分はメントール。薬用,香料などに広く使う
薄荷糖 ハッカの香味を加えた砂糖菓子
皮肉桂 ニッキ(ニッケイ、シナモンなど)の樹皮を乾燥したもの。独特の香りと辛味がある。
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。竹甘露
干杏子 ほしあんず。程よい酸味と甘さがある干した果実
今川焼 小麦粉を主体とした生地に餡を入れて焼き型で焼成した和菓子。
まるまる焼 ミニお好み焼き。鉄板にリング状の型を置き、生地を流し込み、魚肉ソーセージが入ってる

http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10922158071.html まるまる焼

田楽 豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに串をさし、調理味噌、木の芽などをつけて焼いた料理。
浪華鮨 なにわずし。おおさかずし。大阪を中心に関西で作られるすしの総称。押しずし・太巻きずし・蒸しずしなどがある。
蜜柑湯 温州みかんの皮を入浴剤として使用する風呂。
老女の常磐津、盲人の琴 常磐津は三味線音楽の流派。三味線を奏でる老女もいたし、琴を奏でる盲人もいたのでしょう。
絵双紙 江戸時代に作った女性や子供向きの絵入りの小説。
銀流し 水銀に砥粉(とのこ)を混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継粉 都筑道夫氏の「神楽坂をはさんで」によれば、割れた陶器をつける接着剤のこと。
切支丹の首切 晒し首があるといって見せたのでしょうか。もちろん嘘の晒し首ですが
覗機関 のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
%e3%81%ae%e3%81%9e%e3%81%8d%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%8f%e3%82%8a雷獣 日本の妖怪。雷とともに天から降りてくきて、落雷のあとに爪跡を残す、想像の動物。
仁和賀 素人が宴席や街頭で即興に演じたこっけいな寸劇
天狗の骨 たぶん動物の骨。谷崎潤一郎氏の随筆「天狗の骨」はイルカだったらしい

私の東京地図|佐多稲子⑤

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「曲り角」には牛込駅が出ています。

 このときから二十年の月日が流れている。それなのに、飯田橋から九段下へ出る電車に乗ってそこを通り過ぎるとき、私はときおりふいと九段の方を見上げることがある。飯田橋から九段へ出る電車通りはいつも埃をかぶったようにくすんでいて見栄えのしない道だ。魚屋だの八百屋だのの毎日の商い屋に混って、わが家で何かの企業をしているといったようなのが目につく。神田の方へ道の岐れた二股の突っ先の角には自動車の修理をするあけっぴろげな工場があって、円タクの町に流れていたころはよく、ガラスのみじんにひび破れた車などが修理場へ持ち込んであった。片側は九段上なので、そばやの角などから石畳の狭い坂が上へ登っている。家と家との間から高台の石垣ののぞいているところもある。かつての昔、私の生活が結びついていたのは、この辺りなのだと思う。何だか遠い悪夢でも思い出したように、半ば信じられない。この辺りの土地のことを自分の利害で、区劃整理があるらしい、飯田橋の駅が中央線の起点になるらしいなどという夫の話に私も相手になっていた。飯田橋の駅が大きくなれば、あのへんの地価はずっと上るのだという。そのころ飯田橋の駅は貨物駅で、電車の客は牛込見附寄りにあった牛込駅で乗り降りしていた。その飯田橋駅の長々とした歩廊は味気ないが、桜の花の散る濠の前にあった牛込駅は愛らしく、ハイカラな玩具の停車場のようなおもむきだった。駅の隣は貸ボート屋だなんて。今だからこそ私はこんなことをいっている。飯田橋駅が中央線の始発駅になるというとき、九段下のあたりまで旅館ができたり、大きな商店のたち並ぶのを頭に描いてみたのであった。

 このとき。大正13年(1924)頃です。また『私の東京地図』は昭和24年(1949年)に出ています。

飯田橋 市電の飯田橋停留場です。下の図で。
九段下 下の図で。市電で飯田橋から目白通りを通って九段下に行くときに目に入ってきた情景です。

飯田橋と市電

飯田橋と市電。明治40年の地図。人文社「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」。2003年

電車 もちろん、JRではなく、市電(都電)です。
見栄えのしない道 飯田町1丁目の写真です。この写真を撮った日時は不明ですが、この路線の都電は昭和43年に廃止されていますので、それ以前に撮った写真でしょう。

飯田町1丁目

飯田町1丁目(東京都交通局『わが街 わが都電』アドクリエーツ社、平成3年)

二股 明治40年の地図にはありませんが、下の昭和6年の地図でははっきり2股になっています。
九段上 下の地図を。
私の生活 佐多稲子氏の住所は麹町区飯田町6丁目24番地でした。上の赤い場所です。

昭和6年の飯田町

昭和6年の飯田町

区画整理 宅地などの区画を整形して新たに道路や公園を造る事業。
中央線の起点 明治27年(1894年)に新宿から牛込駅まで、28年には飯田町駅までが開通。37年に御茶ノ水駅が完成。昭和3年(1928年)、飯田橋駅が完成し、牛込駅は廃駅、飯田町駅は本線の駅は廃駅に、代わりに南側の貨物駅だけが残りました。1999年(平成11年)、この駅も廃止。
貨物駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。
牛込駅 明治27年から昭和3年まで(1894~1928年)、牛込駅がありました。
貸ボート屋 平成8年、水上レストラン「カナルカフェ」が開業しました。それよりも昔、西村和夫氏は『雑学神楽坂』のなかで

 牛込停車場のホームは牛込橋の下、市谷寄りにあった。駅舎は現在の駅舎の反対側早稲田通りの下にあった。乗客は神楽坂下から水上レストランのわきを通って駅舎に入り、濠を渡ってホームへ出た。昭和の初めまで使われていた駅舎は、牛込橋の下、メガネドラッグの後ろで、現在はJRの用地として空地になっている。
 駅舎前には桜が植えられていて、東京の夜桜の名所として知られ、桜の満開の時期は、わざわざ路面電車でやってくる夜桜の見物人が出た。牛込停車場の乗降客は桜のトンネルをくぐるようにしてホームに出た。
 ここに水上公園が出来て、ボートが浮かべられたのは震災後間もない頃だった。若い男女がパラソルをかざして語り合う絶好の場所になり、休日には親子連れが集まる憩いの場になっていた。大戦後、外堀通りには東京オリンピックを前に市電が廃止された後、桜が植えられた。

 また加能作次郎氏は『大東京繁昌記』のなかの「早稲田神楽坂」「牛込見附」で

 あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、(ごく)近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てて市の公園にするとかいう(うわさ)も幾度か聞いたが、そのままお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。

『大東京繁昌記』は昭和2年に発行し、一方、『雑学神楽坂』は平成22年に発行し、筆者の西村和夫氏は昭和3年生まれです。それから考えると「震災前一、二年頃から」のほうが正しいと思います。
 実際には大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができたそうですが、古いインターネットでははっきり書いてあったのに、新版でなくなっています。

私の東京地図|佐多稲子④

文学と神楽坂


 牛込見附の方へ降りかけの、助六という下駄屋で、姉妹が買物をしているのを見たことがある。お師匠さんが鼻緒を手にとっては、自分よりも背の高い君子に顔を仰向けてそれを見せ、また番頭に何か言い言いしている。君子はさすがに若い番頭の前なので、身体つきを甘ったれた風に(たな)にもたせかけていた。姉の背が(こぶ)を背負って自分よりも低いことなど意に介していない。不具の姉は、傍若無人に妹を甘えさせ、何かの喜びを感じている。

 坂の中途には、神楽坂倶楽部(くらぶ)などという貸席もあった。そのすぐ上てに、牛込会館という、あとでは白木屋が店を出した洋風の大きな建物があったが、ここで水谷八重子が翻訳劇をやったのもその頃である。「殴られる彼奴」の道化師には汐見洋(しおみよう)が、眼も埋まるほどまっ白に塗って、鼻の先と頬をまっ赤に紅で染めてピエロの服をきていた。八重子は獅子(しし)つかいの、傲慢(ごうまん)な娘に、そして東屋(あずまや)三郎座頭(ざがしら)で、派手な(しま)の服に長靴か何か履いていた。
 喫茶店の山本では、ドウナツが安くてうまい。今まで下町ばかりに住んでいた私は、山本で一杯のコーヒーをのむことに、幾分の文化の雰囲気を感じた。芳子は相変らずどこか冷めたく、上っつらな冗談ばかり言っている。屋敷町から神楽坂へ出るひっそりした坂道で朝毎に()う男が、喜劇俳優のバスター・キートンに似ているなどと言って、その男が曲り角から現われるのを見つけると、
「おッ、バスター・キートン!」
 と囁いて、言った自分はつんと澄ましている。
 その春、見合いをして決まった縁談に、私か(かた)づいていったのはこの杵屋与志次の家の、間借りの部屋からであった。次の年の正月に、私が夫の家を出て行方を知らせなかった時、この家へも搜索人が廻った。

姉妹 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性、妹は君子さん。
お師匠さん 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性
君子 妹の君子さん
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷やそれをする家。
芳子 丸善で同僚で、同じ杵屋与志次の家に間借りをしている女性。
バスター・キートン Buster Keaton。生年は1896年。没年は1966年。無声映画の米国の人気俳優。
杵屋与志次 長唄三味線のお師匠さん。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
次の年の正月 大正13(1924)年末、佐多稲子氏は家出し、正月あけに帰りました。

私の東京地図|佐多稲子③

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の③です。関東大震災の後の大正12年から嫁いでいく大正13年までの1年間を牛込区(現在の新宿区)で生活しています。氏は19歳でした。差別用語や放送禁止用語になる言葉もありますが、原文を尊重します。

 納戸町の静かな横町がやがて、表どおりの、北町から新見附に通じているへ出ようとするちょっと手前に、表どおりの商店の家並みが横町のそこまで曲り入ってしまったという風に一軒の魚屋がある。その真向いに、ぺしゃんと坐り込んだような軒の低い家があった。小さな子ともにおさらいをつける三味線(しゃみせん)の音がその家から聞えている。
 よいはアまアち、そしてエ、恨みてあかつきの、と、唄の言葉の意味は知らずに、幼い声が張り上げている。
「はい、もう一度、にくまアれエぐちの、あれ、なくわいな」
 そう言うお師匠さんの声も優しい女の声である。
「はい、御苦労さま、とてもお上手にお出来になりましたわ。また、あしたね」
 おじぎをして立ってゆくおかっぱの子を、わざわざ送り出してゆくお師匠さんは、束髪に結った色の白い、そしてその声と同じように優しい細おもての人である。足もとのさばき方はこきざみにいそいそとしているけれど、銘仙の羽織が、ゆきもだらりと長くて、襟もとがすくんで見えるのは、その人がせむしだからであった。
 裏の縁側でつぎものなどをしているお師匠さんのお母さんが、自分も立って来る。
「まあほんとうに、どんどんお上手になることねえ。あした、またいらっしゃいね」
納戸町。北町。新見附 地図を参照。上から都電の北町(青丸)、納戸町(赤の多角形)、都電の新見附(青丸)。

 現在は牛込中央通りです。
唄の言葉 三味線の歌(絃歌)『明けの鐘(宵は待ち)』の一節です。「宵は待ち そして恨みて 暁の 別れの鶏と 皆人の 憎まれ口な あれ鳴くわいな 聞かせともなき 耳に手を 鐘は上野か浅草か」と続きます。
お師匠 女性で杵屋与志次師匠。
束髪 そくはつ。髪をひとまとめにして束ねる結髪。明治時代以後、流行した婦人の洋髪の一つ。

銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物。
 しま。2種以上の色糸を使う、縦か横の筋かその織物。
ゆき 裄丈。ゆきたけ。衿の中心から袖口までの長さ。
 たけ。長さ。%e3%82%86%e3%81%8d%e4%b8%88
すくんで 体をちぢめ小さくなる。
せむし 背中の一部が円く突出した状態。

 せむしのお師匠さんは母親に並ぶとその肩の下になる。娘の仕事を自分もいっしょに大事がる思いで、おっ母さんは、小さい弟子にお愛想を言っている。
「さ、お待たせしました」
 稽古台の前へもどって来るとお師匠さんは稽古本をひろげて、
「では、昨日のところをおさらいいたしましょう」
 と、三味線を膝にとる。三味線の棹の先きが、背の曲がったお師匠さんの肩よりずっと斜め上にのびて、お師匠さんの首がいよいよ襟元へはまったように見える。
月もくらまのウ
 と(ばち)を強く三味線の(いと)に当てて弾きはじめると、お師匠さんの表情がやや()つくなる。女学生のお弟子の幼い撥の音と二重になって暫く、それが続く。(中略)
 神楽坂の花柳界につづいた屋敷町と、大きな酒屋や薬屋などのある北町の表どおりとの間につぶされるように挟まって目にもつかぬ家、稽古三味線の音で辛うじて杵屋与志次の看板に気づく。内弟子から名取りになって、ようやくここに独り立ちしているせむしの師匠は、母親と、十七歳になる妹との三人暮らしであった。妹は母親似の、年齢よりは大柄な、色白のぼってりした娘で、その頃、日本一の建物だと地震前から噂の高かった丸の内ビルディングの地下室の、花月食堂の給仕をしていた。
月もくらまのウ 三味線の『鞍馬山』の一節です。「月もくらま(鞍馬)の影うとく 木の葉おどしの小夜あらし」と続きます。
 ばち。琵琶・三味線などの弦をはじいて鳴らすへら状の道具。
 琴・三味線などの楽器の糸。
酒屋や薬屋 納戸町でも神楽坂に近い場所というと、中町や南町に接する場所でしょう。酒屋としては升本酒店があり、この酒店は明治30年3月から現在まで続く老舗です。この当時も同じ納戸町に店を構えていました。また萱沼薬局も戦前から続く納戸町の店舗でした。この2店舗の間を通って南町に行く通りがあり、おそらく杵屋与志次の家はその辺り(青の輪)にあったのでしょうか。
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杵屋与志次 三味線の師匠で女性。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
花月食堂 実際にあったようです。

私の東京地図|佐多稲子①

文学と神楽坂

 佐多稲子氏は、小説家で、父の失職などの事情で小学校5年からキャラメル工場に勤め、女給として働いています。中野重治、堀辰雄など『驢馬』同人と知り合い、プロレタリア文学運動に参加。『キャラメル工場から』 (1928) など清新な作品を発表しました。日本共産党への入党と除名などを通じ、次第に作家として成長しました。

 ここでは『私の東京地図』の「坂」(新日本文学会、1949年)を読んでいきます。19歳の佐多氏は関東大震災直後の大正12年から嫁いでいく大正13年までの1年間を牛込区(現在の新宿区)で生活しています。

       坂

戦災風景

戦災風景 牛込榎町から神楽坂方面。堀潔 作

 敗戦の東京の町で、私の見た限り、牛込神楽坂のあたりほど昔日のおもかげを消してしまったところはない。ここに営まれた生活の余映さえとどめず、ゆるやかに丘をなした地形がすっかり丸出しにされて、文字どおり東京の土の地肌を見せている。高台という言葉は、人がここに住み始めて、平地の町との対照で言われたというふうにすでにその言葉が人の営みをにおわせているが、今、丸出しになった地形は、そういう人の気を含まない、ただ大地の上での大きな丘である。このあたりの地形はこんなにはっきりと、近い過去に誰が見ただろうか。丘の姿というものは、人間が土地を見つけてそこに住み始めた、もっとも初期の、人と大地との結びつく時を連想させる。それほど、矢来下から登ってゆく高台一帯のむき出された地肌は、それ自身の起伏を太陽にさらしていた。
 肴町の停留所のあとは、都内電車の線路を通して辛うじてその場所を残しているが、この線路を突っ切って、幅狭いが一本、弧を描いて通っているのは、もの悲しくはろばろとしていた。視野は、牛込見附まではとどかない。丘の起伏にそって道は山のむこうに消えている。丘の面積の上で見ると、なんという、小さな弱々しい、愛らしい道であろう。丘の上を一本通っている道がこんなふうに弱々しく愛らしいということも、この丘をいよいよ古めかしく見せるらしい。道の両側は特有の赤ちゃけた焼跡にまだバラックの建物らしいものも見えず、道だけがひっそりとしている。神楽坂という賑やかな名さえついていたということを、忘れてしまうほど。

余映 よえい。日が沈んだり、灯火が消えたりしたあとに残った輝き。余光。残光。
矢来下 ここでは交差点「牛込天神町」の下(北側)を「矢来下」と呼んでいます。
停留所 都電(市電)が発着する駅。
都内電車 路面電車、都電(市電)のこと。
 神楽坂通りです。
はろばろ 遥遥。遠く隔たっている。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附も江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。肴町から牛込見附を見ても途中に上り坂があるので見えないといっているのでしょう。

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑪

文学と神楽坂

 朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。
 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。

神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
音楽之友社 音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。音楽之友
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
神楽坂口 地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはず。
神楽坂口
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。

別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
或屋敷 「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。佐藤自宅

  広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作(すだれ)の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。

今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。
コトブキネオン 現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。やらい薬局と日本風呂
ガス風呂 「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。

 トラックに積まれた木曽産の丸太が、神楽坂で箱風呂に生まれ変わる。「親父がさ、いい丸太だ、さすが俺の目に狂いはないなって、いつもちょっと自慢げにしててさあ。」と、店長の光敏(65)さんが言う。木場に流れ着いた丸太を選び出すのは、いつも父の啓蔵(90)さんの役目だった。
 風呂好きには、木の風呂なんてたまらない。今の時代、最高の贅沢だ。そう言うと、「昔はみんな木の風呂だったからねえ。」と光敏さんが懐かしむ。啓蔵さんや職人さん達がここ神楽坂で風呂桶を彫るのを子供の頃から見て育ち、やがて自分も職人になった。

新潮社 1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。新潮社
旺文社 1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。

旺文社

 そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。

交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。

矢来下

矢来下

江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
講談社 こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本ゆうべん(かい)」として設立
講談社榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。

 矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。
 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。
 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。

中里町 なかざとちょう。下図を。
住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません。

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

本郷区丸山福山町四番地 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。
一葉終焉
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山(いちきさん)宗柏寺。日蓮宗です。
お百度 百度参り。百度(もう)で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを(せん)じた飲料
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。

宇野浩二と神楽坂

文学と神楽坂

宇野浩二2 宇野(うの)浩二(こうじ)氏は私小説が有名な作家ですが、他の文学作品の切れ味はすごく、芥川賞の審査員にもなっていました。また氏も神楽坂界隈に住んでいた時期があります。昭和17年8月、51歳のときに『文学の三十年』を書き、そこで、明治44年3月(数え年で21歳、満年齢では19歳)には、白銀町の()(づき)という下宿に住んだことを書いています。

雑司ヶ谷の茶畑の中の一軒家で、一人で自炊しながら、寒い冬を越して、翌年の三月頃、私は、牛込白銀(しろがね)の素人下宿に引っ越した。明治四十四年、私が二十一歳の年である。今の電車の道で云えば、築土八幡前の停留所を出て暫く行くと、肴町の方へ殆ど直角に曲る角がある。あの角を、電車の道の方へ曲らずに、赤城神社へ出る方へ行って、すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった。その素人下宿は、大きな家で、間取(まど)りもよく、部屋も大きく、部屋の中の造作(ぞうさく)も整っていた上に、中二階まであった。そうして、その中二階には三上於菟吉が陣取っていた。それから、母屋の二階には、竹田敏彦の同級の、今は「サンデー毎日」の編輯長で収まっている、大竹憲太郎や、泉鏡花の弟の泉斜汀夫婦や、えたいの知れない四十歳ぐらいの一人者などがいた。そうして、その風変りな素人下宿には、前の章に書いた、三富朽葉今井白楊浦田芳朗、(前の章では、大阪毎日新聞社の機械部艮、と書いたが、この快兼怪漢は、その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、今は、京都日日新聞社長になっている、)その他がしばしば現れた。

牛込白銀町 明治44年6月以前は「牛込白銀町」、以降は「白銀町」です。下の青く描いた多角形は「白銀町」です。この中に氏の下宿がありました。
下宿 かつての路面電車を停留場①「筑土八幡前」で降ると、そのまま進み、②道はY字に分かれます。左側に行くと停留場「肴町」に着き、右側を行くと赤城神社につながります。「赤城神社へ出る方へ行って、③すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった」ので、おそらくこのどこかでしょう。

昭和5年の地図

昭和5年の「市区改正番地入 牛込区全図」の1部

造作 構造部以外で大工職が作る部分。木造建築では天井、床、階段、建具枠、床の間、押入れなど。
竹田敏彦 たけだとしひこ。生年は1891(明治24)年7月15日。没年は1961(昭和36)年11月15日。劇作家、小説家。早稲田大学英文科中退。「大阪毎日新聞」記者をへて、1924年新国劇に入り、文芸部長に。のちに小説家。1936年業績全般で直木賞候補。
大竹憲太郎 新しい情報はなく本文の通りで、当時は「サンデー毎日」の編輯長
三富朽葉 みとみきゅうよう。生年は1889(明治22)年8月14日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。自由詩社同人。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も。犬吠埼君ヶ浜で溺れた今井白楊を助けようとしてそのまま水死。
今井白楊 いまいはくよう。生年は1889(明治22)年12月3日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。1909年、自由詩社に参加。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。そのために単行本になった詩集はない。
浦田芳朗 うらたよしろう。大正15年、『南米ブラジル渡航案内』の筆者(大阪毎日新聞社)。その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、この時は京都日日新聞の社長。

 本文ではもう少し下宿の都築を紹介しています。

この素人下宿(()(づき)という名)の事を少しくだくだしく書いたのは、この都築には、前にも述べたことがあるが、当時、『別れた妻』に別れたばかりの、赤城神社の境内の下宿に住んでいた、近松秋江が毎日ほど現れたり、この都築にいた頃、三上が、その道の猛者になる下地を初めて作ったり、したからである。又、この都築にしばしば現れた、三富、今井、浦田、という、三人の、それぞれ形は違うが、颯爽とした青年の中で、三富と今井は、十九世紀のフランスの象徴派の詩人の故事を真似て、『薄命詩人会』と称する会を作り、「象徴」という雑誌まで創刊し有為な豊富な才能を持ちながら、その頃から十年も立たないうちに、大正六年八月二日、僅か二十九歳で、犬吠岬で水泳中に溺死する、という運命を持ち、私に、(ほの)かな恋愛小説を作って一世を風靡したことのある水野葉舟を紹介したり、レエルモントフの『現代の英雄』の英訳を貸してくれたり、しているうちに、いつの間にか政治運動に這入った、というような浦田が、浦田流の生活を押し切って、壮健に生きている、という、そういう私だけに悲しくも面白くもある事が都築と共に思い出されるからである。

その道の猛者(もさ) 猛者とは「力のすぐれた勇猛な人。荒っぽい人」。「その道」ははっきりしないが、ウィキペディアでは「流行作家時代の三上は放蕩、浪費し、作品のほとんどを待合で書いた」としている。待合とは芸妓との遊興や飲食を目的とする風俗業態。
象徴派 1870年頃、自然主義などの反動としてフランスとベルギーの文学芸術運動。象徴派は事物を忠実には描かず、主観を強調し,外界の写実的描写よりも内面世界を表現する立場。サンボリスム。シンボリズム
水野葉舟 みずのようしゅう。生年は1883(明治16)年4月9日。没年は1947(昭和22)年2月2日。詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。
レエルモントフ ミハイル・レールモントフ。Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов。1814年10月15日~41年7月27日。帝政ロシアの詩人、作家

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑩

 演劇学者で名著『歌舞伎細見』の著者である飯塚友一郎の生家で、別に精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場その坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許()()()なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。酒の飲めない私もいつか誰かに連れられていって卓の前に坐ったことがあるが、我こそは明日の星よとみずからにたのんだ無名の芸術家たちが、まだ生活水準の低かった労働者と肩を接して安酒の酔いに談論風発していた光景には忘れがたいものがある。
 が、こんど私がそこへ脚をはこんだのは、その横か裏かにあったはずの芸術倶楽部所在地を確認したかったからにほかならない。
 島村抱月坪内逍遥文芸協会と袂を分って我が国最初の新劇団である芸術座を創始したのは大正二年九月で、『サロメ』『人形の家』の上演など主として翻訳劇の紹介に力をつくしたが、翌三年三月帝劇で上演したトルストイの『復活』は、劇中に挿入した中山晋平作曲の『カチューシャの唄』の大流行と相俟って四百回を越える上演記録をうちたてて、演劇の通俗化を批難されるに至った。そのため抱月は研究公演の必要を感じて、四年秋に収容人員二百五十名の小劇場として横寺町十一番地に建築したのが芸術倶楽部であったが、彼は日本全国では死者十五万人に及んだスペイン風邪から肺炎におかされて、大正七年十一月五日に芸術倶楽部の一室で歿した。そして。その死後は彼の愛入で事実上芸術座の舞台の人気を一人でささえていた女優の松井須磨子主宰者となって劇団を維持していたが、八年一月有楽座で『カルメン』公演中の五日未明に、師のあとを追って芸術倶楽部の道具置場で縊死した。
 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や寺社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので、芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やむなく飯塚酒店に入って三十代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらぴっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

歌舞伎細見 かぶきさいけん。1926年(大正15)に発行した歌舞伎の研究書。「世界」や題材により系統的に整理・分類し、由来や梗概(こうがい)、参考書がついています。系統的、網羅的な作品はほかに類書はなく、歌舞伎研究に重要な業績です。
官許 かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと
にごり にごりざけ。発酵させただけで(かす)()していない白くにごった酒。どぶろく
繩のれん なわのれん。縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。店先に繩のれんを下げた居酒屋・一膳飯屋など
談論風発 だんろんふうはつ。はなしや議論を活発に行うこと
横寺町11番地 間違いです。9番地が正しい。芸術倶楽部で。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月(ほうげつ)氏と女優の松井須磨子(すまこ)氏を中心に、主に研究劇を行いました。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成しました。
スペイン風邪 1918年から19年にかけて全世界的に流行したインフルエンザN1H1亜型のこと。
主宰 人々の上に立ち全体をまとめること。団体・結社などを運営すること
現場へ行ってとまどった 現在はプレートがあります。

 このへんから早稲田、あるいは大久保通りの先にある若松町一円にかけては明治大正期にわたる文士村の観があって、その詳細はここで追いきれるものではない。が、私は芸術倶楽部の所在地と同時に教えられた尾崎紅葉住居跡だけは、なんとしても尋ねずにいられなかった。それは、私が十数年前に徳田秋声の伝記を出版する以前から果したいと考えていた夢の一つだったからでもある。いや、そう言っては私自身がすこし可哀そうである。私は十数年前にも、そしてつい近年もそのへんを歩いていながら、人様に道をたずねるのがあまり好きではないばかりに、探し当てられなかっただけのことでしかなかった。
 飯塚酒店からさらに二百メートルほど先へ行くと、やはり右側に三孝商店という酒屋がある。横丁をへだてた先隣りは青物商だが、その青物商の前に黒く塗った鉄柵をもつ路地があって、なかは私道だが、その袋路地のゆきどまりの左側が横寺町47番地の紅葉旧宅跡で、紅葉時代からの家主であった鳥居家の当主秀敏夫妻が現住している。まず、その家屋の前に掲示されている標識を写しておこう。

新宿区文化財
旧跡 尾崎紅葉旧居跡
明治の文豪尾崎紅葉は、ここに明治二十四年二月から、三十七歳で死去する明治三十六年十月まで住んだ。鳥居家には、今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆二枚がある。
   初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万
   はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉
旧居は十千万堂と呼び、二階建て。階下は八畳、六畳、三畳と離れの四畳半があり、二階は八畳と六畳の二間であった。戦災で焼失したが、庭は当時のままである。
ここで紅葉は、有名な「多情多恨」や未完の「金色夜叉」などを執筆した。
昭和五十一年九月
                 新宿区教育委員会

早稲田 早稲田通りは青色。
大久保通り 大久保通りは赤色。
若松町 若松町は中央やや下の赤の場所。
早稲田通りと大久保通り
文士村 若松町の文化人は、区内に在住した文学者たちを使って調べてみると、飯塚友一郎小川未明、岸田国士、国木田独歩、窪田空穂、島田青峰、高田早苗田山花袋、野口雨情、昇曙夢、三宅やす子、宮嶋資夫、矢口達、若山牧水などでした。
住居跡 紅葉氏の住居は横寺町47番地でした。
三孝商店青物商紅葉旧宅跡 この三か所を示します。さらに紅葉氏の塾生が集まった十千万堂塾も出しました。十千万堂塾は箪笥町4~7番地のどこにあるのか、わかりませんが、新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書く「神楽坂と文学」「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では5番地だといっています。

標識 旧と新のプレートを示します。
紅葉旧居跡
紅葉旧居跡

 折よくご夫妻が在宅されて、なんの連絡もせずにいきなり訪問した私は茶菓の饗応にまであずかるという、まったく予期せぬ歓待を受けた。その上、標識に記されている二句の現物や、紅葉の本名である尾崎徳太郎と印刷された通常の名刺を縦半分に切断したような細長い名刺や、尾崎家の遺族が記念に印刷して関係者に配布したらしい写真帖などもみせられたが、最大の収穫は桝の大きめな方眼紙に鳥居家当主の手で精緻にえがかれた旧居の間取り図であった。
 紅葉宅に泉鏡花小栗風葉柳川春葉の三人が玄関番として住みこんでいたことは幾つかの書物に記載されているが、私は『徳田秋声伝』を執筆したとき三人の起居した玄関の間が二畳か三畳か確認できぬままに終った。その後『日本文壇史』を書いた伊藤整が「朝日新聞」記者のインタビューに応じて私の書いた通りに語っているのを読んで責任を感じていたが、こんどようやくそれも氷解した。面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである。
 標識に《当時のまま》と記されている庭も案内されたが、尾崎家の子女が育つにつれて玄関ではしだいに仕事がしづらくなっていた風葉は、鏡花が祖母と榎町で所帯を持ったあと、尾崎家の地からおりていける地つづきに二階建ての貸家が空いたのに眼をつけて、同門の春葉と秋声にそれを借りて文学修業の共同生活をしようと提案した。その勧誘をした場所が前記の万盛庵で、そのうちに他の門下生も集まって来て紅葉の家塾の観を呈したために、彼等が詩星堂と名づけていた合宿寮が文壇では十千万堂塾とよばれるに至った。文学上ではもちろんのこと、物質的にもなにがしかの援助を受けていたために、紅葉の家塾とみなされたのである。が、その援助にも、かぎりはあった。われわれの先輩作家は、一本の巻煙草を二つに千切って分け合うというような暮しぶりをしていたのである。戦後の作家生活とは雲泥の差が、そこにはあった。塾のあった場所の地籍は箪笥町であったが、「ここをだらだらと下ったところにあったんです」と鳥居家の当主が指さしたその地点は、しかし、垂直な崖に変形してしまっていた。
 徳田秋声の昭和八年の短篇『和解』は、自邸の庭続きに新築したアパート「フジハウス」へ、困窮していた泉鏡花の実弟泉斜汀(本名=豊春)が転がりこんできて急死したのを機会に、鏡花が謝意を表するために訪問したところから、師の紅葉をめぐって長年つづいた確執も解消して、打ち揃って十千万堂跡をおとずれるいきさつを叙したものだが、『和解』という表題にもかかわらず、二人のあいだのしこりは完全に氷解したわけではない。そういう屈折した心理を、たんたんとのべているところに味わい深いもののある作品とみるべきであろう。母堂が朝日坂五条坂とよんでいたという話も、私はそのとき鳥居家の当主からきいた。

榎町 えのきちょう。東京都新宿区にある地名
万盛庵 当時は蕎麦屋。後に鳥料理の川鉄になりました
箪笥町 たんすまち。東京都新宿区の町名で、横に長い町です。箪笥町はここ
和解 昭和8年3月30日、泉斜汀氏の死亡と葬式があり、徳田秋声氏と泉鏡花氏との曰く言いがたい関係を描く作品
朝日坂 泉蔵院に朝日天満宮があるため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/
五条坂 朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/

二句の現物 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)で、二句の現物のコピーを見られます。

紅葉の二句で現物

フジハウス 徳田秋声旧宅は文京区本郷6丁目6−9。フジハウスは6-2です。空襲はなく、当時のままです。フジハウス1

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑨

  文学と神楽坂

 以前には坂下が神楽町、中腹が宮比(みやび)、坂上が肴町で、電車通りから先は通寺町であったが、現在ではそれらの町名がすべて消滅して、坂下が神楽坂一丁目で大久保通りを越えた先の通寺町が神楽坂六丁目だから、のっぺらぼうな感じになってしまった。が、住民は坂下から大久保通りまでを「神楽坂通り=美観街」として、以前の通寺町では「神楽坂商栄会」という別の名称を採択している。排他性のあらわれかもしれないが、住民感覚からは当然の結果だろう。寺町通りにも戦前は夜店が出たが、神楽坂通りは肴町――電車通りまでという思い方が少年時代の私にもあった。『神楽坂通りの図』も、寺町通りにまでは及んでいない。

神楽町 下図で神楽町は赤色。
宮比町 下図で上宮比町は橙色。
肴町 下図で肴町はピンク。
電車通り 大久保通り。路面電車がある通りを電車通りと呼びました。
通寺町 下図で通寺町は黄色。なお青色は岩戸町です。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

神楽坂通り 現在は神楽坂1~5丁目は「神楽坂通り商店会」です。
神楽坂商栄会 現在は6丁目は「神楽坂商店街振興組合」です。
電車通りまで 本来の神楽坂は神楽坂一丁目から五丁目まで。

 寺町通りの右角は天台宗の🏠安養寺で、戦前から小さな寺院であったが、そこから軒なみにして七、八軒目だったろうか、右角に帽子屋のある路地奥に寄席の🏠牛込亭があった。私の聞き違いでなければ、藤枝静男から「あそこへ私の叔母が嫁に行っていましてね」と言われた記億がある。だから自分にも神楽坂はなつかしい土地なのだというような言葉がつづいたようにおぼえているが、広津和郎はその先の矢来町で生まれている。そのため『年月のあしおと』執筆に際して生家跡を踏査したとき、彼は《肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「🏠船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけ》て、《子供の時分から知っている店で、よくオヤツを買いに来た》ことを思い出しながら店へ入ると、《代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます》という店員の返事をきいて《大福を包んで貰》っているが、私も些少の興味をもって外から店内をのぞいてみたところ、現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

軒なみ 家が軒を連ねて並び建っていること。家並み。並んでいる家の一軒一軒。家ごと。
セロファン セルロースを処理して得られる透明フィルム。

 矢田津世子『神楽坂』の主人公で、もと金貸の手代だった五十九歳の馬淵猪之助は通寺町に住んで、二十三歳の妾お初に袋町で小間物店をひらかせている。お初は金だけが目当てだし、自宅にいる女中の(たね)は病妻の後釜にすわることをねらっているので、猪之助は妻に死なれていとおしさを感じるといった構想のものだが、矢田はどの程度に神楽坂の地理を知っていたのか。猪之助は袋町へお初を訪ねるのに、寺町の家を出て≪肴町の電車通りを突っき》つたのち、《毘沙門の前を通》って《若宮町の横丁》へ入っていく。そのあたりもたしかに袋町だが、料亭のならんでいる毘沙門横丁神楽坂演芸場のあった通りの奥には戦前から現在に至るまで商店はない。袋町とするなら藁店をえらぶべきだったろうし、藁店なら寺町から行けば毘沙門さまより手前である。小説は人物さええがけていれば、それでいいものだが、『神楽坂』という表題で幾つかの地名も出てくる作品だけに、どうして現地を歩いてみなかったのかといぶかしまれる。好きな作家だっただけに、再読して落胆した

『神楽坂』 昭和5年、矢田津世子氏は新潮社の「文学時代」懸賞小説で『罠を跳び越える女』を書き、入選し、文壇にデビュー。昭和11年の「神楽坂」は第3回芥川賞候補作に。
小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの
寺町 神楽坂六丁目のこと
通り この横丁に三つ叉通りという言葉をつけた人もいます
袋町 袋町はここです。袋町商店はない藁店をえらぶ  商店はありませんが、花柳界がありました。商店がないが花柳界はある小説と、商店や藁店があるが花柳界はない小説。しかも表題は『神楽坂』。どちらを選ぶのか。あまり考えることもなく、前者の花柳界があるほうを私は選びます。

1990年、六丁目の地図1990年、六丁目の地図

安養寺 牛込亭 船橋屋 よしや せいせん舎 木村屋 朝日坂 有明家
 船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、🏠よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ訓導』などという映画――当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしぼった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違ってお涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズム顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

紅涙 こうるい。女性の流す涙。美人の涙
新派悲劇 新派劇で演じる人情的、感傷的な悲劇。「婦系図」「不如帰」「金色夜叉」など
センチメンタリズム 感傷主義。感性を大切にする態度。物事に感じやすい傾向
顕現 けんげん。はっきりと姿を現す。はっきりとした形で現れる
享受 きょうじゅ。あるものを受け自分のものとすること。自分のものとして楽しむこと
チャップリン、ロイド、キートン サイレント映画で三大喜劇王。
ニコニコ大会 戦前から昭和30年代まで、短編喜劇映画の上映会は「ニコニコ大会」と呼ぶ慣習がありました。

 文明館――現在のよしやスーパーの先隣りには老舗のつくだ煮の🏠有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。
 そのすこし先の反対側――神楽坂下からいえば左側の左角にクリーニング屋の🏠せいせん舎、右角に食料品店の🏠木村屋がある。そのあいだを入った一帯は旧町名のままの横寺町で、奥へ行くといまでも寺院が多いが、入るとすぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著書では🏠朝日坂または旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の一例だろう。

木村屋 正しくは「神楽坂KIMURAYA」。『神楽坂まちの手帖』第2号で、「創業明治32年菓子の小売から始まり、昭和初期に屋号を「木村屋」に。昭和40年代に現在のスーパー形式となり、常時200種が並ぶワインの品揃えには定評がある」と書かれています。「スーパーKIMURAYA」の設立は昭和34年(1959年)。法政大学キャリアデザイン学部の「地域活動とキャリアデザイン-神楽坂で働く、生活する」の中でこう書かれていました。現在のリンクはなさそうです。

―キムラヤさんは、初めはパンとお菓子をやられていたんですね。
 それは、明治ですね、焼きたてのパンを売ってたからものすごく売れたんですね。スーパーじゃなくて、パン屋をやりながらお菓子を売っていました。お菓子のほうがメインだったんです。その頃、焼きたてのパンなんて珍しくてね、パンをやるんだから銀座のキムラヤさんと同じ名前でいいんじゃないかって「キムラヤ」ってなったわけで、銀座のキムラヤさんとは全く関係ありませんからね(笑)

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑧

文学と神楽坂

 相馬屋の先隣りは酒屋の🏠万長で、現在の敷地は路地の右角までだが、以前には角が足袋の丸屋で、いま左角にある牛肉屋の🏠恵比寿亭の場所には下駄屋の上田屋があった。夏目漱石が姉ふさの夫高田庄吉の家へ二番目の兄栄之助に連れられていって、神楽坂芸者の咲松とトランプをしたと『硝子戸の(うち)』に書いている場所は、この路地のなかである。
 現在その路地と向い合っていた路地はなくなったが、すき焼屋の恵比寿亭を左に、八百文を右に見ながら入ったその路地奥に鳥料理の川鉄があって、そこの蓋のついた正方形の塗りものの箱に入っていた親子は美味で、私の家でもよく出前させていたが、それもその後めぐり合ったことのないものの一つである。ひとくちに言えば、細かく切った鶏肉がよく煮こまれていて、()り玉子と程よくまぜ合わせてあった。その川鉄について、『神楽坂通りの図』には≪お客に文士が多かった≫と記入してあるが、加能作次郎も『早稲田神楽坂』のなかで≪牛込在住文士の牛込会などもいつもそこで開いた。≫といっている。川鉄になる以前は万盛庵という蕎麦屋だった様子で、徳田秋声小栗風葉から後述する()()(まん)堂塾への参加をすすめられたのがその万盛庵であったことが、彼の実名的長篇自伝小説『光を追うて』に出てくる。
 現在の牛肉店恵比寿亭――以前の下駄屋の上田屋の位置から五、六軒先にあった機山閣書店は、震災後高島屋十銭ストアという十銭の商品だけを置く店になったが、すぐ廃業した。いまもそのあたりで残っているのは、角の🏠河合陶器店だけだろう。閉店後から開店前まで、いつも盗難のおそれがない大きな丸火鉢だけが重ねて店外に置かれてあったが、丸火鉢などというものも日本人の日常生活とはすっかり疎遠になってしまった。
 十銭ストアの筋向いにあった三階建ての和菓子舗紅谷は二階が喫茶店で三階は小集会用の貸席になっていたが、いまは痕跡もない。角の尾張屋銀行の跡も不動産屋のつくば商事になっていて、「神楽坂通り=美観街」はその地点で尽きる。そこが以前の都電通り――現在の大久保通りだからだが、大久保という地名も近々新宿何丁目かに変更されるということだから、そのときには通りの名称も変更されることになるのだろうか。朝令暮改もここにきわまれりという感じで、住民をいたずらにするのはいいかげんにしてもらいたいという気がする。
 『神楽坂通りの図』は貴重な記録だが、一つだけ誤りを指摘しておく。以前の電車通りを筑土方向へむかっていって最初に右へ折れる路地の左角に神楽おでんとあるのは正しいが、≪ドサ廻りの芝居がよくかゝった。もと鶴亀亭。≫と註記されている柳水亭がその先にあるのは肯定できない。路地の右角は青物商で、柳水亭はその手前――河合陶器店寄りにあった。私はその青物商の二階に間借りしていたことがあるし、柳水亭にも何度か入っているので間違いない。

その路地。名前は寺内横丁です
貸席。会合や食事のために料金をとって貸す部屋
朝令暮改。ちょうれいぼかい。朝に出した命令を夕方にはもう改める。方針などが絶えず変わって定まらないこと
肯定できない。その通り

機山閣 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)「城跡と色町」を書いていますが、写真の左から二番目の店舗に機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。
大正時代の神楽坂通り
丸火鉢
丸火鉢

丸火鉢

灰を入れ、中で炭火をおこして手などを温める暖房具。木製では丸火鉢、長火鉢などがある。

5丁目

万長 恵比寿亭 河合陶器店

和解|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏の『和解』(昭和8年)の最終場面です。
 徳田氏と泉鏡花氏のいわく言いがたい関係が出ています。

徳田秋声

徳田秋声

 K―の流儀で、通知を極度に制限したので、告別式は寂しかつたけれど、惨めではなかつた。順々に引揚げて行く参列者を送り出してから、私達は寺を出た。
「ちよつと行つてみよう。」K―が言ひ出した。
 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
「その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか(おつ)かなくて……。」
 私達は笑ひながら、路次を出た。そして角の墓地をめぐつて、ちやうど先生の庭からおりて行けるやうになつてゐる、裏通りの私達の昔しのの迹を尋ねてみた。その頃の悒鬱(むさくる)しい家や庭がすつかり潰されて、新らしい家が幾つも軒を並べてゐた。昔しの面影はどこにも忍ばれなかつた。
 今は私も、憂鬱なその頃の生活を、まるで然うした一つの、夢幻的な現象として、振返ることが出来るのであつた。それに其処で一つ鍋の飯を食べた仲間は、みんな死んでしまつた。私一人が取残されてゐた。K―はその頃、大塚の方に、祖母とT―と、今一人の妹とを呼び迎へて、一戸を構へてゐた。
 私達は神楽坂通りのたはら屋で、軽い食事をしてから、別れた。
 数日たつて、若い未亡人が、K―からの少なからぬ手当を受取つて、サクラをつれて田舎へ帰つてから、私達は銀座裏にある、K―達の行きつけの家で、一夕会食をした。そしてそれから又幾日かを過ぎて、K―は或日自身がくさぐさの土産をもつて、更めて私を訪ねた。そして誰よりもK―が先生に愛されてゐたことと、客分として誰よりも優遇されてゐた私自身が一つも不平を言ふところがない筈だことと、それから病的に犬を恐れる彼の恐怖癖を、独得の話術の巧さで一席弁ずると、そこそこに帰つていつた。
 私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。
(昭和8年6月「新潮」)


K― 泉鏡花のこと
O― 尾崎紅葉のこと
二町 1町は約109m
宿怨 しゅくえん。かねてからの恨み。年来の恨み。旧怨。宿恨。宿意
夢幻 むげん。夢や幻のようにはかないこと
 詩星堂、または十千万堂塾
手当 心付け。支払う金銭。基本給のほかに支給する資金
サクラ 泉斜汀の子
くさぐさ 種種。種類や品数の多いこと。さまざま。いろいろ。なお、青空文庫では「くさくさ」と書いていますが、意味は不明です。「くさぐさ」は新潮社の「名短篇」(新潮別冊、新潮創刊100周年記念、平成17年)から取りました。
当味 あてみ。当身。古武術等の打撃技の総称。ひじ、拳、足先などで相手の急所を打ったり突いたりする技。

この関係は里見弴氏の随筆「二人の作家でも出ています

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

文学と神楽坂

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

4.5丁目

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)


 麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。


観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。
六代目 六代目の中村歌右衛門でしょう。なかむらうたえもん。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日。没年は2001年3月31日。
歌右ヱ門 五代目の中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は1866年2月14日(慶応元年12月29日。没年は1940年(昭和15年)9月12日。
松永和風 まつながわふう。長唄の名跡。
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒 明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。
 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
駐車場 カフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わています。その左側の「第1勧信用組合駐車場」ではありません。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。
風俗画報 風俗画報の「新撰東京名所絵図」第42編(東陽堂、明治39年)では「袋町ふくろまちと肴町の間の通路を藁店わらだなと稱す。以前此邊にわらを賣る店ありしかば、俚俗りぞくの呼名とはなれり」と書き、「藁店」を出しています。
早川雪洲早川雪洲 はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日。87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日。87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

光を追うて|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏が「光を追うて」(1938年)で書いた新宿区(牛込区)の十千万堂塾に入ったいきさつです。

 その時分は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていたが、彼も等などの行き方と違って、遣ってつけの仕事はしなかったから、書きたいと思う材料や筋立(すじだて)に軽々しく筆をつけず、懐ろに温めつゝ百方工夫を凝し、(おもむ)ろに練りあげた上、彫心(ちようしん)鏤刻(るこく)の文章で織りあげるのだったが、等は筋を立てず、いきなりに書く方だったので、折角の小栗の話も馬の耳に念仏のような形になってしまった。小栗はその時今日は少し相談があるから乗ってくれないかというので等は傾聴した。
「僕も柳川も先生んとこの玄関じゃ、落著いて書けないんです。第一狭くもあるし、来客は多いし、お嬢さんがちょろちょろと出て来て目障りだし、是からみっちり仕事をしようというには、何とかしなくちゃなるまいと、色々考えた結果、玄関番は交替でやることにして、先生の近所に一軒家を借りようかと思いましてね、それにはちょうど打ってつけの家が一軒、先生の家の裏にあるんです。先生んとこの垣根の一方に囗をつければ、直ぐお庭から降りて行けるような工合になっているんですがね。差当り上の家の女中に手伝いに来てもらって、柳川と僕とで自炊生活をはじめようという話なんですか、君も()うでしよう、加ってもらえませんか知ら。そうしてお互に先生の傍でみっちり勉強しようじやありませんか。」

 この文章を書いている筆者のこと。
肴町 現在の神楽坂五丁目
結構 けっこう。全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
遣ってつけ いいかげんにやってしまう
懐ろ ふところ。外界から隔てられた安心できる場所
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面にわたって
彫心 ちょうしん。心に刻み込む。
鏤刻 ろうこく。るこく。文章や詩句を推敲すること。
馬の耳に念仏 馬にありがたい念仏を聞かせても無駄。いくら意見をしても全く効き目のないことのたとえ。

 そこは箪笥町の一区画で、通りから石段を上つて横寺町の先生の家の二階から見下されるお寺の墓地の横へ出る、ちよつと高台に蕎麦屋や馬具屋や大工などの立てこんだ人家の路地の奥になつており、風流な枝折(しおり)(もん)と竹で(ゆわ)えた(かなめ)の垣根の外に総井戸があり、赤松やなどの枝をひろげた前庭があり、濡縁のある四畳半が、板戸を締めたまゝに、町中の静かな隠居所といった風で、飛石や下草にも風情があつた。小栗は台所口から上り、崖下の裏庭に面した座敷や、四畳の中の間なども見せ、三畳の玄関から上るようになつている、物置同様の二階へも案内したが、高窓をあけると、真面(まとも)に先生の書斎が見えるのだつた。古いだけに趣があり、健康には悪いが感じは好かった。
「これは借家に建てたものじゃないんですが、間取りが面白いから、借りることにしたんですがね。」
 小栗はそう言って、戸閉めをして外へ出た。小栗は先生のところへ来るまでの、暫くの学生生活のあと、早熟であったゞけに少しぐれていたとみえて、二の腕に女の首の入墨があり、後にそれを消すのに骨折っていたが、生い立ったのは半田(はんだ)堅気(かたぎ)な旧家であり、等から見ると、一廉(ひとかど)の生活者のように見え、細いところに頭脳も能く働いたが、実は底ぬけのロオマンティストであった。

一区画 十千万堂塾はどこにあったのでしょうか。まず徳田秋声氏の年表から

明治二十九年(一八九六) 二十六歳
 十一月、博文館を退社。十二月、小栗風葉の誘いを受け十千万堂塾(詩星堂とも、紅葉宅と裏つづきの家)に入り、柳川春葉を加えた三人で共同生活。やがて田中凉葉、中山白峰、泉斜汀らが加わる。

明治29年 明治29年の『牛込区全図』で、赤丸は十千万堂(詩星堂)の場所です。したがって、十千万堂塾は箪笥町4から7ぐらいのいずれかでしょう。
 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書いた「神楽坂と文学」の「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」を読むと、「ここ(箪笥町五番地)は神楽坂とは離れているが、紅葉宅と筆笥町の方は紅葉の庭から崖を下りて続きになったところで『紅葉塾』があったところである。塾の盟主小栗風葉徳田秋声外数人(前述)が同宿し、文学修業と若い文士の育成の場であった。ここに関係した文人たち皆の記録に当れば必ずや神楽坂界隈のことや明治文学の動向を知る資料があろうと思われるが、これは未調査であり後日にしたい」と述べています。しかし、文献はなく、どうして五番地になるのか、私にはわかりません。大家さんの言葉なのでしょうか。
 現在は4番地か5番地がよさそうに見えます。しかし当時の状況は全くわかりません。十千万堂
枝折門 しおりど。折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸。多く庭の出入り口などに設ける
 要。カナメ。カナメモチの別称。バラ科の常緑小高木、園芸植物
 カエデ科カエデ属の木の総称
濡縁 ぬれえん。外側に雨戸のない縁側。常に雨露にさらされる
飛石 とびいし。日本庭園などで少しずつ離して据えた表面の平らな石
一廉 ひとかど。ひときわすぐれている。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑥

文学と神楽坂


 全長三百メートルといわれるのは、恐らく坂下から以前の電車通り――現在の大久保通りまでの距離で、坂自体はそのすこし先が頂上だが、四階建てのビルに変貌しているパン屋の🏠木村屋は、いまもその先のならびにある🏠尾沢薬局🏠相馬屋紙店とともに土蔵造りで、そこの小判形をした大ぶりな甘食はげんざい市販されている中央部の凸起した円形の甘食より固めで、少年期の私が好んだものの一つであった。
 木村屋よりすこし先の反対側に、いまのところ店がしまっている婦人洋装店シャン・テがあって、そこと🏠宮坂金物店とのあいだの横丁を左折するとシャン・テの裏側に🏠駐車場があるが、かつてその場所には神楽坂演芸場という神楽坂最大の寄席があった。前記した「読売新聞」の「ストリート・ストーリー」にあるイラストマップには、その場所に『兵隊さん』の落語で鳴らした柳家金語楼似顔がえがかれていて≪私のフランチャイズだった≫と書き入れてあるが、私が出入りした時分にはまだ金語楼もかすんでいた。
 ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった。
 右角の宮坂金物店の先隣りはいまも洋品店の🏠サムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

距離 交差点「神楽坂下」から交差点「神楽坂上」までの距離
反物 大人用の着物を1着分仕立てるのに必要な布地
シャン・テ  国立図書館の住宅地図によれば、1976年、1978年には🏠カナン洋装店、1980年はシャンテでした。したがってシャンテで問題はないと思います。
3丁目(85)

木村 カナン シャンテ 宮坂金物店 駐車場 サムライ 三菱銀行 善国寺 本多横丁 近江屋 五十番 毘沙門横丁 裏つづき

イラストマップ 昭和51年(1976年)8月16日の読売新聞「都民版」から。絵はもっと拡大できます。
読売新聞(76/08/16)

うを徳 金語楼

 現状でいえばその先が🏠三菱銀行で、横丁の先が毘沙門さまの🏠善国寺だが、サムライ堂の前あたりに出た草薙堂という夜店の今川焼は私も好物で、『神楽坂通りの図』には≪三個で二銭、大きくて味が評判だった≫と記されている。少年時代のことで記憶があやしいが、三個で二銭とは逆に二個で三銭ではなかったろうか。他の店よりとびきり高価だったはずだが、それだけの価値はあった。形が大きかっただけではなく、ツブシアンとコシアンの二種があって、後者には白インゲンが混入してあった。その後、私はそういうものに一度も行き遭ったことがない。
 サムライ堂の向いにある横丁が筑土八幡前へぬけて行く🏠本多横丁――横関英一の『江戸の坂 東京の坂』や石川悌二の『東京の坂道』というような著書によると三年坂ということになるが、本多横丁の呼称は江戸切絵図をみると、そのあたりに本多修理の屋敷があったためだとわかる。いま左角は傘はきものの🏠近江屋で、右角が中国料理の🏠五十番だが、後者は加能作次郎が行きつけにしていたという豊島理髪店の跡で、その前に出たバナナの叩き売りは夜店の中で最も人気があった。最近テレビにショウとして出て来るバナナの叩き売りは関西系なのか、あんなゆっくり節をつけたお念仏みたいなものでは客が眠くなる。東京の夜店のバナナ売りの口上は、どこの土地にかぎらず、もっとずっと歯切れのいい早口の恐ろしく勇ましいものであった。
 本多横丁のはずれの右角はいま熊谷組の本社になっているが、その手前の右側の石垣の上には、向島に撮影所があったころの初期の日活映画俳優であった関根達発の家があって、幼稚舎一年のとき寄宿舎にいた私は二年のときから三、四歳年長だった関根達発の長男大橋麟太郎に連れられて通学した。筑土八幡の石段は戦前には二つならんでいたような気がするが、いまは一つしかない。

筑土八幡 つくどはちまん。東京都新宿区筑土八幡町にある神社。
江戸の坂 東京の坂東京の坂道 この横丁の坂は『江戸の坂 東京の坂』でも『東京の坂道』でも「三年坂」として書かれています。たとえば『東京の坂道』では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁日の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久土町へ抜ける長い坂。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久土町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし。」とし、また坂については「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁日の方へ下る。長さ五十七間、巾一間四尺より二間二尺に至る。」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りに結びつく商店街である。

「三年坂」と「本多横丁」を考えてみれば、かたや「坂」、かたや「街」なので、全く出所は違います。
本多修理 本多修理の邸地は本多横丁と接する場所にありました。本多修理は少なくとも本多家の二代から四代までが名乗っていました。
寛政四年

関根達発 セキネ タッパツ。生年は1883年1月17日。没年は1928年3月20日。俳優。日本映画草創期に活躍した二枚目俳優。新派俳優から日活向島撮影所、松竹蒲田撮影所に入社。退社後はマキノ・プロダクションの作品に出演。
筑土八幡の石段 筑土(つくど)八幡(はちまん)。新宿区筑土八幡町の神社。一時、神社の2社があったことがあります。元和2年(1616年)、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、北の「八幡」と比較して南の「津久戸明神社」と呼ばれてきました。その後、第二次世界大戦で2社はどちらも全焼。北の八幡神社は現在でも当地に鎮座しますが、津久戸明神社は千代田区九段北に移転します。戦前では地図でも明らかなように石段も2つありました。明治時代も同じように2社がありました。
昭和5年牛込区全図から

津久戸明神(筑土八幡神社)、現在の新宿区筑土八幡町。 小沢健志、鈴木理生監修「古写真で見る江戸から東京へ」世界文化社、2001

 関根達発の家よりさらに手前の十字路は軽子坂上だが、その右側にある料亭🏠うを徳の初代が、泉鏡花の『(おんな)系図(けいず)』のめの惣のモデルだといわれている。
 🏠善国寺本堂の右横へ行くと毘沙門ホール入口と標示されていて、「毎月五日・二十五日開演神楽坂毘沙門寄席」と濃褐色の地に白い文字を染めぬいた幟が立っているが、ニカ所ある善国寺の石の門柱にはそれぞれ「昭和四十六年五月十二日児玉誉士夫建之」と刻字されている。戦前の境内には見世物小屋が立ったり植木屋が夜店を出したが、少年時代の私にとって忘れがたいのは本堂の左手にあった駄菓子屋で、そこで買い食いした蜜パンは思い出してもぞっとする。店主は内髪の老婆で、ななめに包丁を入れて三角に切った食パンに糊刷毛のようなもので壺の中の蜜を塗って渡されたが、壺や刷毛は一年になんど洗われたか。大正時代の幼少年は、疫痢でよく死んだ。
 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが🏠毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷の(ばけ)横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから🏠裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

落籍 らくせき。抱え主への前借金などを払い、芸者や娼妓(しょうぎ)の稼業を止めること。身請け
うを徳 その写真は

うを徳
毘沙門寄席 現在も中身は変えながら続いています。たとえば毘沙門寄席

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑤

文学と神楽坂


 第一章で屋号だけ挙げておいた鰻屋の🏠志満金は紀の善の筋向いにあって、五階建てのビルの地階は中華料理店になっているが、戦前には現在地よりすこし坂下に寄った、現状でいえば東京理大のほうへ入っていく道の両角にある花屋のうち、向って右側の花屋の位置にあって、玄関もその横丁の右側にあった。そして、私がまだ学生であった昭和初年代に学友とそこで小集会を催したときには、幹事の裁量で芸者がよばれた。私の記憶にあやまりがなければ、🏠紀の善にも芸者が入ったのではなかったか。絃歌がきこえたようなおぼえがある。
 いずれにしろ、戦前の神楽坂の花柳界は鰻屋やすし屋へ芸者がよべるような、気楽に遊べる一面をもっていた土地であった。むろん、どこの土地でも一流の料亭、芸者となれば話は別だが、駆け出しのころの田村泰次郎十返肇が神楽坂で遊べたのもそのせいである。

忘れがたき24日夜、神楽坂クラブに於て茶話会を催す。ご来会下さらば幸甚、会費10銭。発起人・堺利彦、藤田四郎。参会者・堺枯川大杉栄荒畑寒村ら21名神崎清、革命伝説より)。24日とは、明治44年3月24日のこと、この年の1月24日、幸徳秋水らの絞首刑が執行された。

 コーヒー店の🏠パウワウは志満金よりすこし坂上にあるが、荒正人恵与の『神楽坂通りの図』の余白部に横書きで右のように記入されている貸席の神楽坂倶楽部(?)は、パウワウよりさらに坂上の筋向い――とんかつ屋の🏠和加奈に触れたとき、その横丁の右角にあると書いた化粧品店🏠さわや(当時は袋物商の佐和屋)より三軒坂下にあった🏠靴屋と印判屋の浅い路地奥にあった様子である。木造の横羽目に白いペンキを塗った学校の寄宿舎のような建物で、路地の入口にも白地に黒で屋号を記したペンキ塗の看板が横にかけ渡されてあったような記憶が、私にもかすかにのこっている。


花屋 田口屋生花店です。田口屋生花店
芸者が入った 1927(昭和2)年、『大東京繁昌記』のうち加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「花街神楽坂」では「寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった」と書いてあります。
絃歌 げんか。弦歌。琵琶・箏・三味線などの弦楽器を弾きながらうたう歌。特に三味線声曲をさす。
路地奥 神楽坂倶楽部は1961年以前に旅館「かぐら苑」に変わり、さらに膨らんで現在は「ラインビルド神楽坂」になりました。また戦前の路地はおそらく「ラインビルド神楽坂」の向かって左側にありました。その後、戦後は一時右側になりますが、現在はこの路地はありません。細かくは神楽坂通り(2丁目北西部)で。

ヴェラハイツ神楽坂

2-3丁目の地図(1985年神楽坂まっぷ)

map志満金 田口 パウワウ 和加奈 さわや 路地 マーサ美容室 ジョンブル 坂
 昭和四十九年四月号の「群像」に私が『神楽坂考』という短文を書くために踏査した時点では、いま和加奈のある横丁の左角にあたる婦人服店の位置には🏠マーサ美容室があった。それほど新旧の交替は激しいが、震災前のたたずまいを復原した『神楽坂通りの図』をみると、その場所には ≪牛込三業会(旧検)≫とあって、≪旧検≫とは牛込三業会に対する神楽坂三業会の意をあらわす≪神検≫すなわち新検番に対する呼称だが、さらにその下部には≪歯医者 浴場≫とも書きこまれている。そして、神楽坂倶楽部の場合と同様に、地図の余白部には次のような註記がみられる。
石垣の上に浴場と歯医者があって、通称温泉山と云った。震災直後牛込会館となった。大正12年12月17日震災後、初めての演劇公演「ドモ又の死」「大尉の娘」「夕顔の巻」あり入場者は電車どおりまで並び、満員札止めとなる。のち会館は白木屋となる。

 白木屋は日本橋交差点の角にあった百貨店――現在の東急百貨店の前身で、神楽坂店はそこの支店であったが、舟橋聖一は『わが女人抄』中の『水谷八重子』の章で、彼女に最初に会ったのは≪大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古の日≫であったと記している。半自伝小説『真贋の記』ほかによれば、舟橋の母方の叔父が八重子の劇に出演していた俳優の東屋三郎と慶応の理財科で同級だったために、叔父の案内で東屋を訪問して彼女に紹介されたというのが実相らしいが、私も演目はなんであったか、神楽坂の検番をも兼ねていた牛込会館で八重子の舞台をみている。その折の記憶によれば、客席は畳敷きであったから、演劇興行のない日には芸者たちの日本舞踊の稽古場になっていた様子である。会館の入口は石段になっていたが、白木屋にかわると、その部分が足場をよくするために傾斜のある板張りになった。会館や白木屋は『神楽坂通りの図』にあるように高い石垣の上にあって、昭和年代に入ってから石垣は取り払われたが、その敷地は現状でいえば角の婦人服店から🏠ジョンブルというスナックのあたりまでだったようにおもう。


神楽坂考 この随筆は『断崖のはての空』に載っています。林原耕三氏の『神楽坂今昔』の間違いを直し、神楽坂を坂下から坂上まで歩くものです。
婦人服店 この場所にはマーサ美容室が昭和27年以前から1990年代まで続いていました。これからも20年もマーサ美容室が続いています。婦人服店はランジェリーシャンテと間違えていたのでしょうか。
実相  舟橋聖一の『真贋の記』(1967年)では
或る日、東京の築地小劇場から、手紙が来た。よく見ると、例の葡萄のマークはついているが、差出人は俳優の東屋三郎だった。東屋は慶応理財科の出で、慶吉の母方の叔父とクラスメートだった関係で、彼が汐見洋と共に、水谷八重子の芸術座に出演した頃から、楽屋をたずねたり、舞台稽古を見せてもらったりしていたのである。

ジョンブル ジョンブルは上の地図でも見えますが、白木屋の左端とジョンブルの左端が同じなのか。厳密に言うと違うと思います。

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)とジョンブル

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)

 なお、ジョンブルは相当長くまで生き残っていました。1992年、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出て、右側にはジョンブルの看板です。
神楽坂の写真

mapジョンブル

矢田津世子|神楽坂

文学と神楽坂

矢田津世子矢田(やだ)津世子(つせこ)氏の「神楽坂」です。1936(昭和11)年3月号の『人民文庫』に初めて上梓し、第3回芥川賞候補になりました。これは真っ先の、つまり一番の初めの一節ですが、花街が出てきます。問題は花街をどう曲がったのか、です。

 夕飯をすませておいて、馬淵の爺さんは家を出た。いつもの用ありげなせかせかした足どりが通寺町の露路をぬけ出て神楽坂通りへかかる頃には大部のろくなっている。どうやらここいらへんまでくれば寛いだ気分が出てきて、これが家を出る時からの妙に気づまりな思いを少しずつ払いのけてくれる。爺さんは帯にさしこんであった扇子をとって片手で単衣をちょいとつまんで歩きながら懐へ大きく風をいれている。こうすると衿元のゆるみで猫背のつん出た頸のあたりが全で抜きえもんでもしているようにみえる。肴町の電車通りを突っきって真っすぐに歩いて行く。爺さんの頭からはもう、こだわりが影をひそめている。何かしらゆったりとした余裕のある心もちである。灯がはいったばかりの明るい店並へ眼をやったり、顔馴染の尾沢の番頭へ会釈をくれたりする。それから行きあう人の顔を眺めて何んの気もなしにそのうしろ姿を振りかえってみたりする。毘沙門の前を通る時、爺さんは扇子の手を停めてちょっと頭をこごめた。そして袂へいれた手で懐中をさぐって財布をたしかめながら若宮町の横丁へと折れて行く。軒を並べた待合の中には今時小女が門口へ持ち出した火鉢の灰を(ふる)うているのがある。喫い残しのが灰の固りといっしょに惜気もなく打遣られるのをみて爺さんは心底から勿体ないなあ、という顔をしている。そんなことに気をとられていると、すれちがいになった雛妓に危くぶつかりそうになった。笑いながら木履(ぽっくり)の鈴を鳴らして小走り出して行くうしろ姿を振りかえってみていた爺さんは思い出したように扇子を動かして、何んとなくいい気分で煙草屋の角から袋町の方へのぼって行く。閑かな家並に挟まれた坂をのぼりつめて袋町の通りへ出たところに最近改築になった鶴の湯というのがある。その向う隣りの「美登利屋」と小さな看板の出た小間物屋へ爺さんは、
「ごめんよ」と声をかけて入って行った。
昭和5年「牛込区全図」矢田津世子
順路 通寺町の露路→神楽坂通り→肴町の電車通り→毘沙門の前→若宮町の横丁→袋町。赤色は「爺さん」が実際に歩いた場所です。橙色で囲んだ所は花街です。「若宮町の横丁へ」回らないと花街もないのです。たとえば青色の藁店(わらだな)を通っても花街はまったくありません。この歩き方は花街を歩く歩き方なのです。
単衣 ひとえ。裏地のない和服のこと。6月から9月までの間にしか着られない
 えり。首を取り囲む所の部分
抜きえもん 抜衣紋。和服の着付け方。後襟を引き下げて、襟足が現われ出るように着ること
尾沢 尾沢薬局がありました
こごめる こごむ。屈める。からだを折り曲げる。こごむようにする。かがめる
待合 男女の密会、客と芸妓の遊興などで席を貸し、酒食を供する店
 たばこ
雛妓 すうぎ。まだ一人前ではない芸妓。半玉(はんぎょく)
木履 ぽっくり。少女用の下駄の一種。祝い事の盛装や祇園の舞妓の装いに用いる。
ぽっくり小間物屋 日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐などを売る店
鶴の湯 火災保険特殊地図(都市製図社、昭和12年)によれば、袋町24に「衣湯」がありました。

藁店(わらだな)を横切って袋町にいく順路もありますが、しかしこの場合、花街はどこにもありません。花街がない神楽坂なんて考えられません。若宮町の横丁を通って初めて花街にいける。小説では最初の一節で花街の色香がでてくる。この場合にOKなのです。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年④

文学と神楽坂

         *
 牛込見附神楽坂下といったかつての市電停留所から神楽坂をのぼる右角には 赤井という足袋屋があって、ずんぐりした足袋の形をした白地の看板には黒い文字で山形の下に赤井と記されていた。そのため幼少期の私は赤い富士山とおぼえていたもので、足袋の専門店であったその店は、げんざい屋号も🏠アカイと改称してネクタイやワイシャツを商品とする洋品店に変更しているが、左角の土蔵造りの 寿徳庵という和菓子舗の跡は🏠パチンコ店になっている。土蔵造りに腰高のガラス戸がはまっていた店構えは昭和年代まで残っていたものだし、現在でも府中とか川越などへ行ってみるとそんな店舗を見かけるが、東京に生まれ育った私は、そんな小都市へ行って、少年として自身がすごした大正時代へのノスタルジーをおぼえさせられる。
パチンコ店 パチンコニューパリーでした。

なお、🏠は1978年で当時の建物か、1985年の「神楽坂マップ」で当時の建物、☞は新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)で関東震災前の建物や説明です。
 また下の『神楽坂まっぷ』(神楽坂青年会、1985)は文章と比較的に同じ時期に作成された地図です。🏠アカイと🏠パチンコ店はここに出ています。

坂下の地図(1985年神楽坂まっぷ)

アカイ パチンコ 山田紙店 地下鉄 紀の善 神楽小路 佳作座

 右側の三軒目にある🏠山田紙店は文房具屋になっていて、私はそこへ原稿用紙を買いに入ったとき、大学生の行列が出来ているのをみて何事かとおもったが、期末試験にちかい時期で、コピイサービスとよばれている複写のためにならんで順番を待っているのだとわかった。他人のノートを借りて自分で筆写もせずにコピイをとるところに現代学生気質があらわれているのかもしれないが、それを慨歎しない私も現代の風潮に染まってしまっているといわねばなるまい。二十名ほどの人数だったとおもうが、不思議なことに、女子学生は一人もいなかった。女子はマメなのか、ケチなのか、そういうことになると私にはわからない。
 山田紙店のむかって左側が🏠地下鉄有楽町線飯田橋駅への通路になっているが、その一軒おいた先隣りにあるしるこ屋の 🏠紀の善は、もと二階座敷まであった神楽坂では名代のすし屋であった。そして、その横丁はいま 🏠神楽小路と名づけられた飲食店街になっているが、突き当りは神楽坂と平行している軽子坂の登り口で、右角に特選名画の上映館🏠ギンレイがあって、横丁の側に入口のある地階の🏠シネマサロンくららではピンク映画が上映されている。映画館はそのほかにも至近距離にもう一軒外濠通りの🏠佳作座があって、日曜日に前を通ったら観客が行列していた。不振といわれる映画興行にも、フィルムによっては行列が出来る。
 神楽坂界隈の興行ものとしては、以上三館のほか毘沙門さまの本堂半地下で毎月二日間だけ催される定期寄席があるきりで、のちにのべる震災前後の神楽坂全盛期にあった一つの劇場と、五軒の寄席と、二つの映画館と、和菓子舗の寿徳庵のならび――外濠通りの市ケ谷寄りにあった娘義太夫の定席琴富貴などは、跡形もなく消え去ってしまった。ほかには、いまのところデパートもないので、神楽坂には他土地から客を吸引できる力があるわけはない。年に何回かはかならず出かける私のような人間は、恐らく例外中の例外だろう。そんな神楽坂がなぜ日曜日には歩行者天国になるのか、結果論としては不思議なほどである。

1985年「神楽坂まっぷ」の神楽小路

ギンレイ ギンレイホールは、1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら 地下の成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。劇場 横寺町の芸術倶楽部は関東大震災の時にはアパートになっていたので、これではなく、牛込会館でしょう。
寄席 牛込演芸館(神楽坂演芸場)牛込亭柳水亭(勝岡演芸場)がすぐにでてきますが、ほかの2軒はわかりません。わら店(和良店)は色ものですが、大正3年から映画館の牛込館になっていました。『風俗画報』の統計(明治35年)には寄席五軒となっていますが、普通は戦前で三軒と数えます。
映画館 文明館牛込館です。

神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

ギンレイホール くらら 軽子坂

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
琴富貴 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」では
 手前ども(赤井屋商店)の向い側に『琴富貴』という小さな貸席がございました。経営者は高原さんという人でタレギタ、即ち娘義太夫の常打ちの席でした。席は夜はじまりますので昼間あいておりますから、ここも近所の子供達の遊び場所になっていました。高座に御簾(ミス)が掛っていますので、面白がって上げ下げして留守番の人にえらく叱られたこともあります。ここではよく雨戸をしめて幻燈をやって遊びました。2階は貸席ですが1階は飯屋と甘酒屋になっていました。然しなんといっても子供達が集る中心は毘沙門様の境内でした。

なお、琴富貴は「ことぶき」と読むようです。タレギタとは噺家などが使う隠語で、女義太夫と同じ意味です。また、「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」にも出ています。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年①

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』「神楽坂から早稲田まで」は昭和53年(1978年)に「文學界」に書かれています。やはり「神楽坂」から「早稲田」までを描いています。

神楽坂から早稲田まで

 神楽坂もまた戦災によっていったん亡滅したのち、戦後に再生した市街の一つである。東京の繁華街では、もっとも復興のおくれた街路の一つといったほうがより正確だろう。が、よしんば戦後いちはやく立ち直ったとしても、あるいはまた戦災をまぬがれたとしても、神楽坂の繁華街としての命運は、いまからいえばすでに半世紀前に尽きていた。

 私達は両側の夜店など見ながら、ぶらくと坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車の線路増設や停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。

『大東京繁昌記=山手篇』におさめられている、加能作次郎の『早稲田神楽坂』の一節である。文中の≪坂≫は神楽坂で、≪見附≫は牛込見附だから、≪停車場≫が現在の国電飯田橋駅であることは言うまでもない。
昭和二年に書かれたこの文章には、その工事中のありさまが写し取られているわけで、≪位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中≫と記されているように、現在の千代田区側からいえば左手の直下にみおろされる濠ぞいの位置にあった牛込駅が廃されて、千代田区と新宿区とをむすんでいる牛込橋の右手前にあたる現在の場所に飯田橋駅が開業したのは、昭和三年の十一月五日であった。
江戸期まで、両側が武家屋敷と寺院によって占められていた神楽坂通りが商店街となったのは維新後で、毘沙門さまとしてしたしまれている坂上の善国寺の縁日に夜店が出るようになったのは明治二十年以後だが、≪東京で縁日に夜店を出すようになったのはここがはじまり≫だと、昭文社版エアリアマップ『東京みてあるき地図』には記されている。その後、夜店は縁日にかぎらず夜ごと通りの両側を埋めるに至ったが、下町一帯を焼きつくした大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれたのは、飯田橋駅の開業に前後している。
飯田橋駅ホーム下の飯田堀がわずかな水路をのこして埋め立てられたことは、第一章でも触れておいた。そこには高層ビルの建設が予定されているとのことだから、ビルの収容人員いかんによっては神楽坂に昔日の繁栄がもどる日もないとは断じきれないが、たとえば霞が関ビルほか多くのビルを擁する虎ノ門一帯にしろ、日没後の人通りは絶える。神楽坂の場合は、どうであろうか。
関東大震災後のきわめて短い数年間を頂点に、繁華街としての神楽坂という大輪の花はあえなくしおれたが、いまも山ノ手の花の一つであることには変りがない。そのへんが、毘沙門さまをもつ神楽坂に対して金毘羅さまをもつ虎ノ門あたりとの相違で、小なりといえども花は花といったところが、現在の神楽坂だといえるのではなかろうか。
開けっぴろげな原宿の若々しい明るさに対して、どこか古風なうるおいとかすかな陰翳とをただよわせている神楽坂は、ほぼ対極的な存在といってまちがいないとおもうが、将来はいざ知らず、現状に関するかぎり、その両極のゆえに私の好きな街の双璧といってよい。この両者の対置関係は六本木と人形町についてもほぼ同様にいえるかもしれないが、裏側に花街があるというだけの理由で神楽坂に下町情緒をみとめる人に、私は同意しかねる。本郷台をあいだにはさんで近接している下谷池之端と白山の花柳界には、下町と山ノ手の明らかな相違がある。神楽坂は山ノ手でしかないし、私はそれでいいとおもう。

亡滅 ぼうめつ。滅亡と同じ
半世紀前 関東大震災が終わって数年後の昭和初年ごろに終わったと考えます
東京みてあるき地図 昭和59年に発行。毘沙門天については

毘沙門天 国電飯田橋、地下鉄東西線神楽坂下車
神楽坂に繁華街ができるもととなった社で、正しくは善国寺毘沙門堂という。この寺は文禄4年(1595)に池上本門寺の日惺土人によって麹町に屹立されたが寛政4年(1792)火災にあって、神楽坂に移転してきた。本尊は高さ約30センチの木彫の毘沙門天。東京で縁日に夜店を出すようになったのはここがはじまりという。

劫火 こうか。ごうか。世界が壊滅する時に、この世を焼き尽くしてしまう大火
飯田堀 第一章の「外濠線にそって」では「反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある」と書いてあります。

飯田橋 夢あたらし

東京都の『飯田橋 夢あたらし』。外堀通りの水辺に家が沢山建っていました。

高層ビル ラムラ(RAMLA)が飯田堀にできました。住宅棟と事務棟の2棟からできており、事務棟は20階です。
金毘羅 金刀比羅宮。ことひらぐう。ここでは東京都港区虎ノ門一丁目にある神社
虎ノ門 虎の門に花街はなさそうです
六本木と人形町 六本木と原宿は若々しい明るい繁華街、人形町と神楽坂は古風な情緒にあふれる花街にあたりそうです。
下谷池之端と白山の花柳界 池之端は下町、白山は山の手です。2つの花街の気っ風がやはり違います。

紅葉の葬儀①

文学と神楽坂

 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)で、新宿のいろいろな事柄を書き、その1つが尾崎紅葉の死についてでした。表題は「紅葉は秋」(昭和48年11月)です。

金色夜叉」で有名な作家尾崎紅葉が、横寺町四十七番地で三十七歳の生涯を閉じたのは七十年前の明治三十六年十月三十日である。
 葬儀は十一月二日、秋晴れであった。当時一流の人気作家の死である。会葬者は千名をこし、横寺町の通りは人、車、馬、花で埋まって歩くこともできなかった。出棺は午前八時。位牌を弟子の泉鏡花が捧げ、葬儀の列は神楽坂を抜け、市谷四谷見附の濠端を過ぎ、青山墓地に至った。死因は胃ガンだが、明治三十年一月から三十二年四月まで読売新聞に連載した「金色夜叉」の執筆の疲労、が遠因といわれる。紅葉の死により文壇は、子弟制度など古い形骸から脱皮してゆく。辞世は、
    死なば秋 露の干ぬ間も面白き
 紅葉が横寺町に住まったのは明治二十四年からで、場所は新宿生活館の東裏側にあたる。旧居は戦災で焼滅したが、旧居跡には先代が紅葉宅の家主だった鳥居さん一家が住んでいる。ここは交通の輻輳する生活館前の大久保通りにひきかえ、静かな住宅地。町名の示すとおり寺も多い。鳥居家の主婦は「土地の雰囲気でしょうか。秋の日曜日など文学散歩で訪れる方が多うございますの。四、五十人になる日もあるんですよ。でも私はできるだけ多くの皆さんにご説明申し上げるんです。郷土愛っていうのかしら」とおっしゃる。
 晩秋の一日を、地図を片手に文学散歩としゃれこむのも一興であろう。

金色夜叉 こんじきやしゃ。尾崎紅葉の長編小説。 1897年1月から1902年5月まで『読売新聞』に連載。未完。富豪の富山唯継に見そめられた鴫沢(しぎさわ) 宮は、いいなずけの(はざま)貫一を捨てました。
明治36年 西暦1903年で、110年以上も昔の話です。
市谷 東京都新宿区東部の地名。地図は最下部の赤い輪。
四谷見附 東京都千代田区西部の地区。同じく赤い輪。
青山墓地 東京都港区にある都営の共同墓地。政治家・軍人・作家など著名人の墓が多いようです。右の赤丸が尾崎紅葉の葬儀があったところ。左下は青山墓地。市谷と四谷見附は赤い輪で描いています。
新宿生活館 東京都は昭和26年から「新宿生活館」を設置し、結婚相談所と同時に結婚式も行ないました。館長が司会を務める簡素なものでしたが、一時は行列を作るほどの盛況でした。現在は「牛込箪笥区民ホール」です。

中央は尾崎紅葉の住居、左は箪笥区民ホール

中央の丸は尾崎紅葉の住居、左の楕円は現在の牛込箪笥区民ホール。

横寺町から青山墓地までの行路。かなりの距離を歩きました。

青山墓地


漱石山房の推移1

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」の一部です。

早稲田界隈の盛り場

 そういう世相だったので、一方では景気がよくて学生が俄かにふえたのだろう、さて早稲田に入って下宿屋探ししてみると、早稲田界限から牛込の神楽坂にかけては、これはという下宿屋は満員で非常に払底していた。辛うじて下戸塚法栄館という小さな下宿屋の一室か空いていたので、ひとまずそこへ下宿した。大正末期に川崎長太郎が小説が売れだしたので、のちに夜逃げするに到ったが、偶然とぐろを巻いていた下宿屋である。朝夕を戸山ヶ原練兵場を往復する兵隊が軍歌を歌って通り、またその頃の学生には尺八を吹く者が多く、神戸の町なかに育ったぼくは、当座、なんだか田舎の旅宿に泊っているような心細さを覚えたものだ。

払底 ふってい。すっかりなくなること。乏しくなること。
下戸塚  豊多摩郡戸塚町大字下戸塚は淀橋区になるときは戸塚町1丁目になりますが、新宿区ができる時に戸塚町1丁目はばらばらになってしまいます。そのまま戸塚1丁目として残った部分①と、西早稲田1、2、3丁目②~⑤になった部分です。

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

法栄館 東京旅館組合本部編の『東京旅館下宿名簿』(大正11年)ではわかりませんでした。
とぐろを巻く 蛇などがからだを渦巻き状に巻く。何人かが特に何をするでもなく、ある場所に集まる。ある場所に腰をすえて、動かない。
戸山ヶ原 とやまがはら。江戸時代には尾張徳川家の下屋敷で、今も残る箱根山は当時の築山で東京市内で最高地の44.6メートル。箱根山に見立てて、庭内を旅する趣向にしていました。明治以降は陸軍戸山学校や陸軍の射撃場・練兵場に。現在は住宅・文教地区。
練兵場 れんぺいじょう。兵隊を訓練する場所。陸軍戸山学校の練兵場は下図に。

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

 当時は早稲田界隈の盛り場というと神楽坂で、新宿はまだ寂しい場末町だった。新宿が賑やかになりだしたのは、大正十二年の関東大震災以後である。新学期が始まるとぼつぼつ学生が下宿屋の移動をはじめ、まもなくぼくは神楽坂界隈の下宿屋に引越した。その下宿屋は赤城神社の境内にあって、長生館といった。下宿してから知ったのだが、正宗白鳥近松秋江などの坪内逍遙門下がよく会合を開いていた貸席の跡で、下宿屋になってからも、秋江は下宿していたことがあるということだった。出世作「別れた妻に送る手紙」に書かれている、最初の夫人と別れた後のどん底の貧乏時代だったらしく、夏など、着た切り雀の浴衣まで質屋へいれてしまって、猿股一つで暮らしていたこともあるという、本当か嘘か知らぬがそんなエピソードまで残っていた。それから少し遅れて、片上伸加能作次郎なども下宿していた。のち、太平洋戦争の頃、「新潮」の編集者だった楢崎勤を所用あって訪ねたら、長生館がいつかなくなってしまっていて、その跡に建った借家の一軒に住んでいて意外な気がした。楢崎君はそこで戦災を蒙ったのである。

赤城神社 新宿区赤城元町にある神社
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷
別れた妻に送る手紙 正しくは「別れたる妻に送る手紙」。情痴におぼれる自己を赤裸々に描く作品。もっと詳しくはここで。

漱石山房の推移2

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」のその2です。

下宿屋と早稲田派
 こんなことを書きだしたのは、その頃は好況時代で、従ってインフレで、下宿代など、一、二年のうちに倍近くあがったものの、とにかく下宿屋全盛時代で、古い下宿屋がまだたくさん残っていて、神楽坂界隈の古い下宿屋には、文士たちのエピソードじみたものが少なからず語り伝えられたり、近所にその旧居がそのまま原型をとどめていたりしたことを指楠したかったからである。ぼくは神楽坂を中心に随分下宿屋を転々したが、牛込矢来にあった若松館という、会津藩の家老の娘あがりの婆さんが経営していた古ぼけた下宿屋には鏡花斜汀の泉兄弟がかつて下宿していたというし、くだっては外語仏語科時代の大杉栄がここから外語へ通っていたというので、ぼくが下宿した時にも外語の連中が大勢下宿していた。そこへは下宿しなかったが、松井須磨子が首をくくった横寺町にあった芸術座倶楽部が、やはり下宿屋になっていた。出版を始めて武者小路全集を出していた広津和郎氏も、神楽坂の横丁の三階建ての下宿屋に、大勢の社員たちと一緒にたむろしていた。
 下宿屋文学の代表的なものは、芝公園で野垂れ死にした藤沢清造の「根津権現裏」である。また、芥川竜之介などは、早稲田派の文士は下宿屋で煮豆ばかり食っているから、唯美的な作品が生まれないのだと皮肉を飛ばしていた。それほど、大正末期までは、下宿屋というものが天下を風靡していた。ところが、やがて世界不況が襲来するに及んで、アパートや貸し間、引いては食堂の氾濫となり、下宿屋は慌ててどんどん下宿代をさげだしたか、しだいに衰微を辿るに到った。
若松館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』によれば、井上まさ氏が経営するこの下宿は矢来町3大字山里55号にありました。しかし、この場合、山里のうち55号がどこにあるのかわかりません。
外語仏語科 旧外語の校地は一ツ橋通町1番地(現千代田区一ツ橋2丁目)に置かれました(一ツ橋校舎)。下図の右下、赤い四角は当時の外語を示します。左側は矢来町なので、市電がないと大変です。

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

芸術座倶楽部 正しくは芸術倶楽部です。
下宿屋 神楽館です。
下宿屋で煮豆 志賀直哉氏の「沓掛にて―芥川君のこと」では

 早稲田の或る作家に就て芥川君が「煮豆ばかり食つて居やがつて」と云つたと云ふ。これは谷崎君に聞いた話だが一寸面白かつた。多少でも貧乏つたらしい感じは嫌ひだつたに違ひない。

 この「ある作家」について、琉球大学の教育学部教育実践総合センター紀要15号で小澤保博氏は

 芥川龍之介は、「MENSURAZOILI」(「新思潮」大正六年一月)で文学作品判定器械なる装置を登場させる事で、坪内道遥退職後に自然主義文学、社会主義文学の牙城となった「早稲田文学」を槍玉に挙げている。
「しかし、その測定器の評価が、確だと云ふ事は、どうして、決めるのです。」
「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパツサンの『女の一生』でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。」
 これは、当時早稲田系の代表的な同時代作家、広津和郎「女の一生」(「植竹書院」大正二年十月)に対する芥川龍之介の皮肉である。志賀直哉「沓掛にて」(「中央公論」昭和二年九月)で回想されている芥川龍之介の発言で「煮豆ばかり食つて居やがつて」と潮笑されれている早稲田派の作家というのは、言うまでも無く広津和郎の事である。

 早稲田派の単数の「ある作家」では広津和郎なのでしょう。一方、水守亀之助氏の『わが文壇紀行』では「連中」と複数です。

「早稲田の連中は下宿屋で煮豆とガンモドキばかり食わされていたんだからね」と、芥川が冷嘲したのは、当時知れわたった話だ。

 どちらにしても自然主義を標榜する早稲田グループに対する皮肉でした。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退

漱石山房の推移3

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」のその3です。

漱石山房の名残り

 ところで、この一文の本当の目的は、この前芥川のことを書いたので、そのころ瞥見した漱石山房の推移をちょっとしるして置きたかったのである。というのは、たまたま漱石山房より数軒しか離れていない牛込弁天町の豊陽館という下宿屋に、ぼくは割りに長く下宿していて、始終その前を通っていたからである。
 “矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方へ折れ、少し行くと右に曲って弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、七番地のである”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
 ぼくが豊陽館に下宿したのは大正十一年頃で、その時はもう改築されていたが、早稲田に入った大正八年に初めてその前を通った時には、まだ大正五年に亡くなった漱石の在世の時の儘だった。狭い坂道に面して高く地盛りした上に、赤い新芽を持った青々としたカナメモチの低い生垣がつづき、その生垣越しに、芭蕉など植わっているちょっとした庭を隔てて書斎のガラス戸か光って見えた。が、さして広くない古ぼけたひら家で、その質素振りに驚いたものだった。


豊陽館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』では豊陽館は弁天町8にありました。下図で赤い丸が弁天町8に当たります
漱石の家 緑色の右端は矢来の坂下です。左の緑の丸は漱石の家です。青い色は川を示し、そこに弁天橋がかかっていました。

地図。昭和5年の牛込区全図。緑色は矢来の坂下から漱石山房の行き方。赤色は弁天町の豊陽館。ピンクは床屋。

昭和5年の牛込区全図の一部。

瞥見 べっけん。ちらっと見ること。
カナメモチ バラ科の常緑小高木。樹高は3~5m。
芭蕉 バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナ。高さは2~3m。花や果実はバナナとよく似ています。耐寒性にあり、関東地方以南では露地植えも可能。主に観賞用。種子が大きく、タンニン分を多く含み、多くは食用には不適。

カナメモチとバショウ

カナメモチとバショウ

 ところか、改築されたものは、カナメモチの生垣は屋根を持った高い土塀にかわり、大きな冠木門の奥には、洋館もある宏壮な二階家がそびえ、すっかり見違えるように立派になっていた。ぼくはいささかがっかりしたものの、しかし、あたりの風物は、漱石在世当時とたいして変わっていないふうだったので、せめてそれを満足に思った。「硝子戸の中」に書かれている小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていたし、漱石がそこの人力車によく乗ったという、薄汚い車宿も門のまん前に健在だった。ただ、この車宿の連中は改築に反感をもったのだろう、漱石未亡人のことを余りよくいわなかった。そのほか、「三四郎」を思いついた田中三四郎(石垣綾子さんのお父さんだという)いう家も、「彼岸過まで」の中の須永を思いついた須永という産婆の家も、まだ近所にあった。
 が、終戦後である。じつに久し振りでその小路を辿ったら、漱石山房はすっかり戦災で焼けうせ、白い安手の都営アパートがその跡に建っていて驚いた。片隅にコスモスがさき乱れていたが、そこに漱石の出世作「吾輩は猫である」の五輪塔の猫の墓が焼けただれて残っており、それが碌かに漱石山房の名残りをとどめているに過ぎなかった。

床屋 夏目漱石は『硝子戸の中』16で、

(うち)の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈かって貰った事がある。
と書いています。この文章の「床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた」と一緒に考えると、前の図で桃色の四角の範囲に床屋はあったと考えます。
田中三四郎 石垣綾子氏の『わが愛の木に花みてり』(婦人画報社、昭和62年)では
 わたし、生まれたのは市谷ですけれど、二歳になったとき、早稲田南町に移って、それから長く住むことになります。この町名はまだ残っていますね。あの頃はまだ庭にホタルが見られたくらいでしたけど、その辺は中産階級の住宅地として開けつつあった頃でした。ほんの三軒か四軒か先に夏目漱石のお宅があって、聞くところによると漱石は、わたしの父の“田中三四郎”という表札を見て、『三四郎』の主人公の名前にされたんだそうです。たぶん散歩姿なんかも目にしているんでしょうけれど、今みたいにマスコミで顔を知られる世の中じゃありませんから、わたし全然記憶はありませんね。ただ、お嬢さんの愛子さんとは早稲田小学校でど一緒でしたけど、あちらは背が小さかったし、わたしは高い方で席も離れてましたから、そう親しくはしていませんでした。でも、長女の筆子さんてかたは、わたしの姉と仲よしで、よく家にも遊びにいらしてたようですよ。
 で、この早稲田南町の家は、広い芝生の庭にひょうたん池があったんです。その辺りで姉とわたしは鬼ごっこするんですけど、姉は身軽に、その池のくぴれた辺りにある中島から向こうへ飛び移るんです。わたしはできないんですよ。立ち止まっちゃう。そうすると姉は、向こうの築山からわたしを見おろして、「のろまさん、捕まえてごらん」ってはやし立てるの。悔しかったものですよ。

早稲田南町の一部

早稲田南町の一部

 早稲田南町は漱石公園を含む広大な敷地です。ひょうたん池はまったくわかりません。また、同氏の『いのちは燃える』(偕成社、1973年)では

 早稲田(わせだ)南町のわが家から数軒(すうけん)さきに、夏目(なつめ)漱石(そうせき)(1867~1916年)のお宅があった。()(がき)をめぐらした屋敷で木の(しげ)る広い庭にとりかこまれていた。三百(つぼ)(約1000平方メートル)の、家賃三十五円の借家(しやくや)だということだが、うっそうとしていて暗く、神秘的(しんぴてき)(かん)じであった。(略)
 私の父は田中三四郎といって、漱石の『三四郎』という小説とおなじ名前である。漱石は散歩のとき、父の標札に目をとめて、『三四郎』の題名を思いついたということである。
 父は科学者で教育家であった。軍人の士官(しかん)を養成する幼年(ようねん)学校をふりだしに、岡山と山形の旧制高校で物理を教え、晩年は中央大学につとめた。八十七才で亡くなる直前まで、教壇を離れようとしなかった。
 家庭では五百坪(約1650平方メートル)の早稲田の家を支配する絶対の権威者(けんいしや)であった。私は父を尊敬はしても、厳格なその前ではびくびくした。言葉使いも、よそゆきのていねいさで話しかけなければならない。

昭和5年の牛込区全図。緑色は漱石が住んだ場所。青色はおそらく田中三四郎の場所

牛込区全図、昭和5年

 田中三四郎氏の建物は500坪で、漱石(緑色の場所)は300坪。これからすると、田中氏はたぶん青色で囲った場所(の一部)でしょう。

 一方、『ここは牛込、神楽坂』第10号(平成9年、1997年)で、河合正氏が「魚屋などが申し上げることではあるませんので……」では

 うちは創業が亨保十七年で、はじめは三河屋三四郎でしたが、その後肴屋三四郎を名乗るようになり、代々当主がその名を継いできました。
 漱石先生の『三四郎』とのことは昭和の終わり頃、毎日新聞にも出たことがありますが、そのときは肴屋風情が何をというようなお叱りがあちこちからきて。漱石先生には熱心な読者や研究者がいますからね。もうそのことには触れないことにしているんですよ。」

これについて『ここは牛込、神楽坂』の編集部は
 ご主人はいかにも江戸っ子という感じの方で、お店は榎町交差点そば榎町児童館の隣。念のため毎日新聞で調べてもらいましたが10年以上前のことらしくわかりませんでした。『三四郎』の名は漱石の家の近くにいた田中三四郎(石垣綾子さんの父上とか)から思いついたという説がありますが、地方出の若者にご近所のご主人の名を?という疑問もあり、やはり近くの江戸前の肴屋三四郎さんに親近感をもって付けたというほうが妥当な気がします。

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

 で、漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)です。かなり離れています。
 もし近所で名前をつける場合、私は単に近所で肴屋三四郎よりも田中三四郎のほうに軍配を上げてしまいます。
 また、漱石氏の卒業生に堀川三四郎という人もいました。これは明治38年4月10日の漱石氏から大谷繞石宛の手紙に出ています。三四郎のモデルはわからないといった方が正しいのでしょう。
都営アパート 都営アパートは区営の早稲田南町第3アパートになりましたが、29年7月に予定する「漱石山房記念館」の建設のため、解体されてしまいました。
冠木門 冠木を渡した、屋根のない門
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。

[夏目漱石]

新版私説東京繁昌記|小林信彦

文学と神楽坂

 平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは

 山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。
 神楽坂の大通りをはさんで、その左右に幾筋となく入り乱れている横町という横町、路地という路地を大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏が痛くなるほどくたびれた。
 ――右の一行は、盗用である。すなわち、1928年(大正三年)の小説から盗用しても、さほど不自然ではないところに、神楽坂のユニークさがある。原文は左の如し。
〈神楽坂の大通を挟んで其の左右に幾筋となく入乱れてゐる横町といふ横町、路地といふ路地をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏の痛くなるほどくたぶれた。〉(永井荷風「夏すがた」)

 以下、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」(名前の紹介だけ)があり、続いて

 神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる…

「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしれません。さて、後半です。

 荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。
 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン・ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきん(、、、、、、)であり、良くない、と判定したためである。
 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気(、、、、、、)が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。
大久保通りを横切って、白銀(しろがね)公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。
「女の子の顔がきれいだ」
 と、荒木氏が断言した。
白銀坂 おかしいかもしれませんが、白銀坂っていったいどこなの? 瓢箪坂や相生坂なら知っています。白銀坂なんて、聞いたことはないのでした。と書いた後で明治20年の地図にありました。へー、こんなところを白銀坂っていうんだ。知りませんでした。ただし、この白銀坂は行きたい場所から垂直にずれています。
きれい 白銀公園を越えてそこで女の子がきれいだというのもちょっとおかしい。神楽坂5丁目ならわかるのですが。

 言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。
 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンク、、、レディ(、、、)の写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。
 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。
 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。
 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。
 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。
 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。
 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。

どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう。

 これで終わりです。なお、写真は1枚を出すと……(全部を出す場合には……神楽坂の写真

 これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。

1990年の神楽坂

1990年の神楽坂

なぜ、小説家の収入は大正八年に劇的に急増したのか

山本芳明

文学と神楽坂

 山本芳明氏が書いた『カネと文学 日本近代文学の経済史』です。

 氏は学習院大学教授で近代文学研究者。生年は1955年です。

 第一章 大正八年、文壇の黄金時代のはじまり

 一、あがる原稿料
 なぜ、岩野泡鳴の収入は、大正八年に劇的に急増したのだろうか。
 その原因として、第一にあげるべきなのは、原稿料の高騰である。大正八年四月に総合雑誌「改造」、六月に「解放」が創刊されたのを契機として、コンテンツを確保するために、原稿料が上昇したのである。
 小説家の広津和郎の回想によれば、「『改造』『解放』等が原稿料を余計出したので、どこの雑誌も原稿料を急激に値上げし始めた。これもこの年の特徴であった。参考のために自分の原稿料の上り方を書いて見ると、大正六年に『中央公論』にはじめて書いた時は一円であり、その後『文章世界』に書いたら六十銭、『新潮』は七十銭、『太陽』が八〇銭、そんな工合合で大正七年まで来たのに、大正八年になって、『改心』が一円八〇銭、『解放』が二円出したので、次ぎに『中央公論』に書いたら、『改造はいくら出しましたか』と滝田氏(注:号は樗陰。「中央公論」編集長)は訊ねた上で、今までの一円を二円にした。それまでは原稿料の値上げは、十銭とか、二十銭とか宛であったのに、それからは五十銭、一円の値上げとなり、大正十二年の震災前に五円になった。その後、少しずつ値上りして、八円という時代が十年以上続き、大東亜戦争の始まる少し前頃、十円になった。これは私の貰った原稿料で、他の人気作家は、もっとずっと払って貰っていたかも知れないと思う。」(「六十二 大正八年という年」『年月のあしおと』昭38・8刊 引川は平1・5刊の中央公論社普及版全集第12巻による)ということになる。

 つまり、原稿料は40枚で400円になりました。年に10作をつくると、4000円です。さらに近松秋江氏がこう書いていると山本芳明氏はいいます。

碌々(ろくろく)学校もやらない島田清次郎が僅かに二十二か三歳で、一挙にして数万円の印税を()得たなどは、漸く十八九歳の前垂れ掛けの小僧でも(うま)く一つ当れば一夜にして、(たちま)ち、巨富を成すことの出来る相場師仲間以外にはとても見られぬ図である」(「年の暮文士貧富論」「時事新報」大11・12・21)。
 近松が、浅薄な「文運の降盛」の代表者として言及した島田清次郎は、「本年二十三歳の島田君の預金が川崎銀行に五万円◇尚続々その『地上』第一部乃至第三部から上って来る月々の印税千円を下らず」(「書架の前」「読売新聞」大10・11・20)といったゴシップが流れるほどの流行作家だった。島田については、後に詳しく述べるが、黄金時代を代表する作家の一人といっていいだろう。大正文学の代表的な作家といえば、芥川龍之介志賀直哉のような短編小説を得意とする作家たちが思い浮かぶ。しかし、実際のところ、黄金時代を支えた重要な文学作品=商品は、島田清次郎の『地上』シリーズを代表とする書き下ろし長編小説だったのである。
 近松は、島田のような若造に『巨富』を得させる「文運の隆盛」の浅薄さを、昔気質の文士らしく嘆いているかのようだ。しかし、彼の本当の悩みは別のところにあった。彼を困らせていたのは、「初めて税務署から決定書をさし付けて来た」ことだった。貧乏で売っていた近松も「文運の降盛」のおかげを被っていたのである。こうした税金をめぐるトラブル(?)はこの時期の重要な文壇ゴシップだった。
 たとえば、上司小剣は「著作物に対する不定の報酬は課税の目的物となるべきや」(「読売新聞」大9・11・30)という文章で、[従来六百円]だったのに、「先月末品川税務署から三千円の決定書を送られ」「再審査を請求しても間に合わんので」、税金を「其のまま二回納め」たという体験と、税務署の関心が作家に突然向けられたことの困惑を語っていた。
 ちなみに、大正九年の内閣総理大臣の月給は千円、東京府知事の年俸は六千円、国会議員の年額報酬は三千円、第一銀行の大卒の初任給は四五円から五〇円、小学校教員の初任給(諸手当を含まない基本給)は四〇円から五五円だった。そばは八から一〇銭、味噌は二八銭、醤油は八四銭である。
 まさに、作家たちは成金となったのである。

贏つ かつ。勝つ。克つ。相手より優位な立場を占める。競争相手を負かす。勝利を得る。

 小説家の年収は10作で、四千円。国会議員の年額報酬は三千円。小説家たちは成金になりました。


 もうひとつ、出版ジャーナリズムが出てきたものも別の理由です。杉森久英氏の「天才と狂人の間」(河出文庫)の解説で川村湊氏は

 しかし、杉森久英氏が指摘しているもう一つの、〈島田清次郎現象〉すなわち『地上』ブームの要因がある。それはほかでもなく、この頃に出版社主導型の大衆ジャーナリズムが拡大したということである。二十歳の無名青年の長篇小説が、いくら生田長江の強力な推輓があったとしても、当時すでに文芸物の出版社として定評を得ていた新潮社から大々的に出版されることは、おそらく数年前にはほとんど考えられなかったことだ。社内の賛否両論を抑え、出版を決裁したのは社長の佐藤義亮だったという。彼は出版人としての商売人的なカンによって、この小説は売れると踏んだのだろう。無名であり、新人であり、若いからこそ、「現代」にアッピールする。新聞に大きく広告を出し、自社系出版物にも大きく広告を打ち「堂々二千枚の大長篇ということ」「著者がまだ二一歳の年少作家だということ」を強調し、「島田清次郎」という名前を一般読者、大衆層に向けて記憶させ、浸透させようとしたのである。(もっとも成功しなかった場合のことも考え、第一部「地に潜むもの」の印税はなしというように、細心な商売人根性も見せている。)
 つまり、島田清次郎は「新潮社」という出版ジャーナリズムによって作られた「文壇の寵児」なのであって、それは尾崎紅葉の門下から泉鏡花小栗風葉が、漱石門下から芥川龍之介森田草平が新進作家として登場してくるといった、明治・大正文壇の新人作家の登場の仕方とは異質であり、異端的なものであったのである。

推輓 すいばん。車を()したり引いたりすること。転じて人を推挙すること

新潮社社長の佐藤義亮氏が書いた『出版おもいで話』(1936年)では

島田清次郎氏の『地上』
「多少ながらいいものをもっているようです。会ってやって下さい」
 という意味の生田長江氏の紹介状を持って、きわめて謙譲で、無口な青年が、私を訪ねて来た。それが島田清次郎氏であった。大正八年の春のことである。
 持って来た原稿を、社の二、三の人たちに読んでもらった。相当見られるというのと、いや、大したもんじゃないという、二様の意見だった。結局冒険して出すこともなかろうとの説に帰したが、私が読んでみると、なるほど稚拙な点は否めないが、しかもどこか不思議な迫力があり、いい意味の大衆性をもっているので、未練があって棄てかねる。で、初めの方を二、三度読みかえして見てから、とうとう出すことに決め、郵便で出版承諾の旨を言ってやると、彼は飛んで来た。非常な喜び方だったことはいうまでもない。
 この時の素朴な感謝に溢れた彼と、後の傲岸(ごうがん)無比な彼とが同一人であったということは、今考えても不思議なくらいである。
 かくして、『地上』第一巻が生まれた(大正八年六月)。
 初版は三千部刷ったが、初めの売行きは普通だった。それが二十日ばかり経ってから俄然売れ出し、徳富蘇峰翁や堺枯川氏などの激賞をきっかけに、各新聞雑誌における評判は、文字どおり嘖々(さくさく)たるものであった。十版、二十版と増刷して、発売高は三万部に達した。
 つづいて『地上』第二巻を出したが、これも初版一万部が、たった二日間で売れ尽す盛況であった。
 この奇蹟以上の売行きに、あの謙虚寡黙だった青年が私に向かって、
「自分の小説が、これほど世に迎えられようとは実際思っていなかった。それにしても、第二巻などはあまり売れ過ぎるように思う。これは恐らく、政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者は、政友会出身の内相原敬であるが、今や新しく一世の人気を贏ち得ようとする者に小説家島田清次郎がある。これは政友会の堪え得るところでない。で、政友会はこの上、島田清次郎を民衆に知らしめないために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない……。」
と語った。これには私も、すこしヘンだぞと思わざるを得なかった。
 第三巻は、本が出来てから初めて読んで、その支離滅裂さに驚き、すこしへんだぞと思った予感が、まさに的中して来たことを情けなく思った。それでも初版の三万部は事なく消化されてしまった。
 第四巻の出版にはかなり躊躇されたが、騎虎の勢どうにもならないで出した。やはり相当に売れた。
「日本の若き文豪が、民意を代表して欧米各国を訪れるのである」と豪語して、海外漫遊に出かけたのはその頃であるが、あちらで奇矯な振舞いをして、在留の同胞に殴られたという噂をしばしば耳にした。
 帰ってからは、あの「島清事件」だ。一遍にぴしゃんと凹まされてしまって、彼は再び起つことが出来なかった。
 盛名を馳せた人で悲惨な末路を見せるものは珍しくないが、彗星のように突如現われて四辺を眩惑し、わずか両三年にして、また、たちまち彗星のように消え去った、島田清次郎の如きは、恐らく空前にして、絶後というべきであろう。

嘖々 ほめること
政友会 立憲政友会。明治33年(1900)伊藤博文が旧自由党系の憲政党を吸収して結成し、5・15事件の後に衰退し、昭和15年(1940)解党。
内相 ないしょう。内務大臣のこと
贏ち得る かちえる。努力の結果として得る。
騎虎の勢 きこのいきおい。虎に乗った者は、降りると虎に食べられてしまうので、乗り続けるしかない。一度勢いがついてしまうと、途中でやめることが出来ないたとえ

神楽坂|東京繁昌記

文学と神楽坂

 木村荘八氏が書いた『東京繁昌記』という本があり、私は区の図書館で借りて読みました。A4判で、厚さは2.5cm。重さは1.6kgもあります。おっきい。全体で246頁なので、1頁1頁が相当に重たい。区の本は昭和33年に発行した演劇出版社の複製で、昭和62年に国書刊行会が再発行しています。
 氏は洋画家であり、生家は牛鍋屋いろは。岸田劉生氏とフューザン会・草土社を結成。小説の挿絵で有名で、『東京繁昌記』の画文は芸術院恩賜賞を受けました。生年は明治26年8月21日。没年は昭和33年11月18日。享年は満65歳でした。
 で、これほどの重い本だと「神楽坂」の文章も多いのではと思いましたが、文字は1頁以下でした。昭和30年、読売新聞の「師走風景帖」の文章で神楽坂を描いています。

東京繁昌記 尾崎紅葉の句に「寒参り闇にちんちん千鳥かな」。その白装束の寒参りを点景として神楽坂を描いた絵を見たことがあるが、九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。上五を忘れたけれども「――つらりと酔ふて花の春」これも紅葉の句で、その注解に、一夜明けると、紅葉は門下生に羽織と着ものの「おしきせ」を出し、それを着つれた連中がほろ酔いで肩をそろえ、目白押しに神楽坂に行くところ、とあった。
 明治の神楽坂は硯友社の勢力範囲だった。今の神楽坂は早稲田と法政のなわ張りだろう――山の手の地形はここ(牛込)も麻布と同じく、到底後からの人工では出来ない(あが)り・(さが)りに豊富で、坂の名は、昔市ヶ谷八幡の祭礼にこの坂の近くで神楽を奏したからこの名があるといわれ、あるいは若宮八幡の神楽がこの坂まで聞えたからともいわれる。

 12月9日

寒参り闇にちんちん千鳥かな 岩波書店の『紅葉全集』第九巻を調べましたが、「寒詣翔るちん/\千鳥哉」だけが全集にはありました。
――つらりと酔ふて花の春 『紅葉全集』第九巻にはなさそうです。
目白押し めじろおし。メジロが樹上に押し合うように並んでとまるところから。多人数が込み合って並ぶこと。

 反対側の頁にはA4判全てを使って白黒の絵を描いています。パチンコマリーは現在のゲームセンター「セガ神楽坂」(場所はここ)に当たります。

木村荘八氏の「神楽坂」

木村荘八氏の「神楽坂」


島田清次郎1|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

奇矯な流行作家

 大正時代の今日でいうベストセラーを挙げると、夏目漱石有島武郎埒外におくと、江馬修「受難者」(大正五年刊)倉田百三「出家とその弟子」(大正六年刊)島田清次郎 「地上」(大正八年刊)賀川豊彦「死線を越えて」(大正九年刊)であろう。これらのうち、今日なお読み継がれているのは「出家とその弟子」だけだ。ベストセラー作品のはかなさといったものを、痛感する。
 弱冠二十歳の無名作家が一躍ベストセラー作家になり、そのかわり三十一歳の若さで精神病院で狂死した「地上」の作者島田清次郎は、だが、ベストセラー作家の地位を保っているあいだ、つぎつぎと奇矯な振舞いにおよぴ、それらの振舞いで当時の文壇にさんざん話題をまいたものだ。その委細は、杉森久英氏の直木賞作品 「天才と狂人の間」に尽くされている。ぼくはたまたま清次郎の晩年の姿を一瞥しているので、それを書いておきたいとおもう。当時の新聞紙上を賑わした海軍少将令嬢監禁のいわゆる島清事件を契機にして、ジャーナリズムからすっかり締め出しを食らい、急転直下、零落して行った清次郎の姿は、はなはだドラマティックでもあったからだ。

奇矯 ききょう。言動が普通と違っていること。
埒外 らちがい。ある物事の範囲の外
江馬修 江馬修えまなかし。小説家。田山花袋にまなび、『早稲田文学』の「酒」でデビュー。大正5年「受難者」が評判に。関東大震災後、人道主義から社会主義にうつり、「戦旗」に作品を発表。長編歴史小説「山の民」の完成に力をそそぐ。生年は明治22年12月12日。没年は昭和50年1月23日。85歳。
「受難者」 青春の愛と苦悩を描く長編小説。
倉田百三倉田百三 くらたひゃくぞう。劇作家、評論家。病気のため第一高等学校を中退、キリスト教を中心とする思索生活に。大正5〜6年、『白樺』の衛星誌『生命の川』に戯曲『出家とその弟子』を連載、一躍有名作家に。大正期宗教文学ブームの先駆者。生年は明治24年2月23日。没年は昭和18年2月12日。53歳。
「出家とその弟子」 戯曲。大正5年に発表。親鸞の子の善鸞と弟子の唯円の信仰と恋愛問題を通し「歎異抄」の教えを戯曲化。青空文庫で無料で読める。
島田清次郎島田清次郎 しまだせいじろう。嶋田清次郎。石川県出身。大正8年、生田長江ちょうこう氏の推薦で出版した「地上」が大ベストセラーに。大正11年の欧州旅行後は精神をやみ、療養中に死亡。生年は明治32年2月26日。没年は昭和5年4月29日。32歳。
「地上」 自伝的長編小説。大正8年、第1部「地に潜むもの」を刊行。以降、第2部「地に叛くもの」、第3部「静かなる暴風」、第4部「燃ゆる大地」を順次刊行。
賀川豊彦賀川豊彦 かがわとよひこ。キリスト教伝道者。社会運動家。神戸神学校に入学したが肺結核となり療養。 明治42年、神戸新川で極貧の人々とともに生活しながら伝道。大正9年、自伝的小説「死線を越えて」を発表し、ベストセラーに。生年は明治21年7月10日。没年は昭和35年4月23日。71歳。
「死線を越えて」 長編小説。大正9年、改造社より刊行。神戸葺合新川で隣人愛を実践し貧民救済に尽力した主人公の半生記。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで無料で読める。
杉森久英2杉森久英 すぎもりひさひで。第二次大戦後、河出書房にはいり、「文芸」編集長に。昭和37年、島田清次郎の生涯をえがいた「天才と狂人の間」で直木賞。平成5年、伝記小説に一時代を画した功績で菊池寛賞。生年は明治45年3月23日。没年は平成9年1月20日。84歳。
天才と狂人の間 1962年、同郷の作家、島田清次郎を描いた伝記小説。
島清事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。その後、島田氏に令嬢を脅迫監禁し、金品を強奪したという容疑が持ち上がり、警察は島田氏を拘引、事情聴取を行った。舟木家は監禁事件として訴えたが、令嬢の手紙が決め手となり、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落した。
零落 れいらく。おちぶれること。

島田清次郎2|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂


チビ下駄をはいて
 確か関東大震災のあった年の明くる年の、大正十三年の秋である。その頃まだ戯曲を書かないで、吉江喬松のところへ出入りしてしきりに長い散文詩を書いていた三好十郎を盟主とするグループの一人の英文科生が、早稲田に通うかたわら、牛込横寺町聚英閣という出版書肆に、今日でいうアルバイト勤めをしていた。ある日、その時分親しくしていた、のちにフロ-ベールの「サラムボー」の名訳を出した神部孝と、学校の帰りに神楽坂へ出掛け、いつものようにフルーツパーラーの田原屋で休んでいた。そのとき、ぼく達はよほど退屈していたのだろう、聚英閣にその友人を訪ねてみようということになった。ぜひ訪ねてくれともいっていたからだ。ところが、聚英閣の座敷にあがると、ちょうど島田清次郎がいあわせたのである。
 島田清次郎は当時すでにうすぎたない恰好をして、黒い足跡のついたチビ下駄を引きずり、書き溜めた幾つかの分厚い原稿を包んだ萌黄の木綿の風呂敷包みを、だいじそうにかかえ、かつて自分の本を出してくれた出版屋を歴訪していたのだ。しかし、どこの出版屋も受付けないで、いつも玄関払いを食わせていた。清次郎はしかし、それでもしょうこりもなく、毎日日課のようにこれを繰り返していたのである。そして、聚英閣を訪れたのも、それで幾度目かわからないぐらいだったのだ。
聚英閣 しゅうえいかく。『まちの手帳』14号「神楽坂出版社全四十四社の活躍」では聚英閣は『広津和郎、谷崎精二、宇野浩二らの作品の他、白樺同人による「白樺の林」など』があったようです。場所は横寺町43。

横寺町43

昭和5年「牛込区全図」

さらに今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)ではここにあったようです。L 行っても素晴らしい景観はどこにもありません。はい。横寺町43の写真です。横寺町43
書肆 出版社、書店、本屋。
フロ-ベール フロベール(Gustave Flaubert)とも。フランスの小説家。客観的描写を唱道し、写実主義文学の確立者。作「ボバリー夫人」「サランボー」「感情教育」「聖アントワーヌの誘惑」など。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。58歳
サランボー Salammbô。フロベールの長編小説。1862年刊。第一次ポエニ戦争直後のカルタゴを舞台に、勇将アミルカルの娘サランボーと反乱を起こした傭兵の指揮者マトとの悲恋を描く。
神部孝 早稲田大学仏文科卒。仏文学者として活躍し、訳書はフローベールの「サランボー」、レオポルト・マビヨー「ユゴオ伝」など。生年は明治34年9月4日。没年は昭和13年6月15日。
足跡 人や動物が歩いたあとに残る足の形。
萌黄 春先に萌え出る若葉のようなさえた黄緑色   #aacf53  

島田清次郎3|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂


巷間に伝わる噂話

 この聚英閣は、広津和郎氏の名著のほまれ高い処女評論集「作者の感想」や、宇野浩二の処女作集「蔵の中」なども出していたが、主人は海軍主計中佐あがりの禿げ頭のズブのしろうとであった。従って、出版も出たとこ勝負で、あまりもうかっていなかったようだった。そこで、島田清次郎が新潮社からつぎつぎと「地上」の続篇を出して人気の絶頂にあったとき、幾たびか足を運んで、やっと「早春」とかいう感想集の原稿にありつき、当時はそれを徳としていたのである。そんな因縁もあって、たまたまぼく達が聚英閣を訪れたとき、どういう風の吹きまわしか、たぶん聚英閣の細君が快活な気まぐれ屋だったからであろう、清次郎を座敷にあげていたのだ。
「地上」が出たのは、ぼくが早稲田に入った年である。それで、さっそく買って読んだが、当時のぼくにして、なんだか概念的で詰まらなかった。が、杉森氏の前記の長篇に、堺利彦が「地上」の発売と共に「時事新報」紙上に書いた推賞文が紹介されているが、一般の人気もまた、その感銘が堺利彦の指摘しているところと一致していたからだろう。
“著者の中学校生活、破れた初恋、母と共に娼家の裏座敷に住んだ経験、或る大実業家に助けられて東京に遊学した次第、其の実業家の妾との深い交りなど、悉く著者の「貧乏」という立場から書かれた、反抗と感激と発憤との記録である”
 ところで、島田清次郎の没落は、その線香花火的な早熟性とあいまって、変質者だったことが大きく影響していたように思われる。人気作家さなかの渡米船上での外交官夫人への接吻強要、徳富蘇峰紹介の逗子養神亭における帰朝直後の海軍少将令嬢監禁事件、新聞紙上に大きく叩かれたこれらの事件のほかにも、パリの街娼たちと遊んでは奇怪な振舞いに出、彼女たちから嘲笑を買っていたという話を、当時パリに行っていた岡田三郎だったか、洋画家の林倭衛だったかに聞いた覚えがある。
 また、のちに徳田秋声の「恋愛放浪」という中篇小説集を読むと、その中に、題名を忘れたが、地方新聞に連載したものらしい島田清次郎を取扱った作品があり、共に金沢出身という同郷関係で、秋声が前から何彼と清次郎の面倒を見てやっていたところ、有名になると急に対等的な横柄な口をききだしたことや(これは室生犀星も書いている)、秋声に見せた清次郎自身の書いた家の設計図に、得体の知れぬ密室があったことなどを挙げ、やはり清次郎の変質性を指摘していた。

作者の感想 1920年(大正9年)に書いた広津和郎氏の第一評論集
蔵の中 1919年(大正8年)に出し宇野浩二氏のた処女作集で、「近松秋江論(序に代へて)」、「蔵の中」、「屋根裏の法学士」、「転々」、「長い恋仲」をまとめたもの。
主人 発行者は後藤誠雄です。小田 光雄氏が書いた『日本古書通信』の「古本屋散策(54)。聚英閣と聚芳閣」では「聚英閣の本は三冊持っているが、一冊は勝峯晋風編の『其角全集』で菊判箱入り、千ページをこえる大冊であり、刊行は大正十五年、発行者は後藤誠雄となっている。(中略)(後藤誠雄の)出版物はとても「ズブのしろうと」の企画とは考えられず、優れた編集者が存在したのであろう。それでなければ、国文学、近代文学、社会科学といった多岐にわたる企画はたてられなかっただろう。」と書かれています。私もそうだと思います。
早春 1920年、島田清次郎氏の18歳~20歳の断章や詩をあつめたもの。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として読者の支持を集め、大正の中期まで日本の代表的新聞でした。
早熟性 肉体や精神の発育が普通より早いこと
変質者 異常で病的な性質や性格
渡米 島田清次郎は1922年(大正11年)、新潮社の薦めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発しました。
外交官夫人 風野春樹氏が書いた「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社、2013年)によれば、相手は23歳の森島鷹子氏。夫は森島守人氏で、東京帝国大学を出たエリート外交官。朝日新聞は「渡米文士の失敗」という見出しで、キスを強要し、事務長から譴責をうけたと報じています。
逗子養神亭 徳富蘆花や国木田独歩など、当時の文人が利用した海岸沿いの高級旅館
令嬢監禁事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。その後、島田氏は令嬢を脅迫監禁し、金品を強奪したという容疑が持ち上がり、警察は島田氏を拘引、事情聴取を行った。舟木家は監禁事件として訴えたが、令嬢の手紙が決め手となり、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落した。
中篇小説集 「恋愛放浪」、「無駄道」、「解嘲」の3篇が入っています。
作品 前の2篇が無関係なので、「解嘲」でしょう。ここで、解嘲の意味は「かいちょう」、または「かいとう」で、人のあざけりに対して弁解することです。
対等的 「解嘲」にはありません。「横柄な口」の例として、室生犀星は、《後に「地上」が出版され、新潮社で会ったが彼は挨拶をしないで傲岸に頭をタテに振るのであった。自分は不用意な気持であり鳥渡(ちょっと)(あき)れたか其後明かに彼とは口を利かなかった》と書いています。
密室 徳田秋声氏の「解嘲」によると「彼自身の創意になった一二の密室が用意されてあることであった。彼は自分の声名を慕ってくる女の群を想像してゐた。そして其の女達の特殊なものを引見する場所が、その密室であった。
「こゝへは誰も入れないんだ。どんな親友でも入れないやうにしておくんだ。」彼はさう言って少し赤い顔をして微笑してゐた。」と書かれています。

島田清次郎4|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂


島清と書肆の細君

 さて、ぼく達が聚英閣の座敷に通ると、友人は急に明るい顔になって、対座していた島田清次郎を紹介した。すると、清次郎はおずおずしながら、じつに慇懃に挨拶した。噂に聞いていたのと、まるで反対だった。まことに意外な気がした。と、そこへ、聚英閣の細君が茶と塩せんべいをもって現われた。まずぼく達へ茶をくばって、一ばん最後に清次郎の前へ茶碗を押しやり、“あんたなどにお茶を飲ますのは勿体ないが、皆さんのおつきあいで振舞うのよ。有難くお思いなさい”と、さも軽蔑しているように頭ごなしにいい、それからぼく達のほうを振り返って、“この人って、そりゃあ、おかしいのよ。交番の前を通れないのよ。そして、お巡りに出くわすと、 ペコペコ頭ばかりさげてるの。見られたさまじゃあないのよ” そういって、またもや清次郎に、“あんた、どうして交番がおっかないの。悪いことしてなきゃあ、大手を振って通れるじゃあないの。それとも、また何か悪いことしてるの。そんな、交番の前を遥れない人、うちなんかへ来て貰うのは迷惑よ”と、畳みかけるようにいった。
 清次郎はしかし、暗い顔に卑屈な笑いを浮かべながら、二ヤ二ヤしているばかりだった。後で考えてみると、その時すでに早発性痴呆の徴候が出ていたらしかった。が、いずれにしても、正視しておれぬ場景だった。
 ぼくは聚英閣の細君を無視して、友人に勝手な話をしかけた。そして、偶〻、すこし前に英訳本で読んで感心したアンドレーフの「犬のワルツ」という戯曲の話をしだした。すると、清次郎か急に話の中へはいって来て、“それ、ぼく、ニューヨークで見ました。ニューヨークの何とかいう、新しい芝居ばかりやる小さな劇場で見ましたよ”と口を挾んだ。“なんだか薄気味の悪い芝居でしたよ。赤ヅラした男がこんな風に手を伸ばして、しまいにおどりながらピストル自殺するんです” 清次郎は肩の上に両手を差し伸べて互い違いに振りかざしながら、身慄いでもするように、本当に気味悪かったような表情を漂わせていった。
 島田清次郎が精神病院に収容された話を聞いたのは、それからまもなくだった。


書肆 しょし。書店。本屋。
慇懃 いんぎん。真心がこもっていて、礼儀正しいこと
早発性痴呆 現在は「統合失調症」です。「若い時期に発症する痴呆」が原義で、少し前までは精神分裂病と呼びました。
アンドレーフ レオニド・アンドレーエフ。 Леонид Николаевич Андреев。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
偶〻 たまたま。時おり。時たま。たまに
犬のワルツ 『埴谷雄高作品集 2 短篇小説集』では「その戯曲の最後の幕切れで、劇の主人公は表題になつている《犬のワルツ》を静かにピアノでひいて隣の部屋へはいつていつてしまうと、無人の舞台の空虚な数秒間が過ぎたあと、隣の部屋から不意と短銃の音がにぶくきこえてくるのであつた。」
精神病院 大正13年(1924年)7月31日、島田清次郎は25歳、巣鴨の「保養院」(現都立松沢病院)に強制入院します。