「神楽坂以外」カテゴリーアーカイブ
英国帰りの漱石|矢来町
英国から帰った明治36年1月24日(1903年、37歳)から3月3日まで、夏目漱石氏は妻の鏡子氏がいた牛込矢来町3番地中ノ丸の中根宅に滞在しました。
『ここは牛込、神楽坂』の編集人だった立壁正子氏は第10号で「漱石夫人が悪妻だったなんて」を書き
旧姓中根キヨ(後に鏡子)。明治十年、中根重一の長女として福山に生まれる。中根家は代々福山藩の武士。明治維新後、父は藩の秀才として選抜され大学で経済学を学ぶことになり、それに必要なドイツ語を学ぶため医科へ。長女の鏡子さんが生まれる前後に、新潟の病院へ赴任。ドイツ人の院長の通訳を務め、後に副院長に。鏡子さんが五歳のときに帰京。牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地、いま新潮杜のあるところに住む。父上はその後官吏となり、鏡子さんが結婚する頃は貴族院の書記長をしていた。(『漱石の思い出』より) かくて鏡子さんは松山から上京した漱石と東京で見合。翌年、漱石の赴任先の熊本で結婚。そのとき鏡子さんは十九歳。 以後、単子、恒子の二児をもうけ、漱石はイギリスヘ国費留学。鏡子さんは牛込矢来町の実家の離れで休職手当て二十五円で耐乏生活(実家も父上が相場で失敗、窮乏)。漱石が帰国した際は、衣類も夜具もぽろぽろという状態だった。 |
矢来町について、夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』では極めて書いてあることは少なく、
そのころの中根の家は牛込矢来の、ちょうど今の新潮社のところで、あすこは私たち思い出の深い土地なのです。(略) それからすぐと矢来の、三年間畳替えもしなければ何の手入れもしない、ただ留守中雨露を凌いでいたというだけの荒れに荒れた家に入りました。 |
「漱石夫人が悪妻だったなんて」の話で出てきた「牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地」とありますが、二番地ではなく三番地でした。大正11年には、字「中の丸」は下の範囲でした。「六十、現七十一番地」は大正11年の地図ではわかりませんが、昭和5年の七十一番地はこうなっています。
昭和5年の71番地と63番地の間を上下に続く道路は将来の「牛込中央通り」です。現代ではここの薄青の円が昔の71番地になります。
しかし漱石は「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根方」と書いたようです。また義父中根重一に対しても「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根重一」と書いたようです。つまり、「六十、現七十一番地」は誰が書いたのでしょうか?
同書の中根眞太郎氏の「大伯母鏡子のいるところは花が咲いたようでした」によれば
矢来町の中根家のことは、小学校4年の頃、父と近くを通った際、あそこだと教えられたことがあります。いま新潮社の本社のあるあたりでしょうか。(略) 大伯母の鏡子は、すばらしいおばあちゃんでした。江戸っ子気質で、ウイットがあって。彼女がいるところは周り中に花が咲いたようでした。弟子たちにも人気があって、よく面倒を見ていたようです。岩波書店の創立の際には株券で3千円を融通していますし、たいした人でした。 |
さらに新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の「出版おもいで話」(昭和11(1936)年11月)では
大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略) 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村、加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。(中略) 社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。そこで、九月一日の午後一時をもって新館開きの記念会を開き、文芸映画をはじめ各種の余興を揃え、御馳走も然るべく用意して、今やただ時間の来るのを待っている時に、待ち設けぬ大地震がやって来たのである。 |
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。
したがってこれから考えると、この赤く塗った場所が中根貴族院書記官長の住まいでしょう。漱石氏もしばらくいたことがある場所でした。(地図は新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』「明治」から)。大正になったころ番号が変わり、71番地でした。
右に掲げた昭和12年の『火災保険特殊地図』では、当時の71番地には西方に新潮社、東方に住んだ新潮社の初代社長・佐藤義亮邸があり、東のほうが西の新潮社よりも大きかったようです。
なお、これと違った地図もあります。新宿区の『漱石山房秋冬』です。しかし、⑥の場所は字「中の丸」ではなく「山里」になるので、違います。
現在の71番地は3つに分かれています。写真は新潮社の本館です。漱石は「新潮社の本館」の北半分に住み、実際、新潮社本館の玄関の場所と、夏目漱石が使った玄関の場所は、よく似た場所にあったといえるでしょう。
最後に寺田寅彦氏が書く「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年)の一節です。
帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。自分の訪ねた時は大きな木函に書物の一杯つまつた荷が着いて、土屋君といふ人がそれを開けて本を取出して居た。そのとき英国の美術館にある名画の写真を色々見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと云はれたので、レイノルヅの女の子の絵やムリリヨのマグダレナのマリアなどを貰つた。先生の手かばんの中から白薔薇の造花が一束出て来た。それは何ですかと聞いたら、人から貰つたんだと云はれた。たしか其時に鮨の御馳走になつた。自分はちつとも気が附かなかつたが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻に箸をつけると自分も海苔巻を食ふ。先生が卵を食ふと自分も卵を取上げる。先生が海老を残したら、自分も海老を残したのださうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの喰ひ方」と覚書のしてあつたのは、比時のことらしい。 |
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清風亭|赤城神社
神楽坂の「清風亭」という場所があります。具体的にはどこにあったのでしょうか。インターネットの「西村和夫の神楽坂」では
赤城神社の境内の突き当たりにかって清風亭という貸し座敷があった。ここは坪内逍遥を中心に早稲田の学生らが脚本の朗読や舞台稽古に使った所で、後の「文芸協会」の基礎を作ったところである。その後清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に変わり、広津和郎など同時代(大正6年頃)の多くの早稲田の文士が住んでいた。広津和郎などはわざわざ神楽坂の銭湯まで来たという話が残っている。 |
また加能作次郎氏の『早稲田神楽坂』では「赤城神社の清風亭」ではなく「江戸川の清風亭」について書かれています。別ですが、まあ参考までに。
江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。 |
もう1つ、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社)では「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」としてこう書いてあります。
(赤城神社)は、牛込氏が建てた神社である。ここから、江戸川低地や小日向台地の眺望がよい。この境内西の石段上の崖に面した空地に、明治のころ清風亭という貸座敷があった。 そこは、明治文学史上重要なところで、坪内逍遥の芝居台本朗読会や実演の稽古、俗曲研究会か開かれたり、文学関係の会合が開かれたところである。 この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になるが、そこに片山伸や近松秋江などが下宿していたことがある。 |
また「48、芸術座発祥の清風亭跡(文京区水道町27)」で島村抱月の芸術座の発祥地を紹介します。
渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では……
ところで境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖を臨んで、明治のころ「清風亭」という貸席があった。明治38年(1905)に、早稲田大学で教えていた文学者坪内逍遥が芝居台本の朗読会と俗曲研究会の会合を開き、易風会と名付けて雅劇「妹背山」という三大狂言にならぶ傑作の歌舞技に移行されたものを演じている。これがのちに文芸協会のいしずえを築いた由緒ある貸席であった。この清風亭が江戸川べりの石切橋へ移転する。そのあと「長生館」という下宿屋になり、作家たちが住むことになる。 |
「神楽坂まちの手帖」編集長の平松南氏が書いた『神楽坂の坂』では
赤城神社宮司夫人であり、境内にある赤城幼稚園の園長先生でもある人にお話を伺った。 「もとは群馬県の赤城にあった社殿がまず早稲田に、それからここへ移されました。 戦災でこのあたりも焼け野原、今の社殿は戦後再建されたものですし、落雷で大きな穴のあいた大銀杏があったんですが、やはり戦火にやられました。 巨大なやけぼっくいになった大銀杏のずっとむこうに富士山が見えて、 それはきれいでした。戦前のことはよく知りませんが、今幼稚園があるあのあたりに清風亭という料亭があって、坪内逍遥が新劇運動の場に利用したとか。のち下宿屋になって、近松秋江や片上昇(たぶん片山伸の間違い)が寄宿したそうです」 |
「この境内西の石段上の崖に面した空地」の場所と、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」の場所と、「幼稚園があるあのあたり」の場所はちょっと(本当はかなり)違うような気がします。「この境内西の石段上の崖に面した空地」は現在も空き地が残り、一部に建物が建っています。
さらに、もうひとつ、新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』ではまったく違う場所(丸い赤円)が清風亭になっています。この「江戸・明治・現代重ね地図」では「『内務省地理局東京実測全図』『東京郵便地図』『東京明覧』等の資料を基に、明治40年(1907)前後の明治地図を復元」して作ったものになっています。これではこの場所は昔の番号で赤城元町35になり、坂の中腹です。赤城神社本体は赤城元町16でないといけません。石切橋に移転する前にここにいたことがあるのでしょう。
でも、よく見てみると、この形でのそばの建物(赤の矢印)だけが清風亭だと思います。左隣は記念碑を表し、ここでは昭忠碑なのでしょう。昭忠碑とは日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫したもので、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去しました。したがって、「この境内西の石段上の崖に面した空地」の建物や、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」近くの建物はここしかありません。
さらに 野田宇太郎氏は「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)を書き、そこに清風亭の跡(写真)をだしてました。キャプションでは「赤城神社の丘より早稲田方面の展望。手前の空地が近松秋江などが下宿してゐた長生館の跡」となっています。やはり上の赤の矢印の建物が清風亭でした。
もうひとつ、赤城幼稚園ってどこなの? 赤城幼稚園は平成20年(2008年)まで残っていました。赤城神社の老朽化が進み、建て替えが必要で、その際、赤城幼稚園も閉園したのです。左図は2000年ころの図です。赤城幼稚園はきちんとありました。右は現在(2014年)です。なんと大きなマンションになっています。
『詩人』|金子光晴
金子光晴は、詩人で、暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科も東京美術学校日本画科も慶應義塾大学文学部予科もすべて中退です。
生年は1895年(明治28年)12月25日。没年は1975年(昭和50年)6月30日で79歳。
大正10(1921)年1月末(満25歳)に欧州から日本に帰国しました。
しかし、ぼつぼつと、友人達と再会の顔を合わせ、むかしの生活がまたじぶんのものとして戻ってくるような思いになっていった。送別会をやってくれた時の、ほぼおなじ連中が、歓迎会をしてくれた。その歓迎会は、やはり、神田の牛肉屋だった。福士幸次郎が、サトウ・ハチローをつれてきていた。ハチローはまだ十八歳の少年で、赤いジャケツを着て、神妙にひかえていた。メンバーは、惣之助、富田、佐佐木茂索、平野威馬雄、井上康文、中条辰夫等で、その人たちの顔をみて僕は、はじめて、本当に日本へかえってきたなと納得した。
処女詩集の頃 歓迎会がすんでから、福士、富川、井上、サトウの四人といっしょに、神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた。二階の八畳で五人は、殆ど夜通ししゃべってから、ゴロ寝をした。彼らは僕がヨーロッパで、どんなしごとをしてきたかに、多少の興味があるらしかった。僕は、蒐集品でもこっそりみせるように、『こがね蟲』のノート、まだ推敲の余地のたくさんのこっている一冊を、富田にみせた。まだ『こがね蟲』という題名はなく、紺色の裏紙の二百枚位を綴ったノートだった。富田は、しばらくそれをみていたが、 |
送別会 1918(大正7)年12月、養父の友人とともに欧州遊学に旅立ちました。
歓迎会 大正10年1月末に欧州から帰国。
神田の牛肉屋 神田「今文」で開催。「今文」は小川町通りのすき焼料亭で、1990年頃までは店は続きますが、諸事情で閉店に
惣之助 佐藤惣之助。生年1890年12月3日。没年1942年5月15日。詩人、作詞家。古賀政男と組み、多くの楽曲も
富田 富田砕花。生年1890(明治23年)年11月15日。没年1984年10月17日。詩人、歌人。大正詩壇で社会主義に傾き民衆詩派の詩人として活躍
平野威馬雄 ひらのいまお。生年1900年(明治33年)5月5日。没年1986年(昭和61年)11月11日。詩人・フランス文学者。たジャン・アンリ・ファーブル関係の著作を翻訳
井上康文 いのうえやすぶみ。生年1897(明治30)年6月20日。没年1973年。詩人。大正7年、福田正夫の「民衆」に参加、主要同人として編集を担当。「新詩人」「詩集」「自由詩」を創刊。
中条辰夫 日比谷図書館児童部に勤務。生没年不明。
九段坂 くだんざか。九段下交差点から靖国神社の南側に上る坂
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附は江戸城の城門の1つを指しますが、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯の場所も牛込見附と呼びました。
神楽坂 東京都新宿区で早稲田通りの一部。外堀通りの「神楽坂下」交差点から、大久保通りの「神楽坂上」交差点を通って、神楽坂6丁目に至る坂
赤城元町 東京都新宿区の町名。
「神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた」。書いて見ました。40分ぐらいはかかりますが、地下鉄もタクシーもまだない明治時代の人はこれぐらいは簡単に歩けます。
こがね蟲 1922(大正11)年3月、ベルギーで書きためた詩を推敲し、翌年7月、詩集『こがね蟲』を出版。
アルベール・サマン Albert Samain。1858年、フランス生まれ。象徴派の詩人。繊細な詩風
有縁 互いに関係のあること
ブルンティエール ブリュンティエール。Ferdinand Brunetière。1849~1906。フランスの批評家・文学史家。自然主義・印象主義には否定的。
パルナシアン Parnassiens。高踏派。ロマン主義の自意識過剰な抒情性に対して、唯美主義的で形象美と技巧を重んずる
都館|文士が多し
サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の都館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。
牛込郷愁 牛込牛込館の向こう隣に、都館支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「之を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西善蔵さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎精二さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬泰三さんは、襟足へいつも毛をはやしていた、廣津さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌を腰へぶらさげて、その批評家の家のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽坂の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ這入って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。肴は何やならんと横目で見たら、おそばだった。しかも、かけだった。かけのフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月と書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門様と横町を隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。 |
牛込牛込館、都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。現在は牛込館はLiberty houseと神楽坂センタービルに、都館支店はLog Salonに当たります。
軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「張り扇」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。
ノエル・ヌエット|矢来町12
ノエル・ヌエット氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園の説明で『神楽坂』という版画を描いています。
Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。
英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。
日本に行くとそれが「ヌエット」となります。
ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。
西條八十|払方町18
西條八十氏は、早稲田大学仏文学科教授を務め、詩人、作詞家で、さらに「唄を忘れた金絲雀は」で始まる「かなりや」など有名な童謡や流行歌を沢山つくっています。生年月日は明治25年(1892年)1月15日、没年月日は昭和45年(1970年)8月12日、享年は78歳でした。
では、どこに住んでいたのでしょう。勿論いろいろな場所に住んでいましたが、では牛込区(新宿区の一部)では、どこに住んでいたのでしょう。西條八束著の『父・西條八十の横顔』では
父は1892(明治25)年、東京牛込拂方町に生まれた。私の祖父重兵衛は初めこの質屋の番頭を務めていたが、西條家の嫡男丑乃助が急死したため、その花嫁となるはずだった私の祖母と結婚して、家を継ぐこととなった。 |
西條八十著の「青春の日記」を全集に掲載する際、娘の西條嫩子の「解説」がついてきます。それを読むと、もう少し細かく判ってきます。
父の生家は市ヶ谷と飯田橋の中ほどの濠端から北町へ抜ける、ちょうど3角に逸れる辺りにあった。現電話局の向い側からかなり奥に広がった大きな構えのようであった。 |
うーん、かえって判りにくいか。新宿区の『区内に在住した文学者たち』を読むと、牛込払方町18 で生まれたと書いてあります。なるほど。
下の番号がそれです。明治28年(左図)には、まだ下から上にあがる道(青の道路)はできていません。青に塗った上下をつなぐ坂道は明治42年にできました。昭和15年(右図)になると、道はきちんとできています。ほかに郵便局(〒)も出現しています。
ここで西條八十氏は明治44年(1911年)8月まで、つまり19歳まで、この同じ払方町で成長します。
さらに、新婚の時、妻と一緒に初めて住んだ場所もここで、大正5年(1916年)6月から12月まで、住んでいました。
ところが、牛込中央通り商店会が作った「西条八十家跡」(下図)は全く違っています。西條八十家跡は、左の図では下ではなく、左にあります。
これは納戸町の日々を描いているのでしょう。ここと大きく離れてはいない場所で(それでも、やはり間違えた場所で)昭和19年1月から20年4月まで住んでいたようです。西条八十著の『疎開日記』では
そのあいだ、早稲田大学へは毎週2日間、フランス詩の講義にわりあい忠実に出かけた。娘たちが北京へ赴任したあとの牛込納戸町の家を仮寓に使っていたのだが、狭いながら日あたりのいい家で、そこへ行くと下館よりずっと暖かいので、落ち着いてつい長逗留してしまうのだった。(この家は昭和二十年四月十三日夜の空襲できれいに焼けてしまった。)(中略) 牛込の仮寓には、よくバリ以来の友「ラ・ミューズ・フランセーズ」の詩人ヌエル・ヌエト氏が訪ねてきた。鼠坂という細い暗い坂をのぽると、わたしの生まれた払方町へ出た。その想い山の町を深夜二人で肩を並べながら、氏の住む富士見町まで送って行ったものであった。(その後ヌエト氏の家はわたしの家よりもさきに焼けてしまった。) |
また、先の西條嫩子氏の「解説」によれば
戦前、私が三井と結婚した新居は父の払方町の家から、現大日本印刷の方へ降る鼠坂という細い坂道の途中にあった。昔祖父の石鹸の乾し場であったと云う。かつては八十の伯父久七も住んでいた由であって、真向いに樹木の多い小高い家があり、「あそこが初恋の人、塩谷えんちゃんの庭だった」と父がなつかしそうに語っていた事がある。鼠坂から登りつめた所に戦前、払方町郵便局があった。郵便局の事務の娘さんが「この白壁の家は西條八十さんのお父さんのお蔵だったそうですよ」と私との関連を知ってか知らずか呟いていたことがある。 |
昭和16年の地図で見ると、右の赤の四角は払方町での生家です。その直下に黒で郵便局(〒)も書いています。
紫色は納戸町の全域です。納戸町のすべてはこの中に入っていなくてはいけません。牛込中央通り商店会の編者も確かに納戸町の場所は描いています。
鼠坂は赤色で描きました。新宿区ではここだけが鼠坂なのです。
家は「細い坂道の途中にあった」と書いています。「途中」の場所を薄い水色で描いてみました。ここいらが、おそらく仮寓の場所です。
最後に最新の正しい「牛込中央通り」を描いてみました。
宮城道雄記念館|中町
昭和53年(1978)12月6日、宮城道雄氏が晩年まで住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館です。目で見る展示のほか、耳で聴く設備などがあります。
まず右手の奥に「宮城道雄氏略伝」があります。
宮城道雄氏略伝 宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る 生後二百日にして悪質の眼病あり九歳遂に失明し2代目神戸中嶋検校の門に入る その芸術的天分は夙に音楽に発現し十六歳にして処女作「水の変態」を成し 爾来「春の海」「秋の調」「落葉の踊」「桜変奏曲」等幾多の名曲あり独自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音楽と称せらる |
入場料は400円、入って上がった所が1階になっています。1階の第一展示室は箏などの楽器などを中心にまとめ、第二展示室はDVDの映像資料です。左側に行き、部屋の外からスロープを下に行くと「検校の間」にでます。これは国登録有形文化財になっています。
また「検校の間」「録音室」「石の達磨大師」についても説明があります。
宮城道雄の書斎。昭和23年(1948)12月に完成し、「検校の間」と名づけられた。最後の7年間はほとんどここで作曲された。はじめは、自宅母屋から廊下づたいの離れとして、現在の録音室の東寄りに建てられたが、録音室建築のために現在地に移され、独立の一棟となった。間口3杯、奥行2間。南に6畳、襖を隔てて北に2畳。6畳には向かって右から床棚・床・付書院が設けられ、床柱は竹の角が用いられている。天井は、付書院側の1.5畳分が簾張、他の4.5畳分が竿縁。全体として茶室風の趣になっている。 録音室 鉄筋コンクリート平屋造り、防音設備を施した一室。目の不自由な宮城が自宅で録音することを目的として、昭和30年(1955)に着工されたが、翌年の竣工の直前に彼は不帰の客となり、自身はこの録音室を用いずに終った。 石の達磨大師 ちょうどこの春早々でありましたが、いつも来る植木屋さんが、石の達磨大師を持ってまいりました。私はその顔を撫でてみましたところが、これは石屋さんが彫ったんで、別に有名な方の作ではないんでありますが、なかなかデコボコした手触りが非常に面白いと思いました。ことに、この石像の顔を撫でるときに、いちばんに眼を撫でてみます。ところが、眼が彫ってありまして、眼がなかなかよく出来ているように思いました。 宮城道雄談・昭和30年(1955)2月ラジオ |
宮城道雄|箏曲家
宮城道雄は作曲家・箏曲家で、生まれは1894(明治27)年4月7日、兵庫県神戸市。8歳で失明。13歳、一家で韓国の仁川に渡り、箏と尺八を教えて家計を助けました。1917年4月(23歳)、帰国しますが、妻が急死し、翌年再婚。最後は1956(昭和31)年6月25日で62歳で死亡しました。
宮城道雄記念館は新宿区中町にたっていますが、ここに来るまであちこちを転居しています。ただし、ほとんど牛込区(新宿区)です。
内田百閒氏の「東海道刈谷駅」(昭和33年)では
宮城が今出て来た牛込中町[1]の家は、もとの構えを戦火に焼かれた後に建て直した屋敷で、後に隣地に立派な演奏場を建て増しして相当に広い構えである。焼ける前の庭にあった梅の古木を宮城は懐しがり、「古巣の侮」と題する彼の文集を遺している。牛込中町の今の家[1]は借家ではないが、それから前に彼が転転と移り住んだ家はみな借家であった。牛込中町の前は牛込納戸町[2]。門構えの大きな家であった。 |
「今の家」[1]というのは中町35番地で、これは昭和5年7月から死亡するまで26年も使っています。現在ここは宮城道雄記念館になっています。
中町の前は納戸町40番地[2]。昭和4年4月から転居し、1年半、ここ納戸町に住みました。この間新しく80絃を使い、東京音楽学校の箏曲科の教師になっています。
納戸町の前は同じく牛込の市ヶ谷加賀町[3]。彼はここで大正十二年の大地震に会った。9月1日の後2、3日目に私は小石川雑司ケ谷町の私の家から彼の安否を尋ねに出掛けた。加賀町界隈には余り倒壊した家もなく、大丈夫だろうと思って行ったが、その家の前の道幅の広い横町へ曲がると、向い側の屋敷の屏の中から枝を張った大樹の木陰に籐椅子を置き、人通りのない道ばたで晏如としている宮城を認めてまあよかったと思った。お互に無事をよろこび合ったのを思い出す。 |
晏如 安らかで落ち着いているさま
大正12年4月ごろ市ケ谷加賀町2−1[3]に転居。この家が広く、門がある家で、電話も来てから通っています。
市ケ谷加賀町の前は牛込払方町[4]。市ケ谷新見附のお濠端から上がって来る幅の広い坂道を、上がり切って右へ行けば牛込北町の電車道に出る、その坂を鰻坂と云う、鰻坂を上がり切った左側の二階建の借家で、門などはない。馳け込みの小さな家で、二階一間に下が一間、それに小さな部屋がもう一つか二つついていたかも知れない。 棟続きの横腹に向かって左手の借家には、時代を異にしてその昔石川啄木が住んでいたと云う。二階建の棟割長屋と云う事になるが、その同じ棟の下に二人の天才か伴んだ事になる。その家は戦火で焼けて今は跡方もない。(略) 夜は宮城がその坂の上の借家の二階で寝ているのを知っているから、私は下の往来から竹竿の先にステッキを括くくりつけて継ぎ足して、長くなった棒の先で二階の雨戸をこつこつ叩いておどかした。後で宮城がくやしがるのが面白かった。彼も若かったが私も若かった。 払方は何年から何年までであったか、宙でははっきりしないが、大正十年よりは前である。私が宮城を知ったのはこの時代である。 |
市ケ谷新見附 以前の都電の駅で、JR市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間地点にあります。
宙 そらで覚えていること。暗記していること。
大正8年5月ごろ、牛込払方町25番地[4]に借家。これは広い坂を上りきった左側にあった家で、もと、石川啄木が住んだ大和館という下宿のあとだといいます。(実は吉川英史氏の『この人なり 宮城道雄伝』新潮社、昭和37年では大正館と間違えて書いています)。2軒つづきの家で、表通りに面しているので、荷車や人の通る足音などがうるさかったといいます。
この場所は現代では25番地の日本左官会館(現在はマンション)、あるいは、その南側の25番地のアーバンネットです。
これは明治や大正でも同じようです。「広い坂を上りきった左側にあった家」だとすると、日本左官会館でしょうか。「アーバンネット」は坂の途中だと思います。
払方の前は日本橋浜町にいたそうだが、その時分の事は私は知らない。余り長くはいなかった様で、半年ぐらいだったかも知れないと云う。 その前は矢張り牛込の市ケ谷田町[5]。一度日本橋へ出たきりで後はずっと牛込の中で転転している。その市ケ谷田町に家を構えた前は、町内の田町の琴屋の二階に間借りしていた。それが大正六年の五月朝鮮から出て来た時の住いであった。 |
大正7年に移ったこの田町の家[5]は、市ヶ谷田町2丁目23番地。3間くらいの部屋数の、古ぼけた家でした。入口に「宮城大検校」という大きな看板をかかえて、内弟子をとり、まだ人力車に乗るだけの余裕はなく、質屋にも通ったといいます。
尾崎紅葉|十千万堂
日本の小説家、尾崎紅葉は結婚して明治24(1891)年3月から横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。別名、十千万堂です。十千万堂は彼の号の1つです。これから没する(明治36年10月30日)まで、12年半をこの家で過ごしました。有名な「金色夜叉」もここで書いています。門下生は泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉などが有名で、「葉門四天王」と呼ばれていました。
この場所は北から南に向かって入っていきます。
何もないので写真を付けておきます。左側、南側が行く方向です。
現在でも極めて寂しい場所です。その前に行くと、簡単な説明があります。平成28年、新しく説明文が変わっています。これは旧時代のもの。新しい説明文はここに。
では実際に住んでいた(今も住んでいるけれど)時にはこんな場所でした。
野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、昭和29年)では……
ここを舞台にいろいろなことが起こりました。
門人 泉鏡花・小栗風葉 談話
○泉鏡花曰 …モウ田舎に帰らうと思ひましたが、それにしても、せめてお顔だけと存じましたに、お逢い下さいまして私は本望でございます。といひましたが、何だか胸がせまつてうつむいて了ひました。然うすると、まるで夢のやうです。お前も小説に見込まれたな、といつてお笑ひなすつて、具合が出来たら内においてやつてもよい…兎に角に世話はしやう、家に置くか、下宿屋に置くか、あした来な、それまでにきめて置くからと、おつしやツたのです。 明治36年11月「明星」
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明治文壇回顧録 昭和11年 後藤宙外
六、丁酉文社時代(中略) |
戦前は47番地に行くのには一直線に邸宅に入れたと思います。この47番地では一軒だけが建ったのか、数軒が建ったのか、わかりません。新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年に出ている鳥居秀敏著「横寺町と近代文芸」では「この地図(参謀本部発行の五千分の一地図)にある家は家主の鳥居家が慶応三年(1867年)にここへ移って来た時建っていた古い家で、紅葉の住んでいた家とは位置も形も違います。紅葉は明治24年(1891年)に横寺町へ来たのですから、明治20年前後に建てられた比較的新しい家だったのです」
戦後は数軒の邸宅がこの番地上に建っています。
松井須磨子|神楽坂
松井須磨子氏は最初の明治・大正の女優です。それまでは女形が女性を演じていました。最後は神楽坂の側の横寺町の『芸術倶楽部』で自殺しました。実は1ヶ月前、元早稲田教授で劇作家の島村抱月氏が、同じ『芸術倶楽部』でインフルエンザにかかって死亡しました。後追い心中でした。
ふーん、なるほど、そうなんだと考えていると、甘い。まだ本当は何が起こったのか、まだまだ、わかっていません。
松井須磨子氏は田舎生まれで気が強く、美人では……うーん、いろいろありますが、はい、なく、しかし、しかし、真の女優です。島村抱月氏は気が弱く、現在の早稲田大学を卒業し、文芸評論家で、英国に行きたくさんの舞台を見た劇作家で、恋に悩む考えはここまで外に出さなくてもいいのにと思ってしまいます。
河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(毎日新聞社)で中山晋平氏の手記を引用し、抱月氏の思いを書いています。
大正元年の三月大阪ヘノラをやりに行ったとき、東儀(鉄笛)が誘惑しようとしたんだ。けれども女(=松井須磨子氏)はそれをきらってぼくの所へのがれてきた。ぼくはそれを救ってやったんだが、それをしおに女は僕におちいった訳たんだ……ノラにしてもマグダにしても、ぼくの芝居であの女は成功したんだ。あの女もぼくを悪くなく思ったろうし、ぼくも女が可愛いかった。……あの女の芸術は、ぼくがあの女になり変ってやったようなものなんだ。ねえ中山君、まったくぼくのノラで、ぼくのマグダなんだ。 |
『人形の家』でノラ、『故郷』のマグダは2人とも松井須磨子氏が演じた女性です。
同じく抱月が須磨子に書いたラブレターの1節では
あなたはかわいい人、うれしい人、恋しい人、そして悪人、ぼくをこんなにまよわせて、此上はただもうどうかして実際の妻になってもらう外、ぼくの心の安まる道はありません。 |
これ以外にも沢山書いてありますが、おなじです。
これも『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』にでていますが、本来は田辺若男氏の『俳優』(春秋社、昭和35年)から引用してあるようです。
鹿児島で「復活」をやった千秋楽の夜。宿へ引き上げてきてタ食の膳にむかった時、抱月と須磨子の室から、突然経営部の小村光雄の室へけたたましく電話がかかった。小村が取るものも取りあえず飛んで行くと、まじめで生一本な抱月は、やや青ざめて腕ぐみをしなから、「もう芸術座を解散しなければならない」と沈痛にいう。小村がけげんな顔をして、そのわけをたずねると、事情がおおよそわかった。顔なじみの土地の文学芸者から、羽織の裏へ抱月に揮が依頼された。そこで「わか胸の燃ゆる思いにくらぶれば、けむりは薄し桜島山」と書いた。書きおわるやいなや、それを見ていた須磨子は、抱月のタ食の膳を蹴とばし、行李の中から羽織や着物を投げ出して、びりびりと引き裂き、はては抱月に組みついてきたのであった。「お前が日本一の文士なら、私も日本一の女優だ」「なに、この成り上り者、誰れのおかげでそうなれたと思う」と、売りことばに買いことば、「お前こそ成り上り者だ。憚りなから、私は武士の家の血統に生れてる人間だ――」と、須磨子は引っこもうとしない。「度しがたい女だ。もう芸術座は解散する」というので、小村の室に電話かとんだわけだった。小村にしてみれば、二人のいさかいは珍らしいことでもないので、まアまアとその場をおさめて引きとった。 ところが――その翌朝、鹿児島駅の待合室で、小村の話を聞いて、不安そうな一座の俳優たちの視線を受けた二人は、テレクサイ顔をしている抱月のそばへ「先生――」と須磨子が寄り添って行って、何やらひそひそと笑いながらささやきかわしている。「――天真爛漫。そこがいいのだ」と、抱月は小村に語ってすましていたという。夫婦喧嘩は犬も喰わないという標本を見せつけられて、一座も呆然としてうなずいたという。 |
小林アパート(旧芸術倶楽部)|横寺町
この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。
高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。 |
さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して
大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。 |
なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。
しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは
その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。 「松井須磨子の幽霊がいますよ」 と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。 |
この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では
そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」 「芸術倶楽部の跡はそこです」 と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略) 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。 カチューシャ可愛や別れのつらさ せめて淡雪とけぬまに 神に誓いをララかけましょか そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。 |
戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では
最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。 |
芸術倶楽部館|神楽坂
芸術倶楽部の館は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』(明治書院、昭和55年)では
『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正三年三月二十二日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜十一時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町九番地に決り、二階建の白い洋館。一階には間口七間に奥行四間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は三〇〇。総工費七千円。建築費の大口寄附者(五百円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正四年八月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。 |
芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月と須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。
また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)では
次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)にある図です。
また今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)に書いてある図ではこうなっています。
高橋春人氏の「ここは牛込、神楽坂」第6号の『牛込さんぽみち』では想像図と地図が載っています。
高橋春人氏は…
これを描くときに参考にしたのが印刷物の写真版である。これは、芸術座・芸術倶楽部用の封筒の裏に刷られたもので(宣伝用?)、ここにあげたものは、抱月(滝太郎)が、大正6年12月に使ったものである(早大、演劇博物館、蔵。なお、筆者が見た芸術倶楽部の写真はこのワンカットだけ) |
昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では
野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。これはどこだか正確にはわかりません。おそらく上図の「小林 9」と上から2番目の「11」の間にカメラを置いて撮影したのでしょう。
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では
この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。
毘沙門せんべい福屋の福井 清一郎氏は「商売人どうし協力して 街を盛り上げていきたいよね。」(東京平版株式会社)の中で
神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。 |
色川武大|矢来町
小説家、色川武大(あるいは麻雀作家、阿佐田哲也、本名は色川武大)。生まれは1929(昭和4)年3月28日。逝去は1989(平成元)年4月10日。ここ矢来町で生まれ大きくなりました。
本人の『寄せ書き帖』によれば
私が生まれ育った牛込矢来町というところは、戦前の典型的住宅地であると同時に、色街の神楽坂に近かったせいか、昔、芸人さんがたくさん住んでいた。 私の生家の隣ぐらいが曲独楽の三升紋弥(先代)一家で、横町ひとつ先が昔々亭桃太郎、後年、花島三郎、松旭斎スミエ夫妻が住んでいた家がある。ここいらには小桜京子も居て、ずっと以前に桃太郎グループに属して寄席に出ていたことがあるが、おシャマなかわいい娘だった。 戦時中には左ト全が松葉杖をついて瓢々と歩いていたし、柳家金語楼も町内に大きな邸があった。柱三木助が居て、坂下には春風亭柳橋が居て、反対側の市ヶ谷寄りには現三遊亭小円馬がガキ大将で居た。ちなみに私たちは小円馬を森山さんのお兄さんと呼んでいた。現三升紋弥は細野さんのお兄さんである。 |
以下は『生家へ』からの引用です。
私は生家でうまれて生家で育った。それはもちろんだが、生家そのものがただの一度も、焼失も移転もしなかったから、私は三十八歳になるまで、ひとつ家に、ひとつ土地に居たことになる。日本人というようないいかたは、身体に訊いてみてぴんとした反応は返ってこないけれど、牛込の矢来町八〇という名称は、私にとって特別な響きをもっている。 |
生家と隣り合って一軒の家作があった。二軒合わせてほぼ正方形の角地だったが、家作はその東北部の四分の1を占めていた。いずれも平家である。 何代か住み手は変ったが、戦争がはじまってから、Tさん一家が来て、以降ずっと住みついた。未亡人の婆さんと、もう1人前に育った子供たちの1家だった。 |
では牛込の矢来町80番はここです。左側は昭和15年の図、右側は現代の地図です。
また色川武大氏にはナルコレプシーという病気があります。『風と灯とけむりたち』で
私は“ナルコレプシー”という奇妙な持病があって、これは一言でいうと睡眠のリズムが狂ってしまう病気である。私の場合、持続睡眠が二三時間しかとれず、そのかわり1日に何度も暴力的な睡眠発作に襲われる。生命を失なう危険はないようだが、疲労感が常人の四倍といわれ、集中力を欠き、また症状の1つとして幻視幻覚を見る。なぜそうなるかまだ原因がわからない。しかし医者にいわせると、発病期はおおむね十歳前後だという。 |
もうひとつ。『寄席放浪記』「ショボショボの小柳枝」の1節で「私は駄目な男だから」と書いてあります。「駄目な男だから」時間通りに起きられない、大変なことろで猛烈な眠気で眠ってしまう。これが10代に起こるので、次第次第にソフトで本人は物腰が柔らかくなってきます。色川武大氏も物腰は柔らかくなっていました。ぎすぎすしていたり、神経質になるのはナルコレプシーではないと考えてもいいでしょう。
柳家金語楼|矢来町
柳家金語楼は、生まれは1901(明治34)年2月28日、本名は山下敬太郎で、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人でありました。戦前の吉本興業では最高給取りでした。戦時中になると、上からの圧力で落語家を廃業し、喜劇俳優になり、1940年、金語楼劇団を旗揚げします。戦後では、1953~68年のNHKテレビ『ジェスチャー』で白組キャプテン、1956年、TBSテレビとテレビ朝日『おトラさん』で主役。1968年、日本喜劇人協会会長に就任し、1972(昭和47)年10月22日、死去します。
さて戦前に住んでいたところが矢来町です。山下武氏の『父・柳家金語楼』によれば
四谷から牛込へ越すことになった原因が変わっています。吉本興業から借金して車を買うことになったものの、それまで住んでいた四谷伝馬町の家では車が置けません。そこでガレージを作れるほど庭の広い借家をさがした結果、牛込の矢来町に大きな古い借家を見つけたのでした。人間が住むほうは屋根さえあればどうでもよく、車を置くために借りた家ですから、こういうところにも享楽的な父の性格がのぞけます。凝り性といえばそうともいえますけれども、もともと父にはマイ・ホーム主義など破片もありません。また、そんな雰囲気に浸るほどの時間的余裕もないのです。なにせ、当時の父は目が回るほどの忙しさでしたから。 矢来町の家は三百坪ほどもあったでしょうか。ガレージを作ってもなお大きな庭が余るのはいいのですが、家が古く、しかも暗くて陰気なのです。建坪だけでも百坪以上はあったでしょう。古い邸で、一部が二階になっているほかはあらかた平屋です。この二階建ての部分はあとで継ぎ足したものらしく、俗に“おかぐら”といって家相がよくないのは父も知っていたはずですが、ガレージが欲しいばかりに急いで越してしまったのです。怪異とまではいかないにせよ、この家に怪しい影がついて回ったのもそのせいではなかったかと思います。 |
なお、“おかぐら”とは「御神楽」で、平屋だったものを、あとから2階を継ぎ足したもので、一階と二階には別々に作り、通し柱はありません。
金語楼社の住所は矢来町34番地でした。ここが自宅の住所だとすると、
色川武大氏の『寄席書き帖』によれば
私の生家のある牛込矢来町では、金語楼は特別な意味あいで有名人だった。というのは彼の本宅が町内にあったから。刑務所のように背の高い黒板塀で囲まれた大邸宅で、私どもは学校の行き帰りに山下敬太郎という表札をみてはクスクス笑い合ったものだ。たしか息子さんが一級上ぐらいに居たと思う。 そうして、彼の妾宅が、附近に点在しているのを町の人々は皆知っていた。そのころの噂によると、金語楼は妾宅では、明治の元勲のようにいかめしい顔つきで口もきかずに酒を呑んでいたという。(略) 私が感心したのは、酒が手に入った夜に必ず現れる、ということだ。 Yさんの所ばかりではなく、町内の誰彼のところにも現れるらしい。当時、酒は貴重品で、やたらに誰のところでもあるわけではなかった。あっても他人に呑ませる的交際があったわけではあるまい。金語楼なら突然入ってきても歓待するということだったのだろう。 同級生からもこういう話をきいた。 「不思議なんだよ。今夜、二合あるとするだろ。誰も二合なんてしゃべらないのに、金語楼さんが来て、わァッと家じゅうをわかしてさ、二合が出たなッと思うと、すうっと元の顔に戻って、帰っていくんだ」 「呼んだわけでもないのに来るのかい」 「そうだよ。夕方、町をぶらついて気配を見てるんじゃないかい」 実にどうも、偉い。空襲でどこもかしこも焼けて、むろん自分の家も焼けて、日本が負けるかどうかというときにお酒一筋に気を凝らして、狙い定めてすうッと入っていく。 偉いともなんともいいようがない。兵隊落語や映画で感じていた俗な顔つきはあれは営業用のもので、本人は俗どころか、超俗的なものを持っている。 |
昭和20年5月25日、東京最後の大空襲でこの家は灰になりました。
数学体験館|東京理科大学
「数学体験館」は東京理科大が近代科学資料館の地下一階に作った数学の理論を体験するもの。人も少なく、しーんと静まった一階と比べて、地下一階の「数学体験館」には土曜には子供が非常に多く、家族連れが沢山います。将来的にはこちらを一階にする方がいいのではと思ってしまいます。
同館の館長は秋山仁氏。開設の目的は、いろいろありますが、要は教具・教材等を開発すること…といってしまうと、身も蓋もありません。他には高校までの理解を補う補習教育の強化、大学で数学の初年次教育を充実し、学内外に発信すること。でも楽しいのが多い。
同館は「数学体験プラーザ」が95%を占めています。「数学体験プラーザ」では小学校から大学の概念や定理、公式を学べる作品を常設展示。たとえばほかにはあまり見かけないものとして「区分求積法」。このアイデアを使った模型で面積を求めます。ただし、あまり面白くないようで、あまりやってはいませんでした。
よくあるものとして「2項分布パチンコ」。絶対に2項分布の通りには並びません。それを実体験します。(そうですよね)。また無数の球を上に持って行くのはあなたで、ほかの人はやってくれず、自分で綺麗にするのもあなた以外にありません。
「らせん木琴」は途中で球が止まると音も止まることや、音程が乱れることを除けば、綺麗な名曲…迷ではないぞ…が流れてきます。これはドアの外にそっと置いてあります。しかし、部屋の中では子供たちはわーわーと大喜び。土曜に行ったのがよかった。月曜から金曜ではこれだけの子供はいないと思う。
ほかには「数学工房」。これは数学的作品や教具、教材などを制作し開発する場所で、その成果を授業で活用します。「数学授業アーカイブス」は、DVDなどを視聴する場所。算数・数学の講義を、大型ディスプレイやオーディオ機器で学習できます。
こんな博物館はアメリカや香港では何十年も昔からやっていました。でも日本で国立博物館ではできないものでした。それが、ようやくできた。しかも100個ある。パチパチパチと拍手を送ります。
漱石と『硝子戸の中』14
『硝子戸の中』は大正4年1月13日に発表し、ほとんど毎日続き(1月31日、2月5日、12日は休載)、2月23日に終了した随筆です。
十四 ついこの間昔し私の家へ泥棒の入った時の話を比較的詳しく聞いた。 姉がまだ二人とも嫁づかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行ったやかましい頃なのである。 ある夜一番目の姉が、夜中に小用に起きた後、手を洗うために、潜戸を開けると、狭い中庭の隅に、壁を圧しつけるような勢で立っている梅の古木の根方が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇もないうちに、すぐ潜戸を締めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮かである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確した輪廓を具えている鼻、人並より大きい二重瞼の眼、それから御沢という優しい名、――私はただこれらを綜合して、その場合における姉の姿を想像するだけである。 |
勤王 江戸末期、佐幕派に対し、天皇親政を実現しようとした一派
佐幕 幕末、江戸幕府を支持した一派
一番目の姉 漱石の兄弟は、先妻「こと」の子供として「沢」「房」の漱石の姉2人と、後妻の「千枝」の子供として、大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直短)の兄3人がいました。一番目の姉なので「沢」です。「沢」と漱石とは21歳も違っていました。房は17歳年上でした。
潜戸 門の扉などに設けた、くぐって出入りする小さい戸口。 切り戸。くぐり
根方 木の根もと。下部
歯を染めた 歯を黒く染める習俗。お歯黒ともいいます。鉄くずを焼いて濃い茶に浸し、酒などを加えて発酵させた液で歯を染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしでした。
娘盛り 若い女性として最も美しい年ごろ。
御沢 姉は「さわ」です。
しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸を開けて外を覗こうとする途端に、一本の光る抜身が、闇の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後へ退いた。その隙に、覆面をした、龕灯提灯を提げた男が、抜刀のまま、小さい潜戸から大勢家の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数はたしか八人とか聞いた。 |
切戸 潜戸と同じです。
抜身 鞘(さや)から抜いた刀
龕灯提灯 強盗(がんどう)提灯とも書き、銅やブリキで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えません。
抜刀 刀を鞘から抜くこと。その刀
彼らは、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。 その事があって以来、私の家では柱を切り組にして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組にしてある柱かまるで分らなくなっていた。 |
軍用金 軍事上の目的で使う金銭。軍資金。幕末期に軍用金調達のための強盗や強迫事件は多かったといいます
小倉屋 酒屋。生け垣を隔てたお隣同士でした
不精無性 いやいやながら。現在は「不承不承」と書く
小判 江戸時代における金貨。
切り組 材木を切り組むこと。材木などを切って組み合わせる仕組み
泥棒が出て行く時、「この家は大変締りの好い宅だ」と云って賞めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦り傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。 私はこの話を妻から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話に聞いたのである。 |
締りの好い 倹約家。しまつや。
茶受話 茶飲み話
漱石公園と猫塚|早稲田
最初は昭和3年(1928)に立てられた一代目の猫塚です。まず夏目漱石氏が詠んだ句は
此の下に稲妻起る宵あらん(句番号2085。猫塚の裏に書いた句) ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚(句番号2380) 吾猫も虎にやならん秋の風(句番号2518) |
猫塚「吾猫も…」の猫は「吾輩は猫である」の猫と同じ猫かはわかりません。
夏目伸六氏の『父・夏目漱石』で「猫の墓」についてこう書いています。
確かに、この石塔は、私の母が、初代の猫を弔うために建てたのだけれど、実際を云うと、この猫だけを供養する積りで建てた訳ではないのである。というのも、今でこそ、戦火に焼かれて、その石面は、見分けのつかぬほどに焼けただれてはいるけれども、以前は、台石の表面に、猫をはさんで、犬と文鳥の3つの像が、仲良く刻み込まれていたのである。 |
一番目の塔は3つの像はあったといいますが、下のほうが何かがあったのでしょうか、何も見えないように見えます。ただし、いまあるものよりも立派な9重の塔で、屋根のむくりもあります。より荘重で、より墓らしい場所なのでしょうか。
母が、猫と犬と文鳥の遺骨を、1つにまとめて、すでに朽ちかけた墓標の代りに、九重の石塔を建てたのは、丁度、初代名無しの十三回忌にあたる年で、その台石の正面には、津田青楓さんの筆で、猫と犬と文鳥の像が、三尊式に、並んで彫りつけられていたのである。 |
ところが第2次世界戦争で大空襲になり、どこを見ても塵や灰だという状態になります。このとき、猫の塔は
(第2次世界大戦の跡で)その眼に、空襲当夜のすさまじい火焔と熱気を、まざまざと石面に刻んで、すっかりぼろぼろに、周囲の欠け落ちた猫の塔だけが、未だに倒れもせず、夕日を浴びて、隅の方に立っているのが眺められた。 |
現在の猫塚は二代目です。25年後の昭和28年、再度建立しています。
これで、荘重さはどこにもなく、墓らしくない場所になりました。新宿区の職員がつくったものでしょうか。
では1代目の猫塚の重要性といえば…1代目の猫の13回忌で夏目鏡子氏がつくったもの。不要性は…「吾輩は猫である」で有名な猫の死体がないこと。
本来の猫塚では困る点は…まあそうだよね、どうせ嘘だからと、しらけた気分になる。本来の猫塚で困らない点は…まあそうだよね、どうせ嘘だし、それもいいんじゃないの。
これまではほかを見るといっても他に見る物はなかったのが問題でした。2017年には張りぼての書斎と客間ができてきます。でも心の奥深くに猫塚は嘘だという叫びも実際ありますね。
まあ、「今回は」嘘の猫塚でもいいんじゃないの。「将来は」変更の可能性を探る。と、これはいかにも大人で、まあこれも嘘だな。
[硝子戸]
[漱石雑事]
漱石と『硝子戸の中』16
十六
宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪を刈つて貰った事がある。 平生は白い金巾の幕で、硝子戸の奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙を放り出してすぐ挨拶をした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後へ廻つて、鋏をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔し寺町の郵便局の傍に店を持つて、今と同じように、散髪を渡世としていた事が解った。 「高田の旦那などにもだいぶ御世話になりました」 その高田というのは私の従兄なのだから、私も驚いた。 「へえ高田を知ってるのかい」 「知つてるどころじゃございません。始終徳、徳、つて贔屓にして下すったもんです」 彼の言葉遣いはこういう職人にしてはむしろ丁寧な方であった。 「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚した調子で「へッ」と声を揚げた。 「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつ頃御亡くなりになりました」 「なに、つい此間さ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」 彼はそれからこの死んだ従兄について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。 |
宅の前 宅はこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。2つの説があるわけです。
一番の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園が始まります。
その先の坂を下りかけた左手が区立漱石公園。ここは「漱石山房」…漱石が最後に住んだ住居跡で(家は貸家だった)、中央に、漱石の胸像、右手後ろに石を積み重ねた猫の墓がある。これは漱石の死後、鏡子夫人が『吾輩は猫である』の主人公や犬、文鳥などを供養するために建て、戦災で焼けたのを修復したもの。これだけが当時をしのぶよすがとなっている。 ここで漱石は『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』などを次々執筆した。木曜日には弟子たちが集まって山房は文学サロンとなった。でも、園内はひと気もなくそんな面影はない。「漱石終えんの地」という文字ももの悲しい。本来なら漱石記念館などあってしかるべきなのに。 門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。 “宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度其処で髪を刈ってもらった事がある。” 見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」 |
第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり
当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。 |
第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと
“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である” 小宮豊隆の言っているこの家だ。 (中略) 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。 |
と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっていて、橋はなくなっていた場所が弁天橋の場所でした。
小川 名前がついています。「加二川」です。
金巾 平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・房の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。
「あのそら求友亭の横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉を継ぎ足した。 「うん、あの二階のある家だろう」 「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様から御祝ひ物なんかあつて、大変御盛でしたがね。それから後でしたつけか、行願寺の寺内へ御引越なすったのは」 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。 「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」 「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」 私は肴町を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋の角の細い小路の入口に、ごたごた掲げられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定して見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。 「なるほどそう云えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね」 「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家つてね。ちょうどそら高田の旦那の真向でしたろう、東家の御神灯のぶら下がっていたのは」 |
求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
寺内へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作)でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…
誰袖や待合らしき春の雨 (岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。) |
東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。
道草庵|漱石公園
道草庵は漱石や山房の資料を展示しています。
正面には漱石の書籍が復刻本で7冊並んでいます。
7冊について「春陽堂刊行『複製品』 夏目漱石著 橋口五葉 装丁」は全部同じです。
1.鶉籠 明治40年(1907)1月 『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』の三篇を収めています 2.草合 明治41年(1908)9月 朝日新聞に連載された『坑夫』と、「ホトトギス」に発表した『野分』の二篇を収めています 3.虞美人草 明治41年(1908)1月 朝日新聞社に入社して最初に書いた作品です。連載中に、ここ漱石山房に転居して来ました。 4.三四郎 明治42年(1909)5月 『それから』『門』へと続く三部作の第一作。一人の青年を通じて当時の欧化主義を批判して注目されました。 5.四篇 明治43年(1910)5月 『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところヾ』という四篇の短篇や紀行文を収めています。 6.門 明治44年(1911)1月 親友の妻を奪った主人公・宗助は、易者に過去の罪を指摘され驚きます。人の心の中に内在する罪の意識を描いた作品で、題名は小宮豊隆が命名しました。 7.彼岸過迄 大正元年(1912)9月 明治43年8月の修善寺の大患(胃潰瘍)を克服し、療養生活から復帰した漱石が、約2年ぶりに執筆した長篇小説。春陽堂からは最後の出版となりました。 |
橋口五葉は版画家・装丁家で、明治14年(1881)~大正10年(1921)。 本名 橋口清。鹿児島市生まれ。鹿児島中学卒業後上京し、橋本雅邦に入門します。黒田清輝の白馬会研究所で洋画を学び、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二らに師事しました。明治37年10月から、熊本で漱石に師事した実兄・橋口貢の推薦で「ホトトギス」に口絵・挿絵を掲載。翌年2月に『我輩は猫である』続編で挿絵を担当して漱石から賞賛され、単行本や「漱石山房」の原稿用紙のデザインを手掛けました。
また、壁のボードの正面は5枚並んでいます。左から
1.新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
2.主な作品
3.夏目漱石の生涯
4.漱石山房に集った人々
5.漱石山房に集った人々
主な作品
発表年 執筆年齢 作品
1905年 37歳 『我輩は猫である』
37歳 『倫敦塔』
1906年 39歳 『草枕』
39歳 『坊っちゃん』
39歳 『二百十日』
1907年 39歳 『野分』
漱石山房で執筆した作品
*漱石が早稲田南町の家(のちの漱石山房)に引越したのは、1907年9月。
40歳 『虞美人草』
1908年 40歳 『坑夫』
41歳 『夢十夜』
41歳 『文鳥』
41歳 『三四郎』
1909年 42歳 『それから』
1910年 43歳 『門』
1912年 44歳 『彼岸過迄』
45歳 『行人』
1914年 47歳 『こころ』
1915年 47歳 『硝子戸の中』
48歳 『道草』
1916年 49歳 『明暗』(未完)
夏目漱石の生涯。ここにはいろいろな活動を書いていますが、ここは写真だけ。(ダブルクリックで拡大)。テキストは別のHTMLで。
「漱石山房に集った人々」は2つに分けてリストされます。
高浜虚子を除き、全員東京帝国大学の生徒です。安部能成は文部大臣(これは驚き)や学習院院長を勤めあげています。 右側の壁には「猫塚」と「漱石山房」、「『漱石山房』に関する新宿区の取組み」が出てきます。
猫塚 漱石没後の大正8年(1919)、『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の十三回忌にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔。『文鳥』という作品で、その死が描かれた文鳥など、夏目家のペットの合同供養塔であった。 九重の層塔で、意匠は漱石作品の装丁も手がけた画家の津田青楓による。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元されたものである。 猫塚を清掃する早稲田小学校の児童たち(昭和42年12月9日) 「猫塚」復元除幕式 この写真は、昭和28年(1953)12月9日、漱石山房跡(現在の漱石公園)で行われた「猫塚」復元除幕式の様子を撮影したフィルムから構成したものです。戦災で倒壊した猫塚が、漱石の37回目の命日に再建されたもので、式典には鏡子夫人や長男の純一氏、弟子の小宮豊隆・安部能成らが出席しており、その姿がフィルムに収められています。 夏目 鏡子 明治10~昭和38年(1877~1963) 夏目漱石の妻。戸籍名はキヨ。貴族院書記官長・中根重一の長女として広島県に生まれる。 明治28年(1895)漱石と見合いをし、翌年熊本の第五高等学校に赴任していた漱石と結婚した。2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうける。漱石の没後、夫との生活ぶりを口述し、長女・筆子の夫で漱石の弟子でもあった松岡譲が筆録した『漱石の思い出』が出版されている。 |
漱石山房 夏目漱石は、明治40年(1907年)、早稲田南町に引越してきました。漱石は、この場で多くの有名な作品を生み、大正5年、49歳で「明暗」執筆中に亡くなるまで住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を「漱石山房」といいます。 「漱石山房」の家はベランダ式の回廊のある広い家で、奥に板敷きの洋間がありました。漱石は、この洋間に絨毯を敷き紫壇の机と座布団をしつらえて書斎としていました。 漱石は面会者がとても多かったので、面会日を木曜日と決め、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け入れました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所となり、漱石没後も彼らの精神的な砦となりました。 |
「漱石山房」の変遷と漱石公園の整備 |
3.「猫塚」復元除幕式の映像。ビデオです。見たい場合は頼んでみましょう。約20分。
4.小冊子。「漱石山房秋冬」と「漱石山房の思い出」はただでもらえます。ただし、残りは僅かだと聞いています。
神楽坂の通りと坂に戻る
漱石と『硝子戸の中』19
十九
私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂れ切ってかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。 |
馬場下 馬場下町で、東京都新宿区の町名です
宿場 江戸時代、街道の要所要所にあり、旅行者の宿泊・休息で宿屋・茶屋や、人馬の継ぎ立てをする設備をもった所。
高田の馬場 東京都新宿区の町名
朱引 江戸の図面に朱線を引いて、府内(江戸市内)と府外(郡部)を分けたもの。朱引内は江戸の管轄内、朱引外は管轄外です。馬場下はかろうじて朱引内(江戸市内)になっています(図)。一方、高田の馬場は朱引外です。
それでも内蔵造の家が狭い町内に三四軒はあつたろう。坂を上ると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などはその一つであった。それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過などに、私はよく恍惚とした魂を、麗かな光に包みながら、御北さんの御浚いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠たせて、佇立んでいた事がある。その御蔭で私はとうとう「旅の衣は篠懸の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。 |
近江屋 | 『吾輩は猫である』第7章でも「近江屋」は登場します。『猫』に出てくる爺さんの言葉を引用すると…
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御北さん | 『草枕』では「御倉さん」として登場します。
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内蔵造 土蔵づくりの家。土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った家屋。倉のように四面を壁で作った家屋。
薬種屋 薬を調合・販売する店。平成21年施行の改正薬事法で登録販売者制度が創設し、薬種商制度は廃止に。
小倉屋 延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694年)、二代目半右衛門の頃、堀部安兵衛は高田馬場の決闘の前に、小倉屋に立ち寄り升酒を飲みました。
渡辺翠氏の「高田馬場の仇討」では、江戸時代、米の酒は奈良でしか作られず、江戸では1升3万円かかったそうで(若松地域センター「地域誌 このまちに暮らして」平成9年)、芋酒を飲んだといいます。またこの升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
倉造り 土蔵づくりの家。内蔵造と同じ。
堀部安兵衛 赤穂事件四十七士のひとり。
枡酒 枡に盛って売る酒
長唄 古典的な三味線歌曲
篠懸 修験者が衣服の上に着る麻の法衣。この文言は長唄「勧進帳」の歌い出しです。
このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋も一軒あった。少し八幡坂の方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ場もあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋の仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際からいうと、まるで疎濶であった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄に過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水と好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞に聞いて覚えてはいるが、纏まった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立と帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度に挙げて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじだのがれんだのという符徴を、罵しるように呼び上げるうちに、薑や茄子や唐茄子の籠が、それらの節太の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。 |
棒屋 樫材の木工品を作る家。臼、まな板のみならず、大型水車や荷車も作りました。木工品ならなんでもつくったようです。
鍛冶屋 金属を打ち鍛え、諸種の器具をつくることを仕事とする人
八幡坂 高田町の坂。馬場下町から西北に向かいます。西に穴八幡神社があります。下は馬場下町と穴八幡幡神社を地下鉄早稲田駅前から見たものです。
やっちゃ場 青物市場のこと。「大言海」(昭和7-10年)によれば「やっちゃば」は「やさいいちば」から訛ったものではないかという。
貞水 講釈師真龍斎貞水のこと
矢立 硯と筆を一つの容器におさめた筆記用具。
ろんじ 六の合い言葉
がれん 五の合い言葉
どんな田舎へ行ってもありがちな豆腐屋は無論あった。その豆腐屋には油の臭の染み込んだ縄暖簾がかかっていて門口を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。 |
豆腐屋 | 『二百十日』では圭さんの幼時の経験として出てきます。
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鉦 | 中国・日本・東南アジアなどで用いられる打楽器。銅や銅合金製の平たい円盤状で、撞木や桴で打ちます。カンカンと鳴るようです。
ふたたび『二百十日』の圭さんの幼時の経験です。
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縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。転じて、居酒屋・一膳飯屋などのこと。
門口 家や門の出入り口
西閑寺 喜久井町にある誓閑寺のこと。今では小さな小さな寺になっています。誓閑寺の梵鐘は天和2年(1682)製作。区内最古の梵鐘です。文化財は2つあります。
御勤 おつとめ。御勤め。仏前で読経すること。勤行。
漱石と小倉屋|牛込馬場下
牛込馬場下の小倉屋は酒店で、延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業しました。
元禄7年(1694年)、小倉屋は2代目で、堀部安兵衛は小倉屋に立ち寄り、升酒を飲み、高田馬場の決闘に急ぎました。米の酒は奈良でしか作られない江戸時代、1升は今の金額で3万円。そこで芋酒を飲んだといいます(平成9年、渡辺翠氏『高田馬場の仇討』、若松地域センター『地域誌 このまちに暮らして』)。また堀部安兵衛の升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
う~ん、升に残った芋焼酎も金庫にねむっているわけで、なにか立派になった気がします。
辻 四つ辻。十字路
帛紗 方形の絹布。進物の上にかけたり物を包んだりする。茶の湯では、道具をぬぐったり盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。
さて『吾輩は猫である』第7章では「近江屋」が登場します。
「ゆうべ、近江屋へ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸の潜りの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずに行んだげな。御巡りさんか夜番でも見えたものであろう」と大に泥棒の無謀を憫笑した |
また、1907年(明治40年)の『僕の昔』では「小倉屋」がでています。
父親は馬場下町の名主で小兵衛といった。別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、あの交番――喜久井町を降りてきた所に――の向かいに小倉屋という、それ高田馬場の敵討の堀部武庸かね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいう桝を持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった。もう今は無くなったかもしれぬ。 |
1915年(大正4年)の『硝子戸の中』14でも「小倉屋」がでています。
(泥棒)は、他を殺めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今角の小倉屋という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。 (略)その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦り傷がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪られずにしまった。 |
『硝子戸の中』19でも小倉屋は登場します。
坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。 |
なお、小倉屋にはこれ以外のほかのアルコールもはいっています。特筆するものは、ここの商店会連合会の「地ビール早稲田」、早稲田大学・京都大学の「ホワイトナイル」ビール、「ブルーナイル」ビール、吟醸酒「夏目坂」と吟醸酒「高田馬場 堀部安兵衛」などです。
神楽坂の通りと坂に戻る
漱石と『硝子戸の中』20|矢来町
二十
この豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢幻のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。 その席亭の主人というのは、町内の鳶頭で、時々目暗縞の腹掛に赤い筋の入った印袢纏を着て、突っかけ草履か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤さんという娘があって、その人の容色がよく家のものの口に上った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後には養子を貰ったが、それが口髭を生やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。 この養子が来る時分には、もう寄席もやめて、しもうた屋になっていたようであるが、私はそこの宅の軒先にまだ薄暗い看板が淋しそうに懸っていた頃、よく母から小遣を貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の家はどこにあったか知らないが、どの見当から歩いて来るにしても、道普請ができて、家並の揃った今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を逞ましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし 花魁え、と云われて八ツ橋なんざますえとふり返る、途端に切り込む刃の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教わったのか、それとも後になって落語家のやる講釈師の真似から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。 |
人寄場 日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。
鳶頭 土木・建築工事に従事する人の長、かしらです。明治以降も消防職員の俗称として使われました。
目暗縞 経糸緯糸とも紺染めにした最も細かい綿糸で織った無地の木綿の織物です。
印袢纏 襟・背などに,家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から,職人などが着用しました。
突っかけ草履 草履を足の指先にひっかけるようにして無造作に履くこと。
しもうた屋 仕舞た屋 (シモタヤ)と同じ。商店でない、普通の家。
南麟 講釈師の田辺南麟
見当 大体の方向・方角
道普請 道路を直したり、建設したりすること。道路工事
家並 立ち並んでいる家。その並び方。家ごと。どの家もみな。軒並み。よその家と同じ程度。世間なみ。
もうし 申し申し。もうしもうし。人に呼びかける時に用いる語。もしもし。
花魁 吉原遊廓の遊女で最高妓。広く遊女一般を指して花魁ということもある。
八ツ橋 元禄年間(1688~1704)百姓次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を殺した事件があった。多くの講談や戯曲になった。岩波書店の漱石全集によれば、「野州(栃木県)佐野の百姓次郎左衛門が江戸吉原大兵庫屋の花魁ハツ橋を殺害した江戸享保頃の事件は、『佐野八ツ橋』と称されて多くの小説や戯曲に作られた。ここで述べられているのは、その話を講談に仕組んだもの。歌舞伎脚本『籠釣瓶花街酔醒』(三世河竹新七作。明治二十一年初演)が有名。」
講釈師 軍談や講談の講釈を職業とする人。講談師。軍談師。小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げること
当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠とか、竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。 |
矢来の坂 もちろん、牛込天神町交差点から東に上がって南に牛込中央通りがでるまでの通りですが、ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では違ったことが書いてあります。
滝の坂(たきのさか) 早稲田通から榎町四〇と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。現矢来町一帯は、江戸時代は小浜藩主酒井氏の邸地で、明治維新後に分譲されて住宅地帯となった。……矢来の坂というのは現早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。 |
しかし、子供の漱石が「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出よう」とする場合、滝の坂だとすると方向は全く違います。やはり矢来の坂というのは現早稲田通り、交差点「牛込天神町」の坂のことでしょう。これから上に行って酒井様の火の見櫓を通るのでしょう。
酒井様の火の見櫓 どこにあったのでしょうか。江戸時代の地図(上を見て下さい)を見ると、まず穴あき四角で書いたものは「自身番屋」です。自身番は町内警備と火の番を主な役割としています。火の見櫓もここに建てました。その後の文章で「町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった」を読んでも、ここ「自身番屋」でしかありません。自身番屋は末寺横丁と矢来下の交叉するところにありました。
寺町 「通寺町」と「横寺町」の2つをまとめて呼びます。ただし、通寺町を簡易にして寺町と書く場合もあったようです。自身番屋を越えると、まっすぐだと通寺町から神楽坂に行き、右に曲がると横寺町です。漱石の時代では通寺町ですが、今では通寺町は神楽坂6丁目に名前が変わっています。なお、自身番屋の左側は「矢来町」、右側は「通寺町」です。
五六町の一筋道 5町は545メートル、6町は655メートルです。交差点「牛込天神町」から真っ直ぐ行って曲がるまで、つまり音楽の友ホールの前で曲がるまで、約470メートルです。現在は早稲田通りの道幅は大きくなって、さんさんと太陽が照り、陰惨ではないでしょう。しかし、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)ではこう書いています。
酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったか、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治三十五年九月定期増刊号)につぎのように書いている。 “樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。” |
あの土手の上に二抱も三抱えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間隙間をまた大きな竹藪で塞いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄などを穿いて出ようものなら、きっと非道い目にあうにきまっていた。あすこの霜融は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染み込んでいる。 そのくらい不便な所でも火事の虞はあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋もおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾の隙間からあたたかそうな煮〆の香が煙と共に往来へ流れ出して、それが夕暮の靄に融け込んで行く趣なども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木哉」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。 |
日和下駄 もとは平足駄と呼んで、歯が低い足駄。晴天に使用された。
半鐘 火の見櫓ではよく見られる小型の釣り鐘。
一膳飯屋 一膳飯(盛り切りの飯)を食べさせる簡易食堂。
縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。なわのれん。店先に縄暖簾を下げたところから、居酒屋や一膳飯屋などのこと
煮〆 にしめ。煮染め。根菜・いも類・干ししいたけ・鶏肉・高野豆腐・こんにゃくなどに、しょうゆを主に砂糖・みりんなどで味つけした煮汁をしみ込ませ、煮汁の色がつくまで時間をかけて煮た、味の濃い煮物。おせちにも使う。
趣 おもむき。風情のある様子
半鐘と並んで高き冬木哉 明治29年(1896)の作。
鏑木清方と矢来町
鏑木清方は生年は1878年(明治11年)8月31日、没年は1972年(昭和47年)3月2日で、死亡日は94歳でした。明治から昭和期の日本画家、兼浮世絵師でした。
大正15年(48歳)からは矢来町に住み、昭和2年、最高の名作『築地明石町』で帝国美術院賞を受賞します。しかし、昭和20年(67歳)、空襲で家をなくし、鎌倉に移っていきます。
さて矢来町の住所はどこにあったのでしょうか。鏑木清方自身が書いた『続こしかたの記』(中央公論美術出版)では
この所在は神樂坂から通寺町を経て、道はやがて北へ下りて矢来下に續かうとするところに交番が立つ。矢来の交番は、この付近の目標になった。その一と小路手前を左へ折れると道はやがて小高く、その右側北下りの崖上に立つのがわか家である。明治建築の洋風の應接室、それに續いた二階座敷が庭樹を越して通りから見られる。その建物とのつりあひはよく取れるが、私の住居としてはふさはしからぬ花崗石の大きい門柱が聳え立つので、わか家を訪ねる人の多くがこの石門を話題にした。台湾銀行理事久宗董の舊邸であって見れば無理はないが、どういふものか私は石の門柱に縁があって、それまで住んだ龍岡町の借家にも細いけれどやはり御影の石柱が立ってゐた。中外商業の記者外狩素心庵は矢来の家の門柱を気にして一文をかいたこともある。 |
通寺町は神楽坂6丁目に変わりました。交番は現在も同じ場所にあります。
その一つ前を曲がって、左側に行き、やがて崖になるところは赤で示しました。写真も出しています。
地図の上から下に説明しているので、鏑木氏の住宅は道路の西側(左側)になります。崖の直上と書いていますので、地図上では現在の雨森歯科の「雨」の下にあるのでしょう。もしこの住宅が本当にそうだとすると、説明板をつけるとか、できなかったのでしょうか。(令和になってようやく碑ができました。)なお、地図の下の「山里」とは当時使った字(市町村内を細分した区画の名)です。
漱石と『硝子戸の中』21
二十一
私の家に関する私の記憶は、惣じてこういう風に鄙びている。そうしてどこかに薄ら寒い憐れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出な暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。 その頃の芝居小屋はみんな猿若町にあった。電車も俥もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半に起きて支度をした。途中が物騒だというので、用心のため、下男がきっと供をして行ったそうである。 彼らは筑土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期に充ちた心をもって、のろのろ砲兵工厰の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。 |
猿若町 江戸末期の芝居町。現在の東京都台東区浅草6丁目。ここには江戸三座(中村座、市村座、森田座)を初めとして常設の芝居小屋がありました。しかし明治政府は三座に移転を勧告し、関東大震災でほぼなくなります。
浅草の観音様 東京都台東区にある浅草寺の通称
きっと 屹度、急度。話し手の決意や強い要望などを表す。確かに。必ず。
筑土 東京都新宿区にある地名。津久戸町なのか、または筑土八幡町なのか、明治8年の地図のように「つく土前丁」なのか、はたまた、大まかにここいら全体を指すのでしょうか。おそらく全体を指すのでしょう。
柿の木横町 『新宿区町名誌』では「(揚場町と)下宮比町との間を俗に柿の木横町といった。この横町の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があった。幹の周囲一メートル、高さ十メートルの巨木で、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞讃したので有名になり、そのことから名づいた」
揚場 船荷を陸揚げする場所。以上を明治8年の地図を使って書いています。
砲兵工厰 陸軍造兵廠の旧称。陸軍の兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した軍需工場。東京砲兵工厰は広大な土地を所有し、高速道路の飯田橋を越えたところから、白山通りの水道橋交差点まで川から見えるものはすべて砲兵工厰でした。このなかには小石川後楽園もはいっていました。しかし一般には公開されず、国家的な慶事の場合や、公的な園遊会の場合にのみ使っていました。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は後楽園球場となりました。
御茶の水 東京都千代田区北部(神田駿河台)から文京区南東部(湯島)にかけての地名。行政名ではありません
柳橋 東京都台東区南東部の地名。柳橋はAで書いてあります。ようやく船の中間地点になったのです。柳橋は船宿があり、芸者町でもありました。
大川へ出た船は、流を溯って吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍に着けたものだという。姉達はそこから上って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間に限られていた。これは彼らの服装なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。 |
大川 東京都を流れる隅田川で吾妻橋から下流の通称
吾妻橋 隅田川に架かる橋のひとつ
今戸 東京都台東区北東部の地名。隅田川西岸の船着き場として栄えました。
有明楼 今戸橋のたもとにありました。成島柳北『柳橋新誌』(刊行は1940年)では
江戸の開府以来、都下の名妓で容色は絶倫、技芸にも通ぜざるなく、名を草紙紙に伝え、跡を芝居に残すものは数知れぬほど多い。しかし、現今はしからず、一統みな拮抗して、一人として群を越えて抜きんでた女人がいない。 強いて一人を挙げてみれば、両国橋東のお菊といえようか。かれに傾国の容色、絶世の技芸があるわけではない。かよわい女手で隅田川の西に宏大な料亭を営み、扁額をあげて有明楼という。有明楼の名は都下に鳴り響いている。豪興の士も風流の客も、この楼閣に遊ばぬものはない。 |
芝居茶屋 江戸から明治・大正期まで劇場付近で観劇客に各種の便宜を供した施設。江戸の芝居見物は早朝から夜までかかり幕間も長く、快適な観劇を望む客は多く茶屋を利用しました。また桟敷などで観劇するためには茶屋を通すほかなかったといいます。芝居茶屋の構造は2階建て。軒にのれん,提灯がかかり,内部の座敷が表から見える造りになっています。観劇のため早朝芝居茶屋に到着した客は休憩後茶屋の草履をはき劇場の桟敷席に案内しました。
高土間 観客席が枡形式の時代の劇場では1階の東西桟敷の前通りに、土間より一段高く設けられた席。
幕の間には役者に随いている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬の模様のある着物の上に袴を穿いた男の後に跟いて、田之助とか訥升とかいう贔屓の役者の部屋へ行って、扇子に画などを描いて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。 帰りには元来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心だからと云って、下男がまた提灯を点けて迎に行く。宅へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半から夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。…… こんな華麗な話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。 もっとも私の家も侍分ではなかった。派出な付合をしなければならない名主という町人であった。私の知っている父は、禿頭の爺さんであったが、若い時分には、一中節を習ったり、馴染の女に縮緬の積夜具をしてやったりしたのだそうである。青山に田地があって、そこから上って来る米だけでも、家のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂く音を始終聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関玄関と称えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒や、袖搦や刺股や、また古ぼけた馬上提灯などが、並んで懸けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。 |
田之助 三代目沢村田之助。歌舞伎俳優。1845~78年。人気役者でした。
訥升 三代目沢村訥升。歌舞伎俳優。1838~86年。
侍分 武士階級
名主 領主の下で村政を担当した村の長。身分は百姓だが、在地有力者が多い
一中節 三味線の一流派。浄瑠璃節の一種。
縮緬 表面に細かいしぼ(凹凸)のある絹織物
積夜具 遊郭で、馴染客から遊女に贈られた新調の夜具を店先に積んで飾ったもの
三番目の兄 直矩です。9歳年上。
式台 玄関先に設けた板敷きの部分
玄関付の家 江戸時代、町人階級では名主だけが玄関を作ることを許されていた。
突棒、袖搦、刺股 捕手が下手人を捕らえるために使った3つ道具。捕具
馬上提灯 乗馬で使う提灯。丸形で、腰に差すように長い柄がある
矢来屋敷 矢来公園 石畳と赤城坂[昔] 駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 魚浅 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 寺内公園 神楽坂5丁目 4丁目 3丁目
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漱石と『硝子戸の中』23
二十三
今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪して帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来の方まで延びていた。 |
喜久井町 東京都新宿区の町名。新宿区ではかなり大きな町で、早稲田から柳町に行く場所のほぼ半分を占めています。昭和22年の地図で見れば、右下は「市谷柳町」で、それから左上に行くと、「原町」の「1丁目」、「辨天町」(現在は弁天町)があり、その上に「喜久井町」、夏目坂を通り、「馬場下町」、それから「高田町」に行きます。なお、現在は「高田町」はありません。
私の生れた所 酒店・小倉屋を南東に向かって歩くとすぐに「夏目漱石誕生之地」の石碑があります。
漂浪 さまよいあるくこと。放浪
根来 江戸時代には弁天町と原町1丁目の代わりに根来町があり、そこには根来組という先手組屋敷があり幕府の鉄砲隊の1つでした。現在は新宿区弁天町と原町1丁目の一部で、南東部にあります。これは江戸末期の牛込弁財町絵図です。
私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出す懐かしい響を私に与えてくれない。しかし書斎に独り坐って、頬杖を突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想が、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく彽徊し始める事がある。 |
縁故 えんこ。血縁や姻戚などによるつながり。人と人とのつながり。よしみ。縁
彽徊 一つの事をつきつめて考えずに、余裕のある態度でいろいろと思考すること。
この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。 私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、厭な心持は疾くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。 |
定紋 家で定まった正式の紋
井桁に菊 図を
父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。 |
夏目坂 坂の下は早稲田通りと交わる点です。早稲田通りは都道なので、区道はそこで終わりです。
では、坂の上は? まず区はどういっているのでしょうか。残念ながら区は「夏目坂通り」についてしかいっておらず、「夏目坂」についてはなにもいっていません。ちなみに「夏目坂通り」はここから南の若松町交差点にいたる坂道をいっています。しかし、昔の「夏目坂通り」を見ると通りの幅は狭く、途中で90度も曲がっています。
結局、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』の122頁の図が最もいいのでしょう。これは、夏目坂通りが南に流れを変えるその地点、三叉点までを夏目坂とするものです。はい。
しかし、まあ、夏目坂の上をはっきり言うなんて困難なのです。坂は正確にどこで、どうやって終わるのか、わかりません。なお、夏目坂について標柱があり、説明もあります。
夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになった。 |
私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居に移る前、家を探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦が少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表から覗くと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が懸っていた。私は昔の早稲田田圃が見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。しかしその痕迹はどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当は、当っているのか、外れているのか、それさえ不明であった。 |
早稲田田圃 早稲田は昔田んぼが広がっていました。神田川がよく洪水をおこすので早く収穫できる早稲種を植えたといいます。この写真は早稲田の田圃と東京専門学校(のちの早稲田大学)の校舎です。
茶畠 茶の木を植えた畑。茶園
私は茫然として佇立した。なぜ私の家だけが過去の残骸のごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれが崩れてしまえば好いのにと思った。 「時」は力であった。去年私は高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗に取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。その傍には質屋もできていた。質屋の前に疎らな囲をして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児のようになっていたが、どこか見覚のあるような心持を私に起させた。昔し「影参差松三本の月夜かな」と咏ったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。 |
高田 高田町は馬場下町に接してその西北部でした。 穴八幡神社があるので有名です。 先ほど見た地図は、昭和22年に製作したので、 この地図に高田町はちゃんと載っています。 1975年(昭和50年)6月、新しい住居表示の ため消滅し、現在は西早稲田二丁目の一部に なっています。
三本の松 『草枕』の第七章にでてきます。
小供の時分、門前に万屋と云う酒屋があって、そこに御倉さんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚いをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好を形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺のようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、苔深き地を抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独り匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかに膝を容るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠を睨めて、この草の香を臭いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。 |
影参差松三本の月夜かな 漱石自身の俳句です。明治28年の作
参差 参差とは長短・高低入り混じり、ふぞろいな様子
夏目漱石誕生の地|早稲田
三角形の大きな石碑には「夏目漱石誕生之地」、その左側に小さく「遺弟子安倍能成書」と書いてあります。
また、石碑の下部には
夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者文豪として不滅の業績を残し大正5年(1916)12月9日新宿区早稲田南町七において没す 生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ |
また右側には
昭和41年2月9日 夏目漱石生誕百年記念 新宿区建之 |
また説明板もあります。
新宿区指定史跡
夏目漱石誕生の地
所 在 地 新宿区喜久井町一番地
指定年月日 昭和六十一年十月三日 文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の5男3女の末子としてこの地に生れた。
夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。 なお、この地での幼少時代のことは大正四年に書かれた随筆『硝子戸の中』に詳述されている。 また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。 平成3年11月 東京都新宿区教育委員会
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喜久井町|夏目漱石
明治20年の喜久井町の地図を見ていきましょう。相当に広く、しかも原っぱなども多くなっています。番地は1番地から36番地までが右側で、下に行くほどその番号は大きくなり、それから、道の反対側に行き、上って、37番地から67番地まで行きます。
この番号は少なくとも東京ではありふれた付け方です。アメリカでも同じような順番です。
喜久井町の名主は夏目家です。夏目家は1番地に住んでいました。この地図で1番地はピンクで書いてあります。
『まちの手帳』17号の「生家跡在住 加藤利雄さんに聞く。早稲田・喜久井町と夏目家」で谷口典子氏はこう書いています。
明治三十年に漱石の父が亡くなると、兄直矩は家作百五十坪を、永田町に住む天谷永孝氏に八千二百五十円あまりで売却、神楽坂の寺内に移り住み、喜久井町と夏目家の関わりはここで途絶えた。その後、旧夏目家の母屋は下宿屋(明月館)となった。大正初年頃、その母屋が取り壊され、下宿が建て替えられつつあるのを偶然目にした漱石は、夏目家の三本の松が、変な形に刈り込まれていることに気がつき、感慨を深くしている。(中略) 昭和二十一年、国語の先生から喜久井町のどこかに漱石の生家があったことを教わり探索をはじめたのが、現在生家跡に住み、地域と漱石の絆を深める活動を続けておられる加藤利雄さんである。当時早稲田中学四年だった加藤少年は、同じ町内の友人とその場所を探すうちに、加藤家のはす向かいで代々大工を営む大倉老人と知りあい、「それは、今、あんたんちがある場所だよ」と教わる。 「あんたんちの裏にレンガ造りの壁があるだろう。あれは、夏目さんちの土蔵跡だよ。夏目さんの後に住んだ人が住居に改造して使っていたんだ。金之助(漱石)さんは私より五~六歳年上だったが、子供の頃よく遊んでもらったもんだ。大変ハイカラな人で、またガキ大将で近所の子供を集めては当時、珍しかった野球道具をそろえて戸山ケ原で野球をやったもんだ。白絣に紺の袴、高下駄をはいて本郷の帝大まで歩いて通っていたのが今でも目に浮かぶ。絵が得意だったようで、よく写生なんかしていたが、帝大に通っていたころ私を描いてくれた肖像画を大事に保存していたが、この戦災で焼いてしまったよ」(中略) 夏目坂に沿って1軒ずつ割り振ってつけた番地がいまも使われている。千坪のお屋敷跡に、五十軒近くの家が建てられているのだから、漱石は知ったら「気が利かぬ」と笑うことだろう。昭和四十一年、喜久井町1番地、すなわち「漱石生家跡」の1画を加藤氏が提供、そこに新宿区による石碑が建てられ、除幕式には漱石の長男次男夫婦と弟子の安部能成が出席した。 |
江戸時代、喜久井町の屋敷には松平越後守が住み、また、普通の町もありました。明治になると、屋敷は野原に変わりましたが、普通のお店や酒店は江戸時代同様栄えていきます。
一方、漱石は1907年(明治40年)の『僕の昔』で……
ちょうど、今、あの交番――喜久井町を降りてきた所に――の向かいに小倉屋という…酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった。もう今は無くなったかもしれぬ。 |
この「そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった」というのは、1番地ではない感じです。何か違っているような気がしますが、しかし、これ以上なにもいえません。
また、『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)では、実際の地図が出ていますが、あくまでも想像図でしょう。やはり『僕の昔』とは違っています。右下の地図には「同馬場下横丁」と出ているだけです。
神楽坂の通りと坂に戻る
夏目漱石
漱石公園|早稲田
まず全体を示します。建物の南側しか入ることは出来ません。
東西線の早稲田駅か大江戸線の牛込柳町駅から歩いていくことになります。南側正面の漱石公園の写真は下に。①は「新宿区立 漱石公園」です。
②漱石の胸像。中央は「夏目漱石」。右は「則天去私」。意味は、天地の法則に従い、私心を捨て去ること。夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉。「そくてんきょし」と音読するか「天に則私を去る」と訓読するようです。
左は読めませんが、後ろに回ると解説があり、
漱石は慶応3年(一八六七)二月九日、この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)に生まれた。明治四十年九月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、大正五年(一九一六)十二月九日、数え年五十歳で死去した。 この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。 なお、表の漱石直筆の俳句は 「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」 と読む。 |
この公園は文豪夏目漱石の終焉地です。 誰もが、快適に過ごせるように、先のことは禁止しています。 車輌の乗入れ 花火・爆竹 夜闇に騒ぐ 寝泊り たき火 飲酒に伴う迷惑 タバコを吸う 動物へえさやり 犬を入れる 糞の放置 球技 |
漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか? |
❶ 誕生の地 新宿区指定史跡 新宿区喜久井町1(当寺:牛込馬場下横町) 漱石は慶応3年(1867)、当時の牛込馬場下横町に生まれました。現在その地には、生誕100年を記念した石碑が建てられています。石碑の題字は弟子の安部能成の筆によるものです。
❷ 夏目坂 ❸ 小倉屋 新宿区馬場下町3 ❹ 誓閑寺 新宿区喜久井町61 ❺<現在地> 終焉の地 新宿区指定史跡 新宿区早稲田南町7 ❻ 漱石旧居跡 *現在はありません ❼ 神楽坂 新宿区神楽坂1~6丁目 ❽ 和良店亭 *現在はありません ❾ 田原屋 *現在はありません ❿ 善国寺(毘沙門天)新宿区神楽坂5-36 ⓫ 相馬屋 ⓬ 東京理科大学 (旧)東京物理大学 新宿区神楽坂1-3 |
夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。
新宿ゆかりの明治の文豪 漱石の書斎の様子 |
⑥ベランダ。ただの張りぼてです。なんかなあ。
⑦「道草庵」。遠くに猫塚も見えます。「道草庵」は別にここで。小冊子2冊をタダでもらえます。
⑧猫塚と漱石終焉の地
(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定史跡 夏目漱石終焉の地 所 在 地 新宿区早稲田南町七番地
指定年月日 昭和六十一年十月三日
東京都新宿区教育委員会
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猫塚について。これは漱石没後の大正8年(1919年)、『我輩は猫である』のモデルとなった猫の13回忌にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔です。残念ながら『我輩は猫である』の猫ははいってはいませんが、夏目家のペットの合同供養塔です。九重の層塔です。層塔とは屋根が幾層にも重なっている塔で、三重の塔や五重の塔などで有名。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元されたもので、九重の塔としては昔の方がよかった。
⑨ トイレです。
なお、この公園を前に行く道路は「漱石山房通り」といいます。漱石公園には2つの出入り口があり、西からの出入り口に標柱があります。
矢来公園
矢来公園です。昭和44年に開園しました。
はいるとすぐに、リスの親子の像があり、その隣りに「小浜藩邸跡」と「杉田玄白生誕地」の記念碑があります。この碑は平成16年(2004年)、建立し、式典では酒井家19代目、玄白の6代目の子孫も出席しました。
標柱には
小浜藩邸跡
杉田玄白生誕地 寄付者 小浜市 中島辰男
設置社 福井県 小浜市 |
中島辰男氏は前福井県県立若狭歴史民俗資料館長です。
小浜藩邸跡 若狭国(福井県)小浜藩主の酒井忠勝が、寛永5年(1628)徳川家光からこの地を拝領して下屋敷としたもので、屋敷の周囲に竹矢来をめぐらせたことから、矢来町の名が付けられました。 もと屋敷内には、小堀遠州作になる庭園があり、蘭学者として著名な杉田玄白先生もこの屋敷内で生まれました。 |
公園には子供の遊ぶ「砂遊び」の場所も決まっています。犬や鶏の糞が入らないよう(これはいいのですが)小さな小さな小さな小さな砂場です。
また、「雨水貯留・浸透施設」もあります。
酒井家矢来屋敷|矢来町
矢来町については別に書き、ここでは矢来屋敷を書いています。寛永5年(1628)、徳川将軍家より小浜藩酒井家は牛込矢来屋敷を拝領しました。
小浜藩 若狭)国(福井県)遠敷郡小浜に置いた藩。
安政4年(1857)から幕末までの矢来屋敷は下図の通りでした。北側が上です。この時代、小浜藩の上屋敷(右下の御上屋敷)と下屋敷(それ以外)が接近して建っています。黄色で書いた場所は御殿表向(政務や公式行事を行う場所)、赤は奥向(藩主の私的な場所)です。他の茶色で書いた場所は家臣や武士の長屋が多く、ほかにもいろいろなことを行いました(たとえば学問所)。
この図は新宿歴史博物館の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』(2010年)を参考にして作ったものです。博物館のものは無断転載ができませんので、この文書を参考にして新たに自分で作りました。間違いと思われる場所はなおしています。ダブルクリックするとpdfでも簡単に手に入ります。どうぞ使って下さい。
また竹矢来も×で書きました。ただし、この「竹矢来」は37頁の「下屋敷図」(1697年)の竹矢来を拡大したものです。
『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』31頁の「竹矢来図」(1837年)(↓)は、約140年も月日がたったため、全く普通の竹垣や門が描かれています。
「新撰東京名所図会」では酒井家矢来屋敷について「藩邸の坂 三条あり、辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂」があるといっています。この辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂がどこにあるのか、その所在はわからなくなっています。
中央やや右寄りで上下の道路は「牛込中央通り」とほとんど一緒です。
芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)では
酒井邸の庭園は、築山山水式の優れたものであったが、戦後なくなった。旧庭園の様子は「名園五十種」にでている。 |
この「名園五十種」は自宅のインターネットを使って国立図書館から無料で見ることができます。発行は1910年(明治43年)、編集は近藤正一氏です。ごく一部を紹介すると
矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。 弥生の朝の風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。唯見る門内は一面の花で、僅にその破風作りの母屋の屋妻が雲と靉靆く桜の梢に見ゆる所は土佐の絵巻物にでも有りさうな樣で如何にも美い………(中略) 如何にも心地の好い庭である。陽気な…晴れ晴れとした庭である。庭というものは樹木鬱蒼として深山幽谷の様を移すものとのみ考えている人には是非この庭を見せてやりたく思うた。 |
では『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』に戻ります。
酒井讃岐守忠勝が、三代将軍家光から牛込村に下屋敷を貰ったのは、寛永5年(1628)3月であった。周囲に土手を築き、表門の石垣から東の方42間(約83メートル)、西の方263間(約510メートル)を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになった。これは寛永16年(1639)江戸城本丸の火災で、家光がこの下屋敷に難を避けた時に、まわりに竹矢来をつくり、御家人衆は抜身のやりをもって昼夜警護したことによるのである。 それ以後酒井讃岐守忠勝は、これを永久に記念するために垣を造らず、塀を設けないで竹矢来にしたのである。その結び放した繩も、紫の紐、朱のふさ、やりとを交差した最初の名残りであるといわれ、江戸の名物の一つとなっていた。なお家光が、初めて酒井邸に立ち寄られたのは寛永12年8月22日で、以来数回訪問されたことがある。 矢来町71番地あたり一帯は、明治末期まで、ひょうたん形の深くよどんだ池であった。これを「日下が池」とか「日足が池」とも書いて「ひたるがいけ」と読ませていた。長さが約108メートル、幅約36メートル、面積80坪(26.4アール)であった。池の周りには、沢桔梗、芦葦などが繁茂していた。これに長さ約12.6メートルの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられたのである。 |
いまではひたるが池は干上がり、池があったと分かりません。残るのは階段だけですが、確かに深くよどんだ池だったのでしょう。
明治になると、この巨大な酒井家の屋敷の敷地は縮小、南側だけになっていきます。最後の庭も戦後には日本興業銀行の社宅になり、統合のため、みずほ銀行社宅「矢来町ハイツ」になりました。コメントの指摘により、日本興業銀行の社宅になったのは昭和24年以前だと思えます。矢来町ハイツの門の場所には「造庭記念碑」が建っています。
『名園五十種』にかかれた明治43年の酒井邸の庭園は遠州流で、武家茶道の代表です。茶室は江戸中期の書院造りで、幕末に水屋・手前席などを増築したものです。茶室は林丘亭として杉並区立柏の宮公園にあり、牛込屋敷が日本興行銀行の社宅となった時に当時の頭取がここに移築しました。
一水寮|横寺町
一水寮は民家の歴史的建造物で、登録有形文化財に登録されています。2003年、『神楽坂まちの手帖』創刊号の「鈴木喜一的路地裏魅力」でこの一水寮の持ち主だった鈴木喜一氏は
毎朝9時直前、ガラガラと自宅の勝手口の戸を引き、寝ぼけまなこで横寺の細い路地に出る。路地に出て正面に見えるのが、山田さん宅の庭の木々たちと下見板張りの二階屋。30歩進んで、この庭のもみじを間近に観察する。ここを左に折れると、知る人ぞ知るクランク状の細い路地、名づけて「鍵型もみじ路地」。僕はいつもストレッチがわりに、両手を思いきり二度、三度、広げながらここを通る。ちょうど両手を広げると、両サイドの家の壁にぶつかる程度の狭さ。実はこの「狭さ」が路地の面白さなのだ。例えば、角で人とすれちがうとき、ぶつかりそうになって、どちらからともなく「すっ、すっ、すみません」などと謝ったりしていてなんとなく微笑ましい。 この狭い通りを抜けると斜向かいに見えるのが木蓮の家。僕はこの家のある通りを「もくれん通り」と勝手に呼んでいる。春先には白いぽわっとした花を咲かせ、一時、僕はうっとりする。このまちに住んでもうかれこれ27年。僕は「神楽坂らしさ」というのは、やはりこの迷路のような細い路地につきるな、と思う。 |
下見板 したみいた。壁の横板張りで、お互い少しずつ重なり合うように取り付けた板。
下見板張り 下見板を用いた板壁や張り方
クランク 直角の狭いカーブが二つ交互に繋がる道路。下図では水色の道路
鍵型 かぎがた。鉤のように、先端が直角に曲がった形
木蓮 モクレン科の落葉低木または亜高木。春先、紫色の6弁花を上向きに開く。マグノリア。
「もくれん通り」ではなく、明治時代は「末寺横丁」と読んでいたそうです。
粋なまち倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』では
一水寮(国登録有形文化財、非公開)一水寮は新宿区横寺町に、高橋事務所の大工寮として昭和26(1951)年頃に建てられたものである。(中略)一水寮は、贅を凝らした建築ではないが昭和20(1945)年の空襲で壊滅的な被害を受けたこの一帯に、いち早く建てられ、復興の一翼を担ったものであり、現在となっては、数少ない貴重な現存する建物ということができるだろう。また、横寺町の昭和20年代の建物が3軒並ぶ神楽坂の裏通り(通称・よこみち通り)の景観に大きく貢献しているということもできる。 |
で一水寮の写真です。
朝日坂|神楽坂公衆食堂
神楽坂公衆食堂
正蔵院を越えると、現在は「割烹 とよ田」ですが、昔は神楽坂公衆食堂でした。168席が入るので実際に大きな場所を使っていました。ここは西村和夫氏の『物理学校意外史』で
大正の始めは日本中に不景気の風が吹き荒れていていた。大正7年米騒動のあと東京市は[1919年(大正9年)に]貧民救済として横寺町に神楽坂公衆食堂を開設した。食堂では朝飯10銭、昼夜15銭、市民に支給し、この安値に1日、3000人のプロレタリアートと学生が集まった。神楽坂の色町と対照的に明暗を分けていた。 |
うどんは種物15銭、普通10銭。牛乳1合7銭。ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭、カレーライス15銭。大震災後、神楽坂公衆食堂はますます必要になりますが、 昭和12年頃から民間の食堂がふえると、市営の食堂は減ってきました。しかし、戦前の昭和20年、財団法人東京都食堂協会になり、戦災に出会うまで経営を続けていました。
朝日坂|横寺町
神楽坂通りにはクリーニング屋のせいせん舎と食料品店のキムラヤがあり、ここを南西方面に進む坂があります。朝日坂といいます。明治時代でも同じく朝日坂でした。
朝日坂の名前
どうして朝日坂という坂にしたのでしょうか。朝日はよく見えないし……新宿区教育委員会の昭和51年の『新宿区町名誌』によれば
特に泉蔵院境内にある北野神社が、俗に朝日天神といわれたので、その門前町は朝日町と呼ばれた。北野神社をどうして朝日天神と呼んだかは分からない。神楽坂6丁目46番地から南の横寺町に上る坂を朝日坂(旭坂)というが、これは朝日町から名づいたものである。 |
『東京府志料』には
朝日坂 坂名は北野神社を里俗朝日天神と称するによれり |
つまり第一の説は、泉蔵院内の北野神社を朝日天神と呼んだから。泉蔵院は正藏院の隣にありました。しかし、説はまだ続きます。第4まで続いているのです。
第二の説は、泉蔵院に慈覚大師作の朝日天満宮があったため。新宿歴史博物館の平成22年の『新修 新宿区町名誌』では
ここから横寺町に登る坂は朝日坂と呼ばれる。これは泉蔵院に慈覚大師作とされる朝日天満宮があるため唱られた(町方書上)。 |
『町方書上』は
朝日坂与唱候、是者當泉蔵院ニ慈覚大師作之由朝日天満宮有之候、依之朝日坂与相唱候由 |
ちなみにこの泉蔵院は廃寺になり、朝日天満宮は赤城神社に遷移。
標柱でも現在はこの第二の説が有利です。
『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた。(『東京府史料』) |
さて第三の説は、五条坂です。野口冨士夫の『私のなかの東京』で
すぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著者では朝日坂か旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の1例だろう。 |
横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(平成12年)で寺居秀敏氏は「寺の町横寺」を書き
朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため、私の両親は五条坂と呼んでいましたので、私も五条坂と言っていました。 |
第四の説では坂ではなく横丁です。「閻魔様の横丁」といったようです。『ここは牛込、神楽坂』第2号の「語らい広場」では
ちなみに6丁目のスーパーキムラヤ横の横丁は、「お閻魔様のヨコチョ」といっていました。 |
同じく寺居秀敏氏では
私は子供の頃(正蔵院を)お閻魔様のお寺と呼んでいました。 |
お閻魔様というのは正蔵院、つまりエンマ堂のことです。正蔵院の脇本尊は合併した養善院の本尊「閻魔大王尊」でした。お閻魔様は戦災で焼失。その後府中の在家の方からお閻魔さまとお不動さまの寄進を受け、安置しました。
以上、この4説、まあ、どれでも悪くないと思います。
白銀公園|白銀町
コインランドリー|小栗横丁
若宮公園
若宮公園について「牛込神楽坂若宮町小史」によると
平成6年4月、若宮町自治会及び住民の念願であった区立若宮公園(若宮町21番地)が完成し、平成7年建設省より『手作り郷土賞』を受けました。地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽が敷設され、公園は江戸時代の武家屋敷の趣きを残しています。外濠通りから坂を登ると広い空間が開け、石の階段や東屋が目に入ります。 |
と書いてあります。
場所は若宮町ですが、なぜかすぐそばのアグネスホテルは神楽坂2丁目です。
まず北門です。ちょうどアグネスホテルの対面に位置します。北門の右側に小さく標柱が立ち「若宮公園」と書かれています。3月なので、満開の桜も。非常に大きな公園ですが、税金を払えなかったため物納したのでしょうか。
北東門は「新宿区立若宮公園」と「手づくり郷土賞」が麗々しく飾っています。
新宿区立若宮公園
江戸時代の通称「振り袖火事」(1657年)以降、雑木林や草原であった牛込地区に武家が移り住み、武家屋敷中心の街が形成されました、したがってこの公園は江戸時代の牛込を思い起こさせる武家屋敷をイメージした和風公園として整備しました。 After a disaster commonly called “Long-sleeved kimono Fire” which took place in 1657 in the Edo period, the samurai class has moved to ushigome area covered with thickets and the grass, and formed a residential quarter where most of the residences were the samurai class. |
手 づ く り 郷 土 賞 建設大臣 野坂浩賢 書 歴史・文化 部門 東京都 新宿区 平成七年七月 寄贈 (社)関東建設弘済会 |
さらにもうひとつ、東門があります。
地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽があるとのこと。
公園は巨大で、東屋や絵入り腰掛け、巨大な岩のベンチ、中央に一本の桜などがささやかに四方に置いてあります。あとはただただ巨大な空き地です。
神楽坂若宮八幡神社
神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。
10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌が江戸城鎮護、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2(1456)年開始、翌長禄1(1457)年4月完成しています。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。
明治2(1869)年の神仏混合禁止今により若宮八幡神社となりました。境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木があったようです。
明治20年ごろでは、若宮小路があり、これは庾嶺坂と若宮八幡神社を結ぶ小路です。
ほかに下に行くと庾嶺坂。左には新坂、右は小栗横丁、上は出羽様下があります。また若宮神社の前は車は通れません。つまり、アグネスホテルから車で直接若宮小路にははいれません。アグネスホテルは右の地図では大きな「若宮町」の「宮」の場所にあります。
さらに若宮小路では北から南に一方通行です。
大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、黒塀は倒壊しました。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。
昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。その時代の写真は
その後、社殿を西側に寄せ、東側は社務所を兼ねたマンションになりました。現在の神社は……
例祭は9月14~15日、神事・行事で中祭は1月15日と6月15日です。
また右側の立て看板ではこう書いています。
神楽坂若宮八幡神社縁起録 若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で |
袋町|イチョウと旧日本出版会館
日本出版会館と日本出版クラブ会館は牛込城があったとされる光照寺の正面に並んで建っていました。
日本出版クラブは、「出版界の総親和」という精神を掲げ、1953年9月に設立。1957年(昭32)、181社が参加して日本書籍出版協会を設立し、1957年8月には日本出版クラブ会館が落成。創設60周年を迎える2013年、一般財団に移行しました。
この会館は財団法人・日本出版クラブが運営し、一般の方でもレストランや宴会場、会議室など複合施設で利用が可能でした。
隣りにあるのは、日本出版会館。財団法人・日本書籍出版協会が入り、著作権の問題や違法コピーへの対策、読書離れなど、高度情報化社会の発展により生じる新たな問題への対応も行っていました。
2018年、日本出版クラブはクラブ ライブラリーとして神保町に移転し、かわってマンションを建築。2023年7月、ようやく「プラウド神楽坂ヒルトップ」は落成。
ここには大きなイチョウの木がたっています。その前には
新宿区保護樹木 樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中、焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。(新宿区平和マップより) |
現在はイチョウの木と看板だけがあります。
その上には、現在は何もないのですが、2013年初めまで、この土地の歴史の変遷が書いてありました。
「新暦調御用所(天文屋敷)跡」 新宿区袋町6番地
この土地の歴史の変遷当地は天正18年(1590年)徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の1部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保2年(1645年)居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。 |
光照寺 光照寺はここに。
定説 実際は定説があり、ないのが間違い。詳説は幡随院長兵衛について
火除地 火除地について
新暦調御用所 浅草天文屋敷について書いています
一平荘 一平荘について、巴水の絵が綺麗
高校 一平荘は税金が払えなかったため、高校に代わりました
横穴 由比正雪の抜け穴ではと大騒ぎになります。切支丹の仏像について
また『拝啓、父上様』の第10話で、こんなエピソードを書いています。
出版クラブ
お引き初め。
集まっている人々。
語り「その日は神楽坂の新年会に当たる “お引き初め”が出版クラブであり、その流れで“坂下”も忙しかった。
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テレビででたのは本当に一瞬です。
袋町|火除明地と新暦調御用所
火除明地
これは、江戸時代、火事の延焼を防ぎ、避難所として設けた空き地です。
幕府は1657年の明暦大火以後、特に享保期(1716~1736)に、多くの火除地を作りました。
町民の火除地では当初は防火機能だけでしたが、18世紀には次第に庶民の都市活動の場として火除地の利用は盛んになりました。
一方、武家地に立地する火除地では馬場、御放鷹の場、官有稽古場、袋町では御鉄炮稽古場が作られていますが、眺望の良い場所以外には賑わった空間ではなかったようです。
新暦調御用屋敷
宝暦13年(1763)、日蝕の記載に漏れがあり、明和元年(1764)、幕府は佐々木文次郎を天文方に任命し、翌2年、光照寺門前の火除明地に「新暦調御用屋敷」をつくっています。いわゆる天文屋敷です。
明和8年(1771)「修正宝暦暦」を完成しました。しかしこの天文台の木立は茂り、不都合が出て、天明二年(1782)、牛込藁店(現袋町)から浅草鳥越に移っています。
「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
天文屋舗蹟 天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆその後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出されやかてこひ奉りこの所に司天臺を建て天文をはかれりされとこの地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり |
浅草天文台は葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」にも出ています。
天文方は編暦・天文・測量・地誌・洋書翻訳を職務として、当時の学問の最先端を行く所でした。この球体は天体の角度などを測定する「渾天儀」から黄道環を取り、簡略化したもので、「簡天儀」といいます。
手前の屋根の下には、天体の高度を測定する「象限儀」があります。たぶん、牛込藁店もほぼ似たような屋敷だと思います。
袋町|幡随院長兵衛
袋町の一平荘が建っていた場所は、はたして幡随院長兵衛が殺された場所なのでしょうか? 一平荘はそういっていたようですが。結論を言えば違います。
幡随院長兵衛は江戸時代の町人で、生まれは元和8年(1622年)、死亡は明暦3年7月18日(1657/8/27)です。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われました。彼と水野十郎左衛門はどちらも「かぶき者」でした。ウィキペディアによると「かぶき者もの(傾奇者・歌舞伎者とも表記)」とは「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと」です。
また東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」についてこう書かれています。
(「かぶき者」は身分の低い中間・小者・草履取・六尺など武家奉公人を指すのが普通ですが)同様の意識と行動をとった旗本もおり、彼らは「旗本奴」と呼ばれ、四代将軍家綱の時代には古屋組・鶺鴒組・大小神祇組などのグル一プを結成していました。一方、町人の間からは旗本奴に対抗して「町奴」が生まれ、唐犬組・笊籬組などが組織されました。 両者は江戸市中を横行し対立を深め、特に三千石の旗本、水野十郎左衛門が町奴の幡随院長兵衛を斬り殺した事件は、両者の対立の激しさを物語るものとして有名です。 その殺害事件は明暦の大火から半年たった明暦3年(1657)7月18日に起こりました。水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容ですが、水野の言い分しか残っていないので、事件の真相は不明です。しかし、一説には長兵衛と水野十郎左衛門とが鞘当をして、長兵衛に恥をかかされた水野が恨みに思い、長兵衛を自宅に招いて風呂に入れ、裸になったところを搦め取り殺害したという話も伝えられています。 この事件は武士対する町人の抵抗を示すものとして、のちに芝居や講談で美化され人気を博し人々によって語り継がれてきています。しかし幡随院長兵衛の事蹟や伝記については確実な資料が乏しく彼の経歴は不明なところが多いのです。 |
歌舞伎では、これを元にして「幡随院長兵衛精進俎板」や「極付幡随長兵衛」などを作りました。
この一平荘が建っていた場所は殺害があった水野屋敷が建っていた場所だと言われました。しかし、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』が正しいのです。水野屋敷が建っていた場所は別で、西神田1丁目11番地なのです。しかし、西神田1丁目11番地は現在なく、代わって西神田2丁目になり、現場に近い西神田小学校も西神田児童センターになりました。まあ、水道橋に近いところで殺害し、ここ神楽坂や袋町ではなかったと覚えておけばいいでしょう。
光照寺|切支丹の仏像
切支丹の仏像について。
雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会でこの話が出てきます。
糸山氏 袋町・光照寺住職 |
それから神田の紀伊国屋という旅龍の主人が旅先で亡くなった人々の供養のために建てた「諸国郡邑旅人菩提碑」という碑とか、石に刻んだものですが、切支丹の仏像といわれるものもあります。これは額のところに菊で十字が刻んであったり、桐安(きりあん)というような戒名や、台座には寺という字も刻まれていて、切支丹が供養のためにつくったのではと言われています。 |
これを調べました。まず芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)ではこうなっています。
キリシタン遺物と思われる碑 光照寺墓地西部に、キリシタンの遺物と思われる観音像がある。高さ約六〇センチほどのものであるが、像は如意輪観音の思惟形で、光背浮彫り、宝冠に花菱クルス紋をつけている。 左背面には、安永七戌年四月二三日桐屋とあり、台座に桐安とある。これは霊名のキリヤ、キリアンではなかろうかという。また、蓮台の中央にただ一つ「寺」と刻まれているが、これはエケレジア教会(南蛮寺)を意味するのであろうという(五三・市谷三七・新宿21参照) [参考]江戸切支丹 芳賀善次朗著『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)
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現在は諸国旅人供養碑のひとつのようです。
でも知りたいことは新宿歴史博物館に聞くのが、一番です。答は…
光照寺の「切支丹の観音像」については私も見たことはありません。芳賀さんの本は、ご存知のように昭和47年の刊行と古いものなので、言われるように整理されてしまった可能性が高いと思います。ただ「諸国旅人供養碑」については、六字名号の石碑がそれで、文化財になっています。これを取り巻くように配置された周りの墓碑は無縁墓ですので、その無縁墓の中に、「切支丹の観音像」が含まれている可能性は高いと思います。
ちなみに、この時期やたら切支丹との関係を強調する論調が多い印象があります。切支丹灯籠は単なる織部灯篭だと言われるように、個人的には、切支丹との関係を実証することは無理だと考えています。 新宿歴史博物館 今野
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私も「切支丹との関係を実証することは無理」だと思います。女性の墓なのでしょうか。よく似たものもありました。
袋町|由比正雪の抜け穴
雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で由比正雪の抜け穴についての話が出てきます。糸山氏は袋町・光照寺住職、山本氏は袋町・山本犬猫病院、小林氏は神楽坂5丁目・小林石工店、司会は日本出版クラブの大橋氏です。
糸山氏 うちに深い井戸があるんですが、明治のはじめに井戸替えをしたら横に穴があったので掘っていったら百メートルも向うの南蔵院の本堂に出て、そこで碁を打っていた人に、ここは地獄ですか、極楽ですかと聞いたら、極楽だって言ったという話が伝わっているんですがね(笑い)
山本氏 出版クラブで最初の建物を建てるとき、東京芸大の内藤先生が調査にいらして、敷地の古井戸に石を落として深さを計ったんですが、四、五十メートルではきかなかったような気がします。そのとき丸橋忠弥とか由比正雪の抜け穴の話なども出ましたが、やはり真実とは違うようです。
小林氏 うちの隣の森さんがビルを建てたたとき、横穴がぽこんと出てきたのを初めて見ました。真四角で人間が這って通れるような。これがみんなのいう牛込城に抜ける穴かと。
糸山 麹の室という話もありましたが。
小林 でも、それであんなに深く掘るもんでしょうか。
司会 よく、南蔵院へ抜けるとか、筑土八幡に抜けるとか、どこかに埋蔵金があるというような話が出てきますね。このあたりは牛込城の城跡ですし、江戸期にはそれなりに栄えたところで、高台だけに穴があって抜けられるというような話が生まれやすいところでもあるんでしょうね。
小林 うちの先祖代々の言い伝えでは、どこかに金の茶釜が埋まっているというので、終戦後、がれきの中から本気になって探したそうです。
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昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』では
13.由比正雪の抜け穴 [時代]江戸時代 [場所]袋町 光照寺 神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた。 明治末のことである。光照寺の井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は、150メートルも離れた箪笥町の電車通りにある南蔵院まで続いていたという。 昭和32年、光照寺の西北の日本出版クラブの建築工事の時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。また江戸時代初期の徳利や實永通宝、その他の古銭などが発掘された。 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下牢だろうという説が出たが、ここは水野邸跡でないことが分かった。それではやはり光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だということで話題をまいた。 [原典] 毎日新聞 昭和32年10月17日連載記事「武蔵野の城あと」No16牛込 [解説] 明治末にここに抜け穴があったと伝えられたのは井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き、碁を打って遅くなったので、横穴をたどって行ったとうそをついたことがもとで広まった話である。 昭和32年の時は、それが抜け穴でないなら麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫(光照寺跡一帯は牛込氏館跡であることから)だとか、いろいろ話題でにぎわったのである。 江戸研究の綿谷雪氏は「続江戸ルポルタージュ(昭和36年6月) 人物往来社」の中でつぎのように書いている。 『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』と。 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうが、もしも掘れたとすれば、その掘り出した土の処理を、世間に分からないように処理することができたであろうか。 |
上記の本を書いた芳賀善次朗氏は『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)を上梓します。そこでは
由比正雪の抜け穴 光照寺には、由比正雪の抜け穴があったと騒がれたことがある。 神田連雀町(今淡路町内)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて光照寺境内に移ってきた。正雪はのちに榎町に移ったが、正雪が住んでいたことから結びつけたものである。 明治の末ごろのこと、光照寺で井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は150メートルも離れた箪笥町の大久保通りにある南蔵院まで続いていたというのである。 これは、井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き碁を打って遅くなったので、「横穴をたどって行った」とうそをついた事がもとになって広まった話であり、罪なことをいったものである。 ところが、昭和32年、光照寺の西北に日本出版クラブが建築工事をした時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。そこから江戸時代の初期の徳利や寬永通宝、古銭なども発掘された。 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下ろうだろうという説が出たが、そこは水野邸跡でない。だからやはり、光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だとか、麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫だとか、いろいろな話題でにぎわったものである。 由比正雪を研究した綿谷雪氏は、「続江戸ルポルタージュ」の中につぎのように書いている。 「夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない」 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうか、もしも掘れたとしても次の掘り出した土の処理を、世間に分からないよう処理することができたであろうか疑問である。 [参考] 続江戸ルポルタージュ 新宿と伝説 |
化け地蔵の出た地蔵坂|新宿の散歩道
正保2年(1645)、牛込城の跡地に神田元誓願寺前(現・千代田区神田須田町一丁目)から光照寺が移転してきました。
また、光照寺の子安地蔵(木造地蔵菩薩坐像)は鎌倉時代の仏師・初代安阿弥(快慶)作といわれています。元は近江(滋賀県)の三井寺にあったのですが、江戸時代に芝・増上寺に移動、正徳年間(1711~16)に増上寺の末寺である光照寺に安置されました。
これが地蔵坂という名前になったのです。芳賀善次郎作の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』三交社、昭和47年(1972年)によると
12 化け地蔵の出た地蔵坂 (袋町) 毘沙門天の先を左折する。そこを進むとまもなく坂になる。右側の松竹荘一帯は、戦前牛込館という映画館があったところである。 ここからの坂道を地蔵坂というが、その地名由来にはつぎのような伝説がある。 この坂には、夜になると時々地蔵様が上ったり下りたりする。この地蔵、人に出会うと声をかけたり、入道姿になって笑い出したりするので近所の人は怖がって夜になると通らなかった。 これは、坂上左手にある光照寺境内にすむタヌキの化け地蔵であった。光照寺には、鎌倉時代の名作、初代安阿弥作と伝える子安地蔵(延命安泰地蔵)が安置してある。昔はお産と子どもの病気に効験があると人気があり、寺は参詣者でにぎわった。 ところが 光照寺境内榎林の中にすんでいるタヌキどもは、寺にくる参詣者があまりにも多いので、めったに穴から外に出られない。何とかしてこの人たちが来ないようにと考えた一策だったという。 享和のころ(1801~3)、近くの払方町に住んでいた武士がこれを聞いて、日暮れにこの坂を通ってみた。ところが案の定、地蔵様が錫杖(しゃくじよう)をガジャンガジャンと突きながら坂を上ってくる。武士はこれこそ例の化け地蔵と思い、すれ違うや否や刀を抜いて切りつけた。するとその地蔵、とっさに持っていた錫杖でこれを受け止めた。武士はまた切りつけようとすると、こんどは「これこれ何をなさる」と声をかけられた。 よく見ると、それはタヌキではなく、日ごろ懇意にしていた仲間だったのである。武士はわけを話し、自分の粗忽をあやまったということである。懇意な仲間に化けたのか、本物の仲間かは分らないが、この話を伝え聞いた人たちは、それ以後ここを地蔵坂と呼ふようになったという。宝歴年間の「鶏鳴旧蹟志」(著者不明)という本に出ている話である。 [参考] 江戸の口碑と伝説 新宿と伝説 |
松竹荘 これは現在の神楽坂センタービルに当たります。写真は昭和41年頃の風景です。またリバティハウスと神楽坂センタービルは2つ合わさって牛込館になります。
鶏鳴旧蹟志 成城大学民俗学研究所の「諸國叢書」第7輯(平成2年)に「鶏鳴旧蹟志」29編がありますが、その中には入っていません。
江戸の口碑と伝説 「日本民俗選集」12巻(昭和6年)の「江戸の口碑と伝説」36 で「子安地蔵と化け猫」にてできますが、参考書はここには何も書いていません。資料参考書目で「牛込、池田慶次郎氏所蔵」の「鶏鳴旧蹟志」がでてきますが、それだけです。
昭和44年、新宿区教育委員会の「新宿と伝説」によれば
光照寺の子安地蔵は、延命安泰地蔵ともいう。鎌倉時代の名作で、初代安阿弥の作だと伝えられている。 この地蔵は、もと三井寺にあったもので、後宇多天皇(鎌倉時代。在位1274-87)の皇后がご難産で苦しまれた時、京都中の名僧を集められて、ご安産を祈られたのであるが、あまりおもわしくなかったという。ところがある夜、皇后の枕べに白髪の翁が現れ、「ご難産でお困りのことでしょうから、これをさしあげましょう」といわれ、夢からさめた皇后の手に1つの宝珠があったという。するとまもなくお苦しみが薄らぎ、玉のような皇子をご安産なされたという。その後、この地蔵は、どうした因縁か、三井寺から芝の増上寺に移され、さらに光照寺に安置された。 昔は、お産と子供の病気に効験あらたかだというので参拝者がたえなかったといわれ、この伝説は、この子安地蔵に結びつけた創作であろう。 |
袋町|一平荘
袋町に非常に綺麗な料亭「一平荘」がたっていました。いいたいことはわかっています。倉本さんの「拝啓、父上様」の主人公は一平です。しかし、この一平荘と関係はありません(多分)。
『ここは牛込、神楽坂』第12号「お便り投稿交差点」に素晴らしい手紙があります。以下引用です。
坂の上のまちの思い出 船橋市 西 幸子 昭和19年7月、太平洋戦争は遂にサイパンが陥落し、負け戦を認めざる得ない事態に追い込まれた。東都空襲間近しと言われ、疎開が始まった。故郷のある人が羨ましかった。神楽坂は軒並み店を閉め、愛日小学校も月はじめから自宅待機となった。そして遂に、隣組を挙げてのお別れ会となったのである。お互い、光照寺の境内に銭湯ほどの防火用水槽を掘り、べたべたコンクリートを塗り付けた仲間である。お寺の庫裏の大釜でごはんを炊きあげ、たくさんのお握りを作った。お握りはプラチナのように光っていた。苦心して集めた白米であった。子供たちはうれしそうに周りをうろうろ。 隣組の一員でもある料亭一平荘の広間が提供され、十家族が顔を揃えた。配給のお酒を飲み交わし料亭心尽くしの肴をつついて、この日は國民服やもんぺの生活を忘れたのである。 一平荘は、もと旗本の水野十郎左衛門の屋敷跡といわれ、立派な歌舞伎門が光照寺前にあり、奥深く、さるすべりが美しかった。広い庭では、昼は山鳩が啼き、夜は梟の声も聞こえた。幡随院長兵衛が謀殺されたという風呂場は当時まで残してあったという。少し前までは、夕方、打水をした石畳を、神楽坂のきれいどころが、三味線箱を担いだ男衆を従えて出入りする絵のような光景が見られたが、その頃になると塀に軍馬が繋がれ、長剣を光らせた軍服姿が入っていくという状態に変わっていた。隣組の連中のほとんどが初めての料亭だったと思う。場所柄、花柳輔八さん、長唄の勝喜賀さんがおられ、お決まりの軍歌のあとは隠し芸ならぬ玄人の芸を堪能されてもらった。一平荘の綺麗なお内儀も、清元の「北州」を披露され、一同大いに盛り上がった。 そしてその翌日、皆は信州へ、秋田へ、新潟へと、散り散りに別れて行った。(略) 袋町は、翌20年の4月と5月、通りを挟んで2回にわたって焼失した。袋町から北町、中町、砂土原町、市ヶ谷にかけては、うっ蒼と樹木が茂る江戸時代からの屋敷町だったが、何とも惜しい焼失だった。 |
線画は昭和12年の「火災保険特殊地図」です。「割烹 一平荘」と大きく書いてあります。
また、絵は巴水の昭和東都著名料亭百景「神楽坂一平荘」です。
前面の踊り場は道路から1メートル以上離れて、視線を遮る門塀まわりがあり、しかし閉鎖感をやわらげ、床仕上げにはおそらく石。門構えを入ってもまだ大自然があります。いい感じに作っています。
また『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」では座談会を行っています。司会は日本出版クラブの大橋祥宏氏、袋町・光照寺住職の糸山氏、袋町・山本犬猫病院の山本氏、袋町・三和商店の吉野氏です。
司会 出版クラブのところにあった一平荘というのは、そのとき焼けたわけですね。
糸山 ええ、戦災で焼けて、その後、税金が払えなくて物納したとか。その跡が市ヶ谷商業の運動場になったんです。
山本 私は一平荘で結婚式をしたんです。昭和18年だったと思いますが。
吉野 私もそうです。やはり18年にここで。
山本 私はそのまま出征したんです。あの一平荘は別のところにできた一平荘とは関係ないんですよ。
糸山 ここにあった一平荘は上野に移りましたが、税金が払えなくて、精養軒に売ったそうです。
司会 一平荘の中をのぞいたことはありますか。
糸山 この会館の前の銀杏の木の横に大きな酒樽があって、それが茶室になっていたんです。
吉野 ええ、そうでした。
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別のところにできた一平荘 昭和55年まで現在の若宮町「割烹加賀」の場所にありました。昭和59年までにはなくなっています。
日本橋に「一平」という料理店があります。昭和4年から神楽坂で日本料理の料亭「一平荘」をしていたようです。これが本当ならば創業は昭和4年でしょうか。
袋町|名前はどうして?
袋町の名前はどうして付いたのでしょうか?
まずウィキペディアを見ます。「坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり、袋小路となっていたため袋町と呼ばれた」と書いてあります。「袋小路」とは行き止まりになっていて通り抜けられない小路。なるほど。でも、間違いなのです。
北に行くS状の坂は戦前にはなかったわけすが、南に行くのは? 南に行くのは全く問題なく行ける。袋小路はどこにもなく、ウィキペディアのように袋町という理由はありません。
やはり地図を見てみます。延宝年中(1673~81年)にできてきます。ただし、現在のように大きくはありません。ごくごく小さな小さな場所を2つとっています。
明治2年、牛込袋町と牛込光照寺門前を合併し、牛込袋町となり、さらに明治5年、近隣の旧武家地や光照寺境内などを併合し、明治44年、現在の袋町になります。牛込袋町になったのは明治以降です。
昭和51年の「新宿区町名誌」によれば「藁店横町の奥で袋地になっているので袋町になった」と書き、平成22年の「新修 新宿区町名誌」では「肴町の横町で袋道であるため、袋町と名付けた(町方書上)」と書かれています。町方書上では「肴町横町ニ而袋道ニ御座候」と書いています。なお、「袋地」と「袋道」では意味が違い、「袋地」とは、他人の土地に囲まれて、公道に出られない土地のこと。「袋道」は「袋小路」に同じで、「行き止まりになっていて通り抜けられない小路」。つまり、江戸時代の袋町と明治の袋町についてその説明は全く違うのです。この「袋町」は明治時代ではなく、江戸時代の言葉です。
新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一氏は『まちの手帖』でこう書いています。
行き止まりで通り抜けできない町、周囲を他人の土地に囲まれた所という意味ですが、この場合も地蔵坂を上った奥にあるためこう呼ばれたのでしょう。江戸時代の袋町は、光照寺に接した狭い町で、明治二年(1869)に光照寺及び門前町と合併して現在の袋町ができました。 |
北町と接する大きさは江戸時代では全くありません。
袋町|光照寺
光照寺です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。
(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 牛込城跡 所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和10年12月六日 光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。 平成七年八月 東京都新宿区教育委員会
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では中に入ってみると最初に鐘楼堂が見えます。やはり説明文が出ています。
光照寺は慶長8年(1603年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保2年(1645年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。 鐘楼堂は、明治元年(1868年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、60年の歳月を経て昭和12年(1937)に復興を見ましたが、昭和20年(1945年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。 平成五年(1993年)1月 浄土宗 光照寺
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石畳の道
除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。
語「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
神楽坂・裏路地
門松。
しんと眠っている。
語「拝啓。
父上様。
除夜の鐘です」
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では左側から右側に見ていきましょう。まず、Google航空写真です。
①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。
(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国旅人供養碑 所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和61年6月6日 神田松永町の旅籠屋紀伊国屋主人利八が、旅籠屋で病死者の菩提をともらうため、文政8年(1825年)に建立した供養碑である。 平成7年8月 東京都新宿区教育委員会
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②狂言師「便々館湖鯉鮒の墓」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。
(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便々館湖鯉鮒の墓
所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成2年3月2日
江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。 平成3年1月 東京都新宿区教育委員会
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なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。
こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前 |
ただし、これは蜀山人の狂歌集の中にはありません。あるのは……
小鳥どもわらはゞわらへ大かたのうき世の事はきかぬみゝづく
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③これから少し前に行くと、奥右筆の「大久保北隠」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。
④さらに右に進みます。 本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。
さらに中央に進みます。
⑥森敦は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は
われ浮き雲の如く 放浪すれど こころざし 常に望洋にあり 森 敦
⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。
(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区指定有形文化財 彫刻 木造地蔵菩薩坐像 所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成9年3月7日 寄木造り、黒漆塗り。像高31センチ。13世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。 寺伝によると、この像はもともと近江国三井寺にあり、後宇多天皇の皇后が弘安年間(1278~88)に、のちの後二条天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺に移され、正徳年間(1711~16)に増上寺の末寺である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。 (文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録有形文化財 彫刻 木造十一面観音坐像 登録年月日 平成9年3月7日 一木造り、素木仕上げ。像高70センチ。18世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食明満である。明満(1718~1810)は、円空とならび称される像仏聖で、全国を旅して鉈彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成9年5月 新宿区教育委員会 |
地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。
(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区指定有形文化財 絵画 阿弥陀三尊来迎図 所 在 地 新宿区袋町15番地 指定年月日 平成10年2月6日 絹本着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子に納められている。縦102.2センチ、横39.4センチ(画像寸法)。 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、14世紀後半(室町時代)の作品と推定される。 (文化財愛護シンボルマーク) 新宿区指定有形文化財 絵画 法然上人画像 指定年月日 平成10年2月6日 絹本着色、掛軸装されている。縦89.5センチ、横41.3センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖法然上人の肖像で、15世紀後半(室町時代)の作品と推定される。 平成10年3月 新宿区教育委員会 |
⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塚」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。
芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 15. 海ほうづきの供養碑」についてです。
海ほうづきの供養碑 (光照寺境内) 光照寺本堂右側にあるが、全国でも珍しいものである。昭和16年7月に、都内販売同業者41店主が発起人となって建立したものである。 神楽坂が夜店でにぎわい、その夜店には必ずといってよいほど海ほうづきが売られたものである。海ほうづきは、巻貝の子のことである。この供養塚碑がここにあるのは神楽坂の夜店と結びつけるとふしぎな因縁というべきである。 |
⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海郡松山町)酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。
お知らせとお願い 此れより先立ち入り禁止 墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定 で危険になっております。 関係者以外立ち入りを禁止いたします。 当山住職
平松南氏は2004年06月16日「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」でこう書いています。
光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。 |
切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。
地蔵坂|都々逸と写し絵
都都逸坊扇歌については…
生年は文化元年(1804年)。没年は嘉永5(1852)年。江戸末期の音曲師。都々逸の祖として知られています。文政7年か8年に江戸に出て、船遊亭扇橋に入門。美音で当意即妙、謎とき唄や俗曲「とっちりとん」で、音曲界のスターに。都々逸坊扇歌と改名し、江戸牛込の藁店という寄席を中心に活躍しました。寄席の客になぞの題を出させ,その解を即興で都々逸節(七、七、七、五の四句)の歌詞にしました。やがて、江戸で一番の人気芸人となり、天保時代には上方にも出向き活躍。世相を風刺した唄も沢山ありますが、晩年には幕府・大名批判とされ江戸を追放されてしまいます。ドドイツの名前は旅の途中豊原の宿で同宿の旅芸人より聞いた神戸節の唄「おかめ買う奴あ頭で知れる 油つけずのニつ折れ そいつあどいつじゃ ドドイツドイドイ 浮世はさくさく」の調子が面白く、ドドイツとなりました。都で一番になるとの思いから「都々一」となったといいます。
江戸写し絵の都楽
幻燈(スライド)は江戸で見世物になっていたもの。享和三(1803)年の三笑亭都楽(後に都屋都楽、本名亀屋熊吉)が江戸牛込神楽坂の茶屋「春日井亭」で写し絵を演じています。映像に語りと音曲を加えています。春日井亭はどこかは不明です。
ヌエット「東京のシルエット」…特に神楽坂について
昭和29年(1954年)4月15日、著者ノエル・ヌエット(Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。この時、ヌエット氏は69歳でした。定価は430円。ヌエットの当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。
この本で神楽坂と関係があるのは2つだけです。しかし、それ以外にも懐かしい版画はたくさんあります。最初は「神楽坂」です。
水野正雄氏は、戦後、「建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました」と書いています(NPO法人粋なまつづくり倶楽部 神楽坂アーカイブチーム編『まちの思い出をたどって』第1集、2007年)。上図の倒れていない建物は三菱銀行(現在は三菱UFJ銀行)だったのです。戦後、一時的に「千代田銀行 神楽坂支店」という名前にかわっています。
次は日仏学院です。一時的に「アンスティチュ・フランセ 東京」と名前が変わり、また元に戻っていますが、これはフランス政府が管理・運営するフランス文化センターです。
あとは他の版画をいくつか。
なおノエル・ヌエット氏の『神楽坂』(昭和12年)は別の項で。
酒問屋升本|揚場町
西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では
神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略) 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略) 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。 |
初代升本喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。
二代目の升本喜兵衛は嘉永2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。
明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。
1984年、揚場町に巨大な土地を持っていました。
さらに四代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。
飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。四代目喜兵衛の三男は、升本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。
軽子坂|歌川広重団扇絵「どんどん」
軽子坂を別の向きで描いた絵があります。広重団扇絵で「どんどん」「どんどんノ図」や「牛込揚場丁」という題が付いています。版元は伊勢屋惣右衛門で、天保年間(1830-44)後期の作品です。
ちなみに江戸時代、飯田町と神田川にかかる船河原橋のすぐ下にも堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていました。これから船河原橋も「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていました。したがって背後も水音があったのです。
左奥に見える渡櫓は牛込御門で、その向かいの右は神楽坂です。牛込土橋は堀を渡す橋。
目を近くにやると、茗荷屋という船宿から(赤い扇子を持った若旦那が芸者さん二人と船に乗り込む様子が見えます。船宿の奉公人たちが酒、肴を抱え、お客さんの乗り込むのを待っています。
少し上を見ると左手には「自身番屋」が建ち、木戸もみえます。番屋と木戸のすぐ先は、見えませんが、右側に上る坂道があったはず。これが軽子坂です。その手前の右側一帯は揚場町で、荷を揚げたため。この神楽河岸があることが神楽坂が盛り場として発展していくために重要でした。
地図では「軽子サカ」の左に黒の穴あき四角で書いたものが見えます。これが「自身番屋」です。町内警備を主な役割とてし町人が運営しました。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれました。
写真では右側の家に「自身番」と書いていますね。自身番は火の番も重要な役割でした。(ワープステーション江戸のPRで)
夏目漱石の『硝子戸の中』ではこの神楽河岸から浅草猿若町まで舟で出ていき、芝居を見たのを描いています。
軽子坂|「もっこ」と「かるこ」
軽子坂は明治20年の地図でも出ています。では最初は標柱を見てみましょう。
軽子坂 | この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。 |
軽籠は「かるこ」と読み、軽籠持も「かるこもち」と読みます。「もっこ」とは畚とも書き、網状に編んだ縄や藁蓆(わらむしろ)の四隅に吊り綱を2本付けたもの。吊り綱がつくる2つの環にもっこ棒を通し、前後2人でもっこ棒を担ぎ、主に、農作業などで土や砂を運搬したもの。「もっこう」ともいいます。
船荷をもっこに入れ江戸市中に運搬するのはちょっと大変だなあと思います。遠方はやはり荷馬車でしょうか。もっこは近くのものの方がいいと思うのですが。ただし、江戸時代には、舟で着く荷物を坂上にかつぎ上げる人足があり、これを軽子といいました。軽子と軽籠は違うものなのでしょう。 北見恭一氏が『神楽坂まちの手帳』第8号「町名探訪 揚場町」(けやき舎、2005年)で書かれ……
かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで、遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。 |
上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です。(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。
ここで「神楽河岸」とは以前は「牛込揚場河岸」と呼んだ場所です。明治時代にこれが「神楽河岸」に変わりました。また、昭和58年には、濠が埋め立てられ、「神楽河岸」は人口0人の東京都新宿区の町名になりました。
『神楽坂まちの手帳』の『神楽坂界わいの坂・ベスト30その1』「軽子坂」では
江戸は舟運にめぐまれていて、遠く千葉方面などからの穀類、酒、魚介、米、野菜がこの神楽河岸についた。 |
穀類、酒、魚介、米、野菜がでています。また、『坂・神楽坂』という平成2年に大久保孝さんの自己出版の本があります。そこでは
軽子坂と云われるのは、酒問屋升本の酒庫に全国から船に積んで来て神楽河岸に着いた酒樽を軽子たちがかついで登った坂であるからである。 |
こんどは酒で、「酒問屋升本」も出てきます。『私のなかの東京』(野口富士男)では
揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷を運ぶ荷馬車が何台もとまっていた。 |
とあります。荷馬車でこれから山の手に行くのでしょう。
なお、軽子坂の下のほうの標柱は
また、「怪談牡丹燈籠」のお露の父、牛込軽子坂の旗本飯島平太郎は軽子坂を上にいったところに屋敷があるといわれています。
地蔵坂|和良店
「和良店」です。2010年の「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では
「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
江戸で最初に出来た寄席は、寛政10年(1798)、櫛職人の可楽が、下谷神社境内に開いたとされている。和良店亭の設立時期は判っていないが、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が初看板を挙げ、美声の都々逸に加え、冴えた謎かけを披露し、以後一世を風靡しており、天保年間には「わら新」で、義太夫の興行が行われたという。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席となる。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」とした。 |
都々逸坊扇歌は別に扱います。また、色物(いろもの、いろもん)とはウィキペディアによれば「寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲を指す。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で書かれていたが、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていたのを転じて、そう呼ぶようになった」ようです。
夏目漱石の『僕の昔』では
落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。 |
『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会では
山本 それから写真屋をなさっていた富永さんに伺ってきたんですが、牛込館の隣には、神楽坂演芸場というのがあって、それが後に引っ越して神楽坂を上りきった宮坂金物店の横の方へ移ったそうです
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同号で高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では
この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。 |
一方、同じく同号で 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では
藁店に江戸期から和良店亭という漱石も通った寄席があった。 |
(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)
野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。
藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声、山野一郎、松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和50年9月30日発行の『週刊朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。 |
藁店(わらだな)は1軒それとも10軒
藁店は「わらだな」と呼んでいます。現在は固有名詞として使っていますが、本来は、一般名詞の「わらを売る店」のことでした。このわらを売る店、どこにあったのでしょうか。いったい何軒あったのでしょう。
明治20年の内務省地理局の地図をみてみましょう。ここには「わら店横町」がでています。また、坂は地蔵坂です。さらに一個の「・」がついた「わら店」がありました。
『西村和夫の神楽坂』では江戸時代、「善国寺の裏一帯は藁店という菰筵を商う町屋があり賑わいをみせていた」と書いています。藁店は一戸か数軒か、わかりません。
なお、菰筵とは藁やイグサ、真菰などの草で編んだむしろのことで、むしろとは、漢字で書くと、筵、莚、蓆、席となり、敷物の一種で、わら、藺、菅、竹などを編んで作るものです。
「東京神楽坂ガイド」では「その藁店が多いから藁坂なのかと想像しています」と書き、ウィキペディアでは「江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから『藁店』と呼ばれた」と書いています。 これらは数軒あったとかいています。
一方、「東京10000歩ウォーキング」では「『藁店』の呼称は坂上に近い小林石工店の付近で藁を売っていたからだ」と書いています。一軒でもおかしくありません。
大げさに言うとかたや数軒、かたや1軒で、すごく大違いがあると思いますよね。 しかし、一番正確な説明は『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会です。ここで山本犬猫病院の山本氏と小林石工店の小林氏が登場します。
山本氏 藁店というのは、昔、石屋の小林さんあたりで、藁を売っていたからなんですね。というのは、この先の出版社や三沢さんというお宅があるあたりの両側は馬が水を飲むところだったんです。これは区で調べれば分かります。で、馬や牛が通ったわけですが、昔は蹄鉄なんてありませんから、藁を使ったんでしょう。人間のわらじというより、おそらく馬や牛のための藁を商うところがあったんだと思います。
小林氏 で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。うちも確か20年くらい前までは、藁店さん、石鐵さんと呼ばれていました。
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2013年では小林石工店は開いていましたが
2018年はマンションの「石鐵」に変わって、小林石工店はありません。
文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば
里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候 |
と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。
なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。
どうも「藁店」は石工店の前で、藁を売っていたのは従業員は多くても石工店の前なので一軒、せいぜい二軒もあればよかったと思います。内務省地理局の地図を見るとわら店は1軒だけで、ほかの多数は「わら店横町」になったことも可能です。で、私は、わら店は1軒だけだと考えて、一票を入れたいと思います。まあ、どうでもいいことでした。
最後に360VRパノラマフォトをつくりました。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。
神楽坂の通りと坂に戻る場合は……
芸妓の言葉
三業 さんぎょう。料亭(料)・待合茶屋(待)・芸妓置屋(妓)の3業種。
二業 料亭と芸妓置屋
花街 かがい。はなまち。いろまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。遊郭。花柳街
花柳界 かりゅうかい。芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の巷。
料亭 主として日本料理を出す高級な料理屋
置屋 おきや。正確には女郎置屋や芸者置屋。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
待合 まちあい。待合茶屋。まちあいぢゃや。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。ウィキペディアによると、板場がないので料理の提供はなく、仕出し屋などから取り寄せる。収入源は席料と、料理などの手数料。客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(娼妓は遊郭以外で営業できない東京では不可)
芸妓 歌や三味線、舞踊など、芸の習得に厳しい稽古を積み、酒宴で披露して客をもてなす女性。遊女とは一線を画す。
見番 けんばん。検番、見番。三業組合の事務所。遊里で芸者の取り次ぎや送迎、玉代の精算などをした所。現在の例は見番横丁で。
箱屋 はこや。三味線などを持って客席に出る芸者に従って行く男衆。見番に属する。箱まわし。箱持ち
半玉 まだ一人前として扱われず、玉代も半人分の芸者。雛妓とも。踊りと太鼓を演じるが、三味線は弾かない。大半は16歳で芸者に
源氏名 遊女や芸者の妓名。バーのホステスなどの呼び名でも使う、
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