藁店」カテゴリーアーカイブ

地蔵坂(写真)藁店 ID 7804-7806, 14104、昭和41年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804-7806とID 14104は地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。時期は「昭和41年頃か?」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804 袋町 地蔵坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7805 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7806 袋町 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14104 袋町 地蔵坂入口の建物

 西側の電柱はすべてコンクリート製で細い柱上変圧器がありますが、東側には木製のものもありました。車道は滑り止めのオーリングを使い、下水は道路の側溝を流れています。
 これは昭和41年(1966年)でしょうか? まず住宅地図が正しいとして考えます。
「旅館 竹兆」は住宅地図の昭和47年(1972年)にはなく、昭和48年(1973年)では出てきます。
 昭和39年までには「松竹荘」は一軒だけですが、昭和40年から47年までは「田中医院」と一緒に出てきて、昭和48年には再び1軒だけの「松竹荘」として登場しますが、「歯科 佐々木」と一緒に出るのは全くありません。
「あかつき」は昭和49年に始めて出てきて、田口重久氏の写真でも昭和49年に出てきます。
 つまり住宅地図が正確とすると、正しいのは昭和49年だけだと考えてしまいます。
 しかし、ここで、まだ出ていない建物も考えます。地蔵坂と神楽坂通りを結ぶ場所にある武田芳進堂(現・八潮第二ビル)と中河電気(現・八潮ビル)です。武田芳進堂は昭和46年9月に、中河電気は昭和43年9月に大きなビルが完成しています。どちらも5階建てなので、見えるはずですが、ありません。ビルは完成するのに1年ぐらいかかるので、昭和42年以前にこの写真4枚が撮られたものです。つまり、この写真4枚が正しい場合、昭和42年よりも早く、たとえば昭和41年に、撮った方が正しいのです。
 住宅地図についてはただただ印刷が遅すぎたようです。

地蔵坂(昭和41年頃)
正面突き当たりに相馬屋文具店
  1. 道路標識。指定方向外進行禁止。道路標識 (逆転式一方通行を示す標識)
  2. 日本盛。〇◯ あかつき
  3. 電柱看板「すき焼 恵比寿 ココ」
  4. シャッターの降りた店(地図では八百屋)
  5. 家屋2軒
  6. 電柱看板「理髪 モリワキ ここ 」「斉藤医院」
  7. 松竹荘「歯科 佐々木」広報板
  8. 家屋1軒。「車庫につき 駐車お断り」
  9. 旅館 竹(兆)
  10. 電柱看板「質 は 上値 サ〇〇〇 のフクヤ袋町 4」「日本出版クラブ」
  11. 電柱看板「質 大久保」「日本出版クラブ」
  12. 道路標識。8-20。(駐車禁止)(区間内)
  1. 電柱看板「加藤産婦人科」
  2. BAR Hayama ニッカバー
  3. (川島)病院


地蔵坂(写真)藁店 昭和54年 ID 79、80、81、82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79、80、81、82は、昭和54年(1979年)、地蔵坂(藁店わらだな)を撮ったものです。左側は神楽坂5丁目が主で、右側は袋町が主です(地図は下にあります)。自動車は対面通行でした。右側は駐車場に使っていて、歩道はどうも左側だけだったと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 82 地蔵坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 81 地蔵坂付近

地蔵坂(藁店)
  1. 中華料理 太一
  2. 「(コー)ヒーパブ (海)賊)」、自販機「コーヒー」、看板「かいぞく」
  3. 「理髪 モリワキ」。森脇トコヤは六角形が中で回る「理容看板」
  4. その隣の工事中は「石鐵ビル」。築年月は1979年3月。「石鐵」は小林石工店の屋号
  5. 電柱看板「斉藤医院
  1. 白菜やレモン箱などが一杯になったトラック「八百美喜」。「商品は箱積みのまま、列に並んだ客が『〇〇ちょうだい』『きょうは何が安い?』と声を掛けて出してもらう昔ながらの売り方。”安い八百屋”で通用する人気店だった」と地元の方。
  2. CAFE CHARLIE BROWN
  3. 1棟(すずらん荘)
  4. 電柱看板「理髪 モリワキ←」
  5. 松竹荘
  6. 1棟(割烹 佳)
  7. 旅館 竹兆
  8. 工事中(カワイビル)。菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。築年月は1979年3月。
  9. 傾斜地で盛り土に。この先を右に曲がったところがID 79と80。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 80 坂道

 ID 79とID 80の資料名は「住宅」と「坂道」だけです。しかし、ここは地蔵坂(藁店)を上がった場所なのです。歩道はここも左側だけです。ID 80の地面でオーリングはよく見えます。
 トーンカーブを行うと、塀がはっきり見えるようになります。こうやって浮かび上がった塀(板3枚とコンクリートが見えます)はID 79の塀とそっくりです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 79 住宅

1978年。住宅地図。

 菅沼、芳沼、原、丸山という盛り土の4軒のうち1軒(菅沼)でカワイビルができました。

1990年。住宅地図。

神楽坂地蔵屋

文学と神楽坂

最近気がついたものは、せんべいの自販機があったということ。インターネットでは

神楽坂地蔵屋     2020年9月30日
お煎餅の自動販売機を神楽坂地蔵屋の本店に設置しました。手土産も充実しています。是非皆さま、お立ち寄りください!

かなり昔からあったんですね。神楽坂通り五丁目を南に上がり、藁店(地蔵坂)から袋町に出ると、登場します。


2つ、買ってみました。1つは「はちみつおかき」で、賞味期限は2021.4.24、125g、580円。もう1つは「こわれ久助」で、賞味期限21.5.25、150g、500円。買った日は21.1.29。

決して湿ってはいません。でも、高級品を食べたって感じはない。そもそも、せんべいの高級品であるのかなあ。しかし、なかなか美味しい。

2012/2/22、この日もテレビかな、録画をしてました。

2012/3/13、こんな新聞広告も掲載していました。すごい! お主はただの煎餅店ではない。

漱石の東京|武田勝彦

文学と神楽坂


武田勝彦

武田勝彦

  武田勝彦氏の『漱石の東京』(早稲田大学出版部、1997年)です。この伝記はかなりほかの本とは違ったところがあります。つまり、細かいことが重要なのです。特に「それから」の中心は市電です。東京市には市電が市内に縦横に張り巡られていて、したがって、市電を知らないと、この本の問題もよくわからないとなってしまいます。
 武田勝彦氏の生年は1929年5月4日、没年は2016年11月25日。享年は満87歳でした。

   和良店の坂道

 小説「それから」は、明治42年6月27日から10月14日まで、110回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された。初版は春陽堂(明治43年1月1日)から刊行された。この作品の主要な舞台は、牛込台、小石川台、そしてその間を流れる江戸川べりである。また、赤坂台の青山もこの作品の主大公の実家があるので見逃せない。下町では、銀座、木挽町、神田が登場する。また、当時は汐留の新橋停車場が東京の中央駅であったので、主人公もここに足を運ぶことがある。
 主人公長井代助は30歳の高等遊民である。学校を卒業しても定職を持たない。父、得の庇護を受けて生活している。牛込区袋町5番地あたりに家を借りて住んでいる。婆さんを傭い、書生を置く結構な身分である。
 代助の家を袋町と推定したのは、「ところ天氣てんき模樣もやうわるくなって、藁店わらだながりけるとぽつ/\した」との描写があるからだ。江戸から明治にかけて、東京には二つの藁店があった。一つは、金杉の方で、一つは、神楽坂であった。この名称は金杉の場合も、神楽坂の場合も、いわゆる通りの通称であって、地名辞典の類に公式に書き記され、現行町名の丁目や番地を与えられているわけではない。そのために、とかく曖昧である。
 漱石は「僕の昔」と題する談話の中でも、「落語はなしか。落語はなしはすきで、よく牛込の肴町の和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ」といっている。正確には和良店亭で、これが牛込館となり、大正、昭和を通して、牛込、小石川の山の手族に洋画を提供する場となった。場所は袋町三番地と四番地にまたがっていた。


江戸川 神田川中流。昭和40年以前には、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
高等遊民 こうとうゆうみん。明治末期から昭和初期にかけて、世俗的な労苦を嫌い、定職につかず、自由に暮らしている人。
牛込区袋町五番地 地図を参照。

昭和5年 牛込区全図

昭和5年 牛込区全図

書生 学問を身につけるために勉強をしている人。他家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する人。
藁店 原義は「わらを売る店」。槌田満文編「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)では「藁店は牛込区袋町(新宿区袋町)と肴町(新宿区神楽坂五丁目)のあいだ、地蔵坂(藁坂)下の狸俗名」
金杉 東京都台東区金杉でしょうか。不明です。なお、至文堂編集部の『川柳江戸名所図会』(至文堂、昭和47年)では「もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという」。筋違橋は神田川にかかる万世橋の前身です。
袋町三番地と四番地 正確に言えば、牛込館(現在はリバティハウスと神楽坂センタービル)が建っていた場所は袋町3番地だけでした。

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)


 代助の借家は藁坂の上の袋町に、三千代の借家は金剛寺坂、または安藤坂を昇り詰めた小石川表町の高台に設定されている。この設定の仕方に注意してみたい。単に漱石が自分の住んだことのある地域を無雑作に選んだと見倣してよいだろうか。現在でも、この二つの地域を結ぶ便利な交通機関は発達していない。山水の形状が、それを阻害している。
 漱石は代助と三千代を両方の高台に住まわせることで、二人の逢う瀬の難しさを高めようとしたのではなかろうか。これは無意識な操作であったかもしれない。特に、心臓の悪い三千代に急坂を登り降りさせ、それで躰に変調を招くことで、代助の同情を深める。
 「それから」の執筆された明治42年の夏から秋にかけて、いわゆる東京鉄道時代の市電は、延長につぐ延長で、市内は刻一刻と便利になっていった。しかし、三千代が代助の家に行く電車は、それほど便利ではなかった。一つは小石川表町から春日町に出る。ここで乗り換え、水道橋まで行く。さらに、外濠線に乗り換え、牛込見附で下車する。ここから神楽坂を昇り、さらに一息ついで、地蔵坂を昇る。か弱い三千代には、かなりの強行軍だ、もう一つの道は、往路だけには便利だと思う。金剛寺坂か安藤坂を降り、大曲まで歩く。ここから市電で飯田橋に行き、乗り換えて牛込見附に出る。あとは徒歩である。戦前の牛込肴町を知っている読者だと、三千代が水道橋か飯田橋から角筈行に乗って、牛込肴町で下車すれば、神楽坂の急坂を避けることができたと思われるかもしれない。ところが、飯田橋-牛込柳町間の市電が開通するのは、大正元年暮のことであって、三千代の頃には工事中であった。

金剛寺坂 本田労働会館わきを通って地下鉄丸ノ内線を越え、巻石通り交差点近くに出る狭い道(下図の橙色の坂道)
安藤坂 安藤坂交差点から伝通院前交差点までの道(下図の紫色の坂道)
伝通院、金剛寺坂と安藤坂
小石川表町 伝通院や善光寺あたり一帯を表町と呼んだ。以前は伝通院前表町。

表町

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」(1981年)から

一つ 以下は図を書いていますから、それを参考してください。黒の実線や点線は当時何本があった市電の線路、黄色は徒歩で、赤色の実線は市電で動いた距離。青はそれぞれの借家です。

江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

原図は明治44年の市電。一部を変更。江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

牛込見附 市電の駅です。国鉄(現在のJR)の駅は牛込駅でしたが、1928年(昭和3年)から飯田橋駅にかわりました。
牛込肴町角筈牛込柳町 下図を参照。

日本鉄道旅行地図帳

昭和7年の市電系統図。今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」新潮社。2008年

[硝子戸]
[漱石の本]
[漱石雑事]

「夏目君、君のボートの腕前は…」伊集院静氏

文学と神楽坂

 伊集院静氏の「『夏目君、君のボートの腕前はどんなもんぞな?』(子規)」(シグネチャー、2020年)です。

昨秋から新聞小説を執筆していて、主人公が明治、大正期に活躍した夏目漱石ということもあり、漱石の生まれ育った牛込や、浅草界隈を散策することが多くなった。
 丁度、長く仕事場にしていたお茶の水のホテルから、神楽坂の丘の上にあるホテルに移ってしばらくして、連載小説の執筆がはじまった。
 漱石の誕生、幼少、少年時代から書きはじめることになったのだが、百五十年前の話であるから、遠い時間を想像するのだが、さしてそれが遠い日のことではないのは、七、八年前、漱石と同時代に生きた正岡子規のことを書いた経験で、幕末、明治はつい昨日のことでもあるという考え方ができるようになっていた。

新聞 日本経済新聞
小説 2019年9月11日から伊集院静氏の「ミチクサ先生」が始まりました。
お茶の水のホテル おそらく「山の上ホテル」
神楽坂の丘の上にあるホテル おそらく「アグネス ホテル アンド アパートメンツ東京」
連載小説 伊集院静氏の「ミチクサ先生」が『日本経済新聞』で始まりました。
書いた経験 伊集院静氏の「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社、2013)です。

 新しい仕事場になった神楽坂から、漱石の誕生した牛込坂下すぐ近くである。
 漱石記念館も静かで、思惟するには良い所であった。
 散策する場所を、物語の主人公が歩いていたり、赤ん坊の時なら、泣いていたりしていたのだろう、と想像するのは楽しいものだ。
 漱石は生まれてすぐ実母が高齢だったので、乳を貰わねばならず、里子に出された。里子に出されたが古道具屋だった。が心配になって夕刻見に行くと、夜店の商売道具を陳列した坂の隅に寵に入れられた弟がいたというので、あわてて抱いて帰ったという。その夜店のあった内藤新宿にも、夕刻行ってみたが、今はマンションになっていた。同じく乳を与えたのが、今、毘沙門天のある大通りの前の煎餅屋隣りの二階に髪結いの店があり、そこの女房であったらしい。昼間出かけた折、今は焼鳥屋になっている二階をしばらく眺めていた。
 どんな目をした、どんな赤児が、乳母の乳を飲み、満腹になるとどんな顔で眠っていたのだろうか、と想像した。

牛込坂下 「牛込坂」という坂はありません。漱石が誕生した場所は「早稲田前交差点」から「夏目坂」をのぼりかけた所です。また、誕生した坂は夏目坂です。『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)の想像図を使うと夏目家は赤色で囲まれた場所でした。

夏目漱石博物館

夏目漱石博物館

すぐ近く 「夏目漱石誕生の地」(新宿区喜久井町1番地)から「神楽坂下交差点」までは徒歩で約28分もかかります。また「夏目漱石誕生の地」から「アグネスホテル」までは徒歩で同じく約28分です。
漱石記念館 正しくは「新宿区立漱石山房記念館」です。
実母 母ちゑは数え年42歳でした。
 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 二月中旬、または下旬(不確かな推定)、母乳不足も原因となり、生後ただちに四っ谷の古道具屋に里子にやられる。源兵衛村(豊多摩郡戸塚村宇源兵衛村、現・新宿区戸塚)の八百屋ともいわれる。里子にやられる前後に、神楽坂の平野理髪店の主婦から貰い乳をする。

 夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』(角川書店、1966年)では

(四っ谷の古道具屋は)毎夜お天気がいいと四谷の大通りへ夜店を張る大道商人だったのです。
 ある晩高田の姉さんが四谷の通りを歩いていますと、大道の古道具店のそばに、おはちいれ、、、、、に入れられた赤ん坊が、暗いランプに顔を照らしだされて、かわいらしく眠っております。近よってみるとまごう方なくそれが先ごろ里子にやった弟の「金ちゃん」なのです。何がなんでもおはちいれ、、、、、に入れられて大道の野天の下に寝せられているのはひどい。姉さんはむしようにかわいそうになつて、いきなり抱きかかえて家へかえつて参りました。が一時の気の毒さで連れ帰って来てはみたものの、もともと家には乳がありません。そこでお乳欲しさに一晩じゆう泣きどおしに泣き明かす始末に、連れて来た姉さんは父からさんざん叱られて、しかたなしにまたその古道具屋へかえしてしまいました。こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。
高田の姉 「高田の姉」とは漱石の腹違いの二番目の姉にあたり、ふさです。

その夜店 漱石が夜店に関係したのは、四谷で里子になった時だけです。生まれたときからすぐに里子になり、実家に戻った年月は不明ですが、一年ぐらいでしょうか。続いて内藤新宿北裏町の塩原昌之助の養子になりましたが、時期は明治元年ごろからでした(他の説もあり)。「内藤新宿に夜台があった」と「四谷に夜台があった」とは同一ではありません。「内藤新宿に養父母が住んでいた」のほうが正しいと思います。
内藤新宿 江戸時代に設けられた宿場の一つで、新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯。荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)の中に梅沢彦太郎氏の「夏目漱石の遺墨」『日本医事新報』(第929号、発行は昭和15年6月15日)によれば

漱石さんは五歳の頃、古道具屋へ里子に遣られた。それは自分が母親に連れられて神樂坂の毘沙門さんの緣日に遊びに行つたら、金ちやんが籠に入って、がらくた、、、、道具と一緒に緣日に出てゐたといふので、それは先生が末子で、除りに母親が年をとってから出来たので世間體を恥ぢて里子にやられたもので、その古道具屋は、先生を連れては、淺草、四谷、神樂坂と轉々として夜店を出してをつたものらしく、それでがらくた、、、、道具を列べた傍の籠の中に先生を蒲團にくるんで置いてをつたものであります。
 それで、金ちゃんが笊に入つてゐると言つてをつたので、廣森の母親は漱石先生一家とも交際があったものだから、早速、これを先生の御両親にも傅へた。それで、先生の御一家でも驚かれて、寒いのに、夜店にがらくた、、、、道具と一緒に並べておかれてはといふので、遂に引取つて、實家から小學校にも上り、それで小學校時代から先生とずつと友達だつたと廣森は私に話してゐました
浅草、四谷、神楽坂 この3か所には夜店が出ています。

同じく乳を与えた 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 母親は乳が出なかったので、神楽坂の毘沙門天(日蓮宗鎮護山護国寺、現・新宿区神楽坂五丁目三十六番)前の平野という床屋(髪結かみゆい)の先代(または先々代)の主婦から乳を貰う。(鏡・昭和三年)これは、森田草平が漱石から直接聞いている。漱石は直矩から聞いたものと思われる。里子に出される前後らしいが、後であったとも想像される。

「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』(新宿区教育委員会、昭和45年)では「床ヤ・平の」と書いてあります。

平野という床屋

平野という床屋。「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』昭和45年新宿区教育委員会。

煎餅屋 「毘沙門せんべい 福屋」です。以前は「履物・三河屋」でした。
隣りの二階 「神楽坂界隈の変遷」によれば、居酒屋「伊勢藤」の方が正しいでしょう。「隣りの二階」ではなく「向こう隣りの家で1階」でした。
焼鳥屋 「神楽坂 鳥茶屋」です。当時は「魚國」でした。

 その髪結いのあった場所から五分も歩いた所に地蔵坂という坂があり、その坂の途中に、『和良わらだなてい』という寄席小屋があり、漱石は四、五歳から姉や兄に連れられて寄席へ行っていた。
 子供が寄席へ? と思われようが、江戸中期に全盛を迎えた寄席小屋は、町内にひとつの割合いで店を出していた。子供も父親や家の贔屓の役者、噺家はなしかの楽屋へ遊びに行き、菓子等をもらっていた。その『和良店亭』のあった坂道に立つと、一高の学生になった漱石が子規と二人で寄席見物に出かけた姿を思い、何やら楽しい気分になった。

地蔵坂 神楽坂通り5丁目から光照寺に行く坂。地域名は藁店わらだな
和良店亭 江戸時代からの牛込で一番の寄席。寄席は閉店し、明治39年に「牛込高等演芸館」が新築されました。
四、五歳 矢野誠一氏の『文人たちの寄席』(文春文庫)では

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。


 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治2年、数え年3歳で、

12月20日(陰暦11月18日)(推定)、『桃山譚』の「地震の場」の初日を養父昌之助に連れられて観に行く。(最初の記憶)(小森隆吉)

と書かれています。
姉や兄に連れられて 八歳になる前の漱石は養子で、養父母のもと、一人っ子として生活しました(荒正人著『漱石研究年表 増補改訂版』集英社、昭和59年)。漱石が四、五歳の時に「姉や兄に連れられ」たという経験はおそらくありません。
[漱石雑事]
[漱石の本]
[硝子戸]

地蔵坂|散歩(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 地蔵坂(別名、藁坂(わらさか)藁店(わらだな))を下から上まで散歩しましょう。場所はここです。最初は神楽坂5丁目が出発点です。
 下の写真はどこに触れても自由に動きます。上向きの矢は一つ写真を前に進めます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。左下の数字は現在の写真です。
現在は「串カツ田中」。以前は「かぐらちゃか餃子庵」。その前は和カフェ「かぐらちゃか」。さらに前は「もん」で、店長のお父さんが神楽坂2丁目のペコちゃんの店主。さらに前は「あかつき」でした。

餃子庵

餃子庵

なんと神楽坂5丁目の右側はこれで終わりです。代わりに右側は「袋町」になります。
 では、神楽坂5丁目の左側は? 「上海ピーマン」は安いと有名。店舗が小さいのも有名。

さらに散髪屋と懐石料理店「真名井(まない)」があります。残念ながら閉店。16年2月に「神楽坂 鳥伸」に。
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石鐵ビルの前身は小林石工店。
 かつての小林石工店。安政時代からやっていましたが、閉店。

小林石工店1

以上、神楽坂5丁目の左側です。これからは「袋町」です。袋町は豊嶋郡野方領牛込村と呼びました。この地の寄席「和良店」には江戸後期、写し絵の都楽や、都々逸坊扇歌が進出しています。寄席文化が花開いた場所なのです。

最初は「肉寿司」。肉寿司

以前は八百屋「丸喜屋」でした。いつも野菜や果物でいっぱいになった店舗でした。
丸喜屋2
 続いて、イタリア料理店のAlberini。Alberini

鳥竹とりたけの魚河岸料理・鳥料理、そのマンションの奥には「インタレスト」や「temame」など3軒。
temame
 ブティック・ケイズは婦人服の店兼白髪ファッション。へー、NHKの「ためしてガッテン」にも出ていたんだ。平成12年の「着やせ術」についてでています。

keys
 このブティック・ケイズが入るリバティハウスと、フランス料理のカーヴ・ド・コンマ(これも閉店)が入る隣の神楽坂センタービルは昔は1つの建物でした。昔は和良店(わらだな)から、藁店・笑楽亭、牛込高等演芸館、牛込館に変わりました。別に項を変えて書きます。
カーヴ・ド・コンマ
 坂本歯科も今も続き、「ギャルリー(ファン)」はギャラリーブティックでしたが、閉店に。現在は彫刻家具「良工房」になりました。
良工房
 また、反対側にはヘアーの専門店「ログサロン」。昔は(みやこ)館支店と呼び、明治、大正、昭和初期の下宿で、たくさんの名前だけは聞いたことがある文士達が住んでいました。ログサロン

標柱もたたっています。

地蔵坂(じぞうざか)
 この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。そこにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、(わら)を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

ここで標柱の上と下をみておきます。
坂2

上には手焼き煎餅の「地蔵屋」も見えます。
坂1

さらに上に上がって光照寺、反対側には同じ標柱があります。

2013年6月7日→2019年5月23日


牛込郷愁

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ郷愁ノスタルジヤ」です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、起きました。

 なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。

 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈(けんとう)がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

 こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ虎男とらお獨歩どっぽの長男)と、平野威馬雄いまおヘンリイビイブイというアメリカ人で日本の勲章を持っている人のせがれ)と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさに僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり、昔の友達は意気があいすぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイじゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが酒店の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちんをつけた自転車が三台、続いて文明館のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえをよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。
 まだある。二十一、二の時分に神楽館かぐらかんという下宿にいた。白木屋の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺいことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎かわさき備寛びかん間宮まみや茂輔もすけ、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは万長酒店です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。

川柳江戸名所図会⑤|至文堂

文学と神楽坂

「藁店」と書いてありますが、由井正雪のことが中心です。由井正雪は榎町に軍学塾「張孔堂」を開き、門弟は一時4000人以上でした。由井正雪は藁店にも住んだことがあるようです。

藁   店

牛込に榎町という町がある。
  本郷春木うしこみ夏木なり (三二・42)
 本郷に春木町というところがあるのに対比させた句である。牛込を昔は<うしこみ>ともよんだ。
 この榎町に由井正雪張孔堂という邸宅を構え、門弟四千人を擁していたという。
   うし込のがつそうきものふといやつ    (天二・三・二七)
 この句、一七・39には「うしこみの」となっている。がっそうとは、総髪、なでつけ髪で、正雪の風采を語っている。ッ
   牛込先生とんだ事をたくらみ       (傍三・33)
 神楽坂を上り、善国寺を通り越してすぐの左への横丁を袋町という。もと行き止まりになっていたからだという。またこの辺りに藁を扱う店があったので〈藁店〉ともいう。
   わらだなでよベ逃げてくなまこうり   (五七・29)
 藁でなまこをくくると溶けるという俗信による句である。もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという。

静岡市菩提樹院の由比正雪像

榎町 えのきちょう。新宿区の北東部にある。
春木 現在は本郷3丁目の大部分。
由井正雪 ゆいしょうせつ。江戸初期の兵法家。軍学塾「張孔堂」を開き、クーデターを画策。出生は1605年。享年は1651年。
張孔堂 楠木流軍学の教授所、軍学塾「張孔堂ちょうこうどう」を。塾名は、中国の名軍師2人、張子房と諸葛孔明に由来する。この道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱えたという。諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。
邸宅 場所は牛込榎町の広大な道場でした。しかし、事件の6年後に生まれた新井あらい白石はくせきは、正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田連雀れんじゃく町の五間いつまの裏店であったと書いています。(新井白石、今泉定介編『新井白石全集 第5巻』吉川半七、1906)

駿河の由井の紺屋の子と申し候さもあるべく候神田の連雀町と申す町のうらやに五間ほどのたなをかり候て三間は手習子を集め候所とし二間の所に住居候よし中々あさましき浪人朝不夕の體にて旗本衆又家中の歴々をその所へ引つけ高砂やのうたひの中にて軍法を伝授し候
がっそう 兀僧。江戸時代の男の髪形。成人男子は前額部から頭上にかけて髪をそり上げた(月代さかやきを剃らした)が、剃らず、のばした髪を頭上で束ねたもの。
きものふとい 肝の太い。物に動じない。大胆である。
とんだ事 幕府転覆を企てたこと。事前に発覚し、由井正雪は自刃した。これが慶安事件です。
袋町 現在の袋町はやや大きい(右図の紫の場所)のですが、江戸時代では小さい場所(藁店の一部で赤の場所)でした。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。
なまこうり 海鼠売り。ナマコを売る人。季語は冬

 さて、正雪が藁店に住んだとも考えられていたようで、
   御弓丁からわら店へ度々かよひ      (天三松2)
 御弓丁は、後の本郷弓町で、丸橋忠弥の住んでいた所である。
   藁店は今も雲気を見る所         (桜・12)
 この句は今と昔とを対比させているわけであるが、今の方は、幕府の天文台のことで、はじめ神田佐久間町にあったものを、明和二年、吉田四郎三郎によって、この藁店へ移した。しかし西南方の遠望に障りがあるというので。その子の吉田靱負の時、天明二年に浅草堀田原へ引越した。此句は明和四年であるから此句の作られた時はまだ藁店にあった。
 もう一方、昔の方は、正雪のことで、慶安四年四月二十日の晩、道灌山に同志と集って手筈を定めたが、丸橋忠弥の軽率から露見し、忠弥は二十四日召捕られた。正雪は駿府にいたが、26日早朝、旅館梅屋方を立出て、東の方の空を仰いで天文を占ったところ、陰謀の露見を知り、自決したという。
 この句の作者は、正雪が牛込にいて雲気を見たと誤解して、昔、正雪が雲気を見、今は天文台で雲気を見ると対比させたわけである。
藁店に住んだ 昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』13.「由比正雪の抜け穴」では「神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいたくすのき不伝ふでんの道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた」と書いてあります。
御弓丁 おゆみちょう。明治時代は弓町。現在は 東京都文京区本郷2丁目の1部です。
丸橋忠弥 まるばしちゅうや。宝蔵院流槍術の達人。江戸時代前期、慶安4 (1651) 年、由井正雪らとともに江戸幕府倒壊を計画したが、事前に発覚。町奉行に逮捕され、品川で磔刑に処した。
雲気 うんき。空中に立ち上る異様の気。昔、天文家や兵術家が天候・吉凶などを判断する根拠にした。
吉田四郎三郎 1703-1787年、江戸時代中期の暦算家。明和元年、幕府天文方となり、宝暦暦の修正案をまとめた。佐々木文次郎の名で知られたが、晩年吉田四郎三郎に改名。
吉田靱負 吉田四郎三郎の子
浅草堀田原 現在は台東区蔵前の「国際通り」の「寿3丁目」交差点から「蔵前小学校」交差点までの地域です。
道灌山 どうかんやま。荒川区西日暮里付近の高台。そばに開成中学校・高等学校がある。
駿府 現在の静岡県静岡市。

 しかし駿府にいたという句もあって
   悪人するがと江戸でおつとらへ     (安八松4)
   ふとひやつするがと江戸でとらへられ   (安六松3)
   ふてゑ奴ッ江戸と駿河でとらへられ    (筥初・37)
   十能に達し久能で雪消へ        (一三四・3)
   不屈な雪駿州へ来て消る         (五四・33)
と言っている。また正雪が天文に達していたことについては、
   正雪にわか雨にあわぬなり      (安六義5)
という句もある。また、朝食の膳に向い、飯の上に立つ湯気によって露見を悟ったともいうので、
   冷飯を喰ふと正雪知れぬとこ       (五九・29)
   大望もすへる駿河の飯の湯気       (一四八・3)
 飯の饐えるにかけて言っている。
十能 じゅうのう。点火している炭火を運んだり,かき落したりする道具
久能 くのう。久能村で、静岡県の中部にある。
不屈 どんな困難にぶつかっても、意志を貫くこと。
すえる。饐える すえる。飲食物が腐ってすっぱくなる。


夏目漱石「それから」|神楽坂

「それから」は明治42年に夏目漱石氏が書いた小説です。
 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂、あるいは、藁店わらだなの上で、おそらく袋町に住んでいます。
 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。
 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。
 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。

一の一
 誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄

 これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。
 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。

八の一
 神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いてようやく安心した。
 家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略)
 その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

神楽坂 初めて神楽坂が出てきます。新宿区東部の地名。
ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では

 三月十四日 日[曜]
 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。

日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。

八の二
 仕舞にアンニュイを感じ出した。何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂から外濠そとぼりへ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近

十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。

十一の一
 新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。

十三の二
 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

電車 これも路面電車でしょう

十四の六
 津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういん焼跡の前へ出た。(中略)
 神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。
 ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨をいて又坂を上った。花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(下図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始

安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊」でしょうか?

十六の四
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。

門野 代助の書生です。

十六の七
平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門びしゃもんまえへ出た。(中略)
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。

「一七の三」で最後の文章です。

十七の三
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略)
 たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。(了)

飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈④

 去り難い気持であったが、わたくしはそのまま崖沿いの道を西へ歩いた。するとすぐに若宮町の一角の若宮八幡宮の境内に入る。戦災後昔の面影を失い、境内は附近の児童の遊園地になっている。そこを横切って道路に出るとそのまま右へ辿ることにした。その先は(とら)の日(うま)の日縁日でも知られた神楽坂毘沙(びしや)門天(もんてん)の脇から神楽坂通りに出るからである。
 毘沙門天の境内は、折から桜の花の真盛りで、子供連れの女のお詣り姿も見える。しかし境内でどうやら戦前からの面彫を残しているのは、表通りに面したコンクリートの玉垣位である。玉垣には寄進者の名が刻まれて、そのまま貴重な街の記録となっているが、正面入口の玉垣を見ると「カフエー田原屋」の文字がある。カフエーという名は大正時代からの記録で、戦前の神楽坂をわたくしに思い出させた。
 毘沙門天の向い側には相馬屋という文房具屋が昔のところにある。戦前にはこの店でもしばしば原稿用紙などを買った記憶がある。
 大通りから南へ分れた登り坂の通は、以前は江戸以来の通称で藁店と呼ばれていた。その坂の右側にも神楽坂キネマというセカンド・ランの洋画専門の映画館があったのも昭和はじめのなつかしい思い出である。その上はもう袋町の台地で、牛込氏居城の跡でもあったらしいことは前にも書いた。
 牛込肴町の名は消えて、まだ取払われずに残って南北に走りつづけている都電の停留場の名も、神楽坂に変っている。以前は電車の中で「牛込肴町、お降りの方はありませんか」と車掌の呼び声をきいた。今の地図では大久保通りとなっている電車通りと神楽坂通りの交叉点に立ちながら、わたくしは、このあたりの古社として有名な筑土八幡宮に久しく行かないことを思い出した。そこは交叉点から電車通りをそのまま北へ歩いて東へ折れたその道路の北側で、地図を見ると、そのあたりだけは八幡宮のある筑土八幡町も、その両隣りの津久上町や白銀町も、どうやら昔のままである。
 高い石段のある筑土八幡宮はその左側の筑土神社並んでいたが、今は筑土神社は少し離れた西側の白銀町に移り、八幡宮だけがどうやら昔の面影をのこLている。面影と云ってもそれは正面の高い石段だけで、それを登った境内は大きな銀杏(いちょう)の根株と、その前の猿の絵を浮彫りした古碑や、鉄の用水鉢以外は、本堂も社務所も戦後の再建である。その東側には津久土町の厚生年金病院のビルが、八幡宮を威圧するように高く(そび)えている。
 久しぶりに筑土八幡宮の石段を登りながら、わたくしはこの八幡宮下の柿ノ木横丁にあった薙城(なぎしろ)という下宿屋に、尾崎紅葉文学塾を出て読売新聞に勤めることになった徳田秋聲が、明治三十二年(一八九九)二月からしばらく下宿したことなど思い出していた。しかし柿ノ木横丁という小路など、もう今では夢物語にすぎない。ようやく登り着いた境内の片側に小学唱歌の「金太郎」その他のいわゆる言文一致唱歌の作詞作曲家だった「田村虎藏先生をたゝえる碑」がある。花崗かこう岩の表には「まさかりかついできんたろう」の五線譜が刻まれ、またその下に「田村先生(一八七三~一九四三)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職、言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と碑文がある。田村と筑土八幡のゆかりがわからないので、折から社務所から出て来た宮司らしい老人に(たず)ねると、田村虎蔵は晩年八幡宮の裏側高台に住んでいたから、有志によって四年前の昭和四十年に、この碑がここに建てられたのだとわかった。
寅の日 十二支の寅の日。12日ごとに巡ってくる吉日で、特に最も金運に縁がある日
午の日 十二支のうしにあたる日。
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。
玉垣 たまがき。皇居・神社の周囲に巡らした垣。垣が二重にあるときは外側のもの。
寄進者の名が刻まれて 現在はありません。昔はありました。写真は池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)から。玉垣には寄進者の名前が載っていました。昭和46年に今の本堂を建て、そこでなくなったのでしょう。   玉垣には寄進者の名前でしょうか、何かが載っていました。しかし、下の現在、左右の玉垣ではなにもなくなっています。写真では左の玉垣を示します。

カフエー田原屋 5丁目の田原屋(1階は果物屋、2階はレストラン)か、三丁目にあった「果物 田原屋」のどちかでしょう。
神楽坂キネマ 牛込館のことでしょう。神楽坂キネマはわかりません。
セカンド・ラン 二番館とも。一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館
牛込肴町 現在は神楽坂五丁目
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。
白銀町に移り その事実はなさそうです。
厚生年金病院 新宿区津久戸町5−1にあります。現在は東京新宿メディカルセンターと改称。図で右側のビル。左は筑土八幡神社。
柿ノ木横丁 新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』「揚場町」(平成22年)では「(揚場町と)下宮比町との間を俗にかき横丁よこちょうといった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという」
薙城館 不明です。東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正十一年)ではありません。
文学塾 詩星堂とか十千万堂塾と呼ばれました。
宮司 神社に仕え、祭祀、造営、庶務などをつかさどる者の長。
八幡宮の裏側高台 筑土八幡町31番地に田村虎蔵旧居跡があります。

東京俳優学校と牛込高等演芸館

文学と神楽坂

かぐらむら』の「藤澤浅二郎と東京俳優学校」を読むと「東京俳優学校」や「牛込高等演芸館」についていろいろな情報が入ってきます。

藤澤浅二郎と東京俳優学校(2010/06)
 神楽坂通りから光照寺に行く地蔵坂の右手の袋町3番地には、かつて、江戸時代から続く、牛込で第一と言われた寄席があった。夏目漱石が通い中流以上の耳の肥えたお客が集まったという「和良店亭」である。明治41年、新派の俳優、藤澤浅二郎は、この場所に、日本で初めての俳優養成所(後に私立東京俳優学校と改称)を開設した。この頃はまだ、江戸時代の慣習が色濃く、歌舞伎役者の地縁や血縁にある人だけが、芝居を行っていた。けれども文学の多様化により従来の型にはまらない、新しい表現のできる俳優が必要とされていた。
「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
(「和良店亭」の席亭である竹本)小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。(中略)

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤氏は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。 藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

東京俳優学校の開設
 当初は、(藤澤氏は)西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。
入学前後の様子
 生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。最終合格者は23名であった。
 授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。
授業の内容と生徒達
 毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。(中略)
赤字、そして閉校
 生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。(中略)。
 第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。


『ここは牛込、神楽坂』第7号の「地蔵坂」で、高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では
 この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

 一方、同じく同号で、作家山下武は
 牛込館の前身、牛込高等演芸館では藤沢浅二郎の俳優学校が設けられ、創作試演会が上演されたそうだ。

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では
 藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを独力で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設し、ここの舞台に立つことは俳優を目指す者のあこがれになり、多くの俳優を育てた。

藁店

明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館

と書いています。ただし「独力で高等演芸館に改装」したのは寄席「高等演芸館・和良店」の佐藤康之助氏でした。
 野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和50年9月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

 紅谷研究家の谷口典子氏は「かぐらむら」平成25年4・5月第67号で
 高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。高等演芸館は再度改築され、大正三年六月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。2年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。

谷口典子。「牛込『高等演芸館』」「かぐらむら』平成25年。67号

牛込高等演芸館。神楽坂の賑わいこのまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産)

牛込館の場所

文学と神楽坂

「牛込館」の場所はどこにあったのでしょうか。

牛込館

ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で

糸山 石鐵さんの前には映画館があったんですよ
小林 ええ、牛込館ですね
吉野 洋画専門でね
牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、別の施設になっている

 現在の地図と昔の地図を加えると、リバティハウスと神楽坂センタービル2つを加えて「牛込館」になるのでしょう。

 なお、牛込館の南側の(みやこ)館は明治、大正、昭和初期の下宿で、たくさんの名前だけは聞いたことがある文士達が住んでいました。現在の都館の場所はLog Salonです。

「牛込館」について、細かくは夢をつむぐ牛込館で扱います。

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

 1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし5月、94歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(84)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正10年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ1回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……。
観客席

観客席

 帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が10年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……。

文士が住んだ街

 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、7銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は50銭だったが、牛込館は20銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちゃ研究家の斎藤良輔さんも昭和5、6年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和4年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和10年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治39年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館2軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

 現在の リバティハウスと神楽坂センタービル。この2館が旧牛込館の場所に立っている。360°カメラです。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座


神楽坂一平荘

文学と神楽坂

 一平荘2015年1月2日から12日まで日本橋高島屋で川瀬()(すい)展が開かれました。そこで「神楽坂一平荘」の木版画も出ていました。「神楽坂一平荘」が出るのはこんな展覧会では初めてだといいます。沢山の木版画の中で小さな画なのにちょっと胸を張って出品していました。日本の作品集にも出たことはないそうです。

 大体、こんなことが書いてありました。

「昭和東都 著名料亭百景」
昭和15年8月16日、加藤を仲介として多田に会い、牛込、両国、池之端、神楽坂の料亭「一平荘」を版画として製作した。これが「版元 多田鉄之介」、制作は加藤潤二と考えられる「昭和東都著名料亭百景」である。著名料亭百景とはいえ、実際に制作されたのは巴水の記録から両国、神楽坂、池之端の3図が可能性が高い。

<神楽坂一平荘> 一般初公開!
写真図版等により作品の存在自体は知られていたが、過去展覧会等に出展した記録はなく、今回の日本橋高島屋の展覧会が一般初公開。


 こちらは有名な「芝増上寺」です。芝増上寺

 実際にあった一平荘はここです。

都館|文士が多し

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。現在は牛込館はLiberty houseと神楽坂センタービルに、都館支店はLog Salonに当たります。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

袋町|イチョウと旧日本出版会館

文学と神楽坂

 日本出版会館と日本出版クラブ会館は牛込城があったとされる光照寺の正面に並んで建っていました。
 日本出版クラブは、「出版界の総親和」という精神を掲げ、1953年9月に設立。1957年(昭32)、181社が参加して日本書籍出版協会を設立し、1957年8月には日本出版クラブ会館が落成。創設60周年を迎える2013年、一般財団に移行しました。
 この会館は財団法人・日本出版クラブが運営し、一般の方でもレストランや宴会場、会議室など複合施設で利用が可能でした。
 隣りにあるのは、日本出版会館。財団法人・日本書籍出版協会が入り、著作権の問題や違法コピーへの対策、読書離れなど、高度情報化社会の発展により生じる新たな問題への対応も行っていました。
 2018年、日本出版クラブはクラブ ライブラリーとして神保町に移転し、かわってマンションを建築。2023年7月、ようやく「プラウド神楽坂ヒルトップ」は落成。

出版会館

かつての出版会館。現在(2019年)は工事中。

 ここには大きなイチョウの木がたっています。その前には

新宿区保護樹木
 樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中、焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。(新宿区平和マップより)

 現在はイチョウの木と看板だけがあります。

 その上には、現在は何もないのですが、2013年初めまで、この土地の歴史の変遷が書いてありました。

「新暦調御用所(天文屋敷)跡」 新宿区袋町6番地

 この土地の歴史の変遷当地は天正18年(1590年)徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の1部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保2年(1645年)居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。
 その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衞門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。享保16年(1731年)4月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召上げられさら地となった。明和2年(1765年)当時使われていた(ほう)(りゃく)(れき)の不備を正すため、天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の1部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和6年に修正終了したが、天明2年(1782年)近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明7年85歳で没す。墓は南麻布光林寺。以降天明年中は火除地にもどされ、寬政から慶応までの間、2~3軒の武家屋敷として住み続けられた。
 弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和20年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。
 戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和30年日本出版クラブ用地となり会館建設工事を進めるうち、地下30尺で大きな横穴 を発見、牛込城の遺跡・江戸城と関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和32年会館完成現在に至っている。
  2007(平成19)年1月
       平木基治記(元文藝春秋)
        ”天文屋敷とは?”……パンフレット あります。
             出版クラブ受付まで

光照寺 光照寺はここに。
定説 実際は定説があり、ないのが間違い。詳説は幡随院長兵衛について
火除地 火除地について
新暦調御用所 浅草天文屋敷について書いています
一平荘 一平荘について、巴水の絵が綺麗
高校 一平荘は税金が払えなかったため、高校に代わりました
横穴 由比正雪の抜け穴ではと大騒ぎになります。切支丹の仏像について

また『拝啓、父上様』の第10話で、こんなエピソードを書いています。

出版クラブ
  お引きめ。
  集まっている人々。
「その日は神楽坂の新年会に当たる “お引き初め”が出版クラブであり、その流れで“坂下”も忙しかった。

 テレビででたのは本当に一瞬です。

出版クラブ11

袋町|火除明地と新暦調御用所

文学と神楽坂


よけあき

 これは、江戸時代、火事の延焼を防ぎ、避難所として設けた空き地です。
 幕府は1657年の明暦(めいれき)大火以後、特に享保期(1716~1736)に、多くの火除地を作りました。
 町民の火除地では当初は防火機能だけでしたが、18世紀には次第に庶民の都市活動の場として火除地の利用は盛んになりました。
 一方、武家地に立地する火除地では馬場、御放鷹の場、官有稽古場、袋町では御鉄炮稽古場が作られていますが、眺望の良い場所以外には賑わった空間ではなかったようです。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁。

新暦しんれき調しらべ御用屋敷

 宝暦13年(1763)、日蝕の記載に漏れがあり、明和元年(1764)、幕府は佐々木ささきもんろう天文方てんもんがたに任命し、翌2年、光照寺門前の火除明地に「新暦調御用屋敷」をつくっています。いわゆる天文屋敷です。
 明和8年(1771)「修正ほうりゃくれき」を完成しました。しかしこの天文台の木立は茂り、不都合が出て、天明二年(1782)、牛込藁店わなだな(現袋町)から浅草鳥越とりごえに移っています。

 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆその後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり  天文の術に長しけれは召出されやかてこひ奉りこの所に司天臺を建て天文をはかれりされとこの地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

 浅草天文台は葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」にも出ています。

葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」

 天文方は編暦・天文・測量・地誌・洋書翻訳を職務として、当時の学問の最先端を行く所でした。この球体は天体の角度などを測定する「渾天こんてん」から黄道環こうどうかんを取り、簡略化したもので、「簡天かんてん」といいます。

 手前の屋根の下には、天体の高度を測定する「しょうげん」があります。たぶん、牛込藁店もほぼ似たような屋敷だと思います。

『寛政暦書』 渋川景佑他編 35巻35冊 http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/exhibition/006/011.jpg

寛政暦書』 渋川景佑他編 35巻35冊

袋町|幡随院長兵衛

文学と神楽坂

 袋町の一平荘が建っていた場所は、はたして(ばん)(ずい)(いん)(ちょう)兵衛(べえ)が殺された場所なのでしょうか? 一平荘はそういっていたようですが。結論を言えば違います。
 幡随院長兵衛は江戸時代の町人で、生まれは元和8年(1622年)、死亡は明暦3年7月18日(1657/8/27)です。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われました。彼と水野(みずの)十郎(じゅうろう)左衛門(ざえもん)はどちらも「かぶきもの」でした。ウィキペディアによると「かぶき者もの(傾奇者・歌舞伎者とも表記)」とは「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと」です。
 また東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」についてこう書かれています。

(「かぶき者」は身分の低い中間・小者・草履取・六尺など武家奉公人を指すのが普通ですが)同様の意識と行動をとった旗本もおり、彼らは「旗本やっこ」と呼ばれ、四代将軍家綱の時代には古屋組・鶺鴒せきれい組・大小神祇じんき組などのグル一プを結成していました。一方、町人の間からは旗本奴に対抗して「町奴」が生まれ、唐犬組・笊籬かご組などが組織されました。
 両者は江戸市中を横行し対立を深め、特に三千石の旗本、水野十郎左衛門が町奴の幡随院長兵衛を斬り殺した事件は、両者の対立の激しさを物語るものとして有名です。
 その殺害事件は明暦の大火から半年たった明暦3年(1657)7月18日に起こりました。水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容ですが、水野の言い分しか残っていないので、事件の真相は不明です。しかし、一説には長兵衛と水野十郎左衛門とが鞘当(さやあて)をして、長兵衛に恥をかかされた水野が恨みに思い、長兵衛を自宅に招いて風呂に入れ、裸になったところを搦め取り殺害したという話も伝えられています。
 この事件は武士対する町人の抵抗を示すものとして、のちに芝居や講談で美化され人気を博し人々によって語り継がれてきています。しかし幡随院長兵衛の事蹟や伝記については確実な資料が乏しく彼の経歴は不明なところが多いのです。

 歌舞伎では、これを元にして「幡随院(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)精進(しょうじん)俎板(まないた)」や「極付(きわめつき)幡随(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)」などを作りました。
 この一平荘が建っていた場所は殺害があった水野屋敷が建っていた場所だと言われました。しかし、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』が正しいのです。水野屋敷が建っていた場所は別で、西神田1丁目11番地なのです。しかし、西神田1丁目11番地は現在なく、代わって西神田2丁目になり、現場に近い西神田小学校も西神田児童センターになりました。まあ、水道橋に近いところで殺害し、ここ神楽坂や袋町ではなかったと覚えておけばいいでしょう。

光照寺|切支丹の仏像

文学と神楽坂

 切支丹の仏像について。
 雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会でこの話が出てきます。

糸山氏
袋町・光照寺住職
それから神田の紀伊国屋という旅龍の主人が旅先で亡くなった人々の供養のために建てた「諸国郡邑旅人菩提碑」という碑とか、石に刻んだものですが、切支丹の仏像といわれるものもあります。これは額のところに菊で十字が刻んであったり、桐安(きりあん)というような戒名や、台座には寺という字も刻まれていて、切支丹が供養のためにつくったのではと言われています。

 これを調べました。まず芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)ではこうなっています。

切支丹の仏像キリシタン遺物と思われる碑
 光照寺墓地西部に、キリシタンの遺物と思われる観音像がある。高さ約六〇センチほどのものであるが、像は如意輪観音の思惟形で、光背浮彫り、宝冠に花菱クルス紋をつけている。
 左背面には、安永七戌年四月二三日桐屋とあり、台座に桐安とある。これは霊名のキリヤ、キリアンではなかろうかという。また、蓮台の中央にただ一つ「寺」と刻まれているが、これはエケレジア教会(南蛮寺)を意味するのであろうという(五三・市谷三七・新宿21参照)
[参考]江戸切支丹

芳賀善次朗著『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)

 現在は諸国旅人供養碑のひとつのようです。

切支丹2

 でも知りたいことは新宿歴史博物館に聞くのが、一番です。答は…

光照寺の「切支丹の観音像」については私も見たことはありません。芳賀さんの本は、ご存知のように昭和47年の刊行と古いものなので、言われるように整理されてしまった可能性が高いと思います。ただ「諸国旅人供養碑」については、六字名号の石碑がそれで、文化財になっています。これを取り巻くように配置された周りの墓碑は無縁墓ですので、その無縁墓の中に、「切支丹の観音像」が含まれている可能性は高いと思います。
 ちなみに、この時期やたら切支丹との関係を強調する論調が多い印象があります。切支丹灯籠は単なる織部灯篭だと言われるように、個人的には、切支丹との関係を実証することは無理だと考えています。
新宿歴史博物館 今野

 私も「切支丹との関係を実証することは無理」だと思います。女性の墓なのでしょうか。よく似たものもありました。

袋町|由比正雪の抜け穴

文学と神楽坂

 雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で由比正雪の抜け穴についての話が出てきます。糸山氏は袋町・光照寺住職、山本氏は袋町・山本犬猫病院、小林氏は神楽坂5丁目・小林石工店、司会は日本出版クラブの大橋氏です。

糸山氏 うちに深い井戸があるんですが、明治のはじめに井戸替えをしたら横に穴があったので掘っていったら百メートルも向うの南蔵院の本堂に出て、そこで碁を打っていた人に、ここは地獄ですか、極楽ですかと聞いたら、極楽だって言ったという話が伝わっているんですがね(笑い)
山本氏 出版クラブで最初の建物を建てるとき、東京芸大の内藤先生が調査にいらして、敷地の古井戸に石を落として深さを計ったんですが、四、五十メートルではきかなかったような気がします。そのとき丸橋忠弥とか由比正雪の抜け穴の話なども出ましたが、やはり真実とは違うようです。
小林氏 うちの隣の森さんがビルを建てたたとき、横穴がぽこんと出てきたのを初めて見ました。真四角で人間が這って通れるような。これがみんなのいう牛込城に抜ける穴かと。
糸山  こうじ(むろ)という話もありましたが。
小林  でも、それであんなに深く掘るもんでしょうか。
司会  よく、南蔵院へ抜けるとか、筑土八幡に抜けるとか、どこかに埋蔵金があるというような話が出てきますね。このあたりは牛込城の城跡ですし、江戸期にはそれなりに栄えたところで、高台だけに穴があって抜けられるというような話が生まれやすいところでもあるんでしょうね。
小林  うちの先祖代々の言い伝えでは、どこかに金の茶釜が埋まっているというので、終戦後、がれきの中から本気になって探したそうです。

 昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』では

13.由比正雪の抜け穴
[時代]江戸時代
[場所]袋町 光照寺
 神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた。
 明治末のことである。光照寺の井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は、150メートルも離れた箪笥町の電車通りにある南蔵院まで続いていたという。
 昭和32年、光照寺の西北の日本出版クラブの建築工事の時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。また江戸時代初期の徳利や實永通宝、その他の古銭などが発掘された。
 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下牢だろうという説が出たが、ここは水野邸跡でないことが分かった。それではやはり光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だということで話題をまいた。
[原典] 毎日新聞 昭和32年10月17日連載記事「武蔵野の城あと」No16牛込
[解説] 明治末にここに抜け穴があったと伝えられたのは井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き、碁を打って遅くなったので、横穴をたどって行ったとうそをついたことがもとで広まった話である。
 昭和32年の時は、それが抜け穴でないなら麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫(光照寺跡一帯は牛込氏館跡であることから)だとか、いろいろ話題でにぎわったのである。
 江戸研究の綿谷雪氏は「続江戸ルポルタージュ(昭和36年6月) 人物往来社」の中でつぎのように書いている。
『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。
 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』と。
 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうが、もしも掘れたとすれば、その掘り出した土の処理を、世間に分からないように処理することができたであろうか。

 上記の本を書いた芳賀善次朗氏は『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)を上梓します。そこでは

由比正雪の抜け穴
 光照寺には、由比正雪の抜け穴があったと騒がれたことがある。
 神田連雀町(今淡路町内)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて光照寺境内に移ってきた。正雪はのちに榎町に移ったが、正雪が住んでいたことから結びつけたものである。
 明治の末ごろのこと、光照寺で井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は150メートルも離れた箪笥町の大久保通りにある南蔵院まで続いていたというのである。
 これは、井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き碁を打って遅くなったので、「横穴をたどって行った」とうそをついた事がもとになって広まった話であり、罪なことをいったものである。
 ところが、昭和32年、光照寺の西北に日本出版クラブが建築工事をした時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。そこから江戸時代の初期の徳利や寬永通宝、古銭なども発掘された。
 そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下ろうだろうという説が出たが、そこは水野邸跡でない。だからやはり、光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だとか、麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫だとか、いろいろな話題でにぎわったものである。
 由比正雪を研究した綿谷雪氏は、「続江戸ルポルタージュ」の中につぎのように書いている。
「夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。
 抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない」
 しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうか、もしも掘れたとしても次の掘り出した土の処理を、世間に分からないよう処理することができたであろうか疑問である。
[参考] 続江戸ルポルタージュ 新宿と伝説

化け地蔵の出た地蔵坂|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 正保2年(1645)、牛込城の跡地に神田もとせいがん前(現・千代田区神田須田町一丁目)から光照寺が移転してきました。
 また、光照寺の子安地蔵(木造地蔵菩薩坐像)は鎌倉時代の仏師・初代(あん)()()(快慶)作といわれています。元は近江(滋賀県)のでらにあったのですが、江戸時代に芝・増上寺に移動、正徳年間(1711~16)に増上寺の末寺である光照寺に安置されました。
 これが地蔵坂という名前になったのです。芳賀善次郎作の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』三交社、昭和47年(1972年)によると

12 化け地蔵の出た地蔵坂   (袋町)
 毘沙門天の先を左折する。そこを進むとまもなく坂になる。右側の松竹荘一帯は、戦前牛込館という映画館があったところである。
 ここからの坂道を地蔵坂というが、その地名由来にはつぎのような伝説がある。
 この坂には、夜になると時々地蔵様が上ったり下りたりする。この地蔵、人に出会うと声をかけたり、入道姿になって笑い出したりするので近所の人は怖がって夜になると通らなかった。
光照寺の子安地蔵 これは、坂上左手にある光照寺境内にすむタヌキの化け地蔵であった。光照寺には、鎌倉時代の名作、初代安阿弥作と伝える子安地蔵(延命安泰地蔵)が安置してある。昔はお産と子どもの病気に効験があると人気があり、寺は参詣者でにぎわった。
 ところが 光照寺境内榎林の中にすんでいるタヌキどもは、寺にくる参詣者があまりにも多いので、めったに穴から外に出られない。何とかしてこの人たちが来ないようにと考えた一策だったという。
 享和のころ(1801~3)、近くの払方町に住んでいた武士がこれを聞いて、日暮れにこの坂を通ってみた。ところが案の定、地蔵様が錫杖(しゃくじよう)をガジャンガジャンと突きながら坂を上ってくる。武士はこれこそ例の化け地蔵と思い、すれ違うや否や刀を抜いて切りつけた。するとその地蔵、とっさに持っていた錫杖でこれを受け止めた。武士はまた切りつけようとすると、こんどは「これこれ何をなさる」と声をかけられた。
 よく見ると、それはタヌキではなく、日ごろ懇意にしていた仲間だったのである。武士はわけを話し、自分の粗忽をあやまったということである。懇意な仲間に化けたのか、本物の仲間かは分らないが、この話を伝え聞いた人たちは、それ以後ここを地蔵坂と呼ふようになったという。宝歴年間の「鶏鳴旧蹟志」(著者不明)という本に出ている話である。
[参考] 江戸の口碑と伝説   新宿と伝説

松竹荘 これは現在の神楽坂センタービルに当たります。写真は昭和41年頃の風景です。またリバティハウスと神楽坂センタービルは2つ合わさって牛込館になります。
鶏鳴旧蹟志 成城大学民俗学研究所の「諸國叢書」第7輯(平成2年)に「鶏鳴旧蹟志」29編がありますが、その中には入っていません。
江戸の口碑と伝説 「日本民俗選集」12巻(昭和6年)の「江戸の口碑と伝説」36 で「子安地蔵と化け猫」にてできますが、参考書はここには何も書いていません。資料参考書目で「牛込、池田慶次郎氏所蔵」の「鶏鳴旧蹟志」がでてきますが、それだけです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7804 袋町 地蔵坂入口

 昭和44年、新宿区教育委員会の「新宿と伝説」によれば

光照寺の子安地蔵は、延命安泰地蔵ともいう。鎌倉時代の名作で、初代安阿弥の作だと伝えられている。
 この地蔵は、もと三井寺にあったもので、後宇多天皇(鎌倉時代。在位1274-87)の皇后がご難産で苦しまれた時、京都中の名僧を集められて、ご安産を祈られたのであるが、あまりおもわしくなかったという。ところがある夜、皇后の枕べに白髪の翁が現れ、「ご難産でお困りのことでしょうから、これをさしあげましょう」といわれ、夢からさめた皇后の手に1つの宝珠があったという。するとまもなくお苦しみが薄らぎ、玉のような皇子をご安産なされたという。その後、この地蔵は、どうした因縁か、三井寺から芝の増上寺に移され、さらに光照寺に安置された。
 昔は、お産と子供の病気に効験あらたかだというので参拝者がたえなかったといわれ、この伝説は、この子安地蔵に結びつけた創作であろう。

袋町|名前はどうして?

文学と神楽坂

 袋町(ふくろまち)の名前はどうして付いたのでしょうか?

 まずウィキペディアを見ます。「坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり、袋小路となっていたため袋町と呼ばれた」と書いてあります。「袋小路」とは行き止まりになっていて通り抜けられない小路。なるほど。でも、間違いなのです。

 北に行くS状の坂は戦前にはなかったわけすが、南に行くのは? 南に行くのは全く問題なく行ける。袋小路はどこにもなく、ウィキペディアのように袋町という理由はありません。

袋町4

 やはり地図を見てみます。延宝年中(1673~81年)にできてきます。ただし、現在のように大きくはありません。ごくごく小さな小さな場所を2つとっています。
袋町6

 明治2年、牛込袋町と牛込光照寺門前を合併し、牛込袋町となり、さらに明治5年、近隣の旧武家地や光照寺境内などを併合し、明治44年、現在の袋町になります。牛込袋町になったのは明治以降です。

 昭和51年の「新宿区町名誌」によれば「藁店(わなだな)横町の奥で袋地になっているので袋町になった」と書き、平成22年の「新修 新宿区町名誌」では「肴町の横町で袋道であるため、袋町と名付けた(町方書上)」と書かれています。町方書上では「肴町横町ニ而袋道ニ御座候」と書いています。なお、「袋地」と「袋道」では意味が違い、「袋地」とは、他人の土地に囲まれて、公道に出られない土地のこと。「袋道」は「袋小路こうじ」に同じで、「行き止まりになっていて通り抜けられない小路」。つまり、江戸時代の袋町と明治の袋町についてその説明は全く違うのです。この「袋町」は明治時代ではなく、江戸時代の言葉です。

 新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一氏は『まちの手帖』でこう書いています。

行き止まりで通り抜けできない町、周囲を他人の土地に囲まれた所という意味ですが、この場合も地蔵坂を上った奥にあるためこう呼ばれたのでしょう。江戸時代の袋町は、光照寺に接した狭い町で、明治二年(1869)に光照寺及び門前町と合併して現在の袋町ができました。

 北町と接する大きさは江戸時代では全くありません。

袋町|光照寺

文学と神楽坂

 光照(こうしょう)()です。はいる手前で右手は光照寺の碑、左手は新宿区登録史跡があります。場所はここです。

光照寺

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
(うし)(ごめ)(じょう)(あと)

    所 在 地  新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和10年12月六日

 (こう)(しょう)()一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の(ふもと)上野国(群馬県)勢多(せた)おお()の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532~55)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
 現在の光照寺は正保2年(1645)に神田から移転してきたものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「(しょ)(こく)(りょ)(じん)()(よう)()」、「便(べん)(べん)(かん)()()()の墓」などがある。

平成七年八月     東京都新宿区教育委員会

 では中に入ってみると最初に鐘楼(しょうろう)堂が見えます。やはり説明文が出ています。

 光照寺は慶長8年(1603年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保2年(1645年)ここ牛込城跡に移転してきました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。
 鐘楼堂は、明治元年(1868年)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、60年の歳月を経て昭和12年(1937)に復興を見ましたが、昭和20年(1945年)第二次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。
 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。

    平成五年(1993年)1月 浄土宗 光照寺


鐘楼堂と本堂

水 拝啓、父上様では第9話で出てきます。

石畳の道
  除夜の鐘がゴーンと、神楽坂に流れる。
 り「2007年の元旦を、僕は1人でアパートで迎えた。
  地蔵坂にある光照寺から響く除夜の鐘が、神楽坂一帯に流れており」
神楽坂・裏路地
  門松。
  しんと眠っている。
 り「拝啓。
  父上様。
  除夜の鐘です」

 では左側から右側に見ていきましょう。まず、Google航空写真です。

 ①最初は左奥にある諸国旅人供養碑です。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 歴史資料 諸国(しょこく)旅人(りょじん)()(よう)()

         所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日  昭和61年6月6日

 神田松永町の旅籠(はたご)()紀伊(きの)(くに)()主人(しゅじん)利八(りはち)が、旅籠屋で病死者の菩提(ぼだい)をともらうため、文政8年(1825年)に建立(こんりゅう)した供養碑である。
 はじめは、文政2年(1819)から建立までの7年間に死亡した6名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政5年(1858)まで合計49名の俗名と生国が刻まれた。
 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。

   平成7年8月 東京都新宿区教育委員会

諸国旅人供養碑諸国旅人供養碑2

②狂言師「便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)」は諸国旅人供養碑のすぐ右奥に建っています。

便々館湖鯉鮒の墓文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク) 新宿区登録史跡 便(べん)(べん)(かん)()()()(はか)

  所 在 地 新宿区袋町15番地 登録年月日 平成2年3月2日

 江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政2年(1819)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化15年(1818)4月5日没した。享年70歳であった。
 墓石は、高さ152センチである。

     平成3年1月 東京都新宿区教育委員会

 なお、大田南畝、別号は蜀山人はここで転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を1句詠みました。

こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしょう光照寺前

 ただし、これは蜀山人の狂歌集の中にはありません。あるのは……

小鳥どもわらはゞわらへ大かたのうき世の事はきかぬみゝづく

③これから少し前に行くと、奥右筆(おくゆうひつ)の「大久保北隠(ほくいん)」の墓があります。石庭のようにいくつもの石が並べてあり、一見して墓には見えません。徳川家の奥右筆であり、茶道の奥義を極めた大久保北隠の石庭風の墓です。大正6(1917)年没、享年81歳。 奥右筆という肩書きについて右筆(ゆうひつ)とは、武家の秘書役を行う文官のこと。徳川時代には一般行政文書の作成を行う既存の「表右筆」と、将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分かれます。特に奥右筆は表右筆より一段上の位です。将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっていました。 大久保北隠墓

④さらに右に進みます。奥田抱生墓 本堂の奥に三角形の形をした奥田抱生墓があります。その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者です。 著書には「今瓦譜(いまがわらふ)」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。 昭和9(1934)年没、享年75歳。
 さらに中央に進みます。 森敦の墓森敦の碑文

⑥森(あつし)は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞しました。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は

われ浮き雲の如く
放浪すれど こころざし
    常に望洋にあり
      森 敦

⑦本堂左側に東京都教育委員会が案内板2枚を書いています。

木造地蔵菩薩坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 彫刻 (もく)(ぞう)()(ぞう)()(さつ)()(ぞう)
所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成9年3月7日
 (よせ)()造り、(くろ)(うるし)塗り。像高31センチ。13世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 寺伝によると、この像はもともと近江国()()(でら)にあり、()()()天皇の皇后が弘安(こうあん)年間(1278~88)に、のちの()二条(にじょう)天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産(たいさん)地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺(ぞうじょうじ)に移され、正徳(しょうとく)年間(1711~16)に増上寺の(まつ)()である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。
木造十一面観音坐像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録有形文化財 彫刻
 (もく)(ぞう)(じゅう)(いち)(めん)観音(かんのん)坐像(ざぞう)
登録年月日 平成9年3月7日
 一木(いちぼく)造り、素木(しらき)仕上げ。像高70センチ。18世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食(もくじき)明満(みょうまん)である。明満(1718~1810)は、円空(えんくう)とならび称される(ぞう)(ぶつ)(ひじり)で、全国を旅して(なた)彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成9年5月 新宿区教育委員会

 地蔵坂のいわれになっている子安地蔵は本堂に安置しています。子安地蔵は別の場所で書いています。

阿弥陀三尊来迎図文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画 ()()()(さん)(ぞん)(らい)(ごう)()
所 在 地 新宿区袋町15番地
指定年月日 平成10年2月6日
 絹本(けんぼん)着色、木製の板に貼り付けられた状態で、厨子(ずし)に納められている。縦102.2センチ、横39.4センチ(画像寸法)。
 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る)様子を描いたもので、14世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
法然上人画像文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 絵画
法然ほうねん上人しょうにん画像がぞう
指定年月日 平成10年2月6日
 絹本(けんぼん)着色、掛軸(かけじく)装されている。縦89.5センチ、横41.3センチ(画像寸法)。 浄土宗の宗祖(しゅうそ)法然上人の肖像で、15世紀後半(室町時代)の作品と推定される。    平成10年3月 新宿区教育委員会

海ほおずき

⑦自動車が駐車する場所で光照寺の鐘楼堂の右隣には「海ほおずき供養塚」が建っています。昭和16年7月に東京のほうずき業者が建てたものです。 海ほおずきとはテングニシという巻き貝の卵嚢です。この卵嚢を口に入れてキュッキュと音を出して遊びます。神楽坂の縁日で飛ぶように売れたため業者が供養しました。 ここの檀家にその業者がいて、そこで都内販売同業者41店主が発起人になってやることになり、毎年7月の浅草でほおずき市が終わると供養をしていました。現在住職がひとりで盆に供養しています。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 15. 海ほうづきの供養碑」についてです。

海ほうづきの供養碑
      (光照寺境内)
 光照寺本堂右側にあるが、全国でも珍しいものである。昭和16年7月に、都内販売同業者41店主が発起人となって建立したものである。
 神楽坂が夜店でにぎわい、その夜店には必ずといってよいほど海ほうづきが売られたものである。海ほうづきは、巻貝の子のことである。この供養塚碑がここにあるのは神楽坂の夜店と結びつけるとふしぎな因縁というべきである。

⑧最後に右奥にある出羽の松山藩主(山形県飽海(あくみ)松山(まつやま)(まち))酒井家(大名家)の墓です。広さ150坪におよびます。現在は出入りはできず、外から内部を覗くだけです。 出羽守酒井家の墓石

   お知らせとお願い
此れより先立ち入り禁止

墓石が古く、先の東日本大震災により1部転倒し大変不安定
で危険になっております。
関係者以外立ち入りを禁止いたします。

               当山住職

 平松南氏は2004年06月16日「神楽坂をめぐる・まち・ひと・出来事」でこう書いています。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。末裔さんは恬淡として静寂であった。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。

 切支丹の仏像については別に書きます。鈴木桃野の墓石の場所はまだ不明です。

地蔵坂|都々逸と写し絵

文学と神楽坂

都都逸坊(どどいつぼう)扇歌(せんか)については…
 生年は文化元年(1804年)。没年は嘉永5(1852)年。江戸末期の音曲師。都々逸の祖として知られています。文政7年か8年に江戸に出て、船遊亭扇橋に入門。美音で当意即妙、謎とき唄や俗曲「とっちりとん」で、音曲界のスターに。都々逸坊扇歌と改名し、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍しました。寄席の客になぞの題を出させ,その解を即興で都々逸節(七、七、七、五の四句)の歌詞にしました。やがて、江戸で一番の人気芸人となり、天保時代には上方にも出向き活躍。世相を風刺した唄も沢山ありますが、晩年には幕府・大名批判とされ江戸を追放されてしまいます。ドドイツの名前は旅の途中豊原の宿で同宿の旅芸人より聞いた神戸節の唄「おかめ買う奴あ頭で知れる 油つけずのニつ折れ そいつあどいつじゃ ドドイツドイドイ 浮世はさくさく」の調子が面白く、ドドイツとなりました。都で一番になるとの思いから「都々一」となったといいます。

江戸写し絵の都楽
 幻燈(スライド)は江戸で見世物になっていたもの。享和三(1803)年の三笑亭都楽(後に都屋都楽、本名亀屋熊吉)が江戸牛込神楽坂の茶屋「春日井亭」で写し絵を演じています。映像に語りと音曲を加えています。春日井亭はどこかは不明です。

地蔵坂|和良店

文学と神楽坂

「和良店」です。2010年の「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌

 江戸で最初に出来た寄席は、寛政10年(1798)、櫛職人の可楽が、下谷神社境内に開いたとされている。和良店亭の設立時期は判っていないが、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が初看板を挙げ、美声の都々逸に加え、冴えた謎かけを披露し、以後一世を風靡しており、天保年間には「わら新」で、義太夫の興行が行われたという。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席となる。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」とした。
 小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。旧水戸藩御用達で六十二銀行を設立した佐藤巌の長男として、商法講習所(現:一橋大学)で学ぶが、親の銀行を数年で辞め、その後、どうにも腰が落ち着かない。ついに、親が根負けして名流の寄席を持たせ小住との生活を黙認したようにも思える。

 都々逸坊扇歌は別に扱います。また、色物(いろもの、いろもん)とはウィキペディアによれば「寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲を指す。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で書かれていたが、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていたのを転じて、そう呼ぶようになった」ようです。

 夏目漱石の『僕の昔』では

 落語はなしか。落語はすきで、よく牛込のさかなまち和良わらだなへ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席よせはたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。

ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会では

山本 それから写真屋をなさっていた富永さんに伺ってきたんですが、牛込館の隣には、神楽坂演芸場というのがあって、それが後に引っ越して神楽坂を上りきった宮坂金物店の横の方へ移ったそうです

 同号で高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

 一方、同じく同号で 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。

藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

 野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和50年9月30日発行の『週刊朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は…

藁店(わらだな)は1軒それとも10軒

文学と神楽坂

 藁店は「わらだな」と呼んでいます。現在は固有名詞として使っていますが、本来は、一般名詞の「わらを売る店」のことでした。このわらを売る店、どこにあったのでしょうか。いったい何軒あったのでしょう。

 明治20年の内務省地理局の地図をみてみましょう。ここには「わら店横町」がでています。また、坂は地蔵坂です。さらに一個の「・」がついた「わら(だな)」がありました。

藁店。明治20年。内務省地理局の地図

 『西村和夫の神楽坂』では江戸時代、「善国寺の裏一帯は藁店(わらだな)という菰筵を商う町屋があり賑わいをみせていた」と書いています。藁店は一戸か数軒か、わかりません。

 なお、菰筵こもむしろとは(わら)やイグサ、真菰(まこも)などの草で編んだむしろ・・・のことで、むしろとは、漢字で書くと、筵、莚、蓆、席となり、敷物の一種で、わら、()(すげ)、竹などを編んで作るものです。

「東京神楽坂ガイド」では「その藁店が多いから藁坂なのかと想像しています」と書き、ウィキペディアでは「江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから『藁店(わらだな)』と呼ばれた」と書いています。 これらは数軒あったとかいています。

 一方、「東京10000歩ウォーキング」では「『藁店』の呼称は坂上に近い小林石工店の付近で藁を売っていたからだ」と書いています。一軒でもおかしくありません。

 大げさに言うとかたや数軒、かたや1軒で、すごく大違いがあると思いますよね。 しかし、一番正確な説明は『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会です。ここで山本犬猫病院の山本氏と小林石工店の小林氏が登場します。

山本氏 藁店というのは、昔、石屋の小林さんあたりで、藁を売っていたからなんですね。というのは、この先の出版社や三沢さんというお宅があるあたりの両側は馬が水を飲むところだったんです。これは区で調べれば分かります。で、馬や牛が通ったわけですが、昔は蹄鉄なんてありませんから、藁を使ったんでしょう。人間のわらじというより、おそらく馬や牛のための藁を商うところがあったんだと思います。
小林氏 で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。うちも確か20年くらい前までは、藁店さん、石鐵さんと呼ばれていました。

 2013年では小林石工店は開いていましたが

藁店ワラダナと小林石工店

 2018年はマンションの「石鐵」に変わって、小林石工店はありません。

 文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。

 なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。

 どうも「藁店」は石工店の前で、藁を売っていたのは従業員は多くても石工店の前なので一軒、せいぜい二軒もあればよかったと思います。内務省地理局の地図を見るとわら店は1軒だけで、ほかの多数は「わら店横町」になったことも可能です。で、私は、わら店は1軒だけだと考えて、一票を入れたいと思います。まあ、どうでもいいことでした。

 最後に360VRパノラマフォトをつくりました。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は……