2020年11月、最近(でもないけれど)市谷鷹匠町の「浄瑠璃坂の仇討跡」は新しい案内標示板になっていました。でも、内容はほとんど何も変わりません。ただしこの標示板を取り巻く周囲を見回すと、マンションや大日本印刷のビルが沢山建築中でした。
「浄瑠璃坂の仇討跡」は赤い矢印で書かれていますが…
でも、決闘した戸田七之助邸は実際は遙かに巨大な場所でした(下図)。大日本印刷とおそらく同じぐらいの大きさだったと思っています。(大日本印刷はまだまだ大きくなっている)
平成28年の標識は…
宇都宮藩 現在のおおむね栃木県。
戒名の読み方 竹田真砂子氏が『浄瑠璃坂の討入り』(集英社、1999年)についてこう書いています。
「まず仇討ちに至るまでの経緯を、『中津藩史』に倣いつつ、いささか意訳してお伝えしておこう。
寛文8年(1668)2月19日、宇都宮藩奥平家の当主奥平忠昌が他界する。享年61歳であった。その折、位牌にしたためられた亡君の戒名の読み方が分がらなかった家老の一人である奥平隼人に対し、同じく家老職にある奥平内蔵允がすらすらと読み下してみせたことから事件は始まる」
源八 竹田真砂子氏によれば「その総大将源八は、弱冠15歳の若衆で人目を惹く美少年であった」といいます。
改易 江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄・屋敷を没収する。
掃部守 行事に際して設営を行い、殿中の清掃を行う。
配流 流罪に処する。島ながし。
ちなみに、この標識が、1代古くなると、平成3年に発行したものとなります。ルビがなく、印刷は非常に見にくいけど、内容は同じです。
さらに昭和57年もありました。
新宿区指定文化財
旧 跡 浄瑠璃坂の仇討跡 宇都宮藩家老の奥平内蔵允は、主君奥平忠昌の追福法要の際、同じ家老の奥平隼人と口論の末、刃傷に及んで切腹した。その子源八は父の恨みを晴らそうと近縁の奥平伝蔵、夏目外記らとその機会をうかがった。追放された隼人は父半斎ら家族と江戸に逃れて浄瑠璃坂上に隠れ住んだ。探しあてた源八は四年後の寛文12年(1672)2月2日夜、総勢42名で、大風に乗じ門前に火を放って討入り、牛込御門前で隼人を討取った。自首した源八らは、そのけなげな挙動は感じた井伊直澄のはからいで助命され、伊豆大島に流された。
浄瑠璃坂の名の由来については江戸時代から諸説があるが、いずれも確証はない。 昭和57年3月 東京都新宿区教育委員会
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