漱石と『硝子戸の中』29

文学と神楽坂

二十九
 私は両親の晩年になってできたいわゆるすえである。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々はかえされている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私をにやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人ののち聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世とせいにしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多がらくたといっしょに、小さいざるの中に入れられて、毎晩四谷よつやの大通りの夜店にさらされていたのである。それをある晩私のが何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想かわいそうとでも思ったのだろう、ふところへ入れてうちへ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父からしかられたそうである。
 私はいつごろその里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込うつされた私は、生れたうちへ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺おじいさん、御婆おばあさんと呼んでごう怪しまなかった。むこうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通のすえのようにけっして両親から可愛かわいがられなかった。これは私の性質が素直すなおでなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷かこくに取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常にうれしかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆じじばばとのみ思い込んで、どのくらいの月日をくうに暮らしたものだろう、それをかれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼をましたが、周囲あたり真暗まっくらなので、誰がそこに蹲踞うずくまっているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私のうちの下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語みみこすりをするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父おとっさんと御母おっかさんなのですよ。先刻さっきね、おおかたそのせいであんなにこっちのうちが好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心のうちでは大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

四つの歳 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、養子に行った年月は4説あります。
(1)明治1年4~5月頃。(関荘一郎)
(2)「明治元年11月中私2歳の砌」(金之助・昌之助・直克・田中重兵衛(親類)らの連署を下谷区長に提出した「戸籍正誤願」から)
(3)「明治2年11月中右金之助3歳の砌養子に差出置候處」(金之助の父小兵衛(直克)と塩原昌之助の間に紛争が生じた際の「手続書」から)
(4)「それは慥私の四つの歳であつたやうに思ふ。」(『硝子戸の中』)
荒正人氏は(3)より(2)が正しいと考えられると述べています。つまり数え年で2歳、満年齢では1歳です。
両親の晩年 夏目小兵衛(こへえ)直克(なおかつ)は51歳、母の千枝は42歳で、漱石が生まれました。漱石は8人兄弟の末子でした。
年歯 ねんし。年齢。とし。よわい。
間もなく 生後4ヶ月です。
 さと。養育費を出して子供を預けておく家。
渡世 生活する職業。なりわい。生業。稼業。
夫婦もの 漱石は最初は里子として夏目鏡子氏によれば四谷の古道具屋に、小宮豊隆氏によれば源兵衛村(現・新宿区戸塚)の八百屋に出されています。
 ざる。細長くそいだ竹や針金・プラスチックを編んで作った中くぼみの器
四谷 新宿区の1地名。旧四谷区の地域
 夏目鏡子氏の『漱石の思ひ出』によれば「高田の姉さん」でした。漱石の腹違いの二番目の姉で、房です。
ある家 内藤新宿の塩原昌之助・妻やすを養父母に。
ごたごた 養父の不倫と、引き続く養父母の離婚でした。
実家へ戻る 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治8年12月末から9年初めまでに、塩原家に在籍のまま、再び夏目家に引き取られたといいます。満8歳でした。
牛込 牛込馬場下横町です。
豪も 少しも。ちっとも。
 事実でないこと。よりどころのないこと。
耳語 みみこすり。耳擦り。そっとささやくこと。耳打ち

砂土原町|入江相政

文学と神楽坂

%e5%85%a5%e6%b1%9f%e7%9b%b8%e6%94%bf 入江(いりえ)相政(すけまさ)氏は東大卒で、官僚、歌人、随筆家。学習院大教授をへて、昭和9年宮内省侍従になり、侍従長を長く務めました。生年は明治38年6月29日。没年は昭和60年9月29日。80歳で死亡しました。
 入江相政氏の「余丁町停留所」(人文書院、1977年)では

 昭和八年に、同じ牛込の、砂土原町に新居を構えた。「新居を構える」などと言えばいかにも自力で一軒建てたようにも聞えるけれど、土地は家内の母にめぐまれ、家は私の父が建ててくれた。地面は三百三十坪、建て坪は六十何坪、まさに贅沢過ぎるものだった。父は言った、「これは、お前の分には過ぎたもの。お前はこれを競争相手と思い、この家と自分とをくらべて、この家にはずかしくないような人になれ」と。これは大変なことになったと思った。
 長女ができてから、ここに移り、ここに移ってすぐ長男が生まれた。二人の子供が小学生になるころ、つまり昭和十何年という時、つくづく思ったのは、道路は舗装され、暖房は発達、車はふえて、東京はますます自然を遠ざける。だからなんとか工夫を重ねて、自然をここに招き寄せる。また一方では、自然の中にはいっていかなければならない、と。
 庭が広かったから、そこに花の咲く木を植えた。「先ず咲く」がその語源というマンサク、卵の薄焼きを細く切ったような黄色い花に、近づく春を楽しもう。サンシュユはどこに植えるか。ハクモクレンは中国からの伝来、あの花の下には、樹下美人のような女でも、立たせなくては。

砂土(さど)(はら) おそらく砂土原町2丁目でしょう。あと一歩で浄瑠璃坂を登りおえる場所にあり、現在はマンションがいっぱいになりました。都市製図社の『火災保険特殊地図』では「入江」と書いた場所があります。砂土原町の説明は『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)によると「江戸時代は武家地であった。市谷田町三丁目から船河原町続きの裏通りとその周辺の武家屋敷一帯を俗に砂土原と呼んでいた。本多佐渡守正信の別邸があったためで、佐渡原、佐渡殿原とも呼ばれていた(町方書上)。また、この本多邸跡の土を取って外堀端を埋め立てて市谷田町を造成したので、土(砂土)取場とも呼んだ。佐渡と砂土は同音であるため、砂土原と書いた」

砂土原・昭和12年と現在

マンサク マンサク科マンサク属の落葉小高木。マンサクの語源は明らかでないが、早春に咲くことから「まず咲く」「まんずさく」が東北地方で訛ったものとも。
サンシュユ 山茱萸。ミズキ目ミズキ科の落葉小高木。
ハクモクレン 白木蓮。モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。白色の花をつける。

3種の植物

 同じく「陛下側近として五十年」(講談社、1986年)では

 わが家はもと牛込砂土原町にあったが、親類中で一番あとまで焼けのこるだろうなどといわれていたのだが、二十年三月九日、十日、あの下町の大空襲の晩に、まっ先かけて焼けてしまった。妻や子は、それから疎開して東京を離れ、私は家が無いから、ほとんどつとめ先にとまりつづけていた。
 しばらく経って行ってみたら、わか焼けあとに、半地下式の壕舎(ごうしゃ)が建てられている。市ケ谷の陸軍省、参謀本部が近かったので、軍は地主には無断で、焼跡の方々にこれを建て、万一、陸軍省などが爆撃された場合には、この壕舎に分散して軍務を()り、戦争を遂行しようとしたのである。
 それが、そこまで行かないうちに、八月に戦いはおわった。秋には妻も二人の子供も、疎開先からかえってくることになった。家を建てようにも建てられないので、五,六坪のその壕舎に、いくらか床の板を張ったりして住むことにした。
 壕舎というのは、つまり屋根がペシャンコにつぶれたような格好をしている。だから()ていて上を見ると、天井が無いから、目の上はいきなり屋根裏ということになる。屋根には防水の紙を張り、その紙を釘で打ちつけた。その釘の先がたくさん突き出ている。ふだんは目立たないのだが、気温が零度以下に下ると、白いものかポッポッとちりばめられる。室内に臥ているわれわれ親子のぬくもりが、霜となって釘の先にくっつくわけである。
   屋根裏を 貫き出でし 錆釘に
   あかとき白く 霜降れる見ゆ
は、その時に()んだものである。
 楽しみながら自然たまった書斎の本のすべてを失い、父からも譲られ、また自分でも集めた書画の類も、ほとんど烏有(うゆう)に帰した。万策尽きたはずではあったが、もう一遍日本を建て直し、ふたたび繁栄させなくてはという、天皇陛下の御意気ごみにつづいて、われわれも、案外、昂然たる風だった。

壕舎 ごうしゃ。敵の襲撃に備えて地中につくった部屋。防空壕
あかとき 「明時=あかとき」は「あかつき」の古形。夜半から明け方までの時刻。
烏有 うゆう。全くないこと。何も存在しないこと
昂然 こうぜん。自信に満ちて、意気盛んなさま


東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は第二次世界大戦で戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代

 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に。

     若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。

       若宮会前会長 細川八郎

 現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

馬場邸

最高裁判所長官公邸

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」


啄木の死亡

文学と神楽坂

 明治45(1912)年4月13日、啄木は26歳で死亡しました。
 明治45(1912)年5月1日、北原白秋は『朱欒(サンボア)』(2巻5号)の「余録」で、

○石川啄木氏が死なれた。私はわけもなく只氏を痛惜する。ただ黙つて考へやう。赤い一杯の酒が、薄汚ない死の手につかまれて、ただ一息に飲み干されて丁つたのだ。氏もまた百年を刹那にちぢめた才人の一人であつた。

 ここでの『朱欒(サンボア)』は文芸雑誌の名前ですが、本来のサンボア(zamboa)はポルトガル語からきたもので、インドネシア由来の常緑小高木を示します。しかし、サンボアよりも同じ意味のザボンや文旦(ぶんたん)のほうがはるかに普通でしょう。
『朱欒』は明治44年11月から大正2(1913)年5月まで19冊を発行しています。編集は北原白秋。後期浪漫派の活躍の場となりました。

 また、大正15年1月、『フレップ・トリップ』(アルス刊、昭和3年。白秋全集19巻「詩文評論5」、昭和60年、岩波書店)で北原白秋は書き

 二十一二の頃、さうだ、私が石川啄木に逢つてまだほんの二三度目の時だったと思ふ。
「盛岡の在です。」と彼は答へた。
「さうですか、奥州や北海道は、僕の国では鬼でもゐさうなところだと思つてゐますよ。五六百里も北だからね。」それはほんの何の気もなく、寧ろ親和の心で私は微笑して云つたのが、それが彼の性来の癇癪にきつく障つたらしい。私には答へないで、すぐに、隣りにゐる人に向つて、
「君、君も鬼のゐる国の人だね。」
と両肩をスツと怒らして云つた。それで私は吃驚して、
「君、君、僕の国だつて熊襲だからね。」
と大真面目であつた。
「ぢやあ、鬼の一種だね。」
「うむ、さうだよ、君の方から見れば鬼の一種だらう、やつぱり。」
 あの頃も何かと云へば反抗心の強い、負けずぎらひの少年だつたな、啄木は。尤も細君は持つてゐたが。

 なんとなく、2人の人となりや人柄の違いがわかるような気がします。胸を張っている啄木と、おどおどする白秋。

 石川啄木は明治19年2月20日で東北の岩手県で生まれ、北原白秋は明治18年1月25日で九州の福岡県で生まれています。年齢は一歳しか違っていません。ちなみに、北原白秋は昭和17年の57歳のときに、糖尿病のため死亡しています。


上り下りも世につれて…(昭和51年の読売新聞)

文学と神楽坂

昭和51年(1976年)8月15日の読売新聞「都民版」から

読売新聞。

読売新聞。昭和51年8月16日

読見出し 読売新聞のイラスト 読おっとり 読巻き返し 読きら星 読メモ

 町は時代とともに変わる。大正年間の歓楽境・神楽坂も、今は一見平凡な商店街。裏通りにひしめく料亭が、わずかに昔日の〝栄華〟をしのばせる。「このまま〝下り坂〟はごめんだ」と町の誰もが考えるが、具体的な巻き返し策は暗中模索中。かつてのファンならずとも〝坂〟の針路は大いに気にかかる。

おっとり 商い模様    坂と待合

国電飯田橋駅の西口を出て右に坂を下ると外堀通り。この通りを渡れば、もう神楽坂の登り口だ。
 現在、神楽坂の地名は1~6丁目まで。大久保通りをはさんで約八百メートル続くが、本来の神楽坂は、登り口から約三百メートルの傾斜部分。登り切ってからの〝平地〟部分は、昭和二十六年の町名変更まで上宮比(かみみやび)(さかな)通寺町などの地名がついていたが、付近一帯に料亭、商店、映画館が発達してにぎわったため、〝神楽坂〟と〝総称〟していた。
 現在の神楽坂通りの道幅は、歩道も含めて十二メートル弱。これは神楽坂が最も繁栄した大正、昭和初期のころと変わっていない。
 神楽坂の登り口のすぐ右角にある小さなシャツ屋。関東大震災前は足袋(たび)を売っていた。少し上の文房具店は、文士相手の紙屋。その上のおしるこ屋の前身はすし屋。それと小路をはさんで向かい側の理髪店、斜め向かい側のくつ店なども大震災前からの老舗(しにせ)――というように、神楽坂1~5丁目まで、通りに面した百十三軒の店舗のうち三十余軒が、明治、大正年間から生き残っている。これは、付近一帯の地盤が固く、関東大震災の被害も、比較的軽かったためだ。
 かもじ屋、車屋、小間物屋、スダレ屋、筆屋、(あめ)屋、メイセン屋半えり屋、三味線屋……。大正時代の神楽坂の地図には懐かしい職種がズラリと載っているが、時代の流れで現在は消えた商売も多い。
 神楽坂通りを歩いて抜けるのに十分とかからない。現在、通りの両側には、レストラン、パチンコ店、銀行、文具店、呉服店、洋品店、洒店、書店、雑貨店、食料品店と、店舗はひと通りそろっている。いずれの店も、間口は小さく、ほとんど二階建て止まり。
 それでも、ホッとした気分になるのは、万事オットリしたふんい気だからだろう。一方通行で車が少ないこと、アーケードがないからゴテゴテした飾りつけがないこと、デパート、スーパーがなく高級専門店が多いこと――などが原因だ。「東京の真ん中にこんな静かな所があったんですかって、よそから来たお客様がよく言われます」――創業百三十年の洒店「万長」の社長、馬場敏夫さん(四八)。

約三百メートル 約300mは「神楽坂下」交差点から毘沙門まで。「神楽坂下」交差点から最高地点の丸岡陶苑は約200m
上宮比町 肴町 通寺町 それぞれ神楽坂4丁目、5丁目、6丁目です。
シャツ屋 外堀通りの赤井商店です。現在はありません。
文房具店 山田紙店のこと。平成28(2016)年9月に閉店しました。
おしるこ屋 紀の善のこと。
理髪店 バーバーBankokukanや理容バンコックなどでしょう。しかしこの理容店はどうも新しくここにできたもののようです。神楽坂の他の場所からきたのでしょうか。
くつ店 オザキヤのこと
かもじ屋 入れ髪の店舗。かもじとは、日本髪を結うときに、地髪が短くて結い上げられない場合に使用する添え髪のこと。
小間物屋 日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐ひもなどを売る店。
メイセン屋 銘仙屋。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物を売る店。
半えり屋 半衿屋。襦袢(じゅばん)(えり)にかぶせる布を売る店

沈滞続きの〝真空地帯〟  目下は未来像模索    巻き返し

「ドーナツ現象とは良く言ったもんですなァ」――創業三百年以上の文房具店(むかしは紙屋)「相馬屋」店主、長妻靖和さん(42)は頭をかく。山手線の()円の中心にあるのが国電飯田橋駅と神楽坂。山手線の中心なら東京の中心ということになる。でも、山手線上にある新宿、渋谷、池袋、有楽町・銀座、上野などが、広い通り、高層ビル、大型店舗で際限なくふくれ上がっているのに比べ、盛り場として大先輩の神楽坂は、ごく普通の商店街の域を出ない。周辺に厚みがついて真ん中に空洞現象が起きている、と長妻さんはいうのだ。
 なぜ〝後輩〟に後れをとったのか。遠くからの客をひきつける劇場、デパート、公園がない。通りの周辺は住宅地で人口密度が低いから客層が薄い。それに商店のほとんどは自分の土地で商売しているから、借地、借家の商店のようにガツガツもうける必要がない。それに大型店舗が進出したくても、地主が細分化され過ぎているから買収しにくい。言い換えれば、われわれ自身が町を改造したくとも身動きがとれない」と、長妻さんは指摘する。
 このままではジリ貧――という不安が、現在の商店街全体を覆っている。「でも、どうすれば良いのか、確たる目標が定まらない。毘沙門(びしゃもん)様と花柳界が神楽坂の特色だから、この二つを活用して何とかなりませんかね」(馬場さん)。
 大正時代、神楽坂発展の刺激となったのは、市電など交通網の発達。それ以降、たいした刺激を受けなかった神楽坂の周辺に大きな変化が起こりつつある。都営地下鉄十二号線(豊島園-新宿-六本木-両国-春日町-新宿)営団地下鉄七号線(目黒-赤羽)の建設予定の地下鉄二新線が神楽坂にとまるほか、坂下の神楽河岸には、都の飯田堀開発事業として、十五、二十階建ての二つの高層ピルが建設される。「今後三、四年のうちに神楽坂には大きな変化が来る」とだんな衆は期待している。

花柳界 かりゅうかい。芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
都営地下鉄十二号線 大江戸線です。平成3年(1991年)12月に開業。
営団地下鉄七号線 南北線です。平成3年11月に開業。
飯田堀開発事業 昭和40年代半ば、水の汚濁が顕著となり、飯田堀を埋め立てしようと、市街地再開発事業の対象に。昭和53年、事業に着手。昭和59年(1984年)、建築工事が完了。昭和61年(1986年)、街路整備工事も完了。
高層ピル 飯田橋ラムラです。昭和59年に完成。

☆〝きら星〟ワンサと ☆   文士の町

神楽坂の最盛期は、大正年間から昭和初期まで。通りの両端=神楽坂下と肴町(現在の神楽坂五丁目)=に市電が発着して、商業地域へ発展した。南に陸軍士官学校(現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐とん部)、西に早稲田大学があって、軍人、学生が年中遊びに来たが、一番の特徴は、文士、画家、俳優など有名、無名の芸術家のたまり場だったこと。
 菊池寛早稲田南町に住み、毎晩、夕涼みがてら神楽坂に現れた。「いつも女連れで、しかも毎日、相手が違っていた。商売柄すごいもんだ、とこっちは感心してながめてましたよ」=神楽坂通り商店会・石井健之会長(六三)=。
「芸者が丸帯(ねこ)じゃらしにしめた姿をみて、菊池寛が〝(ねえ)さん、ほどけてますよ〟と注意したところ、〝いけ好かない野暮天〟とどなりつけられた」(新宿区立図書館編さん「神楽坂界隈の変遷」より)……など、菊池寛にまつわるエピソードは多い。
 ご当地ソングのはしりみたいな「東京行進曲」を作詞した西条八十は、払方町住人だった。「最初、あの歌が発表されたとき、どうしたわけか神楽坂が抜けていた。商店会の副会長だったうちのオヤジが、〝すぐそばに住んでいるくせに、神楽坂を無視するなんてひどいじゃないですか〟と文句を言いに行ったら、八十は〝すまん、忘れてた〟といって、三番の歌詞に神楽坂をつけ加えてくれた」(石井さん)。
 与謝野鉄幹、晶子夫妻は五番町から散歩に来て、夜店で植木を貿って行った。また、現在も善国寺毘沙門天わきで開店しているレストラン「田原屋」の常連は、夏目漱石(早稲田南町)、長田秀雄吉井勇菊池寛水谷八重子佐藤春夫サトウハチロー永井荷風(余丁町)、今東光(白銀町)、今日出海らだった。
 このほか、大正年間、神楽坂と周辺の牛込、早稲田地区に住んでいた文士たちは枚挙にいとまがない。カッコ内は現在の地名。
▽井伏鱒二=早稲田鶴巻町▽宇野浩二=袋町▽小川未明=早稲田南、矢来町など転々▽小栗風葉=矢来町▽押川春浪=矢来町、横寺町▽尾崎紅葉=横寺町▽片岡鉄兵=神楽町(神楽坂)▽金子光晴=赤城元町▽加能作次郎=南榎町、早稲田鶴巻町▽川上眉山=矢来町▽川路柳虹=新小川町▽北原白秋=神楽町(神楽坂)▽窪田空穂=榎町▽島村抱月=横寺町▽相馬泰三=横寺町▽高浜虚子=市谷船河原町▽坪内逍遥=余丁町▽長田幹彦=神楽町(神楽坂)▽野口雨情=若松町▽広津和郎=神楽町(神楽坂)▽堀江朔=喜久井町▽正岡容=戸山町▽正宗白鳥=矢来町▽真山青果=払方町▽三上於莵吉=赤城下町▽三木露風=袋町▽山本有三=市谷台町▽若山牧水=原町、若松町など。

陸軍士官学校、早稲田大学 図を。陸軍士官学校は南に、早稲田大学は西にあり、現在も同じです。早稲田大学へは神楽坂までは明治初期は徒歩で、明治の終わりからは市電(都電)を使ってやって来ました。

早稲田と防衛省

早稲田と防衛省

早稲田南町 菊池寛氏は早稲田南町ではなく、大正7年3月から9月までの間、えのき町に住んでいました。新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)によれば「早稲田南町の漱石旧宅から一町とは離れていない榎町の陋巷にあった」といいます。一町は約110m。陋巷とは「ろうこう。狭くむさくるしい町」。弁天町交差点のすぐ近くに住んでいたのでしょう。

榎町

榎町

丸帯 礼装用の女帯。丈は約4m。幅約68cmの広幅の帯地を二つ折りにして仕立てる。
猫じゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。

猫じゃらし 男帯の結び方

野暮天 きわめて野暮な人。
どなりつけられた 実際には新宿区立図書館編纂の「神楽坂界隈の変遷」には、前にもう1つエピソードがあります。「菊池寛がだらしのないかっこうをしてがほどけて地べたにぶら下っていたので『帯がほどけていますよ』と注意された。翌年のお正月に芸者が出の着物に丸帯を猫ぢゃらしにしめた姿をみて菊池寛が『姐さん、帯がほどけていますよ』と注意して『いけ好かない野暮天』とどなりつけられたエピソードもこの頃のことだ」というものです。
東京行進曲 昭和4年に作曲。一番は銀座、二番は丸ビル、三番は浅草、四番は新宿を歌います。一番は「昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨」

払方町 払方町は新宿区北東部に位置し、北東部は若宮町と、東部は市谷砂土原町と、南部は市谷鷹匠町と、西部は納戸町と、北西部は南町と接し、牛込中央通りが通過する。

払方町

払方町

三番の歌詞 どうも間違いのようです。現在の三番は浅草で、歌詞は「ひろい東京 恋ゆえ狭い 粋な浅草 忍び逢い あなた地下鉄 わたしはバスよ 恋のストップ ままならぬ」で、神楽坂は入っていません。B面は「紅屋の娘」で、紅谷の娘をモデルに使ったといいます。

メモ
地名のいわれ
 「坂の上に高田穴八幡社があり、祭礼の時、みこしが来て神楽を奏した」(新撰東京名所図絵)、「市谷八幡が祭礼のとき、みこしが牛込御門の橋の上にとまって神楽を奏した」(江戸砂子)――など諸説があるが、はっきりしない。
毘沙門天
 神楽坂通りの〝へそ〟。正式には日蓮宗鎮護山善国寺。毎月「五の日」(五、十五、二十五日)に縁日として夜店が出てにぎわう。四十六年十一月に本堂を新築したが、寄付をしたのが児玉誉士夫。寺の門柱に麗々しく児玉の名が刻まれており、「どうも弱りました」とだんな衆はニガ笑い。
阿波踊り
 五年前から夏の恒例行事。今年は先月二十三、四日に計三万人以上を集めた。本来は地下鉄十二号線の駅誘致のため、都庁向けに行ったデモンストレーションだったが、予想外の好評のため、定着してしまった。
花柳界
 江戸時代の神楽坂は私娼(ししょう)が多く、花柳界としては明治初めから盛んになった。大震災で神楽坂だけは無事だったため、客が殺到、昭和初期から戦争直前までが最盛期で、芸者約七百人。現在は百六十人。

新撰東京名所図絵 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
地下鉄十二号線 大江戸線です。
私娼 ししょう。公の許可がない売春婦
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の巷

牛込見附(牛込御門)跡

文学と神楽坂

 江戸城の外郭につくった城門を橋自体も含めて「見附(みつけ)」「見付」といいます。「牛込見附」は「牛込御門」「牛込門」と同じです。また明治初期から現在まで牛込橋の半分は新宿区のものでした(東京都「飯田橋 夢あたらし」平成8年)。なお、牛込土橋は牛込橋と同じ意味に使っていますが、本来は城郭の一構成要素であり、堀を横断する一種の橋です。

 見附は要所に置かれた枡形(ますがた)(升形)がある城門の外側で、本義は城門を警固する番兵の見張所ですが、転じて城門の意味となりました。

牛込見附の図

牛込御門の図。正しくは「江戸城三十六見附絵図集成」

牛込門
 これも外濠守備のための門で、現千代田区富士見町二丁目の北西端にあたる位置にあった。これを牛込口・番町方・牛込方・楓の御門とも称した。
 寛永13年(1636年)蜂須賀氏により枡形が築かれ、同16年に門が建てられた。警備用備え付け武器は、前述小石川門と同じ(鉄砲5・弓3・長柄槍5・持筒2・弓1組を常備)で、 3千石以上1万石未満の者がその任にあたった。(小野武雄著『江戸絵図巡り』展望社、1981)

「枡形」とは石垣やるい(土を盛りあげ堤防状にした防御施設)、水堀や空堀で四方を囲った防衛施設です。二方に出入口をつけ、もう二方へは進めないようにしました。高麗門(こうらいもん)をくぐって枡形に入った正面に小番所が、渡櫓(わたりやぐら)下の大門を抜けた正面に大番所が置かれ、警固の武士が昼夜詰めていました。

枡形

枡形

江戸城御外郭御門絵図 (23)牛込御門

 外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永13年(1636年)に建設しました。田安門から上州道への要衝にあたります。別名「楓の御門」「紅葉御門」とも呼びますが、紅葉御門の証拠はないと書かれています(東京名所図会、第41編、東陽堂、1904年)。

 千代田区は……

牛込門

クリックで拡大 http://www.emuseum.jp/detail/100813/061

牛込見附(千代田区)

牛込見附。クリックで拡大

史跡 江戸城外堀跡
牛込見附(牛込御門)跡
 正面とうしろの石垣は、江戸城外郭門のひとつである牛込見附の一部です。江戸城の外郭門は、敵の進入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、足元の図のようにふたつの門を直角に配置した「桝形門」という形式をとっています。
 この牛込見附は、外堀が完成した寛永13年(1636)に阿波徳島藩主蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。
 これを示すように石垣の一部に「松平阿波守」と刻まれた石が発見され、向い側の石垣の脇に保存されています。
 江戸時代の牛込見附は、田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったといわれています。
 その後、明治35年に石垣の大部分が撤去されましたが、左図のように現在でも道路を挟んだ両側の石垣や橋台の石垣が残されています。この見附は、江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しています。
 足元には、かつての牛込見附の跡をイメ一ジし、舗装の一部に取り入れています。
千代田区


松平阿波守 下の注釈のように「阿波乃國」「阿波乃門」や「阿波守内」のように色々な読み方が出ていました。現在「阿波守内」が一番いいようです。下の右図は加藤建設株式会社の「史跡江戶城外堀跡 牛込門跡石垣修理工事報告」(飯田橋駅西口地区市街地再開発組合・千代田区、2014)です。
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加藤建設株式会社「史跡江戶城外堀跡 牛込門跡石垣修理工事報告」(飯田橋駅西口地区市街地再開発組合・千代田区、2014)


 鈴木謙一著「江戸城三十六見附を歩く」(わらび書房、2003年)では

 牛込門の枡形は、JR飯田橋駅西口の改札口を出た左側のちょうど牛込橋を渡り終えたところにあった。
 枡形は間口13間(約25.61メートル)、奥行13間(約25.61メートル)の正方形で、高さは二間四尺(約5.5メートル)だった。
 枡形門に通じる橋は、両岸から土橋が突き出し、中央部のみが平木橋(ひらきばし)になっていたという。このような工法は、この牛込門のほかに市ヶ谷門や四谷門などでも採用されているが、そのわけは、江戸城の地形が西高東低であり、この間の堀の水位が異なることから土橋にしてダムの役目を与えたためで、中央部を橋にしたのは水門とするためだった。
 高麗門の間口(柱内)は2間4尺(約5.15メートル)。渡櫓の櫓台は石垣の高さが2間3尺(約4.85メートル)、幅が2間(約3.94メートル)、長さが21間(約41.37メートル)で、門扉の幅が2間2尺3寸(約4.64メートル)だった。
 枡形を構築したのは阿波国徳島藩の蜂須賀忠英で、完成は寛永13年(1636)。高麗門は寛永15年(1638)に出来上がっている。
 橋のたもとの交番脇に、枡形に使用された石が展示されている。その石をよく見ると「阿波乃國」と彫られており、蜂須賀氏によって築かれたことを物語っている。
 牛込門の枡形は明治になって破壊されてしまったが、幸いにも両側の石垣の一部が残された。これは外堀の門では唯一の場所であるが、牛込橋側から見る石垣と、堀の内側の富士見町教会側から見る石垣とでは表面の模様が異なっているのが分かる。
石垣 一口に石垣といっても使用する石の形と、積み方によって表情を変えるのである。
 使用する石の場合だと三種類に分けられ、自然石がそのまま使用されていると「野面(のづら)」と呼び、石を打ち砕いて石と石の接着面を増やして隙間を少なくしたものを「打込接(うちこみはぎ)」と呼んでいる。この場合の「接」は「はぎ」と読み、接着とか接合といった意味で、この接着面を完全に成形し石と石の間の隙間をまったく無くしたのを「切込接(きりこみはぎ)」という。
 このような石を一個一個積み上げていくのだが、積み方にも色々あったようで、積み上げていく石の横の線(接着面)が一線になるようにしたのを「布積(ぬのづみ)」と呼び、横の線にこだわらないものを「乱積(らんづみ)」と呼んでおり、「布積」と「乱積」を併用したものを「布積(ぬのづみ)崩積(くずれづみ)」と呼んでいる。
 このほかにも、六角形に完全に成形し隙間無く規則的に積み上げた「亀甲積(きこうづみ)」、石の大小にはこだわらずに完全に成形した石を積み上げる「備前積(びぜんづみ)」などがあり、石の積み方には入手できる石の種類や地方によっても特色があるようだ。
 また、石垣の隅を積み上げる方法として「算木積(さんぎづみ)」というのがある。これは、長方形に完全に成形された石を交互に積み上げ、石垣隅の縦の縁が真っ直ぐな線を描くようにするものである。こうすることで見た目が綺麗になるばかりでなく、強度も増して崩れにくくなる。堀の内側の富士見町教会側から見える石垣は、この「算木積」と「打込接(うちこみはぎ)乱積(らんづみ)」を合わせたものといえるだろう。
石垣(写真) この牛込門は内堀の田安門から来る道と繋がっている。そして、ここから城外に出て、現在の神楽坂通りを進む道は、太田道灌の時代からあったもので、上州道と呼ばれていた。
 また田安門へ向かうと、途中の数力所で緩やかにカーブしているが、江戸切絵図を見ると当時の屈曲は現在のように緩やかでなく、はっきりとした鍵形に曲がっていたようだ。

 また野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では

 長軸方向(控)の一辺に偏在して、「入阿波守内」の五文字が彫られている。文字は、全長が三尺六寸(108cm)あり、個々は、五寸から六寸(15~16cm)とやや大きくしかも深く彫られているために鮮明に読み取ることができる。冒頭の「入」の文字は、いりがしらの上端が小口面の端部に達しており、後に続く「阿波守内」の文字よりも幾分、右側に寄っている。画数が二画と少ないことから判然としないが、の字体とは異なるようにもみえる。

 なお「牛込見附」という言葉はこれだけではありません。市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができると市電の駅(停留所)をも指し、さらに「神楽坂下」交差点も一時「牛込見附」交差点と呼び、交差点や、この一帯の場所も「牛込見附」と呼びました。

1980年の牛込見附交差点

1980年の住宅地図。「牛込見附」交差点がある。

 例えば、『東京地名小辞典』(三省堂、昭和49年)では、「牛込見附」として「江戸城外堀をまたぐ城門にちなむ地区名。江戸城内から繁華街神楽坂に至る通路上に位置する」と書いてあります。1984年になると「神楽坂下」になっていますので、おそらく1980年初頭までは地区名として「牛込見附」という言葉は使っていたようです。下の写真では「牛込見附」交差点として使っています。

佐藤嘉尚「新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡」生活情報センター、2006年

中野実|新女性大学①

文学と神楽坂

 中野実のユーモア小説「新女性大学」について『神楽坂まちの手帖』17号の佐々木光氏は

 封建時代の女子教育書「女大学」をもじったかのような「新女性大学」は結婚を主題としたユーモア小説で、会社重役の父から結婚話を切り出された女学校出の令嬢「皆川美絵子」が、まずは結婚設計のため“世間見学の武者修業”をしたいと主張、父を説き伏せ質屋を営む同窓の友人の家に奉公し番頭となる。……
この作品は中野実(劇作家・小説家。明治三十四年~昭和四十八年)が作家としての地位を固めつつあった初期のもので、神楽坂を他所に置き換えても成立するが、それでも洋食の田原屋、牛込見附の貸ボート、弁天町、鶴巻町等神楽坂界隈の風景がちらほらと描かれ、当時衰退期にあった神楽坂をモダンなユーモア小説の舞台としている点に注目したい。「婦人画報」(昭和九年六~十二月)に連載後、映画化もされた(日活。昭和十年六月。主演・西峰エリ子)。ただし、映画の舞台も神楽坂かどうかは未見のため不明である。

 (おんな)大学は江戸時代の代表的な女子教訓書で、著作者も初版年も不明ですが、貝原益軒の著述として、18世紀初頭から広く流布しました。「夫女子は 成長して他人の家へ行 舅姑に仕るものなれば 男子よりも親の教忽にすべからず」など19ヵ条の封建的女子道徳を説いたものです。インターネットの本もあります。

 中野実の「新女性大学」は新宿区の図書館にはなく、インターネットを通じて国立図書館から『現代ユーモア小説全集』第七巻の「新女性大学」をコピーしました。まず質屋です。

 新橋駅とW大学の間を連絡している黄バスの実業前というところで降りて、大学通りを左へ折れたところに、山口質店と書いた暖簾の店舗がある。
黄バス

黄バス(ただし東京環状乗合のバスではなさそう)

 昭和9年の黄バスは東京環状乗合(環状)のバスの色が黄色だったからで、黄バスには豊島園~目白駅~江戸川橋~市谷~新橋駅の幹線といくつかの支線がありました(http://pluto.xii.jp/bus/line/s17.html)。昭和17年にこの黄バスの経営は市営バスに変わっています。また、W大学とは早稲田大学でしょう。

 美絵子の発案で、山口質店は面目を一新した。まず時代な暖簾が取りはわれ、Pawnbroker(しちや)と横文字で書いた真鍮板(ブレス・プレート)がそれに変わった。(中略)つづいて薄くらい帳簿が改造され、蓄音機屋の試験室みたいな明るい感じの小室が、設けられ、取引は一切そこで行われることになった。そこへ、美絵子と悦子が貸付係兼接待係という役目で、紅茶をもって愛想をふり撒きながら現れるという寸法である。果然、山口質店は素晴らしい業績をあげ始めた。

 質屋をここまで変えるとは驚きです。ただし、昔の質屋は現在の質屋と比べて店舗数は圧倒的に多かったようです。例えば昭和10年の横寺町では81店舗のうちなんと5店舗は質屋です(今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』新宿区横寺町交友会、2000年)。歩くと質屋にぶつかる状況でした。

 質草を聞く場面で、客が住所は弁天町と答える場合があります。

 客は、(ふところ)から錦紗(きんしゃ)(づつみ)を出して、美絵子の前に拡げて見せた。ダイヤ入の指輪、鼈甲(べっこう)(くし)(こうがい)翡翠(ひすい)()がけ。それに、帯止(おびどめ)の金具。
「いくらほどお入用なんですの。」
「三百円調達したいと思うんですの。」
「三百円ね。」
「これで足りなければ、あたしの着物を入れてもと思っています。」
「どちらです。お宅は?」
「弁天町の三十七」

錦紗 紗の地に金糸・箔・絹の色糸などを織り込んだ絹織物
鼈甲 ウミガメのタイマイの背甲、縁甲、四肢の鱗片をはいだもの
 江戸時代の女性用髪飾り。金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作り、髷などに挿す
翡翠 緑色の硬玉。主産地はミャンマー・中国など
根がけ 女性が日本髪の髷の根元に結ぶ飾り。金糸・銀糸・絹ひも・緋縮緬・宝石類など。
帯止 解けるのを防ぐために女帯の上からしめる平打ちの紐

「弁天町の三十七」は現在は巨大なマンションになり、三十七という号数は単独ではなくなっていますが、昭和五年には確かにありました。

弁天町37

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 次に田原屋と貸ボートです

 その晩、美絵子は悦子に誘われて神楽坂の通り歩いていると、田原屋の前で、
「悦ちゃんじゃないか」
と、なれなれしく悦子に声をかけて近づいて来た青年があった。
「まあ、西山さん」(中略)
「どう、お茶のみにつき合ってくれないか。」
 美絵子は断りたかったが、悦子が誘ったので仕方なしに、西山について田原屋へ這入った。
「四菱に出てらっしゃるんですってね。就職難時代に偉いものだって母が感心していましたわ」
 悦子がちょっと、愛想を言うと
「あっちこっちから引ぱりだこで弱っちゃったよ」
 西山は得意そうに鼻をうごめかした。

 田原屋で3人の話が終わり

「どう。見付へ下りて、ボートへ乗らない?」
と、(西山は)二人を誘った。
 美絵子はいい加減に切りあげたかったが、西山は厚かましく悦子の手をとって先に歩き出したので、悦子のことも心許なくなり、田原屋を出て坂を下りて行った。
 蒸暑い晩だったので見付の貸ボート屋は賑わっていた。西山はボートに乗ろうと云い出したが、そこまで西山の機嫌をとる必要もないと美絵子は思った。(中略)
 西山と別れて、悦子をせきたててお濠端にそい、牛込見付へさしかかった時であった。彼女は何気なく濠の方を見た…

 そこには別の男性、W大学を卒業して、大和製鋼に入る予定の下村氏がいたのです。

中野実|新女性大学②

文学と神楽坂

 ユーモア小説「新女性大学」について先に行きます。

 鶴巻町の通りを大学の正門ヘ向って2丁程行った右角の東北館という下宿屋が下村の住居だった。

早稲田正門 二丁は約200メートルです。「鶴巻町通り」は現在「早大通り」になりました。始点はどこからなのでしょうか。わかりません。鶴巻町は相当大きく一番右からなのでしょうか? もし「鶴巻町東」からだとすると、「鶴巻小前」に近くなっています。

 さて、神楽坂が出てくる最後の場面です。

「実は今晩、下村の就職祝の会が7時から神楽坂の鳥正とかいう料理屋であると云っとりました。」
「そう、それは有難う。じゃあ」
 電話を切った美絵子は、つまらなそうにぶらぶらしている西山へちらりと流し目をくれると、
「西山さん、今晩お供するわ。」
「来てくれるのかい?」
「ええ。」
「銀座?」
「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ。7時に肴町停留場で待っていて頂戴」
       4
 鳥正という神楽坂の料理屋は肴町の方から行って電車通りを一寸左へ這入った細い露地の右側にあった。美絵子は西山について二階へ上って行った。そして西山に気取られないようにそっと女中を廊下に呼んで
「今夜ここで下村さんとかいう人の会があるでしょう。」
「ええございますわ。」
「その部屋の隣の座敷へ通してくれない?」
「はあ、かしこまりました」

停留場 市電・都電の停留所です。
電車通り 市電・都電が通る道路のこと。ここでは大久保通り

 鳥正は川鉄をモデルにしています。

 「駄目、あんな所。神楽坂がいいわ」といわれた神楽坂ですが、半ば笑いのネタになっているのではないでしょうか?  普通は銀座のほうが遙にいい。なのに、神楽坂がいいのは、下村さんの就職祝の会があったからです。

 以上で終わりですが、あまり神楽坂は出てきませんでした。

 しかし、それ以上に驚いたことはこの文章全体の軽さです。昭和9年に書かれたなんて思えません。

外濠線にそって|野口冨士男⑤

 逢坂下のつぎが、新見附であった。
 見附とは城門番兵の見張所の意で、江戸三十六見附ということばはあっても実数ではなくて、曲輪(くるわ)城門は二十六しかなかった。しかし、新見附は二十六城門はおろか、明治十六年から翌年にかけて測量された『参謀本部陸軍部測量局地図』にも、内務省が明治二十年に測図した『東京五千分壱実測図』にも、明治二十七年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』にもまだあらわれていない。つまり、それ以後に造成されたものだから新見附と命名されたに相違ないのだが、他の見附の場合同様に濠を渡る道としての機能はそなえているものの、見附という呼称がもつ本来の字義とはなんらの関係もない。牛込見附から市ケ谷見附に至る外濠が市ケ谷堀とよばれているのも、江戸時代には新見附がなかったからである。

逢坂下 市電の逢坂下停留所です。
新見附 市電の新見附停留所です。
江戸三十六見附 江戸城門に置かれた見附(見張り番所)の36か所を挙げたもの
外曲輪 そとぐるわ。外郭。一番外の囲い。がいかく。とぐるわ。
城門は26  大熊喜邦氏の『江戸建築叢話』(東亜出版社、1947年)によると、外曲輪26門は、①雉子橋門、②一ッ橋門、③神田橋門、④常盤橋門、⑤呉服橋門、⑥鍛冶橋門、⑦数寄屋橋門、⑧日比谷門、⑨山下門、⑩幸橋門、⑪虎の門、⑫赤坂門、⑬四谷門、⑭市ヶ谷門、⑮牛込門、⑯小石川門、⑰筋違橋門、⑱浅草橋門、⑲芝口門、⑳和田倉門、㉑馬場先門、㉒外桜田門、㉓半蔵門、㉔田安門、㉕清水門、㉖竹橋門です。

江戸城三十六見附。外廓城門

江戸城三十六見附。外曲輪26門

まだない 明治23年の「東京市区改正全図」でも当然ながら新見附は現れていません。

牛込橋と市ヶ谷橋

牛込橋と市ヶ谷橋

それ以後 新見附は明治27年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』ではでていませんが、しかし、新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、明治28年の「東京市牛込区全図」に新見附がでています(322頁)。おそらく27年にはなく、28年にあったものでしょう。新見附 明治28年
市ケ谷堀 江戸城の堀の一つ。現在の呼び方は牛込堀

 市ケ谷見附といえば、私の少年時代には九段坂がもっと急傾斜で、神田方面からくる市電は九段坂と牛ヶ淵の中間につくられた勾配のゆるい専用軌道を通っていた。そしてその軌道はげんざい坂上の消防署のある地点から左折して、フェアーモントホテル戦没者慰霊のある千鳥ヶ淵ぞいに半蔵門のほうへ走っていたが、それとは別箇に九段坂上市ケ谷駅前間だけを往復していた路線もあった。したがって、その電車に乗ると、いったん市ケ谷駅前でおろされて、濠のむこうまで歩いてから外濠線の電車に乗換えねばならなかった。

地理院地図1974-1978 千鳥ヶ淵

九段坂 九段下交差点から靖国神社の南側を上る坂。明治維新に石段を急坂に変えて、さらに関東大震災の復興計画で緩徐な坂に変更。
牛ヶ淵 うしがふち。江戸城の堀の一つ。上図を。
専用軌道 江本廣一氏の『都電車両総覧』(大正出版、1999年)では実際に専用軌道を描いています。専用軌道

九段坂
消防署 明治45年6月、麹町消防署九段出張所ができた。平成25年3月、廃止。
フェアーモントホテル 2002年(平成14年)1月27日に閉鎖。かわって高級マンションができました。
戦没者慰霊 第二次世界大戦の戦没者の遺骨で遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置。上図を。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。江戸城の堀の一つ。正称は皇居外苑千鳥ヶ淵堀。桜の名所。上図を。
半蔵門 皇居西側の門。下図を参照。下図では外曲輪城門のうち23番目。
九段坂上 「九段坂上」交差点にありました。
市ケ谷駅前 市ケ谷駅前はかなり古い路線図で出てきます。「日本鉄道旅行地図帳五号」(新潮「旅」ムック、2008年)の大正8年頃では、右の丸のように「市ヶ谷見附」は2つに分かれています。その後、「市ケ谷駅前」ができていたのでしょう。この路線では往復していたのか、わかりませんでした。

大正8年の路線図

大正8年の路線図

 もっとも、当時の市電には全線の路線図を印刷した横長い乗換券というものがあって、車掌が行先と乗換場所にパンチを入れてくれたから、何回乗換えても基本料金は変らなかった。全線一区の周遊券のようなもので、料金は震災前から七銭だったと記憶するが、昭和四年十二月中央公論社発行の『新版大東京案内』をみたところ、そこにも七銭と記載されていて、戦前の物価の安定ぶりを再確認させられた。ついでに記しておけば、戦前――特に私たちの少年時代にはあらゆる方面に名人、または職人芸の違人がいて、市内全線の路線図が印刷されてあった乗換券を裏返しにして、なにも印刷されていない真白な面に、行先と乗換場所とその時刻のパンチを入れて1ミリの狂いもないような車掌がいた。

乗換券 例は大正11年2月3日に発行された乗換券。大正11年の乗換券
七銭 今和次郎氏の『新版大東京案内』では

 市電に対する不平の声は既に古い事である。一回どこまで乗つても七銭である事、及市内到るところに(ひろ)まつて布かれてゐると云ふ点では(よろこ)ばれてゐるけれど、あの「チンチン動きまあす……」の気だるさは、緩慢な速力は非近代的な感触を与へ、あれに乗る人々を時世後れにするやうな結果をもち来すかのやうだ。もっとモダン的にハイカラな感触が市電に欲しい……。これだけにして次のものにうつってみやう。

と書かれています。都交通局の『わが街わが都電』(平成3年)によると、料金は昭和17年までは7銭ですが、18年になると10銭でした。なお、昭和20年に日本の敗戦が決まります。

 駅前から外濠線の市ヶ谷見附停留所までは牛込見附や新見附同様に坂道をくだるが、濠を渡る道が傾斜状をなしているのは以上の三見附だけで、そのあたりから濠外の地勢は隆起しはじめる。
 市ケ谷見附の濠外の正面には靴屋があって、「ヤスイカラヨクウレル。ウレルカラナホヤスイ」と書いた看板が眼をひいた。あのキャッチ・フレーズには大正ムードがみなぎっていたとおもうが、大正時代を誤解してもらってはこまる。花屋の飾窓にはSay it with flowerというような金文字もみられた。チュウインガムはリグレイコーンビーフリビイ乾葡萄サンメイド、果物の罐詰はS&Wなどの製品を私たちは食べていた。
 市ヶ谷見附のつぎの停留所は本村町であった……

市ヶ谷見附停留所 外堀通りにありました。
坂道 この停留所3か所は東も西も坂道を下に降りた場所にありました。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

ヤスイ… 「安いからよく売れる。売れるからなお安い」と書いてあります。
大正ムード 大正時代は西洋の近代文明と、日本の伝統文化が融合して生まれ、個人の解放や理想に満ちた風潮があった時代でした。
Say it… 正しくはSay it with flowersと複数形で。このキャッチフレーズの詳しい説明は花豊ででています。
リグレイなど リグレイ。Wrigley
コーンビーフ Corned beef
リビイ Libby。
乾葡萄 レーズン(Raisin)のこと。
サンメイド Sun-Maid
S&W 英語もS&Wです
米国の食品
本村町 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』(昭和57年)では昭和16年は本村町で、昭和22年は本塩町でした。木村町と本塩町

 

外濠線にそって|野口冨士男④

 牛込見附を境界にして、飯田堀の反対側の外濠は市ケ谷堀とよばれる。
 ここから赤坂見附弁慶堀に至る外濠は明治五年ごろまでいちめんの蓮池であったらしく、魚釣りも禁じられていた様子だが、私の少年昨代の市ケ谷堀には、禁漁どころか大正十年前後には貸ボート屋まで開業して、その直後に私も乗った。照明をして、夜間営業をしていた一時期もあったように記憶している。それにくらべれば、赤坂の弁慶堀や皇居の内濠の千鳥ヶ淵の貸ボートはずっとあとになってからはじまったもので、城濠のボートに関するかぎり牛込見附の開業はずばぬけて早かった。
 車体の小さな外濠線の市電は、外濠づたいに、運転台と車掌台をシーソーのように交互に上下させながら走っていた。
 運転台と車掌台について一言しておけば、ドアのしまるのは客席だけで、前後の乗務員は雨や雪の日も、ドアのない吹きさらしの運転台と車掌台に立ちつくしていた。だから飛び乗り、飛び降りも可能だったのである。そして、その車内には「煙草すふべからず」「痰唾はくべからず」「ふともも出すべからず」などと書いた印刷物が掲額されていた。

飯田堀(濠) いいだぼり。下図で。外濠を橋でさらに分割し、「○○濠」としました。
市ケ谷堀(濠) いちがやぼり。下図で。現在の名称は牛込濠。
赤坂見附 千代田区紀尾井町と平河町との間にあります。下図で。%e5%a4%96%e6%bf%a0%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%972
牛込見附 見附とは江戸時代、城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所。牛込見附は外濠が完成した寛永13(1636)年に、阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって建設されたもの。
貸ボート屋 牛込壕のボート屋は大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができました。弁慶橋ボート場は戦後すぐに創業します。千鳥ヶ淵のボート場はいつできたか不明です。
ドアのしまるのは客席だけ 明治・大正時代にはオープンデッキ式の車が一般的で、運転士と車掌は車内ではなく、デッキに立っていました(写真)。東京でも昭和初期まではオープンデッキ式の市電がごく当たり前のように都心部を走り回っていました。この場合、運転士と車掌は横から風や雨、水滴がはいってきます。

電気鉄道会社

大正時代の東京電気鉄道会社、

ふともも… 獅子文六氏の『ちんちん電車』(朝日新聞社)では

“ふともも出すべからず″
 というのが、今の人の腑に落ちないらしい。私は、そのことを、若い人に語ったら、
「明治の女は、キモノを着てたから、裾を乱しやすかったのですね」
 と、早合点された。
 いくら、明治の女だって、電車に乗って、フトモモを露わすほど、未開ではなかった。それは、男性専門の注意である。当時の職人や魚屋さんなぞ、勇み肌であって、紺の香の高い腹がけ(旧式の水泳着みたいなもの)を一着に及んだだけで、乗車する者が多かった。これは胸部は隠すが、下部は六尺フンドシとか、日本式サルマタも、隠見するくらいだから、無論、フトモモ全部を、露わす仕掛けになってる。それでは外国人に対して不体裁であるというところから、禁令が出たのだろう。

なお、隠見(いんけん)とは「みえがくれ。みえたりかくれたりすること」。

 震災後もあったとおもうが、牛込見附と新見附との中間にあった逢坂下という停留所が廃止されたのは、いつごろだったろうか。その対岸の土手が遊歩道に開放されて公園になったのは、昭和三年のことである。
 永井荷風の『つゆのあとさき』が発表されたのは昭和六年十月で、女主人公の君江が友人のかつてのパトロンであった川島に久しぶりで再会するのがその土手公園だが、私の少年時代には将棋の駒を短かく切りつめたような形の白ペンキを塗った立札が立っていて、「この土手に登るべからず 警視庁」という川柳調の文字が黒く記されていたばかりか、棒杭に太い針金を張った柵があった。が、その禁札はほとんど無視されていた。私もしばしば禁を犯した一人だが、土手にあがってみると、雑草のあいだには人間が足で踏みかためた小径がくっきり出来上っていた。
 零落してひそかに自裁を決意している『つゆのあとさき』の川島は君江にむかって、《あすこの、明いところが神楽阪だな。さうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》と思い出ふかい小石川大曲方面を眺望しながらつぷやくが、戦前の対岸は暗くて、ビルの櫛比している現在でも正面にみえる牛込の高台の緑は美しい。土手公園も松根油の採取が目的であったかとおもうが、戦時中には松の巨木が次々と伐り倒されて一時は見るかげもなくなっていたが、戦後三十年を経過した現在ではだいぶん景観を取り戻している。ただし、桜が多くなったのはあまり感心できない。土手には、松の緑のほうがふさわしい。

廃止 新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、昭和15年には「逢坂下」停留場は確かにありました(右図。348頁)が、7年後の昭和22年にはなくなっています(380頁)。一方、東京都交通局の『わが町 わが都電』(アドクリエーツ、平成3年)では昭和15年の『電車運転系統図』(76-77頁)では逢坂下停留場はもうなくなっています。つまり昭和15年に逢坂下停留場はある場合とない場合の2つがあり、これから廃止は昭和15年なのでしょう。
逢坂下停留場、昭和15年公園 結局、外濠公園になりました。下の図を参照。
つゆのあとさき 銀座のカフェーを舞台にして、たくましく生きる女給・君江と男たちの様子を描く永井荷風氏の作品。『つゆのあとさき』の最後は、会社の金を使い込んで刑務所にいっていた川島に君江は出会い、酒を飲み、朝起きると、君江への感謝を書いた遺書が置いてあり、これが終わりです。何か、もやもやが残る結末です。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
外濠公園
弁慶堀(濠) 右図で。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。皇居の北西側にある堀。右図で。零落 れいらく。おちぶれること
自裁 じさい。自ら生命を絶つこと。
安藤阪 本来の安藤坂は春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。明治時代になって路面電車の開通のため新坂ができ、西に曲がって大曲(おおまがり)まで行くようになりました。
安藤坂
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
櫛比 しっぴ。(くし)の歯のようにすきまなく並んでいること。
松根油 しょうこんゆ。松の根株や枝を乾留して得られる油

外濠線にそって|野口冨士男③

「外濠線にそって」その3です。甲武鉄道と、牛込駅とその東口の思い出です。大正8年から13年にかけて野口冨士男氏は小学校の慶應義塾幼稚舎に通っていました。
 国電の中央線は、げんざい飯田橋と水道橋の中間に貨物駅としてのこっている飯田町駅から八王子に通じていた、甲武鉄道のあとを走っている。
 甲武鉄道が官有に帰したのは明治三十九年十月のようだが、大正四、五年ごろ赤坂の紀伊国坂下に住んでいた私の幼年時代の記憶によれば、その時分にもまだ「甲武線」という呼び方はのこっていた。そして、現在でも国電は四ツ谷駅から信濃町へむかって発車するとすぐ迎賓館のちかくで赤煉瓦づくりのトンネル——御所隧道へ入るが、私は年長の友人から「甲武線を見に行こうよ」とさそわれて、トンネルへ吸い込まれていく電車や汽車を上からのぞきこみに行った帰りには、喰違見附の土手でノビルツクシの摘み草をしたものであった。
 その電車は国電になる以前には省線、それよりさらに以前には院線とよばれていた。万世橋=東京駅間の開通は大正八年だから、幼稚舎ボーイだった私が真紅のクロースの表紙がついていて二つ折になる定期券をもって、院線の田町駅まで乗った期間があるのが大正八年以後であることは確実だが、その時分にはまだ飯田橋駅はなくて、私が乗降したのは牛込駅であった。
 げんざい飯田橋駅の西口=神楽坂口は、神楽坂下からゆるい坂をのぽって千代田区へ入ろうとする直前の左側にあるが、その坂道の右側の下の道を歩いていっていまものこっている木橋をわたってから右折すると、桜並木の奥に牛込駅はあった。そして、その裏口は線路むこう——千代川区側の高い位置にあって、裏口の前には阿久津病院という漆喰塗の古めかしい洋館があった。病院が大正年間に神田紅梅町あたりへ移ったあとは戦後まで逓信博物館になっていたが、その建物はどうなっているだろうかと、霧雨のけむっていた日であったが、田原屋で食事をする前に行ってみたら、一階に飯田橋郵便局が入っている飯田橋会館というありふれたビルになっていた。そして、江戸時代の遺構である牛込見附跡の石塁に近接する位置にあった牛込駅の裏口の跡には、共同便所が出来ていた。

国電 JR線です。国電とは大都市周辺の近距離電車線のこと。
貨物駅 貨物列車に貨物を積み降ろしする鉄道駅
飯田町駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通(ここをクリックして地図を出すと、飯田町駅は右側の赤い矢印です)。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。平成11年、この駅も廃止
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。

赤坂田町

赤坂田町

紀伊国坂 東京都港区元赤坂1丁目から旧赤坂離宮の外囲堀端を喰違見附まで上る坂
住んでいた 子供時代を書いた「かくてありけり」(講談社、昭和52年)で氏の住所は赤坂区田町(現在は赤坂3丁目)だと書いています。図では赤の範囲なのでしょう。
迎賓館 迎賓館赤坂離宮は東京都港区元赤坂2-1-1にある外国の元首や首相など国の賓客に対して、宿泊その他の接遇を行うために設けられた迎賓施設。
御所隧道 丸ノ内線四ツ谷駅からよく見えるJR総武線四ツ谷駅側の煉瓦トンネル。総武線四ツ谷駅から信濃町に向かうときに赤坂御用地の下を走る。
御所隧道喰違見附 くいちがいみつけ。「喰違」は防衛のため見附に入る土橋の道をジグザグにしたため。この見附は城門はなかった。
%e5%96%b0%e9%81%95%e8%a6%8b%e9%99%84ノビルとツクシノビル ユリ科ネギ属の多年草。山菜に使う
ツクシ 早春に出るスギナの胞子茎
省線 1920年から1949年までの国有鉄道。鉄道省(1920―1943年)、運輸通信省(1943―1945年)、運輸省(1945―1949年)が管理
院線 1920年以前は鉄道院の所管だった。
クロース cloth。本の表紙に使う型付けなどの加工をした布
田町駅 港区芝五丁目のJR駅
飯田橋駅 現在のJR駅
牛込駅 飯田橋駅よりは南寄りの駅
ここに

朝倉病院

朝倉病院

阿久津病院 正しくは朝倉病院でしょう。明治43年と大正12年の地図で朝倉病院がありました。
%e3%82%b5%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%86%e3%83%a9%e3%82%b9逓信博物館 昭和4年には同じ場所に逓信博物館がありました。
飯田橋郵便局 同じ場所の千代田区富士見2丁目では「飯田橋サクラテラス」があり、ここの一階に今でも飯田橋郵便局があります。
共同便所 その反対側に共同便所があります。

外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

花豊|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 平成6年、スーパーよしやの反対側に三上ビルが建ちました。大家の名前からつけたもので、花屋の「花豊はなとよ」を営業中。場所はここ

『かぐらむら』によると

創業1835年、東京で一番古い由緒正しいお花屋の六代目。お店の横にひっそりたたずむ創業時の屋号「花屋豊五郎」の石碑は、知る人ぞ知る江戸散歩の穴場です。

 創業1835年なので、もう200年近くになります。

花

花豊

 平成7(1995)年、『ここは牛込、神楽坂』第3号で、一家の

かおりさんが新しいお店のために掲げたキャッチフレーズがある。 SAY IT WITH FLOWERS。日本語で添えた言葉が「想いを花に託して」。ところが、かおりさんは六〇年前のお店の写真を見て驚いた。その看板の一番上に「ええ、英文で全く同じフレーズが記されていたんです」(図)

 つまり、1935年でも「SAY IT WITH FLOWERS」を使っていました。

 これはもともとは米国で「母の日」に花屋が贈る言葉でした。1914年に米国は「Mother’s Day」を祝日にしました。そして、1918年、米国生花通信連合会(Flower Wire Service)は“Say it With Flowers”をスローガンにしました。「心を花で伝えよう」です。itは環境の‘it’で、漠然とした環境や不定のものをさします。米国では今でも花屋の宣伝文句に使っています。

say it with flowers

 なお、サザンカンパニーもここの8階です。タウン誌「かぐらむら」を作っていますが、ほかにも雑誌・新聞広告の企画・編集・制作、販促用カタログ・パンフレット・ポスター・DM・CFの企画・編集・制作、企業・団体の公報・PR、各種PR誌の企画・編集・制作、出版企画・編集・制作などなどあらゆるものの編集・制作・PRしています。

外濠線にそって|野口冨士男①

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。氏は65歳でした。ここでは神楽坂と周辺に関する前半の1部分を読もうと思います。

     外濠線にそって

 せめてもう三、四年早く生まれていたかったとおもうことがしばしばある。
 大正12年9月1日の関東大震災のとき私は小学校の六年生であったが、中学の三、四年生になっていたら、もっと震災前の束京のあちらこちらを見ていただろうとくやまれてならない。
 本書では、明治以後の文学作品と私の記憶のなかにある過去の東京の姿に、可能なかぎり現状の一端などを織りまぜていってみたいとおもうのだが、ひとくちに東京といっても、あまり広大すぎてとらえようがない。げんに今から二十年ほど以前に出版した自作のなかでも、私はのべている。

東京ほど広い都会もないが、東京の人間ほど東京を知らぬ者もすくないのではなかろうか。ぼくらが知っているような気になっている東京とは東京のきわめて一小部分の、そのまたほんの一小部分にしか過ぎない。たまたまぼくらはなんらかの機会をあたえられて幾つかの町を知る。そして、その知っているだけの町を幾つかつなぎ合わせたものが、ぼくらの頭のなかで一つの東京になっている。ぼくの知らない町を知っていて、ぽくの知っている町を知らない人の頭のなかにある東京と、ぼくの頭のなかにある東京は一つの東京ではない。

 ことに私は山ノ手生まれの山ノ手そだちで、浅草の観音さま花屋敷両国の川開き洲崎沖の投網などにも親に連れていかれたことはあっても、ひとり歩きをしたのはほぼ山ノ手につきている。ただ、私は神楽坂に住んで芝の小学校へかよっていたから、自分と同年の少年たちにくらべれぱ、なにほどか広い東京を知っていたといえるだろう。
 大正七年に私が入学した小学校は慶応義塾の幼稚舎で、現在では天現寺に移っている幼稚舎はまだ三田の大学の山の下にあったために、飯田橋から市ケ谷、四谷、赤坂、虎ノ門を経て札の辻に至る系統の市電――のちに都電三号線となった外濠線を毎日往復していた。しかも牛込から芝までといえば、旧十五区時代のせまい東京市の南北縦断の全長にちかい距離であった。
 まずその沿線を軸として、気ままに道草を食いながら書きはじめていってみることにしよう。

*

 飯田橋から芝の方角にむかう市電の外濠線には、二系統あった。一つは私が乗った札の辻行で、他の一つは芝口行であったが、前者は虎ノ門から右折して三田の方面にむかって、後者は新橋駅方向へ真直ぐ走った。が、芝口という地名も、こんにちではわからなくなってしまっているらしい。二、三年前に、私は芝口をある雑誌で「芝国」と二ヵ所も誤植された。東海道五十三次の起点日本橋から第一宿の品川へむかうとき、そこで芝へさしかかるから芝口だったわけで、いま高速道路の下に形だけのこっている新橋芝口橋ともよばれていた。

 引用の元は分かりませんでした。国立図書館などで調べなくては解らないのでしょう。これ以外の注釈は以下に書きました。
外濠線

昭和7年の外濠線

外濠線 「そとぼりせん」と読みます。最終的には外濠線は都電三号線と同じで、都電の「品川駅前」から「飯田橋」を結ぶ路線でした。しかし昔の外濠線では違う地域を指している場合もあります。
山ノ手 区部西半の地域。武蔵野台地東端で下町に対する俗称。本来は山手線の内側の住宅街を形成する地域
浅草の観音さま 浅草寺。台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺。聖観音宗の総本山。山号は金龍山
花屋敷 台東区浅草二丁目にある遊園地
両国の川開き 川開きとは夏に水辺で行う納涼祭のこと。両国では屋形船や伝馬船が川を埋め、両岸には人垣ができてはなやかに花火が打上げられていました。現在では「隅田川花火大会」のこと
洲崎 江東区木場東隣一帯の通称。元禄年間(1688~1704)埋め立てでできました。
投網 円錐形の袋状の網のすそにおもりを付け、魚のいる水面に投げて引き上げる漁法
芝の小学校 芝区(現在の港区)の慶應義塾幼稚舎です
天現寺 渋谷区恵比寿。慶應義塾幼稚舎の西には都立広尾病院があります。
札の辻 ふだのつじ。港区芝5丁目で田町駅西口の地区。札の辻とは、江戸幕府が法令などを公示する高札を立てた道のこと。この制度は明治6年に廃止。札の辻の市電系統図では下部に書いています。
二系統 外濠線が都電三号線と同じ場合は、外濠線は1系統しかありません。ところが、この路線はそれよりも以前にかかっていたものなのです。実際に昭和7年の東京市電では「飯田橋」から出て、「札の辻」に行く路線と、「三原橋」に行く路線がありました。
芝口 しばぐち。交差点「新橋」のこと。上の市電系統図では右方に。下図では外堀通り、昭和通り、中央通り、第一京浜が1つに交わる場所。

新橋

新橋

虎ノ門 三田 新橋駅 以上は上の市電系統図で。
新橋 新橋は銀座通り南端の汐留川にかかる新橋8丁目の橋。新しい橋だから「新橋」
芝口橋 しばぐちばし。江戸時代は「新橋」を「芝口橋」と呼びました。

紅白毒饅頭|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治24年、尾崎紅葉氏は読売新聞に『紅白毒饅頭』の連載を始めます。ここでは架空の玉蓮教会の縁日の様子ですが、毘沙門の縁日がもとになっていると言われています。昔の光景ですが、昔の名前で今の品物を売っていることも多いのでした。たとえば「竹甘露」は水羊羹と同じものでした。
 架空の玉蓮教会は実際は神道大成教に属する新宗教の蓮門(れんもん)教だといわれています。コレラや伝染病が毎年のように流行するなか、驚異的に発展し、明治23年、信徒数は公称90万人。翌年尾崎紅葉の「紅白毒饅頭」などの批判を受け、大成教は教祖の資格を剥奪し活動を制限。30年以降、教団は分裂し消滅しました。

今日(けふ)月毎(つきなみ)祭日(さいじつ)とかや。玉蓮(ぎよくれん)教会(けうくわい)(もん)左右(さいう)には、主待客待(しゆまちきやくまち)腕車(くるま)整々(せいせい)(ながえ)(なら)べ、信心(しんじん)老若男女(らうにやくなんによ)(たもと)(つら)ねて絡繹(しきりに)参詣(さんけい)す。
往来(おうらい)両側(りやうかは)(いち)()床廛(とこみせ)色々品々(いろいろしなじな)、われらよりは子供衆(こどもしゆ)御存(ごぞん)じ、太白飴(たいはくあめ)煎豆(いりまめ)かるめら文字焼(もんじやき)椎実(しゐのみ)炙栗(いりぐり)(かき)蜜柑(みかん)丹波(たんば)鬼灯(ほゝづき)海鬼灯(うみほゝづき)智恵(ちゑ)()智恵(ちゑ)(いた)化物(ばけもの)蝋燭(らふそく)酒中花(しゆちうくわ)福袋(ふくぶくろ)硝子筆(がらすふで)紙製(かみの)女郎人形(あねさま)おツペけ人形(にんぎやう)薄荷油(はくかゆ)薄荷糖(はくかたう)皮肉桂(かはにくけい)竹甘露(たけかんろ)干杏子(ほしあんず)今川焼(いまがはやき)まるまる(やき)煮染(にこみ)田楽(でんがく)浪華鮨(なにはずし)大見切(おほみきり)半直段(はんねだん)蟇囗(がまぐち)洋紙製小函(やうしのこばこ)、おためし五(りん)蜜柑湯(みかんたう)(くし)(かんざし)飾髪具(あたまかけ)楊枝(やうじ)歯磨(はみがき)(はし)箸函(はしばこ)老女(ばば)常磐津(ときはづ)盲人(めくら)(こと)玩具(おもちや)絵双紙(ゑざうし)銀流(ぎんなが)早継粉(はやつぎのこ)手品(てじな)種本(たねほん)見世物小屋(みせものごや)女軽業力持(をんなかるわざちからもち)切支丹(きりしたん)首切(くびきり)猿芝居(さるしばゐ)覗機関(のぞきからくり)手無(てな)(をんな)日光山(につくわうざん)雷獣(らいじう)大坂(おほさか)仁和賀(にわか)天狗(てんぐ)(ほね)(かしま)しく()()(はや)(たて)て、大道(だいだう)雑閙(にぎわい)此神(このかみ)繁昌(はんじやく)()るべし。
[現代語訳] 今日は毎月の祭日だという。玉蓮教会の門の左右には、主人や客を待つ人力車がでており、整然と把手をならべている。信心の老若男女は袂をつらねて頻繁に参詣する。
道路の両側にある屋台はにぎわい、いろいろな品々をならべている。私たちよりも子供のほうがよく知っているが、太白飴、煎豆、カルメラ、もんじゃ焼き、椎の実、甘栗、柿、みかん、ほおづき、海ほおづき、知恵の輪、智恵の板、化物蝋燭、水中花、福袋、ガラス製ペン、紙製の女郎人形、オッペケ人形、ハッカ油、ハッカ入り砂糖菓子、シナモン、水羊羹、ほしあんず、今川焼、お好み焼き、にこんだ田楽、大阪寿司、値段半分のがまぐち、洋紙製の小函、おためし五厘の蜜柑風呂。櫛、かんざし、髪飾り、楊枝、はみがき、箸、箸函、婆さんの常磐津、盲人の琴、玩具、絵入りの小説、水銀塗り、接着剤、手品の種本。見世物小屋で見るのは、女軽業、力持ち、切支丹の晒し首、猿芝居、のぞきからくり、手無し女、日光山の妖怪、大坂の寸劇、天狗の骨。かしましく呼び立てて、はやしたて、大通りのにぎわいを見ると、この神の活況を知ってもいいと思える。

腕車 わんしゃ。人力車。客を乗せて車夫が引く二輪車。
 ながえ。馬車・牛車などの前方に長く突き出ている2本の棒。
絡繹 本来は「らくえき」で人馬などが次々に続いて絶えない様子。
市をなす 人が多く集まる。にぎわう。
床廛 とこみせ。床店。廛は店と同じ。商品を並べるだけの寝泊まりしない簡単な店。移動できる小さな店。屋台
太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/ 太白飴
煎豆 豆・米・あられなどを炒って砂糖をまぶした菓子
かるめら 赤砂糖と水を煮立て重曹を加えてかきまぜ、膨らませた軽石状の菓子
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
炙栗 熱した小石の中に入れ加熱した栗。甘栗に近い。
丹波鬼灯 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。

植物のほおづき

植物ほおづき

海鬼灯 うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
海ほおづき
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。e9394230 http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの

化物蝋燭 — 藝海餘波。

酒中花 ヤマブキの茎の髄などで、花・鳥などの小さな形を作り、杯や杯洗などに浮かべると、開くようにしたもの
硝子筆 ガラス製のペン
女郎人形 女郎は本来は「じょうろ」と読み、遊女、おいらん。あるいは単なる女性のこと。女性の形をした人形でしょうか。<a
おツペけ人形 明治20年代、川上音二郎氏はオッペケペー節を書生芝居の幕間に歌いました。自由民権運動の歌で、格好は鉢巻、陣羽織、軍扇でした。同じ格好をした人形でしょうか。
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薄荷油 ハッカ油。主成分はメントール。薬用,香料などに広く使う
薄荷糖 ハッカの香味を加えた砂糖菓子
皮肉桂 ニッキ(ニッケイ、シナモンなど)の樹皮を乾燥したもの。独特の香りと辛味がある。
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。竹甘露
干杏子 ほしあんず。程よい酸味と甘さがある干した果実
今川焼 小麦粉を主体とした生地に餡を入れて焼き型で焼成した和菓子。
まるまる焼 ミニお好み焼き。鉄板にリング状の型を置き、生地を流し込み、魚肉ソーセージが入ってる

http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10922158071.html まるまる焼

田楽 豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに串をさし、調理味噌、木の芽などをつけて焼いた料理。
浪華鮨 なにわずし。おおさかずし。大阪を中心に関西で作られるすしの総称。押しずし・太巻きずし・蒸しずしなどがある。
蜜柑湯 温州みかんの皮を入浴剤として使用する風呂。
老女の常磐津、盲人の琴 常磐津は三味線音楽の流派。三味線を奏でる老女もいたし、琴を奏でる盲人もいたのでしょう。
絵双紙 江戸時代に作った女性や子供向きの絵入りの小説。
銀流し 水銀に砥粉(とのこ)を混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継粉 都筑道夫氏の「神楽坂をはさんで」によれば、割れた陶器をつける接着剤のこと。
切支丹の首切 晒し首があるといって見せたのでしょうか。もちろん嘘の晒し首ですが
覗機関 のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
%e3%81%ae%e3%81%9e%e3%81%8d%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%8f%e3%82%8a雷獣 日本の妖怪。雷とともに天から降りてくきて、落雷のあとに爪跡を残す、想像の動物。
仁和賀 素人が宴席や街頭で即興に演じたこっけいな寸劇
天狗の骨 たぶん動物の骨。谷崎潤一郎氏の随筆「天狗の骨」はイルカだったらしい

私の東京地図|佐多稲子⑤

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「曲り角」には牛込駅が出ています。

 このときから二十年の月日が流れている。それなのに、飯田橋から九段下へ出る電車に乗ってそこを通り過ぎるとき、私はときおりふいと九段の方を見上げることがある。飯田橋から九段へ出る電車通りはいつも埃をかぶったようにくすんでいて見栄えのしない道だ。魚屋だの八百屋だのの毎日の商い屋に混って、わが家で何かの企業をしているといったようなのが目につく。神田の方へ道の岐れた二股の突っ先の角には自動車の修理をするあけっぴろげな工場があって、円タクの町に流れていたころはよく、ガラスのみじんにひび破れた車などが修理場へ持ち込んであった。片側は九段上なので、そばやの角などから石畳の狭い坂が上へ登っている。家と家との間から高台の石垣ののぞいているところもある。かつての昔、私の生活が結びついていたのは、この辺りなのだと思う。何だか遠い悪夢でも思い出したように、半ば信じられない。この辺りの土地のことを自分の利害で、区劃整理があるらしい、飯田橋の駅が中央線の起点になるらしいなどという夫の話に私も相手になっていた。飯田橋の駅が大きくなれば、あのへんの地価はずっと上るのだという。そのころ飯田橋の駅は貨物駅で、電車の客は牛込見附寄りにあった牛込駅で乗り降りしていた。その飯田橋駅の長々とした歩廊は味気ないが、桜の花の散る濠の前にあった牛込駅は愛らしく、ハイカラな玩具の停車場のようなおもむきだった。駅の隣は貸ボート屋だなんて。今だからこそ私はこんなことをいっている。飯田橋駅が中央線の始発駅になるというとき、九段下のあたりまで旅館ができたり、大きな商店のたち並ぶのを頭に描いてみたのであった。

 このとき。大正13年(1924)頃です。また『私の東京地図』は昭和24年(1949年)に出ています。

飯田橋 市電の飯田橋停留場です。下の図で。
九段下 下の図で。市電で飯田橋から目白通りを通って九段下に行くときに目に入ってきた情景です。

飯田橋と市電

飯田橋と市電。明治40年の地図。人文社「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」。2003年

電車 もちろん、JRではなく、市電(都電)です。
見栄えのしない道 飯田町1丁目の写真です。この写真を撮った日時は不明ですが、この路線の都電は昭和43年に廃止されていますので、それ以前に撮った写真でしょう。

飯田町1丁目

飯田町1丁目(東京都交通局『わが街 わが都電』アドクリエーツ社、平成3年)

二股 明治40年の地図にはありませんが、下の昭和6年の地図でははっきり2股になっています。
九段上 下の地図を。
私の生活 佐多稲子氏の住所は麹町区飯田町6丁目24番地でした。上の赤い場所です。

昭和6年の飯田町

昭和6年の飯田町

区画整理 宅地などの区画を整形して新たに道路や公園を造る事業。
中央線の起点 明治27年(1894年)に新宿から牛込駅まで、28年には飯田町駅までが開通。37年に御茶ノ水駅が完成。昭和3年(1928年)、飯田橋駅が完成し、牛込駅は廃駅、飯田町駅は本線の駅は廃駅に、代わりに南側の貨物駅だけが残りました。1999年(平成11年)、この駅も廃止。
貨物駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。
牛込駅 明治27年から昭和3年まで(1894~1928年)、牛込駅がありました。
貸ボート屋 平成8年、水上レストラン「カナルカフェ」が開業しました。それよりも昔、西村和夫氏は『雑学神楽坂』のなかで

 牛込停車場のホームは牛込橋の下、市谷寄りにあった。駅舎は現在の駅舎の反対側早稲田通りの下にあった。乗客は神楽坂下から水上レストランのわきを通って駅舎に入り、濠を渡ってホームへ出た。昭和の初めまで使われていた駅舎は、牛込橋の下、メガネドラッグの後ろで、現在はJRの用地として空地になっている。
 駅舎前には桜が植えられていて、東京の夜桜の名所として知られ、桜の満開の時期は、わざわざ路面電車でやってくる夜桜の見物人が出た。牛込停車場の乗降客は桜のトンネルをくぐるようにしてホームに出た。
 ここに水上公園が出来て、ボートが浮かべられたのは震災後間もない頃だった。若い男女がパラソルをかざして語り合う絶好の場所になり、休日には親子連れが集まる憩いの場になっていた。大戦後、外堀通りには東京オリンピックを前に市電が廃止された後、桜が植えられた。

 また加能作次郎氏は『大東京繁昌記』のなかの「早稲田神楽坂」「牛込見附」で

 あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、(ごく)近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てて市の公園にするとかいう(うわさ)も幾度か聞いたが、そのままお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。

『大東京繁昌記』は昭和2年に発行し、一方、『雑学神楽坂』は平成22年に発行し、筆者の西村和夫氏は昭和3年生まれです。それから考えると「震災前一、二年頃から」のほうが正しいと思います。
 実際には大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができたそうですが、古いインターネットでははっきり書いてあったのに、新版でなくなっています。

私の東京地図|佐多稲子④

文学と神楽坂


 牛込見附の方へ降りかけの、助六という下駄屋で、姉妹が買物をしているのを見たことがある。お師匠さんが鼻緒を手にとっては、自分よりも背の高い君子に顔を仰向けてそれを見せ、また番頭に何か言い言いしている。君子はさすがに若い番頭の前なので、身体つきを甘ったれた風に(たな)にもたせかけていた。姉の背が(こぶ)を背負って自分よりも低いことなど意に介していない。不具の姉は、傍若無人に妹を甘えさせ、何かの喜びを感じている。

 坂の中途には、神楽坂倶楽部(くらぶ)などという貸席もあった。そのすぐ上てに、牛込会館という、あとでは白木屋が店を出した洋風の大きな建物があったが、ここで水谷八重子が翻訳劇をやったのもその頃である。「殴られる彼奴」の道化師には汐見洋(しおみよう)が、眼も埋まるほどまっ白に塗って、鼻の先と頬をまっ赤に紅で染めてピエロの服をきていた。八重子は獅子(しし)つかいの、傲慢(ごうまん)な娘に、そして東屋(あずまや)三郎座頭(ざがしら)で、派手な(しま)の服に長靴か何か履いていた。
 喫茶店の山本では、ドウナツが安くてうまい。今まで下町ばかりに住んでいた私は、山本で一杯のコーヒーをのむことに、幾分の文化の雰囲気を感じた。芳子は相変らずどこか冷めたく、上っつらな冗談ばかり言っている。屋敷町から神楽坂へ出るひっそりした坂道で朝毎に()う男が、喜劇俳優のバスター・キートンに似ているなどと言って、その男が曲り角から現われるのを見つけると、
「おッ、バスター・キートン!」
 と囁いて、言った自分はつんと澄ましている。
 その春、見合いをして決まった縁談に、私か(かた)づいていったのはこの杵屋与志次の家の、間借りの部屋からであった。次の年の正月に、私が夫の家を出て行方を知らせなかった時、この家へも搜索人が廻った。

姉妹 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性、妹は君子さん。
お師匠さん 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性
君子 妹の君子さん
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷やそれをする家。
芳子 丸善で同僚で、同じ杵屋与志次の家に間借りをしている女性。
バスター・キートン Buster Keaton。生年は1896年。没年は1966年。無声映画の米国の人気俳優。
杵屋与志次 長唄三味線のお師匠さん。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
次の年の正月 大正13(1924)年末、佐多稲子氏は家出し、正月あけに帰りました。

三角堂と買取り店

文学と神楽坂

 2019年の現在、店は取り壊されてしまいました。ここでは以前の店舗を扱います。

将来の神楽坂上交差点

 「機山閣」から昭和7年の「高島屋10銭20銭ストア 神楽坂店」ができ、戦時中に閉店。戦後は「山岡書店」から「明治牛乳」、「Fance」、「弁当たぐち」、「キッチンママ」、「シロクマの買取り屋」などに変わり、最後は「みんなの買い取りプラザ」でした。
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 みんなの買い取りプラザでは「お売りください 高価買取 無料査定/かしこい 生前整理 遺品整理 ご予約受付中/貴金属・ダイヤ・色石 ブランド品・時計/骨董品・美術品 中国骨董・刀剣 掛け軸・絵画 茶道具・書道具 象牙・珊瑚・翡翠 着物・帯・毛皮」と、高価ならば何でも買うと宣伝していました。
 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京しました。

馬場さん それから「三角堂」ってちっぽけな眼鏡屋さんがありましたね。夜になると三角堂の黄色い看板が出ててね。
相川さん その前はおもちゃ屋だったんですよ。私が聞いた話によると、蕎麦屋のセイちゃん。
馬場さん 蕎麦屋の神田セイタロウさん?
相川さん 三角堂のところでやっていたんです。私は知りませんよ。そういう話がある。うちのおふくろが言っていましたよ。それから、三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。

5丁目12など

大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます

国友温太「新宿回り舞台」(出版者は国友温太、1977年)

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

東京俳優学校と牛込高等演芸館

文学と神楽坂

かぐらむら』の「藤澤浅二郎と東京俳優学校」を読むと「東京俳優学校」や「牛込高等演芸館」についていろいろな情報が入ってきます。

藤澤浅二郎と東京俳優学校(2010/06)
 神楽坂通りから光照寺に行く地蔵坂の右手の袋町3番地には、かつて、江戸時代から続く、牛込で第一と言われた寄席があった。夏目漱石が通い中流以上の耳の肥えたお客が集まったという「和良店亭」である。明治41年、新派の俳優、藤澤浅二郎は、この場所に、日本で初めての俳優養成所(後に私立東京俳優学校と改称)を開設した。この頃はまだ、江戸時代の慣習が色濃く、歌舞伎役者の地縁や血縁にある人だけが、芝居を行っていた。けれども文学の多様化により従来の型にはまらない、新しい表現のできる俳優が必要とされていた。
「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
(「和良店亭」の席亭である竹本)小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。(中略)

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤氏は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。 藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

東京俳優学校の開設
 当初は、(藤澤氏は)西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。
入学前後の様子
 生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。最終合格者は23名であった。
 授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。
授業の内容と生徒達
 毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。(中略)
赤字、そして閉校
 生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。(中略)。
 第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。


『ここは牛込、神楽坂』第7号の「地蔵坂」で、高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では
 この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

 一方、同じく同号で、作家山下武は
 牛込館の前身、牛込高等演芸館では藤沢浅二郎の俳優学校が設けられ、創作試演会が上演されたそうだ。

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では
 藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを独力で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設し、ここの舞台に立つことは俳優を目指す者のあこがれになり、多くの俳優を育てた。

藁店

明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館

と書いています。ただし「独力で高等演芸館に改装」したのは寄席「高等演芸館・和良店」の佐藤康之助氏でした。
 野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和50年9月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

 紅谷研究家の谷口典子氏は「かぐらむら」平成25年4・5月第67号で
 高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。高等演芸館は再度改築され、大正三年六月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。2年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。

谷口典子。「牛込『高等演芸館』」「かぐらむら』平成25年。67号

牛込高等演芸館。神楽坂の賑わいこのまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産)

牛込館の場所

文学と神楽坂

「牛込館」の場所はどこにあったのでしょうか。

牛込館

ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で

糸山 石鐵さんの前には映画館があったんですよ
小林 ええ、牛込館ですね
吉野 洋画専門でね
牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、別の施設になっている

 現在の地図と昔の地図を加えると、リバティハウスと神楽坂センタービル2つを加えて「牛込館」になるのでしょう。

 なお、牛込館の南側の(みやこ)館は明治、大正、昭和初期の下宿で、たくさんの名前だけは聞いたことがある文士達が住んでいました。現在の都館の場所はLog Salonです。

「牛込館」について、細かくは夢をつむぐ牛込館で扱います。

私の東京地図|佐多稲子③

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の③です。関東大震災の後の大正12年から嫁いでいく大正13年までの1年間を牛込区(現在の新宿区)で生活しています。氏は19歳でした。差別用語や放送禁止用語になる言葉もありますが、原文を尊重します。

 納戸町の静かな横町がやがて、表どおりの、北町から新見附に通じているへ出ようとするちょっと手前に、表どおりの商店の家並みが横町のそこまで曲り入ってしまったという風に一軒の魚屋がある。その真向いに、ぺしゃんと坐り込んだような軒の低い家があった。小さな子ともにおさらいをつける三味線(しゃみせん)の音がその家から聞えている。
 よいはアまアち、そしてエ、恨みてあかつきの、と、唄の言葉の意味は知らずに、幼い声が張り上げている。
「はい、もう一度、にくまアれエぐちの、あれ、なくわいな」
 そう言うお師匠さんの声も優しい女の声である。
「はい、御苦労さま、とてもお上手にお出来になりましたわ。また、あしたね」
 おじぎをして立ってゆくおかっぱの子を、わざわざ送り出してゆくお師匠さんは、束髪に結った色の白い、そしてその声と同じように優しい細おもての人である。足もとのさばき方はこきざみにいそいそとしているけれど、銘仙の羽織が、ゆきもだらりと長くて、襟もとがすくんで見えるのは、その人がせむしだからであった。
 裏の縁側でつぎものなどをしているお師匠さんのお母さんが、自分も立って来る。
「まあほんとうに、どんどんお上手になることねえ。あした、またいらっしゃいね」
納戸町。北町。新見附 地図を参照。上から都電の北町(青丸)、納戸町(赤の多角形)、都電の新見附(青丸)。

 現在は牛込中央通りです。
唄の言葉 三味線の歌(絃歌)『明けの鐘(宵は待ち)』の一節です。「宵は待ち そして恨みて 暁の 別れの鶏と 皆人の 憎まれ口な あれ鳴くわいな 聞かせともなき 耳に手を 鐘は上野か浅草か」と続きます。
お師匠 女性で杵屋与志次師匠。
束髪 そくはつ。髪をひとまとめにして束ねる結髪。明治時代以後、流行した婦人の洋髪の一つ。

銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物。
 しま。2種以上の色糸を使う、縦か横の筋かその織物。
ゆき 裄丈。ゆきたけ。衿の中心から袖口までの長さ。
 たけ。長さ。%e3%82%86%e3%81%8d%e4%b8%88
すくんで 体をちぢめ小さくなる。
せむし 背中の一部が円く突出した状態。

 せむしのお師匠さんは母親に並ぶとその肩の下になる。娘の仕事を自分もいっしょに大事がる思いで、おっ母さんは、小さい弟子にお愛想を言っている。
「さ、お待たせしました」
 稽古台の前へもどって来るとお師匠さんは稽古本をひろげて、
「では、昨日のところをおさらいいたしましょう」
 と、三味線を膝にとる。三味線の棹の先きが、背の曲がったお師匠さんの肩よりずっと斜め上にのびて、お師匠さんの首がいよいよ襟元へはまったように見える。
月もくらまのウ
 と(ばち)を強く三味線の(いと)に当てて弾きはじめると、お師匠さんの表情がやや()つくなる。女学生のお弟子の幼い撥の音と二重になって暫く、それが続く。(中略)
 神楽坂の花柳界につづいた屋敷町と、大きな酒屋や薬屋などのある北町の表どおりとの間につぶされるように挟まって目にもつかぬ家、稽古三味線の音で辛うじて杵屋与志次の看板に気づく。内弟子から名取りになって、ようやくここに独り立ちしているせむしの師匠は、母親と、十七歳になる妹との三人暮らしであった。妹は母親似の、年齢よりは大柄な、色白のぼってりした娘で、その頃、日本一の建物だと地震前から噂の高かった丸の内ビルディングの地下室の、花月食堂の給仕をしていた。
月もくらまのウ 三味線の『鞍馬山』の一節です。「月もくらま(鞍馬)の影うとく 木の葉おどしの小夜あらし」と続きます。
 ばち。琵琶・三味線などの弦をはじいて鳴らすへら状の道具。
 琴・三味線などの楽器の糸。
酒屋や薬屋 納戸町でも神楽坂に近い場所というと、中町や南町に接する場所でしょう。酒屋としては升本酒店があり、この酒店は明治30年3月から現在まで続く老舗です。この当時も同じ納戸町に店を構えていました。また萱沼薬局も戦前から続く納戸町の店舗でした。この2店舗の間を通って南町に行く通りがあり、おそらく杵屋与志次の家はその辺り(青の輪)にあったのでしょうか。
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杵屋与志次 三味線の師匠で女性。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
花月食堂 実際にあったようです。

私の東京地図|佐多稲子①

文学と神楽坂

 佐多稲子氏は、小説家で、父の失職などの事情で小学校5年からキャラメル工場に勤め、女給として働いています。中野重治、堀辰雄など『驢馬』同人と知り合い、プロレタリア文学運動に参加。『キャラメル工場から』 (1928) など清新な作品を発表しました。日本共産党への入党と除名などを通じ、次第に作家として成長しました。

 ここでは『私の東京地図』の「坂」(新日本文学会、1949年)を読んでいきます。19歳の佐多氏は関東大震災直後の大正12年から嫁いでいく大正13年までの1年間を牛込区(現在の新宿区)で生活しています。

       坂

戦災風景

戦災風景 牛込榎町から神楽坂方面。堀潔 作

 敗戦の東京の町で、私の見た限り、牛込神楽坂のあたりほど昔日のおもかげを消してしまったところはない。ここに営まれた生活の余映さえとどめず、ゆるやかに丘をなした地形がすっかり丸出しにされて、文字どおり東京の土の地肌を見せている。高台という言葉は、人がここに住み始めて、平地の町との対照で言われたというふうにすでにその言葉が人の営みをにおわせているが、今、丸出しになった地形は、そういう人の気を含まない、ただ大地の上での大きな丘である。このあたりの地形はこんなにはっきりと、近い過去に誰が見ただろうか。丘の姿というものは、人間が土地を見つけてそこに住み始めた、もっとも初期の、人と大地との結びつく時を連想させる。それほど、矢来下から登ってゆく高台一帯のむき出された地肌は、それ自身の起伏を太陽にさらしていた。
 肴町の停留所のあとは、都内電車の線路を通して辛うじてその場所を残しているが、この線路を突っ切って、幅狭いが一本、弧を描いて通っているのは、もの悲しくはろばろとしていた。視野は、牛込見附まではとどかない。丘の起伏にそって道は山のむこうに消えている。丘の面積の上で見ると、なんという、小さな弱々しい、愛らしい道であろう。丘の上を一本通っている道がこんなふうに弱々しく愛らしいということも、この丘をいよいよ古めかしく見せるらしい。道の両側は特有の赤ちゃけた焼跡にまだバラックの建物らしいものも見えず、道だけがひっそりとしている。神楽坂という賑やかな名さえついていたということを、忘れてしまうほど。

余映 よえい。日が沈んだり、灯火が消えたりしたあとに残った輝き。余光。残光。
矢来下 ここでは交差点「牛込天神町」の下(北側)を「矢来下」と呼んでいます。
停留所 都電(市電)が発着する駅。
都内電車 路面電車、都電(市電)のこと。
 神楽坂通りです。
はろばろ 遥遥。遠く隔たっている。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附も江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。肴町から牛込見附を見ても途中に上り坂があるので見えないといっているのでしょう。

牛込停留場と停車場

 停留場と停車場、簡単には駅。でもこの2つ、どう違うの。

停留場は路面電車、市電、都電

 現在も都電が停車し、客が乗降する場所は停留場と呼びます。バスではバスの停留になります。

停車場は鉄道(省鉄、国鉄、JR線など)

 こちらは停車場。簡単に言えば、駅。しかし、昔は停留所と停車場、この2つを正確に言わないと分からなかったのです。

ちなみに見附は

 なお、見附とは江戸城の外郭に構築された城門のこと。牛込見附も江戸城の城門の1つで、この名称は城門に番所を置き、門を出入りする者を見張ったことに由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげ堤防や土手状にする)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。

 しかし、この牛込見附という言葉は、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯も牛込見附と呼びました。大正時代や昭和初期には「牛込見附」は飯田駅に近い所にあった「城門」ではなく、神楽坂通りと外堀通りの4つ角で、市電(都電)の「牛込見附」停留所の周辺辺りを「牛込見附」と呼んだほうが多かったと思います。

鉄道

昔の「牛込駅」。線路が変に曲がっていますが、牛込駅があったため


山下漆器店

文学と神楽坂

 昭和22年から神楽坂で漆器や和家具を売ってきた店です。場所はここ。しかし、東京都の大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、この山下漆器店も道路になるという流れは変えられず、平成29年(2017年)2月、閉店し、7月ごろ、更地にしました。下の写真は昔のもの。
 新しい大久保通りは4車線で、その両側に自転車道(幅員2メートル)と歩道(幅員4メートル)を整備する予定でした。平成31年度に完成する予定。(しかし、予定は予定。現在は不明になっています

山下漆器店

かぐらむら」87号(平成28年8・9月)にNPO法人粋なまちづくり倶楽部理事長(山下漆器店二男)山下馨氏が「大久保通り拡幅と山下漆器店レクイエム(鎮魂歌)」として書いています。

 神楽坂5丁目の老舗、多くの顧客に愛されてきた山下漆器店が大久保通り拡幅事業によって近々閉店する。
 この店は開業70年の老舗であり、最近では、ちょいちよいテレビや雑誌に取り上げられる神楽坂の人気店の一つである。特に話題は、大正14年生まれの91歳店主兼看板おばあちゃん、山下弘子のしゃんとした立ち振る舞いで見せる元気ぶりである。(中略)
 ところが、そんな折、突然戦後70年間話題にも出てこなかった都市計画道路大久保通り拡幅事業が決定。拡幅事業エリア内にある山下漆器店は、隣接商店ともども閉店する運命となったのだ。(中略)
 本来、道路づくりはまちづくりと一体的に計画されるべきものである。域内交通とは異なり、通過交通動線としての大久保通りは、コミュニティを壊し、地域を分断し、商店街にダメージを与えるという宿命を持っている。従って、この拡幅計画には、地域へのマイナス面を極力小さくすべき慎重さが必要とされるべきなのだ。
 無駄な都市計画道路計画が全国各地で廃止されている時代にあって、多くの都民の人生を台無しにする事業を進めようとするならば、都知事、行政マンを含めすべての為政者は、よく心してことに当たるべきである。さもなければ、弘子のこころを納得させ、失われる大きな大切なものに対しての償いは出来ない。

と書いています。神楽坂は沢山の都市計画の末に今の神楽坂になりました。しかし、この拡幅計画自体に限定すれば、はるか昔からあったものだと思います。(この計画はあると私も知っていました)。それにしても、黙祷を捧げます。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京してきました。

馬場さん それでいよいよ山下さんのところへくるわけだ。
相川さん それで山下さんのところは「伊藤洋品店」ってのがあって、そのあと昭和の代になってからキクヒデさんの兄さんが(店を)出した。いま京都の方にいるのは弟さんでね。兄さんは子どもがないんで京都に帰っちゃった。それで弟さんにキクヒデってのを譲った。中河清一さん(注)と仲がよくってね。いまは弟さんが何年かに一度は中河さんを呼ぶそうですよ。こっちの天利さんの方はもう借りられない、ダメらしいって見切りつけて、神田の小川町へ「キクヒデ刃物店」を出したんですよ。(注)元中河電気店の店主。現在「ゑーもん」の所で営業していた。
馬場さん 神田小川町に行ったがもうなかった。
相川さん そうですか。一度行ったけどね、その後、見ないからいなくなったかな。ところが霊友会に凝っちゃって、もうみんな差し上げちゃってね。娘さんをひとり亡くしたんですよ。それで、中河さんの亡くなったおじいちゃんが「よせとは言わないけど、ほどほどにしとけよ」って言ったんだから。
山下さん 四、五日あとにキクヒデさんが天利さんへやってきて「また貸してくれ」って言ってたって、私が神楽坂へきたあとにそんな話を聞きましたよ。

チカリシャスニューヨークアマリージュ

文学と神楽坂

 新しいケーキのお店がここにできました。中町に出ているチカリシャスニューヨークアマリージュが引っ越ししてきました。売りはコブラーですが、ケーキは全て美味しい。おそらくアマリージュも河合陶器店山下漆器店と同じようにいずれはなくなると思います。そして、2020年、なくなりました。

アマリージュ、山下漆器店、河合陶器店の跡

 チカリシャスニューヨークアマリージュについて。

コブラー
  以前は五十番2号店がここにでていました。神楽坂4丁目の本店とまったく同じ中華まん等を売っている店舗です。

五十番2号店

 以前の店舗は右側が旧五十番、左側が山下漆器店です。

旧五十番と山下漆器店

 大正から昭和後半までは菊岡琴三絃店でした。三絃は「さんげん」と読み、三味線と同じ意味です。

菊岡

 また写真も半分だけですが、あります。左側に「岡菊」と書いてあります。これは国友温太氏が書いた『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)に載っていました。

大正時代の神楽坂通り

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人でした。

相川さん それからいまの塚原さん(注。元三味線屋さん、今は葛屋さんの松屋本店)。その前は「ツヅキ」つていう洋服屋さんだった。そこを買って。
馬場さん それがいまの場所ですよね。これはみんな天利さんの地所で。
相川さん そうです。

 最後に昭和51年(1976年)8月16日の読売新聞「都民版」イラストの一部を拡大しました。

菊岡

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

神楽坂通り

文学と神楽坂

 新宿区神楽(かぐら)(ざか)を貫く通り。神楽坂は山の手有数の繁華街・花街でしたが、第二次世界大戦の戦災と、付近の住宅地も高層化、かつての面影はほとんどなくなりました。でも、1990年代後半になって再び繁華街になってきます。

 もとは毘沙門天などの門前町。表通りには今でも縁日が出ます。神楽町1~3丁目、上宮比町、肴町、通寺町を、昭和26年、まとめて神楽坂1~6丁目と変更しました。

 付近に筑土八幡などの社寺も。

神楽坂通り

神楽坂通り

神楽坂通り


セイジョー

文学と神楽坂

 セイジョーは薬の店舗で、「ココカラファイン神楽坂店」に変わり、現在は全て閉店中です。

セイジョーの跡

 新しいビルが出てきました。(写真は2020年12月20日)



 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)にはセイジョーが出る前の話が出ています。なお、この会談の当時(昭和63年)は、「馬場さん」は万長酒店の専務で、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人でした。

馬場さん それでタカミさんの隣は?いまの「リード」*さんのところでしょう。
    *「リード」さんは今のドラックストアーのセイジョウの場所
相川さん あの人はね、「神楽坂煎餅」というお煎餅屋さん。
馬場さん ああ、戦争前は。
相川さん その隣は「松葉屋」っていう塩物屋(魚の塩漬け屋)さん。
馬場さん そこのところがあとで床屋になったでしょ。
相川さん 「ナトリ」ね。昭和五年に開業したんです。
馬場さん 昭和五年? そんなに早かったの。
相川さん 二、三年遅れているな。昭和七、八年だな。
馬場さん ナトリさんはモダンな床屋でしたよね。その当時までは、床屋さんってのは履物を脱いで、床でもってやっていたけど、ナトリさんは違うんだ。タイル張りなんですよ。僕も子ども時分を覚えていますよ。
相川さん ナトリさんの兄さんっていうのが、東京駅の地下だか上だか知らないけど、「ショウジ」っていう床屋さんをやっていてね。その人の肝煎りで、お嫁さんももたせるについて、あのうちを借りたんですよ。その持主は。白銀町に「くびきや」って米屋があるでしよ、その田原さんが建てたんです。だから結局、家賃です。
馬場さん 借地権は「くびきやさん」がもっていたの? 地所は?
相川さん 地所は天利さん。それで、「くびきやさん」の女中さんをしていたのを世話されて、ナトリさんのお嫁さんになった。
馬場さん ご隠居、ナトリさんで散髪したことある?
相川さん ありますよ。
馬場さん あそこは、洗髪するのにそこで椅子のまま、できるんですか?
相川さん そうだったかな。
馬場さん これがモダンだったってことなんですよ。当時は。洗い場へ行って頭を洗うのに、ナトリさんはその場所でもって頭が洗えるっていうんでね。なにしろモダンだったんだよ。
相川さん 十台ぐらい椅子がありましてね、タカミさん寄りにずーっと。奥深いお店でしたよ。
馬場さん それはリードさんといまの大和田さん*のあたり。
    * 大和田さんは「うなぎや」でリードさんと大和田さんは今のセイジョウのところ。
相川さん 大和田さんまでは行かないの。リードさんのところに、布袋屋さんの基礎がまだ夕カミさんのところに残っていますよ。このあたりは軒数は多いがそんなに。軒の間口は広くはないんだね。


タカミ タカミブティックです。

5丁目12など

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集から

 実際にはセイジョーは「リード」と「大和田」を2つまとめた大きな店舗です。

1980と2010

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

ブティックタカミ、布袋屋[昔]

文学と神楽坂

 5丁目11番地です。戦前はほていや呉服屋、戦後はタカミ(高見)洋品店(ブティック)です。場所はここ。現在は大久保通りの拡幅のため、取り壊し、一部はセブンイレブンになりました。タカミ

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、この当時は、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主でした。

馬場さん そうすると、いよいよ「タカミ」さんのところが前の「布袋屋」さんだった。
山下さん あそこは菱屋さんの天利さん(注)の地所なんだよね。戦後は甘利さんが借り上げ所をやっていて、それをタカミさんが買ったわけだ。(注)菱屋さん(天利さん)は三丁目にある洋装小間物屋で五丁目に今もかなりの地所を所有している。
相川さん 聞いた話だが、なんでも私のそのときの主治医の話だと、あのとき高見さんは地所付きの天利さんの家を普請するということバラックをあそこへ建てたんですよ。それを私が三丁目から、大八車二台で両方へつけて、下ヘ丸太をかまして、家をそのまま乗っけてきた(一同、大笑い)。のんきなもんだよ。また、おばあさんも何にも言わないんだ。「あ、動いた」なんて、丸太の上に乗っけてね、引いてきたよ。そこへ着いたらダーっと下ろして、あとはコウロ(ジャッキのようなもの?)でグイグイっとあげて、奥へ。菱屋さんの家を持ってきた。
山下さん ええっ? 大八車に乗るような小さなうちだったんですか。
相川さん だから下へ縁台人れて。
馬場さん (大八車に)台を乗っけて、その上に(うちを)乗っけてきたの。
佐藤さん じやあ、道路いっぱいだった?
相川さん ほとんどいっぱい(一同笑)。そのころは終戦の直後で原っぱ同然だから。のんきなもんですよ。
馬場さん 強盗が出たって(平気? 一同笑)。
相川さん だから、いまの先生に話をすると、「ああ、そうだったな」つて思い出しますよ。三丁目のシサンっていう(かしら)がいるんですけど、「お前んところの町内へうちの天利さんが仮ごしらえでいくんだけど、「俺はあんなのは壊さなきやだめだ(と思うよ)」と言ったら、「いま壊そうにもお金かない。なんとかうまく運べる方法を考えてくれ」と言われたんだ。「お前、どうする?」って言われて、それで私のところへ来ていた若い衆が、「一か八かやってみますか」って。床をすっかり取っ払ってね、丸太で縁台をこしらえて、それで乗っけてきたんですよ。
佐藤さん じゃあ、土台はしっかりしているんですね、昔の家だから。
山下さん バラックでしょ。要するに、堀っ立て小屋だから動いたんだよね。でも、ちゃんと人間が住めるようになっていたんだよ。

タカミ 高見さんでしょう
布袋屋 ほていやと読みます
甘利さん 天利さんでしょうか

ほていや

 明治35年、西村酔夢氏が『文芸界』に書いた「夜の神楽坂」で芸妓の服装は

服裝(ふくさう)  と()たらあはれ(、、、)(もの)で、新柳(しんりう)二橋(にけう)藝妓(げいしや)衣裳(いしやう)三井(みつゐ)大丸(だいまる)(あつら)へるのと(ちが)ひ、これは土地(とち)石川屋(いしかはや)ほていやなどで(こしら)えるのだが、()(やす)(かは)りに、(がら)(わる)ければ品物(しなもの)(わる)くて、まあ()()いた田舎的(ゐなかてき)だ、

と酷評しています。また「ほていや」はこの写真の中心にあります。

うを匠 鱻(神楽坂TNヒルズ)

文学と神楽坂

 現在、神楽坂5丁目3番地という地籍はありません。3番地に当たる地域は「東京貯蔵銀行」「東洋電動」、現在「うを匠 鱻」(現、1番地2)でした。なお、4番地は昭和12年でもなく、5番地は相馬屋でした。漢字の魚が3つ並んだ鱻は「せん」と読みます。うを匠の場所はここ。 うを匠は女性客で一杯。行った時は9割が女性でした。ちょっと上品で、ちょっと安くて美味しい。

神楽坂5丁目(1)

 下に神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」を一部を掲げます。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。

相川さん そのが「東京貯蔵銀行」がありまして、そこの行員さんが出人りするところが三尺ほど空いていましたよ。東京貯蔵銀行の社長は原クニゾウさんという方でしたよ。
馬場さん それが「東洋電動」になる。
相川さん 原クニゾウさんは茅場町の「田中貴金属」の社長さんとお友達で、親友には売ってくれるんだってことで田中さんに売ったんですよ。終戦後、長いこと空いていましたね。金融でなければいいだろうってことで、三井系の東洋電動っていうのがね。これは洋食屋さんのストーブやなんかをこしらえる、なんていうんですか、あれは?
馬場さん オーブン。
相川さん 東洋電動はそういったものをこしらえる会社なんです。あそこは本社機能で、事務を執っていたわけです。そこに(土地を)売りましてね。現在の入口のところ、大正七年清水組が工事により貯蔵銀行が出来たのです。「相馬屋」さんの地所が人口に引っかかってたんです。私も記憶がないんですけど、何坪かが引っかかっていた。それでハスマンに相馬屋さんの方に寄って、地所が入っているような形。

 以下は相馬屋から東京貯蔵銀行に土地を売る問題です。問題なく終わりました。

相川さん それで「小林」つていう人が田中貴金属から譲り受けるときに、相馬屋さんの地所が入っているということがわかったんでしょう。原さんに聞いたら「そうなんだ、ずっと借りてるんだ」と。これはマズイってんで売ってもらえないかという相談が私のところにきました。当時相馬屋さんは椎名町に自宅があり、神楽坂の店は間引き疎開に指定され、椎名町に移り住んでいた訳です。そこへ私が(土地のことを)聞いたから、「実は東洋電助が、お宅の地所がかかっているから整備上一本にしたいので譲っていただけませんでしょうか」という交渉を、私と「小林」つていう人と二人で行って頼んだんです。
ところが亡くなった先代が、今の旦那のお父さんですね、「私は番頭に任せている」と。黒田という番頭さんがいたんです。相馬屋さんには三人の番頭さんがいて不動産や何かを扱っている大番頭がいてね、その方が中野の野方のほうにいるから、それで相馬屋さんに教わって黒田さんとこに行ったんですよ。ところがあいにくいなくてね、旦那からのご紹介で相談してみてくれという話なんだけど」と言ったら、「それじゃ、二、三日のうちに店の方へ行きますから、それで旦那によく確かめてお話してみましょう」ということになって、トントンときまして。そんときに私は坪数を聞きやよかったんだけど、全然聞かなかったのね。銀行との地境についてはほとんどが相馬屋さんの土地であり、相馬屋さんが使用することがなかった関係で銀行に共同利用してよいという許可を与えていた訳です。結局、部分的に相馬屋さんが銀行に無償で貸していたのでね。昭和五年時分には相馬屋さんは横に内玄関があり、店から出入りしないようになっていたのです。

 5丁目3番地です。
ハスマン 「ハスマン社」だとすると、米国の業務用冷凍・冷蔵ショーケースのメーカー

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)


私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑪

文学と神楽坂

 朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。
 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。

神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
音楽之友社 音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。音楽之友
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
神楽坂口 地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはず。
神楽坂口
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。

別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
或屋敷 「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。佐藤自宅

  広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作(すだれ)の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。

今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。
コトブキネオン 現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。やらい薬局と日本風呂
ガス風呂 「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。

 トラックに積まれた木曽産の丸太が、神楽坂で箱風呂に生まれ変わる。「親父がさ、いい丸太だ、さすが俺の目に狂いはないなって、いつもちょっと自慢げにしててさあ。」と、店長の光敏(65)さんが言う。木場に流れ着いた丸太を選び出すのは、いつも父の啓蔵(90)さんの役目だった。
 風呂好きには、木の風呂なんてたまらない。今の時代、最高の贅沢だ。そう言うと、「昔はみんな木の風呂だったからねえ。」と光敏さんが懐かしむ。啓蔵さんや職人さん達がここ神楽坂で風呂桶を彫るのを子供の頃から見て育ち、やがて自分も職人になった。

新潮社 1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。新潮社
旺文社 1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。

旺文社

 そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。

交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。

矢来下

矢来下

江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
講談社 こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本ゆうべん(かい)」として設立
講談社榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。

 矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。
 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。
 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。

中里町 なかざとちょう。下図を。
住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません。

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

本郷区丸山福山町四番地 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。
一葉終焉
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山(いちきさん)宗柏寺。日蓮宗です。
お百度 百度参り。百度(もう)で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを(せん)じた飲料
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。

宇野浩二と神楽坂

文学と神楽坂

宇野浩二2 宇野(うの)浩二(こうじ)氏は私小説が有名な作家ですが、他の文学作品の切れ味はすごく、芥川賞の審査員にもなっていました。また氏も神楽坂界隈に住んでいた時期があります。昭和17年8月、51歳のときに『文学の三十年』を書き、そこで、明治44年3月(数え年で21歳、満年齢では19歳)には、白銀町の()(づき)という下宿に住んだことを書いています。

雑司ヶ谷の茶畑の中の一軒家で、一人で自炊しながら、寒い冬を越して、翌年の三月頃、私は、牛込白銀(しろがね)の素人下宿に引っ越した。明治四十四年、私が二十一歳の年である。今の電車の道で云えば、築土八幡前の停留所を出て暫く行くと、肴町の方へ殆ど直角に曲る角がある。あの角を、電車の道の方へ曲らずに、赤城神社へ出る方へ行って、すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった。その素人下宿は、大きな家で、間取(まど)りもよく、部屋も大きく、部屋の中の造作(ぞうさく)も整っていた上に、中二階まであった。そうして、その中二階には三上於菟吉が陣取っていた。それから、母屋の二階には、竹田敏彦の同級の、今は「サンデー毎日」の編輯長で収まっている、大竹憲太郎や、泉鏡花の弟の泉斜汀夫婦や、えたいの知れない四十歳ぐらいの一人者などがいた。そうして、その風変りな素人下宿には、前の章に書いた、三富朽葉今井白楊浦田芳朗、(前の章では、大阪毎日新聞社の機械部艮、と書いたが、この快兼怪漢は、その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、今は、京都日日新聞社長になっている、)その他がしばしば現れた。

牛込白銀町 明治44年6月以前は「牛込白銀町」、以降は「白銀町」です。下の青く描いた多角形は「白銀町」です。この中に氏の下宿がありました。
下宿 かつての路面電車を停留場①「筑土八幡前」で降ると、そのまま進み、②道はY字に分かれます。左側に行くと停留場「肴町」に着き、右側を行くと赤城神社につながります。「赤城神社へ出る方へ行って、③すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった」ので、おそらくこのどこかでしょう。

昭和5年の地図

昭和5年の「市区改正番地入 牛込区全図」の1部

造作 構造部以外で大工職が作る部分。木造建築では天井、床、階段、建具枠、床の間、押入れなど。
竹田敏彦 たけだとしひこ。生年は1891(明治24)年7月15日。没年は1961(昭和36)年11月15日。劇作家、小説家。早稲田大学英文科中退。「大阪毎日新聞」記者をへて、1924年新国劇に入り、文芸部長に。のちに小説家。1936年業績全般で直木賞候補。
大竹憲太郎 新しい情報はなく本文の通りで、当時は「サンデー毎日」の編輯長
三富朽葉 みとみきゅうよう。生年は1889(明治22)年8月14日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。自由詩社同人。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も。犬吠埼君ヶ浜で溺れた今井白楊を助けようとしてそのまま水死。
今井白楊 いまいはくよう。生年は1889(明治22)年12月3日。没年は1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。1909年、自由詩社に参加。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。そのために単行本になった詩集はない。
浦田芳朗 うらたよしろう。大正15年、『南米ブラジル渡航案内』の筆者(大阪毎日新聞社)。その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、この時は京都日日新聞の社長。

 本文ではもう少し下宿の都築を紹介しています。

この素人下宿(()(づき)という名)の事を少しくだくだしく書いたのは、この都築には、前にも述べたことがあるが、当時、『別れた妻』に別れたばかりの、赤城神社の境内の下宿に住んでいた、近松秋江が毎日ほど現れたり、この都築にいた頃、三上が、その道の猛者になる下地を初めて作ったり、したからである。又、この都築にしばしば現れた、三富、今井、浦田、という、三人の、それぞれ形は違うが、颯爽とした青年の中で、三富と今井は、十九世紀のフランスの象徴派の詩人の故事を真似て、『薄命詩人会』と称する会を作り、「象徴」という雑誌まで創刊し有為な豊富な才能を持ちながら、その頃から十年も立たないうちに、大正六年八月二日、僅か二十九歳で、犬吠岬で水泳中に溺死する、という運命を持ち、私に、(ほの)かな恋愛小説を作って一世を風靡したことのある水野葉舟を紹介したり、レエルモントフの『現代の英雄』の英訳を貸してくれたり、しているうちに、いつの間にか政治運動に這入った、というような浦田が、浦田流の生活を押し切って、壮健に生きている、という、そういう私だけに悲しくも面白くもある事が都築と共に思い出されるからである。

その道の猛者(もさ) 猛者とは「力のすぐれた勇猛な人。荒っぽい人」。「その道」ははっきりしないが、ウィキペディアでは「流行作家時代の三上は放蕩、浪費し、作品のほとんどを待合で書いた」としている。待合とは芸妓との遊興や飲食を目的とする風俗業態。
象徴派 1870年頃、自然主義などの反動としてフランスとベルギーの文学芸術運動。象徴派は事物を忠実には描かず、主観を強調し,外界の写実的描写よりも内面世界を表現する立場。サンボリスム。シンボリズム
水野葉舟 みずのようしゅう。生年は1883(明治16)年4月9日。没年は1947(昭和22)年2月2日。詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。
レエルモントフ ミハイル・レールモントフ。Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов。1814年10月15日~41年7月27日。帝政ロシアの詩人、作家

岩座とハピマルフルーツ神楽坂

文学と神楽坂

 正面の岩座(いわくら)と、その左側はハピマルフルーツ神楽坂です。岩座は祈りのパワーストーンと和雑貨の店です。地図で岩座はここハピマルフルーツ神楽坂はここ

岩座とフルーツ店

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」ではこの現在は岩座店である上田屋と現在はフルーツ店の浜田屋メリヤス店の跡地を巡って話が進みます。
 なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務、「山下さん」は山下漆器店店主です。
 この2店とも5丁目8番地です。最初は昔の岩座です。

馬場さん それで寺内に入る横丁になるんですよね。
相川さん はい、そうです。寺内に入る横丁です。
馬場さん そして、隣がいまの遊馬さんのところで「ウエダ履物店」。
相川さん そのあと「キクヤ」つていうレコード屋でしたね。
馬場さん そのキクヤのレコード屋と、寺内の突き当たりにあった「キクヤ」というお汁粉屋は?
相川さん そう同じ人です。レコード屋をやめて、お汁粉屋になった。「大橘」っていう割烹料理屋のところが空いたんで、そこへ引つ越した。それでお汁粉屋をやったんです。

 次は2020年後半にできたハピマルフルーツ神楽坂。いちご農家から元々できて、生フルーツゼリー、フルーツサンド、ベリーソフト、フルーツパフェ、フルーツジュース等を売っています。昔は浜田屋から立ち食いそば屋、そして、ハピマルフルーツ神楽坂といっていました。

馬場さん それから隣が「浜田屋」さん。
相川さん はい、浜田屋さん。「浜田屋メリヤス店」。
山下さん うちの長男坊が浜田屋さんとこの息子さんと友達でね。
相川さん あれは、妹さんのご亭主。浜田屋さんのおうちはね、娘が二人だった。お姉さんの方のご養子は問屋あたりを回っている。小売はあまりしなかった。小売の方は、お父さん、お母さん、それから自分のおかみさんとに任せておいて、自分は問屋の組合のことだのを専門にやっていたんです。それから、妹さんのご亭主がそのあとを引き受けたんですね。戦争中はお姉さんの方の家族は早くに疎開しちやった。そのあとに義弟さん夫婦が入って、あそこでやってて、売ったわけですね。そうそうそう。
馬場さん 浜田屋さんところはいまの? 青山さん(注)のところ。

(注)現在も青山さんは立ち食いそば屋さん。

時代←北西南東→
震災前洋品浜田屋はき物上田屋
昭和5年頃浜田メリヤス店
昭和27年パチンコ精肉 恵比寿亭
昭和35年中華来々軒
昭和45年
昭和55年中国料理 曳花
平成2年立喰そば 青山恵比寿亭ビル
平成8年青山そば IDOプラザ(au店)
平成16年閉店岩座
平成20年ハピマルフルーツ神楽坂
来々軒

丸屋跡

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では丸屋跡について次のように話が進みます。
 なお、「相川さん」は大正二年生まれで、棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。足袋の丸屋と万長酒店は5丁目7番地でした。

 なお、丸屋の場所はこれぐらいでしょうか?

神楽坂5丁目(1)

マルヤ

馬場さん 相馬屋さんがあって、「万長」さんがあって、「マルヤ」という樽屋さんがあって。樽屋さんはずっと裏まであったんですか?

 この対談では「マルヤ」はたる屋になっていますが、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」や新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、「マルヤ」は足袋たび屋になっています。おそらく聞き取りによる「肴町よもやま話」の樽「たる」よりも、古老達や郷土研究会による足袋「たび」の方が正しかったのでしょう。

相川さん いや、そうじやないですよ。曲がっているんですよね。いくらもないんですよ。
馬場さん 昔、うちの台所が半地下みたいになってましてね、それで、向こう側に玄関があって。
相川さん 通り(*)に面した玄関でしょう。それに木戸があった。その木戸でマルヤさんはおしまいです。だから奥行きはそんなにないんですよ。
* 現在の勧信とauの横丁が寺内に入る横丁
馬場さん じゃあ、うちは玄関が?
相川さん もう三尺あったわけ。そこに玄関があったんですよ。
馬場さん うちで裏を直しだのはいつごろだったんですか?
相川さん オイドのおばちゃんが嫁いでくる前ですよ。あれかできあかってからお嫁に来たんだから。おばちゃんが嫁いでくるについてあそこを手入れしたんですよ。なぜって裏がね、いまの敏夫さん(当時のご主人)の住まい、蔵の泥が落っこちてしょうがない。それとネズミが出てしょうがないっていうんで、蔵の土を全部落っことして、今度は板張りにして、その上にトタンをはったですよ。蔵ん中にね。ネズミが(こも)を食べてしょうがないんですよ。そのときに中の改造をしたんです。お店の後ろのお座敷のところなんか、みんな改造したんですよ。
馬場さん 奥の離れは、築地のマイナスロウの部屋とおんなじに造れって左官屋さんにやらせてね。
相川さん 階段を下りると、下と二階があって、小粋なうちでしたね。寺内に入ってからすぐ右のところに裏木戸がありましたね。土間は玉石だったですね。

オイド 東京方言で「尻」の意味。韓国では土地名のオイド(烏耳島)のこと。
 こも。マコモを粗く編んだむしろ。現在はわらを用いることが多い。こもむしろ。
マイナスロウ 意味不明です。

 その後、戦後、昭和27年に丸屋は倉庫になり、30年頃には万長酒店に合併されていきます。

ポール

文学と神楽坂

 現在、神楽坂5丁目2~3番地という地籍はありませんが、本来の2番地はおそらく昭和初期の大和屋から小谷野モスリンまでの地域で、現在のフランスのパンづくりの老舗ポール(Paul)等の神楽坂テラスです(現、1番地2)。3番地はおそらく「東京貯蔵銀行」「東洋電動」「うを匠」などの地域。4番地は昭和12年でもありません。なお、相馬屋は5番地でした。

神楽坂5丁目(1)

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 大和屋から小谷野モスリン店までの比較的広い場所が集まって神楽坂テラスになりました。神楽坂テラスの場所はここ。

 神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業中)(当方の注。Miss Urbanもなくなり、「おかしのまちおか」になっています)

馬場さん それで、漆器屋(大和屋)さんのあとに(当方の注。5丁目2番地)、「つくし堂」っていうお菓子屋さんが入ったのね。
相川さん 戦争で焼かれてからいなくなっちやってね。焼かれるまではいましたよ。その隣がね、額縁屋さんとブロマイドを売っていたうちがありましてね、そのあとすぐに「神楽屋」というメリンス屋さんがありましてね、それがちょうど。
馬場さん 「魚金」のとこだ。
相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新(よしん)」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧信(注)のところまでつなかっているとこだ。(注)この勧信は現在の百円パーキング
佐藤さん じやあ、魚金さんのところの路地は戦前からずっとあったんですか?
相川さん ああ、あったね。魚金さんの手前、勧銀さんに寄ったところに「小谷野モスリン店」ってモスリン屋さんがありましてね。その隣が「東京貯蔵銀行」がありまして、そこの行員さんが出入りするところが3尺ほど空いていましたよ。

 吉新については出口競氏の『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で

區役所前の吉熊(よしくま)は今は無慘や、代書所時計店等に()してゐるが、区外の人々にも頷かれる有名な料理屋でかつては一代の文星紅葉山人が盛んに大尽を極めこんだことが彼の日記にも仄見える。此店の営業中慣例のやうに開かれた早稲田系統の諸会合も今は其株を吉新(よししん)にとられてしまつた。

と書かれています。こちらは「よししん」と読むようです。

「神楽屋メリンス」について、大宅壮一氏は『モダン層とモダン相』(大鳳閣書房、昭和5年、1930年)の1章「神楽坂通り」を書き

神楽坂の通りを歩いていて一番眼につくのは、あの芸者達がお詣りする毘沙門様と、その前にあるモスリン屋の「警世文」である。この店の主人は多分日蓮凝りらしく、本多合掌居士を真似たような文章で「思想困難」や「市会の醜事実」を長々と論じたり、「一切の大事の中で国の亡ぶるが大事の中の大事なり」といったような文句を書き立てた幟りを店頭に掲げたりしているのを道行く人が立停って熱心に読んでいるのは外では一寸見られない光景である。これが若し銀座か新宿だとすると、時代錯誤であるのみならず、又場所錯誤でもあるが、神楽坂だとそういう感じを抱かせないばかりか、その辺りの空気とびつたり調和しているようにさえ見えるのである。

 現在の店舗、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」、昭和12年と昭和27年の「都市製図社」「火災保険特殊地図」、1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)、住宅地図(昭和55年)を加えると、こうなります。上州屋から東京貯蓄までの5店舗が、現在の3店舗に減っています。

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)

寄席と映画

文学と神楽坂

 寄席と映画館、劇場は8つありました。東側から行くと…

 佳作座。神楽坂1丁目にありました。現在はパチンコ「オアシス」

 牛込会館。神楽坂3丁目にあり、貸し座敷として働きました。水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。現在はコンビニのサークルKです。

 神楽坂演芸場。これも3丁目にあり、漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色もの(現在の寄席)が有名でした。現在は駐車場。

 牛込館。漱石も通った寄席、和良(わら)(だな)亭、俳優学校と創作試演会の「牛込高等演芸館」、映画館の牛込館などがあり、大正時代は専ら牛込館でした。現在は数軒の飲食店。

 柳水亭。肴町(神楽坂5丁目)にありました。明治時代は講釈席の鶴扇亭、大正に入ると寄席の柳水亭、関東大震災の翌年の大正13年(平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』展望社、2007年)には勝岡演芸場になり、さらに活動写真の東宝映画館になりました。現在は飲食店。

 牛込亭。牛込亭も色物が主体で、通寺町(神楽坂6丁目)にありました。道路で2つに切られて普通の民家になっています。

 文明館。通寺町(神楽坂6丁目)にあり、文明館の勧工場、映画館の文明館から後に映画館の武蔵野館と変わりました。現在はスーパーのよしや。

 最後に今でもやっているギンレイホール

 神楽坂で思い出の旧映画館、旧寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

色物寄席 現在の寄席の演芸場。江戸時代から昭和初期に至るまで、浪曲席、講談席(釈場)と区別し、落語、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席のこと。現在は色物ではなく、寄席になった。

文明館からスーパー「よしや」に

文学と神楽坂

 牛込勧工場、文明館、神楽坂日活、武蔵野館、アカカンバン、スーパー「よしや」について、土地は同一でも、時間が違います。明治時代には牛込勧工場が建ち、大正時代になると文明館に変わり、戦前は神楽坂日活、戦後は武蔵野館、アカカンバン、1970年代からは現在まではスーパーの「よしや」が建っています。
 アカカンバンからよしやまで裁判記録があり、東京地裁 昭和61年(ワ)4329号の判決をまとめると……

  1. アカカンバンが所有(店舗を営業)
  2. 昭和51年12月、グリーンスタンプに売却
  3. 昭和52年1月、よしやがグリーンスタンブから賃借
    (スーパーよしや開業)
  4. 昭和53年8月、よしやが買い取り

 まず明治時代の牛込勧工場。ここは最も古く、岡崎弘氏は『ここは牛込神楽坂』第6号「第4回 街の宝もの」で

文明館って活動(写真)になる前は勧工場でうちも瀬戸物の店出していた。勧工場というのはまあ、各商店の出店でね。食品はなかったけど。私か遊びに行くとみんなが絵を描いてくれたり、おもちゃこさえてくれたり、勧工場の人がいろいろ遊んでくれたんだよ。

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(「文学界」昭和53年、岩波現代文庫)では大正時代の文明館について

船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ松本訓導』などという映画ー当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしばった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違って、お涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズムの顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

 酒井潔氏の『日本歓楽郷案内』(昭和6年、竹酔書房)で、昭和時代の神楽坂日活館を書き

歓楽郷としての神楽坂は花街の外に、牛込館、神楽坂日活館という二つの映画館があるだけで、数年前までは山手第一の高級映画館だつた牛込館も、現在では三流どころに叩き落されて了った。なお寄席の神楽坂演芸場だけが落語の一流どころを集めて人気を呼ぶが、これとて昔日のそれと比較すればお話しにならない。

かぐらむら』の『記憶の中の神楽坂』「神楽坂6丁目辺り」では、終戦後の武蔵野館を書き

武蔵野館は現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。

 なお、毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。

神楽坂武蔵野間館

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座


私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑩

 演劇学者で名著『歌舞伎細見』の著者である飯塚友一郎の生家で、別に精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場その坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許()()()なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。酒の飲めない私もいつか誰かに連れられていって卓の前に坐ったことがあるが、我こそは明日の星よとみずからにたのんだ無名の芸術家たちが、まだ生活水準の低かった労働者と肩を接して安酒の酔いに談論風発していた光景には忘れがたいものがある。
 が、こんど私がそこへ脚をはこんだのは、その横か裏かにあったはずの芸術倶楽部所在地を確認したかったからにほかならない。
 島村抱月坪内逍遥文芸協会と袂を分って我が国最初の新劇団である芸術座を創始したのは大正二年九月で、『サロメ』『人形の家』の上演など主として翻訳劇の紹介に力をつくしたが、翌三年三月帝劇で上演したトルストイの『復活』は、劇中に挿入した中山晋平作曲の『カチューシャの唄』の大流行と相俟って四百回を越える上演記録をうちたてて、演劇の通俗化を批難されるに至った。そのため抱月は研究公演の必要を感じて、四年秋に収容人員二百五十名の小劇場として横寺町十一番地に建築したのが芸術倶楽部であったが、彼は日本全国では死者十五万人に及んだスペイン風邪から肺炎におかされて、大正七年十一月五日に芸術倶楽部の一室で歿した。そして。その死後は彼の愛入で事実上芸術座の舞台の人気を一人でささえていた女優の松井須磨子主宰者となって劇団を維持していたが、八年一月有楽座で『カルメン』公演中の五日未明に、師のあとを追って芸術倶楽部の道具置場で縊死した。
 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や寺社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので、芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やむなく飯塚酒店に入って三十代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらぴっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

歌舞伎細見 かぶきさいけん。1926年(大正15)に発行した歌舞伎の研究書。「世界」や題材により系統的に整理・分類し、由来や梗概(こうがい)、参考書がついています。系統的、網羅的な作品はほかに類書はなく、歌舞伎研究に重要な業績です。
官許 かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと
にごり にごりざけ。発酵させただけで(かす)()していない白くにごった酒。どぶろく
繩のれん なわのれん。縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。店先に繩のれんを下げた居酒屋・一膳飯屋など
談論風発 だんろんふうはつ。はなしや議論を活発に行うこと
横寺町11番地 間違いです。9番地が正しい。芸術倶楽部で。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月(ほうげつ)氏と女優の松井須磨子(すまこ)氏を中心に、主に研究劇を行いました。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成しました。
スペイン風邪 1918年から19年にかけて全世界的に流行したインフルエンザN1H1亜型のこと。
主宰 人々の上に立ち全体をまとめること。団体・結社などを運営すること
現場へ行ってとまどった 現在はプレートがあります。

 このへんから早稲田、あるいは大久保通りの先にある若松町一円にかけては明治大正期にわたる文士村の観があって、その詳細はここで追いきれるものではない。が、私は芸術倶楽部の所在地と同時に教えられた尾崎紅葉住居跡だけは、なんとしても尋ねずにいられなかった。それは、私が十数年前に徳田秋声の伝記を出版する以前から果したいと考えていた夢の一つだったからでもある。いや、そう言っては私自身がすこし可哀そうである。私は十数年前にも、そしてつい近年もそのへんを歩いていながら、人様に道をたずねるのがあまり好きではないばかりに、探し当てられなかっただけのことでしかなかった。
 飯塚酒店からさらに二百メートルほど先へ行くと、やはり右側に三孝商店という酒屋がある。横丁をへだてた先隣りは青物商だが、その青物商の前に黒く塗った鉄柵をもつ路地があって、なかは私道だが、その袋路地のゆきどまりの左側が横寺町47番地の紅葉旧宅跡で、紅葉時代からの家主であった鳥居家の当主秀敏夫妻が現住している。まず、その家屋の前に掲示されている標識を写しておこう。

新宿区文化財
旧跡 尾崎紅葉旧居跡
明治の文豪尾崎紅葉は、ここに明治二十四年二月から、三十七歳で死去する明治三十六年十月まで住んだ。鳥居家には、今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆二枚がある。
   初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万
   はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉
旧居は十千万堂と呼び、二階建て。階下は八畳、六畳、三畳と離れの四畳半があり、二階は八畳と六畳の二間であった。戦災で焼失したが、庭は当時のままである。
ここで紅葉は、有名な「多情多恨」や未完の「金色夜叉」などを執筆した。
昭和五十一年九月
                 新宿区教育委員会

早稲田 早稲田通りは青色。
大久保通り 大久保通りは赤色。
若松町 若松町は中央やや下の赤の場所。
早稲田通りと大久保通り
文士村 若松町の文化人は、区内に在住した文学者たちを使って調べてみると、飯塚友一郎小川未明、岸田国士、国木田独歩、窪田空穂、島田青峰、高田早苗田山花袋、野口雨情、昇曙夢、三宅やす子、宮嶋資夫、矢口達、若山牧水などでした。
住居跡 紅葉氏の住居は横寺町47番地でした。
三孝商店青物商紅葉旧宅跡 この三か所を示します。さらに紅葉氏の塾生が集まった十千万堂塾も出しました。十千万堂塾は箪笥町4~7番地のどこにあるのか、わかりませんが、新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書く「神楽坂と文学」「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では5番地だといっています。

標識 旧と新のプレートを示します。
紅葉旧居跡
紅葉旧居跡

 折よくご夫妻が在宅されて、なんの連絡もせずにいきなり訪問した私は茶菓の饗応にまであずかるという、まったく予期せぬ歓待を受けた。その上、標識に記されている二句の現物や、紅葉の本名である尾崎徳太郎と印刷された通常の名刺を縦半分に切断したような細長い名刺や、尾崎家の遺族が記念に印刷して関係者に配布したらしい写真帖などもみせられたが、最大の収穫は桝の大きめな方眼紙に鳥居家当主の手で精緻にえがかれた旧居の間取り図であった。
 紅葉宅に泉鏡花小栗風葉柳川春葉の三人が玄関番として住みこんでいたことは幾つかの書物に記載されているが、私は『徳田秋声伝』を執筆したとき三人の起居した玄関の間が二畳か三畳か確認できぬままに終った。その後『日本文壇史』を書いた伊藤整が「朝日新聞」記者のインタビューに応じて私の書いた通りに語っているのを読んで責任を感じていたが、こんどようやくそれも氷解した。面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである。
 標識に《当時のまま》と記されている庭も案内されたが、尾崎家の子女が育つにつれて玄関ではしだいに仕事がしづらくなっていた風葉は、鏡花が祖母と榎町で所帯を持ったあと、尾崎家の地からおりていける地つづきに二階建ての貸家が空いたのに眼をつけて、同門の春葉と秋声にそれを借りて文学修業の共同生活をしようと提案した。その勧誘をした場所が前記の万盛庵で、そのうちに他の門下生も集まって来て紅葉の家塾の観を呈したために、彼等が詩星堂と名づけていた合宿寮が文壇では十千万堂塾とよばれるに至った。文学上ではもちろんのこと、物質的にもなにがしかの援助を受けていたために、紅葉の家塾とみなされたのである。が、その援助にも、かぎりはあった。われわれの先輩作家は、一本の巻煙草を二つに千切って分け合うというような暮しぶりをしていたのである。戦後の作家生活とは雲泥の差が、そこにはあった。塾のあった場所の地籍は箪笥町であったが、「ここをだらだらと下ったところにあったんです」と鳥居家の当主が指さしたその地点は、しかし、垂直な崖に変形してしまっていた。
 徳田秋声の昭和八年の短篇『和解』は、自邸の庭続きに新築したアパート「フジハウス」へ、困窮していた泉鏡花の実弟泉斜汀(本名=豊春)が転がりこんできて急死したのを機会に、鏡花が謝意を表するために訪問したところから、師の紅葉をめぐって長年つづいた確執も解消して、打ち揃って十千万堂跡をおとずれるいきさつを叙したものだが、『和解』という表題にもかかわらず、二人のあいだのしこりは完全に氷解したわけではない。そういう屈折した心理を、たんたんとのべているところに味わい深いもののある作品とみるべきであろう。母堂が朝日坂五条坂とよんでいたという話も、私はそのとき鳥居家の当主からきいた。

榎町 えのきちょう。東京都新宿区にある地名
万盛庵 当時は蕎麦屋。後に鳥料理の川鉄になりました
箪笥町 たんすまち。東京都新宿区の町名で、横に長い町です。箪笥町はここ
和解 昭和8年3月30日、泉斜汀氏の死亡と葬式があり、徳田秋声氏と泉鏡花氏との曰く言いがたい関係を描く作品
朝日坂 泉蔵院に朝日天満宮があるため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/
五条坂 朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため。https://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/

二句の現物 今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)で、二句の現物のコピーを見られます。

紅葉の二句で現物

フジハウス 徳田秋声旧宅は文京区本郷6丁目6−9。フジハウスは6-2です。空襲はなく、当時のままです。フジハウス1

とんかつさくら、藪そば[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 「藪そば」や「肴町」を調べるため、ここでは昭和63年(1988年)3月に実施した座談会を取り上げます。神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1~3集(2007~9年)「肴町よもやま話①~③」に書いてあります。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業中)(当方の注。Miss Urbanもなくなり、「おかしのまちおか」になっています)。「高須さん」はレストラン田原屋の店主です。
 なお「肴町」は昔の名前で、現在は「神楽坂5丁目」です。また、万長酒店も、山下漆器も、亀十パンも、田原屋もなくなっています。

馬場さん そろそろ昔のことを知っている方が少なくなってきたので、今日は五丁目の役員会として、相川さんから肴町を振り返っていただきます。ここにいろいろ資料を持ってきておりますから、昔を回顧しながら座談会をしていきたいと思います。関東大震災の頃からか、あるいは昭和の初期でいきますか?
相川さん 私は、関東大震災のときは子どもで十ニ歳でしたね。
馬場さん この手元にある山下さんがお持ちの「昭和五年近辺の地図(二十八頁)」というのがありまして、震災時分と照らし合わせながら、表通りから順に、どんな町並みだったのかということをお話しいただきたいと思います。

昭和五年近辺の地図

 以上は一般論で、これからは各論です。なお、上の「昭和五年近辺の地図」は、昭和45年に新宿区教育委員会が作った「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」と全く同じ地図です。

馬場さん まず、五丁目一番地。「上州屋」はいまのどこになりますか? いまの「かなめ寿司」さんのところ(ampm。現、コアビル)にお蕎麦屋さんがありました。上州屋さんというのは何屋だったですか?

神楽坂5丁目(1)

 現在は五丁目一番地ではなく、五丁目1-1です。現在のampmは「とんかつ神楽坂さくら本店」です。

相川さん そう、上州屋さんは、下駄屋さん。その和田さんが地所と家屋の権利をもって三丁目の「菱屋」さんへご養子に入った。
馬場さん 天利さんへ? あの、市会議員やった?
相川さん その人のところへ入った。市会議員は義理のお父さんになる。
山下さん いま、大学の先生している?
馬場さん それは、あのうちの娘婿、和田さんの姉さんっていうのは、和田チョウセイさん?
相川さん そう、小唄の先生。それで、奥の崖の方へ家をこしらえて、そこが昔の住まいです。
馬場さん 和田さんがやっていたときの薮蕎麦というのはかなり大きい地所だった?
相川さん とても大きく、でもそれは借地ですよ。
馬場さん 借地でも商売そのものは大きくて、相当人数が入れた?
相川さん 店は小さいんです。店があって、後ろに調理場があって、離れに住まいがあるんです。三つの家が建っていました。

 これは藪蕎麦(ampm、とんかつさくら本店)の話です。

相川さん すぐ隣の「大和屋」さんという漆器屋には蔵があった家なんですが、「大和屋」さんと蔽蕎麦さんの間に路地をこしらえまして、それで住まいの方へ薮蕎麦さんは入っていった。もちろん、調理場からも行かれますけどね。表から来たお客さんはその横から入っていく。
馬場さん 隣の大和屋さんというのがすでに、勧信(注)のいまの駐車場の方にきていたのですか? (注)今の勧信は万長酒店の跡地で、この時期の勧信は現在の百円パーキング。
相川さん そうです。
佐藤さん 相川さん、尾沢さん(注2)との間に路地がありませんでしたか?
(注2)尾沢さんは大きな薬局で、現在は牛込郵便局が一階に入居しているビルを建設。
相川さん いやいや、尾沢さんとの間にはカクエイ尾沢というのをこしらえて、「くすり屋」さんとの間をアーチにして、寺内の連中が通れるようにした。それはもともと尾沢さんの地所なんです。
馬場さん 今、郵便局に入るようなもんだ(笑)。
佐藤さん 僕は子どものころ、薮のおばちゃんのところは和田さんに向かって、うちから右側の路地を入っていくと、坪庭みたいのがあって家に入っていく。
馬場さん それは終戦後よ。
相川さん それは終戦後だけれども、そこが空いていたから尾沢さんが使わせていたのよ。
馬場さん 当時、昭和五年くらいは、まだぎっしりと家が建っていた頃ですが、尾澤さんはまだ敷地いっぱいに建てない頃だからね。

 現在の店舗、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」、昭和12年と昭和27年の「都市製図社」「火災保険特殊地図」、1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)、建物名や建物ごとの居住者を記載している住宅地図(昭和55年)を加えると、こうなります。上州屋から東京貯蓄までの5店舗が、現在の3店舗に減っています。地図では上州屋はここです。

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)


武田芳進堂[昔]、新泉とISSA

文学と神楽坂

 西側で藁店に接する神楽坂上に近い5丁目の2店舗です。現在はISSA(セレクトショップ)プラス福服(リサイクル着物)の一店と神楽坂新泉(焼肉)の一店になっています。

 なお、武田芳進堂は戦前は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通り)から一軒左にあり、戦後は三つ角そのままにありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。『最新東京学校案内』『初等英語独習自在』など。現在の芳進堂ラムラ店」と出ています。現在では飯田橋駅のラムラ店に出店しています。

 一軒左は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。

岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年) 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」から
昭和5年と平成8年 藁店の右の店舗

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」から。「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。

馬場さん それから中河さんのところ、いまの中河さんのところが武田さんだったのね。武田さんがここ来て、ここに中河さんが。じゃあ、中河さんも戦後ですか?
相川さん 昭和五年に来たんです。こっちの横丁(わらだな)へ。南町の井沢さんという地主がいまして、その人がこの一画をもっていたんです。
馬場さん いまのどこんところ? 富永さん(注)のところ?(注。光照寺に向かう坂(わらだな)の角から2件目。現在の居酒屋「もん」のところ。)
相川さん ああ、そうね。富永さんのところはそっくりそうですね。戦前の中河さんのお店(注)は小さかったからね。(注。現在の「ゑーもん」で電気店を運営していた)
山下さん 中河さんはこちらへいらしたのは昭和五年ですか?
馬場さん 表通りに来たのは戦後よ。
相川さん 戦後は表通りに来た。中河さんが地主さんから頼まれて、「分譲しなくちゃ財産税を納められない」って。それで物納したものかどうしようかって来た。「それじゃ、借りたい人に売りましよう」ってその世話一切を中河さんが引き受けた。戦前、武田さん(注)のところを中河さんが買ったわけ。(注。現在は洋品店ISSA。前は芳進堂という書店だった)
馬場さん 角が武田さんになったのでこれがいいか悪いかはわからないですね、結果とするとね。当時はそんなことを言った人もいるんですよ。これだけは角がいいかはわからない。


盛文堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 現在は元禄寿司などが入っていますが、戦前は盛文堂などの店舗がありました。

大震災直前と昭和12年元禄寿司

 盛文堂は本屋だけではなく、出版も行っています。『英文朗読法』(1897年)『粋客必携音曲集』(1886年)『薩摩琵琶歌大全』(1909年)『信州政党史』(1922年)などです。

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、平成8年には「元禄寿司」があり、一方、昭和5年頃には「成文堂」(盛文堂の誤り?)、「西村毛布店」、「ローヤル洋品」の3店がありました。

平成と昭和の元禄寿司

 残念ながら昭和12年の火災保険特殊地図(都市製図社)はどうなっているのか不明ですが、おそらく大空襲の時に燃えるまで盛文堂は同じように営業していたのでしょう。

  正宗白鳥は昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書き、

(現在の早稲田大学に入学する前に神楽)坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。

と書いています。

 また、稲垣足穂氏は「横寺日記」(昭和30年)で

八月七日 土曜
 昨夜新宿の真暗まつくらな街上で、六日月、その左かたに落ちかかっている天ノ河、、、を見た。きょうおひる床屋とこや椅子いすけて鏡を見ていたら、盛文堂せいぶんどうたなに山本清一博士の『星座の手ほどき』があったことに気がついた。

赤瓢箪[昔]

文学と神楽坂

 小料理の赤瓢箪は神楽坂仲通りにあり、恐らく神楽坂3丁目にあったようです。

 昭和2年6月、「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」には

俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)の江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりした。

 今和次郎編纂『新版大東京案内』(昭和4年)では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん。

 昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

 もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 関東大震災でも当然潰れなかったようで、浅見淵氏の『昭和文壇側面史』(昭和43年)では大震災の時には

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。

 残念ながら、終戦以降は姿はなくなりました。

巴有吾有[昔]

文学と神楽坂

 石田衣良(いら)氏が平成21年(2009年)、『チッチと子』という本を書いています。

石田衣良 耕平がむかったのは神楽坂の坂したにある喫茶店だった。ログキャビン風の重厚な造りで、ギャラリーを兼ねているのか、二階には美術品が飾られている。その日は針金細工の立体作品だった。いつも空いているので、編集者との打ちあわせによくつかうカフェである。

 坂下にある喫茶店というのは、この本が出た時にはなくなっていましたが、「巴有吾有(パウワウ)」以外にあり得ません。場所はここ。1970年代に創設し、木造の山小屋風で、2階はギャラリー、しかし、2006年にはなくなり、代わって理科大の巨大な「ポルタ神楽坂」の一部になりました。

かつての巴有吾有。今はなくなりました。


powwow1

powwowです。


昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場

寿徳庵[昔]|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 新宿区教育委員会が書いた『古老の記憶による関東大震災前の形』(神楽坂界隈の変遷、昭和45年)では下の左図で「菓子・寿徳庵」。場所はここ

 昭和12年の『火災保険特殊地図』(都市製図社)では下の右図で「壽徳庵」です。

「昭和初期の神楽坂」(「牛込区史」昭和5年)では左側の土蔵づくりの家でした(下の写真)。
神楽坂昭和初期

 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では「壽徳庵――坂の左側角点。菓子屋の二階が喫茶室になつてゐます。簡素な中にも落付きがあつて、女學生などにも這入りよい店です」。現在は「スターバックス」です。

スターバックス

「スターバックス」



赤井|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 新宿区史編集委員会『新修新宿区史』(昭和42年)で、明治40年代の神楽坂入口にあった「赤井」です。写真の看板は「赤井」、それから大きな「⩕」の下に「三」でした。

赤井

東京都新宿区役所「新修 新宿区史」(新修 新宿区史編集委員会、昭和42年)明治40年代の神楽坂入口付近

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年)では「ずんぐりした足袋の形をした白地の看板には黒い文字で山形の下に赤井と記されていた」といっています。「⩕」を山形と書いたわけです。

 大正時代の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」にはここです。

「牛込区史」(昭和5年、牛込区役所。復刻版、昭和60年、東京都旧区史叢刊、臨川書店)では、「昭和初期の神楽坂」として、向かって右側が赤井です。やはり赤井の「ずんぐりした足袋の形をした白地の看板」が見えます。左側は寿徳庵です。

神楽坂昭和初期

「牛込区史」(昭和5年、牛込区役所)「復刻版」(昭和60年、東京都旧区史叢刊、臨川書店)

 新宿区の「ガレキの中から、30年のいま…… 写真集 新宿区30年のあゆみ」(昭和53年)で、この「現在」では「Akai」になっています。また左側はパチンコ店「ニューパリ―」です。

ガレキの中から、30年のいま

新宿区「ガレキの中から、30年のいま…… 写真集 新宿区30年のあゆみ」(新宿区、昭和53年)

 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」では

足袋屋
 その頃の足袋屋ってものは夏冬なしに忙がしかったものです。夏一生懸命作っておいたものを冬には全部さばききってしまいます。夏からやっておりませんと間に合わないのでございます。何しろ昔はミシンてものがありませんので皆手縫いでございますから夏からやっておりませんと時間的にも労力的にも間に合いません。そこで足袋の甲つくりなんか、全部下職に出しました。今でいうなら家庭内職とでも申しましょうか。出来上った品物は店でさばいておりましたが縁日だからといって特に売上げが多いということはありませんでした。私ども(赤井足袋店)などはむしろ縁日には植木屋にはびこられてしまいますので店商い(みせあきない)の方はさっぱりでした。ほかのところでもそうなんでしょうが町がにぎわうので皆さんが喜んでいました。考えてみるとやっぱりおおらかとてもいうんでしょうね。
 手前ともにおいで下さるお客様は、お屋敷の方が多うございました。それに数をお買い下さる方の所へは、こちらから寸法をとりにうかがったり納めに参ります。ですから親爺のお供で随分いろいろなお屋敷に伺っております。
お屋敷回り
 お屋敷回りのきらいなことのひとつに犬に追いかけられることがありました。徳川様のまん前のお宅にきらいな犬のいるお得意がありました。誰が参りましても必らず追かけられるんです。とうにも仕方ありませんのでそのお宅に伺う前には電話をかけまして「今日は何時頃伺いますので恐れ入りますが犬をつないでおく様お願い申しあげます」なんてたのんでから出かけるようにしていました。
 早稲田の大隅さんの犬はまるでライオンみたいでした。然もそれが2匹もおりまして,はなしがいですから恐ろしうございました。でもこの犬はちっとも吠えませんで黙ってついて来まして私共がお宅の方にご挨拶をすると,すうっと帰ってしまうんです。実によく飼いならしたものでした。

 1980年には赤井商店になり、1985年にはメンズショップアカイ、1995年まではアカイですが、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では1996年には別の商店「カフェベーカリー ル・レーブ」になりましたが、経営者は同じ赤井氏でした。ル・レーブ(Le Reve)はフランス語で「夢」です。下図は2006年の「ル・レーブ」です。

 現在は不動産仲介業のアパマンショップで、左はスターバックスコーヒーです。なお、アパマンショップ(旧赤井商店)もスターバックスコーヒー(旧寿徳庵)も拡幅計画のため将来は取り壊されて外堀通りの一部になります。

アパマン


魚浅|鮮魚店

文学と神楽坂

 魚浅は鮮魚(せんぎょ)(てん)、つまり魚屋です。

 近年では魚の販売はスーパーが主流で、魚屋はなくなりつつあります。地魚だけで広範囲の流通を行うのはまず量が足りず売れず、また、そもそも魚の料理方法が解らないため売れません。

魚浅1

 1番うまい食べ方は、その日に採れた魚をその日に食べること。が、これは鮮魚店はできてもスーパーではできません。

 たとえばカツオです。東京ではカツオはあっという間に悪くなるので最近まではカツオはタタキでないと食べられませんでした。

 八丈島に出向し、その間、生のカツオがこんなにおいしいなんてと初めて知りました。
1日遅れると、生ではだめなものがある。魚屋でその日に採れた魚をその日に売るのは大丈夫でも、スーパーでは売れない。魚屋があるなしが、新鮮でうまい魚が食べられるかどうかと直結しています。

 現在1軒だけが残っている「魚浅」。明治34(1901)年、創業。現在、週に1回しか開いていません。新鮮で美味な魚があとどれぐらい食べられるでしょうか。

袋町

文学と神楽坂

 袋町は神楽坂から一歩離れた場所です。袋町の由来地蔵坂の由来について、さらに地蔵坂の散歩をします。

 現在は想像できませんが、桜は非常にきれいだったといいます。

 出版クラブ会館の話から、江戸時代に同じ場所にあった新暦調御用所、大正時代では一平荘について、さらにここで死亡したという真っ赤の嘘で有名な幡随院長兵衛について。

 新坂正雪の抜け穴光照寺都館と文士切支丹の仏像、活動写真の牛込館を扱います。

ほかの坂

文学と神楽坂

神楽坂上の地図神楽坂周辺の地図

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑨

  文学と神楽坂

 以前には坂下が神楽町、中腹が宮比(みやび)、坂上が肴町で、電車通りから先は通寺町であったが、現在ではそれらの町名がすべて消滅して、坂下が神楽坂一丁目で大久保通りを越えた先の通寺町が神楽坂六丁目だから、のっぺらぼうな感じになってしまった。が、住民は坂下から大久保通りまでを「神楽坂通り=美観街」として、以前の通寺町では「神楽坂商栄会」という別の名称を採択している。排他性のあらわれかもしれないが、住民感覚からは当然の結果だろう。寺町通りにも戦前は夜店が出たが、神楽坂通りは肴町――電車通りまでという思い方が少年時代の私にもあった。『神楽坂通りの図』も、寺町通りにまでは及んでいない。

神楽町 下図で神楽町は赤色。
宮比町 下図で上宮比町は橙色。
肴町 下図で肴町はピンク。
電車通り 大久保通り。路面電車がある通りを電車通りと呼びました。
通寺町 下図で通寺町は黄色。なお青色は岩戸町です。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

神楽坂通り 現在は神楽坂1~5丁目は「神楽坂通り商店会」です。
神楽坂商栄会 現在は6丁目は「神楽坂商店街振興組合」です。
電車通りまで 本来の神楽坂は神楽坂一丁目から五丁目まで。

 寺町通りの右角は天台宗の🏠安養寺で、戦前から小さな寺院であったが、そこから軒なみにして七、八軒目だったろうか、右角に帽子屋のある路地奥に寄席の🏠牛込亭があった。私の聞き違いでなければ、藤枝静男から「あそこへ私の叔母が嫁に行っていましてね」と言われた記億がある。だから自分にも神楽坂はなつかしい土地なのだというような言葉がつづいたようにおぼえているが、広津和郎はその先の矢来町で生まれている。そのため『年月のあしおと』執筆に際して生家跡を踏査したとき、彼は《肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「🏠船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけ》て、《子供の時分から知っている店で、よくオヤツを買いに来た》ことを思い出しながら店へ入ると、《代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます》という店員の返事をきいて《大福を包んで貰》っているが、私も些少の興味をもって外から店内をのぞいてみたところ、現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

軒なみ 家が軒を連ねて並び建っていること。家並み。並んでいる家の一軒一軒。家ごと。
セロファン セルロースを処理して得られる透明フィルム。

 矢田津世子『神楽坂』の主人公で、もと金貸の手代だった五十九歳の馬淵猪之助は通寺町に住んで、二十三歳の妾お初に袋町で小間物店をひらかせている。お初は金だけが目当てだし、自宅にいる女中の(たね)は病妻の後釜にすわることをねらっているので、猪之助は妻に死なれていとおしさを感じるといった構想のものだが、矢田はどの程度に神楽坂の地理を知っていたのか。猪之助は袋町へお初を訪ねるのに、寺町の家を出て≪肴町の電車通りを突っき》つたのち、《毘沙門の前を通》って《若宮町の横丁》へ入っていく。そのあたりもたしかに袋町だが、料亭のならんでいる毘沙門横丁神楽坂演芸場のあった通りの奥には戦前から現在に至るまで商店はない。袋町とするなら藁店をえらぶべきだったろうし、藁店なら寺町から行けば毘沙門さまより手前である。小説は人物さええがけていれば、それでいいものだが、『神楽坂』という表題で幾つかの地名も出てくる作品だけに、どうして現地を歩いてみなかったのかといぶかしまれる。好きな作家だっただけに、再読して落胆した

『神楽坂』 昭和5年、矢田津世子氏は新潮社の「文学時代」懸賞小説で『罠を跳び越える女』を書き、入選し、文壇にデビュー。昭和11年の「神楽坂」は第3回芥川賞候補作に。
小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの
寺町 神楽坂六丁目のこと
通り この横丁に三つ叉通りという言葉をつけた人もいます
袋町 袋町はここです。袋町商店はない藁店をえらぶ  商店はありませんが、花柳界がありました。商店がないが花柳界はある小説と、商店や藁店があるが花柳界はない小説。しかも表題は『神楽坂』。どちらを選ぶのか。あまり考えることもなく、前者の花柳界があるほうを私は選びます。

1990年、六丁目の地図1990年、六丁目の地図

安養寺 牛込亭 船橋屋 よしや せいせん舎 木村屋 朝日坂 有明家
 船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、🏠よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ訓導』などという映画――当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしぼった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違ってお涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズム顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

紅涙 こうるい。女性の流す涙。美人の涙
新派悲劇 新派劇で演じる人情的、感傷的な悲劇。「婦系図」「不如帰」「金色夜叉」など
センチメンタリズム 感傷主義。感性を大切にする態度。物事に感じやすい傾向
顕現 けんげん。はっきりと姿を現す。はっきりとした形で現れる
享受 きょうじゅ。あるものを受け自分のものとすること。自分のものとして楽しむこと
チャップリン、ロイド、キートン サイレント映画で三大喜劇王。
ニコニコ大会 戦前から昭和30年代まで、短編喜劇映画の上映会は「ニコニコ大会」と呼ぶ慣習がありました。

 文明館――現在のよしやスーパーの先隣りには老舗のつくだ煮の🏠有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。
 そのすこし先の反対側――神楽坂下からいえば左側の左角にクリーニング屋の🏠せいせん舎、右角に食料品店の🏠木村屋がある。そのあいだを入った一帯は旧町名のままの横寺町で、奥へ行くといまでも寺院が多いが、入るとすぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著書では🏠朝日坂または旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の一例だろう。

木村屋 正しくは「神楽坂KIMURAYA」。『神楽坂まちの手帖』第2号で、「創業明治32年菓子の小売から始まり、昭和初期に屋号を「木村屋」に。昭和40年代に現在のスーパー形式となり、常時200種が並ぶワインの品揃えには定評がある」と書かれています。「スーパーKIMURAYA」の設立は昭和34年(1959年)。法政大学キャリアデザイン学部の「地域活動とキャリアデザイン-神楽坂で働く、生活する」の中でこう書かれていました。現在のリンクはなさそうです。

―キムラヤさんは、初めはパンとお菓子をやられていたんですね。
 それは、明治ですね、焼きたてのパンを売ってたからものすごく売れたんですね。スーパーじゃなくて、パン屋をやりながらお菓子を売っていました。お菓子のほうがメインだったんです。その頃、焼きたてのパンなんて珍しくてね、パンをやるんだから銀座のキムラヤさんと同じ名前でいいんじゃないかって「キムラヤ」ってなったわけで、銀座のキムラヤさんとは全く関係ありませんからね(笑)

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑧

文学と神楽坂

 相馬屋の先隣りは酒屋の🏠万長で、現在の敷地は路地の右角までだが、以前には角が足袋の丸屋で、いま左角にある牛肉屋の🏠恵比寿亭の場所には下駄屋の上田屋があった。夏目漱石が姉ふさの夫高田庄吉の家へ二番目の兄栄之助に連れられていって、神楽坂芸者の咲松とトランプをしたと『硝子戸の(うち)』に書いている場所は、この路地のなかである。
 現在その路地と向い合っていた路地はなくなったが、すき焼屋の恵比寿亭を左に、八百文を右に見ながら入ったその路地奥に鳥料理の川鉄があって、そこの蓋のついた正方形の塗りものの箱に入っていた親子は美味で、私の家でもよく出前させていたが、それもその後めぐり合ったことのないものの一つである。ひとくちに言えば、細かく切った鶏肉がよく煮こまれていて、()り玉子と程よくまぜ合わせてあった。その川鉄について、『神楽坂通りの図』には≪お客に文士が多かった≫と記入してあるが、加能作次郎も『早稲田神楽坂』のなかで≪牛込在住文士の牛込会などもいつもそこで開いた。≫といっている。川鉄になる以前は万盛庵という蕎麦屋だった様子で、徳田秋声小栗風葉から後述する()()(まん)堂塾への参加をすすめられたのがその万盛庵であったことが、彼の実名的長篇自伝小説『光を追うて』に出てくる。
 現在の牛肉店恵比寿亭――以前の下駄屋の上田屋の位置から五、六軒先にあった機山閣書店は、震災後高島屋十銭ストアという十銭の商品だけを置く店になったが、すぐ廃業した。いまもそのあたりで残っているのは、角の🏠河合陶器店だけだろう。閉店後から開店前まで、いつも盗難のおそれがない大きな丸火鉢だけが重ねて店外に置かれてあったが、丸火鉢などというものも日本人の日常生活とはすっかり疎遠になってしまった。
 十銭ストアの筋向いにあった三階建ての和菓子舗紅谷は二階が喫茶店で三階は小集会用の貸席になっていたが、いまは痕跡もない。角の尾張屋銀行の跡も不動産屋のつくば商事になっていて、「神楽坂通り=美観街」はその地点で尽きる。そこが以前の都電通り――現在の大久保通りだからだが、大久保という地名も近々新宿何丁目かに変更されるということだから、そのときには通りの名称も変更されることになるのだろうか。朝令暮改もここにきわまれりという感じで、住民をいたずらにするのはいいかげんにしてもらいたいという気がする。
 『神楽坂通りの図』は貴重な記録だが、一つだけ誤りを指摘しておく。以前の電車通りを筑土方向へむかっていって最初に右へ折れる路地の左角に神楽おでんとあるのは正しいが、≪ドサ廻りの芝居がよくかゝった。もと鶴亀亭。≫と註記されている柳水亭がその先にあるのは肯定できない。路地の右角は青物商で、柳水亭はその手前――河合陶器店寄りにあった。私はその青物商の二階に間借りしていたことがあるし、柳水亭にも何度か入っているので間違いない。

その路地。名前は寺内横丁です
貸席。会合や食事のために料金をとって貸す部屋
朝令暮改。ちょうれいぼかい。朝に出した命令を夕方にはもう改める。方針などが絶えず変わって定まらないこと
肯定できない。その通り

機山閣 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)「城跡と色町」を書いていますが、写真の左から二番目の店舗に機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。
大正時代の神楽坂通り
丸火鉢
丸火鉢

丸火鉢

灰を入れ、中で炭火をおこして手などを温める暖房具。木製では丸火鉢、長火鉢などがある。

5丁目

万長 恵比寿亭 河合陶器店

鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館

文学と神楽坂

 神楽坂五丁目の柳水亭は、明治時代は講釈席の鶴扇亭、大正に入ると色もの席の柳水亭、関東大震災の翌年、大正13年(平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』展望社、2007年)には勝岡演芸場になり、さらに活動写真の東宝映画館となり、そのまま戦争になるまで続きました。

 今和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年)では

 手踊りや浪花節席の柳水亭は今の勝岡

と書いています。

「ここは牛込、神楽坂」第3号の河合慶子氏は「肴町界隈のこと」で

 寺内へ入る横丁までの割合大きい一棟は、階上が勝岡演藝場(映画館になったのは後のこと)、階下は何件かに仕切られ、理髪店、写真屋、奴軒と云う洋食屋、横丁を隔てて分厚いこんにゃくで有名な「神楽おでん」、棒丑さんとか、中華の永利軒とつづく。
 階上の芝居小屋は地方廻りの劇団中心で、中でも女役者ばかりの「坂東勝治」一座が評判だった。年配の座長が立役専門で「浜松屋」でも「直侍」でも何でもこなす藝達者、よく見に行った。夏場は客席のうしろの窓が開け放しで、私の家の物干しから舞台が見えるので、結構只見をきめ込んだこともある。芝居がハネると化粧のまま浴衣を引っかけた連中が銭湯へ行く。子供心にそれが面白くて、時間を見計らって、お風呂に行ったものである。

「ここは牛込、神楽坂」第6号の丸岡陶苑の岡崎弘氏は「明治の神楽坂のこと、話そうか」で

 肴町の家のそばには鶴扇亭という寄席があって、そこは講談専門。後で柳水亭と名前が変わって落語をやるようになり、その後、勝岡演芸場になって、はじめて二階建ての演芸場になってね。ここでは先代の金馬や談志が落語をよくやっていた。家しか電話がないから、そこの人が講釈師に、先生早く来てくださいとかよく電話しに来るの。うちは電話貸してるから、しょっちゅう行ってたね。そりゃ文句は言えねえや。おれは座敷の一段高いところに座っちゃうもんだから、やな顔をして。でも何も言えねえ。電話借りてるから。子供心に知ってんだ。でもわざとじゃない。下の方だとよく見えねえからね。落語も講談も好きだから年中聞いたよ

 正岡容氏の『随筆 寄席囃子』(古賀書店、1967年)では

 柳水亭はその後、勝岡演芸場となって晩年の若水美登里などの安芝居の定席となり、のち東宝系の映画小屋となってしまったが、電車道に沿って二階いっぱいに客席のある寂しい小屋だった。かてて加えてひどい大雨の晩だったので、お客はせいぜい二十何人くらいしか来ていなかった。定刻の六時になると文字どおりの独演会で、奴さん、前座もつかわず、ノコノコ高座へと上がってきた。そうして、近所の牛込亭や神楽坂演芸場(かみはく)の落語家たち(ついこの間まで彼自身もその仲間だった)の独演会のやり口を口を極めて罵り、自分のような、この、こうしたやり方こそがほんとうの独演会なのだとまず気焔を上げた。今の奴らは一人っきりでひと晩演るだけの芸がないのだというようなこともしかしながら言ったように覚えている。聴いていてへんに私はうれしくなった、恋ある身ゆえ、なにを聴いてもしかくうれしかったのかもしれない。

電車道 大久保通りです。
奴さん 日本太郎です。

『まちの想い出をたどって』第1集の「肴町よもやま話①」(2007年)によれば、昭和5年、隣から火事が出て、勝岡演芸場は焼失し、神楽坂に向いていた十銭ストアや機山閣も焼けたといいます。勝岡演芸場は東宝に売られ、昭和15年ごろに中村メイコなどが映画館として新装開店を行ったようです。以下は「肴町よもやま話①」を一部引用したものです。なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「山下さん」は山下漆器店店主。「馬場さん」は万長酒店の専務です。

相川さん 昭和五年十月十五日、忘れもしないね、肴町の在郷軍人が伊豆の大島へ行くんで、それで六時の集合だというふれで、私も行くんだ。中河さんだの、薮蕎麦さんだの、「やっこ軒」だの、そういった連中がみんな在郷軍人の格好でお揃いで行こうじやないかって相談していて、その明け方、火事になった。
山下さん どこが火元?
相川さん 火元はね、河合さんのすぐ隣の「はんこ屋」がありまして、小さな床店でそこで寝られないんだ。その隣に「本田」っていう電気屋さんがあった。電気のお湯を沸かす棒ですね、あれを桶の中に入れてやっていたら、たまたま桶が水漏れしちやったの。それで寝てて知らなかった。火になってはじめてうちの人が気がついて、命からがらみんな飛び出した。
山下さん それが焼けちゃって、あの演芸場まで(火が)行ったの?
相川さん そうそう。そこの電気屋さんとの間に路地がありまして、「勝岡演芸場」(注。今のつくば3号館↓の付近っていうのがあったんです。どさ回りの役者が浪花節だとかやる定席(じょうせき)があった。それが隣から火が出て、下の方は便所なもんだから、火が上の方へ行っちゃって。
馬場さん 勝岡演芸場がそれで焼けたんですか。
相川さん 火が全部天井に入っちゃった。下の床店になっている鈴木っていう写真機屋さん、それから田中っていう床屋さん、それからいまの袋町の八百屋さん(注。現在の袋町の「八百美喜」さん)、それから曲がってすぐやっこ軒って西洋料理の安い店があった。それがみな罹災者なの。焼けなくても水漏りで。忘れもしません。昭和五年の十月十五日。私は行くつもりになって支度をしていたんだから。六時の集合だから、明け方でしよ。
馬場さん あとでまた勝岡演芸場ができていたじゃない。
相川さん 焼けちゃって、勝岡演芸場の経営者はおばあさんだから、「そんな資金はないよ。復興の見込みはないし、もう私も年だからやめる」っていうんで、砧にあった東宝のPCL、あれにそっくり売った。店子は残って、最初は(映画館に店を出す)約束したんだけど、設計がまずい、防火法にふれる、二階だけで映画館をやるわけにはいかない、ということでみんなどけられちやった。

柳水亭

中河 中河電気の店主です。ここは現在五丁目の神戸牛と和食の店「新泉」に変わっています
薮蕎麦 現在、五丁目の「とんかつさくら」に変わりました
やっこ軒 おそらく洋食屋の奴軒だと思います
床店 とこみせ。商品を売るだけで人の住まない店
八百美喜 袋町の八百屋さんは2016年に変わって「肉寿司」になりました
東宝のPCL 1933-37年、P.C.L.(Photo Chemical Laboratory)映画製作所ができました。東宝の前身の1社です

 では鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館の現在の場所を確認しましょう。

「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年新宿区教育委員会より

「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年新宿区教育委員会より

hanko 本田

 場所はこの辺りですが、間違えています。上の「古老の記憶による関東大震災前の形」では、柳水亭のに一本の道があり、また、神楽おでんは柳水亭の下(南)にあります。一方、正しいのは、下の大正元年の『地籍台帳・地籍地図』で、鶴扇亭のに一本の道があります。鶴扇亭は肴町12-1に当たりました。

鶴扇亭

 岡崎弘氏と河合慶子氏の「遊び場だった『寺内』」では、こちらの絵の上下は反対向きですが(つまり北の方が下向き)、鶴扇亭の北に道路があり、神楽おでんの南に鶴扇亭があります。これが正しく、さらに「肴町よもやま話」や野口冨士男氏の「私のなかの東京」でも正しいようです。つまり、鶴扇亭の上側(北側)に一本の道があったのです。

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 なお、新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』を調べると、大正15年の東京演芸場組合名簿では勝岡演芸場は肴町13になっています。また、昭和5年の『牛込全図』で、肴町13は下の通りです。
昭和5年の柳水亭

 一方、これが違う場合もあります。左下の昭和12年の都市製図社の火災保険特殊地図では、肴町12にあったと思います。昭和27年(右下)も五丁目12で13ではないと思います。

昭和12と27

「神楽坂まちの手帖」第10号に河合雅一氏は「わたしの神楽坂落語」を書いています。

 牛込肴町、現在の神楽坂五丁目むかしやの隣に、「柳水亭」という席がありましたが、後に「勝岡演芸場」という席になり、その後映画館になりました。私はここで長谷川一夫の「伊那の勘太郎」を見た記憶があります。
この場所は戦後六十年たっていますが、大きな普請をしておりませんので、寄席の入口のタイトルの名残が現在でも残っております。ちなみにこの場所から二十メートル先に、柳家金語楼のプロダクションがありました。そして愛車のジープが時々止まっておりました。

 下は現代の地図です。つくば3号館は神楽坂5丁目10番地なので、勝岡演芸場はつくば3号館と違っていると思います。もっと道路に近くあったようです。

 そこで大胆にも下で書くと、赤色で囲った場所(神楽坂五丁目13番地)が柳水亭や勝岡演芸場などでしょうか。

柳水亭の推定図

柳水亭の推定図。1990年の航空地図

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
神楽坂の通りと坂に戻る場合


和解|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏の『和解』(昭和8年)の最終場面です。
 徳田氏と泉鏡花氏のいわく言いがたい関係が出ています。

徳田秋声

徳田秋声

 K―の流儀で、通知を極度に制限したので、告別式は寂しかつたけれど、惨めではなかつた。順々に引揚げて行く参列者を送り出してから、私達は寺を出た。
「ちよつと行つてみよう。」K―が言ひ出した。
 それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
 K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
「その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか(おつ)かなくて……。」
 私達は笑ひながら、路次を出た。そして角の墓地をめぐつて、ちやうど先生の庭からおりて行けるやうになつてゐる、裏通りの私達の昔しのの迹を尋ねてみた。その頃の悒鬱(むさくる)しい家や庭がすつかり潰されて、新らしい家が幾つも軒を並べてゐた。昔しの面影はどこにも忍ばれなかつた。
 今は私も、憂鬱なその頃の生活を、まるで然うした一つの、夢幻的な現象として、振返ることが出来るのであつた。それに其処で一つ鍋の飯を食べた仲間は、みんな死んでしまつた。私一人が取残されてゐた。K―はその頃、大塚の方に、祖母とT―と、今一人の妹とを呼び迎へて、一戸を構へてゐた。
 私達は神楽坂通りのたはら屋で、軽い食事をしてから、別れた。
 数日たつて、若い未亡人が、K―からの少なからぬ手当を受取つて、サクラをつれて田舎へ帰つてから、私達は銀座裏にある、K―達の行きつけの家で、一夕会食をした。そしてそれから又幾日かを過ぎて、K―は或日自身がくさぐさの土産をもつて、更めて私を訪ねた。そして誰よりもK―が先生に愛されてゐたことと、客分として誰よりも優遇されてゐた私自身が一つも不平を言ふところがない筈だことと、それから病的に犬を恐れる彼の恐怖癖を、独得の話術の巧さで一席弁ずると、そこそこに帰つていつた。
 私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。
(昭和8年6月「新潮」)


K― 泉鏡花のこと
O― 尾崎紅葉のこと
二町 1町は約109m
宿怨 しゅくえん。かねてからの恨み。年来の恨み。旧怨。宿恨。宿意
夢幻 むげん。夢や幻のようにはかないこと
 詩星堂、または十千万堂塾
手当 心付け。支払う金銭。基本給のほかに支給する資金
サクラ 泉斜汀の子
くさぐさ 種種。種類や品数の多いこと。さまざま。いろいろ。なお、青空文庫では「くさくさ」と書いていますが、意味は不明です。「くさぐさ」は新潮社の「名短篇」(新潮別冊、新潮創刊100周年記念、平成17年)から取りました。
当味 あてみ。当身。古武術等の打撃技の総称。ひじ、拳、足先などで相手の急所を打ったり突いたりする技。

この関係は里見弴氏の随筆「二人の作家でも出ています

芸術倶楽部跡|横寺町

文学と神楽坂

芸術倶楽部跡横寺町2

 標柱を朝日坂を上に向かって(地図では南西方向ですが)行くと、飯塚酒場、さらに内野医院がそのあとにあり、さらに「ビニール工業所」とアパートを越えると、坂はほとんど終わっている場所ですが、この奥に芸術倶楽部があります。

 平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。正しくは、9-10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。以下に述べました。

新宿区指定史跡

芸術げいじゅつ倶楽部くらぶあと島村しまむら抱月ほうげつしゅうえん
         所 在 地 新宿区横寺町9・10・11番地
         指定年月日 平成三年11月6日
 この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.
 抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。
 明治39年(1906)には、坪内つぼうち逍遙しょうようの文芸協会に参加し、西欧せいおう演劇えんげきの移植に努めたが、大正2年(1913)内紛ないふんから同協会を脱会し、芸術座を結成した。
 その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。
 平成28年3月25日
新宿区教育委員会

スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)

島村抱月

島村抱月の終焉

これは旧史跡です。

文化財愛護シンボルマーク

史跡
(げい)(じゅつ)()()()(あと)(しま)(むら)(ほう)(げつ)終焉(しゅうえん)()
所在地 新宿区横寺町九・十・十一番地

 演出家島村抱月(1871~1918)が女優松井須磨子(1886~1919)とともに、近代劇の普及のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点芸術倶楽部の跡である。
 抱月は本名を滝太郎といい、島根県に生れ、東京専門学校(現早稲田大学)文学部を卒業した。その後同校講師となりイギリス・ドイツに留学、帰国後は評論家・演出家として活躍した。
 明治39年(1906)には、坪内逍遥の文芸協会に参加し、西欧演劇の移植に努めたが、大正2年内紛から同協会を脱会し、芸術座を組織した。その拠点芸術倶楽部は、木造2階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 抱月は大正7年11月15日、流行性感冒から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で死去した。享年は47歳であった。傷心の須磨子は翌8年1月5日この倶楽部で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散された。
  平成三年十一月
       東京都新宿区教育委員会

新宿区文化財
  旧跡 芸術倶楽部くらぶ
 島村抱月、松井須麿子らは坪内逍遙の文芸協会から離れて、大正2年7月新たに芸術座を結成して近代劇を広めた。とくにトルストイ―原作の「復活」は通俗的人気を集めた。
 芸術倶楽部はその根拠地で、建物は木造2階建、大正4年秋の建築である。所在地は横寺町9・10番地、この前あたりである。
 大正7年11月5日、抱月は流行性感冒から肺炎を併発し、倶楽部の1室で没した。47歳であった。傷心の須麿子は翌8年1月5日、倶楽部で抱月のあとを追った。34歳であった。これにより芸術座は解散した。
 なお抱月の墓は雑司ケ谷墓地、須麿子は弁天町100多聞院たもんいんにある。
   昭和53年3月
      東京都新宿区教育委員会

場所はどこ?

 では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
 住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
  ❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
  ❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
  ❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
  ❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
  ❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
  ❍平成3年、新宿区指定史跡
  ❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。

 最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
 高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。

 8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
 ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
 つまり、芸術倶楽部は9、10番地の2筆を株式会社東銀行から買って、土地登録は(9、10番地を合わせて)9番地という1筆だけで、8番地と11番地は無関係だったと思います。

 次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。

芸術倶楽部の方角。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)

昭和12年の地図

 昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり、橙色は芸術倶楽部の想像図で約180坪(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が現在の図(下図)になりました。

 以上をまとめると、芸術倶楽部は横寺町9+10の一部を東銀行から買って、全体を横寺町9として登録した。横寺町9も10も1部分は別の人の資産として残っている。例えば、横寺町9の1部は加藤商店として残ったはず。建物は(B)しかありえない。

 坪内祐三氏の「極私的東京名所案内増補版」にはこんな一文が載っています。

 古書展に行くと時おり、戦前に刊行された『世界演劇史』全六巻(平凡社)や『歌舞伎細見』(1926年・第一書房)といった本を目にすることがある。実は飯塚酒場は、それらの本の著者飯塚友一郎の生家だった。飯塚にはまた、斎藤昌三の書物展望社から出した『腰越帖』(昭和12年)という随筆集があって、そこに収められた「松井須磨子の臨終」という一文で彼は、こういう秘話を披露している。先にも書いたように飯塚の生家は芸術倶楽部に隣接していた。それは飯塚が東京帝大法学部に通っていたころ、松井須磨子が首つり自殺をした大正8年1月5日の未明のことだった。
私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段気にも止めず、又、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞込んでくる。
「物置で椅子卓子を踏台にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した」
 自殺を決意した須磨子は三通の遺書を(したた)めた。その内一通は坪内逍遥宛のものだった。須磨子の兄が牛込余丁町(よちょうまち)の坪内家へ持参すると、逍遙夫妻は熱海の別宅双柿舎(そうししゃ)に出掛けて不在で、代わりに養女のくに(鹿島清兵衛の二女)がその遺書を受け取った。のちに彼女は、不思議な運命のめぐり合わせで、飯塚友一郎の妻となる(この文章が『彷書月刊』に載った直後、何と飯塚くに——95歳——の回想集が中央公論社から刊行され、それを私が『週刊朝日』で書評したことが縁となって文庫化の際には解説を書かせていただいた)。

 また今和次郎氏の『新版 大東京案内』(ちくま学芸文庫、元は昭和四年の刊)では

 書き落してならないのは、神楽坂本通りからすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町、第一銀行(現在のキムラヤ)について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級俸給生活者、労働者、貧しい学生の連中にとって、10銭の朝食、15銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会の演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「闇の力」を演じて識者を唸らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死したことも一場の夢。今はいかゞはしい(やみ)の女などが室借りをするといふアパートになった。変れば変る世の中。


私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

文学と神楽坂

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

4.5丁目

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)


 麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。


観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。
六代目 六代目の中村歌右衛門でしょう。なかむらうたえもん。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日。没年は2001年3月31日。
歌右ヱ門 五代目の中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は1866年2月14日(慶応元年12月29日。没年は1940年(昭和15年)9月12日。
松永和風 まつながわふう。長唄の名跡。
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒 明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。
 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
駐車場 カフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わています。その左側の「第1勧信用組合駐車場」ではありません。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。
風俗画報 風俗画報の「新撰東京名所絵図」第42編(東陽堂、明治39年)では「袋町ふくろまちと肴町の間の通路を藁店わらだなと稱す。以前此邊にわらを賣る店ありしかば、俚俗りぞくの呼名とはなれり」と書き、「藁店」を出しています。
早川雪洲早川雪洲 はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日。87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日。87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

横寺町|由来

文学と神楽坂

 横寺町は「町方書上」で

町名之起り通寺町之横町候間、横寺町唱候

と書かれています。新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』ではこれを受け

横寺よこでらまち
 牛込横寺町 町名は(とおり)(てら)町の横町であったことに由来する。

と、「横でら町」は通てら町の横町だとしています。

『新修 新宿区町名誌』によれば、明治44年に横(でら)町になりました。ここでは「よこ()らまち」とふりがながついています。

 一方、2000年、町の「よこてらまち今昔史」の編集会議で、

 過日、編集会議の席で横でら町か、横てら町かの話が突然だされました。その後、調査のため区役所等へ問い合せをした結果、横てらまちが正しいことが判りました。今まで使い慣れていた言葉、読み方が誤っていたことが解かり、変な気持ちです。よって表紙の題字を平仮名で大きく印した次第です。

 ウィキペディア、マピオン、日本郵便では「よこてらまち」が正しいと考えています。
 一方、消防署と新宿区歴史博物館は「よこでらまち」が正しいと考えています。
 警察署、新宿区は漢字の「横寺町」しか使っていないようです。

 以上、横寺町をどう読むのか……困っています。「横寺町」と漢字だけしか使わないようにしようっと。

 まあ、北町、中町、南町を昭和52年の新宿区教育委員会の『新宿区町名誌-地名の由来と変遷』では北町、中町、南町と漢字だけを書いています。平成22年の新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では(きた)(まち)(なか)(ちょう)(みなみ)(ちょう)と、「まち」と「ちょう」に分けています。なぜ分けるの。理由は? 明治20年の地図でも漢字だけなのに。

光を追うて|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏が「光を追うて」(1938年)で書いた新宿区(牛込区)の十千万堂塾に入ったいきさつです。

 その時分は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていたが、彼も等などの行き方と違って、遣ってつけの仕事はしなかったから、書きたいと思う材料や筋立(すじだて)に軽々しく筆をつけず、懐ろに温めつゝ百方工夫を凝し、(おもむ)ろに練りあげた上、彫心(ちようしん)鏤刻(るこく)の文章で織りあげるのだったが、等は筋を立てず、いきなりに書く方だったので、折角の小栗の話も馬の耳に念仏のような形になってしまった。小栗はその時今日は少し相談があるから乗ってくれないかというので等は傾聴した。
「僕も柳川も先生んとこの玄関じゃ、落著いて書けないんです。第一狭くもあるし、来客は多いし、お嬢さんがちょろちょろと出て来て目障りだし、是からみっちり仕事をしようというには、何とかしなくちゃなるまいと、色々考えた結果、玄関番は交替でやることにして、先生の近所に一軒家を借りようかと思いましてね、それにはちょうど打ってつけの家が一軒、先生の家の裏にあるんです。先生んとこの垣根の一方に囗をつければ、直ぐお庭から降りて行けるような工合になっているんですがね。差当り上の家の女中に手伝いに来てもらって、柳川と僕とで自炊生活をはじめようという話なんですか、君も()うでしよう、加ってもらえませんか知ら。そうしてお互に先生の傍でみっちり勉強しようじやありませんか。」

 この文章を書いている筆者のこと。
肴町 現在の神楽坂五丁目
結構 けっこう。全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
遣ってつけ いいかげんにやってしまう
懐ろ ふところ。外界から隔てられた安心できる場所
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面にわたって
彫心 ちょうしん。心に刻み込む。
鏤刻 ろうこく。るこく。文章や詩句を推敲すること。
馬の耳に念仏 馬にありがたい念仏を聞かせても無駄。いくら意見をしても全く効き目のないことのたとえ。

 そこは箪笥町の一区画で、通りから石段を上つて横寺町の先生の家の二階から見下されるお寺の墓地の横へ出る、ちよつと高台に蕎麦屋や馬具屋や大工などの立てこんだ人家の路地の奥になつており、風流な枝折(しおり)(もん)と竹で(ゆわ)えた(かなめ)の垣根の外に総井戸があり、赤松やなどの枝をひろげた前庭があり、濡縁のある四畳半が、板戸を締めたまゝに、町中の静かな隠居所といった風で、飛石や下草にも風情があつた。小栗は台所口から上り、崖下の裏庭に面した座敷や、四畳の中の間なども見せ、三畳の玄関から上るようになつている、物置同様の二階へも案内したが、高窓をあけると、真面(まとも)に先生の書斎が見えるのだつた。古いだけに趣があり、健康には悪いが感じは好かった。
「これは借家に建てたものじゃないんですが、間取りが面白いから、借りることにしたんですがね。」
 小栗はそう言って、戸閉めをして外へ出た。小栗は先生のところへ来るまでの、暫くの学生生活のあと、早熟であったゞけに少しぐれていたとみえて、二の腕に女の首の入墨があり、後にそれを消すのに骨折っていたが、生い立ったのは半田(はんだ)堅気(かたぎ)な旧家であり、等から見ると、一廉(ひとかど)の生活者のように見え、細いところに頭脳も能く働いたが、実は底ぬけのロオマンティストであった。

一区画 十千万堂塾はどこにあったのでしょうか。まず徳田秋声氏の年表から

明治二十九年(一八九六) 二十六歳
 十一月、博文館を退社。十二月、小栗風葉の誘いを受け十千万堂塾(詩星堂とも、紅葉宅と裏つづきの家)に入り、柳川春葉を加えた三人で共同生活。やがて田中凉葉、中山白峰、泉斜汀らが加わる。

明治29年 明治29年の『牛込区全図』で、赤丸は十千万堂(詩星堂)の場所です。したがって、十千万堂塾は箪笥町4から7ぐらいのいずれかでしょう。
 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書いた「神楽坂と文学」の「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」を読むと、「ここ(箪笥町五番地)は神楽坂とは離れているが、紅葉宅と筆笥町の方は紅葉の庭から崖を下りて続きになったところで『紅葉塾』があったところである。塾の盟主小栗風葉徳田秋声外数人(前述)が同宿し、文学修業と若い文士の育成の場であった。ここに関係した文人たち皆の記録に当れば必ずや神楽坂界隈のことや明治文学の動向を知る資料があろうと思われるが、これは未調査であり後日にしたい」と述べています。しかし、文献はなく、どうして五番地になるのか、私にはわかりません。大家さんの言葉なのでしょうか。
 現在は4番地か5番地がよさそうに見えます。しかし当時の状況は全くわかりません。十千万堂
枝折門 しおりど。折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸。多く庭の出入り口などに設ける
 要。カナメ。カナメモチの別称。バラ科の常緑小高木、園芸植物
 カエデ科カエデ属の木の総称
濡縁 ぬれえん。外側に雨戸のない縁側。常に雨露にさらされる
飛石 とびいし。日本庭園などで少しずつ離して据えた表面の平らな石
一廉 ひとかど。ひときわすぐれている。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑥

文学と神楽坂


 全長三百メートルといわれるのは、恐らく坂下から以前の電車通り――現在の大久保通りまでの距離で、坂自体はそのすこし先が頂上だが、四階建てのビルに変貌しているパン屋の🏠木村屋は、いまもその先のならびにある🏠尾沢薬局🏠相馬屋紙店とともに土蔵造りで、そこの小判形をした大ぶりな甘食はげんざい市販されている中央部の凸起した円形の甘食より固めで、少年期の私が好んだものの一つであった。
 木村屋よりすこし先の反対側に、いまのところ店がしまっている婦人洋装店シャン・テがあって、そこと🏠宮坂金物店とのあいだの横丁を左折するとシャン・テの裏側に🏠駐車場があるが、かつてその場所には神楽坂演芸場という神楽坂最大の寄席があった。前記した「読売新聞」の「ストリート・ストーリー」にあるイラストマップには、その場所に『兵隊さん』の落語で鳴らした柳家金語楼似顔がえがかれていて≪私のフランチャイズだった≫と書き入れてあるが、私が出入りした時分にはまだ金語楼もかすんでいた。
 ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった。
 右角の宮坂金物店の先隣りはいまも洋品店の🏠サムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

距離 交差点「神楽坂下」から交差点「神楽坂上」までの距離
反物 大人用の着物を1着分仕立てるのに必要な布地
シャン・テ  国立図書館の住宅地図によれば、1976年、1978年には🏠カナン洋装店、1980年はシャンテでした。したがってシャンテで問題はないと思います。
3丁目(85)

木村 カナン シャンテ 宮坂金物店 駐車場 サムライ 三菱銀行 善国寺 本多横丁 近江屋 五十番 毘沙門横丁 裏つづき

イラストマップ 昭和51年(1976年)8月16日の読売新聞「都民版」から。絵はもっと拡大できます。
読売新聞(76/08/16)

うを徳 金語楼

 現状でいえばその先が🏠三菱銀行で、横丁の先が毘沙門さまの🏠善国寺だが、サムライ堂の前あたりに出た草薙堂という夜店の今川焼は私も好物で、『神楽坂通りの図』には≪三個で二銭、大きくて味が評判だった≫と記されている。少年時代のことで記憶があやしいが、三個で二銭とは逆に二個で三銭ではなかったろうか。他の店よりとびきり高価だったはずだが、それだけの価値はあった。形が大きかっただけではなく、ツブシアンとコシアンの二種があって、後者には白インゲンが混入してあった。その後、私はそういうものに一度も行き遭ったことがない。
 サムライ堂の向いにある横丁が筑土八幡前へぬけて行く🏠本多横丁――横関英一の『江戸の坂 東京の坂』や石川悌二の『東京の坂道』というような著書によると三年坂ということになるが、本多横丁の呼称は江戸切絵図をみると、そのあたりに本多修理の屋敷があったためだとわかる。いま左角は傘はきものの🏠近江屋で、右角が中国料理の🏠五十番だが、後者は加能作次郎が行きつけにしていたという豊島理髪店の跡で、その前に出たバナナの叩き売りは夜店の中で最も人気があった。最近テレビにショウとして出て来るバナナの叩き売りは関西系なのか、あんなゆっくり節をつけたお念仏みたいなものでは客が眠くなる。東京の夜店のバナナ売りの口上は、どこの土地にかぎらず、もっとずっと歯切れのいい早口の恐ろしく勇ましいものであった。
 本多横丁のはずれの右角はいま熊谷組の本社になっているが、その手前の右側の石垣の上には、向島に撮影所があったころの初期の日活映画俳優であった関根達発の家があって、幼稚舎一年のとき寄宿舎にいた私は二年のときから三、四歳年長だった関根達発の長男大橋麟太郎に連れられて通学した。筑土八幡の石段は戦前には二つならんでいたような気がするが、いまは一つしかない。

筑土八幡 つくどはちまん。東京都新宿区筑土八幡町にある神社。
江戸の坂 東京の坂東京の坂道 この横丁の坂は『江戸の坂 東京の坂』でも『東京の坂道』でも「三年坂」として書かれています。たとえば『東京の坂道』では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁日の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久土町へ抜ける長い坂。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久土町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし。」とし、また坂については「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁日の方へ下る。長さ五十七間、巾一間四尺より二間二尺に至る。」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りに結びつく商店街である。

「三年坂」と「本多横丁」を考えてみれば、かたや「坂」、かたや「街」なので、全く出所は違います。
本多修理 本多修理の邸地は本多横丁と接する場所にありました。本多修理は少なくとも本多家の二代から四代までが名乗っていました。
寛政四年

関根達発 セキネ タッパツ。生年は1883年1月17日。没年は1928年3月20日。俳優。日本映画草創期に活躍した二枚目俳優。新派俳優から日活向島撮影所、松竹蒲田撮影所に入社。退社後はマキノ・プロダクションの作品に出演。
筑土八幡の石段 筑土(つくど)八幡(はちまん)。新宿区筑土八幡町の神社。一時、神社の2社があったことがあります。元和2年(1616年)、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、北の「八幡」と比較して南の「津久戸明神社」と呼ばれてきました。その後、第二次世界大戦で2社はどちらも全焼。北の八幡神社は現在でも当地に鎮座しますが、津久戸明神社は千代田区九段北に移転します。戦前では地図でも明らかなように石段も2つありました。明治時代も同じように2社がありました。
昭和5年牛込区全図から

津久戸明神(筑土八幡神社)、現在の新宿区筑土八幡町。 小沢健志、鈴木理生監修「古写真で見る江戸から東京へ」世界文化社、2001

 関根達発の家よりさらに手前の十字路は軽子坂上だが、その右側にある料亭🏠うを徳の初代が、泉鏡花の『(おんな)系図(けいず)』のめの惣のモデルだといわれている。
 🏠善国寺本堂の右横へ行くと毘沙門ホール入口と標示されていて、「毎月五日・二十五日開演神楽坂毘沙門寄席」と濃褐色の地に白い文字を染めぬいた幟が立っているが、ニカ所ある善国寺の石の門柱にはそれぞれ「昭和四十六年五月十二日児玉誉士夫建之」と刻字されている。戦前の境内には見世物小屋が立ったり植木屋が夜店を出したが、少年時代の私にとって忘れがたいのは本堂の左手にあった駄菓子屋で、そこで買い食いした蜜パンは思い出してもぞっとする。店主は内髪の老婆で、ななめに包丁を入れて三角に切った食パンに糊刷毛のようなもので壺の中の蜜を塗って渡されたが、壺や刷毛は一年になんど洗われたか。大正時代の幼少年は、疫痢でよく死んだ。
 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが🏠毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷の(ばけ)横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから🏠裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

落籍 らくせき。抱え主への前借金などを払い、芸者や娼妓(しょうぎ)の稼業を止めること。身請け
うを徳 その写真は

うを徳
毘沙門寄席 現在も中身は変えながら続いています。たとえば毘沙門寄席

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

 1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし五月、九十四歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(八四)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正十年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ一回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……。
観客席

観客席

 帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が十年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……。

文士が住んだ街

 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、七銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は五十銭だったが、牛込館は二十銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちゃ研究家の斎藤良輔さんも昭和五、六年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和十年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館が二軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

 現在の リバティハウスと神楽坂センタービル。この2館が旧牛込館の場所に立っている。360°カメラです。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座


私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑤

文学と神楽坂


 第一章で屋号だけ挙げておいた鰻屋の🏠志満金は紀の善の筋向いにあって、五階建てのビルの地階は中華料理店になっているが、戦前には現在地よりすこし坂下に寄った、現状でいえば東京理大のほうへ入っていく道の両角にある花屋のうち、向って右側の花屋の位置にあって、玄関もその横丁の右側にあった。そして、私がまだ学生であった昭和初年代に学友とそこで小集会を催したときには、幹事の裁量で芸者がよばれた。私の記憶にあやまりがなければ、🏠紀の善にも芸者が入ったのではなかったか。絃歌がきこえたようなおぼえがある。
 いずれにしろ、戦前の神楽坂の花柳界は鰻屋やすし屋へ芸者がよべるような、気楽に遊べる一面をもっていた土地であった。むろん、どこの土地でも一流の料亭、芸者となれば話は別だが、駆け出しのころの田村泰次郎十返肇が神楽坂で遊べたのもそのせいである。

忘れがたき24日夜、神楽坂クラブに於て茶話会を催す。ご来会下さらば幸甚、会費10銭。発起人・堺利彦、藤田四郎。参会者・堺枯川大杉栄荒畑寒村ら21名神崎清、革命伝説より)。24日とは、明治44年3月24日のこと、この年の1月24日、幸徳秋水らの絞首刑が執行された。

 コーヒー店の🏠パウワウは志満金よりすこし坂上にあるが、荒正人恵与の『神楽坂通りの図』の余白部に横書きで右のように記入されている貸席の神楽坂倶楽部(?)は、パウワウよりさらに坂上の筋向い――とんかつ屋の🏠和加奈に触れたとき、その横丁の右角にあると書いた化粧品店🏠さわや(当時は袋物商の佐和屋)より三軒坂下にあった🏠靴屋と印判屋の浅い路地奥にあった様子である。木造の横羽目に白いペンキを塗った学校の寄宿舎のような建物で、路地の入口にも白地に黒で屋号を記したペンキ塗の看板が横にかけ渡されてあったような記憶が、私にもかすかにのこっている。


花屋 田口屋生花店です。田口屋生花店
芸者が入った 1927(昭和2)年、『大東京繁昌記』のうち加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「花街神楽坂」では「寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった」と書いてあります。
絃歌 げんか。弦歌。琵琶・箏・三味線などの弦楽器を弾きながらうたう歌。特に三味線声曲をさす。
路地奥 神楽坂倶楽部は1961年以前に旅館「かぐら苑」に変わり、さらに膨らんで現在は「ラインビルド神楽坂」になりました。また戦前の路地はおそらく「ラインビルド神楽坂」の向かって左側にありました。その後、戦後は一時右側になりますが、現在はこの路地はありません。細かくは神楽坂通り(2丁目北西部)で。

ヴェラハイツ神楽坂

2-3丁目の地図(1985年神楽坂まっぷ)

map志満金 田口 パウワウ 和加奈 さわや 路地 マーサ美容室 ジョンブル 坂
 昭和四十九年四月号の「群像」に私が『神楽坂考』という短文を書くために踏査した時点では、いま和加奈のある横丁の左角にあたる婦人服店の位置には🏠マーサ美容室があった。それほど新旧の交替は激しいが、震災前のたたずまいを復原した『神楽坂通りの図』をみると、その場所には ≪牛込三業会(旧検)≫とあって、≪旧検≫とは牛込三業会に対する神楽坂三業会の意をあらわす≪神検≫すなわち新検番に対する呼称だが、さらにその下部には≪歯医者 浴場≫とも書きこまれている。そして、神楽坂倶楽部の場合と同様に、地図の余白部には次のような註記がみられる。
石垣の上に浴場と歯医者があって、通称温泉山と云った。震災直後牛込会館となった。大正12年12月17日震災後、初めての演劇公演「ドモ又の死」「大尉の娘」「夕顔の巻」あり入場者は電車どおりまで並び、満員札止めとなる。のち会館は白木屋となる。

 白木屋は日本橋交差点の角にあった百貨店――現在の東急百貨店の前身で、神楽坂店はそこの支店であったが、舟橋聖一は『わが女人抄』中の『水谷八重子』の章で、彼女に最初に会ったのは≪大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古の日≫であったと記している。半自伝小説『真贋の記』ほかによれば、舟橋の母方の叔父が八重子の劇に出演していた俳優の東屋三郎と慶応の理財科で同級だったために、叔父の案内で東屋を訪問して彼女に紹介されたというのが実相らしいが、私も演目はなんであったか、神楽坂の検番をも兼ねていた牛込会館で八重子の舞台をみている。その折の記憶によれば、客席は畳敷きであったから、演劇興行のない日には芸者たちの日本舞踊の稽古場になっていた様子である。会館の入口は石段になっていたが、白木屋にかわると、その部分が足場をよくするために傾斜のある板張りになった。会館や白木屋は『神楽坂通りの図』にあるように高い石垣の上にあって、昭和年代に入ってから石垣は取り払われたが、その敷地は現状でいえば角の婦人服店から🏠ジョンブルというスナックのあたりまでだったようにおもう。


神楽坂考 この随筆は『断崖のはての空』に載っています。林原耕三氏の『神楽坂今昔』の間違いを直し、神楽坂を坂下から坂上まで歩くものです。
婦人服店 この場所にはマーサ美容室が昭和27年以前から1990年代まで続いていました。これからも20年もマーサ美容室が続いています。婦人服店はランジェリーシャンテと間違えていたのでしょうか。
実相  舟橋聖一の『真贋の記』(1967年)では
或る日、東京の築地小劇場から、手紙が来た。よく見ると、例の葡萄のマークはついているが、差出人は俳優の東屋三郎だった。東屋は慶応理財科の出で、慶吉の母方の叔父とクラスメートだった関係で、彼が汐見洋と共に、水谷八重子の芸術座に出演した頃から、楽屋をたずねたり、舞台稽古を見せてもらったりしていたのである。

ジョンブル ジョンブルは上の地図でも見えますが、白木屋の左端とジョンブルの左端が同じなのか。厳密に言うと違うと思います。

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)とジョンブル

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)

 なお、ジョンブルは相当長くまで生き残っていました。1992年、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出て、右側にはジョンブルの看板です。
神楽坂の写真

mapジョンブル

水谷八重子|舟橋聖一

文学と神楽坂

舟橋聖一氏の『わが女人抄』(朝日新聞社、1965年)の一節『水谷八重子』です。

 水谷八重子のことは四十年昔にさかのぼる。はじめて会ったのが、大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古(げいこ)の日だが、八重ちゃんの書いた「舞台ぐらし五十年」(「潮」四月号)によると、初舞台は大正二年とあるから、私の会う前が、まだ十年ほどあるのである。
 当時私は旧制高校時代だったが、私より一つ若い八重ちゃんのほうが、はるかに年上で、舞台ずれ、世間ずれしていたように思った。それもそのはず、初舞台以来、「闇の力」のアニューシヤ、「アンナ・カレーニナ」のセルジー、「人形の家」のノラ、「青い鳥」のチルチル、チェーホフ「かもめ」のニーナ、「野鴨」のヘドイッヒなどの舞台経験をして、すでに水谷八重子の名は天下に鳴りひびいていたのである。
 が、それにしても、なんという我がままで横暴で、人を食った女優だろうと、内心おどろいたものだ。「殴られるあいつ」の脚色は、吉田甲子太郎氏で、演出は小山内薫氏、あいつの役は、汐見洋だった。
 舞台稽古だから、客席は関係者ばかりで、どこへでも自由に(すわ)れる。この会館は寄席風で、花道はついているが、客席は(ます)になっていた。私は舞台ばなの、ごく近い桝に陣取って一日がかりで見物した。
 あのころの八重子は、大ぜいの男・男・男の中にまじって、汗まみれになったものの、どんな男をも傍へ近寄せない誇りがあって、それがひどく驕慢(きょうまん)に見えたのだろう。しかし。驕り高き女というものは、若い男にはすばらしく魅力的である。八重子の人気が、沸騰するのも無理ではなかった。
 やがて初日があき、私は一度ならず見物に行った。三度目には、紀伊国屋書店田辺茂一をさそって行った。彼はまだ慶応ボーイだったが、一目で八重ちゃんに()れて、さっそく結婚を申込んで、ことわられたという話がある。このとき、求婚の使者に立ったのが、田辺の姉さんであったことは、最近まで知らなかった。昭和三十九年三月末、新宿に紀伊国屋ビルが竣工(しゆんこう)し、その五階にある紀伊国屋ホールの初開場に、水谷が「島の千歳」を踊った時、はからずも楽屋でその話が出て、姉さんが昔話を披露したことから、表面化した。八重ちゃんも思わず微苦笑して、
 「こういう証人に出て来られては、アウトですね」
 と、四十年の昔を思い出す風であった。しかし、大正末期における水谷の存在と一慶応ボーイ田辺とでは、いわゆる吊鐘(つりがね)に提灯の感なきにしもあらずで、私は彼の求愛を、およそ大それた注文で、振られるのが当り前と思っていた記憶がある。が、その(かん)四十年相たち候のち、自分の店の自家用のホールに、その人を招いて、一卜幕踊らせた彼は、やっと長い心の欝屈(うつくつ)を晴らすことが出来たろう。

一つ若い 舟橋氏は19歳、水谷は18歳
 ます。劇場・相撲場などで、方形に仕切った観客席
驕慢 きょうまん。おごりたかぶって相手をあなどり,勝手気ままにふるまうこと
紀伊国屋書店 1927年(昭和2年)1月22日創業。創業者の田辺茂一は、書店業界の実力者で文化人。
竣工 工事が完了して建物できあがること。竣成。
島の千歳 しまのせんざい。おめでたい時に舞う長唄
吊鐘に提灯 形は似ていても重さに格段の開きがあり、外見はどうあれ、中身が似ても似つかないものの喩え
相たち候 あいたちそうろう。「時が立ちました」の古風な表現
一卜幕 ひとまく。幕を上げてから下ろすまでに舞台で演じる一区切り
欝屈 うっくつ。気分が晴れ晴れしない。心がふさぐこと