文学と神楽坂
ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵
1971年(昭和46年)、野田宇( う ) 太郎( たろう ) 氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。
野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。
一方、ノエル・ヌエット 氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園 にある版画『神楽坂 』などを描いています。その死亡後、その版画は寺内公園の案内板に載りました。
ヌエットと「濠にそひて」 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデル の詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄 氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。
クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。
野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。
それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟 と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を観( み ) ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を喋( しやべ ) らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど隈( くま ) なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。
ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。
昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。
二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには贅( ぜい ) を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。 過ぎにし時のかげうつす ここの宮居の濠にそひ 愛惜、のぞみ、綯( な ) ひまぜて はこびし夢のかずかずよ!
後の詩文は省略し
この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重 の錦絵版画「江戸百景 」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの濃( こま ) やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を撫( な ) でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。
安藤広重 歌川広重 と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『
名所江戸百景 』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。
「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。
数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。
一方、西條
嫩( ふたば ) 子( こ ) 氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。
その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。
日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。
去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。
ヌエット氏の没年は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。
ヌエット
文学と神楽坂
ノエル・ヌエット 氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園 の説明で『神楽坂』という版画 を描いています。
Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。 英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。 日本に行くとそれが「ヌエット」となります。
ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。
昭和22年の矢来町12。左上は現在。
ヌエット
作家
矢来町
文学と神楽坂
『巴里より』はパリのあれこれをまとめたもので、歌人の与謝野寛、与謝野昌子が共著で、大正3年、出版しています。1911年(明治44年)、寛はパリへ行き、明治45年5月、晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪し、晶子は10月に帰国、寛は大正2年に帰国します。 この本のうち「飛行機」の章で、フレデリツク・ノエル・ヌエがでてきます。彼はフランス人の詩人でした。なお、この「飛行機」の章は初めて昭和45年、与謝野寛氏が単独で執筆しています。
二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里( パリイ ) の青年詩人を相手に仏蘭西( フランス ) 語の稽古をして居( ゐ ) られる処であつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に就( つい ) てヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義( サンチマンタリズム ) を脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週二度田舎の母親を訪( と ) ふのを楽( たのし ) みにして居る。ヌエ君と下宿の門( かど ) で別れて三人は自動車に乗つた。
サンチマンタリズム センチメンタリズム。sentimentalism。感情面を重んじ、知性よりも内的心情に支配される傾向。
明治45年6月なので、与謝野氏は39歳、ヌエ氏は27歳です。2人が話をする場合もあります。 しかし、この名前ヌエは鵺(ヌエ)と同じ日本語です。この鵺という言葉は妖怪のことで、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持っていました。これも変える必要もあったのでしょうか、15年後、ヌエ氏の日本の呼び名はノエル・ヌエット氏になっています。このヌエット氏は神楽坂の寺内公園の中では『神楽坂』という版画を作る詩人兼画家でした。 次は大正元年12月。
火曜日の夜( よ ) 夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時( いつ ) も服の畳目( たゝみめ ) の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので「何かよい瞑想( めいさう ) に耽( ふけ ) つて居たのを妨( さまた ) げはしなかつたか」と問うたのも謙遜( けんそん ) な此( この ) 詩人の問ひ相な事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電燈を点( つ ) けた。壁に掛けて置いたキユビスト の絵を見附けて「あなたは這麼( こんな ) 物( もの ) を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。力( つと ) めて其( そ ) れに新しい価値を見出さうとする。奇異( きい ) を以て人を刺激する所があれば其れも新しい価値の種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の皺( しわ ) に現( あらは ) して「わたしには解( わか ) らない絵だ」と云つた。ヌエは内衣囊( うちがくし ) から白耳義( ベルジツク ) の雑誌に載つた自分の詩の六頁折の抄本を出して之( これ ) を読んで呉れと云つた。日本と異( ちが ) つて作物( さくぶつ ) が印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況して其れで若干かの報酬を得ると云ふ事は殆ど不可能である。発行者の厚意から其掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬いられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解らない文字に出( で ) 会( くは ) す度にヌエは傍から日本の辞書を引いて説明して呉れた。七篇の中( うち ) で「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相に微笑( ほゝゑ ) んで頷いた。君が前年出した詩集の伊太利( イタリイ ) に遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味( にがみ ) が加はつて来た。其丈( それだけ ) 世間の圧迫 を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。
畳目 紙・布などをたたんだときにできる折り目
キュビスム 20世紀初頭、ピカソなどが始めた革新的な美術表現。ルネサンス以来の遠近法で現実を再現するのではなく、複数の視点から眺めた姿を平面上に合成して表現しようとしている
内衣囊 洋服の内側にあるポケット。内ポケット。
白耳義 ベルギー
圧迫 押さえつけること
このころから既にノエル・ヌエット氏はフランス語の個人教師をしていたのです。
ヌエット
作家
西條( さいじょう ) 八( や ) 十( そ ) 氏は1892年(明治25年)1月15日に生まれ、詩人、作詞家、仏文学者で、大正12年(1923年)、フランスに留学しソルボンヌ大学で学び、帰国後早稲田大学仏文学科教授になりました。「唄を忘れた金絲雀( かなりや ) は」で始まる「かなりや」は有名な童謡です。
昭和36年(1961)、西日本新聞に西條八十氏は『我愛の記』という連載を書いています。これは『西條八十全集』第17巻、随想・雑纂の中で読むことができます。さて、その中の「リルケ」ではこう書かれています。
振返ってみてぼくのいちばん楽しかったのは、パリのカルティエ・ラタンの学生宿にいて、朝から晩までフランスの詩に読みふけった時代だ。ぽくは一五、六世紀から現代までの、あらゆる詩人の詩集を買いあさり、終日辞引片手に読みふけった。そして、どうしても意味の難解な詩句には、鉛筆でアンダーラインしておいて、いちいち知り合いのむこうの詩人をたずねて解釈してもらった。現在ずっと日本に住んでいる「ラ・ミューズ・フラソセーズ」の詩人ヌエル・ヌエット 氏などは、その中でも、もっともぼくに協力してくれた人だ。冬になると、パリは午後三時ごろに日が暮れた。さむざむとした下宿の中庭に、黒つぐみの鳥が遊んでいた。そういう時、小さな電気スタンドをつけて、ヌエット氏から詩を学んでいた若い自分がしみじみなつかしい。近ごろあまり本を読まなくなったのは、きっと老眼鏡が重くてうるさいせいだ。
そうだ、ことしは思いきって、きれいな声でぼくの代わりに好きな本を音読してくれる誰かを雇おう。そしてリルケの愛した図書室の高い澄んだ空気を孤独の身辺に築こう。
現在、ヌエル・ヌエット氏というよりはノエル・ヌエットと書くようです。ノエル・ヌエット氏は寺内公園に版画の『神楽坂 』を描いています。氏は当時パリにいた日本人をかなり知っていたようです。そして、その後、氏は日本にやってきます。
1959年、NHKの「黄金( きん ) の椅子」でヌエット氏を見ることもできます。前列左側からノエル・ヌエット氏、サトウ・ハチロー 氏、佐伯孝夫氏、西條八十氏が出ています。これは西条八束著、西条八峯編『父・西條八十の横顔』にあった写真の一部です。本文では
一九九三年三月のことである。父と姉の蔵書を神奈川県立近代文学館が受け入れてくださることになり、それらを整理していると、姉が持っていたおびただしい数の写真が出てきた。その中に、一九五九年一月十六日から四回にわたってNHKテレビの「黄金( きん ) の椅子」という番組の百回記念として放映された、「西條八十ショウ」の写真があった。その一枚には、堀口大學、サトウハチローなど多数の有名な方がたに交じって、ノエル・ヌエットさんも写っていた。パリに留学した父がフランス語を習っていた詩人である。
最初は西條八十氏の家に宿泊したようです。
ヌエットさんは一九二六(大正十五)年、父が日本に帰国して間もなく、父の招きもあって来日し、晩年に帰国されるまで、親しくおつき合いしていた。ものしずかでやさしい人だったが、日本語はいつまでもうまくならなかった。
ヌエットさんは初めて日本に来て、しばらくはわが家に滞在したらしいが、母をはじめ、欧米の生活をまったく知らぬ私の家族は、彼の食事その他にとても苦労したらしい。その頃父の家に身を寄せて家事を手伝ってくれていた叔母が、ヌエットさんのために新宿の中村屋までパンを買い行かなければならなかったことなど、よく話していた。
内藤濯 氏もノエル・ヌエット氏と一緒に働いていました。しかし、西條八十氏のほうがかなり一緒になって働いているといえそうです。
ヌエット
文学と神楽坂
内藤濯( あろう ) 氏は『星の王子さま』を翻訳した人で、最後は一橋大学の教授になっています。生まれは明治16年(1883年)。明治40(1907)年、東京帝国大学文科大学フランス文学科へ進学。フランス近代詩の翻訳を発表します。 この時こんなエピソードも残しています。なお、この筆者、内藤初穂氏は内藤濯氏の息子です。
(内藤濯は)大学二年にすすんだぱかりの分際で「印象主義の楽才」と題する一文を『音楽界』九月号に発表、ドビュッシーの存在を日本に初めて喧伝した。
「種本」のあることなど知らぬ顔をしていた。が、知る人は知る。第二高等学校の三年先輩に当たる太田正雄、医学の分野で業績をあげる一方、
木下杢太郎 の筆名で詩・劇作・美術史の分野でも名をあげた人物が、詩集『食後の唄』(大正八・一二)の序文で父の論説を容赦なく切り捨てた。
「まだ聴いたこともないDebussyを評論する、出過ぎた批評家」
(1) この酷評から三年後、父はパリ遊学中に杢太郎と出会い、親交を得る。
父自身は、杢太郎の謡を
白秋 以上のものと評価していた。父の話では、杢太郎は一徹にも、白秋が売名のために童謡を濫作しているといって、10年ほども交わりを絶っていたらしい。が、白秋が太平洋戦争二年目の秋に死去するその三年ほど前には、一切のこだわりを捨てて旧交を暖めたという。
杢太郎は、戦後まもなく胃癌をわずらって他界したが、その詩を愛しつづけた父は、昭和31年10月21日、JR伊東駅に近い川畔の伊東公園でおこなわれた詩碑「ふるき仲間」の除幕式に出席、父が晩年に勤めた昭和女子大学や地元の西小学佼・伊東高等学校の女子学生たちに山田耕筰作曲のその詩を歌わせ、タクトをふった。
内藤初穂著『星の王子の影とかたちと』(筑摩書房) 2006年
以下引用文献は同一。
話を元に戻します。内藤が大学を卒業したのは明治43(1910)年。フランス語教官として陸軍幼年学校に勤務。大正9年、母校・第一高等学校の教授になり、文部省在外研究員として、大正11-14(1922-25)年、パリに留学。 パリに留学したのは38歳からです。留学中に内藤は日本人の友人を作ります。
折竹がパリの見どころを案内する間、東京帝国大学の四年後輩で明年四月から同大学で教鞭をとるという辰野隆 が初対面の挨拶にあらわれ、つづいて音楽エッセイを何度か投稿した雑誌『音楽界』の主幹、小松耕輔が姿を見せる。
またフランス人の友人、ノエル・ヌエー氏も話し相手でした。ノエル・ヌエーは1885年に生まれており、内藤と2歳しか違いません。
加えて辰野はノエル・ヌエーという物静かな詩人を父に引き合わせ、会話力の鍛錬かたがた文学講義の話し相手とした。
このノエル・ヌエーって誰のことなのか、わかりますか? 結果はすぐ後で。1924年帰国後、内藤は東京商科大学(現在の一橋大学)教授となります。当時の教え子に伊藤整など。内藤が日本に帰って見ると、1926(昭和元)年、ノエル・ヌエーも日本にやってきました。
ルナアルの文章は、単純なようでいながら間違いやすく、ひと癖あるようで最高に正しいフランス語だという定評がある。その翻訳に当たって、父は疑問の個所をノエル・ヌエーに質すことにした。ヌエーは静岡高等学校で三年の契約をすませたのち、いったんフランスに帰ったが、日本を忘れられぬまま東京外国語学校の要請に応じて一ツ橋の校舎に着任したばかりのところであった。日本ではヌエーの末尾サイレントを発音してヌエットと呼んでいたが、父はフランスいらいの「ムッシュー・ヌエー」を押し通した。 大森の家によく姿を見せていたように覚えている。ほどよく髭をたくわえた四角の顔に眼鏡をかけ玄関の式台に座って靴をぬいだあと、さらに二重にはいた靴下の外側をぬいで靴に押しこんでから上がってくるのが珍しかった。父によれば「日本語を覚えようとしない日本贔屓のフランス人」で、二人の交わすフランス語が音楽のように書斎から流れていた。
つまり、ノエル・ヌエー、フランス語ではNoël Nouëtで、この日本語名はノエル・ヌエットで、神楽坂の寺内公園 の案内板 に彼が描いた絵が描いてありますが、その絵を描いた画家兼詩人がヌエット でした。ヌエットが日本に2回目に訪問した時は1930(昭和5)年です。 1953(昭和28)年、内藤濯訳で「星の王子さま」を出版。ノエル・ヌエットは1962(昭和37)年、日本からフランスに帰国します。昭和44(1969)年、ヌエットは84歳で死亡。昭和52年(1977年)、内藤が死亡。94歳でした。
(1) 木下杢太郎の『食後の唄』の序(大正七年九月四日版)ではここはこうなっています。この批評家は本当に内藤濯だったのでしょうか。まあ、息子がそういっているので…そうするか。
さう云ふ情緒も又無論同時の詩的氣稟から見逃されてはゐなかつた。新に西洋から歸つた洋畫家の中には、まだ人の瞳が靑く見える習慣のままで、お酌の踊を畫かうとするのもあったが、我我はその中でも、蒲原有明氏の「朝なり」から大なる感激を受けた。無論そんなしやれた心持は少しも分らないで、子どものおしめの心配や、下宿屋での月末の苦勞を記述する、牛込邊の文士團體もあるにはあつたが、然し一方にはまだ聽いたこともないDEBUSSYを評論する、出過ぎた批評家 もあつたのである。 街頭の張札( あふいつしゆ ) を愛し、料理屋の色紙の印刷を愛し、モンマルトル畫家の漫畫( きやりきやちゆる ) を愛し、隆達、弄齋、竹枝、山歌( しやんそんねつと ) を愛するを知つた予が、こいつを一番小唄でやらうと考へたのは惡い思ひ付きであつた。當時小傳川町の廣重、淸親ばりの商家のまん中に、異樣な對照をなして「三州屋」と云ふ西洋料理屋があつたが、是れは我我の屢「パンの會」を催した會場であつた。その頃椅子に腰をかけて三味線をひいた五郎丸、ひさ菊、お松つさんなどいつた女たちは今はどこにどう四散してゐることやら。
木下杢太郎著『食後の唄』序
ヌエット
北原白秋
文学と神楽坂
「拝啓、父上様」はウィキペディアによれば、2007年1月11日から3月22日までフジテレビ系列で毎週木曜22:00~22:54に放送されていたテレビドラマです。東京、神楽坂の老舗料亭「坂下」を舞台に、料亭に関わる人々と出来事を描きました。
2000年頃になると神楽坂に来る人は数倍に増えましたが、「拝啓、父上様」が放送されるとすぐにまたまた増えたといいます。 以前は「拝啓、父上様」は英語や韓国語の字幕付きで全巻YouTubeで簡単に出てきました。
拝啓、父上様
倉本 聰 理論社 2006-12
拝啓、父上様
文学と神楽坂
「東京を愛した文人画家 ノエル・ヌエット」。『東京人』2011年4月号から
昭和29年(1954年)4月15日、著者ノエル・ヌエット(Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。この時、ヌエット氏は69歳でした。定価は430円。ヌエットの当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。
この本で神楽坂と関係があるのは2つだけです。しかし、それ以外にも懐かしい版画はたくさんあります。最初は「神楽坂」です。
水野正雄氏は、戦後、「建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました 」と書いています(NPO法人粋なまつづくり倶楽部 神楽坂アーカイブチーム編『まちの思い出をたどって』第1集、2007年)。上図の倒れていない建物は三菱銀行(現在は三菱UFJ 銀行)だったのです。戦後、一時的に「千代田銀行 神楽坂支店」という名前にかわっています。
次は日仏学院です。一時的に「アンスティチュ・フランセ 東京」と名前が変わり、また元に戻っていますが、これはフランス政府が管理・運営するフランス文化センターです。
あとは他の版画をいくつか。
なおノエル・ヌエット氏の『神楽坂』(昭和12年) は別の項で。
ヌエット
文学と神楽坂
神楽坂の石畳とマンホールをまとめて見ました。マンホールで人間が入れない枡や側溝もまとめています。場所は石畳の地図 に書いてあります。
見返し横丁 が一番マンホールらしくはないもの。化粧蓋(化粧マンホールふた) を使うところはここだけです。クランク坂上 はもっとも昔のもので、別の意味でマンホールらしくないものです。酔石横丁 はマンホールらしくないものを狙ってマンホールらしいマンホールになりました。
化粧蓋 とは景観を損なう事なく、周囲と全く同じ材料や舗装材を使って充填できるものです。
紅小路 マンホールの形をそのまま出しています。まあ、なにもしていないわけです。
見返し横丁 石畳とマンホールの蓋を比べてみると、見返し横丁だけがあらゆる点で似ています。正確に石畳の形をとってそれをマンホールの上に載せたものでしょうか。こんな蓋を化粧蓋(化粧マンホールふた)とよんでいます。
かくれんぼ横丁 やはりいろいろな形になっています。❤の石畳があります。
兵庫横丁 最初は和可奈の前で、おれはおれだと自己主張していもの、もう1つはひっそりと他のものとそっくりなもの。
クランク坂上 これはほかのマンホールと全く違います。大きな石板自身がマンホールの上蓋になっています。一番昔のものでしょうか。
酔石横丁 さまざまな大きさのマンホールがありますが、形は全部この形です。一番安い化粧蓋なのでしょうか。似合わないなあ。もうすこしいいものを買った方がよかった。
毘沙門横丁 2つのマンホールが出ています。手前は普通のマンホールの蓋、奥も普通の円盤状のマンホールです。
寺内公園 公園の中身にはありませんが、外の2つがマンホールです。ここはそのうち1つです。たぶん側溝枡( ます ) でしょうか?
石畳
文学と神楽坂
ピンコロ石畳 を使った鱗うろこ 張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。 ここでは北側のひとつを見てみましょう。場所は赤城神社の下、赤城坂の傍です。赤城神社からはあっという間もなく着いてしまいます。 しかし、13年5月では石畳はちゃんとあったのですが、13年8月にはなくなってしました。
今はなくなっています。ここは区のものですから、仕方がないといえばそうなのですが。
これを上に上がると赤城神社です。
石畳
赤城
文学と神楽坂
ピンコロ石畳を使った鱗うろこ 張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
ここは神楽坂通りの北側の石畳のうち「寺内( じない ) 公園 」です。
この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装です。もう1つは大きな板を置いた舗装。最後はアスファルトで覆った舗装です。
一番前の舗装は鱗張り(扇の文様)です。右には赤茶けた石の舗装が貼っています。さらに遠くにはアスファルト・コンクリートで覆っています。ここでは手前が赤茶けた石の舗装、奥がピンコロ石畳です。
ここでは手前がピンコロ石畳で、奥がアスファルト・コンクリートです。
2019年の寺内公園です。土はなくなり、芝生になっています。
この名前については平松南 氏がインターネットの「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」2004年03月01日「神楽坂学を成立させることができるか(2月27日) 」にこう書いています。
神楽坂はじめての超高層26階建てマンションは、新宿区の区道付け替えで区長が住民から訴訟を起こされたが、区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」がデベロッパー側から区に差しだされた。 公園には名前がなかった。新宿区は名前がないことをとくに気にする様子もなかったが、わたしたちは「寺内公園」の名前を提案した。江戸時代ここは行元寺があり、「寺内」とよばれるようになった。新宿区の公園担当部局は、みどりや歴史のことはあまり関心がなく、わたしたちの要望はそのまま受け入れられた。 「寺内公園」では、新住民にはなにがなんだか分からなかろうということで、公園周辺の歴史や名前の由来を説明する看板をつくることになった。寺内の花柳界を昭和12年に浮世絵版画に仕立てたフランス人ノエル・ヌエットの絵も載せることにした。提供してくれたのは麹町のフランス人収集家クリスチャン・ポラックさんである。 2月初旬にそのゲラがでてきた。私は掲載直前の文章の校閲を担当した。
この文章の看板は「寺内公園」の案内板 に書いてあります。
この奥、先にはまた階段です。この先は前に玄関があって、行っても行き止まりだと思うのは間違いです。クランク坂上 につながるのです。
しかし、2016年1月に行くとこの場所はレストランが数軒集まったビルになっていました。
石畳
石畳
横丁
寺内
文学と神楽坂
ピンコロ石畳 を使った鱗( うろこ ) 張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。
「本多横丁 」の1つ、見返し横丁 です。
見返し横丁の後ろから本多横丁を見たものです。右手に見えるものが東京理科大学の施設です。右をよく見てみると、新しい路地の表面が東京理科大に添ってあるですが、しかし一見しただけでは昔から全く変わっていないようにつくっています。