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花袋と紅葉(1)

文学と神楽坂

 昭和41年、新宿郷土会「新宿郷土研究」第4号に「花袋紅葉」という一文が書かれています。この「新宿郷土研究」は新宿区立図書館で借りられますが、誰が作者「わたくし」になるのか不明です。この編集兼発行人は一瀬幸三氏なので、おそらく一瀬氏でしょう。

 わたくしは、横寺町を通るたび田山花袋椿』(大正15年版)という随筆集におさめられている文章の一節を思い出すのだ。
「横寺町の通りは、山の手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てて紅葉山人の二階…。明治23、4年頃から34、5年まで、私はこの通りを何んなに歩いたかも知れなかった。恋にあこがれたり、富貴にあこがれたりして、時には失望の心遺るに場所がない為めわざわざ其処に出て来たりした」は、田山花袋の面目躍如たるものがある。
 紅葉の住まっている横寺町の二階の窓を見ては、当時の流行作家である紅葉を羨やむ一方憎しみともなっていたのだろう。花袋の『東京の三十年』には、「自分より4つか5つの年上のー青年、それでいて、日本の文壇の権威、こう思うと、こうして、じっとしてはいられないような気がする。羨ましいと共に妬ましいという気が起る。」と、いっているのは、ほんとうの気持だったろう。
 花袋が、群馬県館山林町から二度目の出郷をこころみたのは、兄が内務省修史局へ勤務するようになったので、牛込富久町の旧会津侯の邸宅の中にあった。
 花袋はここから神田の英語学校に通ったのである。そこへいくまでの道程を、「牛込の監獄署の裏から士官学校の前を通って、市ヵ谷見附へ出て、九段招魂社の中をぬけて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った」と、『東京の三十年』に書いているが、昔の人はよく歩いたものである。また、同書に「その時分(明治20年頃)は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が、不便であったため私達は東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった」と、あるのをみてもよくわかる。
 それから花袋が、19才の明治22年(1889)納戸町の家賃の高い家から甲良町へ移った。たぶんこの家のことだろう。前述の『椿』という随筆集にこう書いている。
「貧しい私の家は、その頃間数の多い家に住むことはできなかった。私は三間しかない汚ない家の中にいた。私は、机を座敷の八畳の一隅に置いた。机の前が硝子障子になつているので、そこから猫のような小さな庭が常に見えた。投ったままにして置いた万年青の鉢だの丈の低い痩せこけた芭蕉だのボケだの、バラだのが見えた。時には明るい日影が射したり、雨がしめやかに降っていたりした。私はいつもそこで日を暮した」と、いう一節がある。
 甲良町は、甲良屋敷のあとと、その附近の開墾地をあわせて、甲良町としたところで、花袋の住んでいたというのは、開墾地に建てた借家と見られるからいまの25番地附近と推定できる。
 それはともかく、この文章を読むと明治時代の借家の間取りや環境がよくわかる。花袋はここで、小説、文学の勉強に専念していた。「いつまでも遊んでいるんだが、宅の“録”にも何処へでも5円でも10円でも取って呉れればよいに…」という母親の愚痴もいちどならずいくたびか聞いたことであろう。“録”というのは、花袋の実名録弥のことである。
「自分もきっと、文壇の寵児になってみせる」といつも興奮していたし、外国文学の知識の吸収を怠らなかった。
椿 国立国会図書館オンラインに載っています。
どぶろく にござけ。発酵してできたもろみを濾過することなくそのまま飲む。
富貴 ふっき。ふうき。富んで尊いこと。財産が豊かで位の高いこと。
心遺る こころやる。心に滞るものを他におしやる。心のうさを晴らす。心を慰める
東京の三十年 田山花袋の回想集。1917年(大正6年)、博文館から出版。
群馬県館山林町 現在は群馬県館林市城町14です。
内務省修史局 太政官正院地誌課は、1874年(明治7年)に内務省地理寮に合併、75年には修史局(77年修史館)に合併されました。
邸宅 下図で赤い図。
神田の英語学校 仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)だとインターネット「おさんぽ神保町
監獄署 下図の中央

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

士官学校 陸軍士官学校。下図の左手。
市ヵ谷見附 下図の中央部
九段 東京都千代田区西部の地区。麹町こうじまち台から神田方面へ下る坂(九段坂)に、江戸時代、9層の石段を築き、幕府の御用屋敷を建て九段屋敷と称したから。
招魂社 東京招魂社。現在の靖国神社。下図の右手

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

神田 神田区。千代田区の旧神田区地域。北に神田川が、南東に日本橋川が流れ、東京都電車が区の全域を走る。
馬車鉄道 鉄道馬車。軌道上を走る馬車の輸送機関。1882年(明治15年)6月、東京馬車鉄道会社により新橋―日本橋間に開通し、10月には日本橋―上野―浅草―浅草橋―日本橋間が開通した。
万年青 おもと。ユリ科の常緑多年草。

オモト

甲良町 明治二年(1869)市谷甲良屋敷を市谷甲良町と改称(己已布令)し、同五年には付近の武家地、開墾地を併合した。なお、江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町の一部で、甲良町にはない。
甲良屋敷 現在の市谷柳町の一部。徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前(4代相員)に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷というようになった。(甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。東京都立図書館)
開墾地 開墾地(山林や原野を切り開いた土地)はどこを指し示すのか、わかりません。江戸時代、甲良町はすべて人が住んでいました。したがって明治初期になってから一部の家はなくなり、原っぱができたのでしょう。
25番地附近 「新宿郷土研究」では25番地附近を、別の研究は甲良町12を指しています。ちなみに明治19-20年に発行した参謀本部陸軍部測量局の「東京五千分ー東京図家量原図」(日本地図センター発行。2011年)では甲良町12は桐、甲良町13は原と家、甲良町25は普通の家が描かれています。

東京実測図。明治28年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

東京五千分ー東京図測量原図。参謀本部陸軍部測量局。明治19-20年。日本地図センター発行。2011年

高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのか

文学と神楽坂


 特定非営利活動法人「粋なまちづくり倶楽部」の神楽坂を良く知る教科書では…
(6) 三年坂
本多横丁を含み、筑土八幡神社へ至る緩やかな坂である。堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かった際、ここを駆け抜けたとも言われる。

 本当に堀部安兵衛が自分の住居から三年坂を通り、決闘した高田馬場跡に向かったのでしょうか。講談「安兵衛 高田馬場駆け付け」では、自宅は京橋八丁堀・岡崎町にあり、八丁堀から高田馬場へと向かったといいます。しかし、本当の自宅は牛込納戸町のほうがよかったといいます。
 郷土史家の鈴木貞夫氏の『新宿歴史よもやま話』(公益社団法人新宿法人会、平成13年)「高田馬場と安兵衛の助太刀」では… なお、ここでの括弧つきのひらがなはルビに変えています。
 ここで、安兵衛が「何処から高田馬場に駆けつけたのか」について考えてみよう。
 まず、安兵衛は事件後、堀部家の養子に入るについて『父子契約の顛末てんまつ』として事情を書留めるとともに「2月11日高田馬場出合喧嘩之事」を自ら認めた手記が熊本の細川家に伝えられている。これによると、
 元禄元年(1688)越後新発田しばたから江戸に出、牛込元天竜寺竹町(新宿区納戸町)に住んだ。やがて前記の菅野六郎左衛門(区内若葉に住む)を名目上の叔父として親類書を作り、納戸町に屋敷をもつ徒頭かちがしら稲生いのう七郎右衛門の家来速見重右衛門の口入れで稲生家の中小姓になり、元禄七年に高田馬場の助太刀に及んだ、というのである。
 これを根拠付ける、元禄4年の安兵衛自筆の従弟宛手紙が現存し、これに「去春(元禄3年)より唯今に牢人ろうにんにて、住所は牛込元天龍寺竹町と申す所に罷り有り候」と書かれている。また、幕府が作成した元禄期の地図に稲生七郎右衛門屋敷が現在の区立牛込三中の道を隔てた東側角地に記されている。七郎右衛門は1500石の旗本で延宝8年(1680)から元禄10年まで御徒頭を勤めており、時期的にもうまく符合する。
 稲生屋敷から高田馬場まで、2.2キロメートルと意外に近い。安兵衛が高田馬場に駆けつけるのに不可能な距離ではない。
 以上、納戸町の旗本稲生家から高田馬場に赴いた、と考えてよいのではなかろうか。

牛込元天竜寺 図の左上の天龍寺は天和3年(1683年)、火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越ししました。その後、天竜寺前は代地でしたが、町並名主付にしたいと願い出、元禄九年(1696)町奉行支配となり、御納戸町と名付けられました。また、払方町の地域も合わせて「元天龍寺前」とも呼ばれていました。

地図➀ 地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

竹町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「中御徒町通南側は竹町といわれている。これは寛永12年(1635)に天龍寺が召し上げられた跡に、竹薮があったからといわれる」
御徒頭 江戸幕府の職名。若年寄わかどしよりの支配に属し、御徒組おかちぐみを率い、江戸城および将軍の警固に任じた。

地図➁ 現在の地図

中小姓 ちゅうこしょう。小姓は武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う職種。中小姓は徒歩で随従する歩行小姓
牢人 主人を失い秩禄のなくなった武士。
稲生七郎右衛門屋敷 「地図➀」では橙色で、「➁現在の地図」では赤色で囲んだ家は稲生七郎右衛門の家です。
意外に近い 稲生屋敷から高田馬場までは徒歩で27分でした。駆け足の速度はほぼ2倍、約14分です。
 最後に両者の人数を書いています。

 また、高田馬場の決闘に、村上は弟二人、浪人村上三郎右衛門と中津川祐範に助太刀を頼み五人、菅野は安兵衛、若党角田左次兵衛、草履取ぞうりとり七助の四人。安兵衛の手記は、決闘の場所を馬場の西部としている。

村上 この決闘の一方は伊予西条藩の村上庄左衛門の軍団6~7人。
菅野 他方は伊予西条藩の菅野六郎左衛門の軍団4人。
若党 わかとう。江戸時代、武家で足軽よりも上位にあった身分が低い従者。
草履取 武家などに仕えて、主人の草履を持って供をした下僕。

 なお、決闘前に自宅にいたという根拠も、全くどこにもありません。たとえば、池波正太郎氏の『堀部安兵衛』では、決闘前日は近くの林光寺に外泊したと書いています。同じ作者の『決闘高田の馬場』では、天竜寺の長屋から決闘に行ったと書かれています。住所でも外泊でも三年坂や本多横丁は全く出てきません。つまり、高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのは、ほぼ間違いなのです。


納戸町

文学と神楽坂

 納戸なんどはそもそも天龍寺の門前町(下図の青色)でした。下図で江戸時代の延宝年間(1673-1681年)です。この時代、将来の納戸町になる青色の町が三つありました。なお、納戸とは物置部屋で、服や調度類、器財など物品を収納します。また、天龍寺は天和3年(1683年)に火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越しします。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

 町方書上(文政8年、1825。再版は新宿近世文書研究会、平成8年)では

町内里俗之唱
一 町内東之方北側片側町之所、里俗木津屋町唱申候、年代不知、先年木津屋申、太物、醤油類渡世仕候者罷在候付、里俗右之如く唱候由
一 同中御徒町通南側、里俗竹町唱申候、寛永十二亥年 天龍寺御用付、被召上候跡竹薮有之候場所故、竹町唱候由
一 同所飛地、弐拾騎町続之所、里俗墓町唱申候、天龍寺墓所有之候由
一 同所裏通り、御細工町隣り候処、表大門里俗唱申候天龍寺大門有之候由申傅候


太物 太物は呉服(絹織物)と正反対で、太い糸の織物の総称。綿織物や麻織物など。

 つまり、納戸町の東方は木津屋町、中御徒町(現在の中町)と同じ通りを竹町、飛地は墓町、御細工町と隣り合った通りを表大門と呼んでいます。

 また、「市ヶ谷牛込絵図」(安政6年、1857年)では…

 通りは表大門だけではなく、裏大門も出ています。さらに通りには木ヅヤ丁、タケ丁もでて、合計で3つの通りが出てきました。木ヅヤ丁は、木津屋丁に、タケ丁は竹丁に変えることができます。現在の言葉では木津屋路地、竹路地でしょうか。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、慶応四年(1868)、牛込御納戸町は「御」の字を削除して牛込納戸町に、明治44年(1911)牛込も省略し、納戸町となったようです。

 さらに牛込中央通りの一部を通り、銀杏坂通り中根坂鼠坂は納戸町から出ます。以上をまとめて……。なお、士邸とは武士の邸宅です。



終の棲家の神楽坂|冨士眞奈美 平成17年

文学と神楽坂

関係はないけれど、昔の冨士眞奈美氏

 冨士眞奈美氏は女優、俳人、随筆家。1956年、『この瞳』で主役デビュー。1957年、NHKの専属第一号になり、1970年、日本テレビ系列の『細うで繁盛記』の憎まれ役は大ヒット。生年は昭和13年(1938年)1月15日。
 本稿は『てのひらに落花らっか』(本阿弥書店、平成20年)の「終の棲家の神楽坂」から。実はこれより前の2005年秋、「神楽坂まちの手帖」第9号に書かれたものでした。「神楽坂俳句散布」という連載が始まった初回に出ています。この随筆は、牛込中央通りの風景を加えて、なぜ俳句に惹かれたのかを、書いています。

ついの棲家の神楽坂
 神楽坂近くの街に棲んですでに十七年になる。十八歳で静岡の伊豆半島を後にし上京してから、数えれば十回目の引越しで、どうやら終の棲家となりそうである。
 それまでは、新宿区信濃町に十六年棲み、なんだか同じ所に長い間いるなあ、と思い始めた頃、マンションの大家さんが土地を売ることになって立ち退かざるを得ず、大至急探してバタバタやって来たのが現在の住居だったのである。ちょうどバブルの頃で、マンションも高く売れたが、引越しのため建てた家もびっくりするほど高かった。
 信濃町の部屋は、いながらにして神宮外苑の対巨人戦の歓声などが風に乗って流れてきて、野球好きの私としてはけっこう気に入っていた。権田原を通り、東宮御所沿いに散歩する日常はなかなか優雅で、小さな子供の手を引いていつまでもどこまでも歩いていきたい気分であった。近所付き合いもない静かな環境で、来客の多い暮らしだった。
 現在は全く趣きが違った生活である。
 近くにスーパーコンビニェンス・ストアがあり、和洋中華、レストランや食べ物屋さんもたくさん並んでいる。十分も歩けば、神楽坂の賑やかな通りを散策したり、気ままな買い物を楽しんだりもできる。
 五月になり六月になり、夏も盛りの頃になると、外濠通りから入った神楽坂の通りの街路樹が、どんどん色を増し枝を伸ばして空を覆うように緑を繁茂させている風景が好きだ。
 神楽坂が、坂の街だということを樹々が美しく特徴づけてくれる。夜の街灯が点った様子も好きである。そこに人々の暮らしがしっかり根付き、江戸の昔から誇り高く街の格調を守ってきた、という印象を持つ。
 越してきたばかりの頃、街の人々は新参者の私を用心深く眺めているような感じを持った。長い生活になるのだから、早く馴染まなければと、少しばかり焦った。買い物は一切、近くの店で、と決め、お金の出し入れも歩いて数分ほどの金融機関を利用することにした。一週間に三、四回は近所で外食をし、帰りに飲み屋さんでイッパイ、という日々を送った。おかげで昼日中、通りを歩いていても顔が合えば笑顔を見せてくれるようになり、声をかけてくれるようにもなった。
 馴染めばあったかい人情の町だと思った。こんなことは東京に来て初めてのことである。近所付き合いが楽しくなるなどとは、思いもしなかった暮らしの中に入っていったのだ。
 お隣さんは、窓越しにおかずをお裾わけしてくれるし、家を留守にするときなど頼めば夜中に見回ってくれたりもする。ネズミやゴキブリが突如発生して恐怖に駆られた時も、電話一本で午前二時頃ホウキ片手に駆けつけてくれた。本当に有難い。表通りの花屋の奥さんは、上手に漬かったから食べてみて、と胡瓜のぬか漬をわけてくれたし、和菓子屋さんの御夫婦もオカラや切干し大根の煮物を届けてくれたりする。私も到来物の筍や干魚などを配り歩くことがあり、そんなときの気分は何だか嬉しくてとても高揚している。プロ野球談義をする仲間(おやじさん)もいるし、通りを歩けば、人生寂しいことなんかちっともないぞ、という気分になれる。
 友達の吉行和子に「私の辞書にはね、孤独という字はないの」と或る時言ってしまった。本当にそう思うのである。和子嬢は呆れたような不思議な顔をして「へえ⁉」といったきりであった。
 以前、立壁正子さんという女性と知り合い「ここは牛込、神楽坂」というタウン誌の「俳句横丁」という欄を任せてもらったことがある。投句数も多く、そうか神楽坂には俳人もたくさんいるのだ、ととても嬉しかった。残念なことに立壁さんが亡くなりそのタウン誌も廃刊になった。
 このたび「私は神楽坂の、ペコちゃんの不二家の主人です」と早々に正体を明かされた平松さんから、主宰する雑誌に俳句棚を設けたいのですが、と相談があった。あ、この街にどんどん馴染んでる、と私は嬉しく「もちろん仲間に入れてください」と返事をした。この街にいれば、一人遊びも出来るし、集まって座を持つことも出来るのだと思った。それこそ、俳句の本質なのである。

終の棲家 ついのすみか。これから死を迎えるまで生活する住まい
現在の住居 新宿区納戸町で、中町と同じ通りにあります。
近くに おそらく牛込中央通りです。

牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年から。ダブルクリックで拡大。

スーパー 細工町15にスーパーの村田ストアがありました。これはスーパーの「神楽坂KIMURAYA北町店」に変わり、さらに2019年4月、スーパーの「SANTOKU牛込神楽坂店」にかわりました。
コンビニェンス・ストア 牛込北町交差点の近く、箪笥町28にセブンイレブンがあり、これは現在も同じ店舗です。
金融機関 細工町18に帝都信用金庫がありました。現在は薬屋「クリエイトエス・ディー新宿牛込北町店」に。上の「牛込中央通り商店会」の地図ではとりあえず「西川ビル」などと同じ場所です。
表通りの花屋 納戸町12に「フローリスト番場」がありました。閉店し、現在は「コインランドリー/ピエロ納戸町店」。
和菓子屋 納戸町15の船橋屋か、納戸町4の岡埜栄泉でしょう。
到来物 とうらいもの。よそからのもらい物。いただき物
吉行和子 女優。兄は吉行淳之介。劇団民芸。昭和32年「アンネの日記」で主演。昭和44年、唐十郎「少女仮面」出演でフリーに。生年は昭和10年8月9日。
主宰する雑誌 2003年4月から2007年12月まで出版された『神楽坂まちの手帖』です。

私の東京地図|佐多稲子③

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の③です。関東大震災の後の大正12年から嫁いでいく大正13年までの1年間を牛込区(現在の新宿区)で生活しています。氏は19歳でした。差別用語や放送禁止用語になる言葉もありますが、原文を尊重します。

 納戸町の静かな横町がやがて、表どおりの、北町から新見附に通じているへ出ようとするちょっと手前に、表どおりの商店の家並みが横町のそこまで曲り入ってしまったという風に一軒の魚屋がある。その真向いに、ぺしゃんと坐り込んだような軒の低い家があった。小さな子ともにおさらいをつける三味線(しゃみせん)の音がその家から聞えている。
 よいはアまアち、そしてエ、恨みてあかつきの、と、唄の言葉の意味は知らずに、幼い声が張り上げている。
「はい、もう一度、にくまアれエぐちの、あれ、なくわいな」
 そう言うお師匠さんの声も優しい女の声である。
「はい、御苦労さま、とてもお上手にお出来になりましたわ。また、あしたね」
 おじぎをして立ってゆくおかっぱの子を、わざわざ送り出してゆくお師匠さんは、束髪に結った色の白い、そしてその声と同じように優しい細おもての人である。足もとのさばき方はこきざみにいそいそとしているけれど、銘仙の羽織が、ゆきもだらりと長くて、襟もとがすくんで見えるのは、その人がせむしだからであった。
 裏の縁側でつぎものなどをしているお師匠さんのお母さんが、自分も立って来る。
「まあほんとうに、どんどんお上手になることねえ。あした、またいらっしゃいね」
納戸町。北町。新見附 地図を参照。上から都電の北町(青丸)、納戸町(赤の多角形)、都電の新見附(青丸)。

 現在は牛込中央通りです。
唄の言葉 三味線の歌(絃歌)『明けの鐘(宵は待ち)』の一節です。「宵は待ち そして恨みて 暁の 別れの鶏と 皆人の 憎まれ口な あれ鳴くわいな 聞かせともなき 耳に手を 鐘は上野か浅草か」と続きます。
お師匠 女性で杵屋与志次師匠。
束髪 そくはつ。髪をひとまとめにして束ねる結髪。明治時代以後、流行した婦人の洋髪の一つ。

銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物。
 しま。2種以上の色糸を使う、縦か横の筋かその織物。
ゆき 裄丈。ゆきたけ。衿の中心から袖口までの長さ。
 たけ。長さ。%e3%82%86%e3%81%8d%e4%b8%88
すくんで 体をちぢめ小さくなる。
せむし 背中の一部が円く突出した状態。

 せむしのお師匠さんは母親に並ぶとその肩の下になる。娘の仕事を自分もいっしょに大事がる思いで、おっ母さんは、小さい弟子にお愛想を言っている。
「さ、お待たせしました」
 稽古台の前へもどって来るとお師匠さんは稽古本をひろげて、
「では、昨日のところをおさらいいたしましょう」
 と、三味線を膝にとる。三味線の棹の先きが、背の曲がったお師匠さんの肩よりずっと斜め上にのびて、お師匠さんの首がいよいよ襟元へはまったように見える。
月もくらまのウ
 と(ばち)を強く三味線の(いと)に当てて弾きはじめると、お師匠さんの表情がやや()つくなる。女学生のお弟子の幼い撥の音と二重になって暫く、それが続く。(中略)
 神楽坂の花柳界につづいた屋敷町と、大きな酒屋や薬屋などのある北町の表どおりとの間につぶされるように挟まって目にもつかぬ家、稽古三味線の音で辛うじて杵屋与志次の看板に気づく。内弟子から名取りになって、ようやくここに独り立ちしているせむしの師匠は、母親と、十七歳になる妹との三人暮らしであった。妹は母親似の、年齢よりは大柄な、色白のぼってりした娘で、その頃、日本一の建物だと地震前から噂の高かった丸の内ビルディングの地下室の、花月食堂の給仕をしていた。
月もくらまのウ 三味線の『鞍馬山』の一節です。「月もくらま(鞍馬)の影うとく 木の葉おどしの小夜あらし」と続きます。
 ばち。琵琶・三味線などの弦をはじいて鳴らすへら状の道具。
 琴・三味線などの楽器の糸。
酒屋や薬屋 納戸町でも神楽坂に近い場所というと、中町や南町に接する場所でしょう。酒屋としては升本酒店があり、この酒店は明治30年3月から現在まで続く老舗です。この当時も同じ納戸町に店を構えていました。また萱沼薬局も戦前から続く納戸町の店舗でした。この2店舗の間を通って南町に行く通りがあり、おそらく杵屋与志次の家はその辺り(青の輪)にあったのでしょうか。
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杵屋与志次 三味線の師匠で女性。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
花月食堂 実際にあったようです。

東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

西條八十|払方町18

文学と神楽坂

 西条八十氏西條八十氏は、早稲田大学仏文学科教授を務め、詩人、作詞家で、さらに「唄を忘れた金絲雀かなりやは」で始まる「かなりや」など有名な童謡や流行歌を沢山つくっています。生年月日は明治25年(1892年)1月15日、没年月日は昭和45年(1970年)8月12日、享年は78歳でした。
 では、どこに住んでいたのでしょう。勿論いろいろな場所に住んでいましたが、では牛込区(新宿区の一部)では、どこに住んでいたのでしょう。西條八束著の『父・西條八十の横顔』では

 父は1892(明治25)年、東京牛込拂方(はらいかた)町に生まれた。私の祖父重兵衛は初めこの質屋の番頭を務めていたが、西條家の嫡男丑乃助が急死したため、その花嫁となるはずだった私の祖母と結婚して、家を継ぐこととなった。

 西條八十著の「青春の日記」を全集に掲載する際、娘の西條(ふたば)()の「解説」がついてきます。それを読むと、もう少し細かく判ってきます。

 父の生家は市ヶ谷と飯田橋の中ほどの濠端から北町へ抜ける、ちょうど3角に逸れる辺りにあった。現電話局の向い側からかなり奥に広がった大きな構えのようであった。

 うーん、かえって判りにくいか。新宿区の『区内に在住した文学者たち』を読むと、牛込払方町18 で生まれたと書いてあります。なるほど。
 下の番号がそれです。明治28年(左図)には、まだ下から上にあがる道(青の道路)はできていません。青に塗った上下をつなぐ坂道は明治42年にできました。昭和15年(右図)になると、道はきちんとできています。ほかに郵便局(〒)も出現しています。

明治15-28年

 ここで西條八十氏は明治44年(1911年)8月まで、つまり19歳まで、この同じ払方町で成長します。
 さらに、新婚の時、妻と一緒に初めて住んだ場所もここで、大正5年(1916年)6月から12月まで、住んでいました。
 ところが、牛込中央通り商店会が作った「西条八十家跡」(下図)は全く違っています。西條八十家跡は、左の図では下ではなく、左にあります。

牛込中央通り

牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年


 これは納戸(なんど)町の日々を描いているのでしょう。ここと大きく離れてはいない場所で(それでも、やはり間違えた場所で)昭和19年1月から20年4月まで住んでいたようです。西条八十著の『疎開日記』では

 そのあいだ、早稲田大学へは毎週2日間、フランス詩の講義にわりあい忠実に出かけた。娘たちが北京へ赴任したあとの牛込納戸町の家を仮寓に使っていたのだが、狭いながら日あたりのいい家で、そこへ行くと下館よりずっと暖かいので、落ち着いてつい長逗留してしまうのだった。(この家は昭和二十年四月十三日夜の空襲できれいに焼けてしまった。)(中略)
 牛込の仮寓には、よくバリ以来の友「ラ・ミューズ・フランセーズ」の詩人ヌエル・ヌエト氏が訪ねてきた。(ねずみ)(ざか)という細い暗い坂をのぽると、わたしの生まれた払方町へ出た。その想い山の町を深夜二人で肩を並べながら、氏の住む富士見町まで送って行ったものであった。(その後ヌエト氏の家はわたしの家よりもさきに焼けてしまった。)

 また、先の西條嫩子氏の「解説」によれば

 戦前、私が三井と結婚した新居は父の払方町の家から、現大日本印刷の方へ降る鼠坂という細い坂道の途中にあった。昔祖父の石鹸の乾し場であったと云う。かつては八十の伯父久七も住んでいた由であって、真向いに樹木の多い小高い家があり、「あそこが初恋の人、塩谷えんちゃんの庭だった」と父がなつかしそうに語っていた事がある。鼠坂から登りつめた所に戦前、払方町郵便局があった。郵便局の事務の娘さんが「この白壁の家は西條八十さんのお父さんのお蔵だったそうですよ」と私との関連を知ってか知らずか呟いていたことがある。

 昭和16年の地図で見ると、右の赤の四角は払方町での生家です。その直下に黒で郵便局(〒)も書いています。

西条八十・昭和16

 紫色は納戸町の全域です。納戸町のすべてはこの中に入っていなくてはいけません。牛込中央通り商店会の編者も確かに納戸町の場所は描いています。
 鼠坂は赤色で描きました。新宿区ではここだけが鼠坂なのです。
 家は「細い坂道の途中にあった」と書いています。「途中」の場所を薄い水色で描いてみました。ここいらが、おそらく仮寓の場所です。
 最後に最新の正しい「牛込中央通り」を描いてみました。新・牛込中央通り

鼠坂|納戸町(360°カメラ)

文学と神楽坂

 牛込の(ねずみ)(ざか)という坂がありました。場所はここ。横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、初出は昭和45年)が詳しく

鼠坂 江戸には鼠坂という名の坂があった。それから鼠穴など呼ぶ地名もあった。ごれらは、細くて狭く長い坂または道を言ったのである。
『改選江戸志』は、「鼠坂は、至つてほそき坂なれば、鼠穴などいふ地名の類にて、かくいふなるべし」と解説している。
 とにかく、鼠坂も鼠穴も、ともに細長い狹い道を意味していることは確かなようだが、鼠穴のほうは行き止まりの袋町といったようなところもある。
 現在、東京の鼠坂は、つぎの三ヵ所である。
(1)文京区音羽一丁目(旧音羽町六丁目)から小日向二、三丁目境を東へ上る細くて長い坂。音羽町六丁目の丁亥(文政十年)の「書上」にはつぎのように記してある。「坂、幅壱間程、長凡五拾間程。右は鼠坂と里俗に相唱申侯」
(2)港区麻布永坂町と麻布狸穴町との間を、北の方麻布飯倉片町まで上る坂。
(3)新宿区納戸町と鷹匠町との境を、北のほうへ上る狭い坂。

 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社)では

 納戸町と鷹匠町の境を北上する坂で、中根坂の北東にあたり、『東京案内』には「牛込納戸町と市谷鷹匠町の間より加賀町に下る坂路あり、鼠坂と呼ぶ」とある。狭い坂道で坂下が袋小路になっているようなものをむかしの人は鼠坂と袮し、『改撰江戸誌』に「鼠坂は至ってほそき坂なれば、鼠穴など地名の類にてかくいふなるべし」と書かれている。この坂の下も加賀町一丁目大日本印刷会社東辺の谷間で、その東に芥坂があり、西には中根坂が市谷本村町陸上自衛隊本部裏手へと南上していて、その道をさらに進めば左内坂上に至る。市谷台と牛込台のはざまである。

 山野勝氏の『古地図で歩く江戸と東京の坂』(日本文芸社)では

 その仇討跡からさらに進み、突きあたりを片折する。道は緩やかな下りになる。この古趣の漂う坂を鼠坂という。鼠のような小動物しか通れないような細い急坂で、坂下が袋小路になっているような所を、昔の人は鼠坂と称したようで、都内には同名の坂が、この他に文京区音羽一丁目と港区麻布永坂町にあるが、山地の坂も鼠の通路のイメージに近いと思われる。しかし、残念なことに坂の下部付近に、先の芥坂と同様の歩道橋が架けられたため、坂下は大日本印川の柵内にとり込まれてしまった。歩道橋を進んでいくと、前述した中根坂の上り囗に出ることになる。

 遠くでは昔と変わらない光景が出てきます。

現在の鼠坂
鼠坂と中根坂

 ここで昔の鼠坂は赤の坂道でした。しかし、中根坂に歩道橋ができて、そのためこの歩道橋につなぐピンク色の道もできました。鼠坂の下3分の1(ピンク色のうち南1/3の坂)は通行はできず、現在はあったことも判らなくなっています。以前の坂は…

ブログ「歩いて見ました東京の街」(田口政典)写真は2005年11月19日。

ブログ「歩いて見ました東京の街」(田口政典)写真は2005年11月19日。

 以前は標柱もあったようです。「細くて狭い坂だったから、まるで鼡がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう」と書かれていました。

ブログ「歩いて見ました東京の街」(田口政典)写真は2005年11月19日。


宮城道雄|箏曲家

文学と神楽坂

 宮城道雄宮城(みやぎ)道雄(みちお)は作曲家・箏曲(そうきょく)家で、生まれは1894(明治27)年4月7日、兵庫県神戸市。8歳で失明。13歳、一家で韓国の仁川に渡り、箏と尺八を教えて家計を助けました。1917年4月(23歳)、帰国しますが、妻が急死し、翌年再婚。最後は1956(昭和31)年6月25日で62歳で死亡しました。
 宮城道雄記念館は新宿区中町にたっていますが、ここに来るまであちこちを転居しています。ただし、ほとんど牛込区(新宿区)です。 昭和5年。宮城道雄
 内田百閒(ひゃっけん)氏の「東海道刈谷駅」(昭和33年)では

 宮城が今出て来た牛込中町[1]の家は、もとの構えを戦火に焼かれた後に建て直した屋敷で、後に隣地に立派な演奏場を建て増しして相当に広い構えである。焼ける前の庭にあった梅の古木を宮城は懐しがり、「古巣の侮」と題する彼の文集を遺している。牛込中町の今の家[1]は借家ではないが、それから前に彼が転転と移り住んだ家はみな借家であった。牛込中町の前は牛込納戸町[2]。門構えの大きな家であった。

「今の家」[1]というのは中町35番地で、これは昭和5年7月から死亡するまで26年も使っています。現在ここは宮城道雄記念館になっています。
 中町の前は納戸町40番地[2]。昭和4年4月から転居し、1年半、ここ納戸町に住みました。この間新しく80絃を使い、東京音楽学校の箏曲科の教師になっています。

 納戸町の前は同じく牛込の市ヶ谷加賀町[3]。彼はここで大正十二年の大地震に会った。9月1日の後2、3日目に私は小石川雑司ケ谷町の私の家から彼の安否を尋ねに出掛けた。加賀町界隈には余り倒壊した家もなく、大丈夫だろうと思って行ったが、その家の前の道幅の広い横町へ曲がると、向い側の屋敷の(へい)の中から枝を張った大樹の木陰に籐椅子を置き、人通りのない道ばたで晏如(あんじょ)としている宮城を認めてまあよかったと思った。お互に無事をよろこび合ったのを思い出す。

晏如 安らかで落ち着いているさま

 大正12年4月ごろ市ケ谷加賀町2−1[3]に転居。この家が広く、門がある家で、電話も来てから通っています。

 市ケ谷加賀町の前は牛込払方町[4]市ケ谷新見附のお濠端から上がって来る幅の広い坂道を、上がり切って右へ行けば牛込北町の電車道に出る、その坂を鰻坂と云う、鰻坂を上がり切った左側の二階建の借家で、門などはない。馳け込みの小さな家で、二階一間(ひとま)に下が一間(ひとま)、それに小さな部屋がもう一つか二つついていたかも知れない。
 棟続きの横腹に向かって左手の借家には、時代を異にしてその昔石川啄木が住んでいたと云う。二階建の棟割(むねわり)長屋(ながや)と云う事になるが、その同じ棟の下に二人の天才か伴んだ事になる。その家は戦火で焼けて今は跡方もない。(略)
 夜は宮城がその坂の上の借家の二階で寝ているのを知っているから、私は下の往来から竹竿の先にステッキを括くくりつけて継ぎ足して、長くなった棒の先で二階の雨戸をこつこつ叩いておどかした。後で宮城がくやしがるのが面白かった。彼も若かったが私も若かった。
 払方は何年から何年までであったか、(ちゅう)でははっきりしないが、大正十年よりは前である。私が宮城を知ったのはこの時代である。

市ケ谷新見附 以前の都電の駅で、JR市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間地点にあります。
 そらで覚えていること。暗記していること。

 大正8年5月ごろ、牛込払方町25番地[4]に借家。これは広い坂を上りきった左側にあった家で、もと、石川啄木が住んだ大和館という下宿のあとだといいます。(実は吉川英史氏の『この人なり 宮城道雄伝』新潮社、昭和37年では大正館と間違えて書いています)。2軒つづきの家で、表通りに面しているので、荷車や人の通る足音などがうるさかったといいます。

 この場所は現代では25番地の日本左官会館(現在はマンション)、あるいは、その南側の25番地のアーバンネットです。

払方町

 これは明治や大正でも同じようです。「広い坂を()()()()()左側にあった家」だとすると、日本左官会館でしょうか。明治大正「アーバンネット」は坂の途中だと思います。

 払方の前は日本橋浜町にいたそうだが、その時分の事は私は知らない。余り長くはいなかった様で、半年ぐらいだったかも知れないと云う。
 その前は矢張り牛込の市ケ谷田町[5]。一度日本橋へ出たきりで後はずっと牛込の中で転転している。その市ケ谷田町に家を構えた前は、町内の田町の琴屋の二階に間借りしていた。それが大正六年の五月朝鮮から出て来た時の住いであった。

 大正7年に移ったこの田町の家[5]は、市ヶ谷田町2丁目23番地。3間くらいの部屋数の、古ぼけた家でした。入口に「宮城大検校」という大きな看板をかかえて、内弟子をとり、まだ人力車に乗るだけの余裕はなく、質屋にも通ったといいます。


田山花袋|転居

文学と神楽坂

新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

 花袋は牛込で二十年間を過ごした。明治十九年、十六歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年三九年まで、十一回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の三十年――山の手の空気」を書いている。「」内は原文。

 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」(明治19年に)、という頃に上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
 日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明 正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治28年、東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正二年―三年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を二戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907年)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

 すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。